薬王品得意抄

 この薬王品の大意とは、この薬王品は、第七の巻、二十八品の中には第二十三の品なり。この第一の巻に序品・方便品の二品有り。序品は二十八品の序なり。方便品より人記品に至るまでの八品は、正には二乗作仏を明かし、傍には菩薩・凡夫の作仏を明かす。法師・宝塔・提婆・勧持・安楽の五品は、上の八品を末代の凡夫の修行すべき様を説くなり。また涌出品は寿量品の序なり。分別功徳品より十二品は、正には寿量品を末代の凡夫の行ずべき様を、傍には方便品等の八品を修行すべき様を説くなり。しかれば、この薬王品は、方便品等の八品ならびに寿量品を修行すべき様を説きし品なり。 

 

現代語訳

この薬王品の大意というのはこの薬王品は法華経の第七の巻にあり、二十八品のなかには第二十三の品である。この法華経の第一巻には序品第一と方便品第二の二品がある。序品第一は二十八品の序である。方便品第二から授学無学人記品第九に至るまでの八品は正意としては二乗作仏を明かし、傍意としては菩薩や凡夫の作仏を明かしている。法師品第十・見宝塔品第十一・提婆達多品第十二・勧持品第十三・安楽行品第十四の五品は上の八品に説かれた法門を末代の凡夫が修行すべき方途を説いているのである。また、従地涌出品第十五は如来寿量品第十六の序である。分別功徳品第十七からあとの十二品は正意には如来寿量品第十六に説かれた法門を末代の凡夫が修行すべき方途を、傍意には方便品第二等の八品に説かれた法門を修行すべき方途を説いている。したがって、この薬王品は方便品第二等の八品および如来寿量品第十六で説かれた法門を修行すべき方途を説いた品なのである。

 

語釈

薬王品

法華経薬王菩薩本事品第二十三のこと。法華経本門の流通分にあたる。内容は、薬王菩薩の過去世における身の供養の姿を明かし、つぎに種々の譬えをあげて法華経が諸経中の第一であり、無量の功徳があることを説いている。

 

序品

法華経28品の総序と、迹門14品の別序の二義がある。「如是我聞」ではじまり、此土の六瑞と他土の六瑞が説かれ、この瑞相に対する弥勒菩薩の問いに答えて文殊菩薩は、これから法華経が説かれる瑞相であると答える。

 

方便品

妙法蓮華経方便品第二のこと。法華経迹門正宗分の初めに当たり、迹門の主意である開三顕一の法門が展開されている。無量義処三昧に入っていた釈尊が立ち上がり、仏の智慧を賛嘆しつつ、自らが成就した難解の法を十如是として明かし、一仏乗を説くために方便力をもって三乗の法を設けたことを、十方諸仏・過去仏・未来仏・現在仏・釈迦仏の五仏の説法の方程式を引いて明かしている。

 

人記品

法華経授学無学人記品第九のこと。法華経迹門の正宗分である開三顕一の説法がこの品によって終わる。阿難と羅睺羅、そして学無学の2000人の声聞に記莂を授けたことが説かれている。

 

二乗作仏

「二乗」とは声聞・縁覚のこと。法華経以前においては二乗界は永久に成仏できないと、厳しく弾呵されてきたが、法華経にはいって初めて三周の声聞(法説周・喩説周・因縁周)が説かれて、成仏が約束されたのである。

 

菩薩

菩薩薩埵(bodhisattva)の音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。

 

法師

法華経法師品第十のこと。法華経迹門の流通分にあたる。一念随喜と法華経を持つ者の功徳を明かし、室・衣・座の三つをあげ滅後の弘教の方軌を説いている。

 

宝塔

妙法蓮華経見宝塔品第11のこと。この品において七宝の塔が大地の中から涌出して虚空に在住する人々が見えることから見宝塔品という。まず、この宝塔の中から大音声があって、皆これ真実と称歎したのに人々は驚き、大楽説菩薩は「何の因縁によって、塔有り、涌出し、音声を発す」と三問をすれば、すなわち釈尊から三答があった。つづいて、十方分身を召し、三変土田のことがあって二仏並座し、仏は神通力をもって、人々を虚空におき、大音声に唱募し「付属の時至る、付属して在るあり」と三箇の鳳詔をなし、のちの上行菩薩などが涌出する密説をなしている。また品末には六難九易を示して流通を勧めている。この宝塔品から嘱累品までの12品は、虚空で説かれたから虚空会といい、前後の霊鷲山とならべて二処三会という。

 

提婆

法華経提婆品第12のこと。法華経迹門の流通分にあたる。提婆達多の過去世における釈尊との関係をあげて、未来成仏を明かし、文殊菩薩に教化された竜女の成仏の姿が説かれている。

 

勧持

勧持品のこと。宝塔品での弘教の勧めと提婆品の法華経の功力が明らかにされたのを受けて、一座の菩薩や声聞たちが此土・他土の弘教を誓っているところである。八十万億那由佗の菩薩は二十行の偈を説いて、滅後の悪世において三類の強敵のなかで、弘教していくことを誓っている。

 

安楽

法華経安楽行品第14のこと。迹門14品の最後である。身・口・意・誓願の四安楽行が説かれ、悪口・迫害されず、安穏に妙法を修行するには、いかにしたらよいかを示し、正像摂受の行を明かしている。

 

涌出品

妙法蓮華経従地涌出品第十五のこと。この品より本門に入る。この品の前半で迹化・他方の八恒河沙の大菩薩が娑婆世界の弘教を請うたけれども、釈尊は許されない。そして迹門の大地を破って上行など四菩薩を上首とした本眷属、六万恒河沙の菩薩が出現するのである。これをみて、弥勒等の迹化の菩薩は、仏がいつ、これほどの大菩薩を教化したのであろうかと疑いを起こし、また「父少く、子老ゆ」の喩えを説いて「願わくは今為に解脱したまえ」と請うて、寿量品の説法にはいるのである。

 

寿量品

如来寿量品大16のこと。如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号である。別して本地三仏の別号。寿量とは、十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量えるので、寿量品という。今は、本地の三仏の功徳を詮量するのである。この品こそ、釈尊出世の本懐であり、一切衆生成仏得道の真実義である。寿量品得意抄には「一切経の中に此の寿量品ましまさずは天に日月無く国に大王なく山海に玉なく人にたましゐ無からんがごとし、されば寿量品なくしては一切経いたづらごとなるべし」(1211:17)と、この品が重要であることを説かれている。その元意は文底に事行の一念三千の南無妙法蓮華経が秘し沈められているからである。御義口伝には「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752:04)、また「然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか其の故は此の品は在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す」(0753:07)とあり、末法においては、寿量品といえども、三大秘法の大御本尊の説明書であり、蔵と宝の関係になるのである。

 

分別功徳品

妙法蓮華経分別功徳品第17のこと。略広に開近顕遠して、菩薩大衆は種々の功徳を得たのであるが、その功徳の浅深不同を分別することを説いたので、分別功徳品というのである。全体が二段に分かれていて、初めから弥勒が領解を述べた偈頌の終わりまでは、本門の正宗分で、その中に授記と領解があり、まず総じて菩薩に法身の記を授け、大衆の供養があり、ついで、領解、分別功養がある。つぎに、後半、「爾の時、仏、弥勒摩訶薩に告げたまわく」から終わりまでは流通分に属し、次の品の終わりまでは初品の因の功徳を明かすのであって、まず一念信解、略解言趣、広為他説、深信観成の現在の四信と、随喜品、読誦品、解脱品、兼行六度品、正行六度品の滅後の五品を説き、次品の終わりまでにも及んでいる。日蓮大聖人は南無妙法蓮華経の正行を、初信の位にとっておられる。

 

講義

本抄御述作の由来は不明であり、御述作の年次ならびに与えられた人についても種々の説がある。

ただ、本抄の後半に、女人成仏の事が示されていること等から、文永2年(1265)に南条兵衛七郎の妻に与えられたものと推測されている。他に弘安3年(1280)説、建治年中という説もある。本抄は一部を除いて御真筆が存している。

さて、本章では、法華経の中における薬王品の位置ならびに役割が記されている。

薬王品は、法華経二十八品の中の第二十三品であり、正には本門寿量品、傍には迹門方便品等の修行のあり方を示した流通分にあたるのである。

 

方便品より人記品に至るまで八品は正には二乗作仏を明し傍には菩薩凡夫の作仏を明かす、法師・宝塔・提婆・勧持・安楽の五品は上の八品を末代の凡夫の修行す可き様を説くなり

 

日蓮大聖人は、「観心本尊抄」でも「迹門十四品の正宗の八品は一往之を見るに二乗を以て正と為し菩薩凡夫を以て傍と為す」(0249:10)と仰せであるが、このように迹門正宗分が二乗作仏を正となし、菩薩凡夫の成仏を傍となす理由について、日寛上人は観心本尊抄文段で、次のように述べられている。

「所謂順次にこれを見れば二乗を正と為し、菩薩・凡夫を傍と為す。謂く、菩薩・凡夫は成じ易き故に傍なり。若し二乗の人は成じ難き故に正なり。また同じき大通下種の中にも、菩薩の人は法華已前に或は種子を顕し、凡夫の人は法華已後に或は種子を顕す。故にこれ仏の本意に非ず、故に名づけて傍と為す。但二乗の人のみ、法華に来至して種子を顕示す。これ仏の本意なり。故に正と為すなり」。

この文の意味はきわめて明快であり、要は爾前経で一貫して永不成仏とされてきたのが二乗である。この最も成仏しがたい二乗の成仏を明かしたところに法華経迹門正宗分の特質がある。二乗すら成仏するのであるから、それより成仏しやすい菩薩・凡夫の成仏は必然的に可能となるのである。

この迹門正宗分の二乗作仏の説法をうけて、法師品以下では、釈尊が菩薩達に向かって、滅後の弘教を勧め、それに応えて菩薩達が弘教の決意を述べることが説かれている。たとえば勧持品で、三類の強敵が競うけれども、それに耐えて弘めると申し出ているのがそれである。

これらは、一往、説法の流れの上で見れば、迹門正宗分で説かれた法を弘めることを誓ったものであり、のちに、これら迹化の菩薩が斥けられ、末法の弘通の使命は本化地涌の菩薩のみに託されることから振り返ってみれば、正像二時における弘教となる。ただし、再往こうした三類の強敵による大難に耐えて弘めるのは、末法に妙法を弘める本化の菩薩である。ゆえに、観心本尊抄の次下には、この迹門正宗分も「再往之を勘うれば凡夫・正像末を以て正と為す正像末の三時の中にも末法の始を以て正が中の正と為す」(0249:11)と仰せられ、また法華取要抄にも、次のように述べられるのである。

「問うて云く法華経は誰人の為に之を説くや、答えて曰く方便品より人記品に至るまでの八品に二意有り上より下に向て次第に之を読めば第一は菩薩・第二は二乗・第三は凡夫なり、安楽行より勧持・提婆・宝塔・法師と逆次に之を読めば滅後の衆生を以て本と為す在世の衆生は傍なり滅後を以て之を論ずれば正法一千年像法一千年は傍なり、末法を以て正と為す末法の中には日蓮を以て正と為すなり」(0333:16)。

したがって、本抄で、法師品から安楽行品にいたる迹門の流通分の五品は、方便品から人記品までの正宗分八品を、末代の凡夫がいかに修行すべきかを説いたものであると仰せられているのは、迹門十四品を逆次に読んだ場合であることはいうまでもない。

 

分別功徳品より十二品は正には寿量品を末代の凡夫の行ず可き様を・傍には方便品等の八品を修行す可き様を説くなり

 

本門十四品はことごとく、末代の凡夫のために説かれたものである。日蓮大聖人は、観心本尊抄で「再往之を見れば迹門には似ず本門は序正流通倶に末法の始を以て詮と為す」(0249:16)と仰せられ、本門の正宗分である寿量品は、弥勒等の「自分達は地涌の菩薩が釈尊の弟子であるとの教えを信ずるが、滅後の衆生は疑いを起こすであろうから、そのために説いてほしい」との請いを受けて説かれたからであると述べられている。

法華取要抄には、これを「問うて曰く誰人の為に広開近顕遠の寿量品を演説するや、答えて曰く寿量品の一品二半は始より終に至るまで正く滅後衆生の為なり滅後の中には末法今時の日蓮等が為なり」(0334:15)と仰せられている。

