三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) 第十一章(十如是により生仏不二明す)

三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) 第十一章(十如是により生仏不二明す)

 弘安2年(ʼ79)10月 58歳

法華経に云く「如是相一切衆生の相好本覚の応身如来如是性一切衆生の心性本覚の報身如来如是体一切衆生の身体本覚の法身如来」此の三如是より後の七如是・出生して合して十如是と成れるなり、此の十如是は十法界なり、此の十法界は一人の心より出で八万四千の法門と成るなり、一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し、三世の諸仏の総勘文にして御判慥かに印たる正本の文書なり仏の御判とは実相の一印なり印とは判の異名なり、余の一切の経には実相の印無ければ正本の文書に非ず全く実の仏無し実の仏無きが故に夢中の文書なり浄土に無きが故なり、十法界は十なれども十如是は一なり譬えば水中の月は無量なりと雖も虚空の月は一なるが如し、九法界の十如是は夢中の十如是なるが故に水中の月の如し仏法界の十如是は本覚の寤の十如是なれば虚空の月の如し、是の故に仏界の一つの十如是顕れぬれば九法界の十如是の水中の月の如きも一も闕減無く同時に皆顕れて体と用と一具にして一体の仏と成る、十法界を互に具足し平等なる十界の衆生なれば虚空の本月も水中の末月も一人の身中に具足して闕くること無し故に十如是は本末究竟して等しく差別無し、本とは衆生の十如是なり末とは諸仏の十如是なり諸仏は衆生の一念の心より顕れ給えば衆生は是れ本なり諸仏は是れ末なり、然るを経に云く「今此の三界は皆是我が有なり其の中の衆生は悉く是吾が子なり」と已上、仏成道の後に化他の為の故に迹の成道を唱えて生死の夢中にして本覚の寤を説き給うなり、智慧を父に譬え愚癡を子に譬えて是くの如く説き給えるなり、衆生は本覚の十如是なりと雖も一念の無明眠りの如く心を覆うて生死の夢に入つて本覚の理を忘れ髪筋を切る程に過去・現在・未来の三世の虚夢を見るなり、仏は寤の人の如くなれば生死の夢に入つて衆生を驚かし給える智慧は夢の中にて父母の如く夢の中なる我等は子息の如くなり、此の道理を以て悉是吾子と言い給うなり、此の理を思い解けば諸仏と我等とは本の故にも父子なり末の故にも父子なり父子の天性は本末是れ同じ、斯れに由つて己心と仏心とは異ならずと観ずるが故に生死の夢を覚まして本覚の寤に還えるを即身成仏と云うなり、即身成仏は今我が身の上の天性・地体なり煩も無く障りも無き衆生の運命なり果報なり冥加なり、

現代語訳

法華経方便品第二には「如是相(一切衆生の相好・本覚の応身如来)、如是性(一切衆生の心性・本覚の報身如来)、如是体(一切衆生の身体・本覚の法身如来)」とある。この三如是から後の七如是が出生して、十如是となるのである。

この十如是は十法界にわたるのであり、この十法界は一人の心から生み出されて八万四千の法門となるのである。

この法門は、一人を手本として一切衆生に平等にあてはまるのである。これは三世の諸仏の総勘文であって御判をたしかに押した正本の文書である。仏の御判とは実相の一印のことである。印とは判の異名である。

他の一切の経には実相の印がないので正本の文書ではないのである。そこには全く実の仏はない。実の仏がないゆえに夢中の文書である。浄土にないからなのである。

十法界は十であるけれども、十如是は一つである。たとえば水中の月は無量であっても、大空の月は一つであるようなものである。

九法界の十如是は夢の中の十如是であるから水中の月のようなものである。仏法界の十如是は本覚の寤の十如是であるから大空の月のようなものである。

ゆえに仏界の一つの十如是があらわれると、水中の月のような九法界の十如是も一つも欠けることなく同時に皆あらわれて体と用とが一つに具わって一体の仏となるのである。

十法界を互いに具足して平等であるのが十界の衆生であるから、大空の本月も水中の末月も一人の身中に具足して欠けることはないのである。ゆえに十如是は本末究竟して等しく差別がないのである。

