三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) 第十章(仏の内証の悟りの相を明かす)
弘安2年(ʼ79)10月 58歳
此の極楽とは十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して一体三身即一なり、四土不二にして法身の一仏なり十界を身と為すは法身なり十界を心と為すは報身なり十界を形と為すは応身なり十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正不二なり身土不二なり一仏の身体なるを以て寂光土と云う是の故に無相の極理とは云うなり、生滅無常の相を離れたるが故に無相と云うなり法性の淵底・玄宗の極地なり故に極理と云う、此の無相の極理なる寂光の極楽は一切有情の心性の中に有つて清浄無漏なり之を名けて妙法の心蓮台とは云うなり是の故に心外無別法と云う此れを一切法は皆是仏法なりと通達解了すとは云うなり、生と死と二つの理は生死の夢の理なり妄想なり顚倒なり本覚の寤を以て我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に死す可き終りも無し既に生死を離れたる心法に非ずや、劫火にも焼けず水災にも朽ちず剣刀にも切られず弓箭にも射られず芥子の中に入るれども芥子も広からず心法も縮まらず虚空の中に満つれども虚空も広からず心法も狭からず善に背くを悪と云い悪に背くを善と云う、故に心の外に善無く悪無し此の善と悪とを離るるを無記と云うなり、善悪無記・此の外には心無く心の外には法無きなり故に善悪も浄穢も凡夫・聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も言語道断し心行所滅す心に分別して思い言い顕す言語なれば心の外には分別も無分別も無し、言と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり凡夫は我が心に迷うて知らず覚らざるなり、仏は之を悟り顕わして神通と名くるなり神通とは神の一切の法に通じて礙無きなり、此の自在の神通は一切の有情の心にて有るなり故に狐狸も分分に通を現ずること皆心の神の分分の悟なり此の心の一法より国土世間も出来する事なり、一代聖教とは此の事を説きたるなり此れを八万四千の法蔵とは云うなり是れ皆悉く一人の身中の法門にて有るなり、然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり、此の八万法蔵を我が心中に孕み持ち懐き持ちたり我が身中の心を以て仏と法と浄土とを我が身より外に思い願い求むるを迷いとは云うなり此の心が善悪の縁に値うて善悪の法をば造り出せるなり、華厳経に云く「心は工なる画師の種種の五陰を造るが如く一切世間の中に法として造らざること無し心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり三界唯一心なり心の外に別の法無し心仏及び衆生・是の三差別無し」已上、無量義経に云く「無相・不相の一法より無量義を出生す」已上、無相・不相の一法とは一切衆生の一念の心是なり、文句に釈して云く「生滅無常の相無きが故に無相と云うなり二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云うなり」云云、心の不思議を以て経論の詮要と為すなり、此の心を悟り知るを名けて如来と云う之を悟り知つて後は十界は我が身なり我が心なり我が形なり本覚の如来は我が身心なるが故なり之を知らざる時を名けて無明と為す無明は明かなること無しと読むなり、我が心の有様を明かに覚らざるなり、之を悟り知る時を名けて法性と云う、故に無明と法性とは一心の異名なり、名と言とは二なりと雖も心は只一つ心なり斯れに由つて無明をば断ず可からざるなり夢の心の無明なるを断ぜば寤の心を失う可きが故に総じて円教の意は一毫の惑をも断ぜず故に一切の法は皆是れ仏法なりと云うなり、
現代語訳
