聖愚問答抄下
文永5年(ʼ68) 47歳
- 第十七章 禅宗の教義を挙げる
- 第十八章 教外別伝・不立文字の邪義を破る
- 第十九章 当世の禅宗が派祖の意に反するを指摘す
- 第二十一章 法華の得益を示し、捨邪帰正を勧む
- 第二十二章 愚人、逡巡の情を述べる
- 第二十三章 真の報恩・孝養を教える
- 第二十四章 教主釈尊を範として真の孝養を示す
- 第二十五章 真の忠君のあり方を教える
- 第二十六章 数の大小にとらわれる愚を諭す
- 第二十七章 愚人・法華経修行のあり方を問う
- 第二十八章 法華経弘通の態度を教える
- 第二十九章 謗法訶責の折伏行を勧める
- 第三十章 折伏行が仏の勅命であると示す
- 第三十ニ章 唱題行の肝要を示す
- 第三十三章 妙法五字の絶大なる功徳を明かす
- 第三十四章 妙法五字の受持唱題の文証を示す
- 第三十五章 「信心」の二字の肝要なるを示す
- 第三十六章 釈を引き妙法五字の功徳を示す
- 第三十七章 不退転の信心を勧める
第十七章 禅宗の教義を挙げる
爰に愚人聊か和いで云く経文は明鏡なり疑慮をいたすに及ばず但し法華経は三説に秀で一代に超ゆるといへども言説に拘はらず経文に留まらざる我等が心の本分の禅の一法には・しくべからず凡そ万法を払遣して言語の及ばざる処を禅法とは名けたり。されば跋提河の辺り沙羅林の下にして釈尊・金棺より御足を出し拈華微笑して此の法門を迦葉に付属ありしより已来・天竺二十八祖・系乱れず唐土には六祖次第に弘通せり、達磨は西天にしては二十八祖の終東土にしては六祖の始なり相伝をうしなはず教網に滞るべからず。爰を以て大梵天王問仏決疑経に云く「吾に正法眼蔵の涅槃妙心実相無相微妙の法門有り教外に別に伝う文字を立てず摩訶迦葉に付属す」とて迦葉に此の禅の一法をば教外に伝ふと見えたり、都て修多羅の経教は月をさす指・月を見て後は指何かはせん心の本分・禅の一理を知つて後は仏教に心を留むべしや、されば古人の云く十二部経は総て是れ閑文字と云云、仍つて此の宗の六祖慧能の壇経を披見するに実に以て然なり、言下に契会して後は教は何かせん此の理如何が弁えんや。
現代語訳
そこで愚人は少し顔色を和げていう。経文は明鏡であるから疑いをはさむことはできない。ただし、法華経は已・今・当の三説に秀で一代聖教の中で最も勝れているといっても、言説に制約されず経文に留まらない我らの心の本分を究める禅の一法にもかなうものではない。およそ万法を払い棄て、言語の及ばない境界を禅法と名づけたのである。
それゆえ、跋提河の辺り、沙羅林の下で釈尊が金棺から出て、拈華微笑してこの法門を迦葉に付属してからこれまで、インドでは二十八祖の系統の乱れなく継承し、中国では六祖が次第に相伝して弘通したのである。達磨はインドにあっては二十八祖の終わりであり、中国にあっては六祖の始めである。相伝を失わず、経網に滞ってはならない。
このゆえに大梵天王問仏決疑経には「私には正法眼蔵涅槃妙心実相無相微妙の法門がある。教外に別に伝え、文字を立てず、摩訶迦葉に付属する」とあり、迦葉にこの禅の一法を教外に伝えたと見えている。すべて仏の経教は月をさす指であり、月を見て後では指は不用である。心の本分たる禅の一理を知った後は、仏の教えに心を留めるべきであろうか。それゆえ、古人は「十二部経はすべて無用の文字である」といっている。したがって、この宗の六祖慧能の壇経を開いて見ると、まことにそのとおりである。一言の下に心性にかない真理を会得した後は、教は不用である。この理をどのように考えればよいのか。
語釈
拈華微笑
大梵天王問仏決疑経にある文。釈尊が涅槃の時、黙って花を拈り聴衆に示した際、魔訶迦葉だけが顔をほころばせ微笑した。そこで、釈尊は、己心に秘めた微妙の法を魔訶迦葉のみに付嘱したとされる。
迦葉
梵名マハーカーシャパ(Mahākāśyapa)の音写・摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。釈尊の十大弟子の一人。バラモンの出身。王舎城で釈尊と出会い、弟子となって八日目に悟りを得たという。衣食住等の欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、弟子のなかでも頭陀第一と称される。釈尊滅後、付法蔵の第一として、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後二十年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。
付属
付嘱とも書く。教えを広めるように託すこと。嘱累ともいい、相承・相伝と同義。付嘱は付与嘱託の義。付は物を与えること。嘱は事を託すこと。
天竺二十八祖
禅宗で説く法統。インドで釈尊の奥義を相伝したとされる二十八人の祖師のこと。伝法正宗記巻四・五には、付法蔵二十四人と婆舎斯多・不如密多・般若多羅・菩提達磨を挙げ、二十八祖とする。しかし付法蔵因縁伝巻六では、第二十四祖師子尊者の後は、付法の人は絶えたとされる。
唐土には六祖
中国で禅宗を伝えた六人の高僧。①菩提達磨・②慧可・③僧璨・④道信・⑤弘忍・⑥慧能をいう。
達磨
菩提達磨の略。5~6世紀の人、生没年不詳。菩提達磨は梵名ボーディダルマ(Bodhidharma)の音写。達摩とも書く。中国禅宗の祖とされる。その生涯は伝説に彩られていて不明な点が多い。釈尊、摩訶迦葉と代々の法統を受け継いだ二十八代目の祖師とされる。以下、伝承から主な事跡を挙げると、南インドの香至国の第三王子として生まれ、後に師の命を受け中国に渡る。梁の武帝に迎えられて禅を説いたが、用いられなかった。その後、嵩山少林寺で壁に向かって九年間座禅を続けていたところ、慧可が弟子入りし、彼に奥義を伝えて没したという。
大梵天王問仏決疑経
二巻。訳者不明。仏が正法眼蔵・涅槃妙心・実相無相という法門を摩訶迦葉に付嘱したことが説かれている。これが禅の起源であるとして、禅宗は依経としているが、漢訳仏典の二大目録(開元釈教録・貞元新定釈教目録)に記載がなく、偽経とされる。
正法眼蔵
一切を照らし包む正しい法。眼は照らす、蔵は包含の意。清浄法眼ともいう。禅家の説で、大梵天王問仏決疑経(偽経)に説かれている正法眼蔵の句は仏の所説の無上の正法を意味するとして、教外別伝の心印としている。中国・宋の道原は景徳伝灯録巻一の第一祖・摩訶迦葉のなかで、仏は正法眼蔵を迦葉に付嘱し、巻三の第二十八祖・菩提達磨では迦葉から以心伝心として菩提達磨に至るとしている。
涅槃妙心
悟りの心・仏心のこと。大梵天王問仏決疑経の文。煩悩の束縛を脱した仏の悟り(涅槃)は不可思議(妙)な心であるとの意。
実相無相
実相は諸法の所詮の本体であり根本の意であって、固定した特別の相をもたないこと。実相とはありのままの相のこと。また法性・真如・実性・不変の理等の意味をもつ。諸法の究極を実相とすることは、あらゆる経に共通しているが、捉えられた実相がいかなるものであるか、完璧か不完全かは経によって異なりがある。三諦円融の完璧な実相を捉えているのが法華経方便品第二に「諸法実相」と説かれる実相である。法華玄義巻八上には、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の三法印は小乗教の法印(仏教であることを証明する基準・特質の意)であり、大乗教にはただ一つの法印、すなわち諸法実相(すべての存在・現象がそのまま実相それ自体に他ならない)の一実相法印のみがあると説かれている。次に無相とは形や姿が無いこと。有相に対する語。有相が生滅流転する無常なものをあらわすのに対して、無相は差別の相を超越した絶対平等の境界をさす。無相を事象の真実のすがたとして、実相と同義にも用いられる。ゆえに実相無相とつらねて用いられている。
微妙の法門
深遠、細やかで凡智では到底、知り得ない不可思議なほど優れている教え。細かい点に奥深い意味が含まれていて簡単には表現できないさまをいう。法華経化城喩品第七に「仏智は浄くして微妙に 無漏無所碍にして 無量劫を通達す」とある。
教外に別に伝う文字を立てず
仏の悟り・本意は、文字や言語であらわされた経典や教理によらず、経文の外に以心伝心によって別に伝えられたとする禅宗の教義。「教外に別に伝う」(教外別伝)とは、仏道を伝えるに際して、言語や文字による教説を排して直接ただ心から心へと法を伝えること。「文字を立てず」(不立文字)とは真の悟りは経論の語句・文字に依っては示せないとすること。禅宗では、仏法の真髄は一切経(教内の法)の外にあり、それは釈尊から摩訶迦葉に文字によらずに伝えられ、その法(教外の法)を伝承しているとし、経文を用いず座禅によって法を悟ることができるとしている。しかし一方では仏教以外の経書を学び、文筆を行い、教義を説くという矛盾を示している。
十二部教
仏教のこと。十二分教ともいう。経典を叙述の形式・内容から十二種に分類したもの。
六祖慧能の壇経
慧能(0638~0713)の言行録である「六祖大師法宝壇経」のこと。一巻。六祖壇経ともいう。慧能は中国禅宗の第六祖。曹渓の宝林寺に住したので曹渓大師とも呼ばれた。第五祖の弘忍に法を受け、広東省付近を中心に弘教し、禅宗南派の基礎を築いた。伝承によれば、弘忍は七百人の弟子たちにそれぞれの覚りの境地を一偈で述べさせ、最も優れた者に衣を伝え法を授けようとしたが、慧能はこのとき高弟の神秀を抜き、弘忍より法を伝えられたという。壇経は慧能が韶州の大梵寺の檀上で説法したものを、後に門人が集録した。〝経〟と呼ぶのは、後人が慧能を尊んで付けたもの。慧能の生涯の行業と語録が収められているが、後世の加筆が多いとされる。
講義
本抄上の終わりで、聖人は、真言密教の邪義を、法華経の明鏡に照らして破折された。その鋭い破折の論理に愚人は一応納得したのであろう、「爰に愚人聊か和いで」とあるように、愚人の顔色が少々穏やかになった、と表現されている。
しかし、愚人は、今度は禅宗の教えを根拠にして、経文としての法華経を否定し、法華経より勝れた立場のあることを主張し、聖人の見解を聞こうとするのである。
本抄上で、聖人は愚人がつぎつぎと問い尋ねた念仏、真言密教の邪義を破ってこられたのであるが、律を加えて、これらの宗旨は、いずれも、小乗の経典(律)や権大乗の経典(念仏、真言)を依りどころとするものであった。したがって、釈尊出世の本懐であり一切衆生皆成仏道を説き明かした実教たる法華経をもって、ことごとく破られたのである。
しかし、ここに愚人が問い尋ねる禅宗は、それまでの小乗や、権大乗の経典を依経とする宗旨とは異なり、実教の法華経をも含めて、経典や経文そのものを否定する恐るべき宗派である。
いま、愚人の言にしたがって、禅宗の教えを述べてみると、次のようになる。
八万法蔵といわれる多数の経教を説いた釈尊が、いよいよ跋提河の辺りで涅槃する時に、黙然として華を拈って微笑した。そこにいた大衆はその意味が理解できなかったが、ただ迦葉だけが意味を悟り破顔微笑したという。ことばでは語れない真理が、この時、釈尊から迦葉に〝以心伝心〟(心を以て心に伝えること)され付嘱されたという。大梵天王問仏決疑経には「吾に正法眼蔵の涅槃妙心実相無相微妙の法門有り教外に別に伝う文字を立てず摩訶迦葉に付属す」と説いている。
すなわち、この時の、ことばでは語られない真理とは〝正法眼蔵の涅槃妙心実相無相微妙の法門〟であるとし、その正法が釈尊より迦葉に、文字を立てず、八幡法蔵の言語文字の経教とは別に伝えられたというのである。
いわゆる「教外別伝・不立文字」というのがこれである。
こうして、迦葉よりインドでは二十八祖、中国では六祖と一糸乱れず、正法が以心伝心されてきたという。
禅宗では、坐禅という一種の瞑想修行により、直ちに悟りに入る修行をすると主張する。そして、経文は月をさす指にすぎずとして、月即ち、自分の心の本分(仏性)を見ることができれば、経文は無用であるといって、ただ坐禅を組んで、自分の心を内観することに専心するのである。
釈尊の金口の直説たる経文を軽視するこの禅宗に対して、聖人は、どのように破折されるのであろうか。それが次章から始まる聖人の答えである。
第十八章 教外別伝・不立文字の邪義を破る
聖人示して云く汝先ず法門を置いて道理を案ぜよ、抑我一代の大途を伺わず十宗の淵底を究めずして国を諌め人を教ふべきか、汝が談ずる所の禅は我最前に習い極めて其の至極を見るに甚だ以て僻事なり、禅に三種あり所謂如来禅と教禅と祖師禅となり、汝が言う所の祖師禅等の一端之を示さん聞いて其の旨を知れ若し教を離れて之を伝うといわば教を離れて理なく理を離れて教無し理全く教教全く理と云う道理汝之を知らざるや拈華微笑して迦葉に付属し給うと云うも是れ教なり不立文字と云う四字も即教なり文字なり此の事・和漢両国に事旧りぬ今いへば事新きに似たれども一両の文を勘えて汝が迷を払はしめん。補註十一に云く又復若し言説に滞ると謂わば且らく娑婆世界には何を将つて仏事と為るや、禅徒豈言説をもつて人に示さざらんや、文字を離れて解脱の義を談ずること無し豈に聞かざらんや乃至次ぎ下に云く豈に達磨西来して直指人心・見性成仏すと而るに華厳等の諸大乗経に此の事無からんや、嗚呼世人何ぞ其れ愚かなるや汝等当に仏の所説を信ずべし諸仏如来は言虚妄無し。此の文の意は若し教文にとどこほり言説にかかはるとて教の外に修行すといはば此の娑婆国にはさて如何がして仏事善根を作すべき、さように云うところの禅人も人に教ゆる時は言を以て云はざるべしや其の上仏道の解了を云う時文字を離れて義なし、又達磨西より来つて直に人心を指して仏なりと云う是程の理は華厳・大集・大般若等の法華已前の権大乗経にも在在処処に之を談ぜり是をいみじき事とせんは無下に云いがひなき事なり嗚呼今世の人何ぞ甚ひがめるや只中道実相の理に契当せる妙覚果満の如来誠諦の言を信ずべきなり。又妙楽大師の弘決の一に此の理を釈して云く「世人教を蔑にして理観を尚ぶは誤れるかな誤れるかな」と、此の文の意は今の世の人人は観心観法を先として経教を尋ね学ばず還つて教をあなづり経をかろしむる是れ誤れりと云う文なり。
現代語訳
聖人はさとしていう。あなたはまず法門をさし置いて、道理を考えてみなさい。いったい、釈尊一代の大綱を学ばず、十宗の奥義を究めないで、国を諌め、人を教えることができるだろうか。あなたの語った禅については、私は前々から習い極めており、その至極の道理を見ると、はなはだしく誤っている。禅に三種ある。すなわち如来禅と教禅と祖師禅である。あなたの語った祖師禅の一端を示すから、よく聞いてその大旨を知りなさい。
もし教を離れて法門を伝えるというならば、教を離れて理はなく、理を離れて教はない。理はそのまま教であり、教はそのまま理であるという道理をあなたは知らないのか。「拈華微笑して迦葉に付属した」というのも教である。「不立文字」という四字もまさしく教であり、文字である。このことは日本でも中国でも言い古されていて、今いうと、ことさらめいているようではあるが、一、二の文を示してあなたの迷いを払うことにしよう。
補註巻十一には「またもし言説にこだわるのがいけないというならば、しばらくの間も娑婆世界は何によって仏事をなすのか。禅徒も言説によって人に教えを示さないのであろうか。文字を離れて解脱の義を語ることはできないし、どうして聞くことができようか」といい、また次に「達磨がインドから来て、直指人心・見性成仏を説いたという。しかし華厳等の諸大乗経にこの事が明かされていないというのか。ああ、世人はなんと愚かなのであろう。あなた達は必ず仏の所説を信ずべきである。諸仏如来の言葉に虚妄はない」とある。
この文の意味は、もし教文にこだわり、言説にとらわれるといって、教えの外に修行するというのであれば、この娑婆世界ではどうして仏事・善根をなすことができるだろうか。そのようにいう禅宗の者でさえも人に教える時はことばを用いずに教えることはできないであろう。さらに仏道の悟りを伝えるとき、文字を離れてその義を説くことはできない。また達磨がインドから来て、直ちに人心を指して仏であるといった。これぐらいの理は華厳経・大集経・大般若経等の法華経已前の権大乗経にもいろいろなところに説かれている。これをとくに勝れたこととするのは、全くいうだけの価値のないことである。ああ、今の世の人はどうしてこうもひどくゆがんだ見方をするのか。ただ中道実相の理を体得した妙覚果満の如来の真実のことばを信ずべきである。
また妙楽大師の弘決の一には、この道理を説いて「世人が仏の教えを軽視してただ理観を尊ぶのは誤りである」と述べている。この文の意味は、今の世の人々は観心・観法を主体として、経教を尋ね学ぼうとしないで、かえって教をあなどり、経を軽んじている。これは誤りであるという文である。
語釈
補註十一に云く……
従義の著・法華三大部補注巻十一の文。従義(1042~1091)は中国・宋代の天台宗の学僧。名は従羲、謚号は神智。温州平陽の人。17歳で扶宗継忠に仕え、天台を学んだ。ついで諸国を巡り、大雲・真白・五峰・宝積・妙果の五寺に歴住した。二十七歳の時、妙果寺で四教義を教え、「天台四教儀集解」三巻を著した。晩年、寿聖寺で宗勢を振るい、禅・華厳・法相等を破折した。初め山家説(天台の正統を継承した四明知礼の流れを汲む説)を支持したが、後世離反したので山外派と呼ばれた。著書に「法華三大部補注」十四巻等がある。
直指人心・見性成仏
経文を用いずに直ちに人の心を対象とし、心の本性を見極めて成仏すること。見性とは自己の心性に本来具有する仏性を徹見して、自己の本性が仏性そのものであると覚知し、迷いを破って悟りを得ることをいう。六祖大師法宝壇経などに説かれている。
講義
聖人の禅宗の教義に対する破折が始まる。「汝先ず法門を置いて道理を案ぜよ」とは、禅宗の教義に対する主観的な執着心を置いて、客観的に道理を考えなさい、との意である。物事を判断するうえでの基本姿勢をまず教えられているのである。
しかるのちに、禅に如来禅、教禅、祖師禅の三種あることを挙げられる。
一代五時継図に、
禅宗 ┬ 如来禅 ─ 楞伽経・金剛般若経等に依る、又は教禅とも云う
└ 祖師禅 ─ 教外別伝不立文字云云
と図示されているように、如来禅と教禅とは厳密にいえば異なるのであろうが、大聖人は同じものとされている。
ともに、釈尊が禅定について説き明かした経教を依り所にして立てる禅で、この場合は、依処とする経典が権大乗なので、実教たる法華経により破折することができる。
祖師禅は、教禅(如来禅)とは反対に、教外別伝・不立文字を立てる禅で、愚人のいう祖師禅であることはいうまでもまい。
この祖師禅に対して、本章ではまず教外別伝・不立文字の義を破折されるのである。最初に、「教を離れて理なく理を離れて教無し」の教即理の道理によって、教外別伝・不立文字の義がいかに矛盾に満ちているかを論じられる。