本とは衆生の十如是であり、末とは諸仏の十如是である。諸仏は衆生の一念の心からあらわれたのであるから、衆生は本であり諸仏は末なのである。

ところが法華経譬喩品第三には「今この三界は皆これ我が所有するところである。その中の衆生はことごとく我が子である」と説かれている。

これは仏が成道した後に化他のために垂迹のうえの成道を唱えて生死の夢のなかにあって本覚の寤を説かれたのである。そして智慧を父にたとえ、愚癡を子にたとえてこのように説かれたのである。

衆生は本覚の十如是ではあるけれども、一念のなかの無明が眠りのように心を覆って、生死の夢のなかに入ってしまって本覚の法理を忘れ、一本の髪を切るほどのわずかな無明の心で過去・現在・未来の三世にわたる虚夢を見るのである。

仏は夢から覚めた寤の人のようであるから、衆生の生死の夢のなかに入って衆生を目覚めさせるのであり、その智慧は、生死の夢のなかにあっては父母のようであり夢のなかにいる我ら衆生は子息のようなものである。この道理によって「悉く是れ吾が子なり」といわれたのである。

この法理を理解すれば諸仏と我らとは本のうえからも父子であり、末のうえからも父子である。父子の天性は本も末も同じである。これによって己心と仏心とは異ならないと観ずるゆえに生死の夢を覚まして本覚の寤に還るのを即身成仏というのである。即身成仏は、今、我が身に本来具わった天性であり、地体であって、煩いもなく、障りもない、衆生の運命であり、果報であり、冥加なのである。

語句の解説

実相の一印

法華経方便品第二の諸法実相の文のこと。印は印章のことで、転じて印可・決定の義をもち、仏の証明を意味する。法華玄義巻八上には「釈論に云く『諸の小乗経は若し無常と無我と涅槃の三印ありて之を印すれば、即ち是れ仏説なり。之を修すれば道を得。三法印無ければ即ち是れ魔説なり。大乗経には但一の法印あり。諸法実相を謂う。了義経と名づけ、能く大道を得。若し実相の印無くんば是れ魔の所説なり。故に身子の云く、世尊は実道を説き、波旬には此の事無し』と」とある。釈論とは釈摩訶衍論の略称で、大乗起信論の注釈書である。

 

迹の成道

垂迹の成道のこと。法華経以前の諸経で、釈尊は衆生教化のためにインドで初めて成道したと説いた。すなわち、垂迹の仏として成道を説いたことをいう。

講義

十如是のなかの相・性・体の三如是が、本門の立場では応身・報身・法身の「本覚の三身如来」にほかならないことは、すでに自行の法を明かす段に入ってすぐに示されていた。

ここでは、再び十如是の文を取り上げられて、一段と深く説き進められている。すなわち「法華経に云く『如是相・一切衆生の相好・本覚の応身如来、如是性・一切衆生の心性・本覚の報身如来、如是体・一切衆生の身体・本覚の法身如来』」とあるように、十如是のなかの三如是が一切衆生の相好(本覚の応身)・心性(本覚の報身)・身体(本覚の法身)そのものであり、この三如是から残りの七如是が生じて十如是となる、そしてこれら十如是を具えているのが十法界であり、更には八万四千の法門となることを述べられている。

これは一人の生命について明かしたものであるが、一切衆生にも平等にあてはまるのであり、すなわち万人の成仏の道がここに示されたのである。

迹門方便品第二の十如是は、別していえば仏の生命について明かしたもので、例えば如是相は本覚の応身如来をあらわすが、総じては一切衆生の相好をあらわしている。ゆえに本覚の三身如来という一人を手本として一切衆生の生命の真実の姿を示しているのである。

