立正安国論
第八段 (謗法に布施を止めるの意を説く)
第三章 (謗法に布施を止める意を説く)
主人の云く、客明に経文を見て猶斯の言を成す心の及ばざるか理の通ぜざるか、全く仏子を禁むるには非ず唯偏に謗法を悪むなり、夫れ釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍の以後経説は則ち其の施を止む、然れば則ち四海万邦一切の四衆其の悪に施さず皆此の善に帰せば何なる難か並び起り何なる災か競い来らん。
現代語訳
主人のいわく。あなたは明らかに上来の涅槃経等の経文を見ていながら、なおそのような質問をするとは心がおよばないのか、通じないのか。自分が念仏者を断ぜよというのは、まったく仏子を禁ずるのではない。ただひとえに謗法を悪むのである。一体釈尊以前の仏教においては、その罪を斬るとあったが、釈尊以後の経説はすなわちその布施を停止するのである。しかればすなわち天下万民、一切衆生ことごとく、皆謗法の悪人に布施せず、この正法たる日蓮の門下に帰するならば、災難はすべて止まり、必ずや天下案泰・国土安穏となるのである。
語釈
能仁
能忍とも書く。釈尊のこと。「能く難を忍ぶ」の意で、仏が誹謗、迫害を忍んでなお一切衆生を救わんとする大慈悲の精神をいう。善無畏三蔵抄に「釈迦如来の御名をば能忍と名けて此の土に入り給うに、一切衆生の誹謗をとがめずよく忍び給ふ故なり」(0885:08)とある。
講義
先の客の問いに対する主人の答えである。まず謗法を禁ぜよといって僧侶を戒めることは、仏子を戒めることで、ひいては、その父である仏を悲しませる結果になるのではないか、との問いについては、まったく、私のいうのは、仏子を戒むるのではなく、謗法を憎むのである。
ついで、第一章の「斬罪に行う可きか」の問いについて、釈尊の以前は斬罪に行なった有徳・仙予等の実例があったが、釈尊の以後は、布施を止めることをもって謗法を対冶するを要諦となすと、その方術を明らかにされているのである。
夫れ釈迦の以前仏教は其の罪を斬る
仙予国王や有徳王のように、釈尊が3000年前、インドで出現して説いたよりも、ずっと昔の仏教では謗法の人を斬ったのである。いずれも、釈尊の因位の修行とされている。
偉大な三世にわたる生命観
そのようなことが事実であったかどうか、現在の科学的、歴史的研究によって、明らかにされていない。むしろ、否定的であり、三世の生命という考え方に対しては、お伽話のようにしか受け取っていない。おそらく、それは、西欧の科学によって育てられた、実証主義的思考法しか知らない現代人に共通するところともいえる。
だが、実証主義の、帰納法的思考のみが、人間の叡智のすべてであると誰が断言できるか。現代こそ、それが支配的になっているが、古代インドにおいては、時間、空間を超越した悟りによる、演繹法を叡智の主体としたのである。おそらく、彼らにとっては、現代科学の思考法のごときは、空にかける鳥が、ミミズの這うのを哀れむと同じように思えたことであろう。
だが、また一方では、現代科学は、徐々にではあるが、仏法の説く原理を証明しつつあるのが実相である。これはまだ推定の域を出ないが、氷河期以前に、相当、高度の文化が栄えたアトランティス大陸なるものが大西洋にあったことも、一部の学者の間で真剣に議論されている。他にも、偉大な文化が栄えた国家がなかったとはいいきれまい。そして、そこに仏法の繁栄した期間がなかったとも断定できないのである。
たとえ、これが事実でなかったにせよ、仏法は、なにも、この地球上のことのみを説くのではない。仏法では、大宇宙それ自体が妙法の当体なりと説くのである。されば、何十万年、何千万年、いや何億年の昔のどこか、他の天体に、地球上と同じような変化があり、そこに生物が、さらには動物が、そして人間が住んでいたことも充分考えられる。そして、そこに偉大な文化が栄えなかったと断定できるなにものもないのである。否、仏法においては、三世にわたり、また大宇宙にひろげて、仏国土を説ききっているのである。
千日尼御前御返事にいわく、
「法華経は十方三世の諸仏の御師なり、十方の仏と申すは東方善徳仏・東南方無憂徳仏.南方栴檀徳仏・西南方宝施仏・西方無量明仏・西北方華徳仏・北方相徳仏.東北方三乗行仏・上方広衆徳仏.下方明徳仏なり、三世の仏と申すは過去・荘厳劫の千仏・現在・賢劫の千仏.未来・星宿劫の千仏・乃至華厳経・法華経.涅槃経等の大小・権実・顕密の諸経に列り給へる一切の諸仏.尽十方世界の微塵数の菩薩等も・皆悉く法華経の妙の一字より出生し給へり」(1315:02)。
これは仏の透徹した眼から見た世界であり、われわれが感得する以外にない問題である。しかして、現代科学が、これを証明する方向に進んでいくことは、すでに、第二段第六章で論じたところである。さらにまた、仏法では、永遠の生命に立脚し、きびしく過去・現在・未来における生命の連続を説き明かしているのである。これもまた、体験の問題であり、人間の生命に感得する以外にないのである。これ東洋哲学の真髄であり、やがて西洋哲学も科学もこれに近づくことと思う。現実に、ヨーロッパ哲学の内部においても、アリン・ベルグソンのごとく、生の跳躍をもって、人間叡智の中核とする思想が現われている。
すなわち、ベルグソンによると、
われわれを取り巻いている外的世界は「等質的空観」としての「物質」の世界であり、通俗的に用いられている時間というものも、実はこのような空間に影を投じた時間にほかならない。
これに対して、われわれ自身の内的世界は、「異質的時間」であり、存在することなく、生育するのみの「自由」の世界である。そして、人間の意識とは「純粋持続」である。これがすなわち世界の内的本質であって、それを「生の飛躍」という。したがって、世界は機械論的立ち場からも、目的論的立ち場からも捉えられていない、不断の「創造的進化」にほかならず、「生の飛躍」は、空間的な物質の世界しか捉えることのできぬ「悟性」によってではなく、「直観」によって初めて捉えられる、と説く。
この考え方は、東洋哲学の演繹主義を理解するために、きわめて接近したものといえよう。
また、アインシュタインや、ガリレオや、ニュートンのごとき、最も実証哲学の依処となった自然科学の分野で、その偉大な発展の道を切り開いた天才たちは、いずれも、その発見を、一瞬の悟りによって得たといわれている。そのあとで、自己の掴んだ真理を、あるいはみずから実験し、あるいは他の誰かが実験、経験して証明しているのである。
生命の本質究め尽した仏法
このように考えてみると、釈尊の前生の話も、そんなばかな話があるものかと嘲笑うわけにいかないものを感ずるはずである。むしろ、われわれは五五百歳の予言、末法世相の予言、付法蔵の導師たちに関する予言等々、釈尊が未来に関していったことが、すべて的中していることから、過去に関していっていることも、事実として信じないわけにはいかないのである。
ある書物に、チベットのダライ・ラマ高僧たちをめぐる、さまざまな話が述べられていた。
そして、なによりも、現代人に不思議に感じられたのは、三世の生命観が皆に共通の考え方として、ごくあたりまえのこととされている点である。たとえば、ダライ・ラマの後継者を捜すのに、国じゅうの該当する年齢の男子にあたり、なくなったダライ・ラマの特色とまったく一致している男の子を見いだしてきて、これをまったくダライ・ラマの後身として遇し、やがて位につける。
同様のことが、おそらく古代インドでも常識とされていたにちがいない。釈尊が過去に仙予国王であった。また有徳王として出現したこともある等とも説いて、不思議でもなんでもなかったのである。
開目抄にいわく、
「月氏の外道・三目八臂の摩醯首羅天・毘紐天・此の二天をば一切衆生の慈父・悲母・又天尊・主君と号す、迦毘羅・漚楼僧佉・勒娑婆・此の三人をば三仙となづく、此等は仏前八百年・已前已後の仙人なり、此の三仙の所説を四韋陀と号す六万蔵あり、乃至・仏・出世に当つて六師外道・此の外経を習伝して五天竺の王の師となる支流・九十五六等にもなれり、一一に流流多くして我慢の幢・高きこと非想天にもすぎ執心の心の堅きこと金石にも超えたり、其の見の深きこと巧みなるさま儒家には.にるべくもなし、或は過去・二生・三生.乃至七生・八万劫を照見し又兼て未来・八万劫をしる、其の所説の法門の極理・或は因中有果・或は因中無果・或は因中亦有果・亦無果等云云」(0187:08)と。
外道においてすら、このとおりであるから、仏教で三世にわたる生命観を説くのは、当然のことであたろう。
もとより、現代のわれわれは、こうした力はない。それは、いわゆる小乗の聖者・阿羅漢の得る六神通のなかの宿命通にある。日蓮大聖人の仏法においては「法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず」(0016:13、唱法華題目抄)と仰せのごとく、そのような神通を現ずる者があるとすれば、魔の眷属と断ぜられるのである。
しかして、正しい仏法の考え方は「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(0231:04)でなければならない。三世にわたる生命の因果は厳然たる事実である。現在の生命に、過去のいっさいが含まれ、しかも未来への因をなしている。したがって、過去の因によって、果として現われた現在の境遇がいかに対処し、これを転換して、未来、幸福になるべき因となしていくかが重大である。ここに、生命の本質、宇宙の実相を究め、それを実践化した仏法の出現が要求される。
この仏法を知らなくては、人生はただ宿命のままに漂わされる、木の葉のごときものとなる。仏法を知らない人々が自由や平等、尊厳を叫んでいるのは、仏の眼から見れば、所詮、波間に漂う木の葉の上での自由・平等・尊厳にすぎない。いわゆる福運を、天なる神の意志とし、人間の力のおよばざるところとする思想が、これを如実に表明している。
仏法は、この宿命、運命を転換する法である。譬えてみれば、波をきって進む船である。仏法を信じ、実践し、その哲理を学ぶ者こそが、真実の自由・平等・尊厳を謳歌することができるのである。
なお、釈尊の因位の世を仙予国王といい、有徳王というも、いずれも始成正覚の仏の境涯であり、垂迹化他である。すなわち、仏法弘通の姿を示すために、こうした因行が説かれたのである。観心本尊抄に、本門脱益三段を説かれたなかに「又本門十四品の一経に序正流通有り涌出品の半品を序分と為し寿量品と前後の二半と此れを正宗と為す其の余は流通分なり、其の教主を論ずれば始成正覚の釈尊に非ず所説の法門も亦天地の如し十界久遠の上に国土世間既に顕われ一念三千殆んど竹膜を隔つ、又迹門並びに前四味・無量義経・涅槃経等の三説は悉く随他意の易信易解・本門は三説の外の難信難解・随自意なり」(0249:01)とあるように、仏は久遠の昔に成道して以来、常に娑婆世界にあって「常住此説法」しているのである。
しかして、釈迦仏法においては、久遠五百塵点劫成道しか説かず、また化他の辺を脱しきってはいない。日蓮大聖人の仏法によって初めて、無始無終の仏の生命が明かされ、真実の十界互具、一念三千の法門が確立されるのである。
三世諸仏総勘文教相廃立にいわく、
「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時 我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき、後に化他の為に世世・番番に出世・成道し在在・処処に八相作仏し王宮に誕生し樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ四十余年に方便教を儲け衆生を誘引す、其の後方便の諸の経教を捨てて正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕して其の中に四十二年の方便の諸経を丸かし納れて一仏乗と丸し人一の法と名く一人が上の法なり」(0568:13)云云と。
「五百塵点劫の当初」とは、久遠元初の意であり、したがって「釈迦如来」とは、久遠元初の自受用報身如来であられる。仏教は、けっして今から3000年前に、インドに出現して初めて説いたものではなく、この宇宙と共に、無始永遠の昔より常にあったことを知らなくてはならない。
能忍以後教説は則ち其の施を止む
能忍とは釈尊である。すなわち釈尊以後は、謗法を禁ずる最直道として、謗法に対する布施を止めるのである。これ、破仏法、破国の根源を断つ要諦であり、われら創価学会員が、謗法の者を折伏していく方法が最も正しいとの文証である。
日蓮大聖人の御在世当時、寺にとって最大の施主は、鎌倉では幕府要人であり、京では天皇家、公卿であった。北条時頼は道隆のために建長寺を建立・寄進し、また執権職隠退後は、最明寺に住して、世に最明寺殿と呼ばれた。時頼の大叔父にあたる重時もまた、良観のために極楽寺を建立・寄進し、火災にあったのちも、再建を全面的に負担している。また、京、奈良の大寺院は、天皇家や公卿から多数の荘園の寄進を受け、そこから取り立てた租税によって、経営を維持していた。
したがって、これらの謗法の寺を断絶し、そこに巣くう邪僧たちの息の根を止めるには、幕府要人や天皇、公卿を諌め、寄進、布施をやめさせる以外になかった。民衆の浄財寄進等もあったが、所詮、高位の人々が帰依しているからとの理由で、これにならったにすぎなかったし、金額もたいしたものではなかった。高位の人々を止めれば、民衆もそれにならって布施をやめることは決定的であった。
民衆の中に繰り広げられる折伏
現在は民主主義の時代である。民衆一人一人の、第一には宗教に対する無智、第二には人生に対する真剣な思索の欠如、第三には社会、世界の繁栄、平和の問題に対する無関心が、謗法の存在を許しているといっても過言ではない。ごく小部分の人は、これらの内の一つは真剣に考えているが、そのために他の二つはなおざりにされている。むしろ、せざるをえないというのが本当かもしれない。それは、なによりも、この三つを同時に現実する高い思想、哲学は、日蓮大聖人の仏法以外にないからである。
大聖人御在世にあっても、大聖人、日興上人が折伏の第一線に立たれ、武士であろうと、町人、農民であろうとかかわりなく、民衆一人一人と語り合われた、そしてその生命に、正法の信心を植えつけられたのである。
所詮、赤裸々の一個の人間になりきった者が強い。また革新的でもある。権勢、名誉、地位に縛られた者は、保守的になりがちである。政治の舞台では賢者とうたわれながら、人生の根本的な舞台では愚者である場合が多い。聡明といわれた北条時頼も、結局は、大聖人の教えに従うことができなかったのである。
それに反して、あれほど大聖人が幕府から迫害され、悪僧呼ばわりされたなかにあっても、その教えに帰依する人は、年々増加していったのである。しかも、そうした人々の多くは社会の中堅階層であり、学識のある人々であった。このことは、法然の念仏が、いち早く藤原兼実等の有閑貴族と結託し、下は無智蒙昧の底辺の民衆に浸透し、しまいには法然の手にも負えないほどの狂態を呈したのと、実に対照的といわなければならない。
のち、弘安年中にはいって、日興上人が指揮をとられた駿河方面の大折伏は、多くの農民が続々入信し、三類の強敵の嵐を呼び起こした。そして、ついに弘安2年、有名な熱原法難となって現われたのである。この時、20数人の百姓が拷問されたが、毅然としてその苦しみに耐えた。
拷問の末、神四郎、弥五郎、弥六郎の3人は、ついに斬殺されたが、これらの人々は、かねてから、熱原の百姓たちの中心となった指導者で、法難の嵐から他の農民たちを守り抜いた情熱と、指導ぶりは、刮目すべきものがある。最後まで大聖人の正義を叫び、横暴な狂乱せる平左衛門尉一党の権力と敢然と戦いきって、法難の華と散っていったのである。総指揮を取られた日興上人の教化の偉大さが、伺われるではないか。大聖人はここまで信心が確立されているのを御覧になって、出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊を御図顕あそばされたのである。
このように、民衆の一人一人と膝を突き合わせて語り合う、折伏は、大聖人御在世のころより700年、厚い雪におおわれて、耐えて芽をあらわすことはなかったが、来るべき時を、忍耐強く待ったのである。
創価学会の前進と既成仏教の狂乱
戦後、民主主義の実現、信教の自由の保障、折伏の師匠の出現、これまさに時の到来であった。広宣流布の春を迎えたのである。折伏に対して、今や、いかなる権力も、これを弾圧し、妙法護持者を迫害することはできなくなったのである。
謗法の悪鬼が其の身に入った、権力の700年間の総決算ともいえる軍部と戦いきって、戸田前会長は、出獄された。そして、大聖人の化儀の広布の御遺命を実現するため、戦いを開始したのである。それは、一人の同志をつくることから始まった。座談会を設け、一人を入信させ、また、その人が折伏していく。
昭和26年、会員の熱烈な推挙によって、恩師戸田先生が、第二代会長に就任された時は、約3000世帯になっていた。7年後の昭和33年、念願とされた75万を越える80万世帯を達成して、戸田前会長は霊鷲山へ帰られたのである。それからさらに7年、昭和35年に私が第三代会長に就任して以来、今、学会世帯数は500数十万世帯を数え、折伏は世界を舞台として展開されるようになった。
もとより、この間、三障四魔、三類の強敵は、紛然として競い起こった。妙法流布の前進には、障魔との戦いの歴史の異名であるといっても過言ではない。兄弟抄にいわく「此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」(1087:15)と。
なによりも、障魔の根源は、信者を学会の折伏によって失い、収入を激減された謗法であった。今後も、変わらない方程式であろう。今日、普通の寺は、約100軒の檀信徒で維持されている。小さい寺になると50軒ぐらいのもある。学会が月に5万世帯の折伏をすると、500の謗法の寺が倒されたことになる。10万世帯だと1000寺院である。
檀信徒の離脱防止に躍起となった邪宗寺院は、まず村八分や町内の交際断絶の手段で、学会に入信した家庭を圧迫し、心をひるがえさせようとした。しかし、これは社会問題になるし、村人や町内の人々に威令が徹底されないとわかると、次は学会にはいった人が、その後も寺の墓地をもっている、墓を破壊したり、死人が出ても、その埋葬を拒否してバリケードを築く等の狂気の沙汰を始めたのである。
これもまた、昭和34年、厚生省通達によって、寺側のやり方がまったく不当であることが確認された。
最近は、学会誹謗のパンフレットを出して檀信徒に回し、学会の折伏によって信者が離れていくのを必死に防ごうとしている。だが、その内容は、支離滅裂で、自宗の低級さと無能ぶりを暴露するのみに終わっている。所詮、はかない努力にほかならない。
また、もう一方では、各宗連合して候補を押し立て、政界に代表を送ろうとしている。主義・主張の異なるがゆえに、一宗を形成しているはずの宗教が、一体、何のために連合するのか、宗教は人生の根本に関するもので、そこには妥協はありえないはずである。自宗の主張より大事な、妥協しなければならないものがあるとすれば、その自宗の教義は宗教としての意義のない、無益なものであることをみずからの認めることにほかならない。すなわち、全日仏・新宗連等、宗教が連合しているのは、彼らみずから、自己の宗教が無用の長物であること、一宗一派を形成しているのは、利益を追う営業にほかならないこと、世に宣揚しているのと同意なのである。
もし、世界平和のために、教義の相違を捨てて大同団結しなければならないというのであれば、それは自宗の教義には、世界平和を実現する哲学がないことを意味する。また、宗教は個人の救済が分野であるというならば、戦争の脅威におびえ、社会の混乱に翻弄される人間は、わが宗の救済できるところではないと宣言したようなものである。一体、世界の情勢、社会の動向とは無関係な人間がどこにいるのか。人間である以上、そのような存在はありえない。ということは、これらの宗教は誰人も救うことができないということである。
もし、個人を救うというならば、その宗教は、同時に世界平和をも、社会の繁栄をも実現していく哲学がなくてはならない。しかして、その教義、哲学をもって一宗一派を形成している以上は、教義の異なる他の宗派と妥協できるものはないのが当然である。いっさいの宗教と妥協せず、孤高を持した宗教は創価学会以外にない。この一事をみても、創価学会のみが、世界で正しい唯一の宗教であることが断言できるのである。
今や創価学会は500万世帯を越えるにいたった。一寺院100軒として、5万の邪宗寺院に対して「其の施を止めた」ことになる。「早く天下の静謐を思わば須く国中の謗法を断つべし」の御金言を、実践しているのは、われら学会員である。必ず、世界平和実現の道は、われわれの前進によってのみ開かれていることを確信しようではないか。
四海万邦一切の四衆
日蓮大聖人の仏法が、単に日本一国のものでなく、全世界に流布すべき大白法であることを明示された御文である。
大聖人出世の御本懐である、本門戒壇の大御本尊は「一閻浮提総与」の御本尊であられる。一閻浮提とは全世界という意味である。日本民族だけでもなければ、アジア民族だけでもない。アメリカ大陸の民衆も、ヨーロッパの民衆も、アフリカの民衆も、すべての人類に与えられた御本尊との意である。
ゆえに、三大秘法抄にも、
「事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋給うべき戒壇なり」(1022:17)と仰せである。「三国並に一閻浮提」とは、日本・中国・インドの、過去に大乗仏法が流布した有縁の国々はもとより、全世界の民衆が、この大御本尊のまします戒壇に詣でて懺悔するならば、無始以来の一切の罪障を消滅し、幸福になることができるという意味である。
顕仏未来記にいわく、
「此の人は守護の力を得て本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか」(0507:06)。
また、同じく顕仏未来記にいわく、
「月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く」(0508:02)と。
諌暁八幡抄にいわく、
「天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり」(0588:18)と。
その他、この仏法が世界に流布すべき大法であることを教示された御文は、枚挙にいとまがない。このように、みずから世界の宗教であることを宣言された宗教は、日蓮大聖人の仏法以外にない。
民族宗教と世界宗教
たとえば、いわゆる世界宗教として、キリスト教、イスラム教がある。だが、最も世界宗教的とされるキリスト教も、悲惨なユダヤ民族に伝えられたメシヤ思想を変革させたもので、救済の目的もユダヤ民族に限られていた。なによりも、彼が30歳で弟子ユダに裏切られ、官憲に捕えられて死に直面したとき「神よ、なぜ私を見捨て給うか」と嘆きながら息絶えたという事実は、彼の教えが人類を救うというには、あまりにもたよりないことを物語っている。また、神は救いの手を差し伸べなかったことを立証しているといいたい。
このうごかすことのできない事実に対して、いかにいいわけをしようと、それは論理のすり替えであり、ペテンにすぎない。ある人はいう。「彼は、人類のいっさいの罪を背負ってしんだのだ」と。それでは、彼以後、罪を犯す人はなくなったか。あるいは罪のために身を滅ぼす人はいなくなったか。すべて答えは否定である。ローマ帝政下、大競技場で無数の獅子の餌になって殉教死した。また、キリスト教全盛時代、無数の罪なき民衆まで、異端の烙印を押され、罪におとしいれられた。
特に、ユダヤ民族に対する迫害は熾烈をきわめた。中世以来、キリスト教社会のヨーロッパ各地を流浪したユダヤ民族は、他のアジア等を流浪したユダヤ人に較べて、天地雲泥の悲惨であった。20世紀にはいって、ナチス・ドイツがユダヤ民族絶滅をうたい、数百万にのぼる大虐殺を行った時も、キリスト教会は、なんらこれに対して抗議しなかった。
いわんや、キリスト教にせよ、イスラム教にせよ、その究極とするところは、唯一絶対、全智全能の神である。そこには誰人も納得できる道理・哲学はない。また実証もない。単に観念的に、そのような神の存在を唱え、人知がいまだ達し得ない自然、宇宙の神秘に対する畏れに便乗しているにすぎないのである。いわんや、人間生命に関する思索・解明はまったく欠如している。
これに対して、仏法は宇宙および生命の根源の法を究明しているのである。仏とは、この法を体得し、宇宙即我、我即宇宙の境涯に立たれた方をいう。しかして仏教とは、いっさいの民衆が、同じくこの悟りを得て仏になるために仏が慈悲をもって、その法を説かれた教えである。
キリスト教やイスラム教の神は、唯一絶対神であるから、人は神になることはできない。あくまで神は主人であり、人は奴隷にすぎない。ニーチェが、キリスト教を「弱者の哲学なり」と喝破したのは、まことに的を得ている。仏法は、いっさいの人を同じ境涯にしようとする。これこそ本源的な民主主義であり、全人類がなんの差別感もなく平等に団結していける哲理ではないか。
御義口伝にわく、
「されば此の如我等無異の文肝要なり、如我昔所願は本因妙如我等無異は本果妙なり妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳骨髄に非ずや、釈には挙因勧信と挙因は即ち本果なり、今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり豈今者已満足に非ずや、已とは建長五年四月廿八日に初めて唱え出す処の題目を指して已と意得可きなり、妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん事疑い無きなり此れを思い遣る時んば満足なり満足とは成仏と云う事なり」(0720:第六如我等無異如我昔所願の事:09)と。
すなわち、御本仏、日蓮大聖人の御心は、末法万年の全民衆を、御自分と同じく成仏せしめんとの大慈悲心であられる。
恒久平和の実現めざす創価学会
そして、大聖人の弟子として、大聖人の大慈悲の御精神を精神として、末法折伏の大業を遂行しているのが、わが創価学会である。この一切衆生に差別なく注ぐ仏の慈悲のもとに、全世界の民衆が結束した時、初めて真の恒久平和が実現されるのである。
ある学者の調査によると、西暦紀元前1500年から1880年までの間に、8000におよぶ平和条約が結ばれ、そのいずれもが恒久平和を維持するのに役立つと期待されたが、いずれも平均2年しか続かなかったということである。
平和は、人類の本然的な欲求である。だが、戦争もまた、本然的な欲求から起こるものである。それでは戦争はさけられないものか。否、絶対に避けうる。原始の昔、おそらく戦いは氏族間の争いであった。やがて氏族は、互いに連携し、団結するほうが有利だと気づいたにちがいない。こうして、次の段階の戦いは部族間の闘争となった。さらに、社会構成が進化すると、種族間あるいは民族間の争いとなった。18世紀から19世紀のヨーロッパ、20世紀のアジア、アラブ紛争は、実に民族闘争にほかならない。アフリカのコンゴ等では、今なお部族抗争に明け暮れている状態である。わが国において、数十の諸国に分かれて争った時代が終わったのは、明治維新によってであった。
