下山御消息(第十二段第三)

 建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基

このことは、ただ釈迦一仏の仰せなりとも、外道にあらずば疑うべきにてはあらねども、已今当の諸経の説に色をかえて重きことをあらわさんがために、宝浄世界の多宝如来は、自らはるばる来給いて証人とならせ給う。釈迦如来の先判たる大日経・阿弥陀経・念仏等を堅く執して後の法華経へ入らざらん人々は入阿鼻獄は一定なりと証明し、また阿弥陀仏等の十方の諸仏は、各々の国々を捨てて霊山・虚空会に詣で給い、宝樹下に坐して広長舌を出だし大梵天に付け給うこと、無量無辺の虹の虚空に立ちたらんがごとし。
心は、四十余年の中の観経・阿弥陀経・悲華経等に、法蔵比丘等の諸の菩薩、四十八願等を発して凡夫を九品の浄土へ来迎せんと説くことは、しばらく法華経已前のやすめ言なり。実には、彼々の経々の文のごとく十方西方への来迎はあるべからず。実とおもうことなかれ。釈迦仏の今説き給うがごとし。実には、釈迦・多宝・十方の諸仏、寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字を信ぜしめんがためなりと出だし給う広長舌なり。我らと釈迦仏とは同じ程の仏なり。釈迦仏は天月のごとし、我らは水中の影の月なり。釈迦仏の本土は実には娑婆世界なり。天月動き給わずば、我らもうつるべからず。この土に居住して法華経の行者を守護せんこと、臣下が主上を仰ぎ奉らんがごとく、父母の一子を愛するがごとくならんと出だし給う舌なり。

現代語訳

このことは、ただ釈尊一仏の仰せであっても、外道でなければ疑うべきではないけれども、已今当の諸経に説かれていることよりもなおいっそう重要であることを示さんがために、宝浄世界の多宝如来が自らはるばる霊鷲山まで来られて釈尊の証人となられたのです。釈迦如来の先判にあたる大日経や阿弥陀経・念仏等を堅く執着して、後伴にあたる法華経へ入ろうとしない人々は必ず阿鼻地獄へ堕ちると証明されたのです。

また、阿弥陀仏等の十方の諸仏がそれぞれの国を捨てて霊鷲山・虚空会の儀式に参られて宝樹の下に座り、広長舌を出して大梵天に付けられた様は、あたかも無量無辺の虹が虚空に現れたようでした。

その意味するところは釈尊が、四十余年に説かれた観無量寿経・阿弥陀経・悲華経等において、法蔵比丘の諸菩薩が四十八願等をおこして九品の浄土に凡夫を迎えると説いたことは、法華経へ入るまでの気休めの言葉であり、実はそれらの経々に説かれているような十方浄土や西方浄土への来迎などはなく、これを真実と思ってはなりません。このことは釈尊が今説かれた通りであり、真実には「釈迦・多宝・十方の諸仏が法華経寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字を信じさせるためである」と出された広長舌なのです。

「我らと釈迦如来は同じように仏ではあるが、釈迦如来は天の月であり我らは水中に映っている月のようなものです。釈迦如来の本土は実は娑婆世界であり、天月である釈尊が動かなければ、その影である我らも他土に移ることはありません。我らがこの娑婆世界に居住して法華経の行者を守護することは、臣下が主君を仰ぎ奉るようであり、父母が我が一子を愛するようなものである」と、そのような思いで出した舌なのです。

講義

法華経こそ釈尊の悟りの真実を明かした説法であり、それ以前の40余年に説いた爾前権経は未顕真実の教えであることは、釈尊一人が言っていることではなく、多宝如来・十方の諸仏も証明しているところであり、このような多くの仏が来集して証明を加えたにのは法華経のみの特徴でっす。

本抄では、多宝如来の証明が「已今当の諸教の説に色をかへて重き事をあらはさんがために」なされたものであり、十方諸仏の広長舌相は、爾前経で説かれたことが「法華経已前のやすめ言」であり真実ではないことを示すと同時に、「寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字」を信ぜしめるために行われたのであると仰せです。

「四条金吾殿御返事」には次のように述べられています。

「教主釈尊は一代の教主・一切衆生の導師なり、八万法蔵は皆金言・十二部経は皆真実なり、無量億劫より以来持ち給いし不妄語戒の所詮は一切経是なり、いづれも疑うべきにあらず、但是は総相なり別してたづぬれば如来の金口より出来して小乗・大乗・顕密・権経・実経是あり、今この法華経は「正直捨方便等・乃至世尊法久後・要当説真実」と説き給う事なれば誰の人か疑うべきなれども多宝如来・証明を加へ諸仏・舌を梵天に付け給う」(御書全集1121頁10行目

つまり、八万法蔵・一切経はいずれも釈尊の説いた教えであり真実です。ただし、それは総じて言った場合であり、別しては釈尊の経々にも大小・顕密・権実の違いがあります。法華経において釈尊は、爾前経を未顕真実の方便の教えであるとして捨て、法華経のみが真実であると説きました。しかし、爾前経の執着を捨て切れずにいる人々のために多宝・十方諸仏の証明がなされたのです。

