寺泊御書
文永8年(ʼ71)10月22日 50歳 富木常忍
はじめに
本抄は、日蓮大聖人が文永8年(1271)10月23日、越後の寺泊(新潟県長岡市寺泊)で認められ、富木常忍に与えられたものである。
本抄の冒頭に「今月十月なり十日相州愛京郡依智の郷を起つて……十二日を経て越後の国寺泊の津に付きぬ」と述べられているように、大聖人は同年10月10日に相模国依智の本間六郎尉の屋敷を出発して、配流の地佐渡へ向かわれ、途中12日を経て10月21日に寺泊へ着かれている。
寺泊は、平安時代初期の弘仁13年(0822)に開かれたと伝えられる古い港で、北陸道の宿駅として、また佐渡へ渡る港町として栄えていた。承久の乱で幕府に破れた順徳上皇が佐渡へ流された時も、寺泊から海を渡っている。大聖人もそこで佐渡への船便を待たれたことは、「此れより大海を亘つて佐渡の国に至らんと欲するに順風定まらず其の期を知らず」との記述からうかがうことができる。
寺泊に着かれた翌日、大聖人は「此の入道佐渡の国へ御供為す可きの由之を申す然る可き用途と云いかたがた煩有るの故に之を還す」と、佐渡までお供をすべく付けられた家人の入道に本抄を託されて、富木常忍のもとへ帰されたのである。
寺泊で著されたので「寺泊御書」と呼ばれてきたが、涅槃経の贖命重宝の法門が述べられているところから「贖命重宝抄」と称されたこともある。本抄の御真筆は中山法華経寺に現存する。
本抄の大意
はじめに依智を旅立って12日で寺泊に着き、佐渡へ渡る船の風待ちをしていること、旅の間に筆舌につくせぬ辛苦があったことを示され、それも、もとより承知のうえなので歎くことではないとの御心境を述べられている。
ついで、法華経・涅槃経の文を引いて、末法には釈尊在世に勝る怨嫉の起こることを明かし、大聖人こそその経証のとおりの怨嫉をうけていることを示されている。
つぎに、涅槃経の贖命重宝の法門とその天台大師の釈を引かれて、法華経の前後に説かれた諸経は法華経の命を贖うための重宝であることを示され、法華最勝を認めない諸宗の学者等の誤りを破されている。
とくに、善無畏等に始まる真言宗の邪義を挙げて破折され、各宗の祖師がその心は天台宗に帰伏していることを知らない末弟らが、法華誹謗の罪を犯していることを指摘されている。
また、大聖人の折伏行に対する四つの疑難を挙げられ、折伏弘教によって難に値うことは法華経の経証どおりであり、勧持品二十行の偈を身読された大聖人の実践の正しさを示して、疑難を破されている。
さらに、釈尊が予言した法華経流布の時が末法の始めであることを示され、大聖人こそ時にあたって法華弘通の人であることが明かされている。
最後に、富木常忍から付けられた入道を帰すにあたって謝意を述べ、本抄の意を門下に伝えるよう依頼して筆をおかれている。
本抄の背景
本抄が、佐渡御流罪の途上、越後の寺泊から門下の信徒の中心的存在だった富木常忍に与えられ、しかも「心ざしあらん諸人は一処にあつまりて御聴聞あるべし」と念記されているのは、弟子檀那へも幕府や主家・世間からの迫害が激しくなったことから、耐えきれずに退転する者や、疑いを起こして信心を失う者が多く出ていることを知られ、大聖人が難に値うことは法華経の予言どおりであることを明かされて、門下一同に確信を与え、疑いを晴らして、この大難を耐え忍んで信仰を貫くよう激励されるためだったと拝される。
弟子檀那に対する弾圧の模様については、
「今度はすでに我が身命に及ぶ其の上弟子といひ檀那といひ・わづかの聴聞の俗人なんど来つて重科に行わる謀反なんどの者のごとし」(0200:18、開目抄)
「竜口の頚の座・頭の疵等其の外悪口せられ弟子等を流罪せられ籠に入れられ檀那の所領を取られ御内を出だされし」(0504:07、如説修行抄)
「同文永八年辛未九月十二日佐渡の国へ配流又頭の座に望む、其の外に弟子を殺され切られ追出・くわれう等かずをしらず」(1189:14、聖人御難事)
「故聖霊は法華経に命をすてて・をはしき、わづかの身命をささえしところを法華経のゆへにめされしは命をすつるにあらずや」(1253:18、妙一尼御前御消息)
「夜廻(よまわり)の殿原は・ひとりも・たのもしき事はなけれども・法華経の故に屋敷を取られたる人人なり」(1169:10、四条金吾殿御返事)
等の御文からうかがうことができる。
そのため、文永10年(1273)9月の「辧殿尼御前御返事」に「弟子等・檀那等の中に臆病のもの大体或はをち或は退転の心あり」(1224:05)と述べられ、文永12年(1275)の「新尼御前御返事」では「かまくらにも御勘気の時・千が九百九十九人は堕ちて候人人も・いまは世間やわらぎ候かのゆへに・くゆる人人も候と申すげに候」(0907:07)と仰せのように、門下の多くが退転したようである。
しかも、「日蓮が弟子にせう房と申し・のと房といゐ・なごえの尼なんど申せし物どもは・よくふかく・心をくびやうに・愚癡にして・而も智者となのりし・やつばらなりしかば・事のをこりし時・たよりをえて・おほくの人を・おとせしなり」(1539:10、上野殿御返事)と、弾圧にあって疑いを起こし、動揺する人を誘い堕とす「大魔のつきたる者ども」(1539:09)が出現したのである。
これらの人々は「始は信じてありしかども世間のをそろしさにすつる人人かずをしらず、其の中に返つて本より謗ずる人人よりも強盛にそしる人人又あまたあり」(1088:18、兄弟抄)と述べられているように、退転しただけでなく、大聖人に反逆し返り矢を射たのである。そうしたことが門下の不信と動揺を拡大し、退転者を増加させたといえよう。
彼等は、難にあうのは大聖人の折伏行が誤りである証拠だとしたり、諸天の加護がないのは大聖人が法華経の行者ではないためであると主張するなど、大聖人を批判して己義をかまえ、保身のために世間に迎合した、臆病で醜く愚かな姿を示したのである。
大聖人はそれを「我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(0234:08、開目抄)と指摘され、また「真実の法華経の如説修行の行者の師弟檀那とならんには三類の敵人決定せり、されば此の経を聴聞し始めん日より思い定むべし況滅度後の大難の三類甚しかるべしと、然るに我が弟子等の中にも兼て聴聞せしかども大小の難来る時は今始めて驚き肝をけして信心を破りぬ、兼て申さざりけるか経文を先として猶多怨嫉況滅度後・況滅度後と朝夕教へし事は是なり・予が或は所を・をわれ或は疵を蒙り・或は両度の御勘気を蒙りて遠国に流罪せらるるを見聞くとも今始めて驚くべきにあらざる物をや」(0501:05、如説修行抄)と厳しく指摘されている。
しかし、退転して地獄へ堕ちていく人々の姿を眼前にみられた大聖人は、門下の間にはびこる不信の闇を晴らすために、なぜ難にあうのか、またなぜ諸天の加護がないのか、末法の修行はなぜ折伏に限るのか、などの疑問に対して明確な解答を与えようとされた。そのために最初に著されたのが本抄なのである。さらに、「開目抄」、「佐渡御書」、「如説修行抄」をはじめ佐渡期の御書の多くはそのために著されたといってよいであろう。
本抄では「或る人日蓮を難じて云く機を知らずして麤議を立て難に値うと、或る人云く勧持品の如きは深位の菩薩の義なり安楽行品に違すと、或る人云く我も此の義を存すれども言わずと云云、或る人云く唯教門計りなりと」と、大聖人の折伏行に対する疑難を四つ挙げて、あらあらその誤りを破されているのである。
そして、佐渡・塚原へ入られた後の11月23日の「富木入道殿御返事」でも「去十月十日に付られ候し入道・寺泊より還し候し時法門を書き遣わし候き推量候らむ」(0955:05)と述べて、本抄の趣旨をよく理解するように言い送られている。そのことからも、本抄の重要性がうかがえる。
本抄の趣旨をさらに広く深く展開され、勧持品の予言のままに大難を忍ぶ大聖人こそ末法の法華経の行者であり主師親三徳具備の御本仏であることを明らされたのが、文永9年(1272)2月に佐渡・塚原で認められた「開目抄」である。そうした意味で、本抄は一連の重要な佐渡期御書の最初の御述作であり、御自身の命をも知れぬ大難のさなかで、弟子檀那のことのみを思いやられた御本仏の大慈悲の発露なのである。
文永8年(ʼ71)10月22日 50歳 富木常忍
はじめに
本抄は、日蓮大聖人が文永8年(1271)10月23日、越後の寺泊(新潟県長岡市寺泊)で認められ、富木常忍に与えられたものである。
本抄の冒頭に「今月十月なり十日相州愛京郡依智の郷を起つて……十二日を経て越後の国寺泊の津に付きぬ」と述べられているように、大聖人は同年10月10日に相模国依智の本間六郎尉の屋敷を出発して、配流の地佐渡へ向かわれ、途中12日を経て10月21日に寺泊へ着かれている。
寺泊は、平安時代初期の弘仁13年(0822)に開かれたと伝えられる古い港で、北陸道の宿駅として、また佐渡へ渡る港町として栄えていた。承久の乱で幕府に破れた順徳上皇が佐渡へ流された時も、寺泊から海を渡っている。大聖人もそこで佐渡への船便を待たれたことは、「此れより大海を亘つて佐渡の国に至らんと欲するに順風定まらず其の期を知らず」との記述からうかがうことができる。
寺泊に着かれた翌日、大聖人は「此の入道佐渡の国へ御供為す可きの由之を申す然る可き用途と云いかたがた煩有るの故に之を還す」と、佐渡までお供をすべく付けられた家人の入道に本抄を託されて、富木常忍のもとへ帰されたのである。
寺泊で著されたので「寺泊御書」と呼ばれてきたが、涅槃経の贖命重宝の法門が述べられているところから「贖命重宝抄」と称されたこともある。本抄の御真筆は中山法華経寺に現存する。
本抄の大意
はじめに依智を旅立って12日で寺泊に着き、佐渡へ渡る船の風待ちをしていること、旅の間に筆舌につくせぬ辛苦があったことを示され、それも、もとより承知のうえなので歎くことではないとの御心境を述べられている。
ついで、法華経・涅槃経の文を引いて、末法には釈尊在世に勝る怨嫉の起こることを明かし、大聖人こそその経証のとおりの怨嫉をうけていることを示されている。
つぎに、涅槃経の贖命重宝の法門とその天台大師の釈を引かれて、法華経の前後に説かれた諸経は法華経の命を贖うための重宝であることを示され、法華最勝を認めない諸宗の学者等の誤りを破されている。
とくに、善無畏等に始まる真言宗の邪義を挙げて破折され、各宗の祖師がその心は天台宗に帰伏していることを知らない末弟らが、法華誹謗の罪を犯していることを指摘されている。
また、大聖人の折伏行に対する四つの疑難を挙げられ、折伏弘教によって難に値うことは法華経の経証どおりであり、勧持品二十行の偈を身読された大聖人の実践の正しさを示して、疑難を破されている。
さらに、釈尊が予言した法華経流布の時が末法の始めであることを示され、大聖人こそ時にあたって法華弘通の人であることが明かされている。
最後に、富木常忍から付けられた入道を帰すにあたって謝意を述べ、本抄の意を門下に伝えるよう依頼して筆をおかれている。
本抄の背景
本抄が、佐渡御流罪の途上、越後の寺泊から門下の信徒の中心的存在だった富木常忍に与えられ、しかも「心ざしあらん諸人は一処にあつまりて御聴聞あるべし」と念記されているのは、弟子檀那へも幕府や主家・世間からの迫害が激しくなったことから、耐えきれずに退転する者や、疑いを起こして信心を失う者が多く出ていることを知られ、大聖人が難に値うことは法華経の予言どおりであることを明かされて、門下一同に確信を与え、疑いを晴らして、この大難を耐え忍んで信仰を貫くよう激励されるためだったと拝される。
