上野殿御書(七郎五郎死去の事)
弘安3年(ʼ80)9月6日 59歳 南条時光
南条七郎五郎殿の御死去の御事、人は生まれて死するならいとは、智者も愚者も上下一同に知って候えば、始めてなげくべしおどろくべしとはおぼえぬよし、我も存じ、人にもおしえ候えども、時にあたりて、ゆめかまぼろしか、いまだわきまえがたく候。まして、母のいかんがなげかれ候らん。
父母にも兄弟にもおくれはてて、いとおしきおとこにすぎわかれたりしかども、子どもあまたおわしませば、心なぐさみてこそおわしつらん。いとおしきてこご、しかもおのこご。みめかたちも人にすぐれ、心もかいがいしくみえしかば、よその人々もすずしくこそみ候いしに、あやなく、つぼめる花の風にしぼみ、満月のにわかに失せたるがごとくこそおぼすらめ。まことともおぼえ候わねば、かきつくるそらもおぼえ候わず。またまた申すべし。恐々謹言。
弘安三年九月六日 日蓮 花押
上野殿御返事
追って申す。
この六月十五日に見奉り候いしに、「あわれ、肝ある者かな。男や、男や」と見候いしに、また見候わざらんことこそかなしくは候え。さは候えども、釈迦仏・法華経に身を入れて候いしかば、臨終めでたく候いけり。心は父君と一所に霊山浄土に参りて、手をとり頭を合わせてこそ悦ばれ候らめ。あわれなり、あわれなり。
現代語訳
南条七郎五郎殿の御死去のこと、人は皆、生まれては死ぬのが習いとは、智者も愚者も、上の人も下の人も一同に承知していることであるから、今はじめて嘆いたり、驚いたりすることではないと、自分も思い、人にも教えてきたが、さて、いよいよその時にあたってみれば夢か幻か、未だに判断がつきかねるほどである。ましてや母はいかばかり嘆かれていることであろうか。父母にも兄弟にも先立たれ、最愛の夫にも死に別れたが、子供が多くおられたので心が慰められておられたであろうに……。可愛い末の子で、しかも男の子、容貌も人に勝れ、心もしっかりして見え、よその人々もさわやかな感じをもって見ていたのに、はかなく亡くなってしまったことは、花の蕾が風にしぼみ、満月が突然になくなってしまったようなものである。ほんとうとも思えないので、励ましの言葉も書きようがない。またまた申し上げる。恐恐謹言。
弘安三年九月六日 日 蓮 花 押
上野殿御返事
追申。この六月十五日にお会いしたときには、あっぱれ肝のある者だな、すばらしい男だな、と拝見していたのに、再びお会いすることが出来ないとは、何とも悲しいことである。しかし、また釈迦仏、法華経を深く信仰されていたから、臨終も立派だったのである。心はきっと父君と一緒に霊山浄土に参り、ともに手を取り頭を合わせ喜ばれていることであろう。あっぱれである。あっぱれである。
語句の解説
南条七郎五郎
(1265~1280)。南条兵衛七郎の五男。誕生する以前に父が死亡し、母の手で育てられた。豪胆で、かつ容貌もすぐれ、弘安3年(1280)6月、兄の時光とともに身延の日蓮大聖人を訪ね、大聖人からも、時光とともに公布のために活躍することを期待されていたが、同年9月、突然、死去した。
てこ
幼児のこと。方言に末っ子という意もある。
霊山浄土
釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
講義
本抄は、弘安3年(1280)9月6日、南条時光の弟、七郎五郎の死去を聞かれた日蓮大聖人が、弔意を表されるとともに、母・上野殿後家尼御前の心中を察し慰められた御書である。
本抄の内容から別名を「弔慰御書」ともいう。なお御真筆は、大石寺に現存している。
さて、本抄は宛名は「上野殿」となっているが、母・尼御前を慰められた内容となっている。
南条七郎五郎は、富士郡上野郷(静岡県富士宮市の一部)の地頭・南条兵衛七郎の五男であるところから〝七郎五郎〟といい、南条時光の弟にあたる。
七郎五郎が誕生する以前に、父が死亡し、母の手で育てられた。弘安3年(1280)6月15日には、兄・時光とともに御供養を携えて身延へ行き、日蓮大聖人にお会いしている。しかし、それからわずか三か月後に、突然、死去した。
本抄は、七郎五郎の突然の死去に対する大聖人の悲しみが、いかに深いものであったかが痛切にうかがわれる。そして何よりも悲しみに沈んでいる母・後家尼の心を察して述べられる御言葉の底には、まことに温かい人間味があふれている。
生死は世の常であり、それこそ仏法も当然の真理として説いているところであるが、現実に親しい人の死に直面すると夢・幻のように、信じられない気持ちであると述べられている。日蓮大聖人は末法の御本仏であられるが、人の死に対して決して悟りすました高みから物を言うのでなく、どこまでも凡夫の感情のままに、率直に御心境を語られているところに御本仏としての限りない温かさ、御境界の深さがうかがわれてならない。
次に「まして母のいかんがなげかれ候らむ、父母にも兄弟にも・をくれはてて……満つる月の・にわかに失たるがごとくこそをぼすらめ」と、母・上野殿後家尼御前の心中を思いやって、慰められている。
尼御前は、すでに、父母にも兄弟にも先立たれ、そのうえに、夫・南条兵衛七郎とも死別した身である。そうしたなかで、多くの子供に恵まれていることだけが、せめてもの慰めで、子等の成長を楽しみにしていたのであった。そこに今度の七郎五郎の突然の死去である。七郎五郎が頼もしい男の子であり、容貌も気質もともに人並に勝れ、だれもがさわやかに見ていたという子供だけに、母の哀惜の情と落胆はいかばかりであろうかと思いやられ、未来の可能性に富んだ七郎五郎が突然、死去した姿を「あやなく・つぼめる花の風にしぼみ・満つる月の・にわかに失たるがごとくこそをぼすらめ」と母親の哀惜の気持ちを推察されている。
最後に「まこととも・をぼへ候はねば・かきつくるそらも・をぼへ候はず」と述べられ、いまだに七郎五郎の死が本当と思えないので、どのように書けばよいかわからないでいると、本文を結ばれている。
仏法を学び、生死の理を知ると、人の死という問題に対して当たり前のこととして冷淡になったり、また悟りすました錯覚に陥って指導しようとしがちなものであるが、大聖人は微塵もそのような言辞を弄しておられない。子を亡くして悲しみ嘆くのは人間の当然の情であり、それを共に苦しみ大きく包容しきっていくのが慈悲である。指導めいた言葉よりも、悲しみを知ってくださっている大聖人のこの御手紙によって、母・尼御前はどんなにか慰められ、悲しみを乗り越える勇気を得たことであろう。
追申では、大聖人が七郎五郎と会った時の印象を想起され、その凛々しい姿を二度と見ることのできなくなった悲しさを述べられるとともに、短い人生であったが、法華経の信仰を貫いて亡くなったのであるから、成仏は疑いないと述べられ励まされている。
「釈迦仏・法華経に身を入れて候いしかば臨終・目出たく候いけり、心は父君と一所に霊山浄土に参りて・手をとり頭を合せてこそ悦ばれ候らめ、あはれなり・あはれなり」との御言葉に、母の後家尼御前は生命の奥底から慰められたにちがいない。
もとより、ここで仰せの「釈迦仏」とは久遠元初の自受用報身如来であり、「法華経」とは久遠元初の南無妙法蓮華経の意である。