南条殿御返事(七郎五郎追善の事)

南条殿御返事(七郎五郎追善の事)

 弘安3年(ʼ80)9月 59歳 南条時光

 はくまいひとふくろ・いも一だ、給び了わんぬ。
 そもそも故なんじょうの七ろうごろうどののこと、いままでは、ゆめかゆめか、まぼろしかまぼろしかとうたがいて、そらごととのみおもいて候えば、この御ふみにもあそばされて候。さては、まことかまことかと、はじめてうたがいいできたりて候。

 

現代語訳

白米一袋、芋一駄を頂戴した、故南条七郎五郎殿のこと、今までは夢か夢か、幻か幻かと疑い虚事とばかり思っていたが、この御手紙にも、五郎殿の逝去のことが記されており、さては真実であろうかと、はじめてそう思うことが出てきたようである。

語句の解説

故なんでうの七らうごらう

12651280)。南条兵衛七郎の五男。誕生以前に父が死亡し、母の手で育てられた。弘安3年(1280615日、兄の時光とともに御供養をたずさえて身延の日蓮大聖人を訪ね、お会いしている。しかし、同年9月、突然死去した。

講義

 本抄は、宛名は記されていなが「故なんでうの七らうごらうどのの事」とある御文から、南条時光に与えられたものと推定されている。七郎五郎は南条兵衛七郎の五男で時光の弟である。

本抄は御執筆の年月も不明であるが、弘安3年(12801024日の「上野殿母御前御返事」に「かかるめでたき御経を故五郎殿は御信用ありて仏にならせ給いて・今日は四十九日にならせ給へば」(1570:17)と仰せの御文から、七郎五郎は九月五日に死去したと推察され、本抄はそれから間もないころの御手紙であろうと思われる。

なお、本抄の御真筆は大石寺に現存する。

最初に、時光からの御供養である「はくまいひとふくろ・いも一だ」をたしかに受領された旨を記されている。

次いで、時光の弟である七郎五郎の死去に触れられ、今までは七郎五郎の死去が信じられず、夢か幻かと疑ってきたが、時光の手紙からすると、やはり本当のことであったかと悲しまれている。時光は御供養とともに、七郎五郎の死について御報告したのであろう。初七日か何かの報告であったかもしれない。

その根拠としては、悲報に接して直ちに母御前にあててしたためられたと思われる同年96日の上野殿御書でさまざまな配慮を込めた指導をされているなかで、悲報に接して「ゆめか・まぼろしか・いまだわきまへがたく候」(1567:02)と、その悲報が信じられない旨を述べられており、本抄で、「ゆめかゆめか・まぼろしか・まぼろしか」と思ってきたがやはり事実であったかと仰せの御文と軌を一にしているゆえである。上野殿御書を著された時は、だれか他の人からの、例えば日興上人の御報告か何かでお知りになり、急いで御手紙をしたためられたのであろうと拝されるのである。そして、時光が、それほど日をおいて御報告したというのも考えられないので、初七日あたりではないかと推察されるのである。

七郎五郎は時光の弟であるが、七郎五郎について書かれた御文から拝すると、大聖人はかなり七郎五郎に期待をかけられていたようである。この後も、時光に与えられた他の御手紙や時光の母である上野殿後家尼への御手紙では、しばしば七郎五郎の死去に触れられ、その器量を惜しまれている。

大聖人がだれであれ門下の死去を悲しまれたことは当然であるが、七郎五郎のように、後々まで繰り返し、その才能、信心を賛嘆されているのは珍しい。

本人の信心もさることながら、16歳という若さの子を失った母親、家族の悲しみを思いやられたからであろう。

本抄は、宛名は記されていなが「故なんでうの七らうごらうどのの事」とある御文から、南条時光に与えられたものと推定される。七郎五郎は南条平七郎の五男で、時光の弟である。

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