下山御消息 序講三

本抄の教学的位置づけ

 本抄の文献上でのについてはこれまで述べたとおりであるが、次に日蓮大聖人が、自らの御内証の一端を明かされた「教主釈尊より大事なる行者を」(0363:01)の御文を中心に、本抄の教学的位置を論じたい。

 続いて、本抄が富士一跡門徒存知の事で10大部御書の中に選定されたのは何故かという問題を論じ、本文理解のための一助としたい。

「教主釈尊より大事なる行者」とは

 この御文の個所については、岡宮本でも改竄の余地がなかったことは既に見た通りである。その前後に関しては後世の写本及び版本によって、多少の異同がみられるにせよ、その意味においては全く変わりはない。したがって大聖人が因幡房の言葉を借りて御自身を「教主釈尊より大事なる行者を」(0363-01)と表現されたことはまぎれもない事実であり、これに対して意義をはさむ余地は全くないとされてよい。またその意味するところも誰の眼にも明らかであろうと思われるが、念のためこれまでどのように解釈されていたかということを見ておくことにしたい。

一、高田氏及び浅井氏の解釈について

 高田恵忍氏は日蓮聖人遺文全集講義の本抄の該当部の注釈として次の如く述べている。

 「是は法師品に一劫の間釈尊を罵詈するよりも、須臾の間行者に悪言を加る罪重しと説給へる意を顕はす」

 これは、法華経法師品に「是の人は、自ら清浄の業報を捨てて、我が滅度の後に於いて、衆生を愍むが故に、悪世に生まれて、広く此の経を演ぶるなり。若し是の善男子、善女人、我が滅度の後、能く竊かに一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かん。当に知るべし、是の人は則ちの使いなり。如来の所遣として如来の事を行ずるなり。何に況んや、大乗の中に於いて、広く人の為に説かんをや。薬王、若し悪人有って、不審な心を以って、一劫の中に於いて、現に仏の前に於いて常に仏を毀罵せん、其の罪尚軽し。若し人一人の悪言を以って、在世出家の、の、の、法華経を読誦する者を毀罵せん、その罪甚だ重し」と説かれていることを指したものである。ただし、それ以上の言及をしていないところを見ると、この御文の重要性をあえて等閑に付したものと思われる。

 そこで、この法師品の意味するところを考察してみよう。まず、法師品の引用文は、一見して明らかなように、仏滅後の悪世末法において法華経を読誦する者を誹謗する罪が釈尊を誹謗する罪よりもはるかに大きいことを示している。このことから、高田氏は法師品の意を説いた御文として解釈したのであるが、大聖人がどのような意味で「教主釈尊より大事なる行者」と仰せられたかについては、あえてふみこんだ説明を加えていない。

 大聖人は撰時抄において、次のように述べられている。 

 「されば日蓮が法華経の行者にてあるなきかはこれにても見るべし、教主釈尊記して云く末代悪世に法華経を弘通するものを悪口罵詈等せん人は我を一劫が間あだせん者の罪にも百千万億倍すぎたるべしと・とかせ給へり」(0256:17) 

 ここでは、確かに末代悪世における法華経の行者を誹謗する罪と釈尊自身を一劫の間、誹謗する罪とが比較されており、前者の罪の方が大であるとされている。では、末法の法華経の行者を罵詈する罪と釈尊を一劫もの長い間罵詈する重罪とを比べたとき、後者よりも前者の罪の方が重いとされるのはなぜであろうか。

 刑法を例として考えるならば、人の悪なる行為と罰とは、その行為のなされた対象や状況にとか、あるいはその影響力によって、それに応じた罰が定められる。例えば、封建時代であれば、同じ殺人という行為であっても、その行為の対象が他人であるか尊属であるか等によってその罪がことなったのは当然である。

 仏法においてもその考え方は基本的に同じであるといってよい。例えば同じ傷害という行為であっても、その対象が仏であれば出仏身血という五逆罪に数えられ、殺父・殺母・殺阿羅漢に匹敵する罪とみなされるのである。

 このことを考慮するならば、同じ謗法という行為であっても、その対象者の仏法上の位が高ければその罪は重く、位が低ければ罪が軽いとされているのである。

 この意味において撰時抄の御文は、法師品の経文を依文とされつつ、法華経の行者たる御自身をインド応誕の教主釈尊の上位に位置づけられていたことを示しているのである。

 このように、大聖人が末法の法華経の行者たる御自身を、教主釈尊の上位に位置づけられていたことは明白であり、このことを直接的に明言された御文こそ、本抄の「教主釈尊より大事なる行者」との一節にほかならない。

 次に浅井要麟氏の見解に触れておこう。同氏は、「教主釈尊より大事なる行者を法華経の第五の巻を以て日蓮が頭を打ち」(0363:01)の個所について「末法には教主釈尊よりも大事な法華経の行者、日蓮が頭を、法華経の第五の巻を以て打ち」と釈し、「末法には」との一句をつけることによって、釈尊が現存しないが故に法華経の行者である日蓮が末法の今は最も大事な人であると解している。これは、原典にはない言葉を付け加えることによってその真意を歪めたものといわざるを得ない。

 同氏は、「下山御消息の如きは、夙にその真蹟が散逸して、後人がこれを補筆した形跡もあるらしい」と述べ、該当部分も後世の歪曲であった可能性があると匂わせている。しかし、該当箇所に竄入の余地がなかったことは前章でふれた。

