立正安国論3

立正安国論

文応元年(ʼ60)7月16日 39歳 北条時頼

  1. 第三段 (誹謗正法の由来を挙げ亡国を証す)
    1. 第一章 (仏法興隆をもって問難す)
      1. 現代語訳
      2. 語釈
        1. 後漢の明帝
        2. 上宮太子
        3. 守屋
        4. 叡山
        5. 南都
        6. 園城
        7. 東寺
        8. 五畿・七道
        9. 鶖子の族は則ち鷲頭の月を観じ
        10. 鶴勒の流は亦鶏足の風を伝う。
      3. 講義
        1. 上宮太子は守屋の逆を……
        2. 爾しより来、上一人より下万民に至るまで、仏像を崇め経巻を専らにす……
    2. 第二章 (世人法の正邪を知らざるを喩す)
      1. 現代語訳
      2. 語釈
        1. 僧は竹葦の如く、侶は稲麻に似たり
        2. 諂曲
      3. 講義
    3. 第三章 (仁王経等により悪侶を証す)
      1. 現代語訳
      2. 語釈
        1. 仁王経
        2. 涅槃経
        3. 悪知識
        4. 三趣
      3. 講義
        1. 極楽寺良観と国家権力の結託
        2. 平左衛門尉頼綱の横暴
        3. 菩薩、悪象等に於ては……
    4. 第四章 (法華経を引き悪侶を証す)
      1. 現代語訳
      2. 語釈
        1. 法華経
        2. 阿練若に、納衣にして空閑に在り
        3. 世に恭敬せらるること、六通の羅漢の如くならん
      3. 講義
          1. 第一類=俗衆増上慢
        1. 第二類=道門増上慢
        2. 第三類=僭聖増上慢
        3. 現代の三類の強敵
    5. 第五章 (涅槃経を引き悪侶を証す)
      1. 現代語訳
      2. 語釈
        1. 四道の聖人
      3. 講義
        1. 我れ涅槃の後、無量百歳に四道の聖人、悉く復た涅槃せん。正法滅して後、像法の中に於て……
  2. 第四段 (誹謗正法の元凶の所帰を明かす)
    1. 第一章 (正法誹謗の人・法を問う)
      1. 現代語訳
      2. 講義
        1. 世上の僧侶は天下の帰する所なり
        2. 明王は天地に因つて化を成し、聖人は理非を察して世を治む
    2. 第二章 (法然の邪義撰択集を示す)
      1. 現代語訳
      2. 語釈
        1. 後鳥羽院
        2. 法然
        3. 選択集
        4. 道綽禅師
        5. 聖道・浄土の二門
        6. 地論
        7. 摂論
        8. 曇鸞法師
        9. 十住毘婆沙
        10. 阿毘跋致
        11. 難行道・易行道
        12. 善導和尚
        13. 正雑の二行
        14. 観経
        15. 往生浄土の経
        16. 世天
        17. 百即百生
        18. 千中無一
        19. 貞元入蔵録
        20. 法常住経
        21. 定散の門
        22. 随自の後
        23. 三心
        24. 群賊等喚び廻す
      3. 講義
    3. 第三章 (法然の謗法を断ず)
      1. 現代語訳
      2. 語釈
        1. 法華・真言
        2. 阿鼻獄
      3. 講義
        1. 法然こそ誹謗正法の張本人
    4. 第四章 (選択集の謗法を結す)
      1. 現代語訳
      2. 語釈
        1. 冥衢
        2. 瞳矇を拊たず
        3. 伝教
        4. 義真
        5. 慈覚
        6. 智証
        7. 華界・蓮宮
        8. 瓦松の煙老い
      3. 講義
        1. 是に於て代末代に及び、人、聖人に非ず
        2. 末法の意味
        3. 釈尊の仏法について
        4. 一凶とは終末的な響き
  3. 第五段 (和漢の例を挙げて念仏亡国を示す)
    1. 第一章 (法然の邪義に執着するを示す)
      1. 現代語訳
      2. 語釈
        1. 釈迦文
        2. 四論
        3. 涅槃の広業
        4. 慧心僧都
        5. 六十巻
        6. 智は日月に斉しく
        7. 一夢の霊応を蒙り
        8. 四裔の親疎に弘む
        9. 十方の貴賎頭を低れ
        10. 或は勢至の化身と号し
        11. 毛を吹いて疵を求め
      3. 講義
        1. 客殊に色を作して
        2. 故に或は勢至の化身と号し或は善導の再誕と仰ぐ、然れば則ち十方の貴賎頭を低れ一朝の男女歩を運ぶ
        3. 而るに忝くも釈尊の教を疎にして恣に弥陀の文を譏る何ぞ近年の災を以て聖代の時に課せ強ちに先師を毀り 更に聖人を罵るや
        4. 此くの如き悪言未だ見ず惶る可く慎む可し
    2. 第二章 (現証を以って法然の邪義を破す)
      1. 現代語訳
      2. 語釈
        1. 辛きことを蓼の葉に習い
        2. 臭きことを溷厠に忘る
        3. 讎敵
        4. 八荒
      3. 講義
        1. 辛きことを蓼の葉に習い臭きことを溷厠に忘る善言を聞いて悪言と思い
        2. 釈尊説法の内一代五時の間に先後を立てて権実を弁ず
        3. 宗教批判の原理
        4. 文・理・現の三証
        5. 五重の相対
        6. 宗教の五網
    3. 第三章 (中国における亡国の現証を挙ぐ)
      1. 現代語訳
      2. 語釈
        1. 止観
        2. 史記
        3. 弘決
        4. 被髪袒身
        5. 左伝
        6. 平王
        7. 髪を被にする者の野に於て祭る
        8. 阮藉
        9. 自然に達す
        10. 武宗皇帝
        11. 回鶻国
        12. 大蕃国
      3. 講義
        1. 周末の乱れ
        2. 世の乱れを救いきれなかった孔子の教え
        3. 晋の衰微
        4. 残虐非道の限り尽した八王の乱・永嘉の喪乱
        5. 唐末・安禄山史思明の叛乱
        6. 朱全忠唐を亡ぼし宋を建国
        7. 礼儀の頽廃による国の滅亡

第三段 (誹謗正法の由来を挙げ亡国を証す)

第一章 (仏法興隆をもって問難す)

 客色を作して曰く、後漢の明帝は金人の夢を悟つて白馬の教を得、上宮太子は守屋の逆を誅して寺塔の構を成す。爾しより来、上一人より下万民に至るまで、仏像を崇め経巻を専らにす。然れば則ち叡山・南都・園城・東寺、四海・一州・五畿・七道、仏経は星の如く羅り、堂宇雲の如く布けり。鶖子の族は則ち鷲頭の月を観じ、鶴勒の流は亦鶏足の風を伝う。誰か一代の教を褊し、三宝の跡を廃すと謂んや。若し其の証有らば、委しく其の故を聞かん。

 

現代語訳

客は顔色を変えて問い返した。

中国・後漢の明帝は金人の夢を見、その意味を悟って、仏法をインドから求め、わが国においては聖徳太子が仏教に反対する物部守屋の叛逆を征伐して、仏教を興隆し、寺塔を建立したのである。それより以来、上は天皇から下は万民にいたるまで、仏像を造立して崇め、経巻をひもとき読誦してきた。

したがって、比叡山、南都、園城、東寺をはじめとして、四海、一州、五畿、七道の全国いたるところに仏法はくまなく伝播して、仏像、経巻は星のごとく連なり、寺院は雲のようにたくさん建ち並んでいる。ゆえに舎利弗の流れを汲む人びとは、その観法を崇める立場を守り、あるいは付法蔵の第23祖である鶴勒の流れを汲む者は、その教法を尊ぶ伝統を今日まで伝えている。

しかるに、釈尊一代の教えを破り汚し、仏法僧の三宝を廃し、仏法が隠没してしまった等とだれがいえようか。

もし、その証拠があるならば、詳しくその理由を聞きたいと思う。

 

語釈

後漢の明帝

中国・後漢の第二代孝明皇帝のこと。中国に仏教が伝来したのは、孝明皇帝によると伝えられていた。「仏祖統紀」巻三十五には明帝七年の箇所に、帝は丈六の金人がうなじに日光を帯び、庭を飛行するのを夢に見て、醒めて群臣に尋ねた時、太史・傅毅が進み出て、周の昭王の時代に西方に聖人が出現し、その名を仏というと聞いていると進言した。そこで帝は、使者を遣わし西域に仏道を求めさせた。これら一行は大月氏国で摩騰迦と竺法蘭に会い、仏像ならびにサンスクリットの経典六十万言を得て、それを白馬に乗せ、摩騰迦と竺法蘭とともに、永平十年(0067)(和暦垂・仁天皇96)に洛陽に帰った。帝は大いに喜び、摩騰迦をまず鴻臚寺に迎え、次いで同11年(0068)勅令して、洛陽の西に白馬寺を建てて仏教を流布させたと伝えられる。

 

上宮太子

飛鳥時代の政治家。厩戸皇子・豊聡耳皇子・上宮王ともいう。聖徳太子のこと。用明天皇の第二皇子。叔母・推古天皇の皇太子、摂政となり、冠位十二階、十七条憲法を制定。小野妹子を隋に派遣し国交を開く。また四天王寺をはじめ七大寺を造営し、法華経・勝鬘経・維摩経の注釈書である三経義疏を作ったと伝えられる。これらの業績が、実際に聖徳太子自身の手によるものであるか否かは、今後の研究に委ねられている。ただし、妃の橘大郎女に告げた「世間は虚仮なり、唯、仏のみ是れ真なり」という太子の言葉が残されていて、ここから仏教への深い理解にたどり着いた境地がうかがわれる。日本に仏法が公式に伝来した時、受容派と排斥派が対立したが、聖徳太子ら受容派が物部守屋ら排斥派を打ち破り、日本の仏法興隆の基礎を築いた。日蓮大聖人は二人を相対立するものの譬えとして用いられている。

 

守屋

物部守屋のこと。飛鳥時代の中央貴族。敏達・用明天皇の時代に大連となり、父の尾輿の排仏論を継いで、崇仏派で大臣の蘇我馬子と対立した。敏達天皇の時に疫病が流行したが、守屋はそれを仏法を崇拝したためであるとして、堂塔を壊し仏像を焼いた。用明天皇の没後,穴穂部皇子の即位を図ったが、皇子は馬子に殺され失敗した。用明天皇の同母妹で敏達天皇の皇后である額田部皇女と、その甥の厩戸皇子とを奉じた馬子や諸豪族のなかで孤立し、馬子らに攻められて敗死した。

 

叡山

比叡山延暦寺のこと。滋賀県大津市にある日本天台宗の総本山。山門または北嶺とも呼ばれる。延暦4年(07857月、伝教大師最澄が比叡山に入り、後の比叡山寺となる草庵を結んだことを起源とする。同7年(0788)、一乗止観院=根本中堂を建立し薬師如来を本尊とした。唐から帰国した伝教大師は同25年(0806)、年分度者二名を下賜され、天台宗が公認された。ここに比叡山で止観業と遮那業を修行する僧侶を育成する制度が始まった。伝教没後七日目の弘仁13年(0822)、大乗戒壇の建立の勅許がおり、翌・同十四年(0822)、延暦寺の寺号が下賜され、大乗戒による授戒が行われた。

 

南都

平城京、長岡京、平安京と遷都したなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。ここでは奈良七大寺のこと。すなわち東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺の七か寺をいう。このうち、元興寺と大安寺は現存しない。

 

園城

園城寺のこと。滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗の総本山。山号は長等山。三井寺ともいう。山門に対する寺門をいう。弘文天皇の皇子、与多王によって7世紀後半に建立されたと伝えられる。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので御井と呼ばれた。比叡山の円珍が貞観元年(0859)に再興し、同6年(086412月に延暦寺の別院とし、円珍が別当となった。しかし、円仁門徒と円珍門徒との間に確執が生まれ、法性寺座主が円珍系の余慶となったことをめぐって争うなど、双方の対立は深刻化する。そして正暦四年(0992)には比叡山から円珍門徒一千人余りが園城寺に移り、以降、山門と寺門の抗争が続いた。

 

東寺

京都市南区九条町にある真言宗東寺派の本山。金光明四天王教王護国寺秘密伝法院と称し、略して教王護国寺、また弥勒八幡山総持普賢院ともいう。延暦15年(0796)第50代桓武天皇が平安京の鎮護として、羅城門の左右に、左大寺・右大寺の二寺を建立した。その左大寺が東寺である。弘仁14年(0823)第52代嵯峨天皇が空海に下賜した。

 

五畿・七道

古代日本の地方区分。五畿は山城、大和、河内、和泉、摂津の畿内五カ国。七道は東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海。五畿七道で日本全国を表す。

 

鶖子の族は則ち鷲頭の月を観じ

鶖子とは、梵名シャーリプトラ(Śāriputra)の訳。音写して舎利弗、舎利子とも書き、身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。鶖子の族とは、観法を尊ぶ流派を総称している。鷲頭とは、王舎城の東北にある霊鷲山の頂との意。鷲頭の月を観じとは、観念観法により法華経の哲理を会得し、との意。

 

鶴勒の流は亦鶏足の風を伝う。

鶴勒とは、鶴勒夜那の略。梵名ハクレーナヤシャ(Haklena-yaśa)の音写。鶴勒夜奢とも書く。付法蔵の第22粗。ここで鶴勒夜那の名前を出したのは、鶖子、鷲頭、鶴勒、鶏足と、鳥の名前によせて対句的に述べられるために、付法蔵二十四人の代表としてあげられたものであろう。鶴勒の流とは、観法に対して教法を尊ぶ流派の総称。鶏足とは、インドの伽耶城東南方にある鶏足山のこと。付法蔵の第一、摩訶迦葉が、この山の洞窟に入定し、如来の遺法と衣を奉持して、弥勒に授与するために、弥勒仏の出現を待っているという。鶏足の風を伝うとは、付法蔵第一の迦葉以来二十四人により正しく教法は伝えられ、いまなおその伝統はくずれないとの意。

 

講義

この段では、たくさんの寺があり、数えきれないほど多くの僧侶があっても、正法を誹謗している、邪な宗教ばかりでは、けっして平和な社会、幸福な楽土を築くことはできない。のみならず、かえって災難が競い起こる旨を説かれるのである。

まずはじめに「客色を作して曰く」とは、すでに前段で主人が四経の文を引き終わって、結して天下世上が諸仏衆経において捨離の心を生ずるといったため、客は顔色を変えて、そんなはずはないといって問難するのである。

後漢の明帝の時を論ぜられたのは、中国に仏法が渡ったことを示し、上宮太子の時を述べられたのは、日本における仏法流布を明かされたのである。すなわち、これ仏法東漸の歴史を述べたものである。

 

上宮太子は守屋の逆を……

 

仏教が、わが国に伝来したのは、およそ千四百年前であった。インドに発生し、釈尊によって説かれた仏教が、やがて中国、朝鮮を経由して、仏教有縁の国・日本に伝来したのである。

仏教と神道が大きく相争ったのは、この仏教伝来時と、明治維新の王政復古のさいであったが、この両者とも、ほぼ百年足らずにして仏教の勝利に終わったことは、まことに不思議といわなければならない。

わが国に仏教が伝来した年代については種々の説がある。もっとも一般にいわれているのは、日本書紀により第三十代欽明天皇の12年(0552)である。百済国の聖明王が、その年の冬10月、西部の姫氏達率怒唎斯致契等を遣わし、釈迦仏の金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献じたことが、日本書紀に記載されているからである。

同じく日本書紀によれば、欽明天皇は、おおいに喜ばれて、その使者に「朕は古より此の如き微妙の法を聞かず、然れども朕自ら、之を決すること能わず」とおおせられて、群臣を集めて諮問せられ、仏教を奉ずべきかどうか会議にかけられた。

このとき、大臣蘇我稲目は仏教を信ずべきであると答え、物部大連尾興、中臣連鎌子は仏教を拝すべきでないと奏上した。欽明天皇は、仏教を蘇我稲目に賜って、試みに礼拝せよと命じたとある。これが日本書紀に伝える仏法渡来の記録である。

しかして仏教伝来の年について、学者に、なお異説がある。すなわち0538年説がこれである。その第一の根拠は、奈良時代の作である上宮聖徳法王帝説に、欽明天皇の御世戊午の年(05381012日、百済国主聖明王が初めて仏像経教ならびに僧等を渡し奉ると記されている。これは欽明天皇の13年(0552)とは14年の差がある。ただし戊午の年は、日本書紀では、宣化天皇の三年であり、欽明天皇の時代ではない。

その第二の根拠は、凝然の三国仏法伝通縁起に、宣化天皇即位三年歳次戊午年1213日、百済国より仏法伝来とある。

さらに第三の根拠は、弘仁年間に伝教大師が比叡山に法華迹門の戒壇を建立することを奏請したのに対し、奈良の護命僧正が上奏して反対したが、そのなかに「欽明天皇歳次戊午、百済王、仏法を渡来し奉る」とある。これに対し伝教大師の反駁した顕戒論のなかには「天皇即位元年庚申、御宇正経33歳、謹案歳次暦都に戊午年は無し、元興縁起は戊午歳を取りて已に実録に乖く」といわれている。

そして、伝教大師が顕戒論に引用した元興寺縁起は、正確には元興寺伽藍縁起流記資材帳といい、推古天皇21年に勅によって記されたものを本として記されたものである。この元興寺縁起のはじめに「斯帰島宮、天下治めす天国案春岐広庭天皇御世、蘇我大臣稲目宿禰仕奉時、天下冶めす7年、歳次戊午12月渡来、百済国聖明王時、太子像並びに灌仏之器一具及び説仏起書巻一筺」と記されている。すなわち欽明天皇の七年に仏教伝来とある。これらの文献は、それぞれ多少の違いはあるが、ともに戊午の伝来を伝えている。最近の多くの史家は研究の結果、仏教伝来を、欽明天皇の戊午の年(0538)説をとなえている。

いずれにしても、これらの仏教伝来の年はあくまで公式に伝来した年であり、それ以前に、大陸との交通が開始されて以来、民衆主体の文化交流によって、あるいは帰化人等によって、仏教の信仰が逐次伝えられていたことは、多くの記録によって明らかである。すなわち扶桑略記などに、継体天皇の16年春2月に、漢人の案部村主司馬達等が、大和国の坂田原に草堂を構え、仏像を安置し帰依礼拝したと記されている。

そのころの朝鮮半島では、百済と高句麗、新羅の三国が、覇権をめぐって激しく抗争していた。百済は日本と組んで、北の高句麗、東の新羅の両国と対抗していた。仏教は当時、とくに百済において盛んであり、中国古典の学術や仏書の研究や寺塔の建立等が隆盛を示し、欽明天皇の6年(05459月には、聖明王の発願で、丈六の仏像を造り、願文を作り、同盟国、日本の太平と天皇の祝福を祈ったとされている。

百済国の聖明王が仏像経論等を献じたとき、欽明天皇は、群臣に仏教を奉ずべきかどうかを問われた。大臣蘇我稲目は、さっそく西方の諸国がすべて仏教を礼拝していることをあげて、わが国も仏教を信奉ずべきであると奏上した。これに反して、物部大連尾興、中臣連鎌子は、わが国には古来神道があり、天下に王と拝すべきは百八十神であると主張し、仏教を排斥した。

蘇我氏は武内宿禰の後裔であり、大伴氏とともに進歩思想で、百済国と修交して新文化を採用しようと務めていた。しかるに物部氏、中臣氏は、保守主義で、新文化を締め出そうとはかったのである。

欽明天皇は、やむをえず、仏像を蘇我稲目に賜り、試みに礼拝するよう命じた。蘇我稲目は、小懇田に仏像を安置し、さらに向原の宮殿を寺院とした。これが後の向原寺である。その後、一年を経て、疫病が流行した。神道を奉ずる物部氏、中臣氏は、これ幸いと「他国の神を礼する罪である」として圧迫を加え、はじめは、神道方が優勢であった。これ仏法に対する第一回の迫害である。

その後、20余年、仏教を信奉し続けた蘇我稲目は、用明天皇、推古天皇に対し、いかなることがあっても仏法を捨てないことを懇願し遺言した。しかし蘇我稲目が死去するや、その翌年には、物部氏らは仏教の堂舎や仏像を焼いて難波の堀江に流した。これ仏法に対する第二回の迫害であった。

その後、敏達天皇の11年(0582)に、向原寺は桜井に移され、桜井道場となった。仏法伝来に功あった司馬達等の女、島女等の三人は出家して、日本最初の尼となった。敏達天皇は仏法を嫌って再び圧迫し、大臣蘇我馬子などの仏教信奉者の仏像や堂塔を破却し、三人の尼も追い出した。これ仏法に対する第三回の迫害であった。

用明天皇が即位されるや、蘇我稲目の遺言で仏法を信奉したので、ようやく仏法は明るさを取り戻した。蘇我馬子は厩戸皇子とはかって、勅許をえて、三人の尼をよび桜井道場を復活し、さらに豊浦寺をつくった。これはのちに元興寺となった。かくて、わが国の仏法は、はじめは、迫害されたが、用明天皇、推古天皇および用明天皇の皇子である聖徳太子の保護によって、隆盛に向かった。

用明天皇の崩御ののち、蘇我馬子は、厩戸皇子、泊瀬部皇子、竹田皇子等と共に、物部守屋を討って滅ぼした。泊瀬部皇子は即位し崇峻天皇となり、蘇我馬子は大臣としての地位を固め、厩戸皇子と組んで、日本の新文化を築くことになる。

とくに聖徳太子は、第34代推古天皇の摂政として、おおいに仏教を興隆した。自ら法華経を講じ、法華経等の義疏を著し、仏教の精神を根本とした17条の憲法を制定し、国家統一の指導原理とした。聖徳太子の建立した寺院は、四天王寺、法隆寺はじめ七か寺といわれ、小野妹子をはじめ遣隋使を中国に派遣し、仏法とともに、多くの大陸文化を日本にもたらした。

かくて、聖徳太子の時代になると、仏教と神道の争いも、ついに仏教の勝利に終わり、蘇我氏、物部氏等の争いを経た後、仏法は興隆、確立された。

日蓮大聖人は以上の経過について、四条金吾殿御返事に次のごとく述べられている。

「此の国に仏法わたりし由来をたづぬれば、天神七代・地神五代すぎて、人王の代となりて、第一神武天皇乃至第三十代欽明天皇と申せし王をはしき。位につかせ給いて三十二年世を治め給いしに、第十三年壬申十月十三日辛酉に、此の国より西に百済国と申す州あり。日本国の大王の御知行の国なり。其の国の大王聖明王と申せし国王あり。年貢を日本国にまいらせしついでに、金銅の釈迦仏並びに一切経・法師・尼等をわたしたりしかば、天皇大に喜びて群臣に仰せて、西蕃の仏をあがめ奉るべしやいなや。蘇我の大臣いなめの宿禰と申せし人の云く、西蕃の諸国みな此れを礼す、とよあきやまとあに独り背かんやと申す。物部の大むらじをこし・中臣のかまこ等奏して曰く、我が国家・天下に君たる人は、つねに天地・しゃそく・百八十神を春夏秋冬にさいはいするを事とす。しかるを今更あらためて西蕃の神を拝せば、おそらくは我が国の神いかりをなさんと云云。爾の時に天皇わかちがたくして勅宣す。此の事を只心みに蘇我の大臣につけて、一人にあがめさすべし、他人用いる事なかれ。蘇我の大臣うけ取りて大に悦び給いて、此の釈迦仏を我が居住のおはだと申すところに入れまいらせて安置せり。

物部の大連不思議なりとていきどをりし程に、日本国に大疫病おこりて、死せる者大半に及ぶ。すでに国民尽きぬべかりしかば、物部の大連隙を得て、此の仏を失うべきよし申せしかば勅宣なる。早く他国の仏法を棄つべしと云云。物部の大連御使として仏をば取りて炭をもってをこし、つちをもって打ちくだき、仏殿をば火をかけてやきはらひ、僧尼をばむちをくわう。其の時天に雲なくして大風ふき、雨ふり、内裏天火にやけあがって、大王並びに物部の大連・蘇我の臣、三人共に疫病あり。きるがごとく、やくがごとし。大連は終に寿絶えぬ。蘇我と王とはからくして蘇生す。而れども仏法を用ゆることなくして十九年すぎぬ。

第三十一代の敏達天皇は欽明第二の太子、治十四年なり。左右の両臣は、一は物部の大連が子にて弓削の守屋、父のあとをついで大連に任ず。蘇我の宿禰の子は蘇我の馬子と云云。此の王の御代に聖徳太子生れ給へり。用明の御子、敏達のをいなり。御年二歳の二月、東に向って無名の指を開いて南無仏と唱へ給へば御舎利掌にあり。是れ日本国の釈迦念仏の始めなり。太子八歳なりしに八歳の太子云く『西国の聖人、釈迦牟尼仏の遺像、末世に之を尊めば則ち禍を銷し、福を蒙る。之を蔑れば則ち災を招き寿を縮む』等云云。大連物部の弓削・宿禰の守屋等いかりて云く『蘇我は勅宣を背きて他国の神を礼す』等云云。又疫病未だ息まず、人民すでにたえぬべし。弓削の守屋又此れを間奏す云云。勅宣に云く『蘇我の馬子仏法を興行す。宜しく仏法を卻くべし』等云云。此に守屋、中臣の臣・勝海大連等の両臣と、寺に向って堂塔を切りたうし、仏像をやきやぶり、寺には火をはなち、僧尼の袈裟をはぎ、笞をもってせむ。又天皇並びに守屋馬子等疫病す。其の言に云く『焼くがごとし、きるがごとし』と。又瘡をこる。はうそうといふ。馬子歎いて云く『尚三宝を仰がん』と。勅宣に云く『汝独り行え。但し余人を断てよ』等云云。馬子欣悦し精舎を造りて三宝を崇めぬ。天皇は終に八月十五日崩御云云。此の年は太子は十四なり。

第三十二代用明天皇の治二年、欽明の太子・聖徳太子の父なり。治二年丁未四月に天皇疫病あり。皇勅して云く『三宝に帰せんと欲す』と云云。蘇我の大臣詔に随うべしとて遂に法師を引いて内裏に入る。豊国の法師是なり。物部の守屋の大連等大に瞋り、横に睨んで云く天皇を厭魅すと。終に皇隠れさせ給う。五月に物部の守屋が一族、渋河の家にひきこもり多勢をあつめぬ。太子と馬子と押し寄せてたたかう。五月・六月・七月の間に四箇度合戦す。三度は太子まけ給ふ。第四度めに太子願を立てて云く『釈迦如来の御舎利の塔を立て四天王寺を建立せん』と。馬子願って云く『百済より渡す所の釈迦仏を寺を立てて崇重すべし』と云云。弓削なのって云く『此れは我が放つ矢にはあらず。我が先祖崇重の府都の大明神の放ち給ふ矢なり』と。此の矢はるかに飛んで太子の鎧に中る。太子なのる、『此れは我が放つ矢にはあらず、四天王の放ち給う矢なり』とて、迹見の赤梼と申す舎人にいさせ給へば、矢はるかに飛んで守屋が胸に中りぬ。はだのかはかつをちあひて頚をとる。此の合戦は用明崩御、崇峻未だ位に即き給わざる、其の中間なり。

第三十三崇峻天皇位につき給う。太子は四天王寺を建立す。此れ釈迦如来の御舎利なり。馬子は元興寺と申す寺を建立して、百済国よりわたりて候いし教主釈尊を崇重す。今の代に世間第一の不思議は、善光寺の阿弥陀如来という誑惑これなり。又釈迦仏にあだをなせしゆへに、三代の天皇並びに物部の一族むなしくなりしなり。又太子、教主釈尊の像一体つくらせ給いて元興寺に居せしむ。今の橘寺の御本尊これなり。此れこそ日本国に釈迦仏つくりしはじめなれ」。(1165:061167:14

次に仏教が神道によって激しく圧迫されたのは、すでにふれたように、江戸時代から明治維新にかけてであり、それが陰に陽に第二次大戦時までつづいた。

仏教は江戸時代末期になると、徳川幕府の保護政策によって惰眠をむさぼり、まったく堕落の極に達した。江戸時代に排仏論を唱えた主だった儒学者は、藤原惺窩より藤田東湖に至るまで、およそ40人を数えた。また国学者や神道家は、白井宗因などの12人、大名では徳川斉昭ら九人を数えた。

とくに国学者、神道家の排仏論は、いたずらに浅薄な感情論にすぎなかったが、平田篤胤などは、仏教に対して悪罵のかぎりを尽くし、「出定笑語」などをあらわした。排仏論では、僧侶の腐敗堕落を論じたものがもっとも多かった。

明治維新になると、さらに仏教排撃の性格が一変した。王政復古を遂げた明治政権は、天皇主権を強める必要上、天皇を神格化し、排仏毀釈の声は高まった。明治の欽定憲法は第一条に「天皇ハ神聖二シテ侵スヘカラス」と条文化して、天皇を神として、古来の神道に結びつけた。

明治憲法には、近代国家としての対面を保つため、先進国の憲法にならって、信仰の自由を条文化する必要もあった。そして、神道のみをとくに保護して、他の宗教を弾圧する必要もあった。かくて生まれた明治憲法の条文は「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」というものであった。事実は、これによって信教の自由は明白に束縛されつづけることになった。

すなわち、明治憲法によって、いちおうは、江戸時代のキリスト教禁圧や、封建的なさまざまの宗教政策が撤廃され、正法に対する弾圧の歴史も、ひとまず終幕となった。しかし、一方、政府は神道のみに特別な保護政策をとり、神道はしだいに国教的な地位を確立していき、地方、仏教は王政復古の際の排仏毀釈の打撃から立ち直ったものの、しだいに神道の前に屈服していったのである。

とくに、第二次大戦中の軍部政府の時代にはいると、神社参拝は国家的な強制を帯び、仏教のなかにも、田中智学を中心とする国柱会のごときは、あえなく神道に屈服して、完全に神道宣揚の徒になり下がった。政府は、この機に乗じて宗教団体法を制定して、いっさいの宗教を、大日本帝国の精神的支柱である神道のもとに、強制的に結合させるという暴挙に出た。

このとき、断固として日蓮大聖人の大仏法を守り抜き、信教の自由の精神を貫いたのが、創価学会の初代牧口会長であり、戸田第二代会長であった。第二次大戦の終了とともに、神がかり的な宗教政策は一掃され、今日みられるごとく、信教の自由が、新憲法によって保障され、神道は国家の保護から解かれることになった。かくて、明治初期以来の神道による仏教の圧迫は、名実ともになくなり、仏教ははじめて、存分に興隆流布できる時を迎えたのである。

