要文
法華経と申すは、随自意と申して、仏の御心をとかせ給う。仏の御心はよき心なるゆえに、たといしらざる人も、この経をよみたてまつれば利益はかりなし。
建治期
衆生の身心をとかせ給う。その衆生の心にのぞむとてとかせ給えば、人の説なれども、衆生の心をいでず。かるがゆえに、随他意の経となづけたり。譬えば、さけもこのまぬおやの、きわめてさけをこのむいとおしき子あり。かつはいとおしみ、かつは心をとらんがために、かれにさけをすすめんがために、父母も酒をこのむよしをするなり。しかるを、はかなき子は、父母も酒をこのみ給うとおもえり。
提謂経と申す経は、人天のことをとけり。阿含経と申す経は、二乗のことをとかせ給う。華厳経と申す経は、菩薩のことなり。方等・般若経等は、あるいは阿含経・提謂経ににたり。あるいは華厳経にもにたり。これらの経々は、末代の凡夫これをよみ候えば仏の御心に叶うらんとは行者はおもえども、くわしくこれをろんずれば、己が心をよむなり。己が心は本よりつたなき心なれば、はかばかしきことなし。
法華経と申すは、随自意と申して、仏の御心をとかせ給う。仏の御心はよき心なるゆえに、たといしらざる人も、この経をよみたてまつれば利益はかりなし。麻の中のよもぎ、つつの中のくちなわ、よき人にむつぶもの、なにとなけれども心もふるまいも言もなおしくなるなり。法華経もかくのごとし。なにとなけれどもこの経を信じぬる人をば、仏のよきものとおぼすなり。
この法華経において、また機により時により国によりひろむる人により、ようようにかわりて候をば、等覚の菩薩までもこのあわいをばしらせ給わずとみえて候。まして末代の凡夫は、いかでかはからいおおせ候べき。
しかれども、人のつかいに三人あり。一人はきわめてこざかしき。一人ははかなくもなし、またこざかしからず。一人はきわめてはかなく、たしかなる。この三人に、第一はあやまちなし。第二は、第一ほどこそなけれども、すこしこざかしきゆえに主の御ことばに私の言をそうるゆえに、第一のわるきつかいとなる。第三は、きわめてはかなくあるゆえに私の言をまじえず、きわめて正直なるゆえに主の言をたがえず。第二よりもよきことにて候。あやまって第一にもすぐれて候なり。第一をば月支の四依にたとう。第二をば漢土の人師にたとう。第三をば末代の凡夫の中に愚癡にして正直なるものにたとう。
仏在世はしばらくこれをおく。仏の御入滅の次の日より一千年をば正法と申す。この正法一千年を二つにわかつ。前の五百年が間は小乗経ひろまらせ給う。ひろめし人々は迦葉・阿難等なり。後の五百年は、馬鳴・竜樹・無著・天親等、権大乗経を弘通せさせ給う。法華経をばかたはしばかりかける論師もあり、またつやつや申しいださぬ人もあり。正法一千年より後の論師の中には、少分は仏説ににたれども、多分をあやまりあり。あやまりなくしてしかもたらざるは、迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親等なり。
像法に入って一千年、漢土に仏法わたりしかば、始めは儒家と相論せしゆえにいとまなきかのゆえに、仏教の内の大小・権実の沙汰なし。ようやく仏法流布せし上、月支よりかさねがさね仏法わたり来るほどに、前の人々はかしこきようなれども、後にわたる経論をもってみれば、はかなきことも出来す。また、はかなくおもいし人々もかしこくみゆることもありき。結句は十流になりて千万の義ありしかば、愚者はいずれにつくべしともみえず。智者とおぼしき人は辺執かぎりなし。しかれども、最極は一同の義あり。いわゆる、一代第一は華厳経、第二は涅槃経、第三は法華経。この義は、上一人より下万民にいたるまで異義なし。大聖とあおぎし法雲法師・智蔵法師等の十師の義一同なりしゆえなり。
