三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) 第十七章(衆生に約し自行化他を明す)

三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) 第十七章(衆生に約し自行化他を明す)

 弘安2年(ʼ79)10月 58歳

所詮己心と仏身と一なりと観ずれば速かに仏に成るなり、故に弘決に又云く「一切の諸仏己心は仏心と異ならずと観じ給うに由るが故に仏に成ることを得る」と已上、此れを観心と云う実に己心と仏心と一心なりと悟れば臨終を礙わる可き悪業も有らず生死に留まる可き妄念も有らず、一切の法は皆是れ仏法なりと知りぬれば教訓す可き善知識も入る可らず思うと思い言うと言い為すと為し儀いと儀う行住坐臥の四威儀の所作は皆仏の御心と和合して一体なれば過も無く障りも無き自在の身と成る此れを自行と云う、此くの如く自在なる自行の行を捨て跡形も有らざる無明妄想なる僻思の心に住して三世の諸仏の教訓に背き奉れば冥きより冥きに入り永く仏法に背くこと悲しむ可く悲しむ可し、只今打ち返えし思い直し悟り返さば即身成仏は我が身の外には無しと知りぬ、我が心の鏡と仏の心の鏡とは只一鏡なりと雖も我等は裏に向つて我が性の理を見ず故に無明と云う、如来は面に向つて我が性の理を見たまえり故に明と無明とは其の体只一なり鏡は一の鏡なりと雖も向い様に依つて明昧の差別有り鏡に裏有りと雖も面の障りと成らず只向い様に依つて得失の二つ有り相即融通して一法の二義なり、化他の法門は鏡の裏に向うが如く自行の観心は鏡の面に向うが如し化他の時の鏡も自行の時の鏡も我が心性の鏡は只一にして替ること無し鏡を即身に譬え面に向うをば成仏に譬え裏に向うをば衆生に譬う鏡に裏有るをば性悪を断ぜざるに譬え裏に向う時・面の徳無きをば化他の功徳に譬うるなり衆生の仏性の顕れざるに譬うるなり、

現代語訳

結局、己心と仏身と一体であると観ずれば速やかに仏になるのである。このことを止観輔行伝弘決にはまた「一切の諸仏は、己心は仏心と異なるものではないと観ずるゆえに仏になることができたのである」と述べている。

このことを観心というのである。実に己心と仏心とは同じ心であると悟れば、臨終を妨げる悪業もなく、生死界にとどまる妄念もないのである。

一切の法は皆これ仏法であると知ったならば、教訓をしてくれる善知識も必要ないのである。そして、思うままに思い、言うままに言い、為すままに為し、振る舞うままに振る舞うというその行住坐臥の四威儀の所作は、皆、仏の御心と和合して一体となるから、過失もなく、障害もない自由自在の身となる。これを自行というのである。

このように自由自在な自行の行を捨てて、跡形もないような無明妄想である誤った思いの心に住して、三世の諸仏の教訓に背くならば、無明から無明に入り、永く仏法に背く姿になることは、まことに悲しいかぎりである。

今、心を入れ替え、思い直し、悟り返してみれば、即身成仏は我が身のほかにはないことが分かるのである。

我が心の鏡と仏の心の鏡はただ一つの鏡であるけれども、我らは鏡の裏に向かって我が仏性の理を見ないのである。ゆえに無明というのである。

如来は鏡の表面に向かって我が仏性の理を見ておられるのである。ゆえに明と無明とはその体はただ一つである。

鏡は一つの鏡であっても、向かいようによって、明と矇昧(無明)の差別が起こるのである。

鏡に裏があるといっても、表面の障りとはならない。ただ向かいようによって姿を映し出すか出さないかの二つがあるのである。この二者は相即融通して一法の二義である。

化他の法門は鏡の裏に向かうようなものであり、自行の観心は鏡の表面に向かうようなものである。化他のときの鏡も、自行のときの鏡も、我が心性の鏡はただ一つであって変わらない。

鏡を即身にたとえ、鏡の表面に向かうのを成仏にたとえ、裏にむかうのを衆生(迷い)にたとえるのである。

そして鏡に裏があるのを性悪を断じないことにたとえ、裏に向かうときに表面のような影を映す徳がないことを化他の功徳にたとえるのである。すなわち、衆生の仏性があらわれないことにたとえるのである。

