立正安国論4

  1. 第五段 (和漢の例を挙げて念仏亡国を示す)
    1. 第四章 (日本における亡国の現証を挙ぐ)
      1. 現代語訳
      2. 講義
        1. 承久の乱の歴史的意義
        2. 承久の乱発端・経過
        3. 幕府三上皇を流し、断固たる処置
        4. 念仏の熱烈な信仰もむなしく
        5. 崩れ去った朝廷方の絶対的権威
        6. 仏法から見た承久の乱
  2. 第六段 (念仏禁止の勘状を奏す)
    1. 第一章 (法然の謗法を弁護す)
      1. 現代語訳
      2. 語釈
        1. 華洛
        2. 柳営
        3. 枢楗
        4. 莠言
      3. 講義
        1. 汝賤身を以て輙く莠言を吐く
    2. 第二章 (仏法の衰微を歎ず)
      1. 現代語訳
      2. 語釈
        1. 蒼蝿驥尾に附して万里を渡り
      3. 講義
        1. 予少量為りと雖も忝くも大乗を学す
        2. 弟子一仏の子と生れて諸経の王に事う、何ぞ仏法の衰微を見て心情の哀惜を起さざらんや
    3. 第三章 (謗法訶責の精神を説く)
      1. 現代語訳
      2. 語釈
        1. 真の声聞
      3. 講義
        1. 折伏活動こそ真の慈悲の振舞い
        2. 折伏に暴言、迫害は覚悟の上
        3. 折伏こそ宿命打破成仏の最直道
        4. 不惜身命の信心で真実の幸福へ
    4. 第四章 (法然等、上奏により流罪されるを示す)
      1. 現代語訳
      2. 語釈
        1. 御教書
        2. 感神院
        3. 犬神人
        4. 隆寛
        5. 聖光
        6. 成覚
        7. 薩生
      3. 講義
        1. 法然一門と既成仏教の争い
        2. 法然滅後、一門に加えられた弾圧
        3. 衰亡の一途をたどる最近の浄土宗
        4. 再三にわたった念仏禁止の上奏
  3. 第七段 (布施を止めて謗法断絶を明かす)
    1. 第一章 (災難対治の方術を問う)
      1. 現代語訳
      2. 語釈
        1. 一人として論じ難し
        2. 世天
        3. 瑕瑾
      3. 講義
        1. 経を下し僧を謗ずること一人には論じ難し
        2. 此の瑕瑾を守つて其の誹謗を成せども
        3. 所詮天下泰平国土安穏は君臣の楽う所土民の思う所なり
        4. 夫れ国は法に依つて昌え法は人に因つて貴し
        5. 仏法の偉大さは人が実証
        6. 先ず国家を祈りて須く仏法を立つべし
    2. 第二章 (国家安穏天下泰平の原理を説く)
    3. 現代語訳
    4. 語釈
        1. 余は是れ頑愚にして
        2. 内外の間に、其の文幾多ぞや
    5. 講義
        1. 余は是れ頑愚にして敢て賢を存せず
        2. 偉大なる仏法の予言
        3. 広宣流布こそ立正安国の実践
        4. 治術の旨内外の間其の文幾多ぞや
        5. 科学万能主義の誤り
        6. 求められる新しい理念と指導者
    6. 第三章 (涅槃経を引き謗法訶責を説く)
      1. 現代語訳
      2. 語釈
        1. 純陀
        2. 一闡提
        3. 懺悔
        4. 四重
        5. 五逆罪
      3. 講義
        1. 破戒とは謂く一闡提なり
        2. 経により異なる仏教の戒律
        3. 末法の戒は受持即持戒
        4. 其の余の在所一切に布施すれば皆讃歎すべく大果報を獲ん
        5. 法の布施と財の布施
        6. 懺悔について
    7. 第四章 仙予国王の謗法断絶を示す
      1. 現代語訳
      2. 語釈
        1. 仙予
        2. 菩薩の示現生
      3. 阿那含
        1. 辟支仏
        2. 畢定の菩薩
      4. 講義
    8. 第五章 (守護付属の文を挙ぐ)
      1. 現代語訳
      2. 語釈
        1. 波斯匿王
        2. 付属
      3. 講義
        1. 弘宣・伝持・守護の三付属
        2. 守護付属実践する創価学会
        3. 現代の国王とは民衆のこと
        4. 空前の宗教革命
        5. 善男子正法を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せず応に刀剣・弓箭・鉾槊を持すべし
    9. 第六章 (正法護持の方軌を示す)
      1. 現代語訳
      2. 語釈
        1. 迦葉
        2. 弓箭・鉾槊
      3. 講義
        1. キリスト教の政治関係
        2. 政教分離説き明かす仏法
        3. 信教の自由について
        4. 近代日本の信教の自由
    10. 第七章 (有徳王・覚徳比丘の先例)
      1. 現代語訳
      2. 語釈
        1. 拘尸那城
        2. 覚徳
        3. 阿閦仏
        4. 迦葉
      3. 講義
        1. 有徳王・覚徳比丘
    11. 第八章 (念仏無間の文を挙ぐ)
      1. 現代語訳
      2. 語釈
        1. 阿鼻獄
      3. 講義
    12. 第九章 (経証により謗法治罰を結す)
      1. 現代語訳
      2. 語釈
        1. 阿鼻大城
        2. 永く出づる期無けん
        3. 不退の位
        4. 釈迦文
      3. 講義
        1. 私の詞何ぞ加えん
        2. 大乗経典を謗ずる者は無量の五逆に勝れたり
        3. 設い五逆の供を許すとも謗法の施を許さず
    13. 第十章 (国中の謗法を断ずべきを結す)
      1. 現代語訳
      2. 語釈
        1. 莠言                                                                                                                 
        2. 槨外
        3. 釈迦の手指を切つて弥陀の印相に結び
        4. 鴈宇
        5. 鵝王
        6. 如法経
      3. 講義
        1. 三宝について
        2. 早く天下の静謐を思わば須く国中の謗法を断つべし
  4. 第八段 (謗法に布施を止めるの意を説く)
    1. 第一章 (経文の如く斬罪に処すべきかを問う)
      1. 現代語訳
      2. 講義
        1. 仏法から見た死刑観
    2. 第二章 (僧尼殺害の罪を挙げて問う)
      1. 現代語訳
      2. 語釈
        1. 撾打
        2. 竹杖の目連尊者を害せし
        3. 提婆達多の蓮華比丘尼を殺せし
        4. 後昆
      3. 講義
        1. 沙門に非ずして沙門の像を現ず

第五段 (和漢の例を挙げて念仏亡国を示す)

第四章 (日本における亡国の現証を挙ぐ)

此れを以て之を惟うに、法然は後鳥羽院の御宇、建仁年中の者なり。彼の院の御事、既に眼前に在り。然れば則ち大唐に例を残し、吾が朝に証を顕す。汝疑うこと莫かれ、汝怪しむこと莫かれ。唯須く凶を捨てて善に帰し、源を塞ぎ根を截つべし。

 

現代語訳

こうしたことを考え合わせると、称名念仏は亡国のもとである。しかるに、法然は後鳥羽院の時代、建仁年中の者である。後鳥羽院が承久の乱で滅び去ったことは眼前の事実である。しかればすなわち、中国においては唐の滅亡するという先例があり、わが朝では三上皇が臣下ともいうべき幕府によって流罪されるという証拠をあらわした。あなたは疑ってはならないし、あやしんでもならない。一刻も早く法然所立の念仏の凶を捨て、日蓮大聖人所弘の妙法たる善に帰依して、選択集を破ることによって災難の源をふさぎ、その亡国の根を断つべきである。

 

講義

前の中国の例に続き、本章では承久の乱を指摘して、浄土宗の弘まることが、一国の災いの原因であり、前兆であることを示されている。しかして、この先例をもって、災いの源をふさぎ、根を断つためには、元凶たる謗法を捨て、最高善たる正法に帰依すべきであると強調されているのである。

承久の乱の歴史的意義

さて、ここで申されている「彼の院の御事」すなわち承久の乱は、いかなる事件であったか。一言で、その歴史を述べてみるとすれば、正に日本の主導権が京都の天皇、公卿から鎌倉の武士に移ったことを決定づけた事件ということができよう。

すなわち、鎌倉幕府は、すでに源頼朝によって開かれ、いわゆる「東国武士」による統一という新しい時代が始まっていたのであるが、まだまだ朝廷方の意志を無視するわけにはいかなかった。このため、源家が三代で滅んだあとは、京から将軍を迎えてこれを奉ぜざるを得なかったし、特に西国に対しては鎌倉の威勢は無力に等しかった。

さらに、幕府を構成している東国武士内においてすら、梶原景時・阿野全成・和田義盛等の草創期に重鎮が肩を並べ、互いに覇を競い合っていた。こうしたなかで、最後の勝利を獲ち取ったのが、頼朝の妻・政子を出した北条氏である。

今から見ると、北条氏は東国武士の主力であったかのように思われがちであるが、事実は頼朝の外戚ということと、旗上げ以来の功臣ということ以外、なんの力もなかったのである。梶原・和田・三浦等の豪族に較べれば、取るに足りない存在でさえあった。

この北条氏が政所別当としての地位を着々と強化し、巧みな策謀を駆使し、時には実力に訴えて、ついに執権体制を確立する時期もこのころである。かくして、三代将軍実朝の暗殺、幕府創立の重臣打倒等の事件が、京都方面にとって、幕府を倒す絶好のチャンスであるように見えたのも無理からぬ所であったろう。この倒幕の中心が後鳥羽上皇であった。

承久の乱発端・経過

上皇は、土御門道親を謀臣として、まず鎌倉方と仲のよい関白・九条兼実を排し藤原基道を後釜にすえた。

そして上皇の寵妾・伊賀局や通親の死後は、代わって出てきた九条良経の義を入れ承元4年(1210)土御門天皇を退位させ、討幕に積極的な順徳天皇を即位させた。こうして王朝の故実風儀を興すかにみせかけながら、ひそかに院の藤原忠信・宗行・範茂らの近臣を集め、西国武士や脱落した御家人の結集を図った。

内乱の口火となったのは、承久元年(1219)幕府が実朝の跡を継ぐべき将軍職に皇族の東下を要請したのを上皇が「いずれ誰かを選んで下向させるであろうが、今はダメだ」と体裁よく拒否し、院に接近した御家人、仁科盛遠の所領の返付と、伊賀局領である摂津の倉橋、長江二荘の地頭の改補を命じたことである。

北条義時はこの時、朝廷側の強い態度に驚き、弟の時房に一千騎を与えて上洛させ、兼実派の道家の子で、当時わずか二歳の頼政を鎌倉殿に迎えることとし、上皇の要求をことごとく拒否したまま、鎌倉へ戻ってしまったのである。この事件は朝廷方の倒幕計画を挑発した。

上皇は、まず承久3年(12114月、万一を考慮して順徳天皇から仲恭天皇へ位を譲らせ、ついで514日、鳥羽城南寺に流鏑馬と称して畿内の兵1700余を集め、その翌日、義時追討の宣旨を下し、三浦胤義に命じて京都守護、伊賀光季を襲わせて血祭りにあげた。この第一報が鎌倉へ伝えられると、幕府では政子を中心として、遠江以東14ヵ国の兵を徴し、義時と大江広元に軍政を見させ、西上軍の部署と決めた。

総大将、北条義時が鎌倉を発った時は、わずか18騎であったが、たちまちふくれ上がり、「吾妻鏡」にはその数19万騎となったと記されている。これには多少誇張はあるにしても、上京するにつれて非常な大軍となっていったことは、まず間違いあるまい。東海道は時房と泰時、東山道は武田信光、小笠原長清、北陸道は北条朝時、結城朝広らをそれぞれ大将として、三方から攻めのぼらせた。

これを迎える朝廷方の軍勢は6万騎、これは西面の武士、関東方の脱略者、僧兵らの混成軍で、これを東海、北陸の二軍に分けて、幕府軍に対抗した。藤原秀康、三浦胤義、佐々木広綱らは美濃・尾張まで出陣し、宮崎定範、糟屋有久、仁科盛遠らは加賀へ出陣したが、両軍とも一撃で敗走するありさまであった。後鳥羽院上皇は、土御門、順徳上皇を連れて延暦寺へ難を避け、ついで賀画院に逃避した。

しかし、近臣武将の要求で最後の一戦を試みることになり、勢多、宇治を中心に広瀬、淀、牧野、芋洗などの要所に敗軍の諸将を配置して戦ったが、613日、時房の軍が勢多口で山田重忠を破り、翌日には泰時の軍勢が宇治川を渡って源有雅、藤原範茂らを潰走させ、朝廷軍は武将もほとんど召し取られて、なんらなすすべもなく四散した。こうして京都は幕府軍によって占領され、上皇は賀陽院にあって門を閉じ、承久の乱は二ヵ月で終わりをつげた。

幕府三上皇を流し、断固たる処置

この戦乱によって、京都は、かの保元・平治の乱、木曽義仲の乱入、源義経、範頼に率いられた東国武士の乱入と、相次いだ戦乱の傷の癒えないうちに、またもや焦土と化し、地獄さながらのありさまを呈した。承久記には、この時のもようが次のように記されている。

「板東方の兵ごも、深草・伏見・岡屋・久我・醍醐・日野・勧修寺・吉田・東山・北山・東寺・四塚に馳せ散り、馳せ散り、或は一・二万騎、或は四・五千騎、旗の足を翻して乱入す。三公・卿相・北政所・女房・局・雲客・青女・官女・青侍・遊女以下に至るまで、声を立て、をめき叫び、立ちまよふ。天地開闢より、王城洛中のかかる事いかでか有らじ、かの保元のむかし、又平家の都を落ちしも、是ほどにはなかりけり。名をもをしみ、家をもおもう重代の者共は、ここかしこの大将にさしつかはされて、或は討たれ、或はからめとらる。其の外は(略)いつ馬にも乗り、軍したるすべもしらぬ者どもが、或は勅命に駈り催され、或は見物の為に出来る輩ども、板東の兵に追いつめられたる有様は、唯鷹の前の小鳥のごとし、射殺し、切りころし、首をとる事若干なり、板東の兵、首一つづつとらぬものこそなかりけれ。」

後鳥羽上皇は615日、勅使を時房に送って討幕が自分の本意でないことを陳弁し、京都の秩序維持を依頼した。後堀川上皇をたて、院の近臣であった藤原基朝、平有範、藤原宗行らを斬首に処した。ついで後鳥羽上皇を隠岐、土御門上皇を土佐、順徳上皇を佐渡へ、それぞれ配流した。

幕府はこのような大胆な処置をすると同時に、彼らの所領3000ヵ所を没収し、軍功のあった武将に与え、これを新補地頭とした。これによって、いままで幕府の権力のおよばなかった、西国の所領もその権力、御家人を植えつけることになった。そして時房、泰時を六波羅に駐在させて、南北の探提として、事実上、西国全域を支配させた。これによって、朝廷方は完全に幕府に屈し、幕府は、名実ともに、全国支配の実権を握ったのである。

承久の乱の勝敗は、当時の人々の思想に大きな変動をもたらした。「一天万乗の大君」の軍勢は、哀れにも惨敗し、ひとたび発布すれば落花をも枝にかえすはずの宣旨は、今やその無力さを、万人の目の前に明らかにされた。「あずまえびす」とさげすんでいた武士たちの手で天皇は廃位され、三上皇は配流されるという、夢想だにしなかった驚くべき事件が、現実となって眼前に展開されたのである。

鎌倉中期以後に書かれた、この承久の乱のもようを伝える書の多くが、後鳥羽上皇の失政を攻撃するかたわら、天下の民生を安定させることこそが、政治の最高の目的であるとして、断固、朝廷を打倒した義時の正当性を主張していることは、大いに注目すべき点である。

念仏の熱烈な信仰もむなしく

この承久の乱は、かの法然の死後9年を経た事件である。本文には「法然は後鳥羽院の御宇、建仁年中の者なり」とあるが、建仁年中とは12011203年までの3年間を指したもので、建久9年に法然が選択集を著してから、ちょうど3年目、その邪義がようやく京方の上下に浸透して、既成宗教の比叡山をはじめ、興福寺等から、念仏禁止の声が次第に強くなって、中宮任子・上西門院・藤原経院・藤原兼実等の貴族が熱心な信徒となったため、京における法然一門の地位は、旭日の勢いであった。

こうした中で、後鳥羽院上皇を中心とした朝廷側の公家の中から、倒幕計画が企てられていったわけであるが、念仏への熱烈な信仰、真言等への祈禱等、邪義邪法の害毒のゆえに、日本国始まって以来の天皇方の敗北、三上皇の流罪というみじめな結果を出現したのである。

日蓮大聖人、富城入道殿御返事にいわく

「去ぬる承久年中に隠岐の法皇義時を失わしめんが為に調伏を山の座主・東寺・御室・七寺・園城に仰せ付けられ、仍つて同じき三年の五月十五日鎌倉殿の御代官・伊賀太郎判官光末を六波羅に於て失わしめ畢んぬ、然る間同じき十九日二十日鎌倉中に騒ぎて同じき二十一日・山道・海道・北陸道の三道より十九万騎の兵者を指し登す、同じき六月十三日其の夜の戌亥の時より青天俄に陰りて震動雷電して武士共首の上に鳴り懸り鳴り懸りし上・車軸の如き雨は篠を立つるが如し、爰に十九万騎の兵者等・遠き道は登りたり兵乱に米は尽きぬ馬は疲れたり在家の人は皆隠れ失せぬ冑は雨に打たれて緜の如し、武士共宇治勢多に打ち寄せて見ければ常には三丁四丁の河なれども既に六丁・七丁・十丁に及ぶ、然る間・一丈・二丈の大石は枯葉の如く浮び五丈・六丈の大木流れ塞がること間無し、昔利綱・高綱等が渡せし時には似る可くも無し武士之を見て皆臆してこそ見えたりしが、然りと雖も今日を過さば皆心を飜し堕ちぬ可し去る故に馬筏を作りて之を渡す処・或は百騎・或は千万騎・此くの如く皆我も我もと度ると雖も・或は一丁或は二丁三丁渡る様なりと雖も彼の岸に付く者は一人も無し、然る間・緋綴・赤綴等の甲其の外弓箭・兵杖・白星の冑等の河中に流れ浮ぶ事は猶長月神無月の紅葉の吉野・立田の河に浮ぶが如くなり、爰に叡山・東寺・七寺・園城寺等の高僧等之を聞くことを得て真言の秘法・大法の験とこそ悦び給いける、内裏の紫宸殿には山の座主・東寺・御室・五壇・十五壇の法を弥盛んに行われければ法皇の御叡感極り無く玉の厳を地に付け大法師等の御足を御手にて摩給いしかば大臣・公卿等は庭の上へ走り落ち五体を地に付け高僧等を敬い奉る。

又宇治勢田にむかへたる公卿・殿上人は冑を震い挙げて大音声を放つて云く義時・所従の毛人等慥に承われ昔より今に至るまで王法に敵を作し奉る者は何者か安穏なるや、狗犬が師子を吼えて其の腹破れざること無く修羅が日月を射るに其の箭還つて其の眼に中らざること無し遠き例は且く之を置く、近くは我が朝に代始まつて人王八十余代の間・大山の皇子・大石の小丸を始と為て二十余人王法に敵を為し奉れども一人として素懐を遂げたる者なし皆頚を獄門に懸けられ骸を山野に曝す関東の武士等・或は源平・或は高家等先祖相伝の君を捨て奉り伊豆の国の民為る義時が下知に随う故にかかる災難は出来するなり、王法に背き奉り民の下知に随う者は師子王が野狐に乗せられて東西南北に馳走するが如し今生の恥之れを何如、急ぎ急ぎ冑を脱ぎ弓弦をはづして参参と招きける程に、何に有りけん申酉の時にも成りしかば関東の武士等・河を馳せ渡り勝ちかかりて責めし間京方の武者共一人も無く山林に逃げ隠るるの間、四つの王をば四つの島へ放ちまいらせ又高僧・御師・御房達は或は住房を追われ或は恥辱に値い給いて今に六十年の間いまだ・そのはぢをすすがずとこそ見え候」(0993:06)。

この御文の後半に「王法に敵を作し奉る者は何者か安穏なるや」とあるが、これは当時の天皇の権力に対する一般的な考え方で、一度、天皇が命を発するや、如何なることも成就しえないことはないというのが、朝廷はもとより、関東の武士の間でも強く信じられていた。したがって、いざ戦いとなれば、どちらの軍に天皇の宣旨が下ったかによって、忠臣ともなり、朝敵ともなったのである。それらの武士が、最も恐れたものは、朝敵の汚名であり、一度それが冠せられるや、その当時はもとより、一族郎党の全滅を意味するものであった。

かの頼朝が石橋山に兵を挙げ、一旦は破れて落ちのびたが、関東の兵を、たちまちのうちに万余と集め得たのも、決局、皇子、以仁王の令旨を体しての挙兵という、最高の切り札があったからである。頼朝は挙兵から平家滅亡まで、たびたび以仁王の命旨であるとして、文書を発行しているが、その以仁王は、頼朝が挙兵する三月も前に、冶承4年(1180526日、宇治川の合戦で平氏の軍に敗れ、戦死を遂げているのである。しかし頼朝は最後までそのことを隠し、陣中に以仁王の令旨があるとして、全ての戦いに大義明文を立てたのである。

崩れ去った朝廷方の絶対的権威

したがって、この承久の乱の時も、朝廷方は、後鳥羽院上皇の宣旨が下った以上、近畿地方の武士はもとより、遠国の武士も続々と集まってくるであろうと予想したことは当然であるし、反対に幕府側にしてみれば、何よりも恐れていたのは、天皇の宣旨に背いて出陣することに、関東の武士が、躊躇するのではないかということであったわけである。

この時の朝廷方の空気は、院の宣旨も出たことであるし、あとは朝敵、北条義時の首が到着するのを待つばかりであるという、虫のよい話すら出ていた状態であった。これに対し幕府方は、はたして武士が集まってくるのか、また駆けつけた武士たちも、京都まで出陣する気があるかという、最悪の事態だったのである。「上皇の宣旨下る」の第一報が幕府に届けられた時、さすがの幕臣たちも動揺の色は隠せず、駆けつけた尼将軍、北条政子の涙を流しながらの演説を耳にして、初めて奮い立ったといわれる。

「吾妻鏡」によれば政子の演説は次のとおりである。「皆、心を一にしてうけたまわるべし。これ最後の詞なり、故右大将軍朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位といい、俸禄といい、その恩既に山岳よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志浅からんや。然るに今、逆臣の讒により非義の論旨を下さる。名を惜しむの族は早く秀康、胤義らを討ち取りて、三代将軍の遺跡を全うすべし。但し院内に参ぜんと欲するものは只今申し切るべし」

また「承久記」は「人々見たまわずや、むかし東国の平家が宮仕えせしには、かちは出しにて、のぼりくだりしぞかし、故殿鎌倉をたてさせ給ひて、京都の宮仕へもやみぬ、恩賞うちつづき、たのしみ栄えてあるぞかし、故殿の恩をば、いつの世にか報じつくしたてまつるべき。身のため、恩のため三代将軍の恩墓をば、いかでか京家の馬のひづめにかくべき、今おのおの申し切るめし、宣旨に随わんと思われれば、まず尼を殺して、鎌倉中を焼き払いて後、京へは参り給うべし」と記し、居合わせた武士たち全員が、涙さながらに一致団結を誓い、立ち上がったと筆は留めている。

しかしながら、いざ出陣となると、京まで一拠に攻めのぼれというものの、箱根、足柄の関で守りを固め、抗戦せよというものなど、意見はまちまちで、京まで出撃という結論に到達するまでには、かなりの時間を必要とした。この間のいきさつを「増鏡」では、次のように書いている。

「『今度の合戦は味方に後ぐらい点など一つもない。心をつよくもって奮戦せよ、勝たずにふたたび箱根、足柄の山を越えるな』と父・義時から激励されて出発した泰時は、翌日唯一人戻って来て、天皇みずから京方の先頭に立って進撃して来た場合の処置について尋ねた、義時は『よくぞ尋ねた。その際は天皇の神輿に弓を引くことはできぬ。鎧を脱ぎ、弓の弦を切って降参せよ、だがそれ以外の時には千人が一人になっても奮闘せよ』と答えた。このことばを聞き終わるや否や、㤗時はふたたび馬にムチをあてて西上した」

この時代のもようを伝えた書物はいくつかあるが、いずれも同工異曲のことが書かれており、一旦は朝廷に対する徹底的な抗戦を打ち出しながらも、なお何かすっきりしていない思いが、武士たちの心の中に残っていたことは事実だったのである。また、そのような状況であったりすればこそ、幕府側としては一刻も早く出陣して、野戦の中で彼らの団結をはかることが急務だったともいえる。

それだけに、戦乱が終わったときの朝廷方、京方の驚きと、幕府側の喜びは、想像をはるかに越えるものであったことは、いうまでもない。勝利の報を手にした鎌倉の義時は「今は義時思うことなし、果報は王の果報には猶まさり参らせたりけれ」と叫んだと書は伝えている。

京都は敗戦ということすら信じきれずにいたところ、幕府の処罰は予想をはるかに越えてきびしく、三上皇の島流しという、日本国始まって以来の大事件となった「あずまえびす」とさげすみ、バカにしていた東国の幕府が、おそれ多くも、天皇を思うがままに譲位させ、在位わずか70余日の天皇は廃位、後鳥羽上皇の兄、行助法親王が後堀川天皇として、即位させられたのである。かくして次第に弱まりつつあった天皇の権威は、この事件によって決定的に失墜してしまったといえよう。

仏法から見た承久の乱

天皇の勅宣を絶対的なものとして頼り、それが出ただけで勝ったのごとく喜び、西国からの応援をあてにしてみずから武器を取って立とうとしない無気力さ、それは文字どおり念仏の害毒と呼ばずして、なんといおうか。

のみならず、東寺等に仰せつけて、盛んに幕府方を調伏する真言の加持祈祷を行った。これまた、みずからを滅ぼす原因となったことは、大聖人が申されているごとく、還著於本人の理である。時代の変遷ともいえる。士気の違いともいえる。人心の動向の然ならしむところともいえる。だが、その最も根底にあって朝廷方の敗北を決定したものは、じつに謗法の害毒だったのである。

さらにわれわれは、承久の乱を中心とする時代の転換を、日蓮大聖人の御出現、法体の広宣流布の時代的背景の一つと考えるならば、それが現代の化儀の広宣流布の時代的背景に、あまりにもよく似ていることに不思議をすら覚える。

すなわち、一つは、従来の政治的権威、価値観の中心であった天皇制が政治上の権威も価値も失って、単なる象徴になってしまってことである。一つは律令制以来の旧い社会体制が壊れて守護・地頭制度が全国的に樹立されたこと、そして伝統的な貴族階級の主導権が失われて、いわば庶民・百姓の中から育ってきた武士階級がそれに代わったことである。

なお挙げれば際限がないが、この法体の広宣流布の時代的背景に対応して、現代もまた、天皇の権限が実質上、消滅し、国民の象徴とされるという大転換があった。そして、社会体制も変革され、民主主義の世となった。まことに多くの点で共通しているではないか。

これをもってしても、今こそ、正しく化儀の広宣流布の時であり、大聖人が「時を待つべきのみ」と申された。その時が来ていることを強く確信するものである。

この段の最後に、日蓮大聖人は「汝疑うこと莫かれ汝怪むこと莫かれ唯須く凶を捨てて善に帰し源を塞ぎ根を截べし」と仰せられている。なんと偉大な確信に満ちた獅子吼ではないか。このお言葉どおり、この世からいっさいの不幸の根源を絶滅すべく戦っている団体こそ、わが創価学会なのである。われわれは、この大聖人の御金言を学会の永久の指針として、さらに全地球上から、不幸の根源を絶滅させ、平和世界を実現するために、さらに前進していくことを堅く誓うものである。

 

 

第六段 (念仏禁止の勘状を奏す)

第一章 (法然の謗法を弁護す)

客聊か和いで曰く、未だ淵底を究めざれども、数其の趣を知る。但し華洛より柳営に至るまで、釈門に枢楗在り、仏家に棟梁在り。然るに未だ勘状を進らせず、上奏に及ばず。汝賎しき身を以て輙く莠言を吐く。其の義余有り、其の理謂無し。

 

現代語訳

客はいささか和いでいわく。

自分は、いまだその奥底までは究め尽くしていないが、いくらかおおせになった意味が了解できた。しかしながら、京都から鎌倉にいたるまで、仏教界には枢要な位置についている多くの名僧がいるが、そうした人びとでさえ、今日までだれ一人として、法然の謗法について幕府に訴えたものもなければ、天皇に上奏したものもいない。あなたはいやしい身分の人でありながら、たやすく念仏に対して醜い言葉を吐いているが、その義はいまだ議論の余地がたくさんあり、その理はいわれがない。

 

語釈

華洛

中国・周代の都を洛邑といい、後漢の都を洛陽といったところから、「洛」は都の代名詞のように使われるようになった。華洛とは花の都の意で、ここでは京都をさす。

 

柳営

将軍の陣営のことをいい、ここでは幕府の所在地である鎌倉をさす。「漢書」周勃伝に、前漢の将軍・周亜父が匈奴征討のため、細柳という所に陣をおいたが、軍規があまりにも見事に守られたので、文帝をして敬意を表せしめたとある。この故事から、一般に将軍の陣営をいうようになった。

 

枢楗

「枢」は、くるる、とぼそ。ひらき戸を開閉する軸となる所。「楗」は、かんぬき。いずれも、物事を動かす大切な仕掛け、要である。ここでは、中心的人物の意。

 

莠言

「莠」は、はぐさ。稲に似ているが、葉ばかりのびて実らない雑草。すなわち、善に似ているが、中身は悪なもの、まやかしものの喩え。莠言は醜悪の言。

 

講義

 前段のように、主人の理論整然たる破折を聞いて、客としても、当然、承服しにわけにはいかなくなった。ゆえに「客聊か和ぎて」と云われたのである。しかし、まだ法然への執着を断ちきることができず「日本には、たくさんの仏法権威者がいるが、いまだ、主人のいうようなかことは聞かない。あなたのような卑しい身分で、どうしてそんなことがいえるのか」と反駁するのである。

今日、創価学会の折伏、行動に対しても、同じような批判がよくなされる。ジャーナリズムの学会批判記事に、必ず大学の宗教学教授や宗教評論家が顔を出すのは、同じ心理にもとづくといってよい。編集者も、こうした評論家や教授を仏教の権威者と信じ込んでいるのである。しかして、彼らが創価学会のことを悪くいえば、学会は悪いのだと思い、よくいえば、よいのだと思うのである。そこには編集者も、読者も、ともに、主体的な判断はない。

これは、自己の理性、自己自身による観察、自分自身の判断力を放棄している姿である。人の眼を通してしか見ず、人が貼ってくれたラベルによってしか判断しようとしない。哀れむべき現象といわなければならない。

 

汝賤身を以て輙く莠言を吐く

 

これは、社会的地位が低いからといってバカにし、貧乏人だからといって、その言葉を取り上げないという、愚かな考え方の代表である。この考え方は、現代にも根強く残っている。

これがために、どれほど有為の人材が空しく埋もれてきたか、測り知れない。また、民衆の貴重な声が、不当に、残酷に封じられてきたことか。これに対して、優れた指導者とは、身分の貴賤上下に関係なく、有能な人材を見いだし、その能力を最も有効に発揮できる地位に配当する人だ。われわれは、全ての人が、その場を得て、思うがままに、社会の発展のために働ききってゆける社会を建設しなければならない。

また「学会員は仏教については素人だ」という説には、既に昭和30年の小樽法論で、完膚なきまでに打ち破られている。以来、いかなる宗派のいかなる学僧も、わが学会の教学陣に対しては、一言たりとも正面きって言えない状態である。哀れにも、物陰に隠れて、ヤセ犬が吠えるごとく、時たま悪口をいっているに過ぎない。

およそ、政治家はもとより、宗教評論家といえども、宗教についてはまったく無智であることを、民衆は知らなければならない。学者の中にも、歴史学的、思想史的に研究している人はある。だが、宗教の本質を知るためには、その宗教の精神を実践してこそ、正しい評価ができる。

民衆の苦しみを見ても、これを救おうという情熱もなく、よそ事に考えている人々に、どうして、民衆救済のために身命を抛って戦っている学会を批判をすることができようか。いかなる有名人も、仏法の慈悲の精神に立って、民衆救済のために折伏を行ずる、一学会員の足もとにも及ばないことを知るべきであろう。

また、客が「然るに未だ勘状を進らせず上奏に及ばず」というのは、まったく知らないからであって、これから第六段第四章に述べられるように、延暦寺・興福寺等から、数度にわたって上奏が行われている。また、法然の選択集に対する破折も、法相宗の明慧の摧邪輪、三井寺の実胤大僧正の浄土決疑集、天台宗の隆真法橋の弾選択集等があり、それぞれの立ち場から理論的に破折しているのである。浄土宗の僧たちが、敢えてこれを隠していたために、客はそれを知らなかっただけの話なのである。

