三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) 第九章(譬喩で爾前と法華の関係明す)
弘安2年(ʼ79)10月 58歳
過去と未来と現在とは三なりと雖も一念の心中の理なれば無分別なり、一切経の語は夢中の語とは譬えば扇と樹との如し法華経の寤の心を顕す言とは譬えば月と風との如し、故に本覚の寤の心の月輪の光は無明の闇を照し実相般若の智慧の風は妄想の塵を払う故に夢の語の扇と樹とを以て寤の心の月と風とを知らしむ是の故に夢の余波を散じて寤の本心に帰せしむるなり、故に止観に云く「月・重山に隠るれば扇を挙げて之に類し風大虚に息みぬれば樹を動かして之を訓ゆるが如し」文、弘決に云く「真常性の月煩悩の山に隠る煩悩一に非ず故に名けて重と為す円音教の風は化を息めて寂に帰す寂理無礙なること猶大虚の如し四依の弘教は扇と樹との如し乃至月と風とを知らしむるなり已上、夢中の煩悩の雲・重畳せること山の如く其の数八万四千の塵労にて心性本覚の月輪を隠す扇と樹との如くなる経論の文字言語の教を以て月と風との如くなる本覚の理を覚知せしむる聖教なり故に文と語とは扇と樹との如し」文、上釈は一往の釈とて実義に非ざるなり月の如くなる妙法の心性の月輪と風の如くなる我が心の般若の慧解とを訓え知らしむるを妙法蓮華経と名く、故に釈籤に云く「声色の近名を尋ねて無相の極理に至る」と已上、声色の近名とは扇と樹との如くなる夢中の一切経論の言説なり無相の極理とは月と風との如くなる寤の我が身の心性の寂光の極楽なり、
現代語訳
一切経(爾前経)の語は夢のなかの言葉であるというのは、たとえば扇と樹とのようなものである。法華経の寤の心を表す言葉というのは、たとえば月と風とのようなものである。本覚の寤の心の月輪の光は無明の闇を照らし、実相般若の智慧の風は妄想の塵を払う。ゆえに夢のなかの言葉の扇と樹によって寤の心の月と風を知らしめるのである。これによって夢のなごりを散らして寤の本心に還らせるのである。ゆえに摩訶止観には「月が重山に隠れれば、扇を挙げて月にたとえ、風が大空にやんでしまえば、樹を動かして風の動きを教えるようなものである」と述べている。また止観輔行伝弘決には「真実の常性の性である仏性の月は煩悩の山に隠れる。煩悩は一つではないゆえに名づけて重山という。円音教の風は教化をやめて寂理に帰る。寂滅の法理は妨げるものがなく、ちょうど大空のようである。四依の菩薩の弘教は扇と樹とのようなもので、これをもって月と風とを知らしめるのである」と。またある人は「夢のなかの煩悩の雲は重なり合って山のようであり、八万四千の塵労であって、心性の本覚の月を隠す。扇と樹にたとえられる経論の文字・言語の教えによって、月と風とにたとえられる本覚の理を覚知させようとしたのが聖教である。ゆえに文と語とは扇と樹とにたとえられるのである」と。
このある人の釈は一往の釈であって実義ではない。月のような妙法の心性の悟りと風のごとくの我が心の般若の慧解とを教え知らしめるものを妙法蓮華経と名づけるのである。ゆえに法華玄義釈籤には「声色の近名を尋ねて無相の極理に至る」と説かれているのである。声色の近名とは扇と樹とのような夢のなかの一切経論の言説である。無相の極理とは月と風とのような寤の我が身の心性の寂光の極楽である。
語句の解説
止観
