転重軽受法門

転重軽受法門

 文永8年(ʼ71)10月5日 50歳 大田乗明・曽谷教信・金原法橋

第一章 修利槃特の故事を引き三人に譬える

 修利般特と申すは兄弟二人なり。一人もありしかば、すりはんどくと申すなり。各々三人は、またかくのごとし。一人来らせ給えば、三人と存じ候なり。

 

現代語訳

修利槃特という者は兄弟二人である。一人でもいたならば、すりはんどくというのである。大田左衛門尉・曾谷入道・金原法橋の三人はまたこれと同じである。一人でも来られたならば三人と思うのである。

語釈

須利槃特

梵語チューダパンタカ(apanthaka)の音写。周利槃特迦などとも書く。小路、愚路などと訳す。釈尊の弟子でバラモンの出身。経典によって諸説があり、兄弟二人のうち弟をさすという説と兄弟二人の並称であるとする説がある。また兄弟ともに愚鈍であったという説と、兄は聡明であったが、弟は暗愚で三年かかって一偈も覚えられなかったとする説がある。いずれにせよ、須利槃特は、釈尊に教えられた短い言葉をひたすら持って修行したところ、三年を経てその意を悟り、阿羅漢果を得たという。法華経五百弟子受記品第八で普明如来の記別を得た。

講義

本抄は文永8年(1271105日、日蓮大聖人が相模国依智の本間六郎左衛門尉重連の屋敷で著され、大田左衛門尉・曾谷入道・金原法橋の3人に与えられた御消息である。

日蓮大聖人は、文永8年(1271912日、鎌倉、名越の松葉ヶ谷の草庵におられたところを、幕府の侍所の所司である平左衛門尉頼綱の指揮する武装した兵士数百年に取り囲まれ、平左衛門尉の郎党・少輔房に法華経の第五の巻で顔を打たれた後に捕えられ、謀叛人のように鎌倉市内を引き回され、幕府に連行された。

そして、表面は佐渡流罪とされ、佐渡の守護・北条宣時の預かりとなったが、12日の深夜に引き出されて、鎌倉郊外の竜の口の刑場で頸の座につかれた。

しかし、光り物の出現によって武士たちが恐れて処刑ができなくなり、一時、佐渡の守護代である相模国依智の本間六郎左衛門尉の屋敷に預けられたのである。その間の経緯は種種御振舞御書に詳しく述べられている。

竜の口の法難の後、大聖人が依智に滞在している間に、幕府では大聖人の処分について評議を行い、赦免すべきであるという意見も出たようである。しかし、鎌倉で放火や殺人事件が連続して起こり、大聖人門下の犯行であるとの讒言がなされたともあって、結局、幕府は佐渡へ流罪することを決定した。

放火や殺人の犯行は、律僧や念仏者が策謀して、大聖人を陥れるために行わせたものであった。種種御振舞御書には「依智にして二十余日・其の間鎌倉に或は火をつくる事・七八度・或は人をころす事ひまなし、讒言の者共の云く日蓮が弟子共の火をつくるなりと、さもあるらんとて日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからずとて二百六十余人しるさる、皆遠島へ遣すべしろうにある弟子共をば頚をはねらるべしと聞ふ、さる程に火をつくる等は持斎念仏者が計事なり」(0915:18)と述べられている。

日蓮大聖人が依智に滞在中、大田左衛門尉・曾谷入道・金原法橋の三人が訪れて、お見舞い申し上げた事に対する御返事が本抄である。ただし、冒頭の御文から拝察すれば、三人のうちだれかが代表して来訪したとも考えられる。

本抄をいただいた大田五郎左衛門尉乗明は、下総国葛飾郡八幡荘中山郷に住んでおり、同じ八幡荘若宮に住む富木常忍の導きで文応元年(1260)ごろに入信し、門下になったといわれている。幕府の問注所の役人と伝えられ、学識もあり裕福で、しばしば大聖人に御供養し、多くの御消息をいただいている。

曾谷二郎兵衛教信も、同じ八幡荘曾谷郷に住んでおり、大田乗明とともに入信したと伝えられている。学識も教養もあり、経済的にも裕福で大聖人を外護している。金原法橋も葛飾郡付近にすんでいたと思われる。

3人は縁戚だったとする説もあるが、その根拠は明らかでない。いずれにせよ、近隣の親しい間柄であり、3人は富木常忍とともに下総の信徒の中心的な存在であったようである。

大聖人が竜の口法難の後、依智の本間邸に滞在されていることを知った3人は、誘い合わせて、あるいはそのうち1人が代表する形で依智の本間邸を訪れたのであろう。また、その時に大聖人の佐渡流罪が確定していたとすれば、万感の思いで御別れを告げたのであろう。

なお、大聖人は本抄を著された5日後の1010日に依智を出発、1028日に佐渡に着き、111日配所である塚原三昧堂に入られている。

本抄は、初めに修利槃特の故事を引かれて、大田・曾谷・金原の3人に譬えられている。次に涅槃経に説かれる転重軽受の法門について、過去世の謗法よって未来に地獄の苦を受けなければならないところを、法華経を受持して難にあうことによって軽く受けて消すことができるとされ、不軽菩薩や不法蔵の人々の例を引いて、仏の教えの通りに修行することの難しさを述べられている。特に、末法に法華経を身で読んでいるのは大聖人一人であると述べられ、門下に対して難が来ても信心を貫き仏道修行に励むよう教えられている。

修利槃特を例に三人の同心を称賛される

初めに、釈尊の弟子修利槃特の兄弟の例を挙げて、大田・曾谷・金原の三人に譬えられている。

修利槃特は周利槃特迦・須利槃特・周陀・莎伽陀と書き、釈尊の弟子の名で、兄弟2人のうち弟を指すとする説と、兄弟2人を指すとする説があるが、ここでは兄弟2人の名とする説を用いられている。翻訳名義集巻一には、兄を修利、弟を槃陀伽といったとある。

また、兄弟共に愚鈍だったという説と、兄は聡明だったが弟は愚鈍で、3年かかつて一偈も覚えられなかったとする説がある。

法句譬喩経には槃特は500人の阿羅漢に一偈を教えられても暗誦できなかたが、釈尊の「口を守り、意を摂め、身に非を犯す莫かれ、是くの如く行ずれば、世を度することを得ん」という教えによって、阿羅漢果を得たとある。

