聖愚問答抄上
文永5年(ʼ68) 47歳
はじめに
本抄の大意
本抄は、愚人と聖人との問答形式からなり、上下二巻に分けられている。内容からすれば、大きく前段と後段の二段に分かれる。
上巻には、前段と後段の一部が含まれ、下巻に後段の残り部分が述べられている。
まず、前段では、律僧・専修念仏の居士・真言の行者・禅の修行者が次々と愚人を訪れ、前の宗派を批判し、自宗に対する信仰を勧める。後段に入って、愚人は諸宗の真偽に迷い、求道の旅に出て法華受持のまことの聖人に会う。
本抄の題名は、正しくはこれ以後の愚人と聖人との問答によって付けられている。聖人は諸宗をさして、みな悪道に堕ちる業因になるとさとし、ただ法華経のみが釈尊の出世の本懐であり真実の経典であることを示して、浄土宗と真言宗を破折する。ここまでが上巻に含まれている。
下巻では、禅宗を破折しおわり、次いで法華経こそ衆生成仏の直道であると示される聖人のことばに、愚人が次第に転迷開悟し、妙法五字に一切の功徳を含む題目修行の正しい所以と、謗法破折の意義を了解して、妙法に帰依していく次第を述べている。
本抄は佐渡以前の御書と考えられているように、慨して題目の弘通について述べられるにとどまり、題目の実体である末法出現の御本尊の実義までは顕されていない。
ただ付嘱の要法については「所謂諸仏の誠諦得道の最要は只是れ妙法蓮華経の五字なり(中略)霊山の雲の上・鷲峯の霞の中に釈尊要を結び地涌付属を得ることありしも法体は何事ぞ只此の要法に在り」と述べられ、所弘の妙法とは結要付属の大法であることが示されている。
この御文は、未だ佐前ではあるが、日蓮大聖人所持の大法門、玄宗の極地をわずかにのぞかせられたものと拝することができる。
さて、本抄でいう愚人とは、日ごろ外典を学び、風月に心を寄せる、仏教に無知な凡夫をさしている。聖人とは、一応は諸宗の人を含めるようであるが、彼らはつぎつぎとその邪智謗法が明らかにされ、聖人としての資格を失っていく。
ゆえに、ただひとり法華受持の聖人こそ、まことの聖人であり、日蓮大聖人御自身をさされている。
この愚人に代表されるように、正しい仏教を求めて得られずに帰依すべきところを見失い、生死の苦界に迷いゆく人々は今日なお少なくはない。
この生死に迷う愚人に対して、仏教を従浅至深、浅いところから深きへと説かれ、次第に誘引し、法華一乗という仏教の究極の法理にまで導いていく本抄の御教示は、そのまま、われわれの折伏・弘教の指南となり、また根本精神として学ばなければならないところである。
本抄の由来
御述作の年次は本抄には記されていないが、文永2年(1265)、4年(1267)、5年(1268)、弘安4年(1281)等の諸説がある。一般には文永二年説がとられている。そこで、この点を考えてみると、まず台密の破折を欠き、本迹・種脱相対がまだ明らかでない内容からみて、佐前にしたためられた書と考えられるのである。
つぎに、本文中に「極楽寺の良観上人」という語句がみられるが、良観が関東に下ったのは建長4年(1252)のことであり、鎌倉の極楽寺に住したのは文永4年(1267)8月である。ゆえに、文永2年(1265)では、極楽寺良観とはいわれていないはずである。
本抄は、文永4年(1267)以後の書であると見るべきである。また、文永5年(1268)10月11日にしたためたれた十一通御書の一つ、良観への書状(「極楽寺良観への御状」)の末尾には「極楽寺長老良観聖人御所」とある。このことからも、本抄もやはり文永5年(1268)ごろの御述作と推察できる。
対告衆についても不明であるが、本抄の下巻に、愚人がみずからの身分を明かして「我は弓箭に携り兵杖をむねとし未だ仏法の真味を知らず」とあるので、武士を対象とした御書と考えてよいであろう。
なお、本抄は御真筆がなく、全文がことごとく美文調でしたためられ、その文体が大聖人の常の御書と違い、内容的にも多少の問題があるとして、古来、偽書とする説がある。また日持が書き、大聖人が印可されたものとする説もある。
しかし、他の御書を参照にすれば明らかなとおり、大聖人は和漢のさまざまな古典に通暁し、難易・情理・硬軟など機縁によって文章を使い分けておられるから、文体が優美であるからというだけで偽書ときめつけることはできない。
しかも、日持は建長2年(1250)に誕生し、文永7年(1270)に日興上人に従って帰依している。この御書が前述のように文永五年の成立とするならば、日持の作とすることは否定される。このように聖愚問答抄を偽書とする疑難には正当な根拠がないのである。
第一章 執筆の所以を示す
夫れ、生を受けしより死を免れざる理は、賢き御門より卑しき民に至るまで人ごとにこれを知るといえども、実にこれを大事としこれを歎く者、千万人に一人も有りがたし。無常の現起するを見ては疎きをば恐れ親しきをば歎くといえども、先立つははかなく留まるはかしこきように思って、昨日は彼のわざ今日はこのこととて、いたずらに世間の五欲にほだされて、白駒のかげ過ぎやすく羊の歩み近づくことをしらずして、空しく衣食の獄につながれ、いたずらに名利の穴におち、三途の旧里に帰り六道のちまたに輪回せんこと、心有らん人、誰か歎かざらん、誰か悲しまざらん。
ああ、老少不定は娑婆の習い、会者定離は浮き世のことわりなれば、始めて驚くべきにあらねども、正嘉の初め世を早うせし人のありさまを見るに、あるいは幼き子をふりすて、あるいは老いたる親を留めおき、いまだ壮年の齢にて黄泉の旅に趣く心の中、さこそ悲しかるらめ。行くもかなしみ、留まるもかなしむ。彼の楚王が神女に伴いし、情けを一片の朝の雲に残し、劉氏が仙客に値いし、思いを七世の後胤に慰む。予がごとき者、底に縁って愁いを休めん。「かかる山左のいやしき心なれば、身には思いのなかれかし」と云いけん人の古事さえ思い出でられて、末の代のわすれがたみにもとて、難波のもしお草をかきあつめ、水くきのあとを形のごとくしるしおくなり。
現代語訳
およそ生を受けた時から、死を免れないという道理は、貴い帝から卑しい民に至るまで、人はだれでも知っているけれども、まことにこれを大事とし、これを嘆く者は千万人に一人もいないのである。無常の死の現れ起こるのを見てはじめて、今まで仏道に疎遠であったことを恐れ、世事にのみ親近していたことを嘆くけれども先立った者ははかなく留った者がすぐれているように思って、昨日はあの事、今日はこの事といって、徒らに世間の欲望に縛られて、白馬の影が壁の隙間の向こうを一瞬によぎるように歳月の過ぎるのは速く、屠所に引かれる羊の歩みのような自分の運命を知らないで、空しく衣食の牢獄につながれ、徒らに名利の穴におち、死ねば三途の古里に帰り、生きては六道のちまたに輪回するであろう事、心ある人ならば誰か嘆かないでいられよう、誰か悲しまないでいられよう。
ああ、老少不定は娑婆の習い、会者定離は浮世の道理であるから、今はじめて驚くべきではないけれども、正嘉の初めの災害で世を早く去った人の有り様を見ると、あるいは幼い子をふりすて、あるいは年老いた親を後にとどめ置き、まだ壮年の年齢で黄泉の旅に趣く心のなかは、さぞかし悲しかったであろう。行く人も悲しみ、とどまる人も悲しむ。かの楚王が巫山の神女と交わした情を一片の朝の雲に残し、劉氏が仙女と契った思いを七世の子孫を見て慰めとした。しかし私のような者は何によって愁いを休めよう。「こうした木こりのような卑しい心の者だから、身には愁いの添わぬように」と歌った古人のことさえ思い出されて、末代の人の忘れがたみにもと、難波の藻塩草をかき集め、筆の跡を形ばかりしるしおくのである。
語釈
白駒のかげ過ぎやすく
歳月の過ぎ去ることは、白い馬が壁の隙間を過ぎるようにじつに早いこと。人生が短いこと、あっという間に過ぎることに譬える。荘子の知北遊(ちほくゆう)の項に「人の天地の間に生まるる、白駒の郤を過ぐるが若く、忽然たるのみ」とある。郤は隙間のこと。
羊の歩み
屠所にひかれてゆく羊の歩み。死がしだいに近づくことのたとえ。北本涅槃経三八から。
会者定離
「会う者は定めて離る」と読む。会う者はかならず離別するとの意。遺教経の「世は皆無常にして会わば必ず離るることあり。憂を懐くこと勿れ」等に由来する。「生者必滅会者定離」といい、現世の無常の姿を述べたもの。
楚王が神女に……
文選の高唐賦に、昔、楚王が高唐に遊んだ折、夢に巫山の神女を見て寵愛した。去るに望んで神女は「旦には朝雲となり、暮には行雨となり、朝朝暮暮、陽台の下にあり」と語ったとある。ここから、男女の固い契りをいうようになった。
劉氏が仙客に……
蒙求の劉阮天台の項に「漢の明帝の永平年中に、劉晨・阮肇の二人が天台山の仙郷に迷いこみ、仙女と会って歓楽の日々を送った。半年後に故郷に帰ったところ、すでに七代の子孫となっていた」とある。
難波のもしほ草……
難波は現在の大阪市およびその周辺地域の古称。浪速、浪華とも書く。藻塩草は塩を採取する材料にする海草。掻き集めて潮水を注ぐところから和歌では多く「書く」「書き集める」に掛けて用いる。「水くきのあと」は筆跡。
講義
本章は、聖愚問答抄一編の序分にあたり、本抄を執筆される所以が明かされている。いわば、通序とも言うべき性質のものである。
さて、まず人生の無常なる現実を種々の観点から説かれている。人間は死すべき存在であり、生死流転はだれ人も逃れえない。
ゆえに、生死の問題こそ人生の一大事であるにもかかわらず、自己の死を眼前にしなければ、愚人はこの問題に取り組もうとはしない。たとえ理屈ではわかっていても、日々の出来事に埋没し、快楽や名聞名利にとらわれて空しく一生を終え、三悪道、六道の巷を輪廻していく。
だが、日蓮大聖人が、このように無常の姿を説かれるのは、たんに無常を嘆き、また、世事のはかない楽しみで憂いをなぐさめるためではない。
人生は無常であり、死を逃れえないゆえにこそ、真実の仏法によって生死の問題を解決し、未来永劫の常楽我浄の人生を築きゆくべきことを教示されるのである。無常の姿を強調されるのは、常住なる人生、境界を開きゆく真実の仏法を求めるべきことを説かれる伏線になっている。
ゆえに、日蓮大聖人は、無常の具体的姿として正嘉の初めの世相を記した後、本抄述作の所以を、次のように明かされるのである。
すなわち、自分は山がつのように賤しい身ではあるが、未来のために、この書を記しおくといわれている。ここに、未来の一切衆生が、真実の仏法によって、憂いのない人生、現世安穏・後生善処の境界を確立するようにとの、日蓮大聖人の大慈悲がうかがわれる。
この書は、愚人の三悪道、六道輪廻の苦しみを救い、常寂光土へと導くために書かれたものである。
正嘉の初め世を早うせし人のありさまを見るに……
我が国の平安時代末期から鎌倉時代初期にかけては、天災地変が打ち続き、既成仏教の堕落、間断のない戦乱と相まって、暗黒の世相を現出し、人心の不安は極限に達した。とくに正嘉元年(1257)には前代に超過する大地震が起こり、またその後も数年にわたって大飢饉、疫病等の災難が続いたために、民衆は苦悩のどん底に陥った。文永5年(1268)に書かれた安国論御勘由来の一節にも「正嘉元年太歳丁巳八月廿三日戌亥の時前代に超え大に地振す、同二年戊午八月一日大風・同三年己未大飢饉・正元元年己未大疫病同二年庚申四季に亘つて大疫已まず万民既に大半に超えて死を招き了んぬ」(0033:01)と記されている。死ぬ人が大半に及んだことは、悲惨の限りである。
かくて、人々は否応なしに現世の無常を眼前にし、悲しみのどん底につきおとされた。日ごろ五欲に支配され、快楽に執着していた人々の中にも、死に対する関心を深めざるをえなくなり、この無常なる人生の苦しみから出離したいと、信仰を求める気持ちが強まりつつあったのであろう。本抄の愚人もまた、切実に世の無常を感じ、暗黒の中に光明を求めて諸宗を遍歴することになるのである。
第二章 出離生死の法を求む
悲しいかな痛しいかな我等無始より已来無明の酒に酔て六道・四生に輪回して或時は焦熱・大焦熱の炎にむせび或時は紅蓮・大紅蓮の氷にとぢられ或時は餓鬼・飢渇の悲みに値いて五百生の間飲食の名をも聞かず、或時は畜生・残害の苦みをうけて小さきは大きなるに・のまれ短きは長きに・まかる是を残害の苦と云う、或時は修羅・闘諍の苦をうけ或時は人間に生れて八苦をうく生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五盛陰苦等なり或時は天上に生れて五衰をうく。此くの如く三界の間を車輪のごとく回り父子の中にも親の親たる子の子たる事をさとらず夫婦の会遇るも会遇たる事をしらず、迷へる事は羊目に等しく暗き事は狼眼に同し、我を生たる母の由来をもしらず生を受けたる我が身も死の終りをしらず、嗚呼受け難き人界の生をうけ値い難き如来の聖教に値い奉れり一眼の亀の浮木の穴にあへるがごとし、今度若し生死のきづなをきらず三界の籠樊を出でざらん事かなしかるべし・かなしかるべし。
現代語訳
なんと悲しく、また痛ましいことか。我等は無始以来、根本の煩悩の酒に酔って六道・四生に輪回して、ある時は焦熱・大焦熱地獄の炎にむせび、ある時は紅蓮・大紅蓮の氷にとじこめられ、ある時は餓鬼道の飢渇の悲しみにあって、五百生の長い間、飲食の名をも聞くことができない。ある時は畜生道の、残害の苦しみをうけて、小さいものは大きなものに呑まれ、短いものは長いものに巻かれる。これを残害の苦しみという。ある時は修羅道の闘諍の苦しみを受け、ある時は人間に生まれて八苦を受ける。生・老・病・死・愛するものと別離する苦しみ・怨み憎むものに会う苦しみ・求めて得られない苦しみ・五陰から生ずる身心の苦しみ等である。ある時は天上界に生まれて五衰を受ける。
このように三界の間を車輪のように廻り、父と子のなかであっても、親は親であること、子は子であることを知らず、夫婦がめぐり会えたのに、めぐり会えたことを知らず。迷っていることは羊の眼に等しく、道理に暗いことは狼の眼と同じである。自分を生んだ母の由来を知らず、生を受けた我が身も死の終わりを知らない。ああ受け難い人界の生を受け、値い難い仏の聖教に値い奉ったことは、一眼の亀の浮木の穴にあったようなものである。このたび、もし生死のきづなをきらず、三界の籠を出られない鳥のようであったならば、どんなに悲しいことであろう。
語釈
焦熱・大焦熱
八熱地獄(八大地獄)のなかの焦熱地獄と大焦熱地獄のこと。長阿含経巻十九等に説かれる。焦熱地獄は、炎と熱によって身を焦がし、焼かれる苦しみがあるのでこの名がある。大焦熱地獄は、さらに極熱で責められる地獄をいう。
紅蓮・大紅蓮
八寒地獄(八熱地獄の傍にあるとされる)のなかの紅蓮地獄と大紅蓮地獄のこと。倶舎論巻十一等に説かれる。極寒身に迫り、身体が裂けて紅蓮華・大紅蓮華のようになる地獄をいう。
五衰
天人が命終する前に現れる五つの衰相をいう。天人の五衰という。諸説があるが、涅槃経には、①衣服垢穢(衣装が垢で汚れる)、②頭上華萎(頭上の華冠が萎む)、③身体臭穢(からだが臭くなる)、④腋下汗流(腋の下に汗が流れる)、⑤不楽本座(本来の座席にいることを楽しまない)とある。
一眼の亀
優曇華の譬えと同じく、衆生が正法に巡り会い、さらにそれを受持することのいかに難しいかを譬えたものである。松野殿後家尼御前御返事に詳しい。大要を述べると次のとおりである。大海のなか、八万由旬の底に一眼の亀がいた。この亀は手足も無く、ひれも無い。腹の熱さは鉄が焼けるようであり、背中の甲羅の寒さはまるで雪山のようであった。ところで赤栴檀という木があり、この栴檀の木は亀の熱い腹を冷やす力がある。この亀が昼夜朝暮(ちょうぼ)に願っていることは「なんとか栴檀の木にのぼって腹を木の穴に入れて冷やし、甲羅を天の日にあてて暖めたいものだ」ということであった。ところが、この亀は千年に一度しか水面に出られない。大海は広く亀は小さい。浮木はまれである。たとえほかの浮木に会えても栴檀に会うことは難しい。また栴檀に会えても亀の腹にちょうど合うような、穴のあいた赤栴檀には会い難い。穴が大きすぎて、亀がその穴に入り込んでしまえば、甲羅を暖めることができない。またそこから抜け出ることができなくなる。また穴が小さくて腹を穴に入れることができなければ、波に洗い落とされて大海に沈んでしまう。たとえ適当な栴檀の浮木にたまたま行き会えても、一眼のために浮木が西に流れていけば、東と見え、東に流れていけば西とみえる。南北も同じで、南を北と見、北を南と見てしまう。無量無辺劫かかっても、一眼の亀が浮木に会うことは難しいのである。このように、浮木の穴を妙法に譬えられて、衆生が妙法に会い難きことを述べられている。
講義
本章は、永遠の昔から、我等衆生が六道四生に輪廻して、種々の苦しみの世界を流転してきたことを示し、たまたま人界に生をうけ、そのうえ仏法に巡りあえた今生こそ、この生死の苦しみを断ち、三界六道の迷いを出離し、悟りの道に入ろうという切なる願いを述べたところである。
六道輪廻について
六道は、地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人間道、天上道の六道をさし、迷いの衆生が輪廻する境界をいう。
凡夫は、それぞれの業因によって、この六道の中のいずれかに生を受ける。例えば、衆生のつくった悪業の因によって、その程度により地獄、餓鬼、畜生、修羅という四悪趣におもむく。
五逆罪や謗法等の最も重い罪業をつくれば、地獄に堕ち、八熱、八寒地獄等の極苦を受ける。つぎに、貪欲によってやや軽い悪業をつくった者は、餓鬼道に堕ちて飢渇の苦にあう。また愚癡の悪業により畜生界に入った者は、残害の苦を受ける。ここまでが三悪道である。
さらに、勝他の念にかられて悪業をつくった者は、修羅闘諍の苦を受けなければならない。
三悪道、四悪趣等で苦しみを受けることにより、悪業をつぐなった者は、人間、天上等に生まれることもできるが、人間道にも四苦八苦の苦しみがあり、天上に生まれても五衰の悲しみを受けるという。
凡夫が生を受ける六道に対して、声聞、縁覚、菩薩、仏界を四聖という。仏法を求めない迷いの衆生は、天上界から四聖の世界に入ることができず、つねに、地獄から天上までの間をめぐっているのである。つまり、六道を輪廻しつつ、永く業苦を受け続けるのである。
涅槃経巻二十二に「菩薩摩訶薩、諸の衆生を観ずるに、色・香・味・触の因縁の為の故に、昔無数無量劫より来た常に苦悩を受く。一一の衆生一劫の中に積む所の身骨は、王舎城の毘富羅山の如く、飲む所の乳汁は四海の水の如く、身より出す所の血は四海の水より多く(中略)無量劫より来た或は地獄・畜生・餓鬼に在りて受くる所の行苦称げて計うべからず」とある。
衆生が、このような三界六道の輪廻から出離し、四聖の世界に入り、さらに仏界の境地をうるためには、法華経を信受する以外にはないのである。
受け難き人界の生をうけ値い難き如来の聖教に値い奉れり一眼の亀の浮木の穴にあへるがごとし
仏法では、衆生が六道輪廻を繰り返すなかにあっても、人間として生を受けることは非常に難しいと説かれている。それは、衆生が、種々の業をつくるなかで、人界の善業をつくることが少ないからである。
さらに、人身を受けることも難しいのに、人間に生まれても仏法を聞くことは一段と難しいのである。
人間生命は、聖道正器(仏道を成ずる正器)といわれるように、大きな価値をもっている。人間なればこそ、仏道修行もできるし、仏界の大生命を開示することもできるのである。ゆえに、人間として生まれたことは、きわめて稀であるとともに、まことに尊いことなのである。
しかし、たまたま人間界に生を受けたとしても、如来の聖教に値わなければ、成仏など思いもよらない。ところが、仏法に値うことは、さらに難事なのである。
本文で述べられている一眼の亀については、法華経妙荘厳王本事品第二十七に「仏には値いたてまつることを得難きこと、優曇婆羅華の如く、又た一眼の亀の浮木の孔に値えるが如し」と記されている。
この文を妙楽大師は、法華文句記巻十下に「経に云く、一眼の亀に譬うるは、事に約すれば、秖是れ値い難きを譬うる耳、若し所乗を作さば、凡そ亀魚の眼は両向之を看る。既に一眼と云くは見る所、正に非ず、生死の海に在りて而して又邪見なり。何ぞ仏法の浮木の実諦の孔に値う可けん」と釈している。
これらの経釈は、仏に値うこと、また衆生の邪見のために仏法に値うことの難しさを示している。
だが、たとえ、仏法に値いえたとしても、そのなかで、成仏直道の法である法華経に値うことは、さらに難事中の難事なのである。
仏法には高低浅深さまざまの経典があり、このおのおのの経典を依りどころにして多くの宗派が分かれてきた。これらの是非善悪を見きわめることは、また至難である。
しかも、選んで信じた法が成仏直道の法でなければ、そのことによってかえって煩悩・悪業を増し、無量の大苦の原因ともなるのである。したがって、各宗派の正邪を判別し、成仏直道の法を求めゆくことが次章以下の主題となるわけである。
なお、日蓮大聖人は、松野殿後家尼御前御返事では、一眼の亀のたとえを用いられて、法華経からさらに南無妙法蓮華経に値うことの方が難事であることを示されている。
この南無妙法蓮華経こそ真実究極の成仏直道の法として、日蓮大聖人が説き示される三大秘法の大仏法にほかならないのである。
第三章 律宗の主張を述べる
爰に或る智人来りて示して云く汝が歎く所実に爾なり此くの如く無常のことはりを思い知り善心を発す者は麟角よりも希なり、此のことはりを覚らずして悪心を発す者は牛毛よりも多し、汝早く生死を離れ菩提心を発さんと思はば吾最第一の法を知れり志あらば汝が為に之を説いて聞かしめん。其の時愚人座より起つて掌を合せて云く我は日来外典を学し風月に心をよせて・いまだ仏教と云う事を委細にしらず願くば上人我が為に是を説き給へ。其の時上人の云く汝耳を伶倫が耳に寄せ目を離朱が眼にかつて心をしづめて我が教をきけ汝が為に之を説かん夫れ仏教は八万の聖教多けれども諸宗の父母たる事・戒律にはしかずされば天竺には世親・馬鳴等の薩埵・唐土には慧曠・道宣と云いし人・是を重んず、我が朝には人皇四十五代・聖武天皇の御宇に鑒真和尚・此の宗と天台宗と両宗を渡して東大寺の戒壇之を立つ爾しより已来当世に至るまで崇重年旧り尊貴日に新たなり、就中極楽寺の良観上人は上一人より下万民に至るまで生身の如来と是を仰ぎ奉る彼の行儀を見るに実に以て爾なり、飯嶋の津にて六浦の関米を取つては諸国の道を作り七道に木戸をかまへて人別の銭を取つては諸河に橋を渡す慈悲は如来に斉しく徳行は先達に越えたり、汝早く生死を離れんと思はば五戒・二百五十戒を持ち慈悲をふかくして物の命を殺さずして良観上人の如く道を作り橋を渡せ是れ第一の法なり、汝持たんや否や。
愚人弥掌を合せて云く能く能く持ち奉らんと思ふ具に我が為に是を説き給へ抑五戒・二百五十戒と云う事は我等未だ存知せず委細に是を示し給へ。智人云く汝は無下に愚かなり五戒・二百五十戒と云う事をば孩児も是をしる然れども汝が為に之を説かん、五戒とは一には不殺生戒・二には不偸盗戒・三には不妄語戒・四には不邪淫戒・五には不飲酒戒是なり、二百五十戒の事は多き間之を略す。其の時に愚人・礼拝恭敬して云く我今日より深く此の法を持ち奉るべし。
現代語訳
ここに、ある智人が来てさとしていう。あなたの嘆くことはまさにそのとおりである。このように無常の道理を思い知り、善心を発すものは麒麟の角よりも稀である。この道理を覚らないで、悪心を起こすものは牛の毛よりも多い。あなたが早く生死の苦しみを離れ、菩提心を起こそうと思うのならば、私は最第一の法を知っている。志があるならばあなたのためにこれを説いて聞かせよう。
その時、愚人は座から起って手を合わせていう。私は日ごろ外典を学び、詩歌の道に心をよせ、まだ仏教のことを詳しくは知らない。願わくは上人、私のためにこれを説いてください。
その時、上人のいうには、あなたは伶倫のような耳と、離朱のような眼を借りて、心をしずめて私の教えを聞きなさい。あなたのためにこれを説こう。いったい、仏教は八万の聖教といって数多いけれども、諸宗の父母であることは戒律に及ぶものはない。それゆえインドには世親・馬鳴等の菩薩、中国では慧曠・道宣といった人達が、これを重んじた。我が国では第四十五代・聖武天皇の御代に、鑑真和尚がこの律宗と天台宗の両宗とを伝えて、東大寺の戒壇を建てた。それ以来、今日にいたるまで崇拝されて長い年月を経、日々に尊さを増している。
