三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) 第六章(有教無人の権を説く所以明す)
弘安2年(ʼ79)10月 58歳
此の前三教には仏に成らざる証拠を説き置き給いて末代の衆生に慧解を開かしむるなり九界の衆生は一念の無明の眠の中に於て生死の夢に溺れて本覚の寤を忘れ夢の是非に執して冥きより冥きに入る、是の故に如来は我等が生死の夢の中に入つて顚倒の衆生に同じて夢中の語を以て夢中の衆生を誘い夢中の善悪の差別の事を説いて漸漸に誘引し給うに、夢中の善悪の事重畳して様様に無量・無辺なれば先ず善事に付いて上中下を立つ三乗の法是なり、三三九品なり、此くの如く説き已つて後に又上上品の根本善を立て上中下・三三九品の善と云う、皆悉く九界生死の夢の中の善悪の是非なり今是をば総じて邪見外道と為す捜要記の意、此の上に又上上品の善心は本覚の寤の理なれば此れを善の本と云うと説き聞かせ給し時に夢中の善悪の悟の力を以ての故に寤の本心の実相の理を始めて聞知せられし事なり、是の時に仏説いて言く夢と寤との二は虚事と実事との二の事なれども心法は只一なり、眠の縁に値いぬれば夢なり眠去りぬれば寤の心なり心法は只一なりと開会せらるべき下地を造り置かれし方便なり此れは別教の中道の理是の故に未だ十界互具・円融相即を顕さざれば成仏の人無し故に三蔵教より別教に至るまで四十二年の間の八教は皆悉く方便・夢中の善悪なり、只暫く之を用いて衆生を誘引し給う支度方便なり此の権教の中にも分分に皆悉く方便と真実と有りて権実の法闕けざるなり、四教一一に各四門有つて差別有ること無し語も只同じ語なり文字も異ること無し斯れに由つて語に迷いて権実の差別を分別せざる時を仏法滅すと云う
現代語訳
釈尊はこの前三教では仏になることができない証拠を説き置かれて、末代の衆生に慧解を開かせられたのである。
九界の衆生は一念の無明という眠りのなかにあって、生死の夢に溺れて、本覚の寤を忘れ、夢のなかでの是非に執着して、冥きから冥きへとさまよっているのである。それゆえに如来は、我らの生死の夢のなかに入って、顚倒の衆生と同じ境界に立ち、夢のなかの言葉を使って、夢のなかにある衆生を誘い導き、夢のなかでの善悪の差別を説いて次第に誘引されるのであるが、夢のなかの善悪のことは、重なり合ってさまざまであり、無量無辺であるので、まず善のことについて上・中・下の三つを立てた。いわゆる声聞・縁覚・菩薩の三乗の法がこれである。この三乗の法を修行する人にまた上根・中根・下根の別があるので、三三九品となる。
このように説き終わって後に、上上品の根本の善を立てられたのを、上中下三三九品の善というのである。
しかしこれらは、皆ことごとく九界生死の夢のなかの是非善悪である。今これを総じて邪見であり、外道であるとするのである(これは妙楽大師の摩訶止観捜要記の意である)。
このうえにまた、上上品の善心は本覚の寤の法理だから、これが善の根本であると説き聞かせたときに、夢のなかながら善悪を立て分ける悟りの力によって寤の本心の実相の法理を初めて聞知することができたのである。
このときに仏は「夢と寤との二つは、架空のことと実際のこととの違いがあるけれども、心法はただ一つである。眠りの縁に値えば夢を見、眠りが去れば寤の心に戻るのであって、心法はただ一つである」と開会されたが、その開会の下地を作り置くための方便の教えである(これは別教の中道の法理についていっているのである)。
このゆえに、未だ十界互具・円融相即を顕していないので、成仏の人はいないのである。このように三蔵教から別教に至るまで四十二年の間の八教は皆ことごとく方便の教えであり、夢のなかの善悪を説いたものである。ただしばらくの間、衆生を誘引するために用いられた支度・方便の教えなのである。
この権教のなかにも、それぞれに皆ことごとく方便と真実があり、権実の法が欠けていないのである。四教の一々にそれぞれ有門・空門・亦有亦空門・非有非空門の四門があって差別がないのである。また言葉も同じであり、文字にも違いがない。これによって、言葉に迷って権実の差別をわきまえないときを、仏法が滅びるというのである。
語句の解説
一念
一般には心に深く思いこむこと、ふと思い出すことなどの意があるが、仏法では瞬間の生命をさす。妙楽大師の法華文句記巻八の三には「初めに一念に於いては唯一念の時須も経るに非ず。一心法を指して名づけて一念と為す」とある。
