三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) 第一章(一代聖教に自行と化他の法)

    日蓮これを撰す。
 夫れ、一代聖教とは、総じて五十年の説教なり。これを一切経とは言うなり。これを分かちて二つとなす。一には化他、二には自行なり。

 

現代語訳

一代聖教とは、釈尊が五十年の間に説いた教え全体のことであり、これを一切経という。この一切経を二つに分ける。一には化他の経であり、二には自行の経である。

語句の解説

一代聖教

釈尊が生涯にわたって説いたとされる教え、または経典。聖教とは聖人の教え、すなわち仏の教えのこと。法華玄義巻一上に「教とは聖人、下に被らしむるの言なり」とあるように、聖人が人を導く言葉が教であることから、仏が説いた教経を聖教という。

 

自行・化他

「自行」とは自己のために行ずる意。「化他」とは他を化する意で、利他と同意である。これには修行と法体の二意がある。ここで修行とは衆生の振る舞い、法体とは仏の振る舞いを指す。第一に、修行に約す場合は、自分自身が法の利益を受けるために修行することを自行といい、化他とは他人に法の利益を受けさせるための教化・化導をいう。第二に、法体に約す場合は、「自行」とは仏が自らの境地をそのまま説いた随自意の教えをいい、「化他」とは九界の衆生の機根に応じて説いた随他意の教えをいう。釈尊の一代聖教にあてた場合、「自行の法門」とは随自意の法華経をさし、「化他の法門」とは法華経以前の随他意の爾前権経をさす。大石寺三十一世の日因は惣勘文抄秘記上において、「凡そ霊山に於いて相承する所の釈尊一代五十年の説法を自行化他に分かって判釈す。自ら四重の勝劣有り。其の中に先ず四十二年の説法は是れ化他の法門なり。即ち如来随他意の語にして即身成仏に非ず。故に但九界の衆生の機類に随って種々に説法し給うなり。後八ケ年の法華経は是れ自行の法門なり。即ち随自意の語にして即身成仏の法なり。故に如来の本意に随って一仏乗と説き給うなり。故に今之れを分かって二と為す。一には化他、二には自行なり」と釈している。

 

講義

本抄は、弘安2年(127910月、日蓮大聖人が聖寿五十八歳の時、身延において著されたものである。

しかし、御真筆が現存していないために、本抄成立の由来や御述作の動機、与えられた人などについては不詳である。

次に、本抄の題号である「三世諸仏総勘文教相廃立」の意味について、大石寺三十一世日因の惣勘文抄秘記上にしたがって述べてみる。

「題号を講談するに総別の二門に分別せり。初め惣じて題号の旨を叙すとは、凡そ題号には単人・単法・人法具足の三義七種の義門有り。今の題号は人法具足の題号なり。三世諸仏は是れ人なり。惣勘文教相廃立とは是れ法なり。故に人法合題なり……別して申し談ずるに則ち五義有り。一には此の題号の教相、二には此の題号の正躰、三には此の題号の旨、四には此の題号の功用、五には此の題号の同異分別なり」と。

すなわち、総勘文抄の題号を、総と別という二つの立場から釈している。まず、総じての立場から題号の趣旨を釈すると、一般的に題号には単に人のみを表す場合と単に法のみを表す場合と人法具足する場合との三義があり、本抄の題号の場合は「三世諸仏」が〝人〟にあたり「惣勘文教相廃立」が〝法〟にあたるのであり、〝人法具足〟の題号であると説いている。

この点について、更に同秘記上の他の個所では次のように説いている。

すなわち「謂く三世諸仏とは能勘文の人なり。惣勘文の御廃立とは……惣とは同等同悟同心なり。為実施権開権実の妙法なり。釈尊、三世の諸仏に同じて勘定を説きたもう文書を勘文と曰う。即ち法華経なり。故に惣の字、法に約するなり。若し人に約せば惣三世諸仏と云う可きなり……この勘文とは法華経の事なり。教相廃立とは法華経の施開廃の意なり。観文に望みて教相と曰い、方便を捨てて真実を取る故に廃立と云うなり。此の諸仏如来の惣勘文にして并びに凡夫等の勘文に非ざる故に三世諸仏惣勘文教相廃立と云うなり」と。

「三世諸仏」とは能く勘文する〝人〟を表しており、「惣勘文の御廃立」とは、「惣勘文」されて廃立された「法華経一切経」(法)のことをさすのである。すなわち、法華経を〝立〟て法華経以外の一切経を〝廃〟するのである。

更に「惣勘文」の〝惣〟とは「同等同悟同心」の意味を表しており、三世十方の諸仏がことごとく同じ悟り同じ心に立っている、ということを表現している。

次に「勘文」とは、釈尊と三世の諸仏とが一緒になって勘え定めた文書のことをいい、それはそのまま法華経をさしているのである。

また、「教相廃立」というのは「法華経の施開廃の意也」「観文に望みて教相と曰い、方便を捨てて真実を取る故に廃立と云うなり」とあるように、法華経による施・開・廃の順序にしたがって、方便権教を捨てて(廃する)、実教の法華経を取る(立てる)ことをさしているのである。

更に、同秘記上の別の個所では「惣勘文教相廃立とは即ち諸仏諸説の法華経の文義なり。惣とは同一の義なり。惣在一念、同居一念と云うが如し。三世諸仏同様に一語一心に権実本迹の旨を説き定めたもう経文を勘文と曰うなり。教相とは……天台云く教とは聖人下に被るの言、相とは分別同異也云々。此れ則ち一切経を説き与えて後に自行化他権実本迹の旨を衆生の為に分別したもうを教相とは曰うなり……一代教主の廃立とは三開会の義なり。迹門の意は法華の為に四十余年の経々を施し、今経に至って方便を捨てて真実を取る。又方便を摂して法華に入れ、一の妙法と為す。此れを三開会と云うなり。本門には今日一代は皆是れ方便なり。本門寿量品に至って正直に方便を捨て正直の妙法を説き顕す。此の妙法の中に一切経を収め、一の妙法と為るなり」とある。