とりわけ極楽寺の良観上人は上一人より下万民に至るまで生身の仏と仰ぎ見ている。彼の振る舞いを見ればまことにそのとおりである。飯島の津で六浦の関米を取っては諸国に道を作り、七道に関所をかまえて、通る人ごとに銭を取って諸の河川に橋をかけた。慈悲は仏に等しく、徳行は先達よりも勝れている。あなたが早く生死を離れようと思うならば、五戒・二百五十戒を持ち、慈悲を深くして、物の命を殺さないで、良観上人のように道を作り橋をかけなさい。これが第一の法である。あなたは受持する意思があるかどうか。
愚人はいよいよ手を合わせていう。心して受持しようと思う。詳細に私のために説いてください。いったい、五戒・二百五十戒ということは私どものまだ知らないことである。委しく教えてほしい。
智人のいうには、あなたはあまりにも愚かである。五戒・二百五十戒ということは幼児もこれを知っている。しかしながら、あなたのためにこれを説こう。五戒とは一には不殺生戒、二には不偸盗戒、三には不妄語戒、四には不邪淫戒、五には不飲酒戒である。二百五十戒については、数が多いから一つ一つの説明は略すことにする。その時愚人は智人を礼拝して、うやうやしい態度でいう。私は今日より深くこの法を受持いたしましょう。
語釈
麟角・牛毛
麟角は麒麟の角で、きわめて稀にあるものの譬。牛毛は牛の毛で、極めて数の多い譬。北史・文苑伝序に「学ぶ者は牛毛の如く、成る者は麟角の如し」とある。
伶倫
中国・古代の伝説的帝王である黄帝の臣。音楽をつかさどり、よく物の音声を聞きわける能力があったという。漢書巻二十一に出ている。
離朱
中国・古代の伝説的帝王である黄帝の時代の人物。離婁ともいう。視力にすぐれ,百歩離れたところから細かい毛の先端が見えたという。蒙求の離婁明目の項に出ている。
慧曠
(0534~0613)。中国・南北朝から隋代にかけての僧。天台大師に律蔵と大乗を教えた律師でもある。しかし、南三北七の諸師と共に、天台大師にその謬義を論破されている。
道宣
(0596~0667)。中国・隋唐代の南山律宗の祖。南山律師・南山大師ともいう。16歳の時に出家。隋・大業年中に智首律師について律を学び、禅定を修した。後に、終南山(長安の南方)の豊徳寺に入り、「行事抄」を作り四分律宗(南山宗)を立てる。貞観19年(0645)から長安の弘福寺で玄奘の翻経を助けた。著書に「四分律刪繁補闕行事鈔」(略して「行事鈔」)、「続高僧伝」、「広弘明集」、「大唐内典録」など多数ある。死後、唐の懿宗から澄照律師の号を贈られた。日本に授戒制度をもたらした鑑真は、その孫弟子にあたる。
鑒真和尚
(0688~0763)。鑑真とも書く。中国・唐代の僧で、日本律宗の祖。天台学と律を学んだ後、日本の栄叡・普照らの要請により来日を試みるが、五度失敗し失明する。天平勝宝5年(0753)に来日を果たし、翌・同6年(0754)に東大寺大仏殿の前に戒壇を築いて聖武天皇や僧侶に授戒。律(出家教団の規則)にもとづく正式な授戒出家の方式を伝えた。また、天台大師智顗の著作を含むさまざまな文献をもたらした。朝廷から与えられた宅地に建てた唐招提寺は、南都の有力寺院として栄えた。
良観上人
(1217~1303)。鎌倉時代中期の真言律宗(西大寺流律宗)の僧。良観は字、諱を忍という。奈良の西大寺の叡尊に師事した後、戒律を広めるため関東に赴く。文永4年(1267)、鎌倉の極楽寺に入ったので、極楽寺良観と呼ばれる。幕府要人に取り入って非人組織を掌握し、その労働力を使って公共事業を推進するなど、種々の利権を手にした。一方で祈禱僧としても活動し、幕府の要請を受けて祈雨や蒙古調伏の祈禱を行った。文永8年(1271)の夏、日蓮大聖人は良観に祈雨の勝負を挑み、打ち破ったが、良観はそれを恨んで一層大聖人に敵対し、幕府要人に大聖人への迫害を働きかけた。それが大聖人に竜の口の法難・佐渡流罪をもたらす大きな要因となった。
飯嶋の津
鎌倉・材木座海岸の東南部の港。付近の海上に和賀江島という人工島が築かれていた。真言律宗が管轄し、通行料の徴収権が与えられていた。
六浦の関米
六浦は、神奈川県横浜市金沢区一帯の古称。鎌倉市の東部に隣接。古くから交通の要所として関所が置かれていた。関所で徴収される料米を関米という。「飯嶋の津にて六浦の関米を取つて」については、飯嶋と六浦の地理的条件から、その意味が通じ難く、飯嶋と六浦で関米をとったとする説があるが、なお考究する余地がある。
七道
鎌倉への七つの出入口で、七口、鎌倉七口ともいう。極楽寺口・大仏口・化粧口・亀ケ谷口・巨福呂口・名越口・朝夷奈(朝比奈)口の七つ。また、七街道(東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道)の総称をさすとの説もある。
二百五十戒
男性出家者(比丘)が守るべき二百五十か条の律(教団の規則)。四分律に説かれる。当時の日本ではこれを受けることで正式の僧と認定された。女性出家者(比丘尼)の律は正確には三百四十八か条であるが、概数で五百戒という。叡山大師伝(伝教大師最澄の伝記)弘仁9年(0818)暮春(3月)条には「二百五十戒はたちまちに捨ててしまった」とあり、伝教大師は、律は小乗のものであると批判し、大乗の菩薩は大乗戒(具体的には梵網経で説かれる戒)で出家するのが正当であると主張した。こうしたことも踏まえられ、日蓮大聖人は、末法における持戒は、一切の功徳が納められた南無妙法蓮華経を受持することに尽きるとされている。
講義
本章からいよいよ本文に入り、浅きより深きへと仏教諸宗の主張を示される。
人生の無常を嘆き、求道の志を抱いた愚人のもとに、まず世事にかしこい律僧の僧が訪れ、愚人の請に応じて、戒律は八万聖教の根本であると説き、三国の有名な持戒者を挙げ、とくに極楽寺良観の行儀を見習って、五戒・二百五十戒を持ち、慈善事業を行うよう勧める。
これを聞いた愚人はすっかりありがたがり、五戒の受持を誓うのである。
戒律と律宗について
仏教を修行する者が、かならず守らなければならない禁制を戒律という。戒は非を防ぎ悪を止める義であり、律は教団維持のために定められた種々の規律である。戒と律を併称して戒律と呼ばれるようになった。
さて、律宗では「仏教は八万の聖教多けれども諸宗の父母たる事・戒律にはしかず」と律僧がここでいうように、八万法蔵、諸宗の根本は、まず戒律であると主張する。
もとより仏教の基本は、まず、七仏通戒偈からはじまっているとされる。七仏通戒偈とは「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」という偈であり、その意味では、もろもろの悪をなすことなく、衆くの善を実践し、自らその意を浄くするという三つのことが諸仏の教えであり、仏教の基本であるということである。
この諸悪をとどめ善を行うために戒律ができたのである。しかし、その戒律も、やがて仏教教団の秩序を維持するためにつぎつぎと禁制や罰則が加えられていき、複雑・煩瑣を極めるようになる。
小乗戒には、在家信者の戒として五戒・八斎戒があり、沙弥、沙弥尼の十戒、具足戒として比丘の二百五十戒・比丘尼の三百四十八戒(五百戒)などがある。
これらの小乗戒は五戒という基本的なものから、戒のおのおのに罰則を設け、仏法を知らない人に身を調えることを教え、修行上で過失のないことを目的にして定められたものである。ところで、律宗は唐代の道宣律師等が、専らこれらの小乗戒を受持し弘通したことから起こったのである。
日本では鑑真が天平勝宝5年(0753)に来日し、翌年東大寺に戒壇院を建立、聖武天皇以下諸僧に戒を授けたのが律宗の初めである。その後、唐招提寺を建立して本山とし、下野・筑紫に戒檀院を設けて大いに栄えた。しかし、もとより小乗戒は末法の機根に相応せず、平安時代に入り次第に衰微していった。だが、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、既成仏教の堕落と戒律軽視の法然門徒の流行を憂える人々の間に、戒律によって末法五濁の世相を改革しようとする機運が生じてきた。
ことに奈良の西大寺を本拠として律宗の復興に努めていた叡尊は、弘長2年(1262)2月、関東に下り、同年8月、西大寺へ帰るまでに、前執権北条時頼、越後守実時、執権長時、連署政村以下の北条家の要人とその夫人達、多くの民衆に戒律を授け、かくて鎌倉の上下一般の間にも律宗が弘まった。
叡尊はまた非人救済、殺生禁断などの慈善事業にも貢献している。持律の僧として本文にも挙げられている極楽寺良観は、この叡尊の弟子である。
建長4年(1252)関東に下った良観は、律宗を弘通し、叡尊の鎌倉における教化を助け、一生の間に得度の弟子は2740余人を数え、82か所の伽藍を修築し、189の橋をかけ、71か所の道路を修繕し、63か所の殺生禁断地域を設けるなどして、人々から生き仏のように崇められていたという。本文でも、こうした良観の行儀について述べられている。
しかし、良観の偽善者としての姿は、次章で見事に、その仮面をはがされているので、ここでは、律僧が、諸宗の根本は戒律であるから、戒律を受持せよとすすめた点だけを破折しておきたい。
七仏通戒偈にもあるように、身を整えて諸悪をとどめるために戒律ができたのであり、戒律は、最も基本的で普遍的なものも、仏教の初門にすぎない。すなわち、あくまでも仏法者としてのスタートラインなのであって、戒律によって、仏道修行のゴールである生死輪廻の苦しみから脱することなど望みえないのである。それにもかかわらず、律僧が戒律を出離生死の法であり、成仏への法であると説くところに根本的な誤りがある。
まして、律宗は、インドでの仏教教団成立後、その風土・文化の環境のなかで付け加えられ煩雑化してきた小乗戒を説くのであるから、末法の衆生にはなんの役にも立たず、かえって有害無用の小法というべきである。
第四章 律宗を破折する
爰に予が年来の知音・或所に隠居せる居士一人あり予が愁歎を訪わん為に来れるが始には往事渺茫として夢に似たる事をかたり終には行末の冥冥として弁え難き事を談ず欝を散し思をのべて後予に問うて云く抑人の世に有る誰か後生を思はざらん、貴辺何なる仏法をか持ちて出離をねがひ又亡者の後世をも訪い給うや。予答えて云く一日或る上人来つて我が為に五戒・二百五十戒を授け給へり実に以て心肝にそみて貴し、我深く良観上人の如く及ばぬ身にもわろき道を作り深き河には橋をわたさんと思へるなり。其の時居士・示して云く汝が道心貴きに似て愚かなり、今談ずる処の法は浅ましき小乗の法なり、されば仏は則ち八種の喩を設け文殊は又十七種の差別を宣べたり或は螢火・日光の喩を取り或は水精・瑠璃の喩あり爰を以て三国の人師も其の破文一に非ず、次に行者の尊重の事必ず人の敬ふに依つて法の貴きにあらず・されば仏は依法不依人と定め給へり。我伝え聞く上古の持律の聖者の振舞は殺を言い収を言うには知浄の語有り行雲廻雪には死屍の想を作す而るに今の律僧の振舞を見るに布絹・財宝をたくはへ利銭・借請を業とす教行既に相違せり誰か是を信受せん、次に道を作り橋を渡す事還つて人の歎きなり、飯嶋の津にて六浦の関米を取る諸人の歎き是れ多し諸国七道の木戸・是も旅人のわづらい只此の事に在り眼前の事なり汝見ざるや否や。
愚人色を作して云く汝が智分をもつて上人を謗し奉り其の法を誹る事謂れ無し知つて云うか愚にして云うかおそろし・おそろし。其の時居士笑つて云く嗚呼おろかなり・おろかなり彼の宗の僻見をあらあら申すべし、抑教に大小有り宗に権実を分かてり鹿苑施小の昔は化城の戸ぼそに導くといへども鷲峯開顕の莚には其の得益更に之れ無し。
現代語訳
ここに私の年来の知人で、ある所に隠居している居士が一人おり、私の憂いを慰めるために訪れてきた。始めには過去が広漠として夢に似ている事などを語り、終わりには行く末の暗々として見定め難いことを語った。しばらく欝積を晴らし思いを述べたのち、私に問うていうには、ところで、人は世にある限り、だれでも後生を思うものだが、あなたはいかなる仏法を持って生死の苦しみを離れようと願い、また死者の後世を弔うのかと。
私は答えていう。先日ある上人が来られて、私のために五戒・二百五十戒を授けてくださった。まことに心肝に染めて貴く思う。私は良観上人の如く、及ばずながらも、悪い道を良くし、深い河には橋をかけたいと思うのである。
そのとき居士はさとしていう。あなたのやり方は志が貴いように見えて、実は愚かである。あなたが今いった法は、浅はかな小乗の法である。それゆえ仏は八種の譬喩を設け、文殊は又十七種の差別を述べたのである。あるいは小乗を螢火、大乗を日光に譬え、あるいは小乗を水精、大乗を瑠璃に譬えている。こういうわけで、インド、中国、日本の人師達にも、小乗を破折した文は多数ある。
つぎに戒律を守る者を尊重することについていえば、かならずしも人が敬うからといって、法が貴いのではない。それゆえ仏は「法に依って人に依らざれ」と定められたのである。
私の伝え聞くところでは、昔の持律の聖者の振る舞いは、殺といい収ということさえ嫌ってべつのことばにいいかえ、美人を見ては屍を想うほどであった。それなのに今の律僧の振る舞いを見ると、絹布を身にまとい、財宝を蓄え、利息を取って金を貸すことを仕事としている。教えと行いとがすでに相違している。だれがこれを信受できようか。つぎに道を作り橋をかけることは、かえって人々の嘆きになっている。飯島の津で六浦の関米を取ることから諸人の歎きは多い。諸国の七道の関所も旅人の迷惑となっているのは眼前の事実であるが、あなたはこれを見てはいないのか。
愚人は顔色を変えていう。あなたの智慧の程度でもって上人を謗り、その法を謗る何の理由もない。知っていうのか、愚かだからいうのか。まことに恐ろしいことだ。
その時、居士は笑っていう。ああ、あなたこそ愚かな人だ。かの宗の僻見を少々話そう。いったい教えには大乗と小乗とがあり、宗に権宗と実宗とを分けている。小乗の教えは釈尊が鹿野苑で説いた時には、人々を化城の扉に導いたけれども、霊鷲山で法華経の開顕があった後には、なんの利益もない教えとなった。
語釈
知音
知音という。「音を知る人」で、心の底まで理解しあった友の意。中国の春秋時代、琴の名人伯牙は親友の鍾子期が亡くなると、自分の琴の音を理解する者はもはやいないと愛用していた琴の糸を切り、再び弾じなかったという。「列子」湯問篇にある。
八種の喩
小乗の声聞・縁覚の小法と、大乗の菩薩の大法とを比較するために説かれた八種の譬のこと。清浄毘尼方広経等に説かれる。①讚歎大海牛跡の譬(菩薩の戒律は大海のように広大で無量の功徳があり、声聞の戒律は牛跡のように少ない功徳しかない)。②飢羸不服雑毒の譬(声聞・縁覚は雜毒のようなもので、どんなに飢えても雜毒を食べないように、菩薩は絶対に二乗の境地に留まることはない)。③忍斬手足畏頭の譬(小乗戒を破ることは、手足を斬られるようなものでまだ堪え忍べるが、大乗戒を破ることは頭を斬られるようなもので、まことに恐れるべきである)。④貧人好食王毒の譬(貧人が好んで食べる物は転輪王にとって毒であるように、声聞の持戒精進は菩薩にとって破棄すべきものである)。⑤多財封邑商主の譬(菩薩は多くの財と領地を持つ大商人のようなもので、無量の衆生を養育することができるが、声聞は貧人のようなもので何も施しえない)。⑥一毛取蘇四海の譬(声聞の智慧は、一毛を百分した中の一分の毛で取る一点の蘇のようにきわめて微々たるものであるが、菩薩の功徳善根は四大海に充満する蘇のように無量である)。⑦蟻子一粒満地の譬(声聞の解脱の果は、蟻の含み持つ一粒の穀物のように少量であるが、菩薩の善根功徳は秋に成熟して大地に満ちる穀物のように無量である)。⑧水精琉璃宝珠の譬(声聞の功徳は百千の水精(水晶)のようなものであり、菩薩の功徳は一つの無限の価値を有する琉璃宝珠のようなものである)。
殺を言い収を言うには……行雲廻雪には……
秘蔵宝鑰巻中の「殺を言い、収を言うに即ち知浄の語あり。行雲廻雪には即ち死尸の想あり」の文。古の持戒の聖者は、殺生を意味する殺とか、蓄財を意味する収などの語句は口にしないしきたりであり、必要に迫られた時は清浄な語に言い換えた。また行雲廻雪とは、白雲が風に吹かれ雪が風に吹き回されるさまから美人を形容したことば。美人を見ては、著想を断とうとして死屍を連想したことをいう。大智度論では淫欲などを除くため人の死体を想う九想観を説いている。
講義
本章では、律僧の説に従った愚人のもとへ、念仏の居士が訪れ、愚人の受持しようとした五戒や二百五十戒等を小乗の法であると説き、文証を挙げ、また良観等の律僧の現実の姿を示す現証を挙げて律宗を破折するところである。
日蓮大聖人は、念仏の居士に、次の二つの観点から律宗を破折させている。
第一に、律宗は一代聖教中の小乗宗であり、小乗の中でも小律である。全く末法には役に立たない小法であるという観点である。
文証として、清浄毘尼方広経に説かれる八種の喩、また、文殊が同経で示した十七種の差別をのべ、大乗、小乗の相違を明らかにし、小乗を破折されている。
また、理論のうえから、釈尊が鹿野苑で小乗教を説いたのは一切衆生を大乗へと誘引するための化導方便であり、ひとまず化城の宝刹に誘引したのであって、方等、般若時をすぎて、霊鷲山での法華開顕の説法時には鹿苑説法の得益は露と消えてしまっていることを指摘されている。
第二の観点は、現証である。
現証を論ずるにあたって、まず、世間の人が良観を生き仏のように敬っていたとしても、けっして良観の修行している律宗が尊いとはいえないといわれ、律宗はあくまで小乗宗であることを忘れないようにと念をおされている。
涅槃経に「依法不依人」と説かれるように、どこまでも法の正邪を根本とすべきであり、人によって法の正邪を定めてはならないのである。
次いで、良観等の律僧の偽善者としての仮面をはいでいくのである。昔の正法時代の律僧は、戒律をまもり清浄であった。しかし、現在の律僧は財宝を蓄え、貸借利銭を業とし、教えと行いが全く違っていることを指摘されている。
教行証御書でも、日蓮大聖人は良観等が口で戒律をいいながら、行為は破戒であることを厳しく責められている。
「彼の律宗の者どもが破戒なる事・山川の頽るるよりも尚無戒なり、成仏までは思もよらず人天の生を受くべしや、妙楽大師云く『若し一戒を持てば人中に生ずることを得若し一戒を破れば還て三途に堕す』と、其の外斎法経・正法念経等の制法・阿含経等の大小乗経の斎法斎戒・今程の律宗忍性が一党誰か一戒をも持てる還堕三途は疑無し、若しは無間地獄にや落ちんずらん」(1282:06)と。
良観等の律僧は、このような自らの破戒の行為をカムフラージュするために、種々の社会事業、慈善事業に手を染めて、それによって、人々の尊敬を得ようとしたのである。
だが、その社会事業も、道をなおしたり、橋をつくったりする費用を、六浦の関米や諸国七道の木戸から捻出したために、多くの人々の欺きをかい、また旅人に難儀をかけていたのである。
彼の売名的な行為の背景に幾多の人々の歎きがあったというこの現実から目をそらして、良観の慈善事業という仮面に惑わされてはならない。なによりも、その仮面の裏に隠された貪欲な心と策略を見抜かなければならない。
良観が民衆を犠牲にしてまでも社会事業を派手に行うことによって自らの破戒を隠し、人々の尊信をかおうとしていること、さらに、この偽りの名声によって世間の人が敬っている僧だから、修行している仏法が正しいと思わせて、権力と結託しようとしていること等の策略に惑わされてはならないと、日蓮大聖人は指摘されるのである。
良観の仮面を見破り、名誉欲、権力欲、金銭欲等の貪欲に汚された魔の正体を指摘されたのは日蓮大聖人御一人であった。
このゆえにこそ、良観は、二百五十戒を持つと称していかにも有徳の聖者のように振る舞いつつも、法華円頓の行者である日蓮大聖人をさして、破壊、無戒であるとそしり、さらには不殺生の戒に背いて、大聖人をなきものにしようとしたのである。
この姿こそ、教行流布の次第を知らず、小をもって大を打ち、なかんずく、小乗戒をもって法華経の具足の妙戒をそしる魔の働きといわねばなるまい。
末法今時においては、妙法蓮華経の万戒の功徳を収めた根本の妙戒をのぞいては、爾前迹門の諸戒にさえも一分の功徳もない。まして、小乗戒の二百五十戒等は有害無益であることを知らなければならない。
なお、ここでは律宗を破するのに念仏の居士にさせておられるが「鷲峯開顕の莚には其の得益更に之れ無し」は、法華経の立場から破されている。
第五章 念仏の教えを説く
其の時愚人茫然として居士に問うて云く文証現証実に以て然なりさて何なる法を持つてか生死を離れ速に成仏せんや。居士示して云く我れ在俗の身なれども深く仏道を修行して幼少より多くの人師の語を聞き粗経教をも聞き見るに・末代我等が如くなる無悪不造のためには念仏往生の教にしくはなし、されば慧心の僧都は「夫れ往生極楽の教行は濁世末代の目足なり」と云ひ法然上人は諸経の要文を集めて一向専修の念仏を弘め給ふ中にも弥陀の本願は諸仏超過の崇重なり始め無三悪趣の願より終り得三法忍の願に至るまでいづれも悲願目出けれども第十八の願殊に我等が為に殊勝なり、又十悪・五逆をもきらはず一念・多念をもえらばずされば上一人より下万民に至るまで此の宗をもてなし給う事他に異なり又往生の人それ幾ぞや。
其の時愚人の云く実に小を恥じて大を慕ひ浅を去て深に就は仏教の理のみに非ず世間にも是れ法なり我早く彼の宗にうつらんと思ふ委細に彼の旨を語り給へ、彼の仏の悲願の中に五逆・十悪をも簡ばずと云へる五逆とは何等ぞや十悪とは如何。智人の云く五逆とは父を殺し母を殺し阿羅漢を殺し仏身の血を出し和合僧を破す是を五逆と云うなり、十悪とは身に三・口に四・意に三なり身に三とは殺・盗・婬・口に四とは妄語・綺語・悪口・両舌・意に三とは貪・瞋・癡是を十悪と云うなり、愚人云く我今解しぬ今日よりは他力往生に憑を懸くべきなり。
現代語訳
その時、愚人は茫然として居士に問うていう。文証も現証もまことにそのとおりである。それではいかなる法を受持すれば、生死の苦しみを離れ速やかに成仏できるのか。
居士はさとしていう。私は在家の身ではあるが、深く仏道を修行して、幼少から多くの人師の話を聞き、ひととおり経教をも開いて見ると、末代の我等のようなあらゆる悪業ばかりを積み重ねている凡夫のためには、念仏往生の教えに及ぶものはない。それゆえ慧心僧都は往生要集で「それ往生極楽の教行は濁世末代の人々の目と足である」といい、法然上人は諸経の要文を集めて選択集を著し、一向専修の念仏を弘めた。なかでも阿弥陀如来の四十八願は、諸仏の本願に超過して尊いものだ。始めの「無三悪趣」の願より終わりの「得三法忍」の願に至るまで、どの悲願もありがたいけれども、第十八願は殊に私どものために勝れている。また十悪・五逆の者を嫌わず、一念・多念をも選ばず皆救われる。それゆえ上一人より下万民に至るまで、この念仏宗を尊ぶことは、他宗と異なっている。また往生できた人も、どんなに多いことか。
その時、愚人のいうには、まことに小乗を恥じて大乗を慕い、浅い教えを捨てて深い教えにつくのは、仏教の道理のみではなく、世間の法でもある。私は早く念仏宗に移りたいと思う。くわしく、彼の宗旨について語ってほしい。彼の阿弥陀如来の悲願の中で、五逆・十悪の者でも選びすてないといっている五逆とは何のことか。十悪とは何か。
智人のいうには、五逆とは、父を殺し、母を殺し、阿羅漢を殺し、仏身より血を出し、和合僧を破す。この五つの罪をいうのである。十悪とは、身業に三、口業に四、意業に三である。身業の三とは殺生・偸盗・邪婬、口業の四とは、妄語・綺語・悪口・両舌、意業の三とは、貪欲・瞋恚・愚癡、これを十悪というのである。愚人はいう。私の疑問は、いま氷解した。今日からは他力往生に頼みをかけよう、と。
語釈
慧心の僧都
