本抄は、弘安4年(1281)6月16日、第2回蒙古襲来の報に触れられた日蓮大聖人が、門下一同に対して蒙古襲来のことを人に語ってはならないと厳しい訓戒を与えられた御状である。御真筆は現存しない。
文永11年(1274)10月文永の役で、蒙古軍はいったん九州から撤退したが、蒙古のフビライ汗は日本遠征をあきらめたわけではなかった。翌建治元年(1275)月からは杜世忠を宣諭使として派遣し、改めて日本に服属・入貢を迫っている。
それに対して幕府は、杜世忠ら蒙古からの使者五人を竜の口で処刑し拒否の姿勢を示した、その一方で、九州地方の防衛体制を強化するために北条一族を派遣したり、蒙古軍の上陸をはばむために博多湾沿岸十数㌔にわたって石築地を築いている。
その間、蒙古は南宋攻略に力を注いでおり、建治2年(1276)1月に南宋の首都臨安を陥落させ、弘安2年(1279)には最後の抵抗もやんで、300年の歴史をもった宋は完全に滅び、中国大陸はすべて蒙古の支配下に帰した。南宋を滅ぼすとフビライは目を日本攻略に向け、多数の軍船の建造を命じている。また宋の降将・笵文虎がフビライの意を受けて部下の周福らを日本への使者に立て、蒙古への服属を勘めさせた。しかし、弘安2年(1279)6月に対馬に上陸した使者を、幕府は博多で斬首している。
そのため、外交交渉をあきらめた蒙古は、弘安3年(1280)に征東行省を創設し、日本遠征を具体化していった。そして、弘安4年(1281)5月3日、四万の東路軍が900の軍船で朝鮮の合浦を進発、5月21日に対馬に上陸し、6月6日には博多湾に現れ、志賀島を襲っている。
大聖人は、直ちに「人人御中」と宛名されて弟子檀那一同に対し、他人に対してはもとより、たとえ私語のなかでも、蒙古の襲来を話題にして、大聖人の予言の的中を誇ったり、語ったりしてはならないと厳しく戒められ、これに背いたものは破門にする、と戒告されたのである。
同年8月に著された光日房上人御返事では「此の弘安四年五月以前には日本の上下万人一人も蒙古の責めにあふべしともおぼさざりしを日本国に只日蓮一人計りかかる事・此の国に出来すべしとしる」(0933:03)と述べられており、また「日蓮が申せし事はあたりたり・ばけ物のもの申す様にこそ候めれ」(0933:09)と大聖人に対する当時の人々の心情を述べられている。
大聖人が立正安国論の上呈以来、一貫して他国侵逼難を予言され、蒙古の襲来を為政者に警告されたのも、謗法を捨てて正法を信受されるための忠言、諫言であって、一国が滅びることを座視されるものでないことはいうまでもないであろう。大聖人が日本の安穏と民衆の幸福を心から祈られていたことは「此の国の亡びん事疑いなかるべけれども且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども・はうに過ぐれば罰あたりぬるなり」(0919:16)との御金言からもうかがうことができる。
そのことは「小蒙古の人・大日本国に寄せ来るの事」との仰せからも拝することができる。当時、フビライ汗は蒙古・満州・チベット・中国全土を支配しており、ジンギス汗の築いたアジア・ヨーロッパにわたる世界史上空前の大帝国の中心をなしていた。その国土や国力からいえば大蒙古であり、日本は小国にすぎなかった。
しかし、顕仏未来記に「漢土に於て高宗皇帝の時北狄東京を領して今に一百五十余年仏法王法共に尽き了んぬ、漢土の大蔵の中に小乗経は一向之れ無く大乗経は多分之を失す、日本より寂照等少少之を渡す然りと雖も伝持の人無れば猶木石の衣鉢を帯持せるが如し、故に遵式の云く「始西より伝う猶月の生ずるが如し今復東より返る猶日の昇るが如し」等云云、此等の釈の如くんば天竺漢土に於て仏法を失せること勿論なり、問うて云く月氏漢土に於て仏法無きことは之を知れり、東西北の三洲に仏法無き事は何を以て之を知る、答えて云く法華経の第八に云く「如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめて断絶せざらしめん」等云云、内の字は三洲を嫌う文なり、問うて曰く仏記既に此くの如し汝が未来記如何、答えて曰く仏記に順じて之を勘うるに既に後五百歳の始に相当れり仏法必ず東土の日本より出づべきなり」(0508:04)と述べられているように、中国にはすでに仏法が滅尽しており、日本こそ末法流布の大白法が興隆すべき妙国で、仏法のうえでは日本こそ大乗の国であり、大国となるのである。
なお「日本」という国名の意義について日寛上人は依義判文抄で「能弘の人を表して日本と名づくるなり、謂く日蓮の本国なるが故なり(中略)本門の広布の根本を表して日本と名づくるなり、謂く日は即文底独一の本門三大秘法なり、本は即ち此の秘法広宣流布の根本なり故に日本と云うなり(中略)然れば則ち日本国は本因妙の教主日蓮大聖人の本国にして本門三大秘法の広宣流布の根本の妙国なり」と明かされている。
そのような深義と御確信のうえから「大日本国」に仰せになったのであり、大聖人の御境界からすれば「小蒙古」にすぎなかったのである。
門下一同に対して、日蓮の予言が的中した等と口外してはならないと戒められたのは、大聖人とその一門が蒙古軍の襲来を喜んだり、日本が滅びることを願っているように世間に思わせることを憂えられてのことであろう。
建治2年(1276)後3月24日に著された南条殿御返事に「日蓮房はむくり国のわたるといへば・よろこぶと申すこれゆわれなき事なり」(1534:17)と述べられており、文永の役の際にもそうした世間の風評があったことうかがえるのである。
そのように思われることは全く大聖人の御本意でないうえ、正法を誤解させその弘通を妨げる恐れがあったため、背く者は破門するとまで厳しく戒告されたのであろう。今は予言の的中をうんぬんすべき時ではなく、大聖人門下は一層の信心に励むことが肝要であると教えられたと拝せられる。
その後、3500隻10万からなる江南軍と合流した蒙古軍は、7月下旬に肥前の伊万里湾口の鷹島に結集した。その矢先、7月30日の夜半から翌閏8月1日の暁にけて北九州地方を猛烈な暴風雨が襲ったため、蒙古の軍船の大判が沈んだり破損し、陸へ打ち上げられた敗残兵はことごとく殺され、本国へ逃れ帰った者はわずか3万であったという。
蒙古の軍船が暴風雨によって壊滅すると、蒙古調伏していた寺院や神社のなかには、その祈祷の効験であるとして朝廷や幕府に恩賞を請求するところまで現われた。
それに対して大聖人は「今亦彼の僧侶の御弟子達・御祈祷承はられて候げに候あひだいつもの事なれば秋風に纔の水に敵船・賊船なんどの破損仕りて候を大将軍生取たりなんど申し祈り成就の由を申し候げに候なり、又蒙古の大王の頚の参りて候かと問い給うべし、其の外はいかに申し候とも御返事あるべからず」(0994:15)と破折されている。
当時の世評で、極楽寺良観の師である奈良・西大寺の叡尊等の祈祷によって、蒙古軍が滅びたとされていたのはなんの根拠もなく、毎年やってくる台風のために敵船が破損しただけのことであって、大将軍を生け捕りにしたわけでもなく、蒙古の大王の頸を取ったわけでもないのだから、禍の根が絶たれたのではないと、きびしく指摘されているのである。
大聖人の御心は、他国侵逼難によって苦悩と悲嘆にあえぐ民衆のうえに広く深く注がれていたのである。