三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) 第十六章(妙法が末法に譲らるを説く)

三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) 第十六章(妙法が末法に譲らるを説く)

 弘安2年(ʼ79)10月 58歳

安楽行品には末法に入つて近来・初心の凡夫・法華経を修行して成仏す可き様を説き置かれしなり、身も安楽行なり口も安楽行なり意も安楽行なり自行の三業も誓願安楽の化他の行も同じく後の末世に於て法の滅せんと欲する時と云云、此は近来の時なり已上四所に有り薬王品には二所に説かれ勧発品には三所に説かれたり、皆近来を指して譲り置かれたる正しき文書を用いずして凡夫の言に付き愚癡の心に任せて三世諸仏の譲り状に背き奉り永く仏法に背かば三世の諸仏・何に本意無く口惜しく心憂く歎き悲しみ思食すらん、涅槃経に云く「法に依つて人に依らざれ」と云云、痛ましいかな悲しいかな末代の学者仏法を習学して還つて仏法を滅す、弘決に之を悲しんで曰く「此の円頓を聞いて崇重せざることは良に近代大乗を習う者の雑濫に由るが故なり況や像末情澆く信心寡薄・円頓の教法蔵に溢れ函に盈つれども暫くも思惟せず便ち目を瞑ぐに至る徒らに生じ徒らに死す一に何ぞ痛ましき哉」已上、同四に云く「然も円頓の教は本と凡夫に被むらしむ若し凡を益するに擬せずんば仏・何ぞ自ら法性の土に住して法性の身を以て諸の菩薩の為に此の円頓を説かずして何ぞ諸の法身の菩薩の与に凡身を示し此の三界に現じ給うことを須いんや、乃至一心凡に在れば即ち修習す可し」已上、

現代語訳

法華経安楽行品第十四には、末法に入って近来の初心の凡夫が法華経を修行して成仏すべきありさまを説き置かれている。

すなわち、身安楽、口安楽、意安楽の自行の三業も誓願安楽の化他行も、同じく「後の末世に於いて法の滅せんと欲する時」と説かれている現在のためなのである。

安楽行品には以上四個所に末法の時を示す文がある。法華経薬王菩薩本事品第二十三には二個所に説かれ、同普賢菩薩勧発品第二十八には三個所に説かれている。

いずれも近来をさして仏は譲り置かれたのであるが、この正しい文書を用いずに、凡夫の言葉に付き、愚癡の心に任せて、三世の諸仏の譲り状に背きたてまつり、永く仏法に背くならば、三世の諸仏はどれほどか本意なく悔しく心憂く嘆き悲しまれることであろう。

涅槃経には「法に依って人に依ってはならない」と戒められている。末代の学者が仏法を習学して、かえって仏法を滅するのは、痛ましいことである。悲しいことである。

妙楽大師は止観輔行伝弘決にこのことを悲しんで「この法華円頓の教えを聞いてもこれを崇重しないことは、まことに近代の大乗を習う者が仏法の正邪を乱したことによるのである。まして像法・末法になると、人情は薄く信心は弱くなり、円頓の教法は経蔵に満ちあふれ書函に満ちているけれども、これをしばしの間も読んで思索しようとはせず、仏法に対して目を塞ぐようになる。いたずらに生まれ、いたずらに死ぬことは、ひとえに痛ましいかぎりではないか」と述べている。

更に止観輔行弘決の巻四には「法華円頓の教はもともと、凡夫のために説かれた法門である。もし凡夫を利益するためでなければ、仏はどうして自ら法性の土に住し、法性の身をもってもろもろの菩薩のためにこの円頓の教を説くのではなくして、もろもろの法身の菩薩のために凡身を示してこの三界に出現される必要があったであろうか。(中略)凡夫に仏の生命が具わっているのだから、凡夫が修習することができるのである」と述べている。

語句の解説

安楽行品

法華経安楽行品第十四のこと。法華経四要品(方便品第二、安楽行品第十四、如来寿量品第十六、観世音菩薩普門品第二十五)の一つ。釈尊が滅後の悪世における弘通を勧め、その際に留意すべき実践方法を身・口・意・誓願の四つの面から説いている。これを四安楽行という。四安楽は法師品第十の衣座室の三軌を広説したもので、これを更に詳説したものが南岳大師慧思の法華経安楽行義である。

 

薬王品

法華経薬王菩薩本事品第二十三のこと。本門の付嘱流通のうち、化他流通の品。釈尊が宿王華菩薩を対告衆に、薬王菩薩が過去世に一切衆生憙見菩薩として、日月浄明徳仏に法華経を聴聞した恩を報ずるため、臂を焼いて供養した因縁を述べている。後段には「渡りに船を得たるが如く」等の比喩をもって法華経受持の功徳を説いている。また、後五百歳広宣流布が説かれている。

 