(0942~1017)。平安中期の天台宗の僧。比叡山の恵心院に住み、権少僧都という位を与えられたため、恵心僧都と通称される。「往生要集」を著し、浄土教を広めた。台密の二大流派の一つ、恵心流の祖とされる。
法然上人
(1133~1212)。法然房源空のこと。平安末期から鎌倉初期の僧。日本浄土宗の開祖。天台宗の僧であったが、中国浄土教の善導の思想に傾倒し、他の一切の修行を排除し念仏口称をもっぱら行う専修念仏を創唱した。代表著作の「選択集」(選択本願念仏集)では、法華経をも含む一切の経典の教えを捨てよ・閉じよ・閣け・抛てと排除し、もっぱら念仏を称えることによって往生を願うべきであると説いた。法然の専修念仏に対しては、当初、後白河法皇や摂政・関白を歴任した九条兼実ら有力者の支持を得たが、やがて諸宗派からの反発が強まる。朝廷・幕府も禁止の命令を出し、建永2年(1107)、法然らが流罪され、高弟が死罪に処せられた。その後も繰り返し禁圧が続くが、念仏は広がっていった。弟子に親鸞がいる。
無三悪趣の願
阿弥陀仏の四十八願のうち、最初の願のこと。我が国土に、地獄・餓鬼・畜生の三悪趣のないようにとの誓願。無量寿経巻上にある。
得三法忍の願
阿弥陀仏の四十八願のうち、最後の願のこと。他方の国土の菩薩衆に三法忍を得させたいという誓願。無量寿経巻上にある。
第十八の願
阿弥陀仏の四十八願のうち、第十八・念仏往生願のこと。無量寿経巻上に「設し我れ仏を得たらむに、十方の衆生至心に信楽して我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、若し生ぜずば正覚を取らじ。ただ五逆と正法を誹謗するを除く」とある。弥陀の誓願中、最も重要な願とされる。
講義
律宗を破折した居士が、本章では出離生死の法であるといって、念仏往生の教えを説きすすめるのである。
居士は、末代の凡夫には念仏の教え以外に救われる道はないと主張し、とくに、法然の選択集にあらわされた阿弥陀の四十八願中の第十八願をとりだして、十悪・五逆をつくった極悪人でも念仏を称えれば往生をとげることができると説く。
これを聞いた愚人は、五逆・十悪の内容を質問した後、他力往生に望みを託すことになるのであるが、居士が念仏の功力をあらわしているポイントとして強調する弥陀の十八願にこそ、念仏の限界が示されている。だが、念仏者はそれをかくしているのである。
浄土宗の依経の一つである無量寿経には、阿弥陀仏の因位の時に四十八願を立てたことが説かれている。過去無数劫に世自在王如来が出現し民衆を教化した。その時、一人の国王がその説法を聞き歓喜し、国位を捨てて出家、法蔵比丘と称した。そして諸の菩薩道を行じ、自分の仏国土を荘厳したいと願い、四十八の誓願を立てたのである。なかでも第十八は、念仏往生願といわれ、四十八願中の王として重視されている。法然の選択集には「四十八願、皆本願なりと雖も、殊に念仏をもって、往生の規となす(中略)既に念仏往生の願をもって、本願の中の王となすなり」とある。
この第十八願には、「設し我れ仏を得たらむに、十方の衆生至心に信楽して我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、若し生ぜずば正覚を取らじ。ただ五逆と正法を誹謗するとを除く」と説かれている。この誓願には、念仏を称えれば極楽に往生できるとある。ただし明確に「五逆と正法を誹謗するとを除く」との文が記されている。つまり、五逆罪と誹謗正法の者は、いかに念仏を称えようとも極楽浄土に生ずることはできないと明示されているのである。しかるに法然がこの文を隠し、前半部分だけをとり、五逆重罪の人なりといえども、十念すれば又往生する、と主張したことは、その本願そのものをふみにじっているといわざるを得ない。
この〝正法〟が念仏そのものでないことは、念仏をしていても正法を誹謗している者は救えないというこの本願自体から明白である。法華経こそその〝正法〟であることは、釈尊一代の仏教の教えのなかで明らかにされたのである。
法然は、文化・社会の退廃と、打ち続く動乱の中に人間の罪悪の深さ、恐ろしさの露呈した末法の現実を踏まえて、人間の自力救済を否定し、阿弥陀仏の他力による救済を説き、聖道・難行を捨て浄土・易行をとり、諸行兼修を止め専修念仏を勧めた。とくに、中国浄土教の祖である曇鸞・道綽・善導等の説を極端に推し進め、選択集の中で、捨閉閣抛の四文字をもって、浄土三部経以外の一切経を排斥したのである。
大聖人は立正安国論の中で「或は捨て或は閉じ或は閣き或は抛つ此の四字を以て多く一切を迷わし、剰え三国の聖僧十方の仏弟を以て皆群賊と号し併せて罵詈せしむ、近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗正法の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の『若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人命終つて阿鼻獄に入らん』の誡文に迷う者なり」(0023:06)と厳しく破折されている。
このように、阿弥陀仏自身が正法たる法華経を謗る者はどのように念仏を称えても救えないと断言しているのであるから、法華経も含めて一切経を捨てよ等といって正法誹謗を犯している浄土念仏の信仰は明らかに弥陀の本願にそむくものである。また捨閉閣抛による法華経の誹謗は、譬喩品の文にあるように入阿鼻獄の悪因となるのである。ゆえに、念仏無間は必定といわざるをえない。
第六章 真言密教を勘める
爰に愚人又云く以ての外盛に・いみじき密宗の行人あり是も予が歎きを訪わんが為に来臨して始には狂言綺語のことはりを示し終には顕密二宗の法門を談じて予に問うて云く抑汝は何なる仏法をか修行し何なる経論をか読誦し奉るや。予答えて云く我一日或る居士の教に依つて浄土の三部経を読み奉り西方極楽の教主に憑を深く懸くるなり。行者の云く仏教に二種有り一には顕教・二には密教なり顕教の極理は密教の初門にも及ばずと云云、汝が執心の法を聞けば釈迦の顕教なり我が所持の法は大日覚王の秘法なり、実に三界の火宅を恐れ寂光の宝台を願はば須く顕教を捨てて密教につくべし。
愚人驚いて云く我いまだ顕密二道と云う事を聞かず何なるを顕教と云ひ何なるを密教と云へるや。行者の云く予は是れ頑愚にして敢て賢を存ぜず然りと雖も今一二の文を挙げて汝が矇昧を挑げん、顕教とは舎利弗等の請に依つて応身如来の説き給う諸教なり密教とは自受法楽の為に法身大日如来の金剛薩埵を所化として説き給う処の大日経等の三部なり。愚人の云く実に以て然なり先非をひるがへして賢き教に付き奉らんと思うなり。
現代語訳
ここに愚人がまたいうのには、非常に勢いの盛んな勝れた真言宗の行者がいる。この人も私の嘆きを慰めるために訪れてきて、始めには狂言綺語の道を示し、終わりには顕教や密教の法門を説いて、私に問うていう。いったい、あなたはいかなる仏法を修行し、いかなる経論を読誦しているのか。
私は答えていう。自分は先日ある居士の教えによって浄土の三部経を読み、西方極楽の教主に頼みを深くかけている。
行者はいう。仏教に二種ある。一には顕教、二には密教である。顕教の極理は密教の初門にも及ばないといわれている。あなたの執着している法を聞けば、釈迦の説いた顕教である。我が所持の法は大日如来の秘法である。まことに三界の苦しみを恐れ、常寂光の国土を願うならば、当然顕教を捨てて密教につくべきである。
愚人は驚いていう。私はまだ顕密二道ということを聞いたことがない。いかなる教えを顕教といい、いかなる教えを密教というのか。
行者はいう。私は道理にくらく、すこしの学才もない。そうであっても、今、一、二の文を挙げて、あなたの矇昧を開くとしよう。顕教とは舎利弗等の願いによって、応身如来が説かれた諸教である。密教とは自受法楽のために、法身仏たる大日如来が金剛薩埵を所化として説かれた大日経等の三部の経である。
愚人はいう。まことに仰せのとおりである。過去のあやまちを改めて、すぐれた教えにつこうと思う。
語釈
密宗
真言宗をさす。大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
狂言綺語
道理に合わないことばと巧みに飾ったことば。仏教や儒教の立場から、小説・物語の類を卑しめていった。
顕密二宗
顕宗(顕教)と密宗(密教)。もとは空海(弘法)が自身の教判として用い、衆生を導くために応身・化身(ここではそれぞれ報身・応身にあたる)としての姿を現した如来が衆生の機根に従って明らかに説いた仮の教えを顕教と呼び、法身の如来が真理をひそかにそのまま示した教えを密教としたことに由来する。後に日本仏教で一般的に用いられ、顕密と併称して日本仏教全般を意味する。円仁(慈覚)以降の天台密教は、顕教と密教が教理の上で究極的には一致すると説くが、別しては印と真言といった事相を説く密教の方が顕教より優れているとする。
西方極楽の教主
阿弥陀仏のこと。浄土経典に説かれ、西方の極楽世界を主宰する仏。阿弥陀は梵語アミターユス(Amitāyus)またはアミターバ(Amitābha)の音写で、アミターユスは「無量寿」、アミターバは「無量光」と訳される。無量寿経によれば、阿弥陀仏の修行時代の名を法蔵菩薩といい、長期の修行の果てに衆生救済の四十八の誓願を成就し仏に成ったという。そして臨終に際し阿弥陀の名を称える者には、阿弥陀仏が来迎し、極楽浄土に導き入れるという。浄土教では阿弥陀仏の誓願に基づいて、念仏によってその浄土である極楽へ往生しようとした。
顕教
真言宗が密教以外の仏教の教えを指すのに用いた語。明らかに説かれた教えを意味する。
密教
インドにおける大乗仏教の歴史的展開の最後期、七世紀から本格的に展開した仏教。古代インドの民間信仰を取り入れ、神秘的な儀礼や象徴、呪術を用い、修行の促進や現世利益の成就を図る。日本では空海(弘法)以来、密教以外の通常の仏教を顕教と呼んで区別する。
大日覚王
密教の教主・本尊である大日如来のこと。梵名マハーヴァイローチャナ(Mahāvairocana)の訳。摩訶毘盧遮那と音写し、毘盧遮那と略す。光明遍照・遍一切処・遍照如来などとも訳される。大日経・金剛頂経などに説かれる密教の教主で、密厳浄土の仏。密教の曼荼羅の中心尊格。真理そのものである法身仏で、すべての仏・菩薩を生み出す根本仏とされる。大日如来の本義については真言宗と天台宗では相違があり、天台宗(台密)では大日如来と釈迦如来を同一仏とし、その法身が大日、応身が釈尊としてあらわれたと解釈するが、真言宗(東密)では大日如来と釈迦仏を別仏とし、おのおの三身をそなえており、しかも大日如来の三身が遍く一切の所に行きわたるので大日如来が最高仏であると解釈している。
金剛薩埵
密教を相承した八人の祖師のうちの第二祖。梵名ヴァジラサットヴァ(Vajra-sattvaḥ)、執金剛、金剛手、秘密主等と訳す。大日如来の内眷属とされる諸の執金剛の上首。大日経の対告衆で、大日経を結集して竜樹に伝えたとされる。金剛界曼荼羅では三十七尊の一つで、胎蔵界曼荼羅では金剛手院の主尊となっている。普賢菩薩と同体異名とされる。
講義
本章では、念仏の教えを聞き、西方極楽浄土への往生を期す愚人のところへ、真言の修行者がきて、密教へと誘導していく。
真言の行者の説く要旨は、仏教には顕教と密教との二種があり、顕教の極理は密教の初門にも及ばない。顕教は舎利弗等の請によって、釈迦応身如来の説かれた諸経であり、密教は自受法楽のために法身大日如来が金剛薩埵を所化として説かれた大日経、金剛頂経、蘇悉地経をさしている。念仏は釈尊の顕教であるから、三界の苦を離れ、寂光の都に行こうとすれば、顕教を捨てて密教に帰依すべきである等と勧めるのである。
愚人は、この説を聞いて念仏を捨てて密教に帰依する。
ここでは一応、念仏より真言がすぐれているという意味で、愚人が念仏から真言に帰する。この限りでならば正しいが、真言密教が最もすぐれているというのは邪義である。
仏の説かれた最高の経典は法華経であるが、真言宗は法華経を応身釈迦如来の説いた顕教であり、大日経等の密教より劣ると主張する。これは、とんでもない誤りである。
最も深奥の法を説かれたという意味での真実の密教とは法華経なのである。
日蓮大聖人は、御義口伝に「今日蓮等の類いの意は即身成仏と開覚するを如来秘密神通之力とは云うなり、成仏するより外の神通と秘密とは之れ無きなり」(0753: 0753-第二如来秘密神通之力の事:02)と仰せである。
また、法華経に対して真言の密教を次のように破折されている。
真言見聞には「所詮真言を密と云うは是の密は隠密の密なるか微密の密なるか、物を秘するに二種有り一には金銀等を蔵に籠むるは微密なり、二には疵・片輪等を隠すは隠密なり、然れば則ち真言を密と云うは隠密なり其の故は始成と説く故に長寿を隠し二乗を隔つる故に記小無し、此の二は教法の心髄・文義の綱骨なり、微密の密は法華なり」(0144:13)とある。
法華経は二乗作仏・久遠実成の深い法理を明かす経典であるから、金銀等を蔵に籠めている意味の微密である。これに対して、真言密教では、始成正覚と説くゆえに久遠の長寿を隠し、二乗不作仏のゆえに記小が無い。ゆえに真言の密教は、疵や片輪等を隠すという意味の隠密である。
真言が蜜教であるといっても、これは隠密の密であり、法華経こそが真実の秘密の経典であり、微密であると、日蓮大聖人は、真言の邪義を破折されている。
つぎに、真言の修行者が主張する、顕教を説いた応身釈迦如来とは別に法身大日如来が説いた経であるから、大日経等が顕教よりすぐれるというのも邪義である。
大日如来は、現実にこの世に出現して説法教化した仏ではない。ただ、釈尊の説法の上で、衆生を化導し誘引するために方便としてしばらく示された架空の仏にすぎないのである。
日蓮大聖人は、真言見聞で「真言は法華経より外に大日如来の所説なり云云、若し爾れば大日の出世成道・説法利生は釈尊より前か後か如何、対機説法の仏は八相作仏す父母は誰れぞ名字は如何に」(0149:02)と鋭く追及されている。
大日如来は釈尊の説法上で示された仏であり、法華経最第一を説かれる釈尊が、法華経よりも大日経がすぐれるなどといわれるはずがないのである。この点については、本抄の後の章で、大日如来は法華実相を顕した時には、釈尊の応身仏にすぎないという観点から詳細に破折を加えられている。
第七章 禅宗の教えを説く
又爰に萍のごとく諸州を回り蓬のごとく県県に転ずる非人のそれとも知らず来り門の柱に寄り立ちて含笑語る事なし、あやしみを・なして是を問うに始めには云う事なし後に強て問を立つる時・彼が云く月蒼蒼として風忙忙たりと、形質常に異に言語又通ぜず其の至極を尋れば当世の禅法是なり、予彼の人の有様を見・其の言語を聞きて仏道の良因を問う時、非人の云く修多羅の教は月をさす指・教網は是れ言語にとどこほる妄事なり我が心の本分におちつかんと出立法は其の名を禅と云うなり。愚人云く願くは我聞んと思ふ。非人の云く実に其の志深くば壁に向い坐禅して本心の月を澄ましめよ爰を以て西天には二十八祖系乱れず東土には六祖の相伝明白なり、汝是を悟らずして教網にかかる不便不便、是心即仏・即心是仏なれば此の身の外に更に何にか仏あらんや。
現代語訳
またここに、浮き草のように諸国を回り、蓬のように各地に転ずる非人が、いつとも知れぬ間に来て、門の柱に寄り立って黙ってほくそ笑んでいる。怪しんで尋ねるのに、始めは何もいわない。後に強いて尋ねた時、彼のいうには、月は蒼々と照り、風は忙々と吹くと。姿形は常人と異なり、言語もまた通じない。よくよく尋ねてみるとこれは当世の禅法であった。私はかの人の有り様を見、その言語を聞いて仏道の良因を尋ねた。その時、非人のいうには、経典の教えは、月をさす指であり、仏の施設した教網によるのは言語にとらわれた迷妄である。自分の心の本分に立ち戻ろうとして説かれた法は、その名を禅というのであると。
愚人はいう。ぜひとも私はその教えを聞きたいと思う。
非人はいう。本当にその志が深いのならば、壁に向かい坐禅して本心の月を澄まさせなさい。この禅はインドでは二十八祖が乱れず伝承し、中国では六祖の相伝が明白である。あなたはこれを知らないで、教網にかかっている。まことにあわれむべきである。この心はそのまま仏、心に即して仏があるのだから、この身の外にさらに別に仏があるわけがない。
語釈
非人
ここでは遁世の出家者をいう。禅宗では雲水といい、その名称が示すとおり、行方を定めず諸方の禅師を訪ねて遍歴し、諸国を行脚する修行僧をさす。
修多羅
①梵語スートラ(Sūtra)の音写で素多覧とも書く。経文・経典のこと。仏の説いた教法を後世に伝える章句のことで、経と同意。十二部経の一つ。②七条袈裟に用いる組紐のこと。ここでは①の意。
修多羅の教は月をさす指
禅宗では、円覚修多羅了義経に「修多羅の教は月を標する指の如し」とある文によって、修多羅の教え、つまり経文に説かれた教えは、月をゆびさす指のようなものであり、月を見れば指は無用であるように、禅法によって真如の月を悟ればよいのであって、指である経文は不用である、と主張する。
二十八祖
禅宗で説く法統。インドで釈尊の奥義を相伝したとされる二十八人の祖師のこと。伝法正宗記巻四・五には、付法蔵二十四人と婆舎斯多・不如密多・般若多羅・菩提達磨を挙げ、二十八祖とする。しかし付法蔵因縁伝巻六では、第二十四祖師子尊者の後は、付法の人は絶えたとされる。
是心即仏・即心是仏
禅宗の教義で、菩提達磨の説という。達磨大師血脈論には「心は即ち是れ仏、仏は即ち是れ心。心の外に仏無く、仏の外に心無し」とある。すなわち、凡夫の心がそのまま仏であるとする説。
講義
密教に帰依した愚人のところに、今度は禅僧が訪れる。
愚人が、仏道の良因をたずねたところ、その雲水は、仏の経典は月をさす指であり、経文は言語にとらわれた妄事である。自分の心の本分を見いだす法は禅であるから、壁に向かって坐禅を組み本心の月を澄ましめよという。
さらに、禅の二十八祖の相伝を述べ、是心即仏・即心是仏だから、この身の他に仏はないと説いたのである。
ここにきたって、愚人は、禅に帰依するのではなく、ついに、真の仏法とは何かという疑問をもつに至る。
本章で前段が終わり、次章から後段に入り、愚人は、真実の仏法を知る人を求めて求道の旅に出て、法華の聖人にあうのである。
ところで、禅で説く教外別伝、二十八祖の相伝については、後章で詳細な破折が加えられているので、ここでは、禅の所立をあらわすことばである「是心即仏・即心是仏」について述べておきたい。
〝是心即仏・即心是仏〟について
禅宗の立義で、達磨の血脈論には「心は即ち是れ仏、仏は即ち是れ心。心の外に仏無く、仏の外に心無し」とある。
是心即仏とは、凡夫の心が即ち仏であり、凡夫の心の外に仏はないことをいう。即心是仏とは、心に即して是れ仏であり、是性の外に仏なきをいうのである。つまり、凡夫の心がそのまま仏であるとする魔見である。
この魔見について、日蓮大聖人は蓮盛抄で、問答をとおして次のように破折されているので、御文にそって考えていきたい。
なお、是心即仏・即心是仏というも同意である。
「禅宗云く是心即仏・即身是仏と、答えて云く経に云く『心は是れ第一の怨なり此の怨最も悪と為す此の怨能く人を縛り送つて閻羅の処に到る汝独り地獄に焼かれて悪業の為に養う所の妻子兄弟等・親属も救うこと能わじ』云云、涅槃経に云く『願つて心の師と作つて心を師とせざれ』云云、愚癡無懺の心を以て即心即仏と立つ豈未得謂得・未証謂証の人に非ずや」(0152:03)
禅宗のいう是心即仏・即身是仏についてどう考えるかという質問である。
大聖人は答えて、凡夫の心こそが第一の怨であり、その心こそ、人を邪道に束縛し、地獄へ陥れる元凶である、自分ひとり地獄におちるのみならず、眷属をも救えないと説いた経文を引かれる。涅槃経には心の師とはなっても、心を師としてはならぬと示されている。
ゆえに、禅宗が、愚癡無懺の心をもって直ちに即心即仏であるというのは、未だ得ざるを得たりと思い、未だ証せざるを証せりと思う増上慢の人であると破折されている。
凡夫の愚癡無懺な迷いの心をもって、壁に向かって坐禅をしても、結局、その迷心にひかれて悪道におちるだけである。経文として残された仏の教えを、月をさす指であり、言語の妄事であるといって無視してしまったならば、凡夫は悟ることはできないのである。
それにもかかわらず、坐禅をして悟りを得たなどというのは、未だ証得しない本当の悟りを証得したかのように思う増上慢にほかならないのである。
蓮盛抄には、さらに破折が加えられている。
「問う法華宗の意如何、答う経文に『具三十二相・乃是真実滅』云云、或は『速成就仏身』云云、禅宗は理性の仏を尊んで己れ仏に均しと思ひ増上慢に堕つ定めて是れ阿鼻の罪人なり」(0152:07)。
では、法華宗では、その点をどう説いているのか、という問いに対して、日蓮大聖人は、経文を引き、仏道修行の力によって三十二相の仏身を得てこそ真実の成仏であって、凡夫の心がそのまま仏心なのではないと説かれる。
たしかに、円理においてはすべて十界の衆生は仏といえるであろう。いかし、これは天台の六即位の理即の位にすぎず、たんなる理性の仏であって、実際の仏ではないのである。
ところが、禅宗は、理性の仏を尊んで、凡夫の自分がそのまま仏に均しいと思うから増上慢におち、堕地獄の因をつくってしまうのである。
法華経を信受し、仏道修行をすることによってはじめて事実のうえで仏の徳があらわれるのである。
しかるに、法華経を月をさす指であり、言語にとどこおる妄事であるといって無視し、法華経を信ぜず、捨て去ることこそ、天魔の所行といわざるをえないのである。
第八章 法華経の聖人に値う
愚人此の語を聞いてつくづくと諸法を観じ閑かに義理を案じて云く仏教万差にして理非明らめ難し宜なるかな常啼は東に請い善財は南に求め薬王は臂を焼き楽法は皮を剥ぐ善知識実に値い難し、或は教内と談じ或は教外と云う・此のことはりを思うに未だ淵底を究めず・法水に臨む者は深淵の思いを懐き人師を見る族は薄冰の心を成せり、爰を以て金言には依法不依人と定め又爪上土の譬あり若し仏法の真偽をしる人あらば尋ねて師とすべし求めて崇べし。夫れ人界に生を受くるを天上の糸にたとへ仏法の視聴は浮木の穴に類せり、身を軽くして法を重んずべしと思うに依つて衆山に攀歎きに引れて諸寺を回る足に任せて一つの巌窟に至るに後には青山峨峨として松風・常楽我浄を奏し前には碧水湯湯として岸うつ波・四徳波羅蜜を響かす深谷に開敷せる花も中道実相の色を顕し広野に綻ぶる梅も界如三千の薫を添ふ言語道断・心行所滅せり謂つ可し商山の四皓の所居とも又知らず古仏経行の迹なるか、景雲朝に立ち霊光夕に現ず嗚呼心を以て計るべからず詞を以て宣ぶべからず。予此の砌に沈吟とさまよひ彷徨とたちもとをり徙倚とたたずむ、此処に忽然として一の聖人坐す其の行儀を拝すれば法華読誦の声深く心肝に染みて閑窻の戸ほそを伺へば玄義の牀に臂をくだす。爰に聖人予が求法の志を酌知て詞を和げ予に問うて云く汝なにに依つて此の深山の窟に至れるや、予答えて云く生をかろくして法をおもくする者なり、聖人問て云く其の行法如何、予答えて云く本より我は俗塵に交りて未だ出離を弁えず、適善知識に値て始には律・次には念仏・真言・並に禅・此等を聞くといへども未だ真偽を弁えず。聖人云く汝が詞を聞くに実に以て然なり身をかろくして法をおもくするは先聖の教へ予が存ずるところなり、抑上は非想の雲の上・下は那落の底までも生を受けて死をまぬかるる者やはある、然れば外典のいやしきをしえにも朝に紅顔有つて世路に誇るとも夕には白骨と為つて郊原に朽ちぬと云へり、雲上に交つて雲のびんづら・あざやかに廻雪たもと・を・ひるがへすとも其の楽みをおもへば夢の中の夢なり、山のふもと蓬がもとはつゐの栖なり玉の台・錦の帳も後世の道にはなにかせん、小野の小町・衣通姫が花の姿も無常の風に散り・樊噲・張良が武芸に達せしも獄卒の杖をかなしむ。されば心ありし古人の云くあはれなり鳥べの山の夕煙をくる人とて・とまるべきかは、末のつゆ本のしづくや世の中の・をくれさきたつためしなるらん、先亡後滅の理り始めて驚くべきにあらず願ふても願ふべきは仏道・求めても求むべきは経教なり、抑汝が云うところの法門をきけば或は小乗・或は大乗・位の高下は且らく之を置く還つて悪道の業たるべし。