語句の解説

行住坐臥の四威儀

行・住・坐・臥の四種の威儀(作法)のこと。菩薩善戒経巻五などに説かれる。歩くこと、立止まること、すわること、横たわることの四つは、すべての動作の基本である。威儀とは規律にかなった起居動作のこと。仏道を修める者は、常にその態度や動作が法にかない、威儀を失ってはならないことをいう。

 

明昧

明暗の違いのこと。明は明るい、昧は日の出まえの薄暗いことから、転じて暗いの意。

講義

前段のところまでで〝化他の経〟〝自行の法〟についてのそれぞれの論述を終えられて、ここからは、自行と化他の差異と関係性を明かされていくのである。

また、これまでは、仏の立場に約して〝自行の法〟と〝化他の経〟について論じてこられたのであり、そこでは自行の法とは仏の寤の本心を説いたもの(法華経)であり、化他の経とは衆生を法華経へと次第に誘引する方便として説いた教えを意味されていた。

しかしここからは、これを衆生の立場に約して示されていくのである。まず「所詮己心と仏身と一なりと観ずれば速かに仏に成るなり」と仰せられている。

これまで述べられているように、仏が自らの悟りのままに説いた法華経が自行の法である。では、衆生にとって、その仏の悟りの法を自身にあらわすということはいかなることなのか。大聖人はそれを一言にして、衆生の生命が、本来は仏と全く同じであると悟ることであり、それが衆生にとっての「自行」となるといわれているのである。

天台大師は摩訶止観のなかで、坐して修行する常坐三昧、歩いて修行する常行三昧、これを折衷した半行半坐三昧、坐すことにも歩くことにも縛られない非行非坐三昧の四種三昧による止観修行を説いているが、衆生は、仏身との一体を悟れば、それら「行住坐臥」において、すべて仏と同じく自在の身と顕れることができると、次のように仰せられている。

「実に己心と仏心と一心なりと悟れば臨終を礙わる可き悪業も有らず生死に留まる可き妄念も有らず、一切の法は皆是れ仏法なりと知りぬれば教訓す可き善知識も入る可らず思うと思い言うと言い為すと為し儀(ふるま)いと儀う行住坐臥の四威儀の所作は皆仏の御心と和合して一体なれば過も無く障りも無き自在の身と成る此れを自行と云う」と。

すなわち、衆生の立場から〝自行〟をとらえると、己心と仏心とが同一であると悟るならば、その行住坐臥の四つの動作や振る舞いが仏の御心にかなって一体となり〝自在〟になっていく。これを自行というと述べられている。

次に、同じく衆生の立場から〝化他〟をとらえると「此くの如く自在なる自行の行を捨て跡形も有らざる無明妄想なる僻思の心に住」することであり、その結果、三世の諸仏の教訓に背いて冥きより冥きに入って永く仏道に背くことであると説かれている。

更に、自行と化他の差異と関係性について、鏡のたとえに寄せて次のように説かれている。すなわち、「我が心の鏡と仏の心の鏡とは只一鏡なりと雖も我等は裏に向つて我が性の理を見ず故に無明と云う、如来は面に向つて我が性の理を見たまえり故に明と無明とは其の体只一なり鏡は一の鏡なりと雖も向い様に依つて明昧の差別有り鏡に裏有りと雖も面の障りと成らず只向い様に依つて得失の二つ有り相即融通して一法の二義なり、化他の法門は鏡の裏に向うが如く自行の観心は鏡の面に向うが如し化他の時の鏡も自行の時の鏡も我が心性の鏡は只一にして替ること無し鏡を即身に譬え面に向うをば成仏に譬え裏に向うをば衆生に譬う鏡に裏有るをば性悪を断ぜざるに譬え裏に向う時・面の徳無きをば化他の功徳に譬うるなり衆生の仏性の顕れざるに譬うるなり」と。

ここでは、無明と明(法性)、化他の法門と自行の観心、衆生と成仏の相違と関係性が、分かりやすく一枚の鏡の裏と面の違いにたとえられている。

今、これを整理すると、

鏡の裏=無明(我が性の理を見ず)=化他の法門=衆生=性悪断ぜざること

鏡の面= 明(法性、我が性の理を見る)=自行の観心=成仏、如来

ということになる。

 