弟子檀那に対する弾圧の模様については、
「今度はすでに我が身命に及ぶ其の上弟子といひ檀那といひ・わづかの聴聞の俗人なんど来つて重科に行わる謀反なんどの者のごとし」(0200:18、開目抄)
「竜口の頚の座・頭の疵等其の外悪口せられ弟子等を流罪せられ籠に入れられ檀那の所領を取られ御内を出だされし」(0504:07、如説修行抄)
「同文永八年辛未九月十二日佐渡の国へ配流又頭の座に望む、其の外に弟子を殺され切られ追出・くわれう等かずをしらず」(1189:14、聖人御難事)
「故聖霊は法華経に命をすてて・をはしき、わづかの身命をささえしところを法華経のゆへにめされしは命をすつるにあらずや」(1253:18、妙一尼御前御消息)
「夜廻(よまわり)の殿原は・ひとりも・たのもしき事はなけれども・法華経の故に屋敷を取られたる人人なり」(1169:10、四条金吾殿御返事)
等の御文からうかがうことができる。
そのため、文永10年(1273)9月の「辧殿尼御前御返事」に「弟子等・檀那等の中に臆病のもの大体或はをち或は退転の心あり」(1224:05)と述べられ、文永12年(1275)の「新尼御前御返事」では「かまくらにも御勘気の時・千が九百九十九人は堕ちて候人人も・いまは世間やわらぎ候かのゆへに・くゆる人人も候と申すげに候」(0907:07)と仰せのように、門下の多くが退転したようである。
しかも、「日蓮が弟子にせう房と申し・のと房といゐ・なごえの尼なんど申せし物どもは・よくふかく・心をくびやうに・愚癡にして・而も智者となのりし・やつばらなりしかば・事のをこりし時・たよりをえて・おほくの人を・おとせしなり」(1539:10、上野殿御返事)と、弾圧にあって疑いを起こし、動揺する人を誘い堕とす「大魔のつきたる者ども」(1539:09)が出現したのである。
これらの人々は「始は信じてありしかども世間のをそろしさにすつる人人かずをしらず、其の中に返つて本より謗ずる人人よりも強盛にそしる人人又あまたあり」(1088:18、兄弟抄)と述べられているように、退転しただけでなく、大聖人に反逆し返り矢を射たのである。そうしたことが門下の不信と動揺を拡大し、退転者を増加させたといえよう。
彼等は、難にあうのは大聖人の折伏行が誤りである証拠だとしたり、諸天の加護がないのは大聖人が法華経の行者ではないためであると主張するなど、大聖人を批判して己義をかまえ、保身のために世間に迎合した、臆病で醜く愚かな姿を示したのである。
大聖人はそれを「我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(0234:08、開目抄)と指摘され、また「真実の法華経の如説修行の行者の師弟檀那とならんには三類の敵人決定せり、されば此の経を聴聞し始めん日より思い定むべし況滅度後の大難の三類甚しかるべしと、然るに我が弟子等の中にも兼て聴聞せしかども大小の難来る時は今始めて驚き肝をけして信心を破りぬ、兼て申さざりけるか経文を先として猶多怨嫉況滅度後・況滅度後と朝夕教へし事は是なり・予が或は所を・をわれ或は疵を蒙り・或は両度の御勘気を蒙りて遠国に流罪せらるるを見聞くとも今始めて驚くべきにあらざる物をや」(0501:05、如説修行抄)と厳しく指摘されている。
しかし、退転して地獄へ堕ちていく人々の姿を眼前にみられた大聖人は、門下の間にはびこる不信の闇を晴らすために、なぜ難にあうのか、またなぜ諸天の加護がないのか、末法の修行はなぜ折伏に限るのか、などの疑問に対して明確な解答を与えようとされた。そのために最初に著されたのが本抄なのである。さらに、「開目抄」、「佐渡御書」、「如説修行抄」をはじめ佐渡期の御書の多くはそのために著されたといってよいであろう。
本抄では「或る人日蓮を難じて云く機を知らずして麤議を立て難に値うと、或る人云く勧持品の如きは深位の菩薩の義なり安楽行品に違すと、或る人云く我も此の義を存すれども言わずと云云、或る人云く唯教門計りなりと」と、大聖人の折伏行に対する疑難を四つ挙げて、あらあらその誤りを破されているのである。
そして、佐渡・塚原へ入られた後の11月23日の「富木入道殿御返事」でも「去十月十日に付られ候し入道・寺泊より還し候し時法門を書き遣わし候き推量候らむ」(0955:05)と述べて、本抄の趣旨をよく理解するように言い送られている。そのことからも、本抄の重要性がうかがえる。
本抄の趣旨をさらに広く深く展開され、勧持品の予言のままに大難を忍ぶ大聖人こそ末法の法華経の行者であり主師親三徳具備の御本仏であることを明らされたのが、文永9年(1272)2月に佐渡・塚原で認められた「開目抄」である。そうした意味で、本抄は一連の重要な佐渡期御書の最初の御述作であり、御自身の命をも知れぬ大難のさなかで、弟子檀那のことのみを思いやられた御本仏の大慈悲の発露なのである。
第一章 寺泊到着を知らせる
今月〈十月なり〉十日、相州愛京郡依智郷を起って武蔵国久目河の宿に付き、十二日を経て越後国寺泊の津に付きぬ。これより大海を亘って佐渡国に至らんと欲するに、順風定まらず、その期を知らず。道の間の事、心も及ぶことなく、また筆にも及ばず。ただ暗に推し度るべし。また本より存知の上なれば、始めて歎くべきにあらざれば、これを止む。
現代語訳
鵞目を一結頂戴しました。志のある人々は一処に集まって、この文の法義を聴聞しなさい。
今月(十月である)十日に相州の国愛京郡依智の郷をたって、武蔵国の久目河の宿に着き、十二日かかって越後国の寺泊の港に着いた。
これから大海を渡って佐渡国に渡ろうとしているが、順風が定まらないために出発の日がわからない。ここまでの道中のことは、想像も及ばないほどで、また筆で書くこともできない。ただ推量にお任せする。またこの苦難はもとより覚悟のうえなので、いまはじめて歎くべきことでないから、やめておく。
語釈
鵞目一結
鵞目は孔のあいた銭のこと。鎌倉時代の通貨。鳥目、青鳧等ともいわれた。鵞目とは、四角い孔が鵞鳥の目に似ていることからそう呼ばれた。一結は、銭の孔に紐を通して一連にしたものをいう。ふつうは百枚、百文。
相州愛京郡依智
現在の神奈川県相模原市依智。日蓮大聖人は竜口法難以降佐渡流罪が決定するまでの約1ヶ月間、この地の本間六郎屋敷に留め置かれられている。
武蔵の国久米河の宿
現在の東京都東村山市久米川。鎌倉から奥州や越後に向かう交通の要所。宿場町。
寺泊の津
新潟県長岡市寺泊。佐渡に向かう船が出ていた港。北陸道の終点。
佐渡の国
新潟県の佐渡島のこと。神亀元年(0724)遠流の地と定められ、承久3年(1221)には順徳天皇も流されている。大聖人の流罪は文永8年(1271)10月~文永11年(1274)3月までである。
講義
本抄の最初で、富木常忍へ寺泊への到着を知らせ、道中の難渋を推せしめている。
文永8年(1271)10月10日に相模国愛甲郡依智郷(神奈川県厚木市依知)の本間六郎左衛門尉の邸を出発した日蓮大聖人の一行は、武蔵国久目河(現在の東京都東村山市久米川町)を通り、途中12日の道のりを経て、10月21日に越後国寺泊(新潟県長岡市寺泊)の港に着かれたのである。
依智から佐渡への道は、高崎から三国峠を越えて湯沢へ出る三国街道と、中山道の追分から碓氷峠を越えて柏崎、寺泊に至る北国街道の二つがあった。旧暦の10月10日は新暦の11月10日前後にあたり、冬が迫っていることから、距離の短い三国街道を行かれたであろうとの推定と、三国峠は雪が降ると通行が不能になることや、12日という所要日数から北国街道をとられたとの説があり、明確ではない。
いずれにせよ、現在の道路で概算して300㌔以上の遠路を10数日で歩まれた旅が、困苦の連続だったことは、「道の間の事心も及ぶこと莫く又筆にも及ばず但暗に推し度る可し」との御文から推察することができる。
越後は「およそ雪、九月末より降りはじめて、雪中に春を迎え、正・二の月は雪なお深し」とあるように雪深い所であり、雪中の旅が困難であったこともあろうが、「鎌倉を出でしより日日に強敵かさなるが如し、ありとある人は念仏の持者なり、野を行き山を行くにもそばひらの草木の風に随つてそよめく声も、かたきの我を責むるかとおぼゆ」(1052:04、法蓮抄)との記述から、道中の宿々や村里の人々が大聖人を念仏の敵と憎悪して悪口雑言を吐き、石や泥を投げかけたであろうし、殺害しようとする者さえあったことが推されるのである。
そうした敵中を征くが如き筆舌に尽くせぬ厳しく辛い道中を、大聖人は「本より存知の上なれば始めて歎く可きに非ざれ」と、むしろ随従する日興上人らを励まされつつ、毅然として歩を進められたと拝される。
越後の寺泊では、「順風定まらず其の期を知らず」とあるように、佐渡への便船が出航できる時を待って、7日の間滞在されている。
当時の航海は帆走によったため、風向きとその強さに左右され、風浪が激しければ船出できず、風待ち、天気待ちのうえでやっと出港した。旧暦の10月末は現在の11月下句に当たるため、日本海上では北西の風が強く、高波を立てるため、一枚帆の小舟ではとうてい航海できなかったのである。江戸時代に至っても、10月初めには日本海航路の廻船は陸に引き揚げられ、現在でも新潟・佐渡間の定期航路は冬期にしばしば欠航している。
なお、文永11年(1274)3月に佐渡流罪を赦免されて鎌倉への帰途につかれた際の記述に「思はざるに順風吹き来りて島をば・たちしかばあはいあしければ百日・五十日にもわたらず、順風には三日なる所を須臾の間に渡りぬ」(0920:15、種種御振舞御書)とあることからも、佐渡への渡海がいかに困難であったかがうかがえよう。
第二章 末法怨嫉の経証を知らせる
法華経の第四に云く「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し況んや滅度の後をや」第五の巻に云く「一切世間怨多くして信じ難し」、涅槃経の三十八に云く「爾の時に一切の外道の衆咸く是の言を作さく大王○今は唯・一の大悪人有り瞿曇沙門なり○一切の世間の悪人利養の為の故に其の所に往き集り而も眷属と為つて善を修すること能わず呪術力の故に迦葉及び舎利弗・目犍連等を調伏す」云云、此の涅槃経の文は一切の外道我が本師たる二天三仙の所説の経典を仏陀に毀られて出す所の悪言なり、法華経の文は仏を怨と為す経文には非ず、天台の意に云く「一切の声聞・縁覚並に近成を楽う菩薩」等云云、聞かんと欲せず信ぜんと欲せず其の機に当らざるは言を出して謗ること莫きも皆怨嫉の者と定め了んぬ、在世を以て滅後を推すに一切諸宗の学者等は皆外道の如し、彼等が云う一大悪人とは日蓮に当れり、一切の悪人之に集まるとは日蓮が弟子等是なり、彼の外道は先仏の説教流伝の後・之を謬つて後仏を怨と為せり、今諸宗の学者等も亦復是くの如し、所詮仏教に依つて邪見を起す目の転ずる者大山転ずと欲う、今八宗・十宗等多門の故に諍論を至す、
現代語訳
法華経の第四の巻法師品第十には「この法華経は如来の現に在ます時でさえ怨嫉が多い。ましてや釈尊の滅度の後においてをや」とあり、第五の巻の安楽行品第十四には「一切の世間の中に怨が多くて信じ難い」とある。また涅槃経には「その時に一切の外道が阿闍世王の前へ出てみなこう言った。『大王よ、いま世の中に一人の大悪人がいる。瞿曇沙門がそれである。世間のあらゆる悪人は利欲のために彼のもとに集まって、その眷属となり、善いことをすることがない。また彼は呪術の力によって迦葉や舎利弗、目連などを帰伏させ、弟子としている』」とある。この涅槃経の文は、一切の外道が自分達の本師である二天三仙の説いた経典を仏陀に破られたために言った悪口なのである。