この極楽とは、十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して一体となったところをいうのであり、三身即一身の境界をさすのである。四土は不二であって法身の一仏の身に納まるのである。十界を身とするのが法身であり、十界を心とするのが報身であり、十界を形とするのが応身である。十界の外に仏はなく、仏の外に十界はないのであって、依正不二であり身土不二なのである。十方法界が一仏の身体であるから寂光土というのであり、このゆえに無相の極理というのである。生滅無常の相を離れているゆえに無相というのであり、法性の淵底・玄宗の極地であるゆえに極理というのである。この無相の極理である寂光の極楽は、一切有情の心性のなかにあって清浄で煩悩を離れた境界である。これを名づけて妙法の心蓮台というのである。このゆえに心の外に別の法はないというのであり、これを知るのを一切法は皆これ仏法であると通達し解了するというのである。
生と死との二つの理は生死の夢の理であり、妄想であり、顚倒した見方である。本覚の寤の悟りをもって自身の心性をただしてみれば、生ずるという始めがないので、死ぬという終わりもないのである。とすれば既に生死を離れた心法ではないか。劫火にも焼けないし水災にも朽ちない。刀剣にも切られず、弓矢にも射られない。芥子の中に入れても芥子も広がらないし、心法も縮まらない。虚空のなかに満たしても虚空も広すぎることはないし、心法が狭いということもない。
善に背くのを悪といい、悪に背くのを善という。ゆえに心の外に善はなく、悪もない。この善と悪とを離れるのを無記というのである。善と悪と無記と、この外には心はなく、心の外には法はないのである。このゆえに、善悪も浄穢も凡夫と聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も、すべて言語の道は断え、心行も所滅するのである。
心で分別した思いを言い表すのが言語であるから、心の外には分別も無分別もない。言葉というのは心の思いを響かせて声に表したものをいうのである。凡夫は自身の心に迷ってそれを知らず悟らないのである。仏はこの心の働きを悟りあらわして、神通と名づけたのである。神通とは神が一切の法に通じて礙りがないことをいうのである。この自在の神通は一切の有情の心に具わっている。ゆえに狐や狸がそれぞれに通力をあらわすことは皆、心の神を分々に悟っているからである。
この心という一法から国土世間も出てくるのである。一代聖教とはこのことを説いたのであり、これを八万四千の法蔵というのである。これは皆ことごとく釈尊一人の身中の法門である。したがって八万四千の法蔵は我が身一人の日記の文書なのである。この八万法蔵を我が心のなかに孕み、懐き持っているのである。それなのに我が身中の心で、仏と法と浄土とを我が身より外にあると思い、外に願い求めていくのを迷いというのである。
この心が善悪の縁に値って、善悪の法を作り出しているのである。華厳経には「優れた画家が種々の五陰を描きあらわすように、一切世間のなかでの法はすべて心が作り出したものである。この心のように仏もまた同じであり、仏のように衆生もまた同じである。三界はただ一心からあらわれたものであり、心の外には別の法はないのである。心と仏と衆生と、この三つは差別はないのである」と述べている。無量義経には「無相・不相の一法から無量義を出生したのである」と述べている。無相・不相の一法とは一切衆生の一念の心のことである。法華文句にこの経を釈して「生じ滅するという無常の相がないことを無相といい、二乗の有余涅槃・無余涅槃の二つの涅槃の相を離れていることを不相というのである」と述べている。この心の不思議を説き明かすことを経論の肝要といい、この心を悟り知った人を名づけて如来というのである。
これを悟り知ってみると、十界は我が身であり我が心であり我が形である。それは本覚の如来は我が身心であるからである。これを知らない時を名づけて無明とするのである。無明とは明らかなること無しと読む。我が心のありさまを明らかに覚らないことである。これを悟り知る時を名づけて法性という。ゆえに無明と法性とは一心の異名である。名と言とは二つであるけれども心はただ一つの心なのである。このゆえに無明を断じてはならないのである。無明である夢の心の心を断じてしまえば寤の心をも失ってしまうからである。総じて円教の意は一毫の惑をも断じないのである。ゆえに一切の法は皆これ仏法であるというのである。