現代語訳
愚人はこのことばを聞いてつくづくと諸法を観じ、静かに道理を考えていう。仏教は万差であって理非を明らかにすることは難しい。そうであるからこそ、常啼菩薩は東に法をたずね、善財童子は南に教えを求め、薬王菩薩は臂を焼いて供養し、楽法梵志は身の皮を剥いで紙とした。善知識に値うことはまことに難しい。あるいは経典によるべきだと説き、あるいは真理は教外にあるという。この理非を判別しようとしても、まだ教義の奥底を極めずに仏法を見る者は深淵の思いをいだき、人師に対しては薄氷を踏むような頼りない思いになっている。このことから仏の金言には「法に依って人に依らざれ」と定め、また仏道を得る者の少なさを爪の上の土に譬えている。もし仏法の真偽を知る人であれば、尋ねて師とし、求めて崇めよう。
いったい、人界に生を受けることは、天上より糸を下して地上の針の穴にとおす難しさに譬え、仏法を見聞することの難しさは、一眼の亀の浮木の穴にあうのと同じであると説く。身を軽んじて法を重んじなければならないと思ったので、衆山に登り、悲嘆の気持ちに引かれるままに諸寺を巡り歩いた。足にまかせて一つの巌窟に行きついたところ、後ろには青山が高くそびえ立ち、松風は常楽我浄をかなで、前には碧水がゆったりと岸に波うって四徳波羅蜜を響かせている。深谷に一面に開いた花も中道実相の色を現し、広野にほころびはじめた梅も一念三千の薫をそえている。言語では表現できず、心の働きを越えた境界である。商山の四皓のいた所ともいうべきか。また古仏の修行された跡かも知れない。めでたく美しい雲は朝にたち、不思議な光は夕べに現れる。ああ、なんと心で推し量ることもできず、ことばでのべることもできない。
私はこの界隈を深く思い沈みながらさまよい歩き、たたずみしているところに、にわかに一人の聖人がおられるのを見かけた。その様子を拝すれば、法華読誦の声は深く心肝に染み、静かな窓の戸から中の様子をうかがえば、深遠な教義の研鑽に精魂を注ぐ姿があった。
その時、聖人は私の仏道を求める志をくみとって、ことばを和らげ問うていうには、あなたは何のためにこの深山の岩屋にきたのか。私は答えていう。生を軽んじて法を重んずるためである。聖人は問うていう。その修行の方法は何か。私が答えていうには、もとより私は世俗に交わってきたので、まだ生死を離れる道をわきまえない。たまたま善知識にあって始めには律、次には念仏・真言そして禅、これらの教えを聞いたけれども、まだ真偽をわきまえることができない。
聖人はいう。あなたのことばを聞けば、まことにそのとおりである。身を軽んじて法を重んずるのは先聖の教えであり、自分も存じているところである。いったい、上は非想天のある雲の上から、下は那落の底に至るまでも、生を受けて死をまぬかれる者があるだろうか。それゆえ外典の低い教えにも「朝に紅顔の美しさを世間に誇ったとしても、夕べには白骨となって郊原に朽ち果てる」とある。宮中に交わって黒髪も鮮やかに、風に舞う雪のように袂をひるがえしても、その楽しみを思えば夢の中の夢のようにはかないものである。山の麓、蓬の下が最終の栖となる。玉の台に上り、錦の帳に伏したとしても後世の道には何の助けにもならない。小野小町・衣通姫の花の姿も無常の風に散り、樊噌・張良のように武芸に達していても獄卒の杖の呵責をうけなければならない。
それゆえ、心ある古人は「ああ、鳥辺山の夕べに立つ火葬の煙よ。死者を送る人でさえ、いつまで生きながらえようか」「末の露も本の雫も皆落ちていく姿は、後れ先立つ違いはあってもだれもがやがては死ぬことの例である」と歌った。先亡後滅の道理は今初めて驚くべきことではない。ただひたすら願わなければならないのは仏道であり求めなければならないのは経教である。ところであなたのいうところの法門を聞けば、あるいは小乗、あるいは大乗であるが、位の高下はしばらく置くとしても、これらは還って悪道の業因である。
語釈
常啼は東に請い
常啼菩薩の求道の説話。梵名サダープララーパ(Sadāpralāpa)、薩陀波倫あるいは薩陀波崙と音写し、常啼と訳す。般若経巻三百九十八に説かれる。身命を惜しまず、財利を顧みず、東方に般若波羅蜜を求めたという。常啼の名の由来について、大智度論卷九十六には「小事に喜んで啼いた故、また衆生の悪世にあって貧窮・老病・憂苦するのを見て悲泣する故、あるいは仏道を求めて啼哭すること七日七夜であった故に常啼という」とある。
善財は南に求め
善財童子の求道の説話。華厳経巻四十五によれば、長者の五百童子の一人で、生まれた時、種々の珍宝が地より涌き出で、衆宝や諸の財物を降らして一切の庫蔵に充滿させたところから、善財と名付けられたという。文殊師利菩薩に会って菩提心を発したのを初めとして、南方に法を求めて五十余の善知識を歴訪し、ついに広大不可思議の仏海に証入したという。
薬王は臂を焼き
薬王菩薩の事供養(身体・命を捨てる供養)をさす。薬王菩薩は、衆生に良薬を施して心身の病を治す菩薩。法華経では法師品第十などの対告衆。勧持品第十三では、釈尊滅後の法華経の弘通を誓っている。薬王菩薩本事品第二十三には、過去世に一切衆生憙見菩薩として日月浄明徳仏のもとで修行し、ある世では身を焼き、また次の世では七万二千歳の間、腕を焼いて燈明として仏に供養したことが説かれている。なお、経文には「臂」を焼いたと記されているが、漢語の「臂」は日本語でいう腕にあたる。
楽法は皮を剥ぐ
釈尊が過去世に菩薩行を修行した時の名、楽法梵士の説話。仏の一偈を聞き、それを残すために皮を剝いで紙とし、骨を削って筆とし、血を墨として書写した。大智度論巻四十九にあるが、ここでは、大智度論巻十六の愛法梵志の話と合わせて愛法梵志を楽法梵志と同一人物とし、一つの本生話として用いられている。日妙聖人御書に詳しい。
天上の糸
天上から下ろした糸のこと。人間に生まれてくることは、天上から下した糸を下界の針の孔に入れるより難しいとの譬え。法苑珠林巻二十三に提謂経(だいいきょう)を引用して「須弥山の上から下ろした糸を、嵐や猛風の中、山麓にある針の孔に入れるよりも、人身を得ることは難しい」とある。
商山の四皓
商山とは商洛山のこと。四皓は中国秦代の末、国乱を避けて陝西省商山に入った隠士で、東園公、綺里季、夏黄公、甪里先生の四人。みな鬚眉皓白の老人であったところからこの名がある。画題とされる。
小野の小町
生没年不詳。九世紀中ごろ、平安時代前期の女流歌人。六歌仙、三十六歌仙の一人。古今集以下の勅撰集に多くの歌を残す。古来、美人の代表とされている。
衣通姫
日本書紀巻十三・古事記巻下にある。容姿が絶妙で比類なく、その美しさが衣を通して輝いていたのでその名があるという。日本書紀では、第十九代允恭天皇の后で皇后忍坂大中姫の妹・弟姫としている。また古事記には同天皇の皇女・軽大郎女としている。
樊噲
(~BC0189)。中国・前漢代の建国の功臣。沛(江蘇省沛県)の出身。史記巻九十五によると、低い身分の出身で、早くから沛公(漢の高祖・劉邦)に仕え、沛公の漢朝建国を助けた。とくに鴻門の会では、范増の計略から沛公の危機を救っている。沛公が皇帝即位後も韓信、盧綰等の内乱を平定し、武功をあげて舞陽侯に封ぜられた。
張良
(~BC0186)。中国・前漢代の建国の功臣。字は子房。韓の出身。韓を滅ぼした秦の始皇帝を恨み、刺客を集めて始皇帝を殺そうとしたが果たせず、下邳に隠れた。そこで黄石老人から兵法を学んだといわれ、劉邦(漢の高祖)の挙兵に呼応して軍師となって活躍した。のち秦を滅ぼし、鴻門の会において劉邦の危機を救い、漢の建国に貢献した。漢朝成立後は留侯に任ぜられた。
あはれなり鳥べの山の夕煙をくる人とて・とまるべきかは
出典未詳。鳥べの山は、鳥辺山・鳥辺野・鳥部野とも書き、京都市東山区、東山西麓の五条坂から今熊野付近にかけての広い地区を称した。古く、火葬場があった。
末のつゆ本のしづくや世の中の・をくれさきたつためしなるらん
新古今和歌集七五七にある。僧正遍照の作。木の末におく露も、木の根元に滴る雫も、遅れるか先だつかの違いはあるが、結局は同じく消えていくように、人の身も、あと先はあろうが、皆同じく死んでいく身にすぎない、との意。
先亡後滅
あるいは先に亡び、あるいは後に滅する差別はあるが、皆、やがては死んでいくということ。無常をあらわす。
講義
本章から後段に移る。
求法の旅の末に法華経の聖人に巡りあった愚人と聖人との問答が開始される。この法華経の聖人こそ、日蓮大聖人御自身であることはいうまでもない。
これまで、諸宗の人の来訪をうけ、種々の教えを聞いて、愚人は、一つの根本的な疑問をもつに至った。つまり、仏教は各宗、各派に分かれ、教えも各自違っている。これらの宗派のなかで、いずれの教えが真実であるか、その理非、勝劣を明らめることもできなくなってしまい、仏法の真偽を知る聖人を探して、求法の旅に出るのである。
なお、これは日蓮大聖人が、御自身、清澄寺におられたころいだかれた疑問であった。大聖人は御自身でその疑問を解決されたのであった。
本文には、常啼菩薩、薬王菩薩等の過去の求法者に例を挙げられて、善知識にいかに値い難いかを示されている。
それは、真実の仏法を悟った聖人は、爪上の土のようにまれであるから、自ら求道の炎を燃やし、身軽法重の実践をしなければ、到底、出会うことはできないことを教示されるためである。
それゆえ、愚人は、身軽法重の経文のままに、諸寺をめぐって、ついに一つの清澄な霊域に達する。
そこで愚人は、深山の霊妙なふんいきにつつまれ、法華経読誦の声を耳にし、崇高な聖人の姿に心をうたれている。
愚人の姿に求法の心を感じとった聖人は、まず愚人に、来訪の理由を問い、愚人は身軽法重のためであると答える。
愚人の身軽法重の決意を聞いた聖人は、これまでどのような修行をしてきたかを訊ねる。愚人が、律・念仏・真言・禅と遍歴してきたが、いまだに真偽をわきまえることができないでいると答えるのを聞いて、聖人は人生の無常から説いて仏道を求めることの尊さを強調するとともに、愚人の経てきた諸宗はいずれも、かえって悪道におちる邪法であると、一言で破折する。
それは、出離生死の法を求める決意を、一段と固めさせるためであったと思われる。
愚人の心は、今、どの宗派が真実であるかを判断しかねている。根本的な疑いをもっているとはいえ、彼の心の奥には、これらの宗派への断ちがたい執着もある。いずれかの宗派が真実にちがいないという期待の心もあったと思われる。
だが、そのような邪宗への執着心やはかない期待を打ち破るために、これらの宗はすべて悪業の因であると一刀両断するのである。
一つの巌窟に至るに後には青山峨峨として松風・常楽我浄を奏し前には碧水湯湯として岸うつ波・四徳波羅蜜を響かす……
ここに述べられた常楽我浄とは、涅槃の四徳であり、悟りの境地においてそなわってくる四つの徳をいうのである。また四徳波羅蜜ともいう。波羅蜜は到彼岸の意であるから、仏のそなえる四徳が究竟処であることを意味している。
〝常〟とは、涅槃の当体が常住であり、生滅の法を離れていることをいう。無常に対する常住である。
〝楽〟とは、涅槃の当体が寂滅であり、安穏であるから、これを楽という。苦に対する楽である。
〝我〟とは、涅槃の当体が実であるから我というのである。また、その働きとしては、自由自在であることをさしている。
〝浄〟とは、涅槃の体が、煩悩、汚れを解脱して浄らかであることをいう。この常楽我浄は、法華経にきてはじめて得られる悟りの生命にそなわる四徳である。
さて、本文には愚人が一つの巌窟にたどりついたところ、松風が四徳を奏し、岸うつ波も四徳の響きをたてていたという。また、美しく咲いている花は中道実相の色をそなえ、梅の香りが界如三千の香りを放っていた、と述べられている。
この段は、まさに仏国土、寂光土の姿であり、この依報の国土の描写によって、そこに住する聖人が仏であることを示されているのである。
「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し」(1578:12)といわれるように、最高の法である法華経を行ぜられる聖人の住所は、自然に寂光浄土の相をそなえてくるのである。
第九章 総じて権教諸宗を破す
爰に愚人驚いて云く如来一代の聖教はいづれも衆生を利せんが為なり、始め七処・八会の筵より終り跋提河の儀式まで何れか釈尊の所説ならざる設ひ一分の勝劣をば判ずとも何ぞ悪道の因と云べきや。聖人云く如来一代の聖教に権有り実有り大有り小有り又顕密二道相分ち其の品一に非ず、須く其の大途を示して汝が迷を悟らしめん、夫れ三界の教主釈尊は十九歳にして伽耶城を出て檀特山に籠りて難行苦行し三十成道の刻に三惑頓に破し無明の大夜爰に明しかば須く本願に任せて一乗妙法蓮華経を宣ぶべしといへども機縁万差にして其の機仏乗に堪えず、然れば四十余年に所被の機縁を調へて後八箇年に至つて出世の本懐たる妙法蓮華経を説き給へり。然れば仏の御年七十二歳にして序分無量義経に説き定めて云く「我先きに道場菩提樹の下に端坐すること六年にして阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり、仏眼を以て一切の諸法を観ずるに宣説す可からず、所以は何ん諸の衆生の性慾不同なるを知れり性慾不同なれば種種に法を説く種種に法を説くこと方便の力を以てす四十余年には未だ真実を顕わさず」文。此の文の意は仏の御年三十にして寂滅道場菩提樹の下に坐して仏眼を以て一切衆生の心根を御覧ずるに衆生成仏の直道たる法華経をば説くべからず、是を以て空拳を挙げて嬰児をすかすが如く様様のたばかりを以て四十余年が間はいまだ真実を顕わさずと年紀をさして青天に日輪の出で暗夜に満月のかかるが如く説き定めさせ給へり、此の文を見て何ぞ同じ信心を以て仏の虚事と説かるる法華已前の権教に執著して、めずらしからぬ三界の故宅に帰るべきや。されば法華経の一の巻方便品に云く「正直に方便を捨て但無上道を説く」文、此の文の意は前四十二年の経経・汝が語るところの念仏・真言・禅・律を正直に捨てよとなり、此の文明白なる上重ねていましめて第二の巻譬喩品に云く「但楽つて大乗経典を受持し乃至余経の一偈をも受けざれ」文、此の文の意は年紀かれこれ煩はし所詮法華経より自余の経をば一偈をも受くべからずとなり、然るに八宗の異義蘭菊に道俗形ちを異にすれども一同に法華経をば崇むる由を云う、されば此等の文をばいかが弁へたる正直に捨てよと云つて余経の一偈をも禁むるに或は念仏・或は真言・或は禅・或は律・是れ余経にあらずや。
現代語訳
この時、愚人は驚いていう。釈尊一代の聖教はいずれも衆生を利益しようとして説かれた。始め七処八会で説かれた華厳経から、最後に跋提河のほとりで説いた涅槃経まで、いずれも釈尊の所説でないものはない。たとい一分の勝劣を判じたとしても、どうして悪道の因というべきであろうか。
聖人はいう。釈尊一代の聖教に権教があり実教があり、大乗があり小乗があり、また顕教・密教の二道に分かれ、その様相は同一ではない。そこで今その大略を示してあなたの迷いをあきらかにしよう。いったい、三界の教主釈尊は十九歳で伽耶城を出て檀特山に籠って難行苦行し、三十歳で成道する時に、三惑を一時に破し、無明の大夜がここに明けたので、当然本願に従って一乗妙法蓮華経を説くべきであったが、衆生の機縁は万差であり、その素質は仏乗を解することができなかった。そこで四十余年の間に衆生の機縁を調えて、後八箇年に至って出世の本懐である妙法蓮華経を説かれた。
それゆえ、仏の御年七十二歳の時、法華経の序分の無量義経に説き定めていうには「私は先に寂滅道場、菩提樹の下に端坐すること六年ののち、無上の正覚を成ずることを得た。仏眼で持って一切の諸法を観察した時、真実の悟りのままを説くことはできないと知った。その理由は何か。諸の衆生の性欲が不同であると知ったからである。性欲が不同であるから種々に法を説いた。種々に法を説くことは方便の力を用いた。この四十余年間にはまだ真実を顕していない」と。
この文の意は、仏は御年三十の時に寂滅道場、菩提樹の下に端座して、仏眼をもって一切衆生の心根を御覧になった時に、衆生の成仏の直道である法華経を直ちに説くわけにはいかなかった。そこで、にぎにぎして嬰児をあやすように、さまざまの方便でもって衆生を教化した四十余年の間は、まだ真実を顕していない、と年数を挙げて、青天に太陽の出現し暗夜に満月のかかるように、説き定められたのである。この文を見て、何で同じ信心をもって仏の偽りと説かれる法華経以前の権教に執着して、珍しくもない三界の元の家に帰ってよいものであろうか。
それゆえ、法華経巻一方便品第二には「正直に方便を捨て但無上道を説く」とある。この文の意味は法華経以前の四十二年間の経々、すなわちあなたの語るところの念仏・真言・禅・律を正直に捨てよ、というのである。この文に明白なうえに、重ねていましめて法華経巻二譬喩品第三には「但楽って大乗経典を受持し乃至余経の一偈をも受けざれ」とある。この文の意味は、年数などあれこれいう必要はない、結局、法華経以外の経を一偈でも受けてはならないということである。ところが八宗の所説は蘭菊と咲き乱れ、道俗の形も相違しているのに、一同に法華経を尊ぶという。それならばこれらの文をどのように考えているのか。「正直に捨てよ」といって余経の一偈をも受持するなと禁めてあるのに、あるいは念仏、あるいは真言、あるいは禅、あるいは律、これらは余経ではないというのか。
語釈
跋提河の儀式
涅槃経の説法のこと。跋提河は阿恃多伐底河の略。中インドの拘尸那掲羅(クシナガラ)を流れる河の名。釈尊がこの川の西側にある沙羅林で、涅槃経を説いたことをいう。
権有り実有り
権は権大乗教、実は実大乗教のことで、大乗教を二つに分けたときの語。「権」とは「仮」の意、「実」とは「真」の意。権大乗教とは、仏の真実の教えである実大乗教に衆生を誘引するため、方便として仮に説かれた大乗教をいう。実大乗教とは方便を用いずに、仏の真実究竟の悟りをそのまま説き顕した大乗教のことで、一切衆生の成仏を説き明かした法華経の教えをさす。
大有り小有り
大は大乗教、小は小乗教のことで、釈尊一代の仏教を二つに大別したときの語。「小」の語は、大乗側からその法の低さを下していったもの。「乗」は運載の義で、仏の教説を、迷いの此岸から悟りの彼岸に衆生を運ぶ乗り物に譬えた語。小乗教とは、四諦の法門をもって声聞の悟り(阿羅漢果)を、また十二因縁の法門をもって縁覚の悟り(辟支仏果)を得るための教法をいう。共に自己の解脱のみを求め、灰身滅智して空寂の無余涅槃に入ることを本意とする。大乗教は、紀元前後から釈尊の思想の真意を探究し既存の教説を再解釈するなどして制作された大乗経典に基づき、利他の菩薩道を実践し成仏を目指す。近年の研究ではその定義や成立起源の見直しが図られ、既存の部派仏教の教団内から発生したとする説が有力である。
伽耶城
中インド・マガダ国の都城。梵語ガヤー(Gayā)の音写。インド北東部ビハール州ガヤにあたる。この近くに釈尊が悟りを開いたという仏陀伽耶があり、仏教遺跡も多い。
檀特山
梵語ダンダカ(Daṇḍaka)の音写。北インドのガンダーラ地方にあるとされる山。壇徳、壇陀柯などとも書き、陰山と訳す。六度集経巻二等によると、釈迦が前世に菩薩の修行中、須大拏太子として布施行を行なった地とされている。
序分無量義経
法華経の序分である無量義経のこと。法華経の開経ともいう。一巻。中国・蕭斉代の曇摩伽陀耶舎訳。内容は「無量義とは、一法従り生ず」等と説き、この無量義の法門を修すれば無上正覚を成ずることを明かしている。また、これまでに説いた経教は、まだ真実を明かさない方便の教えであることを次のように述べている。「善男子よ。我れは先に道場菩提樹の下に端坐すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり。仏眼を以て一切の諸法を観ずるに、宣説す可からず。所以は何ん、諸の衆生の性欲は、不同なることを知れり。性欲は不同なれば、種種に法を説きき。種種に法を説くことは、方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず。是の故に衆生は得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得ず」と。
講義
前章で、法華経の聖人が、律、念仏、真言、禅等はすべて悪道の業因であると破折したのを聞いた愚人は驚いて、聖人にその理由をたずねるのである。
本章は、聖人が、釈尊一代の化導のあり方と目的を明らかにすることにより、爾前権経と法華実経との相違を示し、法華経に違背する諸宗が堕悪道の因になることを教示される個所である。
愚人の驚きは、仏法の内容を知らない者にとっては当然のことかもしれない。愚人は、釈尊の一代聖教はすべて衆生を救うために説かれたものである。その釈尊の所説が、たとえ勝れているか劣っているかの違いはあっても、功徳があるはずで、堕悪道の因になるなどとは考えられないというのである。
そこで、聖人は、釈尊一代の聖教に、権実、大小、顕密等の勝劣浅深の違いのあることを示され、本抄ではとくに権実の相違をとりあげ、釈尊自身がこれを区別していることを示して、愚人の迷妄をはらされるのである。
本抄に記された無量義経の文にあるように、釈尊はその悟りである妙法蓮華経を直ちに説きたかったのであるが、衆生の性欲が種々であり、法華経を信受するに耐えなかったので、四十二年間、種々に法を説いて衆生の機根を調養してきたのである。
ゆえに、爾前権経はすべて方便の教えであり、真実の法華経へと誘引するための経典であって、そこには真実はまだ顕されていない。無量義経に「未顕真実」と説かれるとおりである。
持妙法華問答抄には、無量義経の「未顕真実」の文を引かれた後、次のように記されている。
「此の文を聞いて大荘厳等の八万人の菩薩・一同に『無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐるとも終に無上菩提を成ずることを得ず』と領解し給へり、此の文の心は華厳・阿含・方等・般若の四十余年の経に付いていかに念仏を申し禅宗を持ちて仏道を願ひ無量無辺・不可思議・阿僧祇劫を過ぐるとも無上菩提を成ずる事を得じと云へり」(0461:08)。
すなわち、爾前権経は、いかに長期間修行しても、成仏は不可能なのである。所詮、念仏、禅、真言等は、出離生死の法ではないのである。
そこで、方便品には「若し小乗を以て 乃至一人をも化せば 我れは則ち慳貪に堕せん 此の事は不可と為す」と示されている。
もし法華経を説かずして、爾前権経だけで終わったならば、慳貪の罪によって釈尊自身が地獄に堕ちてしまう。したがって、法華経を説かないでいるわけにはいかないのである、という意味である。
しかも、方便権教であり、無得道の経典である爾前経は、真実教であり成仏得道を可能にする法華経が説かれた以上は、正直に捨て、法華経のみを純一に信ずべきであって、そこに方便権教の信をまじえてはならないと戒められているのである。
法華経に、余経の一偈でもまじえることは、薬に毒を入れる行為にほかならないのである。それにもかかわらず、八宗の人々は、一同に法華経を崇めてはいるが、法華経に記されたとおりに信心している人はいない、との大聖人の仰せである。
例えば、法華経を崇めながら、一方では念仏をほめ、念仏を称える者もいる。また、法華経は最高の経典であるといいながら、真言の祈禱をしたり、坐禅を組んでいる者もいる。これらはすべて、法華経を崇めながら法華経に背いているのである。
釈尊の出世の本懐である法華経の金言にそむき、爾前経の一偈でも用いれば、いかに法華経を口でほめても、堕悪道の因となることを知らなければならない。
第十章 念仏は無間地獄の宗と示す