いまや東洋仏法の真髄、日蓮大聖人の大仏法は、西方を、否、全世界を照らす太陽の仏法として、流布すべきときを迎えた。はじめに述べたように、仏教が日本に伝来したのは、インドより中国、中国より朝鮮、朝鮮より日本へという経路を経た結果である。

そして、今日、日蓮大聖人の大仏法は、御本仏の予言のままに、日本からアジアへ、さらに全世界へと流布されていくのである。

 

爾しより来、上一人より下万民に至るまで、仏像を崇め経巻を専らにす……

 

「爾しより来」以下は、日本の人びとが仏教を尊重している、すなわち、仏教が国内に弘まっている状況を示し、「然れば即ち」以下は、国内に寺あり、仏教を信ずる者多きことを示している。

次に日寛上人の立正安国論文段には、「鶖子の族」等は通じて諸宗の磧徳をあげるといい、鶖子の族等は観を明かし、「鶴勒の類」は教を明かし、すなわち教観二門を明かすとしている。ゆえに第二章には「法師は諂曲にして」というのは、通じて諸宗をさすのである。「鶖子の族」以下は、各宗派が盛んであることを説いて、日本は一国全体に仏教なきがごとく論じたのを弁駁しているのである。

この考え方は、現代においてもまったく変わらない。市町村に各宗派の寺があり、僧侶がおり、彼岸や、お盆に、寺に詣でる者も多く、日本は、いまもなお、仏教隆盛の国のようにみえる。しかるにその実情は、仏法の形骸のみであって、そこには真の仏法はない。

ひるがえって、仏法発祥の国のインドに仏法があるであろうか。また、仏法がかつて流布した、中国、ビルマ、朝鮮等に仏法があるであろうか。いまなお寺院があり、僧侶もいるかもしれない。だが、それらの国にまったく生きた仏法がないことは明らかである。

されば、日蓮大聖人は、日本以外に仏法なきことを、顕仏未来記に、次のごとくおおせになっている。

「疑って云く、如来の未来記、汝に相当れり。但し五天竺並びに漢土等にも法華経の行者之有るか、如何。答えて云く、四天下の中に全く二の日無し、四海の内豈両主有らんや。疑って云く、何を以て汝之を知る。答えて云く、月は西より出でて東を照し、日は東より出でて西を照す。仏法も又以て是くの如し。正像には西より東に向い、末法には東より西に往く。

妙楽大師の云く『豈中国に法を失いて、之を四維に求むるに非ずや』等云云。天竺に仏法無き証文なり。漢土に於て高宗皇帝の時、北狄東京を領して今に一百五十余年、仏法・王法共に尽き了んぬ。漢土の大蔵の中に小乗経は一向之れ無く、大乗経は多分之を失す。日本より寂照等、少少之を渡す。然りと雖も伝持の人無ければ、猶木石の衣鉢を帯持せるが如し。故に遵式の云く『始め西より伝う、猶月の生ずるが如し。今復東より返る、猶日の昇るが如し』等云云。此等の釈の如くんば、天竺・漢土に於て仏法を失せること勿論なり」(0508:01

インドに発祥し、中国、朝鮮、日本と東漸してきた北伝仏法は、つぎつぎと渡った国で栄えたが、やがてインド、中国、朝鮮、その他の国々では、仏法の精神が失われて、最後の日本の国において開花し、とくに奈良、平安初期の輝かしい仏教文化の隆盛をみたのである。以来、日本以外に仏法なく、他の国々は、その後、仏法は長く埋没し、まったく閉ざされてしまったのである。

だが、この日本の国においても、平安末期より、仏法は、まったく形骸化し、経文に「白法隠没」とあるごとく、釈尊の仏法はことごとくその力を失ってしまった。だが、当時の民衆は、釈尊の仏法に力なきことを知らず、いまだ尊重の念を廃せず、むなしい祈りをささげていた。各宗派は、競って大伽藍を構え、僧侶は、わが世の春を謳歌していた。

だが、その内容はまったくなくなり、仏法それ自体の力はなく、ただ世俗的な権威と結託し、民衆のうえに君臨していたにすぎなかったのである。その証拠は今日、厳然とあらわれている。当時、盛んであった、真言、禅、念仏、律、天台宗等は、今は、まったく形骸化しているではないか。大聖人時代、まさに日の出の勢いであった建長寺、極楽寺、寿福寺、浄光明寺、多宝寺、長楽寺等、十一通御書に認められている寺院は、いまや見る影もないのである。世俗的な権威と利害で結びついていた寺院は、その政治権力の没落とともに、自身も同じ運命をたどった。

だが、大聖人の「仏法まったく地に落ちたり」との叫びは、僧侶が尊重され、大伽藍が人びとの目を奪っていた当時には、理解されなかった。この客人の「誰か一代の教を褊し、三宝の跡を廃すと謂んや。若し其の証有らば、委しく其の故を聞かん」との質問は、当時の一般民衆の心をあらわしてあまりあるものがある。

今日、既成仏教は、まったく頽廃の極に達している。だが、民衆の事大主義は、相変わらず根強い。そのうえ先祖崇拝または尊重の念も強く、また昔からの根強い慣習が残っている。また、死に対する恐怖は万人共通である。ここに、既成仏教は、必死にしがみつき、取り入り、細々ながら余命を保っているにすぎない。

それは、正法の興隆によって、信者の数が減るのを、必死に食い止めようとはかった既成仏教の各寺院が、いかなる挙に出たかによって、ますます明瞭である。彼らは埋葬拒否という悪辣な手段を講じた。これは昭和三十二年(1957)ごろから激しくなり、その後、数年間にわたってつづけられた。これこそ、既成宗教が、まったく堕落しきった証拠であり、民衆の弱味につけこみ、必死に余命を保たんとしながら、はかなく没落しゆく姿であり、かつ日蓮大聖人の御金言の正しい証拠である。

かくして、釈尊の仏法が、まったく隠没し去ったことは、経文に照らし、仏法の方軌に照らし、さらになによりも、末法にはいって今日にいたるまでの数百年の事実に照らし、火をみるよりも瞭々として明らかである。

今日において生きた仏法は、まさに700年前に、この日本国に建立された、日蓮大聖人の大仏法しかないのである。だが、既成の権威の壁は厚く、700年ものあいだ、この大正法が日本にありながら、民衆が仏法に無智のゆえに、隠没されてきた。

ようやく、今日、敗戦というきびしい現実を経験して以来、民衆の眼は徐々に開かれ始めた。既成の権威にとらわれず、新しい力を求めるにいたった。それらの人びとは、勇を鼓して自己の既成概念と戦い、幾多の障壁を打ち破って、日蓮大聖人の仏法を信仰しはじめたのである。それはまさに時の流れであった。

今日、広宣流布への前進は、もはや、いかなる魔王、魔民たりとも食い止めることはできない。これあたかも、渓谷の水が一挙に大河にはいったごとく、乾ききったワラの中の火が、一時に燃え上がるごとく、日蓮大聖人の仏法によって、民家のなかに閉ざされていた、内奥の清浄なる生命が、そして智慧と勇気と力とが、ほとばしり出で、新世紀を、新時代を、新文化を築きゆく姿でなくして、なんであろう。

ついに、日本に、太陽がのぼった。これからは、仏法西漸の歴史がつづられるのだ。ときあたかも、日本も、アジアも、世界も行き詰まっている。東洋は、全世界は、日本の行く手に刮目している。日本に期待するところは絶大である。

ジョージ・サートンいわく「東と西との律動を記憶せよ。すでに幾度か吾々の霊感は東から来た。それが再び来ないといふ理由が何処にあらうか。恐らく偉大な思想は今後もなほ東から吾々に達するであろう。吾々は、それを迎へる心の準備をしておかなければならない」「新しい霊感は依然東洋から来るかもしれない、いや、なほ来てゐる。これを自覚すれば、吾々は一層賢明となるであらう」と。

アインシュタインいわく「今日の社会は、あまりにも科学が発達しすぎた。いまこれを使いこなす精神文明が発達しなくてはならない。それを私は東洋に期待する」と。

彼らが期待するのは、真実に、偉大なる思想によって潤された新しい東洋であり、なかんずくそれをリードする未来の楽土日本であり、それを築くのは、大聖人の仏法しかないことを確信するものである。

 

 

第二章 (世人法の正邪を知らざるを喩す)

 主人喩して曰く、仏閣甍を連ね、経蔵軒を並べ、僧は竹葦の如く、侶は稲麻に似たり。崇重年旧り、尊貴日に新たなり。但し法師は諂曲にして、人倫に迷惑し、王臣は不覚にして、邪正を弁ずること無し。

 

現代語訳

客がいきり立ったので、主人はこれを喩していわく。

たしかにたくさんの寺院が棟を連ね、経蔵も軒を並べて、いたるところに建っている。また僧侶も竹葦、稲麻のごとくたくさんいる。それらの寺院や僧侶を一般民衆が崇重するようになってすでに久しく、しかもこれを尊ぶ民衆の信心の誠は、日に日にあらたである。しかしながら、現在、国じゅうにあるいっさいの僧侶は心がひねくれて、へつらう心が強く、一切大衆をして人としてふみ行うべき道を迷わしめている。国王をはじめ臣下万民は無智のため、法の邪正をわきまえていないのである。

 

語釈

僧は竹葦の如く、侶は稲麻に似たり

「僧」は阿闍梨すなわち行学をまっとうした出家をいい、「侶」は伴侶すなわち伴僧のことで、導師につき従う僧。竹葦、稲麻は数の多いことのたとえ。

 

諂曲

人に媚びて自分の心を曲げて迎合すること。「諂」は「へつらう、あざむく」の意。「曲」は「道理を曲げて従う」の意。日蓮大聖人は「観心本尊抄」で「諂曲なるは修羅」(0241:08)と仰せになり、修羅界の現れであるとされている。

 

講義

現在の日本に仏教があるかないか。この点で主人と客の見解が食い違っている。

客は仏教が伝来して以来数百年にわたり、多くの名僧が出現し、多数の寺院が建立されて、天皇、将軍をはじめ、万民がこれを信仰しているのではないか。にもかかわらず、どうしてこの日本の国に仏法がないというのか、と反問するのである。

これに対し、主人は、そのように万人が信仰している宗派が、みなことごとく邪宗邪義であり、いま末法の時に適い、末法の衆生の機根に応じた正法が、まったく捨て去られている。しかも王臣ともに愚かで、無智で、仏法の邪正を見分けることができないから、ますます邪宗邪義が栄えているのだと喩されている。

この主客の考え方の、根本的な違いは、客が、形式主義にとらわれているのに対し、主人は、実質を論じ、権威主義、形式主義を排して、仏法の邪正、高低、浅深という、問題の核心にふれていくのである。

七百年前より今日にいたるも、一貫して変わらないことは、人びとは宗教を論ずるときにあまりに形式にとらわれ、宗教家と名がつく者はみな善知識だと決めてかかって、宗教の邪正、高低、浅深に、きわめて無頓着なことである。これが低級宗教の跋扈を許す根本原因である。

この権威主義、形式主義にとらわれ、実質を見失うのは、人間の弱点である。かつて、西洋においても、キリスト教会の「宗教的ドグマ」「教会の権威」は、未知の世界を知りたいという人間の自然の心の発露を巨大な圧力でおしつぶし、また真実を叫ぶ偉大な知性をも、幾多葬り去ってきたではないか。思想の高低、浅深を論ずることを許さず、権威と形式でしばりつけた、いまわしい歴史である。

また、日本においても、戦時中の、あの神道思想への、一国あげての傾注は、思えば、愚かしい、狂気の沙汰であった。神道思想の善悪、是非を論ずることを許さず、権威と巨大な軍部の圧力が、民衆のうえに重重しくのしかかった。

しかも、それらの底流をみるときに、権威主義、形式主義は、民衆の生命の奥深くに根ざしていたのである。既成の権威のなかに閉ざされ、同調し、流されていく無気力と無智、そして自己保身に汲々となり、長いものにまかれろ式の事大主義、それらの風潮が、政治面においては、やがて、民衆に君臨する巨大な独裁権力を生むのである。宗教界においては、政治権力と利害で結びついた邪宗邪義を横行させ、それにより民衆の生命は、根底よりむしばまれてしまうのである。

今日、われわれが仏法対話のさい、自分の信仰している宗教が、低級宗教であると指摘されるや「他の宗教をけなすとはとんでもない」といって、烈火のごとくおこりだすなどは、その典型である。自分の既存の知識、自分の既知の権威にしがみつき、必死に抵抗しようとする哀れな姿ではないか。

日蓮大聖人は、こうした我慢偏執を捨て、真に宗教の正邪、善悪を検討することを教えられている。しかして、その実質を論ずれば、真実の仏法はまったく隠没し去り、仏法の形骸のみ残存していることが明らかとなると、論じられているのである。

ここに「但し法師は諂曲にして、人倫に迷惑し」とは、当時の一般の僧のみならず、名僧、高僧とうたわれた極楽寺良観、建長寺道隆等の本性をえぐられたものであり、「王臣は不覚にして、邪正を弁ずること無し」とは、鎌倉幕府の為政者に真正面から切り込み、その愚迷を諌言された言葉である。まことに、この一句のなかに、権威を恐れず、民衆のためを思い、ただ一人決然と戦われる雄姿を見る思いがするではないか。

 

 

第三章 (仁王経等により悪侶を証す)

仁王経に云く「諸の悪比丘多く名利を求め、国王・太子・王子の前に於て、自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん。其の王別えずして此の語を信聴し、横に法制を作つて仏戒に依らず。是を破仏・破国の因縁と為す」已上。

 涅槃経に云く「菩薩、悪象等に於ては、心に恐怖すること無かれ。悪知識に於ては、怖畏の心を生ぜよ。悪象の為に殺されては、三趣に至らず。悪友の為に殺されては、必ず三趣に至る」已上。

 

現代語訳

仁王経にいわく。

諸の悪い僧侶が多く名誉や利益を求めて、国王、太子、王子などの権力者の前で、自ら仏法を破る因縁、国を破る因縁を説くであろう。その王はそれらの説かれた因縁をわきまえることができなくて、その言葉を信じ、道理にはずれた自分勝手の法制を作って仏戒によらない。これを破仏、破国の因縁となすのである。

涅槃経にいわく。

菩薩たちよ、狂暴な悪象等に対しては、なんら恐れることはない。正法を信じていこうとする人の心を迷わす悪知識に対しては、恐れなければならない。その理由は、悪象に殺されても三悪道におちることはないが、悪友に殺されては必ず三悪道におちるからである。

 

語釈

仁王経

後秦代の鳩摩羅什訳の仁王般若波羅蜜経二巻と、唐代の不空訳の仁王護国般若波羅蜜多経二巻とがある。サンスクリット原典もチベット語訳も現存しておらず、中国撰述の経典とする見解がある。内容は正法が滅して思想が乱れる時、悪業のために受ける七難を示し、この災難を逃れるためには般若を受持すべきであるとして菩薩の行法を説く。法華経・金光明経とともに護国三部経とされる。本抄に引用されたのは、仁王般若波羅蜜経の嘱累品の文である。

 

涅槃経

釈尊の入涅槃の様子とその時に説かれた教えを記した経。大・小乗で数種ある。大乗では、中国・北涼代の曇無讖訳「大般涅槃経」四十巻、それを修訂した中国・劉宋代の慧観・慧厳・謝霊運訳「大般涅槃経」三十六巻、異訳に中国・東晋代の法顕訳「大般泥洹経」六巻がある。小乗では、同じく法顕訳「大般涅槃経」三巻等がある。大乗の涅槃経では仏身の常住、涅槃の四徳である常楽我浄を説き、一切衆生悉有仏性を明かして、善根を断じた一闡提も成仏すると説いている。また小乗の涅槃経では、釈尊の入涅槃から舎利の分配までの事跡を記している。本抄に引用されたのは、北本の光明遍照高貴徳王菩薩品の文である。

 

悪知識

誤った教えを説いて人々を迷わせ、仏道修行を妨げたり不幸に陥れたりする悪僧・悪人のこと。善知識に対する語。悪友ともいう。漢語の「知識」とは梵語ミトラ(mitra)の訳で、「友」とも訳され、友人・仲間を意味する。涅槃経には「菩薩は悪象等に於いては心に恐怖すること無く、悪知識に於いては怖畏の心を生ず。悪象に殺されては三趣に至らず、悪友に殺されては必ず三趣に至る」とある。この文は、修行者は凶暴な象に殺されるというような外的な損害よりも、正法を信じる心を破壊し、仏道修行を妨げ、三悪道に陥れる悪知識こそ恐れなければならないことを述べている。日蓮大聖人は、悪知識に従わないように戒められるとともに、悪知識をも自身の成仏への機縁としていく強盛な信心に立つべきであると教えられている。さらには、御自身を迫害した権力者や高僧たちを自身の真価を現すのを助けた善知識と位置づけられている。

 

三趣

三悪道。悪業によってもたらされる三種の苦悩の世界のこと。地獄・餓鬼・畜生の三つをいう。

 

講義

個人であれ、家庭であれ、不幸におとしいれるのは正法に背く邪義への信仰である。さらに一国を滅亡に導くのも、ほかならぬ人びとの邪法信仰であることを示された御文である。この御文こそ、大聖人ご在世当時にまったく符合しているのである。

 

極楽寺良観と国家権力の結託

 

日蓮大聖人の時代において、大聖人を陰に陽に迫害しつづけた元凶は、極楽寺良観という人物であった。

彼の師匠は、奈良西大寺の叡尊であった。叡尊は、もと真言僧であったが、律宗の復興に没頭し、橋をかけたり、貧乏人、病人を救済する等の慈善事業で、行基菩薩の再来とあがめられた。その弟子・忍性は、関東へ来て、律宗をひろめ始めた。彼は、巧みに幕府の要路者に取り入り、徐々に基盤を固めていったのである。

ここに、北条重時という人物がいた。重時は、前の連暑で、執権長時の父であったが、法然門下の証空の弟子、修観に帰依して入道していた。彼は、鎌倉深沢にあった極楽寺という寺に別荘を構え、極楽寺入道と称していた。彼の存在は、念仏者が幕府の権力と結ぶうえに、まことに好都合であった。

また、立正安国論が著されたちょうどその年、やはり北条実時が、武蔵国金沢に、仏寺院である称名寺を建てた。これはいまも金沢文庫で知られているが、このように念仏は、幕府の周辺に強大な勢力を占めていた。

日蓮大聖人が立正安国論を著し、念仏宗を「此の一凶」と断じられたのも、まさに念仏宗と権力者の緊密なる結託があり、亡国の道を歩んでいたからである。時頼は、これを完全に黙殺して、なんの応答もしなかった。時頼が安国論を採用しないことを知った念仏者たちは、一か月ほどのちに暗夜にまぎれて大挙して松葉ケ谷の草庵を襲撃し、乱入して大聖人の殺害をはかった。日蓮大聖人は、難をのがれて、いちじ下総の富木常忍の宅へ身を寄せられた。

だが、謗法の諸宗に対する日蓮大聖人の破折は、さらに強く、きびしくつづけられた。いよいよ腹を立てた念仏者たちの策動により、大聖人は、ついに伊豆へ流罪されたのである。

この松葉ケ谷の襲撃、伊豆流罪の黒幕であり、張本人であったのは、ほかならぬ極楽寺入道重時であった。自身尊敬していた法然の実態が究明され、選択集の邪義を破折されたがゆえに、なにかにとりつかれたように、大聖人の迫害に狂奔したのであった。

忍性が、最も取り入ったのは、この重時であった。大聖人が立正安国論を認められた前年には、重時が極楽寺を再建するにあたり、忍性は寺地の選定に参画している。そして、その翌々年、重時が死ぬとその葬儀の導師となり、ついに鎌倉に居を移し、さらに権力者に取り入ることに専念し、その看板に慈善事業を掲げたのであった。

彼は、まず、奈良から、当時有名であった師の叡尊を招く運動を起こし、ついにそれに成功した。ために忍性は、重時の子・業時はもちろん、時頼の招請もうけるようになった。これらは、大聖人が、伊豆へ流罪されていたあいだの出来事であった。

文永四年(1267)、忍性はついに鎌倉にはいって極楽寺に住し、極楽寺良観と称されるにいたった。金沢の称名寺にも良観の息のかかった審海がはいった。さらに、これに前後して、忍性は、多宝寺の長老のほか、数か寺の別当になった。

彼の慈善事業は、自分が二百五十戒を固くたもった聖者であると見せかける売名的な行為であった。また、幕府に取り入らんがための手段であり、名声欲、権勢欲にかられたものであった。しかも、彼の慈善事業の背景には、幾多の民衆の嘆きがあった。

聖愚問答抄にいわく「我伝え聞く、上古の持律の聖者の振舞は殺を言い収を言うには知浄の語有り、行雲廻雪には死屍の想を作す。而るに今の律僧の振舞を見るに、布絹・財宝をたくはへ利銭・借請を業とす。教行既に相違せり、誰か是を信受せん。次に道を作り橋を渡す事、還つて人の歎きなり。飯嶋の津にて六浦の関米を取る、諸人の歎き是れ多し、諸国七道の木戸、是も旅人のわづらい只此の事に在り眼前の事なり。汝見ざるや否や」(0476:12)と。

飯嶋の津とは、鎌倉の東南の端、材木座海岸の東南、三浦半島のつけ根にあたるところに突き出しているのが、飯島崎で、その内側の海岸をいう。ここで、良観は、関米=通行税を取り、その金で、慈善事業を行ったり、橋をかけたりしていたが、そのために多くの人たちが苦しんだのであった。良観は、通行税を取るような権限を幕府から与えられ、多くの人の犠牲のうえに、売名的な慈善行為がなされたことが明らかである。

余談になるが、慈善事業が、他の多くの人びとの犠牲をともなったことは、殺生禁断の場合にもあらわれている。寛元二年(1244)、大和の一荘官、結崎十郎入道が、叡尊に説法を請うために、その所領四郷の殺生禁断を誓ったために、どんなに荘民の生活が圧迫されたか計り知れないということが記されている。文永10年(1273)、北条実時が金沢郷六浦荘世戸堤の内の入江における殺生を禁断したが、これも六浦一帯の漁民の生業を奪い、塗炭の苦しみにおとしいれた。さらに弘安四年(1281)、多田院供養に先立ち、別当良観の計らいにより、幕命をもって本堂四方十町の殺生が禁断されたが、これが多田荘の住民の生業を奪い、大きな苦痛をもたらした。あまりの苦痛に耐えかねて、それに違反する者が多いので、その後再三にわたり厳命するという愚劣な挙に出たのであった。しかも、多田院の伽藍は、だんだん修造され荘厳を加えたが、そのために、年々の荘役の加重に、どんなに人びとは苦しんだことか。さらに慈善事業自体も、当時、餓死線上にあった民衆を本源的に救済しうるものではなく、たえず争いのタネとなっていた。すなわち非人たちは、施主に対して施物を強請するのが当然となり、はては非人宿同士の競争がこうじて、たえず争乱が繰り広げられた。

しょせん、慈善事業は、小善にすぎない。民衆を本源的に幸福にする道に叛逆し、自己の売名のために小善をなせば、かえってそれは大悪となる。民衆の貪欲をそそり、はては、三悪、四悪の世界をかもし出し、ついには奈落の底につきおとしてしまうのである。しかも、その資金を得るために、他の人びとの犠牲を強要するにいたっては、慈善にあらずして偽善にすぎない。

だが、当時の人びとは、良観の正体がわからなかった。名声はとみにあがり、幕府の権力者は、良観を重んじた。日蓮大聖人は、この良観こそ、権力者にこびへつらい、権力と結託し、民衆を嘆きのどん底に追いやる元凶なることを喝破され、生き仏のごとく、六通の羅漢のごとく尊崇されていた良観に対し、断固破折を加えられたのである。

文永5年(1268)閏正月18日、蒙古国より「速く通好の使いを送り来れ、然らずんば兵を用いん」という牒書が幕府に到着した。大聖人の予言はいよいよ事実となった。じつに立正安国論の上書より九年目のことであった。

しかし、幕府は、大聖人の教えをなんら用いようとしなかった。そこで、大聖人は、45日、法鑒房に「安国論御勘由来」を、さらに821日、宿屋入道光則に対して書状を与えられ、安国論の予言的中をあげ、諸宗の帰依をとどめ、法華の正法を用いよ、と強く叫ばれたのであった。

その後も、やはりなんの沙汰もない。そこで大聖人は、その年の1011日、十一か所に痛烈な諌状と破折の書状を送り、公場対決を迫られた。これが、いわゆる十一通御書である。

時の執権北条時宗に対しては、立正安国論の予言が的中したことをあげ、「日蓮は聖人の一分に当れり。未萠を知るが故なり」(0169:02、北条時宗への御状)とご確信を述べられ、「諫臣国に在れば則ち其の国正しく、争子家に在れば則ち其の家直し。国家の安危は政道の直否に在り、仏法の邪正は経文の明鏡に依る」(017001、北条時宗への御状)と、熱誠あふれる諌言をされ、さらに「所詮は万祈を抛つて諸宗を御前に召し合せ、仏法の邪正を決し給え。澗底の長松未だ知らざるは良匠の誤り、闇中の錦衣を未だ見ざるは愚人の失なり」(017009、北条時宗への御状)と、公場対決を叫ばれた。

また、実際に国家の権限をにぎっていた平左衛門尉頼綱に対しては、同じく立正安国論の予言的中を述べ「然る間重ねて訴状を以て愁欝を発かんと欲す。爰を以て諫旗を公前に飛ばし争戟を私後に立つ。併ながら貴殿は一天の屋梁為り、万民の手足為り。争でか此の国滅亡の事を歎かざらんや慎まざらんや、早く須く退治を加えて謗法の咎を制すべし」(0171:02、平左衛門尉頼綱への御状)と諌言し、「御式目を見るに非拠を制止すること分明なり。争でか日蓮が愁訴に於ては御叙い無らん。豈御起請の文を破るに非ずや」(0171:08、平左衛門尉頼綱)と、幕府の理不尽な態度を指摘し、さらに、同じく公場対決によって宗教の正邪を断ぜよと呼号されている。

このように、幕府の要路者への至誠の諌言をなされるとともに、当時の宗教界に君臨する、極楽寺良観、建長寺道隆等に対しては完膚なきまでに破折を加えられ、正々堂々と公場対決を申し込まれた。良観に対する書状を次に示そう。

「西戎大蒙古国簡牒の事に就て鎌倉殿其の外へ書状を進ぜしめ候。日蓮去る文応元年の比勘え申せし立正安国論の如く毫末計りも之に相違せず候。此の事如何。長老忍性速かに嘲哢の心を翻えし、早く日蓮房に帰せしめ給え。若し然らずんば人間を軽賤する者、白衣の与に法を説くの失脱れ難きか。依法不依人とは如来の金言なり。

良観聖人の住処を法華経に説て云く『或は阿練若に有り、納衣にして空閑に在り』と。阿練若は無事と翻ず。争か日蓮を讒奏するの条住処と相違せり。併ながら三学に似たる矯賊の聖人なり。僣聖増上慢にして今生は国賊、来世は那落に堕在せんこと必定なり。聊かも先非を悔いなば日蓮に帰す可し。

此の趣き鎌倉殿を始め奉り建長寺等其の外へ披露せしめ候。所詮本意を遂げんと欲せば対決に如かず。即ち三蔵浅近の法を以て諸経中王の法華に向うは江河と大海と華山と妙高との勝劣の如くならん。蒙古国調伏の秘法定めて御存知有る可く候か。日蓮は日本第一の法華経の行者、蒙古国退治の大将為り『於一切衆生中亦為第一』とは是なり。文言多端理を尽す能わず。併ながら省略せしめ候」(174:01、極楽寺良観への御状)。

なんたる確信に満ちた大師子吼であろうか。あの、わが世の春を謳歌し、日本国全体の尊敬を一身に集めていた良観の実像は、ここに見事に浮き彫りにされた。しかも「長老忍性速かに嘲哢の心を翻えし」と揶揄されるなど、悠々たるご境涯であった。しかも「三学に似たる矯賊の聖人」あるいは「僣聖増上慢にして今生は国賊、来世は那落に堕在せんこと必定なり。聊かも先非を悔いなば日蓮に帰す可し」等と、その破折は痛烈をきわめ、絶対の確信をもって、公場対決を迫られている。もとより、極楽寺良観は、仏法それ自体の研鑽に励んで、その智徳のために名声を得たのではない。慈善事業で人心をあやつり、幕府にたくみに取り入って、それまでの地位を築き上げたのであった。されば、大聖人より正面きった対決の書状をつきつけられたときの驚愕はいかばかりであったろうか。

これに対し、このときの日蓮大聖人の、死をものともせず、国を救わんとの決意は「弟子檀那中への御状」のなかにありありと拝することができる。

「大蒙古国の簡牒到来に就いて十一通の書状を以て方方へ申せしめ候。定めて日蓮が弟子檀那・流罪・死罪一定ならん。少しも之を驚くこと莫れ。方方への強言申すに及ばず是併ながら而強毒之の故なり。日蓮庶幾せしむる所に候。各各用心有る可し。少しも妻子眷属を憶うこと莫れ。権威を恐るること莫れ。今度生死の縛を切つて仏果を遂げしめ給え。

鎌倉殿・宿屋入道・平の左衛門尉・弥源太・建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿・長楽寺已上十一箇所。仍つて十一通の状を書して諫訴せしめ候い畢んぬ。定めて子細有る可し。日蓮が所に来りて書状等披見せしめ給え」(0177:01)と。

そのときは、なんの手応えもなかった。また、なんの波乱もなかった。しかし、それは表面上のことであり、その裏面では、極楽寺良観、建長寺道隆を先頭に、七大寺の僧たちは、困惑し、狼狽し、大聖人をなんとかして迫害し、なきものにしようと、その対策に狂奔したのである。

文永6年(1269)、七年は無事に暮れた。そして、文永8年(1271)になった。

その年の2月下句より6月まで、全国的な大旱魃がつづき、民衆は、飢饉のために苦悩のどん底に追いやられた。執権北条時宗は、関東諸国の地頭より、日照りがつづいて稲作が案じられるとの報告を受け取り、極楽寺良観に雨乞いを命じた。良観はなんのためらいもなく、満々たる自身をもって引き受け、鎌倉じゅう、否、日本国じゅうの上下万民も「生仏の良観さまが雨乞いをしてくれる」といって喜んだ。

このことをいち早く知られた日蓮大聖人は、これこそ破折の鉄槌を加えるときと考えられ、「法華経の行者日蓮、対面を遂げ、申し入れたきことあり」という書状を持たせて、極楽寺へ使いを走らせた。

