三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) 第二十章(経の勝劣に迷う愚を戒める)
弘安2年(ʼ79)10月 58歳
大綱の三教を能く能く学す可し、頓と漸と円とは三教なり是れ一代聖教の総の三諦なり頓・漸の二は四十二年の説なり円教の一は八箇年の説なり合して五十年なり此の外に法無し何に由つてか之に迷わん、衆生に有る時には此れを三諦と云い仏果を成ずる時には此れを三身と云う一物の異名なり之を説き顕すを一代聖教と云い之を開会して只一の総の三諦と成ずる時に成仏す此を開会と云い此を自行と云う、又他宗所立の宗宗は此の総の三諦を分別して八と為す各各に宗を立つるに依つて円満の理を闕いて成仏の理無し是の故に余宗には実の仏無きなり故に之を嫌う意は不足なりと嫌うなり、円教を取つて一切諸法を観ずること円融・円満して十五夜の月の如く不足無く満足し究竟すれば善悪をも嫌わず折節をも撰ばず静処をも求めず人品をも択ばず一切諸法は皆是れ仏法なりと知りぬれば諸法を通達す即ち非道を行うとも仏道を成ずるが故なり、天地水火風は是れ五智の如来なり一切衆生の身心の中に住在して片時も離るること無きが故に世間と出世と和合して心中に有つて心外には全く別の法無きなり故に之を聞く時立所に速かに仏果を成ずること滞り無き道理至極なり、総の三諦とは譬えば珠と光と宝との如し此の三徳有るに由つて如意宝珠と云う故に総の三諦に譬う若し亦珠の三徳を別別に取り放さば何の用にも叶う可からず隔別の方便教の宗宗も亦是くの如し珠をば法身に譬え光をば報身に譬え宝をば応身に譬う此の総の三徳を分別して宗を立つるを不足と嫌うなり之を丸じて一と為すを総の三諦と云う、此の総の三諦は三身即一の本覚の如来なり又寂光をば鏡に譬え同居と方便と実報の三土をば鏡に遷る像に譬う四土も一土なり三身も一仏なり今は此の三身と四土と和合して仏の一体の徳なるを寂光の仏と云う寂光の仏を以て円教の仏と為し円教の仏を以て寤の実仏と為す余の三土の仏は夢中の権仏なり、此れは三世の諸仏の只同じ語に勘文し給える総の教相なれば人の語も入らず会釈も有らず若し之に違わば三世の諸仏に背き奉る大罪の人なり天魔外道なり永く仏法に背くが故に之を秘蔵して他人には見せざれ若し秘蔵せずして妄りに之を披露せば仏法に証理無く二世に冥加無からん謗ずる人出来せば三世の諸仏に背くが故に二人乍ら倶に悪道に堕んと識るが故に之を誡むるなり、能く能く秘蔵して深く此の理を証し三世の諸仏の御本意に相い叶い二聖・二天・十羅刹の擁護を蒙むり滞り無く上上品の寂光の往生を遂げ須臾の間に九界生死の夢の中に還り来つて身を十方法界の国土に遍し心を一切有情の身中に入れて内よりは勧発し外よりは引導し内外相応し因縁和合して自在神通の慈悲の力を施し広く衆生を利益すること滞り有る可からず。
現代語訳
一代聖教をわきまえるには、その大綱となる三教をよくよく学ばなければならない。頓教と漸教と円教とが三教である。この三教は一代聖教の総の三諦である。
頓・漸の二教は前の四十二年の説であり、円教の一教は後八年間の説である。合わせて五十年であり、このほかに仏法はない。どうしてこれに迷うことがあろうか。
衆生に約するときはこれを三諦といい、仏果を成ずるときにはこれを三身という。これは一つの物の異名である。
これを説きあらわしたのを一代聖教といい、これを開会してただ一つの総の三諦と悟るときに成仏するのである。これを開会といい、自行というのである。
また他宗の立てる各教義はこの総の三諦を分別して八つとしたものである。各々に宗旨を立てるから円満の理を欠いて成仏の理がないのである。
したがって他宗には実の仏がないのである。ゆえに他宗を嫌うのであるが、その意は教理が不完全であると嫌うのである。