 また、本抄では頼基陳状と同じく大聖人があくまで第三者の立場に立って筆筆されていることから、浅井氏は、その第三者である大聖人に対して、因幡房や四条金吾が称賛し礼賛したとしても必ずしも大聖人自らの自画自賛にはならないと解釈している。これは、こうした表現が大聖人の自賛であるとの批判を気にした言い訳である。しかし、そうした世欲的次元にとらわれていること自体、大いなる誤りである。

 大聖人は、こと御自身の御内証に関しては控え目な表現で述べられるのが常であり、本抄のように直接的な表現で御自身の御内証を述べられた例はほとんど見当たらない。それは、浅井氏もいうように、まさに第三者の立場に立たれていたから可能であったのである。それにしても因幡房や四条金吾の立場を借りてであれ、このように述べられた大聖人の御真意を見逃してはならない。

 つまり本抄において御自身のことを「教主釈尊より大事なる行者」と表現され、あるいは頼基陳状で「日蓮聖人の御房は三界の主・一切衆生の父母・釈迦如来の御使・上行菩薩にて御坐候ける事の法華経に説かれて・ましましけるを」(1161:08)と明言されたことは、大聖人が弟子の名において御自身のことを明示されたものであって、大聖人に対する弟子の称賛を記されたものでは決してない。これは、大聖人の御身にかかわる大事であるというべきであろう。

二 戸頃・高木氏の解釈について

 次に、昭和45年(1970)に岩波書店より刊行された日本思想14・日蓮の著者である戸頃重基・高木豊の同氏は、同書補注の「法華経の行者」の項において次の如く述べている。

 「ここに教主釈尊とは史上の釈尊ではなく、法華経の本門寿量品に説かれている抽象的な釈尊のこと。『観心本尊抄』では『本門寿量品の釈尊』『寿量の仏』、『報恩抄』では『本門の教主釈尊』というときの教主釈尊のこと。日蓮教学上の人本尊に当たる。『下山抄』ではこの『教主釈尊』よりも、行者日蓮のほうが一層大事な存在であることを宣言したのである。これはいったい何を意味するのであろうか。本抄よりも2年前の1275(建治元)年8月4日の『乙御前御消息』では、『日蓮が頭には大覚世尊かはらせ給うひぬ』といい、カリスマ的な表現のなかにも、なお教主釈尊と同義異語の大覚世尊を自分より上位において、その加被力を謙遜しながら認めていた。それが『下山抄』にくると一変して、行者日蓮のほうが教主釈尊よりも上位に立つことを自負するのである。(中略)日蓮は『少々の難はかずしらず、大事の四度なり』(開目抄)の体験から、像法時代の智顗・最澄の境地をこえたばかりでなく、法華経の勧持品の偈によって、『日蓮だにも此の国に生ずば、ほどをど、世尊は大妄語の人、八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ぬべし』という主体的な独自の境地を開拓していた。この境地をさらに押し進めてゆけば、当然、『下山抄』の自覚にまで達するのであって、それは日蓮大聖人の意義よりも修行のもつ意義を比類なく強調したものといえる。したがってここでは『日蓮』よりも『行者』のほうに力点をおいてみるのでなければならない」

 ここでは、「行者日蓮」の方が「教主釈尊」よりも大事な存在であるという文献上の意味については誤りなく解してはいる。しかしながら“日蓮”個人よりも“行者”の方に力点を置いて見るべきだとしている。

 さて、両氏の論においてはその基本的な前提において問題があるといわねばならない。それは下山抄の対告衆が仏法については比較的無智な下山兵庫五郎という未入信の在家者であったという事実を無視しているということである。このことを考慮するならば、本抄に仰せられた「教主釈尊」なる言葉は、当時の世間の人々が抱いていた概念からかけ離れたものではないはずであろう。したがって、これが仏教の開祖たるインド応誕の釈尊を指していたことは疑いないところである。「教主釈尊」という語にいかなる含意があるにせよ、大聖人が下山兵庫五郎に対してその理解の限界を超えるような意味で用いられているとは考えられない。

 一方、これに対して観心本尊抄や報恩抄は当時としては仏法理解の極めて深い者を対象として著された書であり、本抄の場合とは明らかに異なるのである。本抄にゆう「教主釈尊」はインド応誕の歴史上の釈尊を指しており、大聖人はこの釈尊と対比されて御自身の方が勝れていると宣言されたのである。

 しかも本抄において大聖人は仏の三徳を挙げられ「自讃には似たれども本文に任せて申す余は日本国の人人には上は天子より下は万民にいたるまで三の故あり、一には父母なり二には師匠なり三には主君の御使なり」(0355:12)と述べられている。すなわち、日本国の一切衆生に対して大聖人が主・師・親の三徳を具えられていることを明言されているのである。

 このうち主の徳については「主君の御使なり」と、当時の社会状況を配慮したうえで謙遜の表現をとられているが、御自身が三徳を具えた仏であることを示されていることは文脈上から明らかである。したがって本抄において大聖人は、御自身が末法の御本仏であるとの御内証が明かされているのである。