法華経の文は、仏を怨とするという経文ではない。天台大師の解釈にも「一切の声聞・縁覚の二乗、ならびに始成正覚の仏を求めて久遠実成を信じない菩薩が怨である」とあるように、法華経を聞こうともせず、信じようともしない人々は、ことばに出して誹謗することがなくても、みな怨嫉の者と定められているのである。
釈尊の在世のことから滅後を推し量ると、一切の諸宗の学者等はみな仏在世の外道のようなものである。彼等がいう「一大悪人」とは日蓮にあたる。「一切の悪人がそこに集まっている」とは日蓮の弟子檀那等のことである。彼の外道は過去の仏の教えを誤り伝えて、かえって今の仏である釈尊を怨としたのである。今の諸宗の学者等もまた同じである。結局のところは、仏の残された教えによって邪見を起こしたのである。ちょうど酔って目の回っている者が大きな山が回っているように見えるのと同じである。今の八宗・十宗等が多くの流派を作って諍論をしているのも目の回っているものの類である。
語釈
法華経
大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。
【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。
【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、0284:08)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(0266:11)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546:11)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、0910:17)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。
【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。
「而も此の経は……」
妙法蓮華経法師品第10の文。如来の在世においてすら怨嫉されて多くの法難を受けた。いわんや、釈尊滅後に法華経を弘通する者は、より多くの怨嫉を受け、難にあうのは当然である。との意。
「一切世間……」
法華経安楽行品第14の文。仏が法華経を説こうとする時、仏法に無知な世の人々が仏法を怨嫉し、迫害し、法華経を信じようとしないこと。
涅槃経
釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
外道
仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
瞿曇沙門
釈尊のこと。瞿曇は釈迦族の名。沙門とは出家者の総称。この語は、おもに、バラモンや提婆達多などが釈尊の蔑称として用いた。
眷属
①仏・菩薩などの脇士や従う人。②一族・親族。③従者・家来。
迦葉
釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある。
舎利弗
梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
目犍連
釈迦の声聞十大弟子の一人で神通第一。摩訶目犍連、目連尊者ともいわれる。摩竭提国王舎城の近くの婆羅門種の出で、幼少より、舎利弗と共に六師外道である刪闍耶に師事したが、釈迦の教えを求めて二百五十人の弟子とともに、弟子となる。迦葉・阿難とともに法華経の譬喩品の譬えを聞いて得道し、授記品で多摩羅跋栴檀香仏の記別を受けた。また亡母の青提女を釈迦の教えにより救った。釈迦入滅の前に羅閲城で托鉢の修行をしていたとき、竹杖外道にかこまれた。いったんはのがれたが、過去世の宿業であることを知って自ら外道に殺されて業を滅したといわれる。
二天三仙
古代インドのバラモン教でとくに崇拝された二天と三仙のこと。この二天三仙は神の啓示を得てヴェーダを説いたといわれる。二天とは摩醯首羅天と毘紐天をさし、三仙とは迦毘羅・漚楼僧佉・勒沙婆をいう。
天台
(0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
声聞
声聞界のこと。縁覚と合わせて二乗という。仏の教える声を聞いて悟る人をいい、小乗教の理想ではあるが、利己主義に陥るため、権大乗教では徹底的に弾呵され、煎る種のごとく、二度と成仏の芽を出すことがないと言われた。法華経にいたって、舎利弗・迦葉・迦旃延・富楼那等、声聞の十大弟子が得道する。そして歓喜した四大声聞の領解の文を開目抄には「我等今は真に是れ声聞なり仏道の声を以て一切をして聞かしむ我等今は真に 阿羅漢なり緒の世間・天人・魔・梵に於て普く其の中に於て・応に供養を受くべし」とあり、真の声聞とは、仏の弟子として、仏の教え、精神を民衆に聞かせ、後世に残していく人である。
縁覚
辟支仏のこと。独覚・因縁覚と訳す。「各自に覚った者」の意。仏の教導によらず、自らの力で理を覚る者のこと。十二因縁の理を観じて断惑証理し、飛花落葉等の外縁によって覚りを得るという。十法界明因果抄には「第八に縁覚道とは二有り一には部行独覚・仏前に在りて声聞の如く小乗の法を習い小乗の戒を持し見思を断じて永不成仏の者と成る、二には鱗喩独覚・無仏の世に在りて飛花落葉を見て苦・空・無常・無我の観を作し見思を断じて永不成仏の身と成る戒も亦声聞の如し此の声聞縁覚を二乗とは云うなり」(0433:07)とある。
近成
始成と同義。久成に対する語。インド応誕の釈尊が30歳ではじめて成道したとする始成正覚のこと。
菩薩
菩薩薩埵(bodhisattva)の音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。
目の転ずる者……
涅槃経巻二には「譬えば人の酔いてその心愐眩して、諸の山河・石壁・草木・宮殿・屋舎・日月・星辰の、皆悉く廻転するを見るが如し」とある。邪見に陥って物事を正しく見ることのできない譬えとして用いられている。
八宗
日本において奈良時代にあった俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の六宗に、平安時代初めに興った天台・真言の二宗を加えた八宗をいう。
十宗
日本において奈良時代にあった俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の六宗に、平安時代初めに興った天台・真言の二宗を加えた八宗をいう。それに平安末から鎌倉時代に興った禅宗を加えて九宗とし、更に浄土宗を加えて十宗という。
講義
本章では、末法に釈尊在世に勝る怨嫉の起こる経証を挙げ、大聖人こそ、その文のとおりの怨嫉を受けていることを明かされている。
はじめに、法華経法師品の「猶多怨嫉・況滅度後」、安楽行品の「一切世間・多怨難信」の文を引き、つぎに一切の外道が阿闍世王に向かって釈尊こそ大悪人なりと訴えた涅槃経の文を引かれている。
法華経の文は仏を怨と為す経文には非ず……
この涅槃経の文は、バラモン教の所説を破折された外道が釈尊に怨嫉して讒言したものであり、開目抄にも「六師同心して阿闍世・婆斯匿王等に讒奏して云く『瞿曇は閻浮第一の大悪人なり、彼がいたる処は三災七難を前とす、大海の衆流をあつめ大山の衆木をあつめたるが・ごとし、瞿曇がところには衆悪をあつめたり、所謂迦葉・舎利弗・目連・須菩提等なり、人身を受けたる者は忠孝を先とすべし、彼等は瞿曇にすかされて父母の教訓をも用いず、家をいで王法の宣旨をも・そむいて山林にいたる、一国に跡をとどむべき者にはあらず、されば天には日月・衆星・変をなす地には衆夭さかんなり』なんど・うつたう」(0206:03)とある。
それに対して、大聖人は、法華経に説かれた「怨嫉」「怨多し」とは外道が仏を怨嫉するという意味ではなく、声聞・縁覚、近成を願う菩薩から怨をなす者が出るということである。これらの人は仏弟子であるから、怨嫉されるのは仏ではない。すなわち、法華経および法華経の行者を怨嫉する者が多く出ることを明かした文となるのである、とされている。
すでに妙楽大師は法華文句記の中で「猶多怨嫉」の文を釈して、小乗の修行を願う二乗や始成正覚の仏のみを信ずる菩薩が怨嫉の者である、としている。すなわち、40余年に説かれた始成正覚の権教権仏を未顕真実と打ち破って久遠実成の顕本を明かした法華経を聞こうとも信じようともせず、法華経は教えは勝れているが我らの機根には合わないなどといったり、たとえ口に出して謗らなくても信じないのは、みな怨嫉の者である、としているのである。
そのことから末法を考えてみると、諸宗の学者は釈尊在世の外道が釈尊を一大悪人と謗ったように、末法においては、諸宗の学者が国主等に向かって大聖人とその門下を口をきわめて中傷し讒言したのであり、これこそ末法の怨嫉の姿といえる。
その具体的な姿は、報恩抄に「禅僧数百人・念仏者数千人・真言師百千人・或は奉行につき或はきり人につき或はきり女房につき或は後家尼御前等について無尽のざんげんをなせし程に最後には天下第一の大事・日本国を失わんと咒そする法師なり、故最明寺殿・極楽寺殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり御尋ねあるまでもなし但須臾に頚をめせ弟子等をば又頚を切り或は遠国につかはし或は籠に入れよと尼ごぜんたち・いからせ給いしかば・そのまま行われけり」(0322:12)とあるとおりだった。
竜の口法難とそれに続く佐渡流罪も、祈雨の勝負に破れた極楽寺良観をはじめ、建長寺道隆ら大聖人にその邪義を徹底的に破折された諸宗の悪侶の怨嫉から起こったのである。
なお、大聖人は開目抄でも同じ経証を引かれたうえで「夫れ小児に灸治を加れば必ず母をあだむ重病の者に良薬をあたうれば定んで口に苦しとうれう、在世猶しかり乃至像末辺土をや、山に山をかさね波に波をたたみ難に難を加へ非に非をますべし……今末法の始め二百余年なり況滅度後のしるしに闘諍の序となるべきゆへに非理を前として濁世のしるしに召し合せられずして流罪乃至寿にも・をよばんと・するなり」(0202:01)と述べられている。大聖人の値難は、まさしく経証のとおりであることが明らかである。
本章の最後では、外道が過去の仏の教えを謬り伝えて、その時に叶って出現した現在の仏たる釈尊を怨嫉し敵対したと同じように、大聖人御在世の諸宗の学者等も、先仏たる釈尊の教えを謬り習って邪見に陥ったために、末法の御本仏たる大聖人を怨嫉し迫害を加えていることを示されている。そして、酒に酔って目が回っている者が、周囲の山が回っていると錯覚するのと同様に、仏教によって邪見を起こした者は、正常でない眼で見るために、正師を邪師と見、正義を邪義と思う大きな誤りを犯していると指摘され、八宗十宗の諍論もすべてその類であると断じられている。
第三章 諸経は法華経の讀命重宝と明かす
