諸法実相抄(1977:03月号大白蓮華より先生の講義)
対話の場で仏典を訳した羅什
再び元初の太陽を浴びながら、親愛なる会員の皆さまのご健康を祈りつつ「諸法実相抄」の講義を展開させていただきます。
最初に人間宗教の先駆を切り拓いている創価学会の教学運動にちなんで一つのエピソードを申し上げたい。それは、今から千数百年前、全中国に仏法研学の大きな潮流を巻き起こした、亀茲国の羅什のお話であります。
鳩摩羅什は、御承知のとおり、不屈の名訳といわれる「妙法蓮華経」を訳出した訳経僧でありますが、私が羅什にうたれるゆえんは一生をかけて中国にわたり、仏教の真髄を伝えようとした情熱でありあす。波乱の灌難の末、中国の長安へ入ったのは、50歳を過ぎていたといわれています。そして彼の目指しつづけてきた戦いはその時から始まったのであります。それまで力をためていたかのように、怒涛のような勢いで翻訳事業が始まりました。中国の僧侶も、羅什の長安入りを伝え聞いて、続々と彼の元に結集し、一代教団となっていったのであります。
羅什入滅まで8年間とも12年間ともいわれていますが、その間、300数十巻もの経典が翻訳されており、1ヵ月2巻ないし3巻のペースであったことが推察されます。それは翻訳というイメージとは異なった、生き生きとした仏教研究運動であったことを象徴しております。
羅什が訳したさまざまな経典の序によると、その翻訳の場には、あるときは800人、あるときは2000人というように、数多くの俊英が集まっております。その聴衆を前に、羅什は経典を手に取り、講義形式で進めていったのであります。そして、なぜそう訳すのか、その経文の元意はどこにあるのかを話し、あるときは質疑応答のような形式をとりつつ、納得のいくまで解説していったのであります。
書斎に閉じこもったり、辞書と首っ引きで、自分一人で何10年もかかって難解な訳行をするのではなく、大衆の呼吸をじかに感じながら、対話の場で仏法を展開していった羅什であったからこそ、あれほどの名訳が生まれたのではないかと思うのであります。
羅什の訳は非常になめらかで、かつ経典の元意をふまえた意訳に優れたものがあったというのも、このことを考えれば、なるほどと思われます。仏法は、それがいかに優れたものであっても、難解であれば、人々から離れたものになってしまう。人人と語り、生活のなかで実感するなかに、思想の光は輝いていくものであります。
もし、この羅什教団ともいうべき人々の仏典流布の活躍がなければ、後の天台、伝教の昇華へと、仏法の歴史が展開することはなかったにちがいない。それを考えると、いかにその使命が偉大であったかが分かります。
民衆のなかで展開された仏教運動
私は今、この羅什の業績をうんぬんしようとするものではありません。大衆の中に入り、大衆とともに語り合ったその姿に、仏教研学の真実の姿があると訴えたいのであります。また、ある意味で私たちも、現代における羅什の立場にあるといえましょう。昔の羅什は、横にインドから中国へと経典を翻訳しました。現代の羅什は、縦に、また横への700年前の不滅の末法の経典を、現代という時代に、生き生きと蘇らせる使命を担っております。
すなわち、私どもの教学運動もまた、羅什と同じ方程式にのっとり、御書という経典を手にし、講義形式をとり、あるときは質疑応答の形式をとり、あるときは個人指導のさいに、人々の呼吸を直接実感しながら、対話の場で仏法を展開していくのであります。
仏教の創始者たる釈迦も、その生涯は庶民の哀歎の襞に触れつつ、人生の苦との対決のなかから、珠玉のごとき教えが遺されていったことを知るべきであります。
ある仏教学者によると「釈尊は仏教を説かなかった」という極端な説もあるくらいであります。もちろん釈迦が仏教を説いたのは当然でありますが、この一見矛盾する言葉も、ある意味で含蓄に富んだ言葉であるといってよい。八万法蔵といい、五時八教を開くと、精密に体系だてた教義を思い浮かべ、釈迦もそのカリキュラムに沿って、説法したかのように受け取られがちであります。しかし釈迦の説法は、貧苦にあえぐ庶民への激励であり、病に苦しむ老婆を背に負わんばかりの同苦の言葉であり精神の悩みの深淵に沈む青年への温かな激励の教えであった。差別に悩み、カースト制度に苦しむ大衆の側に立った火のような言々句々が、その一生の教化を終えてみれば八万法蔵として残っていたということでありましょう。それは、経文が徹底して問答形式で説かれているところに抽象的に表れている。庶民との対話、行動のなかに釈迦の悟りの法門が迸り出ていったのであり、それが経典としてまとめられていったのであります。
日蓮大聖人も、また同じ立場を貫かれております。いつも申し上げていることであります。また昨年10月の本部幹部会でも述べましたので、詳しくはお話しいたしませんが、あの膨大な御書も、生涯、激励の日々のなか、民衆一人一人との対話をつづけられ、朝に夕に救済の手を差し伸べられた結晶であります。大聖人は、決して書斎に閉じこもって御書をおしたためになったのではありません。戦いながら書き、語り、書き、語られながらたたかわれたのであります。
仏教と聞けば、山野にこもり、静的なものと考えがちでありますが、その発生からすでに実践のなかに生き、民衆のなかで生き生きと語り継がれてきたのが、その正統な流れであると、私は確信をもって述べておきたいのであります。
信行学の要諦を教示
さて「諸法実相抄」は、日蓮大聖人自ら、この御抄の追伸のところに「ことに此の文には大事の事どもしるしてまいらせ候ぞ」、また「此の文あひかまへて秘し給へ、日蓮が己証の法門等かきつけて候ぞ」と明記されておりますように、比較的短いご述作ではありますが、仏法の肝要がことごとく集約してあらわされております。
執筆された文永10年(1273)10月5日といえば、法本尊開顕の書であり、受持即観心の末法仏道修行の要諦を示された「観心本尊抄」を著された翌月であります。本尊抄が、文永10年(1273)の4月25日、本抄が翌5月17日と記されております。
したがって、内容も、法華経迹門、在世衆生得脱のカギとされた、方便品の「諸法実相・十如是」の文から説き起こして、法華経哲学の真髄を示し、その当体が妙法蓮華経、即、御本尊であることを教えられております。これは、御本尊の意義を明かされたと考えられます。
ついで、この法華経の極理を明らかにし、かつ、弘めるべき人こそ、地涌の菩薩の上首上行であることを示され、それを、まさに日蓮大聖人ご自身が実践してきたと述べられるのであります。すなわち、一往、外用の辺からいえば、法華経弘通の上行菩薩の再誕であり、再往、内証の辺からいえば、末法救済の大法を建立する御本仏であり、久遠元初の仏であることを、暗示されているわけであります。これは、人本尊を明かされたと考えてよい。
このように、人法両面から、末法一切衆生の尊敬すべき根本を明かされたことは、人本尊開顕書たる開目抄、法本尊開顕の書たる観心本尊抄の結論が、ともに、すでにこの一書のなかに包含されていると、私には拝せられるのでありあす。
しかも、後半においては、末法広宣流布の間違いないことを予言され、末法万年にわたる仏道修行の要諦として、信行学の在り方を教示して結ばれている。すなわち、末法の仏法の正体が、その甚深の法体、修行のすべてを網羅して、しかも簡潔にあらわされているのが本抄なのであります。
故に、日蓮大聖人の原点にかえることを基本精神とするわが創価学会は、数ある御書のなかでも、とくにこの「諸法実相抄」を根幹として、自己の信心の研鑽と、あらゆる指導、活動に取り組んできたのであります。初代会長・牧口常三郎先生も、常に本抄を通して指導されたとうかがっております。第二代、恩師・戸田城聖先生が、法華経は別にして、まず、私たち数人に講義された御書は「諸法実相抄」でありました。わたしもまた、この講義を受けた一人であります。
更に、高等部に対して、また本部職員の選抜メンバーに対し、私は幾度か、この「諸法実相抄」を講義してきましたが、拝するたびに、法門の深さに驚嘆し、大聖人の烈劣たる気迫に、胸を打たれる思いがいたします。
創価学会創立46周年を記念して、再び、私は、今までに何回となく講義したものに、新時代に相応して添削して掲載させていただくことにします。
以上、前置きとして申し上げておきます。
本文
諸法実相抄 文永十年五月 五十二歳御作 与最蓮房日浄 日蓮 之を記す
問うて云く法華経の第一方便品に云く「諸法実相乃至本末究竟等」云云、此の経文の意如何、
現代語訳
問うて言う。法華経の第一の卷、方便品第二に「諸法実相とは、諸法の実相、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」と説かれている。この経文の意味はどのようなものであろうか。
講義
一切の現象は妙法の姿
「諸法実相」の文は、法華経迹門の肝要であり、天台仏法においては、一代仏教の要とし一念三千の法門の依処としたものであります。
本抄をいただいた最蓮房日浄は、もと天台宗の学僧といわれております。おそらく天台家における肝要の法門として「諸法実相」については知っていたのでありましょう。しかし、天台の理の法門では十分に理解することができず、大聖人に、その深い元意をうかがおうとして、質問したものと思われます。
本文
答えて云く下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり
現代語訳
答えて言う。下は地獄界から上は仏界までの十界の依報と正報の当体が一法も残さず妙法蓮華経の姿であるという経文である。
講義
難解な「諸法実相」の意義を明快にズバリと答えられております。
“諸法”とは、この現実世界のなかに、さまざまな姿をとってあらわれている一切の現象といってよい。“実相”とは文字どおり、実の相であります。
「諸法実相」とは、“諸法”がそのままで“実相”であるということで、したがって、大宇宙の千変万化の姿が、すべて、妙法蓮華経のあらわす姿であるということになります。
換言すれば、地獄界という世界すなわち依報も、地獄界に住する衆生つまり正報も、その生命の究極のすがたは妙法蓮華経である。餓鬼界の依報ならびに正報も、妙法蓮華経である。畜生界も、修羅界も、更に菩薩、仏もみな同じである。これが「諸法実相」の意味するところなのであります。
また、諸法の実相とは、諸法のなかに実相が含まれるのでもなく、逆に実相のなかに諸法が包まれるものでもないのです。更には、諸法の奥底にあって、万象を統一する実体をたてるのでもないのです。
たとえば、西洋の哲学や仏教以外の思想では、諸法の奥底に、諸法を離れて、真理や、実体、本質を求めてきた。キリスト教の場合、宇宙森羅万象を統一する根源の実体を「唯一絶対神」と立て、諸法から遠く離れたかなたに究極の真理をおいたのであります。
その結果、神と人間、神と万象との間に断絶が生じ、その間にあって介入する人間の権力や教会の力が大きくなり、ついに、民衆を隷属させることになったことは、私たちの周知の事実なのであります。
これに対して、仏法の偉大性は、現実そのものに即して、真理を見いだすところにある。あくまで現実の一個の人間や事物を徹底的に凝視して、そこに真実を発見するのであります。
それ故、諸法実相は、森羅万象の個々の事物や人間に即して、その実相を洞察していく哲理なのであります。
諸法に即して実相、実相に即して諸法、という相即の関係にあるのが、諸法実相という哲理の不可欠な観点であります。この関係を見誤ると、諸法実相は分かりません。
さて、大宇宙の一切の現象、つまり太陽や月が昇り、また地平のかなたに沈みゆくのも、その真実のありのままのすがたは、仏法の眼で見ていくならば、ことごとく妙法蓮華経の所作なのであります。
この「諸法実相」の説法を爾前経と相対して申し上げれば「諸法」という現象面だけにとらわれ、差別観に陥ったのが爾前経でありました。この諸法つまり差別相がその奥底において共通の妙法という実相であることを明かしたのが、法華経の「諸法実相」であります。
ここに「行布を存する爾前権経」と「円融の法華経」の相違がある。そのことは、また、一切衆生が差別なく成仏しうるという仏法の平等大慧の法理に通ずるものがあります。
しかし、この法華経迹門の、ただ平等普遍の実相を知っただけでは、いまだ“理”であります。法理を知り、これを実践化したのが本門の“事”の法門なのです。
観念の哲学排した「事の法門」
これを理解するために、一つの考え方として、ニュートンの万有引力の法則を例にとってみたい。万有引力の法則は、物理学の法則であり、そのまま結びつけて考えることはできませんが、宇宙を貫く一つの原理であることに違いはない。ニュートンが発見すると否とにかかわらず、万有引力の法則はあり、それに従って万物は運動している。太陽や月、星の運行も、潮の干満も、リンゴが木から落ちるのも、物理学の眼でみるならば、一切が万有引力の法則に従っているのであります。法則を知らない人から見れば、たんにリンゴが熟れて地面に落ちたとしか見えないとしても、物理学の眼から見るならば、その実相は、地球という物体とリンゴという物体の間に働く力関係であると映ったのでありましょう。
この法則は、それを知っている人にも、知らない人にも、平等に働いているのであります。すべてが働いているというだけであっては、まだ“理”にすぎない。万有引力の法則を知らないで、大空を飛ぼうとしても、落ちるだけであります。また、それを知ったとしても、知っただけでとどまれば、それもまだ理の段階であります。その法則を知って活用するところに、飛行機や宇宙ロケットのような価値創造が生まれてくる。これを“事”といってよいでありましょう。
仏法の眼から見るならば、宇宙の一切の運行の、その真実の相は妙法蓮華経であります。凡夫の眼には、木々が揺れて動いているのみであっても、仏の眼には、妙法の妙なる旋律であり、太陽の輝きも、生命をはぐくむ妙法のハーモニーであります。
したがって、私ども一人一人の生命も、一切、妙法によって構成され、妙法のリズムに従って活動しているといってよい。ただし、そのことのみにとどまれば、まだ理であり、それを知らず、妙法に冥合することを知らない人は、あたかも、万有引力の法則を知らずに、空を飛ぼうとして落ちる人のごとく、不幸から不幸へと、暗きから暗きへとおもむくのみでありましょう。
また、たとえ諸法実相の哲理を知ったとしても、たんなる観照の哲学で終われば、それも理の範疇にとどまる。
それを希望の方向へと向け、価値創造し、幸福へと蘇生させていく方法として、日蓮大聖人は御本尊を顕されたのであります。すなわち、諸法は実相であるとの方程式を、日蓮大聖人の魂魄をとどめて御本尊という価値創造の当体のうえに具現化したのであります。それは、もはや諸法実相という哲学ではない。日蓮大聖人の御本仏の生命それ自体の諸法実相であります。御本尊を「事の一念三千」と申し上げるゆえんは、ここにあるのであります。
故に、諸法実相とは、一往は、諸法は、そのまま、妙法蓮華経という真実のすがたであるという観照の哲学のようでありますが、再往、文底観心のうえからいえば、御本尊こそ諸法実相という大宇宙の縮図であり、大聖人の仏法においては、諸法実相とは即御本尊なのであります
本文
依報あるならば必ず正報住すべし、釈に云く「依報正報・常に妙経を宣ぶ」等云云、
現代語訳
依報があるならば必ず正報が住している。妙楽大師の法華文句記には「依報も正報も常に妙法蓮華経を顕している」等と述べている。
講義
妙法の一法において依報も正報も連続
「依報あるならば必ず正報住すべし」とは、少し疑問に思うところでありあす。それは、私どもは法華経の教えによって、正報が根本で、それに応じて依報があると理解しているからであります。したがって「正報住するならば依報あるべし」といわれるべきところのように思える。この点について簡単に申し上げると、仏法においては、特に爾前経では一貫して、十界は、十種の異なる世界として説かれてまいりました。十界という言葉自体、十種の世界という意味であります。
これについては、御承知のように、たとえば地獄界は、地の下五百由旬、畜生界は水・陸・空といわれる。修羅は海のほとり、海の底とされ、人は大地によって住し、天は宮殿をいいますが、須弥山の山腹から頂上、更にその上方の空というふうに考えられております。
以上の六道のほか、いわゆる四聖についても、二乗は方便土、菩薩は実報土、仏は寂光土と、それぞれ、別々の世界に住すると説かれてきたのであります。