 

 

第二章 (仏法の衰微を歎ず)

主人の曰く、予少量為りと雖も、忝くも大乗を学す。蒼蝿驥尾に附して万里を渡り、碧蘿松頭に懸って千尋を延ぶ。弟子、一仏の子と生れて、諸経の王に事う。何ぞ仏法の衰微を見て、心情の哀惜を起さざらんや。

 

現代語訳

主人のいわく。

自分は器も小さく、取るに足りない人間ではあるけれども、かたじけなくも大乗仏教を学んでいる。青蝿が駿馬の尾について万里を渡り、葛は大きな松に寄って千尋も延びるという譬えもある。たとえ器量は小さいとはいえ、仏弟子と生まれて諸経の王たる法華経を信ずる以上、どうして仏法の衰微するのをみて、哀惜の心情を起こさないでおられようか。

 

語釈

蒼蝿驥尾に附して万里を渡り

驥は一日に千里を走るという名馬、駿馬。「史記」伯夷伝・索隠に「顔淵は篤学なりと雖も、驥尾に付して行い益々顕る」とある。すなわち、孔子が一番信頼していた弟子の顔淵は、熱心に学問に励む人物であった。しかし、蒼蠅が驥の尾に附いて遠くまで行くように、孔子の名声につれて彼の立派な行ないが世に知られ、有名になったのである、との意。「蒼蠅驥尾に付して千里を致す」という。すぐれた人物の後につき従っていれば、自分の能力以上のことが成し遂げられることのたとえ。一般に、人と行動を共にするとき、謙遜の気持ちを込めて使う。日寛上人の立正安国論文段には「応に千里というべきことなれども、文を彩って万里というなり」とある。

 

講義

客の「汝賎身を以て輙く莠言を吐く」という増上慢の言葉に対して、自分は小さな器で取るに足らない者であると、あくまでも謙遜しながら、だが、かたじけなくも大乗仏法を学び、仏弟子として諸経の王たる法華経を信ずることができた。しかして、よくよく仏教をみるに、邪義のみが栄えて正法が衰微している。この状態をみて、どうして嘆かずにおられようかと、自身の心情を吐露されるのである。

予少量為りと雖も忝くも大乗を学す

前章の「汝賎身を以て輙く莠言を吐く」という客の言葉に対して、徹底的に破折されたのである。すなわち、ここで、人間の価値はなんで決まるかということを、明らかに示しているのである。

人は、意識するしないとにかかわらず、貧富・学歴・血統・身分あるいは地位等で、人の価値を決めようとする傾向をもっている。半面、それらのいずれをも、人間の価値判断の根本の基準とすることが間違いであることを知っている。金持ちだから偉いと誰かが言ったとすれば、大部分の人は反発するであろう。それを認める人は、拝金主義者の、ごく異常な部類とみなされるのがおちである。

学歴についても、あの人は最高学府を出たから偉いという考え方は、決まって反発される。血統しかり、身分、地位しかりである。だが、理屈の上ではこれらを否定しても、現実にそうした場面にぶつかると、無意識のうちに、貧乏人より金持ちを、小学校中退より大学出を、平凡な生まれより名家の子を、小使いより社長を、ただそれだけの理由でそれぞれ尊ぶ。

そこには明やかに、矛盾がある。この矛盾はどこから生じたかといえば、結論的にいって、人間の価値を決める明確な判断の基準がないことに帰着する。しかして、この一事が、愚昧で性悪な人間を大事なポストに置いて、その機構を停滞させ、その機構の中にいる人々を苦しませ、ひいては人間社会全体の発展と幸福を阻害する結果を生んでいる。

ゆえに、いかなる基準をもって人を判断し、適材適所を実現していくかという将軍学、あるいは指導者学は、この判断基準を体得した人であって初めて顕現される。しからば、その基準は何か。すなわち、人の価値はいかなる法をもっているかで決まるのであり、大乗を学する人こそ最高の人格者なりといえるのである。このゆえに、法華経を換言すれば、現代の最高の将軍学であり、指導者学といえる。

人にはそれぞれ、独自の思考・発言・行動・態度の基準をもっている。まったく何の基準もなく、規則性もなく、デタラメであるということは、極度の精神錯乱者以外にありえないのである。平常人の場合、ある者はきわめて本能的な衝動によることもある。子供のころからの、躾によることもあろう。また、ある者はその人が自分なりに築いた人生観・社会観に則った行動であることもある。

その行動が、本人の意識のどの程度の深さから出てきたものかにかかわりなく、それらを一貫する一つの共通的な様式、傾向がある。それは意識の最も深層の部分に連なっていくのであり、これを、仏法の上からは法というのである。

さまざまな意見、さまざまな行動をおこしながらも、その中に、その人らしさがにじみ出ているのもこのためである。利己的な物の考え方が、生命の奥深く染まりついている人は、自然とその言葉、行動、姿の中に、その本質的な傾向がにじみ出ているのは、まことに不思議である。

したがって、その人がいかなる価値創造をなすことができるか、どれ程の力があるかということは、この法の勝劣、浅深によって決定されるのである。今、本文で「大乗を学す」と仰せられるのも、大乗という最高の法を持っているがゆえに、最も尊いのであるとの御確信である。ここで大乗とは、五重の相対の原理に照らして、法華経文底独一本門の大法であり、三大秘法の南無妙法蓮華経にほかならない。

この道理を示された御文は、御書の各所にあり枚挙にいとまがない。「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し」(1578:12)と。

また、宝軽法重事には、釈尊・天台・妙楽の言葉を引かれている。

「妙法蓮華経第七に云く『若し復人有つて七宝を以て三千大千世界に満てて仏及び大菩薩・辟支仏・阿羅漢に供養せん、是の人の所得の功徳も此の法華経の乃至一四句偈を受持する其の福の最も多きには如かじ』云云」(1474:01)と。

すなわち、金・銀・瑠璃等の七宝を三千大千世界に満てて仏・菩薩・辟支仏・阿羅漢に供養する功徳より、法華経すなわち御本尊を受持する功徳のほうがはるかに大きいとの意である。世に金持ちと称する人のごときは、妙法受持の人に較べれば、まったく取るに足らない存在ではないか。

また天台大師の法華文句の十に上の経を釈していわく「七宝を四聖に奉るは一偈を持つに如かずと云うは法は是れ聖の師なり能生能養能成能栄法に過ぎたるは莫し故に人は軽く法は重きなり」と。

すなわち、妙法・御本尊を持つ功徳が、なにゆえこのように大きいかといえば、御本尊は三世十方の仏・菩薩・辟支仏・阿羅漢の師であるが故であると釈されているのである。

妙楽大師は、天台大師の文をさらに釈して、法華文句記の十にいわく「父母必ず四の護を以て子を護るが如し、今発心は法に由るを生と為し始終随逐するを養と為し極果を満ぜしむるを成と為し能く法界に応ずるを栄と為す、四つ同じからずと雖も法を以て本と為す」と。

すなわち、仏菩薩等の四聖が最初に発心したのも、法すなわち御本尊を根本としてであり、途中、修行したのも御本尊によって修行したのである。得脱したのも御本尊の力によってであり、得脱してのち、悟りの境涯を楽しみ、衆生を化導するのも、同じく御本尊を根本とするとの意である。

したがって、この御本尊を持った人は、最も尊いのである。大聖人の宝軽法重事の文にいわく「法華経の最下の行者と華厳・真言の最上の僧とくらぶれば帝釈と援猴と師子と兎との勝劣なり、而るをたみが王とののしればかならず命となる、諸経の行者が法華経の行者に勝れたりと申せば必ず国もほろび地獄へ入り候なり」(1475:08)と。

四信五品抄にいわく、「問う汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何、答う此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず将た又真言等の諸宗の元祖・畏・厳・恩・蔵・宣・摩・導等に勝出すること百千万億倍なり、請う国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ進んで過去を尋ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり豈熈連一恒の者に非ずや退いて未来を論ずれば八十年の布施に超過して五十の功徳を備う可し天子の襁褓に纒れ大竜の始めて生ずるが如し蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ」(0342:06)と。

ゆえに、この妙法を受持する人は、三世十方の仏・菩薩の加護を受け、絶対に崩れることのない幸福生活を営むことができるのである。もし、この人を迫害して悩まし、苦しめ、あるいは悪口をいう者があれば、大罰を受けなければならない。経にいわく、

「若し復是の経典を受持せん者を見て、其の過悪を出さん。若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん、乃至諸の悪重病あるべし」と。

われら妙法を受持する者は、この偉大な法の恩を感じ、報恩の誠を捧げていかなければ、不知恩の輩となってしまうのである。

弟子一仏の子と生れて諸経の王に事う、何ぞ仏法の衰微を見て心情の哀惜を起さざらんや

この言葉に示された、大聖人の御心情こそ真に仏法を学し、仏道修行を志す者の模範であり鑑である。

今、大聖人が「弟子一仏の子と生れて」と申されているのは、外用の立ち場であり、われわれ仏道修行を志す者のあり方を教えられているのである。大聖人の御内証を拝する時、大聖人こそ人法一箇の御本仏であられることは明白である。

御義口伝にいわく、

「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」(0752:第一 南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事:04

南無妙法蓮華経は一切の能生能養能成能栄の師であり、それはまた、末法の法華経の行者、日蓮大聖人の宝号でもある。大聖人こそ人法一箇の御本仏なりとの意である。

また、諸法実相抄にいわく、

「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く『如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし』」(1358;11)。

御義口伝下にいわく、

「自受用身とは一念三千なり」(0759:第廿二自我偈始終の事:02)と。

日蓮大聖人の正しい仏法を知らない人は、仏といえば、3280種好の荘厳な様相を整えている姿を思うであろう。だが、そのような色相荘厳は、仏の生命のすばらしさを衆生に理解させ、渇仰させるために示された図式にほかならない。真実の仏は十界互具・一念三千の当体であり、凡夫相そのままである。

別しては、日蓮大聖人が末法の仏であり、総じては、御本尊を受持する人は、すべて仏である。その仏性の湧現は、ひとえに仏の弟子として、護法のために不惜身命の戦いをなすことできまるのである。「仏法の衰微を見て心情の哀惜を起す」人こそ、仏弟子として真実の資格ある人といえよう。

わが創価学会の精神の骨髄も、この一事に尽きる。末法民衆救済の唯一の正法を護持した創価学会は、戦時中からの大弾圧を受けて、正に衰微のどん底であった。戸田前会長は、この創価学会を再建させ、興隆して、最高の正法たることを世界に知らしめるため、一つには日蓮大聖人の御金言を虚妄にしないため、しかして、全民衆を苦悩の底から救い出さんために、立ち上がられたのである。

恩師が第二代会長に就任された、昭和26年(1951)以来14年間、学会の発展は隆々たるものがあり、全世界の注視の的となるに至った。その原動力は、まったく護惜建立の精神に尽きるのである。だが、大聖人の御金言を実現する道はいまだ遥かに遠い。世界広布の前進は、休みなく続けられなければならない。

聖愚問答抄にいわく、

「汝実に後世を恐れば身を軽しめ法を重んぜよ是を以て章安大師云く『寧ろ身命を喪ふとも教を匿さざれとは身は軽く法は重し身を死して法を弘めよ』と、此の文の意は身命をば・ほろぼすとも正法をかくさざれ、其の故は身はかろく法はおもし身をばころすとも法をば弘めよとなり」(0496:10)と。

信心の究極の姿は死身弘法である。法難にあって、華と散っていった熱原三烈士しかり、牧口初代会長しかり、また、今、順縁広布の時を迎えたわれわれは、このような法難に遭なくとも、広布達成をめざし、民衆救済のため、一生涯を捧げて前進しゆくことが、不惜身命・死身弘法の姿であると断言するものである。

 

 

第三章 (謗法訶責の精神を説く)

其の上、涅槃経に云く「若し善比丘あって、法を壊ぶる者を見て、置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せば、是れ我が弟子、真の声聞なり」と。余、善比丘の身為らずと雖も「仏法中怨」の責を遁れんが為に、唯大綱を撮つて粗一端を示す。

 

現代語訳

そのうえ涅槃経には「もし善比丘が仏法を壊るものを見ても、これをそのまま見過ごして折伏もせず、追放もせず、その罪を責めもしないでいるならば、その人は、たとえ善比丘であっても、仏法の中の怨敵である。もし、よく追放し、強折し、その罪を責めるならば、これこそわが弟子であり、真の声聞である」と説かれている。自分は善比丘の身ではないが、「仏法の中の怨」と責められるをのがれるために、ここではただ大筋だけを取り上げて、ほぼその一端を示すのである。

 

語釈

真の声聞

声聞は、梵語シュラーヴァカ(śrāvaka)の訳で、仏の声を聞く者の意。仏の教えを聞いて覚りを開くことを目指す出家の弟子をいう。六道輪廻から解脱して涅槃に至ることを目指す。声聞は出家教団に属して修行するが、これに対し教団に属することなく修行し涅槃の境地を目指す者を梵語でプラティエーカブッダ(pratyeka-buddha)といい、辟支仏と音写し、縁覚と訳す。声聞と縁覚をあわせて二乗といい、大乗の立場からは、自身の解脱だけを目指し他者の救済を図らないので非難された。法華経にいたって舎利弗、迦葉等々、声聞の十大弟子が得道する。そして、歓喜した四大声聞の領解の文にいうのに「我等今、真に是れ声聞なり。仏道の声を以て、一切をして聞かしむべし。我等今、真に阿羅漢なり。諸の世間、天・人・魔・梵に於て、普く其の中に於て、応に供養を受くべし」と。すなわち、真の声聞とは、仏の弟子として、仏の正法を民衆に聞かせ、後世に起こしていく人である。

 

講義

この章は「仏法の衰微を見て心情の哀惜を起さざらんや」と前章に述べられたのに加えて、さらに涅槃経の文を引いて、法然をはじめとする邪義を破折せねばならぬ所以を説き示されている。

経文中の「若し善比丘あつて法を壊ぶる者を見て置いて 呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子・真の声聞なり」の経文は、仏法が滅び、民衆が不幸に陥るのを防ぐために、二つの方程式を教えている

第一は、仏法を破る邪説を立てた者を捨てておくことは仏法中の怨である。

第二は、仏法を破る邪説の者を責めるものは、真の仏弟子である。

仏法を滅ぼすものは、外部からの権力等によって寺や搭を破壊することよりも、内部にあって、仏法に名をかりた邪説を立てる者である。師子身中の虫とはこれである。ゆえに、仏が最も厳しく戒められたのは、仏法の中において、仏法を乱す者、すなわち謗法であった。その原理は、仏法以外の団体、社会、また個人の生命についても当てはまる。外部より殺される人間よりも、自己の不節制、不注意、病気等で死ぬ人間が圧倒的に多いことも、この原理の証左といえよう。したがって、また、法を破る者を見て放置するならば、その放置した者は重罪を犯したと同じ結果になるのである。

日蓮大聖人は諸御書において、謗法の者や、謗法の行為そのものを堅く戒められ、謗法を責めなければ、成仏することはおろか、大罰を受けると教えられている。

阿仏房尼御前御返事にいわく「少しも謗法不信のとが候はば無間大城疑いなかるべし」(1308:08)と。これは、おのおのの心に巣食う謗法不信を戒められた文である。

さらに、曾谷殿御返事には、涅槃経の今の文を引かれて、「此の文の中に見壊法者の見と置不呵責の置とを能く能く心腑に染む可きなり、法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし、南岳大師の云く『諸の悪人と倶に地獄に堕ちん』云云、謗法を責めずして成仏を願はば 火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし」(1056:06)と仰せである。

すなわち、謗法を見ながらこれを責めなければ、自分が御本尊を拝んでいても、謗法の者と同じく、無間地獄に堕ちるのである。折伏を嫌って行じない人は、よくこの御文を拝すべきであろう。

しかしながら、だからといって、非常識な行動をとることを勧めるのではない。道を歩いて、謗法の者と行き会ったからと、見知らぬ人に折伏しても、相手は怒るのみで、聞かないであろう。あくまでも身近な人で互いに知っている人を、座談会等の場で諄々と話し、謗法の邪義を納得させていくことが肝要である。

開目抄にいわく、

「慈無くして詐り親しむは是れ彼が怨なり」(0236:13)。

折伏活動こそ真の慈悲の振舞い

折伏は慈悲の行為である。「彼が為に悪を除く」の文のごとく、相手の心に巣くう悪を断ち、その人を根底より救いきる厳愛の振舞いである。

現今の社会には、あまりにも慈悲の欠如が著しい。利己の人のみ充満し、最も民衆の幸福を願わなければならないはずの政治家や指導階層は、おのおのの野心を満たすことばかり考えているではないか。

互いに憎しみ合い、嫉妬し合いながら、それでいて、言葉だけ和らげてお世辞を言い、甘言で相手の心に取り入ろうとする。しかも心の中は、貪欲に満ち満ち、他人の幸福など、少しも考えないのである。これ「慈無くして詐り親しむ」姿であり、欺瞞も甚だしいではないか。

このような、欺瞞のうずまく社会にあって、慈悲に立脚し、心の底から真実を主張してやまぬ折伏活動こそ、仏法の方程式に適ったものであり、かつ時代をリードしていく、最高善の振舞いなのである。

まことに、折伏こそ民主主義の先駆をなすものであり、真の寛容なる振舞いであり、民衆に真実の幸福を与えていく源泉である。すなわち、折伏は、あらゆる人々が平等に尊厳なる妙法の当体であるとの前提にもとづいて行なわれているのである。妙法の当体でなければ、なんで折伏する必要があろうか。

われわれが折伏するのは、相手が駄目な人間であると、非難したり、悪口を言ったりするものではない。事実は、まったく逆であり、相手のもつ邪法を打ち破り、邪見、偏見におおわれていた、清浄無染にして、力強い、尊厳極まりなき、妙法蓮華経という大生命をあらわさんがためである。これ最も相手を尊敬する行為であり、かつ生命の尊厳を基調とする民主主義の先駆をなすものではないか。しかもまた、いかなる迫害にも屈することなく一切衆生の幸福を願って忍耐強く折伏していくことは、最大の寛容ではないか。

今慎んで日蓮大聖人の御振舞いをみるならば、そこに獅子王のごとき勇姿を見るとともに、一切衆生を救う大慈悲が伺えるのである。

日蓮大聖人は、あらゆる三類の強敵と戦い、邪宗邪義を破折し、正法正義を打ち立てられた、小松原の法難、松葉ヶ谷の焼き打ち、伊豆および佐渡への流罪、竜の口法難等々、その他、大小の難は数知れず起こった。だが、大聖人は、それらの迫害にも、一切衆生の幸福を願って微動だにすることなく、いよいよ御本仏の大確信に立たれたのであった。しかも、迫害した人々を恨むどころか、むしろ、それらの人々を善知識と呼ばれたのであった。

種種御振舞御書にいわく、

「日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信・法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と平左衛門尉・守殿ましまさずんば争か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ」(0917:07)と。

さらに、あのように大聖人を迫害した北条執権に対しても「願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん」(0509:05)とまで仰せられたのであった。これこそ、御本仏の大慈悲であった。

折伏に暴言、迫害は覚悟の上

創価学会の折伏活動も、あくまでもこの仏法の精神、大聖人の御振舞いに立脚しているのである。

だが、貧・瞋・癡の三毒充満し、利己の人のみ多き社会にあっては、人々のために尽くしていこう、民衆のために戦おうという純粋な行為がそのまま受け止められないのである。

よく日蓮大聖人を鎌倉時代の一介の僧侶ぐらいに考えて、その行動が過激に過ぎたと批判したり、また、大聖人の弟子たる、わが創価学会の行動、折伏をファシズム等にむすびつけて考えるものがいる。だが、これらは、いずれも釈尊に始まる大仏法の流れを、何も知らない者の口にする言葉であり、貧しい人、苦悩に打ちひしがれている人々を救おうとする慈悲の精神など、微塵も理解できない人々である。相手が仏であれ、孔子であれ、帝王であれ、英雄であれ、あるいはシェークスピアであれ、ゲーテであれ、批判することは容易である。いわんや道理の通らぬ悪口をいうことなら、小学生でもできる。道理を窮め、根底にある精神を理解したうえで批判することは、並々ならぬ困難である。まして、自分が批判の対象としているこれらの先哲の遺業を、はたして自分にもできるかとうえば、とうていできる道理がない。したがって、相手が偉大であれば偉大であるほど、謙虚にその教えをまず聞くべきであろう。これができぬ人こそ、まさに偏狭であり不寛容であり、排他主義であり、傲慢であり、利己主義ではないか。

しかしながら、折伏をすれば、三障四魔、三類の強敵が競い起こることは必定である。

大聖人は開目抄にいわく、

「日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり。

これを一言も申し出すならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし、いはずば・慈悲なきに・にたりと思惟するに法華経・涅槃経等に此の二辺を合せ見るに・いはずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕べし、いうならば三障四魔必ず競い起るべしと・しりぬ、二辺の中には・いうべし、王難等・出来の時は退転すべくは一度に思ひ止るべしと且くやすらいし程に宝塔品の六難九易これなり」(0200:09

この御文は、いっさいの不幸の原因は、根本的には邪宗にある。これを知っているのは、日蓮大聖人ただ一人である。ゆえに、これをいわなければ無慈悲となり、自分も無間地獄の大罰をうけるであろう。いえば必ず魔が競い起こって迫害を加えられるであろう。この二つの板ばさみの中にあって、遂に、どんなに難があってもいわなければならない、と大聖人は決意されたのである。

されば、われわれも、あらゆる難や妨害は覚悟のうえで、日蓮大聖人の弟子として、折伏はどうしてもはたさなければならない使命である。

一時、この「折伏」の語が一般化して、信心していない人々の間で、何か強引に者を押しつけられた時など「折伏された」等と使われたことがあったが、折伏の真の意味は、相手の邪宗邪義に執着している心を破折し、この日蓮大聖人の正義に屈服させることをいうのであって、大聖人門下生として、最も貴く、気高い行為なのである。

また、折伏行は、けっしてやさしい行為ではなく、特に末法においては難事中の難事であると、諸御書に教えられている。宝塔品の六難九易とは、末法において法華経をたもち、折伏することがいかに大変なことであるかを説かれたのも、次のとおりである。

「諸の善男子よ、各おの諦らかに思惟せよ、此れは為れ難事なり、宣しく大願を発すべし、諸余の経典は、数恒沙の如し、此れ等を説くと雖も、末だ難しと為さず、若し須弥を接って、他方の無数の仏土に擲げ置かんも、末だ難しと為すに足らず、若し足の指を以て、大千界を動かし、遠く他国に擲げんも、亦、末だ難しと為さず、若し有頂に立って衆の為に、無量の余経を演説せんも、亦、末だ難しと為さず、若し仏の滅後に、悪世の中に於いて、能く此の経を説かば、是は則ち難しと為す、仮使い人有って、手に虚空を把って、以て遊行すとも、亦、末だ難しと為さず、我が滅後に於いて、若しは自らも書き持ち、若しは人をしても書かしめば、是れは則ち難しと為す、若し大地を以て、足の甲の上に置いて、梵天に昇らんも、亦、末だ難しと為さず、若し大地を以て、足の甲の上に置いて、梵天に昇らんも、亦、末だ難しと為さず、仏の滅度の後に、悪世の中に於いて、暫くも此の経を読めば、是れ則ち難しと為す、仮使い劫焼に、乾ける草を担い負いて、中に入って焼けざらんも、亦、末だ難しと為さず、我が滅度の後に、若し此の経を持って、一人の為めに説かば、是れは則ち難しと為す、若し八万四千の法蔵、十二部経を持って、人の為に演説して、諸の聴かん者をして、六神通を得せしめんも、能く是の如くすと雖も、亦、末だ難しと為さず、我が滅後に於いて、此の経を聴受して、其の義趣を問わば、是れは則ち難しと為す、若し人は法を説いて、千万億無量無数の、恒沙の衆生をして、阿羅漢を得、六神通を具せしめんも、是の益有りと雖も、亦末だ難しと為さず、我が滅度に於いて、若し能く、斯の如き経典を奉持せば、是れは則ち難しと為す」

すなわち、この経文においては六つの難事と九つの易行とを掲げ、末法における折伏行が大変であることを教えられている。

六難、 広説此経難・書持此経難・暫読此経難・少説此経難・聴聞此経難・受持此経難。

九易、 余経説法易・須弥擲置易・世界足投易・有頂説法易・把空遊行易・足地昇天易・大火不焼易・広説得通易・大衆羅漢易  である。

この九易のうち、どれ一つを取り上げても、けっしてでき得ることではないが、折伏行はそれ以上にむずかしいというのである。これほどの難事行であるゆえ、釈尊は薬王・弥勒・観音等の迹化の菩薩方には末法の化導を付属せず、日蓮大聖人を上首とする本化地湧の菩薩を大地より召し出して、付属されたのである。

折伏こそ宿命打破成仏の最直道

折伏を行ずると必ず悪口をいわれ憎まれ嫌われる。これほどの大事でありながら誰一人として折伏されたことを喜ぶものはいない。大聖人は曾谷殿御返事に「此法門を日蓮申す故に忠言耳に逆う道理なるが故に流罪せられ命にも及びしなり、然どもいまだこりず候」(1056:13)と仰せである。

折伏するわれわれは、謗法の者の迷蒙を開き、仏果を得させようと努力するのであるが、折伏される方は、そうは取らず「忠言耳に逆う」のである。だが、先の御文の「いまだこりず候」こそ、わが学会の折伏精神である。広宣流布をめざして、われわれは悪口をいわれようが、迫害されようが「いまだこりず候」と、莞爾として折伏行にいそしんでいかなければならない。

創価学会がなぜ強いかといえば、それは創価学会の目的が全民衆の幸福にあるからである。われわれには、なんの野心もない。権力に迎合する必要もない。右でもなければ左でもない。われわれは中道をまっしぐらに進むのである。されば、折伏の功徳もまた絶大である。

しかして、折伏は、御本仏、日蓮大聖人の使いとして、如来の事を行ずる行為である。ゆえに御本仏の冥々の加護が、日常の生活に現われると同時に、折伏の功徳によって強い生命力があふれ出てきて、世の中のことを処するに勇気が出るとの、以信代慧の原理により、御本尊を信ずる信心の智慧と化するので、この三拍子そろって、日常生活がぐんぐん改まってくるのである。

これこそ経文にある「現世安穏・後生善処」の姿であり、また、折伏が成仏の最直道であり、必ず成仏できるという証拠でもある。

およそ信仰していなくても、体が丈夫である。金に困らない等々、部分的な幸福条件を備えた者はいくらでもいる。だが、それらは、部分的であり、一時的な幸福であって、絶対的な幸福とはいえない。ゆえに、その半面には必ず不幸な条件をもっているのが現実である。これらの幸・不幸の現象は、根源をたどれば、過去世からの宿命である。日蓮大聖人の仏法は、この低い相対的幸福の境涯から脱却し、最高の絶対的幸福境涯に転換する仏法である。折伏を行ずることによって過去の宿習が一度に出るので、折伏すれば種々の難が競い起こるのである。この難によって宿命を打破していくのであるから、折伏の途上において種々の難に被ることは、むしろ喜びとしなくてはならないのである。

佐渡御書にいわく、

「此八種は尽未来際が間一づつこそ現ずべかりしを日蓮つよく法華経の敵を責るによて一時に聚り起せるなり 譬ば民の郷郡なんどにあるにはいかなる利銭を地頭等におほせたれどもいたくせめず年年にのべゆく其所を出る時に競起が如し斯れ護法の功徳力に由る故なり等は是なり、法華経には「諸の無智の人有り悪口罵詈等し刀杖瓦石を加うる乃至国王・大臣・婆羅門・居士に向つて乃至数数擯出せられん」等云云、獄卒が罪人を責ずば地獄を出る者かたかりなん当世の王臣なくば日蓮が過去謗法の重罪消し難し日蓮は過去の不軽の如く当世の人人は彼の軽毀の四衆の如し人は替れども因は是一なり」(0960:07)。

不惜身命の信心で真実の幸福へ

以上のごとく、日蓮大聖人も、強き折伏によって過去の重罪を消滅する姿を示されたのである。われわれもまた、大聖人の教えのごとく、折伏を行ずることによって、過去の罪を消し、宿命を転換することができるのである。

ゆえに、折伏に際して競い起こってくる大小の難に対しては、不自惜身命の強い信心によって、これを打ち破ってこそ、絶対的な幸福境涯が得られるのである。

撰時抄にいわく「法華経の八の巻に云く「若し後の世に於て是の経典を受持し読誦せん者は乃至諸願虚しからず、亦現世に於て其の福報を得ん」又云く「若し之を供養し讃歎すること有らん者は当に今世に於て現の果報を得べし」等云云、此の二つの文の中に亦於現世・得其福報の八字・当於今世・得現果報の八字・已上十六字の文むなしくして日蓮今生に大果報なくば如来の金言は提婆が虚言に同じく多宝の証明は倶伽利が妄語に異ならじ、謗法の一切衆生も阿鼻地獄に堕つべからず、三世の諸仏もましまさざるか、されば我が弟子等心みに法華経のごとく身命もおしまず修行して此の度仏法を心みよ」(0291:05

佐渡御書にいわく「強敵を伏して始て力士をしる、悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し、これおごれるにはあらず正法を惜む心の強盛なるべしおごれる者は必ず強敵に値て おそるる心出来するなり」(0957:08)。

御義口伝にいわく「身とは色法・命とは心法なり事理の不惜身命之れ有り、法華の行者田畠等を奪わるは理の不惜身命なり命根を断たるを事の不惜身命と云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は事理共に値」(0747:第二不惜身命の事:02)。

これらの御文は、ともに不惜身命の信心こそ、真実の幸福への直道であることを教えられたのである。

信心に限らず、一般に、ある目標に向かって、あらゆる難関と戦い、身命を打ち込んでいる人の生命には、躍動があり、リズムがある。またその姿は美しくも、すがすがしくもある。発明家が研究に没頭するのも、医者が病人をなおすために懸命になっている姿も、学者が真理の探究に身を打ち込んでいる姿等々、いずれも不惜身命に通ずるものである。だが、一方では浅きもの、低級なもの、誤れるものに、身命を抛つほどの哀れなことはない。

最高のものに帰命していく人生こそ、真実の不惜身命である。すなわち、大御本尊に帰命することであり、全民衆の幸福のために、いかなる三類の嵐があろうが、身命を抛って戦うことが、最高に偉大なる人生であり最高に強い人生である。誰をも恐れる必要もないし、誰にこびへつらう必要もない。いっさいの振舞いがそのまま自体顕照であり、ゆうゆうたる人生であり、厳のごとく堂々としており、太陽のごとく光輝に満ち、大空の無限に広がりゆくごとく希望に満ちた人生である。

 

 

第四章 (法然等、上奏により流罪されるを示す)

其の上、去ぬる元仁年中に延暦・興福の両寺より度度奏聞を経て、勅宣・御教書を申し下して、法然の選択の印板を大講堂に取り上げ、三世の仏恩を報ぜんが為に、之を焼失せしむ。法然の墓所に於ては、感神院の犬神人に仰せ付けて破却せしむ。其の門弟、隆観・聖光・成覚・薩生等は遠国に配流せられ、其の後未だ御勘気を許されず。豈、未だ勘状を進らせずと云わんや。

 

現代語訳

そのうえ、さる元仁年中に延暦寺と興福寺から、たびたび法然の邪義を禁止して欲しいとの上奏がなされ、その結果、それぞれ勅宣ならびに御教書が申し下されて、法然の選択集の版木を比叡山の大講堂に取り上げ、三世の仏恩を報ずるため、これを焼き捨てさせた。また法然の墓は、感神院の奴僕である犬神人におおせつけて破却させてしまった。しかして、法然の高弟である隆観・聖光・成覚・薩生等は遠国に配流されてしまったのであるが、その後、いまだにその御勘気が許されていない。どうしてあなたの質問のごとく、法然について、いまだだれも朝廷や幕府に対して、勘状を提出した者がないといえるか。

 

語釈

御教書

平安時代に三位以上の公卿が出す文書のこと。後、幕府・将軍の文書も執権・管領がこの様式で出すようになった。

 

感神院

京都市東山区祇園町にある八坂神社の古称。元の祭神であった牛頭天王が祇園精舎の守護神であるとされたことから、祇園社ともいった。創建については諸説ある。十世紀ころは観慶寺と称し、その中に感神院があったと思われる。初めは興福寺の管下にあったが、後に延暦寺別院となった。明治になり廃仏毀釈によってこの名称は廃止され、八坂神社となった。

 

