三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) 第五章(修行に約し爾前不成仏を明す)

三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) 第五章(修行に約し爾前不成仏を明す)

 弘安2年(ʼ79)10月 58歳

 故に三蔵教を修行すること三僧祇・百大劫を歴て終りに仏に成らんと思えば我が身より火を出して灰身入滅とて灰と成つて失せるなり、通教を修行すること七阿僧祇・百大劫を満てて仏に成らんと思えば前の如く同様に灰身入滅して跡形も無く失せぬるなり、別教を修行すること二十二大阿僧祇・百千万劫を尽くして終りに仏に成りぬと思えば生死の夢の中の権教の成仏なれば本覚の寤の法華経の時には別教には実仏無し夢中の果なり故に別教の教道には実の仏無しと云うなり、別教の証道には初地に始めて一分の無明を断じて一分の中道の理を顕し始めて之を見れば別教は隔歴不融の教と知つて円教に移り入つて円人と成り已つて別教には留まらざるなり上中下三根の不同有るが故に初地・二地・三地・乃至・等覚までも円人と成る故に別教の面に仏無きなり、故に有教無人と云うなり、故に守護国界章に云く「有為の報仏は夢中の権果前三教の修行の仏無作の三身は覚前の実仏なり後の円教の観心の仏」又云く「権教の三身は未だ無常を免れず前三教の修行の仏実教の三身は倶体倶用なり後の円教の観心の仏」此の釈を能く能く意得可きなり、権教は難行苦行して適仏に成りぬと思えば夢中の権の仏なれば本覚の寤の時には実仏無きなり、極果の仏無ければ有教無人なり況や教法実ならんや之を取つて修行せんは聖教に迷えるなり、

現代語訳

ゆえに三蔵教を修行する菩薩は三僧祇、百大劫の修行を経て、ついに仏になろうとすると、我が身から火を出して、灰身入滅といって、灰と成って消えうせるのである。

通教を修行する菩薩は七阿僧祇、百大劫の修行を成就して仏になろうと思うと、前の三蔵教と同じように灰身入滅して跡形もなく消えてしまうのである。

別教を修行する菩薩は二十二大阿僧祇、百千万劫の修行を尽くして、ついに仏になったと思うと、それは生死の夢のなかの権教の成仏であるので、本覚の寤の法華経からみれば、別教には実の仏はなく、夢のなかでの仏果にすぎない。ゆえに別教の教えには実の仏はないといわれるのである。

別教の証得の道は、初地に至って初めて無明惑の一分を断じて中道の法理の一分を悟るが、そこから別教の教えを振り返ってみると、それは隔歴・不融の教えであると知って、円教に移って円教の人となってしまい、別教にはとどまらないのである。

菩薩にも上根・中根・下根と三根の差があり、初地・二地・三地から等覚までは円教の人となるのである。このゆえに別教の経文のうえには仏はないのであり、ゆえに「有教無人(教のみ有って成仏の人がいない)」といわれるのである。

このことを伝教大師は守護国界章に「有為無常の報身仏は夢の中の権果であり(これは前三教の修行で得た仏果である)、無作の三身は真実を覚っている実仏である(これは後の円教の観心の仏である)」と説かれ、また「権教の三身は未だ無常を免れない(これは前三教の修行で得た仏果である)、実教の三身は倶体倶用で常住である(これは後の円教の観心の仏である)」と説かれている釈をよくよく心得るべきである。

権教は、難行苦行して、たまたま仏になったと思うと、夢のなかの権の仏であるので、本覚の寤に立ち還ったときには、実の仏はないのである。仏道修行の究極の果としての仏がないので、有教無人というのである。

ましてそのような教法を実といえるであろうか。この権教をとって修行するのは一代聖教の元意に迷っているのである。

語句の解説

灰身入滅

灰身滅智・焚身灰智・無余灰断ともいう。色身を焼いて灰にし心智を滅すること。略して灰滅・灰断ともいう。蔵教(小乗教)における二乗の最高の果徳、理想の境地とされる。三界六道のあらゆる煩悩を断じ、無余涅槃に入って再び三界に生じないために、一切の苦・煩悩が生ずる拠りどころである色心の両面を滅するのである。

 

守護国界章

伝教大師最澄の著作。三巻。法相宗の得一が三乗差別の立場から天台大師智顗の宗義を批判したことを破折し、法華一乗平等の立場から天台宗の正義を明らかにした。

 

