三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) 第十二章(夢・寤の譬で無明即法性明す)
弘安2年(ʼ79)10月 58歳
夫れ以れば夢の時の心を迷いに譬え寤の時の心を悟りに譬う之を以て一代聖教を覚悟するに跡形も無き虚夢を見て心を苦しめ汗水と成つて驚きぬれば我身も家も臥所も一所にて異らず夢の虚と寤の実との二事を目にも見・心にも思えども所は只一所なり身も只一身にて二の虚と実との事有り之を以て知んぬ可し、九界の生死の夢見る我が心も仏界常住の寤の心も異ならず九界生死の夢見る所が仏界常住の寤の所にて変らず心法も替らず在所も差わざれども夢は皆虚事なり寤は皆実事なり止観に云く「昔荘周と云うもの有り夢に胡蝶と成つて一百年を経たり苦は多く楽は少く汗水と成つて驚きぬれば胡蝶にも成らず百年をも経ず苦も無く楽も無く皆虚事なり皆妄想なり」已上取意、弘決に云く「無明は夢の蝶の如く三千は百年の如し一念実無きは猶蝶に非ざるが如く三千も亦無きこと年を積むに非るが如し」已上、此の釈は即身成仏の証拠なり夢に蝶と成る時も荘周は異ならず寤に蝶と成らずと思う時も別の荘周無し、我が身を生死の凡夫なりと思う時は夢に蝶と成るが如く僻目・僻思なり、我が身は本覚の如来なりと思う時は本の荘周なるが如し即身成仏なり、蝶の身を以て成仏すと云うに非ざるなり蝶と思うは虚事なれば成仏の言は無し沙汰の外の事なり、無明は夢の蝶の如しと判ずれば我等が僻思は猶昨日の夢の如く性体無き妄想なり誰の人か虚夢の生死を信受して疑を常住涅槃の仏性に生ぜんや、止観に云く「無明の癡惑本より是れ法性なり癡迷を以ての故に法性変じて無明と作り諸の顚倒の善・不善等を起す寒来りて水を結べば変じて堅冰と作るが如く・又眠来りて心を変ずれば種種の夢有るが如し今当に諸の顚倒は即ち是法性なり一ならず異ならずと体すべし、顚倒起滅すること旋火輪の如しと雖も顚倒の起滅を信ぜずして唯此の心・但是れ法性なりと信ず、起は是れ法性の起滅は是れ法性の滅なり其れを体するに実には起滅せざるを妄りに起滅すと謂えり只妄想を指すに悉く是れ法性なり、法性を以て法性に繫け法性を以て法性を念ず常に是れ法性なり法性ならざる時無し」已上、是くの如く法性ならざる時の隙も無き理の法性に夢の蝶の如く無明に於て実有の思を生じて之に迷うなり、
現代語訳
よく考えてみると、夢のときの心を迷いにたとえ、寤のときの心を悟りにたとえる。これによって一代聖教を悟ってみると、跡形もない虚妄の夢を見て心を苦しめ、汗水を流して目が覚めてみると、我が身も、家も寝床も同じ場所で異ならない。夢の虚と寤の実との二つの事を目にも見、心にも思ったけれども、その所はただ一つの所であり、身もただ一つの身であって、しかもなお二つの虚と実との異なりがあるのである。
これをもって理解すべきである。九界の生死の夢を見ている我が心も、仏界の常住の寤の心も異なるものではない。九界の生死の夢を見ている所が仏界常住の寤の所で、変わるものではない。心法も変わらず、居る所も異なるものではないけれども、夢は皆虚事であり、寤は皆実事なのである。
摩訶止観には「昔荘周という者がいた。夢のなかで胡蝶となって百年を経た。苦しいことは多く、楽しいことは少なく、汗水を流して目が覚めてみると、胡蝶にもならず百年も経ってはおらず、苦しいこともなく、楽しいこともなく、皆、虚事であり、皆、妄想であった」と。
止観輔行伝弘決には「無明は夢の蝶のようなものであり、三千は百年のようなものである。一念が実でないのは、ちょうど蝶でなかったようなものであり、三千がないことは年を経ていなかったようなものである」と述べている。
