滝泉寺大衆陳状 第四章(阿弥陀読誦の誤りを破折する)

滝泉寺大衆陳状 第四章(阿弥陀読誦の誤りを破折する)

 弘安2年(ʼ79)10月 58歳

次ぎに阿弥陀経を以て例時の勤と為す可きの由の事、夫れ以みれば花と月と水と火と時に依つて之を用ゆ必ずしも先例を追う可からず、仏法又是くの如し時に随つて用捨す、其の上・汝等の執する所の四枚の阿弥陀経は四十余年未顕真実の小経なり、一閻浮提第一の智者たる舎利弗尊者は多年の間・此の経を読誦するも終に成仏を遂げず然る後・彼の経を抛ち末に法華経に至つて華光如来と為る、況や末代悪世の愚人・南無阿弥陀仏の題目計りを唱えて順次往生を遂ぐ可しや、故に仏・之を誡めて言く法華経に云く「正直に方便を捨て但無上道を説く」と云云教主釈尊正しく阿弥陀経を抛ちたまう云云又涅槃経に云く「如来は虚妄の言無しと雖も若し衆生の虚妄の説に因るを知れば」と云云、正しく弥陀念仏を以て虚妄と称する文なり、法華経に云く「但楽て大乗経典を受持し乃至余経の一偈をも受けざれ」云云、妙楽大師云く「況や彼の華厳但福を以て比せん此の経の法を以て之を化するに同じからず故に乃至不受余経一偈と云う」云云、彼の華厳経は寂滅道場の説・法界唯心の法門なり、上本は十三世界微塵品・中本は四十九万八千偈・下本は十万偈四十八品今現に一切経蔵を観るに唯八十・六十・四十等の経なり、其の外の方等・般若・大日経・金剛頂経等の諸の顕密大乗経等を尚・法華経に対当し奉りて仏自ら或は未顕真実と云い或は留難多きが故に或は門を閉じよ或は抛て等云云、何に況や阿弥陀経をや、唯大山と蟻岳との高下・師子王と狐兎との捔力なり。

  今日秀等専ら彼等小経を抛ち専ら法華経を読誦し法界に勧進して南無妙法蓮華経と唱え奉る豈殊忠に非ずや、此等の子細御不審を相貽さば高僧等を召され是非を決せらる可きか、仏法の優劣を糺明致す事は月氏・漢土・日本の先例なり、今明時に当つて何ぞ三国の旧規に背かんや。

 

現代語訳

次に、阿弥陀経をもって朝夕の勤めとすべきであると言っていることについて、そもそも考えてみるのに、花や月を愛でるのも、水や火を使うのも、時に応じて用いるものである。必ずしも過去の例を追う必要はない。仏法も同じである。時に応じて用いたり捨てたりするのである。そのうえ、行智らが執着している阿弥陀経四巻の経は、釈尊が「四十余年の間、未だ真実を顕さず」と断じられている小経である。世界第一の智慧の者である舎利弗尊者も、多年の間、この阿弥陀経を読誦し修行したけれども、ついに成仏を遂げることはできなかった。ところが、その後、彼の阿弥陀経をなげうち、法華経に至って悟り、未来に華光如来となる授記を得たのである。舎利弗さえそうであるから、まして末法の悪世の、仏法を知らない愚かな衆生が南無阿弥陀仏とだけとなえて、次の世で極楽浄土で往生することができようか。故に、仏はこのことを戒めて法華経方便品第二に「正直に、方便の教えである爾前経を捨て、この上ない最高の道である法華経を説く」と言われた。仏法の教主である釈尊がまさしく阿弥陀経を捨てられたということである。また大般涅槃経第十七には「如来には偽りの言葉はないが、もし衆生が偽りの言葉によって利益を受けることがあると知れば、よろしきにしたがって方便の教えを説く」とある。これはまさしく阿弥陀の念仏を偽りの説経とされた文である。法華経譬喩品第三には「ただ、願って大乗真実の経典を受持し、他の一偈でも受けてはいけない」と言われ、妙楽大師は「彼の華厳経では福をもって比較しているのであり、この法華経で法をもって比較しているのとは同じではない。故に『余経の一偈をも受けざれ』と言っているのである」と述べている。彼の華厳経は仏が寂滅道場で説いた、一切の世界はただ心によって造られるとする法門である。竜宮には三本あったとされ、上本は十の三千世界を砕いてできる微塵の数ほどの品があり、中本は四十九万八千の偈があり、下本は十万の偈、四十八品である。今、現実に一切経蔵をみると、ただ八十巻のもの、六十巻のもの、四十巻等の経がある。そのほか方等時の経典・般若経・大日経・金剛頂経等のさまざまな顕経・密経の大乗経典を、法華経と比べて、仏自らが、あるいは「他の経は未だ真実を顕していない」といい、あるいは「法華経を聞かない者は成仏ができない。それは難が多い、険しい道を行くようなものである故である」と言っており、あるいは「法華経以外の門を閉じよ、抛て」等と言っているのである。ましてそれより劣る阿弥陀経は比較にならない。ただ大きな山と蟻の作った小さな砂山とをどちらが高いか低いかを争うようなものであり、師子王と狐や兎とが力比べをするようなものである。