そのため、摩訶止観や大智度論等には鈍根の代表として挙げられる。なお、法華経五百弟子授記品では、兄弟ともに普明如来の記別を受けたと説かれている。大聖人もしばしば、機根の視点から二人の故事を挙げられ、三三蔵祈雨事には「すりはむどくは三箇年に十四字を暗にせざりしかども仏に成りぬ提婆は六万蔵を暗にして無間に堕ちぬ」(1472:04)と述べられている。

ただし本抄では、修利槃特の兄弟が1人でもいれば「すりはんどく」と呼ばれたように、大田・曾谷・金原の3人も同様で、1人でこられたなら3人で来られたと同じに思うであろう、と仰せである。このことから門下にも襲ってくるであろう難を見通されて、門下同士が異体同心で難を乗り越えていくようにとの御心を拝することができる。

 

 

 

 

第二章 転重軽受の法門を明かす

 涅槃経に転重軽受と申す法門あり、先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが今生にかかる重苦に値い候へば地獄の苦みぱつときへて死に候へば人天・三乗・一乗の益をうる事の候、不軽菩薩の悪口罵詈せられ杖木瓦礫をかほるもゆへなきにはあらず・過去の誹謗正法のゆへかと・みへて其罪畢已と説れて候は不軽菩薩の難に値うゆへに過去の罪の滅するかとみへはんべり是一、又付法蔵の二十五人は仏をのぞきたてまつりては皆仏のかねて記しをき給える権者なり、其の中に第十四の提婆菩薩は外道にころされ第二十五師子尊者は檀弥栗王に頸を刎られ其の外仏陀密多竜樹菩薩なんども多くの難にあへり、又難なくして王法に御帰依いみじくて法をひろめたる人も候、これは世に悪国善国有り法に摂受折伏あるゆへかとみへはんべる、正像猶かくのごとし中国又しかなり、これは辺土なり末法の始なり、かかる事あるべしとは先にをもひさだめぬ期をこそまち候いつれ是二、

 

現代語訳

涅槃経に転重軽受という法門がある。過去世の宿業が重く、現世に一生尽きないので、未来世に地獄の苦しみを受けるところが、現世の一生にこのような重い苦しみにあうと、地獄の苦みがさっと消えて、死ぬならば人・天や声聞・縁覚・菩薩の三乗あるいは一仏乗を得ることができるのである。

不軽菩薩の悪口をいわれ、罵られ杖木で打たれ、瓦や礫を投げられたのも理由がないわけではない。過去世に正法を誹謗したためと見えて、不軽菩薩品第二十に「其の罪を畢え已って」と説かれているのは、不軽菩薩が難に値うゆへに、過去世の罪の滅するかとみえるのである。これが第一の理由である。

また付法蔵の二十五人は仏を除いては皆、仏が前もって記されていた化身のものである。そのなかに第十四の提婆菩薩は外道に殺され、第二十五師子尊者は檀弥栗王に頚を刎ねられ、その外、仏陀密多や竜樹菩薩なども多くの難にあった。また難がなくて国王の後帰依が厚くて法を弘めた人もいた。これは世に悪国と善国があり、法に摂受と折伏がある故かと見られる。正法・像法でもなおこのようである。仏教の中心地インドもまたそうである。ここ日本は仏教の中心から離れている土地であり、末法時代の初めである。このような大難があるだろうとは、前から思い決めていた。その時期こそ待っていたのである。これが第二の理由である。

語釈

涅槃経

釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。

転重軽受

「重きを転じて軽く受く」と読み下す。涅槃経(北本)巻31の語。正法を護持する功徳の力によって、過去世の重罪を転じて、現世でその報いを軽く受け、消滅させるとの意。この法門については、「開目抄」で明かされている。また「転重軽受法門」では、転重軽受の功徳について「地獄の苦みぱつときへて」(1000:05)と仰せである。

法門

仏・菩薩の教え、その仏に従って学べば聖者の智に入ることのできる門。末法では御本仏日蓮大聖人の三大秘法をさす。

先業

前世・過去世でつくった業因のこと。主として悪業をいうが、業因は善悪には関係しない。

今生

今世の人生のこと。先生、後生に対する語。

未来

三世の一つで、将来。現世のつぎ。

地獄の苦

地獄界で受ける苦しみ。

重苦

重い苦悩・苦痛。身の苦と心の苦に分ける場合がある。

人天

人界と天界のこと、また、その衆生。人界は人間としてのごく普通な平穏な心・生命状態・境涯。天界は快楽に満ちた境涯。

三乗

十界のうち声聞・縁覚・菩薩の三をいう。それぞれ、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗という。声聞乗は仏説中の四諦の理を観じて自らの成仏を願い、精進するもの、三生または六十劫の後に解脱する機類をいう。縁覚乗は辟支仏乗ともいい、三界の迷いの因果を十二に分けた十二因縁を観じて、この十二因縁を順次滅し、最後に根本の無明を打ち破り、煩悩を断じ灰身滅智して四生または百劫の後に真の寂滅に帰するものをいう。菩薩乗とは一切衆生を済度することを願い、無上菩提を求め、三阿僧祇百大劫または動踰塵劫などの無量無辺の長い劫の間、六波羅蜜を行じて解脱するものをいう。

一乗

一仏乗のこと。仏乗は仏の境地に運ぶ乗り物の意味。一切衆生をことごとく成仏させる教法を一乗という。法華経・三大秘法のこと。

利益のこと。仏の教え・正法に従い行動することによって恩恵・救済。功徳のこと。

不軽菩薩

法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766:03)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。

悪口罵詈

法華経の行者をさだむ三類の強敵の第一類・俗衆増上慢の人の行為をいう。悪口をいい、ののしること。「罵」は面と向かって謗り、「詈」は陰に隠れて謗ることを意味する。

杖木瓦礫

不軽品の文。勧持品の文。末法の法華経の行者の遭難を示す文。①文永元年(12641111日・東条景信による小松原法難。②文永8年(1271912日、平左衛門尉のが一の郎従・少輔房による法華経の第五の巻をもっての殴打がある。

過去

三世のひとつ。前生・前世。

誹謗正法

謗法のこと。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。

其罪畢已

法華経常不軽菩薩品第20の文。「其の罪は畢え已わって」(法華経564㌻)と読み下す。不軽菩薩が礼拝行を貫いて得た宿命転換の功徳。不軽菩薩は人々の迫害を受けたことで、過去の謗法の罪を受け尽くして消し去ることができた。そして臨終に法華経を聞いたことで六根が清浄となり、寿命を延ばし、多くの人々に法華経を説き聞かせて仏道を成就したという。