しかるを、像法の中の陳・隋の代に、智顗と申す小僧あり。後には智者大師とごうす。法門多しといえども、詮ずるところ、法華・涅槃・華厳経の勝劣の一つばかりなり。智顗法師云わく「仏法さかさまなり」云々。陳主このことをたださんがために、南北十師の最頂たる慧暅僧正・慧曠僧都・慧栄・法歳法師等の百有余人を召し合わせられし時、「法華経の中には、『諸経の中において最もその上に在り』等云々。また云わく『已今当の説に最もこれ難信難解なり』等云々。已とは無量義経に云わく『摩訶般若・華厳海空』等云々。当とは涅槃経に云わく『般若はら蜜より大涅槃を出だす』等云々。この経文は、華厳経・涅槃経には法華経勝ると見ゆること、赫々たり、明々たり。御会通あるべし」とせめしかば、あるいは口をとじ、あるいは悪口をはき、あるいは色をへんじなんどせしかども、陳主立って三拝し、百官掌をあわせしかば、力及ばずまけにき。
一代の中には第一法華経にてありしほどに、像法の後の五百に新訳の経論重ねてわたる。太宗皇帝の貞観三年に玄奘と申す人あり。月支に入って十七年、五天の仏法を習いきわめて貞観十九年に漢土へわたりしが、深密経・瑜伽論・唯識論・法相宗をわたす。玄奘云わく「月支に宗々多しといえども、この宗第一なり」。太宗皇帝はまた漢土第一の賢王なり。玄奘を師とす。この宗の所詮に云わく「あるいは三乗方便・一乗真実。あるいは一乗方便・三乗真実」。また云わく「五性各別なり。決定性と無性の有情は永く仏に成らず」等云々。この義は天台宗と水火なり。しかも天台大師と章安大師は御入滅なりぬ。その已下の人々は人非人なり。すでに天台宗破れてみえしなり。
その後、則天皇后の御世に華厳宗立つ。前に天台大師にせめられし六十巻の華厳経をばさしおきて、後に日照三蔵のわたせる新訳の華厳経八十巻をもって立てたり。この宗のせんにいわく「華厳経は根本法輪、法華経は枝末法輪」等云々。則天皇后は尼にておわせしが、内外典にこざかしき人なり。慢心たかくして、天台宗をさげおぼしてありしなり。法相といい、華厳宗といい、二重に法華経かくれさせ給う。
その後、玄宗皇帝の御宇に、月支より善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵、大日経・金剛頂経・蘇悉地経と申す三経をわたす。この三人は、人がらといい、法門といい、前々の漢土の人師には対すべくもなき人々なり。しかも前になかりし印と真言とをわたすゆえに、「仏法は已前にはこの国になかりけり」とおぼせしなり。この人々云わく「天台宗は華厳・法相・三論には勝れたり。しかれども、この真言経には及ばず」と云々。その後、妙楽大師は、天台大師のせめ給わざる法相宗・華厳宗・真言宗をせめ給いて候えども、天台大師のごとく公場にてせめ給わざれば、ただ闇夜のにしきのごとし。法華経になき印と真言と現前なるゆえに、皆人一同に真言まさりにてありしなり。
像法の中に日本国に仏法わたり、いわゆる欽明天皇の六年なり。欽明より桓武にいたるまで二百余年が間は、三論・成実・法相・俱舎・華厳・律の六宗弘通せり。真言宗は人王四十四代元正天皇の御宇にわたる。天台宗は人王第四十五代聖武天皇の御宇にわたる。しかれども、ひろまることなし。
桓武の御代に最澄法師、後には伝教大師とごうす。入唐已前に六宗を習いきわむる上、十五年が間、天台・真言の二宗を山にこもりいて御覧ありき。入唐已前に天台宗をもって六宗をせめしかば、七大寺皆せめられて最澄の弟子となりぬ。六宗の義やぶれぬ。後、延暦二十三年に御入唐、同二十四年御帰朝。天台・真言の宗を日本国にひろめたり。ただし、勝劣のことは内心にこれを存して人に向かってとかざるか。
同じき代に空海という人あり。後には弘法大師とごうす。延暦二十三年に御入唐、大同三年御帰朝。ただ真言の一宗を習いわたす。この人の義に云わく「法華経はなお華厳経に及ばず。いかにいわんや真言においてをや」。
伝教大師の御弟子に円仁という人あり。後に慈覚大師とごうす。去ぬる承和五年の御入唐、同十四年に御帰朝。十年が間、真言・天台の二宗をがくす。日本国にて伝教大師・義真・円澄に天台・真言の二宗を習いきわめたる上、漢土にわたりて十年が間、八箇の大徳にあいて真言を習い、宗叡・志遠等に値い給いて天台宗を習う。日本に帰朝して云わく「天台宗と真言宗とは同じく醍醐なり。ともに深秘なり」等云々。宣旨を申してこれにそう。