摩訶止観のこと。天台大師智顗が隋の開皇14年(0594)4月26日から一夏九旬にわたって荊州玉泉寺で講述したものを、弟子の章安大師灌頂が筆録した書である。本書で天台大師は、仏教の実践修行を〝止観〟として詳細に体系化した。それが前代未聞のすぐれたものであるので、サンスクリットで偉大なという意の〝摩訶〟がつけられている。〝止〟とは外界や迷いに動かされずに心を静止させることであり、それによって正しい智慧を起こして対象を観察することを〝観〟という。内容として、法華経の一心三観・一念三千の法門を開き顕し、それを己心に証得する修行の方軌を示しており、天台大師の出世の本懐とされる。構成は、章安大師の序分と天台大師の正説分からなっている。正説分として①大意、②釈名、③体相、④摂法(しょうほう)、⑤偏円、⑥方便、⑦正修、⑧果報、⑨起教、⑩旨帰、の十章が立てられており、これを「十広」ともいう。しかしながら、⑦正修章において十境を立てるなか、十境中の第八増上慢境以下は欠文のまま終わっている。
弘決
止観輔行伝弘決のこと。十巻。中国・唐代の妙楽大師湛然の著。天台大師の摩訶止観の注釈書。内容は題号の釈出をはじめ、無情仏性に関する十難や華厳宗の法華漸頓・華厳頓頓説を打ち破るなど、摩訶止観の妙旨を明らかにするとともに、天台宗内外の異義に破折を加えている。
円音教
釈尊一代聖教の極説である法華経のこと。「円」は円教の円融円満の教えをさし、「音」は言語の意で、「教」は教えである。
釈籤
法華玄義釈籤のこと。十巻、または二十巻。中国・唐代の妙楽大師湛然述。天台大師の法華玄義の注釈書。妙楽大師が天台山で法華玄義を講義した時に、学徒の籤問(疑問箇所に付箋をつけて意味を質すこと)に答えたものを基本とし、後に修正を加えて整理したもの。注釈は極めて詳細で、天台大師の教義を拡大補強している。
声色の近名
眼や耳に訴えて信解させる事相の文句・言教のこと。仏の事相(事実としてあらわれた姿)の言教・名字のこと。これを縁として修行することにより、無相(形や姿のない)・不思議の深理の妙法を証得すること。
講義
一切経が何ゆえに夢中の語をもって説かれたのかを示されている。
すなわち「一切経の語は夢中の語とは譬えば扇と樹との如し法華経の寤の心を顕す言とは譬えば月と風との如し、故に本覚の寤の心の月輪の光は無明の闇を照し実相般若の智慧の風は妄想の塵を払う故に夢の語の扇と樹とを以て寤の心の月と風とを知らしむ是の故に夢の余波を散じて寤の本心に帰せしむるなり」と、つまり、月を示すのに扇をもってし、風を教えるのに樹をもってするようなものであり、これによって衆生の無明の闇を晴らし、妄想の塵をはらわんとされたのであると述べられている。
次に、この扇と月、樹と風のたとえの出典として、天台大師の摩訶止観の文と、これを釈した妙楽大師の弘決の文ならびにある古人の釈を引用されている。
しかし、引用された直後に「上釈は一往の釈とて実義に非ざるなり」と退けられて、以下のように説かれている。
「月の如くなる妙法の心性の月輪と風の如くなる我が心の般若の慧解とを訓え知らしむるを妙法蓮華経と名く」と。
すなわち、法華経以外の一切経の文と語は扇や樹のようなものであり、それによって仏の悟り(月、風)を教えようとした、というこれまでの論議は浅い一往の釈であり、実は法華経の文言自体が仏の内証の悟りをあらわさんがために用いられた扇や樹のたとえにあたり、仏の内証の悟りこそ月であり風である、と説かれているのである。
これは先に「夢中の言語を借りて寤の本心を訓」えているのが法華経であると述べられたことを繰り返し御教示されたものといえるであろう。
次に、釈籤の「声色の近名を尋ねて無相の極理に至る」という文を引用されて、仏の内証の悟りこそが月であり風であるという関係を裏づけられるとともに、仏の内証の悟りが〝無相の極理〟であり、〝寤の我が身の心性の寂光の極楽なり〟と仰せられている。
止観に云く「月・重山に隠るれば……」文、弘決に云く「真常性の月……扇と樹との如し」文