語句の解説
四土不二
爾前権教では境界に応じて住む国土も別々であるとされていたが、法華経で十界互具一念三千が明かされたので、四土(①凡聖同居土・②方便有余土・③実報無障礙土・④常寂光土)といっても、別々に存在するものでなく、そこに住する衆生の一念によって、あるときは凡聖同居土とあらわれ、またあるときは常寂光土とあらわれるのである。不二とは二而不二の義で、一往は二つであっても再往は一体であること。
依正不二
依報と正報が、一見、二つの別のものであるけれども、実は分かちがたく関連していること。妙楽大師湛然は法華玄義釈籤で、天台大師智顗が法華玄義に説いた十妙を解釈する際に十不二門を立てたが、依正不二はその第六にあたる。正報とは生を営む主体である衆生をいい、依報とは衆生が生を営むための依り所となる環境・国土をいう。依報・正報の「報」とは、「報い」の意。善悪さまざまな行為(業)という因によって、苦楽を生み出す影響力が生命に果として刻まれ、それがやがてきっかけを得て現実に報いとなって現れる。過去の行為の果報を現在に受けている主体であるので、衆生を正報という。それぞれの主体が生を営む環境・国土は、それぞれの衆生がその報いを受けるためのよりどころであるので、環境・国土を依報という。環境・国土によって衆生の生命が形成され、また衆生の働きによって環境・国土の様相も変化し、この両者の関係は不可分である。それゆえ日蓮仏法では、仏法を信じ実践する人自身が主体者となって、智慧と慈悲の行動で依正の変化の連続を正しく方向づけ、皆が幸福で平和な社会を築くことを教えている。
妙法の心蓮台
心の蓮台のこと。衆生の心は本来清浄であることを蓮台にたとえたもの。一切衆生に具わっている仏性をいう。「蓮台」は仏・菩薩が居坐する蓮華の台座のこと。妙法蓮華三昧秘密三摩耶経にある。
劫火にも焼けず水災にも朽ちず
法華経薬王菩薩本事品第二十三に「善き哉、善き哉。善男子よ。汝は能く釈迦牟尼仏の法の中に於いて、是の教を受持・読誦・思惟し、他人の為めに説けり。得る所の福徳は、無量無辺なり。火も焼くこと能わず、水も漂わすこと能わじ」とある。
芥子の中に入るれども芥子も広からず
維摩経巻中に「須弥の高広を以て芥子の中に内るに増減する所なし」とある。
善悪無記
善・悪・無記のこと。成唯識論巻五等に説かれる。現世・来世にわたって随順・利益をなすものが善、違背・損害をなすものが悪、善にも悪にも規定できないのを無記という。
八万四千の法蔵
釈尊の説いた一切の経教のこと。八万四千は実際の数ではなく、大数・多数の意。法蔵とは法を納めた蔵の意で経典をいう。
華厳経
大方広仏華厳経の略。漢訳に三種ある。①六十華厳(六十巻)。東晋代の仏駄跋陀羅訳。②八十華厳(八十巻)。唐代の実叉難陀訳。③四十華厳(四十巻)。唐代の般若三蔵訳で、華厳経末の入法界品のみの訳。華厳経は「十地品」と「入法界品」が特に重視され、多くの部分訳が存する。華厳経の内容は、毘盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界縁起(無尽縁起)、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説く。また入法界品には、五十三人の善知識を歴訪し、最後に悟りを開いた求道物語を展開し、仏道修行の段階とその功徳を示している。
文句
法華文句のこと。天台大師智顗の講義を章安大師灌頂が編集整理した法華経の注釈書。十巻。法華経の文々句々の意義を、因縁・約教・本迹・観心の四釈を用いて解釈し、迹門の開三顕一、本門の開近顕遠等の法華経の深義を解明している。
有余・無余の二つの涅槃
有余涅槃と無余涅槃のこと。有余涅槃とは三界六道の煩悩(見思惑)を断じて未来の生死の因を滅したが、生死の果である自分の身体を残している者のこと。身体を余した涅槃なのでこの名がある。無余涅槃とは色心の煩悩をすべて断じ尽くすことによって得られる二乗(声聞・縁覚)の最高の悟りの境地。煩悩の拠りどころとなった肉体も苦しみの果もすべてがなくなった状態をいう。灰身滅智ともいう。