その後、円珍と申す人あり。後には智証大師とごうす。入唐已前には義真和尚の御弟子なり。日本国にして義真・円澄・円仁等の人々に天台・真言の二宗を習いきわめたり。その上、去ぬる仁寿三年に御入唐、貞観元年に御帰朝。七年が間、天台・真言の二宗を法全・良諝等の人々に習いきわむ。天台・真言の二宗の勝劣、鏡をかけたり。「後代に一定あらそいありなん、定むべし」と云って、「天台・真言の二宗は、譬えば、人の両の目、鳥の二つの翼のごとし」、この外、異義を存せん人々をば「祖師・伝教大師にそむく人なり。山に住むべからず」と宣旨を申しそえて弘通せさせ給いき。されば、漢土・日本に智者多しというとも、この義をやぶる人はあるべからず。この義まことならば、習う人々は必ず仏にならせ給いぬらん。あがめさせ給う国王等は、必ず世安穏にありぬらんとおぼゆ。
ただし、予が愚案は、人に申すとも、御もちいあるべからざる上、身のあだとなるべし。またきかせ給う弟子檀那も安穏なるべからずとおもいし上、その義またたがわず。ただし、このことは一定仏意には叶わでもやあるらんとおぼえ候。法華経一部八巻二十八品には、この経に勝れたる経おわせば、この法華経は十方の仏あつまりて大妄語をあつめさせ給えるなるべし。したがって、華厳・涅槃・般若・大日経・深密等の経々を見るに、「諸経の中において最もその上に在り」の明文をやぶりたる文なし。
したがって、善無畏等、玄奘等、弘法・慈覚・智証等、種々のたくみあれども、法華経を大日経に対してやぶりたる経文はいだし給わず。ただ印・真言ばかりの有無をゆえとせるなるべし。数百巻のふみをつくり、漢土・日本に往復して無尽のたばかりをなし、宣旨を申しそえて人をおどされんよりは、経文分明ならばたれか疑いをなすべき。
つゆつもりて河となる、河つもりて大海となる、塵つもりて山となる、山かさなりて須弥山となれり。小事つもりて大事となる。いかにいわんや、このことは最も大事なり。疏をつくられけるにも、両方の道理・文証をつくさるべかりけるか。また宣旨も、両方を尋ね極めて、分明の証文をかきのせていましめあるべかりけるか。
「已今当」の経文は、仏すらやぶりがたし。いかにいわんや、論師・人師・国王の威徳をもってやぶるべしや。「已今当」の経文をば、梵王・帝釈・日月・四天等、聴聞して各々の宮殿にかきとどめておわするなり。まことに「已今当」の経文を知らぬ人の有る時は先の人々の邪義はひろまりて失なきようにてはありとも、この経文をつよく立てて退転せざるこわもの出来しなば、大事出来すべし。いやしみて、あるいはのり、あるいは打ち、あるいはながし、あるいは命をたたんほどに、梵王・帝釈・日月・四天おこりあいて、この行者のかとうどをせんほどに、存外に天のせめ来って、民もほろび、国もやぶれんか。法華経の行者はいやしけれども、守護する天こわし。例せば、修羅が日月をのめば頭七分にわる、犬が師子をほゆればはらわたくさる。今、予みるに、日本国かくのごとし。またこれを供養せん人々は法華経供養の功徳あるべし。伝教大師、釈して云わく「讃むる者は福を安明に積み、謗る者は罪を無間に開く」等云々。
ひえのはんを辟支仏に供養せし人は普明如来となる。つちのもちいを仏に供養せしかば、閻浮提の王となれり。たといこうをいたせども、まことならぬことを供養すれば、大悪とはなれども善とならず。たとい、心おろかに、すこしきの物なれども、まことの人に供養すればこう大なり。いかにいわんや、心ざしありて、まことの法を供養せん人々をや。
その上、当世は世みだれて民の力よわし。いとまなき時なれども、心ざしのゆくところ、山中の法華経へ、もうそうがたかんなをおくらせ給う。福田によきたねを下ろさせ給うか。なみだもとどまらず。
背景と大意
この手紙の冒頭と結びの部分は失われており、日付も宛先も不明です。 しかし、現存するこの部分の内容からすると、日蓮大聖人が身延で熱心な信者の一人に宛てて書かれたものと思われます。