 この意味において、戸頃氏らのように、本抄に仰せの「教主釈尊より大事なる行者」との御文について「行者」という方に力点をおいて理解することは、まだ大聖人の御真意に達しておないといわざるを得ない。

 なお「日蓮が頭には大覚世尊かはらせ給いぬ」(1221:02)と記された乙御前御消息の時点と本抄執筆の時点において、戸頃氏の言うように大聖人の御内証そのもの、あるいは御自身の自覚に変化が生じたわけではない。こうした見方は、大聖人の御化導における変化をあたかも大聖人の内面の変化として捉える誤りに由来している。そして、これもまた、根本的には大聖人を末法の御本仏と拝することのできないが故の誤謬にほかならないのである。

三 大聖人が御内証を明示されなかった理由

 大聖人は、内証は久遠元初の自受用報身であり、外用においては地涌の菩薩の上首たる上行菩薩の再誕であられるが、この外用の御立場においてすら、言葉を選ばれながら極めて慎重に表現されており、例えば文永9年(1272)5月、四条金吾に与えられた御消息では「多宝塔中にして二仏並坐の時・上行菩薩に譲り給いし題目の五字を日蓮粗ひろめ申すなり、此れ即ち上行菩薩の御使いか」(1117:17)と、御自身を「上行菩薩の御使いであろうか」と述べられている。

 また文永12年(1275)2月の新尼殿御返事では「日蓮・上行菩薩には・あらねども・ほぼ兼てこれをしれるは彼の菩薩の御計らいかと存じて此の二十余年が間此れを申す」(0906:05)と仰せられている。

 このように大聖人はその外用の立場についてすらあからさまに述べることは避けられていたのであり、ましてその御内証は、容易に明かすことのできない大事中の大事であったのである。

 当時の日本にあっては、仏教といえば多くの人々は釈尊を仏教の開祖として仰ぎ信奉していたのであって、もし大聖人が御自身の内証の辺を明言されたならば、世間の人々はもとより、大聖人の仏法の深義を弁えぬ多くの弟子や信徒も疑惑を懐き、あるいは誤解して世間に間違った言説を流す恐れがあった。

 しかも、当時の国家権力はいうまでもなく政教末分離の状況にあった。既成の仏教と結託した権力者が「異端」の集団に弾圧を加えてくることは眼に見えていた。もちろん大聖人にとっては、あらゆる大難、迫害は覚悟のうえであり、大聖人の仰せどおりに信仰を貫こうとした弟子檀那に対してもその覚悟を促されていたが、その一方で弟子檀那による不用意な発言によって世間と要らぬ摩擦を引き起こさぬよう戒められてもいる。

 それは、当時の弟子檀那が大聖人の仏法を信じているとはいっても、いまだその理由は十分ではなく、甚深の法門になればなるほど誤解を生じることを危惧されたものと拝される。そして、封建体制下で信教の自由に対する補償のない社会状況下にあっただけに、大聖人は深く弟子たちへの配慮をされたものと拝される。御自身が大難の数々を受けられた身であってみれば、真実に信心を貫こうとする弟子檀那への御配慮もひとしおであったに相違ない。

 権力者は常に宗教勢力を自己の支配下に置くことによって自己の権力の基盤を安定ならしめようとするものである。その例として、一つの史料をここに挙げておく。大聖人が日興上人に法燈を伝えられたことを示すものとして「二箇の相承」があるが、これを徳川家康が見た事実が駿府記に記されている。すなわち慶長16年(1611)12月15日の記に次のようにある。

 「今晩、富士本門寺校割の二箇の相承、後藤少三郎御覧に備う。其の詞に云う。釈尊五十年の仏法、日蓮阿闍梨日興に之を付嘱す云云。是を以て之を按ずるに日蓮爾前の教を捨てざる事文明なり。後来末派に至れば本源に暗くして僅かに四十余年未顕真実の一語を以て爾前の教は之を棄捐すべし、是れ祖師の本意に非ざる者なり、御前に於いて、其の沙汰あり云云」

 家康は、日蓮宗各派が他宗を破折することを禁ずる材料になりうると考えたのである。

 こうした状況は、おそらく大聖人御在世の時代においても大して変わりはなかったであろうと思われる。すなわち釈尊を根源の仏と認めないことは、当時の既成の考えからすれば、仏法における異端であり、既成の権威を自らの権力の基盤として利用しようとした権力者がこれを認めることは到底ありえないことであったといってよい。

 そして、大聖人は、いかなる弾圧が加えられようとも、身命を賭して仏法正義を守り抜く民衆の信心の成長をひたすらに待たれていたに違いない。それまでは、御自身の御内証を明かすことについては慎重を期されたのである。

 また、本抄は下山兵庫五郎という個人に宛て認められた御消息文である。対告衆である下山五郎も地頭とはいえ、必ずしもトップクラスのインテリではなかった。そのことは、さしたる仏教の知識のない者にも理解できる平易な言葉を用い、また仮名文字を比較的多く用いられていることからも知られる。こうした幾つかの条件が重なって、大聖人は御自身のことを「教主釈尊より大事なる行者」と直接的に表現することが可能になったと思われる。