このように、小さな囲いを壊して、より大きい単位で団結してきた過程が人類の発展史ともいえる。そこには、必ず「互いに変わりない人間なのだ」という平等意識と、対立にむだなエネルギーや犠牲を出すより、互いに力を合わせていくほうが得だという利害感情が働いている。
現代の世界は、一方で国家あるいは陣営の壁を越えて、結束していくべきだという気持ちもありながら、もう一面では、油断していたら踏み込まれ、惨めな目に合わせていくのではないかという不信感がある。理論的には、同じ人間であることは充分に理解できるが、理屈で動かせない感情が、疑惑・警戒心・対立意識をあおっているのである。
そして、この互いに大小のさまざまの壁をつくって、対峙し合っている人類の置かれている場所は、文字どおり一瞬にして、いっさいが吹き飛んでしまう火薬庫ではないか。両方の陣営で、叡智をふりしぼり、莫大な費用をかけて、苦労して作ったものは、核兵器という危険物にほかならない。狂気の沙汰といっても過言ではない。
低次元イデオロギーの超克
資本主義と共産主義の違いも、アングロ・サクソン、ゲルマン、スラブ、ラテン、漢等の民族の違いも越えて、皆ひとしく人間なのだという意識を築き上げる強い思想、それを生命の奥底に深く刻みつける理念、団結の絆を強める真の世界宗教こそ、現実世界の平和を実現するために、最も必要なのである。
過去の歴史をみても、正しい仏法を信奉した民族は、必ず民族主義的、イデオロギー的偏見を超越している。インドにおけるアソカ大王やカニシカ王の治世において、王の文化使節は東南アジア諸国からアフリカにまで派遣された。逆に、それらの国々の民衆も、インドに来て自由の文化や技術を提供したり、インドのそれを学んだりしている。
わが国の聖徳太子の摂政下、やはり中国や朝鮮から多くの技術者を、帰化人として迎えている。逆に、太子の臣下は遣隋使として大陸におもむき、その文化を吸収した。だからといって、卑屈になるのではけっしてなく、太子は隋の煬帝にあてた書に「日出ずる国の天子、日没する国の王に致す…恙なきや」と、堂々と記したのである。
伝教大師の法華経迹門の広宣流布によって築かれた平安朝文化も、同様である。この文化を担った人々の意識には、唐朝に対しても、朝鮮民族に対しても、あるいは唐朝に仕えて安南節度使となった安部仲磨のごとく、いかなる民族に対しても、偏見等はまったくない。これは、まことに偉大なことといわなければならない。
そして現在、日蓮大聖人の仏法を奉持した学会員は、アメリカにヨーロッパに、東南アジア、中近東、アフリカに至るまで、折伏を展開し、人種、イデオロギーの差別なく、共々に励まし合って幸福生活の確立にいそしんでいる。創価学会員となった白人と黒人は、座談会においても、和気あいあいと御本尊の功徳を語り合っている。かってアメリカの歴代大統領も、いかなる思想家も、社会運動家も、実現しようとして実現しえなかった光景が、大仏法を根幹として見事に実現されているのである。
いわんや理性も優れ、世界平和の責任感もある指導者たちが、妙法を護持し、大生命哲学を根幹とした時には、絶対にいっさいの偏見を捨てて、全人類の恒久的な団結が実現できるものと確信する。
治病大小権実違目にいわく、
「元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(0997:07)と。
世界の指導者たちが、元品の無明の災いに犯されて、人類を滅亡におとしいれる第六天の魔王となるか、元品の法性を開いて、全世界の幸福と平和を実現する梵天・帝釈等となるか、その鍵は妙法護持の一事にかかっている。誤れる思想によって貧・瞋・癡の三毒強盛ならば、無明の闇に沈まざるをえない。正法によって三毒を転じて仏性を湧現するならば、みずから法性の大空を遊戯し、共に全世界の民衆を幸福にする偉大な指導者たりうることを断言してやまない。
第九段 (正法に帰し立正安国を論ず)
第一章 (正法正師に帰すを期す)
客則ち席を避け襟を刷いて曰く、仏教斯く区にして旨趣窮め難く不審多端にして理非明ならず、但し法然聖人の選択現在なり諸仏・諸経・諸菩薩・諸天等を以て捨閉閣抛と載す、其の文顕然なり、茲れに因つて聖人国を去り善神所を捨てて天下飢渇し世上疫病すと、今主人広く経文を引いて明かに理非を示す、故に妄執既に飜えり耳目数朗かなり、所詮国土泰平・天下安穏は一人より万民に至るまで好む所なり楽う所なり、早く一闡提の施を止め永く衆僧尼の供を致し・仏海の白浪を収め法山の緑林を截らば世は羲農の世と成り国は唐虞の国と為らん、然して後法水の浅深を斟酌し仏家の棟梁を崇重せん。
現代語訳
客はすなわち、座を避け、襟を正して師弟の礼をとっていわく。
現代の仏教は多くの宗派に分かれてまちまちで、その教義は一一きわめがたく、私には疑問も多くて理非が明らかでないと、今まで思っていた。ただし法然聖人の選択集は現にあってその中に諸仏・諸経・諸菩薩・諸天善神をすべて捨てよ・閉じよ・閣け・抛てといっている。その文は明白である。これが原因となって聖人は国を去り、善神は所を捨てて天下は飢饉に苦しみ、世間に疫病が流行しているということを、今主人は広く経文を引いて、理非を明らかに示してくれた。ゆえに、今までの妄執が悪かったことがわかり、法の邪正を聞きわけ、人の正邪を見分けることが、ほぼ明らかになってきた。
所詮、国土泰平・天下安穏は上一人から下万民にいたるまで、全国民があげて好むところであり、願うところである。一日も早く不信謗法者に対する布施を止め、ながく正法を護持する僧尼を供養して、仏法界の怨敵である一切の邪宗邪義を断絶してしまうならば、世は義農の世となり、国は唐虞の国となって、万民が平和な生活を楽しめるようになるであろう。しかしてのち、仏法の浅深勝劣を比較研究して、仏法の真髄である最高の教えに帰依し、正法の根本の師を尊重したいと思う。
語釈
仏海の白浪
仏海とは、釈尊の一代仏教を総称して、これを広く大なるがゆえに海に譬えた言葉。白浪とは、中国・後漢の末に黄巾賊・張角の余賊が河西の白波谷にこもって略奪をはたらいたのを、世に白波賊とよんだ。これが広く盗賊の異称となり、とくに海や河によって出没する水賊を白波または白浪とよぶようになった。仏海の白浪とは、法然および浄土宗の僧等、諸宗派の者をさす。
法山の緑林
法山とは、釈尊の一代仏教を総称して、これを高く大なるがゆえに山に譬えた言葉。緑林とは、中国・前漢の末、王莽の即位の後、各地に反軍が起こった。なかでも、王匡、王鳳等は窮乏した民衆によびかけてこれを集め、湖北省当陽県の緑林山に拠って根強く征討軍に反抗した。このことから、盗賊の異称として、とくに山賊に対して用いられるようになった。これも、法然および浄土宗の僧等、諸宗派の者をさす言葉である。
羲農の世
中国古代の伝説上の帝王である伏羲と神農の時代。伏羲・神農は、黄帝とともに三皇として尊敬される。その時代は天下泰平で幸福な世の中であり、民衆は栄えたとされる。御書中では理想の世の譬えとして用いられ、如説修行抄に「天下万民・諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば、吹く風枝をならさず、雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて、今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得」(0502:06)とされている。
唐虞の国
中国古代の伝説上の帝王である唐堯と虞舜の国。唐堯は、父は黄帝の曾孫にあたる帝嚳、姓は伊祁、名は放勲堯は諡号。はじめ陶、次いで唐に封建されたので陶唐氏ともいう。徳をもって天下を治め、中国の皇帝の模範とされた。史記では五帝の一人に数えられている。虞舜は、姓は虞、名は重華。舜は諡号。三十歳で堯王の信任を受けて後に摂政となった。王の死後、人心が舜に傾いたので位に就き、八元八愷という十六人の人材を起用し、よく善政を行なったという。史記では五帝の一人に数えられている。舜は孝に徹した人で、頑愚な父が後妻のことばに迷い、たびたび舜を殺害しようとした。あるときは屋根にのぼらせて火を放ち、あるときは井戸に生き埋めにしようとしたが果たさなかった。ついに父は盲目になったが、舜は最後まで孝養をつづけたという。のち治水に成功した禹に禅譲した。
講義
経文を引き、道理を尽くし、現証を示しての、主人の理論整然たる言葉に、客も遂に納得する。そして、師弟の礼をとり、謗法に対する布施を一切止め、聖僧を重んじて、理想世界の実現を図ろうと誓う。
すなわち、この立正安国論では、法然の浄土宗を中心に謗法の実体を明かされ、かつ、謗法の罪と三災七難との関係を示されたので、数多い仏教各派のすべてについて、その正邪が明らかになったわけではない。しかし、主人と論ずるところに、もはや微塵も疑点はない、ゆえに主人のいうように、謗法に対する布施を止めて正法を尊崇しようというのである。
仏教斯く区にして旨趣窮め難く
現在、仏教の中には、日蓮宗・天台宗・浄土宗・浄土真宗・真言宗・禅宗・時宗等、大きく分けても十数派がある。その一つ一つはさらに多くの派に分かれており、恐らく細かく数えれば200を越えることになる。そしてそのおのおのが、仏も、依り所とする経典も、開祖として崇める僧も、修行の細かい行義にいたるまで、異なっており、自宗が、最も正しいのだと主張しているのである。
この結果、わが国の民衆は、どの宗派に聞いても、自宗が正しいというのだから、結局同じことなのだろうという、無批判に落ち着く習慣ができてしまった。僧侶自身も、所詮、自分の生活のために僧侶になったのであるから、全仏教を綿密に検討することもない。悟り顔して「皆、同じことです、仏様の教えは広大ですから、山に登るようなもので、登り口は違っても頂上に行き着くのは同じです」というのが、却って高僧であるかのように喧伝されさえしたのである。
逆に、日蓮大聖人のごとく、正しい仏法をもって、誤れる宗教を邪宗教として厳しく責めると、これを怨嫉し、大迫害をなすにいたったのである。今日、創価学会の、大聖人の御精神をそのまま受け継いだ折伏に対して、破折される者が反発するのは当然、関係のない人々も「他宗の悪口をいうのはよくない」等と批判する。
だが、数多い宗派の一つ一つについて、その正邪を検討することは容易ではないとしても、その一つでもよい、開祖の行状を知り、教義が仏の経典と合っているかどうか、またその経典は、拠り所とするにふさわしいかどうか、等の問題を冷静に検討していくならば、おそらく、そのデタラメぶりに驚嘆することは間違いない。
そして、いったい、そのような誤りと邪義で固まった代物に、どうしてこれまで気づかなかったのであろうと不思議に思うであろう。それは、なによりもまず、仏教は盲目的に信ずるもの、形式的に従うものと決めて、常に外から眺め、中に飛び込んで批判しようとしなかったことに原因がある。
ある人は言った。「日本人は、本質的に無宗教的である」と。これだけ多くの宗派があり、仏教が盛んであるように見えるのに、不思議な言葉のようであるが、事実は、上に述べた姿を述べたものとして、まことに至高といわざるをえない。
さて、宗教の正邪について、その批判の原理は幾つかある。文証・理証・現証の三証、五重の相対、宗教の五網等がそれで、その内容については前に述べたとおりである。
ここでは、現代日本の仏教各派および、それと提携して成立した、宗教営業としての新興宗教の教義等について概念しておこう。
一、天台宗
天台宗は、日蓮大聖人御出現以前、すなわち像法時代における唯一の正法であった。中国においては天台大師がこれを確立し、わが国においては伝教大師がこれを弘めて、ついに迹門円頓戒壇まで建立した。こうして比叡山延暦寺は、平安朝時代の日本仏教の中心となり、この絢爛たる平安文化の華を咲かせたのであった。
このゆえ、およそ世に認められる僧となるには、必ず比叡山に登って修行し、授戒して資格を得なければならなかったのである。ところが、伝教・義真のあと、第三祖慈覚・第五祖智証から真言宗の邪法を取り入れたのみならず、法華経より大日経が、釈尊より大日如来、天台・伝教より弘法の方が勝れているとまでいうようになった。
このように天台宗は、清浄であったのはわずかに義真・円澄までで、その後は、本質的には台密といわれるように、弘法の弟子であり、真言密教の亜流という情けない姿に堕してしまったのである。
加えて、世は末法に入り天台・伝教より伝えた法華経の学問も、去年の暦のごとく、時機不相応になってしまった。平安朝中末期以後、比叡山延暦寺が京の上下を苦しめた僧兵の巣と化し、法然等の悪僧を出して仏教界濁乱の淵源となり、さらに時代を下れば織田信長による焼き打ちにあうなどの、聖域にあらざる姿を露呈したのも、ひとえに、昔の残骸が腐敗して悪臭と蛆虫を生じたのにほかならない。
その教義は、法華経を正依の経とし、涅槃経や華厳経等の比較的高い経を傍依とする。教観二門を立て、教相に五時八教、観心に三諦円融の理を唱える。しかして止観の一念三千、一心三観の理を証することにより速疾頓成することをめざす。 これが法華経をあくまで中心とした天台宗の教義で、実際には、次に述べる真言宗の方が天台宗内の優勢を占めている。
この破折は、これまでにおりにふれているところで述べてきたので、ここでは略す。
二、真言宗
インドにおいて、ヨガ等の外道に影響された密教があった。すなわち、仏教を哲学的に信解するより、行躰によって、会得しようとする流派である。中国・真言密教の開祖となった善無畏は、鳥萇奈国の太子で一旦、王位についたが、兄弟にそねまれて追われ、出家して密教を学んだ。ちょうど中国は唐朝の世で、インドとの交流が盛んであった。インド仏教僧は、特に優遇されたので、善無畏も一旗あげようと、大日経をもって中国に渡ったのである。しかし、当時、中国では天台宗が南三北七の邪義を破り、教義も当然最高であったから、容易に手が出せない。そこで、善無畏は天台僧で不満をいだいていた一行禅師をたぼらかして、天台宗や他の各宗の教義を聞き取り、自分の持ってきた大日経は、インドでは法華経と同じで、釈迦は舎利弗や弥勒に向かって大日経の印と真言を捨てて、理だけを説いて法華経と名づけた。これと同じく大日如来は金剛薩埵に向かって法華経を大日経と名づけて説いたのであると教えた。
これをすっかり信じ込んだ一行が書いたのが「大日経疏」で、善無畏の布教を助ける結果となった。しかも、善無畏は王族の出身というふれこみで玄宗皇帝の篤い帰依を受けた。それがために、急にひろまった。安禄山の乱が起こって国内は混乱し、玄宗皇帝の退位もやむなきに至った。楊貴妃の問題や内政の紊乱等、表面的な原因は種々あげられるが、根底には、亡国の邪法である真言を信仰したことが害悪を惹き起こしたのである。
善無畏のあと、金剛智・不空が同じくインドから渡って真言密教を弘めたが、真言の邪義を一段と邪悪にし子供だましの方法で、日本に弘めた空海について触れなければならない。
空海は伝教大師と同じく、延暦年中に入唐し、青竜寺の慧果に会って真言密教を学び、大同2年(0807)、毘廬遮那、金剛頂経200余巻の経・論・釈をもって帰朝した。この船中で、それが落ちたところを根本道場にしようと願をかけ、日本に向かって三鈷を投げたところ、果たして、高野山で発見されたといっている。あるいは、帰朝後、真言を開こうとして、朝廷に各宗を集め、智拳の印を結んで南方へ向かったら、口が急に開いて法身仏になったともいう。
さらに弘仁9年(0818)の春、天下に疫病が流行した時には、空海が般若経で祈ったら疫病が止み、夜、太陽が輝きだしたと。万事、こうした非常識きわまる大嘘で、朝廷はじめ有力公卿たちをだまし、民衆をたぼらかして真言を弘めたのである。今日では、馬鹿馬鹿しくて吹き出すところであるが、弘法が唐帰りの高僧であるというので、容易に信じ込んだばかりか、却ってありがたい話として民衆は受け取ったのであろう。小さいホラは見破れるが、大きいホラにはだまされるという、古今変わらぬ真理ともいえよう。
空海の邪義は「十住心論」「秘蔵宝鑰」「二論経」に出ているが、その主なものは「華厳経と大日経に較べると、法華経は戯論である」「法身の大日如来と相対すると釈尊は無明の辺域であって、ゾウリ取りにも及ばない」「天台宗は真言の六波羅蜜経から醍醐味を盗み取った盗人である」等である。
いずれも、経典のどこにも出ていない邪義であることは論をまたない。ちなみに、六波羅蜜経は唐代に中国に伝来した経で、醍醐味を立てた天台大師は、それより以前の陳隋の人である。初めて来たものを、生前に盗める道理がない。これも空海一流の大嘘である。
その他の邪義も、五重の相対等、宗教批判の原理に照らせば明白である。仏を倒して虚仏である大日を立て、一切経中王たる法華経を倒して大日経を立てるがゆえに、亡国の邪教と断ずることができるのである。
教理よりも実践的修法を重んじるが、それには、受戒・潅頂・加行・護摩・祈禱などがある。総じて口に真言を唱え、手に印を結び、心を仏の三味に同ずることを根本としている。
教義は、大日経・金剛頂経・蘇悉地経を三部経と称し、これに菩提心論、空海の書いた十住心論・秘蔵宝鑰等を拠り所とする。内容は、全ては地・水・火・風・空・識の六大から成り、仏も衆生も同じである。一切の仏・菩薩・明王・諸天は始覚的な智をあらわす金剛界と、本覚的な理をあらわす胎蔵界とに分かれるが、究極において大日如来によって統一されている等というものである。
これらの教義は空海が天台大師の一念三千の法門、法華経の開近顕遠の哲理を盗んでつくりあげたものであることは明瞭である。彼は伝教が生きている間は小さくなっていたが、死後おおっぴらに真言の邪義をいいだしたのである。また、彼は土木事業、特に新田開墾用の用水池のために堤をつくって名をあげた。仏教界のことで名を弘めて、それにのせて邪義を弘めるのも、今日の低級思想と同じ手口ではないか。
なお、空海以後、真言宗は実慧と真雅の二派に分かれ、一旦、源仁に統一されたが、再び益信と聖宝の二系統に分かれた。益信の系統からは、寛朝の「広沢流」が、聖宝の系統から、仁海の「小野流」が生まれた。この二流が、また、六流ずつに分かれたので「野沢十二流」といった。
これとは別に、平安時代の末、覚鑁が高野山を離れて根来にこもり、その後継ぎが高野山に対抗して「新義真言」を唱えた。これは室町時代の末には大きい勢力となったが、豊臣秀吉に敵対して滅ぼされ、長谷寺と智積院に移った。
ここから豊山派と智山派がそれぞれ生じた。鎌倉時代、西大寺の叡尊が戒律の復活を唱えて立てた流れに真言律宗がある。
三、禅宗
仏教の真髄は、複雑な教義の追究ではなく、おのおのが坐禅修道して心を澄ませば、直接に自証体得できると主張し、教外別伝・不立文字・見性成仏と立てる。現在、日本には臨済・曹洞・黄檗の三宗がある。
禅定そのものは、六波羅蜜の一つとして、古代インドで行われていたが、これをもって一宗とした始祖は菩提達磨である。
菩提達磨は南インド南香国の第三王子と称し、劉栄末の470年ごろ広州に至り、梁の武帝に招かれて金稜におもむいた。ここで禅を説いたが機熟せずとみて嵩山少林寺に去って、第二祖慧可に法を伝えた。達磨は楞伽経によって五巻の疏を造り「この経のみが人を救うことができる。お前はこれによっで世を救え」と命じたという。不立文字の教義とまったく自語相違しているのである。
また、禅宗は、釈尊が涅槃の時、座に登って華を拈るこれを衆に示した。誰もこの意味がわからないでいた中に、迦葉ひとりその意を悟り破顔微笑した。そこで仏が「吾に正法眼蔵・涅槃の妙心・実相夢相・微妙の法門有り文字を立てず教外に別伝し摩訶迦葉に付属するのみ」と説いて迦葉に伝え、迦葉から阿難と相伝したのが禅宗である。達磨はその第二十八祖であると主張する。
しかるに、このことを説いたという大梵天王問仏決疑経は、唐代の貞元・開元緑の中にもなく、明らかに後世につくられた偽書なのである。
また、心を重んじ、是心即仏・即身成仏と説いて、これが現代人にもてはやされ、世界的なブームをすら呼び起こしている。これについて大聖人は「心は是れ第一の怨なり此の怨最も悪と為す此の怨能く人を縛り送つて閻羅の処に到る汝独り地獄に焼かれて悪業の為に養う所の妻子兄弟等・親属も救うこと能わじ」(0152:03)との経を引いて破折されている。
まことにそのとおりで、人は心によって善を行うが、逆に悪を行うのも心から起こるのである。詐欺を働いて監獄におくられるのも、殺人を犯して死刑台の露と消えるのも、心の正法に背いて地獄に堕ちるのも、所詮は心から出たものではないか。ゆえに、仏は涅槃経に「願って心の師とは作るとも心を師とせざれ」と戒められているのである。
さて、中国において禅は慧可から僧璨・道信・弘忍と伝えられ、次は慧能と神秀に分裂した。はじめ北支の洛陽・長安に拠った神秀が優勢であったが、のちに広東省韶州の宝林寺に拠った慧能の南方禅が有力となり、禅の代表となるに至った。慧能の弟子懐譲が臨済から出て臨済宗を開き、潙山・仰山が出て潙仰宗を創めた。同じく慧能の弟子、行思の系統から曹洞宗が生じ、雲門・法眼の二宗が生まれた。その後宋代に臨済宗から黄竜・楊岐の二宗が出たので、これらを総称して五家七宗と呼んだ。
日本に初めて禅宗を伝えたのは懐譲派の義空で、嵯峨天皇の代であった。当時、伝教大師の法華迹門が流布していたので、受け入れられず、義空は空しく帰国している。鎌倉時代、入宋した栄西は黄竜派の臨済禅を学んできて、博多を中心に活動を始めたが、叡山の禅宗停止の訴えによって、建久5年(1194)停止を命じられてしまった。あわてた栄西は、禅宗擁護のために様々に運動し建久9年(1198)には「興禅護国論」を著わして、禅宗が旧仏教と基本的に対立するものではないと言い訳している。
栄西が鎌倉にはいったのは叡山の圧力から逃れるためで、ここで北条政子の寺である寿福寺の住持となった。建仁2年(1202)源頼家が京に建仁寺を建てたので、迎えられて、その住持にもなったが、栄西はこれを叡山の末寺として、天台・真言・禅兼修の寺として、自分の地位の安定に利用している。その他、栄西は名誉欲の強い僧で、大師号を得ようと賄賂をばらまいた。これは藤原定家などから「上人にあるまじきこと」と嘲笑され、当時、だいぶ有名であったらしい。
なお、栄西に先立って、大日房能忍という叡山の僧が独学で禅宗を学んでいた。中国の阿育王山・拙庵徳光から「潙山警策」という漢の典籍まで送られ、それを出版するなど注目を浴びていたが、ある夜、甥の平景清が訪ねてきた時、弟子に命じて酒を求めに走らせた。景清は叔父が自分を密告しようとしたのであろうと早合点して、すぐさま刺し殺してしまったのである。「禅天魔」と仰せの日蓮大聖人の破折そのままの現証ではないか。
今日の曹洞宗を開いた道元は、久我通親の子で、幼時に父母を失い、叡山に登ったが、のちに栄西の門にはいった。栄西の死後、みずから入宋し印可証明を得て、安貞元年(1227)帰朝した。波多野義重の招きで越前に傘峯大仏寺を開創、のちに吉祥山永平寺と称した。主著は「正法眼蔵」で、臨済宗が貴族武士階級にひろまったのに対し、曹洞宗は庶民の間に浸透していった。
この後、江戸時代の初期、明僧隠元が渡来して宇治に黄檗山万福寺を開いたのが黄檗宗のはじめである。
三、浄土真宗
法然を元祖とする浄土宗と似ているが、専修念仏を一層徹底させている。元祖は親鸞であるが、中興の祖と称する蓮如との間にも、思想的に大きな違いがある。後世の本願寺王国の基礎を築いたのは、この蓮如である。
親鸞の前半生については、本願寺資料でもほとんどわかっていない。また、その生涯全体についても、客観的に信頼できるものはない。門徒の立ち場で、親鸞は法然の高弟であったといわれているが、それすらも実は怪しいものである。
俗説によると、親鸞は、承安3年(1173)日野有範の子として生まれたという。日野氏は藤原氏の末流で、有範は皇太子大進の職にあったが、慨して恵まれない、没落貴族であった。親鸞が出家したのは9歳の年で、以仁王挙兵の翌年に当たり、京は戦乱と飢饉で地獄図を呈していた。親鸞出家の動機も、不如意の一家の口減らしが目的であったといわれている。
親鸞の死後、3人目の妻、恵信尼の娘の覚信尼に送った手紙によると、この9歳から29歳まで20年間、彼は叡山の堂僧を勤めた。叡山の大衆は、学生・堂僧・堂衆の上中下三層に分かれていた。貧乏とはいえ一応、貴族の子弟であれば、20年間も堂僧のままでいたとは信じがたい。こんなことからも、日野氏の出身ということは疑惑がはさまれるのである。
さて恵信尼の手紙によると、この堂僧として不断念仏に精進し、六角堂に参籠している時に、聖徳太子の夢告があって法然に会い、以後、専修念仏に転向した。法然の下で妻帯し、これが人間性に立った革新的な壮挙のように、近世の親鸞崇拝者の間で喧伝されたが、当時、僧侶の妻帯は珍しいことでも何でもなかった。
ただ、親鸞の場合、公然と行ったこと、信仰の問題とつながっていることなどが違うのだという議論もある。だが、沙石集に「昔から、妻帯を隠すは上人、せぬは仏というが、最近は隠す上人、せぬ仏さえも少なくなった」と嘆いているように、公然と行なうのも珍しくなかったのである。信仰の問題と関連があるというのも、小乗教的な戒律を破るものという意味では革新的であったかもしれないが、法華経から望めば論ずるに足りない問題である。
法然の弟子であった証拠として門徒があげるものに元久元年(1204)、叡山の衆徒による弾圧を避けるために、法然一門190人が連署して自戒を誓った「七箇条制戒」がある。これは、阿弥陀以外の仏菩薩を謗らない、他宗と論争しない、他宗の信徒を説いて、その信仰を捨てさせるようなことはしない。無戒を唱えて淫酒食肉をすすめない等というものであるが、この中に綽空とあるのが親鸞だというのである。もとより、これも確証のない推論に過ぎない。
その後、伝によれば、法然の高弟であった安楽・住蓮が後鳥羽上皇の院の女房と関係したという噂から、一門が弾圧され、安楽・住蓮は殺され、法然も佐渡へ流されるという事件が起こった。この時、親鸞は越後に流され、赦免後も京へ帰らず、越後から東国の常陸、笠間郡稲田郷に落ち着いたとされている。
家庭革命すらできなかった親鸞
さて、親鸞と法然の間には、考え方に根本的な違いがある。それは、法然が浄土三部経を重んじ、教理を立て、一日に念仏を六万遍唱えたと誇称されているように、自力主義的な要素をもっているのに対して、親鸞はこれをまったく廃する立ち場をとる。すなわち、「阿弥陀の本願は絶対であるから、一度念仏を唱えれば、すでに救われることは決定している。あとは、その仏恩報謝のために唱えるのだ」というのである。いわんや、浄土三部経を読んだりするのは、阿弥陀の本願を疑うことであると排斥した。
代表的著作といわれる「教行信証」詳しくは「顕浄土真実教行証文類」も、この期間にできあがった。親鸞の直弟子44人中29人までが関東の人々で、これもこの期間の活動の結果であるという。
ところで、親鸞は「親鸞は弟子一人ももたずさふらう。そのゆえは、わがはからひにて、ひとに念仏をまうさせさふらはばこそ、弟子にてもさふらはめ、ひとえに弥陀の御もよほしにあづかて念仏まうしさふらふひとを、わが弟子とまうすこと、きはめたる荒涼のことなり」といって、門徒の組織化、寺の建立を否定している。
これは、後に蓮如によって、真っ向から破り棄てられた考え方である。いいかえれば親鸞の思想は、今日の本願寺教団の形成を否定しているのであって、この一事からも浄土真宗の誤りが歴然としている。もとより、他力本願の念仏が、仏教への叛逆であり、かつ、民衆の幸福を破壊するものであることは、いうまでもない。
また、親鸞は仏像を用いず「南無阿弥陀仏」とか「帰命十方無碍光如来」とかと書いた紙を本尊とした。根本尊敬たる本尊が一定しないということも奇妙であり、いわんや、後世、きらびやかに造った阿弥陀像を拝んでいるのも、教祖のやり方に反する行為である。