この釈は即身成仏の証拠である。夢のなかで蝶となったときも荘周は変わってはおらず、目がさめて蝶にはならなかったと思うときも別の荘周ではない。我が身を生死に束縛された凡夫であると思うときは夢で蝶になったようなものであり、僻目であり、僻思いである。我が身は本覚の如来であると思うときは元の荘周に戻ったようなものであり、即身成仏である。
しかし蝶の身をもって成仏するというのではない。蝶と思うことは虚事なので、そこに成仏の言葉はない。これは論外のことである。
無明は夢の蝶のようなものであると分かってしまえば、我らの僻思いはちょうど昨日の夢のように性も体もない妄想である。一体だれが虚夢の生死を信受して常住の涅槃の仏性に対して疑いを生ずることがあるであろうか。
摩訶止観には「無明の癡かな惑いは、その本は法性である。癡かな迷いによって法性が変化して無明となり、さまざまな顚倒の善・不善等を起こすのである。寒さがきて水を凍らせると、水が変化して堅い氷となるように、また眠りがきて心を変化させれば種々の夢を見るようなものである。今まさにもろもろの顚倒はすなわち法性である。同一でもなく異なりもないと体得すべきである。顚倒の起滅することは旋火輪といって、火をぐるぐると回すと火の輪があるように見えるように、実際には、ないものが有るように見えるのであるが、その顚倒の起滅を信じないで、ただこの心が元来、法性であると信ずるのである。起は法性の起であり、滅は法性の滅である。このことを悟ってみると、実際には起滅しないものを、みだりに起滅すると思っているのである。ただ妄想を指してみると、本はことごとく法性である。法性をもって法性に繋け、法性をもって法性を念じているのである。常に法性の働きであり、法性でないときはないのである」と述べている。
この文のように、法性でないときは一瞬もないのが法性であるのに、夢の蝶を実際のことと思うように、無明顚倒の生死を実際にあることと思って迷うのである。
語句の解説
荘周
(BC0370頃~BC0300頃)。中国・戦国時代の思想家。荘子と尊称される。史記の老荘申韓列伝によると、宋国の蒙(河南省)の人で、字を子休といった。初め漆畑の役人をしていたが、学問に博く、貧しい生活のなかで自らの思想を形成していった。著書は「荘子」三十三編(内編七・外編十五・雑編十一)が伝わっている。しかし、その多くは荘子一人のものではなく、戦国時代から前漢時代にかけての多くの思想家によって書かれたとの説が有力である。内篇のうちの逍遙遊篇、斉物論篇の二篇が荘子本来のものであるとされている。逍遙遊篇は道を体得した人が、万物、すなわち、自然と一体となり、生死を超越して、絶対無限な、自由独立な逍遙遊という境涯を説いたものである。斉物論篇は万物を一貫する道を体得することによって、彼此、是非、善悪、美醜などの対立差別の相を超越して、万物をありのままに、平等にみることを説いている。
夢に胡蝶と成つて……
荘周(荘子)が夢で胡蝶となる話で、「荘子」斉物論篇にある。詳しくは、「昔者、荘周夢に胡蝶と為る。栩栩然として胡蝶なり。自ら喩しみ志に適するかな。周たるを知らざるなり。俄にして覚むれば、則ち蘧蘧然として周なり。周の夢に胡蝶と為りしか、胡蝶の夢に周と為りしかを知らず。周と胡蝶とは、則ち必ず分有り。此れを之れ物化と謂う」とある。すなわち、荘周が蝶になった夢を見、目覚めたときに、自分が夢で蝶になったのか、蝶が今、夢を見て自分になっているのかを疑ったという故事で、夢と現実が判然としないことをたとえている。
旋火輪
松明や火縄をぐるぐる回してできる火の輪のこと。大日経巻一住心品第一に説かれる十縁生句の一つ。
講義
まえの段では、自らの生命が十如実相の体であることが示されたが、ここでは、衆生がそれを知らないで迷っているのは夢にうなされているようなものであり、夢から覚めることが悟りであることを述べられている。