過去の罪

過去世に犯した誹謗正法。

付法蔵の二十五人

釈尊滅後の正法時代に、教法の付嘱をうけ、次の人に伝えた正法護持者24人に釈尊を加えて25人。「大夫志殿御返事」には「所謂第一は大迦葉・第二は阿難・第三は未田地・第四は商那和修・第五は毱多・第六は提多迦・第七は弥遮迦・第八は仏駄難提・第九は仏駄密多・第十は脇比丘・第十一は富那奢・第十二は馬鳴・第十三は毘羅・第十四は竜樹・第十五は提婆・第十六は羅睺羅・第十七は僧佉難提・第十八は僧佉耶奢・第十九は鳩摩羅駄・第二十は闍夜那・第二十一は盤駄・第二十二は摩奴羅・第二十三は鶴勒夜奢・第二十四は師子尊者」(1103:07)とある。

一切諸法の現象と本体をありのままに覚知し、究極の真理を自ら現し、他を導いて真理を悟らせていく覚者のこと。

権者

かりの姿のこと。仏・菩薩が衆生救済のために、仮の姿でもってあらわれた存在。権化・権現ともいう。

第十四の提婆菩薩

一説には付法蔵第15と立てる。迦那提婆のこと。南インドの婆羅門の出である。提婆は梵語で天と訳し、迦那は片目の義。一眼であったからこのようにいわれた。一眼を天神に施したといわれ、また一女人に与えて不浄を悟らせたともいわれる。竜樹のもとで出家し諸国を遊化して広く衆生を救った。あるとき南インドの王が外道に帰依しているのを救おうとして、王の前であらゆる外道を破折した。ときに一外道の無知、凶悪な弟子があり、師が屈服したのを恥じて提婆に危害を加えた。しかし提婆は命尽きる前に、かえってその加害者を救ったという。

外道

仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。

第二十五師子尊者

一説には付法蔵第24。師子または師子比丘といわれる。最後の伝灯者である。中インドに生まれて鶴勒夜奢から法を受けた。のちに罽賓国に遊化して衆生を化導し仏法を大いに宣揚した。この国の二人の外道がこれを嫉んで、相謀って乱を起こし、仏弟子の姿をして王宮に潜入し、わざわいをなして逃げ去った。檀弥羅王は誤解し、怒って師子尊者の首を斬ったが、血が出ずに白乳が涌くように出て、同時に檀弥羅王の右臂が刀を持ったまま地に落ちて、7日ののちに命が終わったという。

檀弥栗王

檀弥羅王のこと。付法蔵第24番目、最後の伝灯者である師子尊者を殺害した王。師子尊者は釈尊滅後1200年ごろ、中インドに生まれ、鶴勒夜那について学び法を受け、罽賓国で弘法につとめた。この国の外道がこれを嫉み、仏弟子に化して王宮に潜入し、禍をなして逃げ去った。檀弥羅王は怒って師子尊者の首を斬ったが、血が出ずに白乳が涌き出し、王の右臂が刀を持ったまま地に落ちて、7日の後に命が終わったという。

仏陀密多

付法蔵の第八(一説には第九)。仏駄難提の弟子となり、智解が勝れていたので付法を受け正法を弘めた。時の国王は、大勢力があり勇猛博才であったが、外道を尊崇して仏法を破ろうとした。密多はその非を糺そうとして赤幡をかかげて王城の前で12年間往来し、遂に王に召聞され、婆羅門長者居士と宮殿で法論し大いにこれを破り帰依させた。王も邪心を改めて正法に帰依し、仏教を保護した。内心には大乗教をもち、外には小乗教で衆生を化導した。

竜樹菩薩

付法蔵の第十四(一説には第十三)。仏滅後700年ごろ、南インドに出て、おおいに大乗の教義を弘めた大論師。梵名はナーガールジュナ(Nāgārjuna)。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗経を学んでいたが、のちヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。南インドの国王が外道を信じていたので、これを破折するために、赤幡を持って王宮の前を七年間往来した。ついに王がこれを知り、外道と討論させた。竜樹は、ことごとく外道を論破し、国王の敬信をうけ、大乗経をひろめた。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。

王法

①国王・君主が定める国の法令。②憲法・法律③社会の習慣・規範

帰依

帰依依憑して救護を請うこと。尊者・勝者に身をゆだね、よりどころとすることをいう。信服随従の義をもち、仏法僧の三宝に帰依することを三帰といい、仏法信仰の根本とする。

いみじくて

①はなはだしい。②素晴らしい。③恐ろしい。

①ダルマ(dhamma)。法則・真理、教法・説法、存在、具体的な存在を構成する要素的存在などのこと。本来は「保持するもの」「支持するもの」の意で、それらの働いてゆくすがたを意味して「秩序」「掟」「法則」「慣習」など様々な事柄を示す。三宝のひとつに数えられる。仏教における法を内法と呼び、それ以外の法を外法と呼ぶ。ダルマは「たもつ」「支持する」などの意味をもつ動詞からつくられた名詞であり、漢訳仏典では音写されて達磨、達摩、曇摩、曇無などとなり、通常は「法」と訳されている。②四念処の一つ、身念処のこと。諸法は無我であると観察する。諸々の法には、本質的な主体(我)というものは存在しないことを観察する。意識の対象を観察する。私は真理について考えている、私は真理に基づいて考えている、私は煩悩について考えている、私は煩悩に基づいて考えている、私は真理に基づいて想像している、私は煩悩に基づいて想像している、これら意識の対象について観察する。

悪国

無知悪人の充満する悪い国のこと。十悪・五逆の行為が当然のように横行する野蛮未開の国土。開目抄には「末法に摂受・折伏あるべし所謂悪国・破法の両国あるべきゆへなり、日本国の当世は悪国か破法の国かと・しるべし」(0235:12

