三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) 第四章(経釈を引き権実の意義を証す)

三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) 第四章(経釈を引き権実の意義を証す)

 弘安2年(ʼ79)10月 58歳

 此の教相をば無量義経に四十余年未顕真実と説き給う已上、未顕真実の諸経は夢中の権教なり故に釈籤に云く「性・殊なること無しと雖も必ず幻に藉りて幻の機と幻の感と幻の応と幻の赴とを発す・能応と所化と並びに権実に非ず」已上、此れ皆夢幻の中の方便の教なり性雖無殊等とは夢見る心性と寤の時の心性とは只一の心性にして総て異ること無しと雖も夢の中の虚事と寤の時の実事と二事一の心法なるを以て見ると思うも我が心なりと云う釈なり、故に止観に云く「前の三教の四弘・能も所も泯す」已上、四弘とは衆生の無辺なるを度せんと誓願し・煩悩の無辺なるを断ぜんと誓願し・法門の無尽なるを知らんと誓願し・無上菩提を証せんと誓願す此を四弘と云う、能とは如来なり所とは衆生なり此の四弘は能の仏も所の衆生も前三教は皆夢中の是非なりと釈し給えるなり、然れば法華以前の四十二年の間の説教たる諸経は未顕真実の権教なり方便なり、法華に取寄る可き方便なるが故に真実には非ず、此れは仏自ら四十二年の間説き集め給いて後に、今法華経を説かんと欲して先ず序分の開経の無量義経の時・仏自ら勘文し給える教相なれば人の語も入る可からず不審をも生す可からず、故に玄義に云く「九界を権と為し仏界を実と為す」已上、九法界の権は四十二年の説教なり仏法界の実は八箇年の説・法華経是なり、故に法華経をば仏乗と云う九界の生死は夢の理なれば権教と云い仏界の常住は寤の理なれば実教と云う、故に五十年の説教・一代の聖教・一切の諸経は化他の四十二年の権教と自行の八箇年の実教と合して五十年なれば権と実との二の文字を以て鏡に懸けて陰無し。

 

現代語訳

この教相を無量義経で「四十余年未顕真実」と説かれているのである。未顕真実の諸経は夢のなかのことを説いた権教である。ゆえに妙楽大師の法華玄義釈籤には「夢を見ているときと寤のときと、心性それ自体は異なりはしないけれども、夢のなかにあっては、必ず幻によっているのであり、幻の機、幻の感、幻の応、幻の赴とを起こしているのである。能応の仏も所化の衆生も、ともに幻の権であって、実なる存在ではない」と説かれている。つまり、未顕真実の諸経は、皆、夢や幻のなかのことを説いた方便の教なのである。

「性・殊なること無しと雖も」等とは、夢を見ているときの心性と寤のときの心性とは、ただ一つの心性であって、全く異なるものではないけれども、夢のなかの架空のことも、寤のときの実際のことも、ただ一つの心法からあらわれているのであるから、実は自身の心を見ているのであるという釈である。

ゆえに摩訶止観を注釈した止観輔行伝弘決には「前の三教に説かれる四弘請願は架空のものであり、そこに説かれる能も所もともに滅びてしまう」と説かれている。「四弘」とは、無量無辺の衆生を救おうと誓願し、無数の煩悩を断じようと請願し、無尽の法門を知り尽くそうと請願し、無上の菩提を証得しようと誓願することをいうのである。「能」とは如来であり、「所」とは衆生である。前三教に説かれる四弘の誓いは、能化の仏も、所化の衆生も、皆、夢のなかの是非であると釈されたのである。

したがって、法華経以前の四十二年の間に説かれた諸経は、未顕真実の権教であり、方便の教えである。法華経に誘引するための方便であるから真実ではないのである。

このことは仏自らが四十二年の間説いた教えをすべて集められた後に、今まさに法華経を説こうとして、その序分にあたる開経の無量義経のときに、勘え定められた教相なのであるから、人の言葉をさしはさむべきではなく、疑問をさしはさむ余地はないのである。