次に「三世の諸仏の総勘文にして御判慥かに印たる正本の文書なり仏の御判とは実相の一印なり」といわれているのは、法華経方便品第二の「諸法実相・十如是」は、三世諸仏が〝真実なり〟と証明した法理であるということであり、「実相」がその印であると仰せられているのは、実相とは真実の相、姿ということであり、偽りがないことを意味しているからである。

十如是は九界たると仏界たるとを問わず、あらゆる衆生の生命に共通に具わる普遍的真理を取り出したものであるから、「十法界は十なれども十如是は一」である。

ただし、仏界と九界とを対比すると、仏界の十如是は、本来の生命の正しい姿を悟り顕現しているのであるから「虚空の月」にたとえられ、九界の十如是は水中の月にたとえられる。

ゆえに虚空の本体の月があらわれれば、水中の月も同時にあらわれ、「体と用と一具にして一体の仏と成る」とは、正法を信じ仏界が涌現すれば、その人の生命に具わる九界も、本来の正しい働きをあらわすようになるということである。

また、本末究竟の本末に配すれば、本とは衆生の十如是であり、末とは諸仏の十如是であると仰せられ、その理由は、諸仏といっても所詮は衆生の一念の心から顕現してきたからであると説かれている。

ところが、法華経譬喩品第三の有名な「今此の三界は 皆な是れ我が有なり 其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり」の文では仏が本、衆生が末とされている。

これは、衆生を化導するために智慧の仏を〝父〟に、愚癡の衆生を〝子〟にたとえたのであると述べられ、仏を父、衆生を子とするのはそれ自体、方便であることを明かされている。

そして、衆生が本、諸仏が末になる関係を以後に説明されていくが、これを今簡潔に述べると、次のようになる。

すなわち、本来、生命の体は我々衆生のありのままであるが、自らの生命の正しい姿(十如実相)を知らないでいるのが九界の凡夫であり、自らの生命を正しく悟っているのが仏である。この観点からいえば先に説かれたように、仏界は天月、九界の衆生は水月になるのである。

しかし、経文では、この成仏の境界を目指させるために、九界の凡夫とは隔絶した存在として〝諸仏〟を描いているが、これは仮に示された映像にほかならないのである。

実は、仏とは我々衆生が、自身の生命の正しい姿に目覚めたときのことをさしているとの観点に立てば、衆生の十如是が本、諸仏の十如是が末ということになるのである。

 

衆生は本覚の十如是なりと雖も一念の無明眠りの如く……三世の虚夢を見るなり

 

この段は、法華経・方便品の十如是の法門によって、仏と衆生が一体不二であることを、本門の立場から論じてこられたのであるが、この御文では、そのように、本覚の十如是の当体である衆生が、なぜ迷苦を現じるのかを述べられている。

すなわち、衆生というのは、本来、本覚の十如是の当体であり寤の本心を有しているのであるが、〝髪筋を切る程〟のわずかな一念の無明によって生と死があると錯覚し、過去→現在→未来の時間的流れにとらわれ虚夢を見ることになると仰せられている。

〝髪筋を切る程〟というのは、ほんのわずかではあっても、一念の無明の迷妄にとらわれると、本抄の後に出てくるように、荘周がわずかの眠りの間に百年に及ぶ長い夢を見たように、本来はすべて寤の本心であるのに、過去・現在・未来の生死の苦の流れを感ずる、といわれているのである。

過去世・現在世・未来世という流れを感じるのは迷いのゆえであり、寤の本心からすれば、三世は別のものではないのである。ここからも、衆生とあらわれるか、仏とあらわれるかは、ほんのわずかの差異にすぎない、という本抄の主題の一つが明瞭に理解されるように思われる。もっとも、その差異がわずかであることを知っているのはあくまで仏であって凡夫・衆生ではないことはいうまでもない。

「本の故にも父子なり末の故にも父子なり」の御文は解釈の分かれるところであるが、いずれを本、末とするにせよ、その天性においては等しいのであり、生死の夢を覚まして本覚の寤に還れば、即身成仏することができるのである。ただし、そこには〝覚める〟という変化を経なければならないのであって、安直に「凡夫=仏」と考えてはならないことはいうまでもない。

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