善国

命が清らかで、正しいものを素直に受け入れる衆生の充満する国土のこと。

摂受

折伏に対する語。仏道修行を分け、摂受と折伏とし、相手の誤りを容認しつつ次第に誘引して正法に入らしめる化導法。

折伏

摂受に対する語。仏道修行を分け、摂受と折伏とし、破折屈服・相手の邪義・邪法を破折して正法に伏させる化導法を折伏という。

正像

正法と像法のこと。正法は仏の教法が正しく伝わった時代という意味から、この呼称がある。年次については諸経典によって異説があるが、日蓮大聖人は大集経巻五十五に説かれる五五百歳を正像末の三時にあてはめ、第一の五百年(解脱堅固)と第二の五百年(禅定堅固)の一千年間を正法とされている。像法は正法一千年のつぎに到来する時代をいい、像は似の義とされ、形式が重んじられる時代といえる。年次については諸経典によって異説があるが、日蓮大聖人は、大集経巻五十五の五五百歳の中の第三の五百年(読誦多聞堅固)と第四の五百年(多造塔寺堅固)の一千年間を像法とされている。

中国

中国とは「仏法の中心地」のことで、当時はインドを指していう。

辺土

片田舎、①仏教発祥の地インドから遠く離れた日本のこと。②日蓮大聖人御生誕の地が日本の中心地である京都・鎌倉から遠く離れた地であること。

末法の始

釈迦滅後20002500年間。久遠元初の自受用身如来御出現の時。

時期・そのとき。

講義

涅槃経に説かれている転重軽受の法門について明かされている。

涅槃経の巻二十九には「有智の人は智慧の力を以って、能く地獄の極重の業をして現世に軽く受けしめ、愚癡の人は現世の軽業を重受く」とあり、また「是の如きの人は、則ち能く身に戒、心に慧を修習して、是の人、能く地獄の果報を現世に軽く受く」とある。さらに般泥洹経の巻四には「余の種々の人間の苦報を現世に軽く受く、斯れ護法の功徳力に由る故なり」とある。すなわち、智慧の力、修善の功徳、護法の功徳等によって、過去世の重い罪業を転じて、その報いを現世に軽くうけることが明かされている。

不軽菩薩の受難を転重軽受の先例とする

大聖人は涅槃経で説かれる転重軽受の法門とは、過去世の重業が今生で尽きずに、未来世に地獄の苦悩を受けるべきところを、今生のような重苦にあうことによって、地獄の苦しみがさっと消えて、死んだ後に人界・天界の境涯。声聞・縁覚・菩薩の三業の功徳、さらに仏界の利益を得られることがある、と述べられている。

その例として、法華経不軽菩薩本事品第二十に説かれる、不軽菩薩が一切衆生を礼拝したことで悪口罵詈され、杖や木で打たれ、瓦や石を投げられるという難をうけたのも、その原因は過去世に正法を誹謗したためであり「其罪畢已 其の罪、畢え已って」と説かれているのは、不軽菩薩が難にあうことによって過去世の罪が滅したとみられるのである。と不軽菩薩の事例を挙げられている。すなわち「今生にかかる重い苦に値い候へば」とは、世間の苦悩ではなく、正法を弘通することによって受ける大難を指しているのである。不軽品には、過去世の威音王仏の滅後、像法に出現した不軽菩薩が、経典読誦を専らにせず、上慢の四衆に対して、「我深敬汝等。不敢軽慢。所以者何。汝等皆行菩薩道。当得作仏」と唱えて礼拝を行じた、と説かれている。

しかし、四衆からは悪口罵詈され、杖木で打擲され、瓦石を投げられたが、避けて遠くへ走り、なおも高声で「我敢えて汝等を軽しめず、汝等皆当に作仏すべし」と唱え続けて、その功徳によって、不軽菩薩は六根清浄を得て、やがて成仏した、と説かれている。

不軽品の偈には「諸人聞き已って、軽毀し罵詈せしに、不軽菩薩、能く之を忍受しき。其の罪畢え已って、命終の時に臨んで、此の経を聞くことを得て、六根清浄なり(中略)不軽命終して、無数の仏に値いたてまつる。是の経を説くが故に、無量の福を得。漸く功徳を具して、疾く仏道を成ず」とある。不軽菩薩が、上慢の四衆から悪口罵詈され、杖木瓦石で打擲されたのも、過去世の正法誹謗の悪業のためであり、難にあうことによってその罪を受け終わって六根清浄となり、やがて成仏できたと説かれており、これが涅槃経に示された転重軽受の法門の第一の例である。

付法蔵の受難の例から末法に大難があるを示す

次に、付法蔵の25人の中で、難にあった提婆や師子等の例を挙げられている。付法蔵とは、仏法の教説を後代に濠つたえていくために、仏が弟子に法蔵を付嘱することをいい、付法蔵の25人とは、正法時代釈尊から付嘱を受け、その教えを順次付嘱し布教していった正師をいった。付法蔵経には、釈尊から付嘱をうけた摩訶迦葉から最後の師子尊者までの24人の名が挙げられている。本抄では、「付法蔵の25人は仏をのぞきたてまつりては」と仰せなので、釈尊を含めて25人とあれたのであろう。付法蔵の人々は、仏が予言したとおりに出現した権者、すなわち本来は菩薩として浄土に住する身でありながら、衆生を救うために娑婆世界に現した化身である、と意義づけられ、それにもかかわらず、そのなかの提婆菩薩や師子尊者は、命をうばわれるという過酷な難にあっている、と仰せである。

付法蔵の第14となる提婆菩薩とは迦那提婆といい、3世紀ごろの南インドの人で、付法蔵の第13の竜樹菩薩の弟子となった。外道に帰依していた国王を破折したり、邪道の論師を多く破折したため、その弟子の一人に恨まれて殺されている。

師子尊者は、付法蔵第24の最後の伝灯者で、6世紀ごろの中インドの人。罽賓国で布教していた時、多くの寺塔を破壊して僧を殺し、仏法を迫害していた檀弥羅王によって首を切られたとされる。

そのほかにも、仏陀蜜多や竜樹菩薩なども難にあったとされている。仏陀蜜多は、付法蔵の第9で、インドの提伽国の人である。付法蔵の第8、仏陀難提の弟子となって法を受けている。巧みな方便を用いて衆生を導き、多くの外道を論破した。外道を信ずる国王を教化するために、赤い旗を掲げて12年の間、王城の前を往来し、ついに王の目に止まり、王の面前で博学なバラモンたちと法論して論破したことで、王の帰依を得ている。