大聖人は、この書状の冒頭で、法華経以前に説かれた経典はすべて「他人の心に応じたもの」であると宣言されています。 つまり、人々の理解に合わせた暫定的な教えです。 一方、法華経は「仏陀の心に一致する」といわれています。 お釈迦様が自らの悟りを直接啓示された教えです。 仮の教は人々の機根(能力)に応じて説かれるため、真理の一部を説いているにすぎませんが、正法である法華経は真理の全体を明らかにします。 大聖人は、法華経の意味を理解していなくても、この経典を信ずる者は、当然無量の功徳を得ることができると主張されています。
次に、正法、像法、末法におけるインド、中国、日本における法華経の伝承の歴史を簡単にたどります。 その際、彼は、それぞれ正法、像法、末法の仏法教師に対応する三種類の使者の例えを用いています。
この手紙における彼の議論の大部分は、法華経のメッセージが他の教えによって影を落とした像法時代に焦点を当てています。 中国では、天台大師が南北十宗の指導者らと討論した際、法華経の優位性を明らかにしました。 しかし、天台の死後、法華経の中心的な位置は、インドからの法相宗、華厳宗、真言宗の導入によって曖昧になってしまいました。 妙楽大師は天台の教えをある程度復活させましたが、彼の努力は法華経を以前の誰もが争うことのない名誉ある場所に戻すには至りませんでした。
日本では、法華経の最高の地位は、日本の天台宗の開祖である伝教大師によって確立されました。 しかし、同時期に弘法は難解な真言宗を設立し、伝教の後継者たちはやがてその影響下に置かれ、法華経を密教と同列に位置づけました。 こうして法華経の教えは曖昧になっていきました。
大聖人はここで善無畏、玄奘、弘法、慈覚、智証らの論説を、経典に根拠がないことを指摘して批判しています。 それに対して、法華経の「法師品」には、「私(釈迦)が説き、現在説き、これから説く経典の中で、この法華経は最も信じがたく、最も困難な経典である」とはっきりと述べられています。 「理解せよ」と法華経が最も奥深い教えであることを示しています。 この御言葉の趣旨を万人に明らかにしようとしたとき、大聖人は迫害に遭われた、と大聖人は仰っておられます。 そして、これがさまざまな災いを引き起こす原因となったのです。 それに対して、法華経の行者を支持する者は、法華経そのものに奉仕するのと同じ功徳が得られると説かれています。
現代語訳
衆生の体と心
法華経以前に説かれた経典は、衆生の身体と心を扱っています。 仏陀はそれを常人の心にとっつきやすい言葉で説いたので、仏陀の説法ではありますが、常人の思考の範囲を超えるものではありません。 したがって、他人の心に応じて説かれた(随他意)経典と呼ばれます。
たとえば、自分自身はお酒に無関心だが、お酒が大好きな息子を持つ親がいるとします。 息子に優しい気持ちを抱き、息子の愛情を勝ち取りたいと願う彼らは、息子に酒を勧め、そうすることで自分たちも酒が好きであるふりをする。 そこで愚かな息子は、父親も母親も実は酒が好きだという結論に達するのです。
提謂経は人間と天上の存在の領域を扱っています。 阿含経は二乗について扱っています。 『華厳経』は菩薩を扱っています。 『方等経』と『般若経』は、阿含経と提謂経に似ている点もあれば、華厳経に似ている点もあります。
末代の凡夫がこれらの諸経を読むとき、これらの経典は仏陀の心と一致していると考えます。 しかし、この問題をよく考えてみると、実際には彼らが読んでいることは彼ら自身の心の反映にすぎないことがわかります。 そして、彼ら自身の心は生まれつき未熟であるため、それによって得られる功徳はほとんどありません。
一方、法華経は、釈迦自身の心に従って説かれた経典として知られています。 仏陀の心は優れた心であるため、意味がわからなくてもこの経典を読む人は計り知れない功徳を得ることができます。