では、本抄で、寿量品を正と為し、方便品等を傍といわれるのは何故であろうか。

日寛上人は、取要抄文段で、次のように仰せである。

「今謂く、凡そ宗門の綱要、当抄の大意は、正に本門三箇の秘法を以て末法流布の正体、出離生死の要法と為す。然るに方便品等、寿量品等は、能くこの文底三箇の秘法を助顕するの功あり。故に並びに『末法今時の日蓮等が為なり』というなり。倶に文底三箇の秘法を助顕すと雖も、而も傍正あり。謂く、方便品等は遠くこれを助顕し、寿量品は近くこれを助顕す。既に遠近親疎の別あり。故に薬王品得意抄に『正には寿量品』『傍には方便品』等というなり」。

寿量品も方便品も、三大秘法の南無妙法蓮華経を助顕する功徳をそなえているが、その内容から、方便品は遠く助顕し、寿量品は近く助顕するという相違がある。ゆえに寿量品が正であり、方便品は傍となるのである。方便品は補助的な働きをするのである。

また、このような理由から、創価学会の勤行では、唱題の正行に対し、助行として方便品、寿量品の両品を読誦するが、寿量品を正、方便品を傍とするのである。

 

 

 

第二章 大海の譬えを示す

 此の品に十の譬有り、第一大海の譬、先ず第一の譬を粗申す可し、此の南閻浮提に二千五百の河あり、西倶耶尼に五千の河あり総じて此の四天下に二万五千九百の河あり、或は四十里乃至百里・一里・一町・一尋等の河之有り、然りと雖も此の諸河は総じて深浅の事大海に及ばず、法華已前の華厳経・阿含経・方等経・般若経・深密経・阿弥陀経・涅槃経・大日経・金剛頂経・蘇悉地経・密厳経等の釈迦如来の所説の一切経.大日如来の所説の一切経・阿弥陀如来の所説の一切経・薬師如来の所説の一切経・過去・現在・未来三世の諸仏所説の一切経の中に法華経第一なり、譬えば諸経は大河・中河・小河等の如し法華経は大海の如し等と説くなり、河に勝れたる大海に十の徳有り、一に大海は漸次に深し河は爾からず、二に大海は死屍を留めず河は爾らず、三に大海は本の名字を失う河は爾らず、四に大海は一味なり河は爾らず、五に大海は宝等有り河は爾らず、六に大海は極めて深し河は爾らず、七に大海は広大無量なり河は爾らず、八に大海は大身の衆生等有り河は爾らず、九に大海は潮の増減有り河は爾らず、十に大海は大雨・大河を受けて盈溢無し河は爾らず。

  此の法華経には十の徳有り諸経には十の失有り、此の経は漸次深多にして五十展転なり諸経には猶一も無し況や二三四乃至五十展転をや河は深けれども大海の浅きに及ばず諸経は一字・一句・十念等を以て十悪・五逆等の悪機を摂すと雖も、未だ一字一句の随喜五十展転には及ばざるなり、此の経の大海に死屍を留めずとは法華経に背く謗法の者は極善の人為りと雖も猶之を捨つ何に況や悪人なる上・謗法を為さん者をや、設い諸経を謗ずと雖も法華経に背かざれば必ず仏道を成ず、設い一切経を信ずと雖も法華経に背かば必ず阿鼻大城に堕つ、乃至第八には大海は大身の衆生あり等と云うは大海には摩竭大魚等大身の衆生之有り、無間地獄と申すは縦広八万由旬なり五逆の者無間地獄に堕ちては一人にて必ず充満す、此の地獄の衆生は五逆の者大身の衆生なり、諸経の小河大河の中には摩竭大魚之無し法華経の大海には之有り、五逆の者仏道を成す是れ実には諸経に之無し諸経に之有りと云うと雖も実には未顕真実なり、故に一代聖教を諳し天台智者大師の釈に云く他経は但菩薩に記して二乗に記せず乃至但善に記して悪に記せず、今経は皆記す等云云、余は且く之を略す。

 

現代語訳

この品に十の譬えが説かれている。第一は大海の譬えである。まず第一の譬えを概略、申し上げよう。この南閻浮提に二千五百の河がある。西倶耶尼には五千の河がある。合計して、この四天下に二万五千九百の河がある。あるいは四十里、あるいは百里、一里、一町、一尋等の河がある。しかしながら、この諸の河はすべて深さについては大海に及ばない。

法華以前の華厳経、阿含経、方等経、般若経、深密経、阿弥陀経、涅槃経、大日経、金剛頂経、蘇悉地経、密厳経等の釈迦如来によって説かれたところの一切の経、大日如来によって説かれたところの一切の経、阿弥陀如来によって説かれたところの一切の経、薬師如来によって説かれたところの一切の経、過去・現在・未来の三世の諸仏によって説かれたところの一切の経のなかで法華経は第一である。たとえば諸経は大河、中河、小河等のようなものであり、法華経は大海のようなものである等と説いているのである。

河よりも勝れている大海に十の徳がある。一に大海は次第に深くなっている。河はそうではない。二に大海は死骸を留めない。河はそうではない。三に大海は本の河の名前を失う。河はそうではない。四に大海は同一の味である。河はそうではない。五に大海には宝等がある。河はそうではない。六に大海は極めて深い。河はそうではない。七に大海は広大無量である。河はそうではない。八に大海は大きな身体の衆生等がいる。河はそうではない。九に大海は潮の増減がある。河はそうではない。十に大海は大雨・大河を受け入れて、満ち溢れることはない。河はそうではない。

この法華経には十の徳があり、諸経には十の失がある。この法華経の功徳は次第に深く多くて、五十展転の功徳がある。諸経においては、一番最初に法を聞いても功徳はない。ましてや二番目、三番目、四番目、そして五十展転の人に功徳のあるはずがない。河は深いといっても大海の浅いところに及ばない。諸経は一字、一句、十念等をもって十悪業や五逆罪等を犯す悪機の衆生を救済されるなかに入れているといっても、いまだ法華経の一字一句を聞いて随喜する人の五十展転の功徳には及ばないのである。

この経の、大海に死骸を留めないということは、法華経に背く謗法の者は極善の人であっても、これを捨て去るのである。ましてや悪人であるうえ謗法を行う者を捨て去らないわけがない。たとえ諸経を誹謗しても法華経に背かなければ必ず仏道を成ずる。たとえ一切経を信じても法華経に背くならば必ず無間地獄に堕ちるのである。中略。第八に大海には大きな身体の衆生がいる等というのは、大海には摩竭大魚等の大きな体の衆生がいる。無間地獄というのは縦広八万由旬である。五逆罪を犯した者は無間地獄に堕ちて一人で必ず充満してしまう。この地獄の衆生は五逆罪の者であり、大身の衆生である。諸経の小河や大河の中には摩竭大魚はいない。法華経の大海にはいる。

五逆罪の者が仏道を成ずるというのは、実際には諸経に説かれていない。諸経に説かれているといっても実際には、未だ真実を顕していないのである。ゆえに釈尊が一代で説かれたすべての聖教をそらでおぼえておられた天台智者大師の釈に「法華経以外の経は、ただ菩薩に授記して二乗に授記していない。中略。ただ善人に授記して悪人に授記していない。法華経は皆に授記している」等といっている。他の譬えについては、しばらく省略する。

 

語釈

十の譬

薬王菩薩本事品に説かれる十種の譬喩の。法華経が諸経の中で最高であることを譬えたもの。①水喩②山喩③衆星喩④日光喩⑤輪王喩⑥帝釈喩⑦大梵王喩⑧四果辟支仏喩⑨菩薩喩⑩仏喩。薬王品得意抄に詳しい。

 

南閻浮提

閻浮提とも一閻浮提ともいう。「閻浮提」は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumbūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。提は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西倶耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。四大洲のなかでもとくに南閻浮提は仏法有縁の地とされ、本来、インドを中心とする世界であったが、転じて全世界を包括する意味をもつようになった。

 

西倶耶尼

「倶耶尼」は梵語ゴダーニーヤ(Godānīya)の音写。「瞿耶尼」とも書く。古代インドの世界観における四大洲の一つ。

 

四天下

鹹水海の中にある四州。東を弗婆提・西を瞿耶尼・南を閻浮提・北を欝単超という。

 

一尋

「尋」は縄や水深などをはかる長さの単位。成人男子が両手を左右に広げた幅。長さは一定しないが、水深をはかる場合には約1.8㍍)が一尋とされる。

 

華厳経

正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。

 

阿含経

釈迦一代の教説を天台が五時に判じたなかで、最初の華厳時の次に説かれた経。時を阿含時、説かれた経を阿含経という。阿含は梵語アーガマ(āgama)の音写。法帰・法本・法蔵・蔵等と訳す。仏の教説を集めたものという意味。増一阿含経50巻・中阿含経60巻・雑阿含経50巻・長阿含経22巻からなり、四阿含経ともいう。結経は遺教経、説処は波羅奈国鹿野苑で、陳如等五人のために、三蔵教の四諦の法輪を説いたもの。したがって、釈尊説法中もっとも低い教えである。

 

方等経

釈迦一代教法のうち方等部に属する経。

 

般若経

般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。

 

深密経

解深密経のこと。五巻。唐代の玄奘訳。内容は、己心の外にあると思われる諸現象は、ただ阿頼耶識によって、認識の対象に似たすがたを心に映じ出されたものにすぎないという唯識の義、および諸法の如実の性相を明かし、実践修行の方法・行位・証果・化他の力用を説いている。なお漢訳には三種がある。法相宗の依経である。

 

阿弥陀経

鳩摩羅什の訳。釈迦一代説法中方等部に属する。欲界・色界二界の中間、大宝坊で説かれた。無量寿経・観無量寿経とともに浄土の三部経のひとつ。教義は、この世は穢土であり幸福はありえないかあら、死後極楽浄土へ往生する以外にない。そのためには阿弥陀仏の名号を唱えよというもの。現世の諦めを根底とする方便の権教である。

 

涅槃経

釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。

 

大日経

大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。

 

金剛頂経

金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経の略。唐の不空訳3巻。真言三部経の一つ。密教の根本経典。金剛界の曼荼羅とその供養法を説く。

 

蘇悉地経

蘇悉地羯羅経の略。唐の善無畏訳3巻。真言三部経の一つ。持誦・灌頂などが明かされ、妙果成就の法が説かれている。

 

密厳経

法相宗が依経とする経。二訳がある。①唐の不空三蔵訳・大乗蜜権教3巻。②唐の地婆訶羅訳・大乗蜜権教3巻。

 

大日如来

大日は梵語(mahāvairocana)遍照如来・光明遍照・遍一切処などと訳す。密教の教主・本尊。真言宗では、一切衆生を救済する如来の智慧を光にたとえ、それが地上の万物を照らす陽光に似るので、大日如来というとし、宇宙森羅万象の真理・法則を仏格化した法身仏で、すべて仏・菩薩を生み出す根本仏としている。大日如来には智法身の金剛界大日と理法身の胎蔵界大日の二尊がある。

 

阿弥陀如来

「阿弥陀」は梵語アミターバ(Amitābha)、あるいは、アミターユス( Amitāyus)の音写、無量光仏・無量寿仏と訳す。西方極楽世界の教主。無量寿経によれば、無数劫の過去に、ある国王が出家して法蔵比丘となり、世自在王仏を師として四十八願を立てて修業し、願成就して阿弥陀仏となり、西方極楽世界に住して衆生を済度していると説いている。浄土宗では、この阿弥陀如来を本尊として、西方極楽世界に往生することを本願としている。

 

薬師如来

薬師とは梵語(Bhaiajya)薬師琉璃光如来・大医王仏・医王善逝ともいう。東方浄瑠璃世界の教主。ともに菩薩道を行じていた時に、一切衆生の身心の病苦を救い、悟りに至らせようと誓った。衆生の病苦を治し、諸根を具足させて解脱へ導く働きがあるとされる。

 

五十展転

法華経を聞いて随喜し演説することが人から人へと五十回、繰り返されること。その第五十番目に伝え聞いた人の随喜の功徳を法華経随喜功徳品第十八に「是の人は一切の楽具を以て、四百万億阿僧祇の世界の六趣の衆生に施し、又た阿羅漢果を得せしめん。得る所の功徳は、是の第五十の人の法華経の一偈を聞いて、随喜せん功徳には如かず、百分・千分・百千万億分にして、其の一にも及ばじ。乃至算数譬喩も知ること能わざる所なり。阿逸多よ。是の如く第五十の人の展転して法華経を聞いて随喜せん功徳すら、尚お無量無辺阿僧祇なり」と説いている。