これによって、極楽寺から周防房と入沢入道という二人の念仏者がやってきた。大聖人は、この二人を通して、良観に次のように申し入れをされた。

「七日の内にふらし給はば、日蓮が念仏無間と申す法門すてて、良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし。雨ふらぬほどならば、彼の御房の持戒げなるが大誑惑なるは顕然なるべし。上代も祈雨に付いて勝負を決したる例これ多し。所謂護命と伝教大師と、守敏と弘法なり」(1157:17

これを聞いた良観は非常に喜んだ。これこそ、これまで苦汁をのまされてきた大聖人を思い知らせる好機だと思ったのであろう。また、かならず七日のうちに雨を降らせる自信があったからであろう。愚かにも、さっそく、このことを鎌倉中にふれまわってしまった。そして彼は「弟子百二十余人頭より煙を出し、声を天にひびかし、或は念仏、或は請雨経、或は法華経、或は八斎戒を説きて種種に祈請」(1158:05)するという盛大な修法を始め、肝胆くだいて祈禱したのだった。

ところが、3日たっても、4日たっても雨は降らず、ただ「あせをながし・なんだのみ下して」(0912:10)ばかりであった。さらに彼は、数百人の僧を加えて必死になって祈禱をつづけた。だが「四五日まで雨の気無ければ、たましゐを失いて、多宝寺の弟子等数百人呼び集めて力を尽し祈りたるに、七日の内に露ばかりも雨降らず」(1158:06)というありさまであった。

これに対し、日蓮大聖人は、三度使いをつかわして催促された。ちょうど7日目の申の時、大聖人の使者は、「いかに泉式部と云いし婬女・能因法師と申せし破戒の僧・狂言綺語の三十一字を以て忽にふらせし雨を持戒・ 持律の良観房は法華真言の義理を極め慈悲第一と聞へ給う上人の数百人の衆徒を率いて七日の間にいかにふらし給はぬやらむ、是を以て思ひ給へ一丈の堀を越えざる者二丈三丈の堀を越えてんややすき雨をだに・ふらし給はず況やかたき往生成仏をや、然れば今よりは日蓮・怨み給う邪見をば是を以て翻えし給へ後生をそろしく・をぼし給はば約束のままに・いそぎ来り給へ、雨ふらす法と仏になる道をしへ奉らむ七日の内に雨こそふらし給はざらめ、旱魃弥興盛に八風ますます吹き重りて民のなげき弥弥深し、すみやかに其のいのりやめ給へ」(1158:08)と、大聖人の仰せどうり叫んだのであった。

良観は、涙を流してくやしがった。弟子たちも歯ぎしりしてくやしがった。

苦しまぎれにもう7日の猶予を願いたいということになった。ところがその結果も下山御消息に「今の祈雨は都て一雨も下らざる上二七日が間前よりはるかに超過せる大旱魃・大悪風・十二時に止む事なし」(0350:10)とあるがごとく、良観の大惨敗に帰したのである。

これによって、良観は大聖人に帰伏するどころか、ありとあらゆる策謀をめぐらした。また、彼が二百五十戒を持っていることなど、彼がこの敗北で約束をたがえたことによって、まったくの虚偽であったことが、青天白日のもとにさらされた。

祈雨の法が終わってからまもない78日、良観は、配下の浄光明寺行敏をして挑戦状を送ってよこした。大聖人は、その背後にある陰謀を見抜かれて、しばらく動静を見られたのち「条条御不審の事・私の問答は事行き難く候か。然れば上奏を経られ仰せ下さるるの趣に随つて是非を糾明せらる可く候か。此の如く仰せを蒙り候条尤も庶幾する所に候」(0179:01、聖人御返事)と返事されて、あくまでも公場対決を要望された。

そこで、良観もしかたなく、行敏に大聖人を問注所に訴え出させたのであった。これまた大聖人に、訴えの根拠となる条目をいちいち破折されて、再駁の状を出すことができず、そのままになってしまった。

 

平左衛門尉頼綱の横暴

 

だが、良観は、手を変え、品を変え、裏面から幕府の権力者を動かして、大聖人を迫害しようとした。

そのときのようすは、種種御振舞御書に「さりし程に念仏者・持斎・真言師等、自身の智は及ばず、訴状も叶わざれば、上郎・尼ごぜんたちにとりつきて、種種にかまへ申す」(0911:03)とあり、報恩抄には「禅僧数百人、念仏者数千人、真言師百千人、或は奉行につき、或はきり人につき、或はきり女房につき、或は後家尼御前等について無尽のざんげんをなせし程に、最後には天下第一の大事・日本国を失わんと咒そする法師なり、故最明寺殿・極楽寺殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり、御尋ねあるまでもなし、但須臾に頚をめせ、弟子等をば又頚を切り、或は遠国につかはし、或は籠に入れよと、尼ごぜんたちいからせ給いしかば」(0322:12)とあり、また妙法比丘尼御返事には「極楽寺の生仏の良観聖人、折紙をささげて上へ訴へ、建長寺の道隆聖人は輿に乗りて奉行人にひざまづく。諸の五百戒の尼御前等ははくをつかひて、でんそうをなす」(1416:16)等とおおせられており、その光景がまざまざと見えるようである。

そしてついに、良観は、平左衛門尉を動かした。平左衛門尉といえば、当時の執権の家司と侍所の所司を兼ねた、幕府の要路者中でも第一人者である。北条幕府の政務は、評定制であるが、最後の決定権は執権が握っていたので、執権の執事たる家司の政治上の権力は、絶大なものがあった。のみならず、侍所の所司として軍事、警察権をも握っていた。実質的には政治と軍事の大権を、みずからの手中におさめていたのである。しかも、祖父三代にわたってその任にあったので、頼綱の権威は、不動のものとなっていた。

彼のライバルは、安達泰盛で、秋田城之介ともいい、大聖人も御書のなかで、平左衛門尉を「平等」といい、秋田城之介を「城等」といわれ、並び称されていた。この二人が、当時の鎌倉幕府を実質的に牛耳っていたのであり、執権時宗はこの二人の勢力の均衡のうえの存在であったといっても過言ではない。読売新聞社編「日本の歴史4」には、そのことが、次のように述べられている。

「……時宗ともっとも近い関係にある二人の重臣の勢力争いである。一人は前にも名前のでた安達泰盛であり、他の一人は時宗の家令の平頼綱である。安達氏は代々北条氏と姻戚関係を結び、北条氏を隆盛にすることによって、自分も勢力をのばしてきたような豪族であって、泰盛もその娘を時宗にとつがせており、評定衆、恩賞奉行、上野国の守護などを兼ねて、御家人中随一の名望家であり、また町石とよばれて、いまも高野山に残る里程標を建てたり、高野版と呼ばれる印刷経典を刊行したりするほどの富の持ち主でもあった。一方の頼綱はいわば北条氏の総支配人であって、もともと御家人よりは身分の低い武士であるが、北条氏の権力が強まるにしたがって、かれの発言力もしだいに大きくなり、政界の実力者にのしあがってきた。つまり泰盛と頼綱は、時宗を動かす陰の人物ということになるが、この二人がしだいにしのぎをけずる間柄になる。

してみると、執権時宗の権力は実は泰盛と頼綱の勢力均衡のうえに、わずかな安定を保ったようなもので、幕府の対外政策がこのような激烈な政争を超越して、時宗個人の胆略とか意志だけで決定されたとは、どうしても考えられない」

この二人の争いが、平左衛門尉の勝利に帰したことは、第二段第二章で述べたのでここでは省略する。

ここに宗教界で名声、地位、尊崇をほしいままにした極楽寺良観と、絶大なる権勢、軍事力、警察権等を一手に握った平左衛門尉頼綱とが、利害のために結託し、大聖人を迫害するという挙に出たのであった。すでに、良観の祈雨を応援したのは平左衛門尉であった。やがて良観の策謀により、大聖人は、諸宗を誹謗し、武器を隠匿しているという罪状で告発された。

文永8910日、日蓮大聖人は奉行所に呼び出された。平左衛門尉じきじきの取り調べである。だが、逆に裁く者が裁かれるごとく、平左衛門尉は、大聖人に徹底的に破折されてしまった。

「故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を無間地獄に堕ちたりと申し建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等をやきはらへと申し道隆上人・良観上人等を頚をはねよと申す、御評定になにとなくとも日蓮が罪禍まぬかれがたし、但し上件の事・一定申すかと召し出てたづねらるべしとて召し出だされぬ、奉行人の云く上のをほせ・かくのごとしと申せしかば・上件の事・一言もたがはず申す、但し最明寺殿・極楽寺殿を地獄という事は・そらごとなり、此の法門は最明寺殿・極楽寺殿・御存生の時より申せし事なり。

詮ずるところ、上件の事どもは此の国ををもひて申す事なれば世を安穏にたもたんと・をぼさば彼の法師ばらを召し合せて・きこしめせ、さなくして彼等にかわりて理不尽に失に行わるるほどならば国に後悔あるべし、日蓮・御勘気をかほらば仏の御使を用いぬになるべし、梵天・帝釈・日月・四天の御とがめありて遠流・死罪の後・百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし、其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし、其の時後悔あるべしと平左衛門尉に申し付けしかども太政入道のくるひしやうに・すこしもはばかる事なく物にくるう」(0911:04、種種御振舞御書)。

この大聖人の痛烈な破折、至誠の諌暁は、満場を圧した。その一言一句に、心打たれる者、うつつをぬかす者、激怒を含む者等々、だが大聖人ご御境涯は、悠々たる大海原にも似たるものであった。

その翌々日の912日、逆上した平左衛門尉は、まるで謀反人を捕える以上に、ものものしく胴丸を着、烏帽子をかぶり、武装した数百人の武士を引き連れ、松葉ケ谷の庵室に乱入し、狼藉のかぎりを尽くした。そして、平左衛門尉の家来の一人、少輔房という人物が、大聖人のもとにつかつかと歩み寄って、法華経の第五の巻で大聖人の顔を三度さいなんだのである。このとき、日蓮大聖人は、大音声をもって、平左衛門尉を叱咤された。

撰時抄にいわく「去し文永八年九月十二日申の時に、平左衛門尉に向つて云く、日蓮は日本国の棟梁なり、予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり。只今に自界反逆難とてどしうちして、他国侵逼難とて此の国の人人・他国に打ち殺さるのみならず、多くいけどりにせらるべし。建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて、彼等が頸をゆひのはまにて切らずば、日本国必ずほろぶべしと申し候い了んぬ」(0287:11)と。

それから、大聖人は、竜口の処刑場に向かわれる。だが、その夜の不思議な現象に、ついに処刑できず、しばらく相模国の依智にとどまられ、やがて佐渡の国へ流罪と決定されるのである。このときも、鎌倉に火つけや強盗殺人がしきりに起こり、これは大聖人の弟子がやったことだと、とりざたされた。これまた念仏者の謀略であり、その背後に、良観がいたことはいうまでもない。

こうした良観の仕打ちに対し、大聖人は、次のごとく痛烈な破折を加え、良観の偽善の面をはぎとられている。

「法華本門の行者、五五百歳の大導師にて御座し候聖人を、頚をはねらるべき由の申状を書きて、殺罪に申し行はれ候しが、いかが候けむ、死罪を止めて佐渡の島まで遠流せられ候しは、良観上人の所行に候はずや。其の訴状は別紙に之れ有り。抑生草をだに伐るべからずと、六斎日夜の説法に給われながら、法華正法を弘むる僧を断罪に行わるべき旨申し立てらるるは、自語相違に候はずや如何。此の僧豈天魔の入れる僧に候はずや」(1157:07

以上、良観の行動を中心に、当時の諸宗の悪侶たちが、いかに権力に取り入り、権力者と緊密なつながりをもっていたか、そして、正法の行者を迫害したかを見てきた。これこそ、仁王経の「諸の悪比丘多く名利を求め、国王・太子・王子の前に於て、自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん。其の王別えずして此の語を信聴し、横に法制を作つて仏戒に依らず。是を破仏・破国の因縁と為す」の文そのものではないか。「諸の悪比丘」とは、当時の念仏者・真言師たちであり、別しては良観である。「名利を求め」とは、まさに、当時の僧侶の実態であり、良観の実像である。「国王・太子・王子」とは、当時の指導者階級であり、その前で「破仏法の因縁・破国の因縁を説かん」とは、まさしく権力者に取り入り大謗法の教えを説き、あまつさえ、大聖人を死へと追いやらんとした、良観の行動そのものである。これ、国を滅ぼし、仏法を乱す元凶にあらずしてなんであろうか。「其の王別えずして此の語を信聴し」とは、当時の幕府の権力者たちが、みな彼らの甘言にだまされて、とくに平左衛門尉がなんら思慮分別もなく、大聖人の迫害に狂奔してきたことなど、その典型である。

「横に法制を作つて仏戒に依らず」とは、罪なき大聖人をおとしいれんとして、数々の罪状をデッチ上げ、あるいはにせの御教書を作ったりしたではないか。また、あの熱原の法難にさいして、多くの罪なき農民をありもしない罪状で告発し、理不尽な裁判をもって、ついには、神四郎等の熱原の三烈士の首を刎ねたではないか。

「是を破仏・破国の因縁と為す」とは、その後の鎌倉幕府の運命が、これを如実に物語っているではないか。また、その後の日本の運命も、まさに破仏、破国へと向かっていったではないか。これは、すでに前述のごとくであり、まことに、恐るべきは正法に背く邪悪なる宗教であり、もっとも忌むべきものは、この邪法の僧と権力者との結託である。

太平洋戦争中は、かたちは変われども、まったく七百年前と同じことを繰り返していた。神道と国家権力との結託、またあらゆる宗教がことごとく妥協し、神道のもとに統一されるなど、さらに、その末期に近衛文麿が、日本がどうしても勝算がなくなったとき、高野山に祈禱を頼んだことなど、まさしく謗法の害毒を知らざる指導者の哀れな姿であった。これ破仏、破国の因縁であり、ついに国は滅び去ったのである。しかるに近年にいたって、神道の復活を夢みて策動したり、政治的に働きかけて、再び神道の国家保護を目論む者が出るなど言語道断といわざるをえない。

 

菩薩、悪象等に於ては……

 

次に涅槃経の「菩薩、悪象等に於ては……」の文であるが、これは、いかに邪宗教が恐ろしいものであるかを明示したものである。悪象とは、釈尊の時代のインドにおいては、凶悪な象が、もっとも恐れられていたので、恐ろしいものの代表としてこれをあげたものであろう。悪象のために殺されるとは、今日においては、交通事故で不慮の死を遂げたり、強盗に殺害される等の横死を意味する。だが、これらの原因による死は、地獄、餓鬼、畜生の三趣に堕ちるとはかぎらない。だが、悪友のため、悪知識のために殺されるならば、かならず三悪道に堕ちるというのである。

悪知識も悪友も、ともに邪智、謗法の者をさす。すなわち、謗法の邪信によって、生命を破壊されるならば、三悪道に堕ち、永久に苦悩に沈みゆくしかないとのことである。この原理にしたがえば、今日、いかなる核兵器よりも、いかなる大地震よりも、邪悪なる宗教が恐ろしいのである。

 

 

第四章 (法華経を引き悪侶を証す)

法華経に云く「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に、未だ得ざるを為れ得たりと謂い、我慢の心充満せん。或は阿練若に、納衣にして空閑に在り、自ら真の道を行ずと謂いて、人間を軽賤する者有らん。利養に貪著するが故に、白衣の与に法を説いて、世に恭敬せらるること、六通の羅漢の如くならん。乃至常に大衆の中に在って、我等を毀らんと欲するが故に、国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向つて、誹謗して我が悪を説いて、是れ邪見の人、外道の論議を説くと謂わん。濁劫悪世の中には、多く諸の恐怖有らん。悪鬼其の身に入つて、我を罵詈し毀辱せん。濁世の悪比丘は、仏の方便・随宜所説の法を知らず、悪口して嚬蹙し、数数擯出せられん」已上。

 

現代語訳

法華経にいわく。

悪世のなかの僧侶は邪智で心がひねくれて、仏法に不正直であり、いまだなにもわかっていないのに、自分は悟りを得ていると思い、自分の「我」を慢ずる心が充満している。あるいは人里離れた静かな山寺などに袈裟、衣を著けて閑静な座におり、自ら仏法の真の道を行じていると思いこんで、世事にあくせくする人間を軽んじ、賤しむであろう。彼らは、私腹を肥やすため、金品をむさぼるがゆえに、在家の人たちのために説法して、世の人たちからあたかも六神通を得た羅漢の如く恭敬、尊敬されている。乃至つねに大衆のなかにあって、正法をたもつ者をそしるために、国王や大臣、婆羅門、居士および諸の僧侶に向かって、正法の行者を誹謗し、その悪い点を作り上げて「この人は邪な思想をもっており、外道の論議を説いている」というであろう。

濁りきった悪世である末法においてはもろもろの恐怖がある。邪宗邪義の悪鬼がこれらの国王大臣等の身に入って、正法の行者をののしったり、そしり、はずかしめたりするであろう。末法のこれらの悪比丘たちは、方便・権教が、仏の衆生の機根にしたがって説いたものであることを知らないでこれに執着し、かえって正法たる法華経の行者の悪口をいい、顔をしかめて憎み、一度ならず二度までもその正法の行者を追い出すであろう。

 

語釈

法華経

大乗仏典の極説である。梵名サッダルマプンダリーカ・スートラ(Saddharmapuṇḍarīka-sūtra)、音写して薩達摩芬陀梨伽蘇多覧、「白蓮華のごとき正しい教え」の意である。経典として編纂されたのは紀元一世紀ごろとされ、すでにインドにおいて異本があったといわれる。漢訳には「六訳三存」といわれ、六訳あったが現存するのは三訳である。その中で後秦代の鳩摩羅什訳「妙法蓮華経」八巻は、古来より名訳とされて最も普及している。内容は前半十四品には二乗作仏、悪人成仏、女人成仏等が説かれ、後半十四品には釈尊の本地を明かした久遠実成を中心に、本因妙・本果妙・本国土妙の三妙合論に約して仏の振る舞い、また末法に妙法蓮華経を弘通する上行菩薩等の地涌の菩薩に結要付嘱されたこと等が説かれている。

 

阿練若に、納衣にして空閑に在り

法華経勧持品第十三に「或有阿蘭若・納衣在空閑」とある。僭聖増上慢の者が、静かな山寺などにこもって、人々に邪法を説く姿をあらわしている。阿練若とは訳せば無事閑静処という意味である。納衣とは僧衣のこと。空閑とは人里離れたところをいう。

 

世に恭敬せらるること、六通の羅漢の如くならん

法華経勧持品第十三の二十行の偈に「為世所恭敬如六通羅漢」とある。僭聖増上慢のものが、一般大衆から敬われることは、あたかも六神通をもった羅漢のようであるということ。六神通とは、神足通、天眼通、天耳通、他心通、宿命通、漏尽通をいう。羅漢とは阿羅漢のこと。小乗の果位で、声聞の四種の聖果の最高位。三界における見惑・思惑を断じ尽くし、涅槃真空の理を実証する位とされる。六神通のうち、宿命通までの五通は外道の仙人でも成就できるが、第六通は阿羅漢位でなければ成就できないという。

 

講義

これは、有名な勧持品の二十行の偈で、三類の強敵を説いた仏の未来記である。この文と、日蓮大聖人のお振舞いとをみるに、あまりの一致に驚嘆し、かつは、仏法の偉大さを心底より実感せずにはいられない。

この二十行の偈を、三類に分けると次のようになる。

第一類=俗衆増上慢

諸の無智の人の悪口罵詈等し、及び刀杖を加うる者有らん。我等皆当に忍ぶべし。

第二類=道門増上慢

悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に、未だ得ざるを為れ得たりと謂い、我慢の心充満せん。

第三類=僭聖増上慢

或は阿練若に、納衣にして空閑に在り、自ら真の道を行ずと謂いて、人間を軽賤する者有らん。利養に貪著するが故に、白衣の与に法を説いて、世に恭敬せらるること、六通の羅漢の如くならん。乃至常に大衆の中に在って、我等を毀らんと欲するが故に、国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向つて、誹謗して我が悪を説いて、是れ邪見の人、外道の論議を説くと謂わん。濁劫悪世の中には、多く諸の恐怖有らん。悪鬼其の身に入つて、我を罵詈し毀辱せん。濁世の悪比丘は、仏の方便・随宜所説の法を知らず、悪口して嚬蹙し、数数擯出せられん。

日蓮大聖人は、諸御書に、この勧持品の二十行の偈を身読したのは、自分以外にないことを断言されている。そして、この事実をもって、ご自身こそ、法華経に予言された、末法の全民衆を救済する御本仏であるとの確信に立たれているのである。

開目抄にいわく「我が身の法華経の行者にあらざるか、又諸天・善神等の此の国をすてて去り給えるか・かたがた疑はし、而るに法華経の第五の巻・勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此の国に生れずば・ほとをど世尊は大妄語の人・八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし、経に云く「諸の無智の人あつて・悪口罵詈等し・刀杖瓦石を加う」等云云、今の世を見るに日蓮より外の諸僧たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ刀杖等を加えらるる者ある、日蓮なくば此の一偈の未来記は 妄語となりぬ、「悪世の中の比丘は・邪智にして心諂曲」又云く「白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるること六通の羅漢の如し」此等の経文は今の世の念仏者・禅宗・律宗等の法師なくば世尊は又大妄語の人、常在大衆中・乃至向国王大臣婆羅門居士等、今の世の僧等・日蓮を讒奏して流罪せずば此の経文むなし、又云く「数数見擯出」等云云、日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はず況や余人をや、末法の始のしるし恐怖悪世中の金言の・あふゆへに但日蓮一人これをよめり」(0202:10)。

上野殿御返事にいわく「勧持品に八十万億那由佗の菩薩の異口同音の二十行の偈は日蓮一人よめり、誰か出でて日本国・唐土・天竺・三国にして仏の滅後によみたる人やある、又我よみたりと・なのるべき人なし・又あるべしとも覚へず、及加刀杖の刀杖の二字の中に・もし杖の字にあう人はあるべし・刀の字にあひたる人をきかず、不軽菩薩は杖木・瓦石と見えたれば杖の字にあひぬ刀の難はきかず、天台・妙楽・伝教等は刀杖不加と見えたれば是又かけたり、日蓮は刀杖の二字ともに・あひぬ、剰へ刀の難は前に申すがごとく東条の松原と竜口となり、一度も・あう人なきなり日蓮は二度あひぬ、杖の難にはすでにせうばうにつらをうたれしかども第五の巻をもつてうつ、うつ杖も第五の巻うたるべしと云う経文も五の巻・不思議なる未来記の経文なり」(1557:02)。

 

現代の三類の強敵

 

この三類の強敵は、今日、われわれもつねに経験するところである。

まず第一の俗衆増上慢については、御義口伝に有諸無智人の文を「一文不通の大俗なり。悪口罵詈等分明なり。日本国の俗を諸と云うなり」(0748:第七有諸無智人の事:02)と述べられている。すなわち、仏法に対して正しい知識をもたずに、いたずらに批判をなすものが俗衆増上慢である。これは、われわれが信心するやいなやあらわれてくるものである。ふだんは、快く交際し、温かく話し合い、助け合う仲の人であっても、信心の問題になると、にわかに感情的となり依怙地になってしまう場合が多い。怒ったことのないような人までが、この正法の話となると、怒り出したり、反対しだすのは、まことに不思議であり、仏法の原理の正しさをひしひしとわが身に体験するのである。だが、しょせん人びとの生命の奥底は、妙法へと向かっているのである。どんなに反対しようが、悪口しようが、それ自体、逃れようのがれようと賢明なるがゆえであり、その実相は、御本尊へと向かう姿なのである。事実、今日、一千万を越える創価学会員も、はじめは大なり小なり反対した人びとであり、なかには激しい憎悪と怒りをぶちまけた人さえいるのである。この人びとが、いまや口々に御本尊の偉大さを賛嘆し、喜々として、希望多き日々を送っているのは、まさに、そのなによりの証明ではないか。

次に、第二類の道門増上慢については、御義口伝に悪世中比丘の文をあげて「悪世中比丘の悪世とは末法なり。比丘とは謗法たる弘法等是なり。法華の正智を捨て、権教の邪智を本とせり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は正智の中の大正智なり」(0749:第八悪世中比丘の事)と述べられている。今日においては、既成宗教、新興宗教は、まさしくこの範疇にはいる。

自宗の正義を貫くなんらの信念もなく、ただ利益のため、世法のために、連合し、おのが宗派を守らんとする、卑怯な、醜い宗団の批判、迫害をさす。これ「邪智にして心諂曲」の者ではないか。ことに、創価学会に対して盲評する日蓮宗各派等の悪侶は、まさに「未だ得ざるを為れ得たりと謂い。我慢の心充満せん」にあたる者ではないか。

わが学会の歴史からいえば、戸田先生の第二代会長就任の昭和26年(1941)ごろから、昭和30年(1955)の小樽法論を境として、諸宗の力は一段と衰え、以後、宗教上の論争をするところもなく、宗教上の勝劣は明らかとなった。また、既成宗教の最後の抵抗であった埋葬拒否等の墓地問題は、昭和341959)、5年ごろを頂点とし、その後、法律的にも、彼らの主張の不法性が明らかにされる判決がでて、終止符を打ったのである。

現在、なお命脈を保ちつづけているいくつかの新興教団も、巧みに政界、財界と結びつき、民衆の宗教的無智につけこんで、いまなお生きつづけているにすぎない。

第三の僣聖増上慢とは、現在では、思想的、宗教的に世間の尊敬を集めている人びとが、社会的、政治的権力と結託して、正法を誹謗中傷し、迫害を加えてくることをさす。

創価学会の目的は、民衆を幸福にする以外のなにものでもない。生命の限りなき尊厳を説ききる日蓮大聖人の仏法を奉じ、あらゆる人びとが心の底より望んでやまぬ、幸福な、平和な社会を築くこと、ただそれだけである。

今日は順縁広布の時代である。これからは、日蓮大聖人の仏法を根底に、幸福にめざめ、汝自身の内に秘めたる力を知り、社会に目を瞠いた民衆が、有智の団結をもって築く時代である。いまや民衆の心は、滔々と流れゆく大河のごとく、広宣流布へ広宣流布へと動いているのである。

大悪大善御書にいわく「大事には小瑞なし。大悪をこれば大善きたる。すでに大謗法・国にあり、大正法必ずひろまるべし。各各なにをかなげかせ給うべき。迦葉尊者にあらずとも、まいをも・まいぬべし。舎利弗にあらねども、立つてをどりぬべし。上行菩薩の大地よりいで給いしには、をどりてこそいで給いしか。普賢菩薩の来るには、大地を六種にうごかせり」(1300:01)と。

日本の、世界の現状をみるとき、かならずや大正法が広宣流布し、平和と幸福の理想社会を実現することは、大聖人の御金言に照らし、絶対なりと確信する。しかして、われらは、迦葉尊者よりも、舎利弗よりも、百千万億倍の大歓喜をもって、さらに広宣流布をめざして前進せんとするものである。

 

 

 

第五章 (涅槃経を引き悪侶を証す)

涅槃経に云く「我れ涅槃の後、無量百歳に四道の聖人、悉く復た涅槃せん。正法滅して後、像法の中に於て、当に比丘有るべし。像は律を持つに似て、少かに経を読誦し、飲食を貪嗜して其の身を長養し、袈裟を著すと雖も、猶猟師の細めに視て徐に行くが如く、猫の鼠を伺うが如し。常に是の言を唱えん、我羅漢を得たりと。外には賢善を現し、内には貪嫉を懐く。唖法を受けたる婆羅門等の如し。実には沙門に非ずして、沙門の像を現じ、邪見熾盛にして正法を誹謗せん」已上。文に就いて世を見るに、誠に以て然なり。悪侶を誡めずんば、豈善事を成さんや。

 

現代語訳

また、涅槃経には次のごとく説かれている。

仏が入滅してのち、幾百年幾千年という長い年月を過ぎると、仏法を正しく弘める聖人たちもことごとく入滅するであろう。正法一千年が過ぎて像法時代となり、ことに像法の終わりから末法へかけての時代に、次のような僧が現れるであろう。その僧は、外面は戒律をたもっているように見せかけて、少しばかり経文を読み、食べ物をむさぼってわが身を長養している。その僧は、袈裟を身にまとっているけれども、信徒の布施をねらうありさまは、漁師がえものをねらって、細目に見て静かに近づいていくがごとく、猫がねずみをとらんとしているがごとくである。

そして、つねに「自分は羅漢の悟りを得た」といい、外面は賢人、聖人のごとく装っているが、内面はむさぼりと嫉妬を強く懐いているのである。偉そうな顔をしているが、なにひとつ説法もできなければ、信者の指導もできない。法門のことなどを質問されても答えられないありさまは、ちょうどインドの波羅門の修行の一つである唖法の術をうけて黙り込んでいる連中のようである。実際には、正しい僧侶でもないくせに僧侶の姿をしており、邪見が非常に盛んで正法を誹謗するであろう。

以上あげたとおり、経文によって現代の世相をみるに、まことに経文どおりである。このような腐敗堕落した僧侶を戒めなければ、どうして善事を成し遂げることができるであろうか。

 

語釈

四道の聖人

四道とは、一義には須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢の声聞の四果といい、一義には初依、二依、三依、四依の聖人ともいう。聖人の聖とは本来、耳の穴がよく通って、声がよく聞こえることを意味し、聖人とは普通人の聞き得ない天の声をよく聞き得る人の意。儒教では、万人が仰いで師表とすべき理想の人物をいった。堯・舜・孔子などがそれである。仏教では、梵語アーリヤ(ārya)の訳で、高貴の意。正師、仏をいう。日蓮大聖人は下山御消息にこれをさして「付法蔵の二十四人を指すか」(0348:07)とおおせである。

 

講義

我れ涅槃の後、無量百歳に四道の聖人、悉く復た涅槃せん。正法滅して後、像法の中に於て……

 