麻の中に生えたヨモギや筒の中の蛇は[当然のことながらまっすぐになる]ので、善良な性格の人々と交わる人は、その結果、心も行いも言葉も正しくなります。 法華経も同様の影響を与えています。 この経典をただ信じる者を仏は善人とみなします。
しかし、法華経に関しては、その教えの形は、それを広める人々の機根(能力)、時代、国、個人によって異なります。 しかし、ほぼ完璧な悟りの段階に達した菩薩でさえ、これらの関係を理解していないようです。 ましてや、末代の普通の人々には、彼らのことを理解することなど到底できないでしょう。
一般に、人の使いには 3 種類あります。 最初の種類は非常に賢いです。 2 番目の人は、特に賢いわけではありませんが、愚かでもありません。 3番目は非常に愚かですが、それでも信頼できます。
これら 3 つのタイプのうち、1 つ目は [メッセージの送信時に] エラーを発生しません。 2 番目のタイプは、ある程度賢いですが、最初のタイプほど賢くはありませんが、主のメッセージに自分の言葉を追加します。 したがって、彼は最悪のタイプのメッセンジャーです。 3 番目のタイプは、非常に愚かで、自分の言葉を差し出すような思い上がったような事はせず、正直に、主のメッセージを逸脱することなく伝えます。 したがって、彼は 2 番目のタイプよりも優れたメッセンジャーであり、場合によっては 1 番目のタイプよりも優れています。
最初のタイプのメッセンジャーは、インドの賢者の 4 つのランクに例えられるかもしれません。 2 番目のタイプは中国の教師に相当します。 そして 3 番目のタイプは、この末代の普通の人々の中で、無知ではあるが正直な人たちにたとえられるかもしれません。
お釈迦様がこの世に生きた時代については、ここでは置いておきます。 亡くなった翌日から千年間を正法時代といいます。 この前千年の期間は二つに分けられます。 最初の 500 年間に、小乗経典の教えが広まりました。 それらを広めた人物は迦葉・阿難等でした。 その後の 500 年間に、馬鳴・竜樹・無著・天親などが暫定大乗経典の教えを広めました。 これらの学者の中には、法華経の一部について書いている人もいれば、法華経に全く言及していない人もいます。 この千年にわたる正法の時代の後に登場した学者たちの中で、彼らの見解は仏陀自身の教えと似ている場合もあったが、ほとんどの場合は誤りであった。 誤りはなかったものの、論文が不完全だった人々の中では、迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親等の名前を挙げることができます。
その後の千年にわたる像法時代に仏教が中国に伝わりました。 しかし、当初は儒家との論争のため、大乗と小乗の区別、権教と実教の区別など、仏教の内部区分を掘り下げる時間がなかったようです。仏教の教えがより広く広がり、インドから次から次へと教義が導入されるにつれ、初期の仏教の教えを持っていた人たちの中には、最近紹介された経典や論文に照らしてみると、分別があったように見えましたが、今では愚かだと思われることも出てきました。 以前は愚かだと思われていたのに、今では賢いと思われる人たちもいました。 最終的には 10 の異なる宗派が発展し、1,000 または 10,000 の異なる解釈が提唱されました。 無知な人々はどちらに従えばよいのか分かりませんでしたが、賢いと思われている人々の自分の見解への執着は極端でした。
しかし、最終的に全員が同意した意見が 1 つありました。 つまり、お釈迦さまの生涯に説かれた教えの中で、第一位が『華厳経』、第二位が『涅槃経』、第三位が『法華経』でした。 この解釈は統治者から民衆に至るまで誰も異論を唱えませんでした。なぜなら偉大な賢者と仰がれた法雲法師・智蔵法師および十宗の他の指導者たちもこの解釈を共有しており、彼らはみな「法師」として尊敬されていたからです。
そして像法時代の陳・隋の時代に、後に天台大師と呼ばれる若き僧侶、智顗が現れました。 彼は多くの教義を教えましたが、最終的に彼の教えは、法華経、涅槃経、および華厳経の相対的な優位性というこの 1 つの問題を中心にしていました。
