土籠御書

 日蓮は、明日、佐渡国へまかるなり。今夜のさむきにつけても、ろうのうちのありさま思いやられて、いたわしくこそ候え。あわれ、殿は法華経一部を色心二法共にあそばしたる御身なれば、父母六親、一切衆生をもたすけ給うべき御身なり。法華経を余人のよみ候は、口ばかりことばばかりはよめども心はよまず。心はよめども身によまず。色心二法共にあそばされたるこそ貴く候え。「天の諸の童子は、もって給使をなさん。刀杖も加えず、毒も害すること能わじ」と説かれて候えば、別のことはあるべからず。
 籠をばし出でさせ給い候わば、とくとくきたり給え。見たてまつり、見えたてまつらん。恐々謹言。
  文永八年辛未十月九日    日蓮 花押
 筑後殿

 

現代語訳

日蓮は明日、佐渡の国にいくこととなった。今夜の寒さにつけても、年の内のありさまが、思いやられて、いたわしくてならない。あっぱれなあなたは、法華経一部を色心二法にわたって読まれたのであるから、その功徳で父母、六親、一切衆生をも救済すべき御身である。他の人々が、法華経を読んではいるが、口ばかり、意味のうえだけで読んでも、心では読まない。あなたのように色心の二法にわたって法華経をよまれてこそ、まことに尊いことである。安楽行品には「天の諸の童子、以って給仕を為さん。刀杖も加えず、毒も害すること能わじ」と説かれているのであるから、必ず諸天が守られ、特別のことはないであろう。籠から出られたならば、速やかに(佐渡へ)こられるがよい。互いの無事な姿をみたいと思います。

 

語釈

佐渡の国

新潟県の佐渡島のこと。神亀元年(0724)遠流の地と定められ、承久3年(1221)には順徳天皇も流されている。大聖人の流罪は文永8年(127110月~文永11年(12743月までである。

 

法華経一部

法華経一部八巻28品のこと。

 

色心二法

色とは肉体・物質をいい、心とは精神をいう。色心二法とは生命のこと。

 

六親

妻(夫)・父母・子供・兄弟等。一般には六親等までの血縁者。

 

天諸童子・以為給使・刀杖不加毒不能害

法華経安楽行品第14に「天の諸の童、子以て給使を為さん。刀杖も加えず、毒も害すること能わず」とある。

 

越後殿

日朗のこと。(12451320)大国阿闍梨・筑後房ともいう。寛元3年(124548日、下総国海上郡能出(千葉県匝瑳市能手)に生まれ、幼名を吉祥麿といった。父は平賀二郎有国といい、平賀千家の一族で、母は因東祐昭の女、有国の没後、平賀忠晴と再婚し、日像・日輪をもうけている。日朗は建長6年(1254)、10歳の時、父の有国と共に日蓮大聖人に会って帰依し、日昭のもとで得度した。文永8年(12719月の竜の口法難の際には日心と共に土牢に投ぜられ、日蓮大聖人から103日に五人土籠御書を、109日には土籠御書を頂いている。弘安2年(12791020日、大聖人は日朗・池上宗仲両人に対して両人御中御書を与えられている。大聖人御入滅後は、日興上人に違背し、大聖人の墓所輪番制にも応ぜず、100ヵ日忌法要の時、身延に登山したものの、御廟所の立像仏を持ち去っている。弘安6年(1283)7月ごろに池上に長栄山本門寺を建立、大聖人を開山として自らは第2代となった。同8年(1285)天台沙門と名乗って公所に申状を提出し、師敵対の行為をとった。また、延慶2年(13091月に四長四本山を一寺としている。晩年に至って富士に来山したことが五人所破見聞に記されている。文保2年(13181023日に、本迹口決を竜華院日像に送り、元応2年(1320121日、池上にて死去。その後日朗門下は池上本門寺と鎌倉比企ヵ谷妙本寺を中心に弘教した。日朗門下には日像を中心に日輪・日善・日範・日伝・日印・日行・日澄・朗慶等がいる。「本迹見聞如天甘露抄」「五時系図」「本尊明鏡抄」等の著作がある。大国阿闍梨は日朗の号。

 

講義

本抄は日蓮大聖人が佐渡の配所へ出立される前夜、すなわち文永8年(1271109日に厚木市依知町の本間六道左衛門の邸でしたためられ、鎌倉の宿屋光則邸内の土牢に幽閉されている、弟子筑後房日朗に送られたものである。内容は、明日佐渡の島へ出発することを告げ、牢中の寒気の厳しさを思いやって満腔の同情をそそがれ、法華経を身口意の三業、色心の二法にわたって読誦する功徳を称揚されている。そして法華経の安楽行品の中の一文を挙げて、かならず諸天の加護があるから、この先は、いかなることがあろうとも身は安泰であることを示し、後日の対面を期待されている。

 

法華経一部を色心二法共にあそばしたる御身なれば・父母・六親・一切衆生をも・たすけ給うべき御身なり

 

法華経を色心二法共に読むということは、法華経を文字どうり全生命に体得すすることであり、成仏の直道である。すなわち、わが身の未来成仏を決定づけたことになる、との仰せである。

わが身が成仏するならば、父母・六親といった有縁の人々はうまでもなく、一切衆生を救済する偉大な福徳と智慧が具わるのである。

この御文は、法華経のために牢につながれ苦境のどん底にある日朗に対し、今の苦難が日朗自身の成仏のため、ひいては父母・六親の救済のために、無上の善徳を積む絶好の機会であることを教え、ともに喜び、励まされているのである。

大聖人御自身、これからははるかに厳しい佐渡の流罪をひかえながら、一人の弟子のために仏法への限りない確信に立って、大慈悲の激励を続けられているのである。そこには、ありのままの凡夫としての人間的慈愛が拝せられるとともに、それ以上に、仏法の原理への微動だにしない大確信という御本仏としての生命が力強く脈打っていることを読みとらねばならない。

 

法華経を余人のよみ候は口ばかり・ことばばかりは・よめども心はよまず・心はよめども身によまず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ

 

これまで、法華経を読んだ人は多い、否、法華経ほど多くの人々に読まれてきた経は他に類をみないといってもよいくらいである。だが、そのほとんどは、その意味も分からないままに、ただ口先だけで、あるいは、元意を知らないで文の上だけで読んできたのであった。

この法華経を心まで読んだのは、天台、妙楽、伝教等の、わずかな人々である。御書の中にも、しばしば引用されている伝教の「雖讃法華経還死法華心」の言葉は、文を読んでも心を読みきれないために、かえって法華経の心をころした人々への鋭い批判でもあった。

だが、この伝教等も、法華経を心のをみずから心では読んでも、法華経に説かれているところを、身で読むことはできなかった。文字どおり身で読まれたのは、日蓮大聖人お一人だったのである。

聖人御難事にいわく「日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人・多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり、仏滅後二千二百三十余年が間・一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人・但日蓮一人なり」(1190:01)と。

「一切衆生をもたすけ給う御身なり」との御文と併せ考えるならば、この「色心二法共にあそばされたる」とは、一往は師弟の契りの上から日朗にかけられた称賛と心からの激励のお言葉であるが、再往拝するならば、日蓮大聖人御自身の立場以外にない。

真実に法華経を身読されたのは、大聖人お一人であることは疑う余地がないし、いわんや「一切衆生をもたすけ給うべき御身」とは、末法御本仏・大聖人をおいて他にはない。したがって法華経を身読した大聖人こそ、人法一箇の御本仏であり、末法万年の衆生を救う久遠の本仏であられることを、この文は、日朗の身の上に寄せて暗にしめされたものと拝せられるのである。

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