嘉禎元年(1235)、鎌倉幕府から専修念仏の禁止令が出て、親鸞は東国を去って京都に帰ったとされる。この禁令が出た原因は、「悪人正機」の教えを聞いた信徒たちが、弥陀の本願がある以上、悪をしても往生を妨げられることはないと言い出し、社会問題化し始めたからである。しかし、この間の事情はあくまで不明である。
帰京後、親鸞は、東国の信徒からの志、いわゆる寄金で生活しながら、著述に専念したらしい。しかし、東国信徒の間では、さまざまの対立があり、子の善鸞が一方で親鸞をあざむきながら、他方で「父から秘事を伝授された。関東の道場主らの教えは皆誤っており、自分だけが正しい」といって攪乱しているこがわかったのである。そのため、親鸞は、康元元年(1256)、善鸞を義絶している。時に84歳、みずからの家庭をすら改革できず、子供をすらどうすることもできず、孤独のうちに弘長2年(1262)生涯を閉じたのである。
念仏王国築き上げた蓮如
親鸞の死後200年、浄土真宗は、念仏踊りで民間を風靡した時宗、早くから室町幕府や権力者と結託した法然系浄土宗の隆盛に押されて、細々と伝えられたに過ぎなかった。これを北陸・大阪に急激にひろめ、組織化して、念仏王国を築いたのは、本願寺8代目と称する蓮如である。
蓮如が父存如の跡を受けて、法主になったのは43歳の時であった。当時、京、東山大谷の本願寺系は真宗の中でも、下野の高田を本拠とする専修念仏派、三門徒流などに押されて、滅亡寸前のありさまであった。蓮如は85歳で死ぬまで5人の妻を迎え13男14女という多くの子をもうけたが、生活は苦しく、着るものには、袖口に絹をつけただけの紙衣で、子供たちも養い子に出さなければならなかった。
蓮如は、親鸞が禁じた神祇礼拝を認める等、外部からの圧力を緩和することを心かけた。はじめ近江の堅田を固め、そこに叡山の圧迫が加わると、越前の細呂宜郷にある吉崎に拠点を置いて、北陸布教に勢力を注いだ。ここで蓮如が取った作戦は、門徒から「御文」と呼ばれている手紙と、講の組織である。
「御文」は現存するだけでも180通に達し、その都度、信仰のあり方、弘教のしかた、講のあり方等について指導したり、他宗や宗内異端に対して攻撃したりしている。おそらく、一通の「御文」が数多くの門徒の間で回覧されたものであろう。文章は当時の庶民にわかりやすく、仮名で言葉づかいも日常語が用いられている。
講組織については、有力者の信徒宅等で月定例の寄合をもち、念仏を称えたり、信心を語り合ったりした。指導と普及の最前線にあったわけで、そこでは、社会的な上下の差別等をいっさい排除した、道場主義を、俗人であるところから毛坊主と呼んだが、卑賤の者がなることも珍しくなかったようである。この寄合・講の道場の上に末寺があり、末寺は本願寺と直結し、信徒からの志も、このルートで本願寺に納められた。
蓮如の場合、講に対する心の使い方は特に細かく、運営の仕方や心がけ等を具体的に指示している。布教の要領として「坊主」すなわち他宗の僧と「年寄」「長」すなわち村の中心者をまず落とせば、他はそれに従うものだ、といっている。
こうした組織化による階級づけは、親鸞の教えとまったく背反するものであったし、他宗との妥協も、ひとえに教勢を拡大するための、いわゆる目的のためには手段を選ばないという態度が見えるのである。
だが、やがて門徒は巨大な群衆へと発展し、蓮如の手にも負えなくなってしまう。分明7年(1475)彼が発した「篇目」は、自分でつけた火を押さえるのに必死な、新しい苦境を物語っている。いわく「仏法は内心深く信じ、外面には決して信仰を振りまわさないように心がけねばならない。まず。
① 神社を軽んじてはならぬ。
② 諸仏、菩薩や諸堂を軽んじてはならない。
③ 諸宗、諸法を誹謗してはならない。
④ 守護、地頭を疎略にしてはならない。
⑤ 当国の仏法には非義誤りが多い。正義におもむかなければならない。
⑥ 当流の立てる他力信心を内心に深く決定すべきである。
」というのである。
この篇目を出してから一ヵ月後、蓮如は吉崎を去って河内国出口に本拠を構えて新しい布教を開始した。時に61歳である。本願寺を山科に移して、蓮如が隠居したのは75歳の延徳元年(1489)であるが、その前年の長亨2年(1488)加賀の一向一揆は守護の富樫政親を攻めて殺しており、本願寺は実質的には封建領主化の第一歩を踏み出したのである。
この後、大阪の石山に移り、織田信長と戦ったが、天正11年(1591)豊臣秀吉から、京都堀川の地を寄進されて建てたのが、今の西本願寺である。徳川時代には幕府の御用宗教となって全国的に勢力を拡大し、民衆を苦しめ無気力にしたことは、今さらいうまでもなかろう。
東西本願寺への分裂
この間、第11代顕如の没後、相続問題から、兄の教如が東本願寺を興し、弟の准如が西本願寺を継いで今日に至った。この二派が、いわゆる血脈といって、親鸞の血統を引くものである。すなわち仏法から背反した世襲制を誇りとさえしている邪教である。
この他に、興正派・高田派・仏光寺派・三門徒派・山元派・出雲寺派・誠照派・木辺派の八派があり、合わせて真宗十派と呼びならわされている。
以上、見てきたごとく、浄土真宗は人間性の弱味につけこむ、徹底した弱者ないし敗北者宗教であり、そのうえ、教祖親鸞の存在自体にも幾多の疑点がある。なかんずく、一切の経、仏を否定することは、仏法上の大謗法である。世襲制の問題も、これを禁ずるのは仏法上のまったく初歩的なことで、敢えて犯して血脈等といって神聖化しているのは、封建領主としての地位を安泰にするための口実に過ぎないのである。
五 その他
この他、既成宗教として、華厳・法相・律・三論・成実・俱舎宗の各宗がある。華厳宗は、中国の杜順・智儼等を経て法蔵に至って則天皇后の帰依で隆盛、わが国では奈良時代から鎌倉時代まで栄えた。本山は東大寺で、現在50数寺を有している。
法相宗は、中国で玄奘、日本では道昭が出て奈良時代に栄えた。現在、薬師寺、興福寺がその栄華の跡を伝えている。律宗は、中国では道宣が出て開き、日本には鑑真が伝えて唐招提寺を根本道場として弘めた。鎌倉時代、大聖人に敵対した忍性良観は律宗の僧であった。
三論宗は中国の吉蔵がはじめ、日本では仏教渡来直後の7・80年間存続したのみで華厳宗に吸収された。成実宗は付宗、俱舎宗は法相宗の付宗である。
六 日蓮宗各派
本迹一致派
法華経の本門と迹門は、一往、二つに分けるが、再往は一致するとする派で、日向の身延山久遠寺、日朗の池上本門寺、富木日常の中山法華寺、日像の京都妙顕寺、日朗の京都本圀寺、日奥の不受不施派、日講の不受不施講門派等が、これに属する。
①身延は、大聖人が最後の9年間を過ごされた地であり、日興上人がこの跡を受けて別当となられたのであった。だが、地頭の波木井実長が日向にたぶらかされて四箇の謗法を犯し、日興上人の諌めを聞き入れなくなったので、日興上人は御本尊はじめいっさいの重宝を奉持して、上野に移られたのである。
日向は暫く身延にいたが、晩年は房州の藻原へ去り、主を失った久遠寺は、単なる波木井の檀那寺に過ぎなくなった。その後、徳川時代の初め、第11代日朝が政略に長けて徳川幕府に取り入り、大聖人のおられたのと反対側の山をけずって建てられたのが現在の久遠寺である。
しかも、その祀ってあるものは、大聖人の像、釈迦像から帝釈、鬼子母神、稲荷、竜神に至る、あらゆる淫祀邪教の寄せ集めといって過言ではない。江戸時代、中山の日親すらも「身延や池上に下馬してはならない、参詣など沙汰の限りである」と戒めている程である。
あくまで、宣伝と政治性に長け、世間には身延派が日蓮宗の本家であるように錯覚させ、戦時中、身延派を中心に全日蓮宗を合同しようと軍部が図ったことも周知のとおりである。しかし、創価学会の手によって、昭和30年(1955)3月、小樽問答で打ち破られた。今も本尊を何にするか、宗内でさえ統一された結論が出ていないのは笑止の至りである。
②池上本門寺は、大聖人が御入滅の地に日朗が開山となって建てたもの、日朗の邪義そのままに、清正公堂や長栄稲荷、大黒堂等の謗法が雑居している。日朗は、晩年、誤りに気づき、富士に日興上人を尋ねて手をとって泣いたとつたえられている。
③中山は富木日常が邸内につくった法華堂が発展したもので、鬼子母神を祀ったり、加持祈禱の荒行者の養成で、妖名をとどろかせている。教義的には何もなく、観心本尊抄等の重書御真筆を有していることが唯一のとりえともいえよう。
④京都妙顕寺は、日朗の弟子、日像の布教によるものである。日像は帝都弘教の付属を受けたと称して釈迦本仏、本迹一致の邪義を弘めた。五老僧の立てた各派中でも最初に堕落し、邪宗と妥協したのが、この京都一致派で、現在の身延派の大部分はこの流れといわれている。
⑤不受不施派は岡山県妙覚寺を本山とする日奥が開いたもので、これがさらに分裂して日講が開いたのが同講門派である。また、日昭が開いた玉沢妙法寺も一致派に属する。以上が本迹一致派であるが、本迹一致が大聖人の正義に反するものであることは、次の御文をみれば歴然としている。
すなわち、治病大小権実違目にいわく、「法華経に又二経あり所謂迹門と本門となり本迹の相違は水火天地の違目なり、例せば爾前と法華経との違目よりも猶相違あり爾前と迹門とは相違ありといへども相似の辺も有りぬべし、所説に八教あり爾前の円と迹門の円は相似せり爾前の仏と迹門の仏は劣応・勝応・報身・法身異れども始成の辺は同じきぞかし、今本門と迹門とは教主已に久始のかわりめ百歳のをきなと一歳の幼子のごとし、弟子又水火なり土の先後いうばかりなし、而るを本迹を混合すれば水火を弁えざる者なり」(0996:07)と。
また、本因妙抄にいわく、「若し末法に於て本迹一致と修行し所化等に教ゆる者ならば我が身も五逆罪を造らずして無間に堕ち其れに随従せんともがらも阿鼻に沈まん事疑無き者なり」(0876:04)と。
本迹勝劣派
法華経文上本迹勝劣は立てるが、文上脱益の法門に執着して、文底秘沈の独一本門を知らないので、これも大聖人の正法正義に反するのである。これに属するものは、一致派の京都妙顕寺から飛び出した、日隆の法華本門宗、その分かれの仏立宗、日什の顕本法華宗、日真の本妙法華宗、日陣の法華宗等である。
⑥勝劣派を初めて立てたのは、大聖人御入滅後約130年、一致派の京都妙顕寺の日隆・日存・日道等である。当初、日隆は一致派に負かされ「一致門流を捨てたのは後悔千万で、今後は一致派門流に背かない」と詫び状をかいたほど、臆病、不勉強の僧であった。その後、妙蓮寺日忠なども八品正意を唱えて八品派を形成した。
尼崎本興寺、鷲栖鷲山寺、岡宮弘長寺、京都本能寺、京都妙蓮寺等がこれに属する。
八品正意と立てるのは、観心本尊抄に付属流通の段を示されて「但八品に限る」と述べられているものを、不相伝、無学のあまり、八品所顕の本尊といいだしたのである。
八品派すなわち本門法華宗は、戦時中、本妙法華宗や法華宗と合同し、のちふたたび三分した。また八品派の分かれに本門経正宗、本派日蓮宗等があるが、いずれも弱体である。
⑦本門仏立宗は、徳川時代の末に八品派から分かれたものであるが、これは、京都で、長松清風なる本門法華宗の僧が、離脱して、自分は日扇と称して仏立講という在家講をつくったものである。日扇は、八品派内で地獄・餓鬼・畜生の三途は成仏するかしないかという馬鹿げた議論が起こった時、不成仏を主張して負け、本応寺日憲に対して詫び状を書いている。いかに仏教に無知であったかがうかがわれる。
その後、また離脱して仏立講を開いたが、うまくいかないで死んだ。死相は堕地獄の相を示していたという。これを見た幹部たちは、かねてから折伏を受けていた日蓮正宗に改宗し、京都住本寺の檀家となった。ためで、本山を京都の宥清寺においているが、実質上の根城は東京・渋谷の乗泉寺である。
教義は、八品所願の妙法と、釈迦本仏と、上行日蓮菩薩とを立てる低級な邪義である。本尊は南無妙法蓮華経のニセ曼荼羅で、坊主は黒衣をまとって信者宅を回り、飲み食いに励む。信者は拍子木をたたいて題目を唱え、病気になると想像に及ばぬ水を飲ませるという邪教ぶりである。
⑧在家日蓮宗浄風会、日蓮主義仏立講、法華宗獅子吼会等は、ともに仏立宗に叛旗を翻して、在家信者たちが作ったものであるが、日蓮大聖人の正法に反する邪義である点は同じである。
⑨顕本法華宗は、妙満寺派または什門派と称し、大聖人滅後100年ごろ、日什が開いたものである。本山は京都・妙満寺である。日什は、もと天台宗の学僧であったが、大聖人の御書を読んで、末法の法華経は大聖人によらなければならないと知ったが、どの宗派が正統かわからず、みずから御書を読んで悟ったと称し、経巻相承と立てた。
教義には、一応三宝をたて、法宝を寿量文上・本果の妙法、仏法を寿量顕本・脱益釈迦、僧法を上行蓮と立てているが、末法御本仏・文底仏法を知らぬ哀れさというべきである。
戦時中、顕本法華宗は、奇怪にも一致派の身延と合同し、その後、一部独立したが、大部分は身延派にとどまっている。なお、明治時代、本尊統一と叫んで釈迦本仏を立てた本多日生は、この派のものである。
⑩法華宗陣門派は、日朗の弟子・日印が派祖で、日印は京都本圀寺と、越後三条市の本成寺を開創した。日印の弟子日静は本圀寺を日伝に本成寺を日陣に譲って死んだ。その後、日陣が勝劣を唱え、一致派の本圀寺と分かれて独立したのが陣門流である。
⑪法華宗真門流は、京都妙顕寺日具の弟子、日真が、京都・四条大宮に本隆寺を開創し、本迹勝劣を立てたのに始まる。
これらの勝劣派はいずれも本迹相対までは知っているが、種脱相対を知らない輩である。
日興亜流
⑫これら五老僧を系統として生じた亜流に対して、富士門流から別派を立て独立した本門宗がある。北山本門寺、京都要法寺、伊豆実成寺、下条妙蓮寺、小泉久遠寺、保田妙本寺、西山本門寺であり、いずれも本門戒壇の大御本尊を、根本の御本尊と仰げぬ輩である。
なお、正法本流と仰がれていた、日蓮正宗の邪義については、機会を見て別に論ずる。
新興宗教
明治以降に発生された新興宗教で、圧倒的多数を占め、邪教をもしいままにしたのが、南無妙法蓮華経を唱えた経団である。その発生は、ともに日蓮宗各派の荒行等に参加した信徒が神がかりになり、奇妙なことを口はしりはじめたのである。そのため、教義らしいものは特になく、のちになって言い出したものと、結局、日蓮宗各派や天台宗等の学者をやとって作っている。立正佼成会のごときは、その代表で、その厚顔無恥ぶりは呆れるばかりである。
⑬大正時代の初め、子供のオシとイザリに悩んでた西田俊蔵が、ワラをもつかむ思いで、無縁仏を清め、その戒名を仏壇に祭って題目を唱え、仏所護念の信仰と称した、その信者になった小谷安吉、その妻キミ、弟の久保角太郎が、赤坂の三畳間で猛烈な荒行を続けた結果、大正12年(1923)に旗上げして霊友会と称したのである。
教義は、死んだ先祖を仏と思い込んでいる錯覚を利用して戒名を本尊として読経唱題するものである。もとより、戒名の当人たちは、地獄界・餓鬼界の不幸の中に沈淪しているので、これを拝むことは、みずから地獄・餓鬼等の悪道に堕ちる結果となる。仏所護念を「仏を護念する」等とよんでいるのも、彼らの無智無学を暴露する外の何ものでもない。法華経の「妙法蓮華・教菩薩法・仏所護念と名くる法」とあるのは、仏が護念し給う法でその実体は寿量品の如来秘密神通之力、すなわち事行の一念三千の大御本尊である。
要するに彼らは仏教哲学の何たるかもわからず、言葉だけを看板にしているに過ぎない。そして、その本質は、身延派や中山派から取り入れた荒行で、信心を狂わせ、金を巻き上げているのである。社会事業等に手を出すのも、こうした邪教ぶり、悪らつな搾取に対する世間の攻撃を避けるためのごまかしにほかならない。
⑭立正佼成会は、霊友会が内部紛争から崩壊し、妙智会、考道教団等に次々と分裂し始めたのに乗じて昭和13年(1933)、庭野鹿蔵と長沼マサ一派が独立して発足したものである。教義は霊友会と同じく低級な先祖崇拝と因縁話を結びつけたもので、布教の手段に姓名判断を取り入れたのが目新しいところである。
強引な布教とばかげたこじつけの因縁論で、悩んでいる中年婦人を集め、金をしぼり、勤労奉仕させて、東京・杉並の和田本町に次々と道場を建てた。しかし、戦後の混乱期を過ぎると、布教も止まり、財産を取り上げられて気がついた信者たちが離脱している。
その対策として、教義を作り、法華経講義に狂奔し、本尊まで、次々と取り替えているのは、笑止千万である。化けの皮をはがされた狐が、あわてふさめいて、次々と姿を変えようとするのと同じではないか。
さらに、新聞、書籍販売、組織等、万事創価学会の真似をしているのは、滑稽な位であるが、ただ一つ、真似のできないものがある。それは、正法の信心であり、信者を幸福にするということである。
⑮孝道教会は、天台宗と邪宗日蓮宗との混血児で「熟脱正法」なる珍説をふり回している。教祖は岡野正道で、もともと天台宗の僧侶であったが、昭和の初期、横浜でラジオ屋を開いているころ、妻ミキ子とともに霊友会に入り、支部長にまでなった。
しかし、霊友会のあまりにも低級な教義にあきたらず、一派を開いて孝道教団と称した。終戦後、横浜の六角橋に本部を設け、さらに鳥越山を買収して孝道山と呼んでいる。本尊は入信当初、佼成会と同じく総戒名を与え、「みちびく」と、曼荼羅や守護尊神なるものを与える。その際、莫大な金を取ることは、もとよりである。
教義は「現在は釈迦滅後2500年である。釈迦滅後2000年から2500年までの末法500年は、題目だけを唱える上行所伝の下種益の法華経が弘まった。しかし、2500年以後は熟益の時代で、無辺行所伝の法華経すなわち熟益正法、みのる法華経でなければ功徳はない」というもので、岡野総理が無辺行菩薩であるというのである。
四菩薩の何なるかも知らず、種熟脱の三益も知らない、わらうべき「もと天台宗」の教学力である。四菩薩とは生命論では常楽我浄の四徳を表わすものである。また、法華経の付属の儀式に見ても、総じて四菩薩以下六万恒河沙の地湧の菩薩に付属されているが、別しては上首上行に末法万年尽未来際の大法弘通を託されている。2500年をもって区切ることなどは、経文のどこにもない岡野の我見である。
また、大聖人の下種益とは、種・熟・脱を一度に生ずる即身成仏の大功徳をいうのである。彼らは別体の地湧、総体の地湧とあるのを知らないで、下種の師は上行で、熟益の師は無辺行という三益の師を別に立てることは、仏法に対する無知ぶりを示したものにほかならない。いわんや、種・熟・脱と時代を区切るのは、即身成仏を知らず、歴劫修行に執する邪見の極みである。
⑯国柱会は、明治の初めに田中智学が開いたものである。はじめ蓮華会と称したが、いわゆる横浜問答によって一時姿を消したが、また現れて立正安国会を開き、大正3年(1914)国柱会と称するようになった。釈迦仏法を立てながら、佐渡始顕の本尊を根本正式の本尊にせよとか、支離滅裂の教義である。
高祖遺分緑や本化聖典大辞林、日蓮主義教学大観等を出版し、あるいは日蓮正宗の教義を盗んで、富士戒壇説、曼荼羅本尊中心説、本尊雑乱撤廃説等を唱えた。しかし、みずから身延に参拝したり、大聖人ゆかりの名所・旧跡を歩いたりしているのは、以上の主張とまったく反する自語相違というほかない。戦時中には、時流に迎合した国体論を宣伝し、神社参拝を強調して、謗法の限りを尽くした。智学は失明し悲惨な晩年を送った。
彼の死後、国柱会は智学の子供や、高弟の山川智応等の間で醜い権力争いを演じ、四分五裂した。田中芳谷、香浦の国柱会、里見岸雄の立正教団、山川智応・高橋智遍の本化妙宗連盟、田中雅哉の正法会、ほかに立憲養正会、精華会等がこの流れを汲むもので、一部立正佼成会に流れたものもいる。
⑰このほか、平和運動の学生デモに混じって黄色い袈裟を着て、異様な雰囲気をかもし出している宗教団体、日本山妙法寺がある。服装は原始仏教時代的な南方仏教のようであるが、藤井日達が33歳の時、満州で創立したものである。その後、中国、インドに渡り、ガンジーの無抵抗主義の影響を受けた。彼らが平和運動等に顔を出すのも、この暴力否定、無抵抗主義を旗印にしているからであろう。
その半面、日本に150ヵ寺、インドに数ヵ寺をもち、中央に曼荼羅をかけ、その前に大聖人の像、左右に釈迦像と聖徳太子像を置くといった本尊雑乱ぶるである。そして「相手の眠っている仏性をよびさますのだ」と称して、ウチワ太鼓をたたいて題目をとなえている。
大聖人出世の本懐たる大御本尊を拝さずして、本尊を雑乱し、謗法を呵責しないで同座し、平和祈願と称して仏舎利を造り、正法にそむいて相手の仏性を覚醒するなど、ことごとく大聖人の御精神に反する大謗法である。「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」の御金言を、よくよく拝すべきであろう。
まとめ
以上に述べてきた、各宗派の邪義ぶりは、氷山の一角を表面的に触れたに過ぎない。その実体はもっと悪質であり、流す害毒は筆舌に尽くしがたい。仏教と銘は打っていても、実は宗教営業であり、民衆の血を搾取する悪鬼である。生命力をむしばみ、財産をしぼり尽くして、理性を麻痺させ、あげくの果ては不幸のどん底へ突きおとしているのであり、時代の変革とともに、今後新たな邪教団が出てくることも必然である。
宗教は難解である。流派が多すぎて、どれが正しいのかわからない。皆、我田引水で自宗をよく言い他宗をけなすのはあたりまえである。だから、そんなことは本気で聞けない等とおうのを止めて、まず耳を澄まし、よく考えるべきである。そして、文証・理証・現証によって、はたして正しいか、邪悪かを、冷静に判断することを訴えたい。
唐世は義農の世と成り唐虞の国と為らん
義農とは伏義・神農、唐虞とは唐堯・虞舜で、ともに理想的な幸福社会の意である。孔子・孟子等の儒教思想家が理想郷として示したので、広く用いられるようなった中国のユートピアである。
政治を行なう者も、政治思想を説く者も、また、よき社会を願う民衆も、一つの理想像を描き、憧憬をもやし、その現実をめざして努力することは、人間心理の自然な動向といえよう。義農の世も、唐虞の国も、歴史上はたして実在したかどうか、また、史記等に説かれているような理想社会であったかどうか、それは不明である。だが、中国民衆は古来、そのような時代があったと信じ、孔子等の儒教を根底におく政治思想家も、そのような社会の実現を政治の究極の目標として立てたのである。
これに対して、老子・荘子の流れを汲む人々の理想としたのが天仙の国、蓬莱山である。理想世界をこの娑婆世界に建設しようというのではなく、東方の海の中に楽土があると説き、仙人の修行によって、海を渡る術を得て、そこに行けば、しあわせになれる等と教えたのである。
中国においては、この二つの思想が、互いに対立し、勢力争いを演じながら漢民族の歴史を織りなしたのである。仏教が中国民族の歴史の上に現われたのは、この二つに較べると、はるかに短かかった。前二者が2000数百年に及ぶのに対し、仏教は後漢の明帝の永平10年初伝という。これは西記0067に当たる。唐第15代武宗皇帝による大弾圧が0842年で、これ以後、若干復興したが、元の侵略に伴ってラマ教が支配し、さらに清代、1850年ごろの太平天国の乱で壊滅的な打撃を受けた。実質的には、武宗による弾圧をもって終わったとも見られるのである。
こうして見ると、中国における仏教流布の時代は、まことに短い。むしろ、中国仏教は天台大師を頂点として、日本に仏教を伝え、末法御本仏出現の基盤を整えるためであったと考えられる。これ仏法東漸であり、末法の大白法が、今度は東から伝えられ、末法万年尽未来際まで、中国の民衆をも、インドの民衆をも救済するのである。
而して、中国に流布した仏教は、浄土教であり、天台宗である。釈尊一代の教法からみても、権大乗、法華経迹門に過ぎない。だが、仏教の中国文明史に残した足跡は、実に大きい。法華経本門の大仏法を根底とする第三文明の偉大さが、この事実からも確信できる。
仏教に説く理想郷・寂光土
さて、仏教において、その理想郷とする所は、まず権大乗では、東方浄瑠璃世界や西方極楽世界のごとく、この娑婆世界とははるか離れた遠くにあると教えられた。而して、実大乗経である法華経では、遠くにあるというのは誤りと否定され、この娑婆世界が即寂光土と説かれる。
すなわち、寂光土とは、よそに求めるのではなく、われわれが、この世界に実現すべき目標である。その方法は、妙法の広宣流布によるのである。理想世界といい、汚濁の世界といい、所詮は人で決まる。民衆に福運がなく、智慧もなく、貧乏・病気・不和に支配されている社会は、不幸の社会であり穢土という以外にない。逆に、民衆に福運があり、智慧があれば、貧乏も病気も追放し、不平・暴力もなくすことができる。すなわち、福祉社会が実現する。
これが「妙法なれば人貴し、人貴ければ所貴し」の方程式であり、理想世界実現の原理なのである。あくまでも、法が根本である。法のない社会は、骨のない動物に等しく、魂のない人間に等しい。必ず独裁制に陥り、民衆の自由を奪うか権力の乱立となって社会としての秩序を失う結果となろう。最高の正しい法と、それによって革命されたる人間の叡智の結集こそ理想社会の真髄である。
西洋哲学に見るユートピア
過去、ヨーロッパにおいても、さまざまの理想郷が描かれてきた。そうした考え方は、イギリス・ルネサンスの思想家トーマス・モアが著わした書にちなみ「ユートピア思想」と叫ばれている。utopiaとはギリシァ語の「ない・場所」ou toposを合成した語である。彼は、架空の島を想定して現実社会を批判し、理想社会を描いたのである。
このほか、イタリアのカンパネラの「太陽の都」イギリスのF.ベーコンの「二ユー・アントランス」等がルネサンス期のユートピア思想の代表例である。
降って、17世紀以後の近代市民革命の時代にも、さまざまのユートピア構想が現われている。イギリスのウィンタンスを中心とするディガーズ、18世紀フランスのレモン、マブリらがそれである。
19世紀にはいると、産業革命の結果、資本主義が発達し、幾多の社会的矛盾が生じ始めた。これに対して、サン・シモンやフ―リエ、オーエンなど、いわゆる空想的社会主義が、やはりユートピアを構想して、現実への批判を行っている。
総じて、ヨーロッパにおけるユートピア思想は、社会の機構上の改革をめざすことが主眼であった。私有財産制を攻撃して共有財産、共同労働、相互扶助の主張は、共通した論点といえる。だが、これらは単なる空想の域にとどまっている。それを初めて、経済学的、哲学的に体系化し、革命という手段で実現したのが共産主義である。
だが、共産主義は社会機構は変革し得ても、人間性を変えることはできなかった。ソ連におけるスターリンの恐怖政治、個人の自由への圧迫は、共産主義社会が、けっして理想社会でないことを物語っている。最近、ソ連当局が国民の私有財産や産業の利潤追求を大幅に認めたというのも、彼らの理想に根本的な誤りがあったことをみずから認めたことを意味する以外のなにものでもない。
人間社会の幸福と繁栄は、人間性への深い洞察と理解なくして実現できる道理がない。この人間性の基盤に立ち、また人間性を根幹にしての社会変革、機構の確立であって初めて理想社会を建設できるのである。これが、われわれが実現しようとする人間性社会主義の思想である。
政治と人間性
政治の良し悪しほど民衆の幸・不幸を左右するものはない。これまで、さまざまに論じてきたように、悪政が災害を増長し、多くの民衆を飢餓や病苦に追いやることもある。また、単に天災による被害が悪政のために増大するような場合のみでなく、現代における公害問題のごとく、人間の営みそのものが災害をもたらすこともある。