 

十念

①増一阿含経に説かれる十種の念、念仏・念法・念僧・念戒・念施・念天・念休息・念安般・念身・念死。②光讃般若経に説かれる十念。③無量寿経・観無量寿経等浄土宗所立の十念。(諸説あり)④その他の経にも種々の十念あり。

 

十悪

十種の悪業のこと。身口意の三業にわたる、最もはなはだしい十種の悪い行為。倶舎論巻十六等に説かれる。十悪業、十不善業ともいう。すなわち、身に行う三悪として殺生、偸盗、邪淫、口の四悪として妄語、綺語、悪口、両舌、心の三悪としては、貪欲、瞋恚、愚癡がある。

 

五逆

五逆とは、五逆罪または五無間業ともいい、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血のこと。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。

 

悪機

「機」とは機根の意味で、仏法を受容する可能性。「悪機」は仏法をすなおに信受できず、十悪・五逆等の罪を犯す機根のこと。

 

随喜

「事理に随順し、己を慶び、人を慶ぶなり」と釈し、釈尊の本地深遠の常住を聞いて信順すること、「理に順う」といい、仏の三世益物の一切処に遍きを聞いて信順することを「事に順う」という。「己を慶ぶ」とは、迹門の諸法実相の理、および本門の久遠本地の事を聞いて信解し歓喜を生ずつこと。「人を慶ぶ」とは、仏も衆生も無作の三身を所具しているとの観をもって一切衆生に正道を悟らせようとする大慈悲心を発すことをいうのである。観心の立場から論ずるならば、永遠の生命観に立ち、御本尊の絶対なる功力を信じ、歓喜して行学の力強い実践に励むことである。

 

謗法

誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。

 

阿鼻大城

阿鼻獄・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。

 

無間地獄

八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。

 

由旬

梵語ヨージャナ(Yojana)の音写。旧訳で兪旬、由延、新訳で踰繕那、踰闍那とも書き、和、和合、応、限量、一程、駅などと訳す。インドにおける距離の単位で、帝王の一日に行軍する距離とされる。その長さは古代中国での40里、30里等諸説があり、大唐西域記巻二によると、仏典の場合、およそ16里にあたるとしている。その他、9マイル、およそ14.4㌔とする説があるが確定しがたい。

 

摩竭大魚

摩竭は梵語マカラ(Ⅿakara)の音写で、想像上の大魚。根本説一切有部毘奈耶巻九には「其の摩竭魚は十八頭三十六眼ありて、或は人頭なるあり、或は象頭なるあり、或は馬頭……魚頭等なるありき」とある。

 

未顕真実

法華経の開経である無量義経説法品第二に「四十余年には未だ真実を顕さず」とある。

 

一代聖教

釈尊が成道してから涅槃に入るまでの間に説いた一切の説法。天台大師は説法の順序に従って華厳・阿含・方等・般若・法華の五時に分けた書。詳しくは御書全集「釈迦一代五時継図」(0633)参照のこと。

 

天台智者大師

05380597)。中国天台宗の開祖。慧文、慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。18歳の時、湘州果願寺で出家し、次いで律を修し、方等の諸経を学んだ。陳の天嘉元年(0560)大蘇山に南岳大師を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、おおいに法華経の深義を照了し、法華第一の義を説いて「法華玄義」十巻、「法華文句」十巻、「摩訶止観」十巻の法華三大部を完成した。摩訶止観では観心の法門を説き、十界互具・一念三千の法理と実践修行の方軌を明らかにしている。隋の煬帝より智者大師の号を与えられたが、天台山に住したので天台大師と呼ばれる。

 

講義

本章からは、薬王品に説かれる十喩によって、法華経が他の諸経に比べて、どのように勝れているかを説かれていくのである。

まず、はじめに十喩の中の大海の譬えを引かれる。これは法華経を大海に譬え、諸経を諸河に譬えたものである。

大聖人は、ここで大海にそなわる十徳を挙げて、法華経の勝れていることを示されている。

第一の徳である漸次深多とは、法華経には五十展転の功徳があるということである。

諸経には第一聞法の徳もない。また、諸経では、一字・一句・十念によって極楽往生できるなどと説き、十悪五逆等の悪人を救済するなどといっているが、仮に、そうとしても、法華経の五十展転の功徳には及ばないのである。

第二に「大海は死屍を留めず」という徳は、死屍とは法華経を誹謗する者のことで、法華経に背く謗法者は必ず無間地獄におちるということである。

第三の名字、第四の味、第五の宝、第六の深さ、第七の広さの徳は略して、第八の大海には大身の者が棲むことを挙げられている。大身の衆生とは五逆罪を犯した者である。五逆罪の者の成仏を可能にするのは、法華経のみである。他の諸経に、たとえ、五逆を犯したような悪人の成仏が説かれているようであっても、未顕真実の教えであるゆえに、成仏することはできないのである。このように、爾前経では二乗・悪人の成仏はないことを、天台大師の文を引用して示されている。

なお、本抄では略されている第四、第五、第六、第九、第十の徳について同一鹹味御書によって補足しておこう。

第四の「大海は一味なり」という徳について、同一鹹味御書には「同じ一鹹の味なりとは諸河に鹹なきは諸教に得道なきに譬ふ、諸河の水・大海に入つて鹹となるは諸教の機類・法華経に入つて仏道を成ずるに譬ふ」(1447:06)と仰せである。

第五の「大海に宝等あり」という点については、同一鹹味御書に「種種の宝蔵有りとは諸仏菩薩の万行万善・諸波羅蜜の功徳・妙法に納まるに譬ふ」(1447:08)と仰せである。

第六の「大海は極めて深し」ということについては、同一鹹味御書に「深くして底を得難し」(1447:03)と示され、「深くして底を得難しとは法華経は唯仏与仏の境界にして等覚已下は極むることなきが故なり」(1447:05)と教示されている。

第九の「大海は潮の増減あり」については、同一鹹味御書には「潮限りを過ぎずとは妙法を持つ人寧ろ身命を失するとも不退転を得るに譬ふ」(1447:07)と記されている。

「潮限りを過ぎず」とは、大海の水が、時間をたがえず干満することをいう。引き潮と満ち潮が時間をあやまたず規則正しく繰り返すように、法華経を持つ人は、たとえ身命を失うようなことがあっても、必ず成仏できるのである。

第十の「大海は大雨大河の水を受け入れてあふれることはない」という徳については、同一鹹味御書に「万流大雨之を収めて不増不減なり」(1447:04)とあり、次下に「不増不減とは法華の意は一切衆生の仏性同一性なるが故なり」(1447:11)と仰せである。

法華経の心は、一切衆生悉有仏性のうえに立っており、万人の仏性は同一であり、万人が平等に成仏できるということである。仏性には増もなければ減もないのである。

 

此の経は漸次深多にして五十展転なり

 

大海にそなわる第一の徳、漸次深多の徳とは、法華経随喜功徳品に説かれる五十展転の功徳をあらわしたものであると教えられている。

五十展転の功徳については、随喜功徳品に次のように説かれている。

「爾の時、仏は弥勒菩薩摩訶薩に告げたまわく、『阿逸多よ。如来の滅後に、若しは比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、及び余の智者の、若しは長若しは幼は、是の経を聞いて随喜し已って、法会従り出でて、余処に至り……其の聞く所の如く、父母・宗親・善友・知識の為めに、力に随って演説せん。是の諸人等は、聞き已って随喜して、復た行きて転教せん。余の人は聞き已って、亦た随喜して転教せん。是の如く展転して、第五十に至らん。阿逸多よ。其の第五十の善男子・善女人の、随喜の功徳を、我れは今之れを説かん』」

このあと、甚深無量の功徳が説かれ、その結論部分に、次のように記されている。

「阿逸多よ。是の如く第五十の人の展転して法華経を聞いて随喜せん功徳すら、尚お無量無辺阿僧祇なり。何に況や最初、会中に於いて聞いて随喜せん者をや。其の福は復た勝れたること無量無辺阿僧祇にして、比ぶることを得可からず」。すなわち、仏の滅後に法華経を聞いて、それを次第に展転説法し、第五十人目に至る時、聞いた時の随喜は第一番目の人の随喜の功徳よりもはるかに減じてはいるが、それでも、随喜する第五十番目の人の功徳はなお甚大無量なのである。

五十という法数について、天台大師は法華文句巻十上に蔵・通・別の三教の立場から論じた後、次のように記している。

「直に円門に就て数ふれば、数法に小七と大七有り、大七は七々四十九有り、皆是れ師弟にして、自行化他の徳を具す。最後の一人は但だ是れ自解にして教他の徳無し、故に下を格して以て上を顕すのみ」と。

円教では、自行化他の師弟が四十九人おり、第五十番目の弟子は自行のみであって、他を教化しない。この化他の功徳を欠いている第五十番目の者でも功徳が甚大なのであるから、第一番目の自行化他を具足する衆生の功徳が、いかに無量無辺であるかは想像を絶するものがある。

日蓮大聖人は、「御義口伝」で、五十人とは妙法を聞いて随喜する一切衆生をさすと仰せである。

「御義口伝に云く妙法の功徳を随喜する事を説くなり、五十展転とは五とは妙法の五字なり十とは十界の衆生なり展転とは一念三千なり、教相の時は第五十人の随喜の功徳を校量せり五十人とは一切衆生の事なり、妙法の五十人妙法蓮華経を展転するが故なり、所謂南無妙法蓮華経を展転するなり云云」(0799:一随喜品:01)。

日蓮大聖人の南無妙法蓮華経は、「御義口伝」に仰せのように、十界の一切衆生をことごとく成仏させ、無量無辺の功徳を与えゆく法なのである。

 

 

第三章 山の譬えを示す

第二には山に譬う、十宝山等とは、山の中には須弥山第一なり、十宝山とは一には雪山・二には香山・三には軻梨羅山・四には仙聖山.五には由乾陀山・六には馬耳山・七には尼民陀羅山.八には斫伽羅山・九には宿慧山・十には須弥山なり、先の九山とは諸経諸山の如し、但し一一に財あり須弥山は衆財を具して其の財に勝れたり、例せば世間の金の閻浮檀金に及ばざるが如し、華厳経の法界唯心・般若の十八空・大日経の五相成身・観経の往生より法華経の即身成仏勝れたるなり、須弥山は金色なり、一切の牛馬・人天・衆鳥等此の山に依れば必ず本色を失つて金色なり余山は爾らず一切の諸経は法華経に依れば本の色を失う例せば黒色の物の日月の光に値えば色を失うが如し諸経の往生成仏等の色は法華経に値えば必ず其の義を失う。

 

現代語訳

第二には山に譬えている。十宝山等とは、山の中には須弥山が第一に勝れていると説いているのである。十宝山とは一には雪山、二には香山、三には軻梨羅山、四には仙聖山、五には由乾陀山、六には馬耳山、七には尼民陀羅山、八には斫伽羅山、九には宿慧山、十には須弥山である。先の九山は諸経は諸山のようなものであるということである。ただし、その一つ一つに財があるが、須弥山は多くの財を具えていて、それらの財よりも勝れている。例えば世間の金が閻浮檀金に及ばないようなものである。華厳経の法界唯心の法門、般若の十八空の法門、大日経の五相成身の法門、観無量寿経の極楽往生の法門よりも法華経の即身成仏の法門は勝れているのである。

須弥山は金色である。一切の牛や馬、人や天人、諸の鳥等は、この山に近寄ると必ず本の色を失って金色になるのである。他の山はそうではない。一切の諸経は法華経に対すると本の色を失うのである。例えば黒色の物が日月の光にあうと、その黒色を失うようなものである。諸経で説く往生や成仏等の色は、法華経にあうと必ずその義を失うのである。

 