釈尊が禅の一法を迦葉に拈華微笑して、教を離れて別に伝え付嘱したというが、それをいうこと自体が「教」になっていると破られている。また、文字を立てず、というが、そのことをことばにして語れば、「教」であり「文字」を立てていることになる。
「不立文字」ということ自体、矛盾であって、祖師禅は始終、沈黙を続ける以外に一貫性を保てないと、聖人はさとされているのである。
しかしながら、宗派を立て仏道を修行する以上は、沈黙を続けることは絶対に不可能であることは自明であり、その点を次に指摘されている。
補註十一の文を引用されて「若し教文にとどこほり言説にかかはるとて教の外に修行すといはば此の娑婆国にはさて如何がして仏事善根を作すべき、さように云うところの禅人も人に教ゆる時は言を以て云はざるべしや其の上仏道の解了を云う時文字を離れて義なし」と破折されている。つまり、ことばや文字を離れて仏道修行するというが、沈黙のままで衆生教化の善根や法の弘通ができるわけがない。現実に、禅宗の人も禅を他人に教えるとき、ことばを使うであろうし、仏道の解了、すなわち、悟りを人に伝えるとき、文字やことばを離れるわけにいかないと、その自己矛盾を突かれている。
このように、根本的なところで、自己矛盾を犯しているのが禅宗なのである。またその派祖の達磨が説いたという〝直指人心・見性成仏〟(経教によらず、直ちに自分の心を目当てにして、坐禅修行し心の本性を仏と観見して成仏すること)の教義も法華已前の権大乗教ですら処々に説いている低い教えに過ぎない、と破られている。仏語の悟りの極到が、ことばであらわしえないものであることは、あらゆる経典でことわられているところであって、なんの珍しいことでもない。
このことばであらわせない悟りに到るために教えが説かれたのであって、この教えを不要というのは、目的地へ行く道を否定するようなもので、結局、目的地に達することはできないのと同じである。
最後に、妙楽大師の弘決の一の文によって、観心観法(禅)だけを尊んで経教を軽視する愚を戒めておられる。
第十九章 当世の禅宗が派祖の意に反するを指摘す
其の上当世の禅人・自宗に迷へり、続高僧伝を披見するに習禅の初祖達磨大師の伝に云く教に藉つて宗を悟ると、如来一代の聖教の道理を習学し法門の旨・宗宗の沙汰を知るべきなり、又達磨の弟子・六祖の第二祖慧可の伝に云く達磨禅師四巻の楞伽を以て可に授けて云く「我漢の地を観るに唯此の経のみ有り仁者依行せば自ら世を度する事を得ん」と、此の文の意は達磨大師・天竺より唐土に来つて四巻の楞伽経をもつて慧可に授けて云く我此の国を見るに是の経殊に勝れたり汝持ち修行して仏に成れとなり。此等の祖師既に経文を前とす若し之に依つて経に依ると云はば大乗か小乗か権教か実教か能く能く弁ふべし、或は経を用いるには禅宗も楞伽経・首楞厳経・金剛般若経等による是れ皆法華已前の権教・覆蔵の説なり、只諸経に是心即仏・即心是仏等の理の方を説ける一両の文と句とに迷いて大小・権実・顕露・覆蔵をも尋ねず、只不二を立てて而二を知らず謂己均仏の大慢を成せり、彼の月氏の大慢が迹をつぎ此の尸那の三階禅師が古風を追う然りと雖も大慢は生ながら無間に入り三階は死して大蛇と成りぬをそろし・をそろし。釈尊は三世了達の解了・朗かに妙覚果満の智月潔くして未来を鑒みたまい像法決疑経に記して云く「諸の悪比丘或は禅を修する有つて経論に依らず自ら己見を逐つて非を以て是と為し是邪是正と分別すること能わず徧く道俗に向つて是くの如き言を作さく我能く是を知り我能く是を見ると当に知るべし此の人は速かに我法を滅す」と、此の文の意は諸悪比丘あつて禅を信仰して経論をも尋ねず邪見を本として法門の是非をば弁えずして而も男女・尼法師等に向つて我よく法門を知れり人はしらずと云つて此の禅を弘むべし、当に知るべし此の人は我が正法を滅すべしとなり、此の文をもつて当世を見るに宛も符契の如し汝慎むべし汝畏るべし。
現代語訳
そのうえ、今の世の禅宗の人は自分の宗旨にさえ迷っている。続高僧伝を開いて見ると、禅宗の初祖達磨大師の伝記には「教によって宗を悟る」とあり、釈尊一代の聖教の道理を習学して法門の趣旨や各宗の法門を知らなければならないというのである。また、達磨の弟子で六祖の中の第二祖慧可の伝記には「達磨禅師が四巻の楞伽経を慧可に授けて『私がこの中国の地相を観ると、ただこの経のみが適している。あなたがこれによって修行するならば、おのずから世を済度することができるであろう』といった」とある。この文の意味は、達磨大師がインドから中国に来て、四巻の楞伽経を慧可に授けていうには、自分がこの国をみると、この経がとりわけて勝れている、あなたはこれを受持し修行して仏に成りなさい、ということである。
これらの祖師はすでに経文を第一としている。もしこのことから、経文に依るというならば、その経は大乗か小乗か、権教か実教かをよくよく弁別すべきである。あるいは経を用いる場合には、禅宗も楞伽経・首楞厳経・金剛般若経等によっている。しかしこれはみな法華已前の権教であり、真実を覆い隠した経説である。ただ諸経に「是心即仏・即心是仏」等の理の一面を説いた一、二の文と句とに迷って、大乗と小乗、権教と実教、顕露と覆蔵などの相違をすこしも尋ねず、ただ不二の義だけを立てて而二を知らず、「自分を仏と等しいと思う」大慢心を起こしているのである。これはインドの大慢バラモンの跡を継ぎ、中国の三階禅師の古風を追うものである。そうではあるが、大慢バラモンは生きながら無間地獄に堕ち、三階禅師は死んでから大蛇となった。まことに恐ろしいことである。
釈尊は三世を了達された明らかな智解と、妙覚果満の清らかな智慧の光でもって未来を鑑みられ、像法決疑経に「諸の悪比丘があるいは禅を修行する者は、経論によらずに、自分だけの見解に執着して非を是とし是を非として、正邪を分別することができず、あまねく僧俗に向かって、自分だけが正しい法門を知り、悟っているという。正しく知りなさい。この人はすみやかに我が法を滅ぼすのである」と記されている。この文の意味は、諸の悪比丘が禅を信仰して、経論をも尋ねず、邪見を根本として、法門の是非を弁えないで、しかも男女・尼法師等に向かって、自分こそはよく法門を知っているが他の人は知らない、といってこの禅を弘めるであろう、正しく知りなさい、この人は我が正法を滅ぼすであろう、ということである。この文によって当世を見る時、ちょうど符契のように合うのである。あなたも慎み畏れなければならない。
語釈
続高僧伝
三十巻。中国・唐代の南山律宗の開祖・道宣の撰。「唐高僧伝」ともいう。中国・梁の慧皎の撰した「高僧伝」(梁高僧伝)を引継ぎ,貞観19年(0645)までの百四十四年間の 高僧の事績を記録したと序で述べている。実際は貞観19年(0645)から後、19年間にわたって補修されたものと思われ、正伝四百八十五人、付見二百十九人の伝記が収められている。
慧可
(0487~0593)。中国・南北朝時代から隋代の僧。禅宗で菩提達磨に次ぐ第二祖とされる。菩提達磨の弟子となり、名を慧可と改め、六年間修行した。達磨の死後、慧可に帰依する者が多かったが、妬む者も多く、隋の開皇13年(0593)、讒訴によって処刑されて、107歳で死んだ。なお、慧可が達磨に入門するにあたって、積雪中に夜を徹して入門の許可を待ったが許されず、自ら左の腕を切断して求道の心を示し、ついに許しを得て弟子となったという慧可断臂の故事は有名。
楞伽
楞伽経のこと。四訳三存。釈尊が楞伽島(スリランカ)山頂(あるいは楞伽城ともいう)で大慧菩薩に対して説いたとされる経。唯識の立場から大乗の教義が列挙されている。この経に四種禅が説かれているとして、初期の禅宗で重視された。
首楞厳経
二義ある。①首楞厳三昧経の略。中国・後秦の鳩摩羅什訳。二巻。もっぱら首楞厳三昧の力用を説き、この三昧で得られた神力を示し功徳を明かしている。②大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経の略。大仏頂経とも略す。唐の般刺蜜帝訳とされる。十巻。摩登伽女の呪力に害されている阿難を仏が神通力で救うことから始まり、禅定の力と白傘蓋陀羅尼の功徳力を説いている。また二乗成仏の義を示している。禅宗で重んじられた経。
金剛般若経
金剛般若波羅蜜経の略。金剛経ともいう。漢訳には六種あるが、鳩摩羅什訳が広く用いられる。一切法の空・無我を説き、特に禅宗の系統で重んじられた。
覆蔵
包み隠すこと。心の中に隠しだてすること。ここでは仏の真実の悟りを覆い隠したとの意。
大慢
南インド摩臘婆国のバラモン。大慢婆羅門ともいう。大唐西域記巻十一によると、内外典・暦法等に通じ、国王・国人に尊敬されていたが、慢心を起こし、外道の三天(大自在天・婆籔天・那羅延天)と釈尊の像を作って高座の四足とし、これに登って、我が徳は四聖に勝れていると説法していた。しかし西インドから来た賢愛論師との法論に敗れ、民衆を誑惑したとして国王に殺されることになった。ところが論師のはからいで命を救われたが、かえってそれを恥じ、見舞いに来た論師を深く恨みののしり、なおも三宝を誹謗してやまなかったところ、大地が裂け、生身のまま地獄に堕ちたといわれる。
三階禅師
(0540~0594)。中国・隋代の三階教の開祖。諱は信行。姓は王氏。幼いころに出家し、経論を学び、浄土の修行を積んだ。相州(河南省)の法蔵寺で具足戒を受けたが、後にこの戒を捨て、自ら労役に従事し民衆の間に教えを弘めた。開皇の初めに隋帝に迎えられて長安に入り真寂寺に住した。「三階仏法」四巻をはじめ「三階集録」「対根起行法」など多くの書を著わし、すべての仏教を時・処・人について三階に分類した。正法時代・像法時代の仏法を第一階・第二階とし、当時は末法、処は穢土、人は凡夫の世であるから、特定の経典・仏は無益であり、第三階の「普法」によらなければならないとし、あまねく信じ、あまねく敬い礼拝の対象とする(普仏・普法・普敬による)三階教を説いた。普法宗ともいわれ、一時は長安、大興の都を中心に隆盛をきわめたが、信行の死後、隋の文帝、唐代の則天武后、玄宗などによって圧迫され、宋代の初めころ滅亡した。三階宗の教義は、主として地蔵十輪経の説に依っており、光宅寺法雲の教判による邪義である。なお、死んで大蛇になったという説としては、古文書によれば「一時の中に於て忽然と命終す。遂に、業道中に於て信行禅師大邪身を作り、遍身総て是れ口なるを見る」とある。
像法決疑経
一巻。訳者不明。釈尊は入滅に際して、跋提河のほとりで、常施菩薩を対告衆としてこの経を説いたとされる。釈尊はこの経のなかで滅後千年後(像法時代)における仏法衰微の相を挙げ、主に布施行を修すべきことを説いている。「復衆生有って他の旧寺・塔廟・形像及び経典の破落毀壊するを見て、肯て修治せず。便ち是の言を作さく、我が先崇の造る所に非ず、何ぞ治を用いることを為さん、我寧ろ更に自ら新しき者を造立せん。善男子よ、一切衆生新しき者を造立するは、故きを修する其の福甚だ多きには如かず」と。取意すると、像法の世は比丘・比丘尼・国王などが仏法を軽賤し、古い寺の修治をせず新しい寺を造立しようとするが、新しい寺を造立する福徳は、古い寺を修治する福徳には及ばない、布施は貧窮孤老の者にすべきであると述べ、布施を行じなければ涅槃に至ることができないのであると。次に像法時代には仏の意を理解せず、自らの所見に固執して仏法を破壊させる悪比丘が充満するため、衆生は三宝を軽賤することになると述べ、このような諸悪が起こる時は一切の道俗は大慈大悲を修学して救済にあたるべきであると説いている。天台家では、この経を涅槃経の結経として多く引用しているが、大周刊定衆経目録では偽経としており、真偽は明確でない。
講義
前章では、祖師禅の「教外別伝・不立文字」の教えが自己矛盾に陥ることをもって破折されたが、本章では、「当世の禅人・自宗に迷へり」と、祖師禅の宗派の中で、派祖の達磨やその直弟子達がいっていたことと、愚人が教えてもらった当世(日本の平安末期から鎌倉時代にかけて)の禅の教えとの間に決定的な相違があることを指摘され、その矛盾を突いておられる。
すなわち、続高僧伝の記録によれば、祖師禅の派祖の達磨は、経教を根本にして宗派を立てたのであり、また、直弟子の慧可に対して、楞伽経四巻を授け、此の経を持って修行し成仏せよと教えたといわれる。つまり、祖師禅の初祖や直弟子達は、あきらかに経文を根本にしていたのである。そうすると、祖師禅も、もともとは前章で述べた教禅、如来禅と同じ立場に立っていたのであり、この場合は、実大乗教たる法華経により爾前権教として打ち破られることになる。その点を、禅宗の用いる楞伽経、首楞厳教、金剛般若経等を「是れ皆法華已前の権教、覆蔵の説なり」と述べられているのである。
こうして、祖師禅も本来、教禅であったにもかかわらず、その末弟たる日本当世の禅宗は、教外別伝・不立文字と立てて、全く経文を無視する立場を徹底して、その派祖達の教えとも異なる宗風を形成したことが明らかである。
実教たる法華経を明境としてみるならば、当世の禅は、二重の誤りを犯したことになるのである。祖師達が権大乗教の経典を依りどころにして禅宗を立てたことが第一の誤りであり、さらに、その祖師達の教えからも逸脱していったことが第二の誤りである。
この当世の禅こそ、釈尊が像法決疑経に予言した仏法滅尽の姿そのものなのである。
只不二を立てて而二を知らず謂己均仏の大慢を成せり
心が即、仏であり、ゆえに心を観ずればよいのだとする考え方を打ち破っておられる文である。
禅宗は、権大乗教の経典ならどこにでも説いている「是心即仏・即心是仏」という一面の理だけを依りどころにして、衆生の心が即仏とし、衆生の心と仏とは不二であると立てる。
蓮盛抄では、この考え方をつぎのように破折されている。
衆生の心が即仏というが、その心が問題であるところから、「心は是れ第一の怨なり此の怨最も悪と為す此の怨能く人を縛り送つて閻羅の処に到る汝独り地獄に焼かれて悪業の為に養う所の妻子兄弟等・親属も救うこと能わじ」との文を引用され、或は涅槃経の「願つて心の師と作つて心を師とせざれ」の文を引かれて、愚癡無懺の衆生の心をそのまま仏と立てるのは、「未得謂得・未証謂証」(未だ得ざるを得たりと謂い、未だ証せざるを証せりと謂う)の増上慢であると断言されている。
衆生の心と仏の心は「二而不二」(二にして二ならず)の関係にあるとするのが仏法の中道実相の理である。にもかかわらず、禅宗は、不二の一面だけを強調して而二の一面を無視する誤りを犯しているのである。
つまり、仏の悟りの眼から見れば、衆生の心も本来は仏と等しいとの〝不二〟の立場が出てくるのであるが、それはあくまで理のうえであり、衆生救済を願う仏の慈悲心から述べられたのである。現実の衆生の心は、煩悩や迷いに覆われているのであるから、どこまでも衆生は「而二」であり、自身の迷いにとざされた心は、無明を払って悟りを得られた仏とは雲泥の差があることを自覚しつつ、成仏すなわち「不二」なることを目指して仏道修行を続ける立場である。
ところが、禅宗では、衆生・凡夫の側から、仏の慈悲をふみにじみって、「而二」とする謙虚な姿勢を捨て、衆生が自ら仏であるとの見解を立てたのである。大聖人が「謂己均仏(己、仏に均しと謂う)の大慢」と破折されたのも、けだし当然といわねばならない。
第二十一章 法華の得益を示し、捨邪帰正を勧む
抑今の法華経を説かるる時・益をうる輩・迹門界如三千の時・敗種の二乗仏種を萠す四十二年の間は永不成仏と嫌はれて在在処処の集会にして罵詈誹謗の音をのみ聞き人天大会に思いうとまれて既に飢え死ぬべかりし人人も今の経に来つて舎利弗は華光如来・目連は多摩羅跋旃檀香如来・阿難は山海慧自在通王仏・羅睺羅は蹋七宝華如来・五百の羅漢は普明如来・二千の声聞は宝相如来の記莂に予る・顕本遠寿の日は微塵数の菩薩増道損生して位大覚に鄰る。されば天台大師の釈を披見するに他経には菩薩は仏になると云つて二乗の得道は永く之れ無し、善人は仏になると云つて悪人の成仏を明さず男子は仏になると説いて女人は地獄の使と定む人天は仏になると云つて畜類は仏になるといはず、然るを今の経は是等が皆仏になると説くたのもしきかな末代濁世に生を受くといへども提婆が如くに五逆をも造らず三逆をも犯さず、而るに提婆・猶天王如来の記莂を得たり況や犯さざる我等が身をや、八歳の竜女・既に蛇身を改めずして南方に妙果を証す況や人界に生を受けたる女人をや。只得難きは人身値い難きは正法なり汝早く邪を翻えし正に付き凡を転じて聖を証せんと思はば念仏・真言・禅・律を捨てて此の一乗妙典を受持すべし、若し爾らば妄染の塵穢を払つて清浄の覚体を証せん事疑なかるべし。
現代語訳
いったい、今の法華経を説かれた時に、利益を受けた人々の中で、迹門の百界千如・一念三千が明かされた時に、敗種の二乗は仏種を萠した。四十二年の間は永不成仏と嫌われて、いたるところの集会で罵詈誹謗の声のみを聞き、人界や天界の衆生に疎まれて、既に飢え死にするばかりであった人々も、今の経に来て舎利弗は華光如来・目連は多摩羅跋旃檀香如来・阿難は山海慧自在通王仏・羅睺羅は蹋七宝華如来・五百の羅漢は普明如来・二千の声聞は宝相如来の記別を受けたのである。本門で顕本遠寿が明かされた時には、無数の菩薩が悟りを深めて等覚の位にのぼった。
それゆえ天台大師の釈を開き見ると、「他経には菩薩は仏になると説いて二乗の得道は永遠にない。善人は仏になると説いて悪人の成仏は明かさない。男子は仏になると説いて女人は地獄の使いと定めている。人天は仏になると説いて畜類は仏になるとは説かない。ところが今の経はこれらが皆仏になると説く」とある。頼もしいことである。末代濁世に生を受けたけれども、提婆達多のように五逆罪をも造らず、三逆罪をも犯さない。しかしそれを犯した提婆達多でさえなお天王如来の記別を得たのである。まして犯さない我等の成仏は疑いないのである。八歳の竜女はすでに蛇身を改めないで南方に妙果を証得した。まして人界に生を受けた女人の成仏はまちがいない。
ただ得難いのは人身であり、値い難いのは正法である。あなたも早く邪法への信を翻して正法に付き、凡夫を転じて聖果を証得したいと思うならば念仏・真言・禅・律を捨てて、この一乗妙典である法華経を受持すべきである。もしそうであるならば、虚妄に染められた生命の塵芥を払つて清浄の覚体を得ることは疑いないのである。
語釈
舎利弗は華光如来
梵名シャーリプトラ(Śāriputra)。音写して舎利弗、舎利子とも書き、身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国・王舎城外のバラモンの家に生まれた。幼いときからひじょうに聡明で、八歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。法華経譬喩品第三には、方便品第二に説かれた「諸法実相」の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けた。