あるいは、政府の偏よった政策が、犠牲を生み、多くの人々を困窮のどん底に落とすことも珍しくない。しかし、最も直接的に民衆を苦しめる政治悪は戦争である。戦争とは、どんなに美化しようと、政府の名で公認された大量殺人にほかならない。
かって、広島と長崎に人類最初の原爆が投下されて、何の罪もない30余万の民衆が、その劫火に焼かれて死んだ。しかし、投下を決定した最高責任者は、何の罪にも問われていない。
一方、ソ連では、ドイツ軍との間に激戦が展開されたとき、数百万のソ連兵士が人命を落とした。もとより、ドイツ軍の被害も大変なものであった。もしスターリンの作戦に誤りがなければ、ソ連軍の被害は、はるかに少なくてすんだであろうといわれている。しかし、戦後、スターリンは、大戦を勝利に導いた英雄として、それまで以上の崇拝を受けた。
人間性尊重こそ政治の要諦
これに対して、もとより罪を問われた人々もある。敗戦国ナチ・ドイツの指導者たち、日本軍部政権の首脳たちである。すなわち、国破れ、政権の座から引きずりおろされた者は、罪人となっている。
このことは、現在の世界には、政治権力の座にあるかぎり、いかなる非道を犯しても、いかなる誤りがあっても、その人は罪に問われないという、まことに不思議な原理が存在していることを物語っている。それゆえにこそ、政治の良し悪しは、厳密に検討されなければならないし、政治の根底に人間性をおかなければならない。
すなわち、政治はそれを行なう主体、権力者も人間であり、その対象も人間である。そこに一貫されるべき思想は、あくまでも人間性を尊重しなければならない。これが、万人の求めてやまぬ政治の理想といっても過言ではないであろう。
そればかりではない。過去のいかなる時代に比較しても、現代ほど政治のあらゆる面に人間性の果たす役割りが期待され、重視されている時代もない。しかも、それにもかかわらず、過去のいかなる時代にもまして、現代は人間性の危機が叫ばれているのである。
過去の政治観を検討してみると、そのいずれも、政治や国家は人間の力以上の何かによって動かされているという考え方があった。たとえば、古代においては、中国の天命説のように、天の命によって統治すると考えた。それと似た思想があらゆる民族、国家にあった。エジプトにおいては王はすなわち神なりとされた。くだって中世ヨーロッパでは、王権神授説がとなえられ、政治権力の絶対性が神の名において主張された。
近世にはいって17世紀から18世紀にかけ、ロックやボブスンが出現し、さらに民主主義が確立されるに及び、政治権力は民衆の依託によるものとされるようになった。ここに大きい前進を遂げたのであるが、なお、完全に人間性によって律せられるようになったわけではない。
たとえば、19世紀資本主義においては、個人の自由な活動を重んじているが、全体的な調整については「見えざる神の手がこれをなし給う」と説く。これに対し、共産主義思想は、全体的な調整を人間の手に帰したものの、その歴史的展開は、社会全体の弁証法的発展によるものとしている。
20世紀にはいった現代、資本主義も共産主義も、福祉国家をめざして前進している。資本主義は本来、放任してきた個人主義的自由を抑制せざるをえなくなり、かなり社会主義的な行き方に変わってきている。共産主義も、社会は放っておいても自然に弁証法的発展をするわけでは決してなく、社会革命には暴力の必要もあるし、計画経済で運営していかなければならないという考え方を根幹にするようになってきている。
これらの事実は彼らが信じていた「見えざる神の手」も「弁証法的発展法則」も、所詮、人間の手を離れてはなく、人間がそのように図っていく以外にないということに気づいた結果である。この意味であくまでも人間本位の思想なのである。これは、過去に例を見ない現代の特色であり、まさしく人類史上の一大変革ともいうべきであろう。
この20世紀に始まる思想は、まだ試行錯誤の段階であって、これが根底から確立されるためには、人間生命への深い洞察と哲理を有する生命哲学が基盤でなければならない。すなわち、日蓮大聖哲の色心不二の生命哲学こそ、人類の新時代をもたらす最大源泉なりと確信してやまない。
時代の趨勢は福祉国家へ
以上の理念的な面に対し、具体的な政治についても、現代は大きく行き方が変わってきている。これを簡単にいうと、これまでの政治は消極政治であり、現代ならびにこれからの政治は積極政治であるということができる。
すなわち、18世紀、19世紀の政治機能論は、市民生活の上において何らかの支障が生じた場合にのみ、それを取り除くために働けばよいというものであった。したがって、政治が大車輪で動くということは、内乱か戦争か、あるいは国民の膏血をしぼりとる重圧政治か、いずれにせよ、よいことではなかった。
その一つの典型として、19世紀イギリスの「夜警国家」という考え方がある。これは、国家は泥棒を取り締まり、市民が安心して働き、生活できるようにすればよいのであって、それ以上に市民生活に干渉すべきではないというのである。
現代においては、国家機構は国民のあらゆる生活部面に密接に結びついているし、その糸は複雑にからみ合っている。人間は誕生してから成長し、勉強し、就職して働き、結婚して家庭生活を営み、子供を生み、育て、さらに年を取ったり、病気をしたり、さらに死にいたるまで、人生のあらゆる問題について、国家の世話にならないですませるものは、何一つとしてないといっても過言ではない。
一日の生活についても、食べる物、着る物、乗り物等、みな何がしかのつながりを政治にもっている。政府の物価政策は、微妙に食卓やレストランのメニューに反映しているし、政府の交通政策が道路の良否、電車賃の高低を決定している。
これは逆に政府の形態、国家機構からみても明らかである。天皇の下に太政大臣、左右の臣下しかなかった平安時代はいうに及ばず、明治にはいってからでも、政府機関はきわめて簡単なものであった。すなわち、宮中・府中の別を立て、宮中に内大臣と宮内大臣の二つ、行政府に内閣総理大臣以下、外務・内務・大蔵・陸軍・海軍・司法・文部・農商務・逓信の十大臣があったに過ぎない。
戦後、今日の内閣は、総理府・法務・外務・大蔵・文部・厚生・農林・通商産業・運輸・郵政・労働・建設・自治の各省、および経済企画・行政管理・北海道開発・防衛などの各庁からなっている。
この二つを較べてみると、戦前の内閣は、いわゆる天皇の大権を補うという、眼を上に向けた性格のものであることがよくわかる。社会保障や医療問題を扱う厚生省、交通問題を扱う運輸省、労働者の待遇問題を扱う労働省、住宅や道路等に関する建設省、あるいは地方自自体の諸問題に関係する自治省、国民経済の見通しを立てたりする経企庁などは、戦前にはなかった。
これは日本だけについて見たものであるが、世界各国もほぼ同様の事情である。すなわち福祉国家は現代のあらゆる国がめざしている目標であり、その実現へ努力することが政府の当然のあり方とされるにいたっている。
裏返していえば、現代の政治は、過去のように消極的なものではなく、国民の住宅も、道路その他交通問題も、衣食の供給も、さらに病気にかかったり、老いて働けなくなかったりした場合の救済も、一切を担っていかなければならない。
日本国憲法第二十五条には次のように規定されている。
〔生存権、国の社会的使命〕① すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。② 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び前進に務めなければならない。
政治の根底に慈悲の精神を
現代の政治は、国家の中に人間としてふさわしい生活ができない人が生じた場合、これを救済しなければならない。すなわち、国民一人一人が皆、健康で文化的な生活を営むことができるよう努力することは、政治の使命であり、義務でもある。
事業に成功して大富豪になるのもその人の自由、失敗して一文なしになり、ついには一家心中するのも、その人の自由といった放任主義は、この憲法の精神のもとでは認められない。現実問題としては、もちろん一家心中や自殺もある。しかし、そうした不幸の人をなくすことを究極の目標として努力することが、政治の正しいあり方とされているのである。
いいかえれば、これは政治の根底に人間性の尊重、生命尊厳の思想が確立されるということにほかならない。したがって、政治の運用にあたる政治家や官僚こそ、この人間性尊重の精神に立って行うことが要請されるのである。
だが、残念なことに、現在まだ、政治家も官僚も、この理想からはるかに遠い。むしろ考えていることは、一身の栄誉栄達、名聞名利であり、自由の欲望を満たすために民衆を踏み台にし、尊い血税を吸い取り、騙しているものが少なくない。
特に、血も涙もない官僚の利己主義、縄張り主義は大きい嘆きである。これは、かっての封建主義的な役人根性の遺物である。政治家も官僚もあくまで民衆が税金で養っている公僕ではないか。民衆に仕え、民衆のために働くことこそ、彼らの当然の義務である。この事実を、政治家・官僚も、民衆も再認識しなければならないし、その精神を永久に失ってはならないであろう。
大切なことは、政治の基本精神に、この地上より“悲惨”の二字をなくそう、一人として不幸の人を出さないという慈悲が具現されることである。慈悲すなわち“抜苦与楽”こそ政治の古今変わらざる根本理念であり、現代政治においては、それがいよいよ具体的に要望されるといえよう。
この慈悲を人間の心に、なかんずく政治家の精神として確立し、ひいては社会原理として築く源泉は仏法にあると主張するのである。
政治権力は、往々にして、これまでの非人間性の代表のごとく思われてきた。為政者の貪欲・征服欲・支配欲・愚かさが、民衆を苦しめ、このような印象を常識化したともいえる。だが政治権力は、かつてのリンカーンが述べたように「民衆の、民衆による、民衆のための政治権力」でなければならない。
なかんずく、機械文明が、かくまで高度に発達し、人間疎外の現象を生み出している現代においては、さらに一歩すすんで「人間の、人間による、人間のための政治権力」でなければならないことが再確認されるべきであろう。
第二章 (重ねて謗法対治を促がす)
主人悦んで曰く、鳩化して鷹と為り雀変じて蛤と為る、悦しきかな汝蘭室の友に交りて麻畝の性と成る、誠に其の難を顧みて専ら此の言を信ぜば風和らぎ浪静かにして不日に豊年ならん、但し人の心は時に随つて移り物の性は境に依つて改まる、譬えば猶水中の月の波に動き陳前の軍の剣に靡くがごとし、汝当座に信ずと雖も後定めて永く忘れん、若し先ず国土を安んじて現当を祈らんと欲せば速に情慮を回らし急いで対治を加えよ、所以は何ん、薬師経の七難の内五難忽に起り二難猶残れり、所以他国侵逼の難・自界叛逆の難なり、大集経の三災の内二災早く顕れ一災未だ起らず所以兵革の災なり、金光明経の内の種種の災過一一起ると雖も他方の怨賊国内を侵掠する此の災未だ露れず此の難未だ来らず、仁王経の七難の内六難今盛にして一難未だ現ぜず所以四方の賊来つて国を侵すの難なり加之国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱ると、今此の文に就いて具さに事の情を案ずるに百鬼早く乱れ万民多く亡ぶ先難是れ明かなり後災何ぞ疑わん・若し残る所の難悪法の科に依つて並び起り競い来らば其の時何んが為んや、帝王は国家を基として天下を治め人臣は田園を領して世上を保つ、而るに他方の賊来つて其の国を侵逼し自界叛逆して其の地を掠領せば豈驚かざらんや豈騒がざらんや、国を失い家を滅せば何れの所にか世を遁れん汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か、就中人の世に在るや各後生を恐る、是を以て或は邪教を信じ或は謗法を貴ぶ各是非に迷うことを悪むと雖も而も猶仏法に帰することを哀しむ、何ぞ同じく信心の力を以て妄りに邪義の詞を宗めんや、若し執心飜らず亦曲意猶存せば早く有為の郷を辞して必ず無間の獄に堕ちなん、所以は何ん、大集経に云く「若し国王有つて無量世に於て施戒慧を修すとも我が法の滅せんを見て捨てて擁護せずんば是くの如く種ゆる所の無量の善根悉く皆滅失し、乃至其の王久しからずして当に重病に遇い寿終の後大地獄に生ずべし・王の如く夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡主・宰官も亦復是くの如くならん」と。
現代語訳
主人は喜んでいわく。
古事に鳩が化して鷹となり雀が変じて蛤となるとあるが、あなたもまた、日蓮のもとへ来て帰伏し、蓬のように曲がっていた邪信は麻のごとくすなおに正法に帰依することができた。このことは実に喜ばしいことである。まことに近年の謗法による災難を深く心にとどめて、日蓮の教えをまっすぐに信ずるならば仏法界は平穏になって、日ならずして世の中は豊年となるであろう。ただし、人の心は時に従って移り、物の性分はその環境によって改まるものである。たとえば、水に映った月は波の動きに従って動き、戦いに臨んだ軍兵は敵の攻撃に従ってなびくようなものである。あなたもこの座では正法を信ずると決心しているけれども、のちになって必ずそれを忘れてしまうであろう。もしまず、国土を安んじて現当二世にわたる自分の幸せを祈ろうと思うならば、すみやかに情慮をめぐらし、いそいで邪宗邪義に対治を加え、徹底的に破折していきなさい。
その理由は薬師経に説かれている七難のうち、五難はたちまちに起き、二難だけがなお残っている。いわゆる他国から侵略してくる難と、自国内で叛乱が起こる難である。大集経の三災のうち二災はすでにあらわれ、兵革の災だけまだ起こっていない。金光明経のなかの災禍も次々と起きたが他国の怨賊が国内を侵略する災だけ、まだあらわれていない。さらに仁王経にある七難のうち六難までは今盛んに起きているけれど、一難のみまだ現れていない。いわゆる四方の賊が来て国を侵すの難である。それのみならず、経に国土の乱れるときは、まず鬼神が乱れる。鬼神すなわち思想が乱れる。思想が乱れるがゆえに万民が乱れると説かれている。この文についてつぶさに事情を考え合わせると、百鬼は早くから乱れ、万民は多く死亡している。鬼神乱れ万民乱るの先難はこのように明らかである。国土乱れるの後災が起きることをどうして疑うことができようか。必ず起こるにちがいない。もしまだ現れていない自界叛逆罪・他国侵逼の二難が、悪法を崇重する罪科によって、並んで起きたならばそのときになってどうしようというのか。そのときになってからではもう遅いではないか。
帝王・国家の指導者は、国家を基盤として天下を治め、人々は田園を領し、生産に励み、生活を支え社会を支えていけるのである。しかるに他方の賊が来て国を侵略し、自国内で叛乱が起きて、その土地を略奪されるならば、どうして驚かないでいられようか。騒がないでいられようか。必ず大混乱を引き起こすであろう。国土を失い国が亡びてしまったならは、一体どこへ逃れて行けるであろう。あなたがすべからく一身の安堵を願うならば、まず一国の静穏・平和を祈るべきである。
なかんずく、人の世にいる間は、おのおの死後の来世のことを恐れるものである。このゆえにあるいは邪宗教を信じ、あるいは謗法を貴んでいる。自分はおのおの仏法の是非・善悪に迷っていること自体は悪むけれども、なおより深く考えれば、彼等もまた正法を求めて仏法に帰依しているのである。それでいながら、邪法を邪法と知らずにそれを信じていることを哀しむものである。同じく信心の力をもって仏法を尊重しようとするならば、どうしてみだりに邪法邪義の言葉を崇重してよいのであろうか。もし法然などの邪法に対する執着の心がひるがえらないで、また私曲の意がなお存するならば、早くこの世を去り後生は必ず無間地獄に堕ちるであろう。
大集経には「もし国王があって、無量世のながい間・布施・持戒・智慧の修行を積んできたとはいえ、正法が滅びようとしているのを見捨てて、擁護しないならば、(謗法を責めないなら)このように種えてきたところの善根はことごとく皆、滅し(乃至)その王はまもなく重病にかかり、死んでのち大地獄に堕ちるであろう。王と同様、夫人・太子・城主・村主・将師・郡主・宰官もまたことごとく大地獄に堕ちるであろう。」とある。
語釈
鳩化して鷹と為り、雀変じて蛤と為る
ともに物が大きく変化することをあらわしたもの。出典は「礼記」月令、「国語」など。鷹が春のうららかな陽気によって鳩と化し、晩秋の海辺で騒ぐ雀が蛤になるという、中国の古い俗信である。本抄では鳩と鷹の位置が逆転しているが、これは勝劣の義を取るのではなく、ただ変化の義を取るのである。ここでは、客がこれまでの謗法の執着を捨てて、主人の正しい教えに従うようになった、その変化を指摘されたのである。
蘭室の友に交って麻畝の性と成る
蘭室とは蘭香の室の意で、高徳の人のいる所。香り高い蘭のある室にいると、その香りが身体にしみてくることから、高徳の人と交わって感化されることをいう。麻畝とは麻畑のこと。蓬のように、まっすぐに伸びない草でも、麻畑に生えると、周囲の麻に支えられてまっすぐ伸びることをいう。ここでは、主人の教えを聞いて、客人が邪見、謗法を改めて正法に帰依するようになったことを譬えている。
不日に豊年ならん
「不日に」とは、日ならずして、すみやかに。詩経の註に云く「日を経ざるなり」と。「豊年」とは礼記五に云く「九年六年三年の蓄えの事云云」とある。
国を失い家を滅せば、何れの所にか世を遁れん
日寛上人の文段には「東福寺の招月が詠歌に云く『遁れても世を安かれと祈るかな 静かならねば隠れがもなし』と云云。これを思い合すべし」とある。
一身の安堵を思わば、先ず四表の静謐を祷らん者か。
個人の救済が、世界全体の平和抜きにはありえないことが明言されている。
講義
客が態度を改め、主人の言葉どおりに邪宗に対する布施をやめて正法を信じ、社会の平和と繁栄を期そうと誓ったのを喜び、重ねてその決意の実践を促している。
特に、三災七難のうち、自界叛逆・他国侵逼の二難が残っており、もし日蓮大聖人の諌暁を用いて謗法を対治しなければ、必ずこの二難が競い起こってくるであろうと予言されているのは重要である。
蘭室の友に交りて麻畝の性と成る
客が主人と語り合うことによって、蒙を啓き、ただ災難を嘆くのではなく、対治の法をもって立ち上がったことを喜ばれているのである。人は環境を支配し、周囲を動かしていくが、逆に環境に支配され、人に動かされる面も少なくない。自己に確固たる指針と信念のない人は、むしろ、動かされ、支配されることの方が多い。環境や交際する友人が大切である所以である。しかしながら、最初から確固たる指針や信念をもっている人はいない。もっている人と触れ合うことによって、おのずから自己を確立することができるのである。
今、創価学会に対して、誤解や浅い認識しかなく、悪意と偏見をいだいている人が少なくない。だが、ひとたび学会の座談会等の会合に出席し、共に語り合うならば、必ず、偏見であったことに気づき、悪意は善意に変わると確信してやまない。
また、学会員の御本尊に対する信心を根本とした世界平和の情熱、民衆の幸福への希望、自己の生活向上の確信は、必ずその人の心を動かし、同じくまっすぐにしていくであろう。事実、乱れきった世間に染まって、根性曲がりの利己主義であった人も、素直な自己を取り戻し、やがてみずから御本尊を拝んで創価学会員とし、大聖人の弟子として、希望と確信と情熱に満ちた、充実した人生に変わっているのである。
人の心は時に随つて移り物の性は境に依つて改まる
話を聞いた当座は感激しても、やがて時がたつと、その感激はうすれてしまう。また、その場にいる時は正しいとわかっていることでも、悪の仲間の所へ戻ると、正しくないように思ったり、ばかばかしいと思い直したりするものである。
人の心は微妙である。時代により環境によって、時としては、まるで逆の反応を示すものである。戦時中、天皇制を讃え、国体論を唱えた人が、占領下では180度転換して民主主義を叫び、今また、口では民主主義を唱えながら、民衆の真の覚醒を妨げようとしている例も少なくない。戦前は日本民族至上主義を信じた人々が、いったん、国破れるや、日本を馬鹿にして、売国的な行為に走っている例も少なくない。
個人においても、社会・国家においても、絶対に崩れることのない精神的支柱を築き上げなければならない。低い哲学・低級な思想は、必ずいつか力を失い、崩れ去ってしまうものである。偏狭な思想は、世界的な視野に立って、協調しながら民族の発展を推進するということはできない。最も高く、最も円満な哲学・思想によらなければならない。それは、日蓮大聖人の色心不二の生命哲学であり、東洋仏法の真髄、三大秘法の大仏法による以外ないのである。
若し先ず国土を安んじて現当を祈らんと欲せば速に情慮を回らし急いで対治を加えよ
薬師経、金光明経、大集経、仁王経の4経の経文に照らして、自界叛逆・他国侵逼の2難は眼前にある。その根源は一国謗法である。したがって、謗法を対冶することが、国土を守るため、第一の肝要である。こうしてのちに現在および未来、さらには未来世への幸福と繁栄を願っていきなさいとのお言葉である。
このように、本人に謗法払いさせる方程式は、一家においても同じである。創価学会の折伏について、謗法払いが破壊活動になるのではないか等の邪義をふりまわす人々がいる。これはまったくの悪意による非難で、折伏した方の学会員が、謗法払いを強要したり、あるいは本人が嫌がるのをみずから手を下して行なわれるものである。
一国の謗法払いは、謗法の僧を禁じて、仏の正法に敵対する宗教を対冶することである。それはすなわち、指導者も民衆も、一念の中にある謗法を断ち切ることに帰するのである。同じく、一家の場合も、謗法払いを通じて一念の謗法を断絶することになるのである。
謗法払いを、創価学会が勝手に考え出したことのようにいう人がいる。無認識も甚だしいといわざるをえない。謗法を呵責し、禁ずることは、仏教本来の精神である。創価学会こそ、この仏法の精神を最も真面目に、仏の金言のままに実践しているのである。
しかして、謗法を禁じて自界叛逆・他国侵逼の源をふさぎ、国土を安んじてのちに、おのおの幸福境涯の確立を図るべきであるとの言葉である。すなわち自界叛逆難・他国侵逼難が絶対に起こってくるとの御確信であって、この予言が的中したことは、前述したとおりである。
すなわち自界叛逆難は、すでに何回かふれたごとく大聖人佐渡ご流罪中の文永9年(1272)2月の北条時輔の乱がそれである。時輔は北条時頼の子で、執権の時宗とは異母兄の関係である。時頼の正妻の子でないからという理由で、家督を時宗にとられたのを恨んで謀叛を企てたのである。事前にこれを察知した時宗は、一味と目された名越教時、仙波盛直らを、2月11日、鎌倉で殺害し、続く15日、京の南六波羅蜜探題にあった時輔を、六波羅北方の北条義宗らに襲わせた。世にこれを二月騒動という。
他国侵逼難は、文応元年(1260)の御予言から満7年と7ヵ月たった文永5年(1268)閏正月、蒙古・高麗の国書をたずさえて、使者、潘阜が大宰府に着いており、数度にわたる使者来日ののち、満14年の文永11年(1274)10月、文永の役、さらに、文応元年(1260)から数えて21年後の弘安4年(1281)5月に弘安の役となってあらわれたのである。
このように、厳然たる事実があるにもかかわらず、蒙古軍は二度とも風雨にあって破退したのだから、国が亡ぶという大聖人の予言は外れたのではないかという輩がある。これについて、日寛上人は、次のように論破されている。
すなわち、第一には、大慈悲忠諌の意であって、父が子の過ちを責めるのに、改めないと身を滅ぼすであろうという、それは身を滅ぼさせないための親心の親切である。と同じく、大聖人の御予言も、国を安んぜんがための大慈悲心である。
第二には「神の力によって護られた」と世人の言っていることに関連するのであるが、一つは鎌倉政府が悔い改めたことによる。その証拠として、大聖人の佐渡流罪を赦免し、大聖人の御活動を妨害しなくなった。もう一つは、何といっても、御本仏、日蓮大聖人がひかえておられて、護ってくださったのである。種種御振舞御書に「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし、何に況や数百人ににくませ二度まで流しぬ、此の国の亡びん事疑いなかるべけれども且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども・はうに過ぐれば罰あたりぬるなり」(0919:16)と仰せのとおりである。
日蓮大聖人の大慈悲によって、蒙古襲来による亡国の悲運は免れた。しかし、以来700年間、大聖人の正法を用いようとせず、弾圧迫害を続け、謗法を深めた結果、「法に過ぎて」遂に太平洋戦争の敗戦亡国となったのである。
異体同心事にいわく、
「我が国のほろびん事はあさましけれども、これだにもそら事になるならば・日本国の人人いよいよ法華経を謗して万人無間地獄に堕つべし、かれだにもつよるならば国はほろぶとも謗法はうすくなりなん、譬へば灸治をしてやまいをいやし針治にて人をなをすがごとし、当時はなげくとも後は悦びなり」(1463:12)と。
すなわち敗戦の現実、連合軍による占領政策は、未曾有の謗法払いがなされたと同じ結果となった。まず、敗戦によって、過去、日本民族が持ち続けてきた謗法の神に対する盲信が崩れ去った、次に、占領政策の実施によって、過去数百年来、既成仏教の維持した数々の特権が取り去られた。農地改革による広大な寺院所有地の整理等は、寺院の経済的基盤を抜き取ってしまうことになった。結果的には「一闡提の施を禁ぜよ」の御金言が、見事に実行されたことになる。占領軍の宗教政策の主眼であった国家神道に対する特権の除去は「信教の自由」として、憲法に明文化された。
大聖人の御予言の正しさは証明され、一国謗法の根は断たれ、化儀の広宣流布の条件は整ったのである。ここに、この大目的のために立ち上がったのが創価学会である。だが、民衆の宗教に対する不信は深く、無智は幾多の新興宗教の跳梁を許した。順縁広布とはいえ、決して平坦な路でないことは、覚悟の上で進まなければならない。過去もそうであったし、未来も、いよいよ、そうである。
仏法民主主義について
「加之国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」とは、思想の乱れが民衆の乱れを惹起し、民衆の乱れが国土の乱れを招くとの原理である。同じ方程式で、この逆をいえば「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し」(1578:12、南条殿御返事)となる。民衆の幸福、国土の安穏を築くためには、まず悪法、邪法を追放して善法、正法を確立することが肝要である。
民主主義が、自由・平等・尊厳をその内容とすることは、多くの思想家の一致した見解である。だが、この三つは並列的に論ずべきものではなく、自由といい、平等といっても人間生命の尊厳という土台に立っての自由・平等でなければならない。
いかに個人の自由といっても、他人の権利、生命を犠牲にすることは許されない。また平等というも、生命の尊厳を無視した平等は絶対に認めることはできない。政治も、経済も、教育、科学、芸術も、いかにすれば民衆の幸福を増進できるか、人間性を向上できるかという目的のための活動である。
だが、人間の幸福、生命の尊厳観は、単に物質的に恵まれ、教養を豊かにしたところで完全に満たされたことにならない。欲望は限りなく発展して満足することを知らないし、一方では、死の恐怖が常に幸福を空虚なものにしている。尊厳を理想としつつ、現実は余りにも醜く、はかない。この矛盾を解決するために宗教が生じた。
キリスト教民主主義と人民民主主義