この涅槃経の経文が、釈尊滅後二千年以後の末法の時代を示すことは、明白である。すなわち日蓮大聖人は、下山御消息にこの涅槃経の同文をあげて、次のようにおおせである。

「此の経文に世尊未来を記し置き給う。……一身に三徳を備へ給へる仏の仏眼を以て未来悪世を鑑み給いて記し置き給う記文に云く『我涅槃の後無量百歳』云云。仏滅後二千年已後と見へぬ。又『四道の聖人悉く復涅槃せん』云云。付法蔵の二十四人を指すか。『正法滅後』等云云。像末の世と聞えたり。『当に比丘有るべし持律に似像し」等云云。今末法の代に比丘の似像を撰び出さば、日本国には誰の人をか引き出して大覚世尊をば不妄語の人とし奉るべき。俗男・俗女・比丘尼をば此の経文に載たる事なし。但比丘計なり。比丘は日本国に数を知らず、然るに其の中に三衣一鉢を身に帯せねば似像と定めがたし。唯持斎の法師計相似たり。一切の持斎の中には次下の文に持律ととけり。律宗より外は又脱ぬ。次下の文に『少に経を読誦す』云云。相州鎌倉の極楽寺の良観房にあらずば、誰を指し出だし経文をたすけ奉るべき。次下の文に『猶猟師の細視徐行するが如く、猫の鼠を伺うが如し。外には賢善を現し、内には貪嫉を懐く』等云云。両火房にあらずば誰をか三衣一鉢の猟師伺猫として仏説を信ず可し。哀れなるかな、当時の俗男・俗女・比丘尼等・檀那等が、山の鹿・家の鼠となりて、猟師・猫に似たる両火房に伺われたぼらかされて、今生には守護国土の天照太神・正八幡等にすてられ、他国の兵軍にやぶられて、猫の鼠を捺え取るが如く、猟師の鹿を射死が如し。俗男・武士等は射伏切伏られ、俗女は捺え取られて他国へおもむかん。王昭君・楊貴妃が如くになりて、後生には無間大城に一人もなく趣くべし」(0348:04)と。

以上の御文のごとく、大聖人は、涅槃経の経文を、滅後二千年已後の末法において、極楽寺良観のような悪侶が出現することを、ご在世中の鎌倉時代に約して、釈しておられるのである。日寛上人は立正安国論文段に「像法尚爾なり、況や末法をや。故に像末というなり」とおおせである。しかして、この涅槃経の経文を、化儀の広宣流布の時代たる現状に約せば、いかなることになるであろうか。

この経文は、まったく現代の宗教界の実態を浮き彫りにしてあまりあるものがある。

今日において、もっとも悪らつなものは、宗教界を装う宗教事業家、すなわち宗教屋である。日本全国の寺々は、お布施をもらうための寺であり、日本全国の宗教屋は、ただ偉そうに飾り立てて金を集めるのが目的である。

自分は生仏であるとか、生神様であるとか、上行菩薩であるとか、無辺行菩薩であるとか、ひどいのになると日蓮再来とかいいだして人びとを迷わせ、また姿は、あたかも宗教家であるかのような格好をして教義には眛く、ご都合主義の教義をこしらえ、信者から金をしぼりとる様は、まさに「像は律を持つに似て、少かに経を読誦し、飲食を貪嗜して其の身を長養し、袈裟を著すと雖も、猶猟師の細めに視て徐に行くが如く、猫の鼠を伺うが如し」の文そのままではないか。

しかもまた、自分はさも聖人のごとく見せかけ、心の中では貪欲のかたまりであり、善人をうらみ、嫉妬し迫害するのは、まことに「外には賢善を現し、内には貪嫉を懐く」偽善者であろう。少し教学について突っ込むと「唖法を受けたる婆羅門」、すなわち人間の言葉を忘れる修行をしたもののごとく、だまりこくって返事をしない。これは、かつての小樽問答における身延派の代表のあの醜態ぶりを見れば明らかである。これこそ、真実を教えず、否、知らずして、甘言で人をあやつることのみにたけた詐欺漢に等しい。

苦にさいなまれる民衆に、救われるといいながら、より不幸のどん底に沈ましてゆき、そのうえ金をしぼりとるのでは、追剥に等しいではないか。これ「沙門に非ずして、沙門の像を現じ、邪見熾盛」の者であり、「正法を誹謗」することなのである。

以上、日蓮大聖人は、仁王経、涅槃経、法華経の文を引き、いかに形の上では、仏法が盛んのように見えても、実質は、まったく地におちたことを述べられている。しかして、これらの文と、大聖人の時代の世相とまったく符合しているがゆえに「文に就いて世を見るに、誠に以て然なり」とおおせられているのである。この大聖人の一言は、そのまま現代にも通ずるものである。まことに、これらの経文は、現代の世相を映し出したる明鏡であり、仏法が、いかに時代移り、人は変われども、万古に変わらざる原理であるかの明証である。

ここに「善事」とは、一般大衆を真実の幸福へ導くことである。善とは、美の価値と利の価値を社会に提供することで、これにも小善、中善、大善と分けなければならない。小さな社会、たとえばある地域に利益になることは、その地域の善ではあるが、より広い地域全体の損になることは、その広い地域社会からみれば、その小さな社会の善は悪になるのである。また今度はそのより広い地域社会の利益はその社会の善ではあるが、それが国家社会に不利益であれば悪となる。それを要約すれば、小善が中善に敵対すれば悪となる。中善が大善に敵対すれば大悪となる。

大善にして至高善とは、全人類社会に幸福と平和を与えるということである。その幸福を、根本的に与えきる唯一の道は、仏法の根本、末法御本仏の真意たる三大秘法の南無妙法蓮華経を信ぜしめることである。されば、大悪の本源たる低級宗教を打ち破らずば、真実、幸福への善事はなされぬことは明らかである。そこで「悪侶を誡めずんば、豈善事を成さんや」とおおせになったのである。

 

 

第四段 (誹謗正法の元凶の所帰を明かす)

第一章 (正法誹謗の人・法を問う)

客猶憤りて曰く、明王は天地に因つて化を成し、聖人は理非を察して世を治む。世上の僧侶は天下の帰する所なり。悪侶に於ては、明王信ず可からず。聖人に非ずんば、賢哲仰ぐ可からず。今賢聖の尊重せるを以て、則ち竜象の軽からざるを知んぬ。何ぞ妄言を吐いて、強ちに誹謗を成し、誰人を以て悪比丘と謂うや。委細に聞かんと欲す。

 

現代語訳

客がなお前にも倍して怒っていうには、明王は治世について天地の道理に即して民衆を化育し、聖人は、理と非理を公平に立て分けて行政を行う。いま、世間の高僧たちは、いずれも天下万民があまねく帰依しているところである。もしそれが悪侶であれば、明王は信じないであろうし、それらの高僧が聖人でないならば、世の指導者たちがこれらの人を信じ仰ぐわけがない。いま、世の賢人や聖人がそれらの名僧を尊崇しているのをみれば、世で仰いでいる僧侶たちが竜象ともいうべき高僧であることがわかる。それなのにどうしてあなたはそのような妄言を吐いて、強いて誹謗し、いったい、だれびとのことを悪僧というのか、それを詳しく聞きたいと思う。

 

 

講義

この段は、世の中を乱し、民衆を不幸のどん底に沈ませたもっとも悪い僧侶の代表として、法然を取り上げ、法然の著した選択集が邪法を弘め、正法を誹謗する元凶となっていることを明らかにしていくのである。

「客猶憤りて曰く」とは、前段においては色を作し憤ってほぼ問うてきたが、この段では前段における主人の答えに対して、客は、前にも倍してますます憤りを増して主人に質問をしてきたので「猶憤りて」というのである。前段において、主人は、客の問いに対して、この日本の国には、たしかにたくさんの寺があり、僧侶も数えきれないほどたくさんいるが、いずれも正法を誹謗した宗教ばかりで、そのために、社会は幸福にならないのみか、かえって災難が競い起こる結果になってしまったと、三災七難の本源を指摘したのである。

ところが、客にしてみれば、この答えはまったく予想外であり、かつ不可解なものであった。世の僧侶はいずれも天下万民から尊敬の的となっている人たちばかりで、主人のいうような悪侶ではないというのである。もし、主人のいうような悪い僧侶であったならば、世の人びとが尊敬するわけもないし、そのような宗派が隆盛を誇るはずがないではないか、というのである。そこで、そのようなことをいうならば、具体的にだれをさして悪侶というのか、と疑うのがこの章の問いである。

 

世上の僧侶は天下の帰する所なり

 

「世上の僧侶は天下の帰する所なり」とは、近代以前においては、僧侶が社会の知識階級であり、指導的階層であったことを考えなければならない。たとえば、現代の最新の科学技術に相当する大陸の諸文化を、まず最初にわが国にもたらしたのは、仏法修学のため大陸へ渡った学僧たちや、宋から弘経のために渡来した僧たちであった。

こうした僧のなかには、彼の地で医術や土木工法や農法までも学んできて、それを応用指導する者すら珍しくなかったのである。これらの特殊技能が、仏教信仰と結びついて、僧侶の社会的地位を、いやがうえにも高めていったのである。

かつて真言の弘法が唐へ留学したとき、大陸に上陸してまず足を向けたのは長安の都であった。彼はここで、真言を学ぶとともに、灸や土木の工法を学んで帰ってきた。

そして、帰国後の彼は、まず灸や土木工事で名を売り、その名声に便乗して真言の邪法をひろめたのである。大聖人当時の律宗の良観や、禅の栄西、道元も同じである。表面は、こうした技能をもって社会に貢献しているように見せかけながら、恐るべき邪法をもって人びとを地獄へ堕とし、三災七難を起こしていったのである。

法然については、別に詳しく論ずるので、ここでは簡単に述べるが、彼こそ当時、日本国じゅうを風靡した浄土宗の教祖であり、勢至の再誕か、阿弥陀の化身かとまでいわれるほど、死後ますます尊敬を集めていたのである。しかも、それを尊崇しているのは、庶民ばかりでなく、皇族や公家、北条一族までが熱心に信じ、仰いでいる。賢明であり、学識もある。それらの人びとでさえも尊崇しているほどの僧であるから、その僧が悪侶であり、不幸の原因だなどといっても信じられない、というのが客の言葉である。

だが、大部分の人が賛成し支持しているからといって、それが正しいとは必ずしもいえない。また、著名な指導者や学者、有識者が信仰しているからといって、その宗教が正しいとはかならずしもいえない。

その反対に、支持する者が少ないからといって、それが誤っているとはいえないことも、コペルニクスやガリレオ等の例からも明らかであろう。

宗教の正否を決するものは、その教義であり内容である。その教義の浅深勝劣の判定によってはじめて、正しいか、否かが決定されるのである。しかして、物理学のことは物理学者に、経済学のことは経済学者に、仏教のことは仏教をもっともまじめに、真剣に学んでいる者に聞くのが当然である。ゆえに、われわれは宗教に関しては、創価学会に聞くべきであると主張するのである。

さて、このように大勢の民衆から尊敬される立場であればこそ、その謗法の罪はいっそう重い。かつて牧口初代会長は、価値論のなかで、同じ罪でも社会的に重要な立場にある者の場合は、それだけ大悪となると教えた。これを、世間話にあてはめるならば、だれにも理解できる。

仏法は目に見えない生命深奥の原理を説いているため、なかなか納得しがたいが、道理は同じことである。法然をはじめ僧侶たちは、世の人びとから尊敬されているがゆえに、多くの人びとを地獄に堕とし、世の中に大きい害毒を流す。したがって、その罪はきびしく弾劾されなければならないのである。

 

明王は天地に因つて化を成し、聖人は理非を察して世を治む

 

客は、当時の社会の政治的指導者、思想的指導者に全幅の信頼を寄せて、このようにいったのである。しかし、この文をもう一歩深く読むならば、日蓮大聖人は、この段の客の問いを通じて、真の指導者のあり方を述べられているのである。すなわち「明王は天地に因つて化を成し、聖人は理非を察して世を治む」のところは、社会の指導者のあるべき姿を明確に示されたものである。ここでいう明王とは、文中においては鎌倉時代の権力者、すなわち、京都の朝廷あるいは鎌倉幕府、別しては北条氏をさしているのであるが、総じていえば為政者や社会の指導者のことである。また、聖人とは別しては仏法上の指導者を意味するが、総じては社会の指導者と考えられる。「聖」の字には、耳の穴がよく通って、ふつうの人の聞こえない声までよく聞くことができる、という意味があるところから、民衆の声なき声をよく聞き、民衆を正しく導いていける指導者も「聖人」といってよいだろう。

「明王は天地に因つて化を成し」とは、すなわち、一国の指導者、為政者というものは「天地に因つて」――、一往は宇宙のリズム、再往は社会のことである――すなわち、社会の働き、民衆の微妙な心、要望、時代の潮流等を察知していくということである。また、社会の構造や機構を調和させていくこととも考えられる。

「化を成し」の「化」とは、元来、「徳を以て人民を導き感ぜしめ、善良なる風俗習慣を作る義」である。すなわち、今日においては、抽象的なものでなく、どのように具体的に、時代に応じ、社会を繁栄させ、民衆の生活を安定させていくことができるか、ということである。特定の理論やイデオロギーによって議論したり、机上の空論にはしるのでなく、どのようにして、民衆を指導し、幸せにしていくかということが、真の指導者、為政者の最大の課題である。

しかるに、現実はどうか。まったく、これとは逆である。いつも民衆から離反した政治、私利私欲のために民衆の不幸をなんら顧みようとしない政治家、ほんの一握りの人びとのために多くの大衆を犠牲にしているような政治の現状をみるとき、はたして、わが国に、真の指導者ありやと疑うものである。民衆の幸福を考慮しないものが、どうして指導者といえようか。

「聖人は理非を察して世を治む」――ここで理非を察してとは、正しき道理であるか否かを明確に分け、さらにそれを社会の根本理念としていかなければならないということである。その道理とは、人間としての道理であり、より根源的には、生命の哲理でなければならない。「世を治む」とは、その学説、主張、研究、抱負等を具体的な政治や社会に反映させ、あくまでも民衆の生活の安定を目標としていかなければならない。すなわち、民衆の幸福の実現こそ、政治や学問の要諦である、ということである。

現在は、乱世であるため、理非を察してでなく、利害を根本として社会が運営されている観がある。そして、恐るべきことは、そのような政治や社会であっても、それをなんとか改革していこうという気力さえ、国民の大半が喪失してしまったことである。「人間の、人間による、人間のための……」ということこそ、あるべき姿であるとつねに主張するのはこの原理によるのである。

これ、民衆の生命それ自体が濁りきってしまった姿である。これを打開する方途が見いだされぬかぎり、腐敗せる土壌、脆弱なる土台のうえに、いつも、劣悪な政治が繰り返されるだけである。人間性無視の政治が行われるのも、しょせん、その底流は、民衆の無気力と惰弱な生命にあるのである。

では明王と聖人はなにによって生ずるか、これが大問題である。そもそも人間の生命を本源的に変革する唯一の道は、日蓮大聖人の仏法しかないのである。政治にせよ、経済にせよ、教育にせよ、またその他のあらゆる文化は、ことごとく〝人間〟の営みであり、人間生命の具体的な表現である。この人間生命それ自体を善導し、変革し、最高に発揚させる根源の方途、すなわち正しい仏法を教える人が、仏法上の「聖人」の立場である。また、仏法の慈悲の精神を根本として、施政施策に具現化し、大衆の福祉を現実の社会に、国家にあらわしていく人が、「明王」の立場なのである。

過去の歴史をひもといてみるとき、真に民衆のことを思い、国家のことを考えて、政治を行う指導者の出現したときは、その国家はおおいに繁栄し、国民はとみに充実した。だが、悪い為政者に支配されたときの国家や、国民は、まったく悲惨な目にあわされているのである。その善悪を決定したものは、じつに指導者がもった法や理念の正邪、高低であった。いま、国の内外に大きな問題をかかえたわが国は、いまこそ明王・聖人すなわち真実の民衆の指導者の出現を待っているといえるであろう。しかし、その出現を手をこまねいて待つのみではならないであろう。なぜなら、現代にあっては、王、すなわち主権者は民衆自身だからであり、賢明なめざめたる民衆のなかから輩出する指導者こそ、現代の「明王」なりと信ずるからである。

いま、私どもの大文化運動は、宗教の興隆をはかりながら、幅広い民衆の生命の連帯の輪を拡大して、社会、文化のあり方を鋭く監視し、創造していく活動なのである。有智の民衆の団結こそ、政治、社会、経済、文化など、あらゆる人間の営為を、民衆の手にとりもどす根源の力なりと主張するものである。

 

 

第二章 (法然の邪義撰択集を示す)

主人の曰く、後鳥羽院の御宇に法然と云うもの有り。選択集を作る。則ち一代の聖教を破し、遍く十方の衆生を迷わす。其の選択に云く「道綽禅師、聖道・浄土の二門を立て、聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文。初めに聖道門とは之に就いて二有り、乃至之に準じて之を思うに、応に密大及以び実大をも存すべし。然れば則ち今の真言・仏心・天台・華厳・三論・法相・地論・摂論、此等の八家の意正しく此に在るなり。曇鸞法師の往生論の注に云く、謹んで竜樹菩薩の十住毘婆沙を案ずるに云く、菩薩、阿毘跋致を求むるに二種の道有り。一には難行道、二には易行道なりと。此の中に難行道とは、即ち是れ聖道門なり。易行道とは即ち是れ浄土門なり。浄土宗の学者、先ず須く此の旨を知るべし。設い先より聖道門を学ぶ人なりと雖も、若し浄土門に於て其の志有らん者は、須く聖道を棄てて浄土に帰すべし」と。又云く「善導和尚、正雑の二行を立て、雑行を捨てて正行に帰するの文。第一に読誦雑行とは、上の観経等の往生浄土の経を除いて已外、大小乗・顕密の諸経に於て、受持・読誦するを悉く読誦雑行と名づく。第三に礼拝雑行とは、上の弥陀を礼拝するを除いて已外、一切の諸仏菩薩等及び諸の世天等に於て、礼拝し恭敬するを悉く礼拝雑行と名づく。私に云く、此の文を見るに、須く雑を捨てて専を修すべし。豈、百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行に執せんや。行者能く之を思量せよ」と。又云く「貞元入蔵録の中に、始め大般若経六百巻より法常住経に終るまで、顕密の大乗経、総じて六百三十七部・二千八百八十三巻なり。皆須く読誦大乗の一句に摂すべし。当に知るべし、随他の前には、暫く定散の門を開くと雖も、随自の後には、還って定散の門を閉ず。一たび開いて以後永く閉じざるは、唯是れ念仏の一門なり」と。又云く「念仏の行者、必ず三心を具足す可きの文。観無量寿経に云く、同経の疏に云く、問うて曰く、若し解行の不同、邪雑の人等有らば、外邪異見の難を防がん。或は行くこと一分二分にして、群賊等喚び廻すとは、即ち別解・別行の悪見の人等に喩う。私に云く、又此の中に一切の別解・別行・異学・異見等と言うは、是れ聖道門を指すなり」已上。又最後、結句の文に云く「夫れ速かに生死を離れんと欲せば、二種の勝法の中に、且く聖道門を閣いて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲せば、正雑二行の中に、且く諸の雑行を抛って、選んで応に正行に帰すべし」已上。

 

現代語訳

主人が答えていわく。

後鳥羽院の御代に法然という僧があって、選択集をつくった。すなわち、この書によって釈尊一代の説法を破り、あまねく一切を迷わしたのである。その選択集にいわく。

道綽禅師は安楽集に聖道門、浄土門の二門を立てて、聖道門を捨てて正しく浄土門に帰すべしと説いたが、それについて自分が考えると、はじめに、聖道門とは、これについて大乗、小乗の二つがあり、大乗の中に顕教、密教、権教、実教等がある。いま、この安楽集の意は、小乗教と大乗教のうちには、ただ顕教と権教とを聖道門とする。これに準じて思うに、聖道門として捨てなければならないのは小乗、顕教、権教はもちろんのこと、まさに密大の真言も、実大の法華も聖道門として捨てるべきである。したがって、これらの経によって立っているところの真言宗、禅宗、天台宗、華厳宗、三論宗、法相宗、地論宗、摂論宗等の八宗は、正しく顕密、権実の相違はあっても、みな聖道門として捨て去り、浄土の一門に帰すべきである。

曇鸞法師の往生論の註には、次のごとくいっている。謹んで竜樹菩薩の十住毘婆沙論を案ずるに、菩薩が不退転の位を求めるのに、二種の道がある。一つは難行道であり、他の一つは易行道であると。

このなかの難行道とは、すなわち聖道門であり、易行道とは、すなわち浄土門のことである。浄土宗の学者は、すべて、まずこの旨を知るべきであり、たとえ以前から聖道門を学んでいる人であっても、もし浄土門にはいって学びたいという志のある者は、すべからく聖道門を捨てて、浄土門に帰すべきである。

また、善導和尚が正雑の二行を立て、雑行を捨てて、正行に帰すべきであると述べた文は次のようである。

第一に読誦雑行とは、浄土宗の依経である観経等の往生浄土の経を除いて、それ以外の大乗教、小乗教、顕教、密教の諸経を受持読誦するを、ことごとく読誦雑行と名づけるのである。第三に礼拝雑行とは、阿弥陀仏を礼拝する以外は、いっさいの諸仏菩薩等およびもろもろの世天等に対して、礼拝し恭敬するのを、ことごとく礼拝雑行と名づけるのである。

以上の文について、自分の見解をまとめていうならば、われらはすべからく雑行を捨てて專修念仏を修業しなければならない。どうして百人が百人とも、かならず極楽浄土へ往生できる専修正行の念仏を捨てて、千中無一、すなわち、千人のなかに一人も成仏することのできない、法華経等の雑修雑行に堅く執着する道理があろうか。仏道を修業する者は、よくよくこのことを考えるべきである。

またいわく、中国唐の僧円照が選んだ貞元入蔵録のなかには、大般若経六百巻から始まって法常住経にいたるまで、顕教、密教の大乗経は総じて六百三十七部二千八百八十三巻あるが、これらはみな、読誦大乗の一句に摂して、一束にして捨てるべきであり、釈尊の本意は、ただ念仏だけである。

まさに知るべし、仏が衆生の機根に応じて説いた隋他意の法門の場合にはしばらく定散二善の諸行の門を開いたが、いよいよ釈尊の本意である隋自意の法門を説いたのちには、かえって前に説いた方便の定散の門を閉じてしまった。一度開いたのち、永久に閉じない門は、ただ念仏の一門のみである。

またいわく。念仏の行者は必ず三心を具足しなければならないとの文。この文は観無量寿経にあり、善導の同経疏には「問うていわく、もし念仏の行者と知解も修業も同じでなく〝念仏は邪教だ〝などという邪雑の人があって……」、また「外邪異見の難を防ごう」、また「涅槃経や大論にある、一歩か二歩か進まぬうちに群賊等が旅人を呼び返すという喩えは、別解・別行、悪見の人を群賊にたとえているのである」と。この善導の文について自分が考えるには、いっさいの別解、別行、異学、異見等と善導がいっているのは、聖道門の人びとをいうのである。

そして、選択集の最後結句の文では「それ、すみやかに、生死の苦しみを離れようと欲するならば、二種の勝れた法のなかで、聖道門をさしおいて浄土門にはいりなさい。浄土門にはいろうと欲するならば、正行、雑行のなかで諸の雑行をなげうって、選んでまさに正行に帰して、もっぱら弥陀を信じ、念仏修行をしていきなさい」といっている。以上が選択集の内容である。

 

語釈

 

後鳥羽院

後鳥羽上皇のこと。高倉天皇の第四皇子。名は尊成。土御門・順徳・仲恭の三帝にわたり院政を敷いた。北条義時追討の院宣を出し、承久の乱を起こしたが失敗、配流の直前に出家し、法皇となった。隠岐国へ流刑に処されたので、隠岐法皇と呼ばれる。

 

法然

平安時代末期の僧。日本浄土宗の開祖。諱は源空。美作の人。幼名を勢至丸といった。9歳で菩提寺の観覚の弟子となり、十五歳で比叡山に登り功徳院の皇円に師事し、さらに黒谷の叡空に学び、24歳の時に京都、奈良に出て諸宗を学んだ。再び黒谷に帰って経蔵に入り、大蔵経を閲覧した。四十三歳の時、善導の「観経散善義」及び源信の「往生要集」を見るに及んで専修念仏に帰し、浄土宗を開創した。その後、各地に居を改めつつ教勢を拡大。建永2年(1207)に門下の僧が官女を出家させた一件が発端となって、勅命により念仏を禁じられて土佐に流された。同年12月に赦があり、しばらく摂津国の勝尾寺に住した後、建暦元年(1211)京都に帰り、大谷の禅房(知恩院)に住して翌年、八十歳で没した。著書に、「選択集」二巻をはじめ、「浄土三部経釈」三巻、「往生要集釈」一巻等がある。

 

選択集

選択本願念仏集の略。法然の著作。一巻。九条兼実の依頼によって著されたといわれる。主として浄土三部経や善導の観無量寿経疏の文を引いて念仏の法門を述べている。内容は十六章に分けられ、釈尊一代の仏教を聖道門と浄土門、難行道と易行道、雑行と正行とに分け、浄土三部経以外の法華経を含む一切の教えを排除し、阿弥陀仏の誓願にもとづく称名念仏こそ、極楽世界に生まれるための最高の修行であると説いている。日蓮大聖人は「立正安国論」、「守護国家論」などでその誤りを破折されている。

 

道綽禅師

中国の隋・唐代の僧。中国浄土教の祖師の一人。并州汶水の人。姓は衛氏。十四歳で出家し涅槃経を学ぶが、玄中寺で曇鸞の碑文を見て感じ浄土教に帰依した。曇鸞の教説を受け、釈尊の一大聖教を聖道門・浄土門に分け、法華経を含む聖道門を「未有一人得者」の教えであるとして排斥し、浄土門に帰すべきことを説いている。弟子に善導などがいる。著書に「安楽集」二巻等がある。

 

聖道・浄土の二門

聖道門と浄土門。中国・唐の道綽の安楽集に説かれる二門。聖道門は、自力によってこの現実世界で成仏することができると説く。対する浄土門は、娑婆世界を穢れた世界として嫌い、他力によって極楽往生を願う。道綽の安楽集巻上には「聖道の一種は今時に証し難し、唯浄土の一門のみ有りて、通入すべき路なり」とある。

 

地論

ここでは地論宗のこと。世親の「十地経論」を所依とする。早く南北両派に分かれ、菩提流支の弟子の系統である北道派は、後発の摂論宗とその教義が近く,摂論宗へ次第に吸収された。一方、四分律宗の祖でもある光統律師を祖とする南道派には、多くの学僧が出て盛えた。隋の浄影寺慧遠の著「大乗義章」は、六朝以来の各派の教説を地論宗の立場によって集大成した。唐代に華厳宗が興ると、発展的に吸収されていった。

 

摂論

摂論宗のこと。無著の「摂大乗論」を所依とし、真諦を祖とする。真諦が「摂論」と世親の「摂大乗論釈」を漢訳後、梁・陳代の百年間、弟子達が弘めて一派を形成した。しかし唐代に玄奘が摂論・摂大乗論釈を新訳し、窺基が法相宗を興すに至って摂論宗は勢力を失い、衰微消滅した。

 

曇鸞法師

中国・北魏代の僧。浄土教の祖師の一人。初め竜樹系統の教理を学び、のち神仙の書を学んでいた時、洛陽で訳経僧の菩提流支に会って観無量寿経を授かり、浄土教に帰した。竜樹造とされる『十住毘婆沙論』にある難行道・易行道の義を曲解し、念仏を易行道とし、その他の修行を難行道として排した。晩年は汾州の玄中寺に住み、平州の遥山寺に移って没した。著書に「浄土論註」二巻、「略論安楽浄土義」一巻、「讃阿弥陀仏偈」一巻等がある。

 

十住毘婆沙

十住毘婆沙論。竜樹作とされる。十地経の初地・第二地について注釈している。鳩摩羅什が仏陀耶舎の口誦に基づいて訳したと伝承される。曇鸞が往生論註で引用し、浄土教に大きな影響を与えた。

 

阿毘跋致

梵語アヴィニヴァルタニーヤ(avinivartanīya)またはアヴァイヴァルティカ(avaivartika)の音写。阿惟越致とも音写し、不退などと訳される。菩薩の修行の階位。仏道修行においてどんな誘惑や迫害があっても退転しない位をいう。

 

難行道・易行道

実践が困難な修行と、易しい修行の法門をいう。易行という語は、もとは竜樹作とされる十住毘婆沙論の易行品第九にある。そこでは、菩薩が十地の第一、不退地に至るのに、自ら勤苦精進して行く道を陸路の歩行にたとえて難行道とし、ただ仏力を信ずる道を水路の船行にたとえて易行道としている。曇鸞はこれを往生論註で独自に解釈し、菩薩が不退を求める修行に難行・易行の二種があるとし、易行の念仏によってのみ成仏できるとしている。

 

善導和尚

中国・初唐の人で、中国浄土教善導流の大成者。姓は朱氏。泗州の人(一説に山東省・臨)。幼くして出家し、経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土を志した。貞観年中に石壁山の玄中寺に赴いて道綽のもとで観無量寿経を学び、師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。正雑二行を立て、雑行の者は「千中無一」と下し、正行の者は「十即十生」と唱えた。著書に「観経疏」四巻、「往生礼讃」一巻などがある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。

 

正雑の二行

正行と雑行。善導は「観無量寿経疏」巻四の散善義のなかで「行に就きて信を立てるとは、然るに行に二種あり。一には正行、二には雑行なり」と修行を正行と雑行に分け、西方浄土往生へと導く修行が正行で、雑行とは正行以外のさまざまな修行のこととした。

 

観経

観無量寿経のこと。一巻。中国・劉宋代の畺良耶舎訳。内容は、悪子・阿闍世のいる濁悪世を嘆き、極楽浄土を願う韋提希夫人に対し、釈尊は神通力によって諸の浄土を示し、そこに生ずるための三種の浄業を説き、特に阿弥陀仏とその浄土の荘厳の相を十六観に分けて説いている。サンスクリット原典、チベット語訳ともに発見されていないため、中国撰述説もある。

 

往生浄土の経

浄土への往生を説いた経のこと。浄土三部経として、阿弥陀経・無量寿経・観無量寿経がある。法然が選択集でこの三つの経典を「弥陀の三部なり。故に浄土の三部経と名づくるなり」と述べたことにもとづく。

 

世天

人界・天界の神々のこと。

 

百即百生

十即十生・百即百生の語の一部。善導の往生礼讃偈に「十は即ち十ながら生じ、百は即ち百ながら生ず」とある。念仏以外の雑行・雑修を捨てて、念仏を称えれば、十人が十人、百人が百人とも極楽浄土に往生できると述べたもの。

 

千中無一

「千が中に一無し」と読む。善導の往生礼讃偈の文。五種の正行以外の教えを修行しても、往生できる者は千人の中に一人もいないとする。

 

貞元入蔵録

貞元新定釈教目録の略。貞元釈教録とも。漢訳仏典の目録。唐の貞元16年(0800)に円照が編集した。三十巻。開元釈教録を増補し、後漢の明帝の永平10年(0067)から唐の徳宗の貞元16年(0800)までの734年間に翻訳・著述された仏典として24177388巻が挙げられている。

 

法常住経

一巻。 訳者不明。文に「法は常住なり、仏あるも仏なきも法の住するは、もとのごとし」とあるので、この名がつけられた。法は常住であるけれども、仏が出世してはじめてその深義を分別して、三乗の機根に応じて法を説き度脱せしめるのであり、ここに常住の法の現れがあると説かれている。

