訴状に云く今月二十一日数多の人勢を催し弓箭を帯し院主分の御坊内に打ち入り下野坊は乗馬相具し熱原の百姓・紀次郎男・点札を立て作毛を苅り取り日秀の住房に取り入れ畢んぬ云云取意。
此の条・跡形も無き虚誕なり日秀等は行智に損亡せられ不安堵の上は誰の人か日秀等の点札を叙用せしむ可き将た又尫弱なる土民の族・日秀等に雇い越されんや、然らば弓箭を帯し悪行を企つるに於ては行智云く近隣の人人争つて弓箭を奪い取り其の身に召し取ると云うが如き子細を申さざるや、矯飾の至り宜しく賢察に足るべし。
日秀・日弁等は当寺代代の住侶として行法の薫修を積み天長地久の御祈禱を致すの処に行智は乍に当寺霊地の院主代に補し寺家・三河房頼円並に少輔房日禅・日秀・日弁等に行智より仰せて、法華経に於ては不信用の法なり速に法華経の読誦を停止し一向に阿弥陀経を読み念仏を申す可きの由の起請文を書けば安堵す可きの旨下知せしむるの間、頼円は下知に随つて起請を書いて安堵せしむと雖も日禅等は起請を書かざるに依つて所職の住坊を奪い取るの時・日禅は即ち離散せしめ畢んぬ、日秀・日弁は無頼の身たるに依つて所縁を相憑み猶寺中に寄宿せしむるの間此の四箇年の程・日秀等の所職の住坊を奪い取り厳重の御祈禱を打ち止むるの余り悪行猶以て飽き足らず為に法華経行者の跡を削り謀案を構えて種種の不実を申し付くるの条・豈在世の調達に非ずや。
現代語訳
行智らの訴状に、今月二十一日、日秀は数くの者たちを誘い出し、弓や矢を身につけて、院主の分である建物の中に打ち入り、下野坊日秀は武具を付けて馬に乗り熱原の農民の紀次郎は立て札を立て、農作物を刈り取り、日秀の住む房に取り入れた、と大要そのようにいっている。
このことは全くのでたらめである。日秀は行智から不当に住坊を追われ、身を寄せる住居もない身であるから、いったいだれが日秀らの立て札を用いるだろうか。また立場の弱い土地の農民たちが、わざわざ日秀らに雇われることがあろうか。従って日秀らが弓や矢を身に付けて悪の所行を企てたのであれば、行智といい、近隣の人々といい、どうして弓矢を奪い取り日秀らの身を召し取って、事の次第を言わないということがあろうか。これらの申し立ては偽りの至りであり、よろしく御賢察いただきたい。
日秀や日弁等は、当滝泉寺代々の僧として、仏道修行を積み重ね、国主の長寿と民の平和を祈ってきたのであるが、行智は神聖な当滝泉寺の院主代の任務につきながら、寺僧である三河房頼円ならびに少輔房日禅・日秀・日弁等に仰せつけて「法華経は信用できない法である。お前たちもすぐさま法華経の読誦するのをやめ、ひたすら阿弥陀経を読んで念仏をとなえるという起請文を書けば、居る所を保証してやろう」という内容の命令を下したので、頼円は命令に従って起請文を書いて保障をうけたのであるが、日禅らは起請文を書かなかったので、住んでいる坊を奪い取ったところ、日禅は滝泉寺の地を離れ、河合の実家へ帰った。日秀・日弁は頼るところのない身であるので、縁を頼って、まだ寺の中に身を寄せていたのであるが、建治二年から今年までのこの四年間というものは、日秀らの住職としての坊を奪い取り、厳重に法華経の祈りを禁止しようとするあまり、これまでの悪行み飽き足らず、さらに法華経の行者の形跡をなくそうとして謀略を巡らして、さまざまなうそを周りに言いつけたのである。このことは仏在世の提婆達多そのものの姿ではなかろうか。
語句の解説
下野坊
日秀のこと。(~1329)日興上人が定めた本六のひとり。竜泉寺の住僧で、日興上人の弘教により大聖人門下となった。その後近郷の農民たちを化導したため、院主代・行智によって迫害され、この迫害は農民信徒にも及び、熱原法難に発展している。滅後は日興上人に帰依し大石寺創建時には理境坊を建てている。
乗馬相具し
武具を付けた馬に乗ること。
熱原
駿河国富士郡下方庄熱原、現在の静岡県富士市厚原のこと。
紀次郎男
日蓮大聖人が御在世当時に熱原に住んでいた農民と思われる。
点札
境界を示す札。
作毛
農作物。主として米を指す場合が多い。
虚誕
うそ、いつわり。
損亡
損失を受けること。
安堵
安心すること。住居に安住すること。
叙用
①位を授けること。人の言葉を用いること。②オウジャク
尫弱
か弱い立場。
土民の族
その土地の人。
矯飾
いつわり飾らずこと。
行法
仏法を修行する者。
薫修を積み
修行を積むこと。
天長地久
天地の存在は永遠であること。天地が永久であるように、物事がいつまでも続くことのたとえ。
祈祷
神・仏・菩薩に願い祈ること。
霊地
霊験あるところ。神聖な土地。霊場。
寺家
①寺院。②僧侶。③比叡山延暦寺の職名で、僧事・法会・威儀などの事務を行う者。④延暦寺から園城寺をさして言った言葉。
三河房頼円
滝泉寺の住僧で、日興上人の折伏によって大聖人の門下になったが、行智の脅迫に屈して退転した模様。
少輔房日禅