目連は多摩羅跋旃檀香如来
梵名マハーマウドガルヤーヤナ(Mahā-maudgalyāyana)。音写して摩訶目犍連、大目犍連、目犍連とも書き、目連は略称。釈尊十大弟子の一人。マガダ国・王舎城の近くのバラモン種の出で、幼少より舎利弗と共に六師外道である刪闍耶に師事したが、釈尊の教えを求めて二百五十人の弟子とともに仏弟子となる。神通第一と称され、盂蘭盆経上によると、母が餓鬼道におちていたことを神通力で知るが、自分の力では救えず、釈尊に教えを乞い、供養の功徳を回向して救うことができたという。迦葉、阿難とともに法華経の譬喩品の譬えを聞いて得道し、授記品第六で、多摩羅跋栴檀香如来の記別を受けた。
阿難は山海慧自在通王仏
梵名アーナンダ(Ānanda)の音写、阿難陀の略。釈尊十大弟子の一人。常随給仕し、釈尊諸説の経に通達していた。多聞第一と称される。釈尊の従弟。大智度論には提婆達多の弟とあるが、諸説では提婆達多の兄とされる。仏滅後、摩訶迦葉のあとをうけて付法蔵の第二として諸国を遊行し、衆生を利益した。法華経授学無学人記品第九で山海慧自在通王如来の記別を受けた。
羅睺羅は蹋七宝華如来
梵名ラーフラ(Rāhula)の音写。羅云の別称がある。釈迦十大弟子の一人。密行(人に知られずひそかに行う修行)第一といわれた。釈尊が出家するまえに、耶輸多羅女との間に生まれた子。釈尊の出家を恐れて、魔が六年間も生まれさせなかったといわれている。二十歳で仏弟子となり、舎利弗について修行し、ついに密行第一とまでいわれるまでになり、法華経授学無学人記品第九で蹈七宝華如来の記別を受けた。
五百の羅漢は普明如来
法華経五百弟子受記品第八において、阿若憍陳如や阿那律など五百人の阿羅漢およびその他の七百人の阿羅漢、計千二百人の阿羅漢が未来に普明如来になるとの記別を受けた。
二千の声聞は宝相如来
法華経の会座に集った学・無学の声聞二千人が、授学無学人記品第九で、未来に宝相如来になるとの記別を受けた。
提婆
提婆達多のこと。梵名デーヴァダッタ(Devadatta)の音写。漢訳して天授・天熱という。大智度論巻三によると、斛飯王の子で、阿難の兄、釈尊の従弟とされるが異説もある。また仏本行集経巻十三によると、釈尊成道後六年に出家して仏弟子となり、十二年間修業した。しかし悪念を起こして退転し、阿闍世太子をそそのかして父の頻婆沙羅王を殺害させた。釈尊に代わって教団を教導しようとしたが許されなかったので、五百余人の比丘を率いて教団を分裂させた。また耆闍崛山上から釈尊を殺害しようと大石を投下し、砕石が飛び散り、釈尊の足指を傷つけた。更に蓮華色比丘尼を殴打して殺すなど、破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢の三逆罪を犯した。そのため、大地が破れて生きながら地獄に堕ちたとある。しかし法華経提婆達多品十二では釈尊が過去世に国王であった時、位を捨てて出家し、阿私仙人に仕えることによって法華経を教わったが、その阿私仙人が提婆達多の過去の姿であるとの因縁が説かれ、未来世に天王如来となるとの記別が与えられた。
講義
祖師禅を破折し終わって、一切衆生皆成仏道を明かす法華経の教えがいかに諸経に超過してすぐれているかを論じられ、愚人に「只得難きは人身値い難きは正法なり汝早く邪を翻えし正に付き凡を転じて聖を証せんと思はば念仏・真言・禅・律を捨てて此の一乗妙典を受持すべし」と、邪法を捨て正法に帰すべきことを勧められるのである。
法華経は二乗、悪人、女人の成仏を明かしているところにこそ、いかなる経典よりもすぐれている所以がある。二乗は釈尊のもとで出家し修行に励んだ仏弟子達であり、法華経以前の経典のように二乗は永久に成仏できないとするなら、現実には誰びとも成仏できないことになってしまったであろう。悪人が成仏できないということも、厳密にみれば、あらゆる人の心の中には悪心があるから、これまた、すべての人が成仏できないことになる。
女人の成仏についても、法華経以前の経典では、五障三従を説いて、女人は成仏など思いもよらない存在とされてきた。これまた、人類の半分は女性であるから、これだけでも、仏法は人類の半分しか救えないことになる。
このことから、もしこれら二乗、悪人、女人の成仏を明かした法華経が説かれなかったならば、仏教は、いかなる人をも救えない無用の長物となってしまったというべきであろう。法華経が説かれて初めて、仏教はその存在意義を全うしたといえるのである。
第二十二章 愚人、逡巡の情を述べる
爰に愚人云く今聖人の教誡を聴聞するに日来の矇昧忽に開けぬ天真発明とも云つべし理非顕然なれば誰か信仰せざらんや、但し世上を見るに上一人より下万民に至るまで念仏・真言・禅・律を深く信受し御座すさる前には国土に生を受けながら争か王命を背かんや、其の上我が親と云い祖と云い旁念仏等の法理を信じて他界の雲に交り畢んぬ。又日本には上下の人数・幾か有る、然りと雖も権教権宗の者は多く此の法門を信ずる人は未だ其の名をも聞かず、仍て善処・悪処をいはず邪法・正法を簡ばず内典・五千七千の多きも外典・三千余巻の広きも只主君の命に随ひ父母の義に叶うが肝心なり、されば教主釈尊は天竺にして孝養報恩の理を説き孔子は大唐にして忠功孝高の道を示す師の恩を報ずる人は肉をさき身をなぐ主の恩をしる人は弘演は腹をさき予譲は剣をのむ親の恩を思いし人は丁蘭は木をきざみ伯瑜は杖になく、儒・外・内・道は異なりといへども報恩謝徳の教は替る事なし。然れば主師親のいまだ信ぜざる法理を我始めて信ぜん事・既に違背の過に沈みなん法門の道理は経文・明白なれば疑網都て尽きぬ後生を願はずば来世・苦に沈むべし進退惟谷れり我如何がせんや。
現代語訳
そこで愚人はいう。今、聖人の教誡を聞いて、日ごろの迷いはたちまちに晴れた。天性の発する明智とでもいうべきであろう。理非が明らかであるから、だれが信仰しないでいられようか。ただし世間をみると上一人より下万民にいたるまで念仏・真言・禅・律を深く信受している。しかも、この国土に生を受けながら、どうして王命にそむくことができようか。そのうえ、私の親も先祖も、みな念仏等の法理を信じて亡くなったのである。
また日本には上下の人数がどれほどあろうとも、権教権宗の者は多く、この法門を信ずる人はまだその名さえ聞いていない。したがって死後の世界の善悪はともかく、法の邪正もしばらくさしおいて、仏典の五千七千の多きも、外典三千余巻の広きも、ただ主君の命に従い、父母の心に叶うことが肝要とされている。それゆえ、教主釈尊はインドに出現して孝養報恩の理を説き、孔子は中国に生まれて忠孝を尊崇する道を示した。師の恩を報ずる人は肉を割き、身を投げた。主の恩を知る人は、たとえば弘演は腹を割き、予譲は剣を呑んだ。親の恩を思う人は、たとえば丁蘭は木像に刻み、伯瑜は打たれた杖に母の衰えを知って泣いた。儒教・外道・内道と道は異なるけれども、報恩謝徳の教えはかわることがない。
それゆえ、主師親のまだ信じていない法理を、自分が初めて信ずることは確かに違背の罪に陥るであろう。しかし、法門の道理は経文に明白であるから、疑いはすべてなくなった。後生を願わなければ、来世は悪道の苦悩に沈むであろう。進退はまったくきわまってしまった。自分はどうしたらよいのであろうか。
語釈
内典・五千七千
内典とは内道の教典のこと。仏教の諸経典の総称をいう。開元釈教録には後漢の永平10年(0067)から唐の開元18年(0730)までに中国に伝訳された経論のうち、当時現存していた5048巻の目録が収められ、貞元釈教録には貞元16年(0800)までの7388巻が収められているところからこういう。
外典・三千余巻
外典とは仏教以外の教典のこと。中国の儒家と道家の書を合わせて三千余巻あるとしたもので、三千は非常に数の多いことを表す語。
孔子
(BC0551~BC0479)。中国・春秋時代の思想家。儒教の祖。氏は孔、名は丘、字は仲尼。魯国の昌平郷陬邑(山東省曲阜付近)の人。貧しいなかで育ったが、礼を学び学問に熱心であった。魯国に仕え、理想政治の実現を目指して政治改革を行ったが失脚して、衛・陳等を遍歴した。紀元前四八四年に魯国に帰って著述に励み、顔回・子路・子貢・子游など多くの弟子の育成に務めた。死後、弟子が孔子の言行等を記録したのが論語である。
弘演は腹をさき
中国の春秋時代、衛の懿公に仕えた忠臣で公演とも書く。弘演が使者としての役目を終えて帰国したところ、衛は狄(北方民族)に攻め滅ぼされており、主君の懿公は殺され、その遺体の内臓が散乱しているのを見て、主の名誉を守るため自分の腹をさいて、懿公の臓物を収めて死んだという。内臓をさらけ出して死んでいるのは、恥とされていたのである。BC0660年頃の話。魏志・陳矯伝にある。
予譲は剣をのむ
中国・戦国時代、晉の智伯に仕えた忠臣。はじめ、范氏、中行氏の臣下であったが、用いられなかった。後、智伯に仕えて重用された。智伯が趙の襄子に滅ぼされると「士は己を知る者のために死す」といって主君の仇を討とうとしたが、果たさず捕えられた。襄子は予譲の忠節に感じて釈放した。その後、予譲は体に漆を塗って癩人の姿となり、炭を飲んで喉を潰すなどして姿を変え、橋の下に潜んで襄子を待ったが、再度捕えられてしまった。そこで、襄子の衣を請い受け、仇を報いたしるしに、この衣を刺した後、自殺したという。ここで「剣をのむ」とあるのは自刃したことをいう。史記八十六・予譲伝にある。
丁蘭は木をきざみ
中国・後漢代の孝子。幼くして母を失ったが、十五歳のとき母の姿を木像に刻み、さながら生ける母のようにこれに仕えた。蘭の妻も隣人も、その木像を軽蔑したが、蘭は身をもって像を守り、節を曲げなかったと伝える。孝子伝にある。
伯瑜は杖になく
中国・漢代の孝子。河南の人。幼いころに父を亡くしたので、母は厳しくしつけるために少しのことでも杖で伯瑜を打った。しかし伯瑜は痛くても泣くことはなかった。ある時、伯瑜が母に打たれて泣いたので、母が理由をたずねると、母が年老いて力が弱くなったことが悲しくて泣いたのであるといったという。「伯兪泣杖」といい、説苑の建本にある。
講義
前章で、聖人が愚人に、邪法の念仏、禅、真言、律を捨て、正法たる法華経に帰依するよう勧めたのに対し、本章では、愚人が進退きわまるところである。
「然れば主師親のいまだ信ぜざる法理を我始めて信ぜん事・既に違背の過に沈みなん法門の道理は経文・明白なれば疑網都て尽きぬ後生を願はずば来世・苦に沈むべし」と、愚人は嘆く。
聖人により示された法門の道理については、経文に照らして疑網なく、それゆえに、今生に法華経を信じて後生を願わなければ来生は苦海に沈むことが明らかである。しかし、当世の日本国を見るとき、上一人より下万民に至るまで、ほとんどが念仏・真言・禅・律を信じており、したがって、主君も師匠も親もことごとく信じている。主君の命、師への報恩謝徳、親への孝養からいって、自分だけが主・師・親に違背してまで法華経の法理を信ずるわけにはいかない、というのが愚人の迷いである。
法門の道理には何の疑いもない法華経の正法ではあるが、世間の道徳・人倫に束縛されて、信じ難いことを述べるのである。この愚人の逡巡は、表現に時代の隔たりはあっても、本質的には現代にも全くそのとおりの姿がみられる。道理としては正しい教えに改宗すべきであるとわかっても、家族や先祖のやってきた信心、いまの社会全体で行われている信仰から離れることは、これらの人々を裏切ることになるのではないかという恐れである。大勢の中に身を置いて、波風をたてないでいきたいという心は、時代性を越えた普遍的な人情なのであろう。
だが、真実の信仰は、より深い報恩と社会貢献に立って、これを打ち破っていくところから始まるのである。
第二十三章 真の報恩・孝養を教える
聖人云く汝此の理を知りながら猶是の語をなす理の通ぜざるか意の及ばざるか我釈尊の遺法をまなび仏法に肩を入れしより已来知恩をもて最とし報恩をもて前とす世に四恩あり之を知るを人倫となづけ知らざるを畜生とす、予父母の後世を助け国家の恩徳を報ぜんと思うが故に身命を捨つる事敢て他事にあらず唯知恩を旨とする計りなり。先ず汝目をふさぎ心を静めて道理を思へ我は善道を知りながら親と主との悪道にかからんを諌めざらんや、又愚心の狂ひ酔つて毒を服せんを我知りながら是をいましめざらんや、其の如く法門の道理を存じて火・血・刀の苦を知りながら争か恩を蒙る人の悪道におちん事を歎かざらんや、身をもなげ命をも捨つべし諌めても・あきたらず歎きても限りなし、今世に眼を合する苦み猶是を悲む況や悠悠たる冥途の悲み豈に痛まざらんや恐れても恐るべきは後世・慎みても慎むべきは来世なり、而るを是非を論ぜず親の命に随ひ邪正を簡ばず主の仰せに順はんと云う事愚癡の前には忠孝に似たれども賢人の意には不忠不孝・是に過ぐべからず。
現代語訳
聖人はいう。あなたはこの法理を知りながら、まだこのようなことをいう。道理が通じないのか、心が及ばないのか。私は釈尊の遺法を学び、仏法を身に入れたときからこれまで、恩を知ることを最高とし、恩を報ずることを第一としてきた。
世の中には四恩がある。これを知る者を人倫と名づけ、知らない者を畜生という。私は父母の後生を助け、国家の恩徳を報じようと思うゆえに身命を捨てることは、他のためではなくただ知恩を大切に思うからにほかならない。
まずあなたは目を閉じ、心を静めて道理を思いなさい。自分は善道を知りながら、親と主君とが悪道に堕ちるのを諌めないであろうか。また愚人が狂うほどに酔って、毒を飲もうとするのを知りながらこれを制止しないであろうか。そのように、法門の道理を知り、火・血・刀の苦を知りながら、どうして恩を受けた人が悪道に堕ちるのを嘆かないでいられようか。身をも投げ、命をも捨てて諌めるべきである。どれほど諌めても十分ではなく、嘆いても限りはない。今世に眼に映る苦しみさえなお悲しむ。まして永劫にわたる冥途の悲しみを嘆かないでいられようか。まことに恐れるべきは後世であり、まことに慎むべきは来世である。
そうであるのに、是非を説かないで、親の命に随い、邪正を簡ばないで、主君の仰せに従うということは、愚癡の者には忠孝のように見えても、賢人の心によればこれに過ぎる不忠不孝はない。
語釈
四恩
四つの恩のこと。心地観経巻二には父母の恩、一切衆生の恩、国王の恩、三宝(仏法僧)の恩を挙げ、日蓮大聖人はこれを「四恩抄」などで引かれている。なお「報恩抄」では一切衆生の恩に代わり、師匠の恩が挙げられている。
火・血・刀の苦
地獄・畜生・餓鬼の三悪道の苦しみのこと。猛火に焼かれる火途(地獄)、互いに食い合う血途(畜生)、刀剣・杖で強迫される刀途(餓鬼)の三途の苦をいう。
講義
愚人の迷いに対して、真の報恩、孝養のありかたを説かれる。
まず「汝目をふさぎ心を静めて道理を思へ」と、冷静に、物事の道理を考え、それにしたがって行動すべきことを教えられる。
法華経の法門が正であり、他の念仏・真言・禅・律の法門が邪であることを知りつつ、世間の道徳、倫理を第一にして、邪法を信ずる主君、父母、師匠にただ服従し諌めようとしないのは、かえって不知恩であり畜生道に堕ちると戒められている。なぜなら、主君、父母、師匠が邪法を信じて悪道に堕ち不幸になるのを座視することになるからである。
ただ親の命にしたがっているばかりで仏法の是非を説いて救おうとせず、権力を恐れて邪法を改めようとしないのは「愚癡の前には忠孝に似たれども賢人の意には不忠不孝・是に過ぐべからず」と述べられているように、じつは、もっとも大きい不孝であり不忠になるのである。仏法はどこまでも根本的な道理のうえから、孝、忠、報恩を貫くのである。この根本的な道理をわきまえている人が賢人である。
仏法の報恩観は、たんに現世にとどまらず、三世の生命の因果論から説くのである。たしかに、今世、現世に限れば、愚人のいう、主君、父母、師匠の意にそむけないとの思いも出てくるが、仏法から見れば、余りにも表面的で浅薄な捉え方にすぎない。
「今世に眼を合する苦み猶是を悲む況や悠悠たる冥途の悲み豈に痛まざらんや恐れても恐るべきは後世・慎みても慎むべきは来世なり」と仰せのとおり、今世のみならず来世を考えるとき、仏法に説く真実の報恩思想が最大事になってくるのである。
第二十四章 教主釈尊を範として真の孝養を示す
されば教主釈尊は転輪聖王の末・師子頬王の孫・浄飯王の嫡子として五天竺の大王たるべしといへども生死無常の理をさとり出離解脱の道を願つて世を厭ひ給しかば浄飯大王是を歎き四方に四季の色を顕して太子の御意を留め奉らんと巧み給ふ。先づ東には霞たなびくたえまより・かりがね・こしぢに帰り窻の梅の香・玉簾の中にかよひ・でうでう・たる花の色・ももさへづりの鴬・春の気色を顕はせり、南には泉の色・白たへにしてかの玉川の卯の華信太の森のほととぎす夏のすがたを顕はせり、西には紅葉常葉に交ればさながら錦をおり交え荻ふく風・閑かにして松の嵐・ものすごし過ぎにし夏のなごりには沢辺にみゆる螢の光・あまつ空なる星かと誤り・松虫・鈴虫の声声・涙を催せり、北には枯野の色いつしか・ものうく池の汀につららゐて谷の小川も・をとさびぬ。かかるありさまを造つて御意をなぐさめ給うのみならず四門に五百人づつの兵を置いて守護し給いしかども終に太子の御年十九と申せし二月八日の夜半の比・車匿を召して金泥駒に鞍置かせ伽耶城を出て檀特山に入り十二年高山に薪をとり深谷に水を結んで難行苦行し給ひ三十成道の妙果を感得して三界の独尊・一代の教主と成つて父母を救ひ群生を導き給いしをばさて不孝の人と申すべきか、仏を不孝の人と云いしは九十五種の外道なり父母の命に背いて無為に入り還つて父母を導くは孝の手本なる事・仏其の証拠なるべし。彼の浄蔵・浄眼は父の妙荘厳王・外道の法に著して仏法に背き給いしかども二人の太子は父の命に背いて雲雷音王仏の御弟子となり終に父を導いて沙羅樹王仏と申す仏になし申されけるは不孝の人と云うべきか、経文には棄恩入無為・真実報恩者と説いて今生の恩愛をば皆すてて仏法の実の道に入る是れ実に恩をしれる人なりと見えたり。
現代語訳
それゆえ、教主釈尊は転輪聖王の末裔、師子頬王の孫、浄飯王の嫡子として五天竺の大王となるであろうといわれたけれども、生死無常の理を悟り、出離解脱の道を願ってこの世を厭われたので、浄飯大王はこれを嘆き、四方に四季の有り様を造って太子の御心を引き留めようと考えられた。