語釈

十宝山

古代インドの世界観にある十の山。十王山ともいう。華厳経巻三十九には、菩薩の十地を明かすなかで次のように十山王を説いている。

① 雪山王    一切の薬草が悉くあって取っても尽きることがない。

② 香山王に   一切の諸香が悉く集まっていて取っても尽きることがない。

③ 軻梨羅山王  純宝から成っていて一切の衆宝が悉くあり取っても尽きることがない。

④ 仙聖山王   純宝から成っていて、五神通を備えた神仙がその中におり説き尽くすことができない。

⑤ 由乾陀山王  純宝から成っていて、夜叉の大神は悉くその中におり窮め尽くすことはない。

⑥ 馬耳山王   純宝から成っていて、一切の諸果が悉く在り取っても尽きることがない。

⑦ 尼民陀羅山王 純宝から成っていて、大力の竜神は悉くその中に住しており窮め尽くすことはない。

⑧ 斫伽羅山王  純宝から成っていて、諸の自在の衆は悉くその中に住しており窮め尽くすことはない。

⑨ 宿慧山王   純宝から成っていて、大威徳の阿修羅王は悉くその中に住し窮め尽くすことはない。

⑩ 須弥山王   純宝から成っていて、大威徳の諸天は悉くその中に住し窮め尽くすことはない。

 

須弥山

古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。

 

雪山

ヒマラヤのこと。

 

香山

香酔山ともいう。大雪山の北にあり、山中に諸の香気があり人を酔わせるから香酔というと俱舎論等にある。

 

軻梨羅山

「軻梨羅」は梵語カディラ(khadiraka)の音写で、檐木と訳す。ヒマラヤ高所に産する樹木の名。須弥山を取り巻く七金山一つで、この樹木が多く生えていたことから、「軻梨羅山」の名がある。

 

仙聖山

仙人や証人が住むところの山。

 

由乾陀山

「由乾陀」は梵語ユガンダラ(yugaMdhara)の音写で、持双と訳す。須弥山を取り巻く七金山の一つで、山頂に二道があるから、「由乾陀山」の名がある。

 

馬耳山

「馬耳」は、梵語アシュヴァカルナ(azvakarNagiri)の訳で、須弥山を取り巻く七金山の一つで、山の形が馬の耳に似ているところから、「馬耳山」の名前がある。

 

尼民陀羅山

「尼民陀羅」は梵語ニミンダラ(nimindhara)の音写で、持辺と訳す。須弥山を取り巻く七金山の一つで、外側の山の名。その高さは625由旬といわれる。

 

斫伽羅山

「斫伽羅」は梵語チャクラヴァーダ(cakravaaDa)の音写で、輪鉄囲と訳す。須弥山を取り巻く八山の最も外側の鉄でできた山。鉄輪囲山ともいう。

 

宿慧山

大威徳の阿修羅王が住んでいたとされる山。

 

閻浮檀金

梵語でジャンブーナダスヴァルナ(Jambū-nada-suvara)。「えんぶだんごん」「えんぶだごん」ともよむ。「閻浮」は樹木の名。「壇」は河の意。雪山と香酔山との間の閻浮樹林の下を流れる河から産出されるとしてこの名がある。赤黄色で紫焔気を帯びた金で、最上の黄金とされるが、想像上のものと思われる。

 

法界唯心

一切諸法・神羅万象は悉く一心によって造られるものであるとする説で、華厳経に説かれる。「三世諸仏総勘文抄」には「華厳経に云く『心は工なる画師の種種の五陰を造るが如く一切世間の中に法として造らざること無し心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり三界唯一心なり心の外に別の法無し心仏及び衆生・是の三差別無し』已上」(0564)とある。

 

十八空

十八種の空のことで、大品般若経に説かれる。大品般若経巻一には「菩薩摩訶薩、内空・外空・内外空・空空・大空・第一義空・有為空・無為空・畢竟空・無始空・散空・性空・自相空・諸法空・不可得空・無法空・有法空・無法有法空に住せんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし」とある。大智度論巻第三十一に詳しい。

 

五相成身

五相を具備して本尊の仏身を修行者の身に成就するとする密教の修行。五相とは

①通達菩提心

②修菩提心

③成金剛心

④証金剛身

⑤仏身円満

金剛頂経、菩提心論等に説かれる。

 

観経

観無量寿経のこと。浄土三部経の一つで、方等部に属する。元嘉元年(0424)~同19年(0442)にかかって中国・劉宋代の畺良耶舎訳。詳しくは観無量寿仏経。阿闍世王が父・頻婆沙羅王を殺し母を牢に閉じ込め、悪逆の限りを尽くしたのを嘆いた母・韋提希夫人が釈尊にその因縁を聞いたところ釈尊は神通をもって十方の浄土を示し、夫人がそのなかから西方極楽世界を選ぶ。それに対して釈尊が、阿弥陀仏と極楽浄土を説くというのが大意である。しかし、韋提希夫人の嘆きに対しては、この経は根本的には説かれていない。この答えが説かれるのは法華経提婆品で、観経ではわずかに、問いを起こしたaaというにとどまる。西方十万億土を説いたのも、夫人の現在に対する解決とはなっていない。

 

往生

死後、他の世界に往き、生まれること。おもに極楽浄土をさす。

 

即身成仏

凡夫が凡夫そのままの姿で成仏すること。法華経で説かれた法門である。爾前経では凡身を断ち、煩悩を断ってからでなくては成仏できぬとされ、悪人や女人は成仏できぬとされたが、法華経にきて提婆達多と竜女が即身成仏の現証を示したのである。この元意は法華経の根底に秘沈された文底の妙法・久遠元初の妙法を信じたがゆえの成仏であり、その妙法の本体は南無妙法蓮華経の当体、御本尊であり、題目を唱えることにより即身成仏するのである。凡夫即極・直達正観に通じる。

 

講義

薬王品には、十喩の第二として法華経を須弥山に譬え、諸経を諸山に譬えて、次のように記されている。

「又た土山・黒山・小鉄囲山・大鉄囲山、及び十宝山の衆山の中に、須弥山は為れ第一なるが如く、此の法華経も亦復た是の如く、諸経の中に於いて、最も為れ其の上なり」。

須弥山があらゆる山に勝れるように、法華経の即身成仏は、他の諸経の往生、成仏等の教義に勝れているのである。

本文で、一切の牛馬・人天・衆鳥等が、須弥山に近づくと本の色を失って、すべて金色になると仰せられているのは、一切衆生が法華経によって即身成仏することを示しているのである。

「妙法尼御前御返事」にも「須弥山に近づく衆色は皆金色なり、法華経の名号を持つ人は一生乃至過去遠遠劫の黒業の漆変じて白業の大善となる、いわうや無始の善根皆変じて金色となり候なり」(1405:08)と仰せられている。

「妙法尼御前御返事」の御文は法華経の名字すなわち題目を須弥山に譬え、過去からの種々の宿業に染まった生命も南無妙法蓮華経の題目を持ったときにことごとく転換して又、金色の仏身という成仏の境地をあらわすことができるとの意である。それに対し、本抄では一切の諸経の教えは、法華経に値えば、その意義を失ってしまうことに譬えられている。すなわち、法華経の即身成仏の義に出あえば、もとの往生成仏の義が失われて、虚妄であることが明白になってしまうのである。

だが、須弥山に近づくものが、本色を失うが、金色という成仏の色に染まっていくように、法華経に出あった諸経も、本義を失いつつも、法華経に開会され、法華経の体内で、その真実の力を蘇生するのである。

このことを「妙法尼御前御返事」には「法華経の実語なるのみならず一代妄語の経経すら法華経の大海に入りぬれば法華経の御力にせめられて実語となり候」(1405:07)と仰せられている。

爾前の諸経も、法華経の一分とし、法華経のための説明の経として読むならば生きてくるのであり、諸経もことごとく金色に変じて、仏の真実の言葉となるのである。

 

 

 

第四章 月の譬えを示す

第三には月に譬う衆星は或は半里或は一里或は八里或は十六里には過ぎず、月は八百余里なり衆星は光有りと雖も月に及ばず、設い百千万億乃至一四天下・三千大千・十方世界の衆星之を集むとも一の月の光に及ばず、何に況や一の星月の光に及ぶ可きや、華厳経・阿含経・方等・般若・涅槃経・大日経・観経等の一切の経之を集むとも法華経の一字に及ばじ、一切衆生の心中の見思塵沙無明の三惑並に十悪五逆等の業は暗夜のごとし華厳経等の一切経は闇夜の星のごとし法華経は闇夜の月のごとし法華経を信ずれども深く信ぜざる者は半月の闇夜を照すが如し深く信ずる者は満月の闇夜を照すが如し月無くして但星のみ有る夜には強力の者かたましき者なんどは行歩すといへども老骨の者女人なむどは行歩に叶わず、満月の時は女人老骨なむども、或は遊宴のため或は人に値わんが如き行歩自在なり、諸経には菩薩・大根性の凡夫は設い得道なるとも二乗・凡夫・悪人・女人乃至・末代の老骨の懈怠・無戒の人人は往生成仏不定なり、法華経は爾らず、二乗・悪人・女人等・猶仏に成る何に況や菩薩・大根性の凡夫をや、又月はよいよりも暁は光まさり・春夏よりも秋冬は光あり、法華経は正像二千年よりも末法には殊に利生有る可きなり、問うて云く証文如何答えて云く道理顕然なり、其の上次ぎ下の文に云く「我が滅度の後・後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提に於て断絶せしむること無し」等云云、此の経文に二千年の後南閻浮提に広宣流布すべしと・とかれて候は・第三の月の譬の意なり、此の意を根本伝教大師釈して云く「正像稍過ぎ已て末法太だ近きに有り法華一乗の機今正しく是れ其の時なり」等云云、正法千年も像法千年も法華経の利益諸経に之れ勝る可し然りと雖も月の光の春夏の正像二千年末法の秋冬に至つて光の勝るが如し。

 

現代語訳

第三には月に譬えている。諸の星の照らす範囲は、あるいは半里、あるいは一里、あるいは八里、あるいは十六里は越えない。月は八百余里である。諸の星は光があるといっても月には及ばない。たとえ百千万億から四天下、三千大千世界、十方世界の諸の星を集めても一つの月には及ばない、まして一つの星が月の光に及ぶわけがない。華厳経、阿含経、方等経、般若経、涅槃経、大日経、観無量寿経等の一切の経を集めても法華経の一字の功徳に及ばないのである。

あらゆる衆生の心中の見思惑・塵沙惑・無明惑の三惑、および十悪や五逆罪等の業は闇夜のようなものである。華厳経等の一切の経は闇夜の星のようなものである。法華経は闇夜の月のようなものである。法華経を信じたとしても深く信じない者は半月が闇夜を照らすようなものであり、深く信じる者は満月が闇夜を照らすようなものである。月がなくて、ただ星だけがある夜には、力の強い者や頑健な者などは歩いて行けても、年老いた者や女性などは歩いて行くことができない。満月のときは女性や年老いた人なども、あるいは酒宴のため、あるいは人に会おうとするような場合に歩いて行くことは思いのままである。諸経においては、菩薩や大根性の凡夫はたとえ得道しても二乗、凡夫、悪人、女性、あるいは末代の年老いて怠けおこたる無戒の人々は往生や成仏は確かではない。法華経はそうではない。二乗、悪人、女人等でさえ仏に成るのである。まして菩薩や大根性の凡夫が仏にならないわけがない。

また、月は宵よりも暁に光が増し、春や夏よりも秋や冬に光がある。法華経は正法・像法時代の二千年間よりも末法の時には特に利益があることになっている。質問していう。その証文はどうか。答えていう。道理はあきらかである。そのうえ薬王品のそのあとの文に「私が入滅したのち後の五百歳のなかに広宣流布して、閻浮提において断絶させることはない」等といっている。この経文に、入滅から二千年ののち南閻浮提に広宣流布すべきであると説かれているのは、第三の月の譬えの意味である。この意味を根本伝教大師が守護国界章に解釈して「正法・像法時代がだんだん過ぎ去って、末法の時が非常に近くにある。法華一乗の法によって衆生に利益があるというのは、今が正しくその時である」等といっている。正法時代千年でも像法時代千年でも法華経の利益は諸経に比べて勝れていよう。しかしながら、月の光が春夏にあたる正法・像法時代二千年よりも、末法の時という秋冬になって光が勝るようなものなのである。

 

語釈

三千大千

三千大千世界のこと。古代インドの世界観の一つ。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六等によると、日月や須弥山を中心として四大州を含む九山八海、および欲界と色界の初禅天とを合わせて小世界という。この小世界を千倍したものを小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界とする。小千、中千、大千の三種の世界からなるので三千世界または三千大千世界という。この一つの三千世界が一仏の教化する範囲とされ、これを一仏国とみなす。

 