「開目抄」に、「般若経の御時は釈尊・長舌を三千にをほひ千仏・十方に現じ給い・金光明経には四方の四仏現せり、阿弥陀経には六方の諸仏・舌を三千にををう」(御書全集194頁13行目)と述べられているように、他の諸経でも、それなりに証明の儀式がなされています。では、法華経における証明と権大乗教における証明とはどう違うのでありましょうか。

これら諸経における証明は、小乗教と大乗教との間に「一分の相違」があることから、小乗教への執着を破して大乗教へ導くために行われたものです。その「一分の相違」というのは、小乗教では声聞・縁覚の二乗の修行を勧めたのに対し、大乗教では二乗が徹底して弾訶されたことです。この相違があるために、諸仏が出現して釈尊の説法を助けたのです。

しかしながら、小乗教と大乗教との相違は、権大乗教と実大乗教たる法華経との相違に比べれば、はるかに小さい。ゆえに「一分の相違」と言われているのです。なぜならば、法華経においては、爾前権教において成仏できないとされていた二乗の成仏や伽耶城菩提樹下で成道したとされていた釈尊の久遠実成が説き明かされるなど、諸大乗教と根本的な相違があるからです。つまり、法華経で説かれる法門が末聞の難信の法である故に、それが真実であることを強く証明する必要があったのです。

ゆえに「観心本尊抄」では、「夫れ顕密二道・一切の大小乗経の中に釈迦諸仏並び坐し舌相梵天に至る文之無し、阿弥陀経の広長舌相三千を覆うは有名無実なり、般若経の舌相三千光を放つて般若を説きしも全く証明に非ず、此は皆兼帯の故に久遠を覆相する故なり」(御書全集251頁18行目)と断じられています。この「皆兼帯の故に久遠を覆相する故なり」との御文について、日寛上人は観心本尊抄文段で「これ即ち『行布を存する故に仍末だ権を開せず』『始成をいう故に尚末だ迹を発せず』の二失なり」と釈されています。

すなわち「開目抄」に、「華厳・乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず久遠実成を説きかくさせ給へり、此等の経経に二つの失あり、一には行布を存するが故に仍お未だ権を開せずとて迹門の一念三千をかくせり、二には始成を言うが故に尚未だ迹を発せずとて本門の久遠をかくせり」(御書全集197頁10行目)と説かれているのがそれで、この「迹門の一念三千」と「本門の久遠」こそ、「一代の綱骨・一切経の心髄」(御書全集197頁12行目)と仰せのように、最も重要な法門なのです。

このように爾前経と法華経とでは、その内容に大きい差がある故に法華経の証明のもつ意義が大きいのであり、それに比べれば、権大乗教における諸仏の証明などは有名無実であり、真実の証明とはいえないとされています。それは結局、証明すべき仏の究竟の真実が明かされていない以上、証明というのは名のみはあっても、実体はないことになるからです。

また、他の諸経典でも、そこに説かれる所説が正しく、最も勝れた教えであることを強調した言葉は確かにあります。そこから、法華経こそ諸経典のなかで最第一であるというものも、他の経で言っているのと同じではないかという疑問が生じてきます。これについて、大聖人は「大田殿許御書」に次のように答えられています。

「疑つて云く経経の自讃は諸経・常の習いなり、所謂金光明経に云く『諸経の王』密厳経の『一切経中の勝』蘇悉地経に云く『三部の中に於て此の経を王と為す』法華経に云く『是れ諸経の王』等云云、随つて四依の菩薩・両国の三蔵も是くの如し如何、答えて曰く大国・小国・大王・小王・大家・小家・尊主・高貴・各各分斉有り然りと雖も国国の万民・皆大王と号し同じく天子と称す詮を以つて之を論ぜば梵王を大王と為し法華経を以て天子と称するなり、求めて云く其の証如何、答えて曰く金光明経の是諸経之王の文は梵釈の諸経に相対し密厳経の一切経中勝の文は次上に十地経・華厳経・勝鬘経等を挙げて彼彼の経経に相対して一切経の中に勝ると云云、蘇悉地経の文は現文之れを見るに三部の中に於て王と為す等云云、蘇悉地経は大日経・金剛頂経に相対して王と云云」(御書全集1003頁11行目)と。

すなわち、金光明経・密厳経・蘇悉地経等においても、それぞれ自讃の文が見られるにしても、詳細にその本文を検討するならば、各経典でその勝劣を比較対照しているのは、一部の限られた範囲の経典と相対してのことであって、釈尊の説いた一切の経と相対しているわけではないのです。

これに対して法華経では、例えば法師品第十に「而も此の経の中に於いて、法華最も第一なり…已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於いて、此の法華経、最も為れ難信難解なり」とあり、また見宝搭品第十一にも「始より今に至るまで広く諸経を説く、而も其の中に於いて、此の経第一なり」とあるように、法華経のみが、釈尊がそれまでに説いた一切の教えだけでなく、これから後に説く経も含め、すなわち已今当の三説に対して、法華経が最第一であることを強調しているのです。

故に妙楽大師は「縦い経に諸経の王と云うこと有りとも已今当説最為第一と云わず」と指摘しているのです。これに比べれば、他経において「諸経の王」と説かれているといっても、いわば「小王に過ぎないのです。

 

寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字

ここでは、釈尊・多宝如来・十方分身の諸仏の三仏が列座して行われた法華経の説法ならびに儀式の本意が、寿量品文底下種の南無妙法蓮華経を信ぜしめることにあったことを明かされています。日寛上人の題目抄文段において、本抄のこの御文を引かれて次のように仰せです。

「文の中の『実』の字、深く意を留めるべし。例せば『我実成仏』の『実』の字の如し。また『肝要』とは即ち文底の異名なり。諸文も例して爾なり。文意に云く、既に寿量品の説已りて神力結要付嘱の付に至り、先ず釈迦・多宝・十方分身の諸仏、広長舌を出して上梵天に至りたまう。その本意を尋ねれば、実に滅後末法の衆生をして但本門寿量品の肝要南無妙法蓮華経の五字の本尊を信ぜしめんが為なり」と。ここで日寛上人は、本抄の「実には」の「実」の字に深意があると指摘されています。

すなわち、これは「我実成仏」の「実」と同じで、この寿量品の文は、釈尊が「我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」と述べて、それまでの始成正覚の迹身を払って久遠実成の本地を明かしたのです。大聖人は本抄で法華経における三仏の説法と証明も、その本意は文底の妙法を宣揚し証明することにあったと明かされているのです。

また、次に本抄の「寿量品の肝要」とは、「『肝要』とは即ち文底の異名なり」と日寛上人が釈されているように、寿量文底の下種本門を指しています。このことを「開目抄」では「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(御書全集189頁2行目)と仰せられ、さらに他の諸御書では、例えば「寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経」(御書全集251頁9行目、観心本尊抄)、「寿量品の肝心南無妙法蓮華経」(御書全集1212頁1行目、寿量品得意抄)等と述べられているのです。すなわち、御書により「文底」「肝要」「肝心」とそれぞれ言葉は異なっても、その意味するところは全く同じです。

そして、「寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字」が法華経神力品において釈尊より上行菩薩に結要付嘱された三大秘法の南無妙法蓮華経を指していることは、「観心本尊抄」に、「此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては 仏猶文殊薬王等にも之を付属し給わず何に況や其の已外をや但地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う、其の本尊の為体」(御書全集247頁15行目)と仰せられていることに明らかでありましょう。

ゆえに、日寛上人は本抄に仰せの「寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経」とは、「即ちこれ文底秘沈の三大秘法の随一、本門の本尊の御事なり。故に『肝要』というなり」と御教示されています。

なお、大聖人が本抄も含めて、「観心本尊抄」等で南無妙法蓮華経を「七字」ではなく「五字」と仰せられているのはなぜでありましょうか。

大聖人の御書において、題目と字数を並べて述べられている場合、五字との表現が圧倒的に多い。すなわち、五字の用例は「妙法の五字」「題目の五字」「首提の五字」「結要の五字」「法華経の五字の名号」「妙法等の五字」「南無妙法蓮華経の五字」などであり、七字の用例は「南無妙法蓮華経妙の七字」「妙法蓮華経の五字七字」等です。

これら「妙法蓮華経の五字」の用例は、御化導の初期から晩年にいたるまでほぼ全般にわたっているのに対して、「南無妙法蓮華経の五字」の用例は文永10年(西暦1273年)の「観心本尊抄」が最初であり、佐前の御書には見れません。

以下、南無妙法蓮華経の五字の用例は911個所です。

①観心本尊抄 (文永10年〈西暦1273年〉)

「此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属し給わず何に況や其の已外をや但地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う」(御書全集247頁15行目

「但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊未だ広く之を行ぜず」(御書全集253頁13行目

②法華行者逢難事 (文永11年〈西暦1274年〉)

「天台伝教は之を宣べて本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字と之を残したもう」(御書全集965頁8行目

③高橋入道殿御返事 (建治元年〈西暦1275年〉)

「上行菩薩の御かびをかほりて法華経の題目・南無妙法蓮華経の五字計りを一切衆生にさづけば」(御書全集1459頁8行目

④曾谷殿御返事 (建治2年〈西暦1276年〉)

「此の境智の二法は何物ぞ但南無妙法蓮華経の五字なり、此の五字を地涌の大士を召し出して結要付属せしめ給う」(御書全集1055頁6行目

⑤下山御消息 (建治3年〈西暦1277年〉)

「地涌の大菩薩・末法の初めに出現せさせ給いて本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に唱えさせ給うべき先序のためなり」(御書全集346頁11行目

「実には釈迦・多宝・十方の諸仏・寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字を信ぜしめんが為なりと出し給う広長舌なり」(御書全集359頁8行目

⑥松野殿後家尼御前御返事 (弘安2年〈西暦1279年〉)

「設ひ法華経には値うとも肝心たる南無妙法蓮華経の五字をとなへがたきにあひたてまつる事の・かたきにたとう」(御書全集1392頁1行目

⑦上野殿御返事 (弘安2年〈西暦1279年〉)

「上行菩薩等の末法に出現して南無妙法蓮華経の五字を弘むべしと見へたり」(御書全集1557頁16行目

⑧寂日房御書 (弘安2年〈西暦1279年〉)

「上行菩薩・末法の始の五百年に出現して南無妙法蓮華経の五字の光明をさしいだして」(御書全集903頁4行目

⑨右衛門太夫殿御返事 (弘安2年〈西暦1279年〉)