涅槃経の第十八に贖命重宝と申す法門あり、天台大師の料簡に云く命とは法華経なり重宝とは涅槃経に説く所の前三教なり、但し涅槃経に説く所の円教は如何、此の法華経に説く所の仏性常住を重ねて之を説いて帰本せしめ涅槃経の円常を以て法華経に摂す、涅槃経の得分は但・前三教に限る、天台の玄義の三に云く「涅槃は贖命の重宝なり重ねて掌を抵つのみ」文、籤の三に云く「今家の引意は大経の部を指して以て重宝と為す」等云云、天台大師の四念処と申す文に法華経の「雖示種種道」の文を引いて先ず四味を又重宝と定め了んぬ、若し爾らば法華経の先後の諸経は法華経の為の重宝なり、世間の学者の想に云く此れは天台一宗の義なり諸宗は之を用いず等云云、日蓮之を案じて云く八宗十宗等は皆仏滅後より之を起し論師人師之を立つ滅後の宗を以て現在の経を計る可からず天台の所判は一切経に叶うに依つて一宗に属して之を弃つ可からず、諸宗の学者等自師の誤りを執する故に或は事を機に寄せ或は前師に譲り或は賢王を語らい結句最後には悪心強盛にして闘諍を起し失無き者を之を損うて楽と為す、
現代語訳
涅槃経の巻十八に「贖命重宝」という法門がある。天台大師はこれを解釈して「命というのは法華経であり、重宝とは涅槃経に説かれた蔵・通・別の三教である」と言っている。それでは涅槃経に説かれるところの円教はどこに属すのか。この円教は法華経に説くところの仏性常住を重ねて説いて本の法華経に帰せしめ、涅槃経の円常を法華経に摂してしまうので、涅槃経の得分はただ蔵・通・別の前の三教に限られるのである。
天台大師の法華玄義巻三に「涅槃経は法華経の命を贖う重宝である。重ねて掌をうったようなものである」とあり、妙楽大師の法華玄義釈籤巻三には「天台家で涅槃経の贖命重宝の譬喩を引く意は、涅槃経を重宝とし法華経を命とするのである」と明かされている。
天台大師の四念処という書物に法華経の「雖示種種道」の文を引用して華厳・阿含・方等・般若の四味の諸経をまた法華経の命を贖うための重宝である、と定められた。もしそうであるなら法華経の前の諸経も後の涅槃経も法華経のための重宝なのである。
ところが世間の学者は「これは天台宗だけの義であって、諸宗ではそういう義は用いない」と述べている。日蓮はこれを考えるに、八宗・十宗等の諸宗はすべて釈尊の滅後に起こったもので、論師・人師が立てた宗である。仏滅後にできた宗義から釈尊在世の経文の意を判じてはならない。天台大師の判釈は、一切経の意に叶っているから、これを天台宗のみの義として棄ててはならない。
諸宗の学者等は自らの師の誤りに執着するために、あるいは法華経を機根に合わない、あるいは祖師の仰せだからといい、あるいは賢王を語らって味方につけ、そのあげく最後には悪心が盛んとなって諍論を起こし、罪のない者を迫害して楽しみとするのである。
語釈
贖命重宝
命を贖う重宝の意で、天台大師・智顗が定めた『涅槃経』の教えを指す。
円教
円融円満で完全無欠な教のこと。中国では諸教の教相判釈に対して、最高の教を円教と定めた。法華経のこと。
仏性常住
仏の性分は衆生の生命に本然としてそなわっており、常に存在し、永遠不滅の実在であること。
円常
円は完璧の意で仏性をさす。円常とは仏性が常住であることをいう。
得分
①利益。②分け前。③功徳・利益。
玄義
法華玄義のこと。天台三大部のひとつ。妙法蓮華経玄義。全10巻からなり、天台大師が法華経の幽玄な義を概説したものであって、法華経こそ一代50年の説法中最高であることを明かしたもの。隋の開皇12年、天台55歳において荊州において講述し、弟子の章安が筆録した。本文の大網は、釈尊一代50年の諸教を法華経を中心に、釈名・弁体・明宗・論用・教判の5章、すなわち名・体・宗・用・経の五重玄に約して論じている。なかでも、釈名においては、妙法蓮華経の五字の経題をもとにして、法華経の玄義をあらゆる角度から説いており、これが本書の大部分をなしている。
「涅槃は贖命の……」
天台大師の法華玄義巻二下の文。涅槃経の円は法華経の純円を重説したものであり、また、涅槃経は法華経の命を贖う重宝であると釈している。ここでいう「重ねて掌を抵つ」とは、売買の値の決まった時、手を打つのと同じく、法華経で定まったことを重ねて説いたことを意味する。なお、この文は法華玄義の巻三とされているが、使用されたものが現行本と違うのか、明らかではない。
籤
妙楽大師湛然の法華玄義釈籤のこと。十巻。妙法蓮華経玄義釈籤の略称で、天台法華釈籤、法華釈籤、釈籤、玄籤ともいう。天台大師の法華玄義の注釈書。妙楽大師が天台山で法華玄義を講義した時に学徒の籤問に答えたものを基本とし、後に修訂を加えて整理したもの。法華玄義の本文を適当に分けて大小科段を立て、順次文意を解釈し、天台大師の教義を拡大補強している。
四念処
天台大師の著。四巻。釈尊の入滅に際して、滅後の行道を示したなかで、四念処によって行道すべしと述べた四念処について明かしたもの。蔵通別円の四教それぞれの四念処観を説き、この修行が天台教学の観法の真髄であることが述べられている。
雖示種種道
法華経方便品第2の文。「種種の道を示すと雖も、其れ実には仏乗の為なり」と読む。釈尊・三世十方の諸仏は衆生を安穏ならしめるために、種々の方便を設ける。一切衆生皆成仏道の法華経を説くため、蔵通別の権教を説いて、衆生を化導し調機調養した。
四味
四味とは五味のうち醍醐味を除く乳味・酪味・生酥味・熟酥味のこと。
論師人師
論師とは梵名で阿毘曇師。はじめは三蔵のうちの論蔵に通じている人をいったが、のちに論議をよくする人、あるいは論を造って仏法を宣揚する人をいうようになった。人師とは、論師に対する語。仏、菩薩ではなく、しかも人々を教導する者をいう。竜樹、天親等を論師といったのに対し、天台、妙楽をはじめ法蔵、嘉祥、玄奘、慈恩等を総称して人師といった。
一切経
釈尊が一代五十年間に説いた一切の経のこと。一代蔵経、大蔵経ともいう。また仏教の経・律・論の三蔵を含む経典および論釈の総称としても使われる。古くは仏典を三蔵と称したが、後に三蔵の分類に入りきれない経典・論釈がでてきたため一切経・大蔵経と称するようになった。
或は事を機に寄せ
末法の衆生の機根は頑愚であるゆえ、法華経などの難解な教えを理解できず、念仏の易行道でなければ救われないとする浄土宗の考え方。
機
説法を受ける所化の衆生の機根。
講義
本章では、涅槃経に説かれる贖命重宝の法門とその天台大師の釈を引かれて、法華経の前後に説かれた諸経は法華経の命をあがなうための重宝であることを明かされ、それを認めない諸宗の学者の誤りを破されている。
贖命重宝の法門とは、涅槃経に「七宝を蔵するのは未来の事のためであり、未来の事とは飢饉や、賊が国を侵したときや、悪王に値った時に、命を贖うための用なのである」と説かれていることをいう。
贖の字は、あがなう、つぐなう、という意味で、古代のインドや中国では過失による罪のために死刑になるというときに金銭や財宝によって命を贖うことができるという風習があり、それを贖命といったことから、仏性常住の円教は命であり、蔵・通・別の前三教は仏性常住の命を保護し贖う七宝であると譬えたもの。なお、涅槃経には「七宝」とあるが、七宝は贖命の財宝なので、天台大師は「重宝」と釈している。
この贖命重宝の法門の意義を、天台大師は、命とは法華経であり、法華以前に説かれた蔵・通・別の三教はもとより、涅槃経すらも贖命の重宝にあたる、と釈しているのである。前三教は当然としても、なぜ涅槃経も重宝にあたるのかといえば、涅槃経は法華経に漏れた一部の衆生を救済するために、爾前に説いた蔵・通・別の三教を後から追って説き、そのうえで、三教を否定して法華一実の円教に帰入させようとしたものなので、涅槃経で説いた仏性常住の円教の理は法華経の再説であり法華経に摂せられるので、涅槃経で重ねて説いた前三教は、その命を贖う重法となるのである。
なお、法華経と涅槃経の勝劣については、「報恩抄」に「第九の巻に法華経と涅槃経との勝劣分明なり、所謂経文に云く『是の経の出世は乃至法華の中の八千の声聞・記別を受くることを得て大菓実を成ずるが如き秋収冬蔵して更に所作無きが如し』等云云、経文明に諸経をば春夏と説かせ給い涅槃経と法華経とをば菓実の位とは説かれて候へども法華経をば秋収冬蔵の大菓実の位・涅槃経をば秋の末・冬の始・捃拾の位と定め給いぬ、此の経文正く法華経には我が身劣ると承伏し給いぬ」(0300:03)と述べられている。
このように涅槃経の経旨によって一切経の中の根本・生命は法華経であり、その前後に説かれた諸経はその命を守り贖うための重宝であり、実教たる法華経を説くための権教方便の教えであることが明らかなのである。
しかし、天台大師が五時八経の判釈によって法華最勝の義を立て、法華経こそ一切経の命であることを明かしても、諸宗の学者等は「天台一宗の義なり諸宗は之を用いず」と、己義を改めようとしないまま、大聖人御在世に至っているのである。そして「自師の誤りを執する故に或は事を機に寄せ或は前師に譲り或は賢王を語らい結句最後には悪心強盛にして闘諍を起し失無き者を之を損うて楽と為す」と破されているように、大聖人が諸宗の邪義を破折されると猛然と怨嫉し迫害を加えたのである。
そのことを「開目抄」では「仏世を去つてとし久し仏経みなあやまれり誰れの智解か直かるべき、仏涅槃経に記して云く『末法には正法の者は爪上の土・謗法の者は十方の土』とみへぬ、法滅尽経に云く『謗法の者は恒河沙・正法の者は一二の小石』と記しをき給う、千年・五百年に一人なんども正法の者ありがたからん、世間の罪に依つて悪道に堕る者は爪上の土・仏法によつて悪道に堕る者は十方の土・俗よりも僧・女より尼多く悪道に堕つべし。此に日蓮案じて云く世すでに末代に入つて二百余年・辺土に生をうけ其の上下賎・其の上貧道の身なり……法華経を行ぜし程に世間の悪縁・王難・外道の難・小乗経の難なんどは忍びし程に権大乗・実大乗経を極めたるやうなる道綽・善導・法然等がごとくなる悪魔の身に入りたる者・法華経をつよくほめあげ機をあながちに下し理深解微と立て未有一人得者・千中無一等と・すかししものに無量生が間・恒河沙の度すかされて権経に堕ちぬ権経より小乗経に堕ちぬ外道・外典に堕ちぬ結句は悪道に堕ちけりと深く此れをしれり、日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり。これを一言も申し出すならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし」(0199:15)と述べられているのである。
第四章 善無畏等の内心帰伏を明かす
諸宗の中に真言宗殊に僻案を至す善無畏・金剛智等の想に云く一念三千は天台の極理一代の肝心なり顕密二道の詮たる可きの心地の三千は且く之を置く、此の外・印と真言とは仏教の最要等云云、其の後真言師等事を此の義に寄せて印・真言無き経経をば之を下すこと外道の法の如し、或る義に云く大日経は釈迦如来の外の説なりと、或る義に云く教主釈尊第一の説なりと、或る義には釈尊と現じて顕経を説き大日と現じて密経を説くと、道理を得ずして無尽の僻見之を起す、譬えば乳の色を弁えざる者種種の邪推を作せども本色に当らざるが如く又象の譬の如し、今汝等知る可し大日経等は法華経已前ならば華厳経等の如く已後ならば涅槃経等の如し。
又天竺の法華経には印・真言有れども訳者之を略して羅什は妙法経と名づけ、印・真言を加えて善無畏は大日経と名づくるか、譬えば正法華・添品法華・法華三昧・薩云分陀利等の如し、仏の滅後天竺に於いて此の詮を得たるは竜樹菩薩、漢土に於いて始めて之を得たるは天台智者大師なり、真言宗の善無畏等・華厳宗の澄観等・三論宗の嘉祥等・法相宗の慈恩等名は自宗に依れども其の心は天台宗に落ちたり其の門弟等此の事を知らず如何ぞ謗法の失を免れんや、
現代語訳
