立正安国論
文応元年(ʼ60)7月16日 39歳 北条時頼
- 現代語訳
- 語釈
- 講義
- 仏法実に隠没せば
- 鬚髪爪皆長く
- 諸法も亦忘失せん
- 当の時虚空の中に大なる声あつて地を震い一切皆遍く動かんこと猶水上輪の如くならん・城壁破れ落ち下り屋宇悉く破れ圻け樹林の根・枝・葉・華葉・菓・薬尽きん
- 唯浄居天を除いて欲界の一切処の七味・三精気損減して余り有ること無けん
- 解脱の諸の善論当の時一切尽きん
- 所生の華菓、味希少にして亦美からず。諸有の井泉池、一切尽く枯涸し、土地悉く鹹鹵し、歒裂して丘澗と成らん。諸山皆嫶燃して天竜雨を降さず苗稼も皆枯死し生ずる者皆死し尽き余草更に生ぜず
- 土を雨らし皆昏闇に日月も明を現ぜず四方皆亢旱して数ば諸悪瑞を現じ
- 十不善業の道・貪瞋癡倍増して衆生父母に於ける之を観ること獐鹿の如くならん
- 衆生及び寿命・色力・威楽減じ人天の楽を遠離し皆悉く悪道に堕せん
- 是くの如き不善業の悪王・悪比丘我が正法を毀壊し天人の道を損減し、諸天善神・王の衆生を悲愍する者此の濁悪の国を棄てて皆悉く余方に向わん
第二段 災難由来の経証を引く
第一章 (災難由来の経証を問う)
客の曰く、天下の災・国中の難、余独り嘆くのみに非ず、衆皆悲しむ。今蘭室に入つて、初めて芳詞を承るに、神聖去り辞し、災難並び起るとは、何れの経に出でたるや、其の証拠を聞かん。
現代語訳
客のいわく。
天下の災難、国中の難については、自分が一人だけ嘆いているのではない。大衆が皆悲しんでいる。いまあなたの所にうかがって、初めて立派なご意見をうけたまわったところ、国土を守護すべき善神や聖人がその国を捨て去ってしまい、災難が相次いで起こるということであるが、それはいったいいずれの経文に出ているのか、その証拠を聞かせていただきたい。
語釈
蘭室・麻畝
蘭香の室の意で、高徳の人、または佳人のいる所。香りの高い蘭のある室にいると、その香りが身体にしみてくることから、高徳の貴人、優れた人格の人と交われば、感化されて芳しい人格になるという譬えとして用いられる。
麻畝の性
曲がりがちなヨモギでも真っすぐ伸びる麻の畑に生えると、同じく真っすぐに伸びるように、環境によって悪が感化されて正されるという譬え。
講義
天下の災・国中の難・余独り嘆くのみに非ず衆皆悲む
この一節は、自分一個の悩みではなく、一国の民衆が苦悩に沈んでいる現実を、なんとか打開しなければならないという指導者の切実な叫びではなかろうか。これ、一身一家ことのみ考える利益打算を捨て、国家の前途を憂え、民衆の苦悩を、わが苦悩とし、その解決のために全魂を傾け、心血を注ぐべき、指導者の要諦を示されたものである。
戸田前会長は「一国の王法の理想は、庶民がその所を得て、一人ももるることなく、その業を楽しむのが理想である」と、政治の目的を明確に示されている。
だが、現実は、あまりにも、その理想からかけはなれている。
今日に至るまで、日本でも、世界でも、政治史をいろどるものは、多くの場合、残忍、冷酷という愚かなほど、一部の人々のために大多数の民衆の犠牲が払われてきた、幾多のいまわしき事実であり、指導者の多くは、私利私欲に明け暮れ、おのれの野心のために民衆を踏み台にしてきた。あるときは、残忍にも、虫けらのごとく、人間を扱ってきたのである。また、おのれの権勢欲、名誉欲、征服欲のために、人々を戦争にかり立て、多くの尊い人命を失わせてしまった
そこに一貫して流れるものは「人間性」の否定であり、無視であった。
たとえば、三千余年来つづいている、インドのカースト制のごときは、ヒンズー教を根本理念としてつくりあげた社会体制であるが、その底辺に奴隷があり、さらにその下には不可触賎民があり、その扱いは、人間ではなく、家畜以下であった。あの、民主主義政治が行われたとして、高く評価されている、古代ギリシァの繁栄も、その底には、不幸なる、奴隷の存在があった。西欧中世の封建時代においては、領主の繁栄の下には、悲惨な生活を強いられた農奴があった。また近世にはいって、絶対主義の国々においても、民衆は自由を奪われ、圧政のもとに苦しんだ。