十方世界

「十方」と7は、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた方位で、全世界を意味する。仏教では十方に無数の三千大千世界があるとされる。

 

見思塵沙無明の三惑

見思惑・塵沙惑・無明惑のこと。天台大師が一切の妄惑を三種に包摂したもの。

①見思惑  見惑と思惑のこと。三界六道の苦果を招く惑。

②塵沙惑  大乗の菩薩が人を教化する時の障害となる多くの法門上の無知をいう。

③無明惑  中道の理を覆い隠す根本無明の惑。

 

大根性の凡夫

得道する機根が整っている凡夫のこと。

 

懈怠

おこたること、なまけること、低い教えは民衆を幸福にすることを怠る懈怠の法である。

 

無戒

「戒」とはっ戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。もともと戒を受けないものをいう。

 

正像二千年

仏滅後、正法時代1000年間と像法時代1000年間のこと。正法とは仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。像法とは正法時代の次に到来する時代。像は似の義とされ、形式化して正しい教えが失われていく時代。

 

末法

正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。

 

利生

利益衆生の意で、衆生を利益すること。

 

我が滅度の後・後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提に於て断絶せしむること無し

薬王菩薩本事品の文。末法の南無妙法蓮華経が広宣流布するという予言。

 

後の五百歳

末法の初めのこと。大集経巻五十五には釈尊滅後を五つの五百年に区切って、仏法の状態を説いている。その第五の五百年が闘諍堅固といい、末法の初めとされる。「後の五百歳」は大集経の第五の五百歳にあたるとされている。末法の初めのこと。大集経巻五十五には釈尊滅後を五つの五百年に区切って、仏法の状態を説いている。その第五の五百年が闘諍堅固といい、末法の初めとされる。「後の五百歳」は大集経の第五の五百歳にあたるとされている。

 

根本伝教大師

07670822)伝教大師のこと。韓は最澄、わが国天台宗の開祖であり、天台の理の一念三千を広宣流布して人々を済土させた。父は三津首百枝で先祖は後漢の孝献帝の子孫・登万貴王であるが日本を慕って帰化した。最澄は神護景雲元年(0767)近江国滋賀郡(滋賀県高島市)で生まれ、12歳で出家し、20歳で具足戒を受けた。仏教界の乱れを見て衆生救済の大願を起こし延暦7年(0788)比叡山に上り、根本中堂を建立して一心に修行し一切経を学んだ。ついに法華経こそ唯一の正法であることを知り、天台三大部に拠って弘法に邁進した。桓武天皇は最澄の徳に感じ、弱冠31歳であったが内供奉に列せしめた。その後、一切経論および章疏の写経、法華会の開催等に努めた。36歳の時高雄山において、桓武天皇臨席のもと、南都六宗の碩徳14人の邪義をことごとく打ち破り、帰服状を出させた。延暦23年(080438歳の時、天台法華宗の還学生として義真をつれて入唐し、仏隴道場に登り、天台大師より七代・妙楽大師の弟子・行満座主および道邃和尚について、教迹・師資相伝の義・一心三観・一念三千の深旨を伝付した。翌延暦24年(0805)帰朝の後、天台法華宗をもって諸宗を破折し、金光明・仁王・法華の三大部の大乗教を長講を行った。桓武天皇の没後も、平城天皇・嵯峨天皇の篤い信任を受け、殿上で南都六宗の高僧と法論し、大いに打ち破って、法華最勝の義を高揚した。最澄は令法久住・国家安穏の基盤を確固たらしめるため、迹門円頓戒壇の建立を具申していたが、この達成を義真に相承して、弘仁13年(082264日辰時、56歳にして叡山中書院において入寂。戒壇の建立は、死後7日目の611日に勅許された。11月嵯峨帝は「哭澄上人」の六韻詩を賜り、貞観8年(0856)清和帝は伝教大師と諡された。このゆえに、最澄を根本大師・叡山大師・山家大師ともいう。大師の著作のなかでとくに有名なのは、「法華秀句」3巻・「顕戒論」3巻・「註法華経」12巻・「守護国界章」3巻等がある。また、大師は薬師如来の再誕である天台大師の後身といわれ、50代桓武・51代平城・52代嵯峨と三代にわたる天皇の厚い帰依を受けて、像法時代の法華経広宣流布をなしとげ、輝かしい平安朝文化を現出せしめた。しかし、その正法は義真・円澄みまで伝わったのみで、慈覚・智証からは、まったく真言の邪法にそまってしまったのである。

 

正像稍過ぎ已て末法太だ近きに有り法華一乗の機今正しく是れ其の時なり

伝教大師の守護国界章巻上の下の文。「当今の人機、皆転変し、都て小乗の機無し。正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り。法華一乗の機、今正く是れ其時なり。何を以て知ることを得、安楽行品の末世法滅の時なることを」とある。

 

講義

薬王品には、法華経を月に、諸経を衆星に譬えて次のように記されている。

「又た衆の星の中に月天子は最も為れ第一なるが如く、此の法華経も亦復た是の如く、千万億種の諸の経法の中に於いて、最も為れ照明なり」。

本抄で、月の光と星の光の明るさについて述べられているのは、もとより地上の人間の眼に映ずる明るさをいわれている。

星と月自体の放つ光でいえば、月は自ら光を発しないでただ太陽の光を反射しているのであり、自ら光を発している無数の恒星や星団と比較にならない微少な存在である。しかし、地球上を照らす明るさでは、月光のほうが星の光よりも、はるかに大きい。この立場で、法華経を月に譬え、諸経を星に譬えたのである。

さて、仏法を知らずにいる一切衆生の生命の内面は、三惑の煩悩や十悪五逆の悪業の支配する暗闇に譬えられる。

それに対して、華厳経等の権教は、暗黒の夜空にかかる星のような光であり、そのようなかすかな光では、煩悩・悪業の闇を照破することは、とうてい、望みえないのである。

それに比べて、月ははるかに明るく天地を照らし出すことができるように、法華経は煩悩・悪業の闇を照破しゆくのである。

但し、月にも三日月、半月、満月と違いがあるように、信心の強弱によって差異がある。法華経を持っても、信心が浅く弱いのは、半月が暗夜を照らすようなものであるが、信心が深まり強くなってくると、満月が皓々と天地を照らしゆくように、煩悩・悪業を照破するのである。

次に、ちょうど、星だけで月の出ていない夜でも、若くて強健な人は歩けるが、老人や女性は危なくて歩けないという譬えを通して、星夜である諸経でも菩薩や勝れた機根の凡夫は成仏得道ができるが、二乗、女人、凡夫、悪人等は成仏できない。明るい月夜であれば老人や女性でも歩けるように、法華経によってはじめて、二乗、女人、悪人等も成仏できるのである。

さらに、同じ月でも春や夏の空気がかすみにおおわれている季節は光があわい。空気の澄んだ秋や冬は皓々と照る。同じように、同じ法華経であっても正法像法時は春、夏のように光が弱く、末法は秋、冬のように光が強くなるのである。

このように、末法こそ法華経の利益が全世界を照らすことを、法華経の薬王品と伝教大師の言葉を挙げて示されている。

ここは、一往、釈尊の法華経に約して月に譬えて述べられているが、その月を輝かせている太陽にあたるのが、日蓮大聖人が顕される三大秘法の南無妙法蓮華経であり、この大白法こそ、末法万年の闇を照らす太陽であることを知らなければならない。

 

 

 

第五章 日の譬えを示す

第四に日の譬は星の中に月の出でたるは星の光には月の光は勝るとも未だ星の光を消さず、日中には星の光消ゆるのみに非ず又月の光も奪いて光を失う、爾前は星の如く法華経の迹門は月の如し寿量品は日の如し、寿量品の時は迹門の月未だ及ばず何に況や爾前の星をや、夜は星の時月の時も衆務を作さず、夜暁て必ず衆務を作す、爾前迹門にして猶生死を離れ難し本門寿量品に至つて必ず生死を離る可し、余の六譬之を略す、 

 

現代語訳

第四に日の譬えは次のようである。星のなかに月が出たときは、星の光に対しては月の光は勝っているけれども、未だ星の光を消すことはない。日中には星の光が消えるだけでなく、また月の光も奪って、月は光を失ってしまう。爾前経は星のようであり、法華経の迹門は月のようなものである。寿量品は日のようなものである。寿量品に対するときは迹門の月でさえいまだ及ばない。まして爾前経の星が及ぶわけがない。夜は星が出ているときや月が出ているときでも人々は仕事をしない。夜が明けてから必ず人々は仕事をする。爾前経や法華経迹門でも、なお生死の苦しみを離れがたいのである。法華経本門寿量品に至って、必ず生死の苦しみを離れることができるのである。他の六つの譬えについては省略する。

 

語釈

爾前

爾前経のこと。爾の前の経の意で、法華経已前に説かれた諸経のこと。釈尊50年の説法中、前42年に説かれた諸経。

 

迹門

本門に対する語で、垂迹仏としての釈尊が説いた法門の意。天台大師は法華文句巻一上に、法華経を本迹二門に判別して、二十八品のうちの前半十四品、序品第一から安楽行品第十四までを迹門、後半の十四品、従地涌出品第十五から普賢菩薩勧発品第二十八までを本門とした。迹門の内容は、諸法実相、十如是の法門のうえから理の一念三千を説き、それまで衆生の機根に応じて声聞・縁覚・菩薩の各境界を修業の目的と説いた教法を止揚し、一切衆生を成仏させることにあるとしている。しかし釈尊が過去世の修行の結果、インドに出現して初めて成仏という、迹仏の立場であることは爾前と変わらない。

 

生死

生死はたんに「生」と「死」という意味以外に「生命」と訳す場合と「苦しみ」と訳す場合とがある。ともに生死・生死の流転輪廻という意味からきている。「生死即涅槃」の場合は、「苦しみ」。「生死一大事」の場合は「生命」となる。

 

本門

迹門では、諸法実相に約して理の一念三千を説き、成仏の理論的可能性を説くのに対して、本門では釈尊の久遠実成の本地を明かし、因・果・国に約して仏の振る舞いの上から事の一念三千が示されている。本門の中心となる如来寿量品第十六には、釈尊は爾前迹門に説いてきた始成正覚の考えを打ち破って、実は五百塵点劫という久遠の昔に成道していたことを明かし、しかも成道の根本原因・証果・本仏の住処の三妙を合わせて明かし、成仏の実義を説いている。

 

講義

薬王品の第四喩の日光喩は、次の如くである。

「又た日天子は能く諸の闇を除くが如く、此の経も亦復た是の如く、能く一切不善の闇を破す」

太陽の光が一切の闇をなくすように、法華経も、衆生の生命内在の闇を除去して、一切衆生を成仏させるというのである。この薬王品の日喩を、日蓮大聖人は、法華経の中でも本門寿量品の力をあらわしたものであるとされ、それに対して、先の月の光は、法華経迹門にあたるとされている。ただし、ここで「本門寿量品」といわれているのは、たんに文上の寿量品ではなく、大聖人の内証の寿量品である三大秘法の南無妙法蓮華経と拝すべきである。

結局、先の譬喩とこの日喩を総合して、爾前経を星の光、法華経迹門を月の光、本門寿量品即南無妙法蓮華経を日の光に譬えられたのである。

星の光と月光には勝劣はあっても、月光のために星の光が消されてしまうことはない。すなわち文上の法華経が弘まった像法時代には、爾前経もそれ相応に人々を利益したのである。しかし、文底の大仏法が流布する末法においては「余経も法華経もせんなし」(1546-11)であり、星である爾前経も、月である文上法華経もすべて衆生を利益する力を失うのである。

また、星や月の夜は道を歩くことはできても、仕事をすることはできない。太陽の光のもとではじめて、人々は種々の仕事をなすことができる。つまり、このことは本門寿量品の太陽が昇ってはじめて自在の境地を得ることができることをあらわしている。

 

 

 

第六章 如渡得船と如貧得宝を挙ぐ

此の外に又多くの譬此の品に有り、其の中に渡りに船を得たるが如しと此の譬の意は生死の大海には爾前の経は或は筏或は小船なり、生死の此岸より生死の彼岸には付くと雖も生死の大海を渡り極楽の彼岸にはとつきがたし、 例せば世間の小船等が筑紫より坂東に至り鎌倉よりいの嶋なんどへとつけども唐土へ至らず唐船は必ず日本国より震旦国に至るに障り無きなり又云く「貧きに宝を得たるが如し」等云云、爾前の国は貧国なり爾前の人は餓鬼なり法華経は宝の山なり人は富人なり。