勧発品

法華経普賢菩薩勧発品第二十八のこと。本門の付嘱流通のうち、自行流通の品。東方宝威徳上王仏の国の普賢菩薩が娑婆世界に来至して、釈尊に如来滅後にいかにして法華経を持つかを問い、これに対して釈尊は四法成就(①諸仏に護り念ぜられることができる。②多くの徳の本を植えること。③必ず解脱を得るに至る位〔正定聚〕に入ること。④一切衆生を救う心を起こすこと)を問いたので再演法華ともいう。これに応えて、普賢菩薩は誓願を立てて、後五百歳の濁悪世に法華経を受持する行者を守護し、法を護ることを誓っている。

 

凡夫の言に付き

例えば、法然は仏説を無視して己義を構えたが、その凡夫の言に人々は惑わされて仏の教えに背いたのである。

講義

妙法蓮華経が末法のための仏法であることを裏づける文が安楽行品第十四に四か所、薬王菩薩本事品第二十三に二か所、普賢菩薩勧発品第二十八に三か所もあることを示され、にもかかわらず仏説をないがしろにした人師の邪義にたぶらかされている人々の愚かさを嘆かれている。

安楽行品第十四には身・口・意(以上、自行)・誓願(化他)の四安楽行が説かれているが、それが末法のためである証拠として「後の末世に於て法の滅せんと欲する時」とあることを挙げられている。

次に、法華経薬王菩薩本事品第二十三、同普賢菩薩勧発品第二十八の各所にも明かされていることを指摘された後、「皆近来を指して譲り置かれたる正しき文書を用いずして凡夫の言に付き愚癡の心に任せて三世諸仏の譲り状に背き奉り永く仏法に背かば三世の諸仏・何に本意無く口惜しく心憂く歎き悲しみ思食すらん」と仰せられ、諸宗の人々が凡夫である開祖達の言葉を信じて仏の心に背いていることを悲しまれている。そして、涅槃経の「法に依って人に依らざれ(依法不依人)」の文を引かれ、末法の諸宗の僧らが、この涅槃経の戒めに背いて、仏法を学しながら、かえって仏法を滅ぼしていることを悲しまれている。

 

弘決に之を悲しんで曰く「此の円頓を聞いて……一に何ぞ痛ましき哉」已上、同四に云く「然も円頓の教は……修習す可し」已上

 

この弘決からの引用は、初めの文は円頓の仏教がありながら、僧らが像末に至ってこれを正しく学び実践しようとしないことを嘆いた文である。直前の「痛ましいかな悲しいかな末代の学者仏法を習学して還つて仏法を滅す」という御文を裏づけるために引かれていることはいうまでもない。

すなわち、初めの弘決の文は巻一の五の文で、妙楽大師の時代の大乗仏教の僧らが、法華円頓の教を聞いて尊重しないできたことを指摘し、更に時代が下って像法時代の末になると、ますます信心も薄くなってくる結果、経典や本はたくさんあっても、その内容については少しも思惟せず、実践もしないで、生死の迷いの世界を流転することは、痛ましいかぎりであると述べている。

次の弘決の文は巻四の四で、法華円頓の教えが凡夫のために説かれたことを述べた文である。妙楽大師が、天台大師の止観巻四下の次の文について釈したものである。

「円の釈は爾らず。何を以ってか知ることを得ん。若し上地の人の為に説くといわば、まさに法性の仏と作って法性の国に現じ、法性の菩薩の為に之を説くべし。何の意ぞ相輔けて此の三界に現ずるや。此の凡俗を度せんと欲するが為の故に、此の妙法を論じ、其れをして修することを得せしむ。若し爾らずと言わば、誰の為にか権を施すや、権、何の引く所ぞや。若し此の意を得ば、初心の凡夫も能く一念に於いて円かに諸の蓋を棄つ」と。この止観の意味は、仏が法(教え)を説くのはあくまでも三界に生じて苦悩している凡夫を救うためであってそれ以外にはない、ということである。

もし、凡夫の救済が目標でなかったなら、仏は最初から〝上地の人〟に説くために、初めから〝法性の仏〟として〝法性の国〟に自らの姿を現して、法を説く相手も〝法性の菩薩〟に限って説けばすむことである。にもかかわらず、あえて仏が三界に出現したのは、三界六道の凡夫を救うためにあったからであるというのである。

この止観の文を受けて、弘決巻四の四の文では、円頓の教えが本来、凡夫を利益するために説かれたのであり、もしそうでなかったなら、仏自ら〝法性の土〟に住し〝法性の身〟をもって、もろもろの菩薩のためにこの円頓の教えを説いていればよかったのである。仏がもろもろの法身の菩薩のために、あえて凡身を示して三界に出現することを勧めたのは、まさに凡夫を救うためだったのであり、凡夫に仏の生命が具わっているのであるから、凡夫の修習が可能になったのである、というのである。

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