このように、種々の依報が説かれるということは、当然そこに住する衆生すなわち正報と、それぞれの国土すなわち依報とが一体になっているのが、生命の真実の在り方であります。すなわち、爾前経においては、十界とは世界観であった。法華経においてはじめて依正不二の生命観としてとらえられたのであります。
「釈に云く」とあるのは、妙楽大師の法華文句記のことですが「依報正報・常に妙経を宣ぶ」とは、この十種の依報正報の生命は、いずれも、妙法蓮華経をあらわしている、ということであります。
すなわち仏法においては、依報正報ともにその奥深いところでは断絶がないと教えている。依報が妙法蓮華経の当体であるとともに、正報もまた妙法蓮華経の当体なのであります。妙法蓮華経の一法において、依報も正報も連続しているのであります。
あえていえば、妙法の根源の一法が、一方において正報とあらわれ、それと同時に依報となってあれわれているということでありあす。すなわち生命という次元において、依報も正報も結合しているのであります。故に、ここから正報の生命の変革が、依報の変革に通ずるという仏法の卓越した原理が生まれてくるのであります。
この依報・正報ということに関連して、理解の参考のために、澤瀉久敬博士の論文を紹介しておきたい。それは環境と生物の関連につれて触れたいのであります。博士はこう述べておられます。
「ひとはともすれば一定不変の環境を考えそこへすべての生物は置かれていると考える。しかし人間には人間の環境があり、魚には魚の、また鳥には鳥の環境がある。そうして、人間各自にとっては環境はそれぞれ異なるようにすべての生物には各自の環境がある。一言にして言えば環境は無数である。生物を離れて環境自体というようなものはどこにもない。生物が生物として次第に自己を生み出してゆくように、そうしてそれによってさまざまな生物がそれぞれの自己の形を明らかにしてくるように、環境もまた次第に生物から分離して環境となるとともに、それぞれの生物に対応するさまざまな環境として自己を示してくるのである」
博士はこのように、生物と環境とが対応していることを述べ、更に、この対応した両者の根源をたずねれば、同じ「原始存在」という一つのものに帰着すると主張しておられます。これは生物の世界への鋭い観察から結論づけられた真理でありますが、仏法で説く依正不二の原理の一つの証明であるとも考えられるのであります。
本文
又云く「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如十如は必ず十界十界は必ず身土」、
現代語訳
また金剛錍には「実相は必ず諸法とあらわれる。諸法はまた必ず十如をそなえている。その十如は必ず十界という差別相がある。その十界には必ず身と土が存在する」と述べている。
講義
仏は架空の抽象的存在ではない
同じく妙楽大師の金錍論の文であります。一念三千の構成について述べたものといえます。
実相はすでに述べたように常住の本体 妙法蓮華経であります。これは一念三千の“一念”ということができます。「実相は必ず諸法」とは、この妙法蓮華経、常住の一念は、必ず万法としてあらわれてくる、ということであります。
次に「諸法は必ず十如十如は必ず十界十界は必ず身土」の文は、諸法、森羅万象は真実の相、すなわち実相を、十如・十界・身土に分析して述べたものです。
まず、十如は諸法、万象の共通面をあらわします。いかなる法といえども、必ず十如是という十の側面をもっているということであります。
十如是とは、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等です。
この十如是を伴って顕現する森羅万象、諸法は、また必ず、地獄界から仏界にいたる十界の範疇におさめることができる。
これは、諸法を差別面からとらえたものでありあす。
たとえば、地獄界にも十如是がそなわっていれば、仏界にも十如是がそなわっている。このように、十界のいかなる界であろうと、すべて十如是がそなわっているというのが、諸法に即する真実のすがた、すなわち実相なのであります。
更に「十界は必ず身土」これは十界それぞれの世界は、必ず、身と土のうえにあらわれるということです。つまり依正不二の原理をあらわしております。
以上のことを具体的に申し上げれば、たとえば、私たちの生命を考えた場合、その真実の相は妙法蓮華経の当体でありますが、それは私たちの日々生きているこの命を離れてあるものではない。朝起き、昼働き、夜眠る。その「諸法」のなかに「実相」はあるのであります。妙法は幽霊のようなものではなく、実在するものであります、「実相は必ず諸法」なのであります。
また「諸法は必ず十如」についていえば、瞬間瞬間、動いている生命には、十如是がそなわっているということであります。生命といっても、如是相のない生命はない。このなかにも「私には如是相はありません」という人はいないはずであります。必ず顔があり、形がある。また「如是性」もある。石のように、存在しているだけというのではない。否、石でさえも如是相はある。如是体についても同じことであります。
また、如是力・作・因・縁・果・報すべてをそなえております。だれびとにも、その人でなければもたない「力」がある。そして、それを周囲に及ぼしていく「作用」ももっているのであります。自己のなかにある「因」、外界との関係である「縁」、そしてそれらがもたらす、生命内在の「果」、外界にあらわれる「報」と、一切を私たちはもっております。更に、最初の相から終わりの報に至るまで、一貫して等しい生命活動を展開している。これが本末究竟して等しいということであります。
したがって実相といっても、諸法、また十如を備えていなければ、実相ではなく虚相といわざるをえない、たとえば、爾前経に説かれている仏にしても、大日如来などは、十如是がありません。だいいち如是相がない。いまだかって、大日如来にお目にかかった方は、だれ一人いないはずです。相性体をそなえていない仏に、衆生を救う、力や作用もあるわけがない。それはキリスト教のゴットやイスラム教のアラーにしても同じであります。
本来、それらは形あるものとしてあらわれるべきではない、という考え方に立っているのでありましょうが、諸法は十如のない実相というのが、法華経の主張であります。釈迦にしても実在の人物であるし、日蓮大聖人は、現実社会の真っただなかで、人々の苦しみを分かちながら戦われ、ご自身の悟りの境涯を、全人類に本末究竟して等しく与えていこうとされた御本仏であります。仏とは、また実相とは、決して架空の抽象存在ではなく、諸法、十如をそなえるものである、と私はいっておきたい。
「十如は必ず十界」 十如といっても、私たちの苦しみや喜びといった境涯と、決して無縁のものではないということであります。必ず十界のいずれかにあらわれてくる。逆にいえば、地獄界にも仏界にも、十如はあるということであります。今までは御本尊を知らず、苦しみの因縁果報であった。そしてその人の生命も地獄の力、作用であった。当然、その相性体は地獄でありましょう。喜びで満ちているのに、顔だけは恐ろしい業相で、ということもないし、悲しくてしようがないのに、顔だけは大口をあけて笑っている、などという手品みたいなことはできません。そのように本末究竟して地獄にいた人が、御本尊をたもって、幸福へ、喜びの人生へと変わっていく。因縁果報も、如是力、如是作も、相性体も全部、仏界に近づいていくのであります。ですから、如是相も福々しくなって、如是性も、優しくゆうゆうとした境涯になっていき、家庭をしっかりと支えていく如是力、如是作となり、因縁果報が、幸福へ幸福へと転回していく、どうか、そういう十如是の人生になってください。お願いします。
そして最後に「十界は必ず身土」、その十界は、我が身と我が土が必ずあらわれるということであります。地獄界の生命であれば、その身もその土も地獄界である。逆に、仏界の人の身も土も仏界となっていく、そこに人間革命の意義がある。御本尊をたもっているのに、家庭はめちゃくちゃ、隣近所のことも関係なし、というのでは「十界は必ず身土」にならない。皆さん方一人一人が、我が家を笑いさざめく金の城のごとく築き、地域社会に清水のごとき潤いをもたらしていくとき、大きくは世界という土を仏国とすることが可能でありましょう。またそうなっていただきたい。それが「十界は必ず身土」を読んだということであります。
御本尊は諸法の縮図
更に、日蓮大聖人の文底仏法から、この文を読むとき、三大秘法の御本尊それ自体をあらわしているのであります。諸法とは、これまで述べてきたように、十界三千の諸法です。それが大御本尊にそのまま実相として縮図されているのであります。すなわち、十界三千の諸法が、南無妙法蓮華経の一法に具足した姿、これが御本尊の相貌であり、諸法実相なのです。
具体的にいえば、中央の「南無妙法蓮華経 日蓮」が十界三千の諸法の実相です。左右の十界は、大聖人己心の十界であり、南無妙法蓮華経の光明に照らされた十界の生命活動をあらわしています。
まず、左右両側の上のほうに釈迦牟尼仏と多宝如来とありますが、これは仏界をあらわし、同時に、御本仏の脇士となっております。その両わきには、上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩がしたためられていますが、これは菩薩界をあらわしている。それから、舎利弗・迦葉等は縁覚界と声聞界、大梵天王、帝釈天王、大日天王、大月天王、第六天の魔王等は天界、転輪聖王等は人界、阿修羅王等は修羅界、竜女は畜生界、そして鬼子母神・十羅刹女は餓鬼界、最後に提婆達多は地獄界です。
これらの十界の諸法に「必ず十如」を具していることはいうまでもありません。
さて、その十界が「必ず身土」とは、もったいなくも御本尊という一つの草木が掛け軸になり、御本尊様ましますところ、たとえば仏壇などは“土”にあたると考えられます。
本文
又云く「阿鼻の依正は全く極聖の自心に処し、毘盧の身土は凡下の一念を逾えず」云云、
現代語訳
また、同じく金剛錍のなかで「阿鼻地獄の依報と正報は尊極の仏の自身のなかに具わり、毘盧舎那仏の法身の生命も凡夫の一念の外にあるものではない」としている。
講義
同じく金錍論の文であります。
無間地獄といっても、その世界も衆生の世界も全く、極聖 仏の自心、本然の生命のなかにある。逆に毘廬すなわち仏の尊極の生命もまた、身・土ともに、凡夫の一念の外にあるものではない。
十界互具の原理を、地獄界と仏界とを代表として示したものであります。
しかし、さらに深く論ずれば、極理の自心も妙法蓮華経であり、凡下の一念も妙法蓮華経であるが故に、仏の生命に無間地獄もそなわり、凡下の一念にも仏の生命が具足する、と拝すべきでありましょう。
本文
此等の釈義分明なり誰か疑網を生ぜんや、されば法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし、釈迦多宝の二仏と云うも妙法等の五字より用の利益を施し給ふ時・事相に二仏と顕れて宝塔の中にして・うなづき合い給ふ、
現代語訳
これらの妙楽大師の釈義は分明である。誰が疑いを生ずるであろうか。
したがって、法界の姿は妙法蓮華経の五字にほかならないのである。
釈迦仏・多宝仏の二仏といっても妙法蓮華経の五字のなかから用の利益を施すとき、事相に釈迦・多宝の二仏と顕れて多宝塔のなかでうなずきあわれたのである。
講義
釈迦・多宝も妙法の力用の表現
以上妙楽大師の言葉の意味するところは明瞭であり、疑問をさしはさむ余地はない。したがって「諸法実相」の意義は、十法界の姿が妙法蓮華経であるということを明かしたところに存するのである、との仰せであります。
法華経はこの真理を、あるいは説法し、あるいは譬喩説し、あるいは因縁によって説いて、在世の声聞の弟子たちを得脱せしめたのち、滅後の末法のため、多宝の塔が湧現し、虚空会の壮大な儀式が展開されていきます。「釈迦多宝の二仏と云うも」うんぬんの文は、この本門の虚空会において、多宝搭中に釈迦・多宝二仏が並座しますが、そこにあらわされたものも、しょせんは妙法蓮華経にほかならないということであります。
この御文は、非常に深い含蓄のある表現になっています。一つは、釈迦・多宝の二仏といっても、妙法蓮華経の一法が衆生を利益する働きを、具体的な仏という形によってあらわしたのであるということです。これはこのあとに出てくる「仏は用の三身にして迹仏なり」に対応するもので、経文に説かれる荘厳な仏も、結局は、大宇宙に遍満する仏界という妙法蓮華経の働きを表現したものであるということです。
したがって、仏と同じく十界のすべて、妙法蓮華経のあらわす、生命の働きであるというのが、ここに仰せの元意なのであります。
もう一つは「宝搭の中にして・うなづき合い給ふ」とあるように、虚空会の儀式によって、釈迦・多宝の二仏が説きあらわした法とは、妙法蓮華経であるということです。多宝が合意して証明したことを「うなづき合い給ふ」と仰せられています。
こうした宝搭の儀式が何をあらわしたものであるかについて、戸田先生は次のように講義されています。
「釈迦は宝搭の儀式を以て、己心の十界互具一念三千を表しているのである。日蓮大聖人は、同じく宝搭の儀式を借りて、寿量文底下種の法門を一幅の御本尊として建立されたのである。されば御本尊は釈迦仏の宝搭の儀式を借りてこそ居れ、大聖人己心の十界互具一念三千 本仏の御生命である。この御本尊は御本仏の永遠の生命を御図顕遊ばされたのである。末法唯一無二の即身成仏の大御本尊であらせられる」
この戸田先生の講義の意味するところも、日蓮大聖人が本抄で仰せられているところと全く合致するのであります。末法永遠の御本仏・大聖人に対して、折伏の師匠・戸田先生の立場はもとより異なりますが、仏法の真実の意味を同じくとらえられていたと拝することができるのであります。
本文
かくの如き等の法門・日蓮を除きては申し出す人一人もあるべからず、天台・妙楽・伝教等は心には知り給へども言に出し給ふまではなし・胸の中にしてくらし給へり、其れも道理なり、付嘱なきが故に・時のいまだ・いたらざる故に・仏の久遠の弟子にあらざる故に、地涌の菩薩の中の上首唱導・上行・無辺行等の菩薩より外は、末法の始の五百年に出現して法体の妙法蓮華経の五字を弘め給うのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし、是れ即本門寿量品の事の一念三千の法門なるが故なり。
現代語訳
このような法門は日蓮を除いては、申し出す人は一人もいないのである。天台大師も妙楽大師も伝教大師等は心の中では知っておられたのであるが、言葉には出されることはなかった。それも道理なのである。それは付嘱がなかったゆえであり、時がいまだきていないゆえであり、釈尊の久遠の弟子ではないがゆえである。地涌の菩薩のなかの上首・唱導の師である上行菩薩・無辺行菩薩等の菩薩よりほかは、末法の始めの五百年に出現して、法体の妙法蓮華経の五字を弘めるだけでなく、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すことができる人はいないのである。これはすなわち、法華経本門寿量品に説かれた事の一念三千の法門であるからである。
講義
末法の御本仏を宣言
迹門方便品の諸法実相も、本門虚空会の儀式も妙法蓮華経をあらわしているのであるということは、いまだかって、だれもいったことがない。日蓮大聖人が、初めて述べられるのである、ということです。
しかし、そこに法華経の元意があったゆえに、天台・妙楽・伝教等の、法華経を本当に読みきった人々は、内心では知っていたことは当然です。したがって「天台・妙楽・伝教等は心には知り給へども言に出し給ふまではなし・胸の中にしてくらし給へり」と言われているのです。
では、なぜ、天台・妙楽・伝教等は、心の中では知りながら、言葉に出していわなかったか。言葉に出していわなかったということは、人々に教えることをしなかった、わけです。それをしなかった理由として、大聖人はここで三つあげられている。
一つは「付嘱なきが故」です。付嘱とは、仏から使命を託されることであります。法華経の会座において、釈尊は、法華経の肝心の法門を弘通する使命を、本化地涌の菩薩に託した。ところが、天台・妙楽・伝教等は、その本地は迹化の菩薩である。故に、その使命を受けていない、ということであります。
第二は「時のいまだ・いたらざる故」であります。この法華経の肝心の法門が弘通されるべき時は、薬王品にも「我が滅度の後・後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して」とあるように、第五の五百歳、末法の時代であります。