今、日秀等が彼の小経をなげうち、法華経のみを読誦し、世のあらゆる人々に勧めて南無妙法蓮華経と唱えていくことこそ、ことのほか日本国に対する忠義ではなかろうか、今まで述べてきたことの詳細について不審が残っているならば、諸宗の高僧等を召し出され、どちらの言っていることが是か非かを決せられるべきではなかろうか。仏法の優劣を究明することは、インド・中国・日本において先例がある。今、明君の時であり、どうしてインド・中国・日本の三国の先例に背いてよいのであろうか。

語句の解説

阿弥陀経

鳩摩羅什の訳。釈迦一代説法中方等部に属する。欲界・色界二界の中間、大宝坊で説かれた。無量寿経・観無量寿経とともに浄土の三部経のひとつ。教義は、この世は穢土であり幸福はありえないかあら、死後極楽浄土へ往生する以外にない。そのためには阿弥陀仏の名号を唱えよというもの。現世の諦めを根底とする方便の権教である。

 

例時の勤

決まった時間に行う勤行のこと。

 

四十余年未顕真実

「四十余年には末だ真実を顕さず」と読む。無量行説法品の文である。釈迦50年の説法のうち、初めの42年の教えは方便権教で、真実をあらわさない教えであり、最後の8年間の法華経で真実を説くとの意。40余年の爾前経を打ち破り、法華経を説くための重要な文である。

 

小経

小さな経・小乗教、仏の本意ではない方便の経。

 

一閻浮提第一の智者

全世界で最も優れた智慧の持主。

 

舎利弗尊者

梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。

 

華光如来

釈迦の十大弟子の中で最も智慧に優れた舎利弗が、将来仏となった時の名で、その時に住む国の名。舎利弗は未来世において千万億の仏に導かれ、法を正しく保ったため成仏するとされる。華光如来の寿命は十二小劫で、大宝荘厳の国民の寿命は八小劫であり、そして華光如来が世を去る際に弟子の堅満菩薩に次のような記を与えるとした。曰く、この者は私の次に仏となり、名は華足安行如来である。そしてまた、華光如来入滅後に正法と像法は三十二小劫の間続くだろう、とされた。

 

末代悪世

末代は正像末の三時のうちの末法。悪世とは人心が乱れ、悪事の横行する世との意味で、末法は三毒強盛の衆生が充満し、釈尊の教えでは救いきれない悪い世であることをいう。

 

南無阿弥陀仏

阿弥陀仏に南無すること。観無量寿経にある。善導は観経疏巻一で「南無と言うは即ち是れ帰命なり、亦是れ発願廻向の義なり。阿弥陀仏と言うは即ち是れ行なり。斯の義を以っての故に必ず往生を得」と釈し、南無阿弥陀仏の六字を称え心に念ずれば極楽世界に往生できるとしている。

 

順次往生

死んですぐに往生するという浄土宗の僧。

 

教主釈尊

一代聖教の教主である釈尊のこと。釈尊には六種、蔵教・通教・別教・法華迹門・法華本門・文底独一本門の釈尊があるが、釈尊教主は教法の主導の意で、法華文底独一本門の教主、日蓮大聖人のこと。ただし御文によってまれに、インド応誕の釈迦仏をさす場合もある。

 

涅槃経

釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。

 

虚妄

虚言のこと。十悪のひとつ。一般世間での妄語は、その及ぼす影響は一時的・小部分であるが、仏法上の妄語は、それを信ずる人を無間地獄に堕さしめ、さらに指導者層の妄語は多くの民衆を苦悩に堕しめることになる。正法への妄語はなおさらである。

 

弥陀念仏

阿弥陀仏の名を称え、深く心に念ずること。

 

大乗経典

仏法において、煩雑な戒律によって立てた法門は、声聞・縁覚の教えで、限られた少数の人々しか救うことができない。これを、生死の彼岸より涅槃の彼岸に渡す乗り物に譬え小乗という。法華経は、一切衆生に皆仏性ありとし、妙境に縁すれば全ての人が成仏得道できると説くので、大乗という。阿含経に対すれば、華厳・阿含・方等・般若は大乗であるが、法華経に対しては小乗となり、三大秘法に対しては、他の一切の仏説は小乗となる。

 