「上行菩薩・御出現あつて南無妙法蓮華経の五字を日本国の一切衆生にさづけ給うべきよし」(御書全集1102頁2行目

これらの御文では、釈尊より結要付嘱を受けた上行菩薩が末法に出現して弘めるべき法を「南無妙法蓮華経の五字」として示されているとともに、それが法華経、ないしは本門寿量品の肝心・肝要であることを述べられています。さらに加えて、三大秘法の一つである本門の題目を、「事行の一念三千」、「境智の二法」として示されていることも看過できない点です。

次に、「妙法蓮華経の五字・七字」の用例を見てみたい。この用例は文永10年(西暦1273年)の「諸法実相抄」、弘安3年(西暦1230年)の「諌暁八幡抄」のわずか二例しかありません。

すなわち、諸法実相抄では、妙法蓮華経の五字は地涌の菩薩の出現がなければ唱えることのできない題目であることを明かされたうえで、「広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(御書全集1360頁10行目)と広宣流布の大確信を述べられるとともに、大聖人のうけられている大難が地涌の菩薩=法華経の行者として「妙法蓮華経の五字七字を弘むる故」(御書全集1361頁3行目)であると示されています。

「諌暁八幡抄」においては「今日蓮は去ぬる建長五年癸丑四月二十八日より今年弘安三年太歳庚辰十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし、只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり」(御書全集585頁1行目)と仰せられています。

だだし、佐前期の文永3年(西暦1266年)の「法華経題目抄」に「只南無妙法蓮華経と計り五字七字に限りて」(御書全集940頁1行目)との一節、また文永10年(西暦1273年)の「妙法曼荼羅供養事」に「此の曼陀羅は文字は五字七字にて候へども」(御書全集1305頁1行目)との仰せが拝されます。

一方、「南無妙法蓮華経の七字」は、次の例が挙げられています。

①四条金吾殿御返事 (文永9〈西暦1272年〉)

「今日蓮が弘通する法門は・せばきやうなれども・はなはだふかし、其の故は彼の天台・伝教等の所弘の法よりは一重立入りたる故なり、本門寿量品の三大事とは是なり、南無妙法蓮華経の七字ばかりを修行すればせばきが如し」(御書全集1116頁9行目

②別当御房御返事 (文永11年〈西暦1274年〉)

「南無妙法蓮華経の七字を日本国にひろめ震旦高麗までも及ぶべきよしの大願をはらみて其の願の満すべきしるしにや」(御書全集901頁5行目

③兄弟抄 (文永12年〈1275年〉)

「法華経の極理・南無妙法蓮華経の七字を始めて持たん日本国の弘通の始ならん人の弟子檀那とならん人人の大難の来らん事」(御書全集1087頁8行目

④法華初心成仏抄 (建治3年〈西暦1277年〉)

「法華経二十八品の肝心たる南無妙法蓮華経の七字計り此の国に弘まりて利生得益もあり上行菩薩の御利生盛んなるべき時なり」(御書全集頁548頁17行目

⑤御義口伝 (弘安元年〈西暦1278年〉)

「爰を以て品品の初めにも五字を題し終りにも五字を以て結し前後・中間・南無妙法蓮華経の七字なり、末法弘通の要法唯此の一段に之れ有るなり」(御書全集803頁5行目

⑥九郎太郎殿御返事 (弘安元年〈西暦1278年〉)

「但南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ」(御書全集1553頁12行目

⑦中興入道消息 (弘安2年〈西暦1279年〉)

「南無妙法蓮華経の七字を顕して・をはしませば、北風吹けば南海のいろくづ其の風にあたりて大海の苦をはなれ」(御書全集1335頁1行目

⑧御講聞書 (弘安3年〈西暦1280年〉)

「今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益あるべき時なり、されば此の題目には余事を交えば僻事なるべし、此の妙法の大曼荼羅を身に持ち心に念じ口に唱え奉るべき時なり」(御書全集807頁3行目

「南無妙法蓮華経の七字を日本国に弘むる間恐れなし、終には一閻浮提に広宣流布せん事一定なるべし」(御書全集816頁5行目、 一今我喜無畏の事)

⑨十八円満抄 (弘安3年〈西暦1280年〉)

「今日蓮は塔中相承の南無妙法蓮華経の七字を末法の時・日本国に弘通す」(御書全集1367頁9行目

したがって、これらの事例から、大聖人が妙法蓮華経の五文字を五字七字とし、あるいは南無妙法蓮華経の七文字を五字と表現されたことはその御化導に深くかかわっているものと考えられる。

ただし、先に紹介したように「法華経題目抄」でも南無妙法蓮華経をもって例外的に五字七字と表示されていますが、これは、同抄が佐前期の御書であることから、文面のうえでは権実相対の次元で「専ら唱題の妙有を明かして信心の勝徳を歎ずる」ことに趣旨があったからと思われます。つまり、南無妙法蓮華経という唱題の功徳を明かされるために、妙法蓮華経の五字ではなく、そのような表現を採られたと拝せられます。日寛上人が仰せられているように、同抄の冒頭に南無妙法蓮華経と記されている所以も実はそこにあります。