諸宗のなかでも真言宗がとくに邪義を構えている。彼らの祖師の善無畏、金剛智等は「一念三千の法門は天台の至極の法門であり、釈尊一代の肝心である。顕密二道の究極である心地の三千はしばらくおく。このほかに印と真言は仏の教えの最も要である」と述べた。それ以後、真言師等が、祖師の義に事寄せて印と真言のない経々を下すこと、まるで外道の法のようである。
ある者は「大日経は釈迦如来のほかの大日如来の説である」といい、ある者は「大日経は教主釈尊の第一の経である」といい、またある者は「ある時は釈尊と現れて顕経を説き、ある時は大日如来と現れて密経を説いたのである」と主張している。
これらの者は仏の教えの道理を知らないで果てしない邪見を起こしているのである。譬えば乳の色を知らない者が集まってさまざまな誤った推察をめぐらしても、本当の色がわからないようなものである。また、盲目の者が集まって象を論じても、象の全体の形がわからない譬えのようなものである。いま諸宗の学者等は、大日経は法華経以前なら華厳経等のようであり、法華経以後なら涅槃経等と同じく、法華経の命を贖うための重宝にすぎないことを知るべきである。
あるいはまた、インドの法華経には印と真言もあったが、中国の訳者がこれを略して、羅什三蔵は妙法蓮華経と名づけ、善無畏は印と真言を加えて大日経と名づけたのであろうか。たとえば、法華経にも正法華経、添品法華経、法華三昧経、薩曇分陀利経等があるようなものである。
釈尊の滅後にインドにおいて法華経と諸経との関係を正しく知ったのは竜樹菩薩であり、中国ではじめてこれを知ったのは天台智者大師である。真言宗の善無畏等、華厳宗の澄観等、三論宗の嘉祥等、法相宗の慈恩等は、名はそれぞれの宗の祖師として一宗を立てているが、内心は天台宗に帰伏しているのである。その門弟等はこのことを知らないで邪義を構えているが、どうして謗法の罪を免れることができようか。
語釈
真言宗
大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
僻案
誤った教えや見解のこと。
善無畏
(0637~0735)。中国・唐代の真言密教の僧。もとは東インド烏仗那国の王子で、13歳の時国王となったが、兄のねたみを受けたので、王位を譲り出家した。ナーランダ寺で密教を学んだ後、中国に渡り、唐都・長安で玄宗皇帝に国師として迎えられ、興福寺、西明寺に住して経典の翻訳にあたった。中国に初めて密教を伝え、「大日経」七巻、「蘇婆呼童子経」三巻、「蘇悉地羯羅経」三巻などの密教経典を訳出した。また、一行禅師に大日経を講じて「大日経疏」を造ったが、その中で、法華経の一念三千の法門を盗んで大日経に入れ、理同事勝の邪義を立てた。同時代の金剛智、不空とともに三三蔵の一人に挙げられる。
金剛智
(0671~0741)。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。10歳の時那爛陀寺に出家し、寂静智に師事した。31歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき7年間つかえて密教を学んだ。のち唐土に向かい、開元8年(0720)洛陽に入った。弟子に不空等がいる。
一念三千
天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で示したもの。このうち十界とは、10種の境涯で、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏をいう。十如是とは、ものごとのありさま・本質を示す10種の観点で、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等をいう。三世間とは、十界の相違が表れる三つの次元で、五陰(衆生を構成する五つの要素)、衆生(個々の生命体)、国土(衆生が生まれ生きる環境)のこと。日蓮大聖人は一念三千が成仏の根本法の異名であるとされ、「仏種」と位置づけられている。「開目抄」で「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(189㌻)と仰せのように、一念三千の中核は、法華経であらゆる衆生に仏知見(仏の智慧の境涯)が本来そなわっていることを明かした十界互具であり、「観心本尊抄」の前半で示されているように、特にわれわれ人界の凡夫の一念に仏界がそなわることを明かして凡夫成仏の道を示すことにある。また両抄で、法華経はじめ諸仏・諸経の一切の功徳が題目の妙法蓮華経の五字に納まっていること、また南無妙法蓮華経が末法の凡夫の成仏を実現する仏種そのものであることが明かされた。大聖人は御自身の凡夫の身に、成仏の法であるこの南無妙法蓮華経を体現され、姿・振る舞い(事)の上に示された。その御生命を直ちに曼荼羅に顕された御本尊は、一念三千を具体的に示したものであるので、「事の一念三千」であると拝される。なお、「開目抄」(215㌻以下)などで大聖人は、法華経に説かれる一念三千の法理を諸宗の僧が盗んで自宗のものとしたと糾弾されている。すなわち、中国では天台大師の亡き後、華厳宗や密教が皇帝らに重んじられ隆盛したが、華厳宗の澄観は華厳経の「心如工画師(心は工みなる画師の如し)」の文に一念三千が示されているとし、真言の善無畏は大日経を漢訳する際に天台宗の学僧・一行を用い、一行は大日経に一念三千の法理が説かれているとの注釈を作った。天台宗の僧らはその非を責めることなく容認していると批判されている。
印と真言
印相と真言のこと。印とは決定不改または印可決定の義で、手指を種々に組み合わせて諸仏諸尊の内証の徳を表示する形式。真言宗でいう三密の中の身密にあたる。合掌ももちろん印である。真言とは真実の言葉という意味で、これを唱えれば不思議の功徳があるという。一種の呪文で、諸仏の梵名などを原語で唱えることなどを指す。真言宗にはこの印・真言が説かれているから法華経に優れているとの邪義を立てる。
真言師
真言宗を奉ずる僧侶。真言宗とは、三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
大日経
大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
釈迦如来
釈迦仏・釈尊のこと。如来とは仏、釈迦はシャーキャムニ(Śākyamuni )の音訳で釈迦牟尼の略称。釈迦はもともと古代インドの一種族の名。ゴータマ・ブッダは釈迦族で生まれたので、釈迦牟尼という。牟尼は尊者・聖者のこと。
顕経
「けんきょう」「けんぎょう」とも読む。文字の上にあらわに説き示された教え。真言宗では応身の釈迦仏が説いた法華経を「顕教」とし、法身の大日如来が説いた教法を密教とするという邪義を立てている。
密経
呪術や儀礼、行者の憑依、現世肯定・性的要素の重視などを特徴とする神秘的宗教。インドにおいてヒンズー教の発展と密接な関係を持ち、大乗仏教と融合し、ネパール・チベット・中国・日本などに伝播していった。秘密仏教ともいう。真言宗の説く邪義がこれにあたる。
大日
大日は梵語(mahāvairocana)遍照如来・光明遍照・遍一切処などと訳す。密教の教主・本尊。真言宗では、一切衆生を救済する如来の智慧を光にたとえ、それが地上の万物を照らす陽光に似るので、大日如来というとし、宇宙森羅万象の真理・法則を仏格化した法身仏で、すべて仏・菩薩を生み出す根本仏としている。大日如来には智法身の金剛界大日と理法身の胎蔵界大日の二尊がある。
僻見
偏った見方、誤った考え方、見解。僻は偏る・あやまる・よこしま。見は考え方、見方。
象の譬
涅槃経巻三十二に出てくる。釈尊が「一切衆生悉有仏性」を理解させるために使った譬喩。ある国王が一人の大臣に象を牽いてこさせ、多くの盲人に触れさせて、象が何であるかを答えさせる。鼻に触れた者は「象は杵のよう」といい、尾に触れた者は「象は縄のよう」等と答えるなど正しいものはなかった。釈尊はこのことから真理を知る国王を如来の智慧、象を牽いてきた大臣を涅槃経、象を仏性、象がわからない盲人を無明の衆生に喩えた。ここでは、最勝の法華経の法理を知らず、劣った大日経を勝れていると誤っている真言密教の僧を盲人に譬えている。
華厳経
正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60巻・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
天竺
古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
羅什
(0344~0409)。梵語クマーラジーヴァ(Kumārajīva)の音写。中国・姚秦代の訳経僧。鳩摩羅耆婆、鳩摩羅什婆とも書き、羅什三蔵とも呼ばれる。童寿と訳す。父はインドの一国の宰相鳩摩羅炎、母は亀茲国王の妹・耆婆。7歳の時、母と共に出家し、仏法を学ぶ。生来英邁で一日に千偈、三万二千言の経を誦したと言う。9歳の時カシミール国に留学し、王の従弟の槃頭達多について学び、後に諸国を遊歴して仏法を修行した。初め小乗経を、後に須利耶蘇摩について大乗教を学び、亀茲国に帰って大いに大乗仏教を弘めた。しかし、中国の前秦王・符堅は、将軍・呂光に命じて西域を攻めさせ、羅什は、亀茲国を攻略した呂光に連れられて中国へ行く途中、前秦が滅亡したため、呂光の保護を受けて涼州に留まった。その後、後秦王・姚興に迎えられて弘始3年(0401)長安に入り、その保護の下に国師の待遇を得て、訳経に従事した。羅什は多くの外国語に通暁していたので、初期の漢訳経典の誤謬を正し、また抄訳を全訳とするなど、経典の翻訳をした。その翻訳数は、出三蔵記集巻二によると三十五部二九四巻、開元釈教録巻四によると七十四部三八四巻にのぼる。代表的なものに「妙法蓮華経」八巻、「大品般若経」二十七巻、「大智度論」百巻、「中論」四巻、「百論」二巻などがある。弘始11年(0409)8月20日、長安で寂したが、予言どおりに舌のみ焼けず、訳の正しさを証明したと伝えられる。なお、寂年には異説があるが、ここでは高僧伝巻二によった。
正法華
十巻。法華経の漢訳・現存三経中の最古のもの。中国・西晋の太康7年(0286)竺法護の訳。
添品法華
七巻(または八巻)。中国・隋代の闍那崛多と達磨笈多の共訳。添品妙法蓮華経の略称。現存の漢訳三経の一つ。
法華三昧
法華三昧経のこと。中国・劉宋元嘉4年(0427)智厳の訳。王女利行が法華三昧を得る方法を述べたもの。
薩云分陀利
薩曇分陀利経のこと。中国・西晋代の訳とされるが、訳者不明である。この経は妙法蓮華経の提婆達多品第十二に相当する分が別になったものである。釈尊の前生譚、提婆達多の授記、竜女の成仏が明かされている。
竜樹
梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
漢土
漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
真言宗
大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
澄観
(0738~0839)。中国華厳宗の第四祖。浙江省会稽の人。姓は夏侯氏、字は大休。清涼国師と号した。11歳の時、宝林寺で出家し、法華経をはじめ諸経論を学び、大暦10年(0775)蘇州で妙楽大師から天台の止観、法華・維摩等を学ぶなど多くの名師を訪ねる。その後、五台山大華厳寺で請われて華厳経を講じた。著書には「華厳経疏」60巻、「華厳経綱要」1巻などがある。
三論宗