 本抄の対告衆である下山兵庫五郎は権力の中枢から遠い存在であった。しかし、大聖人は、光基についての必要な知識は当然もたれ、彼をある程度見込みのある人物として判断されたものと拝される。なぜなら、大聖人は常に相手に応じて慎重に法門を説かれているからである。このことは、本抄の前年に認められた報恩抄の送文に「親疎と無く法門と申すは心に入れぬ人にはいはぬ事にて候ぞ御心得候へ」(0330:01)と仰せられていることからもうかがうことができる。

 ところで前述したように、光基は本抄の受領後に発心して出家し、大聖人より法重房日芳という号を賜ったとする伝説がある。しかし山梨県南巨摩郡の下山本国寺の墓碑に記される法重房の没年月は下に記す光基の没年月とは異なっており、法重房なる人物は明らかに光基とは別人物と考えられる。

 光基が大聖人に帰依し、あるいは出家したという事実は明確ではないが、彼の没後14年に、日興上人が彼の未亡人に与えられた御本尊があり、その脇書には「徳治二年卯月八日、甲斐国市川宮堅入道息女の兵庫五郎尼に之を授与す」とあり、光基の妻については、正法に帰依したことが知られている。

 そして、それから更に18年後には、彼女の実子と思われる又四郎義宗が日興上人より御本尊を授与されており、その脇書に「正中二年十月十三日、正忌十一月十一日、甲斐国下山兵庫五郎卅三年、子息四郎義宗に之を授与す」とある。これによって又四郎が正法信仰に励んでいたことは明確である。

 次に、本抄が何故に十大分御書に選ばれたかという問題を中心として、本抄の教学的位置づけを論ずることとしたい。

十大部御書について

 下山御消息に関しては日寛上人の分段に類する本格的な研究書ないし解説書はこれまでになかった。正宗以外のものとしては、本抄を収録している高田恵忍氏の日蓮聖人遺文全集講義、及び浅井要麟氏の日蓮聖人御遺文講義があるが、富士門流以外においては十大部という考え方はなく、したがって本抄を重書としては扱っていない。

 ただ、戸頃重基・高木豊の両氏のみが本抄が日蓮仏法の依文として重視されてきたという事実を述べている。

 本抄の教学的な位置づけを明確にするためには、本抄が十大部御書とされた理由を考察する必要がある。よって本節では、まず十大部御書制定の背景から探求することにする。続いて十大部の御書名が初めて示された富士一跡門徒存知の事の真為という問題に触れ、続いて内容の面から十大部の他の御書と本抄とを比較し、もって本抄の教学的な位置づけを明確にしたい。

一 十大部御書選定の背景

 大聖人御入滅後、大聖人の残された数多くの御書のなかから最も重要な法門を記す重書として十大部を選定されたのは日興上人であった。その背景について、富士一跡門徒存知の事の中の「聖人御書の御事 付けたり十一ヶ条」には次のように述べられている。

  「彼の五人一同の義に云く、聖人御作の御書釈は之無き者なり、縦令少少之有りと雖も或は在家の人の為に仮字を以て仏法の因縁を粗之を示し、若は俗男俗女の一毫の供養を捧ぐる消息の返札に施主分を書いて愚癡の者を引摂したまえり、而るに日興、聖人の御書と号して之を談じ之を読む、是れ先師の恥辱を顕す云云、故に諸方に散在する処の御筆を或はスキカエシに成し或は火に焼き畢んぬ。此くの如く先師の跡を破滅する故に具に之を註して後代の亀鏡と為すなり」(1604)。

 この文の元意を記せば、日昭以下の五老僧は次のように主張したという。すなわち「大聖人の御著作の中には御書釈と称すべき本格的論著は見られず、多少あるにはあってもそれは在家のために仮名文字で仏法の因縁を概略的に示しておられるが、あるいはわずかばかりの供養に対する返礼としての愚癡の人々を引導するためのものばかりである。しかるに、日興はこれらを御書と称して談論しているが、これは先師大聖人の恥を示すことにほかならない」と、その故に、彼ら五老僧は各地に散在いている御書をすき返しにしたり燃やしたりして大聖人の御真蹟を多くを失ってしまった。よって御書を消滅の危機から守るため、これを註して後代の人々のための亀鏡とするのである。と。

 上の文に、五老僧の離反のなかで大聖人の法燈を懸命に守り抜こうとされた日興上人の御苦衷が偲ばれるのである。そして、もし日興上人が十大部御書を選定されていなかったならば、後世の人々が重要な法門の所在に迷うばかりでなく、これらの御書が消滅してしまったとも考えられるのである。ことに下山抄の如きは、その御正本が既に所在不明であり、もし日興上人が記録されていなかったならば、後々まで偽書扱いであったかも知れない。

 なお、上の本文中に「五人一同の義に云く」とあり、この五人が五老僧を指すことはいうまでもないが、この中には次項で述べるように、富士一跡門徒存知の事が著された直後に日興上人に帰伏した日頂も含まれており、五人の間にも大聖人の仏法に対する理解に浅深があったのは当然でる。したがって「五人一同の義に」とは必ずしも「五人が口をそろえて」といういみではなく、大聖人及び日興上人の深意を解し得ぬ人々を五老僧として述べられていると見るべきである。

