下山御消息(第一段第一)

 「例時においては、もっとも阿弥陀経を読まるべきか」等云々。
このことは、仰せ候わぬ已前より、親父の代官といい、私の計らいと申し、この四・五年が間は退転なく例時には阿弥陀経を読み奉り候いしが、去年の春の末夏の始めより、阿弥陀経を止めて、一向に法華経の内、自我偈読誦し候。また同じくは一部を読み奉らんとはげみ候。これまたひとえに現当の御祈禱のためなり。
ただし、阿弥陀経・念仏を止めて候ことは、この日比、日本国に聞こえさせ給う日蓮聖人、去ぬる文永十一年の夏の比、同じき甲州飯野御牧の波木井郷の内、身延の嶺と申す深山に御隠居せさせ給い候えば、さるべき人々御法門承るべきの由候えども、御制止ありて入れられず。おぼろけの強縁ならではかないがたく候いしに、ある人見参の候と申し候いしかば、信じまいらせ候わんりょうには参り候わず、ものの様をも見候わんために、閑所より忍んで参り、御庵室の後ろに隠れ、人々の御不審について、あらあら御法門とかせ給い候いき。

 

現代語訳

「例時においては何よりも阿弥陀経を読誦すべきではないか」との仰せでございましたが、このことにつきましては、それ以前から父の代官としましても、私と致しましてもこの四・五年の間は怠ることなく、例時には阿弥陀経を読誦してまいりましたが、去年の春の末、夏の始めから阿弥陀経を止めて、もっぱら法華経のうちの如来寿量品の自我偈を読誦しております。また同じことから、法華経一部のすべてを読誦しようと努力しております。これもまたひとえに現当二世の御祈禱のためであります。但し阿弥陀経及び念仏を止めてしまったことにつきましては、つぎのような経緯がございます。

近頃日本国で評判になっております日蓮聖人が去る文永十一年の夏の頃、同じ甲州の飯野御牧のうち波木井郷にある身延の嶺という深山に御隠居されたのでございますが、しかるべき人々が聖人の御法門をお聞きになりたいと申しましても許されず中には入れません。それでよほどの縁がなければ聴聞は叶わないとおもっておりましたところ、ある人が聖人にお目にかかるということでしたので、信仰しようという考えで参ったわけではありませんでしたが、ただ様子を見てみようと人目につかないところから忍んで参りまして、庵室の後ろに隠れ、聖人が人々の疑問について、あらあら御法門を説かれるのをうかがっておりました。

 

講義

本抄の題号について

本抄の「下山御消息」、あるいは「下山抄」という題号はもちろん後世につけられたものです。中山法華経寺に所蔵される富木常忍の本尊聖教事には本抄の写本として「下山御消息 1帖」と記されています。また富士一跡門徒存知の事には「下山抄一巻」とあり、本抄が因幡房に代わって認められた下山兵庫五郎光基への書状であることから、このように名づけられたものでありましょう。ちなみに十大部御書のなかで「御消息」の名がつくのは本抄のみです。

ただし日主上人の写本には「法華本門顕法抄」とありますが、これは本抄の元意を取って、このような別名がつけられたものでありましょう。三位日順師の摧邪立正抄にも「法華顕本下山御消息抄」とあり、更にその理由について「所の名に寄せて下山抄と呼ぶ、法体に准ずれば顕本抄と号す」と述べられています。

この「顕本抄」という題号は、おそらく日興門流のみで本抄の別名として伝えられてきたものと思われます。この題号は、日蓮大聖人が法華経文底独一本門の教主であり、末法の御本仏であられるその本地を顕された書として本抄を位置つけたものであり、その意味で十大部の一つとしてふさわしい題号といえるでありましょう。

なお日主上人の写本にある「法華本門」の4字は、門徒存知事の「聖人御書の事」の末尾にあるように、日興上人が大聖人の御書の題号に「法華本門」の4文字を冠せられたことにならったものであり、これは寂仙房日澄師の写本も「法華本門下山抄」となっていることからも明らかです。

 

例時に於ては尤も弥陀経を読まる可きか

これは冒頭に下山兵庫五郎光基が因幡房に対して難詰した内容を挙げたものです。諸本ではこの個所はいずれも漢文になっており、引用文は漢文で紀されているという本抄の表記上の特徴に照らして、光基が書状で因幡房を難詰したとも考えられます。本抄はそれに対する返答にあたります。

因幡房は光基の氏寺の住僧であるにもかかわらず、最近になって阿弥陀経の読誦を止め法華経を読誦していることを知った光基が、そのことを責めたのです。

鎌倉時代においては夕方に時を定めて阿弥陀経を読誦し念仏を称えることが天台宗における勤行の儀式として定まっていました。その起源は比叡山第三代座主の慈覚の時に求められます。光基は、自身の氏寺においても先祖の供養のためにこれを行わせていたのでありましょう。ところが、因幡房はこれを止めて法華経を読誦していたために、光基は「例時の勤行の際に何故、阿弥陀経を読まなくなったのか」と因幡房に厳しく迫り、平泉寺から追放したのです。