法華玄義釈籤には「九界を権と為し、仏界を実と為す」と説いている。九法界の権は四十二年の説教であり、仏法界の実は八箇年の説で、法華経である。

ゆえに法華経を仏乗というのである。九界の生死は夢の世界の法理なので権教といい、仏界の常住の生命は寤の法理なので実教という。

釈尊の五十年の説教、一代の聖教、一切の諸経は、化他の四十二年の権教と自らの悟りを明かした八年間の実教とを合わせて五十年となる。ゆえに権と実との二つの文字を鏡として諸経をみるとき、その相違が明らかとなって曇りはないのである。

語句の解説

無量義経

一巻。中国・蕭斉代の曇摩伽陀耶舎訳。法華経の開経とされる。内容は「無量義とは、一法従り生ず」等と説き、この無量義の法門を修すれば無上正覚を成ずることを明かしている。また、これまでに説いた経教は、まだ真実を明かさない方便の教えであることを次のように述べている。「善男子よ。我れは先に道場菩提樹の下に端坐すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり。仏眼を以て一切の諸法を観ずるに、宣説す可からず。所以は何ん、諸の衆生の性欲は、不同なることを知れり。性欲は不同なれば、種種に法を説きき。種種に法を説くことは、方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず。是の故に衆生は得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得ず」と。

 

未顕真実

無量義経説法品第二に「四十余年には未だ真実を顕さず」とある。釈尊自身が、これまでの四十二年間に説いた経教はいまだ真実義を顕していない、と述べた言葉。

 

釈籤

法華玄義釈籤の略。十巻(または二十巻)。中国・唐代の妙楽大師湛然述。天台大師の法華玄義の註釈書。天台山で法華玄義を講義した時に学徒の籤問(疑問箇所に籤をつけて意味を質すること)に答えたものを基本とし、後に修正を加えて整理したもの。引用文の出典を明示し、注釈は極めて詳細で、天台大師の教義を拡大補強している。また当時盛んであった華厳宗・法相宗などを破折して法華最第一の義を強調している。

 

機・感・応・赴

「機」は機根のこと。仏の教化を受ける衆生の可能性とその状態をいう。「感」は衆生が仏を感ずること。「応」は応ずること。仏が衆生の機根に応ずること。「赴」は仏が衆生の機根に応じて出現すること。

 

勘文

「かもん」とも読む。朝廷や幕府の諮問に対して、諸道の学者等が先例や故実などを調べ考えて意見を上申した書。ここでは、仏の勘えた文の意で用いられている。

講義

一代聖教のなかで前四時の経を権教、法華経を実教とする教相判釈が釈尊自身の説によるものであることを示されている。すなわち、無量義経に「四十余年、未顕真実」とあるのがそれである。

そして、〝未顕真実〟とは、四十余年の経は夢のなかの権教であるということの裏づけとして、妙楽大師の釈籤の文と弘決の文とを示された後に「故に五十年の説教・一代の聖教・一切の諸経は化他の四十二年の権教と自行の八箇年の実教と合して五十年なれば権と実との二の文字を以て鏡に懸けて陰無し」と結論されている。

なお「然れば法華以前の四十二年の間の説教たる諸経は未顕真実の権教なり方便なり」以下の御文は、この段落冒頭の「此の教相をば無量義経に四十余年未顕真実と説き給う」の御文を受けている。このあいだに、妙楽大師の釈籤と弘決の文、およびその説明が挿入されている。

 

此の教相をば無量義経に四十余年未顕真実と説き給う已上

 

「未顕真実」の文は無量義経説法品第二に「諸の衆生の性欲は、不同なることを知れり。性欲は不同なれば、種種に法を説きき。種種に法を説くことは、方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず。是の故に衆生は得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得ず」とある。すなわち、釈尊自身が法華経を説くにあたって、これまでの四十余年間の教えは、衆生の〝性欲〟(性質と欲望)に応じて方便として説いた教えであって、未だ仏の真実を顕していない、と述べているのである。

未顕真実ということは、寤が事実であるのに対し、夢は虚事であるから、未顕真実の四十余年の経は夢中の権教であるということである。

 

釈籤に云く「性・殊なること無し……」……我が心なりと云う釈なり

 

この釈籤の文と次の弘決の文とそれらの説明は、爾前権教が夢中の法門であることを裏づけるために引かれたものである。

釈籤とは妙楽大師の法華玄義釈籤十巻(あるいは二十巻に数えることもある)のことで、ここに引用された文は釈籤のなかの巻七下(あるいは巻十四)にあたる、十不二門といわれる段落のなかで説かれたものである。