また、十六世紀から今日に至るまで、西欧列強の植民地支配もまた、イギリスのインドや南ア連邦におけるがごとく、ベルギーのコンゴ、オランダのインドネシア、フランスのインドシナ等に見られるごとく、あまりにも悲惨な、残忍な歴史がつづられた。さらに、第二次大戦においては、イタリア、ドイツのファシズム、ナチズムは、人間性無視の端的な例である。とりわけ、ナチは偏狭であり、迷信としかいいようのない人種論に立脚して、ユダヤ民族の絶滅をはかり、六百万にもおよぶユダヤ人の冷酷無残な大量殺戮を行った。これこそ、スターリンの大量粛清とともに、人間性否定の典型であり、狂気であり、悪魔であるといわざるをえない、わが軍部にもこの振舞いがあった。これがわずか二十数年前に起きたことを思うときに、ひとたびは驚きあきれ、ひとたびは激怒となり、さらに、今後絶対にこのようなことがあってはならない、否、断じてあらしめてはならないとの叫びが、胸奥よりほどばしり出るではないか。
また、太平洋戦争中の、あの横暴なる日本軍部の独裁は、大半の民衆に犠牲を強い、ために、人々は、生活苦にあえぎ、生きた心地すらしなかったのである。さらに、戦争によって、多くの人命がむなしく露と消え、悲嘆に暮れた民衆の声は、いまだに瞬時たりとも耳朶からはなれない。
第二次大戦で疲弊しきったロシアの国土について、あるジャーナリストは、次のように語っている。
「物質面での損害がどれほど多かろうとも、人間の努力で復興できる。爆破された建物の廃墟、壁にきざみこまれた弾痕、大地を染めた血潮のあとも、いつかはかたづけられ、また新しい建物がたち、新しい樹木が生長し、新しい草花が咲きほこるようになる。だが、人間の魂に刻みこまれた戦争の傷あとは、永遠に癒えないだろう。いや、人間だけでなく、小川のせせらぎ、芦のささやきにいたるまで、ロシアの風土のすべてが、戦争から受けた汚職を嘆き、戦争を呪ってやまないだろう」
これは、そのまま日本にあてはまる言葉である。あれから二十年、日本の国内の様相は一変した。まるで、二十年前に、あのようないまわしい戦争などなかったかのように、いったん人々の生命に刻み込まれた、戦争への憎悪、嫌悪の感情は、永久に消えるわけがない。心から平和への欲求、切実なる戦争絶滅への願い、これを、はかなく無に帰せしめてなるものか、創価学会が立ち上がったのも、まさしく日本の崩れざる繁栄、そして、世界の恒久の平和のため以外のなにものでもない。
だが、道は険しく、けっして平坦ではない。たしかにわが国は、悲惨な原爆の体験を経て、敗戦の苦悩のなかに、民主主義国家として、自由と平和をめざして再出発したことは事実である。だが、政界は、民主主義の名のもとに、時の流れを巧みに泳ぐ、無思想、無節操の政治家が軍部に代わって占領したにすぎぬではないか。醜い政権の争奪戦、党利党略の派閥抗争、政治のための政治に堕し、民衆不在の権力政治となって、その腐敗は、極に達している。この自界叛逆の姿が、やがて他国侵逼を呼び、かってない悲惨な現実が展開されないと誰が断定できようか。
真の平和願う民衆
目を世界に転ずれば、そこには、なお阿鼻叫喚の苦悩、餓鬼道のうめき、阿修羅の弩号がある。特に、二大陣営の谷間にある、東南アジア、中近東の懊悩、呻吟は、筆舌に尽くしがたい。インドネシア、ギリシァ等の政情不安もさることながら、特にベトナムの果てしなき、血を血で洗う戦いは、あまりにも悲惨であり、あまりにも残酷である。
だが、この悲惨な現実が、いつ日本に起きないともかぎらぬ。事実、資本主義と共産主義諸国の対立の波は、この日本の国土にはたひたと押し寄せている。一方では、アメリカと結ぶ保守や、それを利用する反動の動き、また一方では、中国・ソ連と結ぶ暴力革命の共産勢力と、わが国も、いつのまにか、再び歴史の試練の前に立たされている。