犬神人

本来の名称は「いぬじにん」「いぬじんにん」と呼ぶ。宮司などの社家に支配され、社務の雑役にあたった。強訴に際しては神木、神輿を奉じてその主力となり、寺院の僧兵に近いものであった。八坂神社などに属し、とくに沓や弓弦などを製作したり、境内の掃除や不浄のものを取り捨てる役割を担った。弓弦を売り歩く時に「弦召そう」との売り声を用いたので「つるうり」「つるさし」「つるめそ」「つるめそう」などと呼んだ。八坂神社は、慶応四年まで、感神院または祇園社と称していた。

 

隆寛

鎌倉時代初期の浄土宗の僧。長楽寺流の祖。字は道空で、無我と号した。藤原資隆の第三子。幼くして延暦寺に登り、伯父の皇円に天台宗義を学び、座主慈円に師事した。浄土の教義に心を引かれ、法然の門に入って念仏の法を学び、選択集の書写を許された。京都長楽寺に住し、多念義を主張した。定照の「弾選択」に対して「顕選択」を著したことがきっかけとなり、勅令によって奥州へ流されたが、途中の相模国飯山に留まり、その地で没した。

 

聖光

浄土宗鎮西派の祖。諱は弁長。字は弁阿。聖光房と号す。初め比叡山で学んだが、後に法然に出会って啓発され筑紫へ下り、筑後国に善導寺を建て念仏を弘めた。「徹選択集」などを著す。

 

成覚

成覚房幸西のこと。鎌倉時代初期の浄土宗の僧。初め比叡山で天台学を学んだが、36歳の時、法然に帰伏。称名念仏の数によらず、一念によって浄土に往生できるという一念義を主張したため教団内から非難され、法然らとともに迫害に遭い、阿波国へ流罪となったが配流を免れ、後に壱岐へ流罪となった。しかし、この時も配所に赴かなかったようであり、晩年は下総で寺を営み布教に努力したといわれる。

 

薩生

生没年不明。 法然の弟子の成覚房幸西に従って一念義を学び、後に西山派の善慧房証空に師事したが私見を断つことができず、三昧義を立て鎌倉で弘めたといわれる。検非違使庁に出頭し、その後、遠流になったものと思われる。

 

講義

この章は、この段の客の問いのなかに「末だ勘状を進らせず上奏に及ばず」とあったのに対して、延暦寺、興福寺から数度にわたる上奏があり、ついに勅宣・御教書が下されて法然の一門が弾劾された事実まであることを指摘して反論したところである。

すでに法然の一生、その邪義が成立した経過については第四段・第五段の各章で詳しく論じてきたので、本章では、法然の生前における一門と既成仏教との争い、法然没後の一門に加えられた弾劾、迫害、および没後今日までの念仏一門の推移を略述してみたい。

法然一門と既成仏教の争い

建久9年(11983月、法然は選択集を完成した。この時、法然は16歳、その一門は日々に隆盛を加え、比叡山・興福寺等、既成仏教にとっては、しだいに一大脅威となりつつあった。面倒な教義などいっさいなく、ただ弥陀念仏を修して、西方極楽浄土の往生を期せ、という単純な教義は、それまでの仏教の難解な教理に較べれば、はるかにはいりやすく、武士階級をはじめ、庶民への浸透は急速度で進んでいった。

元久元年(1204)、ついに延暦寺衆徒は蜂起して専修念仏の禁止を天台座主に要求した。これに対し法然は、その弾圧を避けようとして弟子を集め、自戒すべき7ヵ条を掲げて弟子たちの同意を求めた。そして、みずから7ヵ条のあとに署名し、以下に190の弟子が連署し自戒を誓ったものとして天台座主に差し出したのである。この7ヵ条は現在、京都に残っている。

法然はその7ヵ条のなかで「年来の間、念仏を修しているが、聖教に随順し、あえて人心に逆らわず、世間を驚かすこともなく、この30の間こともなくすごしてきた。ところがこの10ヵ年以後、無智不善の輩が次々とあらわれては弥陀の教えにそむくばかりか、釈尊の遺法もけがすようになった」と述べ「無智不善の輩」の行いとして、

一、 阿弥陀仏以外の仏菩薩を謗ること。

二、 別の教えを行う人と好んで論争すること。

三、 別の教えを行う人にそれを棄てさせようとすること。

四、 念仏門では戒律はないとして淫酒食肉をすすめ、戒律をみくだすこと。

五、 勝手に自分の教義を立てて人と争うこと。

六、 唱導で無智の人々を教化すること。

七、 誤った教えを偽って師範の義とすること。

7ヵ条を掲げ、それらを戒めている。

元久元年(1204)のこの出来事は、叡山の衆徒が叡山出身の法然をおさえることを座主に要求し、法然が自戒を誓った文書を座主に提出することによっておさまった。したがってこれは、どちらかといえば、天台宗内部の出来事ともいうべきものであった。

ところが翌元久2年(1205)、事態は法然の予想をはるかに越えて深刻なものとなった。すなわち、法相宗の興福寺が念仏禁止を院に訴え出たのである。その奏状には、

一、 新宗を建つる失。

二、 新像を図する失。

三、 釈尊を軽んずる失。

四、 万善を妨ぐるの失。

五、 霊神に背くの失。

六、 浄土に暗きの失。

七、 念仏を誤るの失。

八、 釈尊を損ずるの失。

九、 国土を乱すの失。

という9ヵ条にわたる具体的な内容を掲げて、法然とその教団への批判をのべている。

今度は、法然も、簡単にその鉾先をそらすわけにはいかなかった。しかしながら、院の貴族たちのなかにも熱心な念仏信仰者があり、法然の念仏を禁ずるのにためらいを感じている者も少なくなかった。決定的な結論が出せないまま月日は過ぎ、興福寺を中心とする旧仏教の勢力は、ますます強く弾圧を求めたのである。

こうした矢先、すでにふれたように、たまたま後鳥羽院が熊野に参詣中、留守をあずかっていた院の女房数人が、おりから開かれていた念仏の会に出席し、僧安楽・住蓮と密通したという噂がひろまってしまった。これには後鳥羽院も激怒し、建永2年(1207)の新春早々、安楽・住蓮の二人を斬罪に処し、ついで法然一門の主だった者に対して、流罪を宣告した。

法然は流罪中の土佐から、1年たらずで許されて戻ったが、京都にはいることは許されず、摂津にとどまっていなければならない状態であった。建暦元年(1211)暮れになって、ようやく入京は許されたが、すでに79という高齢で身体が衰弱し、建暦2年(1212)現在、知京都にはいることは許されず、摂津にとどまっていなければならない状態であった。建暦元年(1211)暮れになって、ようやく入京は許されたが、すでに79という高齢で身体が衰弱し、建暦2年(1212)現在、知恩院のある京都・東山大谷の地で没した。

法然の流罪、ついでその死亡によって、いちじ念仏の教勢がとどまったかに見えたが、没後はまたしだいに勢力を強め、叡山・興福寺からは念仏禁止の奏状はたびたび提出され、一方では教義面から、これを破折を加える者も現われた。

大聖人の念仏無間地獄抄にいわく、

「然る間斗賀尾の明慧房は天下無雙の智人・広学多聞の明匠なり、摧邪輪三巻を造つて選択の邪義を破し、三井寺の長吏・実胤大僧正は希代の学者・名誉の才人なり浄土決疑集三巻を作つて専修の悪行を難じ、比叡山の住侶・仏頂房・隆真法橋は天下無雙の学匠・山門探題の棟梁なり弾選択上下を造つて法然房が邪義を責む、しかのみならず南都・山門・三井より度度奏聞を経て法然が選択の邪義亡国の基為るの旨訴え申すに依つて人王八十三代・土御門院の御宇・承元元年二月上旬に専修念仏の張本たる安楽・住蓮等を捕縛え忽ちに頭を刎ねられ畢んぬ、法然房源空は遠流の重科に沈み畢んぬ、其の時・摂政左大臣家実と申すは近衛殿の御事なり此の事は皇代記に見えたり誰か之を疑わん」(0101:02

法然滅後、一門に加えられた弾圧

 

法然滅後の経過をみるならば、没後5年目の謙保5年(12173月に、叡山の衆徒が蜂起して念仏禁止を訴え、元仁元年(12248月に、専修念仏禁止の令が出されている。そして、嘉緑3年(1227)には、安国論本文に記されているように、これら法然没後の弾圧、禁止のなかでも最大の規模のものが行われ、法然の墓の破壊、弟子たちの島流しが行われた。

すなわち、この年の622日、延暦寺衆徒は専修念仏の邪義を訴えて蜂起し、勅許によって法然の墓を破壊し、ついで76日、念仏僧の隆寛・聖光らを島流しの刑に処して、念仏禁止を強く推し進めた。

念仏無間地獄抄にいわく、

「法然房死去の後も又重ねて山門より訴え申すに依つて人皇八十五代・後堀河院の御宇嘉禄三年京都六箇所の本所より法然房が選択集・並に印版を責め出して大講堂の庭に取り上げて三千の大衆会合し三世の仏恩を報じ奉るなりとて之れを焼失せしめ法然房が墓所をば犬神人に仰せ付けて之れを掘り出して鴨河に流され畢んぬ」(0101:09

これらの一連の事件については、そのつど、院から宣旨が出されていたわけで、この段の客の「勘状を進らせず、上奏に及ばず」はまったくの誤りである。

嘉緑3年(1227)、山門に下された宣旨には、次のように認められている。

「専修念仏の行は諸宗衰微の基なり、茲に因つて代代の御門・頻に厳旨を降され殊に禁遏を加うる所なり、而るを頃年又興行を構へ山門訴え申さしむるの間・先符に任せて仰せ下さるること先に畢んぬ、其の上且は仏法の陵夷を禁ぜんが為且は衆徒の欝訴を優に依つて其の根本と謂うを以て隆寛・成覚・空阿弥陀仏等其の身を遠流に処せしむ可きの由・不日に宣下せらるる所なり、余党に於ては其の在所を尋ね捜して帝土を追却す可きなり、此の上は早く愁訴を慰じて蜂起を停止す可きの旨・時刻を回さず御下知有る可く候、者綸言此の如し」(0101:17)。

また同年1010日、関白から武蔵守北条泰時に下された御教書には「専修念仏の事、五畿七道に仰せて永く停止せらる可きの由・先日宣下せられ候い畢んぬ、而るを諸国に尚其の聞え有り云云、宣旨の状を守つて沙汰致す可きの由・地頭守護所等に仰せ付けらる可きの旨・山門訴え申し候、御存知有る可く候、此の旨を以て沙汰申さしめ給う可き由・殿下の御気色候所なり、仍て執達件の如し」(0102:13)とある。

さらに、念仏者追放宣旨事には、

「永尊竪者の状に云く弾選択等上送せられて後・山上に披露す弾選択に於ては人毎に之を翫び顕選択は諸人之を謗ず法然上人の墓所は感神院の犬神人に仰付て之を破郤せしめ畢んぬ其の後奏聞に及んで裁許を蒙り畢んぬ、七月の上旬に法勝寺の御八講の次山門より南都に触れて云く清水寺・祇園の辺・南都山門の末寺たるの処に専修の輩身を容れし草菴に於ては悉く破郤せしめ畢んぬ其の身に於ては使庁に仰せて之を搦め取らるるの間・礼讃の声黒衣の色・京洛の中に都て以て止め畢んぬ、張本三人流罪に定めらると雖も逐電の間未だ配所に向わず山門今に訴え申し候なり。

此の十一日の僉議に云く法然房所造の選択は謗法の書なり天下に之を止め置く可からず仍つて在在所所の所持並に其の印板を大講堂に取り上げ三世の仏恩を報ぜんが為に焼失すべきの由奏聞仕り候い畢んぬ重ねて仰せ下され候か、恐恐。

嘉禄三年十月十五日」(0089:08)。

とある。

日寛上人は立正安国論文段に、次のごとく申されている。「今謂く法然伝記の第7に准ずるに、法然・存生の昔は藤井元彦という俗名を付けられた後鳥羽院の御宇・建永2年(1207228日に土佐国へ流されぬ、およそ流罪は賢聖の常例なり、所謂・竺の道生は蘇山に流され、法道は江南に還され、一行禅師は菓羅国に放さる。然りといえども末だ俗名の事を聞かず、法然の俗名豈永代不易の恥辱にあらずや。滅後の今は墓所を破却せらる。これ第一の恥辱なり、慈覚大師事にいわく『生の難は仏法の定例・聖賢の御繁盛の花なり死の後の恥辱は悪人・愚人・誹謗正法の人招くわざわいなり、所謂大慢ばら門・須利等なり』(1020:03)と。また大田殿許御書にいわく『或は閻魔王の責を蒙り或は墓墳無く或は事を入定に寄せ或は度度・大火・大兵に値えり権者は辱を死骸に与えざる処の本文に違するか』(1004:16)と。これに例して知るべし」とある。

すなわち日寛上人は、大聖人の御書を引用しながら、痛烈に法然の驚くべき法罰の姿を明らかにされている。第一に存生には俗名をつけられて流罪されたこと、第二に死後には墓場を破却されたことは、仏法上、永代不易の第一の恥辱であると仰せである。

このように、法然の教えが、いかに仏法を破壊する邪悪な説であるかは、歴然たるものがあった。智者、学匠はそれをよく知っていたのである。このゆえに、すでに生前から選択集に対する破折もあったし、為政者もこれを禁じた。だが、民衆は、選択集を破折した文を読んでいなかったがゆえに、結局は、悪鬼入其身の方程式で、邪義がひろまっていた。所詮、天台過時の法門の立ち場では、魔の根を断つことはできなかったのである。

しかして、法然のやり方自体も、まことに魔物の原理そのままである。先にみずから選択集で、浄土宗以外のいっさいの仏・菩薩・経典を捨閉閣抛せよと説きながら、いざ弾圧があるとわかると、その主張を「無智不善の輩のしわざ」とすりかえたことなどは、その一例である。そして、九条兼実等の公卿に取り行って、権力との結託を進めていったのである。

それを、あたかも法然は勢至の再誕だ、善導の後身だ等と喧伝し、邪義がまたたくまにひろまったのは、ひとえに民衆の無智にあるといっても過言ではあるまい。客の質問でもあるように、法然一門が禁止された事実すら、マスコミのない当時の民衆はまったく知らなかったのである。

衰亡の一途をたどる最近の浄土宗

 

さらに、法念なきあと、今日までの間に、浄土宗においてどのような宗派が分かれたかを示すと、次のようである。このうち親鸞の浄土真宗は、内容的にも浄土宗とはまったく違うし、親鸞自身、法然の弟子であったかどうか疑わしい。しかし、一応ここでは浄土宗が主張しているものを、そのまま図表にした。

┌白旗派 (良暁)

├藤田派 (性心)

├名越派 (尊勧)

┌鎮西流 良忠(弁良)┼三条派 (道光)

│          ├一条派 (然空)

│          └木旗派 (慈心)

│          ┌西谷流 (浄音)

法然┼西山流───(証空)┼深草流 (立信)

│          ├東山流 (証入)

│          ├嵯峨流 (道観)

│          └三鈷寺流(一遍)

├諸行本願寺義(長西)─────九品寺流

├多念義   (隆寛)─────長楽寺流

├一念義   (幸西)

└浄土真宗  (親鸞)

なお、このほか、法念常随の弟子と称する源智は、その滅後、廟所である知恩院を護持し、その系統が跡を継いだが、別流を称せず、鎮西流に合同している。また信空・湛空などという弟子たちも、それぞれ鎮西・西山流に合流している。

現在、鎮西流の六派のなかでは、白旗流が大部分を占め、名越派がわずかばかりあるのみで、他の派は壊滅している。西山流のなかでは西山流・深草流のみ残り、また、諸行本願義・多念義・一念義の三派はなんら見るべきものはない。

法然の教化が京都中心であったので、いまなお浄土宗は、近畿地方を中心に根を張っているが、弁良は九州方面、弟子の良忠は鎌倉に教団を開拓した。室町時代の応仁の大乱で京都市内各寺院は大打撃を受けたが、漸次回復し、江戸時代にはいってからは、徳川家の宗旨が代々浄土宗であったため、西は京都の知恩院、東は江戸・芝の増上寺を中心に栄えた。

明治にはいってからは、徳川家の庇護も断たれ、廃仏毀釈に遭って、一時、衰微のきざしをみせたが、やがて当局に巧みに取り行って、財政面から挽回した。京都の知恩院と、東京の増上寺は仲が悪く、長年分裂対立していたが、話し合いがついて、昭和36年(1961)知恩院を総本山とし、東京の増上寺・長野の善光寺など7寺を大本山として、今日に至っている。

一方、親鸞の浄土真宗は北陸、北関東にひろまっていたが、生前から分派を生じていた。現在も人口に真宗十派と称する派閥があり、親鸞の血統を伝えていると称する本願寺派、大谷派のほかに、興正派、高田派、仏光寺派、三門徒派、山元派、出雲路派、誠照寺派、木辺派の十派がそれぞれ独立している。今日、これらの中で最大の教勢と血統を誇る本願寺派や大谷派は、蓮如が出現するまで見るかげもない存在であったが、蓮如は応仁の乱(1467)当時の世相に乗じて、巧みな政治力を発揮し、一代で本願寺教団の基礎を築き上げたのである。

現在、檀徒数は浄土宗300万人、真宗大谷派600万人と称しており、それだけに寺院や僧侶の数も多い。だが、平均して50世帯で一人の僧侶、少ないところでは10世帯の檀家ももたない零細寺院もあって、宗勢力の衰微はおおうべくもない。

再三にわたった念仏禁止の上奏

 

本章の末尾に「其の後未だ御勘気を許されず」とあるのは、大聖人が立正安国論を著わされた文応元年(1260)になっても、まだ念仏禁止の令が解かれたことがいないことをいったものであって、隆寛・聖光らが流されてから33年を経ている。この間、天福2年(1234)延応2年(1240)にそれぞれ、念仏禁止の上奏がなされているのである。

このように、法然の一門は、仏法の面から邪義であることはもちろん、社会的にも風紀を乱すものとして、勅宣・御教書が再三、下されたことは事実である。当時においても、大聖人が「然りと雖も恭敬供養する者は愚癡迷惑の在俗の人、帰依渇仰する人は無智放逸の輩なり、権者に於ては之を用いず賢哲又之に随うこと無し」と仰せられているように、分別を弁えた人々は、念仏を極度に嫌っていたようである。

「鳴呼世法の方を云えば違勅の者と成り帝王の勅勘を蒙り今に御赦免の天気之れ無し心有る臣下万民・誰人か彼の宗に於て布施供養を展ぶ可きや、仏法の方を云えば正法誹謗の罪人為り無間地獄の業類なり何れの輩か念仏門に於て恭敬礼拝を致す可きや、庶幾くば末代今の浄土宗・仏在世の祖師・舎利弗・阿難等の如く浄土宗を抛つて法華経を持ち菩提の素懐を遂ぐ可き者か」(0103:06、念仏無限地獄抄)。世の念仏信仰の者は、この大聖人の御金言を拝し、一刻も早く、その邪法を捨てて正法に帰すことを訴えてやまない。

 

 

第七段 (布施を止めて謗法断絶を明かす)

第一章 (災難対治の方術を問う)

客則ち和ぎて曰く、経を下し僧を謗ずること一人には論じ難し、然れども大乗経六百三十七部二千八百八十三巻並びに一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て捨閉閣抛の四字に載す其の詞勿論なり、其の文顕然なり、此の瑕瑾を守つて其の誹謗を成せども迷うて言うか覚りて語るか、賢愚弁ぜず是非定め難し、但し災難の起りは選択に因るの由、其の詞を盛に弥よ其の旨を談ず、所詮天下泰平国土安穏は君臣の楽う所土民の思う所なり、夫れ国は法に依つて昌え法は人に因つて貴し国亡び人滅せば仏を誰か崇む可き法を誰か信ず可きや、先ず国家を祈りて須く仏法を立つべし若し災を消し難を止むるの術有らば聞かんと欲す。

 

現代語訳

客はすなわち和らいで言った。

経を下し僧を謗じているのは必ずしも法然一人ばかりとは論じ難い。あなただって浄土の諸経を下し、法然を謗じているのは同罪ではないか。しかしながら法然が、大乗経六百三十七部二千八百八十三巻ならびに一切の諸仏菩薩および世天等をもって捨閉閣抛の四字に載せたことは、その言葉はもちろんであり、その文ははっきりとしており、これは明らかに経を下し僧を謗じていることになる。だからといって、法然の捨閉閣抛等の四字は、あたかも美しい玉にわずかの傷があるようなものである。あなたは、このわずかな傷について強いて誹謗を加えている。しかしながら、法然は一体迷っているのか、すべてを覚っているのか、自分にはわからない。だから、あなたと法然とでは、どちらが賢いのか愚かなのか、どちらの主張が是なのか非なのか、自分では判断がつかない。

ただし、いっさいの災難が起こる原因は法然の選択集にある。との由を盛んに申し、いよいよそのことを強調されている。所詮・天下案泰・国土安穏は君主・万民がひとしく願うことである。一体、国家は法によって栄え、法は人によって貴いのである。国が亡び人々が滅するならば、仏を誰が崇めるであろう。法を誰が信ずるであろう。まず国家の安泰を祈って、しかるのちに仏法を立てるべきである。もしそのような災難を防ぎ、国家繁栄の術があるなら聞きたいものである。

 

語釈

一人として論じ難し

「経を下し僧を謗じているのは法然一人ではない」との意。裏に「あなたも誹謗しているではないか」という気持ちが含まれている。

世天

仏教上の諸天善神と、陰陽道や神道で祀る神々。

瑕瑾

「瑕」は玉の傷。「瑾」は美しい玉。本来は「瑕釁」と書く。「釁」は隙間で、玉に傷や隙間のあること。「瑾」を当てるのは誤用であるが、慣用化されている。ここは、客が選択集を弁護し、法然の捨閉閣抛の四字を瑕瑾にすぎないといっている。

 

講義

この段では、人生の不幸の根源と、三災七難の淵源を断ち切り、真実の平和楽土を建設する方法は、国じゅうの謗法を禁ずることであると、断言されている。謗法を禁ずるとは、所詮、謗法の僧侶の命を断つことである。

それを明かすに当たって、本章は客の疑問を掲げている。ここで客の述べていることは、単に大聖人当時、すなわち、鎌倉時代の為政者ならびに民衆の考え方にとどまらず、現代人の宗教観、政治観にもそのまま該当するものがある。

経を下し僧を謗ずること一人には論じ難し

主人の道理正しい話に、客は、ようやく納得してくる。特に法然が捨閉閣抛といって、法華経を誹謗したことは悪いのだと気がつく。しかし、徹底的に悪いことだとは、まだ思えない。ゆえに客は、この段にきて、和らいでいいながらも「経を下し僧を謗ずること一人には論じ難し」と、まだ疑問に感じている。

この意は「経を下し僧を謗じているのは、必ずしも法然一人ばかりとはいえまい」というのである。すなわち言外には「主人だって、浄土の諸経を下し、法然を謗じているのは同罪ではないか」という疑問があるわけである。しかし、もちろん、法然の捨閉閣抛は、まったく仏法に背反する邪見であるから、同列に論ぜられるわけができない。

ここで日寛上人は「経を下し僧を謗ずること一人には論じ難し」等の文について、文段に次のように申されている。すなわち「かくのごとく点ずべし、客の意にいわく『経を下し僧を謗ずること一人には論じ難し、主人もまた浄土の経を下し法然を謗ずればなり』と云云、古点穏やかならず、一義にはこの八字の主人に約す。いわく『大乗経を下して衆僧を謗ずることは法然一人としては論判し難し』と云云、蒙これには牃するがごとし、今いわく、二義倶に末だ美からず」と。

すなわち「経を下し僧を謗ずること一人には論じ難し」の御文を、一義には皆主人に約し、一義には皆法然に約する解釈が、古来、邪師によって行われてきたが、この二義は、ともに誤りであり、正しくは、日寛上人の仰せのごとく、客の意は「経を下し僧を謗ずること一人には論じ難く、主人もまた経を下し僧を謗じているのではないか」という意にあるのである。

このように、立正安国論の解釈は、古来から、多くの人々によってなされてきたが、日蓮大聖人の御真意を正しく解釈しえたのは、ただ巨匠、日寛上人のみであり、他の邪宗各派の学者が、すべて誤りに満ちた謬釈をしていることは、まったく明白ではないか。

此の瑕瑾を守つて其の誹謗を成せども

日寛上人の文段には、次のように、いわれている。

「またかくのごとく点ずべし、この下の六句二十四字を古来の諸師はみな主人に約す、倶に穏やかならざるか。今慎んで案じていわく、この二句八字は主人に約し、次に迷の下の二句八字は法然に約し、三賢の下の二句八字は法然と主人とに約するなり。ゆえに今の問の意にいわく『経を下し僧を謗ずることに法然一人には論じ難し主人もまたしかればなり、然れども大乗経等を以って“捨”等の四字に載せたること選択の文分明なり、主人は此の瑕瑾を守って其の誹謗を成せども、法然は迷うて言うか、覚りて語るか、しかれば法然と主人との間・賢愚弁ぜず是非定め難し』等云云」。

すなわち、この御文についても、古来、いろいろな読み方がなされてきたが、日寛上人は明白に読み方についての決定を下された。法然が捨閉閣抛といって大乗教はもちろん、諸仏菩薩をすべて否定し去ったことについて、客も法然の誤りであることを納得する。しかし客は「この法然の捨閉閣抛の四字は、あたかも美しい玉にわずかの傷があるようなものであり、主人が小さいきずに強い誹謗を加えるのは行きすぎだ。だからといって法然のいうことも、迷っているのか、さとっているのか、判断がつかなくなった。あなたと法然とでは、どちらが賢いのか愚かなのか、どちらの主張が是なのか、非なのか、自分でもわからなくなった」と心情を述べたのである。いずれにしても、客は法然に大きな疑いを生じてきたわけである。

およそ、浄土三部経以外の経典を捨てよ、阿弥陀如来以外の仏菩薩を抛てとは、釈尊一代仏教のどこにも説かれていない。すでに破折されているように、これは曇鸞・道綽・善導らが勝手に立てた悪義を、法然がさらに増長せしめた邪義である。仏説にあらざる私の邪義を立てることは、仏弟子にあらずして仏敵である。

のみならず、法然がが捨てよ閉じよ閣け抛てという一切経のなかに、釈尊一代仏教の肝心たる法華経が含まれている。これは、彼らが念仏を唱えれば極楽往生できるという唯一の依拠である、法蔵比丘の「唯五逆と誹謗正法の者を除く」という誓願さえはずれることになる。

また、法華経は、いっさいの経典の究極であり、いっさいの仏菩薩の能生の根源である。浄土三部経は法華経を説くため、最も低い段階の足場にすぎない。阿弥陀如来は、法華経迹門の説法では、大通智勝仏の十六王子の一人として、迹門の釈尊の兄弟である。釈尊の本地を明かした本門の説法では、五百塵点劫に成道した釈尊が化他のために迹を垂れた仏の一つになる。

阿弥陀を尊んで釈尊を卑しみ、浄土三部経を崇めて法華経を捨てるのは子を尊んで親を賎しみ、弟子を崇めて師匠を罵る狂態である。しかも「仏法は体のごとし世間はかげのごとし」(0992:14)と仰せのように、宗教界における本末顛倒は、必ず世法において、狂乱の姿となって現われてくるのである。

ゆえに、法然の選択集は、まさしく毒薬の魂であり、悪魔の者と断ずべきである。「其の誹謗を成せども」と客はいう。だが善いものを嫉んで悪くいうのが誹謗である。悪を悪と断じその罪を弾劾することは、むしろ正義を守るための絶対必要条件である。

創価学会が折伏を行じて、今日に至った途上においても「学会は他宗の悪口をいうから嫌いだ」等、あるいは「宗教が他宗教を誹謗するのはよくない」等という人があった。今後も、出てくることであろう。

だが、悪を追究することが禁じられるならば、一体、世の中はどうなることであろうか。警察は活動を停止し裁判所は門を閉じて、悪人はわが世の春と横行し、善良な民衆は不幸のどん底に突き落とされるに違いない。

こうした国法上の混乱にもまして、最も恐ろしいことは、仏法の正義が失われることである。いかなる嫉妬、迫害、弾圧も恐れず、われらは勇敢に、護法のため、民衆の幸福のため、社会の繁栄のため、世界平和のために、邪義を粉砕していかなければならない。

所詮天下泰平国土安穏は君臣の楽う所土民の思う所なり

いかなる時代の、いかなる国を問わず、社会の平和と国土の安穏、すなわち民衆が安心して日々の生活にいそしみ、人生を楽しんでいける社会の実現が、指導者も民衆も共に願うところであり、政治の要諦であるとの原理である。

古来、中国において、天下泰平の理想社会をあらわすものとして、次のようなエピソードが用いられてきた。中国の伝統的な聖天子・堯の時代に、ある農家で一人の老人が腹鼓を打ち、土器を叩きながら、謳ってる。その文句は「日出でて作し、日入りて息う。井を鑿ちて飲み、田を耕して食らう。帝力何ぞ我に有らんや」というのである。

すなわち、古代中国では、帝王の力、政治権力の存在が意識されないほど、民が安心しきって生業に励めることが天下泰平の理想的なあり方とされたのである。「天子は正しく南面せるのみ」というのも、同じ考え方から出た言葉である。逆にいえば、民衆にとって帝王の力が意識されたのは、重税を取り立てられ苦しめられるとか、災害や賊の跳梁によって悩み、帝王の力による対策を要望せざるをえない時であったともいえる。

現代の社会は、こうした自給自足の古代社会とまったく異なる。工場で機械を作っている人も、サービス行に従事している人も、商人も、あるいは農業・漁業を生業としている人も、国の政策、さらには国際情勢の変動からの影響を免れることはできない。世界の涯に起こった動乱によって、急に景気がよくなったり、逆に暴落したりすることは、しばしば経験されるところである。

いわんや、軍事科学の発達がもたらした驚異的な核兵器と、ほとんど世界を網羅する軍事ブロックの形成とによって、地球上のいかなる地点も、安全な所はないとまでいわれるようになってしまった。文字どおり人類は同じ一つの屋根の下にいるのであり、しかもそれは、恐るべき破壊力をもつ各種兵器が貯えられた火薬庫なのである。

天下泰平とは、単に一国の平和であるのみならず、全世界の平和でなければならない。日本の国だけが平和と繁栄を謳っても、アジアの不幸と動乱、世界情勢の不安定によって、たちまち脅かされることは明瞭である。資本主義陣営に属する国も、共産主義陣営に属する国も、あるいはその中間にある諸国も、すべての国の指導者は、今こそ恒久平和の実現に全魂を傾けるべきである。

また人間と人間の争いから起こる災いのみにとどまらず、いわゆる天災地変による不幸を解決する道は、仏法による以外にない。科学の発達した現代でも、アメリカ南部沿岸を襲うハリケーンの猛威は、年々莫大な被害を与えている。ソ連や中国における農業問題も、人為による改善の余地は多分にあるとはいえ、天然の条件によるところがきわめて大きい。科学の力も自然の威力の前には、まだまだまことに微々たるものでしかない。

「君臣の楽う所土民の思う所」とは、平和こそ人間性本然の欲求であるとの意である。資本家の利益のため、指導者の名誉のために戦争し、民衆を犠牲にするようなことは、絶対にあってはならない。否、いかなる理由、目的にもせよ、戦争は断じてしてはならない。最も尊いものは人間の生命である。同じ人間でありながら、人命の犠牲もやむをえないなどというのは、人間としての資格をみずから放棄するのと等しいと知るべきである。

夫れ国は法に依つて昌え法は人に因つて貴し

国の繁栄、民族の興隆は、必ずその根底となるべき法の浅深、高低によって決定されるとの原理である。客の言葉であるが、重要な真理を表わしているといえる。

ヨーロッパの歴史の例をとってみても、古代ギリシァの都市国家は、それぞれ哲学、理念をもって維持されていた。美と哲学の文化をもって立ったアテネ、きびしい軍事教練と法治主義を根幹としたスパルタ等、それぞれに応じた興隆と発展を示している。

ローマにもやはりローマらしい征服思想と統治思想があり、土木建設や事業面で、特色ある興隆を遂げた。中世諸国家は王権神授説を骨髄とする絶対主義政治、キリスト経の商業蔑視に基づく略奪主義が行われた。近代ヨーロッパの植民主義国家が、ルネサンスと、宗教革命を経て形成された啓蒙君主政治と、個人の自由主義を基礎理念するものであることも、周知の事実である。

目を中国に移せば、儒教的封建主義によった周、道教思想と法治主義によった秦、儒教的王道主義によった漢、天台仏法を根幹においた隋・唐等、いずれも、その法は王朝の性格、文化圏の広狭、民衆の幸・不幸に大きい影響を与えている。むしろ、決定的要因となっているのである。

ヨーロッパにおいては、きびしく縛られたスパルタの民衆より、伸び伸びとしたアテネの民衆のほうが幸福であったに違いない。後世の文化に及ぼした影響性もアテネのほうが大きい。人間性を無視した中世よりも人間中心的なローマのほうが高度の分明と繁栄をもっていたし、そのローマよりも、自由・平等・博愛を旗印とする近代ヨーロッパのほうが、すぐれた文化水準に達したといえよう。