今此の妙法蓮華経とは諸仏出世の本意・衆生成仏の直道なり、されば釈尊は付属を宣べ多宝は証明を遂げ諸仏は舌相を梵天に付けて皆是真実と宣べ給へり、此の経は一字も諸仏の本懐・一点も多生の助なり一言一語も虚妄あるべからず此の経の禁を用いざる者は諸仏の舌をきり賢聖をあざむく人に非ずや其の罪実に怖るべし。されば二の巻に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば則ち一切世間の仏種を断ず」文、此の文の意は若人此経の一偈一句をも背かん人は過去・現在・未来・三世十方の仏を殺さん罪と定む、経教の鏡をもつて当世にあてみるに法華経をそむかぬ人は実に以て有りがたし、事の心を案ずるに不信の人・尚無間を免れず況や念仏の祖師・法然上人は法華経をもつて念仏に対して抛てよと云云、五千七千の経教に何れの処にか法華経を抛てよと云う文ありや。三昧発得の行者・生身の弥陀仏とあがむる善導和尚・五種の雑行を立てて法華経をば千中無一とて千人持つとも一人も仏になるべからずと立てたり、経文には若有聞法者無一不成仏と談じて此の経を聞けば十界の依正・皆仏道を成ずと見えたり、爰を以て五逆の調達は天王如来の記莂に予り非器五障の竜女も南方に頓覚成道を唱ふ況や復蛣蜣の六即を立てて機を漏らす事なし、善導の言と法華経の文と実に以て天地雲泥せり何れに付くべきや就中其の道理を思うに諸仏衆経の怨敵・聖僧衆人の讎敵なり、経文の如くならば争か無間を免るべきや。
現代語訳
今この妙法蓮華経とは諸仏出世の本懐、衆生の成仏の直道である。それゆえ釈尊は付嘱をのべ、多宝如来は証明をなし、諸仏は舌相を梵天に付けて「皆是れ真実なり」とのべられた。この法華経は一字でも諸仏の本懐、一点でも多生の助けとなる。一言一語も虚妄のあるはずがない。この法華経の禁めを用いない者は諸仏の舌をきり、賢人聖人を欺く人ではないか。その罪は実に怖るべきである。
それゆえ法華経巻二譬喩品第三に「もし人が信じないでこの経を毀謗するならば、直ちに一切世間の仏種を断ってしまう」とある。この文の意味は、もしこの経の一偈一句をもそむく人は過去・現在・未来の三世十方の仏を殺した罪に相当すると定めているのである。経教の鏡でもって当世を映してみると、法華経に背いていない人は、まことに存在し難い。以上のことの心を考えると不信の人でさえ無間地獄をまぬかれない。まして念仏の祖師・法然上人は法華経を念仏に対比して抛てといっている。五千、七千巻の経教のいずれのところに、法華経を抛てという文があるのか。
念仏三昧を体得した行者・生身の阿弥陀仏と崇められた善導和尚は、五種の雑行を立てて、法華経を「千中無一」といって、千人が持ったとしても一人も仏になれないと主張した。経文には「もし法華経を聞く者があるならば、ひとりとして成仏しないことはない」と説かれて、この経を聞けば十界の依報正報は皆仏道を成ずると見えている。このゆえに五逆罪を犯した提婆達多は天王如来の記別を受け、成仏の器でない五障の竜女も、南方世界で速やかに成仏の姿を示したという。ましてまた、蛣蜣のような虫けらにも六即を立てて、いかなる機根も成仏の道に漏れることはない。善導のことばと法華経の文とはまことに天地雲泥である。いずれに付くべきか。とくにその道理を思うと、善導は諸仏や衆経の怨敵であり、聖僧や衆人の仇敵である。経文のとおりであるならば、どうして無間地獄をまぬかれることができようか。
語釈
無間
無間地獄のこと。八大地獄の一つ。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avīci)の音写で、訳して無間という。苦を受けるのが間断ないことをいう。周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれているところから阿鼻大城、無間大城ともいわれる。大焦熱地獄の下、欲界の最低部にあるとされ、八大地獄の他の七つよりも一千倍も苦が大きいという。五逆罪、正法誹謗の者が堕ちるとされる。
善導和尚
(0613~0681)。中国・初唐の僧。中国浄土教善導流の大成者。姓は朱氏。泗州(安徽省)(一説に山東省・臨淄)の人。若くして密州の明勝法師について出家。初め三論宗を学び、法華経・維摩経を誦したが,経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土を志した。貞観年中に石壁山の玄中寺(山西省)に赴いて道綽について浄土教を学び、師の没後、長安の光明寺等で称名念仏の弘通に努めた。正雑二行を立て、雑行の者は「千中無一」と下し、正行の者は「十即十生」と唱えた。著書に「観経疏」(観無量寿経疏)四巻、「往生礼讃偈」一巻などがある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。
千中無一
「千が中に一無し」と読む。善導の往生礼讃偈の文。五種の正行(極楽に往生するための五種類の修行)以外の教えを修行しても、往生できる者は千人の中に一人もいないとする。
調達
提婆達多の異名。梵名デーヴァダッタ(Devadatta)、音写して提婆達多。漢訳して天授・天熱という。大智度論巻三によると、斛飯王の子で、阿難の兄、釈尊の従弟とされるが異説もある。釈尊が出家する以前に悉達太子であったころから釈尊に敵対し、悉達太子から与えられた白象を打ち殺したり、耶輸陀羅女を悉多太子と争って敗れたため、提婆達多は深く恨んだ。また仏本行集経巻十三によると釈尊成道後六年に出家して仏弟子となり、十二年間修業した。しかし悪念を起こして退転し、阿闍世太子をそそのかして父の頻婆沙羅王を殺害させた。釈尊に代わって教団を教導しようとしたが許されなかったので、五百余人の比丘を率いて教団を分裂させた。また耆闍崛山上から釈尊を殺害しようと大石を投下し、砕石が飛び散り、釈尊の足指を傷つけた。更に蓮華色比丘尼を殴打して殺すなど、破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢の三逆罪を犯した。そのため、大地が破れて生きながら地獄に堕ちたとある。しかし法華経提婆達多品第十二では釈尊が過去世に国王であった時、位を捨てて出家し、阿私仙人に仕えることによって法華経を教わったが、その阿私仙人が提婆達多の過去の姿であるとの因縁が説かれ、未来世に天王如来となるとの記別が与えられた。
記莂
仏が弟子の未来成仏を明らかにすること。記は仏が未来世の、弟子の仏果を予言し成仏を記すこと。莂は具体的に弟子の未来世の成仏の時・国土・仏名などを分別することをいう。
五障
女人に備わるとされる五つの障害のこと。女人は①梵天王、②帝釈、③魔王、④転輪聖王、⑤仏身になれないことをいう。五礙ともいう。法華経提婆達多品第十二、超日明三昧経巻下等に説かれる。
竜女
海中の竜宮に住む娑竭羅竜王の娘で八歳の蛇身の畜生。法華経提婆達多品第十二には次のように説かれている。竜女は、文殊師利菩薩が法華経を説くのを聞いて発心し、不退転の境地に達していた。しかし智積菩薩や舎利弗ら聴衆は竜女の成仏を信じなかったので、竜女は法華経の説法の場で「我れは大乗の教を闡いて 苦の衆生を度脱せん」と述べ、釈尊に宝珠を奉った後、その身がたちまちに成仏する姿を示した。竜女の成仏は、一切の女人成仏の手本とされるとともに、即身成仏をも表現している。
蛣蜣の六即
法華経の教理によれば、蛣蜣のような虫にも六即が立てられ、仏性を現すことができること。すなわち一切衆生は虫けらまでも、漏れなく法華経によって成仏する機根であるとの意。蛣蜣は「きっきょう」とも読み、好んで人糞を食う虫。一般に糞虫といい、フンコロガシなどをさす。六即は天台大師の立てた法華円教を修行する菩薩の六種の修行位。摩訶止観に説かれる。理即、名字即、観行即、相似即、分真即、究竟即の六つ。天台大師の観経疏を注釈した四明知礼の観無量寿仏経疏妙宗鈔巻一に「六即の義は専ら仏のみに在らず、一切の仮実、三乗、人天より下は蛣蜣地獄の色心に至るまで、皆須く、六即をして其の初後を弁ずべし。所謂、理の蛣蜣、名字乃至究竟の蛣蜣なり」とある。
講義
前章に示されたように、方便権教を捨てよというのが、法華経の金言であり、これに違背すれば堕獄の因となることは明白である。この章からは、順次、念仏、真言、禅の破折に移られるのである。
本章では、念仏を破折され、中心人物である法然と善導をとりあげ、彼等の無間地獄が間違いないとする根拠を明かされている。
まず譬喩品の「若し人は信ぜずして 此の経を毀謗せば 則ち一切世間の 仏種を断ぜん(中略)其の人は命終して 阿鼻獄に入らん」の文を引かれている。
この文にある毀謗の意味は、とくに法華経をさして下劣の経ということのみではない。念仏者がいうように、法華経は高く尊い経であるが、末法の機根に合わないといって、法華経の成仏得道の大利益を信ぜず、否定する者も、不信謗法であり、無間地獄をまぬかれないのである。
ところが、法然は、法華経を捨・閉・閣・抛せよといい、また善導は雑行に摂して千中無一とまで誹謗したのであるから、無間地獄をまぬかれるはずがない。
法然は、選択集で、浄土三部経以外の一切の経典を捨・閉・閣・抛せよといった。ところが、法華経方便品には、前述したごとく「正直に方便を捨て」よと記されている。譬喩品には「余経の一偈をも受けざれ」とある。明らかに捨・閉・閣・抛の四文字は法華経の金言と相反し、法華経を誹謗することばである。
善導も、往生礼讃偈で、五種の正行以外の法華経等の経教の修行、すなわち雑行によって極楽往生できる者は千人の中に一人もいないと述べている。
彼のことばに反して、法華経には明瞭に「若し法を聞くこと有らば 一りとして成仏せざること無けん」と、この法華経を聞く者は、十界のいかなる衆生もことごとく成仏すると説かれている。
日蓮大聖人は、その具体的事例として、提婆達多の悪人成仏、竜女の女人成仏、蛣蜣のごとき虫けらの六即配立を挙げておられる。
このように、法然、善導の所説は、諸仏衆経の根源である法華経の文とは正反対の邪説であり、このことから、明らかに彼等は諸仏衆経の怨敵といわざるをえないことになる。
今此の妙法蓮華経とは諸仏出世の本意・衆生成仏の直道なり、されば釈尊は付属を宣べ多宝は証明を遂げ諸仏は舌相を梵天に付けて皆是真実と宣べ給へり、此の経は一字も諸仏の本懐・一点も多生の助なり
この法華経は、諸仏が世に出て説かんとされた本意であり、また、衆生が成仏できる直道の経典であるといわれる。それは何故であろうか。
爾前経と法華経とを、その法体面で比較すれば、爾前経は部分的真理を説くにとどまり、法華経は全体的真理を明かした経である。つまり、生命の部分的・表面的真理をおのおのの側面から説いたのが爾前経である。これに対して、法華経は、生命の全体像を示しつつ、さらに生命全体を包括する根源的法理を説き示そうとしたのである。
無量義経に「無量義とは、一法従り生ず」とあるように、生命の無量義が生じた根源の一法、宇宙根源の法理を説き示している経典が法華経である。換言すれば、法華経が、諸仏出世の本懐の経典であり、人々を成道せしめる経力をもっているのは、あくまでこの経典が、その文底に宇宙と生命の根源の一法を秘めているからである。
この根源の一法こそ、南無妙法蓮華経にほかならない。このことを三大秘法抄には「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり」(1023:13)と述べられている。
また、本抄の後章にも「諸仏の誠諦得道の最要は只是れ妙法蓮華経の五字なり(中略)凡そ八万法蔵の広きも一部八巻の多きも只是の五字を説かんためなり」と述べられ、続いて、釈尊が上行菩薩に付嘱した結要の大法こそ、この妙法五字であると示されている。
ここにいう妙法五字とは、法華経が文底に秘沈した根源の一法、南無妙法蓮華経をさしている。この妙法によって諸仏は得道したのであり、釈尊一代の八万法蔵も、法華経一部八巻二十八品でさえも、ことごとく妙法五字へと導くためだったのである。
究極のところ、法華経の文底に秘沈された南無妙法蓮華経こそ、成仏直道の大法なのである。したがって、法華経の会座で神力付嘱が行われたのも妙法五字を上行菩薩に託するためであり、また、多宝如来や諸仏が釈尊の説法を皆是真実なりと証明したのも、一往は在世の衆生の得脱のためであるが、再往の本意は釈尊滅後にこの妙法を流布せしめ、末法の衆生を救わんがためなのである。
法華経は南無妙法蓮華経を秘沈した経典であるから、この経の一字一言の中にも諸仏の本懐が託されている。また、ただの一点でさえも、輪廻の助けとならないものはないのである。
ゆえに、この経を信受する者は、妙法の力によって成仏し、逆に、法華経を誹謗する者は、成仏根源の法である南無妙法蓮華経を謗じ、破壊する行為となり、堕地獄の因をつんでしまうのである。
法然、善導等は、法華経の金言にそむくことによって、南無妙法蓮華経を謗ずる行為をなし、根源の一法を自ら破壊して、無間地獄の苦を呼び寄せてしまったといえよう。
第十一章 善導・法然の邪義を示す
爰に愚人色を作して云く汝賤き身を以て恣に莠言を吐く悟つて言うか迷つて言うか理非弁え難し、忝なくも善導和尚は弥陀善逝の応化・或は勢至菩薩の化身と云へり、法然上人も亦然なり善導の後身といへり、上古の先達たる上・行徳秀発し解了・底を極めたり何ぞ悪道に堕ち給うと云うや。聖人云く汝が言然なり予も仰いで信を取ること此くの如し但し仏法は強ちに人の貴賤には依るべからず只経文を先きとすべし身の賤をもつて其の法を軽んずる事なかれ、有人楽生悪死・有人楽死悪生の十二字を唱へし毘摩大国の狐は帝釈の師と崇められ諸行無常等の十六字を談ぜし鬼神は雪山童子に貴まる是れ必ず狐と鬼神との貴きに非ず只法を重んずる故なり、されば我等が慈父・教主釈尊・雙林最後の御遺言・涅槃経の第六には依法不依人とて普賢・文殊等の等覚已還の大薩埵・法門を説き給ふとも経文を手に把らずば用ゐざれとなり。天台大師の云く「修多羅と合する者は録して之を用いよ文無く義無きは信受す可からず」文、釈の意は経文に明ならんを用いよ文証無からんをば捨てよとなり、伝教大師の云く「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」文、前の釈と同意なり、竜樹菩薩の云く「修多羅白論に依つて修多羅黒論に依らざれ」と文、意は経の中にも法華已前の権教をすてて此の経につけよとなり、経文にも論文にも法華に対して諸余の経典を捨てよと云う事分明なり、然るに開元の録に挙る所の五千七千の経巻に法華経を捨てよ乃至抛てよと嫌ふことも又雑行に摂して之を捨てよと云う経文も全く無しされば慥の経文を勘へ出して善導・法然の無間の苦を救はるべし。
現代語訳
この時、愚人は顔色を変えていう。あなたは卑しい身でもって、ほしいままにみにくいことばを吐く。悟っていうのか、迷っていうのか、道理にかなっているのか否かを弁え難い。おそれおおくも善導和尚は阿弥陀如来の応化、あるいは勢至菩薩の化身といわれている。法然上人もまたそうであって、善導の後身といわれている。むかしの先達であるうえに、行徳は他にぬきんでてすぐれ、智解は淵底を極めている。なんで悪道に堕ちたというのか。
聖人はいう。あなたがそういうのは当然である。自分も同様に尊敬し信仰していた。ただし仏法はみだりに人の貴賎によってはならない。ただ経文を先とすべきであり、身が卑しいからといってその法を軽んじてはならない。「人の生を楽い死を悪む有り、人の死を楽い生を悪む有り」の十二字を唱えた毘摩大国の狐は帝釈天の師と崇められ、「諸行無常」の十六字を説いた鬼神は雪山童子に貴ばれた。これはけっして狐と鬼神とが貴いのではない。ひとえに法を重んずるゆえである。それゆえ我らの慈父・教主釈尊は、雙林最後の御遺言である涅槃経の第六巻には「法に依って人に依らざれ」といって、普賢・文殊等の等覚已還の大菩薩が法門を説かれても経文によらなければ用いてはならないとある。
天台大師は「経典と合うものは記録してこれを用いよ。経典に文がなく義のない説は信受すべきではない」といっている。この釈の心は経文に根拠が明らかであるものを用いよ、文証の無いものは捨てよ、ということである。伝教大師は「仏説に依って、口伝を信じてはならない」といっている。前の釈と同意である。竜樹菩薩は「経典の正論に依って、経典の邪論に依ってはならない」といっている。この意味は経の中でも法華経以前の権教を捨てて、この経につきなさいということである。このように経文にも論文にも、法華経に対して諸余の経典を捨てよということは明らかである。ところが開元釈教録に挙げられた五千、七千の経巻に、法華経を捨てよ、ないしは抛てよと嫌うことも、また雑行の中に入れてこれを捨てよという経文も全く無い。それゆえ確実な経文を考え出して、善導・法然の無間地獄の苦を救うがよい。
語釈
莠言
悪い言。醜悪なことば。莠は植物「水稗」の古名。稗に似て実らず害になる雑草で、転じて善に似て実は悪いものの譬に使われる。
弥陀善逝の応化
阿弥陀如来が衆生の機根に応じて姿を変えて出現すること。善逝は梵語スガータ(sugata)、善処に逝(ゆ)くの意で、悟りの彼岸に去った者、好去ともいい、仏の十号の一。応化とは仏・菩薩が衆生を救うため機根に応じてさまざまに姿を変え出現すること。
勢至菩薩の化身
勢至菩薩が身を变化させた姿のこと。勢至菩薩は梵名マハースターマプラープタ(Mahā₋sthāma₋prāpta)の訳で、大勢至ともいう。法華経では得大勢と訳される。観無量寿経に「知恵を持って遍く一切を照らし、三途を離れしめて、無上の力を得せしむ」とあり、知恵の菩薩とされる。阿弥陀三尊の右脇侍である。法然は幼名を勢至丸といい、「智慧第一の法然坊」といわれ、生前から智慧の化身として考えられていた。
毘摩大国の狐
未曾有因縁経巻上に説かれている。インド毘摩大国の尸陀山にいた野干が、ある時師子に追われて涸井戸に落ち、三日を経て餓死する寸前に万物の無常を悟り、仏に帰命して罪障消滅を願う一偈を説いた。これを聞いた帝釈天は自ら諸天を率いて来下し、野干を師と仰いで説法を請い、野干は高座につき法を説いたという。
雪山童子
釈尊が過去世に菩薩の道を修した時の名。雪山で苦行したのでこの名がある。涅槃経巻十四等に説かれる。木の実を食べ、思惟坐禅して無量歳を経た。ある時、帝釈天が羅刹に化身して童子の前に現れ、過去仏の説いた偈を「諸行無常・是生滅法」と半分だけを述べた。これを聞いた童子は喜んで、残りの半偈を聞きたいと願い、わが血肉を羅刹に食せしめる約束をして、残りの半偈の「生滅滅已・寂滅為楽」を聞いた。童子はその偈を石、壁、樹、道に書写し、高樹に登り、身を地に投じた。その時、羅刹は帝釈天の姿に戻り、童子を受け止め大地におき、その不惜身命の姿勢をほめて、未来に必ず成仏するであろうと説いて姿を消したという。ここでは、たとえ羅刹鬼神であろうと、その持っている法を重んずることが肝要とされている。
雙林最後
雙林は沙羅双樹のこと。沙羅樹の二株が対となって生じたもの。沙羅は梵語シャーラ(śāla)の音写で、堅固・高遠などの義。拘尸那掲羅(クシナガラ)城外の跋提河の畔にあり、釈尊が涅槃経を説き入滅した地。釈尊の臥床の四辺に、一双(二幹)ずつ八本の沙羅樹があったので雙樹または雙林という。この説処をとって、涅槃の時を雙林最後という。
等覚已還の大薩埵
別教で立てる五十二位のうち、等覚以下の大菩薩のこと。等覚は菩薩の最高位で、第五十一位にあたる。已還は、すでに還る、すでに至るの意か。大薩埵は大菩薩と同じ。
竜樹菩薩
梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の訳。新訳経典では竜猛と訳される。0150~0250年ころ、南インドに出現し大乗の教義を大いに弘めた大論師。付法蔵の第十三。主著「中論」などで大乗仏教の空の思想にもとづいて実在論を批判し、以後の仏教思想・インド思想に大きな影響を与えた。こうしたことから、八宗の祖とたたえられる。同名である複数の人物の伝承が混同して伝えられている。日蓮大聖人は、世親(天親、ヴァスバンドゥ)とともに、釈尊滅後、正法の時代の後半の正師と位置づけられている。著書に「十二門論」一巻、「十住毘婆沙論」十七巻、「中観論」(中論、中頌、中論頌、根本中頌ともいう)四巻等がある。
開元の録
開元釈教録のこと。二十巻。唐の智昇撰。開元18年(0730)に編集された。後漢の永平10年(0067)から開元18年(0730)までに翻訳・著述された仏典として1067部5048巻が挙げられている。「五千七千の経巻」とあるのは、別録の五千余巻と総録の七千余巻の諸聖典をさす。
講義
本章では、賤しい身でありながら、尊い善導や法然の悪口をいうのはけしからんといきりたつ愚人に対して、涅槃経の「依法不依人」の文を引いて、教法の正邪を判釈する基準はあくまで法であり、人によってはならないことを示され、聖人がこのようにいうのは経文を根拠にしてのことであり、もし善導、法然が無間地獄におちるわけがないというなら、その文証を示しなさいと答えられている。
ここで、善導、法然が地獄に堕ちた根拠を法華経の明文によって知らされた愚人の示す態度は、きわめて感情的なものである。つまり、善導や法然のように、仏の応化、菩薩の化身、後身とまで世間の人に尊ばれている先達が、地獄に堕ちているわけがない、という反発である。
大聖人は、この感情的反発にも理を尽くして答えられている。
法を説く人の貴賎によって、仏法の正邪を判断するのはまちがいである。世間的に貴い人が説いているからといって、その仏法が正しいことにはならない。逆に、人の身の賎をもって、その法を軽んじてはならない。
人間の貴賎のみならず、たとえ畜生であろうと、修羅であろうと、その持っている法を重んずることが肝要なのである。
このような道理を、大聖人は、本抄で、まず、毘摩大国の狐と帝釈の例、鬼神と雪山童子の例を挙げて説明し、つぎに、涅槃経の「依法不依人」の文、天台大師、伝教大師、竜樹の論釈を示して説かれるのである。
さて、釈尊の説かれた法、経文によって判釈すれば、前章に述べたように、「方便権教を捨てよ」(方便品)と記され「余経の一偈をも受けてはならない」(譬喩品)と明記されている。また、竜樹も「修多羅白論、すなわち法華実教によるべきであり、修多羅黒論、すなわち爾前権教によってはならない」と述べている。
ところが、一切経の中のどこを探しても、法然や善導のいったように法華経を捨てよ、抛てなどと説いた経文は全くない。ゆえに、善導、法然が無間地獄に堕ちたのは明らかであり、もし、そんなことはないというなら、経文上の証拠を示しなさいと愚人の迷妄を打ち破られているのである。
我等が慈父・教主釈尊・雙林最後の御遺言・涅槃経の第六には依法不依人とて普賢・文殊等の等覚已還の大薩埵・法門を説き給ふとも経文を手に把らずば用ゐざれとなり
教法の正邪を判断する基準は、あくまでも釈尊の説いた経文に合致しているか否かであり、普賢・文殊等の大菩薩が説いているといえども、経文に依拠していなければ用いてはならないということである。
つなり、どのように立派な人であっても、そのいっていることが経文を基準にし、経文に合致していないならば、その人のいうことは用いられないのである。
さて、この御文で、普賢・文殊等の等覚已還の大菩薩を例として挙げられているのは、善導は弥陀の応化、または勢至菩薩の化身といわれ、法然はその後身であるといわれるほどの人であるから、その法門がまちがっているはずはないという愚人の迷妄を対破するためであると拝される。普賢・文殊等の等覚已還の大菩薩については、法華取要抄に「文殊・弥勒等の大菩薩は過去の古仏・現在の応生なり」(0335:14)とある。すなわち、文殊・弥勒等の大菩薩は過去の世にすでに悟りを開いた仏である。しかし、今、釈尊の教化をたすけ、衆生を導かんがために菩薩の姿を示しているのである。つまり、等覚已還の已還とは已に還るということであり、文殊・弥勒等は、本をただせば仏であるが、衆生教化のために等覚という菩薩の位に還ったことを意味している。