有為の報仏

爾前権教に説かれる報身仏のことで、蔵通別の三教の権仏をさす。「有為」は無為に対する語で、因と縁によって生滅するもののこと。歴劫修行の果報として始めて成仏したと爾前に説かれる仏。いまだ久遠の本覚に至らない始覚の仏、衆生を教化するために示された夢の中の幻の仏であるゆえに、無常を免れない仏をさしている。

 

無作の三身

無作とは有作に対する語。何の人為も加えられていない、本来のまま、ありのままということ。三身とは法華経本門寿量品に説かれる報身・法身・応身の三身を一身に具えた常住の仏をいう。その久遠の本仏は悟りを開く以前から本有常住の生命を有しているので「覚前の実仏」といった。

 

覚前の実仏

「夢中の権果」に対する語。歴劫修行の果報として初めて成仏した(有為の報仏)という爾前経の仏は衆生教化の方便として示された夢のなかの幻の仏であって、法華経の本有常住の仏こそ真実に覚っている仏であることをいう。

講義

この段は、前文の「故に玄義に云く『九界を権と為し仏界を実と為す』……仏界の常住は寤の理なれば実教と云う」の文を受けて、爾前経を修行しても成仏の果は得られず、法華経のみが成仏の教えであることを示されるところである。

前三教のうち、まず蔵教においては、修行の期間は三僧祇・百大劫という長遠なものであるが、期間が終了しても灰身入滅してしまうから、仏になることはできないのである。

次に、通教においては修行の期間は、七阿僧祇・百大劫であるが、これもやはり成仏することができずに、蔵教と同じく灰身入滅して終わるのである。

別教の場合は蔵・通の二教と異なり、別教を修行して初地に到達したときに、一分の無明を断じ一分の中道をあらわして、別教では成仏不可能と知って円教に入るのである。

このため、やはり別教にも成仏の人はいないから〝有教無人〟(成仏できるという教えは有っても、実際に成仏する人は無い)というのである。

次に、伝教大師の守護国界章の「有為の報仏は夢中の権果、無作の三身は覚前の実仏なり」あるいは「権教の三身は未だ無常を免れず、実教の三身は倶体倶用なり」の文を引用されている。

すなわち、権教の前三教に説かれている仏は、あくまで夢中の権果にすぎない。円教の無作三身の仏のみが〝覚前の実仏〟なのである。したがって、前三教をどれほど修行しようとも、所詮は徒労に終わらざるをえないのである。

本文に「権教は難行苦行して適仏に成りぬと思えば夢中の権の仏なれば本覚の寤の時には実仏無きなり、極果の仏無ければ有教無人なり況や教法実ならんや之を取つて修行せんは聖教に迷えるなり」と仰せられているとおりである。

 

別教の教道、証道

 

蔵・通・別・円それぞれに教道と証道がある。教道とは仏の説いた教説のことであるが、教説に基づいて修行することをもさしている。これに対し、証道とは悟りの真理そのものをいい、また真理を証得することをいう。

本抄では、別教(華厳経)が有教無人であることについて、この教道と証道が挙げられている。

すなわち、別教の〝教道〟においては、別教を二十二大阿僧祇・百千万劫もの間、修行をし尽くして、最後に〝成仏した〟と思っても、その〝成仏〟は「生死の夢の中の権教の成仏」にすぎず、「夢中の果」でしかないのである。これが別教の「教道」である。

これに対し、別教の「証道」では、十信・十住・十行・十回向・十地・等覚・妙覚の階梯において、十地の初めの初地(第四十一位)まできたときに、修行者は一分の無明を断じて一分の中道の理をあらわすのであるが、このとき、修行者は、別教は〝隔歴不融〟(隔はへだてること。歴は順序を経ること。互いに相隔たり一体でないこと。とくに五十二位のことをさし、法華円教の円融円満に対する用語)の教えにすぎないことを知って、別教を捨て円教・法華経に移り変わってこれを修行するようになる。

したがって、実質的には別教の修行者は、第四十一位以後は法華経の修行者(円人)となってしまう。ゆえに、別教で仏になる人は全く存在しないのである。

 

守護国界章に云く「有為の報仏は……」又云く「権教の三身は……」

 