 

定散の門

定善と散善の法門のこと。「定善」は定心に住して修する善行、「散善」は散心で行う善行の意。法然は念仏以外の自力の行を説く法華経等の法門をさしていった。

 

随自の後

随自意の教えが説かれた段階ということ。随自は「随自意」のことで、衆生の機根や能力にかかわらず、仏が自らの悟りをそのまま説き示すこと。またその真実の教えをいう。すなわち仏の随自意とは、法華経のことであるが、法然は根拠も明かさず、念仏をもって仏の随自意の教えとした。

 

三心

観無量寿経に説かれる、極楽往生するのに必要とされる三種の心。①至誠心(真実に浄土を願う心)、②深心(深く浄土を願う心)、③回向発願心(功徳を回向して浄土に往生しようと願う心)。

 

群賊等喚び廻す

涅槃経および大智度論に、幅四、五寸の白道の譬えがあるのを、善導が引いて極楽往生をすすめている文。白道を進もうとする旅人を群賊等が喚び返すというのは、「別解・別行の悪見の人」すなわち聖道門の悪見・邪雑の人で、これらの人びとの言葉に従うなと善導は念仏者に警告している。ただし法然は、竜樹、天親、南岳、天台、伝教を皆群賊のなかに入れてしまっている。

 

講義

すでに客が、悪侶とはいったいだれか、と問うたのに対し、いま、答えの意は、謗法の悪僧の元凶として法然の名をあげ、その選択集の邪義を徹底的に破折されたのが、本章である。法然は選択集をつくって、法華経を含めた一切経を捨閉閣抛せよといい、仏教を破り、民衆を迷わしたがゆえに、法然を悪比丘としたのである。

すなわち、この時代の宗教界の実態は、国の大半が念仏者となって、法然に帰依していた。他に天台、真言、禅、律などの諸宗もかなりの勢力をもち、活動もしていたが、浄土宗の発展ぶりに較べれば、天台、真言、律は停滞期にあり、法相、華厳等は没落期、禅宗は、まだ微々たる勢力でしかなかった。いわば念仏は開創以来数十年を経て、旭日の勢いを示している新興宗教の覇者だったのである。しかも、それが権教をもって実教を破る仏教破壊の思想で、悪鬼、魔神の邪教であることは歴然としていた。経文に照らし、三災七難の元凶であることも明々白々である。

このゆえに、日蓮大聖人は、その念仏の開祖たる法然の名をあげて、とくに法然が選択集を作って捨閉閣抛と称し、仏教を破り民衆を迷わしている実態を示して、これの破折に立ち向かわれたのである。しかしながら、主人のいう悪侶とは、たんに法然一人にとどまるものでない。総じては、いっさいの諸宗の僧侶を含めているのである。

なぜかならば、すでに第一段の問いにおいて、客をして「然る間、或は利剣即是の文を専らにして」から「万民百姓を哀んで国主・国宰の徳政を行う」まで、国じゅうのあらゆる宗教がそれぞれ力の限りを尽くして、国難退治の祈禱を行っているにもかかわらず、一向に効き目がないばかりか、ますます災難、不幸を増長するばかりであると嘆かせている。このことは、いかなる宗教も三災七難を対冶できないことはもとより、結局、彼らこそ災難を増長している原因であることを物語っている。

さらに、さきに仁王、涅槃、法華の各経文を引いて示されたが、これらの文に該当する悪僧は、当時のどの宗派にも共通である。そうした僧は、ことごとく仏法のなかの怨であり、天魔外道の輩なりと断じられるのである。法然は、そのもっとも凶悪なる代表としてあげられたのである。今日の宗教界のすべての僧、教祖、幹部に、この経文はピッタリと符合している。また、その邪義を唱える手口も、本章で示されている法然のそれと、まことによく似ているのである。

法然は、曇鸞、道綽、善導の邪義をさらに発展させて種々に邪義を構えた。それが、いかに論理の飛躍の潜む巧妙な方法で行われたことか、少しく検討していけば明瞭である。

まず聖道門と浄土門との立て分けは、道綽の安楽集にある邪説である。だがこれは、爾前の諸経を聖道、浄土の二門に立て分けて、聖道門を捨てて、浄土門に帰すべしと述べているのであって、まだ法華経を含めていない。

だが、法然は、選択集において、聖道門に法華経を含めて、これを捨てよと論じたのである。すなわち「準之思之の四字で、拡大解釈し、道綽の立てた聖道・浄土の二門を法華経にまで及ぼしたわけである。すべて、この調子で、曇鸞の難行道・易行道、善導の正行・雑行の邪説を「準之思之」の四字で拡大解釈し、法華経誹謗の大重罪をおかしているのである。

これについては、大聖人は、守護国家論で次のごとく述べられている。

「問うて云く、竜樹菩薩並に三師は法華真言等を以て難・聖・雑の中に入れざりしを源空私に之を入るるとは何を以て之を知るや。……答えて云く、選択集の第一篇に云く、道綽禅師・聖道浄土の二門を立て、而して聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文と約束し了つて、次下に安楽集を引いて私の料簡の段に云く『初に聖道門とは之に就て二有り。一には大乗・二には小乗なり。大乗の中に就て顕密権実等の不同有りと雖も、今此の集の意は唯顕大及以び権大を存す。故に歴劫迂回の行に当る。之に準じて之を思うに応に密大及以び実大をも存すべし』已上選択集の文なり。此の文の意は、道綽禅師の安楽集の意は法華已前の大小乗経に於て聖道浄土の二門を分つと雖も、我私に法華・真言等の実大・密大を以て四十余年の権大乗に同じて聖道門と称す『準之思之』の四字是なり、此の意に依るが故に亦曇鸞の難易の二道を引く時、亦私に法華真言を以て難行道の中に入れ、善導和尚の正雑二行を分つ時も亦私に法華真言を以て雑行の内に入る。総じて選択集の十六段に亘つて無量の謗法を作す根源は偏に此の四字より起る。誤れるかな畏しきかな」(0052:06

この法然の邪義が、いかにしてつくられていったかは、あとでさらに詳しく論ずることにして、まずあのような低級、卑劣な邪義が、なぜ当時あのように蔓延したのか。それを明らかにするために、ここで当時の宗教界における法然の地位、法然の一生、法然の選択集の破折の順で述べてみたい。

 

民衆の無智につけこんだ法然

 

延暦13年(0794)の平安京遷都以来、絢爛たる文化を誇った良き時代も11世紀にはいると、政治の腐敗、仏教界の堕落、僧兵の横暴、武士団の勃興と、世の中は物情騒然たる時代となり、相次ぐ天災、飢饉のなかに、人々は不安の毎日を余儀なくされていた。

それまで天台宗を中心としていた仏教界は、その内側における葛藤から、腐敗、乱脈をきわめ、しかも保元、平治の乱、さらに源平の合戦と、相次ぐ戦乱にみずから巻き込まれて、人々を救うなんの力もないことを露呈したのである。こうして現世を穢土として嫌い、浄土往生を願う念仏思想が、次第に民衆のなかに溶け込んでいった。

しかも、永承7年(1052)は、釈尊滅後ちょうど2000年、すなわち末法にはいる年とされ、従来の煩瑣な理論を持つ仏教は功力はないとし、単純な、新しい宗教の出現を渇望していったのである。

法然の念仏思想は、こうした時代の風潮に便乗したもので、それまでの天台・真言のように難解な教義はなんら必要とせず、いっさいを捨てて、ただ念仏を唱えることによって、極楽往生できるというきわめて単純なものであった。法然に帰依したものの大部分が、朴訥無学な武士や諸民であったことは、既成仏教と根本的に異なる点であった。彼らにとっては、わずらわしい教義はなんら必要ではなかった。専修念仏の信仰は、聞くだけでうっとりとするような極楽浄土を慕うムード、狂信的な踊り念仏の流行、若い念仏僧が美声を張り上げて歌う和讃等々、いわば現代のモンキー・ダンスやロックンロール、ジャズ等のような形で民間に浸透していったのである。それは、まったく精神異常以外のなにものでもなかった。

このあと、すぐ述べるところであるが、少しく仏教を知り、冷静に考えてみるならば、法然の教義は実にたわいのないものであり、しかも正法を誹謗した恐るべき邪説であることが、すぐ判断できたはずである。のみならず、比叡山の学僧のなかに、これを破折して世に警告を発した人も少なくなかった。だが、一般民衆にはなにもわからないまま、疫病が流行するように蔓延していったのである。

法然によって説かれた専修念仏の教えは、その弟子たちの手によって、たちまちのうちに全国に流布し、わが国は上下をあげて、この邪義に心酔してしまった。なかでも前に述べたように、時宗の一遍等は、全国をくまなく遍歴して、邪教を弘め、無智な民衆をたぶらかしていったのである。

この時代は、法然の念仏のほか、禅宗が北条時頼を後ろ立てに得て、発展し、栄西、道元、道隆などの僧を中心として、隆盛をはじめている。律宗でも、良観が、巧みに幕府に取り入って、自己の保身、勢力の拡張を推し進めている

 

法然の一生

 

ここで法然の生い立ち、その一生を略述してみよう。法然は長承2年(1133)美作国久米郡に生まれた。父の漆間時国は久米郡の押領使で、母も土地の豪族の出であった。法然が9歳の時、父時国は多年にわたって争いを続けてきた土地の預所明石定明に夜襲を受けて殺されてしまった。このような事件は当時の社会にあっては、役人同士の争い、中央官僚と地方豪族の争いとしてよくあったもので、特に珍しいことではなかった。

浄土宗側の伝記によれば、この夜襲の際、臨終の父は法然に対して、仇討ちを厳にいさめ、一切衆生が安易に救済される法門を開顕するために、出家するよう諭したというが、幼名を勢至丸といったこととともに、当時の記録になくはなはだ疑わしい。久安3年(1147)、15歳の時、母に暇を乞い、比叡山に登り、持宝房源光の室にはいり、ついで功徳院皇円に移り、11月に剃髪受戒して円明善弘と名のった。

ここで3年間修学したのち、18歳の時、黒谷の慈眼房叡空の弟子となり、ここで法然房源空と改名した。この黒谷で、彼は慧心僧都の「往生要集」をはじめ、諸宗の章疏を学び、なかんずく、善導の「観経疏」の「一心専念弥陀名号」の文をみて、承安5年(1175)、43歳の春、浄土宗の邪義を構えたのである。

彼の教義の特色は、それまでの仏教界の中心であった天台宗等が、難解な教学を旨としたのに対して、戒定慧の三学をはじめ、一切経を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱え、ただ阿弥陀に対する強い信仰を強調したことである。これによって、一般庶民を引きつける力を持つ結果とはなったが、それは、まさに仏法を隠没する暴義でもあった。

また、布教の仕方も、従来、僧侶は山中にはいったり、いかめしい寺院の奥深くにあって、庶民のなかでも、遊女や賤民と話したり、顔を合わせたりすることはなかった。これに対して法然らは、そうした婦女子にも積極的に近づいて、布教を進めていった。こうして、多くの無学な武士階級や一般庶民が、つぎつぎと念仏を唱え始めた。貴族のなかでは関白九条兼実らも帰依し、法然の教義は上下に伸張していったのである。

ために比叡山、興福寺などの旧仏教から嫉視されるようになり、たびたび念仏禁止の上奏がなされた。だが、最初のうちはこの上奏も、いずれも却下され、沙汰やみとなっていた。しかるに建永元年(1206)、法然が74歳の時、彼の弟子で美貌、美声の噂の高い安楽と住蓮が開いた念仏の会合に、後鳥羽院の留守を利用して、数人の女房が出席した。そして、彼女たちが安楽、住蓮と密通したという噂がひろまったのである。これが、院の大きな怒りを呼んでしまった。

年が明けるとともに、法然門下の僧侶は次々と捕えられ、安楽、住蓮の二人は死刑、そのほか法然自身も讃岐に流罪に処されたほか、多くの門弟が島流し、追放をいい渡された。

浄土宗ではこれを法難と称して美化しているが、女性問題、風紀問題で弾圧されたことが、なにが法難か。これを国難を救うためわが身を惜しまず諌暁され、ために三類の強敵を呼び起こした大聖人の法難とくらべるなら、まさに天地雲泥の違いがあるではなか。

法然は道々、遊女や漁師など庶民に布教を続け、承元5年(1211)許されて京都に帰ったが、翌年、80歳で没した。その後嘉禄3年(1227)すなわち、彼の死後15年、延暦寺の僧徒の訴えによって、念仏禁止の勅宣が下され、墓および堂宇は破壊され、遺骸は鴨川に流された。

 

仏教に全く依らない選択集

 

法然は、その生涯において、幾つかの著作を試しみたが、その代表とされるのが「選択本願念仏集」である。彼の構えた邪義は、この一書に集約されており、これが以来七百年間、日本民族を苦しみ続けた念仏の害毒の源である。

この選択集に対する破折は、日蓮大聖人の諸御書で論じられているが、なかでも体系的に完膚なきまでに破折し尽くされたのが「守護国家論」である。今、立正安国論で破折されているのは、ごく大網をとって論じられている。しかし、これだけでもすでに明瞭なごとく、選択集の邪義の拠りどころは、すべて、曇鸞、道綽、善導、慧心僧都の人師の説であって、仏説たる経文に対しては、亳も考察し、依拠としていないのである。

なぜ、仏説を依処としないか、それは、法然が唱えようとしている教義が、経文のどこにも説かれていないからである。すなわち法然の浄土宗とは、仏教とは名ばかりで、内容的には仏教とはなんの関係もない、法然経にすぎない。

およそ仏教と名のる以上は、その主張に誤りのないことが、経文のうえで、証明されるものがなければならない。こういえば、現代科学の帰納法的思考しか知らぬ人々は「それでは発展性がないではないか」と反論するかもしれない。

この反論は、一応は尤もである。だが、東洋哲学の真髄たる仏法は、そうした帰納法とは本質的に違う演繹法に立つものであることを知らなければならない。すなわち、仏の悟り、境地は絶対的なものであって、そこにいっさいの原理があり、源がある。仏の説いた八万四千の法門には、すべてが説き尽くされているのである。このゆえに、仏の金言、仏の予言に反する説は、邪説と断ずることができるのである。これが仏教者の信念であり、鉄則である。

さらに一般的に論じても、もしも仏の説と異なった説を立てる以上は、仏の説のどこに誤りがあるのかを明確にしたうえで立てられるものでなければならない。それをまったく無視して、しかも異説を唱え、そのうえに、ただ独断的に、浄土三部経のみが正しくて、他はすべて誤りであるから捨てよ等というものは、民衆を盲目視し、ばかにしているにもほどがあるといわねばならない。

しかして、そうした根拠のない邪説に、ただ盲目的に従って、低級なる三部経にのみ執着して、最高の法華経をはじめ、仏の経説を捨てる民衆は、愚かといって、なんのいいすぎであろうか。この盲目の民衆をきびしく叱り、めざめさせて正法を教えられたのが日蓮大聖人である。

目をさまし、生気に戻って眼を開いて見るならば、末法衆生の主師親、すなわち御本仏は、日蓮大聖人にほかならないことがわかるのである。その末法御本仏、日蓮大聖人の説かれる成仏得道の大白法こそ、三大秘法の大御本尊である。

ここで、この立正安国論で、特に、本章等において、法然の邪義を責めるにあたり、難行道、聖道門、雑行のなかに法華真言を含めている我見を、特に強調されている所以がある。

 

「実教より之を責むべし」

 

法華真言とは、大聖人御在世当時でいえば、一応は比叡山自体ともいえる。したがって一見、これは、法然の浄土宗を責めて、天台宗に帰依せよと主張されたかのように思われるむきもあろう。

だが、大聖人の御真意が、天台宗のごときでないことは、冒頭の客の質問に、天台宗の祈禱も一向に効き目がないと嘆かせられていることからも明白である。ではなぜ、ここで法華真言と申されたのか。これは、すなわち、権実相対の立ち場で論じられていることを知らなければならない。

如説修行抄にいわく、

「末法の始めの五百年には純円・一実の法華経のみ広宣流布の時なり、此の時は闘諍堅固・白法隠没の時と定めて権実雑乱の砌なり、敵有る時は刀杖弓箭を持つ可し 敵無き時は弓箭兵杖何にかせん、今の時は権教即実教の敵と成るなり、一乗流布の時は権教有つて敵と成りて・まぎらはしくば実教より之を責む可し、是を摂折二門の中には法華経の折伏と申すなり」(0503:13

浄土宗が依経とする阿弥陀経は権教である。わが国においては、伝教大師の出現によって、実教たる法華経の広宣流布が成し遂げられている。しかるに、今になって、浄土宗がひろまったというかとは、権実雑乱以外のなにものでもない。しかも、法然が、法華経を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てというのは、まさに権経即実経の敵となる姿ではないか。

この時には「実教より之を責む可し」なのである。このゆえに権実相対の立ち場から、大聖人は権教たる阿弥陀経に対して、実教たる法華経を立て、権仏たる阿弥陀如来に対して実教たる釈迦如来を立てられたのである。これにより、法華経こそ最高唯一の教なることを知り、さらに法華経の経文のうえから、末法に出現せられた日蓮大聖人こそ、経文に予言せられた末法の御本仏であり、大御本尊以外に幸福になる道はないことを、知りやすくせんがためである。かつ、同じく法華経といい実教といっても、天台仏法の法華経でないことは、観心本尊得意抄に「設い天台伝教の如く法のままありとも今末法に至ては去年の暦の如」(0972:09)等とあることから明瞭である。如説修行抄の「純円・一実の法華経」「一乗流布」というのも、末法流布の三大秘法の謂なのである。

末法の民衆の生命力を増し、絶対的幸福の人生を遊戯せしめる本源こそ、法華経本門寿量品の文底に秘沈された、三大秘法の仏法にほかならない。しかして、これが最も根本的な大良薬なのである。日蓮大聖人の御本意は、あくまでもこの大良薬を服せしめることにあるのであって、天台仏法に帰依せよと仰せられているのでは、毛頭ないことを知るべきであろう。

 

浄土宗教義の成立

 

さて、法然の邪義の所以のさらに深いのは、仏の経説によらず、人師の謬説によっていること、さらに、この人師の説を曲げてしまっているということである。これを明かすため、曇鸞、道綽、善導がどのような謬説を立てそれを法然がどのように邪悪化したかを概要しょう。

 

曇鸞について

 

曇鸞は5世紀末から6世紀にかけて、いわゆる南北朝時代の人で、はじめ四論を学んだがのちに病にかかって長生不死の法を求め、江南に道士、陶弘景をたずねて仙経を得て北に帰った。しかるに、洛陽で菩提留支に会って、その法を聞き、たちまち意を翻して仙教を焼き、もっぱら浄土教に帰依した。魏の帝王の帰依をえて親鸞の名をもらい、并州大厳寺に住み、晩年は石壁山玄中寺に住んだ。

著書に「往生論註」二巻、「略論安楽浄土義」「讃阿弥陀仏偈」などの浄土教に関するものから、「療百病雑方丸」三巻、「論気治療方」一巻といった道教式の医書まである。往生論註は、その代表的著書で、菩提留支が訳した天親菩薩の「優婆提舎願生偈」を、竜樹菩薩の「十住毘婆沙論」の易行品等の所説を取り入れて論じたものである。

竜樹、天親は正法時代に出現した正師で、その所説は権大乗経の流布に本意があり、権大乗のなかで浅深勝劣を明かしたのであった。そこでは、権大乗と実教とは明確に立て分けて論じられていた。曇鸞の「往生論註」も、難行、易行の二道を立て分けたが、あくまでも権大乗の諸経のなかでの論議で、法華経を難行道に入れることはしていない。法華経までも一緒に論じたのは、法然が初めてつくった自分勝手な邪説にほかならないのである。

日蓮大聖人は、これを破折して「守護国家論」に次のように述べられている。「釈迦如来五十年の説教に総じて先き四十二年の意を無量義経に定めて云く「険逕を行くに留難多き故に」と無量義経の已後を定めて云く「大直道を行くに留難無きが故に」と仏自ら難易・勝劣の二道を分ちたまえり、仏より外等覚已下末代の凡師に至るまで自義を以て難易の二道を分ち此の義に背く者は外道魔王の説に同じきか、随つて四依の大士・竜樹菩薩の十住毘婆沙論には法華已前に於て難易の二道を分ち敢て四十余年已後の経に於て難行の義を存せず、其の上若し修し易きを以て易行と定めば法華経の五十展転の行は称名念仏より行じ易きこと百千万億倍なり、若し亦勝を以て易行と定めば分別功徳品に爾前四十余年の八十万億劫の間の檀・戒・忍・進・念仏三昧等先きの五波羅蜜の功徳を以て法華経の一念信解の功徳に比するに一念信解の功徳は念仏三昧等の先きの五波羅蜜に勝るる事百千万億倍なり、難易・勝劣と云い行浅功深と云い観経等の念仏三昧を法華経に比するに難行の中の極難行・劣が中の極劣なり。」(0053:11)と。

このように、難行、易行を論ずるならば、法華経が最も易行であることを、仏みずから定めている。このゆえに、曇鸞ですら、法華経を難行道に含めることをはばかったのである。しかるに法然は、仏説に背き、曇鸞の教えも踏みにじって、法華経を難行道に入れ、これを捨てよ等という、大謗法を犯している。

 

道綽について

 

道綽は六世紀後半、唐代の僧で、生まれたのは曇鸞の死後20年である。したがって、曇鸞・道綽は、直接のつながりはない。玄中寺をたずねた道綽が、その碑文を見て、当時の末法思想に便乗して曇鸞の思想をひろめたのが、その真相である。道綽は、はじめ讃禅師について涅槃学を学んだが、曇鸞の碑文を見て浄土教を立て「安楽集」等を著した。

その所説は、法華経以前の大小乗教について、聖道門、浄土門の二つを分かち、聖道門は千中無一すなわち千人修行しても、一人も成仏できない。浄土三部経のみが百即百生の教説であると主張したのである。

これについても、法然は「私の料簡」として「初に聖道門とは之に就いて二有り、一には大乗・二には小乗なり大乗の中に就て顕密権実等の不同有りと雖も今此の集の意は唯顕大及以び権大を存す故に歴劫迂回の行に当る之に準じて之を思うに応に密大及以び実大をも存すべし」と述べ、理不尽にも、法華経さえも千中無一の聖道門である。と断定している。これまた、仏説をないがしろにする大謗法であり、浄土宗の祖と崇める道綽の本意をすら踏みにじったものであることは、論をまたないであろう。

 

善導について

 

善導も唐代の僧で、生まれたのは山東省とも安微省ともいい、詳らかではない。少年時代、法華経、維摩経を読み習ったが、たまたま仏寺中の西方変相の絵を見て、浄土に生まれようと願いをたて、観無量寿経に専念するようになったという。その後、玄中寺で道綽の教えを受け、また終南山妙真寺、長安の光明寺と転々した。

その修行は、30余年間、寝処を定めず、道を歩くときは目をふせて女性を見ないようにしたとか、日々托鉢し、それを大衆に施した等々という。また、阿弥陀経を書写すること十万巻、浄土の変相三百鋪を描いて、領布し、塔寺の損壊を見れば必ず修復した等々といわれる。こうした姿は、大聖人御在世当時の忍性良観等と同じで、経文の「持律に似像して」云云にあたる。

外面は高徳道綽並びなき名僧のごとくであるが、その教義は、釈尊、天台の正義に反する己義で、人を地獄に突き落とす天魔・外道以外のなにものでもなかった。

著作は「観無量寿経疏」「往生礼讃」「般舟賛」「観念法門」等があり、儀式には音楽的要素を取り入れたのも善導に始まるといわれる。

しかし、高僧という評判は天下に響き、多くの無智の男女が帰依して、阿弥陀経読誦30万遍、日課称名十万遍等という念仏信者も現われ、往生を願って自殺する者が絶えなかった。

善導自身、大勢の信者がその極楽往生の様を見ようと集まってきているなかで、寺の前の柳の木に縄を掛け、首をくくった。しかるに、前にも述べたように、枝が折れるか縄がきれるかして、善導は地面に落ち、背の骨を折って七日七夜、苦しみ悶えて息絶えていったのである。このように、善導は、みずから念仏者の極楽往生はウソであり、むしろその末路は、無間地獄に堕ちることを証明したのである。

善導の教えは、釈尊の教えに反して極楽往生を理想とし、40余年末顕真実の権教に執した点で、あくまで邪教であった。しかし「往生礼讃」の正行・雑行の立て分けは、ひとえに摂論宗を破るための所判であって、法華経を雑行に入れる意図は毛頭なかった。これを勝手に作り変えて、法華経を雑行に含め、天台等を群賊にいれたのも法然である。現身に堕地獄の相を示した善導以上に、法然の受ける罪報は大きいことを知らなければならない。

曇鸞、道綽、善導ともに、その説は、所詮、仏の真意たる法華経に反する邪説であった。しかし、法華経をもって、捨てよ等という決定的な謗法ではなかった。このゆえに、守護国家論に大聖人は「多分は本論の意に違わず」と申されているのである。

 

慧心僧都について

 

法然が浄土信仰に転ずる動機となったのが慧心の「往生要集」である。慧心は、比叡山第18代座主慧恵大師の弟子で、教相を重んずる檀那流に対して、観心を重んずる慧心流を立てた学僧である。「往生要集」は表面的に見れば浄土宗を宣揚しているようであるが、その大文第十の問答料簡の中の第七、諸行勝劣の念仏と法華経の一念信解の功徳を比べて、一念信解の方が念仏三昧より百千万億倍勝ると結論している。

すなわち、「往生要集」は法華経がいかに勝れているかを説くために著したものである。だが、これには、なお念仏的な臭さが残っており、それに気づいた慧心は、権少僧都の職を辞任してまで、前非を悔い、さらに「一乗要訣」を著わして、法華最勝の義を鮮明に論じているのである。

これを法然が読みきれず、単に浄土宣揚の書と受け取ったのは、法然がいかに無智であり、浅学であったかを証明するものといわざるをえない。あるいは、己義を荘厳するために、都合のよい所だけをとったのであろうか。

しかし、以上は、与えて論じたのであって、奪って論ずれば、慧心が法然の邪義の淵源になったことは事実である。撰時抄には、慧心を師子身中の虫と断じられている。「法然が念仏宗のはやりて一国を失わんとする因縁は慧心の往生要集の序よりはじまれり、師子の身の中の虫の師子を食うと仏の記し給うはまことなるかなや」(0280:04)と。

また、同じく撰時抄に「日蓮は真言・禅宗・浄土等の元祖を三虫となづく、又天台宗の慈覚・安然・慧心等は法華経・伝教大師の師子の身の中の三虫なり」(0286:13)と。

現代においても、学者のなかには、法然をもって、あたかも中世日本の生んだすぐれた思想家であるかのごとく論ずる人が少なくない。だが、法然の思想が、どのようにして組み立てられているかを、厳密に研究するならば、およそ思想、哲学とはいえない、飛躍であり独断であり、邪説であることがわかるはずである。

また、法然をもって宗教的改革者であるとする人々もある。これも、法然が晩年の元久元年(1204)弟子がふえて、叡山の衆徒が専修念仏の禁止を天台座主に要求したとき、弾圧を避けるため、他宗の悪口をいってはならない等の七箇条の禁制を定め、師弟190人が連署して天台座主に出している。その内容は

一、阿弥陀仏以外の仏菩薩を謗らない。

二、他教の人と好んで論争しない。

三、他教の人にその信仰を捨てさせない。

四、念仏門では無戒と称して婬酒食肉を勧めたりしない。

五、勝手に自分の教義を立てて人と争ったりしない。

六、唱導で無智の人々を教化しない。

七、誤った教えを偽って師範の説としない。

の七箇条である。しかし、すでに膨大化し、突っ走り始めた狂騒の民衆は、法然の手にも負えなくなってしまい、ついに朝廷による念仏一門禁圧を招いたのである。

いっさいの宗派を邪義なりと断じ、経証を引いて、哲学的に論証し、謗法の者を即刻断絶せよと、師子王のごとく叫ばれた日蓮大聖人と比べれば、まさに天地雲泥の違いがあるではないか。ここに、われわれは、正義と邪義、仏と魔との本質的な相違を見ることができるのである。

 

 

 

第三章 (法然の謗法を断ず)

之に就いて之を見るに、曇鸞・道綽・善導の謬釈を引いて、聖道・浄土、難行・易行の旨を建て、法華・真言惣じて一代の大乗、六百三十七部・二千八百八十三巻、一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て、皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て、或は閉じ、或は閣き、或は抛つ。此の四字を以て、多く一切を迷わし、剰え三国の聖僧、十方の仏弟を以て、皆群賊と号し、併せて罵詈せしむ。近くは所依の浄土三部経の「唯除五逆誹謗正法」の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の「若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば、乃至其の人命終して、阿鼻獄に入らん」の誡文に迷う者なり。

 

現代語訳

この法然の選択集をみると、念仏の祖である中国の曇鸞・道綽・善導の誤った釈を引いて、聖道と浄土、難行と易行の旨を立て、法華真言をはじめ、総じて釈尊一代の大乗経六百三十七部二千八百八十三巻のいっさいの経文と、いっさいの諸仏菩薩および諸天善神等を信仰することを、みな聖道門、難行、雑行等に入れてしまって、あるいは捨てよ、あるいは閉じよ、あるいは閣け、あるいは抛ての四字をもって一切衆生を迷わしている。そのうえにインド、中国、日本の三国の聖僧や十方の仏弟子をもって、みな群賊といい、念仏の修行を妨げるものであるとして、これらの聖僧に悪口をあびせかけている。

このことは、近くは、彼等が依経としている、浄土の三部経のなかに説かれている、法蔵比丘四十八願中の第十八願に「念仏を称えていけばかならず極楽浄土に往生できるが、ただ五逆罪の者と正法を誹謗する者を除く」との誓文にそむき、遠くは釈尊一代五時の説法のうち、その肝心である法華経の第二巻・譬喩品第三の「もし人がこの法華経を信じないで毀謗するならば、その人は命終わってのち阿鼻地獄に入るであろう」との釈尊の戒文に迷うものである。

 

語釈

法華・真言

比叡山天台宗は、慈覚以後、真言の邪法に犯されて、法華と真言の混血のようになっていた。そして、比叡山は迹門戒壇建立の地であり、過去のものとはいえ、仏教界の中心であることに変わりはなかった。権実相対の立場から、権教たる浄土宗が、実教たる天台宗に叛き、これをないがしろにしていることをもって、謗法なりと断じられているのである。

 