竜樹菩薩は付法蔵の提13で、23世紀ごろ南インドで大乗の論師として活躍した、大乗の諸経典を注釈し、理想的な基礎を与えて大乗思想の興隆に貢献し後に俱舎・成実・律・法相・三論・華厳・真言・天台の8宗すなわち全宗派から祖師と仰がれた。竜樹も南天竺で、赤い旗を持って王宮の前を行き、7年にして王の目に止まって教化し、多くの外道を論破し弟子にしたとされている。

仏陀蜜多や竜樹の場合、直接どのような難を受けたかの記述はないが、外道を信ずる王を教化するために何年も旗を掲げて王宮の前を行き来しなければならなかった。当然、番兵から咎められたり、人々から嘲笑やののしりをあびるなどの難があったとしてこのように仰せられたものと思われる。それに対して、難がなくて国王の帰依を受け、法を弘めた人もいる。と述べられている。そして、このように、正法を弘通するのに、難がある場合とない場合があるのは、国に善国と悪国があり、弘法に摂受と折伏があるからであろう、と仰せである。善国とは衆生が正法に帰依している国、衆生の命が清らかで素直に正法を受け入れる国をいう。悪国とは仏法に無知あるいは、命が濁っているために素直にうけいれようとしない衆生の充満する国をいう。善国では、国主や衆生が正法を受持するので、難を受けることなく正法を弘めることができるが、悪国では国主や衆生が邪法を持って正法を信じないばかりか、正法を弘める人に迫害を加えることで難が起こるのである。

また、仏法の摂受を行ずる場合には難を受けることはない。それは、山林で、ひとり経を読誦し修行するか、人を教化するにも、相手の誤りを容認しつつ、次第に誘引していくやり方をとるからである。それに対して、折伏を行じた場合には、難が起こるのである。それは、相手の邪法・邪義を破折して正法に伏させようとするため、相手が感情的に反発し、怨嫉して迫害するからである。

故に、付法蔵の正師であっても、悪国で弘教した場合や、折伏を行じた時には、身命に及ぶ大難にあうこともあり、弘教のうえで難にあうこともあるのである。

ここで、正法・像法時代にあっても、悪国において折伏した場合は難にあったのであり、また仏教の中心地で機根が比較的優れているインドにおいても難にあうのだから、辺土の日本において末法の始めに正法を弘通した場合には命に及ぶ大難があることは初めから思いさだめており、その時を待っていたのである、と述べられている。そして、それが転重軽受の法門の第二例であるとされているのである。

正法・像法時代であれ末法であれ、正法弘通が原因で大難にあうことは、過去の謗法の重罪を軽く受けている姿であることを教えられ、特に末法においてはその難が甚だしい、つまり大きな罪業を消滅できることを示されているのである。

なお、開目抄には「邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし」(0235:10)と述べられている。末法の現在の日本は、正法を誹謗する破法の国であり、故に大難を恐れずに折伏を行ずることが正しい仏道修行となるのである。

 

 

 

第三章 大聖人の法華経色読を示す

この上の法門はいにしえ申しをき候いきめづらしからず円教の六即の位に観行即と申すは所行如所言・所言如所行と云云、理即名字の人は円人なれども言のみありて真なる事かたし、例せば外典の三墳五典には読む人かずをしらず、かれがごとくに世ををさめふれまう事千万が一つもかたしされば世のをさまる事も又かたし、法華経は紙付に音をあげて・よめども彼の経文のごとくふれまう事かたく候か、譬喩品に云く「経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賤憎嫉して結恨を懐かん」法師品に云く「如来現在すら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」勧持品に云く「刀杖を加え乃至数数擯出せられん」安楽行品に云く「一切世間怨多くして信じ難し」と、此等は経文には候へども何世にかかるべしとも・しられず、過去の不軽菩薩・覚徳比丘なんどこそ身にあたりてよみまいらせて候いけると・みへはんべれ、現在には正像二千年はさてをきぬ、末法に入つては此の日本国には当時は日蓮一人みへ候か、昔の悪王の御時多くの聖僧の難に値い候いけるには又所従・眷属等・弟子檀那等いくそばくか・なげき候いけんと今をもちて・をしはかり候、今日蓮・法華経一部よみて候一句一偈に猶受記をかほれり何に況や一部をやと、いよいよたのもし、但おほけなく国土までとこそ・をもひて候へども我と用いられぬ世なれば力及ばず、しげきゆへにとどめ候い了んぬ。

       文永八年辛未十月五日                         日蓮花押

     大田左衛門尉殿

     蘇谷入道殿

     金原法橋御房

     御返事

 

 

現代語訳

この転重軽受の法門は昔に教えておいた。珍しいことではない。法華円教を修行する菩薩の六種の階位に観行即というのは「行ずる所は言う所の如く・言う所は行ずる所の如し」とある。それ以下理即・名字即の人は法華円教を信ずる人であるけれども、言葉のみあって、真に現実にするのは難しい。

例えば仏教以外の典籍であるの三墳と五典を読む人は人数を知らないほど多い。しかし、その典籍のしめすように世を治め、振る舞うことは、千万に一つも難しい。そうだから世が治まることもまた難しい。

法華経を紙に書いてあるままに声を上げて読むけれども、その経文どうりに振る舞うことは難しいであろう。法華経譬喩品第三に「法華経を読誦し書持し受持する者を見て、軽しめ、賎しみ、憎み、嫉んで恨みを懐くであろう」同経法師品第十に「如来の現在ですらなお怨嫉が多い、ましてや滅度の後においてはなおさらである」同経勧持品第十三に「刀や杖を加え(乃至)しばしば追放されるであろう」同経安楽行品第十三に「一切の世間には怨が多くし信じるのが難しい」とある。

これらのことは経文には説かれているが、いつの世にそのような難があるとは分からない。過去世の不軽菩薩や覚徳比丘などは、その身をもって読まれたと見える。現在の時代では、正法時代・像法時代の二千年はしばらく置くとして、末法時代に入っては、この日本国で今の時に、これらの経文を身をもって読むのは日蓮一人だけであると思われる。昔の悪王の時、多くの高徳の僧が難にあったのに対しては、また従者や一族、弟子・檀那たちはどのくらい嘆いたことか。今の境遇から推し量られる。