講義
ここでは、前章に「無相の極理とは……寤の我が身の心性の寂光の極楽なり」といわれた、その「極楽」とはいかなる境界であるかを示されている。その内容を一言でいえば、我が身が一念三千の当体と覚知した境界といえよう。
「十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合」とは、次の「十界を身と為すは法身なり」等の仰せに照らし、十方という空間的広がりとともに、十界という生命境界の多様性をも包含していわれたと拝される。宇宙の空間的広大さと生命の十界的多様性をことごとく己心に収めた境地が一念三千の仏であり、宇宙即我、我即宇宙となる。これが依正不二であり、この生命を依報に即して表現したのが「我が身の心性の寂光の極楽」なのである。
ゆえに、浄土宗などで説く西方十万億土の極楽浄土などとは全く異なることを知らなければならない。
なお「三身即一」に関して「十界を身と為すは法身なり十界を心と為すは報身なり十界を形と為すは応身なり」といわれている。〝身〟とは、肉体の意ではなく、生命の主質をさしている。〝心〟とは精神的側面であり、肉体的側面については〝形〟といわれているのがそれである。
また、この仏の内証の悟りは生滅無常の相を離れているゆえに〝無相〟であり、〝法性の淵底・玄宗の極地〟(一切諸法が拠りどころとする根本の真理)であるゆえに〝極理〟であると説かれている。
更に、この寂光の極楽である仏の悟りは単に仏だけのものではなく一切有情の心性のなかに存在するのであり、それを「妙法の心蓮台」とも「心外無別法」とも称すると述べられている。
そして、この生命の真実の姿を悟ることを「一切法は皆是れ仏法なりと通達解了す」というのであり、そこに真実の成仏があることを教えられている。
以上が生命の本当の姿であり、それを悟るのが成仏であるが、凡夫はそれが分からず、生死の有為転変にとらわれていることを「生と死と二つの理は生死の夢の理なり妄想なり顚倒なり本覚の寤を以て我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に死す可き終りも無し既に生死を離れたる心法に非ずや、劫火にも焼けず水災にも朽ちず剣刀にも切られず弓箭にも射られず芥子の中に入るれども芥子も広からず心法も縮まらず虚空の中に満つれども虚空も広からず心法も狭からず」と、タテに三世常住であり、ヨコに宇宙大の広がりをもっていることを知るのである。
更に「善悪も浄穢も凡夫・聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も言語道断し心行所滅す」と述べられて、無相の極理の境地は、善悪を離れており、浄と穢、大と小、東と西、南と北、四維、上と下など、すべての相対概念を離れて超えているのであり、所詮、この境地は言葉では表せず(言語道断)、凡夫の思惟も及ばない(心行所滅)ところであることを御教示されている。
「無相の極理」としての〝寂光の極楽〟について
この段落の冒頭の文で「此の極楽とは十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して一体三身即一なり、四土不二にして法身の一仏なり十界を身と為すは法身なり十界を心と為すは報身なり十界を形と為すは応身なり十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正不二なり身土不二なり一仏の身体なるを以て寂光土と云う是の故に無相の極理とは云うなり」と仰せられている。
ここで〝極楽〟というのは、阿弥陀仏の西方浄土のことではなく、真の成仏の境界をさしていわれている。先に「無相の極理とは月と風との如くなる寤の我が身の心性の寂光の極楽なり」と、〝無相の極理〟という仏の悟りの内容を〝寤の我が身の心性の寂光の極楽なり〟と説かれているからである。「寤の我が身の心性」とは仏の生命を表し、それが「寂光の極楽」であるといわれているのは、仏の色心の生命がそのまま依正不二で仏国土を表されているのである。権教の阿弥陀の本土をさしておられないことは明瞭であろう。