中国についても、冷厳な法治主義によった秦は短命で滅び、礼教によった周は一応長命を保ったが、その後半は有名無実であった。秦より周、周より漢、漢より仏法によった唐のほうが、偉大な文化の華を咲かせ、広い地域に影響力をもち、政治的にも安定していた。唐朝の後半、武宗皇帝の仏教弾圧、浄土宗の流行と共に、急激に衰運をたどったことは、仏教の正邪が政治・経済・文化・民族の生命力に、いかなる関連性をもっているかを如実に物語っているといっても過言ではない。

日蓮大聖人の妙法を根底とした第三文明が、最高の、人類の理想を具現する大文明であり、一閻浮提の仏法なるがゆえに、一国・一民族にとどまらず、全世界の人類の未曾有の興隆と発展をもたらすことは、この道理よりして必然なりと叫ぶものである。

仏法の偉大さは人が実証

また「法は人に因って貴し」とは、いかなる法も、それを実践する人の実証の姿如何によって流布もするし、消滅もする。すなわち、伝持の人、実践者の重要性を意味する。すなわち、法をたもっている人が幸福になり、興隆し、福運を積んでいくことによって、その法の偉大さが証明される。反対に法をたもっている人が凶悪となり、残忍となり、みずから悲惨な末路をたどって滅び去ることによって、その法の低級さが証明されるのである。

人生というものを考えた場合、いかなる人も、必ずなんらかの法を有している。多くの場合、それは体系化されず、哲学性をもたないこともある。だが、なんの法ももたないということは、いっさいの行動を動物的本能によってとっていることであって、人間としての理性がある以上は、そのようなことはありえない。

その法の高低・浅深・正邪によって、生活の個々の行動の仕方、そして、それによって現われる結果が支配される以上、低いものより高いものを、浅いものより深いものを取るべきである。邪なものを捨てて、正しいものをもつことが肝要である。

人の心の奥底にあって、あらゆる行動、思想ににじみ出てくる規範を、いっさいの哲学・思想・主義に対する信仰を含めて信心といい宗教というのである。されば信心といい、宗教といい、人が行動の規範としている法であって、祈りの儀式や、法衣や、数珠や、線香や、ローソク等の形式はあくまで枝葉にすぎない。その観点からいえば、共産主義に対する信奉も信心であり、宗教である。

ここに宗教選択の大切である所以がある。日蓮大聖人は「妙法なるが故に人貴し」(1578:12、南条殿御返事)と仰せである。それでは「法は人に因って貴し」とは、逆になってしまうかというならば、今度は偉大な法をたもった者の立ち場になるのである。すぐれた法をたもったとしても、まだ充分に身につけることができず、その人の行動の一部を支配しているのみで、大部分の行動は相変わらず、古い低い法によって行われていることが多い。

仏法という最高の法といかにして完全に合致し、全人格をこれによって満たしていくか、低い法による古いカスを追放していくかが、仏道修行であるともいえる。完全に合致したならば、これを成仏というのである。

その過程は努力、精進である。仏法をたもった人が、どれだけこの努力、精進を積み重ねて、わが身に仏法の偉大さを体現していくかによって、法の興隆が決定される。

創価学会の今日の発展、隆昌が恩師戸田前会長の獄中での不思議な体験、人間革命、広宣流布への情熱によって決定づけられたことを思い合わすべきである。「法は人に因って貴し」日蓮大聖人の仏法の興隆は、戸田前会長によって決定づけられ、そして今、500数十万世帯の創価学会員の燃ゆるがごとき信心、広布への決意、幸福生活の実証によって、全世界に、未来永劫に流布していくべき源泉が決定づけられているのである。

先ず国家を祈りて須く仏法を立つべし

国が亡び、人が死んでしまったならば、仏法を信奉することができない。したがって、まず国家、社会を安定して、しかるのちに仏法を立てるべきであるとの客の言葉である。

すなわち、政治が主であって、宗教は従であるという考え方が、この根底にある。客とは、時の為政者、北条時頼になぞらえているのであるから、これは当然であったかもしれない。

今日においても、こうした考え方は、むしろ当時以上に支配的となっている。たとえば「原水爆戦争が起こって、地球上の全人類が滅亡してしまえば、仏法だの、広宣流布だのといっていられない。まず、平和のために、大衆運動を起こすべきだ」等の議論である。

その底辺には、宗教を単に気休めや、形式や、精神修養ぐらいにしか考えない、宗教認識の恐るべき無智がある。「政治が先だ」という人は、それでは政治によって戦争を絶滅し、真実の恒久平和を実現する確信があるのか。過去の歴史を辿ってみるならば、たとえ本人は確信があるとしても、暗澹たるものをおぼえずにはいられまい。

しかも、いつの時代の、どの国の民衆も、平和を望む心に変わりはない。だが独裁者の野望と権力の前に惨めに屈服し、あるいはみずからの心に憎悪と恐怖がうずまいて、戦乱のなかに自滅していったのである。戦争を憎み、平和を渇望するのも人間の心である。戦争を好み、利益と名誉を願うのも人間の心である。

この人間の心を動かし、狂気を追放して正気となし、反目によらず団結で、すべての人の幸福をかち取ってく平和世界の実現は、法によって決定されるのである。すなわち宗教の正邪、仏法の正邪によって、国家社会ひいては全世界の安危が決まることを知らねばならぬ。このことは、主人の後段における主張によって次第に明らかにされるのである。

エラスムスは言った。「戦争は獣のためにこそあれ、人間のためにはない。実に凶悪なものである」と。だが、その獣を人間にする法は、どこにあったか。 東洋仏法の真髄、日蓮大聖人の大生命哲学こそ、その唯一の秘法である。

ゆえにわれらは、色心不二の大生命哲学をもって、一人一人の人間革命を遂行し、これを全世界に及ぼすことこそ、永遠にくずれざる恒久平和への直道なりと確信するのである。

 

第二章 (国家安穏天下泰平の原理を説く)

主人の曰く、余は是れ頑愚にして敢て賢を存せず唯経文に就いて聊か所存を述べん、抑も治術の旨内外の間其の文幾多ぞや具に挙ぐ可きこと難し、但し仏道に入つて数ば愚案を廻すに謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば国中安穏にして天下泰平ならん。

 

現代語訳

主人のいわく。

自分はもとより頑愚で、何も賢いわけでない。ただ釈尊の経文について少しばかり考えているところを述べてみたい。そもそも災難を治術する方法については、仏法の経典にも、また、仏法以外の書にもたくさん説かれており、のこらずここにあげることは到底困難なことである。ただし、仏道に入ってしばしば自分の考えをめぐらしてみると、結局謗法の人を禁止して、正法護持の人を重んずるならば、国中は安穏となり、天下は泰平となるであろうことは明白である。

 

語釈

余は是れ頑愚にして

前文の「賢愚弁ぜず」に対する答え。すなわち客の「あなたと法然と、どちらが賢く、どちらが愚かなのか、私にはさっぱりわからない」との発言に対し、「さらさら賢いわけではない」、と謙遜されていることば。

内外の間に、其の文幾多ぞや

内道たる仏教にも、外道においても、かぞえきれないほど説かれている、との意。

 

講義

三災七難を消し止めるには、どうすればよいのかとの前章の客の問いに答えて、本章からその方法を説き出されるのである。

まず本章で、「謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば国中安穏にして天下泰平ならん」と述べられているのは、結論の極理である。しかる後に、第三章以下で、法華経・涅槃経の文を引いて、これを論証されているのである。

いうまでもなく、謗法の人とは、浄土宗のみに止まるのではなく、禅宗・真言宗・華厳宗・法相宗等である。

よく、立正安国論では、法然の選択集のみを謗法と訶責されているかのように論ずる人がいる。しかし、それは誤りである。特に法然の浄土宗を大きく取り上げられたのは、すでにしばしばふれたように、当時の宗教界の情勢をみれば、直ちに理解されるところである。

法然が専修念仏を唱え始めたのは、日蓮大聖人御誕生のわずか48年前であり、法然の墓が勅命によって発かれ、高弟たちが流罪されたのは、日蓮大聖人の6歳のときであった。しかし、この数十年間に、専修念仏は戦乱と災害に脅える民衆の不安、末法思想の流行に乗じて、疫病がはやるように、全国津々浦々に広まった。念仏の哀音は日本国中をおおい、比叡山でさえ、これを認めなければ信者の庇護、寄進をうけられないほどの世相になっていたのである。武士の都、鎌倉の北条重時が浄土宗のために極楽寺を創立したのは、安国論御述作の前年である。

この一事によって、国諌の書たるこの立正安国論が、謗法の代表としての法然の浄土宗を取り上げ、これを完膚なきまでに破折された所以は、瞭然である。だが、単に浄土宗のみの破折に終わっているのではない。

十一通御書の建長寺道隆に当てた御状にいわく「夫れ仏閣軒を並べ法門屋に拒る仏法の繁栄は身毒支那に超過し僧宝の形儀は六通の羅漢の如し、然りと雖も一代諸経に於て未だ勝劣・浅深を知らず併がら禽獣に同じ忽ち三徳の釈迦如来を抛つて、他方の仏・菩薩を信ず是豈逆路伽耶陀の者に非ずや、念仏は無間地獄の業・禅宗は天魔の所為・真言は亡国の悪法・律宗は国賊の妄説と云云、爰に日蓮去ぬる文応元年の比勘えたるの書を立正安国論と名け宿屋入道を以て故最明寺殿に奉りぬ、此の書の所詮は念仏・真言・禅・律等の悪法を信ずる故に天下に災難頻りに起り剰え他国より此の国責めらる可きの由之を勘えたり」(0173:01)云云と。

この日蓮大聖人の御心によって現代の宗教界を見るならば、既成仏教が連合体制をとり、大聖人の仏法を奉ずる創価学会を弾圧しようと図っていることや、新興宗教の徒輩が、新宗連を構成し、創価学会対策に躍起となっていることも、大聖人御在世当時と同じ方程式といえる。

ゆえに、既成たると新興たるとを問わず、彼ら邪宗教こそが、現在の日本に起こっている三災七難の根本病源であることは明らかである。彼らの謗法を厳重に禁じて、正道の侶、すなわち創価学会に教えを乞うならば、必ずや国中が安穏になると共に世界平和が実現されることを、強く強く確信するものである。

余は是れ頑愚にして敢て賢を存せず

示同凡夫のお立ち場から、謙遜された言葉である。また前問の「賢愚弁ぜず」に対する語である。また、日蓮大聖人の言々句々は、すべて仏の経文を依処とし、裏づけとして述べられている。そこには、毫もみずからの才を誇ったり、客観的裏づけのない無責任な発言はないのである。

偉大なる仏法の予言

外道にせよ、仏教の僧にせよ、およそ予言者といえば、天の啓示を受けたとか、夢のお告げがあった等と称して、いつ、どこで、どのようなことが起こる等、というものである。そこには、言外に、自分が特別にこの啓示を受けたのだ、一般の者たちとは違うのだぞという。優越感、差別感がふくまれている。

こうした予言者、啓示者は、正しい仏法においては用いないのである。「利根と通力には依るべからず」(0016:13)と、大聖人も厳に戒められているのである。成程、一見すると、こうした予言者の方が素晴らしく見えよう。だが、それは根底に客観的と哲学に裏づけられた普遍妥当性がない証拠ではないか。

それに反して、日蓮大聖人は、この立正安国論で展開されているように、一つ一つ経文を引いて裏づけ、経文を示して結論を下されている。すなわち、ここに示された原理は、すべて事実の証拠と経文による裏づけと、哲学的論理性があるゆえに、いついかなる時代においても、またいかなる国土においても、共通する大原理なのである。

700年前に認められたこの立正安国論は、単なる歴史的文献でもなければ、文学的著述でもない。700年後の今日にもそのまま通じ、民族の興亡と経済的対立、思想的、軍事的相克に苦悶する全人類に対する警告の書として、生き生きとして胸臆をえぐるのである。

経文は仏の説法である。その時々に、思いつきや逃げ口上でいう無責任な指導者や、支離滅裂な評論家の言々句々とは、天地雲泥の相違がある。宇宙の本質を悟り、永遠の生命観に立脚した仏の言であるがゆえに、絶対に誤りのない真理である。

また日蓮大聖人は、この立正安国論で述べ、予言された自界叛逆・他国侵逼の両難が寸分の狂いもなく現われたことを証拠として「日蓮に帰せよ」「日蓮が言に随え」と、大確信をもって、正法を教えられるのである。

文永5年(1268)蒙古より使者が到着した。他国侵逼難の予言的中が明らかとなった時、11ヵ所に当てて認められた公場対決申込みのお手紙を拝してみよう。

まず、執権・北条時頼への御状には次のように申されている。

「抑も正月十八日・西戎大蒙古国の牒状到来すと、日蓮先年諸経の要文を集め之を勘えたること立正安国論の如く少しも違わず普合しぬ、日蓮は聖人の一分に当れり未萠を知るが故なり、然る間重ねて此の由を驚かし奉る急ぎ建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿等の御帰依を止めたまえ、然らずんば重ねて又四方より責め来る可きなり、速かに蒙古国の人を調伏して我が国を安泰ならしめ給え、彼を調伏せられん事日蓮に非ざれば叶う可からざるなり、諌臣国に在れば則ち其の国正しく争子家に在れば則ち其の家直し、国家の安危は政道の直否に在り仏法の邪正は経文の明鏡に依る」(0169:01)云云と。

また、極楽寺良観の御状にいわく、

「西戎大蒙古国簡牒の事に就て鎌倉殿其の外へ書状を進ぜしめ候、日蓮去る文応元年の比勘え申せし立正安国論の如く毫末計りも之に相違せず候、此の事如何、長老忍性速かに嘲哢の心を翻えし早く日蓮房に帰せしめ給え」(017401)云云と。

また多宝寺への御状にも、

「若し日蓮が申す事を御用い無くんば今世には国を亡し後世は必ず無間大城に堕す可し」(0176:03)。

と申されている

「日蓮は聖人の一分に当れり」「彼を調伏せられん事日蓮に非ざれば叶う可からざるなり」「早く日蓮房に帰せしめ給え」等、いずれも、日蓮大聖人こそ末法の仏であり、蒙古の襲来の前には風前の灯となった日本国を救う者は自分以外にない、との御確信であられる。

さらに、多宝寺への御状のごとく、大聖人の教えを実行しなければ、今生には日本を亡国に追いやり、来世には指導者も民衆も無間地獄に堕ちるであろうと仰せられるのは、明らかに末法御本仏の境涯以外の何ものであろうか。

したがって、この立正安国論は、国家諌暁の書であり、あくまでも謗法を禁ずることを表に打ち出して建言されている。しかしながら、その御本意は、一般学者がいうような、法華経28品を用いることはない。この安国論に予言された自界叛逆・他国侵逼の二難が的中したことを証拠として、日蓮大聖人の教えを受ける以外にないと申されているのである。

広宣流布こそ立正安国の実践

その時に、大聖人が教えてくださる正法、すなわち立正の正とは何か。これすなわち三大秘法の南無妙法蓮華経である。日蓮大聖人が出世の本懐として建立された一閻浮提総与の大御本尊が三大秘法総在の御本尊であり、この御本尊に帰命すること、その信仰を全世界に広宣流布することが立正安国の実践となるのである。

三大秘法抄にいわく、

「問う所説の要言の法とは何物ぞや、答て云く夫れ釈尊初成道より四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて略開近顕遠を説かせ給いし涌出品まで秘せさせ給いし実相証得の当初修行し給いし処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」(1021:03)。

日蓮大聖人の説法の究極は、三大秘法にあるとの御断言であられる。ゆえに、安国論等で法華経を表に打ち出されているのは、一つには、権教である浄土宗を権実相対の立ち場から破折するために、実教である法華経を立てられたのである。もう一つは、同じく三大秘法抄に、

「此の三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり、今日蓮が所行は霊鷲山の禀承に芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり。

問う一念三千の正しき証文如何、答う次に出し申す可し此に於て二種有り、方便品に云く「諸法実相.所謂諸法・如是相・乃至欲令衆生開仏知見」等云云、底下の凡夫・理性所具の一念三千か、寿量品に云く「然我実成仏已来・無量無辺」等云云、大覚世尊・久遠実成の当初証得の一念三千なり、今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き付て留め置ずんば門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加う可し、其の後は何と悔ゆとも叶うまじきと存ずる間貴辺に対し書き送り候、一見の後・秘して他見有る可からず口外も詮無し、法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は 此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり」(1023:05)。

とあるごとく、三大秘法がこの法華経に秘されているがゆえである。

したがって、今、われら創価学会が一閻浮提の大御本尊に帰命し奉り、その住処を荘厳し、全世界へ化儀の広宣流布の戦いを進めていることは最も大聖人の御真意に叶った行動であると確信するのである。

治術の旨内外の間其の文幾多ぞや

およそ、三災七難を対治する方法を説いたものは、内道すなわち、仏法においても幾多の説があり、外道においては、さらに多くの諸説がある。

たとえば、旱害等に対して、土地の沼や河川の主と称せられる蛇や竜神等に祈ることは、科学文明の発達した20世紀の昨今においても、少し田舎に行けば盛んに行われているところである。東京や大阪等の大都市において、近代建設の粋を集めたビルの屋上に、稲荷のホコラを祀り、社長以下社員が商売繁盛の祈願をするといった光景も、けっして珍しいことではない。その因って来るところは、宗教に対する、悲しむべき無智であることは論を俟たない。

これと逆に、そうした不合理な行為を排斥するあまり、大生命哲学にもとづく、創価学会の行動をも、迷信とか無智とかで片づけようとする人々も少なくない。このようにいう人々自体、宗教に対する無智ということにおいては、まったく同じである。

前者は宗教一般に対する無智であり、後者は日蓮大聖人の仏法に対する無智である。前者は宗教そのものを盲信しているのであり、後者は、宗教に関して自己が作り上げた幻影を盲信しているのである。おなじ無智と盲信が一方に肯定と表われ、一方は否定と表われたに過ぎないともいえる。前者は、多くの場合、一般民衆の哀れむべき実態であり、後者は、インテリと自称する人々の悲しむべき実相である。

科学万能主義の誤り

こうした宗教に無智な現代の人々が例外なく頼るところは科学である。一方で因縁をかつぎ、稲荷や蛇等に祈りを捧げる人々も、科学の成果に対しては、これも盲目的に受け入れる。宗教否定論者に至っては、なおさらである。現代人の科学に対する信頼は、冷静に見る人の眼には、恐らく狂信的と映るほどであろう。

風邪薬、栄養剤、ビタミン剤、目薬等の洪水は、この現代人の異常心理を如実に物語っている。薬さえ飲めば、ピタリと咳がやんで熱が下がる。疲労は一挙に吹き飛んで、モリモリと元気が出てくる。目がすっきりと美しく澄み、新聞広告の窓からニッコリ微笑んでいる女優のような目になるだろう、等。その奥底には、現代科学に対する盲目的な信仰があるのである。

同様のことは、旱害や水害、冷害、台風等の天災についてもいえる。世界第一の大都市である東京で、水源地が干上がり、井戸は涸れ、都民は洗濯もできず、飲料水さえ思うに任せない事態になった。都民は一斉に都政の愚を突き、天災にあらず人災であると不満をもらした。果たして、人工降雨や海水を真水に変えてはどうか、などの議論さえ盛んに行なわれた。これも、科学に対する信頼がいかに全幅的なものであるかを物語っているといえよう。

確かに、科学に頼ることは結構である。また、こうして災難を未然に防ぎ、被害を最小限に止め、民衆の苦難を減らすために、科学の働き得る分野は、無制限に残っている。したがって、科学を一層、急速に発達させ、未開拓の分野を一つ一つ征服していくことは大切である。

だが、そうなる時を待つのみであっては、現実の民衆の苦しみを解決したことにはならない。10年、20年、100年後は、科学がそのような力をもつようになるかもしれない。また、そのような力をもつことを期待する。だが、それよりも大事なことは今である。未来に期するがゆえに、現在を犠牲にしてよいという法はない。止むを得ないということはあろう。だが、現時点で尽くせる方法があるのならば、それを用いるのが、賢明な指導者である。

いわんや、科学の発達には、そのプラスの面と共にマイナス面があることも事実である。

また、ある書は、語る。

戦後20年、農薬の発達と普及とによって日本の農業、特に稲作技術は一変した。1960年代の日本農業からは、凶作という文字が消えたといっても過言ではない。異常低温や台風があっても、米の収穫高は平年並みである。米に関する限り、日本は万年豊作の国になった。

農薬はウンカのような害虫を殺し、イモチのような病気を防いでくれるばかりか、雑草も絶やしてくれた。農民は真夏に腰を曲げ草取りの重労働から解放された。日本じゅうの田んぼを、農薬散布のヘリコプターが飛び回っている。その効用は、どれだけの形容詞を使っても使い過ぎるものではない。

だが人々がその「効」だけを見つめているとき、その裏側の「罪」がしのびよってきていた。

昆虫がいなくなったため、受粉できないリンゴの花が、色あせても枯れずに残っていく。やっと見つけたドジョウやフナは奇形だった。飛び出したまま帰ってこない働き蜂と、卵を生めない女王蜂。もだえ死んでいく雌牛。農薬に汚染されている桑を食べたカイコが、酔ったようにはい回り、口から濁った汁を吐き出し、やがて、身体が収縮して死んでしまう。

こうした農薬の恐怖は、人間にも及んでいる。イモチの特効薬である有機水銀が、稲に少しずつ定着し、それを食べた人間の体内に貯まって“第二の原爆病”を生むかもしれない、といわれている。

これは、農薬という、きわめて一小部分の科学が生んだ明暗の二面である。原子力の開発がもたらした悲劇については、今さらいうまでもない。この暗黒面の解消については、政治と科学とが坦っている重荷といえる。将来、真剣な検討と、綿密な研究とが要求される問題である。

だが、ここにまた、もう一つの問題がある。それは、複雑、微妙であり、しかも、恐るべきことである。すなわち、こうした「罪」の面については、多くの具眼の士が早くから注目し、事実を挙げて警告しているにもかかわらず、問題が一般大衆の口にのせられるほど重大な事態になるまで、ほとんど顧みられないということである。

ある問題については、何百人もの人が死んだり廃人になったりして、ジャーナリズムに取り上げられるようになって、初めて真剣に検討されるようになった。ある問題にいたっては、まったく顧みられず、それを世論に訴えようとした良識派は脅迫され、犠牲者は泣き寝入りをしなければならなかったということさえある。

そこで、浮かび上がってくるのは、たとえば、農薬の例について見ると、ある種類の農薬を作るために、ある大会社は莫大な資金を注いで整備を整え、原料産地とも長期の契約を結んで量産体制している。その販売ルートについても、農業協同組合等と手を組んで、恒久的な体制を築いている。

もしも、その薬の有害面から、研究しなおし、大幅に作りかえなければならないとすれば、研究資金もかかる。施設の手直しもしなければならない。消費者に対する啓蒙も、大幅な手間がかかる。現料産地との契約も変えなければならない。販売ルートには信用失墜である。第一、有害と認めた以上、即時に生産を停止しなければならないし、それから新製品の量産にはいるまで、どうやって経営を維持していくのか。

求められる新しい理念と指導者

しかも、この会社は、与党の保守政治家に莫大な資金を献金しており、その利害はそのまま、有力政治家たちの懐に影響してくる。少なくとも現在の日本においては、そうしたつながりが、政界と財界の間につくられている。したがって、一般農民に対して害を及ぼすことがわかっていても、政治的な圧力で良識の声は封じられ、現存の体制が維持されようとするのは、必然の理である。

われわれは、ここに、現代政治機構の複雑かつ微妙な裏面を覗き見るとともに、人間生命の汚濁した奥底を知ることができるのである。日本の民衆は、封建時代の昔から「知らしむべからず、依らしむべし」の原則で為政者によって扱われ、「見ざる・聞かざる・言わざる」の態度を強いられてきた。その生活は、いっさいの楽しみやぜいたくは厳禁され、「百姓は生かすべからず、殺すべからず」とさえいわれる。非人間的な生活に馴らされてきたのである。

日本の為政者の民衆に臨む態度の底辺には、こうした古くからしみついたものがあることも、かなしむべきことである。否定できない事実である。この無慈悲な指導者を追放して、慈悲の政治を実現する以外に、民衆の幸福はない。民衆が目覚め、古い絆を断ち切って、政治に対する無智と無関心を打ち破り、自己の理想へ希望をもって戦うようにならなければならない。

また、そうした民衆の中から、民衆の苦しみを知り、民衆を愛し、民衆のために戦う、新しい指導者が出現して、政界に出なければならない。

この民衆と指導者の自覚と奮起のためには、何が必要か。生命を躍動させ、情熱を燃え上がらせる、新しい理念が必要である。個人と社会に関する、力強い哲学が必要である。大衆が心を一つにして団結し、その同じ目的のために力を有効に発揮させていく、指導者が必要である。かつ、科学に対する盲信から現代人を目覚めさせ、科学のみならず現代機械文明の環境の中に自我を見失った現代人に、真の自我を確立させる、根本的なヒューマニズムが必要である。

この一切の要求に応える唯一のものこそ、日蓮大聖人の色心不二の大生命哲学であり、創価学会の基本理念であり、仏法哲学の実践による人間革命である。

過去千数百年にわたって、日本民族の、こうした力強い自覚を隠滅し、無智と無気力におとしいれてきた張本人こそ、浄土宗をはじめとする邪悪な仏教の僧侶たちである。正しい仏法が人間の心を、浄らかで、強く明るくするのに対して、邪な教えは、濁らせ、弱々しくし、理性の眼を閉じさせてしまう。

このゆえに、民族の生命力は衰え、独創性は消え、文明は沈滞する。思想は陰険となって狭い国土で、骨肉相食み、動物にも劣る醜態を繰り返していく。この正報が依報に反映し、三災七難を呼び起こすことは既に論じたとおりである。したがって「謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば国中安穏にして天下泰平ならん」と申されているのである。

 

 

第三章 (涅槃経を引き謗法訶責を説く)

即ち涅槃経に云く「仏の言く唯だ一人を除いて余の一切に施さば皆讃歎す可し、純陀問うて言く云何なるをか名けて唯除一人と為す、仏の言く此の経の中に説く所の如きは破戒なり、純陀復た言く、我今未だ解せず唯願くば之を説きたまえ、仏純陀に語つて言く、破戒とは謂く一闡提なり其の余の在所一切に布施すれば皆讃歎すべく大果報を獲ん、純陀復た問いたてまつる、一闡提とは其の義何ん、仏言わく、純陀若し比丘及び比丘尼・優婆塞・優婆夷有つて粗悪の言を発し正法を誹謗し是の重業を造つて永く改悔せず心に懺悔無らん、是くの如き等の人を名けて一闡提の道に趣向すと為す、若し四重を犯し五逆罪を作り自ら定めて 是くの如き重事を犯すと知れども而も心に初めより怖畏懺悔無く肯て発露せず 彼の正法に於て永く護惜建立の心無く毀呰・軽賎して言に過咎多からん、是くの如き等の人を亦た一闡提の道に趣向すと名く、唯此くの如き一闡提の輩を除いて其の余に施さば一切讃歎せん」と。

 

現代語訳

涅槃経には「仏のいわく『ただ一人を除いて、他の一切の人に布施するならば、皆はその布施行を讃嘆するであろう』と、これに対して釈尊の弟子純陀が質問するには『どういう人を名づけてただ一人を除くというのですか』。仏いわく『今ここで唯一人とは破戒のものである』純陀がまた質問する『自分にはどうしてもまだよく分かりませんもっとくわしく教えて下さい』仏いわく『破戒のものとは一闡提のことである。一闡提以外の一切の人に布施すれば、皆讃嘆され大果報を得るであろう』純陀が重ねて質問する『一闡提とはどういうことですか』仏いわく『純陀よ。もし僧尼および俗男俗女が、粗悪なことばをもって正法を誹謗し、そのような正法誹謗の重業を作ってしかもそれを長く悔い改めようとせず心に懺悔しようとしないであろう。そのような人を名づけて一闡提の道に趣くというのである。あるいはまた殺・盗・淫・妄語等の四重罪を犯し、父母を殺す、破和合僧などの五逆罪を作り、しかも自分でそのような重罪を犯すことを知りつつも最初から心に恐れを慎んだり懺悔する心が少しもなく、また仮にそのような心があったとしても、表面には少しもそれを示さず懺悔しない。しかして正法を惜しみ建立する心など少しもなく、かえって正法を破り、悪口をいい、いやしんでその言葉はあやまりだらけであろう。そのような人のことをまた一闡提の道におもむくものとするのである。ただこのような一闡提の人たちを除いて、それ以外に布施するならば、一切が皆讃嘆するであろう」とある。

 

語釈

純陀

梵名チュンダ(Cunda)の音写。中インドの拘尸那城、跋提河のほとりの沙羅双樹林に住んでいた金工。釈尊が入滅するとき、最後の供養を捧げ、涅槃経の対告衆ともなった。

一闡提

梵語イッチャンティカ(icchantika)の音写。一闡底迦とも書く。本来は、欲求しつつある人の意で、真理を信じようとしない快楽主義者や現世主義者をさした。仏法では、覚りを求める心がなく、成仏する機縁をもたない衆生をいう。仏の正法を信じないでかえって反発・誹謗し、その重罪を悔い改めない不信・謗法の者のことで、無間地獄に堕ちるとされる。

懺悔

犯した罪悪を悟って、悔い改めること。「懺」は梵語クシャマ(kşama)の音写、懺摩の略。「悔」は懺摩の意訳。懺悔は梵語と漢語を合成した語。原始仏教では、比丘が仏や長老格の比丘に告白し、裁きを受けた。また懺悔は経典の各所でその儀則や功徳が説かれ、儀礼として中国・日本で定着した。日蓮大聖人は「可延定業書」で当時病床にあった富木尼御前に「業に二あり、一には定業、二には不定業。定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す。何に況や不定業をや」とおおせになり、定業であっても、妙法の力で転換し悪業を消滅させることができ、寿命を延ばすことができると励まされている。

四重

四重禁戒の略。四波羅夷戒ともいう。僧の受持すべき具足戒の一つ。殺生・偸盗・邪婬・妄語の四重罪を犯すことを禁じたもの。以上の重罪を犯すと僧の資格を失い、教団追放となる。

五逆罪

理に逆らうことの甚だしい五種類の重罪。無間地獄に堕ちる悪業のゆえに無間業ともいう。五逆罪には、三乗通相の五逆、大乗別途の五逆、同類の五逆、提婆の五逆などがある。代表的なものは倶舎論巻十七に説かれる三乗通相の五逆で、一に父を殺し、二に母を殺し、三に阿羅漢を殺し、四に仏身より血を出し、五に和合僧を破る、をいう。

 

講義

天下安泰・国土安穏は冶術か、謗法の人を禁しめて正道の侶を重んずることであることを明かすに先立って、謗法の人、一閻浮提の人とはいかなる者なのか、また、釈尊は一闡提人をどのように処せよと教えられているのかを、涅槃経を引いて明かされるのである。

すなわち、涅槃経によれば、一闡提人とは「僧尼男女を問わず、麤悪の言を発し、正法を誹謗し、無間地獄に堕ちる重罪を犯しながら、永く悔い改めず、心に懺悔のない人」であり、「四重・五逆を犯し、その罪を自ら知りながら怖れる心もなく、懺悔もなく、正法を護持しようという心もなく、かえってこれを誹謗するような人」である。

しかして、今末法において、正法とは、日蓮大聖人御建立の三大秘法の大御本尊である。されば今日において正法を破る一闡提人とは総じて大聖人の仏法を信ぜず、誹謗をし、御本尊を拝さぬ者、またいっさいの邪宗邪義に執着する僧尼及び俗男俗女のことである。なかんずく、正法を毀謗してやまず、一切衆生を不幸のどん底に追いやる各宗派の悪侶こそ、まさしく一闡提中の一闡提であり、涅槃経の指摘する一闡提とは、別してこれを指すのである。

破戒とは謂く一闡提なり

破戒とは、戒を破る者をいう。戒とは戒めで、外道においては、教祖や、その後継者の立てた各種各様の戒がある。島崎藤村の小説「破戒」が、父の戒を破るという内容であることは周知のとおりである。キリスト教、ユダヤ教ではモーゼの十戒、バラモン教ではヴェーダに記された各種の戒、儒教では孔子の論語、道教では老子、荘子の述作にそれぞれ戒が説かれている。

