上野殿御返事(塩一駄供養の事)

上野殿御返事(塩一駄供養の事)

 弘安元年(ʼ78)9月19日 57歳 南条時光

 塩一駄・はじかみ、送り給び候。
金多くして日本国の沙のごとくならば、誰かたからとしてはこのそこにおさむべき。餅多くして一閻浮提の大地のごとくならば、誰か米の恩をおもくせん。
今年は正月より日々に雨ふり、ことに七月より大雨ひまなし。このところは山中なる上、南は波木井河、北は早河、東は富士河、西は深山なれば、長雨・大雨、時々日々につづくあいだ、山さけて谷をうずみ、石ながれて道をふせぐ。河たけくして船わたらず、富人なくして五穀ともし。商人なくして人あつまることなし。七月なんどは、しお一升をぜに百、しお五合を麦一斗にかえ候いしが、今はぜんたいしおなし。何をもってかかうべき。みそもたえぬ。小児のちをしのぶがごとし。
かかるところに、このしおを一駄給びて候御志、大地よりもあつく、虚空よりもひろし。予が言は力及ぶべからず。ただ法華経と釈迦仏とにゆずりまいらせ候。事多しと申せども、紙上にはつくしがたし。恐々謹言。
弘安元年九月十九日    日蓮 花押
上野殿御返事

 

現代語訳

塩一駄、ショウガをお送りいただいた。

黄金が多くて、日本国の砂のようであったならば、誰が宝として筐の底に大切に納めておくであろうか。餅が多くて、一閻浮提の大地のようであったならば、だれが米の恩を尊く思うであろうか。

今年は正月から毎日雨が続き、とくに七月に入ってからは大雨がひまなく降り続いている。ここは山中であるうえに、南には波木井河、北には早河、東には富士河が流れ、西は深い山になっているので、長雨や大雨が日々続いているため、山が裂けて谷を埋め、石が流れて道を塞いでいる。河の水の勢いが激しくて船も渡ることができない。富める人がいないので五穀も乏しく、商人がこないので人の集まることもない。

そのため、七月などは、塩一升を銭百文、塩五合を麦一斗と取り換えたが、今は塩も全くなくなり、何をもっても買うことができない。味噌もなくなってしまった。小児が乳を慕うような思いであった。

このようなところに、この塩一駄をお送りくださった御志は、大地よりも厚く、大空よりも広く、とても我が言葉では言いあらわすことはできない。ただ法華経と釈迦仏にお譲りするだけである。申し上げたいことは多くあるが、手紙では尽くし難い。恐恐謹言。

弘安元年九月十九日          日 蓮  花 押

上野殿御返事

語句の解説

一駄

馬一頭に負わせる荷物の量。馬は古くから荷役に使われてきたが、中世に交通上の要地に馬借が活躍していたころには、通例一頭で二十五、六貫の荷物を運んだようである。

 

はじかみ

生姜の別称。生薑、薑、生姜などと書く。歯蹙の義、辛味が強く、歯に疼く意であるという。

 

一閻浮提

閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。

 

早川

山梨県南巨摩郡早川町を流れる川。白根山・鳳凰山を境に源を発し冨士川に合流する。

 

冨士河

冨士川のこと。山梨県釜無川・笛吹川を源流とし、甲府盆地の水を集め、富士山西麓を南下して駿河湾にそそぐ川。全長129㌔。日本三大急流のひとつ。

 

五穀

主食として用いられた五種類の穀物。米・麦・粟・黍・豆。

講義

本抄は、弘安元年(1278919日に、日蓮大聖人が身延で執筆され、南条時光に与えられた御消息で、御真筆は現存しない。

内容は、南条家より塩一駄が御供養されたのに対し、身延は春以来の長雨で交通も途絶えがちで、とくに塩がなくて困窮していたことを述べられて謝意を述べ、供養の志を讃えられている。

弘安元年の甲斐国身延周辺では、年頭から気候が不順だったようで、とくに7月には大雨が降り続いて、山と川に囲まれた地形のために増水や土砂崩れで交通が途絶しがちとなり、そのために身延の御草庵では生活物資や食料にも事欠くありさまだったのである。

なかでも、調味料として必需品だった塩が極端に欠乏したために価格が暴騰し「七月なんどは・しほ一升を・ぜに百・しほ五合を麦一斗にかへ候しが・今はぜんたい・しほなし」というありさまだったのである。

当時の物価の記録を見ると、凶作の年を除いて米一石が一貫文前後というのが大体の標準だったようである。

鎌倉時代の塩の価格の記録は見当たらないが、平安時代には塩は米の半価であり、当時もそれほど変わらないと思われるので、米がふつう一升十文なら塩は一升五文ということになる。そうすると「塩一升が百文」というのは通常の20倍という異常な高値だったことになる。

塩は調味料としてだけでなく、人間が生命を維持していくために必要不可欠なものである。物々交換の時代には、塩が貨幣の役割を果たしていたこともあり、支配者や寺院では塩を貢物や供物として納入させていた。鎌倉時代の公家や武士の食膳には、塩は酢とともに小皿にもって必ず添えられていたという。

日本での古い製塩法は、海藻に海水をふりかけて乾燥させ、その海藻を焼いて塩をとる方法だった。万葉集にはその光景を「朝凪に 玉藻刈りつつ 夕凪に 藻塩焼きつつ 海少女ありとは聞けど 見に行かむ」とうたっていることから、奈良時代にすでにそのような製塩法が行われていたのである。塩田のはじまりは足利時代の乾元年間というから、大聖人御在世当時はまだ海藻を焼く製塩法が行われていたと考えられる。

南条家から御供養された塩は、とくに注文したものか、あるいは駿河湾沿岸の信徒が心をこめて精製したものだったかもしれない。または、駿河に隣接する三河・尾張(愛知県)は古くからの塩の産地だったことから、そのあたりから上質の塩を入手して御供養したとも考えられる。

なお、南条家からはこの時だけではなく、建治2年(12763月、弘安2年(12798月、弘安4年(12819月、弘安5年(1282)正月にも塩を御供養したことが御書に記されていることから、毎年、ほぼ定期的に塩二俵程度を身延へお届けしていたようである。

ともあれ、前述のように、とくに交通途絶で困窮されていたこの時に、「かかるところに・このしほを一駄給びて候御志・大地よりもあつく虚空よりもひろし」と仰せになり、大聖人の御生活に、常に心を配る南条時光の真心を、大聖人は最大にめでられているのである。

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