  問うて云く爾前は貧国といふ経文如何答えて云く授記品に云く「飢えたる国より来つて忽ちに大王の膳に遇へるが如く」等云云、

 

現代語訳

このほかに、また多くの譬えがこの薬王品にある。そのなかに「向こう岸に渡ろうとするときに船を得たようなものである」というのがある。この譬えの意味は、爾前経は、生死の大海にあってあるいは筏、あるいは小船である。生死の此岸から生死の彼岸には着いても、生死の大海を渡って極楽の彼岸には着きがたい。例えば世間の小船等が九州から関東に到り、鎌倉から江の島などへと着いても、中国へは到らない、唐船は必ず日本国から中国へ到るのに支障がないようなものである。

また「貧しいときに宝を得たようなものである」等というのがある。爾前経の国は貧しい国である。爾前経の人は餓鬼である。法華経は宝の山であり、その人は富裕な人である。

問うて云う。爾前経は貧しい国であるという経文は、どうなっているのか。

答えていう。授記品第六に「飢えた国からやって来て、急に大王の食膳に遇ったようなものである」等といっている。

 

語釈

此岸

こちら岸の意で、煩悩・業・苦の迷いの境地をいう。彼岸に対する語。

 

生死の彼岸

彼方の岸の意。一般的には此岸に対して使われ、悟りの境地を表すが、ここでいう「生死の彼岸」とは「彼岸」と思っても、同じ迷い苦しみの世界の中を出ていないとの意。

 

極楽

西方十万億土を過ぎたところにあるとされる阿弥陀如来が住する浄土の名前。

 

筑紫

九州全体、もしくは九州北部。

 

坂東

関東地方。

 

いの嶋

鎌倉・片瀬海岸近くにある小島。江の島のこと。

 

唐土

中国のこと。日本から中国を呼んだ名称。現在の浙江省を中心に勢力をふるっていた越の地方をさして諸越といっていたのが、しだいに中国全土の呼称となり、唐王朝成立後「唐土」と書き、「もろこし」と読むようになったという。

 

震旦国

中国の歴史的呼称。梵名チーナ・スターナ(Cīna-sthān)の音写。真旦・真丹とも書く。中国人の住処の意。チーナ(Cīna)とは秦の音写。スターナ(sthān)とは地域・場所の意。古代インド人が秦(中国)をさした呼称。おもに仏典の中に用いられた。

 

餓鬼

梵語プレータ(Preta)の漢訳。常に飢渇の苦の状態にある鬼。大智度論巻三十には「餓鬼は腹は山谷の如く、咽は針の如く、身に唯三事あり、黒皮と筋と骨となり。無数百歳に、飲食の名だにも聞かず、何に況んや見ることを得んや」とある。

 

授記品

妙法蓮華経授記品第六のこと。法華経迹門の正宗分。迦葉・須菩提・迦旃延・目揵連の授記が説かれている。

 

講義

十喩は法華経という経典そのものが、他の諸経にくらべていかに勝れているかを譬えたものである。

薬王品では、十喩に引き続いて、法華経の絶妙な働きを示した譬喩が説かれている。少し長文であるが、全文を引用すると次のようである。

「此の経は能く大いに一切衆生を饒益して、其の願いを充満せしめたまう。清涼の池の能く一切の諸の渇乏の者を満たすが如く、寒き者の火を得たるが如く、裸なる者の衣を得たるが如く、商人の主を得たるが如く、子の母を得たるが如く、渡りに船を得たるが如く、病に医を得たるが如く、暗に灯を得たるが如く、貧しきに宝を得たるが如く、民の王を得たるが如く、賈客の海を得たるが如く、炬の暗を除くが如く、此の法華経も亦復た是の如く、能く衆生をして一切の苦・一切の病痛を離れ、能く一切の生死の縛を解かしめたまう」。

日蓮大聖人はここで、これらの譬喩のなかから二つの譬えを挙げられている。

まず「如渡得船」の譬を取り上げ、爾前経を筏や小船に譬え、法華経を唐船のような大船に譬えられている。その場合、海とは生死の苦しみがそれである。

生死の大海を渡るための船が経典であるが、爾前経は、筏や小船のようなもので、同じ日本の中の九州から本州とか、片瀬の海岸から江の島ぐらいは渡れるが、日本から中国大陸へ渡ることは不可能である。生死という迷いのなかでの現世的な利益はあっても、六道輪廻の外へ出ることはできない。

ところが、唐船すなわち、遠洋航海に耐えられる大きな船であってこそ、中国、インドにまで渡ることができる。同様に法華経という大船によってのみ、解脱、成仏の境地である彼岸にまで到ることができるのである。

「椎地四郎殿御書」にも「此の経を一文一句なりとも聴聞して神にそめん人は生死の大海を渡るべき船なるべし、妙楽大師云く『一句も神に染ぬれば咸く彼岸を資く、思惟・修習永く舟航に用たり』と云云、生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんば・かなふべからず」(1448:10)と仰せられている。

また「乙御前御消息」でも、小乗教を小船に、権大乗経を大船に、法華経を唐船にたとえられている。いうまでもなく、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経こそ、一切衆生を生死の大海を渡して成仏の彼岸に到着させうる「唐船」である。

次に「如貧得宝」の譬えでは、爾前の国は貧国であり、爾前経の人は貧人であり、餓鬼界の衆生であると述べられ、それに対して、法華経は宝の山のごとくであり、法華経を信受した人は富人であると仰せられ、その文証として、授記品の文を引用されている。

この受記品の文は、目連、須菩提、迦旃延等が釈尊に授記を請うて述べた言葉の中にあり、「成仏の授記をいただけるならば、甘露をもってそそぐことにより熱が除かれるようなものである。我々は飢えた国から来て、大王の膳に遇ったようで、王の教えによってはじめて食べられるように、仏は我々が作仏することを説かれたが、授記を与えていただいてはじめて快く安楽になれるであろう」というのである。

この言葉からも〝飢えた国〟が、法華経以前の経々であり、二乗の人々にとっては永不成仏と弾呵されてきたことをさすものであることは明瞭であろう。

二乗が成仏できないということは、十界互具の生命の法理からいって、他の一切の衆生も成仏できないということである。したがって、衆生の成仏を実現できない爾前経を信じている人は、なんの福徳も、生命の栄養も得られないのであるから、貧人であり餓鬼であると仰せである。

それに対して、無上の宝聚たる妙法は宝の山であり、この妙法を受持する人は最も富める人というべきである。ゆえに「日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども仏法を以て論ずれば一閻浮提第一の富る者なり」(0988:14)と言われるのである。

 

 

第七章 女人成仏の意義を説く

女人の往生成仏の段は経文に云く「若し如来の滅後・後の五百歳の中に若し女人有つて是の経典を聞いて説の如く修行せば此に於て命終して即ち安楽世界・阿弥陀仏の菩薩・大衆に囲遶せられて住する処に往いて蓮華の中宝座の上に生じ」等云云。

  問うて曰く此の経・此の品に殊に女人の往生を説く何の故か有るや、答えて曰く仏意測り難し此の義決し難きか但し一の料簡を加えば女人は衆罪の根本破国の源なり、故に内典・外典に多く之を禁しむ其の中に外典を以て之を論ずれば三従あり三従と申すは三したがうと云ふなり、一には幼にしては父母に従う嫁して夫に従う老いて子に従う此の三障有りて世間自在ならず、内典を以て之を論ずれば五障有り五障とは一には六道輪回の間男子の如く大梵天王と作らず二には帝釈と作らず三には魔王と作らず四には転輪聖王と作らず五には常に六道に留まりて三界を出でて仏に成らず超日月三昧経の文なり銀色女経に云く「三世の諸仏の眼は大地に堕落すとも法界の諸の女人は永く成仏の期無し」等云云、但し凡夫すら賢王・聖人は妄語せずはんよきといゐし者はけいかに頚をあたいきさつと申せし人は徐君が塚に剣をかけたりきこれ約束を違えず妄語無き故なり何に況や声聞・菩薩・仏をや、仏は昔凡夫にてましましし時小乗経を習い給いし時五戒を受け始め給いき五戒の中の第四の不妄語の戒を固く持ち給いき財を奪われ命をほろぼされし時も此の戒をやぶらず大乗経を習い給いし時又十重禁戒を持ち其の十重禁戒の中の第四の不妄語戒を持ち給いき、此の戒を堅く持ちて無量劫之を破りたまわず終に此の戒力に依て仏身を成じ三十二相の中に広長舌相を得たまえり、此の舌うすくひろくながくして或は面にををい或は髪際にいたり或は梵天にいたる舌の上に五の画あり印文のごとし其の舌の色は赤銅のごとし舌の下に二の珠あり甘露を涌出す此れ不妄語戒の徳の至す所なり、仏此の舌を以て三世の諸仏の御眼は大地に落つとも法界の女人は仏になるべからずと説かれしかば一切の女人は何なる世にも仏には成らせ給うまじきとこそ覚えて候へ、さるにては女人の御身も受けさせ給いては設ひ后三公の位にそなはりても何かはすべき善根・仏事をなしてもよしなしとこそ覚え候へ、而るを此の法華経の薬王品に女人の往生をゆるされ候ぬる事又不思議に候、彼の経の妄語か此の経の妄語かいかにも一方は妄語たるべきか、若し又一方妄語ならば一仏に二言あり信じ難し

 

現代語訳

女性の往生成仏が説かれている場面は経文に次のようにある。「もし如来の入滅ののち後の五百歳の世の中に、ある女性がいてこの経典を聞いて説かれているとおりに修行するならば、この世で命終えて即座に安楽世界という、阿弥陀仏が菩薩や大衆に囲まれて住している所に往って、蓮華のなかの宝座のうえに生じ」等と。

問うていう。この法華経の薬王品に特に女性の往生を説いているのは、どういう理由があるのか。

答えていう。仏の意は測りがたい。この意義は決めがたいのではなかろうか。ただし、一つの思索を加えてみれば、女性は諸の罪の根本であり、破国の源である。したがって仏教経典や外道の経典に多く女性を戒めている。そのなかに外道の経典でこれをとりたてていえば、三従がある。三従というのは、三つ従うということである。一つには幼いときには父母に従う。嫁いでは夫に従う。老いては子に従う。この三障があって世間で自由にならないのである。

仏教経典でこれを論ずれば、五障がある。五障とは、一には六道に輪廻しているあいだは男性のように大梵天王となることはない。二には帝釈とならない。三には魔王とならない。四には転輪聖王とならない。五には常に六道に留まっていて、三界を出離して仏になることはない。銀色女経には「三世の諸仏の眼は大地に堕ちても、一切の世界における諸の女性は永久に成仏のときはない」等といっている。

ただし、凡夫でさえ賢王や聖人は嘘をつかないものである。樊於期という者は荊軻に頸を与え、季札という人は徐の君主の墓に剣をかけた。これは約束を違えず、嘘をつかなかったからである。ましてや、声聞や菩薩や仏が嘘をつくはずがない。仏は昔、凡夫でいらっしゃったとき、五戒を受け始められた。五戒のなかの第四の不妄語戒を固く持たれた。財を奪われ、命をとられたときも、この戒を破られなかった。大乗経を習われたとき十重禁戒を持ち、その十重禁戒のなかの第四の不妄語戒を持たれた。この戒を堅く持って、無量劫の間これを破られなかった。ついに、この戒を持った力によって仏身を成就し、三十二相のなかに広長舌相を得られたのである。

この舌は薄く広く長くてあるいは顔面を覆い、あるいは髪際にまで到り、あるいは梵天にまで到る。舌のうえには五つの画があり、印文のようになっている。その舌の色は赤銅のようである。舌の下には二つの珠があり、甘露を涌き出す。これは不妄語戒を持った徳によってもたらされたところのものである。仏がこの舌で、三世の諸仏の御眼は大地に落ちても一切の世界の女性は仏になることはないと説かれたのだから、一切の女性はどのような世の中にも仏に成れることはないと思われる。そうであるならば女性の御身を受けられて、たとえ后や三后の位についたとしてもどうしようもないし、善根や仏道修行を行ってもかいがないと思われる。ところが、この法華経の薬王品に女人の往生が許されたことは、また不思議である。かの爾前経の妄語なのか、この法華経が妄語なのか、どうみても一方は妄語であるはずではないか。もしまた、一方が妄語であるならば一仏に二言あることになり、信じがたい。