それゆえに、同抄において「南無妙法蓮華経と計り五字七字に限りて」と仰せられて、「南無妙法蓮華経の七字」、あるいは「南無妙法蓮華経の五字」とは表現されなかった理由も、ほかでもなく佐前期の御化導であったからであると拝されているのです。したがって、また、その理由は本抄をはじめとする佐後の御書でなにゆえに七文字の南無妙法蓮華経を「南無妙法蓮華経の五字」と表現されたかという理由とまさに表裏の関係をなしているといえるでありましょう。

要するに、「妙法蓮華経の五字七字」「南無妙法蓮華経の七字」「南無妙法蓮華経の五字」という表現は、いずれも佐後期の御書に限られているということであり、そこに大聖人の御化導に即した深意が拝せられるのです。

まず「妙法蓮華経の五字七字」という表示は、釈尊が法華経の文上において「要当説真実」の法として明かした教法が「妙法蓮華経の五字」であることを示されている一方で、その釈尊より付嘱を受け末法に弘通される法体が、実は大聖人が久遠元初に成就された三大秘法の随一たる本門の本尊、人法一箇の南無妙法蓮華経にほかならないことを明示されたものと拝察されます。したがって、「南無妙法蓮華経の七字」はその意義をそのまま表されたものでありましょう。

これに対して、「南無妙法蓮華経の五字」は、付嘱の法体に約せば、妙法蓮華経の五字であるが、大聖人御自身が久遠元初において妙法を証得された人法一箇の妙法の当体と顕れられた意味においては南無妙法蓮華経であり、それを末法の衆生の成仏のために行ずべき法であることを示されているのであります。

このことは、「観心本尊抄」において「事行の南無妙法蓮華経の五字」と仰せられていることに表れています。これは、天台大師の理具の一念三千と大聖人の事の一念三千との相違を明らかにされたところであり、その前後を含めて次に引用しておきたい。

「像法の中末に観音・薬王・南岳・天台等と示現し出現して迹門を以て面と為し本門を以て裏と為して百界千如・一念三千其の義を尽せり、但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊未だ広く之を行ぜず所詮円機有つて円時無き故なり」(御書全集253頁11行目)

天台大師の立てた一年三千の法門は、法華経本門を踏まえながらも迹門方便品の十如実相の文を依処として展開しました。いわゆる迹面本裏の一念三千です。それは「十章抄」に、「一念三千の出処は略開三の十如実相なれども 義分は本門に限る」(御書全集1274頁5行目)と仰せのように、三世間のうち国土世間を明かしていない迹門のみでは一念三千の義を尽くすことはできないゆえに、天台大師は本門の義分を用いて、それを裏として一念三千の法門を立てたのです。

日寛上人によれば、観心本尊抄の「一念三千其の義を尽くせり、但理具を論じて」との御文は、文底下種の本門・事の一念三千に対して、面の迹門・裏の本門を共に通じて迹門理の一念三千と名づけられたものであるといいます。要するに、文上の本門は一往、事の一念三千といえますが、再往、文底下種の事の一念三千に対すれば理の一念三千となるということです。

天台大師は、一念三千の義を尽くし、自行においては南無妙法蓮華経と唱えましたが、時の至らざる故、付嘱なきが故にそれを人に説くことはできませんでした。つまり天台大師の場合、その説いたところは、どこまでも法華経の文上の域にとどまっていたのであり、法華経の文と義は尽くしても、その肝要の意は内鑒冷然としていたが、心中にとどめざるを得なかったのです。

したがってまた、妙法蓮華経の五字の題目についても、法華玄義であくまで「理」として展開したのです。それは、いわば妙法蓮華経という、釈尊が悟った法を理論的に説明したのであり、事のうえに行ずることはしなかったのです。

これに対して、大聖人の場合は、妙法蓮華経の一法を、そのような客体的な理として扱うのではなく、御自身の刹那の一念において行じ証得されたのです。すなわち、大聖人の御身に具わるところの妙法であり、その人法一箇の御当体、人に即する法の本尊なるがゆえに、事行の南無妙法蓮華経と名づけられたのです。

日寛上人が「三重秘伝抄」において、文底独一本門の事の一念三千を名づける理由について「人法体一の故なり」と明かされている所以もまさにそこにありましょう。また「文底秘沈抄」では次のように仰せられています。

「事は謂く、本門の題目なり。理に非ざるを事と曰う、是れ天台の理行に非ざる故なり。又事を事に行ずるが故に事というなり」

これは、法華経方便品第二の「一大事因縁」の文中の「事」について釈されたものですが、大聖人弘通の題目を、天台大師の理行の題目と区別して事行の題目とする理由について「事を事に行ずるが故に」と仰せられているのです。このことは、大聖人は文底下種の事の一念三千を事実として自ら身に当てて行じ証得され、御自身が一念三千の当体として顕されたことを意味していると拝されます。

文永10(西暦1273年)御述作の「義浄房御書」には「寿量品の自我偈に云く「一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず」云云、日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり、其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事・此の経文なり秘す可し秘す可し、叡山の大師・渡唐して此の文の点を相伝し給う処なり、一とは一道清浄の義心とは諸法なり、されば天台大師心の字を釈して云く「一月三星・心果清浄」云云、日蓮云く一とは妙なり心とは法なり欲とは蓮なり見とは華なり仏とは経なり、此の五字を弘通せんには不自惜身命是なり、一心に仏を見る心を一にして仏を見る一心を見れば仏なり、無作の三身の仏果を成就せん事は恐くは天台伝教にも越へ竜樹・迦葉にも勝れたり」(御書全集892頁7行目)と仰せられています。