あえて〝寂光の極楽〟といわれたのは、当時の念仏宗が、現実の穢土を離れて西方十万億の彼方に阿弥陀仏の極楽浄土があるとして、死後、その極楽に往生することを説いていたのを破折されるためと考えられる。〝極楽〟とは、仏が現実の世において悟りを開いた境地(色心不二、依正不二)を、依報的側面で述べられたものである、といえるであろう。
さて、この仏の境地がいかなるものであるかについて、この文では、仏の色心の生命は、十方法界の正報の有情(主体)と十方法界の依報の国土(客体)とが和合して一体となった境地となり、無作本覚の一身即三身如来と顕れた境地である、と仰せられている。
その境地は、四土(凡聖同居土、方便土、実報土、常寂光土)の立て分けがなくなって寂光土と三身即一の如来とが一体となって〝依正不二〟〝身土不二〟が実現しているのである。
またこの三身即一の仏身とは、十界を身となすところが法身であり、十界を心となすところが報身であり、十界を形となすところが応身となっているのである。
つまり、地獄から仏界に至るまでの十界をことごとく我が身体とし、心性(智慧)とし、形・相好(振る舞い)とするということは、結局、一念三千の当体としての境地を述べられているのである。
なお、この「十界の外に仏無し仏の外に十界無くして」とあるところは、次のように考えることもできよう。
爾前・権教においては、六道輪廻の境涯を超え、声聞・縁覚の境地をも超え、更に菩薩の境地をも超えて、九界を出離したところに仏の境界があるとした。
しかるに法華経において初めて、因としての九界も果としての仏界もともに倶時に具足しているのが真実の生命の姿であり、これを〝不思議の一法〟即、妙法蓮華経と名づけ、この法華経の妙理を覚知することが成仏であると明かした。ここから、十界の外に仏なく、仏の外に十界なし、と結論されてくるのである。結論していえば、寂光土とは所詮、〝一仏の身体〟であり、仏の生命の境地を表しているのである。
また、無相の極理ということについて「生滅無常の相を離れたるが故に無相と云うなり法性の淵底・玄宗の極地なり故に極理と云う」と説明されている。
まず〝無相〟とは、生滅の相を離れていることをさすのである。つまり、仏の悟りの境地は生滅という無常変化の相を超越しているので〝無相〟といい〝寤の本覚の心性〟は「法性の淵底・玄宗の極地」でもあるので〝極理〟というのである。
「法性の淵底・玄宗の極地」という言葉は、天台大師が法華文句巻九上において、法華経従地涌出品第十五の「仏は是れを説きたまう時、娑婆世界の三千大千の国土は、地皆な震裂して、其の中於り無量千万億の菩薩摩訶薩有って、同時に涌出せり。是の諸の菩薩は、身は皆な金色にして、三十二相・無量の光明あり、先より尽く娑婆世界の下、此の界の虚空の中に在って住せり。是の諸の菩薩は、釈迦牟尼仏の説きたまう所の音声を聞いて、下従り発来せり」という経文を釈して「下方とは法性の淵底、玄宗の極地なり。故に下方と言う」と述べている言葉である。
つまり、地涌の菩薩が住んでいた〝下方〟とは、森羅万象の本質というべき普遍的な真理(法性)という〝淵底〟、すなわち奥深い底をいい、また〝玄宗〟という奥深い根本的な〝極地〟をさしているのである。これは、大宇宙の生命の根源というべきもので、それを妙法蓮華経というのである。
此の無相の極理なる寂光の極楽は……通達解了すとは云うなり
この文は〝無相の極理〟でかつ〝寂光の極楽〟という仏の寤の本覚の心性が、一切の有情の心性のなかにも潜在的に存在することを明かされているところである。ただ、凡夫においては、自らの内なる寂光の極楽に無知(無明)なために、この境地を顕現する道を知らないだけなのである。
この有情の心性にある清浄無漏なる無相の極理を〝妙法の心蓮台〟という、と述べられている。〝妙法の心蓮台〟とは、一切有情のなかにある妙法蓮華経を蓮の台にたとえたもので、〝蓮台〟とは、仏・菩薩が居坐する蓮華の台座のことである。
以上のことから、結局、心の外には別に法はないのであり、このことを知っていくのが、一切法は皆これ仏法なり、と通達し解了することになる、と仰せられている。〝通達〟とは事物・事象の真理に到達することであり、〝解了〟は理解し了達することである。この生命の真理を理解し通達しているのが仏であり、真理は厳然として存在していても覚知できないでいるのが凡夫なのである。