智顗法師は、仏教の教師たちはこれら 3 つの著作を逆さまにランク付けしたと宣言しました。 陳王朝の統治者は、事の真相を確かめるために、僧侶管理官の慧暅僧正・慧曠僧都・慧栄・法歳法師らを含む100人以上のグループを召集しました。
智熙法師は次のように述べました。「法華経そのものは、『経典の中で最も高い地位にある』と。また、「経典の中で、私(釈迦牟尼)が今まで説き、今も説き、そしてこれからも説きます。 この法華経は、最も信じるのが難しく、理解するのが最も難しい経典です。」とも述べました。 無量意経は、釈迦がここですでに「説いた」経典が「摩訶般若・華厳海空」を指していることを明らかにしています。そして、彼が「説くであろう」経典について、涅槃経にはこう書かれています。「般若波羅蜜多(智慧の完成の教え)から涅槃経を導き出した。」と。これらの経典は、法華経が華厳経・涅槃経よりも優れていることを示しています。 彼らはそれを非常に明確に、可能な限り明確にします。 それに応じて理解する必要があります。
このように叱責されると、反対派の中にはただ口を閉ざす者もいれば、罵声を吐き出す者もいれば、青ざめる者もいた。 その後、陳・君主は席から立ち上がって三度お辞儀をし、百人全員が敬意を表して合掌しました。 勝つ力がなく、他の宗派の指導者たちは敗北を認めました。 このようにして、法華経は釈迦生涯の教えの中で最高の地位を占めることが確立されました。
その後、像法時代の後半 500 年間に、経典や論書の新訳が次々と出版されました。 太宗皇帝の治世の貞観3 年 (629 年) に、玄奘という僧侶がインドへ旅しました。 彼は 17 年を費やしてインド 5 地域のさまざまな仏教の教義を習得し、同時代の 19 年 (645 年) に中国に戻り、『深密経』、『瑜伽論』、『唯識論』、『法相宗』を紹介しました。
玄奘は「インドにはさまざまな宗派があるが、この宗派はその第一人者だ」と断言しました。 太宗皇帝は中国史上最も優れた統治者の一人であり、玄奘を師と仰ぎました。
本質的に、この宗派が教えていることは、ある人にとって三乗は単なる方便で一乗が真理を表す一方で、ある人にとっては一乗は方便で三乗が真理を表すということである。 また、五性は全く別のものであり、その性質に定められた衆生や、悟りの性質を持たない衆生は決して成仏できないと教えています。
そのような教義は、火と水と同様に天台派の教義とは相容れませんでした。 しかし、この時までに天台大師も章安大師も亡くなり、彼らの後継者は彼らが本来あるべき人物ではありませんでした。 したがって、天台派はすでに敗北したかに見えた。
その後、則天皇后の治世中に、華厳宗が中国に現れました。以前の華厳経60巻は天台大師に批判されたので脇に置かれ、その後、日照三蔵が紹介した新訳の華厳経80 巻に基づいてこの宗派が設立されました。 一般的に、この宗派では、華厳経は仏陀の「根の教え」を表し、法華経は「枝の教え」を表すと教えています。 則天皇后は仏教の尼僧であり、仏教と非仏教の経典の両方をある程度理解していました。 彼女は傲慢さのあまり、天台宗を見下していたのです。 このように法華経は法相宗と華厳宗の間で二重に曖昧になりました。
その後、玄宗皇帝の治世に、善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵がインドから中国へ帰国し、大日経・金剛頂経・蘇悉地経を携えました。人格的にも教義的にも、これら 3 人は中国の初期の仏教教師とはまったく比較にならないほど優れた人物でした。 さらに、これまで知られていなかった印と真言とを導入したため、これらの導入以前には仏教は実際には存在していないと考えられるほどでした。 これらの人々は、天台宗は華厳・法相・三論の教えより優れているが、真言宗の教義には及ばないと宣言しました。