 「聖人御書の御事」には、十一箇条は記されている。その内容は次の通りである。

  「一、立正安国論一巻。

  此れに両本有り一本は文応元年の御作是れ最明寺殿・宝光寺殿へ奏上の本なり、一本は弘安年中身延山に於て先本に文言を添えたもう、而して別の旨趣無し只建治の広本と云う。

  一、開目抄一巻、今開して上下と為す。

  佐土国の御作・四条金吾頼基に賜う、日興所持の本は第二転なり、未だ正本を以て之を校えず。

  一、報恩抄一巻、今開して上下と為す。

  身延山に於て本師道善房聖霊の為に作り清澄寺に送る日向が許に在りと聞く、日興所持の本は第二転なり、未だ正本を以て之を校えず。

  一、撰時抄一巻、今開して上中下と為す。

  駿河国西山由井某に賜る正本日興に上中二巻之れ在り此中に面目俄に開く事下巻に於いては日昭が許に之れ在り

  一、下山抄一巻。

  甲斐の国・下山郷の兵庫五郎光基の氏寺・平泉寺の住僧因幡房日永追い出さるる時の述作なり、直に御自筆を以て遣さる、正本の在所を知らず。

  一、観心本尊抄一巻。

  一、取要抄一巻。

  一、四信五品抄一巻。法門不審の条条申すに付いての御返事なり仍つて彼の進状を奥に之を書く。

  已上の三巻は因幡国富城荘の本主・今は常住下総国五郎入道日常に賜わる、正本は彼の在所に在り。

  一、本尊問答抄一巻。

  一、唱題目抄一巻。

  此の書・最初の御書・文応年中・常途天台宗の義分を以て且く爾前法華の相違を註し給う、仍つて文言義理共に爾なり。

  一、御筆抄に法華本門の四字を加う、故に御書に之無しと雖も日興今義に従つて之を置く、先例無きに非ざるか(1604)。

 十大部として選定された御書は

   ①立正安国論

   ②開目抄

   ③報恩抄

   ④撰時抄

   ⑤下山御消息

   ⑥観心本尊抄

   ⑦法華取要抄

   ⑧四信五品抄

   ⑨本尊問答抄

   ⑩唱法華題目抄

 の十偏である。なお、前項の文には「具に之を註して」と記されていたが、ここに挙げられた十編のうち、本尊問答抄についてはただ「一巻」としか記されておらず、「具に之を註」せるべきでるにもかかわらず、それらしき記載がないことに気付く。

 この例によって次のことが推測されるのである。それは富士一跡門徒存知の事が必ずしも完成稿として残されたものではないとうことである。少なくとも後日の補足を期して未完成のままに残された部分があったとも考えられる。このことは次項以下の考察の際に重要な視座となる故に、ここに留意しておきたい。

 さて日興門流でいう十大部御書の編目の初出は富士一跡門徒存知の事である。しかるに他門流においては、同書の著作が日興上人であるということについて疑問視してきた。同書は日興門流の正統性を示す重要な史料となるので、この書の真偽問題については、項を改めて論ずることにしたい。ただし、十大部御書に関して本書を疑問視する浅井要麟氏の見解についてはここで取り上げておく必要がある。

 同氏は、昭和新修日蓮上人御遺文全集別巻に収める「御書編纂の史的概念」において、前掲の11箇条を引用した後に「これに依て見ると、当時富士方面に前記十編の御書が写本及び一部真蹟を以て伝えられてゐた事実を知ることが出来る。しかし『富士一跡門徒存知事』の所伝の如く、興氏の執筆とするには幾多の疑問を有するが、それらの検討はすべて他日を期することとする。たヾこヽに不審なのは、富士の上の大石寺及び北山本門寺に真蹟ありとして、後年録内録外及び最近出版されたる『日蓮大聖人御真蹟写真帳』等に載録されたる諸偏が、『富士一跡門徒存知事』に載録されざりし点である。或は近代の刊行物に載する所は、概ね消息類であるから『門徒存知事』には載せなかったとの理由づけるかも知れぬが『諌暁八幡鈔』の如き、御消息にならざる述作が『門徒存知事』には漏れているので、疑問は依然として解けない」と述べている。

 この文で浅井氏は「門徒存知事」の11箇条について基本的なところで思い違いをしている。つまり、日興上人は大聖人の御書を網羅する目録として「聖人御書の御事」を記されたわけではなく、幾多の御書の中から重要な法門を記した御書を厳選してこれを十大部とされたのである。その証拠に「聖人御書の事」においては唱法華題目抄を「最初の御書」と記されているが、断に御執筆のこの時よりも時期的に早い御書は数多く存在しているのであって、これはあくまでこの十大部の中で「最初の御書」であると述べられているのである。したがって十大部に入らない「諌暁八幡抄」が、「門徒存知事」に漏れていることは不思議でもなんでもないのである。

 それはともかくとして、日興門流以外においては「十大部」という名称すら用いられていない。三大部および五大部という名称はあるが、それも人によって取り上げられる御書はまちまちである。そのほかに「録内御書」と「録外御書」という分類があるが、編纂の事情によって分けられるのみで、この分類には内容上の基準というものがない。

 この事情を見たときに、早くから十大部御書を選定された日興上人が、大聖人の御書をいかに大切にされ、かつその全体を深く理解されていたかということが知られる。それ故にこそ、日興遺誡置文には「当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事」(1618:04)と仰せられている。