竜樹の中論、十二門論と提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。大乗の空理によって、自我を実有とする外道、法を実有とする小乗を破し、さらに成実の偏空をも破している。究極の教旨として八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道を唱えた。日本には推古天皇33年(0572)1月1日、高句麗僧・慧灌が伝えた。現在は東大寺に伝わるのみである。
嘉祥
(0549~0623)。吉蔵大師の別名。中国隋・唐代の人で三論宗の祖。祖父または父が安息人(胡族)であったことから胡吉蔵と呼ばれた。姓は安氏。金陵(南京)の生まれで幼時父に伴われて真諦に会って吉蔵と命名された。12歳で法朗に師事し三論(「中論」「百論」「十二門論」)を学んだ。隋代の初め、開皇年中に吉蔵が嘉祥寺(浙江省紹興市会稽)で8年ほど講義をはって三論、維摩等の章疏を著わした。これにより吉蔵は嘉祥大師とも呼ばれた。「法華玄論」10巻をつくり、法華経を讃歎したが、後年、妙楽から「法華経を讃歎しているようにみえても、毀りがそのなかにあらわれている。どうして弘讃といえようか」と破折されている。後に天台大師に心身ともに帰伏し7年間仕えた。
法相宗
解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
慈恩
(0632~0682)。中国唐代の僧。中国法相宗の事実上の開祖。諱は窺基。貞観六年、長安(陝西省西安市)に生まれた。玄奘三蔵がインドから帰ったとき、17歳で弟子となり、玄奘のもとで大小乗の教えの翻訳に従事した。長安の慈恩寺で法相宗を広めたので、慈恩大師とよばれる。永淳元年に没。著書に「法華玄賛」10巻、「成唯識論述記」20巻、「成唯識論枢要」4巻等がある。慈恩が「法華玄賛」を著わして法華経をほめたが、これに対し、わが国の伝教大師は「法華経を讃すと雖も、還って法華の心を死す」、すなわち法華経を華厳経等と同格にほめたにすぎず、それはかえって法華経を軽視したことになり、謗法であるとして慈恩の邪義を破折した。
謗法
誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
講義
本章では、諸宗のなかでも、とくに真言宗の邪義を挙げて破折され、真言・華厳・三論・法相の各宗の祖師等がその心は天台宗に帰伏したにもかかわらず、その末弟等がそれを知らずに謗法を犯していることが述べられている。
まず、中国真言宗の祖である善無畏・金剛智等は、天台大師の極説であり釈尊一代の仏教の肝心である一念三千の法理を知って、「顕密二道の詮たる可きの心地の三千は且く之を置く」すなわち一念三千の理に心伏したうえで、「此の外・印と真言とは仏教の最要等」と邪義を立てたのである。
「開目抄」に「華厳経・乃至諸大乗経・大日経等の諸尊の種子・皆一念三千なり天台智者大師・一人此の法門を得給えり、華厳宗の澄観・此の義を盗んで華厳経の心如工画師の文の神とす、真言・大日経等には二乗作仏・久遠実成・一念三千の法門これなし、善無畏三蔵・震旦に来つて後・天台の止観を見て智発し大日経の心実相・我一切本初の文の神に天台の一念三千を盗み入れて真言宗の肝心として其の上に印と真言とをかざり法華経と大日経との勝劣を判ずる時・理同事勝の釈をつくれり……善無畏三蔵の閻魔の責にあづからせ給しは此の邪見による後に心をひるがへし法華経に帰伏してこそ・このせめをば脱させ給いしか」(0215:17)と詳しく論じられている。
そうした事実を知らない真言宗の末弟達は、善無畏や金剛智の説に依拠して、印・真言のない顕教の経々を卑しめて外道の法のように劣るとしたり、大日経は釈尊以外の仏、すなわち大日如来の説であるとしたり、大日経等の密教は釈尊第一の教説であるとしたり、同じ仏が釈尊と現れて顕教を説き、大日如来と現れて密教を説いたのだ、等の諸説を唱えたのである。それらはいずれも法華経と大日経の勝劣の根本を知らず、善無畏等の邪義を淵源として己義をさらに拡大したものといえよう。
大聖人は「今汝等知る可し大日経等は法華経已前ならば華厳経等の如く已後ならば涅槃等の如し」と、前述の贖命重宝の法門を挙げて、大日経が法華経以前であれ以後に説かれたにせよ、法華経の命を贖う重法にすぎないと、その立場を一言で明確にされているのである。
また、真言宗で大日経が他に勝れる理由とする印と真言についても、法華経と大日経が同本異訳であるとする説を挙げて、インドの法華経の原点には印・真言があったが、訳者の羅什三蔵がそれを省略して妙法蓮華経と名づけ、のちに善無畏が印・真言を加えて大日と名づけたものかと、印・真言などは枝葉であることを示されている。
印・真言の有無によって法華経と大日経の勝劣を定めることが誤りであることについては、法華真言勝劣事にくわしい。すなわち「日蓮云く威儀形色経・瑜祇経等の文の如くば仏説に於ては法華経に印真言有るか、若し爾らば経家・訳者之を略せるが……若し爾らば天台真言の理同事異の釈は経家並に訳者の時より法華経・大日経の勝劣なり、全く仏説の勝劣に非ず……印契真言の有無に付て二経の勝劣を定むるに大日経に印真言有つて法華経に之無き故に劣ると云わば、阿含経には世界建立・賢聖の地位是れ分明なり、大日経には之無し、彼の経に有る事が此の経に無きを以て勝劣を判ぜば大日経は阿含経より劣るか……法華経には二乗作仏・久遠実成之有り大日経には之無し印真言と二乗作仏・久遠実成とを対論せば天地雲泥なり、諸経に印真言を簡わざるに大日経に之を説いて何の詮か有る可きや」(0122:16)と。
仏の滅後に、法華経と諸経の勝劣を正しく知り得たのはインドでは竜樹菩薩であり、中国では天台智者大師だった。そして前述のように、真言・華厳・三論・法相の諸宗の祖師達は、いずれも内心は天台大師の一念三千の法門に帰伏していたのである。
そのことを、真言七重勝劣事には、
「天台宗に帰伏する人人の四句の事
一に身心 倶に移る─┬三諭の嘉祥大師
└華厳の澄観法師
┌真言の善無畏・不空
二に心移りて身移らず─┼華厳の法蔵
└法相の滋恩
三に身移りて心移らず─┬滋覚大師
└智証大師
四に身心倶に 移らず──弘法大師」(0131:13)
と整理されている。
そのような自宗の祖師の法華帰伏の実態を知らない諸宗の末師末弟らは、それぞれの宗義によって法華経を批判しているため、正法誹謗の重罪を免れることができないのである。
第五章 折伏値難は経証身読なるを明かす
或る人日蓮を難じて云く機を知らずして麤義を立て難に値うと、或る人云く勧持品の如きは深位の菩薩の義なり安楽行品に違すと、或る人云く我も此の義を存すれども言わずと云云、或る人云く唯教門計りなりと、具に我之を存すと雖も卞和は足を切られ清丸は穢丸と云う名を給うて死罪に及ばんと欲す・時の人之を咲う、然りと雖も其の人未だ善き名を流さず汝等が邪難も亦爾る可し。
勧持品に云く「諸の無智の人有つて悪口罵詈し」等云云日蓮此の経文に当れり汝等何ぞ此の経文に入らざる、「及び刀杖を加うる者」等云云日蓮は此の経文を読めり汝等何ぞ此の経文を読まざる、「常に大衆の中に在つて我等が過を毀らんと欲す」等云云、「国王大臣婆羅門居士に向つて」等云云、「悪口して顰蹙し数数擯出せられん」数数とは度度なり日蓮擯出衆度流罪は二度なり、法華経は三世の説法の儀式なり、過去の不軽品は今の勧持品今の勧持品は過去の不軽品なり、今の勧持品は未来は不軽品為る可し、其の時は日蓮は即ち不軽菩薩為る可し、
現代語訳
ある人が日蓮を非難して「末法の衆生の機根を知らないで、荒々しい折伏をするから難に値うのだ」といい、ある者は「勧持品に説かれる折伏の修行は深位の菩薩の行であり、初心の行の者は安楽行品の摂受の行によるべきであり、日蓮房は、これに背いている」といい、ある人は「自分も内心は法華第一の義を知っているが言わないでいるのだ」と述べている。またある人は「日蓮は教相門ばかりで観心門がないではないか」と責めている。
こうした非難を日蓮はよく知っているが、中国の卞和は足を切られ、清丸は穢丸という名をつけられたうえ、死罪にされようとした。その当時の人々はそのありさまを笑ったが、笑われた人は名を残し、笑った人々はその名を後世まで残してはいない。汝らの邪な非難もまた同様であろう。
勧持品第十三には「諸の無智の人々が悪口罵詈をする」とある。日蓮はこの勧持品の文のとおりになっている。汝らは、なんでこの経文に入らないのか。また「そして刀杖を加える者がいる」と。日蓮はこの経文を身で読んだのである。汝らは、なんでこの経文を身で読まないのか。また「つねに大衆のなかで、法華経の行者を毀ろうとする」とも、「国王、大臣、バラモン等に向かって法華経の行者を誹謗する」とも、「悪口し、軽蔑して、そのため法華経の行者は数数処を追われたりする」ともある。数数とはたびたびである。日蓮は処を追われること数回、流罪は二度である。
法華経は三世の諸仏の説法の儀式である。過去の威音王仏の時の不軽菩薩の修行を明かした不軽品は、今の勧持品であり、今の勧持品は過去の不軽品である。今の勧持品は未来には過去の不軽品となって修行の範となるであろう。その時、勧持品を色読した日蓮は過去の不軽菩薩として折伏の範となるであろう。
語釈
麤議
荒々しく乱暴なさま。
勧持品
妙法蓮華経の第13章。正法華経の勧説品に相当する。摩訶波闍波提・耶輸陀羅をはじめとする比丘尼への授記と声聞や菩薩たちによる滅後の弘経の誓いが説かれる。声聞の比丘・比丘尼は他の国土での弘経を誓ったが、菩薩たちはこの裟婆世界での弘経を誓う。菩薩たちの誓いの偈(韻文)は、20行からなるので、二十行の偈と呼ばれる。そこには、三類の強敵が出現しても難を忍んで法華経を弘通することが誓われている。勧持品と常不軽菩薩品第20に説かれる逆縁の人への法華経弘通は、滅後悪世における折伏による弘経の様相を示すものと位置づけられ、勧持不軽の行相という。日蓮大聖人は、滅後末法において法華経を弘通され、この勧持品の経文通りの難にただ一人遭っていることによって法華経を身読していると自覚され、御自身が真の法華経の行者であることの証明とされた。それは、滅後弘経を託された地涌の菩薩、とりわけその上首・上行菩薩であるとの御自覚となった。さらに、勧持品のように滅後悪世で三類の強敵に遭いながらも弘経していることは、不軽品に説かれる不軽菩薩が忍難弘経しついに成仏して釈尊となったように、成仏の因であることを確信される。法華経身読によって、末法の一切衆生を救う教主としての御確信に立たれたのである。このことから、大聖人は末法の御本仏であると拝される
深位の菩薩
修行が進み、52位の中の深位にある菩薩のこと。
安楽行品
法華経安楽行品第14のこと。迹門14品の最後である。身・口・意・誓願の四安楽行が説かれ、悪口・迫害されず、安穏に妙法を修行するには、いかにしたらよいかを示し、正像摂受の行を明かしている。
教門
仏の教説、教法のこと。仏の教えは生死解脱の道に入る能入の門である。
卞和
中国・周代楚の人。卞邑出身の和氏のこと。韓非子和氏篇によると荊山で玉璞を得て厲王に献上した。王が玉人に鑑定させたところ、ただの石というので、王を欺く者として左足を切らせた。厲王の没後即位した武王にも同様に璞を献上したが、またも石と鑑定されて右足を切られた。その後、文王が即位すると楚山の下で璞を抱いて三日三晩泣き明かし、ついに血涙を出した。文王がこれを知り理由を問うて璞を得、磨かせたところはたして宝石であったため、これを和氏の璧と名付けて天下に尊ばれた。