経により異なる仏教の戒律

仏教について戒を見ると、小乗教・権大乗教・実大乗教と、経門の浅深、仏の境涯の高下によって、その意味する実体も違いがある。

仏教における戒とは、天台大師の菩薩戒疏にいわく。

「戸羅ここに翻じて戒となす。戒とは何の義があるか、義は警に訓ずるなり、三業を警策し、縁の非を離れて、その因を明らかにするによるなり。古の所伝の如きは、防非禁悪、以って戒と解す。然るに戒は善悪に通ず、律義また然なり。普ねく挙げて以って戒の義を釈すべからざるも、経論の如きは、多く善戒に従う。義に約して名を得たり」と。

「善悪に通ず」とは、たとえばヤクザの世界にはヤクザの掟がある等の意である。今、仏法においては「非を防ぎ悪を止める」との本来の意義をとって、戒を防非止悪と釈するのである。しかして、これを受持すれば、煩悩業苦の因を離れ、清涼の果を得る故に清涼と訳し、悪を禁じ非を防ぐ故に禁と釈し、悪を止め善を得る故に止得と訳し、好んで善道を行じ、自ら放逸に流れないが故に性善とも釈すのである。

釈尊の教えの中で、小乗教は戒を中心としたものである。従って、小乗戒は最も数が多く煩雑でもある。なぜ釈尊が戒を重んじたかについて、その背後には、当時のインドの一般民衆の風潮を考えなければならない。即ち、当時のインドでは、享楽主義の傾向が強く、何よりもこの風潮を打ち破る必要があったのである。

その内容は、俗男俗女に対する五戒・八斎戒、出家のために十戒、また具足戒といって比丘に250戒・比丘尼に500戒、さらに3000の威儀、80000の細行等である。

これに対して、大乗教では、民衆の済度のために勇猛精進する実践修行が中心となり、小乗の戒は、この実践の中に含まれていると説かれるのである。

内容としては、梵網経の十重禁戒と48軽戒、涅槃経の菩薩五種戒、事理二戒、軽重二種戒、十種戒、菩薩地持戒等の九種戒、大智度論の八律義戒、二種および三種戒、華厳経の八種戒と十種戒がある。また諸大乗教を通じて説かれている戒として三聚義戒がある。

三聚浄戒とは、一に摂律義戒といって、いっさいの律義を摂受する義である。律とは律法禁止、儀とは儀制軌範をいう。小乗の五戒・八斎戒・十戒・250戒・500戒はすべて、ここに含まれるのである。

二に、摂善法戒といって、菩薩が行ずる所の戒は、八万四千法門ならびにいっさいの善法を摂聚するのである。これによって、先の摂律義戒で身・口・意の所作の善の所作の善に加え、聞・思・修の三慧・六波羅蜜等、ことごとく無上菩提に回向することになる。

三に、摂衆生戒といって、菩薩の四弘誓願である。これによって、菩薩の慈・悲・喜・捨等の一切を摂するのである。

次に、法華経の戒には、一乗戒、三如来室衣座の戒、四安楽行の戒、普賢四種の戒の四つがある。一乗戒とは、法華経を受持することである。三如来室衣座の戒とは、大慈悲為室、柔和忍辱衣、諸法空為座で、衣座室の三軌ともいう。法師品に説かれている。普賢四種の戒とは、普賢品に「一には諸法に護念せられ、二には衆の徳本を植え、三には正定聚に入り、四には一切衆生を救う心を発するなり」とある。この四法を成就することをいう。

以上、釈迦仏法の各教法に説かれている戒を見てもわかるように、教法の内容が低いほど戒が煩多で厳しい。したがって、その戒を全うできる人は、階層的にも特殊化され、数の上でも極めて限定されてくるのである。むしろ、小乗の250戒、500戒にいたっては、完全に実行することはできないのが当然といって過言ではない。

教法が優れていれば優れているほど、煩雑な行法は枝葉末節となって比重が軽くなり、不必要となる。かえって、根本をかくす害悪ともなるのである。実践が簡略化すれば、それだけ、どのような立ち場の人であっても、修行することができる。すなわち、広範囲の衆生を救済することができるので、大乗というのである。

末法の戒は受持即持戒

さて、それでは、末法のおいては、何をもって戒とするのか。すなわち、受持即持戒といい、大御本尊を受持することに尽きるのである。

教行証御書にいわく、

「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、 此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや、但し此の具足の妙戒は一度持つて後・行者破らんとすれど破れず 是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つ可し、三世の諸仏は此の戒を持つて法身・報身・応身なんど何れも無始無終の仏に成らせ給ふ」(1282:10)と。

御義口伝にいわく、

「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉り権教は無得道・法華経は真実と修行する是は戒なり防非止悪の義なり」(0744:02)と。

大学三郎殿御書にいわく「設い世間の諸戒之を破る者なりとも堅く大小・権実等の経を弁えば世間の破戒は仏法の持戒なり」(1205:12)と。

また四信五品抄にいわく、「問うて云く末代初心の行者何物をか制止するや、答えて曰く檀戒等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを一念信解初随喜の気分と為すなり是れ則ち此の経の本意なり」(0340:09)と。

上に挙げた諸文から、末法における戒は、ただ一つ、三大秘法の大御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱えることであることは明瞭である。初信の行者に対しては布施、持戒等の五波羅密を廃することである。このゆえに、無量義経では「末だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」と説かれているのである。

なお、ここで五波羅密を制止するというのは、般若波羅密は、以信代慧の信として、末法修行にも重要な位置を占めてるから、これを除いて五波羅密というのである。

末法においては、同じく四信五品抄に「末法の中に持戒の者有らば是れ怪異なり市に虎有るが如し此れ誰かず可き」(0341:12)との伝教大師の言葉を引かれているように、持戒の者はありえない。また、不必要なのである。これを「末法無戒」という。

この末法無戒とは、題目さえ唱えていれば悪事を働いてもよいという意味ではない。南無妙法蓮華経の修行によって、自然に六波羅蜜の徳、もろもろの戒等が具わってくるのである。

三世諸仏総勘文教相廃立にいわく、

「所詮己心と仏身と一なりと観ずれば速かに仏に成るなり、故に弘決に又云く『一切の諸仏己心は仏心と異ならずと観し給うに由るが故に仏に成ることを得る』と已上、此れを観心と云う実に己心と仏心と一心なりと悟れば臨終を礙わる可き悪業も有らず生死に留まる可き妄念も有らず、一切の法は皆是れ仏法なりと知りぬれば教訓す可き善知識も入る可らず思うと思い言うと言い為すと為し儀いと儀う行住坐臥の四威儀の所作は皆仏の御心と和合して一体なれば過も無く障りも無き自在の身と成る此れを自行と云う」(0569:16)と。

この文に己心とあるのは、われわれの信心の一心一念であり、仏身とは御本尊である。御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱え奉り境智冥合することが、末法の観心である。受持即観心であり、また受持即持戒となるのである。

このように、末法においては、正法を受持することが持戒であるので、正法を受持せず、護惜建立の心なく誹謗する一闡提を破戒というのである。したがって、破戒とは、一往、信心しない人いっさいの人々に通ずるが、再往、一切衆生の善心を破り、不幸をもたらす邪宗教の輩こそ、破戒の中の破戒であることはいうまでもない。

其の余の在所一切に布施すれば皆讃歎すべく大果報を獲ん

一闡提以外のあらゆるいっさいの人々に布施するならば、皆その行いを讃歎するであろうし、また、その行ないによって大果報を得るであろうとの意である。

涅槃経のこの文は、布施をすることをすすめることに本意があるのではない。一闡提、謗法を排除することを教えるために説かれたことを知らなければならない。それによって、善良の人々が謗法、一闡提となって無間地獄に堕ちるのを防ごう、また、無間地獄に堕ちるべき業因をすでにつくっている謗法、一闡提人をも、悔い改めさせることによって、その罪を軽減させてやろうとの大慈悲であることもいうまでもない。

法の布施と財の布施

本来、布施には、財の布施と法の布施とがある。財の布施とは物品を与えることであり、法の布施とは、正法をもって衆生を救う行為であり、今われら創価学会が勇猛精進している折伏行がそれである。

末法の衆生は、貧・瞋・癡三毒熾盛の衆生であるとは、仏の予言である。正しくそのとおり、欲張りで、怒りっぽく、ひがみっぽく、愚かである。もし、こうした衆生を、財の布施のみで幸福にすることができると考えたならば、恐らく大変な失望を感ぜずにはいられなくなるであろう。

衣食住を満たしてやれば、次はラジオやテレビ、ゴルフセット等々、娯楽品がほしがるようになる。それが満たされると、男なら自動車や飛行機、女なら宝石や貴金属、毛皮のコート等々、恐らく、その欲望は際限なく広がっていくに違いない。そして、自分のもらったものと隣の人がもらったものを較べてみて、あるいは、ひがむ人も出てくるに違いない。恩を感ずるどころか、かえって与えてくれた人を恨み、怒る人も出てくるであろう。

これに似た事実は、われわれの日常生活で絶えず見受けられる。また、北欧諸国等の社会福祉政策の徹底している国で、民衆が無気力化しているという事実、この一点からも、唯物論的な幸福論や共産主義国家をめざす理想社会、資本主義諸国のいう“豊富な社会”が、いずれも、大きな錯覚の上に築かれた幻の城にすぎないことがわかるのである。

物の布施には限りがある。だが、法の布施には限りがない。大御本尊の信心を教えることにより、病気の人は健康体に、貧乏の人は金持ちに、精神的異常の人は正常になる。これは、本人が大御本尊に題目を唱え、折伏を行ずることによって境智冥合し、偉大な生命力と福運と智慧とを発揮することができるようになったからである。金や物を与えるのではなく、金や物を手に入れることができる力と智慧と福運が大御本尊を拝むことによって、つちかわれるのである。したがって、この大御本尊を人々に教えてあげること、すなわち折伏は最も偉大な布施行といえるのである。

而して、その折伏は、三世十方の仏みな讃嘆するのであり、行ずる人はみずから大果報を得る源泉であることを知るのである。

ここに一闡提の謗法の者に対する布施を禁じられたのは、物の布施であって法の布施ではない。むしろ一闡提人に対しては、物の布施を禁ずることが実は法の布施になるのである。それは一闡提の生命を断ち、不幸の原因を取り除くことになるからである。一闡提人に対しては強折することが、最高の法の布施であり、これは絶対になさねばならないのである。

懺悔について

一般に懺悔というと、キリスト教独特のもののように思っている人が多い。だが、本来の懺悔とは、仏法にあるのであって、キリスト教のそれは、もともとの「悔悛の秘蹟」といったのを、仏法に無智な人が懺悔と名づけたに過ぎない。

キリスト教の懺悔とは、カトリック教会で行っている秘蹟の一つである。その考え方は、まず彼らは入信する時の洗礼によって、その受洗者のすべての罪は赦されるとする。しかし、受洗後、罪に堕ちる者もある。この者たちの救いのために、いわゆる悔悛の秘蹟を行なう、というのである。

悔悛の秘蹟を授ける資格があるのは、司祭と司教で、これを受ける者は洗礼を受けた者に限る。そして、犯した罪に対して心から悔いて、司祭または司教の前で、それをいいあらわさなければならない。司祭、司教は告白者の罪の償いを命じ、赦免の言を与えるのである。

これは、実に奇妙なことといわざるをえない。司祭、司教といえども、過ち多き人間であることに変わりはないはずである。極端な例だが、ローマ法王庁に陰謀と野心と恐怖と堕落が渦巻いていたのは、その全盛時代に当たる数百年前のことではないか。司祭、司教が教会王国を形成して、農奴や商人を獄卒が囚人を扱うように苛責し、血をしぼり肉をもぎ取ったのも、やはり彼らの全盛を誇った中世ではないか。

一体、彼らに何の資格があって、人の犯した罪を赦したり、償いを命じたりすることができるのか。彼らこそ、その先輩が、民衆の父祖に対して行った虐待の罪に対し、赦しを乞うというほうが、まだしも筋が通っている。これは要するに、無智な民衆の罪悪感に乗じて、何の関係もない悪者が操ろうとする、詐欺にほかならない。これが、キリスト教の懺悔の実体である。

それでは、真実の懺悔、仏法の懺悔とは、どのようなものか。法華経の結経である普賢経にいわく、

「一切の業障海は、皆妄想より生ず。若し懺悔せんと欲せば、端坐して実相を思え、衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す」と。

実相とは、生命の本質、宇宙の極理であり、南無妙法蓮華経である。この大法を日蓮大聖人は一閻浮提総与の大御本尊として、御図顕あそばされたのである。すなわち、経文の心は、いかなる罪の人も大御本尊に向かって端坐し、真剣に題目を唱えるならば、罪は太陽が霜や露を消すようにことごとく消える、との意である。これを大荘厳懺悔というのである。

上の普賢経の文について、御義口伝には、次のように説かれている。

「衆罪とは六根に於て業障降り下る事は霜露の如し、然りと雖も慧日を以て能く消除すと云えり、慧日とは末法当今・日蓮所弘の南無妙法蓮華経なり、慧日とは仏に約し法に約するなり、釈尊をば慧日大聖尊と申すなり法華経を又如日天子能除諸闇と説かれたり、末法の導師を如日月光明等と説かれたり」(0786:第四一切業障海皆従妄想生若欲懺悔者端坐思実相衆罪如霜露慧日能消除の事)。

すなわち、法に約して南無妙法蓮華経、人に約して日蓮大聖人、その人法一箇の大御本尊こそ、一切衆生の業障を消滅する慧日なりとの御金言である。

また、これに加えて、同経には刹利、居士すなわち民衆の指導者として行うべき五種の懺悔の法を説いている。

第一は、 三宝を謗ぜず、正法を行ずる者に留難をなさず、大乗を持つ者を供養、尊重し、自らは甚深の教法、第一義空即ち、南無妙法蓮華経を心に念ずることでる。

第二は、 父母に孝養し、師長を恭敬すること。

第三は、 正法をもって国を治め、人民を邪枉しないこと。

第四は、 六斉日には、力の及ぶ限り不殺を行ぜしめる。

第五は、 深く因果を信じ、一実の道を信じ、仏は滅し給わずと知ること。

である。

御義口伝にいわく、

「末法の正法とは南無妙法蓮華経なり、此の五字は一切衆生をたぼらかさぬ秘法なり、正法を天下一同に信仰せば此の国安穏ならむ、されば玄義に云く『若し此の法に依れば即ち天下泰平』と、此の法とは法華経なり法華経を信仰せば天下安全たらむ事疑有る可からざるなり」(0786:第五正法治国不邪枉人民の事)と。

すなわち、日蓮大聖人の大生命哲学をもって、民衆を、今世はもとより、未来永劫にわたって、平和世界に住せしめることができるのである。

 

 

第四章 仙予国王の謗法断絶を示す

  又云く「我れ往昔を念うに閻浮提に於て大国の王と作れり名を仙予と曰いき、大乗経典を愛念し敬重し其の心純善に粗悪嫉燐有ること無し、善男子我爾の時に於て心に大乗を重んず婆羅門の方等を誹謗するを聞き聞き已つて即時に其の命根を断ず、善男子是の因縁を以て是より已来地獄に堕せず」と、又云く「如来昔国王と為りて菩薩の道を行ぜし時爾所の婆羅門の命を断絶す」と、又云く「殺に三有り謂く下中上なり、下とは蟻子乃至一切の畜生なり唯だ菩薩の示現生の者を除く、下殺の因縁を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に下の苦を受く、何を以ての故に是の諸の畜生に微善根有り是の故に殺す者は具に罪報を受く、中殺とは凡夫の人より阿那含に至るまで是を名けて中と為す、是の業因を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に中の苦を受く・上殺とは父母乃至阿羅漢・辟支仏・畢定の菩薩なり阿鼻大地獄の中に堕す、善男子若し能く一闡提を殺すこと有らん者は 則ち此の三種の殺の中に堕せず、善男子彼の諸の婆羅門等は一切皆是一闡提なり」已上。

 

現代語訳

 

また涅槃経聖行品には「自分は昔、過去世において閻浮提の大王の王となり仙予と名乗っていた。しかして大乗経典を愛念し、敬い重んじてその心は純善であり、粗悪の心や人を嫉んだり、物惜しみするようなことはなかった。善男子よ自分はその時大乗を重んずるあまり、波羅門が大乗の実理を誹謗するのを聞いて、即座にこれを殺害してしまった。善男子よ、自分はこの波羅門を殺した因縁によって、それ以降地獄に落ちないのである」とあり、また、涅槃経梵行品には「如来は昔、国王となって菩薩の道を行じたとき、若干の波羅門を殺害した」とある。

同じく梵行品には「いわゆる殺生の罪は下・中・上の三つがある。下とは蟻の子をはじめ一切の畜生を殺すことである。ただし菩薩の示現生のものは除く。下殺の罪によって地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ち、つぶさに下の苦を受ける。なぜならば諸の衆生にもすべて、わずかではあるが善根がある。その故に殺したならば、その罪報を受けるのである。中殺とは凡夫の人より阿那含果の賢人にいたるまでを中といい、これらのものを殺すと、その業因により、やはり三悪道に堕ちて中の苦をうけるであろう。上殺とは父母をはじめ声聞界の最高位である阿羅漢、縁覚界の辟支仏、不退に入った菩薩を殺す罪であり、これは大阿鼻地獄に堕ちるのである。善男子よもし一闡提を殺すものはすなわちこの三種の殺の中に入らない。善男子よかの正法を誹謗する波羅門等は、一切皆この一闡提である」とある。

 

語釈

 

仙予

仙予国王。釈尊が過去世に菩薩として修行していた姿の一つ。涅槃経聖行品に「釈尊が昔、閻浮提において大国の王と生まれ、名を仙予といった。その時に波羅門が正法を誹謗するのを聞いて、即時に殺してしまったが、この因縁によってそれより地獄へ堕ちないのである」とある。同じく涅槃経には「ある国に医者があり、ただ乳薬ばかり用いて病気の本体を見ることができなかった。そのうちによく病気の根源を知る新医が現われたので、国王は旧医を放逐し、こんご乳を服せしめてはならぬと布令し、犯すものは断首すると布告した」と。開目抄では、摩訶止観、止観輔行伝弘決からの引用によって、折伏を説く文としてこの話が挙げられている。

 

菩薩の示現生

菩薩が衆生済度のため、誓願して畜生の姿でこの世に生まれているもの。すなわち、人間に縁を結び、その人間を救うために動物の姿をとるというのである。これは殺しても罪にならないという意。その例として、釈尊が昔飢饉の世に赤目の大魚となって五人の大工に食べられたが、それによって縁を結んだのが成道後、最初に教化した阿若憍陳如・頞鞞・跋提・十力迦葉・拘利の五人であるというのである。

 

阿那含

梵語アナーガーミン(anāgāmin)の音写。声聞の修行の四つの階位の第三。この聖者は欲界九品の惑を断じて、二度と欲界に生まれ還ることがないことから「不還」と訳される。

 

辟支仏

十界のなかの縁覚のこと。梵語プラティエーカブッダ(Pratyeka-buddha)の音写。独覚、因縁覚ともいう。「各自に覚った者」の意。十界・二乗・三乗の一つ。縁覚は、六道輪廻する因となる煩悩を断滅して、死後は二度と生まれて来ないことを目指す。大乗の立場からは、これは灰身滅智とされ、成仏できないと批判された。また四土の説では、声聞の阿羅漢や縁覚のように、方便の教えを修行して煩悩の一部を断じた小乗の聖者は、方便有余土に生まれるとされる。観心本尊抄には「世間の無常は眼前に有り。豈人界に二乗界無からんや」とあり、われわれ人界にそなわる声聞界と縁覚界の二乗は、無常という仏教の覚りの一分を覚知することにうかがえると示されている。これに基づき仏法の生命論では、縁覚界は、自分と世界を客観視し、現実世界にあるものはすべて縁によって生じ時とともに変化・消滅するという真理を自覚し、無常のものに執着する心を乗り越えていく境涯とされる。十法界明因果抄には「第八に縁覚道とは、二有り。一には部行独覚、仏前に在りて声聞の如く小乗の法を習い、小乗の戒を持し、見思を断じて永不成仏の者と成る。二には麟喩独覚、無仏の世に在りて飛花落葉を見て苦・空・無常・無我の観を作し見思を断じて永不成仏の身と成る。戒も亦声聞の如し」とある。

 

畢定の菩薩

修行が畢って行位不退に安住している菩薩である。畢定とは、畢竟決定の意で、不退ということである。十法界明因果抄には「凡夫に於て此の戒を持するを信位の菩薩と云う。然りと雖も一劫二劫乃至十劫の間は六道に沈淪し、十劫を経て不退の位に入り、永く六道の苦を受けざるを不退の菩薩と云う。未だ仏に成らず、還つて六道に入れども苦無きなり」と述べられている。ただし、ここでいう畢定とはあくまで行位不退ということで、念不退の初住の菩薩以上は除く。なぜなら、初住の菩薩以上は、一分の仏であって殺害することはできないからである。

 

 

講義

 

謗法の者を対治せよと仰せられる裏づけとして、たとえ殺しても仏法上の罪は受けないことを涅槃経の文を引いて証明されるのである。謗法がいかに憎むべきものであるか。その流す害毒がどれほど大きいか、この一事をもってしても瞭然たるものがあるではないか。

およそ、この経文は、仏法を暖かい慈愛の教えにしか知らない現代人にとっては、驚天動地の説法であろう。「これが、あのお釈迦さまの言ったことだろうか」と耳を疑う人もいるかもしれない。そのような人は、まず、自己がこれまで持っていた仏法観が、まったく皮相的であったことを知るべきである。そして、仏のもつ深遠な哲理、力強い指導性を、心を謙虚にして求めるべきである。

すでに、多くの経文を引いて、繰り返し論じられてきたように、三災七難の根本原因は、この社会に、邪法、邪宗がひろまっていることにある。飢饉・疫病・戦乱・水害・早害・冷害等々の天災や人災によって、死んでいった人々の数は、測り知ることすらできない。

すなわち、これらの人命を奪い、民衆の生命力を衰えさせ、国土を荒廃させた張本人こそ、謗法、一闡提の僧たちなのである。彼らは魔物以外の何ものでもない。しからば、魔物を対冶して、人々が安心して生活していける社会にしていくことは為政者の義務である。この道理から、謗法の命を断ぜよと仰せられているのは当然といえるのである。

法蓮抄には、この安国論の要点を、みずから次のように示されている。

「彼の状に云く詮取此の大瑞は他国より此の国をほろぼすべき先兆なり、禅宗・念仏宗等が法華経を失う故なり、彼の法師原が頚をきりて鎌倉ゆゐの浜にすてずば国正に亡ぶべし等云云」(1053:05

また、撰時抄にいわく、

「去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向つて云く日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり、只今に自界反逆難とてどしうちして他国侵逼難とて此の国の人人・他国に打ち殺さるのみならず多くいけどりにせらるべし、建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて彼等が頚をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ」(0287:11

上の御文に拝されるように、日蓮大聖人自身も、涅槃経の文によって「邪宗の者どもの頸を切れ」と叫ばれたのである。これひとえに謗法を憎むゆえであって、人殺しを承認されているのではない。仏の慈悲は、母の慈愛ではない。父の厳愛に譬えられる。一切衆生を慈愛するからこそ、悪に対しては厳格である。

ゆえに、この後の文で「釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍の以後経説は則ち其の施を止む」と申されているのである。日寛上人は「頸を斬れ」とは対治悉檀、「施を止めよ」は為人悉檀に約すと教えられている。すなわち、謗法の心を断ち切り、謗法の行為を殺せとの意である。

今、われら創価学会員が、既成宗教各派、新興宗教の輩を、堂々たる折伏戦、言論戦をもって責め、彼らの邪義・邪法を完膚なきまでに打ち破るのは「頸を斬れ」とのお心に応えることになるのである。また、彼らに迷わされて、檀信徒、会員となっている民衆を、正義に目覚めさせて、邪宗教から離れさせているのは「施を止む」に叶う行為といえよう。

 

生命の尊厳

 

生命の尊厳を余すところなく説ききった哲学は仏法以外にない。仏法こそ最高唯一の生命哲学である。

およそ、人間生命について、人は古来、おのおのの立ち場から、さまざまに考えてきた。だが、それらは、単に表面のみを見た皮相的なものであり、かつ、部分観である。したがって、実に千差万別である。ここでは、一応、性善説とに分けて考えてみよう。

まず、性善性に属するものに、孟子がある。彼いわく「人性の善なるや、なお水の下に就くが如きなり」と。すなわち、人の性は水が高きより低きに流れるごとく、自然に向かうものだというのである。書経にいわく「人は万物の霊」と。すなわち、人間は生まれつき性善であるというのが、性善説の主張である。

これとまったく反対に、人間は本来、悪の性分であるというのが性悪説である。荀子のいわく「人の性は悪、その善なる者は偽りなり。古の聖王、人の性悪なるをもって、これが為に礼儀を起し、法度を制し、もって人の惰性を矯飾してこれを正す」と。すなわち、性悪なるがゆえに、礼、法が必要だというのである。

過去の思想をみるに、一般に洋の東西を問わず、性善説より性悪説の方が優勢であったようである。アメリカのプラグマティズムの創始者、ジェームズも、性悪論者の一人である。いわく「生物学的に考察すると、人間は最も恐ろしい猛獣であり、しかも同じ種族を組織的に餌食にする唯一の猛獣である」と。この言葉は、戦争の残酷さ、愚かさ、ヒトラーやスターリンの行った大量虐殺等を思い合わせてみると、首肯せざるをえない真理を含んでいるともいえる。

また、こうした、互いに相反する性善・性悪両説の中庸をとって、本来、両面があるのだとする考え方も古くからある。たとえば、中国の楊雄が「人の性は善悪混ず、其の善を修むれば善人となり、其の悪を修むれば悪人となる」といい、ヨーロッパではアウグステイヌスが「神は人間を、その本質が天使と獣類との中間に存するものとして作り給えり」というのが、それである。

今、結論的にいって、両面説が真実に近づいていることはいうまでもなかろう。但し、それが、どうしてそうなのかを、生命の奥底から解明するには、仏法の十界論、一念三千論に求める以外にはない。治病大小権実違目に大聖人は、次のように説かれている。

「善と悪とは無始よりの左右の法なり権教並びに諸宗の心は 善悪は等覚に限る若し爾ば等覚までは互に失有るべし、法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(0997:06)と。

また、三世諸仏総勘文教相廃立にいわく、

「善に背くを悪と云い悪に背くを善と云う、故に心の外に善無く悪無し此の善と悪とを離るるを無記と云うなり、善悪無記・此の外には心無く心の外には法無きなり故に善悪も浄穢も凡夫・聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も言語道断し心行所滅す」(0563:10)と。

ここに善といい悪というも、生命の本体と外界との関係性の問題であり、善悪一如なるところが、生命の実相であると明かされている。今の下にいわく「然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり、此の八万法蔵を我が心中に孕み持ち懐き持ちたり我が身中の心を以て仏と法と浄土とを我が身より外に思い願い求むるを迷いとは云うなり此の心が善悪の縁に値うて善悪の法をば造り出せるなり」(0563:17)と。

生命の尊厳というも正しい生命観に立った上での生命尊重でなければ、生命尊重といっても、所詮は空理空論である。

性善説に立つ人も、性悪説を唱える人も、およそ狂人でもない限り、生命の尊厳については必ず認める。それは本能的な生存意識から出てくるものともいえる。しかしながら、生命を惜しむことが心の奥底にはそれを感じながら、封建的な道義感や騎士道精神が優先して、むしろ卑怯とされる傾向も少なくなった。

ヨーロッパ哲学において、人間生命の尊厳こそ価値の実体であることを明言したのは、ドイツの哲人カントであった。すなわちいわく「人間は単なる手段でなく目的であり、世界の内なる一切のものは、それ自身の価値をもたないが、ひとり人間のみは人格として価値をもつ。この人格の内なる人間性を尊重するという価値感情が尊厳である」と。

これは価値哲学の立ち場から、生命の尊厳なる所以を説いた言葉である。その意味では、従来の漠然たる尊厳論より一歩進んだものといえる。

いっさいの人間の活動は、いいかえれば、その生命の働きである。しかして、その活動の成果が、生命の幸福増進に帰着することが、万人共通の願いである。人間の生命、またその活動が国家のため、政治、経済等の機構のため、機械等の物質のために犠牲にされることは不幸というほかない。いわんや、人間の叡智、努力が、人類を破滅させるために費やされるとすれは、これは最大の悲劇である。

われわれは、あくまでも生命尊厳をすべてに優先し、一切の思想、行動の根幹としていかなければならない。また、そのような世界にしていかなければ、人類の幸福、平和もありえないであろう。

しかるに現実は、現代ほど人間性が危機にさらされた時代はかってない。ヒューマニズムという思想は古代からあった。しかるに、人類はこの思想を一度として確立したことはないのである。どうしてそうなのか、これを知るためには生命尊厳の思想が、どのように移り変わってきたかを、振り返ってみる必要がある。人間生命の尊厳を守るという時、いったい、何に対してか、いかなる事態からか、ということを明らかにしなければならない。

 

真のヒューマニズムの確立

 

人間生命を何よりも尊重すべきであるという考え方をヒューマニズムという。これは美しい言葉である。だが、問題は二人の人間、二つの階級、二つの民族が不俱戴天の敵同士になったとき、そのヒューマニズムは何に対してのヒューマニズムになるかである。

古代ギリシァでヒューマニズムが叫ばれた時、それは多くの奴隷たちを度外視したものであった。否、婦人たちさえも、このヒューマニズムの対象から除かれていたのである。

ヨーロッパ中世においても同様である。それは、特権的な貴族たちだけのヒューマニズムであったり、ブルジョアだけのものであった。この下にうごめく、かれらの衣食住を作っている民衆は、まったく存在を考慮されてはいなかった。近世、近代における民衆もしかりである。

マルクスがプロレタリアートの団結を叫び革命を呼号したのも、所詮は、この虐げられ、無視された人々のヒューマニティーのためであった。だがプロレタリア独裁への革命を叫ぶ彼の思想は、旧来の支配階層の人々のヒューマニティー、革命体制に反対する人々のヒューマニティーを必然的に無視せざるをえなかった。

一部の人のみヒューマニズム、他を犠牲にしてもかまわぬという思想は、これを極限に押しすすめた時、ドイツ民族を至高とし、スラブ民族をそれに仕える奴僕とし、ユダヤ民族は虐殺せよと説いたナチズムとなる。

また、白人のみのヒューマニズムが、黒人虐待、有色人種蔑視として、今も幾多の惨事を惹起していることは、周知のとおりである。南アフリカのアパルトヘイト、アメリカの黒人問題、ソ連における黒人留学生冷遇事件等、数え挙げれば際限がない。

人類数千年の歴史は、まさに異なる民族同士の相克の歴史であり、異なる階級同士の闘争の歴史である。民族と民族、階級と階級とがおのおの異なっても、相手の人格を認め尊重し合い、それぞれ特性を生かして平和に暮らしていける日は、いつくるのであろうか。否、いかにすれば実現できるであろうか。

われわれは、人間の人間に対する、こうした幾多の考え方の実相を見た時、その根底にはなんらの哲学、理論もないことに気づく。何をもって人間生命を尊しとするか。生命とはいったい何か、等の問題については誰人も末だ明快な解答を出していない。ただ漠然とした気持ちの上に立ってヒューマニズムが云々されているに過ぎない。

それはあたかも根のない木であり、土台のない家であり、生命のない大理石の像であり、エンジンのない自動車のごときである。見た目は美しくも生命がなく、人々の争いを解消する力もなく、いったん、国際情勢の急変によって戦争が始まるか、あるいは独裁者が出現してテロを使い始めるような事態にもならば、忽ちにして吹き飛んでしまう、はかない存在である。

今、世界の人類は、人間の尊厳が脅かされている未曾有の危機に直面している。機械文明の発達による人間疎外、人類32億を一瞬に抹殺してしまう原水爆戦争等、これらは過去のいかなる時代にもなかった現象である。国家と国家、民族と民族、階級と階級とが互いに分かれて争っている間に、その勝者も敗者も共に絶滅してしまう恐るべき敵が迫ってきているのだ。しかも、それは人間がみずからの手で作り出したものなのである。

したがって、世界平和こそ、人類が直面している最大の課題であり、他の何ものにもまして守らなければならないのは、人間生命であるとの思想が確立されなければならない。

 

仏法の中に説かれている尊厳論

 

しかるに、人類の叡智といわれる人々が、今なしていることは何か。国連総会、軍縮協定、核実験停止条約、平和アピール等々である。言葉は美しいが、いざ行動となると、その根底には、自国の利益があり、思想の対立があり、民族的偏見が相変わらず拭い去られてはいない。その対立が、新しい紛争を惹起し、憎悪のもつれ合いを深めている。

われらは、生命の尊厳を、本格的に自覚する道は、東洋仏法の真髄、日蓮大聖人の生命哲学による以外にないことを、全世界の民衆に、指導者に、訴えてやまない。この自覚に立ったならば、国家的利益も、思想の対立も民族的偏見も、高山から沼沢を見下すがごとく明らかとなり、こうしたものに捉われて、いたずらに争いや対立を繰り返すことの愚が、はっきりと自覚できるのである。