だが、民衆の心の奥底は、戦争なき平和を願っているのである。今こそ、すべてのものに優先して、人間の生存権、人間性の尊重に立脚しなくてはならぬ。されば、おのれの私利私欲にふけるのをやめ、民衆の幸福を第一義に考えるべきである。ここに、仏法の慈悲の精神が、政治に反映させねばならぬゆえんがあるのである。
仏法は、誰一人を苦しめない。またあらゆる人に、真に喜びと楽しみと希望を与えていくことが、その根本精神である。これを「慈悲」というのである。
仏法でいう「慈悲」とは、世間の人が「愛」と混同して考えているような観念的なものではない。そのようなもので人を救えるわけがないし、仏が一生かけて説くはずがない。それは事実のうえに衆生の苦を救い、楽を与えることであり、人々の心に巣くう悪を断ち、根底より救い切る厳愛の行為である。「慈悲」は愛よりも、はるかに深く強い。
「愛」は、常に「憎」と相対する概念であり、「慈悲」は絶対性をもつ最高の生命の発露である。無理に修行して得るものでもなく、行動のなかに、心の働きのなかに、無意識に自然ににじみ出てくるものである。「愛」の理想を説きながら、激しい憎悪の葛藤を現実生活で行っている二重人格は、キリスト教徒によく見られるところであり、これとは、根本的に異なるものである。「親の子を思う、慈悲に似たり」とあるように、親の子を思う情すら、遠く慈悲におよばないのである。一切衆生を救う、崇高な仏の振舞いこそ慈悲であり、いっさいの根本に「慈悲」の大精神を置いてこそ、民衆を幸福にしきることができるのである。民衆の苦悩を解決し、福祉生活を与えるのが、政治の目的である。ゆえに、政治に最も必要なのは慈悲であると断言してはばかりないのである。
御書にいわく「涅槃経に云く『一切衆生異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり』等云云、日蓮云く一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし」(0587:08、諌暁八幡抄)と。仏の慈悲の広大を伺い知るとともに、政治の要諦はまさにこの一言に尽きるのである。されば現今の劣悪なる政治を打開する方途はこれしかないことを心に銘記すべきである。
災難をとどめる根本方程式
さて客が、主人に天下の災い、国じゅうの災難が何によって起きたのかと、その原因をたずねたところ、その答えは、以外にも、善神・聖人が国を捨て去ったから、国じゅうの災難が並び起ったということであった。この答えは、仏法の知らざる人にとって、驚愕であったのである。そして、これは、今日においても、なかなか理解されがたい仏法上の方程式である。国じゅうが邪法であるがゆえに、諸天善神、聖人は国を捨て、所を去り、かわりに魔王・悪鬼が来て国じゅうに災いが起こることは、大聖人の絶対なる確信であらせられる。日蓮門下と称しながら、この大聖人の一大確信を、単に大聖人の一思想のごとく取り扱う邪宗の輩がいるが、大いなる誤りである。大聖人の真意も知らず、一念三千の仏法哲理も知らず、浅智をもって大聖人の仏法を推し測るのは、増上慢も甚だしいといわざるをえない。大聖人の民衆救済の根本大原理はこれであって、これを信じない者は、日蓮門下とは絶対にいいえないのである。されば、大聖人も、文証・現証を引いて、強くこれを述べられているのであって、客をして「何れの経に出でたるや其の証拠を聞かん」と問わしめたのも、ゆえあるかなと思われるのである。
大聖人の唱えられた、この原理は、きびしき一念三千の生命哲理によられた社会観、宇宙観であり、絶対の真理であることを確信する。ただ、神といい、魔といい、鬼といい、理解されないのは、それがあまりにも迷信化され、仏法本来の生命哲理が歪曲されたために、奇異に感ずるにほかならない。しかし、真実の仏法哲理にめざめるならば、その理論がいかに深く、かつ広いか、またいかに事実と符合しているかを知り、かつは、近代科学の最先端も、その範疇を少しも出ないことに気づき、驚嘆の叫びをあげるであろう。