寺から追い出された因幡房は、直ちに身延へ馳せ参じ日興上人を通じて日蓮大聖人に報告したに違いないと思われます。門徒存知事によると因幡房が平泉寺を追い出された時に本抄が直ちに大聖人によって認められたとされています。

報告を受けた大聖人は、因幡房に代わって筆を執られ、因幡房の立場から大聖人の肝要の法門の御説法を聞いたという形で記されたのです。このような経緯から、本抄は御消息文という体裁をとっています。おそらく、大聖人は直ちに本抄を認められたと思われますが、2万字になんなんとする長編であるにもかかわらず、序講で述べたように入念な吟味・推敲を経たうえで成っており、その内容は一御消息の範囲を超えて重要な法門を含んでいるのであります。

ともかく本抄の完全なる御正本が今日に伝わっていないことはまことに残念でありますが、その主たる因は、因幡房が日興上人の弟子となって、大聖人より日永という法号まで戴いたにもかかわらず、大聖人御入滅後に日興上人に背き民部日向についてしまったことにあるといってよいでしょう。

一方、本抄を与えられた下山兵庫五郎光基は大聖人の御入滅後11年にあたる永仁元年(1293)に亡くなっています。そしてその14年後の徳治2年(1307)には光基の未亡人が日興上人より御本尊を賜っており、また正中2年(1325)、光基の33回忌にはその追善のために子息又四郎義宗が同じく日興上人より御本尊を戴いています。この当時の記録は、33回忌の追善のために御本尊が子息に授与されたという例は他にはほとんど見られず、光基にとっては実に名誉なことであったといわねばなりません。

甲斐の出身であられた日興上人は、因幡房のみならず、この地にゆかりのある光基ともあるいは交諠があったのかも知れません。直接であれ間接であれ、日興上人は光基の人柄についてもよく御存知であったとも考えられます。

 

自我偈読誦

下山殿の難詰に対して、因幡房がこの45年怠ることなく勤めてきた阿弥陀経読誦を止めて法華経の自我偈を読誦しているという現状が述べられています。

ここで自我偈読誦について少し述べておきたい。寿量品の長行では、釈尊の真実の成道は今世ではなく、久遠の昔であったことを明かすとともに、以来常にこの娑婆世界において衆生を教化してきたことを明かしています。この長行の内容を韻文をもって重ねて説き、久遠の仏の徳を讃嘆したのが自我偈です。

建治元年(1275)御述作の法蓮抄には「今の施主.十三年の間・毎朝読誦せらるる自我偈の功徳は唯仏与仏.乃能究尽なるべし、夫れ法華経は一代聖教の骨髄なり自我偈は二十八品のたましひなり、三世の諸仏は寿量品を命とし十方の菩薩も自我偈を眼目とす」(御書全集1049頁15行目)と御教示されています。寿量品は一代聖教の骨髄たる法華経の肝心であり、自我偈はその寿量品の内容を重ねて強調したものであるから「二十八品のたましひなり」と仰せられているのです。

そして、寿量品の肝心は三大秘法の南無妙法蓮華経でありますから、自我偈の究極は南無妙法蓮華経にほかなりません。大聖人は御義口伝で自我偈について「自とは始なり速成就仏身の身は終りなり始終自身なり中の文字は受用なり、仍つて自我偈は自受用身なり」(御書全集759頁:第廿二 自我偈始終の事:1行目)と述べられ、この「自受用身」としての仏の生命は、凡夫である私たちにも本来具わっていることを、その次下に「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり」(御書全集759頁:第廿二 自我偈始終の:4行目)と仰せられています。

また、先の法蓮抄の内容から、同抄を与えられた曾谷殿が13年にわたって毎朝、自我偈読誦の勤行を行っていたことが知られます。更に同年御述作の曾谷入道殿御返事には「方便品の長行書進せ候 先に進せ候し自我偈に相副て読みたまうべし」(御書全集1025頁1行目)と指導されています。

当初より大聖人の門下における勤行は唱題行を別とすれば、方便品と自我偈の読誦が基本となっていたのです。このことは文永元年(1264)御述作の水月御書に「方便品の長行と寿量品の長行とを習い読ませ給い候へ、又別に書き出しても・あそばし候べく候、余の二十六品は身に影の随ひ玉に財の備わるが如し、寿量品・方便品をよみ候へば自然に余品はよみ候はねども備はり候なり、薬王品・提婆品は女人の成仏往生を説かれて候品にては候へども提婆品は方便品の枝葉・薬王品は方便品と寿量品の枝葉にて候、されば常には此の方便品・寿量品の二品をあそばし候て余の品をば時時・御いとまの・ひまに・あそばすべく候」(御書全集1201頁18行目)と仰せられていることによって知られます。