 ところで下山御消息は、十大部御書の選定の時点で既に、その正本が所在不明の御書であった。このように重要御書の所在が不明となり、やがてその存在そのものが史上から抹殺されかねない状況を憂えられた日興上人が、後世のために大聖人の重要法門を伝える重書として十大部を選定されたのである。では何故に下山御消息が十大部の中に入れられたのか。これについては、次項において「富士一跡門徒存知の事の真偽問題」を確認したうえで論ずることにしたい。

富士一跡門徒存知の事の真偽問題について 

 富士一跡門徒存知の事の真偽問題とは、それが日興上人の意志によって成ったものか、それとも後世の富士門流の人々が勝手に日興上人に仮託して著述したものか、という問題である。

 同書の現本は存在せず、追加8箇条のみ17世日精の時代まで存在したといわれている。現在の流布本としては永正18年(1512)6月4日付の日誉写本である。これは応永29年(1422)の日算本を転写したものであり、写本には原著の著作年も著述者名も記されていない。その故に他門流からは同書が後世の人の手になる偽書であるという偽書説が唱えられ、その成立に関して疑義が提起されていたのである。

 同書の真偽問題を含む成立の経緯については日淳上人が昭和2年(1927)「富士一跡門徒存知事の文に就いて」を発表され、同書で疑惑に対する答えを出されている。しかし、日淳上人のその論孝は、宗門外の一般の人々の目にとまる機会が少なく、かつ長文でやや難解な部分がある故に、他門流においてはこれを踏まえざる機会も今も後をたたない。ここではその要点を整理しておくことにする。

 同書の著著を確定するうえで一つのポイントとなるのは、同書中の「日興集むる所の証文の事」の内容である。そこには「御書の中に引用せらるる・若は経論書釈の文・若は内外典籍伝の文等、或は大網・随義転用し或は粗意を取って述用し給えり、之に依って日興散引の諸文典籍等を集めて次第に証拠を勘校す、其の功末だ終らず且らく集むる所なり」と記されている。

 その大意はつぎのようになろう。すなわち、大聖人が御書中に引用されている諸文献は大聖人の御立場から自在に義を転じて用いられている場合もある。故に引用の諸文件を集めて勘校を行ったが、その仕事はまだ完了していない、というものである。

 ここで注目すべきは「その項末だ終わらず」の一文である。つまり同書が執筆された時点で諸文献の勘校が完了していなかった、ということであり、同書が執筆されている時も諸文献の勘校は進行中であったという事実である。

 同書には続いて、次の項目が記されている。

  「一内外論の要文上下二巻開目抄の意に依つて之を撰ぶ

一本迹弘経要文上中下三巻撰時抄の意に依つて之を撰ぶ。

  一漢土の天台・妙楽・邪法を対治して正法を弘通する証文一巻。

  一日本の伝教大師・南都の邪宗を破失して法華の正法を弘通する証文一巻。

  已上七巻之を集めて未だ再治せず。

  一、奏聞状の事。

  一先師聖人文永五年申状一通。

  一同八年申状一通。

  一日興其の年より申状一通。

  一漢土の仏法先ず以て沙汰の次第之を図す一通。

  一本朝仏法先ず以て沙汰の次第之を図す一通。

  一三時弘経の次第並びに本門寺を建つ可き事。

  一先師の書釈要文一通」(1607)。

 一方、重須談所第二代学頭の日順が著した日順阿闍梨血脈には、日澄が日興上人の命を受けて諸書を集めたことが次のように記されている。

 「或は貴命に応じて数帖自宗所依の肝要を抽んづ、所以に本迹要文上中下三巻・十宗立破各一帖十巻・内外所論上下二巻・倭漢次第已上二巻・且つ之を類聚して試に興師に献す、興師咲を含んで加被せしむる所なり」

 先の御文にある「本迹要文上中下三巻」は存知事の「本迹弘経要文上中下三巻」に対応し、同じく「内外所論上下二巻」は存知事の「内外論の要文上下二巻」に対応していることは明らかであろう。巻数まで一致しているからである。そのほかに「倭漢次第」が存知事の「漢土の仏法先ず以て沙汰の次第之を図す」及び「一本朝仏法先ず以て沙汰の次第之を図す」と関連があることも明らかと思われる。

 日順阿闍梨血脈所掲の諸文献は編纂整理した上で日興上人に献じられたとあるが、御存知においては「日興散引の諸文典籍等を集めて次第に証拠を勘校す。其の功末だ終らず且らく集むる所なり」とあり、日興上人に師事していた日澄が、自ら整理編纂した諸文献を日興上人に献ずるとともに、これと平行して門徒存知事の執筆をしていたという可能性が考えられる。

 日順阿闍梨血脈の先の次上に「日澄和尚は、即日興上人の弟子・類聚相承の大徳なり、慧眼明了にして普く五千余巻を知見し・広学多門にして悉く十宗の法水を斟酌す、行足独歩にして殊に一心三観を証得し、宏才博覧にして良に三国の記録を兼伝す。其の上内外の旨趣・倭漢の先規・孔老の五常・詩歌の六義・都て通ぜざること無し」とあることからも日澄師が諸文献に最も詳しい人であったことは疑いなく、彼が門徒存知事の著述に参画していた可能性は十分にあるのである。