キリスト教は、人みな原罪によって穢れた存在であるとし、父なる全知全能の神を信じ、その教えを実践することによって救われると説いた。このキリスト教が全ヨーロッパに流布して現出した神の国が、暗黒時代といわれた中世ヨーロッパにほかならない。
ルター等の宗教改革は「神の代理人」としてのローマ法王を否定し、天なる神を地上の人間と信仰によって直結させようとする試みであった。かくして、新教側にも、また新教に刺激されて旧教側にも、新しい宗教運動が起こった。そして、神と直結するという考え方から人間生命の尊厳思想が確立して、民主主義思想の発展をもたらしたのである。
このように、近世以来、イギリス、フランス、アメリカ等において発展してきた民主主義は、キリスト教を根底とするのである。すなわち、キリスト教民主主義と呼ぶことができる。
これに対し「宗教は阿片なり」として、キリスト教を真っ向から否定して唯物論を唱え、プロレタリア革命を叫んだマルクスを元祖とする、新しい民主主義がある。ここでは、共産主義体制がとられ、計画経済のもとに、個人の自由が大幅に制限されている。経済的自由のみならず、思想、文化、信教の自由も厳格に規制されている。実質的には、むしろ全体主義、独裁主義ともいうべき政治が行われているのである。
しかし、彼らは、これは理念に至るまでのやむをえない手段であるとして、最終的には、マルクスやレーニンの唱えた、プロレタリアートによる完全な民主主義に達するのだという。このゆえに、人民民主主義と呼ばれている。
この二つが、現代の民主主義の代表である。このほか、世界的に流布した宗教としては、イスラム教がある。これは、唯一絶対神アラーへの信仰を唱え、厳格な戒律と一日に五度も行なう礼拝・喜捨・断食を要求する。中近東から北アフリカ、パキスタン、インドネシア等に流布し、かっては、華やかなサラセン文化を生んだ、だが、今はその形骸を留めるのみで、民衆の生活に浸透した習慣や迷信は、かえって民衆を無気力化させ、近代化と発展への妨害となっている。
イスラム教を信奉する中近東諸国やエジプトは、民族主義の旗印のもとに独立は獲得したものの、個人的な指導者の力量に依存せざるを得ず、したがって国家としての存立の基盤は脆弱である。「世界の火薬庫」といわれるこれらの国々の絶え間ない政情不安に、終止符を打つためには、力ある思想哲学が必要である。
インドにおけるヒンズー教も、カースト制度として、インド民衆を強く規制し、近代化の阻害となっている。生まれながら人を階級づける思想が、民主主義に反することはいうまでもないであろう。
また、その他の東南アジア諸国においては小乗仏教が流布している。男子はある年齢に達すると、必ず出家して、乞食行等の修行をする。禁欲と厳しい戒律を要求するこの宗教にも、やはり新しい政治・経済・科学を指導する理念を求めることはできない。
かくしてイスラム教地域でも、小乗仏教地域でも、その指導理念の空白に乗じて、西側のキリスト教民主主義と、東側の人民民主主義とが激突して争奪戦を演じているのである。この事情は、大乗仏教国である日本も同じである。大乗仏教が流布したとはいえ、もはやまったく形骸を残すのみで、心から信じている人はなくなってしまった。釈尊の予言どおり、白法穏没の姿が現実となって現われているのである。
仏教民主主義に理想社会の建設
このように、自由主義、共産主義、民族主義、国粋主義、あるいは売国的な思想等々が相争い、そしてそのいずれもが、深く根をたどる利己主義に帰着する。この姿は、正に「鬼神乱る」の実相ではないか。そして「万民乱る」の結果が出るのではないか。
さらに、キリスト教民主主義も、人民民主主義も、その最も基盤たる人間生命の尊厳については、きわめて偏見であり、観念的である。キリスト教哲学は観念的な唯心論を唱え、共産主義は偏狭な唯物論を主張する。肉体と精神活動とが一つになっている人間存在を正しく解明しきった哲学とはいえない。しかも、単なる現世論で、死および死後の問題に対する解答はない。
西欧において、キリスト教に飽き足りない人々が、あるいは共産主義にはしり、あるいはニヒリズムを唱え、あるいは仏教を求める現象もこのゆえである。また、ソ連等共産圏において、思想的、文化的な統制政策を廃止できないのも、共産主義哲学に満足できない人々が多いからにほかならない。このように、東西両陣営にも「鬼神乱るるが故に万民乱る」の姿が、いよいよ顕著に現われ始めているのではないだろうか。
世界の全民衆が心から納得し、全人類が団結して理想世界の建設へ邁進していける唯一の政治理念こそ、仏法民主主義である。すなわち、色心不二の大哲学であり、永遠の生命観と宇宙即我の絶対的幸福を実現する日蓮大聖人の大仏法を根底とする民主主義である。
自由主義世界の民衆も、共産主義世界の民衆も、また、後進地域の民衆も、妙法に帰依して仏界の生命を湧現して初めて、真実最高の尊厳なる存在となることができるのだ。しかして妙法の当体なるがゆえに平等であり、苦の束縛を打破するがゆえに真の自由を獲得することができるのである。
さらに詳しく論じてみよう。
自由・平等・尊厳について
先に引用した「妙法なるが故に人貴し」とは、人間生命の尊厳について、その本源を明らかにされている。すなわち、人間の生命が尊いとは、誰でも口にすることである。だが、現実に、世の中には、尊い人間もいれば、害になる人間もいる。また、その程度も、千差万別である。これが現実とすれば、単に生命の尊厳を叫んでみても、それは空理空論である。
それでは、何をもって尊しとするか。その人の持っている法、哲学の高低浅深と、それがどのように言動に反映されるかによって、その人の尊厳が決まるのである。極端な例であるが、ナチズムのごとく、ドイツ民族を至高とし、多民族は支配されるべき奴隷であり、ユダヤ民族は抹殺すべき民族であるという思想を持った人がいるとする。そして、その思想を実践して、他民族を征服し、ユダヤ人を殺し始めたとすれば、冷静な人なら誰しも、この殺人主義者を尊敬することはできないであろう。
逆に、生命を浄化し、宿命を転換し、生命力を旺盛にする力ある哲学を持ち、自己を人間革命するとともに、人々にもそれを教えていく人は、最高に尊厳な人といわなければならない。しかして、その哲学を徹底して実践していく人が最高のなかの最高であり、自己の弱さに負け、徹底しきれない度合いに応じて尊厳の程度も決まってくるのである。この哲学こそ日蓮大聖人の生命哲学である。すなわち本地難思の南無妙法蓮華経の大法である。
日蓮大聖人は法に即して人、人に即して法、人法一箇の御本仏であられる。われらは、大聖人の教えどおり、人法一箇の大御本尊に題目を唱え、境智冥合することによって、同じく生命を浄化し、宿命転換し、力強い生命力を湧現して生活を楽しんでいくことができるのである。
このような、生命の奥底から確立し、現実の生活に実証できる生命の尊厳は、大聖人の仏法による以外に絶対にない。このゆえに、仏法民主主義こそ、人類が少なくとも3000年来、求め求めてきた真実の民主主義なりと断言してやまない。
また「自由」について考えてみよう。およそ西欧民主主義が求めてきた自由とは、キリスト教的ドグマからの自由であり、封建的身分制度からの自由であった。今日、憲法等で規定されている思想・信教・学問・職業・集会等の自由は、こうした思想的・政治的自由の具体化されたものである。
しかし、これは自由のごく一部に過ぎない。広い意味での自由とは、一定の因果関係において、一つの原因の働きが、他の因果系列や条件に妨げられることなく結果を生むことである。したがって、物理学において、物体が落下する場合、途中に妨害物がないことも自由と呼ぶのであり、生物学において、生物の行動についても自由が論じられる。心理学においては、たとえば本能や衝動に対する知性の自由ということもある。
このようにして、人間生命の存在について真実の自由を考えるならば、社会・政治的な外部的条件からの自由と同時に、最も本源的な煩悩・業・苦からの自由が獲得されなければならない。この生命の本源的な自由の獲得は、仏法による宿命転換、妙法の宇宙のリズムに合致することによって初めて実現されるのである。
今日、実存主義哲学で、人間存在の本源的な自由を、絶対者と、それに規制される人間性との関係において思索しようという動きがある。これは、中世からカント以前まで、神学上の基本問題として盛んに議論されたテーマでもある。こうした実存哲学の新しい動きがある。詮ずる所、人間生命を、より深く解明したいとの欲求の現われであり、東洋仏法の真髄たる日蓮大聖人の大生命哲学を求める、時代の趨勢ともいえるのではないだろうか。
平等についても、一応はキリスト教に説かれている。すなわち、人間は一人一人、神の似姿としてつくられ、神につながるというのである。だが、はたして神は人間を平等につくったが、観念的に平等といい、それが不平等による苦しみをまぎらわす一時の慰めとはなっても、それは本質的な解決とはならない。
政治においても、一応形式的には平等である。だが、実質的には、まず経済的な裏づけがなければ、必ず不平等を生ずる。観念的に人格の平等を説いても、具体的には、個性も違い、才能も違う。特に、西欧の民主主義においては、平等よりも自由に重点が置かれているため、社会的差別は、あらゆる分野に残存し、民衆を不幸におとしいれている。資本家と労働者、黒人と白人、黄色人種等の人種問題は、常に社会問題を惹き起こしている。
これに対して、共産主義社会においては、自由を束縛しても平等を重んずる。だが、その平等は物の平等、経済的平均であって、人種的偏見は、けっして解消されてはいない。のみならず、その経済的平均すら、科学、技術関係者に対する待遇と、一般労働者や農民に対する待遇の差は、むしろ資本主義以上のものがある。国家的に見ても、ソ連と東欧衛星諸国に対する態度は、ハンガリー平等事件に見られるごとく、まるで属国扱いの不平等ではないか。
民衆一人一人の主体性を確立
仏法では、生命の本質を一念三千、十界互具と説く。妙法を持った人は、自然のうちに生命に対して偏見を捨て、この円満な見方ができるようになる。また、みずからの生命活動も一念三千の法理に適った振舞いへと変わっていくのである。
自由と平等は、共に民主主義の基本であり、人間の幸福生活を保障するための根本問題でありながら、互いに相反する概念である。西欧のキリスト教民主主義も、東欧の人民民主主義も、対立しあう両者を正しく理解し調和させることができないところに、抜本的な行き詰まりの壁がある。すなわち「個」と「全体」の調和の問題である。
この「個」と「全体」の調和こそ「社会的存在」としての人間の本質に関する問題である。古来、幾多の哲人が思索し、その思想を述べ、政治指導者が実践せんと試みたのも、これにほかならない。
キリスト教は「博愛」を説き、西欧民主主義もまた、この実践を標榜している。マルクス、あるいはレーニンは社会に対する献身こそ善なりとして、個人に優先する全体の価値を説いた。中国の儒教哲学においては、修身から斉家、治国、平天下への関係性を説き、基盤である修身の範疇を仁義礼智信とした。
しかし、儒教哲学は形式主義に流れて封建的身分秩序に陥ってしまった。レーニン等の「個」に対する「全」の優位は、人間性の抑圧を招いている。キリスト教の「博愛」もまた、抽象的な観念論に過ぎず、「愛」を理想として説きながら、現実は厳しい憎悪の葛藤を演じている。
その因って来たる根本原因は、これらの哲学は、いずれも、個々の人間の尊厳、主体性を確立する哲学ではないという点にある。すなわち、無智の民衆による民主主義は、所詮、衆愚政治に陥らざるを得ない。無智・無責任・無自覚の民衆に与えられた自由と平等は、結局は放縦、無秩序と、腐敗、混乱を招くのみである。
真実の民主主義は、民衆一人一人が主体性を確立し、智慧・責任・自覚をもって、社会全般のことを考えるようになった時に、初めて成立するのである。仏法民主主義は、その個々の主体性を確立する人間革命を基盤とし、自覚ある民衆による民主主義社会の建設をめざすものなのである。
社会全体が有智の団結であり、指導者・政治家の政治を行なう原理は「慈悲」である。ここに仏法民主主義の真髄がある。立正安国の精神とは、仏法民主主義の確立による、人類の真の自由・平等尊厳の達成なのである。
帝王は国家を基として天下を治め人臣は田園を領して世上を保つ
帝王とは政治家、指導者であり、人臣とは民衆である。国家とは、小さくいえば地方自冶体であり、普通は、たとえば日本国という一つの社会である。大きく論ずれば、国際連合のような全世界を統括する機構ともいえよう。田園とは、現代では単に農業のみでなく、鉱業・工業・商業・漁業等、いっさいの社会生活の営みを含むと考えられる。したがって、この文は政治の使命は、国家等の社会機構の運営によって、民衆の生活、さまざまな機構間の円滑な発展を図ることにあり、民衆は生活活動に従事して幸福生活、文化的生活を営めるようにしていく、との意である。
しかるに、もしも、外国から侵略されて、国家を蹂躙され、あるいは国内で民衆が互いに、その生産活動を妨害しあうような事態になれば、幸福生活、文化生活は営めなくなってしまうのである。
この一文は、まことに簡単であるが、社会機構と人間性、政治と経済の関係を、日蓮大聖人は実に明快に捉えられている。これに対して、たとえば、西欧資本主義国家にあっては、政治権力は個人にとって必要悪であるとし、したがって、その機能はできるだけ小さいことが理想とされた。いわゆる国家は、泥棒を取り締まるだけの夜警をつとめれば充分で、それ以上に国民に干渉すべきではないという「夜警国家主義」が18世紀末から19世紀にかけて、資本主義国家を支配していた。
しかし、19世紀後半にはいると、こうした放縦が深刻な社会問題を惹き起こしていることがわかるようになった。すなわち、個人の自由な利潤追求を放任しておくと、貧富の差が開くばかりで、資本家と労働者の階級対立が激化して、きわめて危険な様相を示し始めたのである。今一つは、産業界における無政府状態から、利潤の多いものに勢い集中し、ついに度を越して恐慌をきたす例が少なくないということである。
自由経済主義の思想家、アダム・スミスは個人の自由に任せておいても、見えざる神の手が自然に調整してくれると説いたのであった。だが、現実にそうした事態に直面して、「見えざる神の手」は働くべき時に働かないで、働いた時には、まことに無慈悲で痛烈であることがわかったわけである。
ここにいたって、あてにならない「神の手」をあてにするより、人間の手で調整し、階級的対立と、産業相互の関係を円滑化しようという考え方が起こってきたのは当然といえる。これがすなわち社会主義思想である。
社会主義を資本主義的な世界観、経済体制に対立する概念として、はじめて打ち出したのは、ロバート・オーゥエン等のロンドン協同組合で、1830年ごろである。これほとんど同じ頃に、チン・シモン等も、社会主義的考え方を発表し始めている。
その主張は「資本主義の弊害は、生産手段の私有制にある。すなわち、生産手段を私有している資本家が無計画な生産競争を賃金労働者の生活を犠牲にして行なう。そしていったん、生産過剰から恐慌になると、急激に生産を縮小して、商品の滞貨と生産設備の遊休と、そして最も悲惨な労働者の失業が起こるのである。したがって、こうした事態に陥らないようにする抜本策は、私有制を廃止して、共有制にし、計画生産を行う行なうことだ」というのである。
このような考え方は、オーウェン、サン・シモン等の他にも、種々の形で現われており、のちにマルクスは、封建的社会主義、キリスト教社会主義、小市民的社会主義、ブルジョア社会主義等の名をそれぞれに付しているほどである。一般にオーウェン、サン・シモン等の思想は「空想論的社会主義」と呼ばれる。
この命名者もマルクスで、その理由は、彼らが労働者ではなく、資本家であったこと、階級観念によらず一挙に全人類を解放しようとしたこと、道理の王国と永遠の正義を実現させようとしたことであるという。
これに対して、マルクスの社会主義は、ドイツの古典哲学、フランスの社会主義、イギリスの古典経済学を総合的に批判して編み出されたもので、科学的社会主義と自称している。事実、マルクスの思想は社会現象の説明や批判の仕方に大きい変革をもたらし、後の社会活動に画期的な影響を与えた。
20世紀にはいり、ロシアのボルシェビキ革命を通じて、マルクス主義はソビエトの国家原理として現実した。今日では、社会主義とマルクス主義とは、ほとんど同義語になっている。
現在、社会主義体制の国家は、世界の1/3の面積を占めるなでになっており、自由主義的資本主義世界と、きびしく対立している。しかも、一方、資本主義世界においても、イギリス、デンマーク、スゥエーデン、オーストリア等は、かなり大幅に社会主義政策を実施し、福祉国家をめざしている。アメリカでも、1929年の大恐慌ののち、ルーズベルト大統領によって、二ユー・ディール政策が行われたが、これも一種の社会主義化の現象といえる。
人間性を無視した共産主義
このように、個人の無制限な自由に対して全体的な見地から調整するという考え方は、今では世界的な趨勢になっているといっても過言ではない。だが、そこにまた解決しなければならない深刻な悩みが生じている。
すなわち、このような統制機構の成立、発展は、必然的な人間本来の所有欲、利潤追求の欲望等を圧迫する。そのために労働意欲の低下を惹き起こし、産業全体が沈滞するのである。卑近な例でいえば、一般に人間は自分の工場だと思えば損壊しないように大切にもするし、生産が向上するように工夫もする。また、生産量を増加すれば、それだけ利益が多く自分のものになると、やはり生産に張り合いが出てくる。逆に、自分のものでない、いくら働いても給料は決まっているという状態では、設備等を大切にしようとの気持ちも起こらないし、働く意欲もうすれてくるのである。
これは、労働という一分野の例に過ぎない。実際には、政治の分野についても、教育の分野についても、文化的な活動の分野についても同じことがいえる。すなわち、社会機構の巨大化と複雑化とは、個人の無力感を増長し、いわゆる人間疎外という心理的病弊を蔓延させているのである。社会主義化が時代の要求であり趨勢でありながら、一面では、このような人間軽視の現象が生じ始めたのである。したがって、これを解決する哲学、理念の確立こそ、次の時代への偉大な鍵といえるであろう。
すでに、社会主義あるいは共産主義社会であるソ連等において、こうした人間性が社会国家全体の生産力に及ぼす影響を無視することができなくなり、前に述べたように、利潤追求の資本主義的要素を導入しようとする動きがある。だが、これは、生産活動という小部分における欠陥のきわめて因循姑息な修正にほかならない。
確かに唯物論を根底とする社会主義は、観念論的な資本主義にクサビを打ち込み、世界史に新しい変革をもたらした。だが、今、その唯物論的な社会主義もまた、行き詰まり、幾多の欠陥を生じ、資本主義的方法で現状を糊塗せざるをえなくなったのである。もし、弁証法論者のいう論法を借りるならば、正・反に対して、新しく出現する合の理念は何か。これこそすなわち、日蓮大聖人の教えられた人間性の尊重、個々の人間完成を根幹として大衆福祉を実現する「人間性社会主義」以外にはないと確信するのである。
人間性社会主義の人間性とは、まず社会の構成員としての個々の人間の向上、成長である。すなわち、いかなる機構も、団体も、それを構成し、運営していくのは人間である。そして、その機構の能力は、構成し運営する人によって決定される。どんな立派な機構をつくっても、運営する「人」を得なければ、それは充分に機能を発揮することはできまい。逆に、機構に欠陥があっても「人」を得ればその欠陥を補い、見事な効果をあげることができる。
現在の社会主義が克服しえない根本的な難関は、ここにある。これに対して、色心不二の生命哲学によって個個の人間革命を行いつつ、大衆福祉を実現する思想が人間性社会主義である。
人間性社会主義の人間性とは、もう一面では、その社会を運営していく原理としての人間性である。すなわち、社会の運営すべき根本指針または根本理念が、人間性を基調としていかなければならない。マルクス主義においては、成立の過程から階級闘争であり、流血革命であった。スターリン治下、共産主義体制の徹底化のために、大量の民衆が犠牲にされたことは有名である。かかる人間性無視の原理は、暗黒時代を出現するのみで、絶対に幸福社会を建設することはできない。
あくまでも、社会主義の目的が大衆の福祉社会の建設である以上、その手段もまた、犠牲を生み出さず、全民衆が相互に扶助して行われるものでなければならない。このためには、力と力の対決という動物的手段よりも、はるかに高い人間としての知性が要求される。ここに個々の主体性の確立と人間性の向上が先決条件となるのである。
大衆福祉をめざす人間性社会主義
さらに、ここで、われわれの主張する人間性社会主義の形態について、若干の考察を加えてみたい。
前述したごとく、いまや世界の趨勢は、自由主義国、社会主義国のいかんを問わず。まさに、専制主義より民族主義へ、自由経済より計画経済に向かう傾向にあることは、誰人も否定しえまい。
しかして、平和民主憲法を掲げる、わが国こそ、平和裡に、最も理想的、能率的な、民主主義と計画経済を、最高に具備した新社会を建設しうる資格と力を有すると確信する。われらは、それらを人間性社会主義という体制で実現することを念願している。
人類の最も恐れる米中戦争、第三次世界大戦の危機を回避する道は、現代の資本主義、共産主義のドグマを反省せしめる、見事なる社会体制を、わが国において実現することにあると信じて止まない。
すでに、わが国においてさえ、資本主義と共産主義のイデオロギー的な対決ムードが、いよいよ強まろうとしていることは、まったく遺憾にたえない。さればこそ、われわれは、このような対立を、それこそ弁証法的に止揚せしめて、より高い次元の上から指導し統一をもたらす大思想を、高く掲げて立ち上がったのである。
一口に社会主義といっても、千差万別である、過去における、八割が農民で低開発国であった、ソ連や中国の社会主義革命が、農民がすでに三割台となり、高度な工業社会体制となった。現在のわが国に適用されうるはずがない。また、暴力革命のごとき過去の亡霊などは、断じて排撃すべきである。さらに、人間性社会主義は、社会主義特有の生産手段の共有や計画経済についても、わが国の現状、民族性、将来性に合致した、民衆の誰人も心から賛同しうる体制でなければならない。したがって、すべての生産手段を共有するような愚かな轍は、踏まないのは当然である。
われらの人間性社会主義は、あくまでも大衆福祉を旨としたものであり、また、根底にある指導理念は、低級なマルクス主義などと違って、東洋仏法の真髄、色心不二の大生命哲学であることを、声を大にして叫びたい。これこそ、21世紀の新しき時代を築きゆく理想理念であることを、強調して止まない。
また、対立を相互扶助にまで昇華せしめるだけの高次元の思想が、社会全体になくてはならない、すなわち、正しい生命観を根幹に、社会観、世界観が、常識的な行動の規範として樹立されなければならない、それを実現するものこそ、日蓮大聖人の色心不二の生命哲学である。
しかして、この生命哲学によって、社会の基盤である人間存在を洞察し、その上に立って、社会の制度、秩序、組織を確立していかなければならない。現代は、まさにその必要性に直面している時代といえよう。
一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か
一身の安堵とは、個人の幸福、一家の和楽である。四表の静謐とは、社会の繁栄、世界の平和である。真実の宗教は、社会、国家、世界の繁栄と平和を確立する、力ある祈り、実践でなくてはならない。
宗教は個人の内面的な救いにしかならないかのごとく述べる人がよくあるが、それは、力なき、誤れる宗教の自己弁護の詭弁にのせられた考え違いであるというべきである。現実生活において幸福になったと、客観的に証明できるのでなければ、どうして内面的にも救われたといえようか。
また、世界の微妙な変動でさえ、経済的に、あるいは戦争の脅威として精神的に、個人に影響を及ぼす現代において、世界の繁栄と平和を実現する力のない宗教が、どうして個人を救える道理があろうか。
宗教は、宗教のための宗教であってはならない。また、個人の内面的な救済のみを唱える観念的な宗教も、真実の宗教ではない。その宗教の祈り、その宗教の実践自体が、個人も社会も世界をも変えきっていく力がなくてはならない。
したがって、現在、新宗連や全日仏等が、世界平和や世界連邦樹立を唱えて、ヨーロッパ等へ出かけた等と宣伝している。あるいは、ローマ法王と会って共同声明を発表した等々、すべてこれ、売名であり、名聞名利にほかならない。もし、自宗に力があるなら、その祈り、実践によって平和を実現すべきである。いわんや、新宗連や全日仏として宗旨の違う者が互いに結託するなど、自宗の宗教が看板だけであることの宣伝をしているのと同じで、まことに滑稽な話である。
人の世に在るや各後生を恐る
人が信仰に頼るのは、何よりも死の問題を解決するためである。また、死あるいは死後に対して恐れを感じない人もいないであろう。ある人は言った。「全生涯が死への準備でなくてはならない。生きること自体が、すでにその最初の第一歩から、死への接近にほかならない」と。また、日蓮大聖人は「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」(1404:07)とも仰せである。
死を単に生の終わりという人もある。もし、死によっていっさいが無に帰してしまうなら、この世で好きなように生きて、行き詰まれば死んでしまえばよい、ということになる。だが現実に、そのような無責任、不道徳に徹しきれる人はいない。生命の奥底には必ず後生、来世というべきものへの予感があり、恐れが存するものである。このゆえに、多くの人は宗教を求め、無批判に謗法の邪教にすがりつくのである。
参考までに、フランスの哲学者アンリ・ベルグソンの「道徳と宗教の二源泉」の大要を紹介してみよう。
ベルグソンは、人間の精神文化に閉じたものと開いたもの、静的なものと動的なものとを区別する。知性は人間に物質を支配させるが、半面、利己主義を教えて社会生活を危殆におとしいれ、また、死の不安を意識させて生の活動を沈滞させる。こうして、威圧的な、閉じた道徳、迷信的な静的宗教が自然発生的に生じた。そして、そのような道徳と宗教の社会は、自然的社会であり、排他的で、したがって、内部は沈滞に陥らざるをえない、と。
これに対して、史上あらわれた聖者の例のごとく、深く創造的生命の根源に沈潜し、神と合一する例外的な人は、開いた道徳を想像し動的宗教を教えてくれる。そのような人の呼びかけに、多くの閉じた魂が憧憬し、閉じた社会は全人類へと開かれ、創造的愛はある限られた社会内にとどまるのでなく、広く全人類に対する愛へと躍進するのであり、と。
このベルグソンの思想は、閉じた道徳、静的宗教として原始的な未開社会のダブーや呪術信仰を前提し、開いた道徳、動的宗教としてキリスト教を前提にしていることはいうまでもない。そして事実、この分類をわが国の宗教界にも当てはめた場合、「地獄草紙」や「餓鬼草紙」で来世の恐ろしさと、阿弥陀の来迎図で信仰した者は救われることを教えて民衆の間に浸透した浄土宗や浄土真宗などは、前者の閉じた道徳、静的宗教の類といえよう、また、怪しげな加持祈祷や迷信を取り入れた真言や日蓮宗各派もしかりである。