さらに後になって、妙楽大師は、天台大師が当然批判していなかった法相宗・華厳宗・真言宗に対する反論を発表しました。 しかし、彼は天台大師のように公開討論会で反論を実行しなかったので法華経は夜の闇にまとった錦のようなものとなり、法華経にはない印や真言が人々の目の前にはっきりと見えるようになりました。 したがって、誰もが真言宗が優れていると信じるようになりました。
像法時代に欽明天皇の治世 6 年(545 年)に仏教が日本に伝わりました。欽明天皇の治世から桓武天皇の治世までの 200 年以上の間に、仏教は三論・成実・法相・俱舎・華厳・律などの六宗派が広められました。 真言宗の教えは第 44 代君主、元正天皇の治世中に導入され、天台宗の教えは第 45 代君主、聖武天皇の治世中に導入されました。 これらの教えはどちらも当時は広められていませんでした。
桓武天皇の時代、後に伝教大師として知られる最澄という僧がいました。 中国の唐へ旅立つ前に、彼は 6 つの宗派の教えを習得し、さらに、15年間山に隠遁して天台宗と真言宗の教義を研究しました。 したがって、彼は中国に行く前から天台教の観点から初期の六宗を批判することができ、彼の批判は奈良の七大寺院の指導者全員を彼の弟子となさしめました。 こうして六派の教義は否定されたのです。
その後、延暦23年(804年)に中国へ渡り、同24年に帰国しました。 当時、彼は日本で天台と真言の教えを広めました。 しかし、天台宗と真言宗の相対的な優位性に関する限り、彼は心の中でそれを認識していても、それを他人に説明しなかったようです。
同じ時代に、後に弘法大師として知られる空海も生きていました。 彼も延暦二十三年に中国に渡り、大同三年(808年)に帰国しました。 彼は真言の教えだけを研究し、それを日本に広めました。 彼の考えでは、法華経は華厳経にも及ばず、ましてや真言の教えには及ばないと言っていました。
伝教大師には、後に慈覚大師として知られる円仁という弟子がいました。 承和5年(838年)に中国へ渡り、同14年に帰国。 その 10 年間、彼は真言と天台教義の両方を学びました。 日本滞在中、伝教、義真、円澄・大師のもとで天台教義と真言教義を徹底的に学び、さらに中国滞在の10年間で8人の高名な師範のもとで真言を学び、宗叡・志遠のもとで天台宗の指導を受けました。帰国後、彼は天台派も真言派も同様に醍醐味を表現しており、両派の経典は深遠で繊細であると発表しました。 これらの意見を裏付ける勅令が発布されまでになりました。
彼の後には、のちに智証大師として知られる円珍が現れました。中国へ旅立つ前、彼は義真和尚の弟子でした。 日本滞在中、義真、円澄、円仁らに師事して天台・真言の教えを学びました。 さらに仁寿3年(853年)に中国へ渡り、貞観元年(859年)に帰国しました。 中国での 7 年間、彼は法全・良諝らの下で天台宗と真言宗の 2 つの教えを徹底的に研究しました。
天台宗と真言宗の優劣は鏡に映したかのように明らかですが、この点は後世必ず争われるであろうから決着をつけると宣言した。 そこで彼は、天台と真言の二派は人間の両目、鳥の両翼に匹敵するとの見解を述べました。 これに反する解釈をする者は、開祖伝教大師に反するものであり、山に留まるべきではない。 この立場を支持する勅令が再度発布され、円珍はその解釈を全国に広めました。
したがって、中国にも日本にも多くの賢人がいたにもかかわらず、この解釈に反論できる人はいなかったようです。 もしそれが正当であるならば、これに従って修行する者は必ず成仏し、これを尊重する統治者は必ずその国の平安と安全を享受することができるはずです。
私があえて自分の意見を他の人に伝えたら、彼らはその意見に耳を傾けようとしないだけでなく、実際私に危害を加えようとするだろうし、私の意見を聞いた私の弟子や一般の支持者たちも同様に置かれるだろうと考えていました。そして実際、すべてが私が予想したとおりになりました。