一偈

「偈」ゲダ(gāthā)の音写。仏典の中で韻文形式を用いて仏の徳を讃嘆したり、法理を述べたもの。頌ともいう。梵語の仏典では、八音節四句からなるシュローカ、音節数は自由だが必ず八句二行からなるアールヤーなどがある。漢訳仏典では別偈と通偈に分かれており、別偈は一句の字数を三字四字などに定めて四句となしたものをいう。別偈は更に、前に散文の教義なしに記された伽陀と、前に散文の教義があって重ねてその義を説いた祇夜の二つに分かれている。通偈は首盧迦ともいい、散文、韻文にかかわらず、三十二字を一頌と数えることをいう。なお教義には別偈のみを偈とする。

 

華厳

華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。

 

寂滅道場

釈尊は19歳で出家し、最初は多くの婆羅門について学んだが、解脱の道でないことを知り、もっぱら苦行に励んだ。しかし、これも解脱の道とはならず、尼連禅河にはいり沐浴して、一人の牧女・難陀婆羅の捧げる乳を飲んで身心がさわやかになることができた。こうして最後に伽耶城の菩提樹下の金剛宝座の吉祥の奉る浄輭草をしいて安住した。ここで沈思黙想7週間(49日)魔を降して128日の朝暁、朗然と悟りを開き、その座で3週間十方から集まった諸大菩薩に説いたのが華厳経であり覚道の地であるがゆえに「寂滅道場」という。

 

法界唯心

あらゆる存在はただ心が造り出したものであり、決して心を離れて存在するものではなく、心の外には別の法はないと説く華厳宗の教義。唯心法界のこと。

 

一切経蔵

①三蔵の一つで経典のこと。②経典を納める書庫。

 

方等

方等経のこと。方とは方正、等とは平等にして中道の理。したがって方等とは広く大乗経である。

 

般若

般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。

 

大日経

大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。

 

金剛頂経

金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経の略。唐の不空訳3巻。真言三部経の一つ。密教の根本経典。金剛界の曼荼羅とその供養法を説く。

 

顕密大乗経

顕教と密教を説いている種々の大乗経典。

 

対当

比較相対すること。

 

留難多きが故に

無量義経十功徳品第34「其れ衆生あって聞くことを得ざる者は、当に知るべし、是等は 為れ大利を失えるなり。 無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐれども、終に無上菩提を成ずることを得ず。 所以は何ん、 菩提の大直道を知らざるが故に、険径を行くに留難多きが故 に」とある。法華経を聞かない者は、難が多く険路を行くようなもので、いつまでも成仏できないとの意味。

 

蟻岳

蟻塚のこと。蟻が巣を作る際、地表に出した土でできた山。

 

師子王

ライオンのこと。百獣の王であるとされ師子王という。仏は人中の王であることから師子にたとえる。

 

狐兎

キツネとウサギのこと。

 

捔力

「すもう」と読む。

 

読誦

読と誦のこと。「読」は経文を読むことで「誦」は暗誦すること。それぞれ五種の妙行のひとつで、ともに自行化他の自行にあたる。

 

法界

意識の対象となる一切の事物・事象。有情・非情にわたるすべての存在および現象をいう。法は一切諸法・万法・森羅万象・界は差別・境界。

 

勧進

勧め、さそうこと。①人々に勧めて仏道に入らせ、善に向かわせること。②仏寺・仏像の建立・修善などのために、人々に功徳善根を勧めて寄付を募ること。また、それにたずさわる人。

 

殊忠

強い忠誠心。

 

月氏

中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。

 

漢土

漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。

 

明時

①平和におさまっている世の中。②賢明な主君の世の中。

 

三国の旧規

三国は、インド・中国・日本。旧規は古い規則。先例。

講義

「次ぎに阿弥陀経を以て例時の勤と為す可きの由の事」とある。これは、滝泉寺において、院主代行智が念仏を恒例の勤めと定めたにもかかわらず、日秀らが従わないのは不当であるとの訴えのようである。

この点に関しては、権実相対の法門をもって答えとされ、その結びとして「今日秀等専ら彼等小経を抛ち専ら法華経を読誦し法界に勧進して南無妙法蓮華経と唱え奉る」すなわち念仏をはじめ爾前権教の小乗を捨てて南無妙法蓮華経と自らも唱え、広く人々に勧めていることこそ仏の真意にかない、日本国の人々の幸せを増大する道であるから、最も忠誠を尽くしていくことになると述べ、それでもまだ疑問があるなら高僧等を召して是非を決せられるべきであると結んでいる。

第一の訴状に対して、日蓮大聖人御自身が筆を執られた、以上の言葉を拝して分かるように、訴えられたことに対して単に受け身で答える「弁明」などではなく、積極的に諸宗および、それに与する幕府権力の仏法上の誤りと権力を担う者としてあってはならない過ちを指摘し、蒙古軍の襲来という未曽有の国難に直面している日本の国を救うため、正法正義を訴えられた烈々たる諌暁の書となっている。