また、旅客が、主人の意外な答えを聞き、謙虚にその根拠を問うた。その質問の態度こそ、まことに人間として、なかんずく指導者の姿ではないか。
われわれが折伏に行き、不幸の根本を指摘し、大御本尊の偉大なる力を説くや、「そんなばかな…」と耳を貸さない人、激怒し激しい憎悪を、顔面に、行動にあらわす人もいる。また創価学会の主張を、認識もせずして評価する愚かな人々も多い。
だが、これは、あまりにも偏狭であり、感情論であり、みずからの既成智識にしばられた哀れな姿である。大聖人の偉大な確信、そして、われわれが幾多の実証のうえから確信しているところを、ただ一方的に否定し去るのは人間として恥ずべきである。いわんや知識人、または指導者として、人から尊敬されている人のとるべき態度ではない。真に偉大な人、心ある人であれば、未知の世界にはたえず謙虚であるべきである。
まして、人類が、恒久平和か、滅亡かの岐路に立たされているときに、あらたなる方途を見いださんと努力するのが、為政者として当然であろう。ここに、われらの主張を、否定し去る前に、偏見を捨て、感情に流されず、心を澄まして、真なりや否やを検討すべきではないか。
また、ここに旅客は、明かなる経文上の証拠を求めている。そして、それに対する主人の答えにおいても、またこれから出てくる主客の問答においても、大聖人は、ことごとく経文上の証拠、すなわち証文を示して答えられている。これに対し、法然の選択集にしろ、親鸞の歎異抄にしろ、まったく経文によらず、自分勝手な議論を立て、あるいは、師匠のいったことだからといって、盲信しているにすぎない。ここに、正邪の別はきわめて明瞭ではないか。日寬上人はその著「依義判文抄」に「文証無きは悉く是れ邪義なりと、縦い等覚の大士法を説くと雖も経を手に把らざるは之を用ゆべからざるなり」と述べられている。
三証・五重相対・四重興廃・三重秘伝等、すべては仏法は証拠主義である。文証もないような宗教が、どうして正しいといえるか、正邪を論ずる前に、宗教としての資格をすでに失っているといわざるを得ない。
だが、驚いたことに、念仏宗、真言宗、禅宗等、既成仏教として、一般には相当伝統があると考えられている宗教が、ことごとく、経文によらず、まことしやかに、後になって作りあげたものなのでる。こういえば、奇異に感ずるかもしれないが、事実はあくまでも事実である。ただ、日蓮大聖人のみが、厳格に、経文によって義を立てておられるのである。
さらに、今日、日蓮宗と称し、南無妙法蓮華経と唱え数々の宗派が乱立しているが、それがことごとく、大聖人の御書によらず、その教えに反し、師敵対の謗法を重ねている。ただ創価学会のみが、厳格に、御書を拝読し、その根本精神を寸分も狂いなく実践しているのである。
ちなみに、日蓮宗のなかで、今日、真に立正安国論の精神を、この日本の国に実現しようとはかっている教団が、ただの一つでもあろうか。みな、おのれの利益のために狂奔しているのみではないか。この一事をもってしても、日蓮大聖人の、否、遠くは三千年来の仏法の正統が、今いずこにあるかは明白である。
あまりにも仏法に似て非なる邪宗教が、横行していることを嘆かざるをえない。もはや大乗仏法の真髄は、インドにもない。中国にも、東南アジアの国々にも、むろんのことながらまったくない。ただわが創価学会のみが脈々と受け継いでいるのである。
立正安国論の理想
立正安国とは、根本の思想、哲学、宗教を正すことによって、国家・社会を安泰にし、ひいては世界平和と人類の繁栄を実現するための理念である。
偉大なる宗教は、個人にあっても、家庭にあっても、国家であっても、また世界の人類にとっても、必ずや、すばらしい発展と繁栄と平和の実現を約束するものである。