しかし、ベルグソンの説自体にも無理がある。すなわち、キリストをもって創造的生命の根源に沈潜し、神と合一した等とすることは、客観的には認めがたい。キリストが神と合一したとすれば、何故、最後に「神は我を見捨て給うか」と嘆かなければならなかった。創造的生命の根源に沈潜した者が、何故、30歳前後で悲惨な最期を遂げなければならなかったか。
そして、開かれた道徳、動的宗教であるはずのキリスト教社会が、どうして中世暗黒時代を現出したか、陰惨な宗教裁判を行ない、苛烈な宗教戦争を繰り広げなければならなかったか等々、考えれば、確かに原始宗教に較べれば開いた道徳であり、動的宗教であったろうが、あくまで、それは相対論といわざるをえない。
真実の開かれた宗教とは、日蓮大聖人の仏法である。「創造的生命の根源に沈潜する」とは、永遠の生命を悟り、十界互具、一念三千の実相を会得した仏について初めていえることである。「神との合一」も、その実体は、わが身妙法の当体なりと知り、宇宙即我の境涯に立つ以外にはありえない。一閻浮提総与の、全民衆救済の大仏法こそ、全人類に慈悲の折伏をもって働きかけるがゆえに、正に開かれた宗教、動的宗教といえるのである。
而して、現世に偉大なる福運を積み、生命力を得、三世にわたる生命の実相に確信をつかんで、死んでいけることが大切である。大聖人の「先ず臨終の事を習うて」云云のお言葉も、そのための仏道修行の実践、福運を積みきって人生を生きていくことを強調されているのである。
大聖人の警告と蒙古襲来
日蓮大聖人が、立正安国論に予言された他国侵逼難、自界叛逆難は、文永・弘安の二回にわたる元冦の難、および北条時宗と異母兄時輔の争乱によって、不思議な的中をみた。
特に、他国侵逼難については、大集経の三災、薬師経および仁王経の七難、さらに金光経の種々の難を挙げられ、邪法を停止し正法を立てなければ、他国より攻められ、亡国の憂目にあうべきことを強く警告されたのであった。
すなわち立正安国論にいわく「若し先ず国土を安んじて現当を祈らんと欲せば速に情慮を回らし急いで対治を加えよ、所以は何ん、薬師経の七難の内五難忽に起り二難猶残れり、所以他国侵逼の難・自界叛逆の難なり、大集経の三災の内二災早く顕れ一災未だ起らず所以兵革の災なり、金光明経の内の種種の災過一一起ると雖も他方の怨賊国内を侵掠する此の災未だ露れず此の難未だ来らず、仁王経の七難の内六難今盛にして一難未だ現ぜず所以四方の賊来つて国を侵すの難なり加之国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱ると、今此の文に就いて具さに事の情を案ずるに百鬼早く乱れ万民多く亡ぶ先難是れ明かなり後災何ぞ疑わん・若し残る所の難悪法の科に依つて並び起り競い来らば其の時何んが為んや、帝王は国家を基として天下を治め人臣は田園を領して世上を保つ、而るに他方の賊来つて其の国を侵逼し自界叛逆して其の地を掠領せば豈驚かざらんや豈騒がざらんや、国を失い家を滅せば何れの所にか世を遁れん汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」(0031:10)と。
ここに重復を省みず、御書の長文を引用したのは、まったくこの御文が、謗法の国土に他国侵逼難すなわち大蒙古襲来あらんことを、強く警告された御文であるがゆえである。しかも、当時の鎌倉幕府も、世の指導者も、また民衆も、みんな大聖人の国家民衆を諌むる御状を、一笑に付したのである。
果たせるかな、立正安国論を勘えられ北条時頼に提出された文応元年より、満7年と7ヵ月を経た文永5年(1268)閏正月18日、西方大蒙古国より、わが朝を襲うべき由の牒状が到来した。さらに翌6年(1269)重ねて蒙古国よりの牒状が渡された。
大聖人は文永6年(1269)12月8日の立正安国論の奥書に、この事を記して後に「既に勘文之に叶う、之に準じて之を思うに未来亦然る可きか、此の書は徴有る文なり是れ偏に日蓮が力に非ず法華経の真文の感応の至す所か」(0033:05)と仰せである。
また文永5年(1268)4月5日に顕わされた安国論御勘由来には「日蓮正嘉の大地震同じく大風同じく飢饉・正元元年の大疫等を見て記して云く他国より此の国を破る可き先相なりと、自讃に似たりと雖も若し此の国土を毀壊せば復た仏法の破滅疑い無き者なり。
而るに当世の高僧等謗法の者と同意の者なり復た自宗の玄底を知らざる者なり、定めて勅宣御教書を給いて此の凶悪を祈請するか、仏神弥よ瞋恚を作し国土を破壊せん事疑い無き者なり。
日蓮復之を対治するの方之を知る叡山を除いて日本国には但一人なり、譬えば日月の二つ無きが如く聖人肩を並べざるが故なり、若し此の事妄言ならば日蓮が持つ所の法華経守護の十羅刹の治罰之を蒙らん、但偏に国の為法の為人の為にして身の為に之を申さず、復禅門に対面を遂ぐ故に之を告ぐ之を用いざれば定めて後悔有る可し」(0035:07)と申されている。
さらに日蓮大聖人は、日本国が謗法を続けるならば蒙古襲来の危険性があることを、三度にわたる国家諌暁で警告されている。それは撰時抄に、三度の高名として述べられている。すなわち、
「外典に曰く未萠をしるを聖人という内典に云く三世を知るを聖人という余に三度のかうみようあり一には去し文応元年太歳庚申七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時宿谷の入道に向つて云く禅宗と念仏宗とを失い給うべしと申させ給へ此の事を御用いなきならば此の一門より事をこりて他国にせめられさせ給うべし、二には去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向つて云く日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり、只今に自界反逆難とてどしうちして他国侵逼難とて此の国の人人・他国に打ち殺さるのみならず多くいけどりにせらるべし、建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて彼等が頚をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ、第三には去年文永十一年四月八日左衛門尉に語つて云く、王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも 心をば随えられたてまつるべからず念仏の無間獄・禅の天魔の所為なる事は疑いなし、殊に真言宗が此の国土の大なるわざはひにては候なり大蒙古を調伏せん事・真言師には仰せ付けらるべからず若し大事を真言師・調伏するならばいよいよいそいで此の国ほろぶべしと申せしかば頼綱問うて云くいつごろよせ候べき、予言く経文にはいつとはみへ候はねども天の御気色いかりすくなからず・きうに見へて候よも今年はすごし候はじと語りたりき、 此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず只偏に釈迦如来の御神・我身に入りかわせ給いけるにや我が身ながらも悦び身にあまる法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり」(0287:08)と。
同じく種種御振舞御書には「日蓮・御勘気をかほらば仏の御使を用いぬになるべし、梵天・帝釈.日月.四天の御とがめありて遠流.死罪の後.百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし、 其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし、其の時後悔あるべしと平左衛門尉に申し付けしかども太政入道のくるひしやうに・すこしもはばかる事なく物にくるう」(0911:10)と仰せである。
大聖人の御予言のごとく、大聖人が文永8年(1271)10月の佐渡流罪後、100日を経た文永9年(1272)2月に、北条時宗の異母兄である六波羅探題北条時輔の謀叛があり、日本中は、鎌倉方と京都方の二つに相分かれての大内乱が起こった。また3年を経た文永11年(1274)10月に、第1回目の蒙古襲来、いわゆる文永の役があった。さらに7年を経た弘安4年(1281)5月には、第2回目の蒙古襲来、いわゆる弘安の役があり、大聖人の予言は、驚くべきほどの的中を示した。
しかして大聖人は、種種御振舞御書に「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし、何に況や数百人ににくませ二度まで流しぬ、此の国の亡びん事疑いなかるべけれども且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども・はうに過ぐれば罰あたりぬるなり、又此の度も用ひずば大蒙古国より打手を向けて日本国ほろぼさるべし、ただ平左衛門尉が好むわざわひなり、和殿原とても此の島とても安穏なるまじきなりと申せしかば、あさましげにて立帰りぬ」(0919:16)と申されてるごとく、2回目の蒙古襲来も、日蓮大聖人が厳然と日本国におられることによって、亡国は回避しえたのである。しかし、莫大な戦費を消費した北条幕府は、経済的にも窮迫して、やがて亡びざるをえなかったのである。
また、立正安国論に「若し残る所の難悪法の科に依つて並び起り競い来らば其の時何んが為んや」(0031:15)および種種御振舞御書に「はうに過ぐれば罰あたりぬるなり」(0919:18)の御警告のごとく、700年後の今日正法を用いなかった咎によって、日本国は歴史はじまって以来の敗戦、亡国となってあらわれたのである。しかも、第三次世界大戦、米中戦争の危機は、まったく予断を許さず、一度これらの大戦が起これば、原水爆や核ミサイルの発達によって、人類の全滅も憂慮される現状である。
蒙古襲来とアジア民族の抵抗
ここに700年前の蒙古襲来の姿を、日本側の資料のみではなく、元や高麗等の資料も加えて考察しようと思う。特に、弘安の役の後にも、元の国王フビライは、第3次日本襲来計画を強力に進めていたのであるが、不思議にも、大乗仏教を奉ずるベトナムの蒙古に対する叛乱があって、日本侵攻は断念せざるをえなかったという歴史的事実があったのである。
前にも述べたごとく、元冦のころの大元帝国は、世祖フビライの時代であったが、アジアの大部分、中央アジア、東ヨーロッパにまたがる広大な領域を支配し、西ヨーロッパ、インド、日本を除き、全世界の大部分が蒙古の支配をうけた。これは人類の歴史はじまって以来、空前の大帝国であった。
特にアジアは、インドの一部と日本を除いてすべて蒙古の侵略をうけ、塗炭の苦難を味わった。当時、ベトナムは、南北に分かれていた。ベトナムの北部は交祉、南部に占城王国があった。交祉に対しては、憲宗のとき出兵して「三年一貢」の約束をとり、世祖フビライ時代には、内政監督官を派遣し、安南宣慰司を設置し、元の役人を送って統治していた。占城に対しても使者をやって、服属をすすめていた。しかし、後述するように、占城・交祉ともに、大乗仏法を奉ずる民族で、元に対する屈従をいさぎよしとせず、のちに叛乱を起こし、フビライが死ぬまで、元との戦いが続いた。
現在のビルマには、緬国があったが、同じく元の出兵にあって、屈服させられた。カンボジアも朝貢させられた。ジャワ・スマトラ・マパール、キロンなどの国々も、元の圧力によって、相次いで入貢した。のちにジャワが反抗したとき、フビライは3万の軍隊を送って、王城を攻略した。かくのごとく、元の威令は、東南アジア全体を属国化していた。
最も悲惨な目にあったのは、高麗国すなわち現在の朝鮮である。1219年(承久元年)ごろから、蒙古と高麗の外交関係が生じ、蒙古の使者は頻繁に高麗にやってきて莫大な貢物を要求した。1225年(嘉緑元年)、蒙古の使者が帰国する途次、鴨緑江のほとりで盗賊に殺害される事件が起こり、蒙古は高麗政府の責任として、国交を断絶した。1231年(寛喜3年)、蒙古は、蒙古使者殺害を口実に、高麗に侵入し、約30年間、高麗は蒙古の侵略をうけ続けた。
高麗軍は、あらゆる戦闘で偉大なる抵抗を示したが、衆寡敵せず、第一次、二次、三次、四次、五次、六次侵略によって、高麗国の悲惨は目をおおわしむるものがあった。1259年(正元元年)、高麗太子の蒙古入城よって、蒙古と高麗の関係は新段階にはいり、高麗王朝は、ついに蒙古陣営の一翼に編入されることになった。
かくして1260年(文応6年)世祖フビライの即位と共に、蒙古は高麗侵略をやめることになったが、しかし新しい重大な任務を高麗に課そうとしていた。それは、日本侵略の命令であった。この年、日蓮大聖人は、立正安国論を著わされ、他国侵逼難の警告を発せられた。まことに不思議なる御本仏のお振舞いというべきであった。
1266年(文永3年)11月、蒙古から兵部侍郎黒的と礼部侍郎殷弘の2人が、世祖フビライの日本招諭の詔書をもって、高麗にやってきた。招書の一通は高麗王国に、他の一通は日本国王へあてたものであった。これ第一次の蒙古使である。
高麗国王の書は「いま爾の国趙彜来たり告ぐ彜『日本は爾の国と近隣たり。典章、政治は嘉すに足るものあり。漢・唐より下りて、また或は使を中国に通ず』と。故にいま黒的らを遣わして日本に往かしめ、ともに和を通ぜんと欲す。卿それ去使を道達し、以て彼の彊にいたり、東方を開悟し、風に向い義を慕わしめよ。この事の責は卿よろしく之に任ずべし、風濤の険阻を以て辞となすなかれ、末だかって通好せざるを以て解となすなかれ、彼の命に順わず、去使を阻むことあるを恐れて托となすなかれ。卿の忠誠ここに見るべし。卿それ之を勉めよ」というもので、すなわち蒙古の使者を案内し、日本に行くべきことを厳命したものであり、日本を属国になさんとの意図であった。
日本国王の詔書は「上天の眷属せる大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉ず。朕惟うに、古より小国の君も、境土相接すれば尚務めて講信修睦す。况んや我が祖宗は天の明命を受けて区夏を奄有す。遐かなる方の異域にして威を畏れ徳に懐つく者は悉く数うべからず。朕即位の初、高麗の無辜の民、久しく鋒鏑に瘁るるを以って即ち兵を罷ましめ、その彊域を還し、その旄倪を反す。高麗の君臣は、感嘆して来朝せり、義は君臣と雖も、歓は父子の若し。計るに王の君臣もまたすでに之を知らん。高麗は朕の東藩なり。日本は高麗に密邇し、開国以来また時に中国に通ずるも、朕が躬に至って一乗の使もって和好を通ずることなし。尚王の国これを知ること末だ審かならざるを恐る。故に特に使を遣わし、書を持たしめ朕が志を布告す。冀くば今より以往、通問して好を結び、以って相親睦せんことを。且、聖人は四海を以って家となす。相通好せざるは豈一家の理ならんや。兵を用うるに至る、それ孰んぞ好むところなからん。王それ之を図れ。不宣。」という、はなはだ威嚇を込めた無礼なる書であった。
高麗の君臣は、もし日本がこれを拒否した場合、蒙古の先兵として日本を襲うようになることを恐れて、日本へ渡るに風濤のすさまじいこと、日本へ使することの有害無益なること等を説いて、日本への詔書を思いとどまらせた。使者一行は翌年正月、巨済島まで来たが、空しく引き返した。
しかし文永4年(1267)8月、世祖フビライはおこって、また黒的・殷弘をもって、日本に使いすべきことを厳命してきた。これ第二次の蒙古使である。高麗は止むをえず潘阜を使者に任命し、8月日本に出発させた。潘阜は、前年の蒙古皇帝の詔のほかに、高麗の国書をたずさえ、11月に対馬を経由して、文永5年(1268)正月、太宰府に到着した。蒙古・高麗の国書は鎌倉に送られ、京都に転送されたが、評定の結果、国書の受理を拒み返牒を与えないことに決定し、潘阜らはむなしく引き揚げた。
世祖フビライは、日本を攻略するために、高麗に軍隊4万の徴収と兵船1千隻の建造を命ずると共に、第三次の蒙古使を日本に派遣した。すなわち文永5年(1268)11月、蒙古から黒的・殷弘が高麗を経て、直接に日本に向かい、対馬で日本人を捕え引き返した。
第四次の蒙古使は、文永6年(1269)ウルタイらが、日本の俘虜を連れて、高麗を経て、9月に対馬に到着した。太宰府護所は使者の一行を対馬にとどめ牒状を鎌倉に送った。鎌倉幕府は、なんの返答もせずに蒙古・高麗の使者を追い返した。その後、高麗に叛乱が起こったが、蒙古はさらに文永7年(1270)には第五次、文永9年には第六次蒙古使を、日本にもたらした。この時は元の趙良弼が多勢の従者をしたがえ、太宰府護所におもむき、直接に国王・将軍に会って国書を手渡さんとしたが、拒まれてはたさなかった。趙良弼は文永10年(1273)5月蒙古に戻って世祖フビライに復命した。
世祖は遂に日本討伐を決意し文永11年(1274)正月、大小戦艦900隻の建造を高麗に命じ、6月に建造は完了した。蒙古軍3万高麗軍1万3千の連合軍は、同年10月6日対馬を攻撃し、守護代の宗助国以下を全滅させ、10月14日には壱岐を襲い守護代の平景高以下を全滅させ、さらに12月20日、博多湾に上陸し、博多、箱崎を攻略した。しかし太宰府の占領を翌日にのばし、船に引き揚げたが、冬の季節風を恐れ、遠征軍は途中の風のため1万3千余の未帰還者を残して高麗の合浦に引き返した。
その後も、高麗の脅迫は続き、忠烈王は二度と日本遠征をせぬよう、蒙古に願い出たが聞かれなかった。建治元年(1275)4月、元使杜世忠らが長門にきたが、9月に北条時宗は元使を斬り、さらに蒙古の怒りをかった。蒙古は、さらに高麗に弘安2年(1279)2月、日本遠征用の戦艦600隻の建造を、6月には戦艦900隻の建造を命じた。弘安4年(1281)世祖フビライの命で、范文虎の率いる10万、3500隻の蒙古江南軍と、蒙古・高麗連合の東路軍4万、900隻あわせて14万、4400隻の大軍が博多湾に向かった。
はじめ東路軍は、5月26日から対馬や壱岐、志賀島、能古島などを襲った。7月初旬、遅れた江南軍と合併し、14万の大軍は7月27日、鷹島を占領し、博多湾へ殺到せんとした。7月30日、翌閏7月1日、台風が吹きつのり、4400艘の元の兵船は大部分は沈没し、14万の大軍は日本上陸直前にあえなく壊滅し、生還者は約3万数千人にすぎなかったという。
しかし、世祖フビライは、日本遠征をあきらめたわけではなかった。第一次遠征も、第二次遠征も暴風に負けたので、日本の武力に負けたのではないという自負心をもち、その後も、繰り返し遠征を計画した。弘安5年(1282)2月、大小兵船3000隻の建造が開始された。しかし、高麗は度重なる蒙古の無理強いで、まったく疲弊し、中国、ベトナムでは蒙古に対する大規模な叛乱が相次いで起こった。
すなわち1283(弘安6年)9月、広東に一揆が起こり、10月には福建に10万の大叛乱が起こった。そのため日本遠征のために編成された蒙古軍は、国内の叛乱鎮圧のために使用せねばならなかった。つづいて広西省、広東省、湖南省、江西省などに相次いで叛乱が起こった。
さらにベトナムでも叛乱が起こった。前述したごとく当時、ベトナムは南北に分かれ、南ベトナム地方は占城王国、北ベトナム地方は交址があった。占城ははじめ元に朝貢しており、元は占城を基地にして東南アジア全体を統御しようとしていた。のちに占城は元に反抗した。1282(弘安5年)元は江南の兵5000を動員して占城を討った。のちに元は数多くの増援部隊を送ったが、占城は屈しなかった。ついに世祖フビライは1284(弘安7年)2月兵15000、船200隻を出動させた。しかし、この遠征軍は、日本におけると同じく暴風雨にあって大損害をうけた。これらの兵船は、実は日本遠征用のものであった。かくて、1282から1284(弘安5~7年)ごろ、中国およびベトナムの叛乱によって、第三次日本遠征計画は、実現しなかった。
しかし世祖フビライは、まだ日本遠征をあきらめず、弘安6年(1283)には日本遠征のための征東行省を再置し、弘安7年(1284)秋から、出兵準備をはじめ、兵船の建造を開始した。弘安8年(1285)11月、日本遠征の大計画が発表された。高麗にも戦艦650隻、兵10000の微発が命令された。再び10数万の大軍団が、高麗の合浦に結集する予定が立てられた。
1286(弘安9年)正月、突然、日本遠征計画は中止になった。その理由は、ベトナム北部の交址が反抗したためであった。ベトナム南部の占城の叛乱も、いまだ鎮圧されていなかった。中国南部方面でも、叛乱が続いた。東南アジア諸民族の元に対する反抗心は実に根強いものがあった。1284(弘安7年)から元軍は交址に侵入していたが、交址は屈服するどころか、かえって、たびたび元軍を破り、交址の抵抗は長びいた。
世祖フビライは1286(弘安9年)日本遠征の中止に際し「日本は孤島の島夷なり。重ねて民力を困するを以て、日本を征するをやむ…日本は末だかって相犯さず。いま交址は辺を犯す。宣しく日本をおきて交址を事とすべし」といって断念した。劉宣の「元史」によれば、中国とくに江浙の民衆は喜び「連年日本の役、百姓は愁戚し、官府は擾攘す。今春停罷す。江浙の軍民、歓声雷の如し」とある。
ベトナム北部の交址の抵抗は、なおも続き、1287(弘安10)年には、元は91000、船500隻を出して遠征をこころみたが、食糧が欠乏し、わずかの期間、占領しただけで、また引き揚げざるをえなかった。また中国の北方でも、内乱が起こった。かくて、さすがのフビライも、日本遠征を断念せざるをえなかったのである。その後1292(正応5年)ごろ世祖は日本遠征計画を再燃させたが、1297(永仁2年)正月、世祖死するに及んで、元はついに日本遠征を、取りやめた。これ、一つには、アジア諸民族の元に対する抵抗が、大きな要因であった。
蒙古襲来の現代的意義
仏法上より、蒙古襲来をみれば、大聖人の仰せのごとく、梵天・帝釈が隣国の王に仰せつけて、謗法の国、日本を治罰せしむることであった。しかして、700年後の今日、再び謗法の国日本は、アメリカ、中国等の連合軍に無条件降伏をなし、梵天・帝釈の使いに屈した姿をとった。
蒙古襲来といい、第二次世界大戦といい、日蓮大聖人の仏法の広宣流布に、中国が大きく関係していることは、まことに不思議なことである。しかして、700年前は、蒙古軍の侵略としてあらわれ、現代においては、残念ながら日本軍の中国侵略となってあらわれたが、とくに謗法の国・日本は、梵天・帝釈の治罰を被り、大正法興隆の基となったのである。
しかして、中国は、わが国の仏法興隆にとって、最も宿縁の深い国家であった。第一に、仏法はインドから中国に伝来し、朝鮮をへて日本に伝来したのである。特に、漢文に翻訳された5000巻7000巻の仏典が、日本において、そのまま使用されることになった等を考えると、実に測り知れない恩恵を中国に被っているといわざるをえまい。
第二には、隋・唐の時代に、諸種の文化と共に、中国から莫大なる仏典が、すべて日本に伝えられたことであり、特に、法華経迹門の戒壇を日本の比叡山に建立し、迹門の広宣流布を達成した伝教大師は、最も中国に縁深厚だったことを想起すべきである。
伝教大師は、中国天台宗の開祖天台大師と共に、薬王菩薩の再誕といわれた。すなわち、仏法上、天台大師の後身ともいうべき人である。しかして伝教大師は法華経を持ってのちに、中国に渡り、天台宗の後裔たる道遂和尚より甚深なる法華の奥底を相伝された。さらに伝教大師の父は三津首百枝で、先祖は後漢考献帝の子孫、登万貴王であるが、日本を慕って帰化したのである。このように伝教大師は、世間・出世間ともに、中国に関係が深かったといえる。
さて、日本より出現した太陽の仏法、日蓮大聖哲の大生命哲学が、いまや、全世界に流布するにあたり、世界の現状は、かの700年前の蒙古軍の侵略、また第二次世界大戦の惨状に劣らぬ危機感が強まっている。
そして、それが、朝鮮戦争、ベトナム戦争でみられるごとく、中国を中心としたアジア諸民族の苦悩となって、あらわれている。ここに、われらは、蒙古襲来の時のごとく、第三次世界大戦によって人類が大惨事を惹起することのなきように、切に祈らずにはいられない。
思えば、蒙古襲来の時は、中国や朝鮮、ベトナム等のアジア民衆が元に抵抗したことによって、第三次蒙古襲来は防がれた。また第二次世界大戦においては、日本の軍隊が、中国や東南アジアの民衆を苦しめること、まことに絶大であった。
われらは、大聖人の仏法の流布は、世界平和の最高の寄与と確信するものである。また1000万の技術移住の主張等は、アジア民族に偉大なる経済的援助を実現するものと期待してやまない。しかして、わが国は、アジア民族に相互扶助的な平和と繁栄をもたらしながら、日本より出現した大仏法をアジアに送らんとするものである。
大聖人、顕仏未来記にいわく「月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く」(0508:02)と。
同じく諌暁八幡抄にいわく、
「天竺国をば月氏国と申すは 仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり」(0588:18)と。
第三章 (仁王経をもって謗る法の果報を示す)
仁王経に云く「人仏教を壊らば復た孝子無く六親不和にして天竜も祐けず疾疫悪鬼日に来つて侵害し災怪首尾し連禍縦横し死して地獄・餓鬼・畜生に入らん、若し出て人と為らば兵奴の果報ならん、響の如く影の如く人の夜書くに火は滅すれども字は存するが如く、三界の果報も亦復是くの如し」と。
現代語訳
仁王経には「人が正法を信じないで謗法をするならば、家庭の中が乱れ、孝行の子がなく、親子・兄弟・夫婦は互いに不和で、天竜も守護せず、疾疫悪鬼が日に来たって、肉体的・精神的な苦しみを与える。そして災難が絶え間なく起こり、死んで後は地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちるであろう。もし、再び人間として生まれてきた時には、兵隊として人に屈従する。楽しみのない果報を得るであろう。音の響きに応ずるがごとく、物の影にそうがごとく、夜に字を書いて火が消えても、字は見えなくてもきちんと残っているが如く、この三界の果報も、死んでのち、必ず現世につくった罪の因により、縁により生じてくるのである」とある。
語釈
曲意
①意志や主張を曲げること。②我見、私曲の心。ここでは②の意。仏の教えを正しく聞こうとしないで、自分勝手の考えをもつこと。
有為の郷
有為とは梵語サンスクリタ(saṃskṛta)の訳。「作為ある」の義。因縁によって生ずる種々の法をいう。有為の法は、かならず生住異滅があり、常住でないから「有為無常」という。すなわち有為の郷とは、娑婆世界、俗世間のこと。
講義
謗法を捨てて正法に帰依すべきことを、謗法が亡国の根源であるという観点から説かれてきたのである。ここでは、さらに進んで、個人においても、謗法が堕地獄の、いかに恐ろしいものであるかを説かれている。
先に大集経によって、王の福運が尽きる姿を示し、この仁王経の文では、現世には、家庭生活が破壊され、死しては三悪道に堕ち、人間として生まれても兵奴の果報をうけるであろうと説かれている。
人仏教を壊らば復六親不和にして
仏教を壊るとは、知ると知らないにかかわらず、謗法を信ずることが仏教を破壊することになるのである。
謗法を信ずれば不幸かというと、よく「仏が罰を降すのか」と反駁する人がある。このような「罰を降す」という考え方は、神を擬人化した素朴な原始宗教からきたもので、あくまでも仏法の考え方とは違うのである。
すなわち、人生の幸・不幸は、おのおのの生命流転の過程において行なった善業悪業の原因として、その結果として生ずる現象である。この因果の現象は、大宇宙の不変の法則であって、幸福になるのも不幸になるのも、自分の責任である。無始以来の、過去の原因によって現在の自分がある。これを宿命という。