今、円教によって一切諸法を観察すると、円融円満で十五夜の月のように不足なく満足し、究極に達するならば、善悪をも嫌うことなく、折節をも選ぶことなく、静処をも求めることなく、人柄をも選ぶことなく、一切の諸法は皆これ仏法であると知って、諸法に通達するのである。すなわち、たとえ非道を行じても、仏道を成ずることができるのである。
天地水火風は五智の如来である。一切衆生の身心のなかに住在して片時も離れることはないから。世間法と出世間法とが和合して我らの心のなかにあって、心の外には全く別の法はない。
ゆえにこの妙理を聞くときは、その場で速やかに仏果を成ずることにいささかの滞りもないのであって、これは至極の道理である。
総の三諦とは、たとえば珠と光と宝との関係のようなものである。この三徳があるから如意宝珠といい、総の三諦にたとえるのである。
もしまた珠の三徳を別々に取り放してしまえば、なんの用にもならない。隔別の方便教の宗々は、これと同じである。
珠は法身にたとえ、珠が放つ光は報身にたとえ、珠の宝としての価値は応身にたとえるのである。諸宗は、この総の三徳を分別して宗旨を立てるので、不足であると嫌うのである。
これに対して、この三諦を丸めて一つにするのを総の三諦というのである。この総の三諦はまた三身即一の本覚の如来である。
また寂光土を鏡にたとえ、同居土と方便土と実報土の三土を鏡に映る像にたとえる。四土も一土である。三身もその体は一仏である。
法華経では、この三身と四土とが和合して仏の一体の徳であるのを寂光の仏というのである。この寂光の仏をもって円教の仏となし、円教の仏をもって寤の実仏となすのである。他の三土の仏は夢中の権仏である。
以上述べたことは、三世の諸仏が同じ語をもって勘文した総の教相であるから、人の言葉を入れる余地もなく、会通会釈も必要ない。
もしこの仏説に違うならば、三世の諸仏に背きたてまつる大罪の人であり、天魔外道である。なんとなれば、このような人々は永く仏法に背くからである。この法門は秘蔵して他人に見せてはならない。
もし秘蔵することなく、みだりにこれを披露するならば、仏法の奥義を証することなく、現当の二世に冥加を蒙ることがないであろう。
万一誹謗する人が出てくるならば、三世の諸仏に背くことになるから、謗ずる者も披露した者も、二人ともどもに悪道に堕ちるということを知っているゆえに、みだりに見せることを戒めるのである。
ゆえに心ある者はよくよくこれを秘蔵して、深く妙法の理を証し、三世の諸仏の御本意にかない、二聖・二天・十羅刹女等の擁護を受け、滞りなく上上品の寂光世界に往生を遂げ、たちまちの間に九界生死の夢のなかに帰ってきて、身を十方法界の国土にいきわたらせ、心を一切有情の身中に入れて、内からは勧発し、外からは引導して、内外相応じ、因縁和合して自在神通の慈悲の力を施して、広く衆生を利益すること滞りがないであろう。
語句の解説
総の三諦を分別して八と為す
諸宗では、本来円融円満である釈尊の一大聖教を分別してそれぞれ宗を立てて、八としている。「八」は日本八宗(倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・天台宗・真言宗)のことか。それとも、化儀の四教と化法の四教の八教をさすか。
二聖・二天・十羅刹の擁護
法華経陀羅尼品第二十六で、陀羅尼を唱えて法華経の行者を守護し、悪魔を降伏させると誓った薬王菩薩と勇施菩薩の二聖と持国天・毘沙門天の二天と十人の羅刹女の五番神呪(五番善神)のこと。
講義
この段は、次のような内容である。
一代聖教を総括すると、42年の諸経が頓・漸二教となり、八年間の法華経は円教であって、この三教に収まる。
これが一代聖教の総の三諦であり、衆生にあっては、空・仮・中の三諦、仏にあっては、法・報・応の三身になる。
ゆえに、この総の三諦を成ずることが成仏の道であるのに、他宗はこれをバラバラにして、その断片に執着しているから、成仏できないのであると、重ねて破折されている。