このように本地が仏である等覚の菩薩の説く法門でも、釈尊の経文を手にしていなければ用いてはならないというのである。まして、善導や法然等が、たとえ弥陀の応化、菩薩の化身、後身などといわれても、その説が釈尊の経文に合致していない場合は用いてはならないことはいうまでもない。
第十二章 念仏者の師敵対を述べる
今世の念仏の行者・俗男俗女・経文に違するのみならず又師の教にも背けり、五種の雑行とて念仏申さん人のすつべき日記・善導の釈之れ有り、其の雑行とは選択に云く「第一に読誦雑行とは上の観経等の往生浄土の経を除いて已外大小乗顕密の諸経に於て受持読誦するを悉く読誦雑行と名く乃至第三に礼拝雑行とは上の弥陀を礼拝するを除いて已外一切諸余の仏菩薩等及諸の世天に於て礼拝恭敬するを悉く礼拝雑行と名く、第四に称名雑行とは上の弥陀の名号を称するを除いて已外自余の一切仏菩薩等及諸の世天等の名号を称するを悉く称名雑行と名く、第五に讃歎供養雑行とは上の弥陀仏を除いて已外一切諸余の仏菩薩等及諸の世天等に於て讃歎し供養するを悉く讃歎供養雑行と名く」文。
此の釈の意は第一の読誦雑行とは念仏申さん道俗男女読むべき経あり読むまじき経ありと定めたり、読むまじき経は法華経・仁王経・薬師経・大集経・般若心経・転女成仏経・北斗寿命経ことさらうち任せて諸人読まるる八巻の中の観音経・此等の諸経を一句一偈も読むならば・たとひ念仏を志す行者なりとも雑行に摂せられて往生す可からず云云・予愚眼を以て世を見るに設ひ念仏申す人なれども此の経経を読む人は多く師弟敵対して七逆罪となりぬ。
又第三の礼拝雑行とは念仏の行者は弥陀三尊より外は上に挙ぐる所の諸仏菩薩・諸天善神を礼するをば礼拝雑行と名け又之を禁ず、然るを日本は神国として伊奘諾伊奘册の尊此の国を作り天照大神垂迹御坐して御裳濯河の流れ久しくして今にたえず豈此の国に生を受けて此の邪義を用ゆべきや、又普天の下に生れて三光の恩を蒙りながら誠に日月・星宿を破する事尤も恐れ有り。
又第四の称名雑行とは念仏申さん人は唱うべき仏菩薩の名あり唱えまじき仏菩薩の名あり、唱うべき仏菩薩の名とは弥陀三尊の名号、唱うまじき仏菩薩の名号とは釈迦・薬師・大日等の諸仏、地蔵・普賢・文殊・日月星、二所と三嶋と熊野と羽黒と天照大神と八幡大菩薩と此等の名を一遍も唱えん人は念仏を十万遍・百万遍申したりとも此の仏菩薩・日月神等の名を唱うる過に依つて無間には・おつとも往生すべからずと云云、我世間を見るに念仏を申す人も此等の諸仏菩薩・諸天善神の名を唱うる故に是れ又師の教に背けり。
第五の讃歎供養雑行とは念仏申さん人は供養すべき仏は弥陀三尊を供養せん外は上に挙ぐる所の仏菩薩・諸天善神に香華のすこしをも供養せん人は念仏の功は貴とけれども此の過に依つて雑行に摂すと是をきらふ、然るに世を見るに社壇に詣でては幣帛を捧げ堂舎に臨みては礼拝を致す是れ又師の教に背けり、汝若し不審ならば選択を見よ其の文明白なり、又善導和尚の観念法門経に云く「酒肉五辛誓つて発願して手に捉らざれ口に喫まざれ若し此の語に違せば即ち身口倶に悪瘡を著けんと願ぜよ」文、此の文の意は念仏申さん男女・尼法師は酒を飲まざれ魚鳥をも食わざれ其の外にら・ひる等の五つのからく・くさき物を食わざれ是を持たざる念仏者は今生には悪瘡身に出で後生には無間に堕すべしと云云、然るに念仏申す男女・尼法師・此の誡をかへりみず恣に酒をのみ魚鳥を食ふ事・剣を飲む譬にあらずや。
現代語訳
今の世の念仏の行者、ならびに在俗の男も女も、経文に相違するばかりでなく、また師の教にも背いている。五種の雑行といって、念仏を称える人が捨てなければならないことを記した善導の釈がある。その雑行とは法然の選択集に「第一に読誦雑行とは、上の観経等の往生浄土の経を除いてそれより外、大乗小乗・顕教密教の諸経を受持読誦することを、ことごとく読誦雑行と名づける。(中略)第三に礼拝雑行とは、上の阿弥陀如来を礼拝することを除いてそれより外、一切の諸余の仏・菩薩等及び諸の世天に対して礼拝恭敬することを、ことごとく礼拝雑行と名づける。第四に称名雑行とは、上の阿弥陀如来の名号を称えることを除いてそれより外、一切の仏・菩薩等及び諸の世天等の名号を称えることを、ことごとく称名雑行と名づける。第五に讃歎供養雑行とは、上の阿弥陀如来を除いてそれより外、一切諸余の仏・菩薩等及び諸の世天等を讃歎し供養することを、ことごとく讃歎供養雑行と名づける」とある。
この釈の意味は、第一の読誦雑行とは、念仏を称える出家在家の男女の読むべき経があり、読んではならない経があると定めたのである。読んではならない経とは法華経・仁王経・薬師経・大集経・般若心経・転女成仏経・北斗寿命経、とりわけ普通に諸人に読まれる法華経八巻の中の観世音菩薩普門品、これらの諸経の一句一偈でも読むならば、たとい念仏を志す行者であっても雑行の中に入れられて往生できないというのである。私が愚眼でもって世間を見ると、たとえ念仏を称する人であっても、これらの経々を読む人は多く、師に敵対して七逆罪を犯す者となってしまっている。
また第三の礼拝雑行とは、念仏の行者は弥陀三尊より外は、上に挙げられた諸仏・菩薩・諸天善神を拝むことを礼拝雑行と名づけ、またこれを禁じた。しかしながら、日本は神国として伊奘諾・伊奘册の尊がこの国を作り、天照大神がおでましになって、御裳濯河の流れは久しくして今まで絶えたことがない。どうしてこの国に生を受けて、神々を崇敬してはならないという邪義を用いるべきであろうか。また大空の下に生まれて日月星の恩を身に受けながら、まことに日月・星宿を破すとはもっとも恐れ多いことである。
また第四の称名雑行とは、念仏を称える人は、称えるべき仏・菩薩の名号があり、称えてはならない仏・菩薩の名号がある。称えるべき仏・菩薩の名号とは、弥陀三尊の名号であり、唱えてはならない仏・菩薩の名号とは釈迦・薬師・大日等の諸仏、地蔵・普賢・文殊・日月星、二所と三嶋と熊野と羽黒と、天照大神と八幡大菩薩とである。これらの名号を一遍でも称えた人は念仏を十万遍・百万遍称えたとしても、この仏・菩薩・日月神等の名号を称えるあやまちによって、無間地獄には堕ちても極楽往生はできないというのである。私が世間を見ると、念仏を称える人もこれらの諸仏菩薩・諸天善神の名号を称えているゆえに、これまた師の教えに背いている。
第五の讃歎供養雑行とは、念仏を称える人が供養すべき仏は弥陀三尊であり、その外は上に挙げられた仏・菩薩・諸天善神に香華を少しでも供養する人は、念仏の功徳は貴いけれども、このあやまちによって雑行の者になるとしてこれをきらう。ところが世間を見ると、神社に参詣しては幣帛を捧げ、寺院に入っては礼拝する。これまた師の教えに背いている。あなたがもし不審ならば選択集を見なさい。その文は明白である。また善導和尚の観念法門経には「酒肉五辛を誓って発願して手にとってはならない。口に入れてはならない。もしこのことばに相違すれば、身口ともに悪瘡を病むであろうと誓願せよ」とある。この文の意味は念仏を称える男女・尼法師は酒を飲んではならない。魚鳥を食べてはならない。その外、にら、ひる等の五つの辛く臭い物を食べてはならない。これを守らない念仏者は今生には悪瘡が身に出で、後生には無間地獄に堕ちるというのである。それなのに、念仏を称える男女・尼法師等は、このいましめをかえりみず、ほしいままに酒をのみ魚鳥を食している。これは自ら剣を飲む譬のようなものではないか。
語釈
選択
選択本願念仏集の略。上下二巻。選択本願念仏集解題によると、本書の選作については古来より二説があり、法然の弟子の作というものと、法然の作というものとがある。本書は当時、公卿の有力者であった九条兼実の依頼によって建久9年(1298)に選述し、浄土宗の教義を十六章段に分けて明かしている。その内容は、釈迦一代の仏教を聖道門と浄土門、難行道と易行道、雑行と正行とに分け、念仏以外の教えを捨てよ、閉じよ、閣け、抛てという破仏法の義を立てたゆえに、当時においてすら、並榎の定照の「弾選択」、栂尾の明恵の「摧邪輪」三巻および「荘厳記」一巻をもって破折されている。
観経
観無量寿経のこと。一巻。中国・劉宋代の畺良耶舎訳。内容は、悪子・阿闍世のいる濁悪世を嘆き、極楽世界に生ずることを願う韋提希夫人に対し、釈尊がそこに生ずるための三種の浄業を説き、極楽世界の相と無量寿仏(阿弥陀仏)などを観ずる十六観を説いている。
世天
人界・天界の神々のこと。
伊奘諾伊奘册の尊
伊奘諾尊・伊奘册尊。神世七代の第七神。対偶神である。古事記では伊邪那岐命、伊邪那美命と書く。日本書紀巻一では天浮橋の上に立って国をつくろうと、天之瓊矛を以て指し下して探る。このときに海が出来て、矛の鋒からしたたり落ちた潮が凝まって磤馭慮嶋が成った。伊弉諾尊(夫)、伊弉冉尊(妻)はここに降り国産みをする。そして、淡路洲、豊秋津洲、伊予二名洲、筑紫洲、億岐洲、佐度洲、越洲、大洲、吉備子洲の大八洲国を生んだ。次に、海、川、山、草を生み、さらに「天下の主者」として日の神・大日孁貴(天照大神・女神)を生んだ。次に月の神、蛭兒、素戔嗚尊を生むが、素戔嗚尊が気性が荒いので根国に行かせる。なお、伊奘册尊は版本によっては伊弉冉尊とも書く。
天照大神垂迹御坐して
ここでは、天照大神の神体が伊勢神宮にあるということ。
御裳濯河
伊勢神宮の内宮神域内を流れる五十鈴川の別称。本抄の「御裳濯河の流れ」とは、伊勢神宮の祭神である天照大神を祖とする天皇の皇統を意味する。
二所
鎌倉時代に幕府の奉幣、社参をうけた二つの神社。静岡県熱海市の伊豆山神社(伊豆権現、走湯権現)と、神奈川県足柄下郡の箱根神社(箱根権現)のこと。源頼朝(1147~1199)は夫人・政子とともに伊豆山神社を崇拝した。また頼朝は、石橋山の戦に敗れた時、別当の行実を頼って箱根神社に潜んだことがある。鎌倉時代後も多くの武将の信仰を集めた。
八幡大菩薩
八幡神に対して奉られた菩薩号。正八幡大菩薩ともいう。古くは農耕を守る神とされていた。天応元年(0781)朝廷は宇佐八幡に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩の神号を贈った。以来、全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになった。日本の鎮守であり、日本国百代の王を守護する誓願を立てたと伝えられる。また、武士の台頭とともに、とくに源氏に厚く信仰され、武士の守護神とされた。日蓮大聖人は、諸天善神の一つとされている。
観念法門経
一巻。中国浄土教の祖師の一人・善導の著。首題に『観念阿弥陀仏相海三昧功徳法門』とあり、尾題にはこれに「経」の一字が付加されて『観念阿弥陀仏相海三昧功徳法門経』とあるが、一般には『観念法門』と称される。善導の五部九巻の一つ。阿弥陀仏を観念することの行相・作法と、その功徳について述べたもの。構成は三段からなり、第一に三昧の行相として、観仏・念仏の二法を示す。第二に阿弥陀仏の称念による五縁(滅罪・護念・見仏・摂生・証生)の功徳・利益を説く。第三には念仏の功能を主張し観念を越えるものとして、称名念仏による修行を勧めている。なお本書は、承和6年(0839)入唐僧の円行によって日本に伝えられた。報恩抄に「漢土の善導が……阿弥陀仏の御前にして祈誓をなす、仏意に叶うやいなや毎夜夢の中に常に一りの僧有りて来て指授すと云云、乃至一経法の如くせよ乃至観念法門経等云云」(漢土の善導は……阿弥陀仏の前で祈誓をなした。仏意にかなったのか、どうか、毎夜、夢の中に、いつも一人の僧が出現して教授し指導したので、この書を完成したのだという。ゆえにこの観経疏は、つねに「仏の経法のごとくせよ」といわれ、彼の著「観念法門」も経のごとく尊敬せよといわれているのである)と。
酒肉五辛
仏道修行の妨げになるため、比丘などが飲食することを禁じられた酒、肉、五辛。五辛は五種の辛味のある蔬菜(野菜・青物)のことで、五葷ともいう。種種の説があるが、普通は韮・薤・葱・蒜・薑とされる。首楞厳経巻八には「三摩地(三昧。心を一処に定めて散乱させないこと)を求めようとするならば、五辛を食べてはならない。なぜならば、五辛を煮て食べれば邪淫を発し、生で食べると恚を増すからである。五辛を食する者は、たとえ経典・経文を宣説しようとも、臭気のために天人から嫌われ、餓鬼からは好まれて常に餓鬼と共に住むようになり、全く利益がなくなってしまう」と説かれて、五辛を食べることを禁じている。
講義
これまで善導、法然の立義が堕地獄の因であることを示してきたが、本章ではさらに、当世の念仏者が彼等の師である法然、善導等の誡めにも反しており、師敵対している事実を指摘されている。
すなわち、当世の念仏者は、善導、法然の立義にしたがっても堕地獄はまぬかれないのであるが、そのうえ、教えと行いの相違、師への敵対という二重の罪を犯していることになる。
この点を明らかにするために、善導の五種の雑行並びに観念法門を挙げておられる。
五種の雑行は、本文に詳述されるように、第一の読誦雑行、第二の観察雑行、第三の礼拝雑行、第四の称名雑行、第五の讃歎供養雑行である。
このうち、第一の読誦雑行は、経典に関する問題である。第二の観察雑行は、阿弥陀仏の極楽浄土の荘厳さを一心に念じて忘れないという修行以外の、一切の他の国土を観察する修行をさす。
第三の礼拝雑行、第四の称名雑行、第五の讃歎供養雑行はともに、阿弥陀仏を礼拝し、その名を称え、讃歎するということである。
経典読誦について、弥陀三部経のみを読み法華経を捨てることが、悪業の因であることはすでにのべられている。
つぎに、阿弥陀仏を頼みとし、その極楽浄土への往生のみを期し、教主釈尊を捨て去ることも、当然、堕地獄の業因となるのである。
法華経譬喩品には「今此の三界は、皆な是れ我が有なり、其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり、而るに今此の処は、諸の患難多し、唯だ我れ一人のみ、能く救護を為す」とある。
娑婆世界の衆生にとって、主師親の三徳をそなえている仏は釈尊である。念仏は、この教主釈尊を捨て去り、この世界と無縁の極楽浄土の阿弥陀仏を頼みとする教えである。ゆえに、教主釈尊にそむく罪は、堕地獄必定である。
このように、善導の五種の雑行は、ことごとく堕悪道の業因をつくるのである。ところが、そのうえに、当世の念仏者は、善導の教えをすべて破っているというのである。
念仏者といっても、弥陀三部経以外の経典を読み、弥陀三尊以外の仏、菩薩、諸天善神を礼拝し、その名を唱え、供養している人々が大部分であり、これらは師敵対の罪を重ねていることになる。
なお、礼拝雑行に関して「日本は神国として伊奘諾伊奘册の尊此の国を作り天照大神垂迹御坐して御裳濯河の流れ久しくして今にたえず豈此の国に生を受けて此の邪義を用ゆべきや」とのべられ、日本の諸天善神を拝することを否定しているのは邪義であるとされている。しかし、この御文は、けっして、神社へ参詣し、祠を礼拝してもよいということではない。
立正安国論に「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る」(0017:12)と述べられているように人々が邪宗に惑わされているゆえに、国土守護の諸天善神は法味に飢え、祠を焼いて本処に帰り、代わりに悪鬼邪神の棲となっているのが現実の神社である。ゆえに、そのような神社への参詣は災難を招き、謗法の行為となるのである。
しかし、諌暁八幡抄には、八幡大菩薩は正直者の頭に亭ると記されている。
「八幡の御誓願に云く『正直の人の頂を以て栖と為し、諂曲の人の心を以て亭ず』等云云」(0587:12)、「今八幡大菩薩は本地は月支の不妄語の法華経を迹に日本国にして正直の二字となして賢人の頂きにやどらんと云云、若し爾らば此の大菩薩は宝殿をやきて天にのぼり給うとも法華経の行者・日本国に有るならば其の所に栖み給うべし」(0588:11)。
正直とは、正しい法を信ずる者であり、妙法を信受する者のことをいう。妙法を信ずる者の頂に、八幡大菩薩等の日本国の諸天善神は住みたまうのである。
諸天善神を崇重することと、魔の栖み家となってしまっている神社へ参詣することとは、明確に区別しなければならない。妙法を信ずることが諸天善神を大事にしていることになるのである。
つぎに、善導の観念法門に記された行儀をも、念仏者たちはことごとく破っている。
念仏無間地獄抄には「凡そ善導の行儀法則を云へば酒肉五辛を制止して口に齧まず手に取らず未来の諸の比丘も是くの如く行ずべしと定めたり、一度酒を飲み肉を食い五辛等を食い念仏申さん者は三百万劫が間地獄に堕す可しと禁しめたり、善導が行儀法則は本律の制に過ぎたり」(0099:03)とある。
念仏者は、この師敵対の罪という観点だけで見ても、生きては悪瘡に苦しみ、死しては三百万劫もの間、無間地獄に堕ちるのである。
第十三章 弘法の邪義を破す
爰に愚人の云く誠に是れ此の法門を聞くに念仏の法門実に往生すと雖も其の行儀修行し難し況や彼の憑む所の経論は皆以て権説なり往生す可からざるの条分明なり。
但真言を破する事は其の謂れ無し夫れ大日経とは大日覚王の秘法なり大日如来より系も乱れず善無畏・不空之を伝え弘法大師は日本に両界の曼陀羅を弘め、尊高三十七尊・秘奥なるものなり然るに顕教の極理は尚密教の初門にも及ばず爰を以て後唐院は法華尚及ばず況や自余の教をやと釈し給へり此の事如何が心うべきや。
聖人示して云く予も始は大日に憑を懸けて密宗に志を寄す然れども彼の宗の最底を見るに其の立義も亦謗法なり汝が云う所の高野の大師は嵯峨天皇の御宇の人師なり、然るに皇帝より仏法の浅深を判釈すべき由の宣旨を給いて十住心論十巻之を造る、此の書広博なる間要を取つて三巻に之を縮め其の名を秘蔵宝鑰と号す始異生羝羊心より終秘密荘厳心に至るまで十に分別し、第八法華・第九華厳・第十真言と立てて法華は華厳にも劣れば大日経には三重の劣と判じて此くの如きの乗乗は自乗に仏の名を得れども後に望めば戯論と作ると書いて法華経を狂言綺語と云い釈尊をば無明に迷へる仏と下せり、仍て伝法院建立せし弘法の弟子正覚房は法華経は大日経のはきものとりに及ばず・釈迦仏は大日如来の牛飼にも足らずと書けり、汝心を静めて聞け一代五千七千の経教・外典三千余巻にも法華経は戯論三重の劣・華厳経にも劣り釈尊は無明に迷へる仏にて大日如来の牛飼にも足らずと云う慥なる文ありや、設ひさる文有りと云うとも能く能く思案あるべきか。
経教は西天より東土に洎ぼす時・訳者の意楽に随つて経論の文不定なり、さて後秦の羅什三蔵は我漢土の仏法を見るに多く梵本に違せり我が訳する所の経若し誤りなくば我死して後・身は不浄なれば焼くると云えども舌計り焼けざらんと常に説法し給いしに焼き奉る時・御身は皆骨となるといへども御舌計りは青蓮華の上に光明を放つて日輪を映奪し給いき有り難き事なり、さてこそ殊更・彼の三蔵所訳の法華経は唐土にやすやすと弘まらせ給いしか、然れば延暦寺の根本大師・諸宗を責め給いしには法華を訳する三蔵は舌の焼けざる験あり汝等が依経は皆誤れりと破し給ふは是なり。涅槃経にも我が仏法は他国へ移らん時誤り多かるべしと説き給へば経文に設ひ法華経はいたずら事・釈尊をば無明に迷へる仏なりとありとも権教・実教・大乗・小乗・説時の前後・訳者能く能く尋ぬべし、所謂老子・孔子は九思一言・三思一言・周公旦は食するに三度吐き沐するに三度にぎる外典のあさき猶是くの如し況や内典の深義を習はん人をや、其の上此の義・経論に迹形もなし人を毀り法を謗じては悪道に堕つべしとは弘法大師の釈なり必ず地獄に堕んこと疑い無き者なり。
現代語訳
そこで愚人はいう。まことにこの法門を聞くと、たとえ念仏の法門は実に往生できるとしても、その振る舞い、修行は難しい。ましてかの頼りとする経論は、皆権経である。往生できないことは明らかである。
ただし、真言宗を破すことはその根拠がない。いったい、大日経とは大日如来の秘法である。大日如来から系統も乱れず、善無畏・不空とこの秘法を伝え、弘法大師は日本に金剛界・胎蔵界両部の曼陀羅を弘めた。これは尊高の三十七尊を描いた秘奥の法である。したがって顕教の極理はなお密教の初門にも及ばない。このゆえに智証大師は、「法華経もなお及ばない。ましてその他の教はいうまでもない」と釈している。このことはどのように心得るべきなのか。
聖人は示していう。自分もはじめは大日如来を頼みとして、真言宗に志を寄せていた。しかしながら真言宗の奥底を究めてみると、その立義もまた謗法である。あなたのいわれる弘法大師は嵯峨天皇の御世の人師である。しかるに帝から仏法の浅深を判釈せよとの勅命を受けて、十住心論十巻を造った。この書は広博なので、肝要を取って三巻に縮め、その名を秘蔵宝鑰と名づけた。始めの異生羝羊心から、終わりの秘密荘厳心に至るまで十に分別して、第八を法華、第九を華厳、第十を真言と立てて、法華経は華厳にも劣るので、大日経に対しては三重にも劣っていると判じて「このような経教は、みずからは仏乗と名づけるけれども後に望めば戯論となる」と書いて、法華経を狂言綺語といい、釈尊を無明に迷っている仏と下した。これによって伝法院を建立した弘法の弟子・正覚房は「法華経は大日経の履物とりにも及ばない。釈迦仏は大日如来の牛飼にも達していない」と書いた。あなたは心をしずめて聞きなさい。釈尊一代の五千七千の経教、外典三千余巻にも、法華経は戯論、三重の劣、華厳経にも劣り、釈尊は無明に迷っている仏で、大日如来の牛飼にも達していないという確かな文証があるのか。たとえ、そういう文証があるといってもよくよく考えるべきである。
釈尊の経教は、インドから中国に伝わった時に、訳者の意向にしたがって経論の文が一定しなかった。そこで後秦の羅什三蔵は「私が漢土の仏法を見ると、多くは梵本に相違している。私の訳した経にもし誤りがなければ、私が死んで火葬にする時、身は不浄なので焼けるとしても、舌ばかりは焼けないであろう」とつねに語っていたが、死後、果たして身は焼かれて皆骨となってしまったが、舌ばかりは青蓮華の上に光明を放ち、太陽の光を奪うほどであった。有り難いことである。かくてこそ、ことさら、かの羅什三蔵の翻訳した法華経は中国にやすやすと弘まったのである。それゆえ延暦寺の伝教大師が諸宗を責めた時に「法華経が正しいということは、訳した羅什三蔵の舌が焼けなかった験がある。あなた達の依経は皆誤っている」と破折したのはこのことをいう。
涅槃経にも「我が仏法が他国へ移る時誤りが多いであろう」と説かれたので、経文にはたとえ法華経は無益なこと、釈尊は無明に迷っている仏であるとあったとしても、権教・実教、大乗・小乗、説法時の前後、翻訳者等をよくよく調べるべきである。いわゆる老子や孔子は九思一言、三思一言といい、周公旦は食事中に三度口中の食を吐き、髪を洗うに三度髪をにぎったという。外典の浅い書でさえ、なおこのように深く注意するのであるから、まして内典の深義を学ぶ人はいうまでもない。そのうえ法華経が大日経に劣るという義は、経にも論にも跡形もないことである。「人を毀り、法を謗ずるならば悪道に堕ちる」とは弘法大師の釈である。必ず地獄に堕ちることは疑いない者である。
語釈
善無畏
(0637~0735)。中国・唐代の真言密教の僧。梵名シュバカラシンハ(Śubhakarasiṃha)、音写して輸波迦羅。善無畏はその意訳。宋高僧伝によれば、東インド烏荼国の王子として生まれ、13歳で王位についたが兄の妬みをかい、位を譲って出家した。マガダ国の那爛陀寺で、達摩掬多に従い密教を学ぶ。唐の開元4年(0716)中国に渡り、玄宗皇帝に国師として迎えられた。「大日経」「蘇婆呼童子経」「蘇悉地羯羅経」などを翻訳、また「大日経疏」二十巻を編纂、中国に初めて密教を伝えた。とくに大日経疏で天台大師の一念三千の義を盗み入れ、理同事勝の邪義を立てた。金剛智、不空とともに三三蔵と呼ばれた。
不空