まず東には、霞たなびく絶え間から、雁が北の方に帰り、窓の梅の香が玉簾の中に通い、たおやかな花の色、鶯のさえずる春の景色を顕した。南には、泉が白々と涌き、清らかな川辺には卯の花が咲き、信太の森のほととぎすでもって夏の景色を顕した。西には、紅葉が常葉に交わって、さながら錦を織りなし、荻の花を吹く風はのどかで、松を吹き渡る嵐はすさまじい。過ぎ去った夏の名残りには、沢辺に見える螢の光を天空の星かと思い誤り、松虫・鈴虫の鳴く声が涙をさそう。北には、いつしか冬景色となって枯野の色が物憂く、池の汀には氷が張って、谷の小川の音も寂しい。
このような有り様を造って、御心を慰めようとされただけでなく、四門に五百人ずつの兵士を置いて守護されていたけれども、ついに太子の十九という年の二月八日の夜半のころ、車匿を召して、金泥駒に鞍を置かせ、伽耶城(がやじょう)を出て檀特山に入り、十二年間、高山に薪をとり、深谷に水を汲んで難行苦行をなされ、三十歳の時、仏道を成就し、妙果を感得して三界の独尊、一代五十年の教主となって、父母を救い、衆生を導かれたのであるが、この釈尊を不孝の人といえようか。仏を不孝の人といったのは九十五種の外道である。父母の命に背いて無為の道に入り、還って父母を導くのが孝の手本であることは仏がその証拠である。
かの浄蔵・浄眼は父の妙荘厳王が外道の法に執著して仏法にそむかれていたけれども、父の命にそむいて、雲雷音王仏の御弟子になり、ついに父を導いて沙羅樹王仏という仏に成したことは不孝の人というべきであろうか。経文には「恩を棄てて無為に入るのが、真実の報恩の者である」と説いて、今生の恩愛をみな捨てて、仏法の真実の道に入るならば、この人はまことに恩を知っている人であるといわれている。
語釈
転輪聖王
全世界を統治するとされる理想の王のこと。転輪王、輪王ともいう。天から輪宝という武器を授かり、国土を支配するとされる。その徳に応じて授かる輪宝に金・銀・銅・鉄の四種があり、支配する領域の範囲も異なるという。金輪王は四大洲、銀輪王は東西南の三洲、銅輪王は東南の二洲、鉄輪王は南閻浮提のみを治める
師子頬王
中インド迦毘羅衛国の王。浄飯王の父、釈尊の祖父。大智度論巻三には「昔、日種の王あり。師子頬と名づく。其の王に四子あり。第一を浄飯と名づけ、二を白飯と名づけ、三を斛飯と名づけ、四を甘露飯と名づく」とある。
浄飯王
梵名シュッドーダナ(Śuddhodana)の訳。中インド迦毘羅衛国の王。師子頬王の長子。釈尊の父。釈尊の出家に反対したが、釈尊が成道後、迦毘羅衛城に帰還した時、仏法に帰依した。
かりがね
雁の別名。古名をカリともいう。日本へは八種が冬鳥として渡来する。かりがねは、ガン全体をその声に由来してよんだ名。
こしぢ
北陸道の古称。越の国へ行く道。近畿から北方に渡るという地勢に由来するとされる。越国は古代北陸地方の汎称。高志,古志,古之とも書く。七世紀末に越前・越中・越後の三国に分割された。律令期以降は加賀・能登・出羽を加え六か国になる。佐渡を含むかは一定していない。
信太の森
大阪府和泉市にある信太山北端の森。歌にうたわれるなど景勝の地とされる。
車匿
梵語チャンダカ(Chandaka)の音写。楽欲等と訳す。釈尊の出家以前の従僕。釈尊が出家した時、白馬健陟の手綱を引いて従った。その後、釈尊の弟子になったが、他の比丘と和合できず、悪口の性分が改まらなかったので悪口車匿等と呼ばれた。仏滅後、阿難の化導によって阿羅漢果を得たといわれる。
金泥駒
釈尊が出家する時に乗った馬。太子であった時の愛馬であったという。梵語カンタカがコンデイと訛り「金泥」等の字を当てたもの。
檀特山
梵語ダンダカまたはダンダローカの音写。壇徳、弾多落迦とも書き、陰山と訳す。北インドのガンダーラ地方にあるとされた山。六度集経巻二によると、釈尊が前世に菩薩の修行中、須大拏太子として布施行を行った地とされている。
浄蔵・浄眼
法華経妙荘厳王本事品第二十七に説かれる二人の王子。父は妙荘厳王、母は浄徳夫人。兄弟二人は、母の指導のもと、バラモンの教えに執着している父・妙荘厳王にさまざまな神通力を見せて仏教に導いた。釈尊は、同品の最後で、妙荘厳王は法華経の会座にいる華徳菩薩であり、浄蔵・浄眼の二人はそれぞれ薬王菩薩、薬上菩薩であると明かした。
講義
釈尊の場合、誕生して間もなく、占い者にみせたところ、王となったならば全インドを統べる大王となるであろう、出家したならば悟りを開いて仏陀となるであろうと予言した。父・浄飯王は、太子が王となってくれることを願い、出家することをなによりも恐れたのである。
そこで、太子に出家の心を起こさせまいとして、あらゆる贅を尽くした離宮を設け、太子の心をなぐさめたと伝えられている。本文では、そのありさまを、日本の民衆にわかるように、日本的美感にあわせて表現されている。
しかし、これほどの父王の切なる願いにもかかわらず、釈尊が太子の位を捨てて出家をされたのは、世間的な道徳観でいうと、いかにも親不孝にうつる。しかし、永遠の真理を悟って仏陀となり、父母を根底から救うのみならず、多くの人々を救われたことこそ、最大最高の親孝行である。
経文には棄恩入無為・真実報恩者と説いて今生の恩愛をば皆すてて仏法の実の道に入る是れ実に恩をしれる人なりと見えたり
ここに、仏法における真の孝養、知恩について端的に示されている。
「棄恩入無為・真実報恩者」(恩を棄てて無為に入るは、真実の報恩の者なり)は、清信士度人経の文とされる。「無為」とは、真如、法性、実相などと同じ意味で、仏法の悟りの境地をさす。「棄恩」の〝恩〟は、今生における恩愛であり、世間的な意味での恩である。つまり、今生における親、主君、師匠などの恩愛、きずなを棄て、仏法の悟りの真実に入ることが、本当の報恩、知恩の人であるというのがこの経文の意味であり、そのことはこれまでの説明から明らかである。
第二十五章 真の忠君のあり方を教える
又主君の恩の深き事・汝よりも能くしれり汝若し知恩の望あらば深く諌め強いて奏せよ非道にも主命に随はんと云う事・佞臣の至り不忠の極りなり。殷の紂王は悪王・比干は忠臣なり政事理に違いしを見て強て諌めしかば即比干は胸を割かる紂王は比干死して後・周の王に打たれぬ、今の世までも比干は忠臣といはれ紂王は悪王といはる、夏の桀王を諌めし竜蓬は頭をきられぬ・されども桀王は悪王・竜蓬は忠臣とぞ云う主君を三度・諌むるに用ゐずば山林に交れとこそ教へたれ何ぞ其の非を見ながら黙せんと云うや。古の賢人・世を遁れて山林に交りし先蹤を集めて聊か汝が愚耳に聞かしめん、殷の代の太公望は皤渓と云う谷に隠る、周の代の伯夷・叔斉は首陽山と云う山に籠る、秦の綺里季は商洛山に入り漢の厳光は孤亭に居し、晋の介子綏は緜上山に隠れぬ、此等をば不忠と云うべきか愚かなり汝忠を存ぜば諌むべし孝を思はば言うべきなり。
現代語訳
また主君の恩の深いことはあなたよりもよく知っている。あなたにもし知恩の志があるならば、どこまでも深く諌め、強く申し上げなさい。非道であっても主命に従おうとすることは、臣下としてへつらいの限りであり、不忠の極みである。
殷の紂王は悪王であるが比干は忠臣である。政治が道理に反しているのを見て強く諌めたので、即座に比干は胸を割かれて殺された。紂王は比干の死んだ後に周の武王に滅ぼされた。今の世までも比干は忠臣といわれ、紂王は悪王といわれる。夏の桀王を諌めた竜蓬は頸を斬られた。けれども桀王は悪王といわれ、竜蓬は忠臣といわれる。主君を三度諌めても用いないならば山林に隠れよという教えがあるではないか。どうして、その非道を見ながら黙ったままでいようというのか。
古の賢人が世をのがれて山林に隠れた先例を集めて、少々あなたの愚かな耳に聴かせよう。殷の世の太公望は皤渓という谷に隠れ、周の世の伯夷・叔斉は首陽山という山に籠り、秦の綺里季は商洛山に入り、漢の厳光は孤亭に住み、晋の介子綏は緜上山に隠れた。これらの人々を不忠というべきか。いうも愚かである。あなたに忠義の志があれば諌めるべきであり、孝行を思うならばいわなければならない。
語釈
紂王
中国古代の殷王朝最後の王。名は辛。才智・体力にすぐれていたが、妲己を溺愛し、酒池肉林をつくって終夜の宴にふけり、良臣を殺し、民を苦しめるなどの悪政をしいたといわれる。夏の桀王とともに桀紂と並称されて悪王の代表とされる。周の武王に滅ぼされ、殷王朝は崩壊した。
比干
史記の殷本紀第三によると、殷の紂王が妲己を溺愛し、政事を顧みようとしないので、比干は「人臣たる者は死を以て諌めざるを得ず」と強諫した。妲己は王に向かい「上聖は心に九孔あり、孔に九毛あり、中聖は七孔七毛、下聖は五孔五毛ある。比干は中聖なり、帝、かれが心をさきてみたまえ」と進言した。紂王は「吾れ聞く、聖人の心には七穴あり」と言い、それを確認するためとして比干の胸を裂いて殺したとされる。殷の国はいよいよ乱れ、ついには周の武王に討たれて滅びた。比干は箕子、微子とともに殷の三仁といわれる。
竜蓬
中国古代の夏王朝末期の人。関竜逢という。夏王朝最後の王・桀王につかえた諌臣。桀王は大変な暴君のうえ、妺嬉に溺れ、少しも政道を顧みなかった。これを見て竜逢は王を諌めたが用いられず、返って首をはねられた。竜逢の忠言を聞かなかったため、夏は急速に衰え、殷の湯王に攻められ滅亡し、桀王も死んだと伝えられる。
太公望は皤渓
生没年不明。中国・周代の賢者。姓は姜、氏は呂、名は尚。殷の代には皤渓(中国陝西省宝鶏県を流れる河)に隠れすんで釣りなどをしていたが、周の西伯(後の文王)に請われてその師となる。文王の祖父・太公が待ち望んでいた人という意味で、後に太公望と称された。文王の死後、西伯の子・発(後の武王)を助け、殷の紂王を滅ぼして斉国の主となった。
伯夷・叔斉は首陽山
生没年不明。中国古代の賢人である兄弟。伯夷は字を公信といい、孤竹国王の太子であった。父王は、弟の叔斉に位を譲って死んだが、叔斉は父の遺言ではあっても兄をおいては位につけない、と辞退するので、ともに国を去り、周の文王に仕えようとしたが、文王は亡くなっていた。文王の息子・武王は喪のあけるのを待たず、百日たたずして殷の紂王を討つべく軍をおこしたので、伯夷と叔斉は馬の口にとりついて諌めたが、かえって討とうとするので、首陽山に籠った。蕨を採って命をつないでいたが、それも王のものであると聞き、ついに食を断って餓死した。
綺里季は商洛山
生没年不明。中国・秦代の隠者。四皓の一人。秦末の国乱を避けて商洛山(陝西省商県の東部にある山)に入った隠士で、東園公、綺里季、夏黄公、甪里先生の四人。みな鬚眉皓白の老人であったところから四皓の名がある。
厳光は孤亭
(BC0039~0041)。中国・後漢代初めの隠者。字は子陵。会稽郡余姚県の人。かつて劉秀(後の光武帝)とともに遊学し、劉秀の即位後は姓名をかえて隠遁した。光武帝はその才を惜しみ、斉国で見いだして仕官を懇請したが、ついに仕えず、富春山(浙江省富陽県)に入り一生を終えた。孤亭とは隠者の住む家、あずまやをいう。
介子綏は緜上山
生没年不明。中国・春秋時代の晋の人。出典によって介子推とも書く。史記の第九・晋世家によると、春秋の五覇の一人、晋の重耳(後の文公)に仕え、十九年間の亡命生活をともに送った。帰国後、文公が即位し、亡命に従った人々に報償を与えた時、綏には賞がなかった。しかし綏は、重耳が晋公の位につくのは天命であり、報償を欲しがるのは自分の手柄のように振舞うもので見苦しい、天の功績を盗むものであると卑しんだ。そこで母親とともに緜上山(中国山西省にある山)に隠棲し、ついにそこで死んだという。
講義
前章が釈尊と浄蔵・浄眼を例に親に対する真の報恩、孝養を説かれたのに対し、ここでは、主君に対する真実の忠の道とは何であるかについて、中国の古の賢人達の例を引かれて教えさとされている。
それは中国思想の特色は、忠君を重んじた点にあるからであろう。しかしそこで注目すべきは、ただ盲目的に主君に従うことを真の忠臣とはしていないことである。人間としての正しい生き方、王としての正しいあり方が基本にあり、それに反している場合には諌めるべきであるとしているのである。
「汝忠を存ぜば諌むべし孝を思はば言うべきなり」のことばに、真の報恩、忠孝のあり方が端的に示されている。
第二十六章 数の大小にとらわれる愚を諭す
先ず汝権教・権宗の人は多く此の宗の人は少し何ぞ多を捨て少に付くと云う事必ず多きが尊くして少きが卑きにあらず、賢善の人は希に愚悪の者は多し麒麟・鸞鳳は禽獣の奇秀なり然れども是は甚だ少し牛羊・烏鴿は畜鳥の拙卑なりされども是は転多し、必ず多きがたつとくして少きがいやしくば麒麟をすてて牛羊をとり鸞鳳を閣いて烏鴿をとるべきか、摩尼・金剛は金石の霊異なり、此の宝は乏しく瓦礫・土石は徒物の至り是は又巨多なり、汝が言の如くならば玉なんどをば捨てて瓦礫を用ゆべきかはかなし・はかなし。聖君は希にして千年に一たび出で賢佐は五百年に一たび顕る摩尼は空しく名のみ聞く麟鳳誰か実を見たるや世間出世・善き者は乏しく悪き者は多き事眼前なり、然れば何ぞ強ちに少きを・おろかにして多きを詮とするや土沙は多けれども米穀は希なり木皮は充満すれども布絹は些少なり、汝只正理を以て前とすべし別して人の多きを以て本とすることなかれ。
現代語訳
あなたが前に、権教・権宗の人は多いがこの法華経の宗の人は少ない。どうして多数を捨てて少数に付くのかといった事について答えよう。
かならずしも数が多いから尊くて少ないから卑しいのではない。賢善の人は希で、愚悪の者は多い。麒麟や鸞鳳は鳥獣のなかで珍しく秀れたものである。しかし、これは非常に少ない。牛、羊、烏、鳩は鳥獣のなかでは卑しいものである。しかし、これは非常に多い。かならず多数が尊くて少数が卑しいならば、麒麟を捨てて牛や羊をとり、鸞鳳をさしおいて烏や鳩をとるべきであろうか。摩尼・金剛は金石の中で霊宝であるが乏しく、瓦礫・土石は無用のものであるが非常に多い。あなたのいうとおりであれば、玉を捨てて瓦礫を取るのであろうか。まことにはかないことである。
聖人の出現は希で千年に一度であり、賢人は五百年に一度である。摩尼珠は空しく名前を聞くのみである。麒麟や鸞鳳はだれも実際に見た者はいない。世間でも出世間でも、善人は少なく、悪人の多いことは眼前の事実である。それゆえ、どうして一概に少ないからといって卑しみ、多いからといって尊いとするのか。土沙は多いけれども米穀は希である。木皮は豊富であるけれども布絹はわずかである。あなたはただ正理を第一とすべきであり、ことに人数の多いことを根本として判断してはならない。
語釈
麒麟
古代中国で、聖人が出現して治世が行われる時、その瑞相としてあらわれるとされた想像上の動物。体は鹿、蹄は馬、尾は牛、額は狼、角が一本で、全身が黄色、背には五彩の毛があり、生物や生草を害さないという。竜・亀・鳳凰と合わせて四霊と呼ばれる。
鸞鳳
鸞鳥と鳳凰のこと。ともに古代中国で、聖人が治世を行う時、その瑞相としてあらわれるとされた想像上の動物。鸞鳥は鳳凰の一種で、形は鶏に似て、羽毛は赤色の中に青黄白黒を交えた五色で、声は五音であるという。鳳凰の形は、前は麟、後ろは鹿、頸は蛇、尾は魚、背は亀、頷は燕、嘴は鶏に似て、高さは1.5~1.8㍍という。羽には五色の紋があり、梧桐に宿り、竹の実を食べ、醴泉を飲むという。
摩尼
梵語マニ(maṇi)の音写。珠、宝珠と訳す。悪を去り、濁水を澄ましめ、病患を取り除く徳があるとされる。
金剛
梵語バジュラ(vajra)、音写して伐闍羅、伐折羅、跋日羅。古代インドで最も剛い金属と考えられたもので、インドラ神(帝釈天)の雷またはそれをかたどった杵形の武器(金剛杵)のこと。雷電の破壊力(雷撃)を堅牢な金属によるものとみた。物質として最も硬いダイヤモンド(金剛石)を意味するようにもなった。
講義
ここでは、権教・権宗の人は多く、法華経を信ずる人は少ないので、たとえ法華経の法門が正しくとも、多を捨て少に付くことのできない、という愚人の迷いを断破されるのである。
賢善の人と愚悪の人、麒麟・鸞鳳と牛羊・烏鴿、摩尼・金剛と瓦礫・土石、米穀と土沙、布絹と木皮の対比をとおして、世間出世間を通じ「善き者は乏しく悪き者は多き事眼前なり」と諭されるのである。愚人の迷いを断ち切る見事な論である。
いうまでもなく、社会の運営や政治の問題については、多数の意見によって決定されることが望ましい。それは正か邪かの問題でなく、最大多数の最大幸福に資するかどうかが問題の場合である。
しかるに仏法の問題は、正か邪かである。仏法に無知な人の誤った考えを幾千万集めても、邪は邪であり、それが正になることはない。仏法についての判断は「汝只正理を以て前とすべし別して人の多きを以て本とすることなかれ」と述べられるように、正しい道理を根本にすべきであって、数の多さをもって判断の基準とするわけにはいかないのである。
第二十七章 愚人・法華経修行のあり方を問う
爰に愚人席をさり袂をかいつくろいて云く誠に聖教の理をきくに人身は得難く天上の絲筋の海底の針に貫けるよりも希に仏法は聞き難くして一眼の亀の浮木に遇うよりも難し、今既に得難き人界に生をうけ値い難き仏教を見聞しつ今生をもだしては又何れの世にか生死を離れ菩提を証すべき、夫れ一劫受生の骨は山よりも高けれども仏法の為には・いまだ一骨をもすてず多生恩愛の涙は海よりも深けれども尚後世の為には一滴をも落さず、拙きが中に拙く愚かなるが中に愚かなり設ひ命をすて身をやぶるとも生を軽くして仏道に入り父母の菩提を資け愚身が獄縛をも免るべし能く能く教を示し給へ。
抑法華経を信ずる其の行相如何五種の行の中には先ず何れの行をか修すべき丁寧に尊教を聞かん事を願う。
現代語訳
このとき愚人は席を下がり袂を正していう。まことに仏教の道理を承るのに、人間に生まれることは難しく、天上界から垂れた糸を海底の針の穴に通すよりも希であり、仏法は聞き難くて、一眼の亀が浮木に出遇うよりも難しい。今すでに得難い人界に生まれ、値い難い仏教を拝聴した。今生を空しく過ごしたならば、またいつの世に生死の苦しみを離れ、菩提を証得することができようか。一劫の間に多くの生を受け、その身骨は山よりも高いけれども、仏法のためにはまだ一骨をも捨てていない。何度も生まれ来て、恩や愛情にひかれて流す涙は海よりも深くなっているけれども、これまで後世のためには一滴をも落としていない。まことに拙く愚かであった。たとい身命を捨てても、今世の生を軽く見て仏道に入り、父母の菩提を助け、わが身の地獄の苦しみをも免れようと思う。よくよく教えを示していただきたい。
いったい、法華経を信ずるとは、どのように振る舞えばよいのか。五種の修行の中では、まず、どの行を修すべきか。くわしくあなたの教えを聞かせていただきたい。
語釈
天上の絲筋
天上から下ろした糸のこと。人間に生まれてくることは、天上から垂らした糸を海底の針の孔に通すより難しいとの譬え。法苑珠林巻二十三に提謂経を引用して「須弥山の上から下ろした糸を、嵐や猛風の中、山麓にある針の孔に入れるよりも、人身を得ることは難しい」とある。