(~1331)日蓮大聖人御在世当時からの弟子。日興上人の本弟子のひとり。駿河国川合郡由比、現在の静岡市清水区由比の出身。滝泉寺の住僧であったが建治2年(1276)院主代行智により追放されている。日興上人のもとで富士大石寺の創建に尽力。南の坊を立て、また、上野に東光寺、府中に妙音寺を建てている。弘安3年(1280)には、大聖人より御本尊を授与されている。
停止
やめさせること。
起請文
神仏に誓いを立てて、自分の行為、言説に偽りがないことを表明した文書・誓紙・厳守すべき事項を記した前書き部分と、もしこれに違背すれば神仏の罰を受ける旨を記した神文からなるもの。
所職
任じられた職。
無頼の身
帰るところのない身。
所縁
縁するところ。
寄宿
他人の家などに身を寄せること。
調達
提婆達多のこと。
講義
ここからは、行智の訴状にある第二点に対する反論である。
まず「訴状に云く今月二十一日数多の人勢を催し弓箭を帯し院主分の御坊内に打ち入り下野坊は乗馬相具し熱原の百姓・紀次郎男・点札を立て作毛を苅り取り日秀の住房に取り入れ畢んぬ云云」とあるように、行智の訴状のなかのもう一つの論点が要約的に示されている。
それによると、9月21日、下野坊・日秀が馬に乗って先頭に立ち、弓や刀で武装した多数の暴徒を指揮して滝泉寺の院主の住坊に乱入し、熱原の農民・紀次郎が立て札を立て、滝泉寺の田から稲を刈り取って日秀の住坊へ運び入れたというものである。この行智の訴えに対し、まず「此の条・跡形も無き虚誕なり」と事実無根の作り事であると反論している。その理由として、日秀はすでに行智によって損失をこうむり、住む房もなく、所轄する土地も奪い取られた立場であるから、訴状のいうように、立て札の立てようもなければ、日秀らは農民たちを雇えるわけもないからである、と述べている。
「然らば弓箭を帯し悪行を企つるに於ては」の部分は、日秀が悪行を企めるはずがないことを述べられている。すなわち、住坊を追われ、辛うじて知り合いの所に身を寄せて、細々と生活している日秀・日弁らに、武装して馬を駆り、人々を集めて乱暴狼藉を働ける資金などあろうはずもないうえ、もし、そのような行いがあったというのであれば、近くに下方政所もあり、悪党を取り押えられるだけの役人たちもいるのだから、召し捕らえ、その武器や馬も証拠物件として提出できるはずである。
しかるに、現実に捕えられて鎌倉へ送られているのは、何の抵抗の術ももたない農民たち20人だけであるから、この訴えの内容がでたらめであることは明々白々ではないかと一蹴し、これは客観的に判断していただければお分かりいただけるはずであると述べている。
なおこの反論からいえることは、熱原の農民信徒20人が9月21日に捕えられたのであるが、日秀らの持ち田の稲刈りを手伝っているところを襲いかかれ、稲盗人として捕えられて鎌倉へ送られたものであるというのは当を得ていないことである。すなわち、この反論は、行智が訴えている乱暴狼藉を働いたということの虚偽にとどまらず、日秀には持ち田そのものがなかったことをしめしているからである。
ただし、20人の農民が捕えられたことは事実であり、もし彼らが一挙に捕えられたとすると、日秀の持ち田ではなく、この農民たちのだれかの田の稲刈りを皆で協力して手伝っていたところを襲われたとも考えられる。また、もし日秀・日弁いずれかの持ち田であったとすれば、日秀・日弁も一緒にいたはずで、彼ら農民たちと一緒に捕えられていたにちがいないからである。
次いで「日秀・日弁等は当寺代代の住侶」以下、滝泉寺でまじめに修行に励んできた日秀・日弁らを、院主代の行智が迫害した不当性が明らかにされる。特に行智が彼らを迫害する理由は、行智自身、念仏に心を寄せ、寺内の僧たちにも法華経など信じないで念仏を称えさせようとしたことにある。ところが日秀らがそれに従わないので追放処分にしたのである。
もともと滝泉寺は天台宗の寺で、法華経を根本とするのが筋であって、法華経信仰を理由に追放すること自体、不当である。百歩譲って、当時の天台宗寺院は修学の場として学校という色彩が強かったとしても、その寺内にとどめて経に心を寄せる依拠とするのは各人の自由に委ねられていた。従って行智が自らは念仏を信仰したとしても、それは本人の自由であるが、寺内の僧たちに念仏を強制する権限はなかった。
にもかかわらず、日秀・日弁を、自分の命令どおりに法華経を捨てて念仏を称えないからといって、すでに4年来、住房から追い出して苦しめ、しかもそのうえに、完全に根絶にしようという意図から、今度は根も葉もない罪名をでっちあげて幕府権力に訴えたのでる。法華経をまじめに信仰し、仏法のため、国家社会の平和と人々の幸せのために実践修行に励んでいる僧を亡き者にしようと謀略を巡らすのは「豈在世の調逹に非ずや」と厳しくその本質を指摘している。調逹とは釈尊在世に釈尊に害を加え、ひとたび命を狙った末に、最後は生きながら地獄に堕ちたとされる提婆達多のことである。