そして、そのことを分かりやすく教えるために、〝荘周の夢〟の故事を取り上げた摩訶止観の文と、それについての止観輔行伝弘決の文を引用され、更に無明と法性との不二相即の関係を明確にした止観の文を挙げられている。
止観に云く「昔荘周と云うもの有り夢に胡蝶と成つて……」……疑を常住涅槃の仏性に生ぜんや
摩訶止観巻五のなかの、〝荘周の夢のたとえ〟が出てくる文から、その意をとってここに引用されている。まず、止観の原文の全文を紹介すると次のとおりである。
「又、眠夢に百千万の事を見るも、豁寤すれば一もなし、いわんや復、百千をや。いまだ眠らざれば夢みず、覚せず、多ならず、一ならず。眠力の故に多といい、覚力の故に少というが如し。荘周は夢に蝴蝶となって翾翔すること百年なるも、寤むれば蝶に非ず。また歳を積みしに非ざることを知る。無明が法性に法って一心一切心なり。彼の昏眠の如し。無相即ち法性と達して一切心一心なり、かの醒寤の如し云云。又、安楽行を行ずる人、一たび眠るに、初めて発心し、乃至、仏となり、道場に坐して法輪を転じ、衆生を度して涅槃に入ると夢みるも、豁寤すればただこれ一の夢事なり」とある。
次に、この文についての止観輔行伝弘決の釈の文をも引用しておこう。
「次に夢の喩えを三と為す。初めに総じて夢事を挙ぐ。夢事は三千の如し。豁寤すれば一念の如し。未だ眠らざるは法性の如し。法性無に非ざること覚めざるが如し。法性有に非ざること夢みざるがごとし。夢みざるが故に多ならず。覚めざるが故に一ならず。無明の眠りの故に之を謂って多と為し、一念を観ずる故に之を謂って少と為す。無明と一念とは法性を出ず、故に多に非ず少に非ず。荘周の夢の喩え亦復是くの如し。無明は夢の蝶の如し。三千は百年の如し。一念実無きこと猶蝶に非ざるが如し。三千亦無きこと歳を積むに非ざるが如し。翾は小さく飛ぶこと也。翔は廻り飛ぶこと也。郭璞云く、翅を布き翺翔す。無明より下は譬を以って帖合す。合の文猶略す。無明法法性は夢の蝶に合す。一心一切心は百年に合す」と。
さて本文の、「昔荘周と云うもの有り夢に胡蝶と成つて一百年を経たり苦は多く楽は少く汗水と成つて驚きぬれば胡蝶にも成らず百年をも経ず苦も無く楽も無く皆虚事なり皆妄想なり」の文は、末尾に断られているように取意である。
この夢のたとえを釈して、天台大師は「無明が法性に法って一心一切心なり。彼の昏眠の如し」と述べ、「法性において無明が発動すると〝一心〟が〝一切心〟となる、ちょうど、鏡のような〝一心〟に、無数のさざ波が立って、無数の心があるように錯覚するようなものである。これが荘周の〝昏眠〟の状態である。これに対し〝無明即ち法性なりと達すれば一切心一心なり〟であって、無明がそのまま法性であると通達すると、それまで無数にあると錯覚していた心が実はただ一つの〝一心〟であることが分かる。これが荘周の〝醒寤〟の状態である」と説いている。
次に、妙楽大師は止観輔行伝弘決にこれを釈している。
まず、夢のなかでさまざまな事柄をみるのは、三千の諸現象を表し、夢から覚めることは、一念を表している。
眠りについていない状態は〝法性〟にたとえ、〝法性〟が単なる無ではないことを〝覚めざること〟にたとえる。
〝法性〟が有ではないことを〝夢を見ていないこと〟にたとえる。夢を見ないことは〝多〟ではないことで、覚めていないことは〝一〟ではないことである。
無明の眠りによって夢のなかで多くの事柄を見るのは〝多〟であり、一念を観ずるとき〝一心〟しかないゆえに〝少〟となすのである。
本来、無明も一念も、法性を根本としてそこから出てくるものであるから、本来は〝多〟も〝少〟もないのである。
夢のなかの蝶は〝無明〟を表し、夢のなかで百年経過したというのは〝三千〟を表し、一念が実なきことを、なお蝶にあらざることにたとえ、三千もまたなきことを、歳を積んでいないことにたとえるのである。