冥きより冥きに入る
法華経化城喩品第七には「衆生は常に苦脳し 盲冥にして導師無し 苦尽の道を識らず 解脱を求むることを知らずして 長夜に悪趣を増し 諸天衆を減損す 冥き従り冥きに入り 永く仏の名を聞かず」と、衆生が迷い続けていくことを説いている。
捜要記
十巻。摩訶止観輔行捜要記のこと。妙楽大師湛然述。止観輔行捜要記ともいう。天台大師の摩訶止観を注釈した妙楽大師の止観輔行伝弘決が広汎であることから、枢要不可欠の部分のみを取り出して、その要旨を捜るという書である。
捜要記の意
捜要記には、上中下品、上上品の配立の文はない。
十界互具
法華経に示された万人成仏の原理。地獄界から仏界までの十界の各界の衆生の生命には、次に現れる十界が因としてそなわっていること。この十界互具によって九界と仏界の断絶がなくなり、あらゆる衆生が直ちに仏界を開くことが可能であることが示された。この十界互具を根幹として、天台大師智顗は一念三千の法門を確立した
講義
では、成仏できるという教えや言葉のみ有って(有教)、実際には成仏する人がいない(無人)権教すなわち前三教は、何のために説かれたのであろうか。
この点に関して、法華経に入らしむるための方便として説かれたものであると、次のように述べられている。
「此の前三教には仏に成らざる証拠を説き置き給いて末代の衆生に慧解を開かしむるなり九界の衆生は一念の無明の眠の中に於て生死の夢に溺れて本覚の寤を忘れ夢の是非に執して冥きより冥きに入る、是の故に如来は我等が生死の夢の中に入つて顚倒の衆生に同じて夢中の語を以て夢中の衆生を誘い夢中の善悪の差別の事を説いて漸漸に誘引し給うに、夢中の善悪の事重畳して様様に無量・無辺なれば先ず善事に付いて上中下を立つ三乗の法是なり」と。
つまり、生死の夢のなかにいる九界の衆生を夢から覚まさせるために、仏自ら九界の夢のなかに入り、夢のなかの語で語りつつ説いたのが前三教の教えであり、それはどこまでも法華経の真実の悟りの世界へと誘引する方便であったのである。
仏は衆生を法華経へと導く方便として、夢のなかの善悪のうち、まず善事について上中下の三段階、すなわち声聞(下)、縁覚(中)、菩薩(上)の三乗を明かした。そしてこの三乗のそれぞれに、機根・修行に応じて上・中・下の三品を立てて、三三九品を設けたのである。
したがって菩薩のなかで最も勝れているのが〝上上品の根本善〟ということになるが、しかし、これも「九界生死の夢の中の善悪の是非」にすぎない。
ゆえに、捜要記という書物においては、上上品の根本善を含めた、これら三三九品の段階を総じて〝邪見外道〟と破折している、と説かれている。
この、爾前権教における上上品の根本善は、一面では「九界生死の夢の中の善悪の是非」にすぎないが、他面においては、この夢のなかの善悪の判断力によって、後に説かれる実教・法華経で明かされる〝寤の本心の実相の理〟を理解できる下地にはなる。
すなわち、上上品の根本善は、一面では夢のなかではあるが、同時にもう一面では、寤への橋渡しという位置にあるといえるのである。
この点について本文では「夢と寤との二は虚事と実事との二の事なれども心法は只一なり、眠の縁に値いぬれば夢なり眠去りぬれば寤の心なり心法は只一なりと開会せらるべき下地を造り置かれし方便なり」と述べられている。
つまり、菩薩の上上品の根本善の境地まで導かれてくると、まだ方便の夢のなかに存在してはいるが〝夢(虚事)と寤(実事)といっても所詮は一つの心法のみがある〟と教えるのである。
しかしこの教えは、夢と寤に対して「一つの心法」を格別のものとして立てるので、別教の中道の理となると述べられている。
したがってこの教えは、眠の縁に出会えば夢、縁が去れば寤、そして寤、夢のいずれもただ一つの心法からあらわれるという、法華経の真理へと開会する下地としての方便なのである。
こうして、爾前経・権教は夢中の法門、法華経は寤の法門と区別されるのであるが、爾前経も衆生を夢から覚まさせるために説かれたものであるから、その夢(方便)のなかにも現実(真実)に通ずるものが織り込まれている。
このことを「此の権教の中にも分分に皆悉く方便と真実と有りて権実の法闕けざるなり」と説かれているのである。
すなわち、権のなかにも権実があり、また、蔵・通・別・円の四教の一つ一つに有・空・亦有亦空・非有非空の四門が含まれている。