十不二門というのは、妙楽大師が天台大師の法華玄義に説かれた迹門十妙、本門十妙について、新たに十の不二門を立てることによって釈した法門である。

妙楽大師は、釈籤において、迹門十妙を注釈した後、本門十妙を釈するにあたって、十の不二門を説いている。

さて、本抄で引用された部分は十不二門のなかの第十受潤不二門を説き明かしているところからのものである。

今、その全文をここに紹介すると次のようになる。

「十に受潤不二門とは、物理は本来性に権実を具す。無始より熏習して或いは実、或いは権なり。権実は熏に由る。理は恒に平等なり。時に遇い習を成じて行願に資けらる。若し本因無くんば熏も亦徒設ならん。熏に遇うて自ら異なり、性の殊なるに由るに非ず。性は殊なること無しと雖も、必ず幻に藉って発す。幻の機、幻に感じ、幻の応、幻に赴く。能応、所化、並びに権実に非ず。然るに生は非権非実を具して権実の機を成ずるに由って、仏も亦果に非権非実を具して権実の応を為す。物機、応契、身土に遍無し、同じく常寂光にして法界に非ざること無し。故に知んぬ、三千同じく心地に在って、仏の心地の三千と殊ならざることを」。

「受潤」とは、十妙のうちの眷属妙と利益妙との二妙によって立てられたもので、受潤の〝受〟というのは、能化の仏も所化の衆生もともに、本来、寂光土に生を〝受〟けることであり、〝潤〟というのは、同じ利益に潤う、ということである。

すなわち、まず、衆生の本性は権実不二であるけれども、因縁によって、権となったり実となったりする。したがって、能化の仏と所化の衆生といっても、その本性は同一であるゆえに、能化の仏も所化の衆生もともに、同じく常寂光土に生を〝受〟け、同じ利益に〝潤〟っているのであり、これを〝受潤不二門〟というのである。

上の文で「物理は本来性に権実を具す」とあるように、物は本来の性分として権と実とをともに具しているのである。

しかし「無始より熏習して或いは実、或いは権なり。権実は熏に由る。理は恒に平等なり」とあるように、無始以来の「熏習」によって、九界の権や仏界の実との差異を生じるのである。

「熏習」というのは、香りのない衣服も香をたくと次第に香りが滲み移っていくように、縁するものによって影響されることをいうのである。

しかし「時に遇い習を成じて行願に資けらる。若し本因無くんば熏も亦徒設ならん。熏に遇うて自ら異なり、性の殊なるに由るに非ず」とあるように、その「熏習」も、因としての(本因の)権実不二の理がなければ徒事にすぎない。

権と実との異なりは「熏習」によって起こるのであり、本性が異なっているからではない、と説いている。

この妙楽大師の釈文から「性は殊なること無しと雖も、必ず……能応、所化、並びに権実に非ず」という一節を引用されて、日蓮大聖人は「夢見る心性と寤の時の心性とは只一の心性にして総て異ること無しと雖も夢の中の虚事と寤の時の実事と二事一の心法なるを以て見ると思うも我が心なり」と述べられている。

すなわち、我々が夢を見ているときも、目覚めて寤のときも、どちらも同じ心である。もとより、夢は〝虚事〟であり、寤は〝実事〟という違いはあるが、いずれも自分の心がそこに描いたものであるから、結局、そこに「我が心」を見ていることになる、ということである。

 

止観に云く「前の三教の四弘・能も所も泯す」

 

本文には止観と述べられているが、引用文そのものは、妙楽大師の止観輔行伝弘決巻五の三からのものである。「四弘」とは、四弘誓願のことである。

この四弘誓願については後に詳しく述べるとして、引用文の内容について触れておきたい。弘決のこの文は、摩訶止観の巻五上正修止観に明かされる十境・十乗観法の第一の〝観不思議境〟を明かすなかで〝思議境〟に言及している部分について、妙楽大師が注釈を加えたものである。