“時”とは、端的にいうならば、客観的条件の、最も深い底流をなすものであります。委細に三世を知る仏にしてはじめて、この正しい時を知ることができるゆえに、仏は明確に、この妙法を弘めるべき時を定めた、といえましょう。
だが天台・妙楽・伝教等の出現した時代は、五の五百歳の区分のなかでは、第四の五百歳であった。したがって、これらの人々は、法華経の肝心たる妙法を、言葉に出し、人に教えることはしなかったのであります。
第三は「仏の久遠の弟子であらざる故」であります。仏の久遠の弟子ということは、師弟不二の原理からいって、仏と同じ心、等しい悟りの境地にあるということであります。教文にあらわれた地涌の菩薩は、この久遠元初の仏の弟子が、妙法流布のため、その付嘱のため、垂迹して現じた姿であります。
仏の悟りの極理である妙法を説き、弘めるためには、自らその悟りを得、仏と等しい境地にあるということであります。経文にあらわれた地涌の菩薩は、この久遠元初の弟子が、妙法流布のため、その付嘱のため、垂迹して現じた姿であります。
仏の悟りの極理である妙法を説き、弘めるためには、自らその悟りを得、仏と等しい境地にもともと住している人でなくてはならない。妙法を説き弘めることは「如来の使いとして、如来の事を行ずる」ことになるのであります。
広宣流布の付嘱は地涌の菩薩に
これに関連して一言、本化の菩薩と迹化の菩薩の関係について述べておきたい。
本化とは、いうまでもなく地涌の菩薩であります。この地涌の菩薩の住所について、法華経には「大地の下の空中」と説き、天台はそれを「法性の淵底玄宗の極地」と表現しておりますが、日蓮大聖人は、更に明確に「南無妙法蓮華経」であると示されております。すなわち、南無妙法蓮華経を我が生命と覚知し、南無妙法蓮華経の流布を自己の使命とし、本分としているのが地涌の菩薩であります。
これに対して、迹化の菩薩とは、文殊・弥勒・薬王・普賢・観音・妙音等の諸菩薩であります。これらの菩薩たちは、社会の動向を察知する力で人々に利益をもたらし、妙なる音楽で心を喜ばし、慈愛の心をもって人々に尽くし、医学の力をもって病苦を除く等、その特性を存分に発揮して、人々のために働く菩薩たちであります。
故に世間においても、真に慈悲の精神に立って、おのおの社会的立場にあって、またその能力を発揮して、人々のため社会のために尽くす人は、迹化の菩薩の一分にあたるといってよいでありましょう。しかしながら、南無妙法蓮華経という法体を流布することによって、人々のために尽くしている人は、世間にはどこにもおりません。
なぜかならば、この法体の流布こそ、地涌の菩薩の本分であるからであります。釈迦が法華経において、迹化の菩薩たちが滅後の弘教を誓うその誓いを「止みね善男子」と一言のもとに止めて、わざわざ地涌の菩薩を召し出し、付嘱をなしたわけも、この一点にあります。南無妙法蓮華経という根源の一法をもって、人々のため、社会のために尽くしていくことができるのは、本化地涌の菩薩のみであり、またそれこそ、末法の根源の実践なのであります。
したがって、私たちは、あくまでも南無妙法蓮華経に生き抜くことを本分とし、その流布を自らの「この世の使命」と定めたうえに社会のあらゆる分野において活躍していくならば、その活動は迹化と同じようであっても、その本地は地涌の菩薩であります。だが、反対に南無妙法蓮華経の本地を忘れてしまったならば、迹化の菩薩にとどまることすらできず、自己の才能や名声に酔い、日々の生活におぼれて、三悪道、四悪趣の境涯におちいっていくことでありましょう。
故に、深く探求していけば、広宣流布に励む同志は、あるいは、一学生であれ、一主婦であれ、一学者であれ、一サラリーマンであれ、皆地涌の菩薩が、それぞれの世界へと勇躍出現した姿であります。
単に一主婦が、一学生がたまたま、その悩みを解決するために信仰しているという自覚しかなければ、それはまだ一歩浅いところを彷徨している段階であるといわざるをえない。
我々の奥底の一念 それは地涌の菩薩の本地に立って、御本尊様と、創価学会と、広宣流布とにおくべきであると、申し上げておきたいのであります。
さて、天台・妙楽・伝教等が、以上の三つの条件を欠くゆえに、法華経の肝心の法を説き弘めることはできなかったのに対し、一往、地涌の菩薩として、再往、無作三身の仏としての日蓮大聖人およびその門下のみが、それをなすことができるというのが、次の文であります。
「地涌の菩薩の中の上首唱導・上行・無辺行等の菩薩」という文は、先の「付嘱なきが故に」に対応して仰せです。と同時に、この地涌の菩薩について湧出品で「我久遠より来かた是等の衆を教化す」と示されている元意に照らすならば「仏の久遠の弟子にあらざる故」にも対応していることは明らかでありましょう。
また「末法の始の五百年に出現して」とは「時のいまだ・いたらざる故」の文に対応していることも、いうまでもありません。日蓮大聖人の降る舞いは、先に示した三つの条件がすべて満たされたうえのことであると仰せなのであります。
「本門の本尊」ご図顕に出世の本懐
「法体の妙法蓮華経の五字を弘め給うのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし」 この御文のなかに、本門の題目と本門の本尊を示されております。
「法体の妙法蓮華経の五字を弘め給う」が、本門の題目を弘通されていることであります。「宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕す」は、本門の御本尊を建立されることであります。
もし、大聖人が、単に「南無妙法蓮華経」の題目流布のみをもって、本懐とされたとするならば「法体の妙法蓮華経の五字を弘め給うのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕す」とは言われなかったのでありましょう。むしろ「宝搭の中の二仏並座の儀式」すなわちご本尊があったことは、この文に明確にうかがわれるのであります。
ともあれ、この題目・御本尊をあらわし弘めることは、地涌の菩薩の上首・上行等にしかできないことである。その故は、これが本門寿量品の事の一念三千の法門だからであると、迹化の菩薩は迹門の法門は弘めることができる。しかし、本門寿量品の事の一念三千は、本化の菩薩でなければならない。
迹門の法は迹化の人・本門の法は本化の人でなくてはならない。
「地涌の菩薩の上首・上行・無辺行等の菩薩」とは、日蓮大聖人ご自身のことであり、人本尊をあらわします。また「本門寿量品の事の一念三千」とは、法本尊のことであり、人法一箇をあらわしております。大聖人に連なる私どももまた、もともと末法の独一本門の南無妙法蓮華経を持って生まれてきたのであります。
ともかく釈迦も天台も伝教も、すべて帰着するところは妙法の大地であり、それら先人の出現はすべて日蓮大聖人のご出現の序曲であった。いにしえの先人たちが、生涯を賭けて求め抜いた一法が御本尊なのであります。私どもは、いま大聖人の世界最高の太陽の哲理をもっている。ともあれ、光輝あるこの世の使命を新たにしたいのであります。
本文
されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、
現代語訳
したがって釈迦仏・多宝仏の二仏といっても、用の仏であり、妙法蓮華経こそ本仏であられるのである。法華経如来寿量品第十六に「如来秘密神通之力」と説かれているのはこのことである。「如来秘密」は体の三身であって迹仏なのである。「神通之力」とは用の三身であって迹仏なのである。
講義
「神通之力」とは本尊の働き
妙法蓮華経すなわち南無妙法蓮華経が仏の生命の常住不滅の体であり、釈迦・多宝の二仏といっても、この南無妙法蓮華経という体があらわす働きにほかならないとの仰せであります。
体は“本体”、用は“働き”であります。まさしく御本尊のお姿であります。御本尊における釈迦・多宝は「南無妙法蓮華経 日蓮」と中央におしたための脇士になっており、妙法の用の仏として位置づけられております。釈迦・多宝といえども、またあらゆる十方三世の諸仏といえども、妙法の働きであります。南無妙法蓮華経とは、日蓮大聖人のご生命そのものであり、故に大聖人は、十方三世の諸仏を動かしていく当体であられる。私どもも御本尊を受持することによって、あらゆる仏・菩薩を動かしていくことができるのです。なんと私どもには、偉大な境涯の海が開けていることでありましょうか。本当の信力・行力を貫いていけば、当体義抄文段に「我れ等妙法信受の力用に依って即連祖大聖人と顕るるなり」とあるごとく、大聖人の生命が渾々とわいてくるのであります。
また本とは「本地」で、本来の境地をいい、迹は「垂迹」で、影として映った姿をいいます。
これを、もう少し分かり易くいうと、本迹について天台大師は、天月と地月をもって示しております。空に輝いている本物の月が“本”で、池の水面に映った月影が“迹”であるというのであります。
考えてみると、影は、池だけに映るわけではない。海の水面にも映りますし、湯飲み茶の面にも映ります。ガラスの面にも映ります。すなわち、十分に光を反射する滑らかな面であれば、そこに、はっきりした影を映すことができるのであります。こうした光を十分に反射する面は、現代的にいえば、スクリーンと呼ぶことができます。
したがって、法華経本門において、仏の本地を久遠実成と明かしたということは、久遠五百塵点劫成道の仏身が本地で、それ以前の始成正覚の釈尊は、当時のインド社会というスクリーンに映った影となるのであります。更に地涌の菩薩が、本地・久遠元初の自受用報身如来であるということは、久遠元初の仏が、法華経の儀式というスクリーンのうえに映した一つの影ということになるなであります。
地涌の菩薩ばかりでなく釈迦・多宝の二仏も、久遠元初の自受用報身即・南無妙法蓮華経という本地の仏が、虚空会の儀式のうえに映し、あらわれた影である、との仰せであります。
永続していく本体が妙法
これを私どもの生命に約していえば、私どもはさまざまな社会をスクリーンとして、さまざまな姿=影を映しております。家庭というスクリーンでは、一家の長という姿、社会というスクリーンでは、たとえば課長、学会の組織というスクリーンでは支部長、国際社会というスクリーンでは日本人という影、そして生物の世界をスクリーンとして一個の人間という影を映しているといえる。
これらは“影”であるゆえに、スクリーンが揺れれば、影も揺れる。スクリーンはそのままでも、やがて消える影もあります。学生という影は、卒業によって消えるのであります。なかには、早く消して、新しいスクリーンに新しい影を映したいと思いながら、なかなか消せなくて困っている人もいるようですが…。
では、消えないで、永続していく本体はいかなるものか。人間の過ちの根本は、仮にあらわれているにすぎない影を、自らの不変の本地であるかのごとく錯覚してしまうところにあるといっても過言ではないでしょう。先にあげたうち、人間であるということは、比較的、本地に近いし、生き、行動していくうえで、忘れてはならない原点ではあります。
だが、それすら、より深く考えれば、生死流転する無常の存在にすぎない。故に、この生老病死という流転、変貌の人間存在を見詰め、生死を超えて常住の自己の真実の本地を見いだそうとしたのが、仏教なのであります。そして結論的にいえば、南無妙法蓮華経こそ、真の常住不滅の体であり、それが自己はもとより宇宙万物の実相であると究め尽くしたのであります。
故に、妙法蓮華経こそ“本仏”、それに対して、釈迦・多宝の二仏は“用の仏”“迹仏”であると仰せなのであります。
「如来秘密」の「神通之力」で「如来秘密」が体の三身をあらわし、これは本仏に当たる。「神通之力」は用の三身をあらわし、迹仏である、と。
いずれについても“三身”ということをいわれるのは、もとより、天台の「一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す」との釈を受けておられるからであります。
この経文を文底から読めば、如来とは南無妙法蓮華経如来のことであり、秘密とは内緒にしておくということではなく、三大秘法に説かれているごとく、寿量文底の大御本尊そのものであります。神通之力とは、この南無妙法蓮華経如来、即御本尊の働きであります。
「神通之力」を用の三身とすることについても、天台の文句に次のようにあります。
「神通之力とは三身の用なり、神は是れ天然不動の理、即ち法性身なり。通は無壅不思議の慧、即ち報身なり。力は是れ幹用自在、即ち応身なり」 すなわち“神”は法身、“通”は報身、“力”は応身で、用の三身となるのであります。
本文
凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、
現代語訳
凡夫は体の三身にして本仏である。仏は用の三身であって迹仏である。
したがって、釈迦仏が我ら衆生のために主師親の三徳をそなえられていると思ったいたのであろうが、そうではなくかえって仏に三徳をこうむらせている凡夫なのである。
講義
「凡夫こそ本仏」と断言
十界の依正の当体が妙法蓮華経であり、妙法蓮華経が「本仏」ですから、十界の衆生即ち凡夫が「本仏」である。これに対して、釈迦仏をはじめ、経文に説かれているあらゆる仏は「迹仏」である。ということであります。「諸法実相」の原理、法華経の道理からいえば当然のことでありますが、それを、このように明確に言い切り、凡夫こそ本仏なりと断ぜられたところに、日蓮大聖人の教えが、末法万年の未来に投じた、不滅の力用の光明があるのであります。
ここに、凡夫と仰せられたのは、別して日蓮大聖人の御事であり、日蓮大聖人が御本仏であられることを示されております。「御義口伝」に「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり、法とは題目なり僧とは我等行者なり、仏とも云われ又凡夫僧とも云わるるなり」(0766:第十三常不値仏不聞法不見僧の事:03)とある通りであります。その凡夫が、最も尊く、偉大であることを、日蓮大聖人が、自ら凡夫の姿を示して、お説きくださっているのであります。
あくまでも、日蓮大聖人の仏法は、人間が中心であります。御義口伝に、法華文句を引用して「衆生に此の機有つて仏を感ず故に名けて因と為す、仏機を承けて而も応ず故に名けて縁と為す」(0716:第三唯以一大事因縁の事第三唯以一大事因縁の事:03)と仰せのごとく大聖人の御出現自体、苦悩の衆生があったればこそであります。御本尊の威光勢力、福徳も、迷える凡夫がいたればこそであります。また、その偉大な仏法を流布していくのも、社会の荒波にもまれながら戦う勇気ある人々がいるからであります。
過去のあらゆる宗教において、究極的に尊厳であるとされたのは、神であり、超人格者としての仏でありました。人間の尊さは、この神の恩寵と、仏の慈愛に包まれているという条件のもとにはじめて認められたのであります。
故に過去の宗教のほとんどは、神あるいは仏に直接仕える人々を特権的存在とし、世俗の人間、一般庶民を卑しい存在としたのであります。更に、世俗の人々についても権力者は特別的恩寵を受けるとして、王権神授説のもとに、階級構造に宗教的権威を付し、これを固定化する結果となりました。
したがって、いずれの社会においても、民主化の過程は即、宗教否定・宗教の無力化の過程であったのであります。
しかしながら、宗教の喪失、信仰の消滅がもたらしたものは、人間精神の不安定であり、人間的信頼の絆の弱体化でもあった。このため、ふたたび、宗教的信仰の復活が心ある識者によって叫ばれはじめているのが、20世紀後半の現代の状況でもあります。
だが、過去の宗教を復興することが、問題の解決につながるものでないことは、この歴史の推移を見れば明らかであります。人間自身を妙法の当体として、それ自体で尊厳なる存在とする、日蓮大聖人の仏法こそ、人類の求めはじめている問題に、真っ向から答えた大宗教なのであります。
西欧において、ある近代思想家は「神が人間をつくった」という聖書の教えに反対し「人間が神をつくったのだ」と叫んだと聞きます。いま日蓮大聖人が「釈迦仏が我ら凡夫のために主師親三徳をそなえていると思っていたらそうではない。仏に三徳をかふらせたのは、我々人間なのである」と断言されているのは、更に近代的であり、革新的思想というべきではないでしょうか。