したがって、夢中の法門である爾前権教も、寤の法門である法華経と通ずる内容が含まれていることが少なくないし、またそこで用いられている言葉も文字も法華経と同じであることが多い。
しかしながら、夢は夢であるから、それを寤の現実と混同して、権実の差別を分別できなくなったときに仏法は滅すると警告されている。
九界の衆生は一念の無明の眠の中に於て……漸漸に誘引し給うに
仏・如来は何ゆえに方便権教を説くのかといえば、衆生が九界の夢の世界にいるからである。
仏・如来からみると、九界の衆生というのは〝一念の無明〟によって眠っているような状態で、いつも夢のなかでの是非・善悪に執着しているために、冥きから冥きへと流転していくのである。
また、九界の衆生は〝本覚の寤〟を忘れているのである。忘れている、ということは本来、在ることを知っていながらそれに気づかないということであるから、〝本覚の寤〟は九界の衆生の同じ一念のなかに内在していることを暗示されている。
また、そのことは「顚倒の衆生」という表現においても明白である。本来の本覚の寤からみれば、〝顚倒〟とは、九界の衆生は本来の姿を忘却することである。つまり、一念の無明によって生死の夢を流転すると九界の衆生となり、同じ一念の法性があらわれると本覚の寤となって仏界となる。
しかし、如来がこの九界即仏界の法理に基づいて、九界の衆生に対して直ちに「夢見ている心も寤の心も同じ一つの心であるから、一念の心のなかの法性を根本とすれば成仏できる」と説いても、現実の衆生は生死の夢のなかの是非・善悪に執着しているので、夢のなかでの善事を法性と認識してしまう危険性がある。一度、誤ってしまうと、真に法性に到達することが難しくなるので、如来はまず衆生が陥っている夢の状態から目覚めさせることから教えるのである。
衆生を生死の夢から覚まさせるために仏は法を説くのであるが、そのためには衆生の夢のなかに自ら入り、夢のなかの言葉で法を説いて次第に誘引するのである。それが権教にほかならない。
三三九品と上上品の善心
仏・如来は〝夢の中の是非・善悪〟に執着している衆生を導くために、衆生と同じ夢中の言葉を用い、夢中の是非・善悪を使いながら、次第に、夢から目覚めるように誘導していくのである。
その誘導の仕方を述べられているのが「夢中の善悪の事重畳して様様に無量・無辺なれば先ず善事に付いて上中下を立つ三乗の法是なり、三三九品なり、此くの如く説き已つて後に又上上品の根本善を立て上中下・三三九品の善と云う、皆悉く九界生死の夢の中の善悪の是非なり」の御文である。
すなわち如来は、無量・無辺の善悪のなかで、善にも上・中・下があるとして、〝三乗の法〟を立てるのである。
更に、この三乗をそれぞれに機根に応じて上・中・下があることを示し、結局、三×三で九種類(品)があるとする。
このように、九品の段階を立てた後に、菩薩のうちの上根が到達すべき境地として〝上上品の根本善〟を立てた。
しかし、これらはすべて〝九界生死の夢の中の善悪の是非〟のうちの善・是の側面にすぎず、「総じて邪見外道と為す」とあるとおり、法華経の実教からみれば、邪見外道にほかならない。
すなわち、ここで衆生は「夢中の善悪の悟の力を以ての故に寤の本心の実相の理を始めて聞知」するのである。
そこで仏は「夢と寤との二は虚事と実事との二の事なれども心法は只一なり」と開会するための下地を造ったのである。
それを衆生の側についていうと、〝上中下・三三九品の善〟の階梯を修行によって次第に登り、〝上上品の根本善〟に到達したとき、別教の中道の理を覚知し、この別教の中道の理によって夢と寤とを一貫している、ただ一つの〝心法〟の一分を悟るのである。
しかし、別教の中道の理は、隔歴の三諦といって、空、仮、中が別々に追求されるなかで、他の空、仮を捨てて、とくに中道のみが獲得されるべきであるとするもので、迷いと悟りを厳然と峻別し、衆生と仏をも断絶したものとしている。
したがって、たとえ〝上上品の根本善〟である別教の中道の理に到達したとしても、成仏の悟りには程遠いものである。
しかしながら、権教のなかにも方便と真実、四門があって、実教に説かれるのと同じ言葉や説き方がなされているために、権教と実教とを同じであると錯覚しがちである。
それがまさに、諸宗の人師達の陥った誤りであり、大聖人は、仏法が滅する根源がここにあることを鋭く指摘されているのである。