弘決に又云く「一切の諸仏己心は仏心と異ならずと観し給うに由るが故に仏に成ることを得る」……妄念も有らず

 

初めに引かれている弘決の文は、弘決巻二の一にあり、次に挙げる止観巻二上の文を釈したものである。

「自から念ぜよ、仏、何の所よりか来たる、我も亦、至る所無しと。我が念ずる所、即ち見る、心仏と作り、心自ら心を見、仏の心を見る。是の仏の心は、是れ我が心なれば仏を見る。心自ら心を知らず、心自ら心を見ず。心に想あるを癡と為す、心に想無きは是れ泥洹なり。是の法、示すべき者無し、皆、念の為す所なり。設い念あるも、亦、無所有空と了ずるのみ(其の三)。偈に云く、『心は心を知らず、心有って心を見ず。心、想いを起こすは即ち癡、想無きは即ち泥洹なり。諸仏は心に従って解脱を得、心は無垢なれば清浄と名づく』と。五道鮮潔にして色を受けず、此れを解すること有る者は大道を成ず、是れを仏印と名づく。貪る所無く、著する所無く、求むる所無く、想う所無し。所有尽き、所欲尽く。従って生ずる所無く、滅すべき所も無く、壊敗する所も無し。道の要、道の本なり。是の印は二乗も壊すこと能わず。何に況や魔をや」と。

これは止観巻二上において〝四種三昧〟の第二〝常行三昧〟について、身・口・意の三業に即してその行を規定しているが、そのうちの意業における業について説かれたなかの文である。

この文の内容を一言でいえば、心と仏とが本来平等一体なることを観ずるべきであるというのである。すなわち、心というのは心を知らないし、心は心を見ない。しかし、心が仏となったときに「心自ら心を見」るのであり、それは同時に「仏の心を見る」ことであり、「我が心が仏を見る」ことでもある。しかし、心が仏を見、心が心を見るといっても、心になんらかの想があるのを見ることではない。この場合は「癡」であるにすぎない。これに対して、心になんらの想のない状態が「泥洹(涅槃)」である。

更に、心と仏とが一体平等であることを観ずることができれば、その境地は「貪る所無く著する所無く、求むる所無く想う所」のない状態であり、したがって、また、所有が尽き、所欲がなくなってしまい、生ずるところも滅すべきところもなくなる。これこそ、二乗や魔ですら破壊することもできない「仏印」であるとともに「道の要、道の本」である、と述べている。

さて、本文に引用された弘決の「一切の諸仏己心は仏心と異ならずと観し給うに由るが故に仏に成ることを得る」という文は、今の止観の文のなかの「諸仏は心にしたがって解説を得」という句(諸仏従心得解脱)を釈したものである。

以上の弘決の文を受けて「此れを観心と云う実に己心と仏心と一心なりと悟れば臨終を礙わる可き悪業も有らず生死に留まる可き妄念も有らず」と仰せられているのである。

ただし、日蓮大聖人の仏法における観心とは、御本尊を受持し南無妙法蓮華経と唱えることであり、妙法の功力によって、己心即仏心と悟って成仏するのである。

日寛上人はこの文を観心本尊抄文段で次のように御教示されている。

「仏心も妙法五字の本尊なり。己心もまた妙法五字の本尊なり。己心・仏心異なりと雖も、妙法五字の本尊は異ならず、故に『一』というなり。而して『観』というは、初心の行者その義を知らざれども但本尊を信じて妙法を唱うれば、自然に『己心と仏心と一なり』と観ずるに当るなり。故に『観心』というなり」と。

ここに明確に示されているように、己心も仏心も、ともに妙法蓮華経の当体である点で〝一〟であり、〝観心〟とは、初信の行者が意義については何も分からなくても、ただ御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることにより、おのずから〝己心と仏心と一なり〟と観ずることになる。結局、御本尊を受持することが、日蓮大聖人の仏法における〝観心〟の本義なのである。

 

一切の法は皆是れ仏法なりと知りぬれば……此れを自行と云う

 