偉大なる宗教の国家社会への影響
したがって、これが国家・社会を単位とした場合でも、まったく同じことが成立するわけである。私が、小説「人間革命」の執筆にあたって、第一巻の序文に「ともあれ、一人の人間における偉大なる人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にするのだ。これがこの物語の主題である」と述べたゆえんも、ここにある。すなわち、国家・社会にあっても、偉大なる宗教は、必ずや国家・社会を立派に革命し、正しく一国の宿命の転換をも成し遂げうることを叫んでやまない。
これ正しく立正安国の精神であり、立正安国の理念である。前に偉大なる宗教の、各個人に及ぼす影響について申し述べたことが、実はそのまま、国家・社会にも、あてはまるのである。
立正安国論には、念仏のごとき釈尊の仏説に反した非科学的な迷信邪教が、一国に弘まったとき、必ず一国に三災七難が起こり、民衆が苦しまざるをえないことが説かれている。また、偉大なる仏国土、すなわち平和で幸福な国家・社会を築くには、民衆各個人が、偉大なる宗教を信ずべきことを説ききっているのである。
すなわち本抄にいわく「汝早く信仰の寸信を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん、此の詞此の言信ず可し崇む可し」(0032:14)と。
およそ人間として、幸福と平和を望まぬ者はいない。しかも個人の幸福と繁栄のみを願う者は、また利己主義者であり、共に論ずるに足らない、真に大仏法を奉ずる者は、特に、国家・社会ひいては全人類、全世界の幸福と平和を熱願して、その達成をめざして前進を続けているのである。
さて、日蓮大聖人は、如説修行抄に「天下万民・諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を 各各御覧ぜよ 現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」(0502:06)と仰せである。これ同じく立正安国の理念を申されたと拝すべきである。
偉大なる宗教は、国家・社会を革命して宿命の転換をも成し遂げ、優れた思想、哲学、人生観をもつことによって人衆は向上し、しかも社会全体に叡智がみなぎってくることは、誰人も否定しえまい。特に、国家・社会における指導者層のいかんによって、民衆の幸・不幸が大きく左右されることは、大聖人が立正安国論に引用された経文に、国王とか賢王という名が多く出てくることで明らかである。
しかし、宗教の正邪によって、三災七難、天変地夭の興起が左右されるということは、なかなか首肯し得ない人も多いに違いない。これは、いわゆる福運論、諸天善神論、依正不二論、詮ずるところは生命哲学論になっていく。立正安国論や如説修行抄に仰せられるような天変地夭・三災七難が起こっても、正法が国にあり、また人間革命され、社会革命された万全の国家・社会の見事なる体制が完成されていれば、これらは、ことごとく人災として、克服しうることは明らかであろう。
しかし、社会体制の完備のみでは、もちろん邪宗謗法が満ちているような国家にあっては、社会体制の完備もありえないが、一国に謗法邪教がみなぎっていれば、不可抗力的な三災七難、天変地夭を免れるわけにはいかないということである。それは一面からいえば、いかに科学技術が発達しようと、数々の災害が絶えないどころか、かえって激増しているような最近の社会情勢、あるいは原水爆や核ミサイル等の人類始まって以来、この上といえるぐらいの恐怖感を考えれば、おのずから明白となることである。