摩訶止観の文は巻一上からの引用である。この文のまえに「もし説黙を競わば、教の意を解せず、理を去ることいよいよ遠し。説を離れて理無く、理を離れて説無し。説に即して無説、無説にして即ち説なり。二無く別無く、事に即してしかも真なり。大悲は一切の無聞を憐愍したもう」とあって、次にここに引用された文が続くのである。
仏の悟りは本来、言語道断・心行所滅のところにあるから、その悟りを説くのがいいのか、説かずに黙っているのがいいのか、議論の分かれるところである。しかし、天台大師は、説を離れて理なく、理を離れて説なく、説に即して無説、無説に即して説、と説いて、説か無説(黙)かの一方にとらわれるのではなく、〝二なく別なし〟であり〝事に即してしかも真〟である、すなわち、具体的な事象に即して真実を語ることが大切であり、仏の大悲は一切の無聞、つまり仏法を全く聞いたことのない衆生を憐れむゆえに説法したのである。例えば、月が幾重にも重なった山に隠れてしまえば、月によく似た扇を差し上げて月にたとえ、風が太虚(天、大空)において熄むと、樹木を動かして風の存在を教えるように……。つまり、仏の慈悲のあらわれとして、いかなる衆生にも分かるように仏法を説くというのである。
この止観の文を釈したのが、止観輔行伝弘決巻一の二からの引用文である。すなわち、止観の〝月〟は〝真常性の月〟を表しているのである。
〝真常性〟とは、真実常住の法理、換言すれば仏の悟りそのものを示している。その月が〝重山〟に隠れるという止観の表現は、真実常住の法理が衆生の煩悩によって覆われて隠れてしまうことをたとえたものである。しかも、衆生の煩悩はわずか一つだけでなく数多くあるので〝重〟山と表現されたのである、と。
また、止観にいう〝風〟は円音の教風つまり、法華円教を演説する仏の声であり、その風が〝太虚に息む〟ということは、法華円教を演説する音声が止まって教化が止んで〝寂〟に帰すことである。
更に、止観にいう〝扇〟と〝樹〟のたとえは、仏滅後の四依の弘教を表している。つまり、仏滅後の四依の菩薩達の教説は、真常性の法理としての〝月〟を指し示す〝扇〟であり、法華円教を演説する仏の教えを知らしめるための〝樹〟だったのである、と。
さて、以上の止観の文と弘決の釈の文とを受けて、次にこれを釈した「夢中の煩悩の雲・重畳せること山の如く……」との文を引用されている。この文の意味は「衆生にあっては仏性本覚の月輪(仏性)が煩悩の厚い雲に隠されている。そこで、扇と樹にたとえられる経論の文言によって月・風にたとえられる仏の本覚の理を覚知させようとしたのが〝聖教〟すなわち仏の教えである」ということである。
この釈に対して「上釈は一往の釈とて実義に非ざるなり」として、上の解釈を一往の義であると破られて、「月の如くなる妙法の心性の月輪と風の如くなる我が心の般若の慧解とを訓え知らしむるを妙法蓮華経と名く」というのが実義であると示されている。すなわち月輪にあたるのは「妙法の心性」であり、風にあたるのは「我が心の般若の慧解」であるとされ、その教えを知らしめようとしたのが妙法蓮華経であると言われている。いわくいいがたい〝実相の深理〟それ自体が月、風にたとえられ、この実相の深理を言葉に表現した経典は法華経であれ、法華経以外の経典であれ、扇と樹になるのである。
このことを裏づけるために、妙楽大師の法華玄義釈籤巻一の「声色の近名を尋ねて無相の極理に至る」という文を引用されている。
この文で〝声色の近名〟とは、声は衆生の耳に、色は衆生の眼にそれぞれ訴えることを表しているが、〝近名〟とは、〝近い名〟ということで、衆生の耳目に訴えて信解させることのできる文句や言教のことをさしている。これら〝近名〟の言教や文句を縁として修行することにより、〝無相の極理〟すなわち、形や姿のない実相の深義に到達できるのである。この〝無相の極理〟については次の文で詳しく説かれる。