一代聖教を自行と化他に分けると、随他意の爾前経が化他の経であり、仏の悟りをそのまま明かした随自意の法華経が自行の法であることは、既に明確にされた。

ここでは、その仏の自行の法である法華経を、そのとおりに信じ「己心と仏身と一なり」と観じて即身成仏することが、衆生にとっての自行であることを教えられている。

すなわち、一切の法は皆ことごとく仏法であると悟ったならば、もはやその人を教訓する善知識を必要とせず、ただ自らの思うまま、言うがまま、為すがまま、振る舞うがままであり、また、動いたり止まったり坐ったり臥したり、というようなさまざまな日常的な行為が、そのまま仏の心と一体となって、自在の身となって振る舞っていくことができるのであり、これを自行というと仰せられている。

しかるに、このような〝自行〟の境地を教えた法華経の信心を捨てて、全く存在しない無明妄想に発する「僻思の心」にこだわって、三世諸仏の教訓に背くならば、悪道に流転し、不自由の境涯に苦しむことになる。

したがって、仏の自行の法を根本として、衆生が仏の悟りの境界に入ること、すなわち〝観心〟が、衆生にとっての自行であり、逆に、仏の心に背反して、無明妄想に迷っていくことが〝化他〟である。言い換えると、悟りの法性が自行、迷いの無明が化他ということである。

 

鏡の面と裏の譬

 

無明と法性との関係を鏡にたとえて、更に分かりやすく説かれている。

衆生と仏がともに妙法蓮華経の当体であるということは、ともに同じ鏡であることにたとえられる。ただその違いは、鏡への「向い様」であるといわれているのである。

「衆生」の場合は、鏡の〝裏〟に向かうのに対し、「如来」は〝面〟に向かうのである。このため、我が身が一念三千の当体であるという「我が性の理」は、鏡の裏側を見ている凡夫には見えない。表面に向かっている〝如来〟は、それを明確に悟っているのである。

本来、その体は一つではあるが、向かい方の違いで〝明〟と〝無明〟、〝明〟と〝昧〟の差別が生まれるのであり、明と無明とはその法体においては変わりがなく、それにどう対するかで、その差異が生じてくるのである。

また、「鏡に裏有りと雖も面の障りと成らず」との仰せは、無明を断ずる行き方は誤りであると既に述べられたことを、再び仰せられていると考えられる。

「化他の法門は鏡の裏に向うが如く自行の観心は鏡の面に向うが如し」と仰せの化他の法門は、夢中の衆生の機根に合わせて説かれた教えであり、仏の証得、法門の全体像を明かさずに、九界の言葉、心地を語ったものでしかないところから、鏡の裏に向かっているのと同じになる。

これに対し、自行の観心の法門である法華経は、生命の全体像、一念三千という仏の正意を説いているので、鏡の面に向かっているようなものである。

「化他の時の鏡も自行の時の鏡も我が心性の鏡は只一にして替ること無し」とは、化他の法門によって迷いのなかにいるときも、自行の観心によって悟っているときも、「我が心性の鏡」それ自体は不変であるということである。

「鏡を即身に譬え面に向うをば成仏に譬え裏に向うをば衆生に譬う」とは、鏡を生命自体とすると、その鏡の表面に向かって自分の名を明らかに正しく映しているときが成仏の境地であり、裏面に向かって自身の姿が映せないでいるのが九界の境地であるということである。

末法の御本仏・日蓮大聖人は、この内なる生命、一念三千の実像を末法の衆生がくっきりと映し出す明鏡として、御本尊を我々末代の凡夫に授与してくださったのである。

この御本尊を純真に信じて題目を唱えるとき、我が心の鏡に向かったと同じことになり、我が身を一念三千の当体であると知ることができるのである。

逆に、御本尊は眼前にあっても、信心がなければ、鏡の裏に向かっているように、我が生命は映し出されないのである。

また「鏡に裏有るをば性悪を断ぜざるに譬え」とは、十界互具の法理を述べられており、仏にも九界が本来の性分として具わっていることをたとえている。

九界を断尽し、出離することが成仏であるとするのが、爾前教の考え方であった。これに対して法華経は、仏にも九界を具えていて、九界の衆生のなかにあって、衆生救済の行を果たしていくことを説くのである。したがって、仏界といい九界といっても「一法の二義」にすぎないのである。

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