日蓮大聖人の白米一俵御書にいわく、

「いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり、遍満三千界無有直身命ととかれて三千大千世界にみてて候財も.いのちには・かへぬ事に候なり」(1596:04)と。

三千界、三千大千世界とは、古代インドの宇宙観の一つである。現代の天文学的知識をもって考えるならば、銀河系宇宙に相当する。地球一個に含まれているあらゆる宝、富といえども、一個の人間の命には代えられないとの意である。これはどの人間生命の尊厳を説ききった哲学・宗教・思想が他のどこにあろうか。

だが、この尊厳論に較べて、現実の人間はあまりにも弱く、あまりにも惨めである。戦時中の日本では、立った一枚の徴兵礼状で、生命を捨てなければならなかった。今も、多くの国で、それは現実問題として、存在している。その他、飢えて死んでいく人、病気に倒れて死ぬ人、ふとした手違いで死んでいく人、憎まれ殺される人、わずかの金を奪われて死んでいく人、災害で死んでいく人等々、これでは、仏法が説く尊厳を、いったい誰が保障してくれるのか。仏法が説くところは、現実離れしているのではないか、という疑問が湧いてくる。

だが「仏語実不虚」仏の言葉は真実にして誤りなしと、仏みずからが断言されている。そして、その尊厳を、単なる観念論ではなく、事実の上に確立していく方法として、仏道修行を教えられているのである。この仏道修行を全うして、目的である仏界の生命を湧現した時に初めて、この尊厳が、単に頭の中で描いたり、言葉で表現したものではなく、自己の生命力、充実感、外界に対処する力と智慧として実証される。すなわち、永遠の生命観、宇宙即我の境涯を実感し、一念三千の法理を悟った時に、わが生命は、常楽我浄の人生を生ききっていくことができるのである。

およそ、自己という存在を価値のあるものに高めていく責任は、所詮、自己自身が負っている。もとより、世間では、生まれつきの家柄や身分、周囲の人とのつながり等が左右することもあろう。しかし、それは、その人の本質的なものに関係するのではなく、表面だけのことに過ぎない。いっさいの飾りを取り去った後に残る真の自分は、やはり自分の責任である。

科学者は、科学者として研究と実験と思索を重ねていかなければ、立派な科学者になることはできない。事業家しかり、政治家しかり、技術者しかり、教育者しかり。しかして、それらはすべてに共通な人間としての力、人間としての価値、人間としての尊厳、その向上、教育、鍛錬の最高唯一の道こそ、仏法の修行、信行学に励むことである。

すなわち、日蓮大聖人の教えを信じ、自行化他にわたる南無妙法蓮華経を信じ、東洋仏法の真髄、色心不二の大生命哲学を学びきっていく以外にない。また、その御遺命を奉じ、化儀の広宣流布達成へ、不惜身命の戦いをなしきっていくことが、自己の人間完成、一生成仏への大道である。

されば、これを妨げんとする者は、人類にとって最大の敵であり、最も憎むべき魔物なりと断じて、何の言い過ぎであろうか。

涅槃経にいわく、

「菩薩摩訶薩、悪象等において心に怖畏すること無く、悪知識においては怖畏の心を生ぜよ、何をもってのゆえに、この悪象等は唯よく身を破りて心を壊る能わず、悪知識は二倶に壊るゆえに、この悪象等は唯一身を壊り、悪知識は無量の善身無量の善心を壊る。この悪象等は唯よく不浄の臭き身を破壊す、悪知識はよく浄身および浄心を壊る。この悪象等はよく肉身を壊り、悪知識は法身を壊る。悪象のために殺されては三趣に至らず、悪友のために殺されては必ず三趣に至る、この悪象等は但身の怨となり、悪知識は善法の怨とならん、このゆえに菩薩、常にもろもろの悪知識を遠離すべし」と。

悪象とは、凶悪で、手に負えない力がある、最も恐ろしい野獣として、インド人が恐れたものである。現代人に当てはめれば、近代兵器、核爆弾等に譬えられようか。それよりも恐るべきは悪知識、すなわち、邪法邪義によって民衆を導き、無間地獄に突き落とす謗法の僧等である。

ゆえに、これらの謗法の僧を憎み、彼らを追放し、善良なる民衆を天魔波旬の凶手から守ることは、最も偉大なヒューマニズム運動といえるのである。

 

是の因縁を以て是より已来地獄に堕せず

 

釈尊が過去、仙予国王として、菩薩の道を行じていた時、婆羅門が正法を誹謗するのを聞いて、即座にその命を断った。この正法を護惜建立する心によって、以来、地獄に堕ちないという善根を作ったのである。

次に引かれている経文のように仏法上、殺生の罪に三種の別がある。下殺とは蟻の子から牛や豚、猛獣にいたるいっさいの畜生を殺す罪である。これらにも、微笑ながら善根があるから、殺した者は、その度合に応じて地獄・餓鬼・畜生界の苦を受ける。だが、殺した善根が微笑であるゆえに、下の苦すなわち軽い苦しみですむというのである。

同様にして、中殺とは、凡夫で小乗の悟りである。声聞の四果の中の阿那含までの人を殺した罪である。先の畜生に較べて、これらの人・天・声聞の衆生は、はるかに大きい善根を持っているから、より大きい苦を受ける。

上殺は、声聞の最上の悟りである阿羅漢から、辟支仏すなわち縁覚、不退位の菩薩、また自分の父母を殺す罪で、これは地獄の中でも、最も恐ろしい阿鼻地獄に堕ちるのである。ここで実に1中劫、20小劫の間、苦しまなければならないといわれている。1小劫は、通説によると、1600万年から2000年を引いた159,980,000年であるから、想像もつかない恐ろしさである。

さて、殺生の報いは以上のとおりであるが、正法誹謗の者は、上の畜生にもはいらないのである。その因縁を佐渡御書に、次のように説かれている。

「般泥洹経に云く「当来の世仮りに袈裟を被て我が法の中に於て出家学道し懶惰懈怠にして此れ等の方等契経を誹謗すること有らん当に知るべし此等は皆是今日の諸の異道の輩なり」等云云、此経文を見ん者自身をはづべし今我等が出家して袈裟をかけ懶惰懈怠なるは是仏在世の六師外道が弟子なりと仏記し給へり、法然が一類大日が一類念仏宗禅宗と号して法華経に捨閉閣抛の四字を副へて制止を加て権教の弥陀称名計りを取立教外別伝と号して法華経を月をさす指只文字をかぞふるなんど笑ふ者は六師が末流の仏教の中に出来せるなるべし、うれへなるかなや涅槃経に仏光明を放て地の下一百三十六地獄を照し給に罪人一人もなかるべし法華経の寿量品にして皆成仏せる故なり但し一闡提人と申て謗法の者計り地獄守に留られたりき彼等がうみひろげて今の世の日本国の一切衆生となれるなり」(0958:16)と。

すなわち、正法誹謗の徒は地獄の衆生なりとの御断言である。

しかして、正法誹謗のために地獄において受ける苦は、現世に悔いても千劫の長きにわたる。悔いない者は無数劫の間、無間地獄に沈淪するのである。訶責謗法滅罪抄にいわく、

「法華経誹謗の者は心には思はざれども色にも嫉み戯れにも謗る程ならば経にて無けれども法華経に名を寄たる人を軽しめぬれば上の一劫を重ねて無数劫・無間地獄に堕ち候と見えて候、不軽菩薩を罵打し人は始こそ・さありしかども後には信伏随従して不軽菩薩を仰ぎ尊ぶ事・諸天の帝釈を敬ひ我等が日月を畏るるが如くせしかども始め謗りし大重罪消えかねて千劫・大阿鼻地獄に入つて二百億劫・三宝に捨てられ奉りたりき」(1125:07)と。

謗法の重罪がいかに恐るべきか、この文に明らかである。

したがって、このような重罪をつくる謗法を斬る、すなわち命を断ずるということは、殺生の罪を受けないのみでなく、自身が絶対に地獄に堕ちない原因をつくったことになるのである。

もとより、仙予国王の場合は婆羅門を殺したのであるが、釈尊以後の仏法においては、布施を止めることが、正しいあり方である。また「殺す」というのも、その肉体を殺すのではなく、この謗法の心を殺すとの意に解すべきである。

今、われわれが折伏を行じ、世のいっさいの謗法に対して果敢な攻撃を展開していることは、この経文の元意に照らして、永久に地獄に堕ちないという原因をつくっているのである。また、われらの折伏戦によって、既成仏教の僧侶たちも、新興宗教の指導者たちも、生存を脅かされ、減少しつつあることは、地獄の獄卒を退治していることに通ずるではないか。

大聖人のいわく「無間地獄の道を塞ぎぬ」と。地獄の獄卒が横行している仏国土などありえない。仏の弟子として、仏国土建設のため、民衆を一人として地獄へ落とさぬために、この世界から悲惨の二字を追放しきるまで、折伏につぐ折伏を勇気百倍して続けていくのである。

 

 

第五章 (守護付属の文を挙ぐ)

仁王経に云く「仏波斯匿王に告げたまわく・是の故に諸の国王に付属して比丘・比丘尼に付属せず何を以ての故に王のごとき威力無ければなり」已上。

 

現代語訳

仁王経には「釈尊が波斯匿王に告げていわく。正法を護持するためにはどうしても武力・権力が必要であるから、僧尼に付属しないで、諸の国王に付属するのである。なぜかならば、謗法の悪人が武力で仏法を破ろうとする時に、僧や尼には、王のような威力がないからである。」とある。

 

語釈

波斯匿王

梵名プラセーナジット(Prasenajit)の音写。釈尊在世当時のコーサラ国(舎衛国)の王。波瑠璃王(ヴィルーダカ、Virūhaka)の父。初めバラモン教の信奉者で仏教に反対だったが、後に妃の勧めで釈尊に帰依し仏教を保護した。

 

付属

付嘱とも書く。教えを広めるように託すこと。嘱累ともいう。付嘱は付与嘱託の義。付は物を与えること。嘱は事を託すこと。付嘱の種類は①総付嘱・別付嘱、②弘宣付属・伝持付属・守護付属がある。①は釈尊が法華経の弘通を託したことに総別の二義があること。如来神力品第二十一で、上行菩薩をはじめとする地涌の菩薩に釈尊滅後の悪世に法華経の肝要の法を広めることを託したこと、これを別付嘱という。その後、嘱累品第二十二で、その他の無数の菩薩たちにも滅後に法華経を広めることを託したこと、これを総付嘱という。②は日寛上人が選時抄文段で付嘱に三義あると述べたもの。「一には弘宣付嘱。謂く、四依の賢聖、釈尊一代所有の仏法を時に随い機に随って演説流布するなり……二には伝持付嘱。謂く、四依の賢聖、如来一代の所有の仏法を相伝受持し、世々相継いで住持するが故なり……三には守護付嘱。謂く、国主・檀越等、如来一代所有の仏法を時に随い、機に随い、能く之を守護して、法をして久住せしむるなり」とある。

 

講義

この人王経受持品の文は、守護付属の依文である。国王とは、君主政治における王であるが、総じて、政治権力を持つものである。したがって、民主主義社会にあっては主権在民であり、この国王とは民衆から選ばれた政治家と解することもできるが、正法を証明させ納得させる力、すなわち、広宣流布への不自惜身命の信心をもって前進していく力である。

弘宣・伝持・守護の三付属

守護付属とは何か。仏が説かれた法を受け継ぎ、それを流布する使命は仏弟子にある。如来の法を如来の使いとして説き弘め、全世界を信仰せしめる実践がなければ弟子ではなく、そこには師弟相対の原理は成り立たない。仏が弟子に令法久住のために法を授け、その広宣流布の使命を託すことを付属というのである。

しかしながら、一言に流布するといっても、そのためには、あらゆる角度の条件が整わなければならない。また、様々の立ち場からの働きをする人が出なければならない。

四条金吾殿御返事にいわく、

「正法をひろむる事は必ず智人によるべし、故に釈尊は一切経を・とかせ給いて小乗経をば阿難・大乗経をば文殊師利・法華経の肝要をば一切の声聞・文殊等の一切の菩薩をきらひて上行菩薩をめして授けさせ給いき、設い正法を持てる智者ありとも檀那なくんば争か弘まるべき」(1148:01)云云と。

また、法華初心成仏抄にも

「末法今の世の番衆は上行・無辺行等にてをはしますなり此等を能能明らめ信じてこそ法の験も仏菩薩の利生も有るべしとは見えたれ、譬えばよき火打とよき石のかどと・よきほくちと此の三寄り合いて火を用ゆるなり、祈も又是くの如しよき師と・よき檀那と・よき法と此の三寄り合いて祈を成就し国土の大難をも払ふべき者なり」(0550:15)と、仰せである。

日寛上人は撰時抄文段に弘宣・伝持・守護の三つを立てて、次のように述べられている。

「一には弘宣付嘱、謂く四依の賢聖は釈尊一代所有の仏法を時に随い機に随い演説流布するなり、嘱累品に云く『若し善男子・善女人あって如来の智慧を信ぜん者には、当に為に此の法華経を演説し聞知することを得せしむべし、其の人をして仏慧を得せしめんが為の故に、若し衆生有って信受せざらん者には、当に如来の余の深法の中に於て示教利喜すべし』と。此の中に余の深法と云うは爾前の諸経なり、既に法華経に対して余と云う故なり、若し台家の意は余の深法只是れ別教、余法深教は即三教に通ず云云。但し次第三諦所摂を以ての故に爾前の諸経は即是れ三教なり、故に大義異なること無きなり。

二には伝持付属、謂く四依の賢聖は如来一代の所有の仏法を相伝受持して世世相継いで住持する故なり、涅槃経第二に云く『我今所有の無上の正法悉く以て摩訶迦葉に付嘱す。当に汝等の為に大依止と作ること猶如来の如くなるべし』等云云。統紀四に此の文を釈して云く『迦葉能く世に継で伝持するを以てなり』又第五に云く『迦葉独り住持に任ず、是れを以て祖祖相伝住断えざるなり』楞厳疏に云く『覚性三徳秘蔵に安住し、万善の功徳を持して失わざる故に住持と云うなり』今寺主以て通じて住持と云うは此れ等の意に依るなり』云云。

三には守護付属、謂く国王檀越等如来一代所有の仏法を、時に随い能く之れを守護し法をして久住せしむるなり、涅槃経第三に云く『如来・今無上の正法を以て、諸王・大臣・宰相・比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷に付嘱す、是の諸の国王及び四部の衆応に諸学人等を勤励して戒定慧を増長するを得せしむべし』又涅槃経に云く『内に智慧の弟子有って甚深の義を解り、外に清浄の檀越有って仏法久住す』等云云。此の中に戒定慧は一代及び三時に通ずるなり、若し末法に在っては文底秘沈の三箇の秘法なり、具に依義判文抄に會て之を書するが如し、故に之れを略するのみ」と。

守護付属実践する創価学会

守護付嘱は、国王檀越等、すなわち在家の者に対して、大聖人の仏法を守護し永久にこれを伝えていきなさいとの御命令あそばされたのである。妙法流布の方程式といえよう。

さて、時に随いとは、一国の謗法、軍部の正法弾圧が第二次大戦の大敗北をもたらし、大聖人の他国侵逼難の御予言が正しく事実となって現われた。神道を中核に行われた宗教統制は、信教の自由によって崩れ去り、既成仏教の勢力もまた、経済的基盤を奪われた。宗教は宗教の場で、純粋に正邪を争うことができる舞台が作られたのである。これすなわち、広宣流布の時が来た証拠ではないか。

機に随いとは、神道も仏教も、封建思想とともに、その権威を失墜してしまった。その空虚に乗じて、戦後、一方ではキリスト教が、もう一方からは共産主義が洪水のように流入した。だが、それらは、大乗仏教によってきた高度な日本民衆の心を捉えることはできなかった。ごく一時的に、軽薄な人々にもてはやされはしたが、所詮、思想的混乱を生むものでしかなかった。今はそのどちらも、音楽やダンス等の誤楽で、ムードに弱い、ごく少数の青年たちを引き留めているに過ぎない。

今、民衆は、力ある新しい理念を欲している。生命の奥底から希望と勇気と確信を湧現していくことのできる哲学・宗教を欲求している。巨大な機械文明、複雑な社会機構、恐るべき核戦争の脅威、人類の前に立ちはだかるこれらの問題は、正しく未曾有の難問である。それを解決していく生命力、叡智、そして団結の絆は、日蓮大聖人の色心不二の生命哲学に求める以外にない。

国王とは、現代に約していえば、一往は総じて民衆である。再往は、その民衆のなかから選挙によって議員となり、大臣となり、政治権力をもって正法を守護し、民衆の幸福のため、広宣流布のために戦っていけとの仏勅と拝すべきであろう。

現代の国王とは民衆のこと

しかして、その国主とは、国家の主権を持つ者である。鎌倉時代においては幕府の執権であり、江戸時代は徳川将軍、明治以降は天皇であった。現代においては、主権在民なるがゆえに、民衆である。

よく「国王」という言葉に対する封建時代からの考え方が抜け切らぬためか、権力を利用して辿るのではないか等の疑惑を懐く人がある。むしろ、その旧来の思想に毒された感覚を哀れに思わずにはいられない。

広宣流布とは、民衆が胸を張って「国主とはわれわれのことである」と叫び、かつ行動していける、真の民主主義の現実であるとさえいえる。すでに日蓮大聖人は700年前に、この理念を示されている。かつ、大聖人の御一生は、上下貴賤を問わず、全民衆救済に身命をなげうたれての戦いの連続であられた。われわれが実現せんとしているのは、仏法民主主義の根源であり、最高の模範は、大聖人の御振舞にほかならないのである。

広宣流布達成の儀式がいかなるものであるかは、われわれ凡智をもって測り知ることはできない。だが、それがいかなるものにせよ、その時こそ、民衆が心の底から幸福を享受できる時代であり、国が最高に繁栄した時代であることだけは断言できる。そして、民衆が心から希望し、喜び、期待する中に、広宣流布の儀式は行われるのである。

法華初心成仏抄にいわく、

「法華経を以て国土を祈らば上一人より下万民に至るまで悉く悦び栄へ給うべき鎮護国家の大白法なり、但し阿闍世王・阿育大王は始めは悪王なりしかども耆婆大臣の語を用ひ夜叉尊者を信じ給いて後にこそ賢王の名をば留め給いしか、南三・北七を捨てて智顗法師を用ひ給いし陳主・六宗の碩徳を捨てて最澄法師を用ひ給いし桓武天皇は今に賢王の名を留め給へり、智顗法師と云うは後には天台大師と号し奉る最澄法師は後には伝教大師と云う是なり、今の国主も又是くの如し現世安穏後生善処なるべき此の大白法を信じて国土に弘め給はば万国に其の身を仰がれ後代に賢人の名を留め給うべし」(0550:07)と。

空前の宗教革命

フランス革命は、ルソー、モンテスキュー思想を根底に、政治革命をもってフランス社会を復興させた。ロシア革命はマルクス・レーニン思想によって経済・政治革命を行ない、ロシア民族の生命を更新した。また、現在の中国は、マルクス、毛沢東の思想をもって、その革命を成し遂げた。

これらの革命は周辺の諸国に大きい波動を与え、後世に幾多の教訓と手本を残した。そこに果敢に戦い、革命のために命を捨てた人々の名は、歴史の上に永久に記念されている。だが、悲しいかな、思想の低級さのゆえに、流血の惨事を免れることができなかった。

今、われわれがなさんとする事業は、日蓮大哲学を生命哲学を根底に、偉大なる宗教革命を成し遂げようとするものである。3000年前の仏教、2000年前のキリスト教、1000数百年前のイスラム教は、世界の文明を一変させ、現代をも、なお規制しているといっても過言ではない。

しかし、これらの諸宗教は、今や形骸化し、新しい息吹きを生み出す力は消失した。現代世界の人類の要求に応えて出現する大聖人の仏法は、色心不二の最高の哲学である。この宗教革命が、現代の政治・経済・教育・科学・芸術等のいっさいの分野に、若々しい、力強い、新しい生命を呼び起こしていくことは、当然である。さらに末法万年尽未来際にわたって、源泉となることも絶対に間違いないと確信するものである。

されば、今、この偉大なる宗教革命の先駆として、日本の広宣流布のために戦うことは、何とすばらしい栄誉ではないか。われわれの活動が全世界より模範とあおがれ、後代永久に名をとどめることになるのである。歓喜勇躍して、偉業達成へ前進していこうではないか。

また、現在、創価学会に対し、悪口をいい、つとめてその意義を過小評価しようとする人々も少なくない。後世の人々から、陰険で小心な、時流を知らぬ、愚か者であったと笑われぬよう、眼を開いて真実を認識すべきであろう。

善男子正法を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せず応に刀剣・弓箭・鉾槊を持すべし

仏の正法たる日蓮大聖人の大御本尊を受持した者は、五戒を修する必要はない。御本尊を受持することが持戒になるからである。このことについては前述したとおりである。

さらに日寛上人の安国論の文段には、次のように仰せである。

「余疏十・十三。経にいわく『いわゆる正法とはすなわちこれ如来の微密の蔵なり』と云云。ゆえに正法とは意・実に文底の秘法を指すなり。今文の『護持正法』とは正しく在家の護法を明かすなり、ゆえに章疏四・三十三にいわく『善男子護持正法は広答、二となす、一には在家・二には出家なり、在家の護法はその元心の所為を取る、事を弃て理を存して匡しく大教を弘むゆえに護持正法という、小節にかかわらざるゆえに不修威儀という』と。開目抄にこの疏文を引いて『出家在家の護法』というのは出家の二字・恐らくは剩せりこれ科目なり何ぞ釈文とせんや、蒙九・七十のごとし、『恐らくはこれ後人の写し謬りなるべし』云云」と。

ゆえに、ここで「正法を護持せん者」とは、在家の護法を明かすことは明白である。それでは、在家はどのような修行、活動が正しいかといえば「刀剣・弓箭・鉾槊を持すべし」と説かれているのである。また、五戒を持する者は大乗の人といえない。正法を護ることが大乗であり、そのために、正法を護る人は刀杖等の武器を持つべきであるというのである。

いうまでもなく、この当時は、武力専横の時代である。国内に悪人が充満しても、これを取り押さえる警察力もなかった。したがって、謗法の者が武力をもって正法を圧迫することは常套手段であったし、彼らから正法を護るためには武力による以外になかったのである。

ゆえに、この経文を見て、仏教は武力主義かというのは、およそ見当違いも甚だしいといわなければならない。そのような人は、飢えた猛獣の群棲するジャングルを、銃一つ持たずに行けというのと等しいからである。

日蓮大聖人御自身も三条小鍛冶宗近作の名刀をお持ちであられた。御書にも、北条弥源太が刀を御供養したことが記されている。また、日興上人も、二十六箇条遺誡置文に、

「一、刀杖等に於ては仏法守護の為に之を許す」(1618:16)。

と、申されている。

このように、刀剣・弓箭・鉾槊を持することは、それで殺人を行なうことが目的であったのではない。いわんや、イスラム教の「右手に剣・左手にコーラン」や、キリスト教の十字軍のように、布教のための侵略のために武力も用いるのでもない。正法を護ることが目的であり、そのための止むを得ざる手段として所持を許されたのである。

このことは、大聖人43歳の御時、安房の小松原で東条景信の一党が大聖人を殺害しようと襲ってきたのに対し、工藤左近尉吉隆、鏡忍房等が刀をもって大聖人をお守りしたことにも窺われる。刀剣なくして、正法を護り切ることのできない時勢であったことを知らなければならない。

弥源太殿御返事にいわく、

「殿の御もちの時は悪の刀・今仏前へまいりぬれば善の刀なるべし、譬えば鬼の道心をおこしたらんが如し、あら不思議や不思議や、後生には此の刀を・つえとたのみ給うべし、法華経は三世の諸仏・発心のつえにて候ぞかし、但し日蓮をつえはしらとも.たのみ給うべし、けはしき山・あしき道.つえを・つきぬれば・たをれず、殊に手を・ひかれぬれば・まろぶ事なし、南無妙法蓮華経は死出の山にては・つえはしらとなり給へ」(1227:01)云云と。

所詮、現代は、法治主義の時代であり、政治権力の時代である。化儀の広宣流布の時を迎えて、競い起こる三障四魔、三類の強敵も、個人的な怨嫉から一族郎党を率いて襲いかかってくるような規模ではない。むしろ、政治権力、言論界等と組んで、より多角的に、より大規模に襲ってくる時代とさえいえる。

この時にあたって、正法護持のために、取って立つべき「刀剣・弓箭」は、ほかならぬ言論の力である。

仏道修行といえば、過去の釈迦仏法のごとく静かな山間僻地に逃避して、思いをこらすことであるとか、単に経を読むことが、あるいは行ない澄まして善行を修するとか、という考え方が、大部分の現代人の仏教観である。これ大なる誤りである。正法護持のため、広宣流布達成のために、智慧を働かせ、師子王のごとく勇敢に、戦っていくことが最も正しい仏道修行であることを知らねばならない。

 

 

第六章 (正法護持の方軌を示す)

涅槃経に云く「今無上の正法を以て諸王・大臣・宰相・及び四部の衆に付属す、正法を毀る者をば大臣四部の衆当に苦治すべし」と。

  又云く「仏の言く、迦葉能く正法を護持する因縁を以ての故に是の金剛身を成就することを得たり善男子正法を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せず応に刀剣・弓箭・鉾槊を持すべし」と、又云く「若し五戒を受持せん者有らば名けて大乗の人と為す事を得ず、五戒を受けざれども正法を護るを為て乃ち大乗と名く、正法を護る者は当に刀剣器仗を執持すべし刀杖を持すと雖も我是等を説きて名けて持戒と曰わん」と。

 

現代語訳

涅槃経には「今、無上の諸王・大臣・宰相および僧尼・在家の人たちに付属する。もし正法を破るものがあるならば大臣・四部の衆はまさにきびしくこれを対冶していきなさい」

また「仏がいうには、迦葉よ自分はよく正法を護持した功徳・因縁をもって、仏身を成就することができたのである。善男子よ、正法を護持する在家のものは五戒を持つこともなく、威儀も修めないで刀剣・弓箭・鉾槊を手にとって謗法を責めるべきである」とあり、

また涅槃経金剛身品には「もし五戒を受持するものがあるなら、その人たちは大乗を行ずる人ということはできない。たとえ五戒を受けなくても、正法を護る人を大乗の人と名ずけるのである。正法を護るものは、まさに武器を持つべきである。たとえ武器を手にとっても自分はこれらの人を名づけて持戒と呼ぶのである。」とある。

 

語釈

迦葉

迦葉童子、迦葉童子菩薩ともいう。涅槃経のなかの迦葉菩薩品の対告衆で、いわゆる十大弟子の摩訶迦葉とは別人。涅槃経で仏に三十六の問いを発しているが、前四十余年の会座にも連ならず、法華の会座にも漏れた捃拾の機の人である。

 

弓箭・鉾槊

弓箭は弓と矢。鉾槊の鉾とは、本来、剣のきっさきをいい、槊とは周尺で一丈八尺の柄のついた矛をいう。矛には、枝のないもの、一本枝のあるもの、両側に二本あるもの等各種ある。

 

講義

本章は、涅槃経に説かれた守護付嘱の文を示されるのである。最初に引かれているのは、前章の仁王経の文とほとんど同じである。ここでは、仁王経の文面に出ていなかった「付嘱の法」が「無上の法王」と明らかにされている。無上とは有上に対して、これより上のものはない、最高であるとの意で、即文底深沈の大法たる三大秘法の南無妙法蓮華経である。

また、人王経で、単に「王」と訳されていたのが、ここでは「諸王・大臣・宰相及び四部の衆」となっている。日寛上人の文段には「諸王とは国王や親王である」とあり、さらに「是れ則ち国王・親王・大臣・宰相・四部の次第・残闕なきか」とある。すなわち四部の衆とは比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷であるが、別しては在家である優婆塞・優婆夷を強く指したといることは諸王・大臣・宰相と並べられている点からも、当然理解されることであろう。

このように「諸王・大臣…」と並べて記されているのは、諸御書に「王臣一同に」あるいは「王臣万民一同に」と仰せられているのと同じでる。日蓮大聖人の仏法は、特権階級の御用宗教でもなければ、低級な邪教でもない。全民衆の崇めるべき信仰であり、王すなわち指導者の側にとっても、その政治の依るべき支柱であり、民衆にとっても、偉大な力の源泉であるとの御確信を、拝することができるではないか。

ここで「正法を毀る者をば大臣四部の衆当に苦治すべし」とあるから、正法を持つ人が政治権力をにぎって、反対者に弾圧を加えるのではないかと危惧する人もいよう。すなわち、ここで教会主義国家との相違を明らかにしなければならない。

キリスト教の政治関係

ローマ帝政初期、ネロ皇帝等によって激しい弾圧を受けたキリスト教は、西歴0313年にはコンスタンティヌス帝によって公認され、0395年にはテオドシウス帝からローマ国教としての地位を獲得するまでになった。西ローマ帝国が0476年に滅亡した後も、ローマ教会は着実に北方異民族を感化し、0800年、フランク族の王、カールを神聖ローマ帝国の大帝に任ずるのとひきかえに、ラヴェンナを教会領として贈られ、ここに教会国家としての出発をみたのである。

その後、ローマ法王を頂点とするキリスト教会は、広大な法王領を有し、傘下に無数の領地を有する司教団を擁し、宗教的権威とともに巨大な世俗権力をも行使するようになった。領地からの課税はもとより、全ヨーロッパにおいて10分の1税、初収入料を民間から徴収した。法王グレゴリウス7世、インノケンレリウス3世の時代は、まさにその絶頂期で、当時、法王庁の収入は、ヨーロッパ総国王の総収入を越えたといわれる。

こうした教会の世俗権の増大は、必然的に皇帝や国王、諸侯との衝突を免かれることができなかった。皇帝ハインリッヒ4世はグレゴリウス7世にカノッサで膝を屈し、のち武力を整えて法王を南イタリアに追い、これを憤死させた。また、法王アレクサンデル3世に屈したフリードリッヒ1世、ベケットの柩に額ずいた英王ヘンリー2世の話はあまりにも有名である。

世俗君主以上に、強欲で苛酷な僧職に対する憎悪、その生活の堕落、頽廃ぶり、陰険な僧職領主のために、十字軍遠征の留守に領地を乗っ取られた騎士への同情…等、当時の社会を描いた文学には、こうした主題が実に多い。キリスト教の無慈悲さと、民衆のキリスト教会に対する怒りが如実に感じられるのである。

したがって、中世にあらわれた政治学説も、ほとんどが法王と皇帝との対立抗争をめぐって説かれている。法王の優越を主張する者は、天国への鍵をあずかったのは使徒ペテロであり、それは法王に譲られてきた。法王は太陽であり、皇帝は月である。法王は神の国を司り、皇帝は地上の国を、法王より任されて統べる、霊界と俗界を治める二つの剣があるが、その所有権は共に法王にあり、皇帝は俗界の剣の使用権が許されるに過ぎない、等の説を立てた。

これに対して、皇帝を支持する者は、二つの剣について法王の優位は一応は認めるが、俗界の剣は、法王を通してではなく、神から直接、皇帝に与えられたものだと反発した。マキアベリが君主論を説いたのも、ダンテが帝国論を説いたのも、その根底には、皇帝を擁護し、法王を排斥する意図があったのである。

宗教の権威が政治権力をにぎって政治に介入する。いわゆる教会国家主義という事実は、ガルヴァンの神聖国家等にも認められる。だが、それは、いずれも、権力と権力との醜い争いであり、民衆に対しては貪欲な搾取をもって望む、無慈悲きわまりない苛政にほかならなかった。

こうした事態は、キリスト教が政治を、哲学的、思想的に指導できる理念の何ものも持たないがゆえに生じたのであった。また、キリスト教には人間性を変える力もなかった。むしろ、より貪欲に、より陰険に、より残酷にしてしまったと結論せざるをえない。

たとえば、中世における宗教裁判は、ジャンヌ・ダークをはじめ、多くの女性を魔女と決定して、残虐な火あぶりの刑に処したではないか。ジョルダーノ・ブルーやヨハネス・フス、ガリレオ・ガリレイ等の偉材をさえも、あるいは灰にし、あるいは沈黙させたではないか。また、数々の宗教戦争の徹底的な虐殺ぶりも、キリスト教信仰の人間性に欠けるものを物語っている。聖バーソロミューの虐殺、30年戦争の惨劇を想起せよ。実に30年戦争では新旧両派が外国の応援を頼んで殺し合い、ドイツの人口は1600万人から700万人に激減したのである。

人々が恐れるべきものは、まず何よりもこの残酷さ、非情さ、徹底的に相手を憎悪する感情の激しさである。それはひとえに、キリスト教が愛を説く教えであるところからきている。愛は憎と表裏の関係にあることは、日常、だれもが経験するところである。愛の教えとは、実は憎の教えにほかならない。