生と死と二つの理は……言語道断し心行所滅す
生死という無常の姿にとらわれて、その奥にある常住の真理を知らないでいる凡夫の迷いを指摘され、生命の真実の姿がタテには生死を超えて常住不変であり、ヨコには宇宙に遍満して融通無礙であることを御教示されている。
まず、時間的に、生(生ず可き始め)があり死(死す可き終わり)があり、人間及び生きとし生けるものに「生」と「死」がはっきりと存在するという、我々凡夫の考え方を〝生死の夢の理〟と説かれ、これを〝妄想〟〝顚倒〟として破られている。
そして、本覚の寤=我が心性=心法、の次元でとらえると、「生」も「死」もなく〝既に生死を離れ〟ているのが、真実の姿であると仰せられている。
また、空間的には、芥子粒よりも小さいと同時に、大宇宙と等しい広がりをもっている。そして、劫火に焼けたり水に朽ちたり剣で切られたり弓で射られたりするものでもないのが〝心法〟であると仰せられている。
このことは「寤は常住にして不変の心の体なるが故に此れを名けて実と為す」とか「本覚の寤は実にして生滅を離れたる心なれば真実の手本なり」等と仰せられた、これまでの御文と併せて拝していくとき、より明確になる。
次に「善に背くを悪と云い悪に背くを善と云う、故に心の外に善無く悪無し此の善と悪とを離るるを無記と云うなり、善悪無記・此の外には心無く心の外には法無きなり」との御文は、善と悪との関係を通して、言葉が相対的・対立的なものであることを、説かれている。凡夫が何かをさして〝善〟というときは、それが〝悪〟でないことを前提にしており、逆もまた同じである。そこには何が善で何が悪かということを判断している〝主体〟がある。この根源の主体を御文では「善と悪とを離るるを無記と云うなり」といわれ、〝善悪無記〟(善とも悪とも〝記し〟ようのない)の〝主体〟、すなわち、心以外には根源的なものはないことを示されている。
ゆえに、善とか悪とかということも結局、人間が作り出した概念であり、一切法は心の描き出したものであることを「善悪無記・此の外には心無く心の外には法無きなり」と仰せられている。
更に、この善と悪の関係を更に他の〝法〟に関して適用されて「故に善悪も浄穢も凡夫・聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も言語道断し心行所滅す」と仰せられている。
すなわち、善と悪、浄と穢、凡夫と聖人、天と地、大と小、東と西、南と北、四維(西北、西南、東北、東南)、上と下などの概念ではとらえきれず、また言葉でも表現できないことを「言語道断し心行所滅す」と述べられている。
心に分別して思い言い顕す言語なれば……然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり
この思議も言語も及ばない生命の法理を自ら悟り、衆生のために説き示そうとしたのが八万四千の法蔵すなわち一代聖教であることを述べられている。
「心に分別して思い言い顕す」とは、したがって、仏が我が心に分別し、その悟りを言葉にあらわしたということである。
ゆえに「凡夫は……知らず覚らざるなり」といわれ、「仏は之を悟り顕わして神通と名くるなり」と仰せられているのである。
「此の自在の神通は一切の有情の心にて有るなり」とは、仏と同じく覚知できる能力は本来一切衆生に具わっているということである。
ただし、事実の上で覚っているのは仏のみであり、仏は衆生にも等しく悟らせるために、自身の悟っている真理を説き明かした。
それは「此の心の一法より国土世間も出来する」という一念三千の法門であり、仏自身の生命について記したものである。ゆえに「一代聖教とは……皆悉く一人の身中の法門」であり、「我身一人の日記文書」なのである。
言と云うは心の思いを響かして……心の神の分分の悟なり
更に〝心の不思議さ〟を一重深く述べられているところである。
「言と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり」と仰せのように、凡夫の使用する言葉は、心にある思いを響かせつつ、音声として外にあらわしてきたところをいうのであると説かれている。