ここでは、「惣勘文教相廃立」についてより詳しく解説している。

まず「惣勘文」の「惣」については、「惣在一念・同居一念」という言葉があるように、〝同一の義〟を表す。

したがって「惣勘文」というのは、三世の諸仏が同じ立場に立って、同一の言葉、同一の心でもって権実本迹の趣旨を説き定められた経文をいうのである。

次に「教相」については、天台大師のいうように、聖人が衆生に説いた言葉を〝教〟といい、その〝教〟の同と異とを分別することを〝相〟というのである。

つまり、仏が衆生に一切経を説き与えておいてから、後にこれらの経教を自行・化他、権・実、本・迹というように、それら諸経間の同と異とを立て分けることを〝教相〟というのである、と。

また「廃立」というのは、以上のように〝教〟の〝相〟を分別・分類したうえで、方便の教えを捨てて(廃して)真実の教えを取る(立てる)ことをさしている。

この「廃立」には三種類あって、〝三開会〟とも称する。すなわち、前述の施・開・廃の順序にしたがって、方便の教えを廃して真実の教えを立てることをいうのである。

例えば、法華経迹門の立場でいえば、法華経を説くために四十余年の方便の経教を施し(為実施権)、今経(法華経)において方便権教を開いて真実の法華経を顕し(開権顕実)、更に方便の権教を廃した後に実教・法華経に摂取し、ただ一つの妙法として立てる(廃権立実)ことを三開会という。

また、本門の立場では、釈尊の一代聖教は方便であり、本門の如来寿量品第十六で正直の妙法を説きあらわし、この妙法のなかに一切経を収めて一法とすることが〝教相廃立〟ということであると、説かれている。

以上、惣勘文抄秘記に従い、総じての立場からの釈を通して、三世諸仏総勘文教相廃立の題号について述べてきたが、要約すると、釈尊をはじめ三世十方の諸仏が、同じ悟りと心とにおいて、一代聖教のなかで方便権教を廃し、真実の法華経を立てることを決定したのを「三世諸仏総勘文教相廃立」という、と述べられている。

さて本抄は、冒頭に一代聖教(一切経ともいう)が自行と化他の二つに大きく分けられることを明かされている。

一代聖教とは釈尊が三十歳で成道してから八十歳で入涅槃するまでの五十年間にわたって説法した経教の一切をいう。

自行と化他の内容については、後に詳しく述べるように、法体に約して論ずる場合と、修行に約して論ずる場合とがあるが、ここでは、法体に約しての自行・化他の意である。

 

一代聖教とは総べて……是を一切経とは言うなり

 

御文中の「一代聖教」「五十年の説教」「一切経」は、いずれも釈尊が30歳で成道してから80歳で入滅するまでの五十年間にわたって説かれた教えのことをさしているのはいうまでもない。

したがって、この御文を表面的にとらえると、本抄は釈尊の仏法に関することのみを説かれた御抄のようにみえる。

しかし、本文の内容を拝していくと、明らかに日蓮大聖人の仏法について論じられており、釈尊の一代聖教のなかに大聖人の文底の大法を含ませられているのである。

それは開目抄の「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(0189:02)の御文、また、日女御前御返事の「此の御本尊は在世五十年の中には八年・八年の間にも涌出品より属累品まで八品に顕れ給うなり……是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎたる本尊なり」(1243:01)の御文、更には、三大秘法抄の「夫れ釈尊初成道より四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて略開近顕遠を説かせ給いし涌出品まで秘せさせ給いし実相証得の当初修行し給いし処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」(102103)等の御文を拝すれば明らかなように、大聖人の仏法は、元来、法華経の文底に秘沈された法門だからである。

 

自行と化他について

 

語訳にも明らかなように、自行と化他に関しては、修行に約す場合と、法体に約す場合との二とおりの立場がある。

まず修行に約すと、自行とは修行者自身が法の利益を受けるための修行であるのに対し、化他とは他者を教化・化導することである。

天台大師の法華文句巻八上に「自修報恩を自行と名づく。彼を益するはすなわち化他なり」とあるとおりである。

次に、法体に約すと、自行とは仏の悟りそのものを説いた随自意(仏の悟りの心に随ってありのままに説き示すこと)の教法をさすのに対し、化他とは、衆生の機根や状態に合わせて説いた随他意(仏が衆生の機根や意に随って説き、真実の教えへと導くこと)の教法をさす。

これを釈尊の一代聖教にあてはめた場合、法華経が自行の法門であり、化他とは法華経以前の爾前経にあたる。

また、同じことを惣勘文抄秘記上では次のように説いている。

「凡そ霊山に於いて相承する所の釈尊一代五十年の説法を自行化他に分かって判釈す。自ら四重の勝劣有り。其の中に先ず四十二年の説法は是れ化他の法門なり。即ち如来随他意の語にして即身成仏に非ず。故に但九界の衆生の機類に随って種々に説法し給うなり。後八ケ年の法華経は是れ自行の法門なり。即ち随自意の語にして即身成仏の法なり。故に如来の本意に随って一仏乗と説き給うなり。故に今之れを分かって二と為す。一には化他、二には自行なり」と。

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