(0705~0774)。梵名アモーガバジュラ(Amoghavajra)、音写して阿目佉跋折羅、意訳して不空金剛。不空は略称。中国・唐代の真言宗三三蔵(善無畏、金剛智、不空)の一人で、中国密教の完成につとめた。十五歳の時、唐の長安に入り、金剛智に従って出家。開元29年(0741)、金剛智死去後、南天竺に行き、師子国(スリランカ)に達したとき竜智に会い、密蔵および諸経論を得て、六年後、ふたたび唐都の洛陽に帰った。玄宗皇帝の帰依を受け、尊崇が厚かった。「金剛頂経」三巻など多くの密教経典類を翻訳し、羅什、玄奘、真諦と共に中国の四大翻訳家の一人に数えられている。
弘法大師
(0774~0835)。平安時代初期の僧。日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法は諡号。姓は佐伯氏、幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣とする説を立てた。著書に「三教指帰」三巻、「弁顕密二教論」二巻、「十住心論」十巻、「秘蔵宝鑰」三巻等がある。
後唐院
智証大師円珍(0814~0891)のこと。比叡山延暦寺第五代座主。滋賀県の三井寺に唐院を建立。それより以前、慈覚が比叡山に唐院を建てたのを前唐院と呼ぶのに対し、後唐院と呼び、後に慈覚、智証の別称ともなった。
仏法の浅深を判釈すべき由の宣旨
天長7年(0830)淳和天皇より、諸宗に対し、それぞれの宗要を奏進させる命が出されたこと。三論・法相・華厳・律・天台・真言の六宗より各宗の教義解説書が提出された。「天長六本宗書」という。三論宗は玄叡の「大乗三論大義抄」、法相宗は護命の「大乗法相研神章」、華厳宗は普機の「華厳宗一乗開心論」、律宗は豊安の「戒律伝来宗旨問答」、天台宗は義真の「天台法華宗義集」、真言宗は弘法の「秘密曼荼羅十住心論」である。
十住心論
「秘密曼荼羅十住心論」の略。十巻。弘法大師空海の著。十住心とは、大日経住心品に十種の衆生の心相が説かれているとして、それに世間の道徳・諸宗を当てはめ、菩提心論によって顕密の優劣を判じ、真言宗が最高の教えであることを示そうとしたもの。①異生羝羊住心(凡夫が雄羊のように善悪因果を知らず本能のまま悪行をなす心)・②愚童持斎住心(愚童のように凡夫善人が人倫の道を守り五戒・十善等を行う心)・③嬰童無畏住心(嬰童は愚童と同意で現世を厭い天上の楽しみを求めて修行する位をいう。外道の住心)・④唯蘊無我住心(唯蘊はただ五蘊(五陰と同じ)の法のみ実在するという意で、無我はバラモン等の思想を離脱した声聞の位のこと。すなわち出世間の住心を説く初門で、小乗声聞の住心)・⑤抜業因種住心(十二因縁を観じて悪業を抜き無明を断ずる小乗縁覚の住心)・⑥他縁大乗住心(他縁は利他を意味し、一切衆生を救済しようとする利他・大乗の住心のこと。法相宗の立場)・⑦覚心不生住心(心も境も不生すなわち空であることを覚る三論宗の住心)・⑧一道無為住心(一仏乗を説く天台宗の住心)・⑨極無自性住心(究極の無自性〔固定的実体のないこと〕・縁起を説く華厳宗の住心)・⑩秘密荘厳住心)(究極・秘密の真理を悟った真言宗の住心。大日如来の所説で、これによって真の成仏を得ることができるとした)。弘法は上記十住心の①~③までを世間道、④⑤を小乗、⑥~⑨を大乗の顕教、⑩を密教とした。
秘蔵宝鑰
三巻。弘法の著。「秘密曼荼羅十住心論」十巻を要約して三巻にまとめたもの。法華経は真言・華厳に劣る戯論であると下し、更に法華経の教主は顕教のなかでは究竟の理智法身ではあるが、真言門に望めば初門にすぎず、悟りには遠い「無明の辺域」にすぎない、と法華経の教主である釈尊を卑しめている。
異生羝羊心
異生羝羊住心ともいう。十住心論、秘蔵宝鑰等に説かれる十住心の第一。異生とは凡夫、羝羊とは雄羊のこと。凡夫がひたすら煩悩に執着し、迷乱している有り様を、羝羊が善悪因果を知らず本能のままに生きる姿に譬えたもの。十住心論には「凡夫狂酔して、吾が非を悟らず。但淫食を念うこと、彼の羝羊の如し」とある。
秘密荘厳心
秘密荘厳住心ともいう。十住心論、秘蔵宝鑰等に説かれる十住心の第十。究極・秘密の真理を悟った真言宗の住心。大日如来の所説で、これによって真の成仏を得ることができるとした。十住心論には「顕薬は塵を払い、真言は庫を開く。秘宝忽に陳して、万徳即ち証す」とある。
正覚房
(1095~1144)。覚鑁のこと。平安時代後期の僧。新義真言宗の開祖。興教大師と諡された。仁和寺の寛助僧正について得度し、密教の奥義を学ぶ。大治5年(1130)高野山に伝法院を建立し、天承元年(1131)鳥羽上皇の勅願によって堂宇を拡充し大伝法院と称した。長承3年(1134)大伝法院と金剛峯寺の両座主を兼ねた。のち、金剛峯寺衆徒と対立し、一門を率いて根来山に移り円明寺を建立した。死後、その門流が大伝法院を根来山に移し、新義真言宗として分立、覚鑁はその開祖とされる。覚鑁は密教の即身成仏を基にして浄土思想を取り入れて理論的に統一した。著書には「五輪九字明秘密釈」一巻、「密厳諸秘釈」十巻などがある。
法華経は大日経のはきものとりに及ばず・釈迦仏は大日如来の牛飼にも足らず
正覚房覚鑁が仏舎利供養についての講演をまとめた舎利供養式の文に、「尊高なるは不二摩訶衍の仏、驢牛の三身の車を扶くることあたはず。秘奥なるは両部曼陀羅の教、顕乗の四法も履を採るに堪えず」云云とある。「不二摩訶衍の仏」とは、唯一最高の大乗教を説く仏の意で、大日如来を指す。「驢牛」は驢馬と牛のこと。驢は露に通じ、顕露の牛。「三身」は仏の三種の身体で、ここでは釈尊を表す。すなわち驢牛の三身とは、顕教に説かれる釈尊を揶揄した語。「車」は仏の車乗で、衆生を仏道に導く乗り物の意。「車を扶くること能ず」、釈尊は衆生を救う助けとはならないと蔑む。「両部曼陀羅」は、金剛頂経の説に基づいて立てる金剛界曼荼羅と大日経の説に基づく胎蔵界曼荼羅の二つをさす。「顕乗の四法」とは顕教のうちの四つの大乗の教法で、法相、三論、天台、華厳の四宗をさす。「履をも取るに能えず」、大日如来の履取りの牛飼いにも及ばないとする。大聖人は「所詮此等の誑言は弘法大師の望後作戯論の悪口より起るか」と、すなわち覚鑁のこうした妄言も、その根源は弘法の邪見(〝後に望めば戯論と作る〟等の悪口)にあると指摘されている。
釈尊は無明に迷へる仏
弘法がその著、秘蔵宝鑰のなかで「無明の辺域」といった言葉の意。「法身真如一道無為の真理を明かす乃至諸の顕教においてはこれ究竟の理智法身なり、真言門に望むれば是れ即ち初門なり……此の理を証する仏をまた、常寂光土毘盧遮那と名づく、大隋天台山国清寺智者禅師、此の門によって止観を修し法華三昧を得……かくの如き一心は無明の辺域にして、明の分位にあらず」と。要約すると、顕教諸説の法身真如の理は、真言門に対すれば、なお、仏道の初門であって、このような初門すなわち因門は明の分位たる果門に対すれば、無明の辺域にほかならない、という邪義を述べている。
羅什三蔵
(0344~0409)。鳩摩羅什のこと。梵名クマーラジーヴァ(Kumārajīva)の音写。中国・姚秦(後秦)代の訳経僧。童寿と訳す。父はインドの一国の宰相の家柄から出家した鳩摩羅炎(クマーラーヤナ)、母は亀茲国王白純の妹・耆婆(ジーヴァ)。七歳で母と共に出家し、仏法を学ぶ。生来英邁で一日に千偈、三万二千言の経を誦したと言う。九歳の時罽賓国(カシミール、もしくはガンダーラ)に留学し、王の従弟の槃頭達多について小乗を学ぶ。帰国して西域に遊学し、須利耶蘇摩について大乗教を修め、亀茲国に帰って大乗仏教を弘めた。しかし、中国・前秦の王・符堅は、将軍・呂光に命じて西域を攻めさせ、羅什は、亀茲国を攻略した呂光に連れられて中国へ行く途中、前秦が滅亡したため、呂光の保護を受けて涼州に留まった。その後、後秦の王・姚興に迎えられて弘始3年(0401)長安に入り、国師の待遇を得て訳経に従事した。羅什は多くの外国語に通暁していたので、初期の漢訳経典の誤謬を正し、また抄訳を全訳とするなど、経典の翻訳をした。その翻訳数は、出三蔵記集巻二によると三十五部二百九十四巻、開元釈教録巻四によると七十四部三百八十四巻にのぼる。代表的なものに「妙法蓮華経」八巻、「大品般若経」二十七巻、「大智度論」百巻、「中論」四巻、「百論」二巻等、多数がある。弘始11年(0409)8月20日、長安で寂したが、予言どおりに舌のみ焼けず、訳の正しさを証明したと伝えられる。なお、寂年には異説があるが、ここでは高僧伝巻二によった。
根本大師
(0767~0822)。伝教大師のこと。平安時代初期の人で、日本天台宗の開祖。諱は最澄。諡号は伝教大師。叡山大師・山家大師ともいう。俗姓は三津首。幼名は広野。近江国(滋賀県)滋賀郡の生まれ。先祖は後漢の孝献帝の末裔で、応神天皇の時代に日本に帰化したといわれる。12歳で近江国分寺の行表について出家。延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受け、その後、比叡山に登り、諸経論を究めた。延暦21年(0802)和気弘世・真綱の招請を受けて下山し、京都高雄山寺(のちの神護寺)で天台三大部を講じた。延暦23年(0804)還学生(短期留学生)として義真を連れて入唐し、道邃・行満(以上天台学)・翛然(禅)・順暁(密教)等について学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。その後、嵯峨天皇の護持僧となり、大乗戒壇実現に努力した。没後、勅許を得て大乗戒壇が建立された。貞観8年(0866)伝教大師の諡号が贈られた。おもな著書に「山家学生式」一巻、「法華秀句」三巻、「顕戒論」三巻、「守護国界章」九巻等がある。
老子・孔子は九思一言・三思一言
老子、孔子のような聖人は一言を出だすにもよく熟慮するということで、物事の是非善悪を充分考察したうえで話をすること。九思一言という語は孔子の語としては見あたらないが、論語の季氏篇第十六に「孔子曰く、君子に九思あり、視には明を思い、聴には聡を思い、色は温を思い、貌は恭を思い、言は忠を思い、事は敬を思い、疑いには問を思い、忿りには難を思い、得るを見ては義を思う」(視るときは明らかに、聴くときは聡く、顔色は温和に、貌は恭しく、言は忠実に、事にあたっては敬い慎重に、疑わしきは質問し、忿りには難が付きまとうことを思い、利得を前にしては道義に適うかどうかを思念すること)。三思一言は君子三思ともいう。荀子の法行篇には「孔子曰く、君子に三思有り。少くして学ばざれば、長じて能無きなり。老いて教へざれば、死して思はるること無きなり。有りて施さざれば、窮して與へらるること無きなり」云云とある。若い時には老後のことを、年をとったならば死後のことを、豊かな時には貧乏になった時のことを考えておくこと。
周公旦
周の文王の子。武王の弟。姓は姫、名は旦。生没年は不明である。文王の死後、武王とともに殷の紂王を討ち、武王を助けた。武王の死後は幼帝の成王を助け、東方の殷の反乱を自ら遠征して鎮めた。この東方遠征は広範囲に及び、これを機に黄河下流の平原を統治圏内におさめ、洛邑(後の洛陽)の都を建設し、周王朝の基礎を固めた。周公はその統治期間に周一族や功臣を各地方に派遣して封建制を施行し、また殷の一族を各地に分散させる等多くの改革を行なった。また、殷代の神政制度に加えて、社会の道徳を慣習化した「礼」を社会秩序の基礎とした。ここから中国の儒教思想がめばえた。周公の人格と治世は孔子等の儒者からあつく尊敬されたといわれる。
食するに三度吐き沐するに三度にぎる
司馬遷の史記巻三十三にある故事。周公旦が天下の士を求めるために示した態度で人の訪問を受ければ、洗髪の時でも、食事の時でも中断して会い、礼をおろそかにしない、との意。史記には「ここにおいてついに成王を相け、而してその子伯禽をして代わりて封じ魯に就かしむ。周公、伯禽を戒めて曰く『我は文王の子、武王の弟にして、成王の叔父なり。我れ天下において、また賤しからず。然れども我は一沐に三たび髮を捉り、一飯に三たび哺を吐き、起ちて以って士を待ち、なお天下の賢人を失わんことを恐る。子、魯に之かば、慎みて国を以って人に驕ることなかれ』」とある。本抄では、外典でさえ、このように深く注意するのであるから、まして内典の深義を学ぶ人はいうまでもない、として挙げられた。
講義
聖人の念仏破折によって、愚人も念仏への執着を断つことができた。だが、愚人の心の中には、真言密教へのとらわれが残っていた。
本章からは、密教の破折に移られるのである。愚人は、次のような迷妄にとらわれていた。つまり、真言密教は、大日如来の秘法であって、大日如来から善無畏、不空を経て伝えられ、日本の弘法は両界曼荼羅を弘めたのである。このすばらしい密教の秘法に対しては、顕教の極理でさえも、その初門にも及ばないのではないか、と。
聖人は、自分も初めは真言に心を寄せたけれども、その教義の根底を見ると謗法といわざるをえないと、弘法の邪義を中心に論じられている。本章では、法華経は大日経より劣るとする彼の立義が正義であるか邪義であるかを判釈するために二つの視点が示されている。
まず第一には経や論にたしかなる文証があるか否かである。文証がなければ、人師が勝手に作りあげた邪説であり、妄論である。
第二に、文証があるといっても、経文の権実、大小、説法時の前後、とくにだれが翻訳者であるかをよく調べてから判断することが必要である。経論が、サンスクリットから漢語に翻訳される時、訳者の意楽によってその文義が一定していないからである。つまり、そこに大なり小なり主観が入りこんでしまうのである。
もし、原本の正しい意味をゆがめているような翻訳であれば、これを文証として使ってはならない。
このような二つの判釈基準にしたがって、弘法の立義を調べてみると、明らかに仏の本意に反する邪義であることがわかるのである。
弘法は十住心論や秘蔵宝鑰の中で十住心を論じ、法華経は大日経に対して三重の劣であり、戯論であるとののしり、また釈尊をいまだ無明に迷える仏と下している。
これをうけて正覚房は舎利供養式の中で「尊高なるは不二摩訶衍の仏、驢牛の三身の車を扶くることあたはず。秘奥なるは両部曼陀羅の教、顕乗の四法も履を採るに堪えず」と法華経と釈尊を誹謗している。
根本の説は弘法であるから、弘法の主張する法華経三重の劣の文証があるか否かの検討が先決である。本抄では「此の義、経論に迹形もなし」と結論のみを示されているが、他の御書で、この点の詳細な解明がされている。
例えば、法華真言勝劣事には、次のように記されている。
「空海は大日経・菩提心論等に依つて十住心を立てて顕密の勝劣を判ず、其の中に第六に他縁大乗心は法相宗・第七に覚心不生心は三論宗・第八に如実一道心は天台宗・第九に極無自性心は華厳宗・第十に秘密荘厳心は真言宗なり、此の所立の次第は浅き従り深きに至る其の証文は大日経の住心品と菩提心論とに出づと云えり。然るに出す所の大日経の住心品を見て他縁大乗・覚心不生・極無自性を尋ぬるに名目は経文に之有り然りと雖も他縁・覚心・極無自性の三句を法相・三論・華厳に配する名目は之無し、其の上覚心不生と極無自性との中間に如実一道の文義共に之無し、但し此の品の初に『云何なるか菩提・謂く如実に自心を知る』等の文之有り、此の文を取つて此の二句の中間に置いて天台宗と名づけ華厳宗に劣るの由之を存す、住心品に於ては全く文義共に之無し、有文有義・無文有義の二句を虧く信用に及ばず。菩提心論の文に於ても法華・華厳の勝劣都て之を見ざる上、此の論は竜猛菩薩の論と云う事上古より諍論之れ有り、此の諍論絶えざる已前に亀鏡に立つる事は竪義の法に背く」(0120:03)。
この御文に、弘法の邪義が全く彼の妄作であり、偽作であることが見事に示されている。
若干、御文にそって解釈を加えていくと、弘法は、この義は、大日経の住心品と菩提心論によって立てたものであり、己義ではないという。しかし、ここに弘法の欺瞞がある。
大日経の住心品を見ると、いかにも弘法のいうように他縁大乗心、覚心不生心、極無自性心という名前だけはある。しかし、この三心を、他縁大乗心は法相、覚心不生心は三論、極無自性心は華厳であると配したのは弘法自身の独断であり、なんの根拠もない。
しかも、覚心不生心と極無自性心の間には、如実一道心などという文も義も全くないのである。ただ、住心品の初めに「云何なるか菩提・謂く如実に自心を知る」ということばがある。弘法は、この句を、自分勝手に、覚心不生心と極無自性心の間に入れて、これは天台であると配し、法華経は華厳経にも及ばないという邪義を立てたのである。
このようなトリックを使って、法華は華厳にも劣るから、第十番目の秘密荘厳心・真言からすると三重の劣になるという妄説を勝手につくりだしたのである。
したがって、法華経が大日経より三重に劣るとの義は、大日経にも全くない妄説であり、弘法が依りどころであるとしている菩提心論にも法華が華厳に劣るなどということは書かれていない。しかも、菩提心論は、竜樹の作、不空の訳といい、真言では所依の論にしているが、はたして竜樹の著であるか否か諍論が絶えない問題の論であるから、証拠として使用するに足りないといわれている。
このように、弘法の邪義は、経文にも論にも基づかない妄論であるから、本章で示された第一の観点の検討だけで十分であるが、聖人は、さらに、第二の観点についても羅什三蔵の例を挙げて詳論されている。
羅什三蔵の舌が焼けず、青蓮華が生じて光明を放ったという現証は、羅什の翻訳が、釈尊の本意にかなっていたことを示している。
釈尊の本意は、法華経によって一切衆生を出離生死させることにある。しかも、この法華経の文底には、宇宙根源の一法が秘沈され、法華経の文々句々は、すべてこの一法を志向していることを知らなければ、衆生を成道に導くための正しい翻訳は不可能である。このような意味から、日蓮大聖人は、羅什一人が釈尊の心にかなった名訳をしたと評価されている。
例えば、諌暁八幡抄には「然るに月氏より漢土に経を渡せる訳人は一百八十七人なり其の中に羅什三蔵一人を除きて前後の一百八十六人は純乳に水を加へ薬に毒を入たる人人なり、此の理を弁へざる一切の人師末学等設い一切経を読誦し十二分経を胸に浮べたる様なりとも生死を離る事かたし」(0577:09)と述べられている。
また、撰時抄では、菩提心論について、この論は竜樹の作ではなく、不空が勝手に偽作したものであると破折した後、次のようにいわれている。
「総じて月支より漢土に経論をわたす人・旧訳・新訳に一百八十六人なり 羅什三蔵一人を除いてはいづれの人人も誤らざるはなし、其の中に不空三蔵は殊に誤多き上誑惑の心顕なり」(0268:13)。
このように、経典の権実、大小、説時の前後等とともに、翻訳者を調べることも、出離生死のためには重要な事柄なのである。
以上、弘法の邪義は明瞭であるうえ、法華経を誹謗し、釈尊を下す罪によって、彼自身が秘蔵宝鑰の中で「人を謗じ、法を謗ずれば定んで阿鼻獄に堕して更に出ずる期なし」と述べたように、弘法の堕地獄は間違いないといわなければならない。
第十四章 法華第一が金言なるを示す
爰に愚人・茫然とほれ忽然となげひて良久しうして云く此の大師は内外の明鏡・衆人の導師たり徳行世に勝れ名誉普く聞えて或は唐土より三鈷を八万余里の海上をなぐるに即日本に至り或は心経の旨をつづるに蘇生の族・途に彳む、然れば此の人ただ人にあらず大聖権化の垂迹なり仰いで信を取らんにはしかじ。聖人云く予も始めは然なり但し仏道に入つて理非を勘へ見るに仏法の邪正は必ず得通自在にはよらず是を以て仏は依法不依人と定め給へり前に示すが如し、彼の阿伽陀仙は恒河を片耳にただへて十二年・耆兎仙は一日の中に大海をすひほす張階は霧を吐き欒巴は雲を吐く然れども未だ仏法の是非を知らず因果の道理をも弁へず、異朝の法雲法師は講経勤修の砌に須臾に天華をふらせしかども妙楽大師は感応斯くの如きも猶理に称わずとていまだ仏法をばしらずと破し給う。夫れ此の法華経と申すは已今当の三説を嫌つて已前の経をば未顕真実と打破り肩を並ぶる経をば今説の文を以てせめ已後の経をば当説の文を以て破る実に三説第一の経なり、第四の巻に云く「薬王今汝に告ぐ我所説の経典而かも此の経の中に於て法華最第一なり」文、此の文の意は霊山会上に薬王菩薩と申せし菩薩に仏告げて云く始華厳より終涅槃経に至るまで無量無辺の経・恒河沙等の数多し其の中には今の法華経最第一と説かれたり、然るを弘法大師は一の字を三と読まれたり。 同巻に云く「我仏道の為に無量の土に於て始より今に至るまで広く諸経を説く而も其の中に於て此の経第一なり」と、此の文の意は又釈尊無量の国土にして或は名字を替え或は年紀を不同になし種種の形を現して説く所の諸経の中には此の法華経を第一と定められたり、同き第五巻には最在其上と宣べて大日経・金剛頂経等の無量の経の頂に此の経は有るべしと説かれたるを弘法大師は最在其下と謂へり、釈尊と弘法と法華経と宝鑰とは実に以て相違せり釈尊を捨て奉つて弘法に付くべきか、又弘法を捨てて釈尊に付奉るべきか、又経文に背いて人師の言に随ふべきか人師の言を捨てて金言を仰ぐべきか用捨心に有るべし。
現代語訳
ここに愚人は茫然とし、また悲しんでいたが、ややしばらくしてからいう。この弘法大師は内外の明鏡・衆人の導師である。徳行は世に勝れ、名誉はあまねく聞こえて、あるいは中国から三鈷を投げると、八万余里の海上を越えて日本に至ったといわれ、あるいは般若心経の経旨を書いて疫病を止め、蘇生した者が道にあふれたという、それゆえにこの人は凡人ではない。仏が仮に姿を変えてこの世に現れた化身である。仰いで信じなければならない。
聖人はいう。自分も初めはそのように思った。しかし仏道に入って理非を考えてみると、仏法の邪正はけっして神通自在の力にはよらない。このゆえに、仏は「法に依って人に依らざれ」と定められた。前に示したとおりである。かの阿伽陀仙人は恒河の水を片耳に湛えて十二年、耆兎仙人は一日のうちに大海を呑み干す。張階は霧を吐き欒巴は雲を吐く。しかしながら彼らはまだ仏法の是非も知らず因果の道理をも弁えない。中国の法雲法師は法華経を講説した時に、たちどころに天から華をふらせたが、妙楽大師は「感応はそのようにあっても、説くところはなお道理に称っていない」といって、まだ真実の仏法を知らないと破折された。
さて、この法華経というのは已今当の三説を嫌って、法華経已前の経は「未顕真実」と打ち破り、同時の無量義経は「今説」の文をもって責め、已後の涅槃経は「当説」の文をもって破る。まことに已今当の三説の中で第一の経である。法華経巻四法師品第十に「薬王、今あなたに告げる。私の所説の諸経の中において、法華経は最も第一である」と。この文の意味は霊山会上で薬王菩薩という菩薩に仏が告げていうには「始め華厳経より終わり涅槃経に至るまで無量無辺の経があって、恒河の沙のように数が多い。その中にはこの法華経が最も第一」と説かれている。ところが弘法大師は一の字を三と読まれたのである。
同巻見宝品第十一に「私が仏道を広めるために、無量の土において、始めより今に至るまで、広く諸経を説く、しかしその中において、この経は第一である」と。この文の意味は、また釈尊が無量の国土にあって、あるいは名字を替え、あるいは寿命を不同になし、種々の形を現じて、説かれた諸経の中で、この法華経を第一と定められたのである。同じく法華経巻五安楽行品第十四には「法華経は最もその上にある」とのべて、大日経・金剛頂経等の無量の経典の頂上にこの経はあるのであると説かれたのを、弘法大師は「最もその下にある」と思ったのである。釈尊と弘法と、法華経と秘蔵宝鑰とはまことに大きく相違している。釈尊を捨てて弘法につくべきか、また弘法を捨てて釈尊につくべきか。また経文に背いて人師のことばに随うべきか、人師のことばを捨てて仏の金言を仰ぐべきか。いずれを用い、いずれを捨てるか、よく判断しなさい。
語釈
唐土より三鈷を八万余里の海上をなぐるに即日本に至り
三鈷とは真言密教の祈禱に用いる道具で、三鈷杵のこと。鈷は古代インドの武器であったが、仏教では煩悩を破るとの意義から法具とされた。手杵の形に似て先端が三つに分かれている。弘法は漢土から日本へ帰るとき、この三鈷を日本の方角へ向けて投げたところ、三鈷がはるか雲の中に隠れ、後日、紀州(和歌山県)高野山でそれが発見され、高野山こそ感応の地であるとして寺院を建立したという、まことにたわいない戯言のことである。「大師御行状集記」に「伝に曰く、本朝に赴くに、船を泛るの日、海上において祈誓発願して曰く、所学の教法、秘蔵に依って処を択び、吾が朝において若し感応の地有らば、此の三鈷点に到るべしと、日本の方に向って三鈷を抛げ上ぐなり。遙かに飛んで雲の中に入る」とある。また「弘法大師御伝」(空海入定後三百十七年に成立)に「帰国の後、高野山の地に官符を得、仁祠を構えようとして樹木を裁払していた時、例の三鈷が樹間に懸っているのを見いだした」とある。