一眼の亀
優曇華の譬えと同じく、衆生が正法に巡り会い、さらにそれを受持することのいかに難しいかを譬えたもの。松野殿後家尼御前御返事に詳しい。大要を述べると次のとおり。大海のなか、八万由旬の底に一眼の亀がいた。この亀は手足も無く、ひれも無い。腹の熱さは鉄が焼けるようであり、背中の甲羅の寒さは雪山のようであった。ところで赤栴檀という木があり、この栴檀の木は亀の熱い腹を冷やす力がある。この亀が昼夜朝暮に願っていることは「なんとか栴檀の木にのぼって腹を木の穴に入れて冷やし、甲羅を天の日にあてて暖めたいものだ」ということであった。ところが、この亀は千年に一度しか水面に出られない。大海は広く亀は小さい。浮木はまれである。たとえほかの浮木に会えても栴檀に会うことは難しい。また栴檀に会えても亀の腹にちょうど合うような、穴のあいた赤栴檀には会い難い。穴が大きすぎて、亀がその穴に入り込んでしまえば、甲羅を暖めることができない。またそこから抜け出ることができなくなる。また穴が小さくて腹を穴に入れることができなければ、波に洗い落とされて大海に沈んでしまう。たとえ適当な栴檀の浮木にたまたま行き会えても、一眼のために浮木が西に流れていけば、東と見え、東に流れていけば西とみえる。南北も同じで、南を北と見、北を南と見てしまう。無量無辺劫かかっても、一眼の亀が浮木に会うことは難しいのである。このように、浮木の穴を妙法に譬えられて、衆生が妙法に会い難いことを述べられている。
五種の行
五種の妙行のこと。に説かれる、釈尊滅後における五つの修行のこと。受持・読(経文を見ながら読む)・誦(経文を暗誦する)・解説・書写の五つをいう。
講義
道理を尽くして語る聖人のことばに、愚人も心から納得し、真剣になって法華経を信じ行じようとの求道心を起こすところである。「愚人席をさり袂をかいつくろいて」の描写に、愚人が心から教えを受けようという姿勢になったことが示されている。
受け難き人身を受け、遇い難き仏法に出遇った喜びを語るとともに、「設ひ命をすて身をやぶるとも生を軽くして仏道に入り父母の菩提を資け愚身が獄縛をも免るべし能く能く教を示し給へ」と、生命の底から込み上げてくる菩提心を表明することばが美しい。
我々も、信心に関してはいつも、この愚人の如く謙虚に求道心を燃えたぎらせていきたい。
第二十八章 法華経弘通の態度を教える
聖人示して云く汝蘭室の友に交つて麻畝の性と成る誠に禿樹禿に非ず春に遇つて栄え華さく枯草枯るに非ず夏に入つて鮮かに注ふ、若し先非を悔いて正理に入らば湛寂の潭に遊泳して無為の宮に優遊せん事疑なかるべし。抑仏法を弘通し群生を利益せんには先ず教・機・時・国・教法流布の前後を弁ふべきものなり、所以は時に正像末あり法に大小乗あり修行に摂折あり摂受の時・折伏を行ずるも非なり折伏の時・摂受を行ずるも失なり、然るに今世は摂受の時か折伏の時か先づ是を知るべし摂受の行は此の国に法華一純に弘まりて邪法邪師・一人もなしといはん、此の時は山林に交つて観法を修し五種・六種・乃至十種等を行ずべきなり、折伏の時はかくの如くならず経教のおきて蘭菊に諸宗のおぎろ誉れを擅にし邪正肩を並べ大小先を争はん時は万事を閣いて謗法を責むべし是れ折伏の修行なり、此の旨を知らずして摂折途に違はば得道は思もよらず悪道に堕つべしと云う事法華涅槃に定め置き天台妙楽の解釈にも分明なり是れ仏法修行の大事なるべし。譬ば文武両道を以て天下を治るに武を先とすべき時もあり文を旨とすべき時もあり、天下無為にして国土静かならん時は文を先とすべし東夷・南蛮・西戎・北狄・蜂起して野心をさしはさまんには武を先とすべきなり、文武のよき事計りを心えて時をもしらず万邦・安堵の思をなして世間無為ならん時・甲冑をよろひ兵杖をもたん事も非なり、又王敵起らん時・戦場にて武具をば閣いて筆硯を提ん事是も亦時に相応せず摂受・折伏の法門も亦是くの如し。正法のみ弘まつて邪法・邪師・無からん時は深谷にも入り閑静にも居して読誦書写をもし観念工夫をも凝すべし、是れ天下の静なる時・筆硯を用ゆるが如し権宗・謗法・国にあらん時は諸事を閣いて謗法を責むべし是れ合戦の場に兵杖を用ゆるが如し、然れば章安大師涅槃の疏に釈して云く「昔は時平かにして法弘まる応に戒を持すべし杖を持すること勿れ今は時嶮しくして法翳る応に杖を持すべし戒を持すること勿れ今昔倶に嶮しくば倶に杖を持すべし今昔倶に平かならば応に倶に戒を持すべし、取捨宜きを得て一向にす可からず」と此の釈の意分明なり、昔は世もすなをに人もただしくして邪法邪義・無かりき、されば威儀をただし穏便に行業を積んで杖をもつて人を責めず邪法をとがむる事無かりき。
現代語訳
聖人が教えを示していうには、あなたは善友に交わって麻のように素直な人となった。まことに葉の落ちた木は春になれば栄えて花が咲き、枯草は夏に入れば鮮やかな緑にうるおう。もし先非を悔いて正理に入るならば、静寂の深淵に遊泳して煩悩の波が騒がず、悟りの宮で安楽の境涯を送ることは疑いないであろう。
さて、仏法を弘通し、衆生を救うためには、まず、教、機、時、国、教法流布の前後を弁えなければならない。つぎに、その理由を示そう。時には正法・像法・末法があり、教法には大乗・小乗があり、修行には摂受・折伏がある。摂受の時に折伏を行ずるのも誤りであり、折伏の時に摂受を行ずるのも誤りである。それでは今の世は摂受の時か折伏の時か、まずこれを知るべきである。
摂受の修行は、この国に法華経だけが純一に弘まって、邪法邪師が一人もいない時のあり方であって、この時は山林に交わって観法を修し、五種・六種ないし十種等を行ずるのである。折伏の時はこのような時ではなく、諸経・諸宗の教義がさまざまに乱れ興り、それぞれが深遠な法門を立てて名声をほしいままにし、邪法と正法が肩を並べ、大乗と小乗とが勝劣を争う時は、万事をさしおいて謗法を責めるべきである。これが折伏の修行である。
この旨を知らないで、摂受・折伏の方法を誤るならば、成仏できないだけでなく、かえって悪道に堕ちるということは、法華経と涅槃経にたしかに説かれており、天台大師と妙楽大師の解釈にも明らかである。これこそ仏法を修行するうえの大事である。
たとえば、文武両道をもって天下を治めるには、武を第一とする時もあり、文を中心とする時もある。天下に何事もなく、国土の静かな時には文を第一とすべきである。東夷・南蛮・西戎・北狄が野心を抱いて蜂起した時には、武を第一とすべきである。しかし、文武の大切なことだけは知っていても、時を知らず、すべての国が平和であって世間に何事もない時、甲冑を着て武器を持つことも誤りである。また国を滅ぼそうとする敵の現れた時、戦場で武具を捨て置いて、筆や硯をたずさえることも、また時に相応しない。摂受・折伏の法門もまたこれと同じである。
正法だけが弘まり、邪法・邪師のいない時には、深谷にも入り、閑静な所にも住んで、経典の読誦・書写をもし、あるいは、観念観法に励むのもよい。これらは天下の静かな時に、筆や硯を用いるようなものである。しかし権宗、謗法の国にある時には諸事をさしおいて謗法を責めるべきである。これは合戦の場で武器を用いるようなものである。それゆえ章安大師は涅槃経疏巻八に「昔は時代が平和であり法が弘まったのであるが、そのような時には戒律を持つべきであり、武器を持ってはならない。今は時代が険悪で正法が隠れている。このような時には武器を持つべきであり、戒律を持ってはならない。今も昔も、時代が険悪ならば、ともに武器を持つべきである。今も昔も時代が平穏ならば、ともに戒律を持つべきである。その時にかなった取捨をすべきであって、一つだけに固定化してはならない」と記している。この釈の意味は明白である。
昔は世の中も素直で、人も正しく、邪法邪義はなかった。したがって、威儀を正し、穏やかに修行を積み、武器でもって人を責めることもなく、邪法をとがめることもなかったのである。
語釈
蘭室の友に交つて麻畝の性と成る
蘭室とは蘭香の室の意で、高徳の人のいる所。香り高い蘭のある室にいると、その香りが身体にしみてくることから、高徳の人と交わって感化されることをいう。麻畝とは麻畑のこと。蓬のように、まっすぐに伸びない草でも、麻畑に生えると、周囲の麻に支えられてまっすぐ伸びることをいう。ここでは、聖人の教えを聞いて、愚人が邪見、謗法を改めて正法に帰依するようになったことを譬えている。
五種・六種・乃至十種
五種、六種および十種類の修行法をいう。法華経法師品第十には、受持・読(経文を見ながら読む)・誦(経文を暗誦する)・解説・書写の五種を説き、大智度論巻五十六では受持を、受と持の二つに分けているから六種となる。また、勝天王般若波羅蜜経巻七では、書写・供養などの十種を挙げている。
おぎろ
広大であること。深遠であるさま。また、その事柄。
章安大師
(0561~0632)。字は法雲。諱は灌頂。浙江省臨海県章安の人。陳の文帝の天嘉二年に生まれ、七歳で摂静寺にはいり、二十五歳で天台大師に謁して観法を稟け、常随給仕し、所説の法門をことごとく聴取した。その結集は、天台三大部(文句・玄義・止観)をはじめ、大小部合わせて百余巻ある。師が亡くなってから「涅槃玄義」二巻、「涅槃経疏」三十三巻を著わす。唐の貞観6年(0632)8月7日、天台山国清寺で年72にして寂した。弟子智威に法灯を伝えた。
講義
前章で愚人が、法華経の修行である、受持・読・誦・解説・書写の五種の妙行のうち、まず、どの行から修すべきか、とたずねたのに対して答えられるところである。
聖人は「蘭室の友に交つて麻畝の性と成る」と、愚人の心が素直になって、法華経を信じ行じようとの求道心を起こしたことを喜ばれたうえで、「抑仏法を弘通し群生を利益せんには先ず教・機・時・国・教法流布の前後を弁ふべきものなり」と、仏法を弘めるにあたって宗教の五綱をまずしっかりと弁えるべきことを訴えられている。
この宗教の五綱については、弘長2年(1262)2月、大聖人が伊豆御流罪中に著された教機時国抄や文永元年(1264)12月の南条兵衛七郎殿御書に詳しく展開されている。いま、簡潔に説明すると、日蓮大聖人は、御自身の弘められている妙法が、〝教〟という教理内容の面、つぎに、その〝教〟によって救われるべき衆生の〝機(根)〟という人間観、さらに、末法という〝時〟、日本という〝国〟の社会・文化観、そして、日本で、これまでいかなる仏教流布の過程をたどってきたか(教法流布の前後)という歴史観、の五つの条件を照らして、間違いなき大仏法であることを証明されたのである。それが宗教の五綱である。
本章では、愚人の問いが法華経の修行に関するものであるところから、仏道修行は大きく摂受・折伏の二つに分けられるが、このいずれを行ずるかは五綱によって判ずべきことを述べられるのである。
「今世は摂受の時か折伏の時か先づ是を知るべし」と述べられ、それぞれの時代を説明される。
摂受の時とは「此の国に法華一純に弘まりて邪法邪師・一人もなしといはん」時である。法華の正法のみが弘まって、邪法邪師が一人もいなくなった時には、摂受の行を修すべき時であると論じられている。ここに、摂受の行とは「山林に交つて観法を修し五種・六種・乃至十種等」を行ずることである。
愚人が問いに挙げた五種の妙行それ自体、「五種・六種・乃至十種等」といわれているように、摂受の行になるのである。
これに対し、折伏の時とは「経教のおきて蘭菊に諸宗のおぎろ誉れを擅にし邪正肩を並べ大小先を争はん」時である。すなわち、謗法が乱立して邪正、大小のけじめがつかない雑乱の時である。その時には「万事を閣いて謗法を責むべし」とあるとおり、正法たる法華経に違背する謗法の諸宗を責める折伏の行を展開すべきであると仰せである。
諸宗が乱立しているということは、小乗の宗が大乗の宗よりすぐれているように主張し、権教の宗が実教の宗を謗っていることである。このように劣れるものが勝れた法を罵るのは、小乗や権宗がそれなりにもっている利益が失われるばかりでなく、邪法となって害悪を生ずる。したがって、これらの諸宗が害悪の宗であることを厳しく指摘し、人々の執着を打ち破り断ち切っていかなければならない。これが折伏の行きかたなのである。
いずれにしろ、聖人は、摂受の時か折伏の時かをはっきりと弁別することを愚人に諭されているのである。なぜなら「此の旨を知らずして摂折途に違はば得道は思もよらず悪道に堕つべしと云う事法華涅槃に定め置き天台妙楽の解釈にも分明なり是れ仏法修行の大事なるべし」と仰せのとおりであるからである。
さらに、摂受・折伏の関係を、文武両道に譬えられて、わかりやすく説明されている。
以上の説明から、諸宗乱立、大小・権実・邪正の雑乱している末法の世は、まさしく折伏の修行の時であることはいうまでもない。次章でそのことが明かされる。
第二十九章 謗法訶責の折伏行を勧める
今の世は濁世なり人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし此の時は読誦書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり、只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき又法門を以ても邪義を責めよとなり、取捨其旨を得て一向に執する事なかれと書けり。今の世を見るに正法一純に弘まる国か邪法の興盛する国か勘ふべし、然るを浄土宗の法然は念仏に対して法華経を捨閉閣抛とよみ善導は法華経を雑行と名け剰へ千中無一とて千人信ずとも一人得道の者あるべからずと書けり、真言宗の弘法は法華経を華厳にも劣り大日経には三重の劣と書き戯論の法と定めたり、正覚房は法華経は大日経のはきものとりにも及ばずと云ひ釈尊をば大日如来の牛飼にもたらずと判せり、禅宗は法華経を・吐たる・つばき・月をさす指・教網なんど下す、小乗律等は法華経は邪教・天魔の所説と名けたり、此等豈謗法にあらずや責めても猶あまりあり禁めても亦たらず。
現代語訳
今の世は濁世である。人の心もひがみゆがんで、権教や謗法ばかりが多いので正法は弘まりにくいのである。この時には、読誦・書写の修行も、観念観法の工夫・修練も無用である。ただ折伏を行じて、力があれば威勢をもって謗法を破折し、また法門によって邪義を責めよということである。摂受・折伏の取捨についてはその趣旨を心得て一方に偏執してはならないと記している。
今の世を見て、正法の一純に弘まっている国か、邪法の盛んな国か、よく考えなければならない。
ところが浄土宗の法然は念仏に対して法華経を捨閉閣抛とよみ、善導は法華経を雑行と名づけ、そのうえ「千中無一」といって、千人信じても一人も得道する者はいないと書いている。
真言宗の弘法は法華経を華厳経にも劣る、大日経には三重の劣であると書き、戯論の法と定めている。正覚房は「法華経は大日経の履物取りにも及ばない」「釈尊は大日如来の牛飼いにもたりない」と批判している。
禅宗は法華経を吐き捨てたつばき、月をさす指、教えの網などとさげすんでいる。小乗律宗は法華経は邪教、天魔の所説と名づけている。これらは謗法ではないか。どこまで責めても責めたりないし、どれほど禁めてもたりないのである。
語釈
法然
(1133~1212)。法然房源空のこと。平安末期から鎌倉初期の僧。日本浄土宗の開祖。天台宗の僧であったが、中国浄土教の善導の思想に傾倒し、他の一切の修行を排除し念仏口称をもっぱら行う専修念仏を創唱した。代表著作の「選択集」(選択本願念仏集)では、法華経をも含む一切の経典の教えを捨てよ・閉じよ・閣け・抛てと排除し、もっぱら念仏を称えることによって往生を願うべきであると説いた。法然の専修念仏に対しては、当初、後白河法皇や摂政・関白を歴任した九条兼実ら有力者の支持を得たが、やがて諸宗派からの反発が強まる。朝廷・幕府も禁止の命令を出し、建永2年(1207)、法然らが流罪され、高弟が死罪に処せられた。その後も繰り返し禁圧が続くが、念仏は広がっていった。弟子に親鸞がいる。
捨閉閣抛
「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」を意味する。日本浄土宗の開祖・法然(源空)が著した「選択集」(選択本願念仏集)の趣意。同書の中に「弥いよ須く雑を捨て専を修すべし」「随自の後には還て定散の門を閉づ」「且く聖道門を閣いて選んで浄土門に入れ」「且く諸の雑行を抛て選んで応に正行に帰すべし」などとあり、これらから捨・閉・閣・抛の四字を選び、法然の主張が浄土宗以外のすべての仏教を否定するものであることを示した語。具体的な内容は「立正安国論」で引用されている。
善導
(0613~0681)。中国・初唐の僧。中国浄土教善導流の大成者。姓は朱氏。泗州(安徽省)(一説に山東省・臨淄)の人。若くして密州の明勝法師について出家。初め三論宗を学び、法華経・維摩経を誦したが,経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土を志した。貞観年中に石壁山の玄中寺(山西省)に赴いて道綽について浄土教を学び、師の没後、長安の光明寺等で称名念仏の弘通に努めた。正雑二行を立て、雑行の者は「千中無一」と下し、正行の者は「十即十生」と唱えた。著書に「観経疏」(観無量寿経疏)四巻、「往生礼讃偈」一巻などがある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。
千中無一
善導の「往生礼讃偈」に五種の正行以外の法華経・その他の経教の修行によって極楽往生できる者は千人の中に一人もいないとある。
弘法
(0774~0835)。平安時代初期の僧。日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法は諡号。姓は佐伯氏、幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣とする説を立てた。著書に「三教指帰」三巻、「弁顕密二教論」二巻、「十住心論」十巻、「秘蔵宝鑰」三巻等がある。
戯論の法
言葉の上だけの空論を意味する。特に空海(弘法)は「十住心論」「弁顕密二教論」で、真言の教えに対し他宗の教えを「戯論」と下しており、そのことを日蓮大聖人は「撰時抄」、「報恩抄」などで、法華経を誹謗するものとして追及されている。
正覚房
(1095~1144)。覚鑁のこと。平安時代後期の僧。新義真言宗の開祖。興教大師と諡された。仁和寺の寛助僧正について得度し、密教の奥義を学ぶ。大治5年(1130)高野山に伝法院を建立し、天承元年(1131)鳥羽上皇の勅願によって堂宇を拡充し大伝法院と称した。長承3年(1134)大伝法院と金剛峯寺の両座主を兼ねた。のち、金剛峯寺衆徒と対立し、一門を率いて根来山に移り円明寺を建立した。死後、その門流が大伝法院を根来山に移し、新義真言宗として分立、覚鑁はその開祖とされる。覚鑁は密教の即身成仏を基にして浄土思想を取り入れて理論的に統一した。著書には「五輪九字明秘密釈」一巻、「密厳諸秘釈」十巻などがある。