守護国界章は伝教大師最澄の著で三巻(あるいは九巻)からなり、略して守護章ともいう。

本抄に引かれている二つの文は、ともにこの書物の巻下之中の冒頭に出てくるものである。今、その個所を引用すると、次のようになる。

「麤食者謬りて報仏の智常を破するを弾ずる章第三

『有為の報仏は夢の裏の権果、無作の三身は覚の前の実仏なり』。夫れ真如の妙理に両種の義有り。不変真如は凝然常住、随縁真如は縁起常住なり。報仏如来に両種の身有り。夢の裏の権身は有為無常にして、覚の前の実身は縁起常住なり。相続常の義に亦両種有り。随縁真如相続常の義、依他縁生相続常の義なり。今真実の報仏、随縁真如相続常の義に摂す。麤食執する所の凝然真如は定めて偏真と為す。三獣同じく渉るを以っての故に、随縁を具せざるが故に、縁起即せざるが故に、教に権実有るが故なり。『権教の三身は未だ無常を免れず、実教の三身は俱に体俱に用なり』」と。

文中「麤食者」というのは、法華の醍醐味を食せず爾前権教の粗食で満足する者、という意味であり、間接的に法相宗の僧・徳一をさしている。

守護国界章という書物自体、徳一が唯識思想の立場から天台の宗義を論難した中辺義鏡という書を破折して天台の正義を顕したものである。

徳一の論難は、天台大師が法華文句巻九下において釈した法華経如来寿量品第十六の法・報・応三身論をめぐってなされている。

まず、その法華文句の文を挙げると、「此の品の詮量は、通じて三身を明かす。若し別意に従わば、正しく報身に在り」とある。

これによると、寿量品の久遠開顕の仏は「通じては三身を明かす」とあるように、法・報・応三身円満の久遠常住の仏身である。しかし、「別意に従わば、正しく報身に在り」と、別しては報身仏であると述べている。

では何ゆえに報身が中心とされるのか、ということであるが、報身の〝報〟とは〝因願酬報〟の意味である。

すなわち成仏得道を求めて精進する菩薩が、自ら立てた誓願を成就するべく修行に励み(因願)、遂に、その修行が完成して誓願が成就したときに、その果報として受ける仏身(酬報)のことを〝報身〟というのである。

また、報身のことを〝因行果徳身〟ともいう。つまり、因位の菩薩がその修行を積み重ねて(因行)、修行を完成・満足した結果として得られた仏身(果徳身)を意味するからである。

で、何ゆえ、この報身が三身の中心的位置を占めるのかといえば、報身は上は法身につながり、下は応身につながるからである。

法身が永続的な法そのものをさすのに対して応身は、具体的な現実世界のなかに応現した姿をいう。

衆生にとって、法身が抽象的であるのに対し、応身は間近に拝することができるが、無常を免れない存在と云う欠点をもつことになる。この抽象・永続性と具体的・無常なる仏身とを連結して、その中庸を得ているところに、報身が珍重される所以がある、ということができよう。

ところで、徳一は天台大師の釈した「三身常住」や「報中論三」の〝報身〟に対して、唯識思想の立場から〝理法身は自性常住(それ自体常住であること)であるが智報身は従因生(因に従って生じた仏身)であるから、報身は相続常ではあっても自性常ではない〟と論難した。

このことについて少し解説すると、唯識の立場は〝真如凝然・不作諸法〟という言葉に要約される。これは、真如(普遍的な常住の真理、衆生に約せば仏性、自性清浄心、仏身論に約せば法身)と諸法(個別的にして無常なる事物・現象)との間を二元対立的に考えて、真如は凝然(じっとして動かないさま)不動の理法であるから、個別的で無常なる事物・現象(諸法)の〝依〟(依りどころ)ではあるが、諸法と同体ではないとし、無常なる諸法が生起する原因として別に阿頼耶識を設定して、この心識のなかに蔵される種子があらわれ起きたものが諸法であると考える。徳一はこの考え方に立って、天台大師の立てる三身常住や報中論三の〝報身〟に対して論難を加えたのである。

すなわち、三身のうち、(理)法身は前述したように真如凝然の理法を仏身に約したものであるから、それ自体常住である(自性常住)が、(智)報身は〝従因生〟、すなわち、因位の菩薩としての凡夫・衆生が発心し修行を積み重ねて、その結果、真如の理法を認識する智慧があらわれて、〝因願酬報〟(因としての修行が報われること)としての報身仏になったものであるから〝有始無終〟ととらえるのである。

たしかに、報身は凡夫から仏になったという始まりが有り(有始)、あるいは凡夫から作られた(有作、有為)という側面をもっており、仏果を得た後はいうまでもなく終わりが無いから〝無終〟である。