それにもかかわらず、私は、私が言及した人々が提示した解釈は、まったく仏陀の真の意図と一致しないと信じています。 法華経八巻二十八品から見て、これに勝る経典があるとすれば、法華経は十方の諸仏が集まって大きな嘘を積み重ねたものにほかありません。したがって、実際に『華厳経』『涅槃経』『般若経』『大日如来経』『深密経』の経典を検討してみると、法華経の「諸経の中で最高位に位置する」という明言を否定するような文言は見当たらないのです。
このように、善無畏、玄奘、弘法、慈覚、智証らは、さまざまな賢明な議論を展開したが、法華経が大日経に劣ることを証明する経典は一つも生み出せませんでした。 彼らの議論全体は、経典に印・真言が含まれているかどうかという問題のみに基づいています。 何百冊もの議論を書き、終わりのない陰謀で中国と日本を行き来し、人々を威圧するために勅令の発布を手配するよりも、むしろ、明確な証拠を文書で提出する方が良かったでしょう。
露が溜まって小川を作り、小川が溜まって大海を形成します。 塵が積もって山ができ、山が積もって須弥山ができます。 同じように、些細な事も積み重なり重大な事になっていきます。 とりわけこの問題の場合は、なおさらのことです。 これらの人々が注釈を書いたとき、彼らは二つの教えの原則と文書証拠の両方を精査することに尽力すべきであったし、朝廷が勅令を発したときも、双方を徹底的に調査し、一部を引用した上で戒めを発すべきであったのです。
仏陀自身でさえ、自分が説いた経典、現在説いている経典、そしてこれから説く経典の中で、法華経が至高であるという発言を否定することはできませんでした。 それでは、学者、教師、国家の支配者がその権威を利用してそのようなことを行うことは、ましてやできないことでしょう。 [仏陀の]この言葉は、梵王・帝釈・日月・四天の耳に届き、それぞれの宮殿で正式に記録されました。
国民が本当にこの声明を知らなかった限り、私が言及した教師たちの誤った解釈は、誰も報復を受けることなく広がったようです。 しかし、ひとたび強権的な人物がこの経文を大胆かつ妥協のない方法で知らせようと名乗り出たら、重大な事態が起こるのは確実です。 人々がこの人物を見下し、呪い、殴り、追放し、あるいは命を狙おうとしたため、梵王・帝釈・日月・四天が怒り立ち上がり、 その信者の同盟者になりましょう。 こうして予期せぬ非難が天から降りてきて、人々は滅ぼされ、国家は滅ぼされようとしているのです。
法華経の行者は卑しい身であってもその背景にある彼らを守る天の神々が実に恐ろしいのです。 修羅が太陽や月を飲み込もうとすると、その頭は 7 つの部分に裂けます。犬がライオンに向かって吠えれば、その腸は腐ります。 そして今日の状況を見ると、同じような報復がここ日本でも起きているのです。
一方、行者に布施や援助をする者は、法華経そのものに供養をしたのと同じ功徳が得られます。 伝教大師は解説の中で次のように述べています。「法華経を称賛する者は、その祝福が静穏の山のように積み重なるでしょう。一方、法華経を中傷する者は、絶え間ない苦しみの地獄に落とされる罪を犯したことになります。」と。
辟支仏にヒエの質素な食事を捧げた人は、普明如来となりました。土の餅を仏陀に捧げた人は、一閻浮提の統治者になりました。たとえ功績のある行為を行っても真実ではないものに対して供養すれば、その行為は大きな悪をもたらすかもしれませんが、決して良い結果をもたらすことはありません。 一方、たとえ無知で貧弱な捧げ物をするとしても、真理を守る人にその捧げ物を捧げれば、その人の功徳は大きくなります。 ましてや、正しい教えに誠実に供養を捧げる人の場合は、なおさらです。
さらに、私たちは今日、普通の人ができることがほとんどない困難な時代に生きています。 それにも関わらず、お忙しい中、法華経へのお供え物として、茎の太い孟宗の竹の子をこの山に送ってくださいました。 きっとあなたは福田に良い種を蒔いているのです。 それを思うと涙が止まらなくなります。