法華経は大日経のはきものとりにも及ばず……釈尊をば大日如来の牛飼にもたらず
正覚房覚鑁が仏舎利供養についての講演をまとめた舎利供養式の文に、「尊高なるは不二摩訶衍の仏、驢牛の三身の車を扶くることあたはず。秘奥なるは両部曼陀羅の教、顕乗の四法も履を採るに堪えず」云云とある。「不二摩訶衍の仏」とは、唯一最高の大乗教を説く仏の意で、大日如来を指す。「驢牛」は驢馬と牛のこと。驢は露に通じ、顕露の牛。「三身」は仏の三種の身体で、ここでは釈尊を表す。すなわち驢牛の三身とは、顕教に説かれる釈尊を揶揄した語。「車」は仏の車乗で、衆生を仏道に導く乗り物の意。「車を扶くること能ず」、釈尊は衆生を救う助けとはならないと蔑む。「両部曼陀羅」は、金剛頂経の説に基づいて立てる金剛界曼荼羅と大日経の説に基づく胎蔵界曼荼羅の二つをさす。「顕乗の四法」とは顕教のうちの四つの大乗の教法で、法相、三論、天台、華厳の四宗をさす。「履をも取るに能えず」、大日如来の履取りの牛飼いにも及ばないとする。大聖人は「所詮此等の誑言は弘法大師の望後作戯論の悪口より起るか」と、すなわち覚鑁のこうした妄言も、その根源は弘法の邪見(〝後に望めば戯論と作る〟等の悪口)にあると指摘されている。
月をさす指
禅宗では、円覚修多羅了義経に「修多羅の教は月を標する指の如し」とある文によって、修多羅の教え、つまり経文に説かれた教えは、月をゆびさす指のようなものであり、月を見れば指は無用であるように、禅法によって真如の月を悟ればよいのであって、指である経文は不用である、と主張する。
講義
日本国当世の各宗の実体、その教義の本質に照らして、爾前権教の諸宗が、正法の法華経を誹謗している邪法であることを述べられる。こういう正法誹謗の邪法が広まり正法を隠没している時は「只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき又法門を以ても邪義を責めよとなり」とあるとおり、謗法を責め抜く折伏行を展開すべきであると、愚人にさとされる。なぜなら、折伏を行ずる以外に正法を護ることも、人々を堕地獄の苦悩から救うこともできないからである。
そして、具体的に念仏、真言、禅、律の順に、諸宗がいかに正法たる法華経をないがしろにし、下しているかを述べられ、その謗法を責めるべきことを厳しい調子で語られている。
第三十章 折伏行が仏の勅命であると示す
愚人云く日本・六十余州・人替り法異りといへども或は念仏者・或は真言師・或は禅・或は律・誠に一人として謗法ならざる人はなし、然りと雖も人の上沙汰してなにかせん只我が心中に深く信受して人の誤りをば余所の事にせんと思ふ。聖人示して云く汝言う所実にしかなり我も其の義を存ぜし処に経文には或は不惜身命とも或は寧喪身命とも説く、何故にかやうには説かるるやと存ずるに只人をはばからず経文のままに法理を弘通せば謗法の者多からん世には必ず三類の敵人有つて命にも及ぶべしと見えたり、其の仏法の違目を見ながら我もせめず国主にも訴へずば教へに背いて仏弟子にはあらずと説かれたり。涅槃経第三に云く「若し善比丘あつて法を壊らん者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」と、此の文の意は仏の正法を弘めん者・経教の義を悪く説かんを聞き見ながら我もせめず我が身及ばずば国主に申し上げても是を対治せずば仏法の中の敵なり、若し経文の如くに人をも・はばからず我もせめ国主にも申さん人は仏弟子にして真の僧なりと説かれて候。されば仏法中怨の責を免れんとて・かやうに諸人に悪まるれども命を釈尊と法華経に奉り慈悲を一切衆生に与へて謗法を責むるを心えぬ人は口をすくめ眼を瞋らす、汝実に後世を恐れば身を軽しめ法を重んぜよ是を以て章安大師云く「寧ろ身命を喪ふとも教を匿さざれとは身は軽く法は重し身を死して法を弘めよ」と、此の文の意は身命をば・ほろぼすとも正法をかくさざれ、其の故は身はかろく法はおもし身をばころすとも法をば弘めよとなり。
現代語訳
愚人はいった。日本の六十余州、それぞれの国によって人は変わり法は異なるといっても、あるいは念仏者、真言師であったり、あるいは禅、あるいは律などに帰依しており、まことに一人として謗法でない人はいない。しかし、他人のことをあれこれ非難してもしかたがない。ただ、自分の心中に深く正法を信受して、他人の誤りにはかかわらないことにしようと思う。
聖人はさとしていう。あなたのいうことはまことにもっともである。私もそう思っていたが、経文には、あるいは「身命を惜しまず」とも、あるいは「むしろ身命を喪うとも」とも説かれている。なぜこのように説かれるのかというと、他人を恐れず、経文のとおりに法理を弘通すれば、謗法の者の多い世には、かならず三類の敵人が現れて、身命も危険になると書かれているのである。彼らの仏法の誤りを見ながら、自らも責めず、また国主にも訴えないならば、仏の教えに背いて仏弟子ではないと説かれている。
涅槃経巻三には「もし善比丘がいて仏法を壊る者を見て放置して、叱責せず、追放せず、処断しなければ、この人は仏法のなかの怨敵であると知るべきである。もし、よく追放し、叱責し、処断するならば、この人は仏弟子であり、真の声聞である」と説かれている。
この経文の意味は、仏の正法を弘めようとする者は、経教の義を誤り説く者を聞き見ながら、自らもこれを責めず、もし自身の力が足りなければ国主に申し上げてでも対処しなければ仏法中の敵である。もし経文のとおりに他人をも恐れず、自らもこれを責め国主にも訴える人は仏弟子であり、まことの僧であると説かれている。
それゆえ「仏法の中の怨敵」の罪をまぬかれようとして、このように諸人に憎まれても命を釈尊と法華経に奉り、慈悲を一切衆生に与えて謗法を責めるのであるが、この心を理解できない人はののしり眼をいからせるのである。あなたも、まことに後世を恐れるならば、身命を軽んじ法を重んじなさい。このことを章安大師は「むしろ身命を喪うとも教を匿さざれとは、身は軽く法は重い。身を死しても法を弘めよ」といっている。すなわち、身命を滅ぼしても、正法を滅ぼしてはならない。そのわけは身は軽く法は重い。身をころしても法を弘めよという意味である。
語釈
上沙汰
話題として取り上げること。うわさにすること。
不惜身命
法華経勧持品第十三の文。「身命を惜しまず」と読み下す。仏法求道のため、また法華経弘通のために身命を惜しまないこと。同じ勧持品の「我不愛身命」、また如来寿量品第十六の「不自惜身命」と同意。
寧喪身命
「寧ろ身命を喪うとも」と読む。涅槃経巻九の文。仏の使いとして正法を弘通する者は、身命を喪うことがあっても、法を説いてやまず、自己の使命を貫いていくべきであるとの意。
三類の敵人
三類の強敵ともいう。釈尊の滅後の悪世に法華経を弘通する者に迫害を加える人々。法華経勧持品第十三に説かれる。これを妙楽大師湛然が『法華文句記』巻八の四で、三種に分類した。①俗衆増上慢は、仏法に無智な在家の迫害者。悪口罵詈などを浴びせ、刀や杖で危害を加える。②道門増上慢は、比丘(僧侶)である迫害者。邪智で心が曲がっているために、真実の仏法を究めていないのに、自分の考えに執着し自身が優れていると思い、迫害してくる。③僭聖増上慢は、聖者のように仰がれているが、迫害の元凶となる高僧。ふだんは世間から離れた所に住み、自分の利益のみを貪り、悪心を抱く。讒言によって権力者を動かし、弾圧を加えるよう仕向ける。妙楽大師は、この三類のうち僭聖増上慢は見破りがたいため最も悪質であるとしている。日蓮大聖人は、現実にこの三類の強敵を呼び起こしたことをもって、御自身が末法の法華経の行者であることの証明とされた。「開目抄」では具体的に聖一(円爾弁円)、極楽寺良観(忍性)らを僭聖増上慢として糾弾されている。
講義
末法の法華経の修行が謗法呵責の折伏行にあると教示された愚人が、いまの聖人の教えによると、日本中の人は、一人として謗法でない人はいない、そうすると、すべての人を責め折伏しなければならないことになるが、自分は他人のことをあれこれいうよりもただ自分の心中に深く法華経を信受するだけにしたい、というのである。その言い分の背景には、他人のことにはかかわりたくない、また、他人のことに干渉する必要はないのではないか、という考えがある。
これに対して聖人は、愚人の意見を一往肯定され、御自身も同じことを考えたことがあると、愚人を包容されたうえで、しかし、経文によれば、それでは仏法の精神に反するのであり、このゆえに聖人自身、人々に憎まれるのを覚悟のうえでこれまで折伏を行じてきたのであると説明される。
法華経の金言は勧持品第十三の「不惜身命(身命を惜しまず)」であり、謗法者ばかりの末法の世に、正法・法華経を弘通すると、三類の敵人が競い起こって命に及ぶような迫害を加えてくるけれども、身命を惜しまず弘通せよ、との意である。
いま一つの涅槃経の金言は、その第三の文で、謗法を見て置いて呵責し駈遣(追放すること)し挙処(罪過を挙げて糾明、処断すること)しなかったなら、その人は仏弟子ではなく、むしろ仏法の中の怨である、というものである。
聖人は「されば仏法中怨の責を免れんとて・かやうに諸人に悪まるれども命を釈尊と法華経に奉り慈悲を一切衆生に与へて謗法を責むる」といわれているように、涅槃経の第三の「仏法中怨」の経文に促されて、折伏行に邁進してきたといわれている。
この〝聖人〟が日蓮大聖人御自身をさしていわれていることはいうまでもないところで、ここに、日蓮大聖人が迫害をものともせずに、諸宗折伏を敢行された原動力をうかがうことができる。その原動力とは、ただただ、仏の金言を寸分違わず実践し抜くという一点であった。
こうして、大聖人御自身の体験を語られた後、愚人に対し「汝実に後世を恐れば身を軽しめ法を重んぜよ」と、後世を恐れるならば、今生に身命を惜しまず、正法の弘通のために折伏を行じよ、と勧められるのである。
この仏法の正義を惜しみ、人々を悪道から救い出そうとする大精神こそ、大聖人が身をもって示されたところであるとともに、大聖人門下の根本精神でなければならない。
第三十ニ章 唱題行の肝要を示す
爰に愚人意を竊にし言を顕にして云く誠に君を諌めて家を正しくする事・先賢の教へ本文に明白なり外典此くの如し内典是に違うべからず、悪を見ていましめず謗を知つてせめずば経文に背き祖師に違せん其の禁め殊に重し今より信心を至すべし、但し此経を修行し奉らん事叶いがたし若し其の最要あらば証拠を聞かんと思ふ。聖人示して云く今汝の道意を見るに鄭重・慇懃なり、所謂諸仏の誠諦得道の最要は只是れ妙法蓮華経の五字なり、檀王の宝位を退き竜女が蛇身を改めしも只此の五字の致す所なり、夫れ以れば今の経は受持の多少をば一偈一句と宣べ修行の時刻をば一念随喜と定めたり、凡そ八万法蔵の広きも一部八巻の多きも只是の五字を説かんためなり、霊山の雲の上・鷲峯の霞の中に釈尊要を結び地涌付属を得ることありしも法体は何事ぞ只此の要法に在り、天台妙楽の六千張の疏・玉を連ぬるも道邃行満の数軸の釈・金を並ぶるも併しながら此の義趣を出でず、誠に生死を恐れ涅槃を欣い信心を運び渇仰を至さば遷滅無常は昨日の夢・菩提の覚悟は今日のうつつなるべし、只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪やあるべき来らぬ福や有るべき、真実なり甚深なり是を信受すべし。
現代語訳
ここで愚人は心を深く定め、決意をことばに顕していう、主君を諌め家を正しくすることは過去の賢人の教えであり古書に明白に記されている。外典でさえこのようである。内典がこれに相違することを説くはずはない。悪を見て戒めず、謗法を知って責めなければ経文にそむき祖師に反するであろう。その罪はことに重い。今後は仰せに従って信心を励もう。ただし、この法華経を修行することはまことに難しい。もしその肝要の道があるなら聞きたいと思う。
聖人はさとしていう。いまあなたの求道の志を見るとまことに殊勝であるからお答えしよう。すなわち諸仏の真実の覚りを得るための修行の肝要は、ただ妙法蓮華経の五字である。須頭檀王が王位を退き出家してついに成仏し、竜女が蛇身を改めて仏の相好を得たことも、この妙法蓮華経の五字の力用によるのである。
思えば、この経は、経をいかほど受持するかについては一偈一句を受持すべきと述べ、その修行の長さについては一瞬一念の随喜によって成仏すると定めている。総じて八万法蔵の広大な教えも法華経一部八巻の多くの経文も、ただ、この妙法五字を説くためであった。霊鷲山の虚空会上で釈尊が一切の法門の肝要を結んで地涌の菩薩に付属したことも、その法体は何かというとただこの妙法蓮華経である。天台大師、妙楽大師の玉を連ねたような六千帖の注疏も、道邃・行満の黄金を並べたような解説も、すべてこの根本の趣旨を越え出ることはないのである。
まことに生死の苦しみを恐れ、涅槃を求め、信心を励み、仏道を渇仰するならば、変転して止まない無常の姿は昨日の夢と消え、悟りは今日の現実となるのである。ただ南無妙法蓮華経とさえ唱えるならば、消滅しない罪業はなく、訪れて来ない幸いもない。真実であって極めて深い法門である。これを信受すべきである。
語釈
檀王
須頭檀王のこと。釈尊が過去世に菩薩として修行した時の姿の一つ。正法を求めるために王位を捨て、千年の間、阿私仙人に従って仏道修行をした。阿私仙人とは提婆達多の過去世の姿とされる。妙法蓮華経提婆達多品第十二に説かれる。日妙聖人御書に「昔の須頭檀王は妙法蓮華経の五字の為に千歳が間・阿私仙人にせめつかはれ身を床となさせ給いて今の釈尊となり給う」(1215)とある。
天台妙楽の六千張の疏
天台大師の法華三大部(法華玄義・法華文句・摩訶止観)と、その注釈書である妙楽大師の三大部(法華玄義釈籤・法華文句・止観輔行伝弘決)をさす。一張は紙一折で、二㌻にあたる。六部のおのおのが十巻からなり、一巻がおよそ百帳からなっているため、六部で六千張に及ぶ。
道邃
生没年未詳。中国・唐代の天台宗の僧。姓は王氏。諡号は興道尊者。仕官をしたが栄達を望まず、24歳の時、具足戒を受け、律を学ぶ。大乗を志し、妙楽大師湛然に師事し天台の奥義を修めた。貞元20年(0804)に龍興寺(浙江省臨海市)に住す。同年より翌21年にわたり、最澄と通訳僧であった義真に天台法門を伝えた。道邃が最澄に出会った時の興味深い逸話が「一代聖教大意」に説かれる。顕戒論巻上には「道和上は慈悲をもって一心三観を一言に伝え、菩薩の円戒を至心に授けてくださった」と記されている。天台山国清寺で入寂した。
行満
生没年不明。中国・唐代の天台宗の僧。妙楽大師湛然に師事。伝教が入唐したときは、道邃が天台山国清寺を領し、行満が天台山仏隴寺を住持していた。仏隴寺は天台山の仏隴峰の北峰の銀地に位置し、国清寺より約二十里上にある。延暦23年(0804)9月から翌月にかけ、伝教に数多の天台学の書籍を与え、天台法門を伝授した。著書に「六即義」一巻等がある。
講義
本章では、法華経の修行の肝要は妙法蓮華経の五字にあることが明かされる。
まず、愚人がこれまでの聖人の説明を納得し、謗法を責めることが正しいと認めたうえで、法華経の信心に入る決意をするにいたるが、その前に法華経の修行の最要は何かと問うのである。
「誠に君を諌めて家を正しくする事・先賢の教へ本文に明白なり外典此くの如し内典是に違うべからず」とは、愚人の言によってではあるが、日蓮大聖人が立正安国論で訴えられたことが、内典の精神からいっても、正しい道理であることを強調されている。国という大きい規模の社会においても、一家という小単位の社会においても、正しい法を根本にしなければならない、ということである。その点は納得できたけれども、それでは正しい法の具体的な内容は何か、というのが愚人のこの段の質問である。
これに対して聖人は、「諸仏の誠諦得道の最要は只是れ妙法蓮華経の五字なり」と、一切の諸仏が得道を遂げた誠諦(真理)の根本は妙法蓮華経の五字であると示される。
檀王が王位を退いて仏道修行に入ったのも、竜女が蛇身を改め女人成仏の姿を示したのも、妙法の五字によってであり、八万法蔵、法華経一部八巻二十八品といえども、ただ妙法五字を示すために説かれたのである。地涌の菩薩に付嘱されたのも妙法五字の法体であり、また、天台大師、妙楽大師の厖大な疏も、行満・道邃の注釈も、ことごとく妙法の五字に収まるのである。
こうして、妙法蓮華経の五字に一切が収まることを述べられた後、「只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪やあるべき来らぬ福や有るべき、真実なり甚深なり是を信受すべし」と、南無妙法蓮華経の大功徳を挙げて信受を勧められるのである。
第三十三章 妙法五字の絶大なる功徳を明かす
愚人掌を合せ膝を折つて云く貴命肝に染み教訓意を動ぜり然りと雖も上能兼下の理なれば広きは狭きを括り多は少を兼ぬ、然る処に五字は少く文言は多し首題は狭く八軸は広し如何ぞ功徳斉等ならんや。聖人云く汝愚かなり捨少取多の執・須弥よりも高く軽狭重広の情・溟海よりも深し、今の文の初後は必ず多きが尊く少きが卑しきにあらざる事・前に示すが如し、爰に又小が大を兼ね、一が多に勝ると云う事之を談ぜん彼の尼拘類樹の実は芥子・三分が一のせいなりされども五百輛の車を隠す徳あり是小が大を含めるにあらずや、又如意宝珠は一あれども万宝を雨して欠処之れ無し是れ又少が多を兼ねたるにあらずや、世間のことわざにも一は万が母といへり此等の道理を知らずや、所詮実相の理の背契を論ぜよ強ちに多少を執する事なかれ。汝至つて愚かなり今一の譬を仮らん、夫れ妙法蓮華経とは一切衆生の仏性なり仏性とは法性なり法性とは菩提なり、所謂釈迦・多宝・十方の諸仏・上行・無辺行等・普賢・文殊・舎利弗・目連等、大梵天王・釈提桓因・日月・明星・北斗・七星・二十八宿・無量の諸星・天衆・地類・竜神・八部・人天・大会・閻魔法王・上は非想の雲の上・下は那落の炎の底まで所有一切衆生の備うる所の仏性を妙法蓮華経とは名くるなり、されば一遍此の首題を唱へ奉れば一切衆生の仏性が皆よばれて爰に集まる時我が身の法性の法報応の三身ともに・ひかれて顕れ出ずる是を成仏とは申すなり、例せば籠の内にある鳥の鳴く時・空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる是を見て籠の内の鳥も出でんとするが如し。
現代語訳