今日蓮は法華経一部八巻二十八品を身をもって読んだ。法華経の一句一偈を身を持って読むことによってさえ、仏から未来成仏の保証を受けている。ましてや法華経一部を読んだ場合はなおさらである。ますます頼もしいことである。ただ身のほどを知らずに国土まで安穏にしたいと思って、自ら進んで励んだことが用いられない今の世であるから、力が及ばなかった。これで筆を置くことにする。

文永八年辛未十月五日                         日蓮花押

大田左衛門尉殿

蘇谷入道殿

金原法橋御房

御返事

 

語釈

円教の六即の位

天台大師が立てた法華円教を修行する菩薩の六種の修行位。理即・名字即・観行即・相似即・分身即・究竟即のこと。

 

観行即

「観行」とは、観心(自分の心を観察する)の修行のことであり、「観行即」は修行内容の上で仏と等しいという意。仏の教えのとおりに実践できる段階。

 

所行如所言・所言如所行

摩訶止観巻1下の文。「行ずる所は言う所の如く、言う所は行ずる所の如し」と読む。六即位の第三・観行即について述べた文。所言は仏の教え、所行は修行。説の如く修行する位を観行即という。

 

理即

天台の立てた六即位のひとつ。理の上で仏性を具しているというのみの凡夫の位。

 

名字

①呼び名・名称・題名。②天台大師が摩訶止観巻1で立てた六即位の第二。言葉(名字)の上で仏と同じという意味で、仏の教えを聞いて仏弟子となり、あらゆる物事はすべて仏法であると信じる段階。

 

円人

円教を信じて修行に励む人のこと。

 

言葉。

 

外典

仏経典以外の典籍。内典に対する語。

 

三墳五典

三皇・五帝が著わしたとされる書。尚書の序に「三皇の書を三墳といい、五帝の書を五典という」とある。三墳の墳とは〝大道〟を意味し、五典の典とは〝常道〟を意味する。しかし、いずれも現存しているわけではなく、内容も不明である。

 

法華経

大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。

【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。

【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、0284:08)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(0266:11)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546:11)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、0910:17)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。

【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。

 

譬喩品

妙法蓮華経譬喩品第3のこと。迹門・正宗分の中、法説周の領解・述成・授記段・譬説周の正説段の二つの部分からなる。まず方便品の諸法実相の妙理を領解して歓喜した舎利弗に仏は未来世成仏の記莂を与え、劫・国・名号を明かす。次いで、中根の四大声聞に対する説法に入るが、譬喩を主体とするので譬え説周と呼ばれる。そのなかで仏は三車家宅の譬を説いている。この譬えにおける火宅は三界を、また羊・鹿・牛の三車は三乗を、大白牛車は一仏乗の妙理をあらわしており、一仏乗こそ仏が衆生に与える真実の教えであることを述べている。終わりに、舎利弗の智慧でも法華経の妙理を悟ることはできず、ただ「信を以って入ることができる」と、信の重要性を述べ、逆に正法への不信・誹謗の罪の大きさを説いている。

 

読誦

読と誦のこと。「読」は経文を読むことで「誦」は暗誦すること。それぞれ五種の妙行のひとつで、ともに自行化他の自行にあたる。

 

書持

経文を書写し受持すること。

 

軽賎

他人を軽蔑し卑しむこと。

 

憎嫉

憎み嫉むこと。善法や正法を弘通する人を憎み、嫉むこと。

 

結恨

恨みを結ぶこと。結んで解けないようなうらみを生ずること。

 

法師品

法華経法師品第十のこと。法華経迹門の流通分にあたる。一念随喜と法華経を持つ者の功徳を明かし、室・衣・座の三つをあげ滅後の弘教の方軌を説いている。

 

如来

①「如々として来る」と訳す。仏のこと。②過来・如来・未来のなかの如来。瞬間瞬間の生命。

 

現在

今・現在世。

 

怨嫉

うらみ、ねたむこと、正しい法を教えのとおり実践する者をあだみ、ねたむこと。

 

滅度の後

①インド応誕の釈尊が入滅した後。②末法のこと。

 

勧持品

妙法蓮華経の第13章。正法華経の勧説品に相当する。摩訶波闍波提・耶輸陀羅をはじめとする比丘尼への授記と声聞や菩薩たちによる滅後の弘経の誓いが説かれる。声聞の比丘・比丘尼は他の国土での弘経を誓ったが、菩薩たちはこの裟婆世界での弘経を誓う。菩薩たちの誓いの偈(韻文)は、20行からなるので、二十行の偈と呼ばれる。そこには、三類の強敵が出現しても難を忍んで法華経を弘通することが誓われている。勧持品と常不軽菩薩品第20に説かれる逆縁の人への法華経弘通は、滅後悪世における折伏による弘経の様相を示すものと位置づけられ、勧持不軽の行相という。日蓮大聖人は、滅後末法において法華経を弘通され、この勧持品の経文通りの難にただ一人遭っていることによって法華経を身読していると自覚され、御自身が真の法華経の行者であることの証明とされた。それは、滅後弘経を託された地涌の菩薩、とりわけその上首・上行菩薩であるとの御自覚となった。さらに、勧持品のように滅後悪世で三類の強敵に遭いながらも弘経していることは、不軽品に説かれる不軽菩薩が忍難弘経しついに成仏して釈尊となったように、成仏の因であることを確信される。法華経身読によって、末法の一切衆生を救う教主としての御確信に立たれたのである。このことから、大聖人は末法の御本仏であると拝される

 

刀杖

刀剣と杖木

 

乃至

①すべての事柄を主なものをあげること。②同類の順序だった事柄をあげること。

 

数数

たびたび、幾度も。

 

擯出

人をしりぞけ、遠ざけること。住所を追い出すことをいう。

 

安楽行品

法華経安楽行品第14のこと。迹門14品の最後である。身・口・意・誓願の四安楽行が説かれ、悪口・迫害されず、安穏に妙法を修行するには、いかにしたらよいかを示し、正像摂受の行を明かしている。

 

一切世間

すべての世界、あらゆる世の中のこと。世間には三意がある。①世の中・世俗のこと、世は隔別・還流、間は内面にあるもの・間隔の義、世の中のすべての事物・事象をいう。②六道の迷界。③差別の意、五蘊世間・衆生世間・国土世間や有情世間・器世間など。

 

仏法に敵対すること。

 

何世

「いつのよ」と読む。

 

不軽菩薩

法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。

 