 ところが当の門徒存知事にこの推測とは矛盾するかのような内容が記されている。すなわち追加八箇条の第一条に「一、寂仙房日澄始めて盗み取つて己が義と為す彼の日澄は民部阿闍梨の弟子なり、仍つて甲斐国下山郷の地頭・左衛門四郎光長は聖人の御弟子なり御遷化の後民部阿闍梨を師と為す帰依僧なり、而るに去る永仁年中・新堂を造立し一躰仏を安置するの刻み、日興が許に来臨して所立の義を難ず、聞き已つて自義と為し候処に正安二年民部阿闍梨彼の新堂並びに一躰仏を開眼供養す、爰に日澄・本師民部阿闍梨と永く義絶せしめ日興に帰伏して弟子と為る、此の仁・盗み取つて自義と為すと雖も後改悔帰伏の者なり」(1608:15)とあるのがそれである。

 先の文は日澄師のことを詳しく記している。この文が原文では八行にわたっているのに対して、追加八箇条のうち他の七箇条はそれぞれ二行分しかないのである。このことからも、日興上人にとって日澄師がいかに特異な位置を占める存在であったかがうかがわれるのである。しかしながら、日淳上人より以前においては同書の追加の条に日澄師のことが記されているが故に、師が同書の執筆者に気付いた人はいなかったようである。

 日淳上人は同書が日興上人の命を受けて日澄師が執筆したものであり、追加の八箇条のみが日興上人の手になったものと解されていたのである。ことに上の文中には日澄師のことを「彼の日澄は」と記している。日澄師がもし生存中であったならば、親しく側にいる人物を「彼の日澄」と表現されるわけはない。そこから、追加八箇条は日澄師の死後、日興上人自身が記されたと考えるのが妥当である。これが日淳上人の見解である。

 このように、富士一跡門徒存知の事は、日興上人の指示を受けて日澄師が本文を執筆し、追加の八箇条は、日澄師の死後、日興上人御自身が執筆されたというのが日淳上人の考証であるが、それを裏付ける決め手となるのが実は前項で述べた十大部の写本である。

 下山御消息の日澄写本には「法華本門下山抄」と題号が記されている。このことは門徒存知事執時に執筆写の手許にあった写本が日澄写本であることを物語っており、門徒存知事の本文の執筆者がほかならない日澄師自身であったという可能性は極めて高いと思われるのである。すなわち、日興上人の意図に従って「御筆抄に法華本門の四字を加う」と記したのは日澄師であったと考えられるのである。このことからも、日澄師が富士一跡門徒存知の事の本文を執筆したとする日淳上人の説は裏付けられることになるのである。

 ところで門徒存知事では後世の人が日興上人の名を謳って作成した偽書であるとする論者がしばしば取り上げるのは、門徒存知事中の「聖人御影像の事」の内容である。これが本書偽作説の根拠となり得るものなのか否か、ことは重大である故に、やや長文となるけれどもその全文を引用して検討しておこう。

  「一、聖人御影像の事。

  或は五人と云い或は在家と云い絵像・木像に図し奉る事・在在所所に其の数を知らず而るに面面不同なり。爰に日興が云く、御影を図する所詮は後代に知らしめん為なり是に付け非に付け・有りの侭に図し奉る可きなり、之に依つて日興門徒の在家出家の輩・聖人を見奉る仁等・一同に評議して其の年月図し奉る所なり、全体異らず大概麁相に之を図す仍つて裏に書き付けを成すなり、但し彼の面面の図像一も相似ざる中に去る正和二年日順図絵の本有り、相似の分なけれども自余の像よりも少し面影有り、而る間・後輩に彼此是非を弁ぜしめんが為裏書に不似と之を付け置く。」

 この文の大意は、すなわち五郎僧や在家の者たちが大聖人の御入滅後に絵像や木像を本尊として盛んにあらわしたが、それぞれ容貌が異なっている。そこで、日興上人の言うには「大聖人の御影を図する目的は後世の人々にその御姿を伝えるためであるから、ありのままに描くべきである」と。そこで日興上人門下で大聖人にお会いした人たちが共に評議して描いた。全体としては似ているが、細部まで正確とはいえない。故にその旨を記したのである。ただし、個々に図した像は一つもにたものがない中に、去る正和2年(1313)日順師の描いたものは、似ているとまではいえないけれども、他の図像に比べると少し大聖人の面影を写している。故にどれがよいのかを弁別するために「不似」と書き付けた、というのである。

 この文の前半においては、皆で評議して大聖人の像を描いた旨が記され、後半においては、各個人で大聖人の像を描いたことが記されている。しかしそこに記される日順師は大聖人御入滅後の人であるにもかかわらず、彼も大聖人の像を描いたという。これは前半の「聖人を見奉る仁等・評議して」とある前半の文と矛盾する。のみならず、日順師の描いた像が他よりも面影があったにもかかわらず「後輩に彼此是非を弁ぜんしめんが為裏書に不似と之を書き付け置」いたとう。

 ここでは何を言おうとぃているのかよくわからない。したがって、後半の「但し彼の面面の図像」以下はこのままでは意味が通らないのでる。このように本書中には疑問の個所がることは事実である。それゆえに門徒存知事そのものの史料的価値を否定しようとする人々は門徒存知事全体が偽作であるというのである。