愚人は掌を合わせ、膝を折り、居ずまいを正していう。あなたの仰せは肝に染まり、御教訓は心を打つのである。そうではあるが、〝上は下を能く兼ねる〟の道理で、広は狭を納め、多は少を兼ねる。ところがいま五字は少なく、経の文は多い。題目は狭く、法華経の八巻は広い。どうして功徳が斉しいことがあろうか。
聖人はいう。あなたは愚かである。少を捨てて多をとる執着は、須弥山よりも高く、狭を軽んじて広を重んずる執情は大海よりも深い。今のことばの前後は、けっして多ければ尊く、少なければ卑しいとするのではないことは前に示したとおりである。ここでまた、小が大を兼ね、一が多に勝るということを語ろう。
かの尼拘類樹の実は芥子の三分の一の大きさであるが、五百輛の車を覆い隠す徳がある。これは小が大を含んでいることではないか。また、如意宝珠は一つあっても万宝を降らして、少しも欠けるところはない。これはまた少が多を兼ねている例ではないか。世間のことわざにも、一は万の母といっている。これらの道理を知らないのか。所詮は実相の理が契っているか、背いているかを論じなさい。けっして多少に執着してはならない。
あなたが至って愚かでありまだ納得できないならば、今、一つの譬を示そう。いったい、妙法蓮華経とは一切衆生の仏性である。仏性とは法性である。法性とは菩提である。すなわち、釈迦・多宝・十方の諸仏、上行・無辺行等、普賢・文殊、舎利弗・目連等、大梵天王・釈提桓因(帝釈天)、日・月、明星、北斗七星、二十八宿、無量の諸星、天衆、地類、竜神・八部、人界・天界の衆生、閻魔法王、上は非想天の雲の上から、下は地獄の炎の底までのあらゆる一切衆生の備えている仏性を妙法蓮華経と名づけるのである。
それゆえ、一遍この妙法蓮華経を唱え奉るならば、一切衆生の仏性が皆呼ばれて、ここに集まる時、我が身中の法・報・応の三身もともに引かれて顕れ出る。これを成仏というのである。
たとえば、籠の中にいる鳥の鳴く時、空を飛ぶ多くの鳥が同時に集まる。これを見て、籠の中の鳥も出ようとするようなものである。
語釈
尼拘類樹
梵語ニャグローダ(nyagrodha)の音写。無節・縦広などと訳す。一般にはガジュマルと呼ばれるクワ科の常緑喬木。たくさんの気根が集まって幹のように横に広がる。実は無花果に似て小さく、中に微小の種子が多数含まれている。大智度論巻八には、尼拘類樹は、五百台の車を陰に覆ってなお余りあるぐらいに広大に繁茂するが、種子の大きさは芥子の三分の一にすぎないことが示されている。
如意宝珠
意のままに宝物や衣服・食物等を取り出すことのできるという宝珠。如意珠・如意宝ともいう。大智度論には仏舎利の変じたものとか竜王の脳中から出たものといい、雑宝蔵経には摩竭魚の脳中から出たものといい、また帝釈天の持ち物である金剛杵の砕け落ちたものなど諸説がある。摩訶止観巻五上には「如意珠の如きは天上の勝宝なり、状、芥粟の如くして大なる功能あり」等とある。兄弟抄には「妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普く与へ給へり」、また御義口伝巻上には提婆達多品の有一宝珠を釈し「一とは妙法蓮華経なり宝とは妙法の用なり珠とは妙法の体なり」と仰せである。
北斗・七星
北斗星ともいう。大熊座にある七つの星の名。斗は中国の角形の「ます」の意で、北天に七つの星が斗状に並んでいるのでいう。斗口から順に天枢・天璇・天璣・天権・玉衝・開陽・揺光と名づけ、その斗柄は一昼夜に十二方をさし、古代より時刻を測り、季節を定める星として重要な役割をはたした。またこの星を祭れば天変地夭などを未然に防ぐことができるとして、平安朝以降、宮中や民間でこの星に対する信仰が起こった。
二十八宿
インド・中国に古くから用いられた天文説で定められた二十八種の星座のこと。月が天を一周する間(恒星月=二十七・三日)に、西から東へ一日に一つずつ黄道付近にある星宿に宿していくとして定められたとされる。二十八宿経、摩登伽経、宿曜経などで説かれる。宿には星のやどりという意味があり、中国の史記にも「二十八舎、即ち二十八宿の舎る所なり」とある。宿曜経巻下によれば、インドでは牛宿を除く二十七宿であったという。
講義
愚人が、広きは狭きを括り、多は少を兼ねるという常識的な考え方にとらわれて「五字は少く文言は多し首題は狭く八軸は広し如何ぞ功徳斉等ならんや」と、僅か五字にすぎない妙法蓮華経と法華経二十八品と功徳がひとしいということに対し疑いを起こす。
これに答えて、聖人は、愚人の心にある捨少取多(少を捨てて多を取る)への執着と軽狭重広(狭きを軽んじ広きを重んずる)への執情とを破られる。この愚人の執着は、第十章にもあったが、本章でも現れたのである。
そして、小が大を兼ね、一が多に勝ることを、尼拘類樹の実と如意宝珠の二つの例をもって説明される。
さらに、妙法蓮華経の五字が一切衆生の仏性、法性、菩提であると説かれ、十方世界のあらゆる衆生が備えているものであることを強調されている。
したがって、妙法蓮華経の五字は、小であり、一であるけれども、十方世界のあらゆる衆生にそなわる仏性であるがゆえに、多を兼ねると説明されている。
そして、「所詮実相の理の背契を論ぜよ強ちに多少を執する事なかれ」と、愚人に対して、量の多いか少ないかにとらわれず、大切なことは、教えが実相の真理に背くか契うかで判断せよと教示されている。
されば一遍此の首題を唱へ奉れば一切衆生の仏性が皆よばれて爰に集まる時我が身の法性の法報応の三身ともに・ひかれて顕れ出ずる是を成仏とは申すなり
首題の五字を一遍、南無妙法蓮華経と唱えることによって、自己の生命の内外ともに仏性が涌現し、即身成仏することを説かれている。
妙法の五字は、先に述べられたように、十方世界のあらゆる衆生の仏性、法性であるから、私達がひとたび御本尊に向かって、妙法を唱えると、一切衆生が皆よばれて題目を唱える私達の所に集まってくる。そして、それに呼応して、我が身の法性にそなわっている法報応の三身も、顕れ出るのであり、そのことを「成仏」という、と仰せである。
まず、「成仏」について「我が身の法性の法報応の三身ともに・ひかれて顕れ出ずる」といわれているように、我が身の内にある法性(仏性)が顕れ出ることであると述べられている。その法性(仏性)には法・報・応の三身がそなわっているから、結局、成仏とは、我が身の内にもともと可能性として有していた法・報・応の三身が、御本尊に向かって妙法の題目を唱える時に、顕現することをいうのである。
この成仏観は、それまでの仏教、すなわち爾前経を根本として説かれてきた成仏の考え方を根本から変革するものといってよい。
小乗教では、凡夫・二乗は絶対に仏にはならず、相当の修行を積んでも、阿羅漢にしかなれないと説き、衆生と仏の間に断絶を設けている。つぎに、権大乗教では、菩薩が長年にわたる修行(歴劫修行)を積んで、四十一位・五十二位等の位階を順々に踏んで次第に仏に成っていくと説く。
これに対して、法華経は即身成仏の原理を説き、凡夫の身に即して成仏することを明かすのであるが、この法理をたんなる法理に止めず、真に凡夫をして即身成仏させる仏法が、日蓮大聖人の法華経寿量文底下種の南無妙法蓮華経である。すなわち、妙法を信受することにより、凡夫の身を改めず、直ちに仏果に至ることができるのである。
これまでの、小乗、権大乗の仏教が、「成仏」の意味を「仏に成る」とし、凡夫の身からかけ離れた特別の覚者に成っていくこととしていたのに対し、日蓮大聖人の仏法では、「仏と成く」、つまり、もともと、凡夫の身に備わっている仏の命(法・報・応の三身)を、自分の内から開いていくことが成仏の意味なのである。
法身は、妙法の真理そのもの、報身は、妙法にもとづく智慧、応身は、衆生に慈悲を及ぼす働きをいい、この三身が合して仏の生命として、もともと煩悩多き凡夫の生命に備わっている。私達が、御本尊に向かって、妙法を唱える時、仏界が顕現し、これらの智慧、慈悲の働きも顕れ出るのである。まことに、ありがたい仏法といわねばならない。
なお、一切衆生の仏性が、妙法を唱える私達の所に集まってくるとは、依正不二の法理を述べられているのである。私達が唱える妙法は、十方世界のあらゆる衆生の仏性に呼びかけ、目覚めさせ、私達を守るべく動いてくるということである。題目を唱えるものに、諸天の加護のあることを裏づける文といえる。
また、題目を唱えることによって、己心の仏界が顕現し、我が命が歓喜に満たされた時、同時に、私達一人一人を取り巻く人間関係の環境も変わるという意味でもある。したがって、自身の変革即環境の変革、ということをこのように述べられたと拝することができよう。
第三十四章 妙法五字の受持唱題の文証を示す
爰に愚人云く首題の功徳・妙法の義趣・今聞く所詳かなり但し此の旨趣正しく経文に是をのせたりや如何。
聖人云く其の理詳かならん上は文を尋ぬるに及ばざるか然れども請に随つて之れを示さん法華経第八・陀羅尼品に云く「汝等但能く法華の名を受持せん者を擁護せん福量るべからず」此の文の意は仏・鬼子母神・十羅刹女の法華経の行者を守らんと誓い給うを讃むるとして汝等法華の首題を持つ人を守るべしと誓ふ、其の功徳は三世了達の仏の智慧も尚及びがたしと説かれたり、仏智の及ばぬ事何かあるべきなれども法華の題名受持の功徳ばかりは是を知らずと宣べたり。法華一部の功徳は只妙法等の五字の内に籠れり、一部八巻・文文ごとに二十八品・生起かはれども首題の五字は同等なり、譬ば日本の二字の中に六十余州・島二つ入らぬ国やあるべき籠らぬ郡やあるべき、飛鳥とよべば空をかける者と知り走獣といへば地を・はしる者と心うる一切名の大切なる事蓋し以て是くの如し、天台は名詮自性・句詮差別とも名者大綱とも判ずる此の謂れなり、又名は物をめす徳あり物は名に応ずる用あり法華題名の功徳も亦以て此くの如し。
現代語訳
そこで愚人はいう。首題の功徳、妙法の趣旨はいまうかがって明らかになったが、ただこのことは正しく経文にのっているだろうか。
聖人がいう。道理が明らかになったうえは、経文をたずねる必要はない。しかし、望みに従ってこれを示そう。
法華経巻八陀羅尼品第二十六で釈尊は「あなたたちがただよく法華経の名を受持するものを擁護するのでさえ、その福は量りしれない」と説かれている。この経文の意味は鬼子母神、十羅刹女が法華経の行者を守護すると誓ったことを仏は讃えて、あなたたちは法華経の首題を持つ人を守護しようと誓ったが、その功徳は三世了達の仏の智慧もなお及びがたいと説かれたのである。仏智の及ばないことは何もないはずであるが、しかし法華経の題目を受持する功徳ばかりは量りしれないと仰せられたのである。
法華経一部の功徳はただ妙法蓮華経の五字の中に含まれている。一部八巻の文言はそれぞれ二十八品の内容とともに変わっても、首題の五字は同等である。譬えば、日本の二字のなかに六十余州と壱岐・対馬の二島、すなわちすべての国や郡が含まれているのである。
飛鳥といえば空を飛ぶものと知り、走獣といえば地を走るものと心得る。総じて名の大切であることはこのとおりである。天台大師が「名は本性を表し、句は差別を表す」とも「名は大綱である」とも判じたのは、この意味である。また名は物を呼び寄せる徳があり、物は名に応ずる働きがある。法華経の題名の功徳もまた同じである。
語釈
鬼子母神
梵名ハーリティー(Hārītī)、音写して訶梨帝、訶梨帝母と書き、鬼子母神と訳す。インドでは出産の女神としている。鬼神槃闍迦の妻で一万(一説には五百人)の子があったといわれ、性質は凶暴で、王舎城に来て幼児を取って食うのを常とした。釈尊はそれを誡めるため、最愛の一児、末子の嬪伽羅をとって隠したところ、探しあぐねて釈尊のところにいき、その安否をたずねた。釈尊は今後、人の子を取って食うことをしないと誓わせ、その子を返した。以後仏法に帰依し、法華経陀羅尼品第二十六で法華経の行者を守護することを誓った。
十羅刹女
鬼子母神の十人の娘。羅刹女は梵語ラークシャシー(Rākṣasi)の音写で、悪鬼と訳す。十人の名は、藍婆・毘藍婆・曲歯・華歯・黒歯・多髪・無厭足・持瓔珞・皐諦・奪一切衆生精気である。毘沙門天王の配下として北方を守護するともいわれる。法華経陀羅尼品第二十六で毘沙門天王が法華経の行者の擁護を誓ったのに続き、十羅刹女は鬼子母とともに釈尊の所に詣で、法華経を読誦し受持する者の擁護を誓った。
六十余州・島二つ
北海道を除く日本全国を六十六か国に分割したことにより、六十六州ともいう。壱岐と対馬は六十六か国の中には含まれず、二島と称した。
名詮自性
妙楽大師湛然の法華文句記巻一等にある文。「名は自性を詮す」と読む。名字はそのものの性質や本体をあらわし尽くすこと。智度の法華経疏義纘では名とは諸法の名であるとしている。ここで天台大師のことばとなっているが、文句記が天台大師の法華文句を釈したものであることから、このようにいわれたと思われる。
句詮差別
妙楽大師湛然の法華文句記巻一等にある文。「句は差別を詮す」と読む。一句の文はよく他との相違や特質を説き明かすこと。句は文章中の一区切り、詮はつぶさに説き明かすことをいう。差別とは他との相違の意。
名者大綱
「名は大綱なり」と読む。名は根本的な事柄をあらわしているとの意。
講義
愚人は妙法蓮華経の首題の功徳について了解し納得したのであるが、今度は、それを裏づける法華経の経文の証拠を求めるのである。これに対し、聖人は、道理が明確にわかった以上は、さらにその文を求める必要はないのであるけれども、とことわられたうえで、法華経巻八・陀羅尼品の「汝等は但だ能く法華の名を受持せん者を擁護せんすら、福は量る可からず」の文を、数ある文証の代表として挙げられる。ここに「法華の名を受持……」とあるように、法華経の題目を受持することが、大功徳を生ずる実践であることが明らかである。
次に、「名」の大切なることを、「日本」「飛鳥」「走獣」の名前を例に示され、法華経一部八巻二十八品の功徳が「妙法蓮華経」の五字の内に収まることを論証されている。
天台は名詮自性・句詮差別とも名者大綱とも判ずる
「名詮自性」とは、「名は自性を詮す」と読む。自性は、万物がもっている不変で固有な、それ自体の本性をさす。したがって、このことばは、名字や名前が、その名字を表すものの固有の性質や本性をいい尽くしていることをいい、名の大切なことを表している。
「名者大網」も、これと同じ意味といってよい。
さらに「句詮差別」は、妙楽大師の法華文句記巻一の文で「句は差別を詮す」と読み、一句の文がよく差別(他との相違)やそのものの特質を説き明かすとの意である。〝差別〟とは、他との相違の意であるから、他と異なる特質が浮かび上がることを同時にさしている。
これらの文は、いずれも、ことば、名字の大切さを述べているのであり、禅宗の不立文字という邪義は、これによってさらに打ち破られるといえよう。
又名は物をめす徳あり物は名に応ずる用あり
名を口に出していうことは、その物を呼び寄せる働きになる。あるいは、その物の働きを顕させることになる。この原理は、人の名前を呼ぶ場合に最も端的にあらわれるのであるが、人間の名前だけでなく、万物についてあてはまるとおおせである。
妙法蓮華経は万物の仏性の名であり、妙法の題目を唱えることによって、わが己心の仏性も、万物の仏性も呼ばれてあらわれるのである。
第三十五章 「信心」の二字の肝要なるを示す
愚人云く聖人の言の如くば実に首題の功莫大なり但し知ると知らざるとの不同あり、我は弓箭に携り兵杖をむねとして未だ仏法の真味を知らず若し然れば得る所の功徳何ぞ其れ深からんや。聖人云く円頓の教理は初後全く不二にして初位に後位の徳あり一行・一切行にして功徳備わらざるは之れ無し若し汝が言の如くば功徳を知つて植えずんば上は等覚より下は名字に至るまで得益更にあるべからず、今の経は唯仏与仏と談ずるが故なり、譬喩品に云く「汝舎利弗尚此の経に於ては信を以て入ることを得たり況や余の声聞をや」文の心は大智・舎利弗も法華経には信を以て入る其の智分の力にはあらず況や自余の声聞をやとなり。されば法華経に来つて信ぜしかば永不成仏の名を削りて華光如来となり嬰児に乳をふくむるに其の味をしらずといへども自然に其の身を生長す、医師が病者に薬を与うるに病者・薬の根源をしらずといへども服すれば任運と病愈ゆ若し薬の源をしらずと云つて医師の与ふる薬を服せずば其の病愈ゆべしや薬を知るも知らざるも服すれば病の愈ゆる事以て是れ同じ、既に仏を良医と号し法を良薬に譬へ衆生を病人に譬ふされば如来一代の教法を擣簁和合して妙法一粒の良薬に丸ぜり豈知るも知らざるも服せん者・煩悩の病愈えざるべしや病者は薬をもしらず病をも弁へずといへども服すれば必ず愈ゆ。行者も亦然なり法理をもしらず煩悩をもしらずといへども只信ずれば見思・塵沙・無明の三惑の病を同時に断じて実報寂光の台にのぼり本有三身の膚を磨かん事疑いあるべからず、されば伝教大師云く「能化所化倶に歴劫無く妙法経の力即身成仏す」と法華経の法理を教へん師匠も又習はん弟子も久しからずして法華経の力をもつて倶に仏になるべしと云う文なり。
現代語訳
愚人がいう。聖人のおことばのとおりであるならば、まことに題目の功徳は莫大である。しかし、知ると知らないとでは差異がある。わたしは弓箭にたずさわり武器をとる武士として、まだ仏法の真実の内容を知らない。そうであるならば、どうして深い功徳を受けられようか。
聖人がいう。円頓の教理は初めも後もまったく不二であって初心の位に後々の位の功徳が含まれる。一つの行に一切の行が含まれていて、功徳のそなわらないものはないのである。もし、あなたのことばのとおり功徳を知ってからでなければ植えないのであれば、上は等覚の菩薩から下は名字の凡夫に至るまで得益は絶対にありえないことになる。なぜなら法華経には「ただ仏と仏とだけが知る」と説かれ、等覚以下の一切の人の知りうるところではないからである。
譬喩品第三には「舎利弗でさえ、この経においては信によって入ることができた。まして他の声聞はなおさらである」とある。この経文の意味は、大智慧の舎利弗も法華経には信によって入ることができた、その智慧によってではない。ましてその他の声聞はいうまでもない、というのである。
それゆえ、舎利弗は法華経にきて、信じたからこそ、永不成仏の名を削って華光如来となったのである。幼児に乳をふくませれば、その味を知らなくても自然に成長し、医師が病人に薬を与えれば、病人は薬の根源を知らなくても飲めば自然に病が治る。もし薬の源を知らないからといって医師の与える薬を飲まなければ、その病は治るだろうか。薬の内容を知っても知らなくても、飲めば病の冶ることは同じである。
すでに法華経では仏を良医と名づけ、法を良薬に譬え、衆生を病人に譬えている。それゆえ、釈尊一代の教法をつきふるい、まぜ合わせて、妙法という一粒の良薬をつくったのである。この良薬を知っても知らなくても、飲む者は煩悩の病の冶らない者はいない。病人は薬をも知らず、病をも弁えなくても、飲めばかならず愈るのである。