覚徳比丘

涅槃経の金剛身品に説かれている。過去世に歓喜増益如来の入滅後、正法を護持した僧。諸の比丘に「奴婢・牛羊・非法の物を畜養することを得ざれ」と戒めたところ、これを聞いた破戒の僧は悪心を起こし刀杖をもって迫った。このとき、有徳国王が護法のために覚徳比丘をわが身を賭して守った。刀剣箭槊で全身に瘡を被った有徳王に覚徳比丘は「善い哉善い哉、王は今真に是れ正法を守る者。当来の世、この身まさに無量の法器となるべし」と述べた。王は歓喜し命を終え、次に阿閦仏国に生まれ、阿閦仏の第一の弟子となる。覚徳比丘も命終して阿閦仏国に生まれ、彼の仏の第二の弟子となった。正法滅尽のときに正法を護った因縁によって覚徳比丘は迦葉仏となった。

 

聖僧

惑を断じ悟りを得た優れた僧。常に民衆救済を忘れず、少欲知足で、正法を流布する僧。

 

所従

従者。家来。

 

眷属

①仏・菩薩などの脇士や従う人。②一族・親族。③従者・家来。

 

弟子

師匠に従って教えを受け、師匠の意思を受け継いで実践し、それを伝える者。

 

檀那

布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。

 

法華経一部

法華経は一部八巻28品からなるということ。

 

一句一偈

経文において四句をもって一つの偈をなすもの。句とは通常、数語で一つの意味をなしている最小限度のものをいうが、漢訳経典では、四字または五字などで一句をなすものが多い。偈は一般に経典中の韻文形式で説かれたものをいい、仏の徳または教理を賛嘆している。

 

受記

仏が弟子等に対して、成仏の記別を授けること。記別とは、未来のことを予記分別することで、未来世の成仏に対する仏の印可である。開目抄(0194:01)に「劫・国・名号と申して二乗成仏の国をさだめ劫をしるし所化の弟子なんどを定めさせ給へば」とあり、劫・国・名号が与えられることである。たとえば授記品で、迦葉に対して劫を大荘厳、国を光徳、名号を光明如来と授記されている。

 

国土

①国家の統治権が行われる地域。②土地。③故郷。④十界の衆生の住むところ。

 

辛未

干支の組み合わせの8番目で、前は庚午、次は壬申である。陰陽五行では、十干の辛は陰の金、十二支の未は陰の土で、相生(土生金)である。

 

花押

文書・手紙が自己の意思に基づくものであることを証明するしるし。

 

大田左衛門尉殿

12221283)。日蓮大聖人御在世当時の信徒。大田乗明・太田金吾・大田入道ともいう。千葉氏の家臣であり、下総国葛飾郡八幡荘中山郷(千葉県市川市中山)に住み、富木常忍、曽谷教信らとともに、下総中山を中心に外護の任にあたった。建治元年(1275)次子を出家させ、自身もまた弘安元年(1278)頃に入道して妙日の号を賜り、その住居を本妙寺とした。

 

蘇谷入道

12241291)曾谷二郎兵衛教信のこと。曾谷二郎入道・教信ともいう。日蓮大聖人御在世当時の信者。下総国葛飾郡曾谷(千葉県市川市曾谷)に住んでいた。文応元年(1260)ころに大聖人に帰依し、後に出家・法蓮日礼の法号を授かっている。安国寺・法蓮寺を建立している。

 

金原法橋

日蓮大聖人御在世当時の弟子。富木胤継・太田乗明・曾谷教信等と親交があった模様。

 

講義

日蓮大聖人が、法華経に予言されたとおりに実践した故に、経文どおりの大難にあわれていることを明かされている。

円教の六即の位とは、天台大師が法華円教を修行する菩薩に、理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即の六種の修行位を立てたものである。

そのなかで、観行即とは、実践修行を通して我が心性の仏を観じて、言行一致の修行に励む位をいう。「所行如所言・所言如所行」とは、摩訶止観のなかで観行即の位について述べた言葉で「行ずる所は言う所の如く・言う所は行ずる所の如し」と読み、仏の説の如く修行し、言葉で言うことと行動・実践することが一致している状態をいった。

六即の位の中で、観行即の位に入る前の理即の名字即の位は、言葉のみそのとおりに実践するにいたっていない段階をいう。

理即とは、理の上では仏性を具えているが、いまだ正法を聞いていない迷いの凡夫の位をいい、名字即とは初めて正法を聞いて、一切法は皆仏法であると知る位をいうのであり、いまだ実践には移っていない段階なので、このように述べられているのである。

その一つの例として、中国古代の伝説上の聖君とされる伏羲・神農・黃帝の三皇と少昊・顓頊・高辛・唐堯・虞舜の五帝の書とされる三墳五典を読んだ者は数多いが、そのとおりに実践して世を治め、行動することは難事であり、したがって、そこに説かれるように平和に世が治まったこともない、と指摘されている。

堯・舜などの三皇五帝をはじめ、古代の先聖の道を集大成して、自己を修めて君子となり、徳行を及ぼして人を治め天下を治めることを本旨として儒教を興したのが、中国・春秋時代の孔子である。三墳五典は秦始皇帝の焚書坑儒で失われたといい、伝わっていないので、内容は不明だが、三皇五帝が世を治め、自らを律して行動したことを記したものとされる。そうした先人の振る舞いを学ぶのは易しいが、そのとおりに実践することは難しいのである。

法華経についても、紙に書いてあるとおりに声を出して読むことは易しいが、経文に説かれているとおりに振る舞い、実践することは難しいであろう、と述べられている。

 

法華経の行者に大難の起こる経文を引く

 

そして、法華経自体に、法華経に説かれているとおりに行じた場合には必ず大難が起こることが説かれており、しかも現実に経文とおりの難を受けるために、信心を貫くのが難しいことを、経文を引いて示されている。

法華経譬喩品第三には「経を読誦し所持すること、有らん者を見て、軽賎憎嫉して、結恨を懐かん」と説かれている。仏の在世や滅後には、人々は法華経を誹謗し、法華経を持つ者を見て、軽んじ、賤しみ、憎み、嫉妬し、恨みを懐くであろう、という意味である。

なお、この文の前の「憍慢懈怠、我見を計する者には」からこの文までは十四誹謗にあたり、そのなかでこの文は十四誹謗の最後の四つ、軽善・憎善・嫉善・恨善にあたる。これは妙楽大師の法華文句記に出ている。