 しかしながら、門徒存知事が全般に論旨明快の筋の通った一貫性のある主張を述べた書でることには誰しも異論はないと思われる。よって門徒存知事の著作者が頭脳明晰な人物であったことは疑いない。したがってその著者が「但し彼の面面の図像」以下の如き筋の通らない文章を残すとは考えがたい。もし誰かが意図的に本書を偽作したのであれば、それらしく前後意味の通ずる文を書いたはずである。

 しかしながら、先のような文が紛れ込んでいるのは、少なくとも本書が一人の人の手によって作成されたものではないことを物語っている。要するに、この部分において後世の人の加筆があり、それが混乱をもたらすものとなったと思われる。

 およそこのような内容を日淳上人は指摘されたのである。そしてこれを支持すべき材料が、前述の「聖人御書の事」中にある「故に具に之を註して後代の明鏡と為すなり」の文と、それにもかかわらず、本尊問答抄に関しては「具」なる説明が記されていないことである。

 これはいかなることかと考えてみると、日興上人が本尊問答抄に関して全く情報をもっておられなかったはずはない。しかも、日興上人による写本が現在も北山本門寺や茨城県猿島の富久寺に所蔵されているわけであるから、門徒存知事の執筆時点でこの写本が日興上人の手許にあったことはほぼ疑いないであろう。例えば正本の所在が不明であったのであれば、下山抄のようにその旨が記されてしかるべきである。

 したがって、本尊問答抄の註が空白となっていることの理由は次のように理解した時にのみ明白となると思われる。すなわち、日澄師が門徒存知事を執筆した際に、本尊問答抄に関しては御正本の所在等について調査中であり、その故に後で正確な記述をいれるために慎重を期して空白部を残しておいた。

 ところが日澄氏は延歴3年(1310)3月14日に病没した。発病の際には筆を執るに耐えない状態となっていたという。このために、日澄師の残した空欄がうめられないまま日興上人に提出され、日興上人も遂にこの空欄中に記す暇がないままに後世に至ったものと考えられるのである。

 こう考えると、門徒存知事は完成稿として後世に残されたものではなかったと言える。しかも大石寺に現存する日誉写本も数度の転写を経たものである。その間に途中の転写等による加筆があり、「聖人御影像の事」の該当部分が転写の過程で意味不明のものとなってしまったと考えられるのである。したがって、こうした転写の過程で意味不明となり、あるいは矛盾が生じたとしても、それだけをもって門徒存知事全編を偽書とすることは不当である。

 これらの考察から、次のことが明言できるであろう。すなわち同書の内容に疑惑をいだく者は、同書の全体をよくよく公正に検討すべきであり、と同時に日淳上人の論を虚心に検討し、そのうえで云々すべきである、と。それをすることもなく、単に「本書に偽書の可能性あり」としてその存在を無視するとすれば、極めて卑劣な我伝引水の態度であるといわざるをえない。

 なお正和2年(1313)に日順師が大聖人の御影を描いたという記述については、日淳上人も疑問視されているように、それ自体が誤伝であるという可能性が大である。おそらく、後世に竄入せられたものであろう。故に、この正和2年(1313)という年が日澄師の没年たる延慶3年(1310)依り後であっても、それは同書の本文を日澄師が執筆したとする日順師の執筆年代の説を否定するための論拠たり得ないことはいうまでもないことと思う。

 しかし、日淳上人は富士跡門徒存知の事の本文執筆年代を日澄師が発病する以前の延慶2年(1309)とし、また追加八箇条を日興上が記されたのは翌延慶3年(1310)であろうと推定あれている。ただし、日淳上人御自身も述べておられるように、日澄師の執筆年代は少し遡る可能性もある。この点を少しく補足検討しておきたい。

 日澄師が日興上人に帰伏したのが正安2年(1300)であるから、日澄師が本書を執筆し得た時期は1300~1309の間に限られる。しかし、前述したように、日澄師は空白部分を残したまま没したのである。門徒存知事執筆時においては本尊問答抄については調査中の事項があったが故に空欄としたのであろうと推測したのであるが、一方開目抄や報恩抄では「日興所持の本は第二転なり、末だ正本を以て校えず」とあり、また既述の如く下山抄では「正本の所在を知らず」と記している。

 これに対して本尊問答抄の場合は途中報告すら記されていないのである。このことを考え合わせると、門徒存知事は恐らくは短期日のうちに記されたものであろうと思われる。してみれば、本尊問答抄の空白の残存は、ひとえに執筆者日澄病状の急激な進行によって結果したものと理解せねばならないのではないだろうか。

 これらの考察を総合すると、同書は日澄師の死に至る病が起こる直前より病の進行までの間に記されたことになる。よって1309に本書の本文が執筆されたとする日淳上人の見解は極めて妥当であると見られるのである。また同書には日澄師の兄にあたる日頂師の帰伏については述べておらず、その故に、日興上人に追加八箇条を記した時期は日頂師が日興上人に帰伏してくるより少し前、すなわち延慶3年(1310)頃であったとする日淳上人が御考証についても承服できるとおもわれるのである。

 以上の考察により、富士一跡門徒存知事の事を偽作とする説には全く根拠がなく、同書は確かに日興上人自身の意図によって記されたものであったという結論に導かれるのである。故に同書中に述べられた十大部講義については、日興上人がこれを選定されたのであることも疑う余地がないといえるであろう。

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