政教分離説き明かす仏法

これに対して、仏教は慈悲の教えである。慈悲は、絶対的なものであり、裏かえしても慈悲である。釈尊の教えを見れば一目瞭然である。たとえば釈尊にあれほど迫害を続けた提婆達多も、天王如来の記別を受けて救われるではないか。提婆にそそのかされて、釈尊を弾圧した阿闍世王も悔いてのち、悪痩を癒してもらい、寿命も延ばし、仏滅後は、経典結集を行って、仏法流布に重大な役割りを果たしているのである。

また、阿育大王や迦膩色迦大王による仏法流布においても、異教徒に対して弾圧を加えたなどという事例は、一つとしてない。異説を主張する者が出てきた時は、必ず公の場で法論させ、王をはじめ大臣・学者・大衆に、どちらが道理正しく理路整然としているかによって、正邪を判定せしめたのである。

すなわち、正しい仏法ということは、その説くところが道理に適っており、現実の証拠と経文上の証拠が厳然としてあるものでなければならない。したがって、宗教上の正邪の争いは、あくまで宗教の場で決せられるのである。このゆえに、正法を護持した者が、異教の信者を宗教的、思想的理由で敵対する者を弾圧したという事実は仏教以来3000年間、ただひとつとしてない。西欧において、1648年、30年戦争のあとで樹立されたごとき信教の自由は、仏教世界においては、自然の形で3000年来行なわれてきたのである。

しかも、仏教では、僧侶が政治権力を握るという原理はまったくない。前章の付嘱論で、伝持付嘱と守護付嘱と、劃然と分かれているように、僧は僧としての本分をまっとうし、正法を守護する使命は、在家の人、すなわち一般社会人としての生活を基盤に置く人によって行われるのである。これ政教分離の厳然たる証拠ではないか。

仏教が政治に影響をおよぼすのは、何よりもまず、仏法を実践、修行する人を慈悲の精神に立たせることである。すなわち、政治の運営、法の遂行が慈悲という基礎の上に行なわれるようになることである。しかして、仏法哲学に説かれている、仏の智慧、また哲理は、政治・経済・教育等、いっさいの文化を指導していく理念を提供するであろう。かくして、人類の叡智は限りなく発展し、文化の水準は飛躍的に高まることも絶対であると確信する。

したがって「正法を毀る者をば大臣四部の衆当に苦治すべし」というのも、仏教の本来のあり方からいって、何ら信教の自由を否定するものではない。あくまでも、宗教の正邪は宗教の場で争い、決せよとの意である。

歴史をひもとくならば、むしろ、つねに迫害され、弾圧されてきたのは正法の側である。この経文は、邪宗教に迷わされて正法護持者を弾圧する権力者に対して覚醒を促し、ひいては正法護持者自身が権力を持つことによって、同じく権力をもちあるいは権力と結託して、正法を弾圧する謗法者から、正法を護れとの方程式を述べたものと解すべきである。

今、さらにこの点を明確にするために、信教の自由の問題について論旨を展開してみよう。

信教の自由について

信教の自由は、人間の本然的な欲求といっても過言ではない。しかしながら人類の歴史は、長い間、その実現を見ることがなかった。ヨーロッパにおいては、30年戦争後のウェストファリア条約で新旧両派の間で原則的に認められたが、ある宗教に対する自由の確認は、さらにそれより下るのである。

すなわち、自由を求めるヨーロッパ人によって開かれた新大陸、アメリカで1787年に憲法に明記されたのを嚆矢とする。ついで大革命後フランスで、1791年、人民の尊厳と自由・平等を謳う人権宣言が発表された。

この精神は、ナポレオンの欧州遠征に伴って各地に伝えられ、1808年にはバイエルン憲法、1831にはベルギー憲法、1848年のスイス憲法、オランダ憲法、ドイツ憲法、1867年にはオーストリア憲法と、各国が続々信教の自由を制度として確立したのである。

しかし、今なお、一定の宗教を国教とし、あるいは公認教としている国も少なくない。イギリス、イタリア、スペイン等は国教主義であり、カナダ、ニュージーランド、アルゼンチン等は準国教制を建て前としている。自由主義陣営に属する国々において、実体はこの程度である。

一方、共産主義陣営を見ると、マルクス主義は「宗教はアヘンなり」と断定し、宗教全体に対して批判的である。また、民衆の間では、かなり多くの老人は旧来のギリシァ正教やイスラム教に執着をもっているし、反宗教的に教育された青年たちの間でも、宗教的な心の支えを求める気運が芽生え始めている。しかし、そうした動きを露骨には圧迫しなくとも国是としては、あくまでも無宗教を立てるので、精神的には大きい圧迫となっている。さらに教会、寺院外での布教を禁じられているので、これも信教の自由を疎外している部類といえる。

これに対して、アジアにおける歴史をたどってみると、専制主義であるだけに、様々であるが、慨して儒教、道教、ヒンズー教、イスラム教を立てた君主は、必ず仏教信者を迫害している。逆に仏教信者である君主は、他の宗教の布教に対して、大幅に自由を許していることが観取される。

前者の例としては師子尊者を殺害した檀弥羅王、法道三蔵を流罪した徽宗皇帝、中国仏教を壊滅的に破壊した唐の武宗等がある。後者の例としては、インドの阿育大王、迦膩色迦大王、中国の天台大師の時代の陳主、日本の伝教大師の時代の桓武・嵯峨・平城の三帝が挙げられる。

しかも正法を迫害した前者の場合は、必ずその裏にバラモンないしヒンズー教、儒教、道教の僧、修道者が権力者をそそのかしている事実が認められているのである。これに対し後者の場合は、必ず法の正邪を公場で争わせ明確にしている。

このことから、われわれは、信教の自由を妨げてきたものは、ほかならぬ邪宗教ないし低級宗教であったと結論することができるのである。すなわち、他の宗教と論争しても堂々と勝てるという哲学的裏づけ、確信のない宗教が、権力と利益と名誉を独占するために、権力と結託して他宗派を圧迫してきたのである。

東洋で、正法が流布された時代には、完璧な信教の自由が確立されたのは、このためであった。ヨーロッパにおいて、圧迫の連続であったのは、キリスト教も、それ以前の神話も、キリスト教内部に派生した諸宗派も、この哲理と確信のない、低級思想であったゆえである。ようやく近代になって信仰の自由が確認され始めたのは、キリスト教の無気力と不合理がはっきり認識され、実質的に見放され始めたからである。

いわば、キリスト教世界も、イスラム教世界も、あるいは仏教内の邪宗各派においても、信教の自由とは、実は無宗教化の謂にほかならなかった。おれがためにもたらされた、精神的空白を嘆く声も出始めており、わが国の場合にこれに便乗して、国家神道の復活を唱える反動主義者もある。だが、所詮、自由の空気を吸った民衆を再び縛りつけることは、できようはずもない。また、断じてあってはならない。

近代日本の信教の自由

わが国においては、明治22年(1889211日に発布された大日本帝国憲法で、すでに信教の自由は保障されている筈であった。すなわち第28条にいわく「日本国民ハ、安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ、信教ノ自由ヲ有ス」と。だが、事実は、神社神道の国教化が進められていった。そして軍部政権下の昭和18年(1943)、創価学会に対する弾圧となったのである。

一国謗法の罪、正法護持者弾圧の罪が、一国を滅亡させるに至ったのである。これに対し、連合国側は、早くから日本軍国主義の源が国家神道であることを見抜いていた。戦時下の昭和20年(19455月、すでにポツダム宣言は「言論・宗教及び思想の自由並に基本的人権の尊重」を確立せよと、要求していた。

終戦後の昭和20年(19451014日、連合国総司令部から「政治的、社会的及び宗教的目的に対する制限除去の件」という覚え書が発せられ、1215日「国家神道の禁止」に関する指令が出され、明治体制下に日本の信教の自由を阻んできた元凶は、完全に骨抜きにされたのである。

しかして昭和22年(194753日より施行された、新しい日本国憲法は、基本的人権の確立を謳い、信教の自由を明確に規定したのである。すなわち第20条に「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国からの特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他のいかなる宗教活動もしてはならない」とあるのが、それである。

ここでいう「特権」とは、かつての神道のごとき国教的地位とそれに伴う利益等を意味する。また「政治上の権力」とは立法権・課税権・裁判権等で、これらは、かつて寺院が、その所有する荘園に対して行使した権力であるが、今は国家および地方公共団体以外にはない。この「政治上の権力」の中に、国民として当然持っている選挙権、参政権をふくめるがごとき発言をする者がある。無認識の至り、まことに笑止といわざるをえない。

このように、新憲法によって確立された信教の自由は、いかなる宗教も、権力の援助を受けることなく、純粋に宗教としての優劣、正邪を争そう舞台を実現したのである。

すなわち、信教の自由とは

第一に、宗教上の信仰について、特定の宗教を信ずること、その信仰を変えること、すべての宗教を信じないことは、いっさい、個人の自由であって、国家権力や政治権力は何ら干渉を加えてはならないということである。

第二に、宗教的教義を宣伝し普及することも、個人の自由権に属することであって、それに対して、国家権力や、特定の宗教について援助したり、疎外したりすることはできないのである。

洋の東西を問わず、その宗教の正邪・教義の浅深に関係なく、権力と結合した宗教は必ず堕落している。信教の自由は、むしろ宗教にとって最も喜ばしいことといわなければならない。

新憲法によって実現された信教の自由の尊さを日本において、最も深く理解しているのは、わが創価学会であるといっても過言ではなかろう。

今こそ遂に、青天白日のもとに正法を叫び、妙法流布に前進できる大道が開かれたのである。かくして、民衆の中にとけこんで、座談会を開き、膝を突き合わせて語り、あるいは新聞を発行して、書籍を出版して、あらゆる言論戦を展開して、今日の発展を築いたのである。信教の自由があればこそ、今後も永久に発展していくことは絶対に間違いない。

開目抄にいわく、

「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし」(0232:02)と。

いかなる誘惑も迫害も、物の数ではない。万が一にも自分の法門・教義・哲学が智者に破られるようなことがあれば、その智者には従うであろうが、それ以外の大難は風の前の塵のごときものである、との強い強い御確信であられる。

「智者に我義やぶられずば」とは即信教の自由を前提にしてのお言葉である。権力によらなければならないような、虎の威をかる狐と、この大聖人の師子王の雄叫びと、正に天地雲泥の相違があるではないか。

 

第七章 (有徳王・覚徳比丘の先例)

又云く「善男子・過去の世に此の拘尸那城に於て仏の世に出でたまうこと有りき歓喜増益如来と号したてまつる、仏涅槃の後正法世に住すること無量億歳なり余の四十年仏法の末、爾の時に一の持戒の比丘有り名を覚徳と曰う、爾の時に多く破戒の比丘有り是の説を作すを聞きて皆悪心を生じ刀杖を執持し是の法師を逼む、是の時の国王名けて有徳と曰う是の事を聞き已つて護法の為の故に即便ち説法者の所に往至して是の破戒の諸の悪比丘と極めて共に戦闘す、爾の時に説法者厄害を免ることを得たり王・爾の時に於て身に刀剣鉾槊の瘡を被り体に完き処は芥子の如き許りも無し、爾の時に覚徳尋いで王を讃めて言く、善きかな善きかな王今真に是れ正法を護る者なり当来の世に此の身当に無量の法器と為るべし、王是の時に於て法を聞くことを得已つて心大に歓喜し尋いで即ち命終して阿閦仏の国に生ず而も彼の仏の為に第一の弟子と作る、其の王の将従・人民・眷属・戦闘有りし者.歓喜有りし者.一切菩提の心を退せず命終して悉く阿閦仏の国に生ず、覚徳比丘却つて後寿終つて亦阿閦仏の国に往生することを得て彼の仏の為に声聞衆中の第二の弟子と作る、若し正法尽きんと欲すること有らん時当に是くの如く受持し擁護すべし、迦葉・爾の時の王とは即ち我が身是なり、説法の比丘は迦葉仏是なり、迦葉正法を護る者は是くの如き等の無量の果報を得ん、是の因縁を以て我今日に於て種種の相を得て以て自ら荘厳し法身不可壊の身を成す、仏迦葉菩薩に告げたまわく、是の故に法を護らん優婆塞等は応に刀杖を執持して擁護すること是くの如くなるべし、善男子・我涅槃の後濁悪の世に国土荒乱し互に相抄掠し人民飢餓せん、爾の時に多く飢餓の為の故に発心出家するもの有らん是くの如きの人を名けて禿人と為す、是の禿人の輩正法を護持するを見て駈逐して出さしめ若くは殺し若くは害せん、是の故に我今持戒の人・諸の白衣の刀杖を持つ者に依つて以て伴侶と為すことを聴す、刀杖を持すと雖も我是等を説いて名けて持戒と曰わん、刀杖を持すと雖も命を断ずべからず」と。

 

現代語訳

涅槃経金剛身品には「善男子、過去の世に拘尸那城において歓喜増益如来という仏が出現になった。その仏が入滅したのち、如来の正法は無量億年という長い間続いた。その最後、あと四十年間で仏法がまさに滅せんとしていたが、そのとき法をかたくなに持った一人の受持即持戒の僧がいて、その名を覚徳といった。其の時に多くの破戒の悪比丘があって覚徳比丘が、経を護持宣流し諸の悪比丘を制して蓄罪等の破戒を戒める。正しい説法をするのを聞いて、皆悪心を起こし、刀や杖を持って、この覚徳比丘を殺そうとして迫った。その時の国王を有徳王といったが、王はこの覚徳比丘に危険が迫っていると聞き、法を護るために武器をとってすぐさま覚徳のところへ行き、これらの悪比丘と全力をあげて戦った。その結果、覚徳比丘は殺される厄難を免れることができたが、戦った有徳王は全身に刀剣や鉾槊の瘡をこうむり体に傷のないところは芥子粒ほどもないありさまであった。これをみて覚徳比丘は王を讃めて言った「善きかな善きかな、今、王は真に正法を護った人である。未来世において王の体はまさしく無量の法器となるであろう」と。王はこの時、正法を聞くことができ、大いに歓喜しそのまま息を引き取り阿閦仏の国に生まれた。しかも阿閦仏の第一番の弟子となった。そして有徳王の将従・人民・眷属など、王とともに戦ったもの、王の戦いをみて歓喜したものは、みなそれぞれ退転せず、信心をまっとうして死んだのち、ことごとく阿閦仏の国に生まれた。覚徳比丘も、その後命が終わって同じく阿閦仏の国に生まれ、彼の仏の声聞衆中、第二番目の弟子となった。もし法が尽きんとするときには、まさにかくのごとく正法を受し、擁護すべきである。

迦葉よ。その時の有徳王とはすなわち我が身である。説法をした覚徳比丘は迦葉仏である。迦葉よ、正法を護るものはこのように無量の果報を得るのである。この因縁の故に自分は今日において、種々の相を得て自らを荘厳し、絶対に壊れることのない法身を成就することができたのである。

このゆえに、正法を護ろうとする男子の信徒等は、有徳王のようにまさに刀杖を手に取って正法を擁護すべきである。善男子よ、自分が涅槃してのち、末法に入り国土は荒れ乱れはてて、人々は互いに土地や財産を奪いあい、そのため人民は飢餓にひんするであろう。そのときに飢餓からのがれようと、生きていくため発心し、多くの出家するものが現われるであろう。それらの人をなずけて『禿人』というのである。この禿人の輩は正法を護持するものをみて、そのところを追い払い、あるいは殺し、あるいは害するであろう。その故に、自分はいまの持戒の人・僧が、刀杖を持つ諸々の在家の人々を伴侶とすることを許すのである。刀杖は持ってはいるけれども、正法を護るが故に、これを持戒と名づける。ただし、刀杖を持すといっても、防御のため護法のためで、謗法の者の命を断ってはならない。」とある。

 

語釈

拘尸那城

拘尸那掲羅城。梵名クシナガラ(Kuśinagara)国の都。城郭都市なので、拘尸那城と呼ばれる。釈尊在世当時は、十六大国の一つマッラ(Malla)〔末羅〕族の都であった。この城外、北の跋提河の西岸に沙羅樹林があり、そこの沙羅双樹の下で釈尊は亡くなったと伝えられる。

 

覚徳

覚徳比丘。涅槃経巻三の金剛身品第二に説かれる、正法護持の比丘。過去に拘尸那城に歓喜増益如来が出現し、その滅後、あと四十年で正法が滅しようとした。その時、覚徳は九部の経典を頒宣広説し、諸の比丘を「奴婢・牛羊・非法の物を畜養することを得ざれ」と制した。この言葉を聞いて、多くの比丘は悪心を生じ、刀杖を執持して覚徳を殺害しようとした。この時、国王の有徳王が破戒の悪比丘と戦い、覚徳は守られたが、有徳王は身体に刀剣箭槊の瘡を受けて死んだ。有徳王は次に阿閦仏国に生まれ、阿閦仏の第一の弟子となり、覚徳比丘も命終して阿閦仏国に生まれ、彼の仏の第二の弟子となった。

 

阿閦仏

娑婆世界より東方に位置する阿比羅提世界の教主である仏。阿閦は梵語アクショービヤ(Akobhya)の音写で、「揺れ動かない」の意。もともと阿比羅提世界を主宰していた大目如来のもとで誓願を立て修行するさまが、揺るぎなく堅固だったことから、このように呼ばれた。菩薩行を経て成道し、大目如来の後を継いだ。阿閦仏国経などの大乗経典に説かれる。

 

迦葉

これは十大弟子の摩訶迦葉ではなく、第六章に既出の迦葉童子菩薩のこと。涅槃経で仏に三十六の問いを発しているが、前四十余年の会座にも連ならず、法華の会座にも漏れた捃拾の機の人である。

 

講義

前章の「正法を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せず応に刀剣・弓箭・鉾槊を持すべし」文を受けて、正法を末法において護持する方軌について、さらに正法を弘持する覚徳比丘、それを刀杖をもって殺そうと迫る破戒の比丘と戦って覚徳比丘を護りぬく有徳王、もれ末法の広宣流布戦いの原理を示している章である。

有徳王・覚徳比丘

有徳王・覚徳比丘については、大般涅槃経金剛身品第二の文であり、大聖人は三大秘法抄にも引用されている。

過去の世に倶戸那城に歓喜増益如来という仏が出現したことがある。その仏が入滅した後、如来の正法は無量億年という長期間にわたって続いた。その最後、あと40年間で仏法が滅しようといていた時に、正法を堅く持った、ただ一人の比丘がいて、名を覚徳といった。その時、多くの破壊の悪比丘がいて、この覚徳比丘を殺そうとした。

これを知った有徳王は武器を執って駆けつけ、これらの悪比丘たちと果敢に戦い、覚徳比丘を守り抜いたのである。だが、この時、有徳王は、全身に刀剣、矢、矛などの傷を受け、体に完きところ寸分もない状態であった。覚徳は王の生命をかけた信心の姿勢を「善きかな、王、いま真にこれ正法を守る者なり、未来の世に、この身まさに無量の法器となるべし」と賛嘆した。王はこの覚徳のこの教えを聞き終わって心大いに歓喜して亡くなったのである。王はその後、護法の功徳力により、阿闕仏の国に生じその仏の第一の弟子となった。また、王とともに戦った将兵や人々も同じく阿闕仏の国に生まれたのである。さらに、覚徳比丘もその因縁により阿闕仏の国に生じ、その仏の声聞衆中、第二の弟子となった。

この話をした後、釈尊は有徳王とは実は今の自分であり、覚徳比丘は迦葉仏であると説き、もし、正法が滅せんとするときは覚徳比丘のごとくに正法を受持し、有徳王のように正法を守護すべきであると説いたのである。

このエピソードは、権力者である王が一宗派を守るという党派的な闘争を示すものではない。覚徳比丘とは人間として仏法の精神を体現する人であり、それを命をかけて守るのが有徳王である。

有徳王は、みずからは幕舎にあって、軍隊に命じて戦わせたわけではない。王自身、全身に傷を受け、死んでいったということからすると、あくまで正法を惜しむ一個の人間として、自ら先陣に立って戦ったのである。また、共に戦った「将従・人民・眷属」がいると経典にとかれているが、彼らも、「歓喜有りし者」とあることから考えると、命令され戦いに加わったのではなく、自発的に戦ったと考えられる。有徳王が覚徳比丘を守ったのは、内なる仏法の精神を守ったことに通ずる。

 

第八章 (念仏無間の文を挙ぐ)

法華経に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば即ち一切世間の仏種を断ぜん、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」已上。

 

現代語訳

譬喩品には「もし人が法華経を信じないで毀謗するならば、すなわち一切世間の仏種を断ちきってしまう。(乃至)その人は命終して阿鼻地獄に入り、無間の苦しみを受けるだろう」とある。

 

語釈

阿鼻獄

八大地獄の一つ。阿鼻は梵語アヴィーチ(Avīci)の音写で、訳して無間という。苦を受けるのが間断ないことをいう。周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれているところから阿鼻大城、無間大城ともいわれる。大焦熱地獄の下、欲界の最低部にあるとされ、八大地獄の他の七つよりも一千倍も苦が大きいという。五逆罪、正法誹謗の者が堕ちるとされる。顕謗法抄に「大阿鼻地獄とは、又は無間地獄と申すなり。欲界の最底、大焦熱地獄の下にあり。此の地獄は縦広八万由旬なり。外に七重の鉄の城あり。地獄の極苦は且く之を略す。前の七大地獄並びに別処の一切の諸苦を以て一分として、大阿鼻地獄の苦、一千倍勝れたり。此の地獄の罪人は、大焦熱地獄の罪人を見る事、他化自在天の楽みの如し。此の地獄の香のくささを人かくならば、四天下・欲界・六天の天人、皆ししなん。されども出山・没山と申す山、此の地獄の臭き気ををさへて人間へ来らせざるなり。故に此の世界の者死せずと見へぬ。若し仏、此の地獄の苦を具に説かせ給はば、人聴いて血をはいて死すべき故に、くわしく仏説き給はずとみへたり」と説かれる。

 

講義

この文は、法然の撰択集を破折される段で、念仏無間の文証として既に引かれたものである。ここに、再び引用して、謗法の恐るべき所以を明かされている。

現代の、特に青少年には「其の人命終して阿鼻獄に入らん」といっても、死後の生命も信じないし、無間地獄の恐ろしさなど、想像できないであろう。大部分の人は、地獄など迷信かお伽話のように思っているかもしれない。

それは、ひとえに浄土宗をはじめとする既成仏教が、長い間、御用宗教となり、特権の座にあぐらをかいて、宗教としての使命も、資格も、失ってしまったからにほかならない。そのため、民衆は地獄といえば、針の山や血の海があり、大火焰が渦巻いている、絵巻の光景しか思い浮かべることができなくなってしまったのである。

だが、すでに述べたように、地獄とは、われわれの生命の苦悩の境涯にほかならない。激しい病苦に責められて、苦しみ悶える人、罪を犯して追われる人、あるいは悪の泥沼に足を踏み入れて、抜け出すに抜け出せず苦悩する人等々、平和な社会にも、地獄の苦しみは厳然とある。

さらに、世界に目を転じ、あるいは過去に想いを馳せた時、泥沼のごとき戦争に肉身を失い、国土を焼かれ、化学兵器に身体を毒されて苦しんでいるベトナム民衆は眼前ではないか。父母・兄弟・姉妹・妻子も、家畜以下、ハエや蛆虫かバクテリアのように殺害されたユダヤ民族の悲劇はつい20年前のことである。

「地獄などウソだ、そんなことは作り話だ」という人は、もしも自分が、ベトナム民衆の一人だったら、もしかユダヤ人だとしたら、こんな気持ちでいられるであろうかと考えてみるがよい。しかも、彼らとて、現実にそうした不幸に直面するまでは、そのような事態をも夢にも想像しなかったに違いない。

人間の生命を現世のみの存在としても、いつ、こうした不幸に陥るかもしれない。一生、そんな目に会わないとは、誰人も断定できないのである。いわんや、仏は、生命は永遠であり、過去・現在・未来の三世にわたって続くと説かれている。

われわれの現在の姿は、過去にその因を求めなければならないし、未来の因は現在にあるのである。しかして日蓮大聖人は、現世の終わりであり、未来への第一歩ともいうべき臨終の相こそ仏法の大事であると、次のようにお示しである。

妙法尼御前御返事にいわく「大論に云く「臨終の時色黒き者は地獄に堕つ」等云云、守護経に云く「地獄に堕つるに十五の相.餓鬼に八種の相.畜生に五種の相」等云云、天台大師の摩訶止観に云く「身の黒色は地獄の陰に譬う」等云云、夫以みれば日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく人の寿命は無常なり、出る気は入る気を待つ事なし・風の前の露尚譬えにあらず、かしこきもはかなきも老いたるも若きも定め無き習いなり、されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと」(1404:04)。

又いわく「大論に云く「赤白端正なる者は天上を得る」云云、天台大師御臨終の記に云く色白し、玄奘三蔵御臨終を記して云く色白し、一代聖教を定むる名目に云く 「黒業は六道にとどまり 白業は四聖となる」」(1404:14)。

千日尼御前御返事にいわく「人は臨終の時地獄に堕つる者は黒色となる上其の身重き事千引の石の如し善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども臨終に色変じて白色となる又軽き事鵞毛の如し輭なる事兜羅緜の如し」(1316:11)。

教行証御書にいわく「一切は現証には如かず善無畏.一行が横難横死・弘法・慈覚が死去の有様.実に正法の行者是くの如くに有るべく候や」(1279:16

日寛上人の三重秘伝抄にいわく「如是相とは譬えば臨終に黒色なるは地獄の相、白色なるは天上の相等の如し」

このように仏法哲理の上に明らかであるにもかかわらず、現代人に、永遠の生命などありえない。三世の生命観は迷信だという考え方が支配的であることは、悲しむべきである。もし生命が偶発的なものだとするならば、現実に個人によって種々の能力差、性格の相違、容姿の違いがあるのを、どう説明するのか。単に遺伝や環境論からの説明はつくかも知れないが、しからばそういう遺伝のもとに生まれ、そのような環境の中で育たなければならなかったのはなぜか、となると、何の解明もできない。

わからないから偶然で片づけるのは、科学精神の放棄にほかならない。自分にもわからないがゆえにこそ、それを解明した哲学を謙虚に求めるべきであろう。その求めて止まぬ旺盛な探究心、真理を会得しようという努力、これを真の近代精神といわずして、何といおうか。

少なくとも、自己の既成知識で包みきれないから、みずから探究する努力を放棄して、偶然とか迷信とか妄想とかの言葉で片付けてしまうのは、無智、蒙昧、固陋の人でることを強く訴えておきたい。

 

第九章 (経証により謗法治罰を結す)

夫れ経文顕然なり私の詞何ぞ加えん、凡そ法華経の如くんば大乗経典を謗ずる者は無量の五逆に勝れたり、故に阿鼻大城に堕して永く出る期無けん、涅槃経の如くんば設い五逆の供を許すとも謗法の施を許さず、蟻子を殺す者は必ず三悪道に落つ、謗法を禁ずる者は不退の位に登る、所謂覚徳とは是れ迦葉仏なり、有徳とは則ち釈迦文なり。

 

現代語訳

経文はこのようにはっきりしている。自分勝手な言葉をどうして加える必要があろうか。法華経に説かれているとおりであるならば、大乗経典を謗ずるものは、無間の五逆罪にもすぐれた重罪である。ゆえにそれらのものは阿鼻大城におちて、無量劫のあいだ出ることはできないのである。また涅槃経の通りであるならば、たとえ五逆罪を犯したものに供養することを許しても、謗法の人に対して供養することは絶対に許されない。蟻の子を殺すものは必ず三悪道に堕ちるが、謗法を禁ずるものは定めて不退の位に登るであろう。その証拠としていわゆる覚徳比丘は迦葉仏で、有徳はすなわち釈尊であると説かれている。

 

語釈

阿鼻大城

八大地獄の一つ。阿鼻地獄のこと。阿鼻は梵語アヴィーチ(Avīci)の音写で、訳して無間という。苦を受けるのが間断ないことをいい、無間地獄ともいう。周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれているところから阿鼻大城、無間大城ともいわれる。大焦熱地獄の下、欲界の最低部にあるとされ、八大地獄の他の七つよりも一千倍も苦が大きいという。五逆罪、正法誹謗の者が堕ちるとされる。

 

永く出づる期無けん

法華経譬喩品に、「其の人は命終して 阿鼻獄に入らん 一劫を具足して 劫尽きなば更に生まれん 是の如く展転して 無数劫に至らん」とある。さらに、顕謗法抄には「無間地獄の寿命の長短は一中劫なり。一中劫と申すは、此の人寿・無量歳なりしが百年に一寿を減じ、又百年に一寿を減ずるほどに、人寿十歳の時に減ずるを一減と申す。又十歳より百年に一寿を増し、又百年に一寿を増する程に、八万歳に増するを一増と申す。此の一増・一減の程を小劫として、二十の増減を一中劫とは申すなり。此の地獄に堕ちたる者、これ程久しく無間地獄に住して大苦をうくるなり」(0447:07)と述べられている。この一中劫については、経論によって諸説があり、ここでは、人寿無量歳から百年に一歳を減じ、人寿十歳の時まで減少する期間を一減といい、ついで人寿十歳から百年に一歳ずつ増加し、人寿八万歳まで増加する期間を一増という。この一増一減を一小劫として、二十小劫を一中劫とする、との説を挙げられている。

 

不退の位

不退とは、不退転の略。梵語アヴィニヴァルタニーヤ(avinivartanīya)またはアヴァイヴァルティカ(avaivartika)の訳。音写して阿毘跋致、阿惟越致とも書く。菩薩の修行の階位。仏道修行においてどんな誘惑や迫害があっても、六道や二乗に退転することがもはやない境地。天台大師は菩薩の修行の段階である五十二位のうちの第十一位、初住の位をもって不退としている。

 

釈迦文

釈尊のこと。釈迦文は梵語シャーキャムニ(Śākyamuni)の音写。釈迦牟尼も同じ語の音写である。

 

講義

これまで引かれた仁王経・涅槃経・薬師経の文をまとめて、謗法の者を絶対に責めなければならないことを結論されている。したがって、この段の意は、これまでの各章で述べたとおりであるので、ここでは改めて述べる必要はあるまい。

私の詞何ぞ加えん

すでに述べたように、日蓮大聖人の御説法は、全て仏の経文をあくまで依り所として行なわれている。このことは、竜樹菩薩・天親菩薩・天台大師・伝教大師等、正法の伝灯者に共通する重大事である。

天台大師のいわく「修多羅と合せば緑して之を用いよ文無きは信受す可からず」と。伝教大師いわく「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」。竜樹菩薩、大智度論にいわく「修多羅に依るとは白論なり修多羅に依らざるは黒論なり」云云と。

修多羅とは、梵語のスートラで、経という意である。いかに世間から名僧知識といわれる人の言葉であっても、仏の金言である経文に反することは、絶対にこれを用いてはならないとの戒めである。

しかるに、法然の撰択集の論旨を見ても明らかなように、依拠とするところの曇鸞・道綽・善導の人師の所説であって、仏の経文によっていない。しかも、曇鸞・道綽らの所説は、竜樹菩薩の言葉を我見で解釈し、これにみずからの邪見を加えて作り上げたものにほかならない。それを、さらに法然の邪見で邪悪化しているのであるから、二重・三重の毒となってしまっているのである。

ひるがえって、日蓮大聖人御入滅後、五老僧たちは大聖人の御書を焼き、天台沙門と名乗り、天台流の教義をもって我見をひろめたのである。これ師敵対の大謗法ではないか。

富士一跡門徒存知の事にいわく、

「彼の五人一同の義に云く、聖人御作の御書釈は之無き者なり、縦令少少之有りと雖も或は在家の人の為に仮字を以て仏法の因縁を粗之を示し、若は俗男俗女の一毫の供養を捧ぐる消息の返札に施主分を書いて愚癡の者を引摂したまえり、而るに日興、聖人の御書と号して之を談じ之を読む、是れ先師の恥辱を顕す云云、故に諸方に散在する処の御筆を或はスキカエシに成し或は火に焼き畢んぬ」(1604:04)と。

何たる浅見、何たる愚かさ、五老僧といえども、大聖人を御本仏と知らざること、このありさまであったのである。不聞三宝名、雖近而不見の経文そのままではないか。

今、われらは、創価学会の正義によるがゆえに、大聖人の御本仏であることを知り、人法一箇の大御本尊を拝することができた。その福運は、どのような譬えをもってしても説き尽くすことはできないであろう。

大乗経典を謗ずる者は無量の五逆に勝れたり

大小とは、穢土の此岸より浄土の彼岸へ、衆生を運ぶ乗り物の意から、多くの衆生を救済する教えを大乗、少しの人しか救えない教えを小乗という。普通、五重の相対等で、三蔵教を小乗というのに対して、通別円の三教を大乗といい、これをさらに区別して、通別二教を権大乗、円教を実大乗といっている。