大聖人が事の一念三千の三大秘法を成就されたとは、すなわち大聖人の御命そのものが本門の本尊であり、唱え給う題目が本門の題目であり、また大聖人のおわします所がそのまま本門の戒壇であることを示されたものにほかなりません。そして、無作の三身の仏果を成就したことは、まさに事の一念三千の南無妙法蓮華経の当体として、顕れ給うたということです。

日寛上人は更に、文底独一本門をもって事の一念三千の本尊と名づける所以についても、天台家における一念三千の本尊が、三千の体性・一心の体性という理を、いわゆる絵像の十一面観音として図顕したものであり、いわば「理を事に顕している」がゆえに、法体はなお理にとどまっていたのに対して、大聖人の文底独一本門は「事を事に顕す」ゆえに法体は事であり、したがって事の一念三千の本尊と名づけるのであるとされている。これは、大聖人は「事が事に行ずる」ことによって一念三千の当体として顕された御自身の生命をそのまま御本尊として顕されたことを示されているのです。

「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(御書全集1124頁11行目、経王殿御返事)との御文はその明文にほかなりません。ゆえに大聖人は、「事の一念三千は、日蓮が身に当りての大事なり」(御書全集717頁12行目、御義口伝)と仰せなのです。

次に、「曾谷殿御返事」においては「此の境智の二法は何物ぞ但南無妙法蓮華経の五字なり」(御書全集1055頁6行目)と仰せられている点に注目したい。

というのも日寛上人が「文底秘沈抄」で「若し理に拠って論ずれば、法界に非ざること無し。今事に就いて論ずるに差別無きに非ず。謂く、自受用身は是れ境智冥合の真身なり、故に人法体一なり。譬えば月と光と和合するが故に、体是れ別ならざるが如し。若し色相荘厳の仏は、是れ世情に随順する虚仏なり、故に人法体別なり。譬えば影は池水に移るが故に、天月と是れ一ならざるが如し」と述べられているように、自受用身は境智冥合の真身であり、ゆえに人法体一であるとされているからです。

「取要抄分段」では次のように御教示されています。

「本地無作の三身とは、即ちこれ釈尊久遠実名字の三身なり。また久遠元初の自受用身と名づくるなり。自受用身とは境智冥合の真仏なり。即ち所照の境はこれ無作の法身なり、能照の智はこれ無作の報身なり。起用は即ちこれ無作の応身なり」

この御文では、本地無作の三身とは釈尊久遠名字の三身であり、それが久遠元初の自受用身と同体異名であることが述べられています。そして、自受用身は境智冥合の真仏であり、その所照の境が無作の法身にあたり、その当体を能く照らす智慧は無作の報身に配される。その境智冥合の体が衆生を救うための慈悲を起こして世に応現すること、すなわち、「起用」が無作の応身に配されるのです。

また「三世諸仏総勘文抄」には次のように仰せです。

「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時 我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」(御書全集568頁13行目)

日寛上人はこの御文について観心本尊抄文段の序で次のように釈されている。

「久遠の故に『五百塵点』といい、元初の故に『当初』というなり。『智』の一字は本地難思の智妙なり。『我が身』等は本地難思の境妙なり、この境智冥合して南無妙法蓮華経と唱うる故に、『即座に悟りを開き』、久遠元初の自受用身と顕るるなり」

五百塵点劫とは、法華経久遠寿量品で明かされたように、釈尊が真実に成道した久遠の時を指していますが、『当初』の二文字はその久遠実成の時に対し、さらにさかのぼる元初の時を指して言われたものにほかなりません。したがって、文中の「釈迦如来」とは法華経文上の釈尊ではなく、久遠元初の自受用身を指しています。

そして、「凡夫にて御坐せし時」の「凡夫」とは、六即のうち名字即の凡夫位を示しています。なぜならば、「我が身は地水火風空なりと知しめ」すとは、“一切の法は皆是れ仏法なり”と知ることと同義であるからです。このことは、天台大師の摩訶止観巻第一下に、「名字の中に於いて通達解了して、一切の法は皆是れ仏法なりと知る」とあることによって知られます。また日寛上人が当流行事抄において次のように仰せです。

「一切の法の外に我が身無く、我が身の外に一切の法無し、故に我が身全く一切の法なり。地水火風空は即ち妙法五字なり。妙法五字の外に仏法無し、故に五大全く皆是れ仏法なり。故に其の意是れ同じ奇なり。然れば即ち釈尊凡夫の御時、一切の法は皆是れ仏法なり、我が身の五大は妙法の五字なりと知ろしめし、速やかに自受用報身を成ず、故に即座開悟と云うなり」