法華経を行ずる者もまた同じである。法理をも知らず、煩悩の病をも知らないとしても、ただ信ずれば見思、塵沙、無明の三惑の病を同時に断じて、実報・寂光の浄土に到り、本有の三身如来の生命を磨きあらわすことは疑いない。
それゆえ伝教大師は法華秀句で「能化も所化もともに長劫にわたる修行を経ることなく、妙法蓮華経の力で即身成仏する」と説かれている。法華経の法理を教える師匠も、また学ぶ弟子も直ちに法華経の力でともに仏になる、との文である。
語釈
等覚
等覚の菩薩のこと。菩薩瓔珞経に説かれる菩薩の修行位で、五十二位のうちの第五十一位。菩薩の極位をさし、有上士、隣極ともいう。長期にわたる菩薩の修行を完成して、間もなく妙覚の仏果を得ようとする段階。六即位(円教の菩薩の修行位)において最高位である究竟即に相当する。日寛上人の『当流行事抄』によれば、これを文底の意から見た場合、等覚位の菩薩でも、久遠元初の妙法である南無妙法蓮華経を覚知して一転して南無妙法蓮華経を信ずる「名字即の凡夫」の位に返り、そこから直ちに妙覚位(仏位)に入ったとする。これを等覚一転名字妙覚という。
名字
名字即のこと。天台大師が円教(法華経)を修行する者の境地を立て分けた六即位(理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即)の第二位。初めて正法を聞いて一念三千の理を名字(言葉)によって理解し、正法を疑わずに信ずる位をいう。摩訶止観巻一下で「名字即とは……或いは知識に従い、或いは経巻に従いて、上に説く所の一実の菩提(三諦の名)を聞き、名字の中に於いて通達解了して、一切の法は皆是れ仏法なりと知る。是れを名字即の菩提と為す」とある。信心に約していえば、御本尊を戴き、信心した人である。
唯仏与仏
「唯仏与仏乃能究尽」の略。ただ仏と仏とのみが、真実を究め尽くしているとの意。法華経方便品第二に「唯仏与仏、乃能究尽諸法実相(唯だ仏と仏とのみ乃し能く諸法の実相を究尽したまえり)」とある。
擣簁和合
「擣簁い和合す」と読む。つき、ふるい、まぜ合わすこと。法華経如来寿量品第十六にある。
見思・塵沙・無明の三惑
天台大師が一切の惑(迷い・煩悩)を三種に立て分けたもの。見思惑・塵沙惑・無明惑のこと。①見思惑は、見惑と思惑のこと。見惑は、後天的に形成される思想・信条のうえでの迷い。思惑は、生まれながらにもつ感覚・感情の迷い。この見思惑を断じて声聞・縁覚の二乗の境地に至るとされる。②塵沙惑とは、菩薩が人々を教え導くのに障害となる無数の迷い。菩薩が衆生を教化するためには、無数の惑を断じなければならない故にこういう。塵沙は無量無数の意。③無明惑とは、仏法の根本の真理に暗い根源的な無知。別教では十二品、円教では四十二品に立て分けて、最後の一品を「元品の無明」とし、これを断ずれば成仏の境地を得るとしている。小乗では見惑を断じて聖者となり、思惑を断じて阿羅漢果に達するとしている。大乗では菩薩のみがさらに塵沙・無明の二惑を次第に断じていくとする
実報寂光の台
天台大師が観無量寿経疏等で説いた四種浄土(凡聖同居土・方便有余土・実報無障礙土・常寂光土)の第三・第四。実報無障礙土)とは、別教の初地以上、円教の初住以上の菩薩が住む国土である。無明の煩悩を段々に断じて、まことの道理を得た菩薩の住む国土をいう。実報とは真実の仏道修行をすることの報いとして、必ず功徳が現れること。無障礙とは色心が互いに妨げることがないことをいう。この土は他受用報身を教主とすることから受用土とも呼ばれる。常寂光土とは、法身・般若・解脱の三徳をそなえ涅槃にいたっている仏が住む国土をいう。常とは法身、寂とは解脱、光とは般若に約し、この三徳をそなえた諸仏如来の居住する究竟の浄土をいう。台は仏の台座。
講義
愚人が、これまでの聖人の説明によれば、妙法蓮華経の五字に莫大な功徳があるということであるが、自分は武士の身で仏法に疎く、妙法五字の功徳の深さを知らないので、それでは、唱えても功徳はないのではないか。という。ここには〝解〟がなければ功徳がないとする先入観があるが、この疑問は現代人にも広くつきまとっているといえよう。
聖人は、この愚人の錯覚を破折されて、もし〝解〟がなければ功徳がないとすれば、法華経は「唯仏与仏」の法門であるから、仏以外だれびとも功徳はないことになる。そのようなことはあるわけがなく、法華経は、ただただ信ずれば、位の上下に関係なく平等に功徳が得られるのであると教示される。
「信」がいかに大切であるかを、舎利弗の例、医者が病人に薬を与える例を引かれて説明されている。病人が薬の根源を知らなくとも、薬を信じて服すれば病が治るように、仏法の場合も、良医たる仏が、衆生を救うために用意した妙法の良薬を信じて服せば、煩悩の病を治し成仏することができると諄々と説明されている。
円頓の教理は初後全く不二にして初位に後位の徳あり一行・一切行にして功徳備わらざるは之れ無し
円頓の教理とは、円満でかたよらずに一切衆生を速やかに成仏させる教法のことで、法華経の教理を表すことばであり、今日ではいうまでもなく、三大秘法の南無妙法蓮華経のことである。
その円頓の教えにおいては〝初後全く不二〟で、修行の最初の位にあっても、後の位で得る功徳と等しい功徳があり〝一行・一切行〟で、どの段階の行であっても一切の行を為し遂げた功徳と同じ功徳がある、というのがこの文の意味である。
そして、この円頓の教えを可能にするものこそ、まさに、法華経の経力、即、南無妙法蓮華経の絶大なる功力なのである。
第三十六章 釈を引き妙法五字の功徳を示す
天台大師も法華経に付いて玄義・文句・止観の三十巻の釈を造り給う、妙楽大師は又釈籤・疏記・輔行の三十巻の末文を重ねて消釈す、天台六十巻とは是なり。玄義には名体宗用教の五重玄を建立して妙法蓮華経の五字の功能を判釈す、五重玄を釈する中の宗の釈に云く「綱維を提ぐるに目として動かざること無く衣の一角を牽くに縷として来らざる無きが如し」と、意は此の妙法蓮華経を信仰し奉る一行に功徳として来らざる事なく善根として動かざる事なし、譬ば網の目・無量なれども一つの大綱を引くに動かざる目もなく衣の糸筋巨多なれども一角を取るに糸筋として来らざることなきが如しと云う義なり。さて文句には如是我聞より作礼而去まで文文・句句に因縁・約教・本迹・観心の四種の釈を設けたり、次に止観には妙解の上に立てる所の観不思議境の一念三千・是れ本覚の立行・本具の理心なり、今爰に委しくせず。悦ばしいかな生を五濁悪世に受くといへども一乗の真文を見聞する事を得たり、熈連恒沙の善根を致せる者・此の経にあい奉つて信を取ると見えたり、汝今一念随喜の信を致す函蓋相応感応道交疑い無し。
現代語訳
天台大師も法華経について、法華玄義、法華文句、摩訶止観の三十巻の注釈を造られている。妙楽大師は、また法華玄義釈籤、法華文句記、止観輔行伝弘決の三十巻の注釈を重ねて著した。天台六十巻というのがこれである。
法華玄義には、名体宗用教の五重玄を立てて、妙法蓮華経の五字の功能を解明した。五重玄を解釈する中の宗の解釈のところで「大綱をひっぱればすべての網の目が動き、衣の一角を引けばすべての糸がたぐりよせられてくるようなものである」とある。文の意味は、この妙法蓮華経を信仰し奉る一つの行にいかなる功徳も集まってこないものはなく、いかなる善根も動かないものはない。譬えば、網の目は無量であっても、一つの大綱を引けば動かない目もなく、衣の糸筋は多くあっても一角を引けば、糸筋としてたぐられてこないものはないようなものである、というのである。
さて法華文句には、序品第一の如是我聞から普賢菩薩勧発品第二十八の作礼而去までの文々句々に、因縁・約教・本迹・観心の四種の解釈を設けている。
つぎに摩訶止観には妙法の解了の上に立った観不思議境の一念三千の法門を説く。これは仏の本来の覚りに基づく修行であり、本より心にそなわる真理である。今ここではくわしく論じない。
まことに喜ばしいことである。生を五濁悪世に受けたとはいえ、法華一乗の真実の経文を受持することができた。過去に無量の善根を積んだ者こそ、この経にあって信心をおこしたのである。函と蓋とが合うように、あなたの信力と仏の慈悲が感応し一道に交わることは疑いない。
語釈
名体宗用教の五重玄
天台大師が法華玄義で妙法蓮華経を解釈するにあたって用いた釈名・弁体・明宗・論用・判教の五重玄義のこと。①釈名とは経題を解釈し名を明かすこと。②弁体とは一経の体である法理を究めること。③明宗とは一経の宗要を明かすこと。④論用とは一経の功徳・力用を論ずること。⑤判教とは一経の教相を判釈すること。
如是我聞
「是の如きを我れ聞きき」(このように私は聞いた)と読む。法華経序品第一をはじめ、各経典の冒頭にある言葉。「我」は、一般には第一回の仏典結集で経を暗誦したという阿難のことをさす。
作礼而去
「礼を作して去りにき」と読む。法華経普賢菩薩勧発品第二十八の最後にある文。仏の説法を聞き終えた大衆が仏を礼拝して去っていったことをいう。
因縁・約教・本迹・観心の四種の釈
天台大師が法華経の文々句々を解釈するために法華文句で用いた方法。因縁釈とは、四悉檀(世界悉檀・為人悉檀・対治悉檀・第一義悉檀)によって仏と衆生との関係・因縁を解釈する。約教釈とは、化法の四教(蔵・通・別・円)に基づいて解釈する。本迹釈とは、本地と垂迹との二義によって解釈する。観心釈とは、経文を一心の法として観ずるように解釈する。
熈連恒沙の善根を致せる者
熈連とは、拘尸那城の北を流れる川の名。ここでは熈連河の沙の数を意味する。恒沙とは恒河沙の略で、ガンジス川のこと。これもガンジス川の沙の数を意味する。ともに無数を意味するが、熈連より恒河の方が大きい。過去にそのような無数の仏について修行して善根を積んだ者のこと。涅槃経巻六の四依品にある。
函蓋相応
函と蓋とのように、両者が相応じて一体となっていること。出典は大日経疏。
感応道交
衆生がよく仏の応現を感じ、仏がよく衆生の機感に応じて利益を施し、互いに通じ合うこと。感は衆生の機感、応は仏の能応、道交は感と応とが相通じて一道に交わることをいう。
講義
聖人の教示が続く。
天台家の釈をあげて、さらに、重ねて妙法蓮華経の首題の五字の功徳を説かれるのである。
天台大師の三大部三十巻、妙楽大師の三大部三十巻、合して六十巻に、法華経の功力が縦横無尽に釈されていることを述べた後、一念随喜の信を起こした愚人に対して函蓋相応感応道交疑い無しと、さらに深い信心を勧められるのである。
止観には妙解の上に立てる所の観不思議境の一念三千・是れ本覚の立行・本具の理心なり
天台大師の摩訶止観巻五上に、摩訶止観の第七正修章に至るまでの前六章は経文によって止観を実修する予備としてのすぐれた正しい知識を示し、いま第七正修章に至って一念三千の正行を立てることが説かれている。つまり、前六章には、実際に止観を実修して一念三千を理解するための予備知識が説かれているので〝妙解〟といわれる。
そして、この〝妙解〟の上に立って実際に観不思議境の一念三千を修行する第七章の正修止観が説かれているのである。
〝観不思議境の一念三千〟とは、衆生の一念の心がそのまま本来三千の諸法をそなえた不思議な対境であると観ずることをいう。
これこそ本覚の立行、すなわち、久遠の仏の本覚のうえから立てられた修行であり、本具の理心、すなわち、衆生の心に理の上でもともと具している一念三千の生命なのである。
しかし、これはあくまで天台大師の理の一念三千の範囲であり、〝理心〟とある如く、どこまでも、理の上で一念三千がいわれているにすぎない。
このように一念三千が「本覚の立行」であるとともに「本具の真理」であることについて、三大秘法禀承事には、つぎのように明快に述べられている。
「問う一念三千の正しき証文如何、答う次に出し申す可し此に於て二種有り、方便品に云く『諸法実相・所謂諸法・如是相・乃至欲令衆生開仏知見』等云云、底下の凡夫・理性所具の一念三千か、寿量品に云く「然我実成仏已来・無量無辺」等云云、大覚世尊・久遠実成の当初証得の一念三千なり、今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり」(1023:08)と。
このように、一往、釈尊の法華経の中で迹門が明かしているのは凡夫の生命に理として具わっている一念三千であり、本門は釈尊が久遠の昔に証得した事の上の一念三千ということになる。
だが、再往は、治病大小権実違目で「一念三千の観法に二つあり一には理・二には事なり天台・伝教等の御時には理なり今は事なり」(0998:15)と仰せのとおり、日蓮大聖人の仏法が真実の事の一念三千なのである。
末法今時においては、大聖人が「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」(0254:18)と仰せの如く、事の一念三千の当体たる御本尊に、南無妙法蓮華経と題目を唱える時、我が身一念三千の当体たることを覚知することができるのである。
したがって、本章でも、天台大師の理の一念三千については「今爰に委しくせず」と、より深い追求をさし控えておられるのである。
第三十七章 不退転の信心を勧める
愚人頭を低れ手を挙げて云く我れ今よりは一実の経王を受持し三界の独尊を本師として今身自り仏身に至るまで此の信心敢て退転無けん、設ひ五逆の雲厚くとも乞ふ提婆達多が成仏を続ぎ十悪の波あらくとも願くは王子・覆講の結縁に同じからん。聖人云く人の心は水の器にしたがふが如く物の性は月の波に動くに似たり、故に汝当座は信ずといふとも後日は必ず翻へさん魔来り鬼来るとも騒乱する事なかれ、夫れ天魔は仏法をにくむ外道は内道をきらふ、されば猪の金山を摺り衆流の海に入り薪の火を盛んになし風の求羅をますが如くせば豈好き事にあらずや。
現代語訳
愚人は頭をたれ掌を合わせていう。私は今から一乗真実の法華経を受持し、三界独尊の釈尊を本師として、今の凡身から仏身を成就するまで怠りなく信心を続け、かならず退転することはない。たとい、五逆を犯した罪は重いとしても、提婆達多の成仏を継ぎ、十悪の罪の波はあらいとしても、十六王子の覆講に結縁した衆生のように、法華経に結縁したいと思う。
聖人はいう。人の心は水の器の形にしたがって変わるようなものであり、物の性質は月影が波に動くのに似ている。ゆえに、あなたはしばらくは信ずるといっても、後日になってかならず心を翻すであろう。しかし、魔が来ても鬼が来ても、けっして心を乱してはならない。
天魔は仏法を憎む。外道は内道を嫌う。それゆえ猪が金山をこすってもかえって金山がその光をまし、衆流が大海に入っても大海はそれを包むように、薪がかえって火を盛んにし、風が求羅という虫をますます成長させるように、いよいよ信心を強盛にしていくならば、まことに望ましいことではないか。
語釈
提婆達多が成仏
法華経提婆達多品第十二では、提婆達多は阿私仙人という釈尊の過去世の修行の師であったことが明かされ、無量劫の後、天王如来になるだろうと記別を与えられている。これは悪人成仏を明かしている。
王子・覆講の結縁
法華経化城喩品第七に説かれる。三千塵点劫という昔に仏が出現して、その名を大通智勝仏といった。大相という時代に、好成国に転輪聖王の太子として生まれた。いちどは国王となり十六人の王子があったが、のち修行を積み仏となった。十六人の王子も出家した。大通智勝仏は、十六人の王子の願いによって二万劫過ぎてから妙法蓮華経を説いた。その時十六王子および少分の声聞は信受して法益を得たが、多分の衆生は疑いを起こして信じなかった。そこで後に十六王子が父王の説をくりかえして、法華経を説いた。これを大通覆講とも、王子覆講ともいう。また、これによって、その時の衆生は、ようやく信解することができた。この時の第十六番目の王子が釈尊で、その時の下種を大通下種、大通久遠の下種等という。その時、教化された衆生は、この結縁によって、釈尊の在世および滅後に生まれて弟子となるとされている。
猪の金山を摺り
大智度論巻三十、あるいは摩訶止観巻五上の文。猪が金山の輝いているのを憎み、自分のからだをこすりつけて、その輝きをなくそうとするが、かえって金山の輝きは増す。すなわち、正法を教えのとおり時機にかなって修行すれば、必ず三障四魔が競い起こってくるが、それによっていよいよ信心が強盛になることを譬えている。大智度論巻三十に「能く瑩いて諸徳を明らかにす。若し人悪を加ふるも、豬が金山を摺ればますますその明を発するが如く、仏道を求め衆生を度するの利器なり」とある。
風の求羅をます
求羅とは梵語カラークラ(Kalākula)の音写である迦羅求羅の略で、黒木虫と訳す。大智度論巻七に「譬えば迦羅求羅虫は其の身微細なれども、風を得れば転た大にして、乃至能く一切を呑食するが如し」とあり、風を得て成長する生き物といわれる。
講義
聖人のこれまでの説明により一切の疑いが晴れた愚人が、ついに「今身自り仏身に至るまで」不退転の信心を貫くことを決意する。
これに対して、聖人は、人の心は水の器にしたがう如く、移ろいやすく変わりやすい、それゆえ、信仰の途上で、どんな魔や鬼が競い起ころうとも、むしろ、それを縁に信心を強固にしていくよう、猪と金山、衆流と海、薪と火、風と求羅の譬を用いて激励されている。
愚人が不退転の信心を貫こうと決意するにあたって障害としてあげられているのは、自らの五逆・十悪の罪業である。それに対して聖人が愚人に諭して述べているのは、魔や鬼が人を騒乱させることである。
愚人は過去世の罪業を認識するにとどまり、未だいかなるかたちで仏道修行が妨げられるかについては無知である。たとえ不退の決意を固めていようとも、現実に障魔が襲えば、驚きあわてるにちがいない。そこで聖人はあらかじめ、障魔が必ず競うことを教えられているのである。妙法の修行に難が起こるのは必定であり、それを乗り越えるには、難が起これば起こるほど、ますます強盛な信心の炎を燃やしていく以外にない。そのことを聖人は、四つの譬えを通して教えているのである。
本抄をいただいたのは武士である可能性が強いが、もしそうであるとすれば、幕府や主君の意によって、有無をいわさぬ弾圧が起こることも覚悟しなければならない。四条金吾や南条時光の例をみるまでもない。そのようなときに、権力に屈して信心を失うことのないよう戒められているのである。「人の心は水の器にしたがふが如く……」の御文は、宮仕えの立場を考えられての指南として拝すると、なお一層その意味が明瞭となる。
「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」(1136:05)と四条金吾殿御返事に仰せのように、仏道修行の要諦は、途上にいかなる難があろうとも、受持しぬくことにある。本抄はこの持続の信心を強調されて結ばれているのである。