それでは、ここに「大乗経典」といわれているのは、通別円のいずれの経典を誹謗しても、無量の五逆に勝れるという意味と思う人がいるかもしれない。それは、大なる誤謬である。末法今時においては、ただ文底秘沈の大法、本地難思の妙法蓮華経の一法をもって、真実の大乗経典となすのである。

小乗大乗分別抄にいわく、

「夫れ小大定めなし一寸の物を一尺の物に対しては小と云い五尺の男に対しては六尺七尺の男を大の男と云う、外道の法に対しては一切の大小の仏教を皆大乗と云う大法東漸通指仏教以為大法等と釈する是なり、仏教に入つても鹿苑十二年の説・四阿含経等の一切の小乗経をば諸大乗経に対して小乗経と名けたり、又諸大乗経には大乗の中にとりて劣る教を小乗と云う華厳の大乗経に其余楽小法と申す文あり、天台大師はこの小法というは常の小乗経にはあらず十地の大法に対して十住・十行・十回向の大法を下して小法と名くと釈し給へり、又法華経第一の巻・方便品に若以小乗化・乃至於一人と申す文あり天台妙楽は阿含経を小乗と云うのみにあらず華厳経の別教・方等般若の通別の大乗をも小乗と定め給う、又玄義の第一に会小帰大・是漸頓泯合と申す釈をば智証大師は初め華厳経より終り般若経にいたるまで四教八教の権教諸大乗経を漸頓と釈す泯合とは八教を会して一大円教に合すとこそ・ことはられて候へ、又法華経の寿量品に楽於小法・徳薄垢重者と申す文あり、天台大師は此経文に小法と云うは小乗経にもあらず又諸大乗経にもあらず久遠実成を説かざる華厳経の円乃至方等般若法華経の迹門十四品の円頓の大法まで小乗の法なり、又華厳経等の諸大乗経の教主の法身・報身・毘盧遮那盧舎那・大日如来等をも小仏なりと釈し給ふ」(0520:01)と。

本来、大乗といい、小乗というのは、相対的なものである。バラモンや儒教・道教の外道に対すれば、一切仏教は大乗である。今度は一代仏教内で論ずれば、三蔵教は小乗であり、通別円は大乗である。さらに、その大乗の中で、通別の権教は小乗であり、法華の円教が大乗である。法華経二十八品の中では、前十四品の迹門は小乗であり、後十四品の本門が大乗である。

この釈尊一代仏法中、大乗の中の大乗である法華経本門も、受量品文底の独一本門に対すれば小乗となり、独一本門こそが真の大乗となるのである。

観心本尊抄にいわく、

「一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名く」(0249:06)と。

ここで、一品二半とは、天台所立の略広開顕の一品二半ではなく、大聖人御正意の末法流布の大法たる、広開近顕遠の一品二半である。すなわち、末法において、三大秘法の南無妙法蓮華経以外は、全て、小乗教であり、邪教であり未得道教、覆相教であるとの仰せである。

そのゆえは、上野殿御返事に「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(1546:11)と申され、高橋入道殿御返事にも「法華経は文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず」(1458:14)と仰せられていることによって、明白である。

したがって、今、本文で「大乗経典を謗ずる者は、五逆罪を数えきれないほど犯した罪よりもさらに重い」と申されているのは、日蓮大聖人の建立あそばされている三大秘法の大御本尊を誹謗する者との意である。これを知らなければ、無間地獄の罪を免れる術は、絶対にない。

設い五逆の供を許すとも謗法の施を許さず

この御文は、たとえ五逆罪を犯したものに供養することを許しても、謗法の人に供養することは絶対に許されないとの意である。すなわち謗法を固く禁ずることの大事なことを力説されているのである。

教機時国抄には、「法華経を謗ぜん者をば正像末の三時に亘りて持戒の者をも無戒の者をも破戒の者をも共に供養すべからず、供養せば必ず国に三災七難起り供養せし者も必ず無間大城に堕すべきなり」(0439:08)とある。

また、したがって正法の聖僧は謗法からの供養を受けることも絶対にないのである。日寛上人の文段には、次のように仰せである。すなわち「すでに謗法の人の供養することを許さず、何ぞ謗法の人の供養を受けんや。主君耳入免与同罪にいわく『但し法華経の御かたきをば大慈大悲の菩薩も供養すれば必ず無間地獄に堕つ、五逆の罪人も彼を怨とすれば必ず人天に生を受』」(1133:04)すなわち今文の意に同じきなり。教機時国抄もまた今文に同じ。乗明聖人御返事にいわく『劣る仏を供養する尚九十一劫に金色の身と為りぬ 勝れたる経を供養する施主・一生に仏位に入らざらんや、但真言・禅宗・念仏者等の謗法の供養を除き去るべし、譬えば修羅を崇重しながら帝釈を帰敬するが如きのみ』(1012:06)これ謗法の供養を受けざるの明文なり、豪3635のごとし、御義口伝下にいわく『謗法の供養を受けざるは貪欲の病を除くなり』(0755:第八擣簁和合与子令服の事:06)、日興上人二十六箇条遺誡置文にいわく『謗法の供養を請く可からざる事』(1618:15)云云」と。

 

 

第十章 (国中の謗法を断ずべきを結す)

法華涅槃の経教は一代五時の肝心なり其の禁実に重し誰か帰仰せざらんや、而るに謗法の族正道の人を忘れ剰え法然の選択に依つて弥よ愚癡の盲瞽を増す、是を以て或は彼の遺体を忍びて木画の像に露し或は其の妄説を信じて莠言を模に彫り之を海内に弘め之を閣外に翫ぶ、仰ぐ所は則ち其の家風施す所は則ち其の門弟なり、然る間或は釈迦の手指を切つて弥陀の印相に結び或は東方如来の鴈宇を改めて西土教主の鵝王を居え、或は四百余回の如法経を止めて西方浄土の三部経と成し或は天台大師の講を停めて善導講と為す、此くの如き群類其れ誠に尽くし難し是破仏に非ずや是破法に非ずや是破僧に非ずや、此の邪義則ち選択に依るなり。

  嗟呼悲しいかな、如来誠諦の禁言に背くこと、哀なるかな愚侶迷惑の粗語に随うこと、早く天下の静謐を思わば須く国中の謗法を断つべし。

 

現代語訳

法華・涅槃の経教は釈尊一代五時の説法のうち、その肝心である。そのゆえに戒めは実に重いのである。誰がそれに従わないでいられようか。しかるに諸衆は元来、謗法の徒輩にしてまた法華経の正道を忘れた人であり、さらに法然の選択集によって、ますます愚痴の盲目ぶりを増し、謗法の度を加えている。このゆえにあるいは法然の遺体を木像に刻み、絵像として描いたり、あるいは法然の妄説を信じて選択集などのまことしやかな邪言を版木に彫り、これを刷って日本国中のいたるところ、いなかのすみずみまで弘め歩いている。いまや国の上下を問わず、仰ぐところは法然の家風、すなわち念仏であり、布施をするといえばその門弟にたいしてのみというありさまとなった。

このような状態であるから、或は釈迦像の手を切って阿弥陀の印相に結び変え、あるいは東方薬師如来の祭ってある寺を改めて、西方阿弥陀如来の像を据え、あるいは天台宗の第三祖・慈覚大師の時以来、4百余年間も続いてきた法華経を書写する如法経も、浄土の三部経を書写するように改められ、あるいは毎年十一月二十四日に行われてきた天台大師講を停止して、善導講としてしまった。このような謗法の徒輩はとうてい数えきれない。これこそ破仏・破戒・破僧之好の行為でなくて何であろうか。これらの邪義はすなわちすべて法然の選択集によるものである。

このような大衆が如来の悟りの禁言にそむいているのは、実に悲しいことであり、愚侶にすぎぬ法然の迷いの言葉に従っていることは、まことに哀れなことである。一刻も早く天下の泰平を願うならば、まず何よりも国中の謗法を断絶すべきである。

 

語釈

莠言                                                                                                                 

「莠」は「はぐさ」。稷に似ているが、葉ばかりのびて実らない雑草。すなわち莠言とは、もっともらしく聞こえるが、まやかしの言葉をいう。法然の邪義の言のこと。

 

槨外

「槨」は「かこみ」「くるわ」。中国では都城の周辺を塁壁で囲んだところから、城内を槨内、城外を槨外といった。ここでは、念仏宗の徒が、都の外、辺鄙な田舎の隅々にまで法然の邪義をひろめ、念仏の哀音が日本中をおおったことをいう。

 

釈迦の手指を切つて弥陀の印相に結び

中世初期、念仏が非常な勢いで広がり始めたとき、民衆の意を迎えるために、これまでの釈迦像の手の指を切って阿弥陀の印相に変え、阿弥陀像とすることが盛んに行われた。

 

鴈宇

仏教の伽藍のこと。語の由来として、①古代インドのマガダ国にあった雁供養の塔。菩薩が浄肉を食う僧を戒めようとして雁に化し、空から落ちて死んだ跡に塔が建てられたという、大唐西域記の故事による。②建物全体の形が雁に似ているのでこのようにいうとも、屋根の形が雁の羽をひろげた姿に似ているのに由来するともいわれる。日寛上人の文段には「鴈宇は堂塔の別称なり。これに二縁あり。一には西域九・二十二に云く『昔比丘有り。群雁の飛翔を見て、戯れて時を知れと云う。忽ち一雁有り、投下して自ら殞つ。疏して云く、此の雁は誡めを垂る。宜しく厚徳を旌わすべしと。是に於て雁を瘞めて塔を建つ』と文。二には要覧上二十二に云く『雁堂は善見律に云く、毘舎離大林に於て仏の為に堂を作る、形雁子の如し。一切具足す』と文。堂舎四つに垂るること、雁の羽翼の自ら覆うが如し。故に『形雁子の如し』というか。註の中には『字訓に付いて之を釈す』と云云」とある。

 

鵝王

仏の三十二相の一つに手足指縵網相があり、これは手足の指の間に縵網があることである。衆生を漏らさず救う象徴とされ、このことから仏を鵝王と異称するようになった。日寛上人の文段には「鵝王は仏の異称なり。これ三十二相の中の網縵相に約するなり。会疏二十六・四十二に云く『菩薩は衆生を摂取す、この業縁を以て網縵指白鵝王の如くなるを得』と文。一昨日抄二十六と本尊抄八にも以て異称と為すなり」とある。

 

如法経

慈覚が始めたもので、法華経書写の行の一つ。すなわち、慈覚が天長年間に、比叡山の横川で庵を結び、三年間、六根懺悔の三昧行法を修し、如法作法によって法華経等を書写し、これを小塔に納めて如法堂に安置したのが始めといわれる。以来、藤原道長が寛弘年間に法華三部を書写して大和の金峯山に納めるなど、盛んに行われた。しかるに浄土宗の如法経は、元久元年、法然が浄土三部経を書写して後白河法皇十三回忌法要に供養したのに始まった。

 

講義

 当世の謗法の輩が、釈尊を忘れ、またその釈尊の教えを正しく引き継いだ天台・伝教等の、仏法の正統を見失ったばかりか、法然の邪義に迷わされ、破仏法の行為が国じゅうに充満していることを指摘されている。

三宝について

「而るに謗法の族・正道を忘るの人・剩え法然の選択に依って弥よ愚痴の瞽を増す」について、日寛上人は文段に「この二句は諸宗は元来謗者にして正道を忘れたる人なることを明かすなり、その上、選択に依っていよいよ愚盲を増すゆえに剩えと云うなり」と仰せである。

「是破仏に非ずや是破法に非ずや是破僧に非ずや」とは、浄土宗の輩の行為が仏法僧の三宝を真っ向から破壊する仏教にほかならないことを糾弾されたのである。釈迦像を改造して阿弥陀にするのは破仏である。法華経の如法経を浄土三部経にすり替えているのは破法である。天台大師講を善導講に変えたのは、破僧である。

聖徳太子の十七条憲法にいわく。

「篤く三宝を敬へ」と。

法華経寿量品にいわく、

「我が浄土は毀れざるに、而も衆は焼け尽きて憂怖諸の苦悩、是の如き悉く充満せりと見る。是の諸の罪の衆生は、悪業の因縁を以って、阿僧祇劫を過ぐれども、三宝の名を聞かず」と。

このように、三宝は仏法上、きわめて重視されている。ゆえに三宝を正しく立てるか否かによって、その宗教の正邪が決定されるのである。まして、仏・法・僧の三宝を破壊し、否定し、あるいは誤れる三宝を立てるものは、ことごとく謗法となる。

究竟一乗宝性論第三にいわく「真宝は世に希有なり、明浄および勢力あり、能く世間を荘厳し、最上なり不変なり」と。この希有・明浄・勢力・荘厳・最上・不変の六義をもって仏・法・僧を三宝となすのである。

仏宝とは、宇宙の実相・永遠の生命を見究め、一切衆生に対して主師親の三徳を具備された仏である。法宝とは、その仏の教法であり、僧宝とは、仏の教法を正しく伝持する僧である。この三宝のいずれが欠けても、正しい仏道修行はできない。したがって、成仏、絶対幸福の境涯を会得することができないのである。

このゆえに、三宝の恩を報ずることは、一切の報恩の中でも、特に重視されている。四恩抄には、次のように説かれている。

「釈迦如来・無量劫の間・菩薩の行を立て給いし時一切の福徳を集めて六十四分と成して功徳を身に得給へり、其の一分をば我が身に用ひ給ふ、今六十三分をば此の世界に留め置きて五濁雑乱の時・非法の盛ならん時・謗法の者・国に充満せん時、無量の守護の善神も法味をなめずして威光・勢力減ぜん時、日月光りを失ひ天竜雨をくださず地神.地味を減ぜん時、草木・根茎・枝葉・華菓・薬等の七味も失せん時、十善の国王も貪瞋癡をまし父母.六親に孝せず・したしからざらん時、我が弟子無智・無戒にして髪ばかりを剃りて守護神にも捨てられて活命のはかりごとなからん比丘比丘尼の命のささへとせんと誓ひ給へり、又果地の三分の功徳・二分をば我が身に用ひ給ひ、仏の寿命・百二十まで世にましますべかりしが八十にして入滅し、残る所の四十年の寿命を留め置きて我等に与へ給ふ恩をば四大海の水を硯の水とし一切の草木を焼て墨となして一切のけだものの毛を筆とし十方世界の大地を紙と定めて注し置くとも争か仏の恩を報じ奉るべき、法の恩を申さば法は諸仏の師なり諸仏の貴き事は法に依る、されば仏恩を報ぜんと思はん人は法の恩を報ずべし、次に僧の恩をいはば仏宝法宝は必ず僧によりて住す、譬えば薪なければ火無く大地無ければ草木生ずべからず、仏法有りといへども僧有りて習伝へずんば正法・像法・二千年過ぎて末法へも伝はるべからず」(0938:02)。

それでは、正しい三宝とは何か、という点が、次の問題となる。これについては、正法・像法・末法の三時によって弘まる法が異なる。それに応じて、仏の宝も、僧の宝も変わってくることを知らねばならない。

正像末の三時の正しい三宝の立て分け方を示すと、次のようになる。

正法時代

一  小乗の三宝

仏 丈六劣応身の釈尊

法 四諦・十二因縁の法門

僧 声聞の四果、縁覚等の比丘。迦葉・阿難等付法蔵の人々

二  権大乗の三宝

仏 三十二相八十種好の勝応身の仏

法 通教・別教の諸経

僧 十住、十行、十回向、十地等の菩薩。竜樹・天親等の論師

像法時代

三  法華迹門の三宝

仏 始成正覚の円仏

法 迹門理の一念三千

僧 法華会上の声聞・縁覚・薬王の後身といわれる天台・伝教

四  法華本門の三宝

仏 久遠五百塵点劫成道の釈尊

法 本門事の一念三千

僧 上行菩薩

ただし、本門の三宝は、天台大師が迹面本裏の立ち場で用いたもの。いわゆる文上脱益の配立である。もしこれを末法の文底下種事行の一念三千に対すれば、本迹事理の一念三千といえども、共に理の一念三千となる。また、佐渡以前の大聖人も外用の辺で、この本門の三宝を立てられている。

末法

仏 久遠元初の自受用身、即、日蓮大聖人

法 事行の一念三千南無妙法蓮華経

僧 血脈付法の日興上人

日寛上人、当流行事抄にいわく、

「久遠元初の仏宝、豈異人ならんや即ち是れ蓮祖大聖人なり、五百塵点劫の当初・毎自作是念・以何令衆生・得入無上道・速成就仏身・此の大秘願力を以て即ち末法に出現し自ら身命を惜しまず此の大法を授与す、此の如き大慈悲心・豈末法の仏宝に非ずや。

久遠元初の法宝とは即ち是れ大御本尊是れなり、釈尊の因行果徳の二法・妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与う於我滅度後・応受持斯経・是人於仏道・決定無有疑云云此の如き大恩・香城に骨を摧き雪嶺に身を投ぐるとも寧ろ之を報ずるを得んや、

久遠元初の僧宝とは即ち是れ開山上人なり、仏恩甚深にして法恩も無量なり、然りと雖も若し之を伝えずんば即ち末代今時の我等衆生曷ぞ此の大法を信受することを得んや、豈開山上人の結要伝授の功に非ずや・然れば即ち末法出現の三宝は其の体最も明らかなり」と。

およそ、日蓮大聖人が末法の御本仏にあられることについては、法華経の予言との符合で、誰人も疑う余地のないところである。大聖人御自身の御書にも、開目抄の「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(0237:05)撰時抄の「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし、これをもつてすいせよ漢土月支にも一閻浮提の内にも肩をならぶる者は有るべからず」(0284:08)等々、明言されているとおりである。

早く天下の静謐を思わば須く国中の謗法を断つべし

仏法は勝負である。信心に妥協はない。謗法を責めて責めて責抜いて、これを追放して初めて、信心これは総じての意であり、みずからの宿命を打開し、永遠の幸福を樹立するためには、信心する以外にないことはいうまでもないのであろう。している者も、信心していない者も、安心して暮らしていける平和世界が実現するのである。但し、

如説修行抄にいわく、

「法華折伏・破権門理の金言なれば終に権教権門の輩を一人もなく・せめをとして法王の家人となし天下万民・諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」(0502:05)と。

上の御文は、国じゅうの謗法を断ち、広宣流布するならば、かかる理想世界が出現するとの仏のお約束である。

 

 

第八段 (謗法に布施を止めるの意を説く)

 

第一章 (経文の如く斬罪に処すべきかを問う)

客の曰く、若し謗法の輩を断じ若し仏禁の違を絶せんには彼の経文の如く斬罪に行う可きか、若し然らば殺害相加つて罪業何んが為んや。

 

現代語訳

客のいわく。もし謗法の輩を断じ、仏の戒めを違反する人々を断つためには、前の経文に示されたとうり斬罪にしなければならないのか。もしそうであるとすれば、殺害の罪が加わって、自分自身がその罪業を免れることはできないではないか。

 

講義

三災七難を治め、天下泰平・国土安穏の世を実現するためには、謗法を対治しなければならないことは、明らかである。それでは、どのような方法で対冶するかが問題である。

まず本章で謗法を断絶するには、涅槃経の文のように斬罪にしなければならないのか、もし、そうだとしたら殺害の罪を犯すことになるのではないか、という客の問いを掲げられている。

いうまでもなく、仏法上から見て、殺害の罪は謗法の罪よりも、比較にならないほど軽い。法華経には「大乗経典を謗ずる者は無量の五逆に勝れたり」と。五逆は、今日でいえば尊属殺人である。無量の尊属殺人を犯すよりも、正法誹謗の方が重いというのである。

しかし、仏法は慈悲の教えであり、悪人といえども、絶対に救われる宗教である。妙法受持によって宿命転換し、いかなる罪障も消滅することができる。ゆえに、いっさいの死刑は廃止すべきであるとの立ち場をとる。

涅槃経に、謗法の命を断ぜよとあるのは、世間で最も重い罪に対して適合されるのが、死刑であるとの考え方から謗法こそ最も憎むべきことを教えたと考えられる。すなわち、謗法の人を殺すのではなく、謗法の心を殺すのである。したがって、日蓮大聖人御自身、浄土宗の僧侶や一切邪宗の指導者たちの首を斬れと主張されたのも、これと同じお心と拝すべきであろう。

仏法から見た死刑観

一体、誰に人の命を勝手に奪ったりできる資格があるのか。仏のいわく「一切衆生は皆吾が子なり」と。善人であると、悪人であるとにかかわりなく、全民衆は仏の子供であるとの言葉である。であれば、誰人の生命であれ、その生殺与奪の権は親たる仏にこそあれ、凡夫たるわれらにはない。

また、一念三千の法理に照らして、悪人といっても、必ず善心がある。地獄・餓鬼・畜生・修羅の心と共に、菩薩・仏の命もある。十界互具・一念三千の当体である。そして、その人の命は、即、法の器といえる。治病抄には「善と悪とは無始よりの左右の法なり権教並びに諸宗の心は善悪は等覚に限る若し爾ば等覚までは互に失有るべし、法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(0997:06)と申されている。

生命は、また水晶の玉に譬えられる。赤い光を当てれば赤く輝き、青い光を当てれば青く輝く、それが輝いている結果のみを見て、醜い光が当たっている原因を考えず、惜しい玉を砕いてしまう。これと同じ愚を、死刑は犯すことになるであろう。

しからば、その美しい光りは何か、醜い光は何か、時代的、社会的条件も、もちろんあろう。だが、それらが影響する度合を、まったく凌駕して人間生命の輝きを左右するものがある。すなわち、仏の正法と、仏に敵対する謗法とがそれである。

このゆえに、われわれは、社会を指導する原理は、仏法哲学によらなければならない。また、指導者は仏法の慈悲を根本精神とすべきであることを主張するのである

わが国において、弘仁元年(0810)藤原仲成が誅せられてから保元元年(1156)保元の乱後、源為義が死罪にされるまでの約350年間、まったく死刑がなかったという事実がある。法律的には、この時代も律令政治の延長で、斬・絞の二種の死刑が存続していた。したがって、特に重罪の場合、死刑が宣告されても、別に勅を発して、一等を免じ、遠流にされたのである。

この時代は、伝教大師が嵯峨天皇の帰信を受け、南都六宗の高僧たちと殿上で法論を行って、法華最勝の義を高揚したころである。法華迹門の戒壇が建立されたのは、伝教大師入滅後であったが、全仏教界の中心となり、平安朝文化の華を咲かせたのである。この正法興隆と死刑廃止とが一致している事実に注目すべきであろう。

なお、死刑復活の口火を切った源為義の処刑は保元元年(1156)のことで、その時代的背景を見ると、朝廷、貴族を中心とした律令体制が、武士の出現によって動揺し始めた時代でもある。平安朝の繁栄と平和が過去のものとなり、戦乱と天災地変が頻発し始めた時代である。そして、最も人々の心を大きく動かしたのが、末法思想で、邪悪な浄土の教えが仏教の正統派である天台仏教に、公然と反旗を翻し始めた時代なのである。

源為義処刑のころ、法然は23歳になっており、黒谷の叡空のもとで法然房源空と名のり、慧心僧都の「往生要集」を初めて読んだといわれる時にあたっている。法然が専修念仏をひろめ始めたのは43歳というから、これより少し時代は下るが、大きい時の流れとして、すでに慧心等の浄土思想が相当ひろまっていたことは間違いない。邪法の流布と世相の混乱との一致にも、不思議をおぼえる。

なお、死刑は、鎌倉時代には斬首のみで、稀に謀叛人等には梟首が行われた。室町時代には武士の死刑に切腹が行われるようになり、戦国時代には、磔・逆さ磔・鋸挽き・串刺・車裂・火焙り・釜煎・簀巻などの残酷の極みが尽くされた。これは、江戸時代にもほぼそのまま引き継がれた。

これらの処刑の方法は、まことに残酷で、詳説するのは避けるが、浄土宗・真言宗が徹底的に流布された時代に、こうした残酷な行為が行われたのである。悪鬼魔神の宗教がはびこり、御用宗教と化しながら、人心を支配した恐ろしさを、改めて確認すべきであろう。西欧においてもキリスト教の宗教裁判と残虐無比な刑罰とが密接に関係し合っていたことは万人の認めるところである。

明治以降、死刑は絞首刑のみとなり、特別に陸海軍刑法として銃殺も行われたが、戦後は、これはなくなった。死刑執行の数も減少の一途を辿っており、死刑廃止も叫ばれるようになっているが、犯罪の凶悪化、増加によって、その反対論も強い。大生命哲学によって正しい生命観を確立する社会浄化こそが、恒久的死刑廃止の大道であると確信する。

 

第二章 (僧尼殺害の罪を挙げて問う)

則ち大集経に云く「頭を剃り袈裟を著せば持戒及び毀戒をも、天人彼を供養す可し、則ち我を供養するに為りぬ、是れ我が子なり若し彼をカ打する事有れば則ち我が子を打つに為りぬ、若し彼を罵辱せば則ち我を毀辱するに為りぬ」料り知んぬ善悪を論ぜず是非を択ぶこと無く僧侶為らんに於ては供養を展ぶ可し、何ぞ其の子を打辱して忝くも其の父を悲哀せしめん、彼の竹杖の目連尊者を害せしや永く無間の底に沈み、提婆達多の蓮華比丘尼を殺せしや久しく阿鼻の焔に咽ぶ、先証斯れ明かなり後昆最も恐あり、謗法を誡むるには似たれども既に禁言を破る此の事信じ難し如何が意得んや。

 

現代語訳

すなわち大集経には「髪を剃り、袈裟を身にまとえば、たとえそれが持戒のものであっても毀戒のものであっても、人天の衆生はその人を供養すべきである。彼等を供養することが、すなわち仏である自分を供養することになるからである。それらの僧尼は、皆、我が子であり、もし彼等を打つようなことがあるならば、それは即わが子を打つのと同じことである。もし悪口をいって彼等をはずかしめるならば、それは、我をはずかしめることになるのである。」とあるではないか。

したがって善悪を論ぜず是非を選ばないで、およそ僧侶ならば、彼等を供養しなければならない。どうして私の子を打ったりはずかしめて、その父である釈尊を悲しませてよいのであろうか。かの竹杖外道は目連尊者を殺したため、長く無間地獄に沈み、また提婆達多は蓮華比丘尼を殺したため久しく阿鼻の焔にむせんだ。このような先証は明らかであるゆえに、このことは後世の人々が最も恐れなければならぬところである。謗法の輩を斬罪することは謗法を誡めるようであるが、すでにこのような仏の禁言を破ることになる。このことは、はなはだ信じ難いことであるが、どのように心得たならようのだろうか。

 

語釈

 

撾打

「撾」も「打」も、うつ、叩くの意。

 

竹杖の目連尊者を害せし

竹杖とは竹杖外道をいい、古代インドの仏教以外の修行者の一派。目連は摩訶目犍連の略で、釈尊の声聞十大弟子の一人で神通第一。釈尊入滅の前に羅閲城で托鉢の修行をしていたとき、竹杖外道にかこまれた。いったんはのがれたが、過去世の宿業であることを知って自ら外道に殺されて業を滅したといわれる。

 

提婆達多の蓮華比丘尼を殺せし

蓮華比丘尼は華色比丘尼、蓮華女ともいう。釈尊在世の弟子。大智度論巻十四によれば、釈尊を圧し殺そうとして山から岩を落とした提婆達多に対し、その非を責めたため提婆達多に拳で打ち殺されたという。

 

後昆

「後」も「昆」も「のち」の意。のちの世の人。後人。

 

講義

客の問いの後半の意は、頭を剃り袈裟を着ている者は、すなわち仏の子であると大集経に説かれている。これはどの僧尼をも訶責することは、仏を悲しませることになるのではないか、というのである。

これは、文証もあり、現証も挙げているのに、一見、正しいようであるが、大きい誤りがある。すでに第二段に、同じく大集経の文が引かれているが、そこで「是の如き不善業の悪王、悪比丘我が正法を毀壊し天人の道を損減し」云云と述べられている。

 

沙門に非ずして沙門の像を現ず

 

比丘とは、頭を剃って出家し、袈裟を着した男、すなわち僧である。ここに明らかに、僧にも正法を毀壊し、世を混乱におとしいれる憎むべき悪僧があることが、前提とされている。いわんや、仁王経には「諸の悪比丘多く名利を求め…破仏法の因縁、破国の因縁を説かん」、法華経には「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に…或は阿練若の納衣にして」等、また涅槃経には「正法滅して像法の中に於て当に比丘有るべし、持律に似相して少しく経を読誦し…袈裟を著すと雖も猶猟師の細めに視て徐かに行くが如く…実には沙門に非ずして沙門の像を現じ邪見熾盛にして正法を誹謗せん」と説かれているではないか。

したがって、」この大集経の文の意は、あくまでも正法を護持した僧を指していると考えなければならない。法然をはじめとする浄土宗の僧や、良観などの律僧等は「実には沙門に非ずして沙門の像を現じ」た輩であって、この禁戒には、まったくあてはまらないのである。しかして、彼らは仏子にあらずして仏敵である。彼らのような悪比丘は、徹底的に呵責せよというのが仏の命令である。

目連尊者は、釈尊の十大弟子の一人であり、正しい仏法を修めた聖僧である。蓮華比丘尼にしても、仏弟子として、正義によって悪逆の提婆達多を厳しく面責したゆえにこそ、彼によって撲殺されたのである。仏の正法に背き、法華経の行者をそしる、末法の悪僧たちは、竹杖外道や提婆達多にこそ似ていても、目連や蓮華比丘尼と比較できる道理ではないか。

開目抄にいわく、

「世間の浅き事すら猶あやまりやすし何に況や出世の深法誤なかるべしや、犢子・方広が聡敏なりし猶を大小乗経にあやまてり、無垢・摩沓が利根なりし権実・二教を弁えず、正法一千年の内、在世も近く月氏の内なりし・すでにかくのごとし、況や尸那・日本等は国もへだて音もかはれり人の根も鈍なり寿命も日あさし貪瞋癡も倍増せり、仏世を去つてとし久し仏経みなあやまれり誰れの智解か直かるべき、仏涅槃経に記して云く「末法には正法の者は爪上の土・謗法の者は十方の土」とみへぬ、法滅尽経に云く「謗法の者は恒河沙・正法の者は一二の小石」と記しをき給う、千年・五百年に一人なんども正法の者ありがたからん、世間の罪に依つて悪道に堕る者は爪上の土・仏法によつて悪道に堕る者は十方の土・俗よりも僧・女より尼多く悪道に堕つべし」(0199:12)と。

現代の邪宗僧尼の姿は、もはや誰人も彼らが尊いなどとは思えないほどになりきっている。御本仏、日蓮大聖人の師子吼によって、魔性の本体を破折し尽くされた結果であるともいえる。

彼らの大部分は、自宗の低級な教義についてすら、なんら研究、思索もなく、いわんや、生活の原理として民衆に納得せしめる指導性など、微塵もなくなってしまっている。ただ先祖代々の檀信徒のみをたよりとして、葬式や法要の際に、出かけていっては布施をもらって、生計の糧としているにすぎない。はでな袈裟、衣を着た、その姿はサルまわしのサルのごとく、根性は乞食同然ではないか。

しかも、世間の僧侶は、人の不幸によって利益を得ようとするのであり、その読む経文は、地獄の生命を宿して、人々を奈落の底に突き落とす働きしかない。これはど、非生産的、破滅的な存在はない。一日も早く追放すべきである。

最近の学会の折伏によって、旧来の檀信徒が激減し、繁華な地にあるものは、境内をさいて売却・賃貸したり、住職が、副業の寺のなかで飲食店を経営したりしているものもある。山間僻地の寺院にいたっては、そのまま観光客や、避暑客のホテルに変身して、小贈たちがボーイをつとめ、住職はマネージャーよろしくやっている例もある。

「天下の静謐を思わば須く国中の謗法を断つべし」との大聖人の御遺命を胸に、最後の息の根を止めるまで、一歩も退くことなく、破邪の剣を振って進もうではないか。

なかんずく、彼らは全日本仏教徒連盟なるものを組織し、衰亡しゆく個々の力ではどうしようもないので、団結して、衰運を食い止めようと躍起になっている。土台自体がすでに崩壊しているうえ、同体異心の連合軍のごとき恐れるに足りない。その魔物のあがきに対しては、断固、粉砕の鉄槌を加えなければならない。

なお、歴史的、美術的見地から見て重要な、国宝、文化財に指定されている寺院や仏像等をどうすべきか、という問題がある。これについては、純粋に歴史的、美術的観点から、国家あるいは公共団体によって維持、保護されることが望ましい。現在のように、謗法の僧がこうした文化財の参観料を生計の糧にしているにしている形態は、文化財保護のためにも、はなはだ憂うべきである。文化関係者が頭を痛めているこの問題も、以上のような方法によれば抜本的に解決される道が開けるものではないか。

 

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