しかしながら、ただ現在の自分が過去によって決定されており、そして現在によって未来が決定していくだけならば、人間には余りにも無力である。大宇宙の本源の法を会得された仏が、この無力な人間に、同じく法を会得させ、過去にどんな罪障があろうと、それを消滅し、未来に善業を積んでいける法を教えられたのが仏教である。すなわち、仏教は宿命打開、宿命転換の教えである。
したがって、この仏の教えに従わないで謗法するということは、大宇宙の本源の法に逆らっていくことになり、生活のリズムが乱れ、不幸になるのである。あたかも交通法規に違反すれば、警官に叱られるよりも、事故を起こし一命を落とすことになりかねないのと同じである。信号を無視して横断して、はねとばされてから、知らなかったといっても、傷が元へ戻せるわけもない。
人生を事故なく、幸福に生きていく根本は、何よりもまず仏法を知り、仏教に随うことである。仏法を知らない人生は、交通法規を知らないで大都会を歩き、灯火なしで険難の山道を夜歩き、海図も羅針盤もレーダーもなしで大洋を航海するに等しい。これを見て知らぬ顔をしている人がいたとすれば、その人こそ人非人であろう。
さて、ここで引用された経文は、謗法が一家和楽を破壊する根源であることを明かしている。一家和楽、家庭の平和は、いつの時代にあっても、また、どのような人にとっても、最も大切な幸福の要件である。偉大なる指導者は、常に民衆の家庭の平和、繁栄を築ききっていける人でなければ、その資格はない。
過去に、英雄と称されたシーザーにせよ、アレクサンダーにせよ、ナポレオンにせよ、あるいはチンギス汗にせよ、いずれも一家の柱である青壮年男子を戦いに狩り立て、民衆の家庭を破壊した。また遠征した敵の家庭を破滅せしめた。このゆえに、一時的には自己の民族の栄光をもたらしたが、所詮、民衆は不幸であり、したがって、栄華はたちまちに衰えてしまった。正法の指導者にして初めて、個人の幸福、一家の和楽を基盤とした、真の民族の繁栄を実現することができるのである。
道徳教育に反して凶悪化する青少年犯罪
「仏教を壊らば孝子なく」とは、道徳といっても正法を根底にしなければ有名無実であり、形式主義に堕ちってしまうのみである。
現今、わが国に限らず、欧米諸国あるいは共産圏においてすら、道徳の頽廃、いわば無道徳化が青少年の間に支配的となりつつあることが深刻な問題となっている。数字となって現われてくる青少年犯罪が、年々凶悪化し、ハイティーンからローティーンへと拡がっているのも、実はこうした全般的な非道徳化の風潮が土壌となっているからである。
そこで、犯罪の増加を食い止めるには、どうしても青少年全般の道徳性を確立しなければならないという考え方から、フランク・ブックマン等の道徳再武装論が生まれた。特にわが国においては、道徳教育の復活が議論の的になっている。戦前のわが国では、修身教育が軍国主義的、封建主義的な皇国精神を涵養する手段とされた。そのため、いったん、廃止された道徳教育を、昭和25年(1950)ごろ復活しようという議論が起こった時、それをめぐる論争は、きわめて政治的な色彩をもつことになった。決局、左翼の強硬な反対を押しきって、昭和33年から実施に移されたが、今に至るまで道徳教育に関する議論は、事あるごとに繰り返されている。
現在、政府の意図している道徳教育が、資本主義の望む人間をつくらんとしているのか、どうかの議論は別として、はたして道徳教育が、青少年の非行を根絶する力があるのかという問題を考えてみなければならない。
およそ、その答えは絶望的といわざるをえない。すなわち盗みをしてはいけないということを知らないがゆえに、盗みを行なったという青少年犯罪者は、皆無だということである。むしろ、悪いことを知りながら、スリルを味わいたい、大人に反抗してみたい等の気持からやったという例が圧倒的に多い。そして、そうした青少年の家庭は、けっして貧困ではなき、むしろ恵まれた中・上流に属するものが大半を占めているという事実である。
このことは、今さら、政府の意図しているような道徳教育を徹底して「盗みは悪いことである」「ウソをついてはいけない」「人に親切せよ」等の項目を教え込んでも、効果はないということを物語っている。同時に、左翼政党の主張するような、社会環境、特に貧困な犯罪を増加させているというわけでもないことが明らかである。犯罪の病根は、さらに深い、生命の奥底から発しているといわざるをえない。しかも、そうした犯罪者のみが悪いのではなく、思想界、芸術界も、政界も、社会全般、時代そのものが病に冒されているといっても過言ではない。
生命浄化こそが五濁根絶への道
これを仏法では五濁悪世と説くのである。すなわち、人間が生まれながらに持つ貧・瞋・癡・慢・疑の本能の乱れである煩悩濁、思想の乱れである見濁が根底となって、命濁すなわち生命力が弱まり、生活が乱れる現象を生む。この命濁から人間そのものの濁乱を意味する衆生濁となり、衆生濁はさらに拡がって時代そのものの乱れ、すなわち劫濁となるのである。
この方程式を現代社会にあてはめてみるならば、あまりの適合に驚かないではいられない。今、問題にしている青少年犯罪等は、まさしく五濁の反映である。生命力が弱く、正常な生活では楽しみを感ずることができなくて、異常な刺激を求める。そして学校へ行かず、家庭にも落ち着かず等の生活の乱れをきたしている。その原因は、貧すなわち欲望であり、大人や社会に対する反抗心、すなわち瞋であり、自分が傷つき、損することがわからない癡であり、慢すなわちのぼせ上であり、かつ、周囲の好意も信じられない疑である。これを、思想の乱れ、いかがわしい新聞、雑誌、映画、テレビの氾濫が助長している。
この五濁の根源を断ち切り、生命を浄化し、社会を健全化していく方法は、妙法を信じ、妙法を広宣流布する以外にないというのが、仏法の教えである。
古来、道徳の教えを最も完璧に説いたものは儒教である。開目抄に儒教を破折していわく。
「但現在計りしれるににたり、現在にをひて仁義を制して身をまほり国を安んず此に相違すれば族をほろぼし家を亡ぼす等いう、此等の賢聖の人人は聖人なりといえども過去を・しらざること凡夫の背を見ず・未来を・かがみざること盲人の前をみざるがごとし、但現在に家を治め孝をいたし堅く五常を行ずれば傍輩も・うやまい名も国にきこえ賢王もこれを召して或は臣となし或は師とたのみ或は位をゆづり天も来て守りつかう、所謂周の武王には五老きたりつかえ 後漢の光武には二十八宿来つて二十八将となりし此なり、而りといえども過去未来をしらざれば父母・主君・師匠の後世をもたすけず不知恩の者なり・まことの賢聖にあらず、孔子が此の土に賢聖なし西方に仏図という者あり此聖人なりといゐて外典を仏法の初門となせしこれなり、礼楽等を教て内典わたらば戒定慧をしりやすからせんがため・王臣を教て尊卑をさだめ父母を教て孝の高きをしらしめ師匠を教て帰依をしらしむ、妙楽大師云く『仏教の流化実に茲に頼る礼楽前きに馳せて真道後に啓らく』等云云、天台云く『金光明経に云く一切世間所有の善論皆此の経に因る、若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり』等云云」(0186:11)と。
礼楽とは道徳と芸術であり、真道とは仏法である。道徳等が全民衆に徹底されるということは、仏法の流布を容易にする前提となるとの意である。逆にいえば、道徳のみによっては、宿命も転換できないし、生命の浄化もなし得ない。仏法によって初めて、宿命を転換し、生命を浄化して道徳が生きてくるのである。
古代ギリシァ哲学においては、自然科学が主流であったが、初めて道徳に目を向けたのはソクラテスであった。彼は外界についての知識の豊富を誇ったり、詭弁を弄する風潮を否定し「汝自身を知れ」と叫んだ。ソクラテスの弟子プラトンは、善のイデアをイデアの最高位に置いて、道徳哲学を打ち立てた。アリストテレスは思弁的、形而上学を基盤とする道徳哲学が主流を占めた。デカルト、スピノザ等も、道徳、倫理を中心に思想を展開している。カントにいたっては、理性に叶った道徳こそ宗教の基盤であるとして、道徳律に最高の価値を与えている。
しかし、これらの哲学は、単に道徳が人間精神にいかなる役割りを果たすか等の機能から道徳の重要性を論じたものに過ぎない。道徳的に正しい人が、現実には必ずしも幸福でない事実、道徳律を知りながらそれが実践できない人間性の非合理性等、より本源的な問題は東洋の儒教でも、西洋の倫理学でも解明できなかったのである。道徳を単なる行為の規範や社会科学的な機能として論ずるのではなく、生命の深奥まで掘り下げ、そこから思索し、確立しなければならないということは、心ある人々なら、共通して感ずるところである。
さらに仏法の眼より見るならば、非行化した少年をどうするかよりも、そのような眷属を持たねばならない本人の宿命が問題なのである。これこそ三世の因果に照らさなければ、解決しえないであろう。仁王経に「人仏法を壊らば」とあるのも、所詮、本人の福運こそ根本であることを示されたものである。
復た孝子無く六親不和にして天竜も祐けず疾疫悪鬼日に来つて侵害し災怪首尾し連禍縦横し死して地獄・餓鬼・畜生に入らん
家庭のさまざまな不幸な姿が示されている。これを裏返していえば、これらの悪条件におかされないことが、幸福な家庭生活の要素であるともいえる。
第一は「孝子無く」で、子供が早死にしたり、不良化したりすることは、家庭にとって大きな不幸である。子供が健康で、心も素直に、親孝行であるということは、家庭の幸福の第一条件である。
第二の「六親不和」とは、父母兄弟妻子の間が不和であることで、これも家庭を冷たい、うるおいのないものにする悪条件である。互いが仲よく、愛し合って生活していく一家の団らんは、何ものにも代えがたいしあわせといえよう。
第三の「天竜も祐けず」とは、一往は、農業を家業としている場合、日照りの具合や、雨の降り方、雪等の気象によって収穫が左右される。この気象を天竜と表現したもので、気候に恵まれないで凶作になることを「天竜も祐けず」といったのである。再往は、商業にせよ、鉱業、工業、漁業にせよ、事業面において、全てが順調にいかず苦しむことと考えてよい。このことも家庭の幸福にとっては重大な問題で、経済的困窮から家族の仲がうまくいかなくなることは、往々にして身受けられるところである。現代でも、東北や北海道で冷害のため、娘を売ったり、一家離散したりする悲惨な話を聞く。妙法を受持すれば、いかなる災厄も転重軽受し、変毒為薬することができるのである。
第四の「疾疫悪鬼日に来つて侵害し」である。どんなに仲のよい、経済的にも恵まれた家庭であっても、病人がいることは寂しいものである。楽しいことがあっても、皆それを楽しみきれない心のわだかまりが残る。喜怒哀楽の感情を、知らず知らずに抑えて、家庭全体が暗くなる。いわんや、経済的に楽でない家庭では、治療費や薬代で負担がかかり、ついには借金をしなければならないこともある。家族が健康であることは、幸福の大切な条件である。また、悪鬼とは思想の濁乱とも考えられる。世の中には親の封建的思想と子の急進的思想の衝突で不和をまねいている家庭も多い。これ悪鬼侵害の一例といえよう。
第五の「災怪首尾し」とは、火災が起きること等、
第六の「連禍縦横」とは家族が交通事故にあったりすること等である。家族が病気で入院したのを見舞いに行って、途中、交通事故にあって死んだということも、新聞などに、しばしば報道される事例である。禍いは必ず他の禍いを呼ぶもので、一つのつまずきが、大きい悲劇に発展することも珍しくない。一つつまずいても、それを変毒為薬することが、妙法の功徳ともいえる。
以上、述べてきたような現象が、謗法を信仰している家庭には必ずあることが、われわれが折伏に当たって常に経験するところである。一つが解決できたと思えば、次の不幸が待ち受けているという連続が、そこにある。これを断ち切るためには、所詮、妙法を受持して家庭革命しきる以外にない。
しかも、そうした不幸の連続を今世を終わって、死ねば、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちて苦しまなければならない。すなわち死は生命の終わりではなく、今の生涯に受けている境涯が、そのまま続いていくのである。地獄の苦しみの連続で死んでいった人の生命は、肉体は死しても、大宇宙の十界のリズムの中の地獄界にはいって、同じく地獄の苦しみを続けていくのである。
逆に妙法に照らされて、題目を唱え仏界の生命を湧現して死んでいった場合は、大宇宙の仏界のリズムにはいって幸福境涯を続けることができるのである。ここに、信心を生涯全うしなければならない所以がある。
若し出て人と為らば兵奴の果報ならん
謗法の人は、死して三悪道に入り、再び人間として生まれてきた時には、兵奴の果報を得るであろう、との意であえる。
兵奴の果報とは、兵隊として戦線に追いやられ、行動の自由も思想の自由もなく、戦争の目的のために駆使され、命の生殺与奪の権すら人に握られている。不幸の境涯である。古来、種族、民族、国家の興亡盛衰は、武力の優劣によって決せられてきたので、自然、戦士、兵隊について、これを美化し、強い者を英雄視するという慣習が行われてきた。いわゆる「一人殺せば殺人、百人殺せば英雄」といった矛盾は、洋の東西を問わず、存在した。今日でも、大量殺人者が国民的英雄に祀り上られるということは、大した批判も受けないで各国で行なわれている。
だが、仏法の生命哲学よりこれを見るならば、まことに正気の沙汰とはいいがたい。兵士にとられることほど、人間として悲しむべきことはない。民主主義の原理から論じ、人間性の本質から見て当然である。人間としての幸福の最も根本的な条件は、生命の尊厳と自由と平等であることは、誰もが認めるところである。しかるに、この三つが共に認められないのが一般の兵士である。
まず、兵士は生命を捨てることを覚悟しなければならない。銃剣にせよ、小銃弾にせよ、迫撃砲弾にせよ、あるいは凄まじい高熱の炎の海と化すナパーム弾、恐るべき化学兵器にせよ、否応なしに生命を奪われる場におもむくことを、拒むわけにはいかない。ここでは人間の生命尊厳は、禁句とされていることさえ珍しくないのである。
次に、軍隊の中での生活には原則としていっさいの自由は認められない。勝手に移動することもできないし、自己の思想を発表することも許されない。集会や出版の自由も、もとよりない。平等についても同様である。軍隊の組織は、最も合理的、機械的な発想のもとに階級づけられている。上級士官の命令は、下級兵士にとって絶対服従する以外にない。
加えて、敵を殺さなければならないということも、大きい不幸というべきである。殺そうとしている敵兵士も、同じ人間である。戦争という渦の中にあって、感覚こそ麻痺していても、人を殺すという行為には、平和時の殺人も、戦時の殺人も変わりはない。それを敢えて犯さなければならない宿業は、悲しむべきことである。
それはまた、現在の空軍兵士が、何千メートルの上空から爆弾を投下する場合も同じである。あるいは、将来万が一、原水爆戦争が起こった時、ボタン一つで敵国民、何百万人を殺す場合も同様であろう。それによって焼けただれ、粉々になり、あるいは一瞬に蒸気となって消えてしまう犠牲者の悲惨な姿は、見ないで済むかもしれない。だが、犯した罪の大きさは、一人一人を自分の手で切り刻んで殺すのと変わりはないはずである。
われわれは、断じてこのような悲しむべき地獄図を、出現させてはならない。現在、繰り広げられているベトナム等の戦争も、即刻、中止すべきことを訴えたい。それを私は心から日本の、そして全世界の良識ある人々に叫んでやまぬものである。しかして、今後、絶対に、第二、第三のベトナム、否、全人類の破滅を起こさない土壌を私はつくっていく決意である。その最も本源的な方法は、すなわち、人類始まって以来、常に切実な願いとされながら、いまだかって止んだことのない。この人類の宿命を転換すべき法は、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布以外にないことを、全世界に向かって訴えるのである。
響の如く影の如く人の夜書くに火は滅すれども字は存するが如く、三界の果報も亦復是くの如し
生命の因果論である。ある地点で鐘を鳴らし、かりに100m離れた所で反響したとする。音が伝わっていくのを誰も見ることはできないが、音に従って響きがある。物と、それが映った影との関係も同様である。物に従って影は形を変え、所を変える。あるいは、夜、字を書いて灯を消したとする。闇となってもはや字は見えないが、夜が明ければ、そのまま字は残っている。
これと同じく、生命の因果も、過去世にどのような原因をつくったかを記憶していることはできない。だが、その結果は、今、つくった原因のままに受けているのである。また同じ一生の間にも、犯した罪が、その直後から罰となって現われてくるわけでない。ある期間を経て縁によって出てくるものである。この因果の流転が生命の実相なのである。しかして、この因果に、通途の因果と、正法誹謗の因果とがある。前者は、正法と無縁の衆生が業因業果を流転していくものである。後者は、正法を誹謗することによって、それぞれの因果を感ずるのであって、はるかに重業であるが、逆縁となって最後は救われるのである。
佐渡御書にいわく、
「一には或被軽易二には或形状醜陋三には衣服不足四には飲食粗疎五には求財不利六には生貧賎家七には及邪見家八には或遭王難等云云、此八句は只日蓮一人が身に感ぜり、高山に登る者は必ず下り我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん形状端厳をそしれば醜陋の報いを得人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる持戒尊貴を笑へば貧賎の家に生ず正法の家をそしれば邪見の家に生ず善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ是は常の因果の定れる法なり、日蓮は此因果にはあらず法華経の行者を過去に軽易せし故に法華経は月と月とを並べ星と星とをつらね華山に華山をかさね玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を或は上げ或は下て嘲弄せし故に此八種の大難に値るなり、此八種は尽未来際が間一づつこそ現ずべかりしを日蓮つよく法華経の敵を責るによて一時に聚り起せるなり」(0960:01)と。
このように、一往は区別されるが、再往は一切、正法によって罪障消滅する以外にないのである。すなわち、日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経に帰依することによって、全世界のいかなる衆生もことごとく罪業を消し、しあわせになることができるのである。
第四章 (念仏無間地獄の経文を挙ぐ)
法華経の第二に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」と、同第七の巻不軽品に云く「千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受く」と、涅槃経に云く「善友を遠離し正法を聞かず悪法に住せば是の因縁の故に沈没して阿鼻地獄に在つて、受くる所の身形・縦横八万四千由延ならん」と。
現代語訳
法華経の第二譬喩品には「もし、人が信じないでこの法華経を毀謗するなら、その人は死んでのち阿鼻地獄におちるであろう」とある。
同じく法華経第七不軽品には「死んでのち、千劫阿鼻地獄において大苦悩をうける」とあり、涅槃経には「善友を遠さけて正法を聞かず、悪友に従っていると、その因縁によって阿鼻地獄に沈み、縦横八万四千由延という無間の苦しみを受けるであろう」とある。
語釈
千劫、阿鼻地獄に於て、大苦悩を受く
倶舎論に説かれているところによると、人寿無量歳より百年ごとに一歳を減じ、人寿十歳の時まで減少する期間を一減といい、ついで人寿十歳から百年に一歳ずつ増加し、人寿八万歳まで増加する期間を一増という。この一増一減を一小劫という。これを年数になおすと、1600万年より2000年を減じた19,598,000年となる。二十小劫を一中劫といい、阿鼻地獄すなわち無間地獄の寿命は一中劫とされ、年数になおすと、319,660,000年である。しかし、これは通途の五逆罪を犯して堕ちた場合で、誹謗正法の重罪は、無数劫のあいだ苦しまなければならない。法華経譬喩品には「経を読誦し書持すること 有らん者を見て 軽賤憎嫉して 結恨を懐かん 此の人の罪報を 汝今復た聴け 其の人は命終して 阿鼻獄に入らん 一劫を具足して 劫尽きなば更に生まれん 是の如く展転して 無数劫に至らん」とある。いま不軽品において「千劫」とあるのは、不軽菩薩を迫害した謗法の者が、最後には懺悔して、軽く受けたがゆえに千劫で済ませることができたのである。顕謗法抄には、この経文を引いて、次のように述べられている。「此の経文の心は、法華経の行者を悪口し、及び杖を以て打擲せるもの、其の後に懺悔せりといえども、罪いまだ滅せずして千劫・阿鼻地獄に堕ちたりと見えぬ。懺悔せる謗法の罪すら五逆罪に千倍せり。況や懺悔せざらん謗法にをいては阿鼻地獄を出ずる期かたかるべし」(0448:11)と。したがって、ここで千劫というのは、千中劫のことである。
受くる所の身形、縦横八万四千由延ならん
無間地獄の大きさは、顕謗法抄には「此の地獄は縦広八万由旬なり」(0447:02)とあり、本抄では「縦横八万四千由延」といわれている。由延は梵語ヨージャナの音写。由旬、由善那とも書き、古代インドの距離の単位。一由旬とは帝王が一日に行軍する道のりとされ、十キロメートルほどと考えられている。したがってここで「受くる所の身形、縦横八万四千由延ならん」とあるのは、無間地獄に堕ち、その筆舌に尽くせぬ大苦をつぶさにうけること。
講義
法華経譬喩品と常不軽品、涅槃経の迦葉菩薩品の三つの経文を引いて、正法を聞いても邪法への執着を断たず、なお謗法を信じているならば、無間地獄に堕ちることを示されている。
日蓮大聖人は、「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」の、いわゆる四箇の格言をもって、当時の代表的な邪宗教を厳しく破折された。なかでも、この立正安国論においては念仏を中心に取り上げられていることは、これまで述べてきたとおりである。
しかしながら、無間地獄に堕ちる邪宗教は念仏のみではない。今、ここに引かれたように正法を毀謗する悪法を信ずる者はすべて無間地獄の罪を免れることはできないのである。禅宗も無間地獄であり、真言、律も無間地獄である。同じ方程式で、今日、創価学会に対し、また三大秘法の大御本尊に対し、誹謗し、批判し、妨害しようとするあらゆる宗派、団体は、ことごとく、無間地獄の業であることを知らねばなら。なぜかならば、大御本尊が日蓮大聖人の出世の御本懐であり、仏法の極理中の極理であることは、いうまでもなかろう。創価学会は、大聖人の御遺命である化儀の広宣流布を成し遂げんと立ち上がった唯一の団体である。真の仏弟子であり、師子王の子である。これを謗り妨げることは、仏に背き、法華経を毀謗するのと同じことになるからである。
したがって、また、これを毀謗する者は、邪宗教だけが無間地獄に堕ちるのでもない。化儀の広布は第三文明の多角的な活動を含んで進められていく。これに対して、政治などの分野においては政党や官庁等で、創価学会を憎み、陰険にも権力をもって弾圧し、迫害し、理不尽な妨害を試みる者も出てくることは必定である。
創価学会は民衆の幸福を心から願って、そのために戦っている団体である。これを妨げ葬り去らんとするものは天魔であり、これまた「人信ぜずして此の経を毀謗せば」「善友を遠離し正法を聞かず悪法に住せば」の類となる。したがって、彼らも、無間地獄に堕ちることを免えないのである。
それでは、無間地獄に堕ちるとは、どういうことなのか、無間地獄そのものについては、八大地獄ある中の最も重いもので、仏がありのままにその苦しみのありさまを説くと、聞く人はそれだけで血を吐いて死ぬといわれている。それほどの苦しみの境涯をいうのである。
一体に、地獄といっても現代人には、それを実感として受け取れる人は、恐らくいないであろう。ほんとうの人が、仏とは死体のことをいうのと同じく、死後の世界を地獄というのだろうぐらいにしか思わない。死んで仏になって地獄へいったというような矛盾も、矛盾と感じないのが大部分の人である。
こうした、死後の世界を取り扱った文学として最も有名なのは、イタリア・ルネサンスの巨星、ダンテの「神曲」であろう。ダンテは、それを地獄と煉獄と天国の三つに分かれているとした。仏教の十界論に対比すると、いわば三界論を立てたわけである。
日本の神話では、死者の世界を「黄泉の国」と呼んで、イザナギノミコトの妻を連れ戻そうとする話がある。ギリシャ神話ではハーデスという名称で呼ばれた。これらは、いずれも、生前の罪業や善業が死後に影響するとは考えられない。原始宗教から一歩進んで、初めて死後の世界の差別が立てられるようになったのである。
このことは、人生における善業・悪業の区別に対して、明確な判断をもつか、もたないかという問題と関連している。すなわち、現実生活において善悪の問題、道徳性が論じられる精神的発展を遂げた時に、その倫理の裏づけとして、死後の功罪という概念が生まれたといえる。
したがって、死後の生命の状態に関してまったく無関心な現代人は、少なくとも道徳面については、きわめて原始人に近いということになろう。ただし、原始人の倫理性が、その民族特有のダブーを拠り所としていくのに対し、現代人のそれは利害と合理主義であるという点が違う。これは、進歩といえぬものでもない。だが、それだけに規範の脆さが社会全体の問題となっていることも考えるべきである。
臨終にみる堕地獄
さて、仏教の地獄観は、昔から偶話的に語られてきたようなものではない。また、単に倫理を確立するための手段としてあらわれたものでもない。あくまでも、地獄は、現実に生活しているわれわれの生命の状態を一種類である。すなわち、苦しみ懊悩する境涯そのものを地獄というのである。
そして、死んで地獄に堕ちるとは、われわれの生命が死と共に、因果の理法に従って、大宇宙の生命のリズムに合致していく。大宇宙の地獄の生命に冥合した時に、これを地獄に堕ちたというのである。その証拠として、臨終の時、次のような姿を現ずるといわれている。まず千日尼御前御返事には、
「譬えば黒漆に白物を入れぬれば白色となる、女人の御罪は漆の如し南無妙法蓮華経の文字は白物の如し人は臨終の時地獄に堕つる者は黒色となる上其の身重き事千引の石の如し善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども臨終に色変じて白色となる又軽き事鵞毛の如しヤワラカなる事兜羅緜の如し」(1316:10)とある。
また、妙法尼御前御返事にも、大論の「臨終の時色黒き者は地獄に堕つ」天台摩訶止観の「身の黒色は地獄の陰に譬う」等の文証を引かれて、臨終の時黒く変ずるのは、堕地獄の相であると述べられている。
事実、邪宗教を信仰している人々は、熱心にもてさやはれるほど、顔など皮膚の色が黒ずんできて、艶もなくなってくる。これは、天台大師のいう地獄の陰が、だんだんに濃さをましているゆえであろうか。文証と現証の一致からも、これは誠に不思議なことである。