次に「凡夫は我が心に迷うて知らず覚らざるなり、仏は之を悟り顕わして神通と名くるなり」と仰せられている。つまり、凡夫と仏との差異はどこにあるかといえば、自らの〝心〟の本性についての不思議さを知らずに迷っているのが凡夫であるとすると、その不思議さを知って悟り尽くしているのが仏である、ということになる。しかも、仏が悟り尽くしている〝心の不思議さ〟を〝神通〟と名づけて、その不思議な働きを縦横無尽に使っているのが仏という存在なのである。
また、細かくなるが、「神通とは神の一切の法に通じて礙無きなり」との御文の「神通」とは、神が一切の法(事物・現象)に通じて障礙のない状態をさしている。通常・神通というと、神秘的な特殊能力などが連想されるが、本来の神通は、だれ人の心の本性にも内在していて、一切の諸事象と連関し一体となって躍動していく〝生命〟の力と働きをさしているのである。
更に「此の自在の神通は一切の有情の心にて有るなり故に狐狸も分分に通を現ずること皆心の神の分分の悟なり」と仰せのとおり、〝心性〟〝本覚の心〟が本来、一切の有情の心、生命にも存在することは、〝無相の極理〟である〝寂光の極楽〟の内容からも明らかであり、また「十界の外に仏無し仏の外に十界無くして」という御文からも明らかである。
また「狐狸も分分に通を現ずること」と仰せられている。狐狸は畜生界にあたり、畜生界の心にも通じている〝神通〟つまり〝現の本覚の心〟〝心性〟の働きの一分をあらわされている。
この〝狐狸の神通〟は仏の悟りの心からとらえると「心の神の分分の悟」となるのである。つまり、狐や狸の通常の人間にはない神通は、要するに、本来、一切の有情の心に内在する〝生命の働き〟の一分があらわれたものにすぎない、と述べられているのである。
したがって、この狐狸の通力を人間が崇めるということは、心の本性からいって、絶対にあってはならないことはいうまでもない。
更に「心の一法より国土世間も出来する事なり」と仰せられているように、〝心〟の本性においては、国土世間もそのなかに含まれている。心と国土世間とは別々のもののように考えられるが、心の本性、すなわち本覚の心・生命においては一体不二となっているのである。
此の八万法蔵を我が心中に孕み持ち懐き持ちたり……心の不思議を以て経論の詮要と為すなり
八万四千の法蔵は仏の一身に具わっているものを明かしたのであるが、同じ生命が凡夫のなかにもすべて具わっている。
この生命すなわち〝心〟が、善悪の縁にあって善悪の法すなわち幸・不幸のあらゆる姿を現じていくのである。
つまり、本来あらゆる可能性を秘めているゆえに、縁にしたがって、あらゆる事象を現じていくのであって、このことを端的に教えた経文として華厳経の「心は工なる画師の」云々と無量義経の「無相・不相の一法より無量義を出生す」の文を挙げ、後者についての天台大師の文句の釈を引用されている。
「我が身中の心を以て仏と法と浄土とを我が身より外に思い願い求むるを迷いとは云うなり」と仰せのように、元来、自らの奥底に仏も法も浄土も具えているのに、わざわざ自らの外にこれらを求めて迷っているのが衆生・凡夫である。心が善悪の縁にあって善悪の法(現象)を作り出しているのであり、これを悟り知っていくことが仏道修行の肝要である。
まず、華厳経の「心は工なる画師」云々の文であるが、これは巻十の文で、本章のまえの個所で説かれていた「仏の心法妙・衆生の心法妙と此の二妙を取つて己心に摂むるが故に心の外に法無きなり」という文意と同じ内容を表明している。
ここで華厳経という権教・方便の経文が用いられているのは、自行の法である法華経の〝開会〟の立場からなされていることはいうまでもない。
この華厳経の文意は次のようになるであろう。
すなわち、仏の寤の本心(経文中の「心」にあたる)はそのまま一切の事物・現象(法)と一つであり〝無分別〟である。したがって、画家がさまざまな五陰(色・受・想・行・識)を描いていくように、寤の心は、一切世間の事物、現象を描き造っているのである。この場合、〝画師〟が仏の知見、画布が仏の寤の心、〝種種の五陰を造る〟ことが寤の心に映っている一切世間の事物・現象ととらえられる。