清丸
(0733~0799)。和気清麻呂のこと。奈良末期から平安初期の貴族・政治家。武官として藤原仲麻呂の乱の鎮定に功を立て、従五位下・近衛将監に進み、藤野和気真人の姓を賜った。神護景雲3年(0769)に称徳天皇の寵僧・道鏡を天皇に立てよという託宣を勅使として確かめに宇佐八幡宮へ行き、「無道の人を除くべし」との神託を報告して道鏡の野心をしりぞけた。そのため別部穢麻呂と名を変えられて大隅(鹿児島県)に流され、一族も流罪となった。道鏡失脚後、宝亀元年(0770)に許されて都に帰り、国造、造営大夫となって活躍した。
顰蹙
顔をしかめて憎むこと。
三世
過去世・現在世・未来世のこと。三世の生命観に立つならば、生命の因果の法則は明らかである。開目抄には「心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云」(0231:03)とあり、十法界明因果抄には「小乗戒を持して破る者は六道の民と作り大乗戒を破する者は六道の王と成り持する者は仏と成る是なり」(0432:12)とある。
不軽品
法華経常不軽菩薩品第二十のこと。法華経の中で流通分に位置し、法華経を信ずる者と毀る者との罪福を引いて証とし、流通を勧めた品である。この品に常不軽菩薩の因縁を説いているので不軽品と称する。威音王仏の滅後像法に常不軽菩薩が種々の迫害に耐え、「我れは深く汝等を敬い云云」の二十四文字の法華経を唱えて人々を礼拝した話を通して、滅後の弘教を勧めている。
不軽菩薩
法華経常不軽菩薩品第二十に説かれている常不軽菩薩のこと。威音王仏の滅後の像法時代に出現し、悪口罵詈、杖木瓦石の迫害にあいながらも、すべての人に仏性が具わっているとして常に「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん。汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」といって一切衆生を礼拝した。あらゆる人々を常に軽んじなかったので常不軽と呼ばれた。釈尊の過去の姿の一つとされる。また、不軽を軽賤し迫害を加えた者は、その罪によって千劫の間、阿鼻地獄に堕ちて大苦悩を受けた後、ふたたび不軽の教化にあい仏道に住することができたという。
講義
本章では、大聖人が難に値うのは衆生の機根も知らずに折伏したためであるなどと、さまざまに大聖人の折伏行を非難する者達に対して、折伏弘教によって難に値うことは法華経の経証どおりであると、勧持品の二十行の偈を身読された大聖人の実践の正しさを示され、疑難を破されている。
はじめに、大聖人の折伏行に対する四つの疑難が挙げられている。その第一は、いかなる法によって成仏するのかという衆生の機根を見分けないで、南無妙法蓮華経の一法しか成仏の道はないと立てるのは粗雑な教義である。だから難に値うのだとするもの。第二は、勧持品に説かれている三類の強敵を耐え忍び弘教する折伏行は深位の菩薩の修行法であり、浅学初心の行者は安楽行品に説かれている摂受の修行によるべきなのに大聖人はそれに背いているというもの。第三は、大聖人の立てている教説は自分も知ってはいるが折伏すべきでないと思っているゆえに外に向かっては言わないのだと責任逃れをしつつ、自らを悟っているという増上慢のもの。第四は、大聖人は教相門によって権実相対して諸宗を折伏しているが、観心門が欠けているではないか、との批判である。
こうした疑難は、諸宗からあったこともあろうが、大聖人が幕府から迫害され竜の口で処刑されようとしたため、門下周辺から猛然と起こったものと考えられる。
翌文永9年(1272)2月の「開目抄」では「世間の疑といゐ自心の疑と申しいかでか天扶け給わざるらん、諸天等の守護神は仏前の御誓言あり法華経の行者には・さるになりとも法華経の行者とがうして早早に仏前の御誓言を・とげんとこそをぼすべきに其の義なきは我が身・法華経の行者にあらざるか、此の疑は此の書の肝心」(0203:11)と、大聖人が諸天の加護もなく大難にあうのは法華経の行者ではないためではないか、との疑難を挙げられている。そして「守護神此国をすつるゆへに現罰なきか謗法の世をば守護神すて去り諸天まほるべからずかるがゆへに正法を行ずるものにしるしなし還つて大難に値うべし」(0231:15)と諸天の守護なき理由を明かされ、三類の怨敵を呼び起こした大聖人こそまさしく末法の法華経の行者であり、主師親三徳具備の仏であることを明かされているのである。これは、本抄の疑難の第一と第二に対する解答にもなっているといえよう。
また、同年3月の「佐渡御書」では「日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がかくなれば疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して……日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし我等はやはらかに法華経を弘むべしと」(0960:16)と述べられており、心弱くして退転しながら、かえって大聖人を批判する愚かな門下が出ていたことを物語っている。
また「日蓮が弟子にせう房と申し・のと房といゐ・なごえの尼なんど申せし物どもは・よくふかく・心をくびやうに・愚癡にして・而も智者となのりし・やつばらなりしかば・事のをこりし時・たよりをえて・おほくの人を・おとせしなり」(1539:10)との御文もあり、賢げに大聖人を批判する門下によって、多くの弟子檀那がたぶらかされて信心を捨てていったのである。
本抄に挙げられた折伏に対する批判も、そうした輩の言い分だったとも考えられる。大聖人が佐渡流罪へ出発されたのち、残された門下は幕府や主家等から迫害されたこともあって動揺し、大聖人が誤っていたと考えれば退転する正当な理由があることになるため、そうした批判には耳に入りやすかったことであろう。
大聖人が本抄を著されたのも、そうした門下の疑いを晴らし、確信を与えて難に耐え、信仰を貫かせるためだったと拝される。
大聖人は、正しきがゆえに迫害されながら後世に名を残した卞和や和気清麻呂の故事を引かれ、邪難をなす者が後に恥となることを示し、法華経勧持品にあるように無智の者に悪口罵詈され刀杖を加えられた日蓮こそ「此の経文に当れり」「此の経文を読めり」と、経文をそのまま身読・色読されたことを明かされているのである。
さらに、王難にあったのは三類の敵人のうち、道門・僣聖増上慢の輩の讒言によるものであり、伊豆・佐渡と二度の流罪にあったことは「数数見擯出」の経文どおりであることを示されている。
なお、「開目抄」にも「法華経の第五の巻・勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此の国に生れずば・ほとをど世尊は大妄語の人・八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし、経に云く『諸の無智の人あつて・悪口罵詈等し・刀杖瓦石を加う』等云云、今の世を見るに日蓮より外の諸僧たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ刀杖等を加えらるる者ある、日蓮なくば此の一偈の未来記は妄語となりぬ……常在大衆中・乃至向国王大臣婆羅門居士等、今の世の僧等・日蓮を讒奏して流罪せずば此の経文むなし、又云く『数数見擯出』等云云、日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はず況や余人をや、末法の始のしるし恐怖悪世中の金言の・あふゆへに但日蓮一人これをよめり」(0202:10)と、全く同趣旨の御文がある。
そして、法華経は過去・現在・未来と三世の諸仏の説法の儀式を説いたものであるから、過去威音王仏の像法時における不軽菩薩の弘教の方規は、今、日蓮大聖人が身読実践されている勧持品と全く同じであり、今の勧持品が未来に過去の不軽品と仰がれる時がくれば大聖人は「過去の不軽菩薩」として仰がれるであろうと仰せになって、忍難弘教こそ末法の正しい修行であることを結論されている。
この場合の大聖人が不軽菩薩と仰がれるとは、正法弘通の範となるという意味もあろうが、その文意は「不軽の因を行じて日蓮一人釈迦仏とならざるべき」(0960:13)、「日蓮は是れ法華経の行者なり不軽の跡を紹継するの故に軽毀する人は頭七分に破・信ずる者は福を安明に積まん」(0974:09)、「此の人は守護の力を得て本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか、例せば威音王仏の像法の時・不軽菩薩・我深敬等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し一国の杖木等の大難を招きしが如し、彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ彼の不軽菩薩は初随喜の人・日蓮は名字の凡夫なり」(0507:06)等の御文から、大聖人こそ末法の法華経の行者であり、大白法を建立し弘通される御本仏として仰がれるとの意と拝されるのである。
第六章 正法流布の時を末法と示す
一部八巻・二十八品・天竺の御経は一由旬に布くと承わる定めて数品有る可し、今漢土日本の二十八品は略の中の要なり、正宗は之を置く流通に至つて宝塔品の三箇の勅宣は霊山虚空の大衆に被らしむ、勧持品の二万・八万・八十万億等の大菩薩の御誓言は日蓮が浅智には及ばず但し「恐怖悪世中」の経文は末法の始を指すなり、此の「恐怖悪世中」の次下の安楽行品等に云く「於末世」等云云、同本異訳の正法華経に云く「然後末世」又云く「然後来末世」、添品法華経に云く「恐怖悪世中」等云云、時に当り当世三類の敵人は之れ有るに但八十万億・那由他の諸菩薩は一人も見えたまわず乾たる湖の満たず月の虧けて満ちざるが如し水清めば月を浮かべ木を植うれば鳥棲む、日蓮は八十万億那由他の諸の菩薩の代官として之を申す彼の諸の菩薩の加被を請う者なり。
現代語訳
法華経は一部八巻二十八品であるが、インドの原典には一由旬の広さに布かれるほどの量があると聞く。おそらく経本は現在のもの以外にもっと多くの品があったのであろう。今の中国・日本の二十八品は略の中の要なのである。
この法華経は序分・正宗分・流通分に分かれているが、その正宗分はさておき、滅後の弘教のあり方や功徳の説かれた流通分にいたって、見宝塔品では三箇の勅宣をもって霊鷲山と虚空会の大衆に滅後の弘教を仰せつけられた。また勧持品で二万・八万・八十万億等の大菩薩が滅後の弘教を誓言されたことについても、日蓮の浅い智慧では量れない。
ただし、その御誓言に「恐ろしい悪世の中」との経文は末法の始めをさすのである。この「恐ろしい悪世の中」と説かれた次の品の安楽行品等には「末世において」とあり、同本異訳である正法華経には「然るに後の末世に」とあり、また「然るに後に末世が来たりて」とあり、また添品法華経には「恐ろしい悪世の中」と説かれている。
この末法の時にあたる現在、三類の強敵が出現しているのに、八十万億那由他の諸菩薩は一人もおみえにならない。たとえば乾あがった湖に水が満ちず、虧けた月が満ちないようなものである。水が澄めば月は影を浮かべ、木を植えれば鳥が棲むようになるのである。日蓮は八十万億那由他の諸菩薩の代官として、この法華経を弘通するのである。必ず彼の諸の菩薩の加護を受けるであろう。