このように、権力を盾に脅してくる相手を前に、普通ならば受け身になって弁明したり、逃れようとしたりするところを、むしろ正法に目覚めさせる好機として堂々と折伏し諌暁されたのが大聖人の振る舞いであられた。

これは遡れば佐渡流罪御赦免後の平左衛門尉との対面の御姿にも、さらには竜の口の法難の日、逮捕にきた平左衛門尉に対応された御姿にも共通して拝される。まさに、師子王の御振る舞いといえよう。

彼の華厳経は寂滅道場の説・法界唯心の法門なり、上本は十三世界微塵品・中品は四十九万八千偈・下本は十万偈四十八品今現に一切経蔵を観るに唯八十・六十・四十等の経なり、其の外の方等・般若・大日経・金剛頂経等の諸の顕密大乗経等を尚・法華経に対当し奉りて仏自ら或は未顕真実と云い或は留難多きが故に或は門を閉じよ或は抛て等云云、何に況や阿弥陀経をや、唯大山と蟻岳との高下・師子王と狐兎との捔力なり

阿弥陀経の読誦を日常の勤めとするように、幕府が諸寺に命令していることに対して、その非を諭している段落の一節である。「仏法又是くの如し時に随つて用捨す」とあり、仏法というのは時代時代によって、いかなる経教を用い、いかなる経教を捨てるか、ということが大切であることを述べ、阿弥陀仏の読誦は末代悪世の愚人には用いるべきではないとした後に、この文が説かれている。その内容は法華経以外の阿弥陀経を含む諸大乗経が釈尊50年の説法のうち、40余年の「未顕真実」の経々であることを明らかにしている。

諸大乗経のうち、まず、華厳を取り上げて、釈尊が菩提樹の下で寂滅の菩提を開いた直後に説いた経であることを明かし、この経の中心の思想が「法界唯心の法門」すなわち、全世界のあらゆる存在がただの心を造り出したものである。心を離れて存在するのではない、とする質の高い法門を説いていることを示した後、この経が膨大な量からなることを述べている。「上本は十三世界微塵品・中品は四十九万八千偈・下本は十万偈四十八品今現に一切経蔵を観るに唯八十・六十・四十等の経なり」とあるのは、華厳経がいかに膨大な量から成っているかを説いているところである。

まず、華厳経に「上本」「中本」「下本」があったというのは伝説として伝えられている。「上本」の華厳経は「十三世界微塵品」とある。ただし、華厳経伝記巻一には「上本、十三千世界微塵数偈微塵数品有り」とある。従って、三千大千世界を十集めた大宇宙に遍満する無限の微塵の数ほどある偈文から成っているのが「上本」であるということである。「中本」の華厳経は「上本」よりは限定されて「四十九万八千偈」から成り、「下本」ははるかに少なく「十万偈四十八品」から成る、とされている。伝説によると、この三種の華厳経のうち、上本と中本の華厳経は竜宮にあって、そのほかには伝わらず、第三の下本の華厳経のみが伝え広まったという。下本の華厳経はされに簡略化されて、三本が中国に伝えられたという。「今現に一切経蔵を観るに唯八十・六十・四十等の経なり」とあるのがその三本である。

まず「八十」華厳経は実叉難陀が四万五千偈を漢訳して八十巻としたものであり、「六十」華厳経は東晋の仏陀跋陀羅が三万八千偈を漢訳して六十巻としたものであり、さらに、般若三蔵が「入法界品」を漢訳して四十巻としたものが「四十」華厳経である。

次いで「其の外の方等・般若・大日経・金剛頂経等の諸の顕密大乗経等」とあるように、法華経を除けば質量共に勝れた華厳経以外の方等経・般若経・金剛頂経などの顕教・密経の諸経の名を挙げて、華厳経を含むこれらの諸大乗経は、「法華経に対当」すなわち、真実教であるとする法華経に対比すると、「未顕真実」となり、衆生が成仏するには困難の多い経々であり「門を閉じよ」「抛て」というべき経々であるとしたうえで、これらの諸大乗経ですら、そうなのだから「何に況や阿弥陀経をや」として、法華経に対するその位置の低さを強調している。

ここで、諸大乗経が法華経に対して「閉じよ」「抛て」の経であると述べているのは法然が浄土三部経以外の諸大乗経を「捨てよ・閉じよ・閣け・抛け」と否定した言葉を、逆に、法華経以外の諸大乗経、なかんずく、阿弥陀経を否定するのに用いたのである。なお、法華経と阿弥陀経との対比は、大山と蟻岳の高低、師子王と狐・兎とのすもう、に譬えている。

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