この一言をもってしても、日蓮大聖人の仏法が、人間不平等の基盤となった過去のあらゆる宗教と一線を画する、未来永久に、人類が根本としていくべき偉大な宗教であることを、強く信じ切っていただきたいのであります。
本文
其の故は如来と云うは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり」と判じ給へり、此の釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり、然れども迷悟の不同にして生仏・異なるに依つて倶体・倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり、
現代語訳
そのゆえは、如来というのは天台大師の法華文句には「如来とは十方三世の諸仏・真仏・応仏の二仏、法身・報身・応仏の三身・本仏・迹仏の一切の仏を通じて如来と号するのである」と判じられている。この釈に「本仏」というのは凡夫であり「迹仏」というのは仏である。
しかしながら、迷りと悟りの相違によって、衆生と仏との異なりがあり、このため衆生は倶体・倶用ということを知らないのである。
講義
迷いを悟りに転ずるのは「信」
天台大師の法華文句の文をあげておられます。寿量品の「如来寿量」の“如来”を釈したもので、この如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号である。と、二仏とは真仏と応仏で、真仏とはありのままの仏、応仏とは、法身・報身・応身の仏ということです。
如来とは、仏という意味であり、哲学的にいえば「如如として来る」ということで、瞬間瞬間の生命を、如来ともいい、仏ともいうのであります。
この生きている、瞬間瞬間の生命 それは仏像でも絵像でもない。大宇宙の生命の律動を一点に凝縮しつつ、現に発動している生命そのもの、これが如来なのであります。
如来とは、一般的にいって、仏の通号であり、それは、何も釈迦一人ではない。経文には、迦葉仏、阿閦仏等、たくさんの仏が出てきます。だが、別しては、久遠元初の自受用身如来のことをいうのであります。
さて、ここでこの釈を引かれた元意は、本仏・迹仏という点にあります。「此の釈に本仏と云うは凡夫なり釈仏と云ふは仏なり」と仰せのように、凡夫が本仏であり、経文に説かれた仏は迹仏にすぎない、ということであります。
いま、この本仏・迹仏ということを、寿量品に即して考えれば、このように大聖人がいわれた意味は、おのずから明らかであります。
すなわち、寿量品では、釈尊がインドに応誕してはじめて成道した、いわゆる始成正覚の仏ではなく、実は久遠五百塵点劫の昔に成道したのであると明かします。そして、この久遠成道の仏を「本仏」とすることは、ご存知の通りであります。
してみると、釈尊は、インドに応誕して、30にして成道する以前、すなわち凡夫であった時も、仏であったことは間違いない。むしろ、30で成道したという仏としての姿こそ、仮に示した“迹”の仏といわなければならない。更に、寿量文底の意でいえば、五百塵点劫で成道した仏というのも“迹”の仏であります。
御義口伝に「惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず唯凡夫の当体本有の侭を此の品の極理と心得可きなり、無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり」(075:第一南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事:10)とありますごとく、本有のまで、南無妙法蓮華経如来であるとあらわれるのが、御本仏であられます。故に「本仏と云うは凡夫なり釈仏と云ふは仏なり」と仰せなのでります。
しかしながら、同じく凡夫といっても、衆生と仏との間には、厳然として相違がある。それは、悟っているのと迷っているのとの違いである。「悟るを仏・迷うを凡夫」ということであります。もう少し厳密にいえば、悟っている凡夫が仏であり、迷っている凡夫が衆生ということになります。
日蓮大聖人は、ご自身、南無妙法蓮華経の当体であられることを悟られている。私どもは迷いの凡夫であります。この「迷い」を「悟り」へと転ずるものは何か、それは「信」の一字であります。
「具体・具用の三身と云ふ事をば衆生知らざるなり」とは、先の御文に「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして釈仏なり」とあったのと関連しております。迷っている凡夫は自身が仏であると知らないために、経文等に説かれている仏が本当の仏だと思いこんでいる。
したがって、凡夫が体の三身の本仏であり、仏は用の三身で釈仏であるという「具体・具用の三身」ということを知らないのであります。すなわち、具体とは、南無妙法蓮華経であり、具用は、釈迦・多宝であるという原理を知らないと仰せであります。
この「具体・具用」ということでありますが、これは、体とともに必ず働きがあり、働きとともに体があるということであります。
仏法でいう「体」とは、体だけであるものではなく、必ず「用」をともなっているのであります。「用」を取り払って「体」だけを取り出すことはできないのであります。
たとえば、北条浩という「体」は、北条浩という所作にしかあらわれないし、またその所作は、全部、北条浩という「体」の表現なのであります。
南無妙法蓮華経という「体」は、森羅三千の「用」をともなっております。
故に、わたしどもが南無妙法蓮華経という大生命をば、我が胸中に顕現していくならば、一切を動かし、一切を働かせていくことができるのであります。
この具体・具用の「体」とは、諸法実相の「実相」ということであり、「用」とは「諸法」に当あります。
本文
さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ、実相と云うは妙法蓮華経の異名なり・諸法は妙法蓮華経と云う事なり、
現代語訳
そうであるからこそ諸法という言葉で十界を挙げ、これを実相と説かれたのである。「実相」というのは、妙法蓮華経の異名である。ゆえに「諸法」は妙法蓮華経ということなのである。
講義
一切衆生が南無妙法蓮華経の当体
したがって、凡夫の当体がそのまま妙法蓮華経であることを明らかにするために、諸法という言葉によって十界を示し、その諸法、すなわち十界の依正の当体がそのまま、実相であると説かれたのであるということであります。そして、実相とは妙法蓮華経の異名でありますから、諸法すなわち十界の依正の当体、ことごとく一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりということになるのであります。
本文
地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり、
現代語訳
地獄は地獄の姿をみているのが実の相である。餓鬼と変じてしまえば地獄の実の姿ではない。仏は仏の姿、凡夫は凡夫の姿であり、万法の当体の姿が妙法蓮華経の当体であるということを「諸法実相」とはいうのである。
講義
地獄は地獄の姿そのままが実の相、実相であります。餓鬼と変じたならば、もはや地獄の実の相ではない。仏は仏の姿、凡夫は凡夫の姿等々、万法の当体がそのままの姿が実相であり、妙法蓮華経であるということを「諸法実相」というのであります。
これは、過去の仏法観を根本から打ち破るものといわなければならない。従来、仏教の思想は、仏や菩薩、あるいは二乗のみを尊いとして、他の衆生、特に地獄・餓鬼・畜生にいたっては、卑しむべきもの、忌むべきものとしているように理解されてきました。そのあらわれが、餓鬼や畜生の名称が人を蔑んで呼ぶ名や、罵る場合に使われてきた事実であります。
もっと現実的・社会的場面でいえば、貧窮し、惨めな生活を余儀なくされている人々を卑しみ、忌み嫌う、冷酷な風潮を生み出してきたことも否定できません。
法華経の「諸法実相」の原理は、これを真っ向から打ち砕いて、地獄・餓鬼・畜生の衆生も、仏・菩薩も、等しく妙法の当体であり、平等に尊極の存在であると説いたものであります。
更に、仏法の真髄は、地獄・餓鬼・畜生の九界の生命をいかにすれば、尊極の存在とすることができるかという方途も説いているのであります。御本尊におしたための九界の衆生は、ことごとく、妙法の光に照らされて、本有の尊形となっております。
この御本尊を私どもの生命が境智冥合すれば、仏界所具の地獄界、仏界所具の九界の生命を自在に操縦していくことができるのであります。
当然、悲しみも、苦しみも、欲望もある。それでありながら、それは、仏界という大海の上にわき立つ波としての、最高の人間らしい生活を彩る働きとなってくるのであります。
故に「諸法実相」を事実の上で明言できるのは、御本尊を建立された、日蓮大聖人の仏法にして、はじめてできうることなのであります。
本文
天台云く「実相の深理本有の妙法蓮華経」と云云、此の釈の意は実相の名言は迹門に主づけ本有の妙法蓮華経と云うは本門の上の法門なり、此の釈能く能く心中に案じさせ給へ候へ。
現代語訳
このことについて天台大師は「実相の深理は本有常住の妙法蓮華経である」と述べている。この釈の意味は「実相」の名言は迹門の立場から言ったものであり「本有常住の妙法蓮華経」というのは本門の上の法門なのである。この釈の意をよくよく心中に案じられるがよい。
講義
実相の究極は南無妙法蓮華経
迹門方便品に「実相」の名で示されたものの本体は、本門寿量品にあらわされた妙法蓮華経に他ならないということを、天台の釈をあげて裏付けされたところであります。
「此の釈能く能く心中に案じさせ給へ」と仰せのように、この法華経の根本義にかかわる深い法門であります。というのは、天台は明確にはいっておりませんが、この釈を大聖人の観心のうえで読めば、実相の究極は何かといえば、寿量文底の南無妙法蓮華経を示しているからであります。
一往、法華経の経文の流れをみますと、法華経は、一切衆生の成仏のカギとなる、三世諸仏の悟りを明かそうとしたのであります。方便品のはじめに「諸仏智慧甚深無量」とあるのがそれであり、方便品に示されたその内容が「諸法実相・十如是」だったのであります。故に、声聞の弟子のなかでも智慧第一と称せられた舎利弗は、ただこの「諸法実相」の説法で得脱し、他の中根・下根の声聞たちも、その後の譬喩説・因縁説によって、次々と得脱したわけであります。
この在世の弟子、声聞たちに対する説法のあと、法師品・宝搭品以下は・仏滅後の未来に妙法蓮華経をだれが弘めるかと釈尊が呼び掛け、それにこたえて、迹化の菩薩たちが名乗り出る、これを釈尊は断り、大地から本化の菩薩を召し出して、この地涌の菩薩に法を付嘱する、という流れが展開されます。
したがって、法師品・宝搭品以下は、文のうえからみますと、滅後弘通の人を定めることを目的として展開されたことは明らかであります。しかしながら、ただそれだけではない。再往これをみれば、そこには、滅後弘通の法体そのものが明かされている。これが「本有の妙法蓮華経」であります。
在世の声聞の弟子たちは、過去に下種・結縁がありますから、すなわち本已有善のゆえに、法華経の会座では「諸法実相」の説法、ないし「三車火宅の譬え」、あるいは三千塵点劫の結縁の説法を聞いただけで、種子を覚知することができたのであります。
これは、一つのたとえでいえば、かつて歩いたことのある道で、記憶が定かでなく、迷っている場合に似ています。大部分は思い出せるが、一つだけ曲がり角がどこだったか分からない場合、その一か所だけ教えてもらえば、あとは迷わずに目的地に行けるのです。舎利弗が「諸法実相」だけで得脱できたのは、これと同じようなものと考えてよいでしょう。
ところが、未来とくに末法の衆生は、過去に下種・結縁のない衆生、つまり本末有善の機であります。かつて歩いたことのない道は途中のことをどのように教えても、目的地を思い出せることはできません。目的地そのものを示さなければならない。この目的地が「本有の妙法蓮華経」です。
法華経の儀式のなかで、法師品以後、特に宝搭品で多宝の塔があらわれ、そこに釈迦と多宝の二仏が並座し、更に十方の諸仏が来至し、本化の菩薩が湧現して展開された、虚空会の儀式は、寿量品で魂を得て、そのまま「本有の妙法蓮華経」を表現しているのであります。
とはいえ、釈尊の法華経二十八品は、本門といえども、この「本有の妙法蓮華経」に至る道を図に書いて示したようなものであります。「本有の妙法」自体を具現化され、末代幼稚の凡夫に受持させてくださったのが、末法御本仏・日蓮大聖人なのであります。
このように、同じく「諸法実相」といっても、迹門・本門・文底独一本門の立場で、読み方が異なります。
文底独一本門に約せば、御本尊そのものが諸法実相であります。更に信心に約せば、大御本尊を受持し切ったときに、妙法の生命が湧現し、幸福の諸法実相、人間革命の諸法実相として、我が人生に建設されてくるのであります
本文
日蓮・末法に生れて上行菩薩の弘め給うべき所の妙法を先立て粗ひろめ、つくりあらはし給うべき本門寿量品の古仏たる釈迦仏・迹門宝塔品の時・涌出し給う多宝仏・涌出品の時・出現し給ふ地涌の菩薩等を先作り顕はし奉る事、予が分斉にはいみじき事なり、日蓮をこそ・にくむとも内証には・いかが及ばん、
現代語訳
日蓮が末法に生まれて上行菩薩が弘められるところの妙法蓮華経を先立ってほぼ弘め、作りあらわされているところの本門寿量品の古仏である釈迦仏・迹門の宝塔品で涌出された多宝仏・従地涌出品の時に出現された地涌の菩薩等をまず作りあらわしたてまつることは自分の分際を過ぎたことである。
この日蓮を憎むとも、内証をどうすることもできないのである。
講義
人法一箇の大法を建立
末法流布の三大秘法の題目を、ほぼ弘め、同じく三大秘法の御本尊を建立されたことを述べられております。
それは、法華経の文からいえば、本化地涌の菩薩の上首・上行菩薩がなされるべきことであるが、凡夫僧である日蓮大聖人は、ご自身がその上行再誕であるという表現は避けて、その先駆けとして「先立て粗ひろめ」また「先作り顕はし奉る」といわれたのであります。この御文は前にあった、天台・伝教・妙楽等は、本化地涌でなかったために、題目を流布し御本尊をあらわすことはできなかった、といわれた文と比べ合わせてみれば、その元意は明瞭であります。
大聖人が、いま現実に題目を流布し、御本尊をあらわされているということは「先」「先立て」等と断られているにしても、資格なくしてできることではない。したがって、大聖人は法華経との関連でいえば、本化地涌の菩薩の上首・上行の再誕であり、今末法という時に出現して、この大法を建立されているのであります。
しかしながら、上行再誕というのみで、日蓮大聖人の本意を明らかにしたことにはならない。いまこの文に「本門寿量品の古仏たる釈迦仏・迹門宝塔品の時・涌出し給う多宝仏」云々とある御本尊の御図顕のもつ意味を知らなくてはなりません。
釈迦・多宝、更に久遠元初の無作三身如来である南無妙法蓮華経という“仏”の生命をあらわすためには、ご自身の内に、その“仏”の生命がなくてはならない。事実、日蓮大聖人ご自身「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ」(1124:11)と仰せられているのであります。人法一箇の御本尊であるがゆえに、人法一体の御本尊をご図顕されたのであります。
そこに、大聖人の「内証 内なる悟り」がある「日蓮をこそ・にくむとも内証には・いかが及ばん」とは、日本国の上下万人が、どのように大聖人を憎み、迫害を加えようとも、末法御本仏としての、このご境涯は、微動だにされるものではないということなのであります。
本文
さればかかる日蓮を此の嶋まで遠流しける罪・無量劫にもきへぬべしとも覚へず、譬喩品に云く「若し其の罪を説かば劫を窮むるも尽きず」とは是なり、又日蓮を供養し又日蓮が弟子檀那となり給う事、其の功徳をば仏の智慧にても・はかり尽し給うべからず、経に云く「仏の智慧を以て籌量するも多少其の辺を得ず」と云へり、
現代語訳
それゆえに、このような日蓮を佐渡の島まで遠流した罪は無量劫を経ても消えるとはおもわれない。法華経譬喩品第三には「もし法華経誹謗の罪を説くならば、劫のあらんかぎりを説いても説きつくすことはできない」と説かれているのはこのことである。また日蓮を供養し、また日蓮の弟子檀那となられたその功徳は仏の智慧によっても量り尽くすことはできない」と説かれている。