語釈
由旬
梵語ヨージャナ(Yojana)の音写。旧訳で兪旬、由延、新訳で踰繕那、踰闍那とも書き、和、和合、応、限量、一程、駅などと訳す。インドにおける距離の単位で、帝王の一日に行軍する距離とされる。その長さは古代中国での40里、30里等諸説があり、大唐西域記巻二によると、仏典の場合、およそ16里にあたるとしている。その他、9マイル、およそ14.4㌔とする説があるが確定しがたい。
正宗
正宗分のこと。
流通
承通分のこと。その内容的な意義について分析する場合、大きく序分・正宗分・流通分の三段に分ける。序分とは、中心眼目をあらわすための前置き、準備段階、正宗分とは、正論、中心眼目となる部分、流通分とは、正宗分に説かれた哲理・法理を、時機にしたがって応用し、流れかよわしめること。
宝塔品
妙法蓮華経見宝塔品第11のこと。この品において七宝の塔が大地の中から涌出して虚空に在住する人々が見えることから見宝塔品という。まず、この宝塔の中から大音声があって、皆これ真実と称歎したのに人々は驚き、大楽説菩薩は「何の因縁によって、塔有り、涌出し、音声を発す」と三問をすれば、すなわち釈尊から三答があった。つづいて、十方分身を召し、三変土田のことがあって二仏並座し、仏は神通力をもって、人々を虚空におき、大音声に唱募し「付属の時至る、付属して在るあり」と三箇の鳳詔をなし、のちの上行菩薩などが涌出する密説をなしている。また品末には六難九易を示して流通を勧めている。この宝塔品から嘱累品までの12品は、虚空で説かれたから虚空会といい、前後の霊鷲山とならべて二処三会という。
三箇の勅宣
法華経見宝塔品第十一で、釈尊が大衆に滅後の妙法華経の弘通を三回にわたって勧め命じたことをいう。勅宣はみことのりの意で、仏の金言をいう。三箇の鳳詔、三箇の諌勅ともいう。❶付嘱有在 「開目抄」には、「法華経の第四宝塔品に云く『爾の時に多宝仏・宝塔の中に於て半座を分ち釈迦牟尼仏に与う、爾の時に大衆二如来の七宝の塔の中の師子の座の上に在して結跏趺坐し給うを見たてまつる、大音声を以て普く四衆に告げ給わく、誰か能く此の娑婆国土に於て広く妙法華経を説かん、今正しく是れ時なり、如来久しからずして当に涅槃に入るべし、仏此の妙法華経を以て付属して在ること有らしめんと欲す』等云云、第一の勅宣なり」(0217:11)とある。❷令法久住 「開目抄」には、「又云く『爾の時に世尊重ねて此の義を宣べんと欲して偈を説いて言く、聖主世尊・久しく滅度し給うと雖も宝塔の中に在して尚法の為に来り給えり、諸人云何ぞ勤めて法に為わざらん、又我が分身の無量の諸仏・恒沙等の如く来れる法を聴かんと欲す各妙なる土及び弟子衆・天人・竜神・諸の供養の事を捨てて法をして久しく住せしめんが故に此に来至し給えり、譬えば大風の小樹の枝を吹くが如し、是の方便を以て法をして久しく住せしむ、諸の大衆に告ぐ我が滅度の後誰か能く此の経を護持し読誦せん今仏前に於て自ら誓言を説け』、第二の鳳詔なり」(0217:16)とある。❸六難九易 「開目抄」には、「多宝如来および我が身 集むる所の化仏 当に此の意を知るべし、諸の善男子・各諦かに思惟せよ此れは為れ難き事なり、宜しく大願を発こすべし、諸余の経典数・恒沙の如し此等を説くと雖も未だ為れ難しとするに足らず、若し須弥を接つて 他方無数の仏土に擲げ置かんも亦未だ為れ難しとせず、若し仏滅後・悪世の中に於て能く此の経を説かん是則ち為れ難し、仮使劫焼に乾れたる草を担い負うて中に入つて焼けざらんも亦未だ為れ難しとせず、我が滅度の後に若し此の経を持ちて一人の為にも説かん是則ち為れ難し、諸の善男子・我が滅後に於て誰か能く此の経を護持し読誦せん、今仏前に於て自ら誓言を説け」(0218:03)とある。六難九易を詳細すれば、仏の滅後の悪世に、(イ)「六難」は、①広説此経難(悪世の中で法華経を説くこと)②所持此経難(法華経を書き、あるいは人に書かせること)③暫読此経難(悪世の中で、しばらくの間でも法華経を読むこと)④少説此経難(ひとりのためにも法華経を説くこと)⑤聴受此経難(法華経を聴受して、その義趣を質問すること)⑥受持此経難(法華経を受持すること)(ロ)「九易」は、①余経説法易(法華経以外の無数の経を説くこと②須弥擲置易(須弥山を他方の仏土に擲げ置くこと)③世界足擲易(足の指で大千世界を動かして、遠く他国に擲げること)④有頂説法易(有頂天に立って無量の余経を演説すること)⑤把空遊行易(手に虚空・大空を把って遊行すること)⑥足地昇天易(大地を足の甲の上に置いて梵天に昇ること)⑦大火不焼易(枯れ草を背負って大火に入っても焼けないこと)⑧広説得通易(八万四千の法門を演説して、聴く者に六神通を得させること)⑨大衆羅漢易(無量の衆生に阿羅漢果を得させて、六神通を具えさせること)。
霊山虚空の大衆
法華経説法の霊鷲山会と虚空会に連なった一切の大衆。
恐怖悪世中
法華経勧持品第13の文。「恐怖悪世の中に」と読む。白法隠没・闘諍堅固の末法の時を指している。同じ文が添品法華経勧持品第12にある。
於末世
正法華経勧説品第12の文。「末世に於いて」と読む。悪世末法の時を指す。法華経安楽行品第14の「於後末世」と同意。
然後末世
正法華経勧説品第12の文。「然るに後の来世に」と読む。末法を指す。
然後未来世
正法華経勧説品第12の文。「然るに後に来世が来たりて」と読む。末法を指す。
三類の敵人
法華経勧持品第十三に説かれる。仏滅後の悪世に法華経の行者を種々の形で迫害する三種の敵人のこと。妙楽大師は法華文句記巻八の中で、勧持品の文から三類に約している。①俗衆増上慢(法華経を弘める者に対して、悪口罵詈等し刀杖を加える在家者)。②道門増上慢(邪智で心が曲がり、覚りを得たと錯覚している我慢の心の強い出家者)。③僣聖増上慢(山林に住み衣を着て、真実の仏道を行じたと思い込み人を軽蔑し、自らは利益のみにとらわれ、しかも在家に法を説き、世間から敬われ、権力に近づき正法を弘める者を迫害する出家者)。
那由他
梵語ナユタ(Nayuta)の音写。那由多、那由佗とも音写し、兆または溝と訳す。インドにおける数の単位の一つ。具体的数量は経論によって諸説があり、定かではない。
代官
主君の代理として職務に当たる者。
加被
加護のこと。
講義
本章では、釈尊が予言した法華経流布の時が恐怖悪世中等とあるように末法の始めであることを示し、大聖人こそ、その時にあたって法華経を弘通する人であることが明かされている。
法華経宝搭品第十一で釈尊滅後に法華経を弘通すべきことを勧めた三箇の勅宣が発せられ、それを受けた勧持品第十三では八十万億那由陀の菩薩が「仏の滅度の、恐怖悪世の中に於いて、我れ等は当に広く説くべし」と誓い、二十行の偈を説いて三類の敵人の出現を予言、「是の経を説かんが為めの故に、此の諸の難事を忍ばん」と忍難弘教を誓言しているのである。
勧持品で三類の強敵が競い起こるとされた正法流布の時とは、「『恐怖悪世中』の経文は末法の始を指すなり」とあるように、明らかに正法・像法時代ではなく末法を指しており、安楽行品や正法華経・添品法華経の文もいずれも末法を指している。
ところが、末法に入り三類の強敵はすでに出現しているにもかかわらず、勧持品で誓言した八十万億那由陀の菩薩が出現していないので、大聖人はその代官として正法を弘通するのであると仰せになっているのである。
すなわち、ここで再び三類の敵人を呼び起こす折伏こそ、勧持品の意にかなった末法の弘教であることを述べて、末法に折伏を否定し摂受を主張する者を破しておられるのである。
この御文もまた、「開目抄」に「妙法華経に云く『於仏滅度後恐怖悪世中』安楽行品に云く『於後悪世』又云く『於末世中』又云く『於後末世法欲滅時』分別功徳品に云く『悪世末法時』薬王品に云く『後五百歳』等云云、正法華経の勧説品に云く『然後末世』又云く『然後来末世』等云云……此は教主釈尊・多宝仏・宝塔の中に日月の並ぶがごとく十方・分身の諸仏・樹下に星を列ねたりし中にして正法一千年・像法一千年・二千年すぎて末法の始に法華経の怨敵・三類あるべしと八十万億那由佗の諸菩薩の定め給いし虚妄となるべしや、当世は如来滅後・二千二百余年なり大地は指ば・はづるとも春は・花は・さかずとも三類の敵人・必ず日本国にあるべし、さるにては・たれたれの人人か三類の内なるらん又誰人か法華経の行者なりとさされたるらん・をぼつかなし」(0225:09)と同趣旨のより詳しい御文があり、「開目抄」は本抄の意を更に展開されたものである事をうかがうことができる。
第七章 入道を帰し富木殿に謝す
此の入道佐渡の国へ御供為す可きの由之を申す然る可き用途と云いかたがた煩有るの故に之を還す、御志し始めて申すに及ばず候人人に是くの如く申させ給え、但し囹僧等のみ心に懸り候便宜の時早早之を聴かす可し、穴賢穴賢。
十月二十二日 酉の時 日蓮花押
土木殿
現代語訳
この入道はあなたの言いつけであるから、佐渡の国まで御供をするという。しかし、費用もかさみ、なにやかやと面倒なことでもあるからここで還すことにする。あなたの御志は今さら言うまでもないが、人々にもよくこのことを伝えてもらいたい。それにつけても土牢で苦しむ弟子達のことが心配なので、よい機会に早くこの法門を聞かせてほしい。穴賢穴賢。
十月二十二日 酉の時 日 蓮 花 押
土 木 殿
語釈
入道
仏門・仏道に入ること。本来は出家と同義。日本では平安時代から在家のままで剃髪した人を入道といい、僧となって寺院に住む人と区別するようになった。
用途
要する費用。旅費の意。つかいみち。
囹僧
牢獄に入れられた僧のこと。囹は牢屋の意。竜の口法難の時、日朗等の五人の門下が土籠に入れられた。
便宜
①よい機会、好都合。②音信、便り。
酉の時
午後6時頃。またその前後2時間で午後5時から7時をいう。
講義
本抄の最後で、富木家から佐渡へお供すべく付けられた入道を帰されるにあたり、富木常忍の志に感謝するとともに、人々に本抄の趣旨を伝えることと、捕えられ入獄している弟子達のことが心懸かりなので、寺泊御書で述べられている法門を伝え聴かせてほしいと依頼して、筆をおかれている。
入道を返されるのに「然る可き用途と云いかたがた煩有るの故に」とされているのは、流人の身として多くの供を佐渡まで伴うことはできないためや、供の者の旅費や食費などがかさむこと、また酷寒の佐渡へ供させることが気の毒と思われたこと、富木家へ迷惑がかかることを配慮されたため、などが考えられる。富木常忍の意を体して10数日の苦難の旅をともにし、佐渡までもと思いつめていた入道を、大聖人は、門下にとって重要な消息を一日も早く富木常忍のもとへ届けるようさとされたであろうと推される。
また「囹僧等のみ心に懸り」と仰せられているのは、竜の口法難の際に大聖人とともに捕えられ、土牢に入れられた日朗、日心、坂部入道、井沢入道、得業寺の5人の身の上である。大聖人は依智に滞在中の10月3日と9日の2回、激励の御状を書かれており、とくに依智出発前の9日には、「日蓮は明日・佐渡の国へまかるなり、今夜のさむきに付けても・ろうのうちのありさま思いやられて・いたはしくこそ候へ……籠をばし出でさせ給い候はば・とくとく・きたり給へ、見たてまつり見えたてまつらん」(1213:01、土籠御書)と弟子の身を思いやる大慈悲の御心境を伝えられている。
御自身が苦難の旅の途上であり、配所へ向かう身でありながら、鎌倉に残った弟子檀那のことのみをつねに思われ、人々の疑心を晴らすべく温かくも厳しい信心指導の書状を認められるとともに、とくに囚れの身の門下の身を案じられているのである。