大聖人のいわく「日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく人の寿命は無常なり、出る気は入る気を待つ事なし・風の前の露尚譬えにあらず、かしこきもはかなきも老いたるも若きも定め無き習いなり、されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて、一代聖教の論師・人師の書釈あらあらかんがへあつめて此を明鏡として、一切の諸人の死する時と並に臨終の後とに引き向えてみ候へばすこしもくもりなし」(1404:05、妙法尼御前御返事)
而して、妙法を持ち切った人は、生前、黒い人でも白くなり、死体も軽く、柔軟で、顔や目は口を半ば開け、血色は生きている時の如き姿で死相を現ずるのである。同じく、大聖人は「須弥山に近づく衆色は皆金色なり、法華経の名号を持つ人は一生乃至過去遠遠劫の黒業の漆変じて白業の大善となる、いわうや無始の善根皆変じて金色となり候なり」(1405:08、妙法尼御前御返事)と仰せである。
仏法を知らざる人とはいえ、レオナルド・ダ・ヴィンチの次の言葉は、死の意味をよく捉えているといえよう。彼のいわく「遺憾なく過ごした一日は、楽しい眠りをもたらす。それと同じく善く用られた一生は、安らかな死を与える」と。
信心強盛に一生を貫き、見事な臨終の相を現ずることが、そのまま永遠の幸福に通ずるゆえに人生の最後にして最肝要の勝利といえる。
第五章 結して立正安国を論ず
広く衆経を披きたるに、専ら謗法を重んず。悲しいかな、皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る。愚かなるかな、各悪教の綱に懸って、鎮に謗教の網に纒る。此の朦霧の迷、彼の盛焔の底に沈む。豈愁えざらんや、豈苦しまざらんや。
汝早く信仰の寸心を改めて、速かに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり。仏国其れ衰えんや。十方は悉く宝土なり。宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば、身は是れ安全にして、心は是れ禅定ならん。此の詞、此の言信ず可く崇む可し。
現代語訳
以上のとおり、広く一切経を開いてみると、いずれの経ももっぱら謗法が重罪であることを説き、戒めている。しかるに悲しいことに人びとは皆正法の門を出て、深く邪法邪義の獄に入っている。愚かにも法然などの悪教の綱にかかって、末ながく謗教の網にまつわっている。現世には邪教の朦霧、もうもうと立ちこめる霧で目の前が見えず迷い、死後は阿鼻地獄の火焔の底に沈むことをみて、どうして愁えずにおられようか。どうして苦しまずにおられようか。
いまやあなたは一刻も早く邪法信仰の寸心を改めて、実乗の一善たる日蓮の法門に帰依しなさい。そうすればすなわち、この三界は皆仏国である。仏国であるならば、どうして衰微することがあろうか。十方の国土はことごとく宝土である。宝土であるならば、どうしてこわれることがあろうか。かくして三災七難もなくなり、国に衰微なく、国土が破壊されることもなくなれば、あなたの身は安全になり、心にはなんの不安もない幸福生活を送ることができるのである。この言葉は心から信ずべきであり、崇むべきである。
講義
主人の最後の結論で、国中の民衆が謗法に迷って無間地獄に堕ちているのを悲しまれ、破邪立正による安国の方途を示されている。この御確信、大慈悲は、御本仏にあらずしては、ありえないことである。
従って、日蓮大聖人が上行菩薩の再誕としての迹をはらって、末法御本仏、久遠元初の自受用身としての本を顕わされるのは、文永8年(1271)9月12日の竜の口の頸の座であるが、この文応元年(1260)7月御述作の立正安国論にも、その奥底には脈々と御本仏としての大慈悲が流れているのである。
汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ
早く謗法の信仰を捨てて、速かに真実の仏法に帰依せよと促されているのである。ここで「実乗の一善」とは何か。これまでの九段は、もっぱら念仏等の謗法を対冶することを強調されてきたので、実乗の一善が何かということは説かれていない。このゆえに、それを法華経ととることが一般に行なわれてきたのである。
だが、日蓮大聖人が天台宗ごときを正法とされていないことは、この立正安国論冒頭の客の嘆きに「或は病即消滅不老不死の詞を仰いで法華真実の妙文を崇め」と挙げさせ、だがいっこうに効き目がないと慨嘆されていることでも明らかである。もし、実教の一善を法華経二十八品あるいは天台宗とするのであったら、どうして効き目がないと嘆かれる道理があろうか。
事実、平安末期から、京の公家や源平の武家の間では、法華経を書写し、読誦し、供養することが盛んに行なわれていた。それにもかかわらず、そうした公家や武家も、衰亡、没落の運命を辿っていった。もはや効力のないことは歴然としていた。それを大聖人が、今さら持ち出される道理があろうはずがない。
天台宗を破折された御文は、観心本尊得意抄にいわく、「所詮・在在・処処に迹門を捨てよと書きて候事は今我等が読む所の迹門にては候はず、叡山天台宗の過時の迹を破し候なり、設い天台伝教の如く法のままありとも今末法に至ては去年の暦の如し何に況や慈覚自り已来大小権実に迷いて大謗法に同じきをや、然る間・像法の時の利益も之無し増して末法に於けるをや」(0972:07)と。
また、三大秘法抄に、本門の戒壇を論じられた後、叡山の戒壇について、次のように述べられている。
「此の戒法立ちて後・延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき処に、叡山に座主始まつて第三・第四の慈覚・智証・存の外に本師伝教・義真に背きて理同事勝の狂言を本として我が山の戒法をあなづり戯論とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒・清浄無染の中道の妙戒なりしが徒に土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん、彼の摩黎山の瓦礫の土となり栴檀林の茨棘となるにも過ぎたるなるべし、夫れ一代聖教の邪正偏円を弁えたらん学者の人をして今の延暦寺の戒壇を踏ましむべきや」(1022:18)云云と。
上の御文に明らかなように、日蓮大聖人の仏法は、天台、伝教の法門より一重立ち入った法華経本門文底の事行の一念三千である。大聖人のお立ち場からすれば、天台宗のごときは去年の暦であり、しかも謗法に染まった土泥にも等しいのである。しかして、この事行の一念三千すなわち三大秘法が仏法の究極中の究極であり、極説中の極説である。
御義口伝にいわく、
「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」(0752:04)
百六箇抄にいわく、
「久遠元始の天上天下・唯我独尊は日蓮是なり、久遠は本・今日は迹なり、三世常住の日蓮は名字の利生なり」(0862:下種の今此三界の主の本迹:05)と。
この文底下種、久遠元初の大仏法を大聖人は、建長5年(1253)4月28日に始めて説き出され、27年後の弘安2年(1279)10月12日、一閻浮提総与の大御本尊建立をもって、出世の本懐を遂げられたのである。この御本尊こそ末法の全民衆が帰命すべき「実乗の一善」である。
聖人御難事にいわく、
「去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に安房の国長狭郡の内東条の郷今は郡なり、天照太神の御くりや右大将家の立て始め給いし日本第二のみくりや今は日本第一なり、此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年太歳己卯なり、仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり」(1189:01)
ゆえに「実乗の一善に帰せよ」とは、三大秘法の広宣流布であることはいうまでもない。
されば本文において「寸心を改め」とは邪教であり、「実乗の一善に帰せよ」であり、「然れば即ち三界」云云は安国である。
然れば則ち三界は皆仏国なり
化儀の広宣流布達成を述べられて御文である。広布達成は国土の成仏を意味する。ゆえに、国土世間の地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界の生命は冥伏して、天変地変が起きなくなるのである。
だが依正不二であり「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し」(1578:12)の原理である。一度広宣流布されたとはいえ、人々が形式に流され、信心の血脈を失い、謗法を犯すことのようになれば、ふたたび悪国土となるのである。
「仏国其れ衰んや」等とは、妙法流布の国土には衰微することがないとの御文である。国土の衰微といっても、短い時間の単位で考えたのでは理解しがたい。広く世界の歴史を見ると、民族の運命を決定する重大な意義をもっていることがわかるのである。
たとえば、現在、世界の文明国は北緯30度から50度の温帯地方に集中している。北アメリカ・ヨーロッパ・ソ連・中国・日本等がそれである。だが、このような分布状態ができあがったのは、最近一千年以内のことに過ぎない。それ以前の数千年、あるいは何万年間、文明の中心はエジプト・北アフリカ・中近東・インド・中南米等の赤道地帯にあった。
エジプト・北アフリカ・オリエントの各地は今は砂漠地帯である。だが、かって大文明が栄えたころは、もっとも雨量も多く、土地も肥沃であった。これが気象の変化によって、今日のような不毛の地となってしまったのである。
現代科学の発達によって、エジプトのアスワン・ハイ・ダム建設の灌漑計画のごとく、国土を人間の力で改造しようという時代になった。だが、人間の力が全面的に自然を改造できるわけではない。ダム建設といっても、これまで無駄に流されていた水を、より有効に活用しようというにほかならない。
したがって、人間の力が科学の発達によって、飛躍的に増大したことは間違いないし、またそれをさらに発展させようとする努力も尊い。だが、これをもって、科学で一切が解決できるというのは、むしろ科学を知らざる人の言である。真の科学者は自然の科学の偉大さを知り、これを畏敬さえしているのだ。
その偉大な自然を動かしている源泉は何か。これこそ南無妙法蓮華経の大仏法であると大聖人は説かれたのである。しかして、この妙法を全民衆が信仰するならば、自然の力は民衆の幸福生活を増進する方向へと働くようになる。逆に謗法の時は、不幸を増す方向へと働くようになるのである。これ、仏法の大原理であり、立正安国論で天変地夭を鎮める要法を説かれているのも、この方程式を大前提とされているのである。
われわれが日本民族の永遠に続く繁栄、全人類の、絶対に崩れることのない幸福を願うならば、今、妙法を広宣流布して仏国土を建設する以外にない。不幸の歴史に終止符を打ち、幸福生活の歴史を築いていこうではないか。
国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん
国家、民族が栄え、国土が平和であって、初めて民衆の個人個人の物心共の幸福が樹立できるのである。しかして、その要諦は立正安国論の実践である。この実践を忘れてわが身のみの幸福、平穏を願うのは、日蓮大聖人の弟子ではない。所詮、観念論であり、利己主義となってしまうのである。
正しい仏道修行は、全人類の平和、一国の繁栄を願う祈り、精神、実践でなくてはならない。
ここで、依正不二の原理から、この文のとおりだと、依報が根本で正報はそれによって左右されるという関係になるのではないかという人がいるかもしれない。依報によって正報が支配されていくという姿は、一般日常生活に見られるところである。しかし、それだけであれば、人間は外界の力に動かされる弱々しい存在に過ぎない。
今度は、その実相を正しく確認した上で、身近な例でいえば科学、技術をもって自然を変え、従えさせていく、また根本的には、仏法によって国土世間を革命していく、これが依正不二である。しかして、その信心の一念が正報となり、正報によって依報が決定されるのである。
また「三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん」の文について、日寛上人の文段にいわく、
「文は唯日本及び現在にあり、意は閻浮及び未来に通ずべし」と。
すなわち「三界は皆仏国なり」「十方は悉く宝土なり」の文は、一往は日本であり、また現在時点のみを示しているようであるが、再往、その意は、全世界の末法万年尽未来際にわたる恒久平和と理想社会の出現をいうのである。
立正安国論こそは、一国、一民族の安泰と幸福にとどまらず、崩れざる世界平和と人類の幸福への、偉大なビジョンとイデオロギーを説かれた書であることが明々白々ではないか。
国際連合といい世界連邦といっても、単なる機構やムードによっては、けっして世界の一体化を実現することはできない。われわれはその厳しい教訓を、あの第一次世界大戦後の国際連盟、第二次世界大戦後の国際連合に学んだ。今もまた、第三次大戦に突入しかねないような、不穏な情勢に直面している。
だが、万が一にも第三次大戦が起こったならば、人類の大部分は滅亡するであろう。断じて、そのような悲劇を惹き起こしてはならない。過去数千年、否、数万年にわたって、営々と文化を築いてくれた先人のためにも、またこの世界を引き継ぐべき子孫のためにも。
人類は文化の発展に伴って、その相互扶助の生活範囲を民族から部族へ、部族から民族へと拡大してきた。その拡大によって、文化の飛躍的な発展と、民族の福祉の増進がもたらされたのである。この拡大を拒否した排他的、閉鎖的な集団は、文化の発展から取り残され、停滞した未開民族となっている。
現代は民主主義の時代である。最も進んだ欧米でも、たとえば、アメリカにおいては、アングロ・サクソン、ゲルマン、ラテン等の白色人種間の民族の融和は実現してきている。しかし、白色人種と黒色人種、黄色人種の間には、根深い差別感が残っている。ヨーロッパにおける西欧の団結と、スラブ人種との対立も、これと共通するものがある。
一方、アフリカやインド等においては、民族以前の部族対立が、紛争の深刻な一因となっている。後進国と称される所以である。
このように、細かく見れば、先進諸国と後進地帯とでは、種々の相違があるが、慨していえば民族主義的対立が現代を特徴づけるといえる。なかんずく、この民族的対立に国家的利害の対立が加味されて、相互の衝突を、ますます尖鋭にしている。一体化の進んだ西欧の諸国家においてすら、国家的対立が民族的融和を帳消しにすることが珍しくない。
このゆえに、真に平和な、一体となった世界を築き上げるためには、感情の問題として一体感を盛り上げることも当然、第一に必要である。しかし、それとともに強力な世界機構が設置されて、現在ある各国家の機能を上回る働きにより、現実的な信頼関係が確立されなければならない。
そして、これを可能にするものは、既存の宗教や哲学による人生観、世界観にはない。それらは本質的に、現実を否定するものであったり、個人主義に閉じこもるものであったり、あるいは個人の尊厳を否定するものであるからだ。何よりも、過去の歴史が彼らの無力を明確に実証しているではないか。
日蓮大聖人の仏法こそ、全人類の同胞意識を築き上げ、世界平和への大指導原理を本質的に含んだ、真の世界宗教なのである。
境民族主義を論ず
仏教は全世界の大宗教
「三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや」と仰せのごとく、仏教は単なる一国、一民族を対象とするものではない。全世界、全宇宙を対象とし、永遠の平和と繁栄を説くのである。
「三界」とは、六道を分別したものであって、欲界・色界・無色界である。欲界とは下は地獄界から上は天上界の六欲天までの欲望の世界のすべてをいう。色界とは欲界の外の浄妙の色法だけが存在する天上界、無色界とは物質のない精神界の最上の天界をさす。なおこの三界の外には、二乗の住する方便土、菩薩の住する実報土、仏の住する寂光土があると説く。
しかしこのような分別は、爾前迹門において説かれたものである。法華経の本門寿量品においては本国土妙を明かし、本仏は永遠の昔より、この娑婆世界において説法教化しつつあることを説く。
ゆえに「三界は皆仏国なり」「十方は悉く宝土なり」とは娑婆世界即寂光土であり、われわれの住むこの世界が永遠不滅の仏国土であることを示す。これを観心本尊抄には「十界久遠の上に国土世間既に顕われ」(0249:02)と仰せになっているのである。
さて以上の三界論や、仏国土から考えても、仏教が特定の国や、特定の民族に限るものでならないことはいうまでもない。日蓮大聖人は常に一閻浮提を対象として、三大秘法を立て、三大秘法を弘通あそばされたことは、次のようにお示しのとおりである。
観心本尊抄に「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(0254:08)と。
撰時抄に「前代未聞の大闘諍・一閻浮提に起るべし其の時・日月所照の四天下の一切衆生、或は国ををしみ或は身ををしむゆへに一切の仏菩薩にいのりをかくともしるしなくば彼のにくみつる一の小僧を信じて無量の大僧等八万の大王等、一切の万民・皆頭を地につけ掌を合せて一同に南無妙法蓮華経ととなうべし」(0259:10)と。
報恩抄に「三には日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし、此の事いまだ・ひろまらず一閻浮提の内に仏滅後・二千二百二十五年が間一人も唱えず日蓮一人・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱うるなり」(0328:16)と。
さらに仏教伝来の歴史の上からいっても、インドの仏教が中央アジアを経て、中国から朝鮮・日本へと弘通された。中国では既に流通していた儒教・道教の激しい抵抗を受けたが、幾多の論争のすえ仏教が勝ち、全土に流布し尊崇されるに至った。
日本においても、初めて仏教が伝来した時は、西蕃の仏を崇めるやいなやの争いが、当時の氏族間の対立抗争や、皇位継承問題などにもからみ、数十年にわたる論争と暗闘を繰り返した。その結果は、崇仏派の勝利となり、仏教は全国に弘通された。すなわち仏教は、偏狭なる民族主義や国家主義をよく同化し、一切衆生皆成仏道の大海に流入せしめてきたのである。
世界民族主義実現の時
末法の御本仏、日蓮大聖人の慈悲の精神を根本として、世界平和を実現せんとするわれわれの思想は、文明論でいえば第三文明、政治面でいえば仏法民主主義であるとともに、国際間からいえば民族は唯一の民族であり、同一のこの地球上住むあらゆる民族は唯一の民族であり、同一この地球上に住むあらゆる民族が、国境、言語、風俗、生活環境等々の相違を克服して共存共栄すべきであると主張する。しかし、このような理想は、正しい仏法を根幹としてこそはじめて実現することができる。正しい仏法とは、日蓮大聖人の色心不二の生命哲学たる三大秘法の大白法なのである。
通信機関、交通機関をはじめ科学が大きく発達し、地球上の距離はきわめて短縮された。今や十数時間もあれば地球の裏側の諸国まで飛ぶことができるし、地球上に起きた事件は、二・三時間もすればたちまち世界じゅうの人々に知れわたってしまう。世界全体が、一つの町のようになり、世界じゅうの指導者がいつでも一所に会することができ、通信機関を通じて相談することもできる。このような科学の世界に生きながら、昔ながらの国境を墨守して相争うことなどは、実に愚かなことではないか。
地球上のいかなる国も、いかなる民族も、ともに相互扶助の体制が立ち、ともに平和と繁栄を期すべき時である。国境を越え、民族を越え、さらに国家間の集団陣営や国家群を越えて、地球全体の安全、全人類の平和維持を考え、実現すべき時である。世界はすべて一民族であり、国境は対立抗争のための国境ではなく、行政上の区画ぐらいになり、世界連邦の結成へと進むべきである。
世界連邦の提唱は、いまに始まったことではない。しかし、世界の指導者たちが、その根底となるべき偉大なる哲学もなく、宗教もないのでは、このような大理想が実現できるわけがないのである。いかなる哲学書も、社会主義や民主主義の理論体系も、みな人類の幸福をめざしているものに相違ない。しかし、真実の理論と実践を可能にする哲学は、日蓮大聖人の大仏法を根本とする時こそ、初めて世界連邦の実現も可能になり、世界民族主義を実現することができるのである。
いかなる政治家であっても、政治を行なうには、その根底に思想がなくてはならない。そして、その基本となるべき政治思想の高低浅深が、おのずからその時代の繁栄が、衰亡かを決定していくのである。ゆえに、その政治技術を論ずる前に、まずいかなる政治理念、いかなる政治思想を実現しようとするかを論じなくてはならない。世界民族主義も、世界連邦も、真実の宗教を根本となさなければ、実現することができない理由もここにあるのである。
ナショナリズム
国家間、国際観を論ずるにあたって、ナショナリズムとインターナショナリズムの問題がある。ナショナリズムに、一往の定義をあたえるとすれば、「あるnationが、自らを他から区別して意識してその統一、独立、発展をおし進めようとする思想、あるいは運動」とでもいうべきであろう。しかしてこのナショナリズムの訳語に「国家主義」とか「国民主義」とか「民族主義」といった多くの言葉が用いられているのは、この主義、思想のあらわす意味が、多方面にわたっているからにほかならない。またナショナリズムは「祖国愛」とか「愛国心」と訳される場合もあるが、いずれもそのような一面の意義を含んでいるのである。
西欧におけるナショナリズムの発展過程をF.H.カーは三つの時期に分けた。その第一期は君主のナショナリズムであって、主権者としての君主がネーションの代表として振舞った時期であり、これはフランス革命とナポレオン戦争をもって終わる。その第二期は、ブルジョアジーのナショナリズムであって、主として自由民主主義ないしブルジョア民主主義の枠のなかで動き、これはフランス革命から始まり、1914年の第一次世界大戦の勃発まで続いた。その第三期は、大衆のナショナリズムであるとした。このようにカーは、ナショナリズムの発展を、政治集団としてのネーションに対する見解の発展に即してとらえたのである。
わが国におけるナショナリズムは、以上のような西欧諸国における発展段階に較べて、それが同一の経過を辿っていない。すなわちわが国では、第二次世界大戦が「国家主義」「愛国心」の原点となったが、その結果は「超国家主義」「侵略主義」「好戦主義」となってあらわれ、敗戦亡国を招来し、世界人類に無量の不幸をもたらす結果となった。ゆえに戦後はこのナショナリズムが、一種の禁句と考えられる時代であった。
やがて朝鮮戦争は、ナショナリズムに対しても大きな波動を与えた。朝鮮半島を舞台にして連合軍と北鮮・中央軍との激烈な攻防戦、停戦のためのインドの貢献、中印両国の平和五原則声明、バンドンにおけるアジア・アフリカ会議の開催等を通じて、アジア・アフリカの民族解放運動が、新しいナショナリズムとして、国際政治の場に、登場してきたのである。
こうしたアジア・アフリカのナショナリズムは、多分に「民族主義」「国家主義」と要素を持っている。しかしこれが第二次世界大戦における日本の「超国家主義」や、ナチ・ドイツにおける「国家社会主義」と比較した場合に、その根本的な区別は、「民主主義」の原理を認めるか否かにある、ということができるであろう。しかし、問題はこの「民主主義」という言葉の意味である。自由主義陣営では、われこそ真の民主主義といい、逆に社会主義陣営では「人民民主主義こそ真実」という。
これらの主張は、いずれもその一面の真理を含むのみであって、哲学自体が偏頗であるところから起こったものである。ゆえにわれわれは、唯物論や唯心論の執着を捨て、色心不二の生命哲学の確立を叫ぶとともに、生命哲学を根本にしてこそ、初めて真実の民主主義の確立があると主張するのである。
インターナショナリズム
次に、インターナショナリズムは、国際主義と訳す。これはナショナリズムと対立するようであるけれども、国家主義、民族主義を、国家や民族の至上主義と解しないならば、相互に矛盾することはない。すなわち、インターナショナリズムが、個々の国家の主権に制限を加えて超国家的政治社会の形成を理想としつつも、その構成単位としての国家の独立的機能を認め、諸国間の平和的、共存体制の促進をめざすものと解すれば、互いに両主義間の矛盾はなく、両主義は併存するわけである。
インターナショナリズムは、中世の普遍的教会や、普遍的帝国の理念と区別され、近世以降の所産とされている。そして、その発展と類型は、次のように三段階と三種類に分けられる。
第一は王朝的インターナショナリズムで、17~18世紀における国際主義が、君主ないし王朝間で論じられ、結合された。19世紀前期の神聖同盟もその一つであった。
第二はブルジョア的インターナショナリズムで、貴族的特権階級と、労働者階級とに対して共通の利害連帯性を有し、政治的民主主義と、経済的世界主義を両立するものとして発展した。やがて民族主義、帝国主義思想の増大は、第一次世界大戦を引き起こしたが、その結果は国際連盟が樹立され、インターナショナリズムの発展に一時期を画した。また第二次世界大戦の結果、国際連合が誕生したが、米ソの二大陣営の対立と、植民地後進国の反帝国主義、民主主義は一段と活発化していった。
第三はプロレタリア的インターナショナリズムである。1864年、マルクスの指導下に第一インターナショナルが結成され、1878年には解散。1889年に第二次インターナショナルの結成、1914年には第一次世界大戦の開始、1919に第三次インターナショナルの結成、ロシア革命後のボルシェヴィキ政府は、対外的にはコミンテルンを指導し、世界各地に大きな影響を与えてきている。
以上のような思想の流れ、歴史の変遷を辿ってきたが、最近の国際情勢は、中ソの対立によって、共産主義陣営は二分された。またベトナム戦争を中心とするアジア諸国は、大きな不幸と不安に襲われつつある。さらに第三次世界大戦がもし起きれば核戦争となり、世界人類が一瞬にして滅亡するという危機をはらんでいる。今こそ真実にして強力な指導理念が確立され、永年にわたる人類の、対立抗争をよく指導し、永遠の平和と幸福の実現を待望してやまないのである。これこそ真実の立正安国論である。
世界平和と原水爆宣言
日本は第二次世界大戦の末期に、二発の原爆を蒙り、文字どおりこの世の地獄の相を出現した。その苦しみ、恐怖、悲しみの中から、「世界のいかなる国にも、二度と再び原爆を落とさせてはならない」「核開発は平和促進のみに利用されるべきであって、断じてこれを戦争目的に使用してはならない」との運動が起こされてきた。しかるに戦後20年の間に、日本国民は辛うじて保たれている平和の中に安住し、毎年繰り返されている原水爆禁止運動は分裂抗争の醜態を晒している。
創価学会第二代戸田会長は、すでに昭和32年(1957)9月、全世界に向かって原水爆の禁止を強力に訴えられた。それはいずこの国であろうとも原水爆を戦争に使用したものは、ことごとく死刑に処すべきであり、それを使用したものは悪魔であり、魔ものであるという思想を全世界にひろめるべきであるとの宣言であった。
このような絶対平和主義も、唯物論や唯心論を基本としていたのでは、とうてい実現されるわけがない。仏法の真髄たる日蓮大聖人の哲学により、その慈悲を根本とする平和思想の流布によってのみ、世界人類の永遠の平和が確立され、立正安国が実現されるのである。