—————————————–(第一章から続く)—————————————-
これに・つけてもあまりにあやしく候、孔子は九思一言・周公旦は浴する時は三度にぎり食する時は三度はかせ給う、古の賢人なり今の人のかがみなり、されば今度はことに身をつつしませ給うべし、よるはいかなる事ありとも一人そとへ出でさせ給うべからず、たとひ上の御めし有りともまづ下人をごそへ・つかわして、なひなひ一定を・ききさだめて・はらまきをきて・はちまきし、先後・左右に人をたてて出仕し御所のかたわらに・心よせの・やかたか又我がやかたかに・ぬぎをきて・まいらせ給うべし、家へかへらんにはさきに人を入れてとのわきはしのしたむまやのしり・たかどの一切くらきところを・みせて入るべし・せうまうには我が家よりも人の家よりもあれ・たからを・をしみてあわてて火をけすところへ・づつとよるべからず、まして走り出る事なかれ、出仕より主の御ともして御かへりの時はみかどより馬より・をりて、いとまの・さしあうよし・ばうくわんに申して・いそぎかへるべし、上のををせなりとも・よに入りて御ともして御所に・ひさしかるべからず、かへらむには第一・心にふかき・えうじんあるべし、ここをば・かならず・かたきの・うかがうところなり。
人のさけたばんと申すともあやしみて・あるひは言をいだし・あるひは用いることなかれ、
現代語訳
こうした評判を聞くにつけても、なおさら不審に思うのである。孔子は九思一言といい、周公旦は客人があれば髪を洗っている時でも、三度も迎え、食事中であっても口中の食を吐いてでも客を待たせず三度も応対した。それが古の賢人であり、今の人の鏡である。それゆえ、今度はとくに自重していきなさい。
夜はどのようなことがあっても、一人で外へ出てはならない。たとえ主君がお呼びであっても、まず下人を主君の所に遣わして、内々確かに御主君のお呼びであることを聞き定めて後、腹巻を着、鉢巻して、先後左右に人をたてて出仕し、主君の館の近所の、あなたに心を寄せる人の館か、または自身の館に鎧を脱ぎおいて参上しなさい。また、家へ帰る時には、さきに人を家に入れて、戸の側・橋の下・厩のうしろ・高殿など、いっさい暗い所を見させてから入りなさい。火事の場合は、わが家から出火しても人の家から出火しても、財産を惜しみ、あわてて火をけすところへ近づいてはいけない。まして走り出るようなことがあってはならない。
出仕から主君のお供をして帰る時は、御門の所で馬から降りて、用事がある旨を判官にいって、急いで帰りなさい。主君の仰せであっても、夜半に入ってお供して御所に長くいてはならない。帰る時には、一層、心に深く用心しなさい。帰る機会を必ず敵がねらうからである。
また、人が酒をあげようといっても、怪しんで、あるいは言葉を濁し、ある場合は、はっきり断わりなさい。
語句の解説
孔子
(前0551頃~前0479)。中国・春秋時代の思想家。儒教の祖。名は丘。字は仲尼。生まれは魯国の昌平郷陬邑。魯国に仕えたが用いられず、諸国を遍歴した。堯・舜、文王・周公旦等を尊敬し、仁を理想とする道徳を説き、主君や父母に真心をもって仕える忠孝の道を教えた。晩年は魯国に帰り、著述と弟子の育成に務め、六経を編纂したといわれる。死後、弟子が孔子の言行等を記録したのが論語である。
九思一言
九思のすえに一言をいだすということで、物事の是非善悪を充分に考察したうえで話をすること。九思一言という語は孔子の語としては見あたらないが、論語の季氏第十六に「孔子曰わく、『君子は九思あり、視には明を思い、聴には聡を思い、色には温を思い、貌には恭を思い、言には忠を思い、事には敬を思い、疑わしきは問を思い、忿りには難を思い、得ることを見ては義を思う』」とある。
周公旦
周の文王の子。武王の弟。姓は姫、名は旦。生没年は不明である。文王の死後、武王とともに殷の紂王を討ち、武王を助けた。武王の死後は幼帝の成王を助け、東方の殷の反乱を自ら遠征して鎮めた。この東方遠征は広範囲に及び、これを機に黄河下流の平原を統治圏内におさめ、洛邑の都を建設し、周王朝の基礎を固めた。周公はその統治期間に周一族や功臣を各地方に派遣して封建制を施行し、また殷の一族を各地に分散させる等多くの改革を行なった。また、殷代の神政制度に加えて、社会の道徳を慣習化した「礼」を社会秩序の基礎とした。ここから中国の儒教思想がめばえた。周公の人格と治世は孔子等の儒者からあつく尊敬されたといわれる。
浴する時は三度にぎり、食する時は三度はかせ
司馬遷の史記巻三十三にある故事。周公旦が天下の士を求めるために示した態度で人の訪問を受ければ、洗髪の時でも、食事の時でも中断して会い、礼をおろそかにしない、との意。ここでは、周公旦の故事のように、あらゆることに気を使うべきであるといわれたところ。史記には「ここにおいてついに成王を相け、而してその子伯禽をして代わりて封じ魯に就かしむ。周公、伯禽を戒めて曰く『我は文王の子、武王の弟にして、成王の叔父なり。我れ天下においてまた賤しからず。然れども我は一沐に三たび髮を捉り、一飯に三たび哺を吐き、起ちてもって士を待ち、なお天下の賢人を失わんことを恐る。子、魯に之かば、慎みて国をもって人に驕ることなかれ』」とある。
講義
本章で、四条金吾の信心の実証を心から賞でられながらも、御自身四条金吾の身を案じられて、本章で、金吾に対し、細心の用心を怠らぬよう、微に入り細をうがつ指導がなされている。
すなわち、まず、孔子、周公旦といった先賢の事例を挙げて用心の鑑であることを説き、次に具体例として、夜間外出の時、帰宅の時の用心、火事の際の用心、出仕の折の用心、酒の招待を受けた時の注意と実に細々と指導がなされたところである。
指導というものは、原理、原点を教えることに重点があるのは当然であるが、それと共に、現実にどのような行動をとるべきかを現実に即して教えていくことも重要である。大聖人はここで、日々の生活のなかで慎重に行動していくことが、信仰の実践になることを教えられているのである。