阿伽陀仙は恒河を片耳にただへて十二年
阿伽陀仙人のこと。梵名アガスティヤ (Agastya)の音写。涅槃経には阿竭多仙と書く。インドの外道の仙人。涅槃経巻三十九には、多くの外道が阿闍世王の所へ来て釈尊を謗り、バラモン教には諸の通力ある仙人がいることを説く文の中に、「阿竭多仙が十二年の中、恒河の水耳中に停りしを聞かずや」とある。
耆兎仙は一日の中に大海をすひほす
耆兎仙人のこと。梵名ジヌ(Jinu)の音写。勝仙と訳す。インドの外道の仙人。涅槃経巻三十九に「耆兎仙人が一日の中に四海水を飲みて、大地をして乾かしむるを聞かずや」とある
張階は霧を吐き
張楷と書く。中国・後漢の人。字は公超。後漢書・張楷伝にある。「厳氏春秋」「古文尚書」などに通達し、道術にも通じていた。順帝が張階を召し出そうとしたが、病気と称し、出仕しなかった。そして桓帝にも招聘されたが応じず、探しに来た役人を五里霧の中に閉じ込め、方向を分からなくした。「五里霧中」の語は、張楷の故事による。
欒巴は雲を吐く
中国・後漢の人。字は叔元。後漢書・欒巴伝にある。順帝が欒巴を尚書に任じた。その朝賀の宴席で、欒巴は酒を飲まずにいたが、急に酒を口に含み西南に向かって噴き出した。その無礼を咎めると、欒巴は、本国の成都の市に失火があったので、この場で酒を噴いて雨を降らせ、火災を消し止めたと答えた。調査したところ、確かに失火があり、東北から大雨が降り火を消したが、雨には酒気があったという。
法雲法師は講経勤修の砌に須臾に天華をふらせ
(0467~0529)。中国・南北朝時代の僧。開善寺の智蔵・荘厳寺の僧旻とともに梁の三大法師と称された。江蘇省宜興市の人で姓は周氏。7歳で出家し、30歳で法華経・浄名経を講じた。天監7年(0508)勅により光宅寺の主となり、光宅寺法雲と呼ばれた。天監10年(0511)の華林園において法華経を講ずると、たちまちに天華が舞い下る奇瑞を感じ、薬草喩品の「其雨普等四方俱下」(其の雨は普ねく等しくして 四方に倶に下り)の句に至りて、雨が降ってきたという。著書に「法華経義記」八巻がある。
妙楽大師
(0711~0782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の教義を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(0748)38歳の時、宿願を達成して宜興浄楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの隆盛の陰に天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」十巻、「法華文句記」十巻、「止観輔行伝弘決」十巻、また「五百問論」三巻等多数ある。
講義
弘法の邪義たるゆえんと堕獄は必定との破折を聞いて、愚人は茫然としてことばもでなかったが、やがて気をとりなおしてまだ残っている疑いを問うている。
仏法は種々の不思議な通力を示したといわれており、愚人は、あれほどの通力を示す人のいうことだから、仰いで信ずべきではないかと反論するのである。
これに対し、大聖人はまず第一に、涅槃経に、依法不依人とあるとおり、仏法の正邪はあくまで法に依るべきであり、その人がいかなる通力をもっているかに依ってはならないとの道理を述べ、この実例として、インドの外道の阿伽陀仙、耆兎仙人も、また中国の道教の張階や欒巴も通力をもっていたが、彼等は仏法の因果さえ弁えていないという証拠を挙げられている。
また仏教では、法雲が法華経を購読して天華をふらせたが、妙楽は、彼の説くところは理にかなっていない、つまり法華経の正しい講説ではないと破折したという例を示しておられる。
このように、通力によって仏法の正邪をきめるべきではないのである。
つぎに、通力ではなく、法によって仏法の正邪を判釈すれば、法華経の法師品には、明らかに「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし。而も其の中に於いて、此の法華経は最も為れ難信難解なり」とある。ゆえに同品に「法華は最も第一なり」とも記されているのである。
また、宝塔品にも「此の経は第一なり」の文がある。
このような明文があるにもかかわらず、弘法は、法華経第一と読まず、第三の劣とよんだのである。
祈禱抄で、日蓮大聖人は「仏正く諸教を挙げて其の中に於いて法華第一と説き給ふ、仏の説法と弘法大師の筆とは水火の相違なり尋ね究むべき事なり、此筆を数百年が間・凡僧・高僧・是を学し貴賎・上下・是を信じて大日経は一切経の中に第一とあがめける事仏意に叶はず」(1354:11)と断じておられる。
さらに、安楽行品には「最も其の上に在り」と明記されているのに、弘法は「最も其の下に在り」といっていると破折される。
このように法華経こそ最第一であるという釈尊自身の金言に対して、全く反する己義を立てたのが弘法であることを示し「経文に背いて人師の言に随ふべきか人師の言を捨てて金言を仰ぐべきか用捨心に有るべし」と、仏の金言をとるべきか人師の言をとるのかを正しく判断するよう誡められているのである。
仏法の邪正は必ず得道自在にはよらず
この御文は、仏法の正邪を、通力自在の如何によって判断してはならないとの誡めである。
唱法華題目抄で、日蓮大聖人は、慈恩と善導の示した通力を破折するために、本抄で述べられた阿伽陀仙人や張階等の外道の通力の例を挙げられた後に、次のように第六天の魔王の現ずる通力について記されている。
「第六天の魔王は仏滅後に比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・阿羅漢・辟支仏の形を現じて四十余年の経を説くべしと見えたり通力をもて智者愚者をばしるべからざるか、唯仏の遺言の如く一向に権経を弘めて実経をつゐに弘めざる人師は権経に宿習ありて実経に入らざらん者は或は魔にたぼらかされて通を現ずるか、但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず」(0016:10)。
ここに述べられているように、権経のみ弘めて実教を弘めない人師、権経に宿習があって実教に入らない者には、第六天の魔王がついて通を現ずるのである。ゆえに、仏法の邪正は法門でもってただすべきであり、利根と通力によってはならないと仰せである。
弘法の通力については、報恩抄で詳しく述べられているが、数多くの例が伝えられている。
そのなかで、例えば、孔雀経の音義には、弘法が智拳の印を結んで南方に向かったところ、口がにわかに開いて金色の毘盧遮那仏になったという話があるが、日蓮大聖人は、まさに、それこそ、天魔の姿であると次のように述べられている。
「又六の巻に云く『仏迦葉に告げたまわく我般涅槃して乃至後是の魔波旬漸く当に我が正法を沮壊す乃至化して阿羅漢の身及仏の色身と作り魔王此の有漏の形を以て無漏の身と作り我が正法を壊らん』等云云、弘法大師は法華経を華厳経・大日経に対して戯論等云云、而も仏身を現ず此れ涅槃経には魔・有漏の形をもって仏となって我が正法をやぶらんと記し給う(中略)仏説まことならば弘法は天魔にあらずや」(0320:16)。
「六の巻」とは涅槃経の巻六で、魔王が仏の色身となり法華経を壊(やぶ)ろうとするであろうとの文である。弘法の言動は、まさにこの経文どおりであるから彼の通力は天魔の所為にほかならないとされるのである。
また、本抄で、愚人が弘法の通力として示した二つの事柄、一つは唐土より三鈷を海上に投げたところ日本に至ったということ、他は般若心経秘鍵という本を書いたところ疫病が病んで病気の人が蘇生したという通力についても、報恩抄では、次のように破折を加えられている。
「三鈷の事・殊に不審なり漢土の人の日本に来りてほりいだすとも信じがたし、已前に人をや・つかわして・うづみけん、いわうや弘法は日本の人かかる誑乱其の数多し」(0321:04)。
かりに掘り出したのが第三者の漢土の人であったとしても、前もって埋めておいたとも考えられる。まして弘法は日本の人で、ペテン師的行為が多いと。大聖人は、まことに明快で合理的なお考えであられたことがうかがわれる。
般若心経秘鍵を書いて疫病を冶したということについても、信じがたいことであると、次のような不審点を指摘しておられる。
「『弘仁九年の春・天下大疫』等云云、春は九十日・何の月・何の日ぞ是一、又弘仁九年には大疫ありけるか是二、又『夜変じて日光赫赫たり』と云云、此の事第一の大事なり弘仁九年は嵯峨天皇の御宇なり左史右史の記に載せたりや是三、設い載せたりとも信じがたき事なり成劫二十劫・住劫九劫・已上二十九劫が間に・いまだ無き天変なり、夜中に日輪の出現せる事如何・又如来一代の聖教にもみへず未来に夜中に日輪出ずべしとは三皇五帝の三墳・五典にも載せず」(0319:08)等々と破折されている。
弘仁9年(0818)に大疫病があったなどということは、歴史の記録になく、夜中に日光が赫々と輝いたなどということも、もしあれば記録があるはずである。これ自体明らかに、弘法の通力をたたえるために後人のつくった話である。
このように弘法の示したといわれる通力は、第六天の魔王の現じたものか、それとも人々をひきつけるための誑惑にほかならないのである。
第十五章 薬王品の十喩を例に挙げる
又第七の巻薬王品に十喩を挙げて教を歎ずるに第一は水の譬なり江河を諸経に譬へ大海を法華に譬へたり、然るを大日経は勝れたり法華は劣れりと云う人は即大海は小河よりもすくなしと云わん人なり、然るに今の世の人は海の諸河に勝る事をば知るといへども法華経の第一なる事をば弁へず、第二は山の譬なり衆山を諸経に譬へ須弥山を法華に譬へたり須弥山は上下十六万八千由旬の山なり何れの山か肩を並ぶべき法華経を大日経に劣ると云う人は富士山は須弥山より大なりと云わん人なり、第三は星月の譬なり諸経を星に譬へ法華経を月に譬ふ月と星とは何れ勝りたりと思へるや、乃至次下には此の経も亦復是くの如し一切の如来の所説若しは菩薩の所説若しは声聞の所説諸の経法の中に最も為れ第一とて此の法華経は只釈尊一代の第一と説き給うのみにあらず大日・及び薬師・阿弥陀等の諸仏・普賢文殊等の菩薩の一切の所説・諸経の中に此の法華経第一と説けり、されば若し此の経に勝りたりと云う経有らば外道天魔の説と知るべきなり。
現代語訳
また法華経巻第七薬王菩薩本事品第二十三には十種の譬喩を挙げて法華経の教えを讃嘆している。
第一は水の譬である。江河を諸経に譬え、大海を法華経に譬えている。ところが大日経は勝れており、法華経は劣っているという人は、大海の水は江河の水よりも少ないという人である。しかるに今の世の人は海は諸河に勝ることを知っているけれども、法華経の第一であることはわからない。
第二は山の譬である。衆山を諸経に譬え、須弥山を法華経に譬えている。須弥山は水底より高さ上下十六万八千由旬の山である。何れの山も肩を並べることはできない。法華経を大日経に劣るという人は、富士山は須弥山より大きいという人である。
第三は星と月の譬えである。諸経を星に譬え、法華経を月に譬える。月と星とは何れが勝っていると思うのか。これらの譬喩を挙げたあとに「法華経もまたこのとおりである。一切の如来の所説、もしくは菩薩の所説、もしくは声聞の所説、これらの諸の経法の中で、最もこの法華経が第一である」といって、この法華経はただ釈尊一代の第一と説かれているのみでなく、大日及び薬師・阿弥陀等の諸仏、普賢・文殊等の菩薩の一切の所説・諸経の中で、この法華経が第一と説いている。それゆえ、もしこの経に勝っているという経があるというならば、それは外道天魔の説と知るべきである。
語釈
十喩
薬王十喩ともいう。法華経薬王菩薩本事品第二十三(『妙法蓮華経並開結』五九四㌻~五九六㌻)に説かれる。十喩とは法華経が諸経のなかで最高の教えであることを示すために説かれた十種類の譬喩。すなわち①水喩(諸水のなかで海が第一であるように、法華経も諸経のなかで最も深大である)、②山喩(諸山のなかで須弥山が第一であるように、法華経も諸経のなかで最上である)、③衆星喩(諸星のなかで月天子〈月〉が第一であるように、法華経も諸経のなかで最も明るく輝いている)、④日光喩(日天子〈太陽〉が諸の闇を除くように、法華経も一切の不善の闇を除く)、⑤輪王喩(諸の王のなかで転輪聖王が第一であるように、法華経も諸経のなかで最も尊い)、⑥帝釈喩(帝釈天が三十三天の王であるように、法華経も諸経の王である)、⑦大梵王喩(大梵天王が一切衆生の父であるように、法華経も一切の賢聖や菩薩の心を起こす者の父である)、⑧四果辟支仏喩(一切の凡夫のなかで須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢、辟支仏が第一であるように、法華経も諸経のなかで第一である)、⑨菩薩喩(一切の声聞・辟支仏のなかで菩薩が第一であるように、法華経も諸経のなかで第一である)、⑩仏喩(仏が諸法の王であるように、法華経も諸経のなかの王である)である。
須弥山
古代インドの世界観で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。
講義
前章での法華経三説超過の教えに引きつづいて、本章ではさらに、法華経の最勝を述べた薬王品の十喩を挙げて、邪見を破折されている。
しかも、法華経は、釈尊一代の聖教のみならず、大日如来、薬師如来、阿弥陀仏等の仏、普賢菩薩、文殊菩薩等の菩薩の所説、諸経、一切の中で第一であると説かれているのである。
ゆえに、法華経を第三の劣などという弘法の邪義は、あらゆる仏法にはずれる外道天魔の説といわざるをえないのである。
法華経が、一切の仏・菩薩の所説の中で最高であるとは、この全宇宙の中で、この経以上の経典はないということである。このことは、とりもなおさず、法華経が、宇宙それ自体の生命を解明した経典であることを示している。さらにいえば、法華経が、宇宙生命の全体像をえがきえたのは、この経の文底に宇宙根源の一法を秘沈しているゆえにほかならない。
なお、法華経薬王品の十喩については、日蓮大聖人は、薬王品得意抄で詳細に論じられているので、参照されたい。
ここでは、第三の星と月の譬について若干補足しておくと、この譬はもとより地球上の我々の眼に映ずる星の光と月の光の明るさを比較したものである。ゆえに、薬王品には、これを承けて「千万億種の諸の経法の中に於て、最も為れ照明なり」と記されている。
また薬王品得意抄には「衆星は或は半里或は一里或は八里或は十六里には過ぎず、月は八百余里なり衆星は光有りと雖も月に及ばず(中略)一切衆生の心中の見思塵沙無明の三惑並に十悪五逆等の業は暗夜のごとし華厳経等の一切経は闇夜の星のごとし法華経は闇夜の月のごとし」(1500:17)と述べられている。
一切衆生の心中の煩悩、業は闇夜のごときものであり、華厳経等の爾前経は、それに対して闇夜の星のような光しか放っていない。これでは、煩悩、業の闇を照破することはできない。それに較べ、月が出れば、はるかに明るく照らすように、法華経は、煩悩、業の闇を照破することができるのである。さらにいえば、末法御建立の三大秘法の南無妙法蓮華経の力は、太陽の出るがごとくであるといえよう。
第十六章 真言密教の邪義を総括する
其の上・大日如来と云うは久遠実成の教主釈尊・四十二年・和光同塵して其の機に応ずる時・三身即一の如来暫く毘盧遮那と示せり、是の故に開顕実相の前には釈迦の応化と見えたり、爰を以て普賢経には釈迦牟尼仏を毘盧遮那遍一切処と名け其の仏の住処を常寂光と名くと説けり。今法華経は十界互具・一念三千・三諦即是・四土不二と談ず其の上に一代聖教の骨髄たる二乗作仏・久遠実成は今経に限れり、汝語る所の大日経・金剛頂経等の三部の秘経に此等の大事ありや善無畏・不空等・此等の大事の法門を盗み取つて己が経の眼目とせり本経本論には迹形もなき誑惑なり急ぎ急ぎ是を改むべし。抑大日経とは四教含蔵して尽形寿戒等を明せり唐土の人師は天台所立の第三時・方等部の経なりと定めたる権教なりあさまし・あさまし、汝実に道心あらば急いで先非を悔ゆべし夫れ以れば此の妙法蓮華経は一代の観門を一念にすべ十界の依正を三千につづめたり。
現代語訳
そのうえ、大日如来という仏は久遠実成の教主釈尊が四十二年間、和光同塵して衆生の機根に応ずる時、三身即一の如来がしばらく法身仏を示したのである。このゆえに実相を開顕した時には、釈尊が衆生の機根に応じて変現した一応化身と見られるのである。このゆえに、普賢経には「釈迦牟尼仏を毘盧遮那遍一切処と名づけ、其の仏の住処を常寂光と名づく」と説いている。
今、法華経は十界互具・一念三千・三諦即是・四土不二を明かし、そのうえに、一代聖教の骨髄である二乗作仏・久遠実成は法華経に限る法門である。あなたのいう大日経・金剛頂経等の三部の秘経にこれらの大事が説かれているか。善無畏・不空等は、これらの大事の法門を盗み取って、自分の依経の眼目としたのである。もともとの経や論には迹形もない誑惑である。急ぎ急ぎこれを改めるべきである。
いったい、大日経とは蔵通別円の四教が含まれていて、小乗の尽形寿の戒等を明かしているから、中国の人師が天台大師所立の第三方等部の経であると定めた権教である。なんともあさましいことではないか。あなたがまことに求道心があるならば、急いで過去のあやまちを悔いるべきである。さて所詮の極理を考えてみると、この妙法蓮華経こそは釈尊一代の観心の法門を一念におさめ、十界の依正を三千におさめているのである。
語釈
和光同塵
「光を和して塵に同ずる」と読む。①才智を包んで顕さず、世俗に仲間入りして異を立てないこと。老子等に説かれる。②仏や菩薩が衆生を教化するため、威徳の光をやわらげ本地を隠し、仮の姿をもって衆生の間に出現すること。ここでは②の意。
毘盧遮那
梵名マハーヴァイローチャナ(Mahāvairocana)。摩訶毘盧遮那と音写し、毘盧遮那と略す。光明遍照・遍一切処・遍照如来などとも訳される。輝くものの意。新訳華厳経(八十華厳)、大日経等に説かれる仏。各宗により意味のとり方が異なる。真言密教では大日如来のことをいう。
四土不二
四土とは、①凡聖同居土(人・天などの凡夫も声聞・縁覚・菩薩・仏の聖者もともに住む国土)②方便有余土(見思惑を断じまだ塵沙・無明惑を残す二乗や菩薩が住む国土)③実報無障礙土(別教の初地以上、円教の初住以上の菩薩が住む国土)④常寂光土(法身・般若・解脱の三徳をそなえ涅槃にいたっている仏が住む国土)をいう。この四土も、円融相即の教えに基づけば一土にほからない、すなわち、四土は本来べつべつに存在するのではなく、衆生の一念によって感見する国土に相違のあること。法華玄義巻七上に、「寂光は埋通ずること鏡の如く器の如し。諸土は別異なること像の如く飯の如し。業力の隔つる所、感見不同なり。浄名に云く『我が仏土は浄けれども汝は見ず』と」とある。
尽形寿戒
尽形寿とは肉体・寿命の尽きること。また一生涯をいう。小乗教の戒体は、一生の寿命を終えるとともに失われ、それとともに戒の功徳も尽きるので尽形寿戒という。倶舎論巻十四に「別解説の律義は尽寿と惑いは昼夜となり」とあり、多数の戒律を別々に受持してゆく小乗別解脱戒の功徳によって、ひとたび人界もしくは天界に生まれたならば、新たに戒体を獲得しなければ、その一生のうちに戒体を失って悪道に落ちることになる。
講義
本章は、前半に、大日如来と釈尊の関係が教示されており、ついで「今法華経は十界互具」以下が、真言破折の結びとなっている。
かつて愚人のもとを訪れた真言の修行者は、大日経等の三部は、法身大日如来が説いた経典であり、法華経等の顕教は、応身釈迦如来の説いた経典であるといい、真言密教がすぐれている所以とした(第六章)。
また正覚房は舎利講式で、釈尊は大日如来の牛飼にも足らずと誹謗した(第13章)。しかしながら、本源的に大日如来と釈尊の関係をみると、大日如来は法華経本門の久遠実成の釈尊の応化であり垂迹にほかならない。
本来、大日如来は現実に出世成道した仏ではなく、たんなる法身であり理仏にすぎない。このような理仏を現実の仏として、釈尊より勝れているなどというのは、人を誑惑するものである。
もし、実仏であるとするならば、日蓮大聖人が、祈禱抄で提示される疑問に答えねばなるまい。
「大日如来は何なる人を父母として何なる国に出で大日経を説き給けるやらん、もし父母なくして出世し給うならば釈尊入滅以後・慈尊出世以前、五十六億七千万歳が中間に仏出でて説法すべしと云う事何なる経文ぞや、若し証拠なくんば誰人か信ずべきや」(1355:06)。
結局、大日如来は、経文の上の理仏であって実仏ではないのである。
では、大日如来と釈尊との正しい関係はどのようなものかというと、本抄に教示されているように、久遠実成の釈尊が今時に応化して、四十二年間、仏の光を和らげて衆生の煩悩に応じて教化した時、もともと三身即一の仏が衆生救済のために仮に毘盧遮那法身の大日如来と示されたのにすぎない。
それゆえに、法華経で実相すなわち久遠実成を開顕した時には、この久遠の釈尊の応化身となるのである。この証拠として本抄では普賢経の文を挙げておられる。
このように、真言密教の大日如来は、久遠実成の三身即一の仏が迹を垂れた仮の法身仏にすぎない。
それにもかかわらず、正覚房は、全く逆に釈尊は大日如来の牛飼にも足らずとおとしめたのであるから、これほどの誑惑はないのである。
つぎに「今法華経は十界互具・一念三千」等は、真言破折の結びの個所である。
十界互具、一念三千、三諦即是、四土一土等の法門は、ただ法華経にのみ説かれている。真言宗は、この一念三千法門を大日経にも説かれていると主張し、大日経が勝れる証拠としているのであるが、一念三千の基盤である二乗作仏、久遠実成は、法華経にのみ説かれ、大日経には全くないのである。
真言見聞にも「又大日経並びに三部の秘経には何れの巻・何れの品にか十界互具之有りや都て無きなり、法華経には事理共に有るなり、所謂久遠実成は事なり二乗作仏は理なり、善無畏等の理同事勝は臆説なり信用す可からざる者なり」(0148:08)とある。
それにもかかわらず、真言密教で、一念三千が大日経にもあると主張しているのは結局、法華経の一念三千の法門を盗み取ったのにほかならない。
この点については「然らば陳隋二代の天台大師が法華経の文を解りて印契の上に立て給へる十界互具・百界千如・一念三千を善無畏は盗み取つて我が宗の骨目とせり」(0146:11)等、あらゆる御抄で論じられているところである。
それでは、大日経は、釈尊一代の聖教のなかで、どこに位置するかといえば、天台大師所立の教判である五時八教の中の方等部に入る権教なのである。つまり、法華以前の方便権教のなかでも、小乗を交えた低い大乗教にすぎない。その理由は、法華経が純一円教なのに対して大日経には蔵通別円の四経が皆含まれ、とくに戒では小乗戒が説かれているゆえである。
以上のように、真言密教の仏である大日如来は久遠実成の釈尊の応化身であり、権仏にすぎない。また、依経の大日経も方便部に入る権教にすぎない。
ゆえに、出離生死の法を求める心があるならば、先非を悔い、真言密教への執着を断ち切って、妙法蓮華経に帰依すべきであると聖人は愚人に勧めるのである。
この妙法蓮華経は釈尊一代の肝心であり、この一念三千の法門に釈尊一代の一切の修行、十界の依正森羅万象をすべて収めつくしているのである。このことを、観心本尊抄には、さらに明確に「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246:15)とのべられている。