講義
日蓮大聖人を憎み、迫害する罪の大きさと、大聖人を供養し、その弟子檀那となる者の功徳の大きさを示されているわけでありますが、このことは、とりもなおさず、久遠元初の仏であり、末法御本仏であるとの内証を示されているのであります。
譬喩品の文は「斯の経を謗ぜん者、若し其の罪を説かんに劫を窮むとも尽きじ」とある文であります。また、功徳の依文とされているほうは、薬王品の「若し人、此の法華経を聞くことを得て、若しは自らも書き、若しは人をして書かしめん。所得の功徳、仏の智慧を以って多少を籌量すとも、その辺を得じ」との文であります。
本文
地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり、地涌の菩薩の数にもや入りなまし、若し日蓮地涌の菩薩の数に入らば豈に日蓮が弟子檀那・地涌の流類に非ずや、経に云く「能く竊かに一人の為めに法華経の乃至一句を説かば当に知るべし是の人は則ち如来の使・如来の所遣として如来の事を行ずるなり」と、豈に別人の事を説き給うならんや、
現代語訳
地涌の菩薩の先駆けは日蓮一人である。あるいは、地涌の菩薩の数に入っているかもしれない。もし、日蓮が地涌の菩薩の数に入っているならば、日蓮が弟子檀那は地涌の流類ということになろう。法華経法師品第十の「よくひそかに一人のためにでも、法華経そしてその一句だけでも説くならば、まさにこの人は如来の使いであり、如来から遣わされて如来の振る舞いを行ずるものと知るべきである」との文は、だれか他の人のことを説かれたものではない。
講義
弘教の人は仏の久遠の弟子
地涌の菩薩の先駆けとして出現したのは、日蓮大聖人ただ一人である。あるいは地涌の菩薩の中に入っているかもしれない、もし大聖人が地涌の菩薩の数に入っているならば、師弟不二の原理からいって、大聖人の弟子檀那も、地涌の流類すなわち眷属でないわけがない、と仰せくださっているのであります。地涌の菩薩とは人からいわれて動くものではない。宇宙本然の妙法で生きるがゆえに、大地から草木が本然的に成長していくように、自ら題目をあげ、社会のために、平和のために、貢献していく生命なのであります。
そして、大聖人の弟子が地涌の菩薩であるとの証拠としてあげられているのは、法師品の文であります。多少、前後を補って申し上げれば「若し善男子、善女人、我が滅度の後、能く竊かに一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かん、当に知るべし、是の人は即ち如来の使いなり、如来の所遣として如来の事を行ずるなり、何に況んや、大衆の中に於いて、広く人の為に説かんをや」との文であります。
すでに申し上げたように、法師品は、仏滅後の弘通を勧めて説かれたものであります。この文は、まさに、これを勧めて述べた言葉なのであります。そして、この釈尊の言葉にこたえて迹化の菩薩たちが名乗り出たけれども結局、断られ、地涌の菩薩がこれにこたえる資格、力ありとして付嘱を受けられたのであります。
したがって、末法今時、この法師品の文のごとく、妙法を説き、広宣流布に戦っている人は、地涌の菩薩である、また、そうでなければならないことになります。「日蓮が弟子檀那は、その通りに実践しているではないか」こう仰せられているのであります。
さらに一歩掘り下げて「如来の使い・如来の所遣として、如来の事を行ず」ということがすでに仏と同格であり無作三身の仏であるとの証文であります。
そのことを明らかにするために“使い”ということについて一言いっておきたい。
一般的にいっても“使い”とは、使いを出した人の言葉を代弁し、同じ資格において降る舞うという意義をもっております。例えば国と国とが平和条約を結ぶ場合、お互いに使いを出します。双方の合意によって条約文が出来上がると、署名が行われる。そこに記されるのは使いの個人名であっても、それは一国の国民の総意を含んでいるのであります。
仏法においても、同じであります。妙法を説き弘通していく人は、仏の使いであり、仏と同じ資格において行動していることになる。故に、法華経では、仏の久遠の弟子にのみ妙法弘通の使命を託したのである。
このことを、逆にいうならば、末法今時に妙法を弘めている人、すなわち折伏している人は、仏の久遠の弟子である、ということになります。恩師、戸田先生は、自ら「末法折伏の師匠である」と宣言されて、創価学会は折伏の団体であると定義されました。この創価学会の誇りある大精神と、仏の久遠の弟子としての生涯を貫いていっていただきたいことを、心よりお願い申し上げるものであります。
なお「能く竊かに一人の為めに」が、こっそりと説くことをすすめたという意味ではなく、たとい、そのような弘め方であっても、ということであり、望ましい、より偉大な実践の姿が、堂々と説いていくことにあることは、法師品の文から明らかであります。
時代により、また環境によって、公に実践し、弘教することができない場合があります。しかし、常に折伏弘教の精神を忘れず、随力弘通していく人こそ、真の地涌の菩薩であり、御本仏・日蓮大聖人の本眷族であることを、強く確信していっていただきたいのであります。
本文
されば余りに人の我をほむる時は如何様にもなりたき意の出来し候なり、是ほむる処の言よりをこり候ぞかし、末法に生れて法華経を弘めん行者は、三類の敵人有つて流罪死罪に及ばん、然れどもたえて弘めん者をば衣を以て釈迦仏をほひ給うべきぞ、諸天は供養をいたすべきぞ・かたにかけせなかにをふべきぞ・大善根の者にてあるぞ・一切衆生のためには大導師にてあるべしと・釈迦仏多宝仏・十方の諸仏・菩薩・天神七代・地神五代の神神・鬼子母神・十羅刹女・四大天王・梵天・帝釈・閻魔法王・水神・風神・山神・海神・大日如来・普賢・文殊・日月等の諸尊たちにほめられ奉る間、無量の大難をも堪忍して候なり、ほめられぬれば我が身の損ずるをも・かへりみず、そしられぬる時は又我が身のやぶるるをも・しらず、ふるまふ事は凡夫のことはざなり。
現代語訳
人からたいへんよく自分がほめられるならば、どのような困難でも耐えていこうとする心が出てくるものである。これはほめる言葉から起きてくるものである。すなわち「末法に生まれて法華経を弘める行者には、三類の強敵が起きて、流罪・死罪にまで及ぶであろう。しかれども、この難に耐えて法華経を弘める者を、釈迦仏は衣をもって覆ってくださり、諸天は供養をし、あるいは肩に担い、背に負うて守るであろう。その行者は大善根の者であり、一切衆生のためには大導師である」と、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・菩薩・天神七代・地神五代の神々・鬼子母神・十羅刹女・四大天王・梵天・帝釈・閻魔法王・水神・風神・山神・海神・大日如来・普賢菩薩・文殊師利菩薩・日月天などの諸尊にほめたたえられるので、日蓮は、無量の大難をも耐え忍んでいるのである。
ほめられれば我が身の損ずることもかえりみず、そしられるときはまた我が身の破滅することにも気づかずに振る舞うのが凡夫の常である。
講義
“覚悟の人”を諸天も讃嘆
日蓮大聖人が凡夫のお立場で流罪・死罪等の大難に遭いながら、それをものともせず今日まで弘教に励んでこられたのは、なぜであったかを述べられたところであります。
これは、ひとことであえば、法華経で、釈迦・多宝以下、仏・菩薩・諸天らが、最大限の言葉で、末法に法華経を弘める者を讃嘆してくれているからであるというのであります。別な言い方をすれば、一切法華経に身を任せたということであります。
釈迦・多宝以下がほめた言葉とは「末法に生れて法華経を弘めん行者は」から「一切衆生のためには大導師にてあるべし」までです。区切って拝読していただければ、分かりやすいと思います。
この言葉のなかで「衣を以て釈迦仏をほひ給うべきぞ」とは、真の仏弟子としての資格を与え、更にいえば、仏の子として大慈悲をもって、包容してくださるということであります。諸天が供養し、かたにかけ、背中に負ってくれるとは、周囲の条件についてあらわれてくる変化や功徳であります。「大善根」とは福運に恵まれることであり、「一切衆生のためには大導師にてあるべし」とは、智慧が豊かになる。社会のなかにあって、真実の民衆の指導者・智慧者になっていくであろうということであります。
これは、折伏の功徳を仰せられた御文と拝すべきであります。このあと「釈迦仏多宝仏・十方の諸仏・菩薩・天神七代・地神五代の神神・鬼子母神・十羅刹女・四大天王・梵天・帝釈・閻魔法王・水神・風神・山神・海神・大日如来・普賢・文殊・日月等の諸尊たち」がほめる、とあります。
これについて、仏法論の上から少々申し上げたい。
まず、一言にしていえば、妙法を持つ人は宇宙であれ、自然であれ、人であれ、すべてその人を守り動く運行、リズムになるということであります「釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏」のおほめがあるとは、全宇宙の仏界、諸仏が法華経の行者を守るということであります。まことに頼もしいかぎりであります。その人の行くところ、すべて妙法のリズムにかなった人間革命の世界が開かれていくのであります。またすべての人々が、その人の仏界の生命に感応して心の底から味方となり、呼吸を合わせて、見事なハーモニーを奏でていくことができるということでもあります。
なかでも「釈迦仏」とは、自身の生命に仏智が湧現することを意味しております。また「多宝仏」とは客観的世界で、その人の生活、環境に、福運に満ちた実証が示されていく姿をあらわしております。「十方の諸仏」とは、周りの一切の人々の仏界をあらわしております。
また「菩薩とは、自然・社会を含めた慈悲の働きがあらわれ、その人を守るということです。その人自身の生命にそなわった、人々を救い楽しませてゆく菩薩界の一切の力があらわれることはもちろんのこと、慈悲を根底と社会的指導者たちも賛同をし、その人のもとに喜んで仕えていくということであります。
「天神七代」とは国常立尊・国狭槌尊・豊斟渟尊の独化神三代と、夫婦一組で一代である泥土煑尊・沙土煑尊、大戸之道尊・大苫辺尊、面足尊・惶根尊、伊弉諾尊・伊弉冉尊の愚生神四代です。
「地神五代」とは、天照大神・天忍穂耳尊・天津彦彦瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・鷀草葺不合尊・盧鳥茲鳥草葺不合尊の五柱の神です。
これらは人王以前の神々とされていますが、それらの天地の神々も、すべてが諸天善神として働くとの仰せです。
「天も知る、地も知る、人も知る」といにしえの言葉にも通ずる内容であります。
一切の生命活動が如説の行者を守護
「鬼子母神・十羅刹女」は有名であり、説明の必要もないでしょうが、法華経以前は悪鬼であったものが、法華経では善鬼して連なっています。善の生命を食う働きが、悪の生命を食って善を助ける働きへと転じているのであります。したがって、妙法を持った人々にとっては、不幸を滅する働きとしてあらわれてくる。「四大天王・梵天・帝釈・閻魔法王」等は、すべて、宇宙・自然・社会の秩序を守る働きに名づけられたものです。社会でいえば、いわゆる世間の指導者、ないしは、その人たちの持っている力を指しています。
「水神・風神・山神・海神」等は、自然の恵み、働きです。水にも、風にもそれぞれの独自の使命と力があります。山には山の生命があり、海には海の生命があります。そして、それらもすべて、妙法の生命活動としてのあらわれであります。したがって、それらもすべて、妙法を行ずる人を守る方向へ、守る方向へとはたらいていく、風強く、波高き日々であっても、妙法を持った人が厳然と守られていくことは、数々の体験が証明するところであります。
また「大日如来」とは、法華経に座した大日如来であり、いわば生命力の一分の表現でありましょう。「普賢」は学理、「文殊」は智慧をあらわしております。学理と智慧の光にもつつまれていくのです。「日月」は日天月天であり、太陽の生命力、月の働きであります。日天は、万物を成長させ、人々に燃える生命力を与えています。月天は、万物の安らぎの象徴であり、人々に、安定と静かな光を投げかけます。
このようにして、一切の生命活動、森羅万象が、妙法を持つ人を支え、守り、包容し、また手足となって働いていくとのおおせであります。なお「無量の大難をも勘忍して候なり」とありますが「堪忍」とは堪え忍ぶことです。娑婆世界を堪忍世界と訳します。この娑婆世界にあって何かをなそうとすれば、堪え忍ばなければならない。それほど大変な世界であります。
したがって、同じく堪え忍ぶのであれば、妙法流布のための堪忍であっていただきたい。一時はそれこそ大変な、生命がけの時もあるかもしれない。しかし、妙法の堪忍であれば、必ず諸仏・諸天の加護があらわれるのは、絶対に間違いないというのが、御本仏日蓮大聖人の悟りの御説法なのであります。
また「ほめられぬれば我が身の損ずるをも・かへりみず、そしられぬる時は又我が身のやぶるるをも・しらず、ふるまふ事は凡夫のことはざなり」との御文は、凡夫というものの人情の機敏を実に鋭くとらえられております。
ほめられても、そしられても、我が身を傷つけ、痛めていくのは、凡夫の習いであるようであります。ほめられて一生懸命になるのは「我が身の損ずるをも・かへりみず」の方であります。これは、骨身を惜しまない気持ちになるということであります。「我が身のやぶるるをも・しらず」という方が、おろかの故に、そしられて自らを破壊いたらしめるということであります。
これを敷衍していけば、私どもの広宣流布という戦いにあっても、人を賛嘆し、その努力、功績を心からたたえていくことが、より以上の勇気と自信をもって前進していくために、忘れてはならない大事な、一つのポイントであるということといえるでありましょう。
本文
いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、
現代語訳
このたび、信心をしたからにはどんなことがあっても、法華経の行者として生き抜き、日蓮が一門となりとおしなさい。
講義
貫こう「日蓮が一門」の生涯
この段から以下は弟子の信仰のあり方、化儀の広宣流布への方軌と実践方法を説かれています。まずここは「法華経の行者」「日蓮が一門」となり通しなさい根本的な決意を促されている。
あまりにも有名な御文であいます。成仏の要諦も、創価学会の根本精神も、この一文の中にあるといっても過言ではありません。
「いかにも今度・信心をいたして」とは、なんとしても、この一生涯、信心を貫きなさいということです。この「いかにも」という表現に、大聖人は万感の思いを託されているように思います。というのは、私どもは、無始以来、生死流転の回数もまた数えきれないほどであります。元品の無明におおわれた生死の流転は、闇中の遠征のごときものであります。
いま「妙法」に巡り合い、久遠の御本尊にお会いできたということは、これまでの間に包まれた生死流転を転換し、燦たる妙法の太陽の光明に照らされた、晴れわたった寂光土の空の下、美しい花の咲き乱れる楽園を常楽我常と遊戯しゆく“本有の生死”へと開く希有の機会なのであります。ゆえに「いかにも今度」といわれ、たとえなにがあっても、どんな事態に遭遇しても、この一生を信心しむいていくことを強調されているのです。どうか「いかにも今度」という一句を、深く胸におさめていただきたい。
「法華経の行者にてとをり」とは、一往“法”を中心にした立場であり「日蓮が一門となりとおし給うべし」は、再往“人”を中心にした立場であるとおおせられております。
別して「法華経の行者」とは、日蓮大聖人お一人であり、大聖人も御一身のために法華経は説かれたといっても過言ではないのです。
そして、大聖人お一人が法華経の一切を身に読み切られて正像2000年の釈迦仏法に区切りをつけ、末法万年の闇を晴らす御本仏と顕れられたのであります。
この御本仏日蓮大聖人の魂魄をとどめた御本尊を受持しきることが、私どもにとって「法華経の行者」としての実践を貫くことになるのです。しかし、再往その根底は、あくまで「日蓮が一門」という自覚でなくてはならない。そうでなければ、真実の「法華経の行者」でもない。