すなわち、釈尊が久遠元初の名字の凡夫の御時に、凡夫身の我が身がそのまま妙法の当体であることを悟って、久遠元初の自受用身と顕れられたのです。

さらに、日寛上人はこの総勘文抄の一節を境智行位の四妙に配され、「凡夫」とは名字即であり、位妙に当たります。「知」の一字は、能証の智であり、智妙です。そして、以信代慧のゆえに、智妙は信心であり、信心は唱題の始めであるがゆえに、行妙を、兼ねており、我が身が妙法の当体であると知って南無妙法蓮華経と唱えることがそのまま行妙になる。そして「我が身」等とは、所証の境であり、境妙に当たる、とされています。

日寛上人は、この四妙の下種家の本因妙とし、「即座開悟」を下種家の本果妙であると位置づけられています。さらに、この境智の二法を自受用身の色心に約して、次のように御教示されています。

「当にしるべし、この自受用身の色法の境妙も一念三千の南無妙法蓮華経なり。謂く、釈尊の五大即ちこれ十法界の五大なり。十法界の五大即ち釈尊の五大なり。十法界殊なりと雖も、五大種はこれ一なり。豈十界互具・百界千如・一念三千の南無妙法蓮華経に非ずや。…またこの自受用身の心法の妙智も一念三千の南無妙法蓮華経なり。故に宗祖云く『至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果俱時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足し闕滅無し』等云云。『因果俱時・不思議の一法』とは、即ちこれ自受用身の一念の心法なり。故に『一法』という。因果俱時の故に『蓮華』と名づく。不思議の一法の故に『妙法』と名づくるなり。この妙法蓮華の一念の心法に『十界三千の諸法』を具足す。豈自受用の妙心妙智は、一念三千の南無妙法蓮華経に非ずや」

すなわち、自受用身の色法が境であり、その心法が智です。そして、その境智はともに一念三千の南無妙法蓮華経であるゆえに自受用身は境智冥合の真仏なのです。「百六箇抄」に「日蓮が修行は久遠を移せり」(御書全集862頁6行目)と仰せのように、大聖人はこの久遠元初の姿をそのままに末法に移されたのです。

このように「南無妙法蓮華経の五字」という表現は、釈尊より付嘱された寿量文底の妙法蓮華経の五字が久遠元初の自受用報身如来であられる大聖人の御命に活現しているのであり、その当体としての事の一念三千・人法一箇の本門戒壇の大御本尊を仰せられたものと拝されるのです。

 

我等と釈迦仏は同じ程の仏なり

法華経の文意のうえから、釈尊と十方の諸仏との関係について述べられたところです。すなわち、釈尊と諸仏とは同じ仏であるとはいえ、釈尊は天月であり、諸仏は水に映った月である、と。

ここで、まず「我等と釈迦仏は同じ程の仏なり」とは、爾前の諸経においては、平等意趣の観点より、諸仏と釈迦仏との一体平等が説かれていることを示されたものと拝されます。つまり、諸仏の悟った法そのものはすべて平等であることから、諸経に説く仏はすべて釈迦仏なりということが成り立つのです。

しかしながら、法華経の見宝搭品に至って、久遠実成を明かす寿量品の遠序として、十方の諸仏が釈尊の分身仏であることを明らかにされています。「釈迦仏は天月の如し我等は水中の影の月なり」とはまさにこのことを指していると言えましょう。

宝塔品の段階では、釈尊の久遠実成はまだ明かされていませんが、天台大師が「分身既に多し。当に知るべし成仏の久しきことを」と指摘しているように、法華経の会座に来集した無数の十方の諸仏が釈尊の分身仏であるということは、釈尊が久しい過去に成仏していたことを示唆しているのです。宝塔品が寿量品の遠序とされる所以もここにあります。したがって、厳密な意味では、法華経本門寿量品に至って釈尊の久遠実成が説かれたことによって十方の諸仏が釈尊の分身であることの根拠が明らかになったといえるでありましょう。

このことを大聖人は「開目抄」に「此の過去常顕るる時.諸仏皆釈尊の分身なり」(御書全集214頁1行目)と仰せられています。「此の過去常顕るる」とは、寿量品で釈尊の久遠実成が明かされたことを指しています。これによって、一切の諸仏が釈尊の分身であるということが明確になったのです。言い換えれば、爾前・迹門に説かれた諸仏は本門で釈尊の久遠実成が明かされることにより、ことごとく釈尊という本源的な一仏に統合されたことになるのです。このことを日寛上人は開目抄愚記で次のような譬えを用いて説明されています。

「爾前・迹門の時は、譬えば六国の諸侯、各々王と称するが如し。今顕本の時は、六国皆秦に帰するが如し。故に諸の仏は皆釈迦の眷属というなり」

つまり、釈尊が始成正覚の仏として説かれていた爾前・迹門の段階では、諸仏は六国の諸侯がそれぞれ王を名乗っているようなものであり、本門寿量品で釈尊が久遠五百塵点劫以来の仏であることが明らかにされると、秦による統一後、諸国の王が秦の始皇帝の家来になったように、釈尊のみが王として君臨し、諸仏はその所従となったのです。

爾前・迹門では、多くの諸仏が釈尊の教えの中に現れますが、その本源は明らかでなく、法華経の本門に至って久遠の釈尊が示されることによって、諸仏が釈尊の体より出生した用の仏であることが明らかになり、その源が明確になったのです。ゆえに大聖人は、「法華取要抄」に次のように仰せです。