〝思議境〟(心が思議することのできる対象界)について、天台大師は大乗教の「心は一切の法(十法界)を生ず」という考え方が思議境であるとしたうえで、悪として地獄・餓鬼・畜生の因果を、善として修羅・人・天の因果を、次の二乗の因果、菩薩の因果、仏の因果、という順序で、心から十法界を生ずることを明かしている。とくに、菩薩の因果の法を経て、仏の因果の法への展開については次のように説いている。

「此の法の能度所度を観ずるに、皆是れ中道実相の法にして畢竟清浄なり。誰かは善、誰かは悪、誰かは有、誰かは無、誰かは度、誰かは不度ならん。一切の法、悉く是くの如し。是れ仏の因果の法なり」と。

ここで、「此の法」とは、菩薩の因果の法のことである。すなわち、菩薩の因果の法における能度(救済する主体)と所度(救済される対象)を観察していくと、すべて中道実相の法であり、究極的に清浄である。

したがって、だれが悪で、だれが善か、だれが有で、だれが無か、とか、度と不度というような差別・対立は、そこにおいては存在しないのである。

これを受けて、妙楽大師は弘決巻五の三に次のように釈している。

「仏法界の中に能度所度等は皆是れ実相というは法界亡泯に非ずこと無きが故なり。誰かは善、誰かは悪とは、前の界内の三善三悪を泯す。誰かは有、誰かは無とは、前の三有及び二乗の無を泯す。誰かは度、誰かは不度とは、前の三教の四弘の能所を泯す。諸法を泯すと雖も次第に炳燃す。若し思議を棄てれば当に知るべし是の人は二法俱に失せん」と。

この釈のなかで妙楽大師は、仏法界の因果の法において能度(救済する主体、仏・菩薩)も所度(救済される対象、衆生)もともに中道実相であるという止観の文はあくまで、法界そのものが〝亡泯〟(無に帰する)しないものがないので、このようにいえるのであると述べている。

換言すれば、仏法界においては何が悪(地獄、餓鬼、畜生)で、何が善(修羅、人、天)か、また何が有(三界・六道)で、何が無(二乗)かというような差別・対立は〝泯(みん)す〟、すなわち、なくなるということができるのである。

しかも「諸法を泯すと雖も次第に炳燃す」と述べている。〝炳燃〟とは、光り輝いて明らかな様子を示している。

さて、本文に引用された「前の三教の四弘・能も所も泯す」という文は、先に挙げた弘決のなかでは「誰かは度、誰かは不度とは、前の三教の四弘の能所を泯す」となっている。

これは、摩訶止観の「誰かは度、誰かは不度ならん」の文を釈して述べられたものであることは明らかである。

つまり、仏法界においては、度すなわち悟りに到達した人と、不度すなわち悟りに到達していない人、という差別・対立はない、ということを表現したものである。

妙楽大師はこれを釈して、蔵教、通教、別教という円教以前の三教において立てられた菩薩の四弘誓願のなかの、能(救済する主体、仏・菩薩)も所(救済される対象、衆生)もともに、仏法界においてはなくなるとしたのである。

本抄では、この妙楽大師の弘決の釈を取意して、四十余年の爾前の権教、前三教が未顕真実の夢中の法門であることを説明する文証として援用されているのである。

本文に「能とは如来なり所とは衆生なり此の四弘は能の仏も所の衆生も前三教は皆夢中の是非なりと釈し給えるなり」と仰せのとおりである。

 

四弘誓願について

 

〝四弘〟とは、四弘誓願のことである。大乗の菩薩は仏教の真理(法)を師匠や善知識から聞き、これに促されて自らも成仏を目指して永遠の仏道修行(歴劫修行)に励もうと発心し決意するのであるが、このとき(これを初発心という)、必ず、誓願を起こし自らに課すのである。

このとき、すべての菩薩が起こす誓願が、ここにいう四弘誓願であり、すべての菩薩が起こすことから〝総願〟とされる。これに対し、仏・菩薩が個々に立てる特別の請願のことを〝別願〟という。

さて、四弘誓願の〝四〟は誓願の数を示し、〝弘〟というのは、この四つの請願の内容が広大無辺であることをさしている。

四つの請願の内容は、本文に「四弘とは衆生の無辺なるを度せんと誓願し・煩悩の無辺なるを断ぜんと誓願し・法門の無尽なるを知らんと誓願し・無上菩提を証せんと誓願す此を四弘と云う」とあるとおりである。