本来「万法は己心に収まりて一塵もか(闕)けず九山・八海も我が身に備わりて日月・衆星も己心にあり」(1473:06)というのが生命の真実の姿である。
爾前の諸経は、この己心の法を「片端」説いた部分観であるから完全ではなく、したがって、本文で「意は不足なりと嫌うなり」と仰せのように、不十分な教えであるとするのである。
これに対して、円教の場合は「一切諸法を観ずること円融・円満して十五夜の月の如く不足無く満足し究竟すれば善悪をも嫌わず折節をも撰ばず静処をも求めず人品をも択ばず一切諸法は皆是れ仏法なりと知りぬれば諸法を通達す即ち非道を行うとも仏道を成ずるが故なり」と説かれるように、円教は一切諸法を包含しているから、あたかも十五夜の月のように完璧である。
「善悪をも嫌わず」で、いかなる境界に住するかは問題ではない。また「折節」、すなわち時を選ばないのであり、「静処をも求めず」で、場所を選ぶこともないのである。さらに「人品をも択ばず」、すなわち、いかなる人でも成仏できると仰せである。
「非道を行うとも仏道を成ず」と仰せの「非道」とは、一般には道理に悖る、人情にはずれる道をいうが、ここでは仏道に非ざる道の意で、煩悩・業・苦の三道をいい、たとえこの三道に沈んでいても、円教の妙法はこれを悟りに変え、仏道を成じさせることができるということである。
更に、世間、出世間ともに心中にあって、この円教の妙法を聞く時には「立所に速かに仏果を成ずる」ことができるのである。
次に、〝総の三諦〟とはいかなるものかについて、宝珠をたとえにとり、如意宝珠の珠(中諦)と光(空諦)と宝(仮諦)のようなものであり、これを仏身に配するならば、珠は法身・光は報身・宝は応身にたとえられると教示されている。また、国土に配すれば、寂光土は鏡であり、同居・方便・実報の三土は鏡に映る像にたとえられる。
このように、四土も一土であり、三身も一仏であり、この三身と四土とが和合して依正不二なる仏を「寂光の仏」といい、この円教の仏を寤の実仏、他の三土の仏を夢中の権仏とする、と仰せられている。
以上の総の三諦を説いた円教を深く信じて修行に励んでいくとき、「三世の諸仏の御本意に相い叶い二聖・二天・十羅刹の擁護を蒙むり滞り無く上上品の寂光の往生を遂げ」ることができる。
そして、自ら成道した後、ひるがえって、九界の世界に立ち戻り衆生を自在に利益することを「須臾の間に九界生死の夢の中に還り来つて身を十方法界の国土に遍じ心を一切有情の身中に入れて内よりは勧発し外よりは引導し内外相応し因縁和合して自在神通の慈悲の力を施し広く衆生を利益すること滞り有る可からず」と示されている。
大綱の三教・総の三諦・三身・三徳
この段は、これまで自行と化他を対立するものとして説かれてきたのに対し、化他は部分観であり、自行は全体観であって、化他の教えもすべて包含される。
ゆえに化他の教えの欠点は、〝不足なり〟ということにあると述べられ、法華経の円融円満の総の三諦こそ成仏の要諦であることを教えられている。
「大綱の三教」というのは、釈尊一代聖教の大綱を、頓教・漸教・円教の三教であるとするものである。
頓教の〝頓〟とは〝すみやかに〟〝ただちに〟の意で、天台大師が説法の形式から一代聖教を分けた化儀の四教のうち、衆生を誘引するという手段を用いないで直ちに大乗を説いた教えをいうのである。一代聖教のなかでは華厳経が頓教となる。
次に、漸教とは、同じく化儀の四教のうち、衆生をその機根に応じて〝漸々に〟すなわち〝次第に〟誘引していく教えをいう。
一代聖教のなかでは、阿含部、方等部、般若部の経教がこれにあたる。
最後に、円教とは天台大師が説法の内容から分けた化法の四教のうちの一つに挙げられており、円融円満で完全無欠な教えということで、法華経がこれにあたる。釈尊五十年の説法期間でいえば、頓教・漸教が四十二年の説であり、円教は八年間の説である。
また、この大綱の三教はすなわち〝一代聖教の総の三諦〟となる。