「教主釈尊は既に五百塵点劫より已来妙覚果満の仏なり大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等の尽十方の諸仏は我等が本師教主釈尊の所従等なり、天月の万水に浮ぶ是なり」(御書全集333頁3行目

また開目抄には「華厳経の台上十方・阿含経の小釈迦・方等般若の金光明経の阿弥陀経の大日経等の権仏等は・此の寿量の仏の天月しばらく影を大小の器にして浮べ給うを・諸宗の学者等・近くは自宗に迷い遠くは法華経の寿量品をしらず水中の月に実の月の想いをなし或は入つて取らんと・をもひ或は縄を・つけて・つなぎとどめんとす、天台云く「天月を識らず但池月を観ず」等云云」(御書全集197頁17行目)とも御教示されています。

諸経における阿弥陀仏や大日如来等の諸仏はすべて権に説かれた用の仏であり、天月たる釈尊に対して池に映った月の影にしか過ぎないことを知らねばなりません。

次に本抄で「釈迦仏の本土は実には娑婆世界なり」と仰せられているのは、本門寿量品で釈尊が久遠の本地を明かした後に「我常に此の娑婆世界に在って説法教化す」と述べているように、釈尊は久遠以来、この娑婆世界を本国土としてきたことを指しています。

爾前・迹門では、娑婆世界は凡夫の住する煩悩充満の穢土とされ、二乗は方便土、菩薩は実報土、仏は寂光土にそれぞれ住し、これらは娑婆世界とは別の国土と説かれていましたが、寿量品では一転してこの娑婆世界こそが仏の常住する寂光土であり、釈尊の本国土であることが明らかにされたのです。

したがって、娑婆世界こそ寂光の本土であり、十方の諸仏の住する国土は逆に垂迹の穢土となるわけで、例えば西方極楽浄土なるものは、衆生を導くための方便として説かれた、まさに「法華経已前のやすめ言」にすぎないことが明確になったのです。故に「法華取要抄」には、「当世日本国の一切衆生 弥陀の来迎を待つは譬えば 牛の子に馬の乳を含め瓦の鏡に天月を浮ぶるが如し」(御書全集333頁1行目)と述べれれ、虚妄である「西方ヘの来迎」を待つ愚かさを指摘されています。

さらに大聖人は本抄において、教主釈尊の分身たる十方の諸仏も同じく娑婆世界に住して法華経の行者を守護することを述べられています。これは、法華経の説相よりも一重立ち入った大聖人の内証の法門と拝されます。

なぜならば、法華経の嘱累品第二十二に、「爾の時に釈迦牟尼仏、十方より来りたまえる諸の分身の仏をして、各本土に還らしめたまわんとして、是の言を作したもう。諸仏各、所安に随いたまえ、多宝仏の塔、還って故の如くしたもうべし」とあり、宝塔品で来集した十方の諸仏は属累品でそれぞれ本土に帰ったとされているからです。

このことは大聖人も「報恩抄」において「東方より来りて真実なりと証明し十方の諸仏集りて釈迦仏と同く広長舌を梵天に付け給て後・各各・国国へ還らせ給いぬ」(御書全集296頁2行目)と述べられています。

阿弥陀仏等の諸仏は他土の仏であり、釈尊のみがこの娑婆世界に有縁の教主であるということは諸御書に説かれている通りです。すなわち、釈尊は五百塵点劫の昔に成道して以来、教化してきた衆生が十方に充満しているゆえに、東方に分身して薬師如来と示現し、あるいは西方に分身して阿弥陀如来と示現して血縁の所化の衆生を利益したのです。しかしながら、こうした阿弥陀等の諸仏は、久遠の本仏たる釈尊が方便としてその他身を説いたものです。すなわち、寿量品に「或説他身」と説かれているのがそれです。

すなわち、十方の諸仏が娑婆世界に住して法華経の行者を守護せんとの御文は、久遠元初の御本仏の仏身に具わるところの十方の諸仏における因縁果報を説かれたものです。このことは、「開目抄」の次の御文と照らして明らかでありましょう。

「されば諸経の諸仏・菩薩・人天等は彼彼の経経にして仏にならせ給うやうなれども実には法華経にして正覚なりへり、釈迦諸仏の衆生無辺の総願は皆此の経にをいて満足す今者已満足の文これなり、予事の由を・をし計るに華厳・観経・大日経等をよみ修行する人をば・その経経の仏・菩薩・天等・守護し給らん疑あるべからず、但し大日経・観経等をよむ行者等・法華経の行者に敵対をなさば彼の行者をすてて法華経の行者を守護すべし、例せば孝子・慈父の王敵となれば父をすてて王にまいる孝の至りなり、仏法も又かくのごとし、法華経の諸仏・菩薩・十羅刹・日蓮を守護し給う上・浄土宗の六方の諸仏・二十五の菩薩・真言宗の千二百等・七宗の諸尊・守護の善神・日蓮を守護し給うべし」(御書全集216頁18行目

これは、諸経に説かれる諸仏・菩薩・人天等が法華経によって成道したことから、それぞれ法華経に深恩を負っているがゆえに、法華経の行者を守護することは道理であることを指摘されたものであり、これもまた大聖人の御境界に即して、大聖人の御身に具わる諸仏等の用を述べられたものにほかなりません。

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