阿鼻獄

八大地獄の一つ、阿鼻地獄。阿鼻は梵語アヴィーチ(Avīci)の音写で、訳して無間という。苦を受けるのが間断ないことから、無間地獄ともいう。周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれているところから阿鼻大城、無間大城ともいわれる。大焦熱地獄の下、欲界の最低部にあるとされ、八大地獄の他の七つよりも一千倍も苦が大きいという。五逆罪、正法誹謗の者が堕ちるとされる。

 

講義

前章に法然の選択集を長く引いたのに対し、本章では経文の中の文証を引いて、これを破折されたのである。

はじめに「曇鸞・道綽・善導の謬釈」とあるが、これはいま奪って論じたものであって、前章の講義のなかに引いた守護国家論のなかにある文証になんら違するものではない。前章においては、法然の邪義からみるならば、中国の三師の釈は「多分は本論の意に違わず」と述べられたもので、これは与えて論じたものである。

同様の例として、当世念仏者無間地獄事にいわく「浄土の三師に於ては書釈を見るに難行・雑行・聖道の中に法華経を入れたる意粗之有り。然りと雖も法然が如き放言の事之無し」(0109:14)と。これは与えて論じたものである。同じ御書に奪って論じて、次のごとくおおせである。「三師並に法然此の義を弁えずして諸行の中に法華・涅槃並に一代を摂して末代に於て之を行ぜん者は千中無一と定むるは近くは依経に背き遠くは仏意に違う者なり」(010906)と。

なぜ与えて論ずるかといえば、法然の邪義に比べれば、三師の邪義など物の数ではないという立場から法然の悪を強く指摘するためであり、再往奪って論ずるのは、法然の邪義は、三師の邪義のうえに形成されたものであり、三師の邪義をあげ、さらに法然の邪義のいかに謗法きわまりなきものであるかを強く示されるのである。ともに法然の邪義に焦点を向けられるためである。

 

法然こそ誹謗正法の張本人

 

まことに法然こそ、中国の三師の誤った解釈にさらに輪をかけて、法華経をはじめとする釈尊一代の聖教を、浄土の三部経を除いては聖道門、難行道、雑行としてしまい、一切経を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと「捨閉閣抛」の四字をもって上下万民を迷わした張本人なのである。

そのうえ、法然は法華経等を正しく伝えた聖僧、および十方の仏の弟子を群賊とし、自己の邪義のうえに、さらに聖僧罵詈の罪を犯した。

こうした法然の邪義に対し、日蓮大聖人は、彼らの依経としている弥陀の三部経のなかからと、法華経の経文から、二つの文証を引いて破折を加えられたのである。まず、彼らが依経としている三部経の一節「唯五逆誹謗正法を除く」の経文であるが、これは大無量寿経のなかに法蔵比丘の四十八願の第十八願として「設い我仏を得んに十方衆生至心に信楽して我が国に生れんと欲せば乃至十念せよ。若し生ぜずんば正覚を取らじ。唯五逆と誹謗正法とを除く」と説かれている。

この法蔵比丘の四十八願について、少しく説明を加えるならば、過去無数劫に然燈仏等の五十三仏があらわれたのち、世自在王如来が出現し、民衆を教化した。そのとき一人の国王がその仏の説法を聞いて随喜し、菩提心を起こし、ついに国位を捨てて僧侶となり、法蔵比丘といった。そして菩薩道を行じて、自分の仏国土を荘厳しようと願い、世自在王仏に、これまでもろもろの仏たちは、どのように浄土を荘厳したかを教えてくださいと頼んだ。そこで世自在王仏は二百一十億の諸仏の先例を説いた。法蔵比丘は五劫の間仏の国土の荘厳、清浄の行を思索し、選択して、かの仏のもとへ行き、自分の国土を荘厳し、浄化する誓願として四十八願を立てた、というのである。

その第十八願が先の経文であり、その仏国土は、娑婆世界から西方へ十万億仏国を過ぎたところにあるとも説かれている。これが、念仏宗で説く極楽浄土であり、このことから、彼らは、この世の中は穢土で、死んでのち西方の極楽浄土へ往生すると説いているのである。

ところが、彼らが念仏を称えると、極楽往生できるという唯一の依処たる法蔵比丘の第十八願のなかに、明確に「唯五逆と誹謗正法を除く」と示されているのである。いうまでもなく、彼らの依経としている三部経は釈尊が「四十余年未顕真実」といって説かれた爾前経であるが、これをかりに正しいものとして認めたとしても、念仏を称えた人が、百人が百人、かならずしも極楽浄土へ行かれないということが、法蔵比丘の四十八願のなかにはっきりとしているのである。

つまり、五逆罪を犯したものと、正法を誹謗したものは、いかに阿弥陀を念じようとも、極楽浄土へ生ずることはできないのである。そのことは、ほかでもない彼らの依経のなかに明示されているところである。それにもかかわらず、その断わっているところを隠し、だれもが西方浄土へ行けるようにいいふらしたのは、いかなるわけか。そこに自分につごうの悪いところはおおい隠して、つごうのよいところだけを利用するという、奸智にたけた悪侶の姿を見いだすのである。

さらに、日蓮大聖人は第二番目として、奪った立場から法華経譬喩品の一節「若し人は信ぜずして、此の経を毀謗せば、乃至其の人は命終して、阿鼻獄に入らん」をもって、破折されている。

まず、ここで引かれた譬喩品の文の省略部分を加えてみると「若し人は信ぜずして此の経を毀謗せば則ち一切世間の仏種を断ぜん、或は復た顰蹙して疑惑を懐かん、汝は当に此の人の罪報を説くを聴くべし。若しは仏の在世若しは滅度の後に其れ斯の如き経典を誹謗すること有らん、経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賤憎嫉して結恨を懐かん。此の人の罪報を汝今復た聴け、其の人は命終して阿鼻獄に入らん」とあり、以下に正法を誹謗したときの苦悩、悲惨のありさまが、詳しく説かれている。

これらの点については、すでに詳述したとおりであり、そのどれを取り上げても、誹謗正法がいかに恐ろしいことであるかを示されているのである。

日蓮大聖人は、念仏無間地獄の姿を善導、法然等の開祖の臨終のときのようすから、次のように教えられている。すなわち、当世念仏者無間地獄抄にいわく。

「而るに汝等が本師と仰ぐ所の善導和尚は、此の文を受けて転教口称とは云えども、狂乱往生とは云わず。其の上汝等が昼夜十二時に祈る所の願文に云く、願くは弟子等命終の時に臨んで心顚倒せず、心錯乱せず、心失念せず、身心諸の苦痛無く身心快楽禅定に入るが如し等云云。此の中に錯乱とは狂乱か。

而るに十悪五逆を作らざる当世の念仏の上人達並に大檀那等の臨終の悪瘡等の諸の悪重病並に臨終の狂乱は意を得ざる事なり。而るに善導和尚の十即十生と定め、又定得往生等の釈の如きは疑無きの処に、十人に九人往生すと雖も、一人往生せざれば猶不審発る可し。何に況や念仏宗の長者為る善慧・隆観・聖光・薩生・南無・真光等・皆悪瘡等の重病を受けて臨終に狂乱して死するの由、之を聞き又之を知る。其の已下の念仏者の臨終の狂乱其の数を知らず」(0105:14)と。

このように、念仏者の臨終の姿は、一様に悲惨そのものである。これこそ無間地獄に堕ち行く姿でなくてなんであろうか。前章でも詳しくみたとおり、狂乱のあまり、庭先の柳によじ登り、大地に落ちて七日間地獄の苦しみのうちに死に絶えた善導、死後、勅により墓をあばかれ鴨川に捨てられた法然、それにつづく善慧・隆観・聖光・薩生・南無・真光等の高位の弟子がいずれも悪瘡の重病で、狂乱のまま息絶えていったる事実は、まさしく経文の「命終して、阿鼻獄に入らん」との姿そのものではないか。

立宗の開祖、宗祖が、そのような状態であるから、弟子、檀那にいたってもけっして例外ではないはずである。

「大檀那等の臨終の悪瘡等の諸の悪重病並に臨終の狂乱は意を得ざる事なり」とは、このことをおおせられたものであり、「浄土門に入つて師の跡を踏む可くば、臨終の時善導が如く自害有る可きか。念仏者として頸をくくらずんば、師に背く咎有る可きか如何」(0100:03)との大聖人の破折に、念仏者はいったいなんと答えるのであろうか。

法然の死後、その残した邪義、害毒のゆえに、どれほどの人が不幸のどん底におとされたことか。念仏を強盛に信仰していけばいくほど、その一家が悲惨となっていく、その姿こそ法然の立てた教義が、まったくの邪義であることのなによりの証拠である。日蓮大聖人が四箇格言のなかで「念仏無間地獄」と一言のもとに破折されたごとく、正法に逆らって念仏に執着するものがあれば、いかなる人といえども、かならず不幸、悲惨の日々をすごさなければならないのである。

七百年前、国民のほとんどを帰依させるまでに隆盛を極めた念仏宗も、今日では、宗教の力を失って、ただ巨大な伽藍によっているにすぎない。念仏がかくまで没落し、国民の大半から見放された状態となってしまったのも、しょせんはその教義が低級、幼稚なためであり、低級なる思想、宗教はかならず没落していくとの明確な証明である。

さらに敷衍して、この法華経の文を考えるならば、法然の念仏にかぎらず、末法の法華経たる御本尊を誹謗するいっさいの者は、みな堕地獄疑いなき者である。

日蓮大聖人ご在世の当時、大聖人に敵対したものに例をとるならば、この定理は一分の狂いもなくあてはまっている。聖人御難事には、次のごとく法罰の現証を述べられている。

「大田の親昌・長崎次郎兵衛の尉時綱・大進房が落馬等は、法華経の罰のあらわるるか。罰は総罰・別罰・顕罰・冥罰、四候。日本国の大疫病と大けかちとどしうちと他国よりせめらるるは総ばちなり、やくびやうは冥罰なり。大田等は現罰なり、別ばちなり」(1190:05)。

ここに大田親昌、長崎次郎兵衛尉時綱、大進房等は、熱原の法難のさい、日蓮大聖人の一門を迫害した連中であり、厳然と罰があらわれ、落馬し、悶絶し、死んでいったのである。

また、大聖人のご在世中をとおして、大聖人をはじめ、その門下にもっとも激しい弾圧を加えたのは、時の権力者、平左衛門尉頼綱であった。この平頼綱は、大聖人ご在世中、鎌倉幕府のなかにあって、軍事、警察を一手に握る地位につき、文永8年(1274912日の竜口の法難、つづく佐渡流罪と、数々の法難のうちでも、もっとも大規模に、また冷酷に大聖人をはじめ、その門下を弾圧した張本人である。また弘安2年(1279)の熱原の法難も、その最高責任者は同じく平頼綱であった。

だが、そうした弾圧当時には、頼綱にも、またその周辺にもなんの不幸もなかった。むしろ大聖人ご入滅後三年たった弘安8年(128511月には、幕府内にあって勢力を競い合っていた安達泰盛一派を討って、北条氏のもとにおける地位は盤石のものとなった。この争いは一般に霜月騒動とよばれているが、この騒動後の頼綱の地位は、まさに旭日の勢いで、執権の北条氏をしのぐとさえいわれたほどであったが、彼の行った政治は恐るべき専権と恐怖の政治であった。

頼綱の子・平宗綱、飯沼判官助宗、弟の長崎光綱らがにわかに権力を握って、中央に進出してきた。霜月騒動後、その恐怖政治は約八年間つづいた。頼綱の権力はとどまるところを知らず、執権貞時もようやく、身辺に不安をおぼえ始めた。永仁元年(1293413日、鎌倉では大地震が起こり、将軍の邸宅をはじめ建長寺など諸寺が顚倒焼失し、死者は二万余人におよんだ。

「保暦間記」の伝えるところによると、嫡子の宗綱が「父・頼綱は弟の飯沼判官助宗を将軍にしようと企んでいる」と執権貞時に密告したという。頼綱にこの陰謀があったかどうかはわからないが、執権をしのぐ権勢をもっていたことは確からしい。永仁元年(1293422日、ついに執権貞時も腰をあげ、討手を差し向けて、頼綱の館を急襲、頼綱と助宗は自害、長男・宗綱は佐渡へ流罪、以下一族郎党はすべて逮捕された。かの熱原法難から数えて、ちょうど14年後、大聖人滅後11年目の出来事である。

仏法はどこまでも峻厳なる因果の理法であり、その哲理にあてはめていったときには、いささかの例外もない。信ずるものには、偉大なる功徳があり、ゆえなく誹謗するものには厳然たる罰があるのである。

では、正法を誹謗するという、その〝正法〟とは何か。南無妙法蓮華経であることはいうまでもないことだが、しょせんそれは、わが生命の究極の当体にほかならない。いいかえると、正法を誹謗するということは、自分の外にある何かを誹謗しているのではなく、自己自身の生命の奥底にあるものを、自らけなし、踏みにじり、傷つけ、破壊していることになるのである。

ゆえに、正法誹謗の罰といっても、仏があてるなどというものではけっしてなく、自己の一念の因果によって、わが生命で実感するものなのである。

されば、聖人御難事にいわく「過去現在の末法の法華経の行者を軽賎する王臣万民、始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」(1190:02)と。

撰時抄にいわく「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり。此れをそしり此れをあだむ人を結構せん人は。閻浮第一の大難にあうべし」(0266:11)と。

今後とも、われわれの行く手には、数々の障魔が立ちはだかるであろう。だが、かならずや仏の軍勢は魔の軍勢に勝つとの大確信をもって、勇敢に進んでいこうではないか。

 

 

 

第四章 (選択集の謗法を結す)

 是に於て代末代に及び、人、聖人に非ず。各冥衢に容つて、並びに直道を忘る。悲しいかな瞳矇を拊たず、痛ましいかな徒に邪信を催す。故に上国王より下土民に至るまで、皆経は浄土三部の外に経無く、仏は弥陀三尊の外に仏無しと謂えり。

  仍って伝教・義真・慈覚・智証等、或は万里の波涛を渉つて渡せし所の聖教、或は一の山川を廻って崇むる所の仏像、若しくは高山の巓に華界を建てて、以て安置し、若しくは深谷の底に蓮宮を起てて、以て崇重す。釈迦・薬師の光を並ぶるや、威を現当に施し、虚空・地蔵の化を成すや、益を生後に被らしむ。故に国王は郡郷を寄せて、以て灯燭を明らかにし、地頭は田園を充てて、以て供養に備う。

  而るを法然の選択に依つて、則ち教主を忘れて西土の仏駄を貴び、付属を抛って東方の如来を閣き、唯四巻三部の教典を専らにして、空しく一代五時の妙典を抛つ。是を以て、弥陀の堂に非ざれば、皆供仏の志を止め、念仏の者に非ざれば、早く施僧の懐いを忘る。故に仏堂零落して、瓦松の煙老い、僧房荒廃して、庭草の露深し。然りと雖も、各護惜の心を捨てて、並びに建立の思を廃す。是を以て住持の聖僧、行いて帰らず、守護の善神、去つて来ること無し。是れ偏に法然の選択に依るなり。悲しいかな、数十年の間、百千万の人、魔縁に蕩かされて、多く仏教に迷えり。傍を好んで正を忘る、善神怒を為さざらんや。円を捨てて偏を好む、悪鬼便りを得ざらんや。如かず、彼の万祈を修せんよりは、此の一凶を禁ぜんには。

 

現代語訳

この法然の邪義に対して、いまはすでに末代であり、人びとは凡愚で、聖人のごとく法の邪正をわきまえることができない。ゆえに、僧も俗も、みな迷いの暗い道に入って成仏への直道を忘れてしまっている。また悲しむべきことには、だれ一人としてこの謗法を責める者がいない。痛ましいことには、いたずらに邪信を増すばかりである。

それゆえ、上は国王から、下は万民に至るまで、皆、経といえば、浄土の三部経以外にはなく、仏といえば、阿弥陀仏と、その脇士である観音菩薩と勢至菩薩の三尊以外にはないと思っている。

しかしながら、一方、伝教、義真、慈覚、智証等が、あるいは万里の波涛を渡ってもたらした経典や、あるいは中国の各地をめぐってあがめた仏像は、あるいは、高山の頂きに仏堂を建てて安置し、あるいは深谷の底に僧坊を立てて安置し、崇重してきた。

しかして、叡山の西塔に安置された釈迦如来、あるいは東塔止観院・根本中堂に安置された薬師如来は、光を並べて威光を現当二世におよぼし、同じく横川般若谷に安置された虚空蔵菩薩、また戒心谷に祀られた地蔵菩薩も、ともに、いよいよ利益を今生と後生に施して、万民の崇拝するところであった。ゆえに、国主は一郡、一郷を寄進して燈明料とし、地頭は田畠荘園を寄進して供養した。

かくのごとく、比叡山の法華経を中心とする天台宗は、隆盛を極めたのであった。

しかるに、法然の選択集によって、情勢は一変した。すなわち、教主釈尊を忘れて西方の阿弥陀如来を尊び、釈尊の付嘱をなげうって天台、伝教の建立した東方、薬師如来を閣き、ただ四巻三部の浄土宗の依経をもっぱら信仰して、釈尊一代五時の聖教をむなしく抛ってしまった。このゆえに、阿弥陀如来の堂でなければ、仏を供養しようとの志を捨て、念仏の僧でなければ、いっさいの布施をしなくなってしまった。ために、仏閣は落ちぶれて、屋根は苔が生えて松のごときながめとなり、立ちのぼる煙も細々と、僧坊も荒廃して生い茂る庭草の露が深い。しかしながら、そのような状態になっても、人びとは法を護り惜しむ心を捨て、これを建立しようとの思いもなくなってしまった。

このゆえに、寺を住持する聖僧は去って帰らず、守護の善神も去ったまま二度と帰ってこない。これもひとえに法然の著した選択集によって起きた災いである。悲しいことには、数十年のあいだに、百千万の人が法然の魔縁に蕩かされて、多く仏法に迷ってしまった。傍の念仏を好んで、正の法華を捨てるならば、どうして善神が怒らないわけがあろうか。円教である法華経を捨てて、偏頗な念仏を好んで、どうして悪鬼が便りを得ないでいようか。災難を根絶するには、かの千万の祈りを修するよりは、この一凶である法然の謗法を禁じなければならないのである。

 

語釈

冥衢

「冥」は光がない。くらい。「衢」はちまた。分かれ道。辻。すなわち冥衢とは、暗い道の意。正しい道を見失い、暗い道に迷いこんだ姿に譬えている。

 

瞳矇を拊たず

「瞳」は瞳子で、ひとみ。「矇」は矇昧で、あきらかならざること。すなわち瞳矇とは、事理に暗いこと。拊つとは、うつ、軽くたたく、なでる。瞳矇を拊つとは、衆生が邪師にまどわされて暗い道に入りこんでいるのを、目を見開かせること。

 

伝教

日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江滋賀郡に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦四年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。31歳にして内供奉十禅師に列せられ、36歳にして和気清麻呂の子、広世・真綱に招かれて初めて山を下り、京都高雄山寺において法華三大部の講義を行い、南都の諸大徳も列席し称賛したという。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生 の勅許が下り、訳語僧の義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続けた。弘仁13年(082264日、比叡山中道院において入寂す。ときに寿56歳であった。没後七日目に大乗戒壇建立が聴許され、冬11月、嵯峨天皇は「哭澄上人」の六韻詩を賜った。翌年、義真によって初めて大乗戒の受戒が行われ、延暦寺の寺号を賜った。貞観八年(0866)清和天皇から伝教大師の諡号が贈られたのは、円仁の慈覚大師号とともに、日本における僧侶の諡号の最初であった。著書に「法華秀句」三巻、「顕戒論」三巻、「守護国界章」三巻、「山家学生式」一巻等がある。

 

義真

平安時代初期の天台宗の僧。比叡山延暦寺の初代座主。伝教大師最澄の弟子で、伝教大師の通訳として共に唐に渡った。伝教大師の没後、延暦寺の運営を担い、天長元年(0824)に初代天台座主となった。修禅大師と称される。嵯峨天皇に奉った「天台法華宗義集」一巻を撰した。日蓮大聖人は報恩抄に「義真・円澄は第一第二の座主なり第一の義真計り伝教大師に・にたり、第二の円澄は半は伝教の御弟子・半は弘法の弟子なり」(0310:14、報恩抄)と説かれている。

 

慈覚

平安初期の天台宗の僧。第三代天台座主。諱は円仁。伝教大師最澄に師事したのち唐に渡る。蘇悉地経など最新の密教を日本にもたらし、天台宗の密教を真言宗に匹敵するものとした。法華経と密教は理において同じだが事相においては密教が勝るという「理同事勝」の説に立った。また、五台山の念仏三昧を始めたことで、これが後の比叡山における浄土信仰の起源となった。日蓮大聖人は、円珍とともに伝教大師の正しい法義を破壊し人々を惑わせた悪師として厳しく破折されている。報恩抄に「第三の慈覚大師は始めは伝教大師の御弟子に・にたり、御年四十にて漢土に・わたりてより名は伝教の御弟子・其の跡をば・つがせ給えども法門は全く御弟子にはあらず、而れども円頓の戒計りは又御弟子ににたり蝙蝠鳥のごとし鳥にもあらず・ねずみにもあらず梟鳥禽・破鏡獣のごとし、法華経の父を食らい持者の母をかめるなり日をいるとゆめに・みしこれなり」と説かれている。主著に「金剛頂経疏」「蘇悉地経疏」など。唐滞在を記録した「入唐求法巡礼行記」は有名。

 

智証

平安初期の天台宗の僧。第五代天台座主。諱は円珍。空海の甥。唐に渡って密教を学び、円仁が進めた天台宗の密教化をさらに推進した。密教が理法・事相ともに法華経に勝るという「理事俱勝」の立場に立った。このことを日蓮大聖人は「報恩抄」などで、先師・伝教大師最澄に背く過ちとして糾弾されている。主著に「大日経指帰」「授決集」「法華論記」など。円珍の後、日本天台宗は円仁門下と円珍門下との対立が深まり、十世紀末に分裂し、それぞれ山門派、寺門派と呼ばれる。

 

華界・蓮宮

ともに僧院・仏堂のこと。

 

瓦松の煙老い

「瓦松」は、建物が古くなって修繕する人もなく、屋根の瓦に苔が生えて、遠くから見ると、あたかも松のように見えるのを表現した言葉。「煙老い」とは、そこから立ちのぼるかまどの煙も、ほそぼそとして活気がなく、零落しているありさま。

 

講義

前章で、法然の選択集を経文によって破折されたのに引きつづいて、本章では、浄土宗の隆昌が、天台仏法を衰亡させ、仏教の正統学派の流れを濁乱させて、亡国の根源となっていることを指摘されている。

本章末尾の「如かず、彼の万祈を修せんよりは、此の一凶を禁ぜんには」と、三災七難の元凶は、法然の邪義にあり、これを禁ずることが災難対治の要諦であるとの大師子吼である。当時の国の上下をあげての念仏信仰を思うならば、このように叫ばれる大聖人に、大迫害が嵐のごとく襲いかかることは火を見るより明らかであった。

はたせるかな大聖人は、この年の827日には、嫉妬した念仏僧たちにそそのかされた民衆によって、松葉ケ谷の草庵を襲撃、破壊された。ついで、翌弘長元年(1261512日には伊豆へ流罪にされている。その後も、小松原の法難、竜口の頸の座、佐渡流罪等々、数多くの大難にあわれた。そのすべての淵源は、このご断言にあったのである。だが、大聖人は一歩も退かれてはいない。

まえに述べたように、法然のごときは、選択集で、浄土三部経以外のいっさいの経を閉じよ、阿弥陀如来以外のいっさいの仏を捨てよ等と論じながら、叡山の衆徒が念仏禁止を陳情しただけで、たちまち師弟190人で自戒を申し合わせているのである。

日蓮大聖人が、その何倍も恐るべき権力を敵に回しながら、生涯、正義を叫びぬかれたということは、深い深い心の奥底から発せられた叫びであることを知らなければなるまい。すなわち、この大聖人の教えを聞かなければ、現世には国を滅ぼし、民衆は未来永劫に阿鼻の炎にむせぶこととなる。それを救うために、大聖人は自らのご生命を投げ出されたのである。

民衆を幸せにするのは、自分以外にないとの強い責任感は主の徳である。邪法の迷いから覚めさせ、正道を教えんとの偉大なる智慧は師の徳である。しかして、全民衆を子のごとく憐れみ、それを救うために身命を投げ出される大慈悲は親の徳である。この主師親の三徳こそ、御本仏であらせられることの証明である。「如かず、彼の万祈を修せんよりは、此の一凶を禁ぜんには」の一句のなかに、もったいなくも、主師親の三徳を具備された御本仏の境地を拝することができるのである。

佐渡御書にいわく「日蓮は此関東の御一門の棟梁なり、日月なり、亀鏡なり、眼目なり。日蓮捨て去る時、七難必ず起るべし……日蓮当世には此御一門の父母なり」(0957:18)と。

此関東の御一門とは、時の為政者たる北条一族であり、その棟梁であるとは、全日本民衆の主君なりとのご断言である。日月、亀鏡、眼目は、いっさいを映し、正邪を明らかにするがゆえに、師の徳である。そして父母であるとも仰せられているのである。この主師親三徳具備の日蓮大聖人によらなければ、三災七難を避けることはできないとのお言葉である。

 

是に於て代末代に及び、人、聖人に非ず

 

すでに時代は末法にはいり、人は仏法の正邪の分別のつかない愚かな衆生が充満し、いたずらに邪法に迷っていると嘆かれているのである。

ここで末法ということについて考えてみたい。大聖人は減劫御書に、人間が進歩するにつれて、悪の智慧が勝ってくることを指摘され、それに対して、いかなる仏法が救いの手をさしのべてきたかを述べられている。しかして、末法について「今の代は外経も、小乗経も、大乗経も、一乗法華経等も、かなわぬよとなれり。ゆえいかんとなれば、衆生の貪・瞋・癡の心のかしこきこと、大覚世尊の大善にかしこきがごとし。譬へば犬は鼻のかしこき事人にすぎたり。又鼻の禽獣をかぐことは、大聖の鼻通にもをとらず。ふくろうがみみのかしこき、とびの眼のかしこき、すずめの舌のかろき、りうの身のかしこき、皆かしこき人にもすぐれて候。そのやうに末代濁世の心の貪欲・瞋恚・愚癡のかしこさは、いかなる賢人・聖人も治めがたき事なり。其の故は貪欲をば仏不浄観の薬をもて治し、瞋恚をば慈悲観をもて治し、愚癡をば十二因縁観をもてこそ治し給うに、いまは此の法門をとひて、人ををとして貪欲・瞋恚・愚癡をますなり」(1465:11)と述べられている。

まことに、現代の人間像を、あますところなく述べられているではないか。宗教界において、仏が衆生を救済するために説いた仏法は、歪められ、方便の教は実教の哲理で荘厳され、ことごとく人を悪道に突き落とす邪教とされてしまった。自然科学においては、人類の幸福を増進すると期待された原子力の発見も、大量殺人の凶器として利用されている。思想界において、虐げられた無産階級を解放するはずのマルキシズムは、民衆の自由を抑圧する結果とさえなっている。

これらは一例にすぎない。将来、われわれは、善の智慧によって、すべてを人間の幸福を増すものに変えていかなければならない。しかして、悪の智慧を打ち破るためには、善の大智が必要である。

同じく減劫御書にいわく「しかれば代のをさまらん事は、大覚世尊の智慧のごとくなる智人世に有りて、仙予国王のごとくなる賢王とよりあひて、一向に善根をとどめ、大悪をもつて八宗の智人とをもうものを、或はせめ、或はながし、或はせをとどめ、或は頭をはねてこそ代はすこしをさまるべきにて候へ。法華経の第一の巻の『諸法実相乃至唯仏と仏と乃ち能く究尽し給う』ととかれて候はこれなり。本末究竟と申すは本とは悪のね善の根、末と申すは悪のをわり善の終りぞかし。善悪の根本枝葉をさとり極めたるを仏とは申すなり」(1466:07)と。

すなわち、仏の智慧たる南無妙法蓮華経の大法をもって、はじめて、末法衆生の貪・瞋・癡の悪を破ることができるのである。また、同時に、この仏法の体を改めることによって、世間の影はしぜんと改まるのである。天台いわく「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」(1466:13)と。大聖人いわく「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲れば影ななめなり」(0992:14、諸経と法華経と難易の事)と。

科学の問題も、思想、社会、政治、経済、芸術等の問題も、その歪みを是正し、真に民衆の幸福のために生かしていく秘訣はここにあるといっても過言ではない。ゆえに、妙法の広宣流布こそ、いっさいの文化を本来の文化たらしめる源泉なりと主張するのである。

 

末法の意味

 

さて、ここで、末法ということについて考察すると、どうなるか。いうまでもなく、末法とは「末の法」の意ではなく、「仏法の功力が消滅し、穏没する時」のことである。しかして、ここでいう仏法とは、釈尊の仏法をさすのである。

しかし、こういうと仏法の知識のない人は、さまざまな疑問を生ずるにちがいない。釈迦仏法とは何か……。仏法は釈尊が説いたもので他に何があるのか……。功力がなくなるとはどういうことか……等々。

およそ、仏法は仏の説いた教えであるが、その仏には三世十方の仏といって、数えきれないほどたくさんの仏がある。その仏の一人ひとりが、それぞれの法を説くのである。釈迦仏の法は法華経二十八品であり、日蓮大聖人の法は三大秘法の南無妙法蓮華経である。また、法華経には、過去威音王仏の像法の代に不軽菩薩が現れて、二十四文字の法華経を説いたと説かれている。

正法とは、仏に深い縁のある衆生が生まれてくる時代で、したがって、法は正しく、浄らかに伝えられていく。像法にはいると、生まれてくる衆生の機縁は劣り、仏法は形式に流れていく。末法になると、生まれてくる衆生はその仏とはまったく縁がなく、仏法は名ばかりで、まじめに修行する人もないし、救う力もなくなるのである。

だが、仏は三世を通観して誤りがない。釈尊は、自らの法の将来を予言し、大集経にいわく「我が滅後に於て五百年の中は解脱堅固・次の五百年は禅定堅固以上千年、次の五百年は読誦多聞堅固・次の五百年は多造搭寺堅固以上二千年、次の五百年は我が法の中に於いて闘諍言訟して白法隠没せん」(1037:04、曾谷入道等許御書)と。

はじめの千年間を、釈尊の仏法によって民衆が解脱し、禅定を得るゆえに正法といい、次の千年を読誦多聞、多造搭寺の形式が盛んなるがゆえに像法という。そして、最後の第五の五百歳は仏法穏没のゆえに末法というのである。

このように、末法の時代とは、釈尊の仏法が隠没する時代であるが、同時に、法華経の文底に秘沈された大仏法が出現し、流布する時代でもある。法華経涌出品で、上行菩薩を上首とする六万恒沙の本化の菩薩が出現し、神力品で大法流布の付嘱を受けたのはこのためである。