大聖人は、これらの天台大師、妙楽大師の釈は、即身成仏をよくあらわしているとされ、「夢に蝶と成る時も荘周は異ならず寤に蝶と成らずと思う時も別の荘周」はないと仰せられている。
そして、これと同じで、「我が身を生死の凡夫なりと思う時は夢に蝶と成るが如く僻目・僻思なり、我が身は本覚の如来なりと思う時は本の荘周なるが如し即身成仏なり」と仰せられている。
すなわち、我が身を生死の凡夫と思っているときは、荘周が夢に蝶となって飛んでいる状態であり〝僻目・僻思い〟としかいいようがないと仰せである。
凡夫が我が身は本覚の如来であると思うときこそ、〝本の荘周〟そのものであり、これが〝即身成仏〟である、と仰せられている。
「蝶の身を以て成仏すと云うに非ざるなり蝶と思うは虚事なれば成仏の言は無し沙汰の外の事なり、無明は夢の蝶の如しと判ずれば我等が僻思は猶昨日の夢の如く性体無き妄想なり誰の人か虚夢の生死を信受して疑を常住涅槃の仏性に生ぜんや」と仰せられているのは、夢のなかの蝶の身のままで成仏するというのではない、ということである。
我が身を蝶と思うことは夢の虚事であり、〝性体無き〟妄想であり、生死の虚夢である。即身成仏は、それまでの生死の夢から覚めた後にいえることである。
夢のなかの蝶のままで成仏すると考えることは「虚夢の生死を信受」していることであり、「常住涅槃の仏性」が我が身にあるということを疑うことになるのである。
このように仰せられているのは、凡夫をそのままで仏であるとする天台本覚思想を破折されていると考えられる。
止観に云く「無明の癡惑本より是れ法性なり……」……実有の思を生じて之に迷うなり
この引用文は、摩訶止観巻五上の十乗観法の「第三 巧安止観」を明かすくだりで、説かれている文である。
〝巧安止観〟(善巧安心止観)というのは「善く止観を以って法性を安んずるなり」と説明されているように、止観を行じて〝法性〟を安んずることといえる。それだけに〝法性〟について、実に詳しく説かれている。
無明といっても、元をただせば〝法性〟からあらわれてきたものである。愚かな迷いによって、法性が無明と変じ、さまざまな〝顚倒〟の善、不善などの思いや行為を起こすのである。
それはたとえていえば、寒気によって水が変じて氷となり、眠りによって心が変じてさまざまな夢を見るようなものである。
水と氷、寤の心と夢を見ている心とが全く同じであるように、もろもろの〝顚倒〟の思いは、本来は法性である。
無明・顚倒の心と法性の心とは〝一〟でもなければ〝異〟でもない、という関係のもとにあることを体得すべきである。
もし〝一〟であって〝異〟でないとすれば、無明・顚倒の心が存在しないことになり、逆に〝異〟であって〝一〟でないとすれば、無明・顚倒の心が本来は法性である、といえない。この〝不一不異〟が中道の考えなのである。
凡夫にあっては、無明癡惑により顚倒して、次から次へとさまざまな心が起滅することは、あたかも火の輪が回っているようであるが、顚倒の起滅の心のほうを信ずるのでなく、心はただ法性であると信ずることである。
「起は是れ法性の起滅は是れ法性の滅なり」との有名な文は、我々凡夫において、さまざまな心が瞬間、瞬間、縁によって起こり滅しているが、これらは結局、法性が起こり滅しているのであって、本来の法性の心においては実には起滅していないのであるが、凡夫はこれを起滅と妄想しているのである。
結局、法性が法性に繫け、法性が法性を念ずるということになって、常に法性で、法性でないときは存在しない。
にもかかわらず、無明の状態にある凡夫の心を実相と思って迷い、法性に気づかないでいる凡夫の姿を、「是くの如く法性ならざる時の隙も無き理の法性に夢の蝶の如く無明に於て実有の思を生じて之に迷うなり」と結んでおられるのである。