 

語釈

宝座

仏・菩薩の座する場所。

 

料簡

思いめぐらし考えること。思索すること。

 

内典

仏教以外の経典を外典というのに対して、仏経典を内典という。

 

外典

仏経典以外の典籍。内典に対する語。

 

三従

女人は、幼くして親に従い、嫁いで夫に従い、老いて子供に従うとされ、ものとされ,家庭のなかにおける婦人の従属性を示す言葉。

 

五障

女性の五つの障害。五礙ともいう。法華経提婆達多品第十二の竜女成仏の段に、舎利弗が女人は法器に非ず等と歎じ、更に女人の五障を数えて成仏を難ずる文に「又た女人の身には猶お五障有り。一には梵天王と作ることを得ず。二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏身なり。云何んぞ女身は速かに成仏することを得ん」とある。

 

六道輪廻

衆生が三界六道の迷いの世界に生死を繰り返すこと。「六道」は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人界・天界。「輪廻」とどまることなくめぐり流れること。

 

大梵天王

梵語マハーブラフマン(Mahãbrahman)。色界四禅天の中の初禅天に住し、色界諸天および娑婆世界を統領している王のこと。淫欲を離れているため梵といわれ、清浄・淨行と訳す。名を尸棄といい、仏が出世して法を説く時には必ず出現し、帝釈天と共に仏の左右に列なり法を守護するという。インド神話ではもともと万物の創造主とするが、仏法では諸天善神の一人としている。

 

帝釈

梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indra)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。

 

魔王

第六天の魔王・他化自在天王のこと。欲界の天は六重あり、他化自在天はその最頂・第六にあるので第六天といい、そこに住して仏道を障礙する魔王を第六天の魔王という。大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。三障四魔のなかの天子魔にあたる。

 

転輪聖王

インド古来の伝説で武力を用いず正法をもって全世界を統治するとされる理想の王。七宝および三十二相をそなえるという。人界の王で、天から輪宝を感得し、これを転じて一切の障害を粉砕し、四方を調伏するのでこの名がある。その輪宝に金銀銅鉄の四種があって、金輪王は四州、銀輪王は東西南の三州、銅輪王は東南の二州、鉄輪王は南閻浮提の一州を領するといわれる。

 

三界

欲界・色界・無色界のこと。生死の迷いを流転する六道の衆生の境界を三種に分けたもの。欲界とは種々の欲望が渦巻く世界のことで、地獄界・餓鬼界・修羅界・畜生界・人界と天界の一部、六欲天をいう。色界とは欲望から離れた物質だけの世界のことで、天界の一部である四禅天をさす。無色界とは欲望と物質の制約を超越した純然たる精神の世界のことで、天界のうちの四空処天をいう。

 

超日月三昧経

超日明三昧経のことと思われる。二巻。西晋代の聶承遠訳。内容は四等や四恩などを説き、最後に超日明三昧の功徳の勝れることを明かしている。なお、超日明三昧経巻下に「何を五礙と謂う。一には女人、帝釈と作ることを得ずと曰う……二には梵天と作ることを得ずと曰う……三には魔天と作ることを得ずと曰う……四には転輪聖王と作ることを得ずと曰う……五には女人、仏と作ることを得ずと曰う」とある。

 

はんよき

(~前0227)。中国戦国時代の武将。史記列伝第二十六によると、初め秦の将軍であったが、罪を着せられたため燕に亡命した。燕の太子丹は彼を礼遇した。丹は秦王の政を怨んでいたので、刺客として荊軻を送って殺そうと計った。すると荊軻は、秦王に取り入るためには樊の首と燕の督亢の地図を献上することが必要であると説いた。それを聞いた樊は丹への報恩と秦王への仇を果たそうと、即座に自らの首をはねたという。

 

けいか

(~前0227)。中国戦国時代の刺客。燕の太子丹に、かつて丹が人質として捕らえられていた秦王政を刺殺するよう頼まれた。秦都咸陽で秦王政と会見し、地図の中に隠した短刀で王を殺そうとしたが果たせず、逆に殺された。

 

きさつ

(前0561頃~前0515頃)。中国春秋時代の呉の賢人。晋を訪問する途中、徐の国を通過しようとしたとき、徐の君主が季札の身につけている宝剣を欲しがっているのを知り、帰りに贈ろうと心に誓った。ところが、帰途に訪れたときには既に徐君は亡くなっていた。そこで徐の跡継ぎの君主に贈ろうとしたが、君主は受けようとしなかったので、心の誓いを果たすため、剣を徐君の墓の樹にかかげ置いて去ったという。

 

徐君

中国春秋時代の徐の国の君主。

 

声聞

十界の一つで縁覚と合わせて二乗という。仏の教える声を聞いて悟る人をいい、小乗教の理想ではあるが、利己主義に陥るため、権大乗教では徹底的に弾呵され、煎る種のごとく、二度と成仏の芽を出すことがないと言われた。法華経にいたって、舎利弗・迦葉・迦旃延・富楼那等、声聞の十大弟子が得道する。そして歓喜した四大声聞の領解の文を開目抄には「我等今は真に是れ声聞なり仏道の声を以て一切をして聞かしむ我等今は真に 阿羅漢なり緒の世間・天人・魔・梵に於て普く其の中に於て・応に供養を受くべし」とあり、真の声聞とは、仏の弟子として、仏の教え、精神を民衆に聞かせ、後世に残していく人である。

 

小乗経

仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。

 

五戒

小乗教で、八斎戒とともに俗男俗女のために説かれた戒。一に不殺生戒、二に不偸盗戒、三に不妄語戒、四に不邪淫戒、五に不飲酒戒をいう。この五戒をよく持つ者は、主君、父母、兄弟、妻子、世人に信任され、賛嘆され、身心安穏であって善を修するのに障りが少ない。死んでは、また人に生まれ、慶幸をうけることができるという。

 

不妄語

偽りの言葉をいわないこと。うそをつかないこと。

 

大乗経

仏教を二つに大別したうちの一つ。自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の教えを小乗というのに対して、広く衆生を救済するために利他行としての菩薩道を説き、それによって成仏すると教えた法。乗は運載の義で、衆生の迷いの彼岸から、悟りの彼岸に運ぶための教法を乗り物にたとえたもの。大乗の大とは広大、無限、最勝を意味し、小乗に比べ、多くの人を彼岸に運べる優れた乗り物で大といった。天台大師の教判では華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃時の経教が大乗にあたる。

 

十重禁戒

大乗経典である梵網経などに説く十種の重大な禁戒のこと。これを犯すと教団から追放され

①快意殺生戒(不殺生戒)

②劫盗人物戒(不盗戒)

③無慈行欲戒(不淫戒)

④故心妄語戒(不妄語戒)

⑤酤酒生罪戒(不酤酒戒)

⑥談他過失戒(不説過罪戒)

⑦自讃毀他戒(不自讃毀他戒)

⑧慳生毀辱戒(不慳戒)

⑨瞋不受謝戒(不瞋戒)

⑩毀謗三宝戒(不謗三宝戒)

 

無量劫

量り知れないほどの長い期間。「無量」は無限の意。「劫」は長遠の時間。長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を劫としている。(他説あり)。

 

三十二相

応化の仏が具えている三十二の特別の相をいう。八十種好とあわせて仏の相好という。仏はこの三十二相を現じて、衆生に渇仰の心を起こさせ、それによって人中の天尊、衆星の主であることを知らしめる。三十二相に八十種好が具り円満になる。大智度論巻四による三十二相は次の通りである。

1 足下安平立相(足の下が安定して立っていること。足裏の全体が地について安定している)

2 足下二輪相(足裏に自然にできた二輪の肉紋があり、それは千輻が放射状に組み合わさって車の輪の相を示していること)

3 長指相(指が繊細で長い)

4 足跟広平相(足の踝が広く平らかであること)

5 手足縵網相(手足の指の間に水かきがあり、指をはればあらわれ、張らなければあらわれないこと)

6 手足柔軟相(手足が柔らかいこと。皮膚は綿で編んだように微細である)

7 足趺高満相(足の甲が高いこと)

8 伊泥延膊相(膝・股が鹿の足のように繊細で引き締まっていること)

9 正立手摩膝相(立てば手で膝をさわることができること)

10 隠蔵相(陰部がよく整えられた馬のように隠れてみえないこと)

11 身広長等相(インド産の無花果の木のように、体のタテとヨコが等しいこと)

12 毛向上相(身体の諸の毛がすべて上に向いてなびくこと)

13 一一孔一毛生相(一つ一つの孔に一毛が生ずること。毛は青瑠璃色で乱れず右になびいて上に向かう)

14 金色相(皮膚が金色をしていること)

15 丈光相(四辺にそれぞれ一丈の光を放つこと)

16 細薄皮相(皮膚が薄く繊細であること。塵や土がその身につかないことは、蓮華の葉に塵水がつかないのと同じである)

17 七処隆満相(両手・両足・両肩・頭の頂の七処がすべて端正に隆起して、色が浄いこと)

18 両腋下隆満相(両脇の下が平たく隆満しており、それは高すぎることもなく、また下が深すぎることもない)

19 上身如獅子相(上半身が獅子のように堂々と威厳があること)

20 大直身相(一切の人の中で、身体が最も大きく、またととのっていること)

21 肩円好相(肩がふくよかに隆満していること)

22 四十歯相(歯が四十本あること)

23 歯斉相(諸の歯は等しく、粗末なものはなく、小さいもの・出すぎ・入りすぎや隙間のないこと)

24 牙白相(牙があって白く光ること)

25 獅子頬相(百獣のように獅子のように、頬が平らかで広いこと)

26 味中得上味相(食物を口に入れれば、味の中で最高の味を得ることができること)

27 大舌相(広長舌相ともいう。舌が大きく、口に出せば顔の一切を覆い、髪の生え際にいたること、しかも口の中では口中を満たすことはない)

28 梵声相(梵天王の五種の声のように、声が深く、遠くまで届き、人の心の中に入り、分かりやすく、誰からもきらわれないこと)

29 真青眼相(良い青蓮華のように、目が真の青色であること)

30 牛眼睫相(牛王のように、睫が長好で乱れないこと)

31 頂髻相(頭の頂上が隆起し、拳が頂上に乗っていること)

32 白毛相(眉間のちょうどいい位置に白毛が生じ、白く浄く右に旋って長さが五尺あり、そこから放つ光を亳光という)

 

広長舌相

仏の三十二相の一つ。古代インドでは、言う所が真実であることを証明するのに舌を出す風習があり、舌が長ければ長いほど、その言説が真実であることの確かな証明とされた。ゆえに広長舌相は虚妄のないことを表す。

 

梵天

仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。

 

印文

浮き出てか、または、くぼんでいる文様。

 

甘露

①梵語のアムリタ (amta)で不死・天酒のこと。忉利天の甘味の霊液で、よく苦悩をいやし、長寿にし、死者を復活させるという。②中国古来の伝説で、王者が任政を行えば、天がその祥瑞として降らす甘味の液。③煎茶の上等なもの④甘味の菓子。

 

三公

三后のことと思われる。三后は、皇后、皇太后、太皇太后をいう。

 

善根

善い果報を招くべき善因。根とは結果を生ずべき因。題目を上げること、折伏・弘教への実践活動が最高のである。一生成仏抄には「然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり(0383:14)とある。

 

講義

薬王品のなかに説かれていることで、法華経がすぐれることを示すものとして、女人の極楽往生が取り上げられている。そして、この法華経の薬王品で女人の往生がなぜ説かれたのかの意義を示されるのである。

この点について述べられているところを概括していえば、外典には三従、内典では五障が説かれ、爾前経では女人は絶対に成仏できないとされてきた。そもそも釈尊は不妄語の人とされるから、この女人不成仏の説は、きわめて強い圧迫感を与えたのである。

しかし、法華経の開経である無量義経で「四十余年未顕真実」と、爾前経はまだ真実を顕していないことを断わり、真実を説くとされた法華経では、女人も成仏できることが示されたのである。爾前経で不成仏と説かれたのは、ふびんな子を教育するために賢人が設ける方便と同じであって、不妄語戒に背くことにはならない、ということである。

 

外典の三従・内典の五障

 