ゆえに、正像の正師たちは、すべて末法を賎しみ嫌うのでなく、その大法を恋い慕っているのである。

遵式の筆にいわく「始め西より伝う、猶月の生ずるが如し。今復東より返る、猶日の昇るが如し」と。遵式は中国宋代の天台宗の僧で、22歳で国清寺にはいり、一生を天台の教法流布に捧げ、門弟千人を超ゆといわれた高僧である。その遵式が、西より伝わった釈尊の仏法を月に譬え、東の日本より出現する末法の大法を太陽に譬えているのである。

像法時代の導師といわれた天台大師は「後の五百歳遠く妙道に沾わん」と、妙法の流布する末法の世を憧れている。また、伝教大師も「当今、人機みな転変して都て小乗の機無し、正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り、法華一乗の機今正しく是れ其の時なり」と、この言葉のなかにも、まさしく末法を憧憬している心がうかがわれるではないか。

だが、正しく仏法を知らない人びとは、末法の到来にいたずらに不安におののいた。事実、末法にはいった平安時代末期の日本は、民心を無常観に追いやるような、乱れた世相でもあった。貴族文化の頽廃と無気力化、加えて武士階級の台頭による兵乱の連続、相次ぐ天災地変、僧兵の横暴等、仏教界自体も乱脈を極めていた。

したがって、この人生を無常とし、この世界を穢土とする現実否定的な考え方が、有力になっていったのは、しぜんの勢いであった。現世を否定して、西方の浄土に憧れ、自力の法門より他力本願の易行を唱える浄土宗がもてはやされたのである。

これと対照的に、経文に照らし、現実を凝視し、現実に敢然と取り組んで、解決の方途を叫ばれたのが日蓮大聖人である。そして、大聖人は末法万年尽未来際まで流布すべき大仏法を説かれたのである。

 

釈尊の仏法について

 

釈尊の説いた仏法を検討すると、それは、指導階級、知識階級のための宗教であることがわかる。全民衆の信仰すべき、真実の仏法は、日蓮大聖人によって初めて説かれたといえるのである。また、大聖人の仏法は本因妙の仏法であり、釈尊の仏法は本果妙の仏法である。また、仏法の本体は大聖人の仏法であり、釈尊の仏法はその影であり、迹である。釈尊の仏法は日蓮大聖人の仏法が出現するための準備的教えにほかならない。

その証拠をまず、教主についてみるならば、釈尊は、インド・カピラエ城の太子として生まれた。何一つ不自由のない少年時代を過ごし、19歳にして人生の無常を知り、これを解決するために出家し、30歳で悟りを開いたという。極端にいえば、このような境遇の人の説くことが、社会の底辺に生まれ、極貧の生活を送っている民衆に、実感をもって信じられるということは、実際問題、不可能である。もちろん観念的な憧憬の気持ちを起こさせることはできよう。だが、真実の生命の共鳴は期しがたい。

それに対して、日蓮大聖人は、自ら「栴陀羅が子なり」と述べられているごとく、安房国の漁師の子として生まれられた。そして、生涯、貧しい凡夫僧の姿で、三障四魔、三類の強敵と戦い、しかも御本仏として全民衆救済の大仏法を建立されたのである。われわれと同じ凡夫であり、貧しい姿であったが、ただ法によって尊極無上の人生、いかなる権力も破壊することのできない、絶対的幸福の境涯が確立できることを示されたのである。この日蓮大聖人の教えに、だれびとが共鳴しないでいられようか。

次に、説かれた法門についてみよう。釈尊の法門は、一代五十年の説法、八万法蔵におよぶ。その極説である法華経にしても、本迹合わせて二十八品もあり、その哲学を学ぶことは煩雑という以外にない。これに対して、日蓮大聖人の仏法は七文字の法華経であり、本尊、題目、戒壇の三大秘法にいっさいの法がことごとく含まれてしまう。ゆえに、万人が即座に法門の究極に達し、実践をすることができる。

修行の方法について見ると、釈尊の仏法は、受持・読・誦・解説・書写の五種の修行を実践しなければならない。法華経二十八品を受持するだけでも困難であるのに、これを読み誦んじ、解説し、書写するとなれば、相当の智能と時間的、経済的余裕がなくてはできない。貴族仏教と称する所以はここにある。すなわち、自ら働かないで収入を得、時間的にも経済的にも恵まれている王族や貴族、あるいは資産家や隠居であって、初めてできる修行だからである。

現代の社会に、はたしてこのような修行をできる人が何人いるであろうか。一般の労働にたずさわっている人びとはもとより、芸能人も財界人も政治家も、まことに多忙である。むしろ、一般人以上にびっしり詰まったスケジュールに追いまわされている。こんな修行ができるのは、せいぜい一部の有閑階級ぐらいのものであろう。

以上は、釈尊の仏法について、きわめて常識的に、表面だけを論じてみたにすぎない。仏教理論に立ってこれをみれば、本已有善と本未有善、熟脱と下種益、本因妙と本果妙等々、幾多の観点から論ずることができ、それらの結論として釈尊の仏法が、一部の上層階級のための信仰であるということができるのである。したがって、いま本文で、伝教、義真等が法華経迹門を広宣流布したといっても、それは、あくまで貴族階級の信仰にすぎなかった。本文にも「故に国王は郡郷を寄せて、以て灯燭を明らかにし、地頭は田園を充てて、以て供養に備う」とおおせられているとおりである。

法然が、現在でも学者に高く評価されているのは、こうした特権階級専用の既成仏教に対して、初めて、仏教を底辺の民衆のものとしたという意味からである。だが、法然が浄土宗をひろめた結果は、民衆を無気力にし、風俗を紊乱し、天変地変を惹き起こし、さらに無間地獄に突き落としたのであった。そして、徳川時代には、民衆を諦観に陥れ、封建体制維持の御用宗教となったのである。

大聖人の仏法は、民衆が真に政治的、思想的自由を獲得した戦後になって、興隆し始めたのである。このことは、大聖人の仏法こそ真実の民衆の宗教であり、民衆を救う力ある宗教であるとの証左であろう。

 

一凶とは終末的な響き

 

まえにも述べたごとく、大聖人が、念仏を「この一凶」としてあげ、徹底して破折されたのは、念仏の〝哀音〟を破折されたのである。念仏宗は、この現実社会を穢土として嫌い、西方十万億土という架空の世界に、はかない夢を託す現実逃避の宗教である。念仏の哀音とは、この現実をたくましく生きる姿勢を失った、暗い終末的な響きであり、悲哀のこもった生命の調べである。大聖人は、この哀音を、不幸の元凶として破折されたのである。

それは、念仏宗が当時の民衆のあいだに広く流布していたこととともに、この念仏宗がもたらす厭世思想、終末観こそ、人びとの幸福建設への意欲をはばむ根本悪として打ち破られたのである。念仏の哀音を破折しなければ、立正安国を実現することはできないからであり、末世的終末的響きと、立正安国とは根本的に相反するものなのである。

大聖人ご在世当時は、三災七難が並び起こり、念仏の哀音が一世を覆っていた。そのなかで大聖人は、この現実社会のなかにこそ、仏国土を建設し、常寂光土を拓くべきであると叫びつづけられたのである。

今日、念仏宗そのものは、大聖人にその根を絶たれた結果、形骸化して見る影もないが、現実逃避的、厭世的な思想は、ニヒリズムや刹那主義、快楽主義となってあらわれ、無気力、頽廃の風潮、終末意識が、現代人の心を、厚く重く覆っていることは、否定できない事実である。

だが、それゆえにこそ、私たちは、立正安国の一書を掲げ、こうした風潮に、たくましく挑戦していかなくてはならない。一人ひとりが、この一書を胸奥に刻み、敢然と立ちあがろうではないか。

 

 

 

第五段 (和漢の例を挙げて念仏亡国を示す)

第一章 (法然の邪義に執着するを示す)

 客殊に色を作して曰く、我が本師釈迦文、浄土の三部経を説きたまいて以来、曇鸞法師は四論の講説を捨てて一向に浄土に帰し、道綽禅師は涅槃の広業を閣いて偏に西方の行を弘め、善導和尚は雑行を抛って専修を立て、慧心僧都は諸経の要文を集めて念仏の一行を宗とす。弥陀を貴重すること誠に以て然なり。又往生の人其れ幾ばくぞや。就中、法然聖人は幼少にして天台山に昇り、十七にして六十巻に渉り、並びに八宗を究め、具に大意を得たり。其の外一切の経論・七遍反覆し、章疏・伝記、究め看ざることなく、智は日月に斉しく、徳は先師に越えたり。然りと雖も、猶の趣に迷いて、涅槃の旨を弁えず。故に徧く覿、悉く鑒み、深く思い遠く慮り、遂に諸経を抛って専ら念仏を修す。其の上、一夢の霊応を蒙り、四裔の親疎に弘む。故に或は勢至の化身と号し、或は善導の再誕と仰ぐ。然れば則ち十方の貴賎頭を低れ、一朝の男女歩を運ぶ。爾しより来、春秋推し移り、星霜相積れり。而るに忝くも釈尊の教を疎かにして、恣に弥陀の文を譏る。何ぞ近年の災を以て、聖代の時に課せ、強ちに先師を毀り、更に聖人を罵るや。毛を吹いて疵を求め、皮を剪つて血を出す。昔より今に至るまで、此くの如き悪言未だ見ず。惶る可く慎む可し。罪業至って重し。科条争でか遁れん。対座猶以て恐れ有り。杖を携えて則ち帰らんと欲す。

 

現代語訳

災難の起こる本源は、法然の選択集にあるといわれたので、客は憤怒の色をあらわしていわく。

わが本師・釈迦牟尼仏が浄土の三部経を説き給いて以来、曇鸞法師は初めは竜樹菩薩の中観論等の四論を学んだが、これを捨てて一向に浄土念仏に帰した。また第二祖道綽禅師は、初め涅槃宗によって修行したが、この涅槃の広業を閣いて、ひたすら念仏の西方浄土往生の願行をひろめ、善導和尚は雑行を抛って専修念仏を立て、恵心僧都は諸経の要文を集めて、念仏の一行を宗とした。阿弥陀仏を貴び重んずることはまことにもってこのとおりである。また、その念仏の功徳によって往生できた人は数えきれないほどたくさんいるではないか。

なかんずく法然上人は、幼少のときから比叡山にのぼり、十七歳のときに、法華経の奥義である天台、妙楽の書六十巻を読み、さらに天台、真言をはじめとする八宗の教義を究め尽くし、つぶさにその大意を得られた。そのほか、いっさいの経論を七回も読み返し、仏法の教義をのべた章疏や、歴史に関する伝記類も一冊として究めみなかったものはなく、その智慧はあたかも日月にひとしく、徳は日本や中国の先師たちをもはるかに越えていた。しかしこのようであったけれども、なお聖道門の天台流では出離の道に迷い、成仏の境涯をわきまえることができなかった。ゆえに、いっさいの経論をぜんぶ見、その内容をことごとく考えたうえで、末代相応の行を深く思い、遠く思慮をめぐらして、ついに諸経を抛ち、專修念仏の行を立てられたのである。そのうえ、夢に善導をみて霊応を受け、いよいよ確信を深めて、あまねく天下に念仏をひろめた。ゆえに民衆は法然を、あるいは勢至菩薩の化身と号し、あるいは善導和尚の再誕かと仰いで、貴賤老若男女を問わず、国中がみな厚く法然を信仰するにいたったのである。

それより以来、すでに長い年月を経て、今日にいたった。しかるにあなたは、もったいなくも、いっさいの災難の根源は法然にあるといって、釈尊の説かれた念仏の教えをおろそかにし、弥陀をほしいままにそしっている。なにゆえに、最近に起こった災いをもって、聖代の法然にその源があるとし、強いて念仏の祖師たちをそしり、さらに法然上人をののしるのであるか。法然上人に対する悪口は、まるで毛を吹いて強いて疵口を求め、皮を切ってわざわざ血を出すようなもので、ありもしないことを無理にこじつけて、人をそしる罪をおかすものではないか。昔より今日にいたるまで、こんな悪言はいまだ見たことがない。あなたはその罪をおそれて口を慎みなさい。そういう悪口をいうあなたの罪はいたって重く、その罪科はかならず問われるであろう。あなたと対座しているだけでも、与同罪を受ける恐れがあるので、杖をたずさえて直ちに帰ろうと思う。

 

語釈

釈迦文

釈尊のこと。釈迦文は梵語シャーキャムニ(Śākyamuni)の音写。釈迦牟尼も同じ語の音写である。

 

四論

竜樹の「中論」「十二問論」、聖提婆の「百論」の三つの論書に、竜樹が作ったとされる「大智度論」を加えた四つ。

 

涅槃の広業

聖・梵・天・嬰児・病の五行を明かすのを広業というとも、浄土三部経の四巻に対して、涅槃経は四十巻のゆえに、広業というとも考えられる

 

慧心僧都

恵心とも書く。日本天台宗恵心流の祖。大和国葛城郡当麻郷に生まれた。幼名は千菊丸。父は卜部正親。幼くして出家し天暦四年(0950)比叡山にのぼる。第十八代天台座主・慈慧大師に師事した。十三歳で得度受戒し、源信と名乗った。権少僧都に任ぜられた時、横川恵心院に住んで修行したので、恵心僧都・横川僧都と称された。寛和元年(0985)に「往生要集」三巻を完成した。これは浄土教についての我が国初めての著述で、浄土宗の成立に大きな影響を与えた。しかし、晩年に至って「一乗要決」三巻を著し、法華経の一乗思想を強調している。

 

六十巻

天台が講述し、章安が筆録した「妙法蓮華経文句」、「妙法蓮華経玄義」、「摩訶止観」各十巻、妙楽の注釈による「法華文句記」、「法華玄義釈籤」、「摩訶止観輔行伝弘決」各十巻、合わせて六十巻をいう。

 

智は日月に斉しく

論語の子張篇に「叔孫武叔、仲尼を毀る。子貢曰わく、以て為すこと無かれ。仲尼は毀るべからざるなり。他人の賢者は丘陵なり、猶踰ゆべきなり。仲尼は日月なり、得て踰ゆること無し。人自ら絶たんと欲すと雖も、其れ何ぞ日月を傷わんや。多にその量を知らざるを見るなり」とある。

 

一夢の霊応を蒙り

法然は夢に金色の善導にあい、念仏弘通の印可を受け、また浄土の法門の付嘱をうけたという。法然の邪説を夢によって正当づけようとする門徒の企みである。

 

四裔の親疎に弘む

四裔とは、国の四方の果て。国中の親しい者にも、疎遠な者にも、念仏信仰がひろまったこと。

 

十方の貴賎頭を低れ

法然が四十三歳の承安五年、浄土宗を開いてのち、すぐに高倉天皇や、戦いに敗れて捕われていた平重衡などが帰依し、文治二年の大原問答では、諸宗の碩徳を破り、これらが帰依したという。そののち、後白河法皇等の朝廷の人びとや公卿、熊谷直実などの有力武士も、つぎつぎと信仰するようになった。

 

或は勢至の化身と号し

法然は幼名を勢至丸といい、念仏信徒たちは、法然を生前から阿弥陀仏の脇士・勢至菩薩の化身と称していた。

 

毛を吹いて疵を求め

毛があれば疵はわからないところから、そのままにしておけば、なんでもないものを詮索しすぎるということ。「吹毛求疵」という。出典は『韓非子』「大体」。

 

講義

前段において、主人が法然の名をあげて悪比丘といい徹底的に破折し、また現代の災難がひとえに数十年前の法然の邪義において生じた、と主人が説くのを聞いて、客はとうとう怒りだしてしまった。客が憤怒して顔色をさらにかえたので「殊に色を作して」というのである。これに対して、主人が、礼儀を失った国は乱れ、念仏を弘めて亡国となった中国と日本の先例を示していくのが、この第五段である。すなわち、前段には文証を挙げ、この段では理証と現証を説き出されるのである。

客殊に色を作して

これは、われわれが折伏する時によくある例で、一般的に現在の宗教は邪宗教だと言っているときには、わりあいに素直に聞いても、君の最も崇敬し信仰しているそれが、最も邪宗教で極悪であると決めつけられれば、たちまちにおこって席を立つようなものである。

この場合に、客は法然が論破されたので、同座することさえけがらわしいから帰るといいだした。これに対する主人の態度は、まさしくわれわれの折伏の鑑である。客がおこったからこちらも一緒におこっては、折伏にならない。怒った客に対し、主人たる日蓮大聖人は、御本仏としての絶対の御確信と、相手を思う慈悲の一念に徹し、笑みを浮かべ、しかも妥協するのではなく、むしろ、もっと峻厳に、もっと痛烈に道理のうえから、現証の上から、諄々と説いていくのである。

客のいいぶんは、まことに単純かつ常識的であり、皮相的である。曇鸞・道綽・善導・慧心僧都源信等が、みな念仏以外にないと論断したのだから、間違いないだろうというのである。しかも、当時一般にいわれていることをなんの検討もなく、得意然として語る様は、まことに今日の知識人・評論家・似非宗教家が、宗教を語る姿そのままではないか。

また、この客人の“常識”がいかに誤ったものであるかは、たとえば、慧心僧都に対する見解に如実にあらわれている。「諸経の要文を集めて念仏の一行を宗とす。弥陀を尊重すること誠に以て然なり」云云とあり、慧心僧都の著書をまったく読まずに、世間でいわれていることをそのまま鵜呑みにしていることがわかる。

前にも述べたごとく“常識”といものは、誤った認識である場合が多い、いったん頭のなかに特定の物の見方が固定してしまうと、もはや新しい目で、真実を追求することができなくなってしまう。

さらに、客のいいぶんが、法然のことにおよぶ段は、いかに当時の人々が法然を尊敬し、信頼していたかがよくわかる。法然の一生および、その邪義の成立までの経過については、すでに第四段第二章において詳しく述べたが、法華経誹謗の低劣な邪義にもかかわらず、こうした悪僧一流の巧妙な手腕によって、天皇・法王をはじめ、貴族や武士階級に取り入り、法然の名は、当時人々の上下に知れ渡った。

故に或は勢至の化身と号し或は善導の再誕と仰ぐ、然れば則ち十方の貴賎頭を低れ一朝の男女歩を運ぶ

この一節こそ、いかに法然が当時の人々から、生き仏のように思われていたかを如実に示している。文中「善導の再誕」等とは、念仏家の相伝で阿弥陀の化身であるという。このように、いかに邪説であっても、うまく理論をこしらえて我が身を飾り立てると、世の人は尤もと思って、深く信じきってしまうのである。それというのも、釈尊一代の仏法の浅深高下を知らず、釈尊出世の本懐を悟り得なかったからである。釈尊の弟子と称して、釈尊の出世の本懐を知らぬとは驚き入ったものである。また、時の人は、小乗教と大乗経の差異、権教と実教の差異、本迹二門の区別等を知らなかったのである。まして教相・観心・文上・文底等は知り得ようはずがない。ゆえに仏教に迷ったのである。現在においてはさらに甚だしく、仏教の概念すら、知っている者は、きわめてわずかである。なんの宗教でも、みな釈尊が説いたものだからといい思い込んでいる。そのために、インチキ宗教家に易々と騙されていくのである。しかも、このことが一家を不幸にして、一国を衰微させるということに気づく者は、ただの一人もいないのである。

而るに忝くも釈尊の教を疎にして恣に弥陀の文を譏る何ぞ近年の災を以て聖代の時に課せ強ちに先師を毀り 更に聖人を罵るや

これは、釈尊をはじめ、法然の教義をそしるだけならまだしも、最近相次いで起きている災難の原因を、わざわざ法然の時代まで遡り、その責任を法然に転嫁するとは何事であるか、という客のいいぶんである。

それゆえ、そのような行為は「毛を吹いて疵を求め皮を剪つて血を出す」ことだと、客は反論するのである。

この客人の発言をみるときに、まことに思想が、その低き哲学、低き宗教であっても、人間生命に対し影響するところが、いかに大きいかを痛感するのである。むろん、低き哲学、低き宗教にも必ず行き詰まりがある。矛盾は絶えずつきまとう。だが、それが大勢の意見であり、また権威ある人々の信奉するものとなると、人々は少少の矛盾を感じても、気にもとめず、その権威と伝統に従うのである。その権威ある人々を少しでも批判すれば、たちまち理性を失い、感情に走り、激しい怒りを顔面にたたえ、批判する人をののしり、迫害してくるものである。

だが、いつまでもそれが人々の心をとらえることはできない。やがて矛盾と行き詰まりは表面立ち、既成の権威と伝統はもろくもくずれ、ついにはその生命を奪われるのである。今日、念仏の寺々は、ほとんどさびれ、大伽藍を構えているものとして、寂しい、わびしい、空虚なものでしかない。

だが、大聖人当時においては、念仏宗は、日本全国にひろがり、民衆の生命の奥深く浸透していったのである。

特に法然に対する信奉は、異常なまでに高まっていた。念仏の寺々はにぎわいを見せ、僧侶は裕福な生活を満喫していた。されば、日蓮大聖人が、法然こそ、「此の一凶」と示されたのであるから、当時の人々の驚きは絶大なものがあった。その民衆の心をくまなく知られていた大聖人は、ここに客をして、あれほどの高徳の人をまるであら捜しでもするごとく、悪口をいうのはあまりひどいではないか、それは罪悪だと、問わしめたのである。

これは、なにも大聖人の時代のみではない。西欧中世においても、キリスト教会が絶大な権威を誇り、少しでもそれに異論を唱えたり、教会の権威を脅かすと考えられたものは、恐るべき非難と迫害とにあったではないか。キリスト教のごとき、幼稚であり、低級な理論が、まるで金科玉条のごとく信奉され、教会の最高権威者たちの批判などすれば、それを聞いた民衆は、激怒し、批判した人に対し悪魔のごとき思いをなしたのである。

まだ、われわれの記憶にも生々しい太平洋戦争中も、神道を国を挙げて信奉したではないか。そして、少しでも真実のことをいおうものなら、「非国民」とののしられて、力ずくで抑えられたであろう。わが創価学会が、神道の非なるを指摘し、その狂気の姿こそ、亡国の道なりと断ずるや、迫害し弾圧し、ついに牧口初代会長、戸田前会長を投獄したのであった。これまた同じ原理ではないか。しかして、結局、正義は邪義を打ち破ったのである。今日において、私は、これを初めて、厳然と事実の証拠のうえからいいきることができる。そしてさらに時とともに、大聖人の仏法こそ、世界人類を救うただ一つの光明であることが、理解されることも、われらの絶対の確信である。

此くの如き悪言未だ見ず惶る可く慎む可し

「此くの如き悪言」とは、日蓮大聖人が法然の邪義を、あらゆる角度から徹底的に破折したことをいったものである。当時の社会にあって、念仏が最も信仰されていた時代に、その中心者である法然を徹底的に破折された大聖人の言葉は、念仏者にとってみれば許しがたい悪口雑言であった。

だが、当時の社会にあって、これほど尊敬されている者なればこそ、いっさいの不幸の元凶なりとして、大聖人は真正面から堂々と破折に向かわれたのである。この大聖人の大確信こそ、われら大聖人門下生、創価学会員の精神にほかならない。この大聖人の破折の勇姿を見よ。今日われら創価学会員以外に誰人が、この精神、この振舞いを継承しているであろうか。今なお、創価学会の折伏をさして、まるで、学会がつくりだした独特の砲撃方法のように考える人がいるが、とんでもない誤りである。ましてや、邪宗日蓮宗のごときが、そのようなことを口にするにいたっては、その一事をもってしても、彼らが日蓮大聖人の門下生でないことは明瞭である。時流に迎合し、真実を曲げ、安逸をむさぼる者は「仏法中怨」の責めを蒙る経文にあてはまるではないか。

日蓮大聖人の御一生は終始一貫、破邪顕正の生涯であられた。法然をはじめとする数々の邪義に毒された日本国民を根底から救いきるとの確信に立たれての御一生であった。その御一生は、民衆を不幸におとしいれる邪宗・邪教・邪智との、一刻の休みもなき戦いであったともいえる。

その大聖人の破邪顕正の折伏精神こそ、わが創価学会の今日までの一貫して変わらざる根本精神である。創立以来、今日までの学会の歴史、戦いは「折伏」の二字につきる。われわれは、今や五百数十万世帯を数える世界最大の宗教団体と成長したが、この国土からいっさいの邪宗教が姿を消すまで、大聖人の教えのままに邁進する決意である。しかして、それは権力を用いるのではなく、あくまでも思想対思想の対決であり、正法にめざめた民衆の叡智と理性が、人間性を失わしめる、恐るべき邪宗教を追放することを信じてやまぬものである。

 

 

第二章 (現証を以って法然の邪義を破す)

 主人咲み、止めて曰く、辛きことを蓼の葉に習い、臭きことを溷厠に忘る。善言を聞いて悪言と思い、謗者を指して聖人と謂い、正師を疑つて悪侶に擬す。其の迷誠に深く、其の罪浅からず。事の起りを聞け、委しく其の趣を談ぜん。釈尊説法の内、一代五時の間に、先後を立てて権実を弁ず。而るに曇鸞・道綽・善導既に権に就いて実を忘れ、先に依って後を捨つ。未だ仏教の淵底を探らざる者なり。就中、法然は其の流を酌むと雖も、其の源を知らず。所以は何ん。大乗経の六百三十七部・二千八百八十三巻、並びに一切の諸仏菩薩、及び諸の世天等を以て、捨閉閣抛の字を置いて、一切衆生の心を薄す。是れ偏に私曲の詞を展べて、全く仏経の説を見ず。妄語の至、悪口の科、言うても比無く、責めても余有り。人皆其の妄語を信じ、悉く彼の選択を貴ぶ。故に浄土の三経を崇めて、衆経を抛ち、極楽の一仏を仰いで、諸仏を忘る。誠に是れ諸仏・諸経の怨敵、聖僧・衆人の讎敵なり。此の邪教広く八荒に弘まり、周く十方に遍す。

 

現代語訳

主人は悠々と笑みをたたえ、客のまさに帰ろうとするのを止めていった。

辛い蓼の葉ばかり食べている虫は、その辛さを知らない。また、臭い便所の中に長くいる虫も、そのにおいがわからなくなってしまうものだ。長年邪法に染まった人はそれと同じで、あなたは私のいう善言を聞いて逆に悪言と思い、謗法を犯している法然をさして聖人といい、正師たる日蓮を疑って悪侶のように思っている。そのような迷いこそまことに深く、その罪はまことに重い。事の真因を聞きなさい。その趣旨を話してあげよう。

釈尊は、一代五十年の説法のうち、五時に分けて先後を立て、権実を明かされた。しかるに、念仏の祖である曇鸞、道綽、善導は仏説に反して権につきしたがって肝心の実を忘れ、五十年の説法のうち、先の四十余年に説いた権教に依って、最後の八年間に説いた法華経を捨ててしまった。これは仏法の奥底を知らない者である。

なかんずく法然は、これら雲鸞、道綽、善導の流れを継いでいるといいながら、その源である三師が、権実の教えに迷っていることを知らないのである。その断定する理由は何かといえば、大乗経六百三十七部二千八百八十三巻ならびにいっさいの諸仏菩薩および諸の世天等について「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」の四字を勝手に置いて一切衆生の心を軽んじてしまった。これはひとえに法然自身が勝手につくった言葉であって、まったく釈尊の経文を見ない説である。これは妄語の至りで、その悪口の罪科は他に比べることができないほど重く、いくらその罪を責めても責めたりないのである。しかも、世の人びとはみな、この妄語を信じ、法然の選択集を尊んでいる。ゆえに浄土の三部経をあがめて、その他の一切経を抛ち、阿弥陀仏のみを仰いで、他の諸仏を忘れている。まことに法然こそ諸仏諸経の怨敵であり、いっさいの聖僧、大衆の讎敵である。しかも、この邪教は広く天下にひろまり、あまねく十方に遍満してしまった。

 

語釈

辛きことを蓼の葉に習い

いつも辛い蓼の葉を食べなれている虫は、辛いことを感じないでいるという意味。

 

臭きことを溷厠に忘る

便所に長くいると臭いことを感じなくなることで、邪法に染まってしまって、邪法と感じられなくなってしまっている人のことを譬えている。

 

讎敵

「讎」は「讐」に同じ。むくいる、あだ、かたき。

 

八荒

国の八方の果て。全国津々浦々。

 

 

講義

 

 

第三章 (中国における亡国の現証を挙ぐ)

抑近年の災難を以て往代を難ずるの由、強ちに之を恐る。聊か先例を引いて汝の迷を悟す可し。止観の第二に史記を引いて云く「周の末に被髪袒身にして礼度に依らざる者有り」と。弘決の第二に此の文を釈するに、左伝を引いて曰く「初め平王の東に遷りしに、伊川に、髪を被にする者の野に於て祭るを見る。識者の曰く、百年に及ばじ、其の礼先ず亡びぬ」と。爰に知んぬ、徴前に顕れ災い後に致ることを。「又阮藉が逸才なりしに、蓬頭散帯す。後に公卿の子孫皆之に教って、奴苟相辱しむる者を方に自然に達すと云い、撙節し兢持する者を呼んで田舎と為す。是を司馬氏の滅する相と為す」已上。

 又慈覚大師の入唐巡礼記を案ずるに云く「唐の武宗皇帝、会昌元年、勅して章敬寺の鏡霜法師をして、諸寺に於て弥陀念仏の教を伝え令む。寺毎に三日巡輪すること絶えず。同二年、回鶻国の軍兵等唐の堺を侵す。同三年、河北の節度使忽ち乱を起す。其の後、大蕃国更た命を拒み、回鶻国重ねて地を奪う。凡そ兵乱は秦項の代に同じく、災火は邑里の際に起る。何に況や武宗大に仏法を破し、多く寺塔を滅す。乱を撥ること能わずして遂に以て事有り」已上取意。

 

現代語訳

そもそもあなたは、正嘉の大地震など近年の災難をもって、先年、法然が念仏をひろめたゆえだとすることに、これを暴言と思い、むやみに恐れているが、いまここに若干の先例を引いて、あなたの迷いをはらしてあげよう。

摩訶止観第二に、史記を引いていわく。中国周代の末に髪を乱し、裸で礼儀を守らない者がいた、と。この止観の文をさらに妙楽大師は、弘決の第二に左伝を引いて解釈しているが、そこには「周の国家は礼儀をもととして建てられたが、第十三代の平王の代に犬戎の侵略を避けて、都を東の洛邑に遷すとき、伊川で髪を束ねず、ばらばらにした姿で、野原で神を祭っているのをみた。その光景を見た識者は、あと百年もたたないうちに国は亡びるであろう。その先兆としてまず礼が亡びてしまつたと予言した」とある。このことからもわかるように、災難が起こるときには、まずそのきざしが現れ、そののちに災いが起こるのである。