なお、方便・寿量品の読誦の意義と題目の関係については、日寛上人が当流行事抄において次のように述べられています。

「修行に二有り、所謂、正行及び助行なり。…当流所修の二行の中に、初めに助行とは、方便・寿量の両品を読誦し、正行甚深の功徳を助顕す。譬えば灰汁の清水を助け、塩酢の米麺の味を助くるが如く故に助行と言うなり。この助行の中に亦傍正有り。方便を傍とし、寿量を正と為す。…次に正行は三世諸仏の出世の本懐、法華経二十八品の最要、本門寿量の肝心、本底秘沈の大法、本地難思、境智冥合、久遠元初の自受用身の当体、事の一念三千、無作三身の南無妙法蓮華経是れなり」

また同抄には方便品の読誦に所破・借文の義があり、寿量品の読誦は所破・所用の義があると明かされています。

 

因幡房の入信に至る経過

立正安国論の予言が的中し、当時、世人から生き仏のように思われていた良観を祈雨の勝負で打ち負かし、竜の口の法難では光物によって斬首を免れ、更には二度の流罪にも屈せず我が道を行く人物。おそらくこうした大聖人のことは多くの人々に知られるところとなっていたのでありましょう。

その大聖人が文永11年(1274)の5月に因幡房の住む下山郷とわずか数㌔しか離れていない身延に入山された。彼としては日蓮大聖人はどんな人なのか、一目見たいという好奇心も少なからずあったのかも知れません。しかし、よほど信頼のある人間関係がないと大聖人にお会いすることはできなかったようです。そうしたところ、ある人が大聖人にお目通りするという。そこで因幡房はその人について大聖人の御説法を聴聞することができました。それが大聖人が入山されて二年後の春の末でありました。大聖人の気迫にあふれ、しかも理路整然たる御説法に触れた因幡房はその場で弟子となることを誓ったのであろうと思われます。

日興上人の弟子分本尊目録は「甲斐の国下山の因幡房は日興が弟子なり」とあることから、「有人見参の侯と申し候しかば」とある「有人」とは、因幡房と同じ甲斐国の出身であられた日興上人ゆかりの人物であったと思われます。

なお本文には、因幡房が「閑所」から忍び込んで、庵室の後ろに隠れて聴聞したと書かれています。これは、先に「おぼろげの強縁ならではかなひがたく」とあることとあわせて、大聖人は隠栖の立場であり、外部の人と直接会うことは避けておられたことをあらわしています。部外者であった因幡房は、ただ物陰から御説法を聞くことができたのです。

 

日蓮大聖人の身延での御生活

ここで大聖人の身延における御生活について簡単に触れておきたい。庵室修復御書には「去文永十一年六月十七日に・この山のなかに・きをうちきりて・かりそめにあじちをつくりて候いし」(御書全集1542頁1行目)と仰せられています。再三にわたる幕府への諫言が用いられなかったことによって、大聖人はこれ以上諌めようとしても無益であると見極められ、身延山中に隠栖されるとともに末法万年の令法久住のための闘いに取り組まれていきました。

先の御文の「かりそめに」という語からうかがわれるように、身延の地そのものには、必ずしも永住するためでなく、当分の居住のための御気持ちであったと拝せられます。このことは本抄にも「国恩を報ぜんがために三度までは諌暁すべし用いずば 山林に身を隠さんとおもひしなり、又上古の本文にも三度のいさめ用いずば去れといふ本文にまかせて且く山中に罷り入りぬ」(御書全集358頁4行目)とあることによって知られます。ただ結果として、御入滅までの9年間をここで過ごされることになったのです。

身延の様子については建治2年(1276)御述作の種種御振舞御書に「此の山の体たらくは西は七面の山・東は天子のたけ北は身延の山・南は鷹取の山・四つの山高きこと天に付き・さがしきこと飛鳥もとびがたし、中に四つの河あり所謂・富士河・早河・大白河・身延河なり、其の中に一町ばかり間の候に庵室を結びて候、昼は日をみず夜は月を拝せず冬は雪深く夏は草茂り問う人希なれば道をふみわくることかたし、殊に今年は雪深くして人問うことなし」(御書全集925頁6行目)と述べられています。これは本抄御執筆の前年です。

また弘安元年(1278)の11月に記された兵衛志度御返事には、この年がここ何十年来最も寒い年であったことが記されています。そうした厳しい環境であったにもかかわらず、「人はなき時は四十人ある時は六十人」(御書全集1099頁7行目)と仰せのように、続々と弟子や信徒が集まるようになり、翌弘安2年には「今年一百よ人の人を山中にやしなひて十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ」(御書全集1065頁6行目)と、更に急速に人数の増大していたことが窺われます。

大聖人はこうして多くの弟子を教化・育成されながら、各地で活躍する門下のために数多くの御書を執筆され、弘安2年(12791012日には出世の本懐たる一閻浮提総与の大御本尊を御図顕されたのです。

ただし、本抄に「身延の嶺と申す深山に御隠居せさせ給い」と仰せのように、世間的な意味では人里離れた身延の山中に隠遁という形をとっておられたので、門下以外の人と会うことは避けておられたのでありましょう。

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