インドや中国の文化においては、概して禁欲を説いた教えが重んじられ、そのため、女性を遠ざけようとする教えが、一つの流れを作ってきたといえる。

そのなかで外典では、三従が説かれ、女性を従属的な位置に閉じこめようとした。幼くしては父に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従うのが、女性のあるべき姿であると教えたのである。これは、社会的に従属的な位置におこうとしたものである。

一方、内典の仏教経典では、五障を説いている。すなわち、女性は、大梵天王、帝釈、魔王、転輪聖王、仏の五つには成ることができないというのである。梵天、帝釈、魔王は天界における王の立場であり、転輪聖王は人界における最高の王位、仏は十界の一切衆生の中の王である。五障は、指導的な尊高な境界になることはできないと教えて、その向上心を抑えようとしたものといえよう。

銀色女経は、この五障の一つにあり、本抄のこの段での主題である女人の成仏の可・不可の問題に関して、不成仏を説いた代表的な文として挙げられたのである。

むしろ、ここで起こる疑問は、なぜ爾前経で女人不成仏と説かれたのか、ということであろう。それは、爾前経自体がきわめて困難な、長期にわたる修行を必要としたため、女性には実践が不可能であったからであり、さらにいえば、爾前教が一切衆生を成仏せしめんとする仏の大慈悲をそのまま顕した法ではないことを示しているといえよう。

爾前教が女人等の不成仏を説いたが故に、一転して女人も二乗・悪人も成仏できることを明かした法華経の勝れていることが際立って示されているのである。この一事をもってしても、法華経を捨てて爾前経を信ずることの愚かさは一目瞭然といわなければならない。

 

提婆品の即身成仏と薬王品の極楽往生

 

それに対して、法華経では、提婆達多品に八歳の竜女が法華経の会座に詣でて、仏前で即身成仏したことが説かれ、また、この薬王品には「如来の滅後、後の五百歳」の女人が「是の経典を聞いて説の如く修行」するならば「命終して即ち安楽世界・阿弥陀仏の菩薩・大衆に囲遶せられて住する処に往いて蓮華の中宝座の上に生」ずるであろうと女人の安楽世界往生が説かれているのである。

ただし、この文にある安楽世界、阿弥陀仏と観経などのそれとは違うことを知らなければならない。法華初心成仏抄に「又安楽世界と云うは一切の浄土をば皆安楽と説くなり」(0554:12)と仰せのように、一切の浄土の通称なのである。

阿弥陀仏についても、観経の阿弥陀仏と法華経本迹二門の阿弥陀仏を立て分けて、同抄に次のように述べられている。

「又阿弥陀と云うも観経の阿弥陀にはあらず、所以に観経の阿弥陀仏は法蔵比丘の阿弥陀・四十八願の主十劫成道の仏なり、法華経にも迹門の阿弥陀は大通智勝仏の十六王子の中の第九の阿弥陀にて法華経大願の主の仏なり、本門の阿弥陀は釈迦分身の阿弥陀なり随つて釈にも『須く更に観経等を指すべからざるなり』と釈し給へり」(0554:13)。

つまり、薬王品に示す本門の阿弥陀仏は、久遠の釈尊の分身の一仏なのである。このように、安楽世界も阿弥陀仏も、観経と法華経とでは明らかに違っているのである。

女人往生抄でも「一処には後五百歳の女人の法華経を持て、大通智勝仏の第九の王子阿弥陀如来の浄土、久遠実成の釈迦如来の分身の阿弥陀の本門同居の浄土に往生すべき様を説かれたり」と仰せられている。

したがって、安楽世界へ往生するということも、念仏宗などでいうのとは全く異なる。「法華初心成仏抄」でも、この薬王品について「加様に内典・外典にも嫌はれたる女人の身なれども此の経を読まねども・かかねども身と口と意とにうけ持ちて殊に口に南無妙法蓮華経と唱へ奉る女人は在世の竜女・憍曇弥・耶輸陀羅女の如くに・やすやすと仏になるべしと云う経文なり」(0554:10)と仰せのように、末法の女人が妙法を唱えることによって即身成仏することであり、娑婆即寂光土と転ずることを安楽世界へ往生すると説かれているのである。

 

 

第八章 権教の女人往生を破す

但し無量義経の四十余年には未だ真実を顕さず涅槃経の如来には虚妄の言無しと雖も若し衆生虚妄の説に因ると知しめすの文を以て之を思えば仏は女人は往生成仏すべからずと説かせ給いけるは妄語と聞えたり、妙法華経の文に世尊の法は久くして後に要ず当に真実を説くべし妙法華経乃至皆是真実と申す文を以て之を思うに女人の往生成仏決定と説かるる法華経の文は実語不妄語戒と見えたり、世間の賢人も但一人ある子が不思議なる時或は失ある時は永く子為るべからざるの理・起請を書き或は誓言を立ると雖も命終の時に臨めば之を許す、然りと雖も賢人に非ずと云わず又妄語せる者とも云わず仏も亦是くの如し、爾前四十余年が間は菩薩の得道凡夫の得道・善人・男子等の得道をば許すやうなれども、二乗・悪人・女人なんどの得道此れをば許さず或は又許すににたる事もあり、いまだ定めがたかりしを仏の説教・四十二年すでに過ぎて八年が間・摩謁提国王舎城・耆闍崛山と申す山にして法華経を説かせ給うとおぼせし時先づ無量義経と申す経を説かせ給ふ無量義経の文に云く四十余年云云。

        月 日                         日蓮花押

 

現代語訳

ただし、無量義経の「四十余年間には、未だ真実を顕していない」や涅槃経の「如来には虚妄の言葉はないけれども、もし衆生が虚妄の説によって法利を得ると知ると」との文からこれを考えると、仏が女性は往生成仏することはできないと説かれたのは妄語と思われる。妙法蓮華経の文に「世尊の法は久しくしてから後に必ず真実を説くであろう」、「妙法華経皆、真実である」という文からこれを考えると、女性の往生成仏は確かであるとお説きになっている法華経の文は実語であり不妄語であると思われる。

世間の賢人もただ一人の子が非常識なときや、あるいは罪科がある時は、永久に我が子ではないということの説明を起請文に書き、あるいは誓言として立てても、命終える時に臨めばこれを許す。しかしながら、賢人ではないとはいわない。また嘘つきの者ともいわない。仏もまた同様である。

爾前経が説かれた四十余年間は、菩薩の得道や凡夫の得道、善人や男子等の得道を許すようだけども、二乗や悪人や女性などの得道を許していない。あるいはまた、許しているようなところもある。いまだ決定しがたかったのを、仏の説教が四十二年を経過して八年の間、摩謁提国王舎城の耆闍崛山という山において法華経を説かれようとされたとき、まず無量義経という経を説かれた。無量義経の文には「四十余年……」とあるのである。

月  日            日 蓮  花 押

 

語釈

無量義経

一巻。蕭斉代の曇摩伽陀耶舎訳。法華経の開経とされる。内容は無量義について「一法より生ず」等と説き、この無量義の法門を修すれば無上正覚を成ずることを明かしている。

 

四十余年には未だ真実を顕さず

無量義経説法品の文。釈迦50年の説法のうち、初めの42年の教えは方便権教で、真実をあらわさない教えであり、最後の8年間の法華経で真実を説くとの意。40余年の爾前経を打ち破り、法華経を説くための重要な文である。

 

如来には虚妄の言無しと雖も若し衆生虚妄の説に因ると知しめす

大般涅槃経巻15には「如来には虚妄の言無しと雖も、若し衆生虚空の説に因って法利を得ると知れば、宣きに随って方便則ち為に之を説く」とある。

 

妙法華経皆是真実

法華経見宝塔品第十一に「善き哉、善き哉。釈迦牟尼世尊は、能く平等大慧、菩薩を教うる法にして、仏に護念せらるる妙法華経を以て、大衆の為めに説きたまう。是の如し、是の如し。釈迦牟尼世尊の説きたまう所の如きは、皆な是れ真実なり」とある。この文は、釈尊の説いた法華経が真実であることを宝塔の中から多宝如来が讃歎し、証明していった言葉。

 

起請

祈請文のこと。神仏に誓いを立てて、自分の行為、言説に偽りがないことを表明した文書・誓紙・厳守すべき事項を記した前書き部分と、もしこれに違背すれば神仏の罰を受ける旨を記した神文からなるもの。

 

摩謁提国

インド古代の王国、マガダ(Magadha)国のこと。現在のインド・ビハール州南部。仏教に関係の深い王舎城や霊鷲山はこの地にあった。

 

王舎城

古代インド、摩掲陀国の首都。現在のビハール州南部のパトナ県ラージギルにあたる。インド最古の都の一つで、仏教の外護者として著名なシャイシュナーガ朝ビンビサーラ王が建設したと伝えられる。付近には霊鷲山、提婆達多が釈尊を傷つけた所、七葉窟、竹林精舎、祇園精舎などの仏教遺跡が多い。王舎城の故事については法華文句巻第一上、西域記などにある。

 

耆闍崛山

「耆闍」は梵語グリドゥフラータ(Gdhrakūa)といい、鷲頭・霊鷲と訳す。霊鷲山のこと。中インドの摩竭提国の首都・王舎城の東北にある山。釈尊の説法の地として知られている。

 

講義

女人不成仏を説いた爾前経と女人成仏を説いた法華経と、どちらが真実であるかについて、無量義経等の言葉を示して、法華経の方をとるべきであると教えられている。

涅槃経の文は、衆生が虚妄の説によっても、一つの考え方のカラを破りうると知った場合、仏は方便の説を用いるということである。「之を思えば仏は女人は往生成仏すべからずと説かせ給いけるは妄語と聞えたり」とは、女人不成仏の爾前の説も、そうした方便の教えであるということである。

それに対して「世尊の法は久しくして後に要ず当に真実を説くべし」「妙法華経乃至皆是真実」と断言された法華経の女人の往生成仏こそ真実であり、不妄語であることを確信していくよう御教示されている。

爾前教が方便説であり妄語だからといって、釈尊が妄語の人になるわけではないことを、世間の賢人にたとえをとって述べられている。

 

爾前四十余年が間は……二乗・悪人・女人なんどの得道此れをば許さず或は又許すににたる事もあり

 

爾前経には、これまで述べてきたように、女人の成仏は基本的に否定されているが、一部に女人成仏の説がないわけではない。

日寛上人は、「法華経題目抄文段」で、法華文句巻七上の「他経には但だ菩薩に記して二乗に記せず、但だ善に記して悪に記せず、但だ男に記して女に記せず、但だ人天に記して畜に記せず」の文について、次のような問答をもって説明されている。

「問う、他経は実に二乗作仏の文なし。この義はこれを疑うべきに非ず。但し他経の中にも悪人・女人・竜畜の授記は分明なり。謂く、普超経の闍王の授記、大集経の婆薮天子の授記、豈悪人の授記に非ずや。勝曼経の離垢施女、般若経の恒河天女は即ちこれ女人の授記なり。海竜王経の竜女の授記、師子月経の獼猴の授記、これはこれ竜畜の記なり。大師、何ぞ『悪に記せず、女に記せず、畜に記せず』等というや。

答う、東陽の忠尋の口伝に云く『他経に悪人を記すとは、実には善人に記すと習うなり。其の故は悪人、悪心を翻じて善人と成る。後に成仏すべき故に善人を記するの義なり』已上。女人も例して爾なり。謂く、謟曲の心を改めて正直の心と成り、後に成仏すべし。竜畜もまた例するなり。謂く、心を改め身を転じて後に成仏すべきなり。故に皆これ改転の成仏なり。故に知んぬ。他経の悪人・女人・竜畜の授記は、畢竟してこれを論ずれば善人・男子・人天の授記なることを。故に『悪に記せず、女に記せず』等というなり」。

この御文に明らかなように、他経に示す女人成仏は、女人の成道を許すようではあるが、改転の成仏であるゆえに真の女人成仏を許したことにはならないのである。

また、爾前経における授記は十界互具・一念三千を説かないゆえに菩薩や男子の場合でも、有名無実の虚妄の授記である。

このように言葉はあっても実義がない爾前経の女人・二乗・悪人の成仏であるゆえに「いまだ定めがたかりし」といわれ、そうした爾前経を根本としてはならないと戒めて、無量義経には「四十余年未だ真実を顕さず」と明確に示されたのである。釈尊自身が、このようにはっきりと断わられているのであるから、爾前経の信心の依り所とすることの誤りは明らかであり、法華経を根本とすべきであることはいうまでもないところであろう。

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