また同じく止観の第二には次のように述べている。中国西晋の時代に、竹林の七賢の一人で有名な阮藉という逸才がいた。彼は髪を乱し、着物もだらしなく着て、礼儀というものをまるで意に介しなかったが、当時の公卿の子弟がみな院籍にならって礼義を乱し、賤しい言葉で、たがいに悪くいいあい、相手を辱しめ合うのが自然だといい、反対に、礼義を重んずる、慎しみ深い者を「あれは田舎者だ」とよんだ。すなわち、これを西普の王である司馬氏の滅亡する相とした、と。

また、慈覚大師の入唐巡礼記をみると、次のように出ている。中国、唐の武宗皇帝は会昌元年に勅命を発して、章敬寺の鏡霜法師に国内の寺々に弥陀念仏の教えをひろめさせた。そのため、寺ごとに、三日ずつ巡って説法したが、勅を発した翌年には、早くも回鶻国の軍兵が唐の境を侵略してきた。また、会昌三年には河北の節度使が反乱を起こした。その後、当時唐の属国となっていたチベットが、再び皇帝の命を拒み、回鶻国は重ねて国内に侵略してきた。そのために、兵乱はあたかも秦の始皇帝、楚の項羽の時代と同じような烈しさで、町も村もみな、災火に巻きこまれてしまった。ましていわんや、武宗は、仏法をおおいに破り、寺院を破壊するなど大謗法を犯したので、兵乱をおさえることができず、ついにはその罪によって病となり、悶死してしまった。

 

語釈

止観

摩訶止観のこと。天台大師智顗が隋の開皇14年(0594426日から一夏九旬にわたって荊州玉泉寺で講述したものを、弟子の章安大師灌頂が筆録した書である。本書で天台大師は、仏教の実践修行を〝止観〟として詳細に体系化した。それが前代未聞のすぐれたものであるので、サンスクリットで偉大なという意の〝摩訶〟がつけられている。〝止〟とは外界や迷いに動かされずに心を静止させることであり、それによって正しい智慧を起こして対象を観察することを〝観〟という。内容として、法華経の一心三観・一念三千の法門を開き顕し、それを己心に証得する修行の方軌を示しており、天台大師の出世の本懐とされる。構成は、章安大師の序分と天台大師の正説分からなっている。正説分として①大意、②釈名、③体相、④摂法、⑤偏円、⑥方便、⑦正修、⑧果報、⑨起教、⑩旨帰、の十章が立てられており、これを「十広」ともいう。しかしながら、⑦正修章において十境を立てるなか、十境中の第八増上慢境以下は欠文のまま終わっている。

 

史記

中国・前漢の太史公・司馬遷が著した歴史書。中国初の通史で、後の正史の手本とされた。古くは伝説上の帝王である黄帝から、近くは司馬遷の同時代である漢の武帝期までの歴史が編纂されている。

 

弘決

止観輔行伝弘決のこと。十巻。中国・唐代の妙楽大師湛然の著。天台大師の摩訶止観の注釈書。内容は題号の釈出をはじめ、無情仏性に関する十難や華厳宗の法華漸頓・華厳頓頓説を打ち破るなど、摩訶止観の妙旨を明らかにするとともに、天台宗内外の異義に破折を加えている。

 

被髪袒身

被髪は、髪を結ばず、振り乱すこと。古代中国では、もっとも身だしなみの悪いこととされた。袒身は、衣を解いて、肩などの膚を露わにすること。

 

左伝

春秋左氏伝の略称。中国・春秋時代の魯の左丘明の作と伝えられる。孔子が著したと伝えられる「春秋」の注解書。

 

平王

生没年不詳。中国・周の第13代の王。。父の幽王が異民族・犬戎の侵入によって殺されたため、即位して都を鎬京から東の洛邑に遷した。

 

髪を被にする者の野に於て祭る

禿とは、①禿頭。②髪を短く切り、後髪を結わずに垂らす髪型。ここでは②で、髪をふり乱した野蛮人の姿をいったもの。祭りは神聖な行事であるから、もっとも身だしなみ等も整えるべきであるのに、髪を被にしていたということは、周の世を支えていた礼節が根本から腐ってしまったことを示すものである。これをもって周の滅びる前兆とされたのである。

 

阮藉

中国・三国時代の魏の文人、官僚。竹林の七賢の中心的人物。父の阮瑀は曹操に仕え、彼自身も司馬氏のもとで歩兵校尉となった。当時、喪中においては酒や肉を断つべきとした礼教に反して母の喪中に酒を飲み、酒浸りの生活を送り仲間と老荘の道を談ずるなど、奇怪な言動が多い。魏末の当時、実権は司馬氏にあったが、世情不安定で、名門の子弟の運命はきわめて危うい状態にあった。阮籍とともに竹林の七賢の中心的人物といわれた嵆康は魏の宗室の姻戚であったが、司馬昭に讒言されて刑死した。そのため「いかにして生きのびるか」との目的のもとに計画された言動であったと解せられる。

 

自然に達す

堅苦しい形式や枠を取り払った、人間性の本来のありかたに戻ること。老荘思想はこうした自然に達することを理想とした。これに対して、礼儀、形式をやかましく説いたのが孔子の儒教である。中国の歴史において、治世には為政者が儒教を押しつけ、乱世には民衆のあいだで老荘の流れを汲む道教が勢いを増す、という繰り返しが行われた。

 

武宗皇帝

唐の第15代皇帝。道教に傾倒し仏教を斥け、道士趙帰真等を用いて、会昌5年(0845)に天下の仏寺を破り僧尼を還俗させた。会昌の廃仏といい、三武一宗の法難の一つにあたる。理由は、寺塔の建立と僧尼の免税が国家財政を疲弊させたことや仏教教団内部の腐敗堕落などとされる。当時、留学中だった円仁も還俗を命じられている。その翌年、武帝は、道教で不老不死の薬とされた丹薬の中毒のために死んだ。宣宗が即位すると復仏の詔が出され、趙帰真は捕縛されて斬殺された。

 

回鶻国

中央アジアに定着したトルコ系民族・ウイグル人が建てた国。0744年(天平16)に建国し、安史の乱の平定のために唐に援軍を送るなど強い勢力を誇った。一世紀後の八三九年、キルギス人に敗れて四散し、その一部は新疆に移って、今日の中国新疆ウイグル自治区住民の祖となった。

 

大蕃国

吐蕃のこと。79世紀に栄えたチベットの王国。しばしば唐と争った。

 

講義

この章は客の問いに「何ぞ近年の災を以て聖代の時に課せ強ちに先師を毀り更に聖人を罵るや」とあったのに対して、具体的例をもって破折されたのである。

この章に引いた三つの例は、いずれも中国の例で、一に周の末、二に晋の時代、三に唐の末で、いずれも、国家が大きく乱れた例を引いている。

一の周末の例は、仏法とは無関係の立ち場であっても一国の興廃には必ず前兆のあること。

二の晋代の例は、外道においても国の興亡には必ず前兆のあること。

三の唐末の例は、仏法においても、当初邪法が流布すれば、一国に災難が起きてくる。

ことを現わしたものである。

 

周末の乱れ

 

はじめに周の末についてみれば、西紀前12世紀に文王、武王によって建国された周は、はじめ、西の鎬京(現在の西安か)を都と定め、中国史を通じて、最も典型的な封建体制のしかれた時代であり、安定し、繁栄もしていた。ところが第十代の廣王の時代になると、さしもの周王朝も衰微し、滅亡の徴候を見せ始めた。廣王は圧政を続け、民衆の苦悩は、増大する一方であった。ために民衆の不平不満は高まった。これに対し王は、衛の国から巫女を呼び寄せて、王の悪口を言うものの名を神がかりで告げさせ、かたっぱしから謙疑者をとらえて殺すという暴挙に出た。ついに周の都には大反乱が起こり、国民は立ち上がって王の宮殿を襲撃した。いのちからがら危地を脱した王は東方に出奔し、以来14年間、周は空位時代となった。その跡を継いで廣王の子で、英明な宣王が立ち、在位46年間、周室は大いに復興した。だが宣王といえども、晩年はうってかわって失政が多く、民衆の不満、反感は高まった。そこに、宣王あと、暗君幽王が立ったために、民衆は、再び苦悩のどん底に追いやられた。特に旱害が続き、陝西地方に大地震が起こったりして天災が重なったために、悲惨な状況は、筆舌に尽くしえぬものがあった。

民衆が苦悩している時、幽王は、愛する褒姒の歓心を得るため、いろいろなばかげたことをやってのけた。たとえば、褒姒が少しも笑わないので、これを笑わせるために、外敵の侵入を知らせるのろしをあげさせた。四方から馳せ参じた諸候が、外敵の侵入がなかったので、拍子ぬけした顔をした。これを見て褒姒が大笑いした。褒姒の笑顔を見たい一心の幽王は、その後、幾度となくのろしをあげたので、諸候はのろしの合図をまったく信用しなくなってしまった。さらに幽王は、皇后の申后と太子を廃して、褒姒を皇后に、その子伯服を太子に立てようとしたため、皇后の一族は、西北の犬戎をそそのかして幽王を攻めさせた。幽王はのろしをあげて、諸候を召したが、集まるものとてなく、幽王は犬戎の手にかかって殺された。周の鎬京の都は陥落し、完全に夷狄の手中に落ちた。諸候はやむなく東にのがれて、もとの皇太子を立てて平王とし、東方の都洛邑(現在の洛陽か)で即位させた。この遷都をさかいに以前を西周、遷都後を東周と呼んでいる。この周代の社会構造は、中国歴史中、最も典型的な封建体制のしかれた時代であったが、東周となってからは、その制度も乱れるようになり、周王といえども、地方の一諸候と同程度の実力しか持ち合わせなくなった。

この周の末を春秋戦国時代と呼ぶが、その時代は洛邑遷都から、晋が魏、趙、韓の三つに分割された年まで、戦国時代をそれから秦の始皇帝が天下を統一した年までとするのが、普通の見解である。いずれにしても、この時代は春秋と戦国の二期に分けるとはいえ、その内容は西周の封建制度があらゆる面で解体し、次にくる秦漢統一国家の成立する準備の過程と一貫している。

東周のはじめの頃は、国に100余の諸候がおのおのの領土を治めていたが、春秋を経て戦国時代にはいると、弱国は強国に併合されて、秦・楚・燕・斉・韓・魏・趙のいわゆる戦国7雄が、広大な領土国家を形成するようになった、

この時代には、各国も内には内乱に悩まされ、外には国家間の争いが絶えず、国土は荒乱し君主や郷大夫の亡命も珍しいことではなかった。戦争のたびごとに、それを調停する会議が設けられ、調停者として覇者と呼ばれる人々が出るようになった。なかでも、斉の桓公・晋の文公などは有名である。これらの覇者は時により国王に代わって、中原に出て秩序を保つ役割りを演じたりしたが、これがかえって諸国間の争いを激化させる一因にもなった。

 

世の乱れを救いきれなかった孔子の教え

 

かくして、西暦前770年の遷都から前221年の秦の統一まで、約550年間も戦乱が続いた。これは驚異的な長さであり、特に、戦国末は悲惨であり、秦が趙に殲滅的打撃を与えた長平の戦いでは、秦将白起は、食糧不足のため趙軍のの降卒45万人を全部穴うめにして殺すなど凄惨をきわめた。この間いかに民衆がその中に巻き込まれて苦しんだかは想像にかたくない。

礼儀が乱れることが、なぜ世の乱れの瑞相であったか。思うに、礼儀の乱れこそ、実に民衆の心の乱れのあらわれであり、民衆のいらだち、あせり自暴自棄、目的観の喪失、既存の権威への不信、不満等が、さまざまな姿、形ににじみ出たものであるからである。

かって文王の時代に定められ、かたく守られていた周の礼儀は、時とともに次第に失われていったのである。それは、そのまま周王朝の運命を物語るものであった。西周は没落し、東周の時代になるといっそう礼儀はかえりみられず、周王朝は衰微の一途を辿っていった。この時代に、いかに礼儀が失われたかは、孔子が魯の国の年代記をもととして編纂した、紀元前722年から前481年にいたる241年間の歴史をつづった「春秋」に明かである。孔子の「春秋」は、孔子が、臣下として君を弑し、子として父を殺すという極悪非道の世を慨嘆し、周の礼を復興し、大義名分をただし、乱臣賊子の行動を批判するために、もとの年代記に多少筆を加えてつくったものといわれている。

孔子の理想は、周公の定めた制度を復興し、周の礼に返ることであった。彼は、魯の定公のもとで大臣に任ぜられた。ところが、三桓氏をうち、豪族政治を打倒しようとした彼は豪族たちの反撃にあって、失敗し、前497ごろ国外に出奔したのだった。その後、彼は、晋・趙等の国々をまわり、礼を説き、それを具現すべきことを主張した。だが、どこの国でも彼の意見は取り入れられず、その間すんでのところで一命をおとしそうになったり、国境で立往生し、食糧がつきて7日間絶食するなど、13年間の旅行ですっかり心身疲れはて、失望のすえ、69歳のとき魯の国に帰った。このこと自体、儒教の限界であり、もはや、いったん失われた礼儀は、人為的にいくら復興しようとしても、復興できないことの証明であろう。すなわち、礼儀の頽廃は、民衆の生命の奥深くに根ざしたものであり、それに対し、再び形式的に礼儀を押しつけようとしても、もはや何の効果もなかったのである。この孔子の失敗した事実にも、そのころの礼儀の頽廃がいかにひどいものであったかが伺われるのである。また周王朝滅亡の姿であり、本文中に引かれた「百年に及はじ其の礼先ず亡びぬ」と識者の予言が的中したのも、まことにゆえあるかなと思うものである。

 

晋の衰微

 

第二の晋の衰微について述べるにあたり、この時代を概観すれば、後漢の滅びた西暦202年から隋の建国589年までの約360年間は、まさしく動乱の時代であった。この時代は魏・蜀・呉のいわゆる三国鼎立の時代からはじまり、西晋となり、一時中国全体を平定、統一したが、北方異民族の侵入のために西晋は南に下って東晋となり、北に五胡16国、南に東晋と南北朝分かれて対立したのである。

北朝は異民族の盛衰、興亡が激しく、わずか120年の間に成・漢・後趙・前燕・前凉・前奏・後燕・後奏・西泰・後凉・南凉・北凉・南燕・西凉・夏・北燕と大小16の王朝がめまぐるしく入れ替わった。こうした異民族王朝もやがて興った北魏によって統一され(0493)、しばらく平穏が保たれたが、6世紀の中途から再び乱れ始め。東魏・西魏の分裂、さらに北斉・北周と王朝が変わって隋の統一を待つことになるのである。

一方、南朝は、東晋の時代がしばらく続いたあと、その乱脈極まりなき政治は、ついに再び激動期を迎え、420年に宋朝に変わり、ついで斉・梁・陳と王朝が交代し、589年北周とともに隋に滅ぼされ、南北統一が実現したのである。

この間、400年間というものは、先の春秋時代に劣らず、戦乱につぐ戦乱が続き、民衆の疲弊はその極に達していた。中国においては前漢・後漢の漢朝約400年間にわたる冶世の根底思想、理念として、孔子・孟子を祖とする儒家の哲理が行われていたが、漢末には、その孝悌、仁義を骨格とする思想の拘束に反抗するものが続出し、正統たる儒家思想は、次第にくずれさっていった。

本文に引かれている阮藉も、そうした反抗者のひとりで、阮藉を頭に嵆康・山濤・向秀・阮咸・劉伶・王戎の7人を、名づけて竹林の7賢と呼んでいる。阮藉が生まれたのは西暦210年であるから、漢王朝が魏の曹操に滅ぼされるちょうど10年前で彼が長じた頃は、三国鼎立の時代であったわけである。

竹林の7賢といえば、聞こえもよく、いかにも聖人君子の集まりであるかのように思えるが、実際には、当時の行き詰まった世相に飽き飽きした者たちが、儒教倫理の形式主義をわざと無視し、酒を飲み、詩を吟じて気違いじみた行動を起こしたといった方が、ぴったりとしている。彼らは、当時魏を倒したあと西晋を建国した司馬氏らの一門や、礼教に縛られた人々を哀れな者共と見下し、そのような君子顔をしている連中は褌のシラミだといっては罵倒したのである。

この7人のグループの人たちは、いずれも風変わりな連中ばかりで、7斗の酒を飲む者。琴を弾く者、死んだら何もいらないから酒壺だけを一緒に埋めてくれと頼む者、母が死んだ時、その葬式の席上で、酒肉を食らい、賭け事をしている者等々、要するに、奇行者の集まりだったわけである。

この7人の首領格が阮藉で、彼が身だしなみもかまわず、だらしのない格好で登庁すると、それをきっかけとして若い人たちが皆それをまね、たちまちのうちに流行となってしまった。そして下品な言葉を使い、そのようにしてふるまうことが、あたかも立派な人であるかのような錯覚すらおこしてしまったわけである。

こう論じてくると、こうした様相は何も竹林の7賢の時代に限ったことではなく、そのまま現代の世相にあてはまることがわかるではないか。次々と流行を追う若者たち、熱狂的に歌い、踊り、一時の陶酔に身をゆだねる現代青年の姿こそ、まさしく彼の時代をそのまま再現したものといっても過言ではあるまい。この一事をみても、いかに現代の社会が思想的には勿論、あらゆる面で行き詰まり、乱れきっているかがわかるであろう。

 

残虐非道の限り尽した八王の乱・永嘉の喪乱

 

さて、晋の時代の礼儀の頽廃は、そのまま政治の乱脈の象徴でもあった。魏の建国時代の政治、軍事に大功のあった司馬懿仲達の孫、司馬炎は、ついに魏をうばって晋を立て、武帝と称した。武帝は最初のうちは占田、課田の法という土地政策を施行するなど、意欲的な政治を行ったが、晩年は遊宴にふけり、皇后とその一門を寵愛して、政治はゆるみ、乱れた。石崇とか王愷等の豪奢の限りを尽くした人物があらわれたのもこのころである。竹林愷の7賢の一人である王戎は、実は極端に利己的な蓄財家であり、広大な邸宅や奴婢のおおいことは、洛陽じゅうに較べる者がなく、田園や水碓は天下に遍しといわれた。彼の夜の楽しみは、燈下に妻と財産勘定することであったという。しかも、邸にある李樹は年々の金儲けの一つであったが、そのよい李の種子が、他家で植えられるのをおそれて錐で核に穴をあけたとまでいわれる。竹林の7賢とほめはやされ、無為自然などといい、聖人ぶっても、本性はこんな人間だったのである。他の竹林の7賢の人々も、内容は違えども、大なり小なり共通する面があったと評したら酷であろうか。

このような奢侈生活が流行しているなかに武帝が崩じ、暗愚な恵帝が即位するや、嫉妬深く、悪智慧に富んだ賈皇后を中心に閨閥間の争乱が生じ、また、かって武帝の時代に晋王室のまもりとして、周辺に配した同族の諸王のなかの有力野心家が、次々と叛乱を起こし、洛陽には殺戮がうずまいていた。いわゆる8王の乱である。この争乱の中で306年に恵帝は毒殺されてしまった。だが表向きは食中毒と公表された。

この間、住民は、戦争、凶作、略奪に追われて、流亡し続けた。296年、297年には関中一帯に大飢饉が続き、かつ悪疫が流行した。米価の値上がりが甚だしく、一般の人々は、生きるために子を売り、妻を売った。

298年には、いたるところ大洪水に襲われた。310年には北部一帯にイナゴの大群が発生し、村から村へ、いっさいの草木を食い尽くして行った。牛馬の毛までなくなったという。その上悪疫が大流行し、多くの人命が失われた。

このような内部の争乱に乗じ、匈奴・羯・鮮卑・氐・羌の五胡の騎馬略奪部隊が侵入し、都市、部落を破壊し西晋の滅亡を決定的なものにした。とりわけ匈奴は勢力も大きく、その将軍劉淵は、自立して、漢王と称し、ついで皇帝と称した。劉淵のあとの4男の劉聡は、兄を殺して漢皇帝となり、残虐非道な殺戮をほしいままにした。一方、洛陽では、8王の乱の最後をなす東海王越は、懐帝の側近たちを殺して実権を握ったが、帝との間には不和が続いていた。それにつけ入って匈奴軍は、激しい攻撃を加えた。特に東海王越が死ぬや、匈奴の将軍石勒は、陰惨きわまる殲滅作戦を展開し、匈奴騎馬部隊に包囲された晋の武士10余万人は、四方から飛んでくる矢のなかでことごとく死に、死骸は山のようになったという。

東海王の太子以下一族、また大臣から土民にいたるまで、逃げ遅れたものはことごとく捕えられ殺されていった。諸稜墓もあばかれ、中の金品は略奪された。懐帝も捕えられ、あらゆる恥辱をけたあと殺された。これは313年の事件で、世に永嘉の喪乱と名づけられている。このあと、長安で西晋最後の皇帝が擁立されたが、勝ち誇った匈奴の騎馬部隊は長安にも侵入、おりから激しい飢饉のために、長安はなすすべを知らず、たちまち敗北に帰し、晋皇帝は殺され、ここに皇帝即位から52年で匈奴軍の蹂躙するなかに、西晋はその幕を閉じたのである。御文に「司馬氏の滅する」とあるのは、このような悲惨な事実をさすのである。

 

唐末・安禄山史思明の叛乱

 

第三に、国の亡んだ例として、日蓮大聖人は唐の末の例をひかれている。唐代といえばその領土の大きさといい、華麗な文化といい、中国の歴史中、最も栄えた時代であり、四方の異民族とも最も善隣友好を結んだ時代である。その都・長安は、西のバグダット、アレキサンドリアとともに、世界文化を中心地として人口も100万を越える賑わいを見せていた。特に高祖の跡を継いで皇帝となった第2祖太宗の時代は、賢王のもと、国力は充実の一途を辿り、貞観の冶と呼ばれる太平の一時期を画した。

ちょうど陳の天台大師が、おりからの南三北七と乱立していた仏教を、法華経に統一してから約50年にあたり、儒教・道教に比して仏教が国の上下から篤く信仰されていた時代である。

唐王朝はその後、一時王朝内部に叛乱があって動揺したが、第6代玄宗皇帝の時に再び国力は充実して、開元天宝の冶と呼ばれる太平の世を出現した。唐代を代表する華麗な文化は、この時代にほとんど完成され、その勢力は広く周辺の異民族を敬服させ、遠くペルシァ、ローマとも積極的な交流が行われた。

しかし、この繁栄も玄宗皇帝の晩年からようやく乱れをみせ、諸国の安定のために設置していた節度使が、かえって勢力を得て叛乱を企て、安禄山が755年、次いでその部下の史思明が763年に、それぞれ朝廷に向かって叛旗を翻した。これらの叛乱は、やっとのことで鎮められたが、以後、中央の権力は極度に弱まり、地方の節度使は軍閥と化し、朝廷を脅かしたのである。

15代武宗皇帝が即位したのは、こうして唐王朝が風前の灯となった841年で、これは玄宗皇帝から約100年、唐代滅亡前60年にあたる。皇帝は即位するや会昌元年(0741)に勅を発して、鏡霜法師に命じて弥陀念仏の教えを各寺に伝えさせたという。ところが、その翌年には、唐の北西部に位置していたウイグル国が叛乱を起して唐の領土内に侵入、同3年には河北に派遣されていた節度使が叛乱を起こして朝廷をおびやかした。

その後、唐の属国となっていたチベット国が唐の朝廷の命を拒み、異民族のウイグルの叛乱はますます度を加えるなど、唐朝の勢力は、まったく失墜した。武宗皇帝は、その原因を道士、趙帰真に問いただしたところ、趙は、仏教を弘めさせたのが原因と奏上したため、会昌5年(0846)、皇帝は勅を発して国内の仏寺44600余を破壊し、僧尼26万人に対して還俗を強制するなど、仏教に対して極端な弾圧政策をとった。このため、国の内外はますます騒然とし、皇帝自身も、会昌6年(0847)強度の神経衰弱と背疸のため悶死した。慈覚はこの死こそ、仏教を弾圧した罰であると、かの入唐巡礼記の中に書いている。

 

朱全忠唐を亡ぼし宋を建国

 

その後、唐朝はさらに乱脈を続け、民情は悲惨をきわめた。財政難はひどく、節度使はますますさかのぼり、宦官は横暴をほしいままにし、胡族の侵入はさらに激化した。この被害は、ことごとく民衆に集中し、流亡者が続出し、貧民は、飢餓の巷をさまよった。民衆の怒りはついに爆発点に達した。この機をとらえて、大規模な組織をつくり、武装した、闇塩商人の大反乱 黄巣の乱が起きた。これが唐朝崩壊の決定的な一打となった。生活必需品である塩は、当時も専売制で、政府の重要財源の一つであった。だが国家財政の窮乏のため、塩価はおそろしいほど引き上げられ、ここに塩を求める民衆の苦悩に結びついて闇塩商人の暗躍が絶えなかった。政府はやっきになって取り締まったが、逆効果で、ついに黄巣を中心とする大規模な組織的叛乱となったのである。

黄巣軍は、はじめ、江南へ南進し、広州をおとしいれた。このとき、黄巣軍によって殺されたアラビア商人は12万人にも達したといわれる。ここで豊富な財貨と軍需物資を確保した黄巣軍は、数10万の軍勢をもて「打倒唐朝」のスローガンのもとに、意気揚々と北伐を開始した。官軍はたちまち敗退し、880年、長安は占領された。黄巣は長安に無血入城、帝位につき、国号を大斉、年号を金統とあらためた。だが、彼らの占領も長くは続かなかった。大掠奪をほしいままにしたため、民衆が怒り、一方、唐軍が地方の軍閥と連合して反攻し、長安を包囲したのである。このため黄巣は長安を放棄、884年、朱温は黄巣を殺して、唐に下った。しかも、皮肉にも、この朱温は唐に亡ぼされたのである。

朝廷は長安の黄巣を追い払った大功のある、外人部隊の酋長、李克忠を牽制するために、朱全忠を優遇し、彼を開封の節度使に任じた。朱全忠はここで、着々と実力をたくわえていったのである。おりしも、長安の近くにある鳳翔の節度使李茂貞は、天下をとるべく、再三にわたって長安に攻め込んでいた。同じく天下をねらう朱全忠は、これを打つために大軍を擁して西に向かった。

それ以前に、朱全忠は、彼の管轄下にあった洛陽の町に豪壮な御殿を作り、ここに皇帝を呼びよせ、自分が天下に号令しようとしていた。これに恐れをいだいた廷臣は、朱全忠が西に向かうや、皇帝を連れて李茂貞の本拠鳳翔城に逃げ込んだ、朱全忠は破竹の勢いで西進し、またたくうちに鳳翔を囲んだ、ここで攻防戦が数カ月つづいた。城内は食糧が尽きはててしまって餓死者が続出し、ついには人肉まで公然と売られていたといわれる。

ついに城は明け渡され、勝ち誇った朱全忠は、ひとまず長安に引き返し、そこで宦官を根こそぎ殺戮し、また、計画どおり皇帝昭宗を洛陽に移した、ここにさしもの豪華な長安の都もまったくの廃墟と化してしまう。しかし、朱全忠の意に従わなかった昭宗は殺され、ついで13歳の哀帝が即位させられる。皇族たちは、皆殺しにされ、かくて、唐は20代、290年にして悲惨な末路を辿って、ついに去ったのである。

以上の3例からもわかるように、国の興亡する時には必ずその前兆があり、春秋時代も、魏晋南北朝も、唐代末も、すべてその原理どおりになっていることは明らかである。特に唐の滅亡は、一つは邪教念仏宗の流行と、二つには仏教の弾圧と二つの原理が考えられ、大聖人の御在世に法然の念仏宗が大流行したのと、共通するものが考えられるわけである。

 

礼儀の頽廃による国の滅亡

 

日蓮大聖人が、このように立正安国論をはじめ、多くの書の中で念仏宗、特に法然の名をあげ無間地獄の張本人、亡国の極悪人と破折されると「選択集が災難の原因というならば、法然が選択集を著わす以前には災難はなかったか」などと聞いてくる者もいたに違いない。

災難対冶抄にいわく「疑つて云く国土に於て選択集を流布せしむるに依つて災難起ると云わば此の書無き已前は国中に於て災難無かりしか、答えて曰く彼の時も亦災難有り云く五常を破り仏法を失いし者之有りしが故なり所謂周の宇文・元嵩等是なり、難じて曰く今の世の災難五常を破りしが故に之起ると云わば何ぞ必ずしも選択集流布の失に依らんや、答えて曰く仁王経に云く『大王・未来の世の中に諸の小国王・四部の弟子諸の悪比丘横に法制を作りて仏戒に依らず亦復仏像の形・仏塔の形を造作することを聴さず七難必ず起らん』と、金光明経に云く『供養し尊重し讃歎せず其の国に当に種種の災禍有るべし』涅槃経に云く『無上の大涅槃経を憎悪す』等と云云、豈弥陀より外の諸仏諸経等を供養し礼拝し讃歎するを悉く雑行と名くると云うに当らざらんや、難じて云く仏法已前国に於て災難有るは何ぞ謗法の者の故ならんや、答えて云く仏法已前に五常を以て国を治むるは遠く仏誓を以て国を治むるなり礼義を破るは仏の出したまえる五戒を破るなり、問うて云く其の証拠如何、答えて曰く金光明経に云く『一切世間の所有る善論は皆此の経に因る』と、法華経に云く『若し俗間の経書・治世の語言・資生の業等を説かんも皆正法に順ず』と普賢経に云く『正法をもつて国を治め人民を邪枉せず是れを第三懺悔を修すと名く』と、涅槃経に云く『一切世間の外道の経書は皆是れ仏説なり外道の説に非ず』と、止観に云く『若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり』と、弘決に云く『礼楽前に駈せて真道後に啓く』と、広釈に云く『仏三人を遣して且く震旦を化す五常以て五戒の方を開く昔は大宰・孔子に問うて云く三皇五帝は是れ聖人なるか孔子答えて云く聖人に非ず又問う夫子是れ聖人なるか亦答う非なり又問う若し爾らば誰か聖人なる、答えて云く吾聞く西方に聖有り釈迦と号く』文。

此等の文を以て之を勘うるに仏法已前の三皇五帝は五常を以て国を治む夏の桀・殷の紂・周の幽等の礼義を破りて国を喪すは遠く仏誓の持破に当れり」(0083:14)。

このように、仏法が流布する以前においては、五常が破れることによって国が亡びることは、多くの経釈に明らかであり「一切法之れ仏法」の原理によって、ますます助長するものであり、やがて一国の道を辿るしかないことを示すものである。

 

 

 

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