「日蓮が一門」の自覚に立つということは、具体的な私どもの実践に約して申し上げれば、わが同志の、広宣流布への異体同心の世界に生きることであります。なぜかならば、創価学会は、絶対に御本仏日蓮大聖人の生命に直結した広宣流布の団体であるからであります。三類・三障の厳しき日増しの現象をみても御書の通りなのであります。ゆえに「日蓮が一門となりとをす」とは、わが創価学会と運命をともにしていくことに通じていくのです。しかも、この「日蓮が一門」という根本が欠けては、たとえ御本尊を護持してもなんにもならないのです。生死一大事血脈抄」という重大な御書にも「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」(1338:09)とのおおせの通りであります。信心は即実践であります。ゆえに行躰即信心ともいわれている。
また、この「日蓮が一門となりとをす」の「なりとをす」ということが大事です。実はこれ自体が、即、成仏に通ずるからであります。
成仏というと、何か、特別な理想人格になるように思われがちですが、それは色相荘厳の釈迦仏法の範疇です。日蓮大聖人は、凡夫即御本仏であられるから、この仏法は偉大なのです。
そこに仏法の真実がある、ありのままの人間性の中に、偉大な光をはなつ仏法であるがゆえに、私どもはそれに連なっていくことができるのです。私たちにとって成仏とは、この世で最も尊い生命に人生を全うしきることが、即、仏の生命とあらわれるのです。さらにいえば、なにがあっても「日蓮が一門となりとをす」と決めきった人生そのものが、すでに仏界に住した生き方であります。
御書に「冬は必ず春となる」(1253:16)という有名な御文がありますが、この見地に立てば、冬即春であります。「必ず」という言葉に意味があります。「必ず」とはもうそのことは決まりきっているとの意であり、もう一歩深く読めば「即」と同じであります。
開目抄の「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ」(0232:01)の御文といい、また「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」(0234-07)の御文といい、すべて同じ意味であります。
また「日蓮が一門となりとをす」との御文に関連して、なぜ創価学会の信心に、偉大な功徳がるかということを申し上げたい。それは、仏法に「四力」という原理があります。いうまでもなく、信力・行力・仏力・法力の四つであります。
仏力・法力というのは、大聖人の仏法においては、ともに人法一箇で、御本尊の功力であります。この仏力・法力は、信力・行力によってあらわれるのであります。
ところで、初代牧口先生は、その生涯を死身弘法のために捧げられた。二代会長戸田先生も、死身弘法の偉大な信力・行力に立たれたのであります。
それゆえ、その福徳によって、御本尊の功力は、創価学会の信心の上に燦然と輝きわたっているのであります。その証拠が、世界的な生きた仏法中道の大教団に事実として建設されたことであります。
その意味でも、私どもは、この両先生に深く感謝申し上げなくてはならない。
本文
日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや、経に云く「我久遠より来かた是等の衆を教化す」とは是なり、末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり、
現代語訳
日蓮と同意であるならば地涌の菩薩であろうか。地涌の菩薩であると定まっていつならば、釈尊の久遠の弟子であるということをどうして疑うことができようか。法華経従地涌出品第十五に「これらの菩薩は、私が久遠の昔から教化してきたのである」と説かれているのはこのことである。末法において妙法蓮華経の五字を弘める者は男女の分け隔てをしてはならない。皆、地涌の菩薩が出現した人々でなければ唱えることのできない題目なのである。
講義
大聖人と同じ精神で折伏・弘教
「日蓮と同意」とは、大聖人と同じ心、同じ精神ということであります。「法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし」たとき、その身口意の三業によって、はじめて、御本仏日蓮大聖人と同意となることができるのであります。
これは師弟不二の原理でもあります。不二とは、而二不二の義で、一往は二である。すなわち師と弟子という立場の相違は厳然としてある。だが、再往、その奥底においては、不二、すなわち全く同じであり、等しいということであります。
この師弟不二が、仏法の師弟観の真髄なのであります。ゆえに、日蓮大聖人のお心をわが心とし、大聖人のご精神を自己の生命をかけた使命としていく「日蓮と同意」の人こそ真の日蓮大聖人の弟子であります。口先や形式などは、やがては、大聖人のお叱りを受けることでしょう。
上野殿御返事には「日蓮生れし時より・いまに一日片時も・こころやすき事はなし、此の法華経の題目を弘めんと思うばかりなり」(1558:02)とは、この大聖人と同じく、広宣流布の使命に立ち、責任を持っていく人こそ、地涌の菩薩であるという御文であります。そして、もし地涌の菩薩であることが決定的であるなら「釈尊久遠の弟子」であることも、また疑う余地はない。なぜかならば、法華経湧出品に、地涌の菩薩が出現したとき、驚いた弥勒菩薩の質問に答えて「我久遠より来かた是等の衆を教化す」すなわち、久遠の昔から教化してきた弟子でると述べているからであります。
この「釈尊久遠の弟子」の「釈尊」とは、一往は法華経本門の教主・釈尊でありますが、再往の辺を拝すれば、久遠元初の自受用報身如来であり、末法御本仏日蓮大聖人であります。日蓮大聖人は、久遠よりこのかた、私たちの地涌の菩薩を教化してこられたという意味です。以上のことを結論づければ、日蓮大聖人の生命と直結するならば、地涌の菩薩であることは決定的であり、それはそのまま日蓮大聖人の本眷属なのであります。
広布の責任に立てば仏の大生命が湧現
この御文を、現実社会において、真実に色読された方が、先師牧口先生であられ、恩師戸田先生であられた。
戸田先生は獄中において、自ら地涌の菩薩であり、御本仏日蓮大聖人の本眷属であるとの悟達に立たれた。この一瞬に、創価学会は、地涌の菩薩の集団となり、御本仏日蓮大聖人の本眷属の団体となりゆくことは決定づけられたと、私は確信しております。この戸田先生という偉大な人格を師として、不二の道を進む創価学会が、いかに尊い団体であるかはあまりにも明瞭であります。またこの大生命体に連なる人々に対して、いかばかり御本仏の称賛があることでしょうか。
何も憂えることもなければ、恐れることもありません。
さて、この「釈尊久遠の弟子」ということを生命論の上からいえば「釈尊」とは我が生命の内なる釈尊であり、南無妙法蓮華経如来であります。地涌の菩薩が、釈尊の久遠の弟子であるということは、上行・無辺行・浄行・安立行等の地涌の生命が奥底の南無妙法蓮華経如来という本源に根ざした働きであることをあらわしているのであります。
私は、いつも確信しています。それは、本当に、広布の大責任に立って悩み、苦しみ、戦うならば、南無妙法蓮華経のお命がわいてこないわけがない。さらには、当体義抄の「所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり、正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦.即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり、能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(0512-09)とあるごとく、また受持即観心の原理のごとく、大聖人生命がこんこんとわかないはずはない。と。たとえどんなに、だれにも頼れない、ただ一人決断しなければならない時でも、私は、この確信を貫いてきました。
日蓮大聖人のおおせは、寸分狂いなきことを私は、絶対に信じております。「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」
この末法の世に妙歩蓮華経、三大秘法の南無妙法蓮華経を弘める人が地涌の菩薩である、との仰せです。したがって、いかなる立場の人であれ、どのような境遇の人であれ、自らの使命のままに仏法弘通に挺身する人は、皆平等に最高の人生を歩んでいるのでありあす。仏法を「弘める」人こそ尊いのであります。経文に「当に起って遠く迎えて当に仏を敬うが如くすべし」とある通りであります。ゆえに、仏法弘通の経団である創価学会を睥睨したり、非難・中傷することは最も罪が重いといわなければならない。
「男女はきらふべからず」とは、いうまでもなく、男であろうと女性であろうと、等しく地涌の菩薩であるということにおいて、全く差別がないということであります。
男女の差別という問題は、社会的次元で、その役割と待遇の差別としてあらわれます。たしかに、男にしかできないとまではいかなくても、男に向いていて、女性向きでない仕事もありましょう。待遇は、その仕事に対して決定されるべきもので、男だから、女だからという理由で、差をつけられるべきものではありませんが、それを前提としたうえでの個人差は、当然あってもやむを得ないでありましょう。
しかし、もっとも根本的な問題は、人格の尊厳にかかわる次元で差別がつけられている場合に起こってくるものであります。そこに関係してくるのが、宗教のもっている男女観であります。過去の多くの宗教は、原始的宗教は別にして、共通して男性中心であったといわざるを得ない。キリスト教もイスラム教も、その神は男性であったと考えられている。仏教もまた爾前経を根本とした諸宗派は、男が中心であった、これらに対し、日蓮大聖人は「男女はきらふべからず」とおおせられ、妙法を弘める人はすべて、等しく地涌の菩薩であると断定されているのであります。
「皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」とは、いかに、題目を唱えることが難しいか、ということであります。地涌の菩薩でなければ、題目を唱えられないのです。
まず、人身を受けるということさえまれであります。人間についての、仏法上の一つの定義は「聖道正器」ということであります。人間であればこそ、聖道を歩んでいくことができるのであります。まさしく、宗教は、人間生命の核心であります。この。この確信を失えば人間溌剌たる生命の光を失い、硬直化し、石灰化するに違いない。
しかし、そのなかにあって、本当に偉大な宗教に遭遇することも、なかなか困難であります。私どもは、その意味で、まことに「唱えがたき題目」を唱えていることに感謝の気持ちが込み上げてきます。
ともに「地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」とは、たとえ、いかなることがあっても、「但南無妙法蓮華経たるべし」の御金言のままに、題目を唱えきっていくことであります。さらに、菩薩の本領は「誓願」ということにある。そして地涌の菩薩の誓願とは「法華弘通」にあります。ゆえに、心から周囲の人々を幸せにし切っていく「誓願」の唱題が大切です。厳しくいえば「誓願」なき唱題は、地涌の菩薩の唱題ではないのであります。
本文
日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし、
現代語訳
はじめは日蓮一人が南無妙法蓮華経と唱えたが、二人・三人・百人と次第に唱え伝えてきたのである。未来もまたそうであろう。これが地涌の義ではないだろうか。そればかりか広宣流布のときは日本中が一同に南無妙法蓮華経と唱えることは大地を的とするようなものである。
講義
広宣流布実現への大確信
妙法流布の方程式を示され、広宣流布の大確信を述べられた有名な御文です。
南無妙法蓮華経は、日蓮大聖人、まずお一人が唱えはじめられ、そこから、二人・三人・百人と「唱へつたふる」ようになった。未来においても同じ方程式である、とおおせであります。
この御文は、非常に深い意味が含められております。
一つは、この前の「皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」を受けて、総じては、題目を唱える人は、すべて地涌の菩薩であるけれども、その弘まっていく原理はまず一人が立ち上がって唱えはじめ、そこから二人・三人・百人と広がっていく。必ずそこには総・別があるということであります。
この別してのお一人が、いうまでもなく御在世においては、日蓮大聖人ご自身であります。しかし、それはご在世のみならず「未来も又しかるべし」と仰せであります。創価学会は、初代会長・牧口先生が、まずお一人、立ち上がられ、唱えはじめられたところから二人・三人と「唱えつたえ」約三千人になった。
戦後は、第二代会長・戸田先生が、東京の焼け野原に立って、一人、唱えはじめられ、そこから、二人・三人・百人と「唱えつたえ」て、現在の一千万以上にまでなったのであります。
私どもは、この別して一人、唱えはじめられた牧口先生・戸田先生の存在はもとより、その精神を正しく受け継いでいくことを忘れては絶対にならない。まず一人が唱えはじめ、そこから唱えつたえていくということは、その最初の一人の精神が脈脈と伝わっていかねばならないとのご指南でなくて、なんでありましょうか
ともかく、最初の一人が肝心なのです。それが一切の淵源となって広がっていく、というのは、広布の絶対の方程式と確信していただきたい。「新池殿御消息」にも「抑因果のことはりは華と果との如し、 千里の野の枯れたる草に 螢火の如くなる火を 一つ付けぬれば須臾に一草・二草・十・百・千万草につきわたりてもゆれば十町・二十町の草木.一時にやけつきぬ」(1435:03)とある通りです。
次に「唱へつたふる」とは化他であります。「唱え」とは自行であり「つたふ」とは化他であります。三大秘法抄に「末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(1022:14)といわれるように、自行と化他の両方を兼ねそなえた実践でなければ、大聖人門下の正しい在り方とはいえないことを知っていただきたい。
一人立って唱え伝うる人に
また「唱へつたふる」を自行・化他に分ける意義については、御義口伝に、次のように照応しているのであります。
「御義口伝に云く涌出の一品は悉く本化の菩薩の事なり、本化の菩薩の所作としては南無妙法蓮華経なり此れを唱と云うなり導とは日本国の一切衆生を霊山浄土へ引導する事なり」(0751:第一唱導之師の事:01)云云と。
「唱へ」は唱導の“唱”であり、「つたふ」は“導”に対応します。自ら唱えるとともに、これを一切の人々に伝え、導いていこうとする人こそ、地涌の菩薩といえるのであります。「未来も又しかるべし」いつの時代にあっても、絶対に変わらない根本原理が、これなのであります。
どうか、日蓮大聖人の御生命に直結し、牧口先生・戸田先生のご精神を継承した皆さん方も、おのおのの立場で、一人立って「唱えはじめ」「唱えつたうる」真実の地涌の菩薩であっていただきたい。
「一人立つ」とは、自分の家庭・職場・地域等、自分自身がかかわっている一切の世界で妙法の広宣流布に全責任をもっていくことです。最も身近な、そして、地味な活躍に真の仏法があり、広布があることを忘れないでください。御本仏・日蓮大聖人の御使いとして、今ここに、自分はいるのだと自覚することです。
どのような立場であれ、一人一人が自分自身だけの、他のだれとも交代することのできない人間関係をもっております。家族・職場、さまざまな友人関係等、すべてについて、必ずその人独自の世界を形づくっている。それが、妙法のうえからみれば、自身の本国土であり、自身の眷属であります。そこに、妙法流布の責任と資格をもっているのは、その人一人だけであるということです。ゆえに、一人立つという原理が大事なのであります。そして、おのおのの世界・本国土にあって、そこから立ち上がっていくのが「地涌の義」であります。
なお、この御文は、広宣流布は、必ず、民衆の大地から盛り上がって成就していくことを述べられたものです。広宣流布は、決して権力によるものではない。「未来も又しかるべし」の強いご確信の金言を深く拝すべきであります。
「剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」大地を的とするとは、絶対に外れるわけがない。ということです。したがって、この御文は、必ず広宣流布し、日本のあらゆる人々が、日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経を唱える時がくるとの御確信であり、予言であります。「日本一同に」とは、あらゆる仕事にたずさわる人々ということです。
政治家も、教育者も、あらゆる職業の人々、家庭の主婦、学生も、すべての人々が妙法を信受し、仏法哲学を研鑽して、人生に価値を創造し、社会に貢献していくようになる。この総体革命の姿を「日本一同に」といわれているのであります。
ただし「日本一同に」といわれたからといって、日本だけに限って他の国へは弘めないということではありません。それは「一閻浮提に広宣流布して」と、法華経の文にも、大聖人の諸御書にも述べられていることから、明らかであります。
しかし、強い意識をもって広宣流布のために取り組んでいく対象は「日本」であるという御教示が、とくに「日本一同に」といわれるお言葉のなかに含まれているとも考えられます。その意味で、私どもとしては、日本の広宣流布こそ、世界の平和と人類の幸福のために、妙法の力が利益していく源泉であると確信していくべきであります。
本文
ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし、釈迦仏多宝仏・十方の諸仏・菩薩・虚空にして二仏うなづき合い、定めさせ給いしは別の事には非ず、唯ひとへに末法の令法久住の故なり、既に多宝仏は半座を分けて釈迦如来に奉り給いし時、妙法蓮華経の旛をさし顕し、釈迦・多宝の二仏大将としてさだめ給いし事あに・いつはりなるべきや、併ら我等衆生を仏になさんとの御談合なり。
現代語訳
ともかくも法華経に名をたて身をおいていきなさい。釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・菩薩・虚空会において釈迦仏・多宝仏の二仏がうなずきあい、定められたことは別のことではない。ただひとえに末法の令法久住のためである。すでに多宝仏は半座を分けて釈迦如来に譲られたとき、妙法蓮華経の旛をさしあらわして、釈迦仏・多宝仏の二仏が大将として定められたことがどうして偽りであろうか。それは我々衆生を仏にしようとの御談合である。
講義
広布革命に永遠の誇り
信心の究極の姿勢は、法華経に名を立て、身をまかせることです。
「ともかくも」というお言葉に、一切を究められた日蓮大聖人の、無限の慈悲を感じます。このご心境は、痛いほど胸に迫ってくるのです。凡夫である私どもに対し、浅智や愚かさのために、退転していくことを強くいましめられているのです。
これに通ずる内容であろうが、戸田先生の「私の悩み」と題して、次のように書かれたことがあった。
「この私の悩みは、信心に強く立つものが少ないことである。また、初信の者が、大御本尊の威徳を信ぜずに、退転することである。これらの者は、なんと浅はかな者であろうか。清水のごとく、こんこんとわき出る功徳の味を、味わいきれずに、死んでしまうのである。なんと、かわいそうなことではないか。私の胸のなかには、キリで、もみこまれる思いで一杯である」と。
少々の人生の荒波に、敗北しゆくほど悲しむべきことはない。現代的にいえば、月へ行くにも軌道がある。その軌道をふみはずしたならば、永久に帰ってこられないのです。同じく、生命と宇宙の根本軌道というものがある。それをふみはずせば、永劫に闇の流転となってしまう。「ともかく」私の言っていることを信じて、法華経に身をまかせなさいとのご心境が、この「ともかく」の文字ではないでしょうか。
「法華経に名を立てる」とは、この妙法の広宣流布に生きることを、何よりの誇りとしていくことであります。それぞれの仕事において名を立て、信頼される人になっていくことは、もとより大事であります。だが、永遠の生命観に立った場合、最も根本的かつ永続的な栄誉とは、仏法の広布のために、どれだけの仕事をし、貢献したか、ということです。その栄誉のみが、時とともに永遠に輝いていくのです。
「法華経に身をまかせる」とは、わが人生の究極の依処を御本尊におくということです。それは具体的には、日々の勤行、広宣流布のための活動を実践しぬいていくことです。「法華経に身をまかせ」た人生ほど強く、偉大なものではない、宇宙大な法理の力の上に、わが人生をおいていくことになるからです。
仏法は“一人”のための哲理
なぜ「法華経に名をたて身をまかせ」るべきか、それを次の「釈迦仏多宝仏」以下に述べられております。
一言にしていえば、法華経の儀式と説法の目的は、末法の私どものためである、ということです。でなければ、仏法は空論になり、観念の世界の遊戯に終わってしまう。仏法究極の哲理といえども、所詮、私ども一人一人のために説かれたものです。
法華経は一度、読んでいただけば分かりますが、在世衆生の代表である声聞への授記のあと、法師品・宝搭品以下は、釈迦滅後の弘教をだれがするのかを主テーマに展開されております。
すなわち、宝搭品・提婆品での釈尊の諌暁 よびかけに応じて、勧持品・安楽行品で迹化の菩薩たちが名乗りをあげますが、湧出品で釈尊は「止みね善男子」と斥け、本化地涌の菩薩を召し出す。そして、この本化の菩薩についての弥勒菩薩たちの疑問に答えて、久遠成道の寿量の説法があり、神力品で本化への付嘱、嘱累品で総付嘱がおこなわれるのであります。
したがって、この一往の文上の流れでみれば、法師品のあとの宝搭品で多宝の塔があらわれ、釈迦・多宝の二仏並座のもとに行われた法華経の儀式は、地涌の菩薩に末法の妙法弘通の使命を託すためであったといえます。これが「唯ひとへに末法の令法久住の故なり」といわれている一往の義です。
これは、しかし、一往文上の辺であり、化儀の側面であります。再往文底から見れば、実はこのなかに、末法の衆生を成仏せしめるべき、末法流布の法体が明かされている。すなわち、家の設計図と家そのものとの関係のごとく、この法華経の二仏が多宝搭中に並座し、虚空会において「妙法蓮華経の旗を二仏が多宝搭中に並座し、虚空会において「妙法蓮華経の旗をさし顕し」「さだめ給」うた儀式が、“そのまま”三大秘法の御本尊のお姿をあらわしているのであります。この本文では「妙法蓮華経の旗」と言われているのがそれであります。
この御本尊こそ、末法に流布される法体であり、一切衆生を末法万年尽未来際にいたるまで即身成仏させる秘法であります。「末法の令法久住」の文の元意はここにあります。ゆえに「併ら我等衆生を仏になさんとの御談合なり」と仰せられているのであります。
すなわち、この御本尊こそ、八万法蔵の仏法の結論であり、法華経という宇宙根本の法理を事実のうえに作動させた当体であり、この大仏法のコースを歩んでいくならば、成仏は間違いないとわれているのです。
なお、御本尊の相貌に約していえば「妙法蓮華経の旗」とは、中央の「南無妙法蓮華経 日蓮」を指し「釈迦・多宝の二仏大将として」が、その「左右にしたためられている仏界の代表を意味しております。
本文
日蓮は其の座には住し候はねども経文を見候に・すこしもくもりなし、又其の座にもや・ありけん凡夫なれば過去をしらず、現在は見へて法華経の行者なり又未来は決定として当詣道場なるべし、過去をも是を以て推するに虚空会にもやありつらん、三世各別あるべからず、
現代語訳
日蓮はその座には居合わせなかったが、経文を見ると少しの曇りもなく明らかである。またその座にいたのかもしれないが、凡夫であるから過去のことは分からない。しかし現在は明らかに法華経の行者であるからには、また未来は決定して当詣道場となるであろう。過去のことをこの事をもって推するならば、虚空会に居合わせたのであろう。三世の生命が別のものであるわけがない。
講義
生命の姿表す「虚空会」
ここは、日蓮大聖人のお振る舞いが法華経に説かれている通りであり、したがって、未来は間違いなく仏であると、深いご確信を述べられたところであります。
示同凡夫のお立場ですから、この法華経の「虚空会」の儀式に、地涌の菩薩として、つらなっていたかどうか、という過去のことは分からない、ただ、経文を見れば、その時の様子はハッキリしているし、いまのご自分の振る舞いが「法華経の行者」として、地涌の菩薩の振る舞いであることも、だれ一人として否定できない事実の問題である。
したがって、このことから過去を推察するに「虚空会にもやありつらん」、 おそらくつらなっていたであろう、と仰せであります。
大聖人は、血脈抄あるいは、それに準ずるような御抄、たとえば三大秘法抄などにおいては、間違いなく霊山において付嘱を受けた、等と言われておりますが、一般の御書では、あくまで、客観的に論じられております。
過去にどうであったか、いということは、凡夫の知ることのできない問題であって、いたずらにそういう論議をすると、かえって神秘主義におちいり、誤解させてしまう。本抄のように、経文にあるかどうか、その照合から、過去を推察する、このいき方は、今日の科学や実証的な歴史学のとる方法と相通ずるものといえましょう。
「三世各別あるべからず」、過去と現在が、まったく無関係で、バラバラであるわけはない、ということです。「過去の因を知らんと欲せば、その現在の因を見よ」と、仏法は教えております。現在の、だれもが見ることのできる事実を根本として、そこから過去を知り、未来を知っていく これが仏法のいき方です。
日々の勤行・唱題のなかでの体得
その根底には、いかなる原因が、いかなる結果を生ずるかという、厳然たる法則性に対する透徹した眼がある。ゆえに、仏は三世を知っているとされているのである。決して神秘的な、超能力的なものではない。「仏法は道理なり」というご教示を深く胸に刻んでいただきたいものであります。
ここで、もう一つ申し上げておきたいのは虚空会の儀式ということです。経文の上では前にも述べたように、法華経の見宝搭品第十一から嘱累品第二十二まで、虚空に浮かんだ多宝搭中に釈迦・多宝の二仏が並座し、大衆も皆、虚空に在住して説法が行われたことをいいます。
だが、これは三千年前のインドで、現実に起こった事実であるということは、とうてい納得できない。大勢の人々がそのままで空中に浮かぶということ自体、あまりにも非現実的であるし、多宝の塔についても、高さ五百由旬、タテ、ヨコ二百五十由旬と記されている。五百由旬とは計算の仕方によっても違いますが、小さい方でとっても、地球の半径の長さになる。
では、法華経に説かれていることは、空想の産物であって、ただの作り事にすぎないかといえば、それは大きい誤りであります。これをどのように考えるべきか、という問題であります。
端的にいえば、釈尊が自ら悟ったところのものを説くのに、虚空会の儀式という形でしか表現することができなかったがゆえに、このような超現実的ともいえる形式をとったのであります。戸田先生が、法華経の荘厳な儀式をさして「釈迦己心の儀式である」と言われたのは、この意味であります。
虚空会の儀式が、釈尊の悟ったものをあらわしえいるということは、虚空会の儀式自体が仏の悟りの当体、すなわち、法体をあらわしているということであります。この仏の悟りの法体を、釈迦は虚空会の儀式としてあらわし、天台は一念三千の法理として示し、日蓮大聖人は、御本尊として、末代幼稚の凡夫が、即座に、受持できるようにしてくださったのであります。
したがって、一往、大聖人はここで釈迦の法華経について論じられているので、「過去をも是を以て推するに虚空会にもやありつらん」と仰せられておりますが、再往、その本義を拝すれば、御本尊を受持し、日々・勤行し、唱題していること自体、日々、虚空会につらなっているのであります。
さらに、生命論からいえば、わが生命そのものが虚空会であります。わが色心の作用を起こしている根源は、まさしく虚空であります。しかし、その虚空とは、たんなる“無”ではない。無限の創造性と力感に満ちみちた生命の場であります。
また、永遠の生命そのものが虚空会であります。霊鷲山会が、虚空会の儀式とあらわれたということは、まさしく、生命の永遠であることを、説こうとしたものです。
本文
此くの如く思ひつづけて候へば流人なれども喜悦はかりなしうれしきにも・なみだ・つらきにもなみだなり涙は善悪に通ずるものなり
現代語訳
このように思い続けていると、流人ではあるが喜悦は測り難いものである。うれしいことにも涙を落とし、辛いことにも涙をおとすものである。涙は善悪に通じているものである。
講義
御本仏の境涯を吐露
法華経を身をもって読みきられた御本仏の絶対的な境涯を吐露された御文であります。
まことに日蓮大聖人の御文は、名文であります。読むたびに、私たちの胸中に、慈父の響きと、広布の大情熱が込み上げてまいります。しかも大聖人の文章は、いわゆる机上に作られた美文ではない。文は生命なり、文は境涯なり としみじみ痛感させられるのであります。
あの極寒の地・佐渡において、地獄のどん底と思われるようなご生活にあって、なお全宇宙をも包むであろう境涯で、お手紙をおしたためになる心境は語るすべもないはずです。
いにしえの天平時代より、江戸時代にいたるまで、一千余年間にわたり、佐渡へ流罪された人は、無数でありましょう。そのすべては、悲哀と激憤と苦痛と忍従と 更には呻吟の声が大地に刻まれてきたといってよいでしょう。しかし、ただ一人、澄み切った秋の青空のごとく、また陽光を浴びた春の大海のごとく淡々たるご心境で「喜悦はかりなし」と叫ばれた人がいるでありましょうか。世にいう哲人・賢人・文人の人々も、ひとたび悲惨な生活におかれるや、天を仰いでうらみを隠し、地に伏して嘆きを深くしたのであります。だが、最も悲哀のなかにあっても、最も強く生き切ったその人格は、まさしく生命の革命劇を歴史の上に燦たる光をもってとどめたものといえると思います。
この大聖人のご心境を深くかみしめながら何回も何回も繰り返しながら拝読し、私たちは大聖人の叫びを胸中に響かせていこうではありませんか。
「此くの如く思ひつづけて候へば」とは、法華経が、詮ずるところ、日蓮大聖人お一人のために説かれたものであった、ということであります。あの荘厳な虚空会の儀式、釈迦・多宝の二仏並座・十方分身の諸仏の来集等々すべて「末法の令法久住の故」であり「我等衆生を仏になさんとの御談合」であった。すなわち一往は上行再誕・再往は本地久遠元初の自受用身としての日蓮大聖人のために行われた儀式であり、諸仏の来集であった。ゆえに、これほどうれしく、ありがたいことはない、とのお言葉なのです。「なみだ」とは、崇高なる大感情の表現です。抑えても抑えられない、また外的条件がどんなであれ、それを突き破って湧きあがってくる偉大な感情の噴出を「なみだ」によってあらわされているのであります。
「流人なれども」 いま、大聖人のお立場は、流人という、まことに厳しく、辛いものである。これは相対的次元の幸・不幸の現象です。その次元では、この世で最も不安定な、不幸な姿であられる。しかし、内心の胸中に確立された境涯、絶対的幸福の次元では、この世のだれよりも豊かで、広大かつ不動の幸福を満喫されているのであります。
大願に生き実践する中に絶対的幸福
この相対的幸福と絶体的幸福という点について一言申し上げたい。
それは、絶対的幸福とは相対的幸福の延長戦上にあるものではない。ということです。これをもう少し分かりやすくいいますと、経済的に豊かになり、健康で、周りの人々からも大事にされ、等々の、一切の幸福の条件が満足しているのが絶対的満足ではないということです。
相対的には、いくら不幸であっても、絶対的幸福を確立することは、ありうる。逆に、相対的な幸福の条件は、どんなに調っていても、絶対的幸福に程遠い人も少なくありません。具体的に幸福の条件をもっている人は、私どもの周囲をみれば、たくさんいるでしょう。仏法を信仰していない人で、私たちより幸せそうに見える人々がたくさんいるのは、この例です。相対的には不幸でも、絶対的幸福を確立した例が、いま、ここで述べられている大聖人の境涯なのです。相対的なものは、どこまでいっても相対的です。どんなに資産家であれ、有名人であれ、社会の変動によって、一夜にして貧乏のどん底に陥る場合も少なくありません。健康も、事故にあえば、一瞬にして重体となるでしょう、何もなくとも、次第に年をとってくれば、だれしも、さまざまな病気が出てくるものです。ゆえに、相対的幸福を形成しているものは自己と環境的条件との相関関係にすぎないのです。簡単な例でいえば、何かをたべたいという自己の欲望と、それに応対するご馳走が出てきたという環境的条件、このお互いの関係によって生ずるのが相対的幸福なのです。