次の「心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり」との文は、仏も衆生も、所詮は寤の心が造りあらわしたものにすぎない、ということである。
寤の心は一切世間の事物・現象を映し造りあらわしているのであるから、当然、仏や衆生も、この一切世間の事物・現象のなかに入っていることになるからである。
これを逆にとらえれば、仏も寤の心を有し、衆生も寤の心を有していることになる。ここから「三界唯一心なり心の外に別の法無し心仏及び衆生・是の三差別無し」という有名な文の意味も明瞭になろう。
三界(欲界、色界、無色界)と心、また心と仏と衆生の三つは、区別され〝分別〟されて、それぞれ別々のことと把握されやすい。しかし、仏の知見においては〝三界唯一心〟であり〝是の三差別無し〟なのである。
次に、無量義経の「無相・不相の一法より無量義を出生す」との引用文は無量義経説法品第二の「無量義とは、一法従り生ず。其の一法とは、即ち無相なり。是の如き無相は、相無く相ならず、相ならずして相無きを、名づけて実相と為す」という文の取意である。原文の意味は、〝無量の義〟を生じる〝一法〟とは〝無相〟のことであり、その〝無相〟というのは、〝相なく(無相)、相ならず(不相)、相ならずして相なき(不相無相)〟ことであり、これを〝実相〟と名づけるとしている。
この原文の意をとられて、本抄では「無相・不相の一法より無量義を出生す」と引用されたのである。
さて、この無量義経の文を法華文句巻二下では次のように釈している。
「無相とは生死の相無きなり。不相とは、涅槃の相にあらざるなり、涅槃も亦無し、故に不相無相と言う。中道を指して実相と為すなり」と。
この文句の文についても取意して、「生滅無常の相無きが故に無相と云うなり二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云うなり」と記されている。
つまり〝無相(相なし)〟というのは、〝生死〟の相がないことであり、換言すれば〝生滅無常の相〟がないことである。また、〝不相〟(相ならず)というのは、二乗が自らの意思で獲得しようとした涅槃の相でもないことをいう、と文句は釈している。したがって〝無相不相〟とは、生滅無常、生死の相を超えるとともに(無相)、二乗の涅槃の相をも超えていること(不相)であり、あくまで〝中道〟の実相を表現しているというのである。
本抄に引用された文句の取意の文では、とくに〝不相〟について文句が釈した〝涅槃の相〟に関して、無余、有余の二つの涅槃を表し、これを離れることが〝不相〟であると、より詳しく説かれている。
大聖人は、以上の経文と釈文とを受けられて「無相・不相の一法とは一切衆生の一念の心是なり」と説かれて、生滅無常や生死の相を超え、二乗の無余、有余の二つの涅槃を離れた中道の実相の〝一法〟とは、一切衆生の心性であり心法である〝一念の心〟である、と結論されている。
したがって、無量の義が一法より生ずるということは、衆生の一念の心から無量義が出生する、ということになって、前述の華厳経の文を裏づけておられるのである。
「心の不思議を以て経論の詮要と為すなり」とは、衆生・凡夫の心の奥底、究極の〝一念〟の不思議さを説くことが経論の究極の目的だったのである、ということである。
此の心を悟り知るを名けて如来と云う……一切の法は皆是れ仏法なりと云うなり
凡夫にとって思議を超えた心であるが、これを覚知させるために仏は説法教化されたのである。ゆえに、仏の教法を正しく信じ行ずることによって悟り知ったときに「如来」となるのであり、悟っていることを法性、悟らないでいることを無明という。
したがって「無明と法性とは一心の異名」であり、「名と言とは二なりと雖も心は只一つ」なのである。
言い換えると、無明と法性は一つの貨幣の裏と表のようなものだから、無明を断じようとすることは法性をも断じてしまうことになる。ゆえに「円教の意は一毫の惑をも断ぜず」と仰せのように、凡夫のありのままで、我が身が一念三千、妙法の当体と悟っていくのが真実の成仏の道である。