すなわち「衆生の無辺なるを度せんと誓願し」が「衆生無辺誓願度」、「煩悩の無辺なるを断ぜんと誓願し」が「煩悩無辺誓願断」(あるいは煩悩無数誓願断ともいう)、「法門の無尽なるを知らんと誓願し」が「法門無尽誓願知」、「無上菩提を証せんと誓願す」が「無上菩提誓願証」、の四つの請願である。

なお、最後の無上菩提誓願証は、代わりに〝仏道の無上なることを成ぜんことを誓願す〟という「仏道無上誓願成」と表現される場合もあるが、意味するところは全く同じである。

四弘誓願は要するに、まず第一に、無辺の一切の衆生を一人も余さず度(救済)するという〝利他〟の誓願を立て、次に、この衆生救済の利他とともに、菩薩自身の人間的完成を目指す〝自利〟の請願が三つ立てられるのである。

すなわち、菩薩自身の生命に内在する無数の煩悩を断じ切っていくという誓願であり、無尽というべき法門を知り尽くしていくという誓願であり、無上の菩提(悟り)を証明していくという誓願である。

まず、利他の衆生救済の請願が第一に置かれているところに、大乗たる所以が明らかであり、更には、無量、無辺、無数、無上ということを目標としている点において、どこまでも現状に満足せずに、限界を打ち破りつつ無限に向上を図っていこうとする菩薩の雄々しい精神が漲っているといえよう。

しかし、権教における菩薩の四弘誓願は、実教の法華経からみたとき、夢のなかでの是非善悪の出来事になる。

所詮、権教の前三教は、能(仏)も所(衆生)もともに夢幻のなかにあるにすぎないから、そのなかで、無辺の衆生を救うと請願しても、無上の菩薩(悟り)を成就して仏になると誓願しても、いずれも、夢、幻となってしまうからである。

 

玄義に云く「九界を権と為し……」……実教と云う

 

引用されたのは、天台大師の法華玄義の文として挙げられているが、実際には妙楽大師の法華玄義釈籤巻二上(あるいは巻四)の文である。

これは法華玄義巻二の「此の一法界に十法界を具し、十法界に百如是を具す。又一法界に九法界を具すれば、即ち百法界千如是有り。束ねて五差と為す。一に悪、二に善、三に二乗、四に菩薩、五に仏なり。判じて二法と為す。前の四は是れ権法、後の一は是れ実法なり。細しく論ずれば各権実を具す。且く両義に依る。然るに此の権実は思義す可からず、乃ち是れ三世の諸仏の二智の境なり」とある文を妙楽大師が釈籤で釈したものである。

天台大師の文は、十界互具を論ずるなかで、十法界を悪(地獄、餓鬼、畜生)、善(修羅、人、天)、二乗、菩薩、仏の五つの差異(五差)に分類して、前の四つ、すなわち悪・善・二乗・菩薩を権法に、最後の一つ、すなわち仏を実法に配している。

更に天台大師は、詳細に論ずれば十界互具であるから、権法にも実法を具し、実法にも権法を具しているのであるが、今は一往、前の四を権、後の一を実とする、と述べている。

これを受けて妙楽大師が釈籤に「『細しく論ずれば各権実を具す。且く両義に依る』と言うは、相即は向きに説く所の如し。且く九界を権と為し仏界を実と為すに依る。若し然らずんば謂く仏尚亦説かず、況や復下地をや。故に且く顕説に依る」と釈しているのである。

この釈からも明らかなように、妙楽大師は天台大師の前の四つ、すなわち悪、善、二乗、菩薩の九界を権に、後の一つ、すなわち仏界を実と立て分けたのである。

この天台大師及び妙楽大師の九界=権、仏界=実、の立て分けに基づいて、本文では、

九法界の権=九界の生死=夢の理=四十二年の説教=権教

仏法界の実=仏界の常住=寤の理=八箇年の説・法華経=実教

と示されているのである。

結局、爾前教は真実の仏の境地を明かさず、成仏の法を説いていないので九界の域にとどまるのであり、法華経のみが仏の境地と成仏の法を説き明かしているので仏界に属するのである。

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