大綱の三教と総の三諦との関係についていえば、頓教(華厳経)が空諦、漸教(阿含経・方等経・般若経)が仮諦、円教(法華経)が中諦となる。
いまだ仏果を成じない衆生の生命については、空・仮・中の三諦というのに対し、仏果を成じたときには、法身・報身・応身の三身となると述べられ、これらは「一物の異名」であるとされている。
すなわち法華経は、生命の空仮中の三諦、法報応の三身という全体観でとらえたものであることを明かされている。
これに対し諸宗は、部分部分を根拠としているのであるから「円満の理」を闕くことになり、したがって成仏の理もない。
更に、総の三諦を珠と光と宝の三徳にたとえている。珠とは宝石の本体であり、光とは、宝石が放つ輝きであり、宝とはその価値といえる。
これらは一往、三つに分けて論ずることはできても、現実には不可分の全体をなしている。ゆえに、円教の法華経が正しいのであり、各部分を依りどころとしている諸宗は〝不足なり〟といわざるをえないのである。
能く能く秘蔵して深く此の理を証し……滞り有る可からず
三世の諸仏の勘文を信じ、これに背くことなく、ただひたすら法華円教の法理に従って修行に励んでいくとき、我々の生命に顕現してくる成仏の境地について示されているのがこの御文である。
この御文は大きく二つに分けられると思われる。前半は「能く能く秘蔵して深く此の理を証し……上上品の寂光の往生を遂げ」の御文であり、後半は「須臾の間に九界生死の夢の中に還り来つて……広く衆生を利益すること滞(とどこお)り有る可からず」という御文である。
前半の御文は、法華円教の法理を信じて修行していくとき、成仏を遂げることを明かされている。円教の法理を正しく修行していったときは、「三世の諸仏の御本意に相い叶い二聖・二天・十羅刹の擁護を蒙むり」成仏を遂げることができると仰せである。
薬王・勇施の二菩薩(二聖)、持国・毘沙門の二天、十羅刹女の守護を得てといわれているのは、法華経の陀羅尼品第二十六で、行者を加護することを誓っていることから、とくに挙げられたと拝される。
ここで、「上上品の寂光の往生」といわれているのは、浄土宗の下品の往生に対してであり、要は九界から仏界に入ることを往生と表現されたのである。
しかも、円教であるゆえに、ただ寂光土に往生して終わるのではない。そこから、九界の世界に立ち返って、一切衆生を利益するのである。
後半の御文では、成道の後、ひるがえって、直ちに九界の世界に立ち戻って衆生を自在に利益する活発な慈悲の生命活動を行う姿が、説かれている。
「須臾の間に九界生死の夢の中に還り来つて」とは、成道した後、言い換えれば、仏界の生命を顕現した後、〝ただちに〟九界生死の夢のなかに戻ってきて、「身を十方法界の国土に遍じ心を一切有情の身中に入れて」と仰せのように、自在の振る舞いで慈悲の力を施して、人々を利益することができると述べられている。
もとより、このような境地は、別して御本仏日蓮大聖人のみが証得されたところであり、「内よりは勧発し外よりは引導し内外相応し」と仰せの「内より」というのは、そのまえに「心を一切有情の身中に入れ」と述べられていることと結びついている。そして「外よりは引導し」とは、同じく「身を十方法界の国土に遍じ」の御文とつながっている。
仏界の生命を顕現された境地においては、その心が一切の有情の身中に入っているゆえに、衆生の生命の内から〝勧発(仏法を勧めて道心を発させること)〟することが可能なのである。
言い換えれば、仏界の生命を顕現した境地と衆生の生命とが感応することにより衆生の内なる一念が仏法を求めるようになることである。
更に、「外よりは引導し」というのは、身を十方法界の国土に遍じておられる立場から、衆生の生命の外側から仏法へと誘引されるというのである。
こうして、内と外とが相応することにより、因(内から)縁(外から)とが和合して、衆生を成仏させていくことができるのであり、これが〝自在神通の慈悲の力〟であると仰せられている。