徳一は報身仏について、有始無終の立ち場に立って、理法身のように自性常住ではないが、仏果を得てからは常住であるから、相続常住であると、天台大師の報身常住論を論難したのである。

この徳一の論難に対して伝教大師が、報仏(報身)も常住である理由を真如随縁論と三身俱体俱用論を駆使して論駁したのが、先に挙げた守護国界章巻下之中の文なのである。

この文中、真如随縁論というのは、真如の妙理に、不変真如と随縁真如の両面があるとする。そして、真如の不動面が不変真如、真如の活動面が随縁真如とする。

さて、唯識思想の採った、真如と諸法との二元対立的な考え方に対して、伝教大師の真如随縁論は、これらを一元的に把握する。すなわち、無明の風に吹かれて不動の真如海(不変真如)に起きた活動の万波(随縁真如)が即諸法であるとする。したがって、真如と諸法とは一元的に捉えられるのであるから、常住論に関しても、不変真如が凝然常住であるのに対して、随縁真如が縁起常住ということになる。

この考え方を報仏・報身に応用すると、報仏如来に夢の裏の権身と覚の前の実仏の両種があることになり、前者は有為無常であるのに対して後者は縁起常住となるのである。また、相続常に二種あり、随縁真如相続常と依他縁生相続常であり、真実の報仏は随縁真如相続常に摂する、と述べるとともに、麤食者が執するところの凝然真如は諸法から超絶しているゆえに〝偏真〟にすぎず、随縁を具していないから縁起という仏法の根本の考え方に即していない、と破っている。

以上から、本文に引用された守護国界章の二つの文の意義は明確となろう。

二つの文はそれぞれ表現が異なってはいるが、同じ内容を表したものであることは明らかであろう。まず〝有為の報仏〟が〝権教の三身〟、〝夢中の権果〟(伝教大師全集では〝夢の裏の権果〟)が〝未だ無常を免れず〟にそれぞれ相当し、〝無作の三身〟が〝実教の三身〟、〝覚前の実仏〟が〝俱体具用〟に対応している。

つまり、徳一がとらわれている〝報仏〟というのはあくまで、前の三教、権教に説かれた三身のなかの〝報仏・報身〟であるから、夢の中(あるいは夢の裏)の〝権(かり)〟の仏果にすぎず、未だ無常を免れないのである、と破っている。換言すれば、徳一は天台大師の報中論三の〝報身・報仏〟を論難したつもりが、実際は、権教の夢中の三身のうちの報身を論難したにすぎず、いわば空振りに終わっている、と伝教大師は破折したのである。

たしかに、権教の三身中の報身は、凡夫・衆生としての菩薩が因行としての歴劫修行を積んで、その果てに報われて智慧が生じ仏果を得るわけであるから、どこまでも凡夫が〝報われた〟という側面や凡夫から〝作られた〟(有為、有作)という側面、言い換えれば〝始成正覚〟(修行を積んだ果てに始めて正覚を成ずること)の立場がつきまとうのである。

ところが、天台大師が法華文句巻九で論じた久遠実成の釈迦仏は、すでに始成正覚を打ち破って久遠の生命を開顕した仏について釈したものであるから、初めから〝真如・法性に目覚めている〟本覚の仏身について論じているのである。

ここで「覚前の実仏」の〝前〟は、〝夢の裏〟に対比して用いられたもので、時間的な前後とは異なることを知らなければならない。

ゆえに、この〝覚前〟を〝覚る前〟と読むと、凡夫と同じになってしまい、ここでの伝教大師の真意を取り違えることになろう。

さて〝覚前の実仏〟である〝無作三身〟の内容であるが、先の引用文では〝実教の三身〟であり〝俱体俱用”と述べられている。

また、権教の三身が〝前三教の修行の仏〟であるのに対し、実教の三身が〝後の円教の観心の仏〟であるとされている。

実教の三身というのはいうまでもなく法華円教の〝観心の仏〟である。〝観心の仏〟とは〝前三教の修行の仏〟との対比で説かれているように、法華円教を〝観心〟によって把握した〝本覚の仏〟のことである。

この実教に説かれた法身、報身、応身の三身は本覚のゆえに、権教三身のように作られた〝有為〟〝有作〟ではなく、修行なく造作なしの三身であるから〝無作の三身〟といい、しかも、法、報、応の三身の一身が互いに他の本体(体)でもあり働き(用)でもあるという関係を有しているところを〝俱体具用〟というのである。

タイトルとURLをコピーしました