法師品第十には「此の経は、如来の現在すら、尚怨嫉多し、况んや滅度の後をや」と説かれている。法華経を説くと、釈尊の在世でさえも多くの怨嫉を受けるのだから、まして仏の滅後に法華経を弘める者が、より多くの怨嫉を受け、難にあうのは当然である、という意味である。

勧持品第十三には「恐怖悪世の中に於いて、我等当に広く説くべし。諸の無智の人の、悪口罵詈し、及び刀杖を加うる者有らん(中略)濁世の悪比丘は、仏の方便、随宣所説の法を知らずして、悪口し顰蹙し数数擯出せられん」と説かれている。八十万億那由佗の菩薩が、仏の滅後の弘教を誓った二十行の偈の文で、三類の強敵の出現を予言している。

すなわち、恐るべき悪い時代に、我等は広く法華経を説くであろう。それに対して、諸の無智の人が悪口罵詈し、刀や杖で迫害を加える者がいるだろう(中略)五濁悪世の悪比丘は、仏が方便で、衆生の機根を宣しきに随って説いた法を知らずに、法華経を弘める人を悪口し、顰蹙して、我等は数数擯出せられるだろう、という意味である。

安楽行品第十四には「一切世間に怨多くして信じ難く」と説かれている。この法華経は、よく衆生を一切智に至らせる究極の法であるが、一切の世間の多くの人が怨嫉して信じようとしないであろう、という文である。

いずれも、仏の滅後、悪世である末法に法華経を弘める者は、必ず人々から怨嫉され、迫害され、難を受けることを明かしている文である。

 

末法に法華経を身読するは大聖人のみと明かす

 

そして、これらの文は、仏の説いた経文ではあるが、いつの世にそのようなことが起こるとは分からないが、過去の不軽菩薩や覚徳比丘などこそ、身に当たってこの経文を読んだ人であるとみられる、と仰せである。

不軽菩薩は、法華経の常不軽菩薩品第二十に説かれている。すなわち、威音王仏の像法時代に出現して、一切衆生に仏性がある故に私は軽んじないという意味の、漢文では24文字から成る言葉を唱えながら、衆生を礼拝した。これに対し、人々は不軽を軽蔑し、杖や木で打ち、瓦や石を投げて迫害したが、不軽菩薩は礼拝行をやめなかった と説かれている。

覚徳比丘については、涅槃経に 過去世の歓喜増益如来の滅後、あと40年で正法が滅しようとした末世に、覚徳比丘とその外護者の有徳王がいた。多くの破壊の悪僧が正法を護持する覚徳比丘を迫害したが、有徳王はそれを守って、全身に傷を受けて死んだ。二人は護法の功徳によって阿閦仏の国に生まれ、有徳王は仏の第一の弟子となり、覚徳比丘は第二の弟子となった と説かれている。

不軽も覚徳も、仏の末世に正法を実践し迫害にあっているので、法華経の受難の文を身で読んだ人であろう、と仰せなのである。しかし、いずれも遠い過去の例である。末法の現在においては、日本国で日蓮一人のみが、これらの経文を身で読んでいると思われる、といわれている。

大聖人は御自身の受難について「既に二十余年が間・此の法門を申すに日日.月月・年年に難かさなる、少少の難は.かずしらず大事の難・四度なり二度は・しばらく・をく王難すでに二度にをよぶ」(0200:17)と述べられている。

また「法華経の第五の巻・勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此の国に生れずば・ほとをど世尊は大妄語の人・八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし、経に云く『諸の無智の人あつて・悪口罵詈等し・刀杖瓦石を加う』等云云、今の世を見るに日蓮より外の諸僧たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ刀杖等を加えらるる者ある、日蓮なくば此の一偈の未来記は妄語となりぬ、『悪世の中の比丘は・邪智にして心諂曲』又云く『白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるること六通の羅漢の如し』此等の経文は今の世の念仏者・禅宗・律宗等の法師なくば世尊は又大妄語の人、常在大衆中・乃至向国王大臣婆羅門居士等、今の世の僧等・日蓮を讒奏して流罪せずば此の経文むなし、又云く『数数見擯出』等云云、日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はず況や余人をや、末法の始のしるし恐怖悪世中の金言の・あふゆへに但日蓮一人これをよめり」(0202:11)と、ご自身が法華経を身読されたことを明かされている。

大聖人が、前に挙げられた経文どおりの大難を、ことごとく一身に受けられていることは明らかであり、それこそが末法の法華経の行者である証なのである。それ故に、過去の悪王によって正法を弘通した聖僧たちが難にあった時、弟子檀那がどれほど嘆いたことかを今、実感していると仰せなのである。大聖人が、竜の口の法難に続き、佐渡へ流罪されようとしていることを、大田・曾谷・金原の3人をはじめ、門下がいかに悲しく思っているかを推察された御言葉であろう。

そして、今、日蓮は法華経の一部八巻をすべて読んでおり、一句一偈を受持しても仏になれるという授記がなされているのだから、まして法華経一部を身読している御自身の成仏は疑いないことを頼もしく思う、と仰せである。

それは、法華経法師品に「如来の滅度の後に、若し人有って、妙法華経の、乃至一偈一句を聞いて、一念も随喜せん者には、我亦た阿耨多羅三藐三菩提の記を与え授く」と説かれており、その文意を引かれたものと拝される。

法華経の一句・一偈を聞いて随喜した者が成仏の記別を受けているのだから、法華経一部を身で読んだ功徳は計り知れないのである。

そして、自身の成仏のみではなく、国土を安穏にして、一切衆生までも、あまねく成仏させようと願っているが、大聖人自身、死身弘法の精神で、自ら進んで謗法厳誡、国主諌暁を実践されたにもかかわらず、そのことが用いられない今の世であるから、力の及ぶところでなかった、と結ばれている。「我と用いられぬれば」との仰せにあるものを拝察すると、大聖人は自分から権力者や人々に屈してまで用いられようとはなされない毅然たる態度を意味されるともいえる。

大聖人は、命に及ぶ大難であった竜の口の頸の座をもって発迹顕本され、久遠元初の自受用身即末法の御本仏の本地を顕わされたのであり、その意味では、あうべくしてあわれた難である。本抄では示同凡夫の辺から、大難にあうことによって、転重軽受しているのであると示され、門下に対して難に屈せずに信心を貫くよう教えられたと拝されるのである。

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