これに対し、絶対的幸福とは、自分が心に決めた使命感、目的観と、それを実践しているという事実との間の関係で出てくるものであり、生活自体の充実感、満足感です。これは、有為天変する周りの条件で支配されるのでなく、自らの意思で決定できるのです。したがって絶対的となりうるのです。更に、これを掘り下げていえば、その自分の定めた目的観、使命感が、宇宙とともに不変常住の法に合致していることが、絶対的幸福の完璧なる要件であります。
したがって、無始以来、常住不変の妙法に直結し、広宣流布という自ら決めた目的観、すなわち、大願に生き、実践し抜く心にこそ、真実の絶対的幸福が築かれることを、どうか、皆さんは、強く確信してください。とともに、それこそ、人間として最も尊い生き方であることを、最大の誇りとしていっていただきたいのであります。
本文
彼の千人の阿羅漢・仏の事を思ひいでて涙をながし、ながしながら文殊師利菩薩は妙法蓮華経と唱へさせ給へば、千人の阿羅漢の中の阿難尊者は・なきながら如是我聞と答え給う、余の九百九十人はなくなみだを硯の水として、又如是我聞の上に妙法蓮華経とかきつけしなり、今日蓮もかくの如し、かかる身となるも妙法蓮華経の五字七字を弘むる故なり、釈迦仏・多宝仏・未来・日本国の一切衆生のために・とどめをき給ふ処の妙法蓮華経なりと、かくの如く我も聞きし故ぞかし、
現代語訳
釈尊滅後、釈尊の十大弟子の彼の千人の阿羅漢は、仏のことを思い出して涙を流し、涙を流しながら文殊師利菩薩が「妙法蓮華経」と唱えられると、千人の阿羅漢の中の阿難尊者はなきながら「如是我聞」と答えられたのである。余の九百九十人は、泣く涙を硯の水として、また如是我聞の上に「妙法蓮華経」と書きつけたのである。
今、日蓮も同じである。このような流人の身となったことも妙法蓮華経の五字七字を弘めたゆえであり、それは釈迦仏・多宝仏が未来の日本国の一切衆生のために留め置かれたところの妙法蓮華経であると、このように日蓮は聞いたのである。
講義
「如是我聞」は身読を誓った言葉
ここは、経典結集のありさまを述べられているところですが「如是我聞」ということについて申し上げたい。この言葉は、あらゆる経文の冒頭にあり、その経文の骨髄を表した題目を受けて述べられた言葉です。
「是くの如く我聞きき」と読みます。私は釈迦の説法をこのように聞いたという意味です。
文殊師利が妙法蓮華経と唱え、阿難が如是我聞と答え、他のすべての人が妙法蓮華経如是我聞と書きつけたということは、そこにいたすべての人々が、釈迦の説法の真髄は妙法蓮華経であり、妙法蓮華経を如是我聞したと一致して述べたということです。
この如是我聞ということは、ただ単に聞いたというような簡単な言葉ではない。もっとずっと強い主張がこめられています。天台は法華文句で「我聞とは能持の人」であると述べている。つまり「仏法の教えの真髄はこうだと私は確信する。したがって、この経文の通りに仏法を実践し、身をもってこの経文を証明していきます」といった決意が込められた言葉です。
日蓮大聖人も「釈迦仏・多宝仏・未来・日本国の一切衆生のために・とどめをき給ふ処の妙法蓮華経なり」と如是我聞されたと仰せられております。ゆえに妙法流布のために、種々の大難を受けて法華経を証明され、末法万年の一切衆生のために御本尊をお遺しくださったのです。
この大聖人の仏法を、私たちのためにとどめおかれた人間革命と世界平和の根本法であると如是我聞されたのが近代においては、正しく牧口初代会長であり、戸田第二代会長です。如是我聞されたが故に、広宣流布ために死なれ、生き抜かれたのであります。これこそ創価学会の真髄中の真髄であることを生命に刻み、染めていただきたいのであります。
更に、釈迦なきあと、文殊師利・阿難はじめ、弟子たちが涙をながして、仏の教えを繰り返し、涙をもって経文に記したということは、仏の大慈悲に対する無量の感慨を表しております。そして、この弟子の大感情が、仏法を未来へ流れ通わしめる原動力となったということでもあります。
大聖人もまた、釈迦・法華経に対する報恩感謝と、一切衆生の大慈悲の涙をもって、末法万年弘通の大白法を建立されたのです「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」(0329:03)と仰せられているのは、この意味であります。
私どももまた、御本仏日蓮大聖人が忍ばれた苦難に、心から報恩感謝を申し上げ、偉大な仏法に巡りあえた大歓喜をもって、仏法を語り、未来へ、全人類に流れ通わしめていこうではありませんか。
本文
現在の大難を思いつづくるにもなみだ、未来の成仏を思うて喜ぶにもなみだせきあへず、鳥と虫とはなけどもなみだをちず、日蓮は・なかねども・なみだひまなし、此のなみだ世間の事には非ず但偏に法華経の故なり、若しからば甘露のなみだとも云つべし、涅槃経には父母・兄弟・妻子・眷属にはかれて流すところの涙は四大海の水よりもををしといへども、仏法のためには一滴をも・こぼさずと見えたり、
現代語訳
現在の大難を思い続けるにも涙があふれ、未来の成仏を喜ぶにつけても涙が止まらないのである。
鳥と虫とは泣いても涙を落とすことはない。日蓮は泣かないが涙がひまないのである。しかしこの涙は世間の涙ではない。ただひとえに法華経のゆえの涙である。もしそうであるなら甘露の涙ともいえよう。
涅槃経には「父母・兄弟・妻子・眷属に別れて流すところの涙は四大海の水よりも多いが、仏法のためには一滴をもこぼさない」と説かれている。
講義
誇らかに大難即成仏の実践を
「現在の大難」とは、佐渡流罪です。一つにはつらい。しかし再往、この大難は法華経の行者として受けている大難である。「未来の成仏」は、現在こうして法華経の行者であることからも、絶対に間違いない。いずれにせよ、それを思うにつけ、涙がとめどなく溢れてくるとの仰せです。「現在の大難」が、即「未来の成仏」を決定づけるとの御金言です。深く味わうべきでありましょう。大難即成仏となるのです。われわれ人間革命の前途は、幾多の苦難の連続であるかもしれません。しかし、その苦難の戦いのなかに、即、成仏があることを知るべきであります。
ひるがえって、創価学会の歴史は大難の歴史でありました。ゆえに、如来の使いとしての、使命の座が決まったのです。今日、だれびとが法華経のゆえの大難を受けてきたでありましょうか。今や宗教界は、欺瞞と堕落と保身ばかりであるといってよい。ただ、この御金言を拝しただけでも、いかに創価学会が大聖人の生命をいまに呼吸している。仏意仏勅の団体であるかが明白であります。
御書にいわく「始中終すてずして大難を・とをす人・如来の使なり」(1182:四条金吾殿御返事:01)と。つまり大難を忍び、大難を乗り越えて戦う人は、如来と同じ資格をもっているとの御指南であります。この一節を拝するたびに、私の心は躍り、いやまして偉大なる使命感に燃え立つのであります。私どもは、革命をやっているのであります。宗教利用の遊戯ではない。真実に大聖人の仏法を証明できるかできないか 三世十方の諸仏・菩薩の照覧のもとに、この宇宙に彌漫する魔との決戦を行っている。そこには、いささかの怠惰も後退も許されない。これからどうか、この仏勅の御言葉のままに、何ものにもだまされず、紛動されずに、私とともに朗らかに、凛々しく、この決戦譜を我が楽譜にしながら、永遠の歴史をつくりあげてください。
涙は、奥深い心の思いを表すものです、この一つを取ってみましても、日蓮大聖人がどれほど甚深無量の思いで一瞬一瞬を過ごしておられたかが推察されるのであります。
「鳥と虫とはなけどもなみだをちず」鳥や虫は、さまざまな音色で鳴き、その幾種類は泣き声で有名です。しかし、そこには鳥自身・虫自身の深い思いといったものはない。「日蓮は・なかねども・なみだひまなし」大変、有名な御文ですが、この一節こそ、御本仏日蓮大聖人の大慈悲を表しているところです。
「此のなみだは世間の事には非ず但偏に法華経のゆえなり」と述べられていますが、日蓮大聖人のなみだは、つらいとか、苦しい、悲しいといった世間のことで流す涙ではない。ただ法華経を流布して末法万年の一切衆生を救おうとして流すなみだである。「若ししからば甘露の涙とも云つべし」甘露とは、中国古代の伝説で、理想的な世の中で天から降らせる甘い露といわれ、そこから、あらゆる人間の苦悩をいやし、不老不死をもたらすとされています。日蓮大聖人の流される涙が三大秘法の大御本尊と結晶し、人々の生命をうるおし、悩みを除き不老不死の生命を与えてくださっていることは、私どもが身をもって知っている事実であります。
涅槃経の文は、三世の生命観のうえから、我々が永遠の生命の流転のなかにあって、世間のことでは、いやというほど涙を流すけれども、仏法ゆえに涙を流したことは一度もないというのです。これは仏法に巡りあうことがいかにむずかしいか、たまたま巡りあっても、真実の大信仰を起こす人が、いかにまれであるかを述べたものです。
日蓮大聖人の御一生は、仏法ゆえの涙の連続であられた。私どもも、仏法のために涙する尊い一生を送ろうではありませんか。
本文
法華経の行者となる事は過去の宿習なり、同じ草木なれども仏とつくらるるは宿縁なるべし、仏なりとも権仏となるは又宿業なるべし。
現代語訳
法華経の行者となることは過去の宿縁である。同じ草木であっても権仏となるのはまた宿業なのである。
講義
いまこうして法華経の行者、実践者になったということは、今世において、たまたま法華経に巡りあったといった浅い縁ではない。過去世において法華経を行じていたが故に、その宿習によって、今また法華経の行者になっているのだと仰せです。
法華経の行者となるは過去の宿習
例えば、非情の草木であっても「仏とつくらるる」、御本尊とつくられる草木もある。牢獄の格子となる草木もある。宿縁なりと表現されたのは、草木の場合、自ら意識し、働きかけることはありません。
どういう人に巡り会うかという、それ自体に宿した縁によって、何になるか、つくられるかという、それぞれの立場を表してくるのです。
すべて、過去・現在・未来にわたる因果の理法で、一つの結果には、必ずそれをもたらす原因がある。同じ仏といっても、小乗教の仏もあり、権大乗経の仏もあるというように、皆、使命が違う。仏としての力が違う。これも全部、宿業、すなわち過去世における行為によってもたらされたものであるということです。
私どもは、今、このように日蓮大聖人の本眷属として、南無妙法蓮華経の広宣流布に励んでいます。たとえば、淡雪は太陽の光にたちまち解けてしまう。蜃気楼もまた、すぐに消え去るでありましょう。根無し草の波の間に間にただよう姿も、あまりにも不安定であります。有為転変の無常の人生のなかに、埋没しゆく生き方は、なんと弱く、幻のごとく、はかないものでありましょうか。
有名の二字に酔いしれた人の、ひとたび名聞の皮がはがれたあとのみじめな姿、権力の座から一転して脱落していった人のなんと小さな、一瞬の“修羅のおごり”のごとき姿などを見るたびに、その根の浅さ、底の浅さがあまりにも悲しい。これらの有為転変の、無常の諸法の底流を流れる、妙法の淵源に、我が身をすえた人生こそ、最も光輝に包まれたものである、と確信すべきでありましょう。
我が本地は地涌の菩薩なり、との自覚に立たれた戸田先生の叫びのなかに、無量の恩師の思いが、私の胸にこだましてくるのである。
私どももまた、こうした自身の使命、本地に目覚めれば、無限の力がわいてくるはずです。私が頂戴した戸田先生のお歌に「古の奇しき縁や萌え出でて咲けや雄々しく大和桜と」という一首があります。今日の創価学会を築いてきた先輩たちは、皆「古の奇しき縁」を強く自覚して戦ってこられました。
皆さんも、今こうして、地涌の創価の一員として戦っていくことは、過去の宿習であると決めて、自己の使命を果たすため、出世の本懐をとげるために、しっかりと戦ってください。そこにのみ、所願満足の人生があることを確信していただきたい。
本文
此文には日蓮が大事の法門ども・かきて候ぞ、よくよく見ほどかせ給へ・意得させ給うべし、一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ、あひかまへて・あひかまへて・信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給うべし、行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし、南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経、恐恐謹言。
五月十七日 日蓮花押
現代語訳
この手紙には日蓮が大事な法門を書いておいた。よくよく読んで理解し、肝に銘じていきなさい。一閻浮提第一の御本尊を信じていきなさい。あひかまへえて・あひかまえて信心を強くして釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏の三仏の守護をうけていきなさい。
行学の二道を励んでいきなさい。行学が絶えてしまえば仏法ではないのである。我も行い、人をも教化していきなさい。行学は信心より起きてくるのである。力があるならば一文一句であっても人に語っていきなさい。南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経、恐恐謹言。
五月十七日 日蓮花押
講義
「行」「学」の中に仏法
「日蓮が大事の法門」ということについては、講義の最初で述べた通りです。仏法の肝要であり、末法流布の大法は何かということ、大聖人が末法の御本仏であること、更に大聖人の弟子の信心の在り方はいかにあるべきか等、まさしく大聖人の仏法の大事が凝縮されております。ゆえに「よくよく見ほどかせ給へ・心得させ給うべし」と念を押されているのです。
「よくよく見ほどかせ給へ」とは、深く理解していきなさいということです。「心得させ給うべし」とは、生命に刻んで、この御書通りの振る舞い、実践をしていきなさいとの御教示です。「一閻浮提第一の御本尊」です。大聖人の仏法が一閻浮提第一であり、大御本尊が、その肝要中の肝要であることは、絶対に間違いありません。あとは我々の信心です。ゆえに「あひかまへ・あひかまへて・信心つよく候て」です。
信心は成り行きで、いつか深まってくるものではない。「あひかまへて」とは、発心をしなさいということです。何があろうとも、よし、これを転期に御本尊根本に一歩前進していこうという、勇敢な信心が大切です。その信心のあるところ、釈迦・多宝・十方の諸仏の守護が、厳然と働きを表してくるのです。
自身にあっては、仏界の湧現という最も根底的な生命の変革がなされるというのが、釈迦仏の守護にあたります。功徳に満ちあふれた生活の実証が多宝如来の守護です。十方の諸仏の守護とは、周囲の人々が正法に目覚め、相互に尊敬しあっていく理想的な人間共和の社会が出現するということです。
生きよう折伏弘教の尊い生涯
「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず」以下は、しっかり暗記していただきたい。この御文の「行学」ということについては、さまざまな機会に申し上げてきました。それでここでは、ただ一点だけ申し上げておきます。
それは「行学たへなば仏法はあるべからず」ということです。仏法は行学のなかにある。行学の実践をする人間の振る舞いのなかにあるということです。経文や、書物や、文字のなかにあるのではない。お寺や建物の中にあるのでもない。仏法は、御書を学び、大聖人の教え通りに実践する一人一人の生命のなかに表れるのです。その仏法の大運動を展開している創価学会の、人間と人間、信心と信心の練摩向上の組織のなかにこそ、現実における仏法直結の脈搏があることを知らねばなりません。
「我もいたし人をも教化候へ」自行化他の信心です。自分だけ信心していればよいというのは、大聖人の仏法の本格派の実践者ではない。自分も幸福になり、人をも幸福にしていくのです。
「行学は信心よりをこるべく候」行学の基となるのは信心です。逆にいえば、信心は必ず行学と表れる。この信・行・学の三つが、創価学会の基本路線であることは、総会でも述べた通りです。
「力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」随力演説で、自分の境遇で、自分の全力を出して折伏し、一文一句でも、仏法を語っていきなさいということです。