各個人にあっても、福運の有無や諸天善神の加護や治罰が論ぜざれるごとく、宇宙生命の一部たる地球、世界にあっても、同じく福運の問題、諸天善神の問題が論ぜられなければならない。そして、やがて、科学が進歩すればするほど、科学的にも解明しうる時はまさに近いことを確信してやまない。謗法邪教と三災七難の問題は、次の依正不二論において、本源的に論じなければならない。
三災七難と依正不二
立正安国論においては、正法が隠没し、邪宗邪義がはびこるならば、三災七難が必ず起こることを金光明経等の四経の文を引かれて述べられている。すなわち、邪宗邪義により人間の生命が悪に染まるならば、社会が乱れ、さらには国土にも、天文現象にも異変を生じ、人々を奈落の底に追いやると説かれている。また本書の題号のごとく正法を立てるならば、三災七難をとどめ、一国は栄え、ここに絶対にくずれない仏国土が現出することが明かされている。
そのなかに一貫して見いだされるものは、善にせよ悪にせよ、社会環境に影響を与え、環境を変えていくのは、ほかならぬわれら自身であるということである。これこそ仏法の根本であり、この原理を依正不二と明かされている。
依正とは依報と正報のことである。まず正報とは、果報の主体の意であり、簡単にいえば、自己自身の生命である。依報とは、正報の所依の意であり、わかりやすくいえば、自己をとりまくいっさいの環境である。
この依正が而二不二の関係にあるというのが依正不二である。今日まで、幾多の思想、哲学が、環境が先か、人間の心が先かを論じ、対立してきた。だが、仏法で説く依正不二論の立場からいえば、それらは、ともにある面を強調した部分観であり、ことごとく依正不二の生命観に摂せられるのである。
瑞相御書にいわく「夫十方は依報なり.衆生は正報なり譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし・身なくば影なし正報なくば依報なし・又正報をば依報をもつて此れをつくる」(1140:06)と。
ここに明らかに「正報なくば依報なし」および「正報をば依報をもって此れをつくる」という二つの立ち場から、依正の密接不可分な関係が述べられている。
環境と自己の微妙な関係
環境と自己とがいかに微妙に関係しているかは、科学の発達によってますます明らかにされつつある。たとえば、生命の起原に関しても、最近の学説では、地球の進化過程において、地球それ自体から生命が発生したという説が有力である。それはまず間違いないことであろう。今日、生物が存在しているということは動かしがたい事実である。しかも、地球成立当初の高温状態においてそのような生物が存在したとは考えられない。また、他の天体から生命体が降りてくるという仮定もなりたたないことは、もはや証明ずみである。このことを考慮すれば、地球の歴史のある段階に生物が誕生したと考えるほかないのである。このことにより、他の天体でも、条件さえ整えば、生命の発生も当然ありうることが明らかとなり、仏法の正しさが証明されつつあることは注目すべきである。
また、今日において、生物が、その環境と密接不可分な関係を保って存在していることも厳然たる事実である。たとえば、われわれ人間をとりまく環境を考えても、空気、水、米、肉などいっさいがひとつの調和を保ちながら、われわれと不可分な関係を保持している。
空気ひとつを取り上げても、われわれが生存していくためには、空気中の酸素および炭酸ガスの分圧は一定でなければならない。これが極度に変われば、われわれは死ぬしかない。
そこまでいかなくとも、ある限度において、正体そのものが、それらの分圧に応じて変動する。すなわち、酸素の分圧に応じて、ヘモグロビンの含量は変わる。したがって、高地などにおいては、血液も、赤血球の製造元である骨髄も、その構造に変化をきたすのである。
その他、食物にしても、水にしても、太陽光線にしても、また気温や湿度等、いっさいが見事なる調和を保ちながら、われわれと不可分な環境となっている。また潮の干潮と血液の循環とが関係があり、あるいは夜がくると自然に眠くなり、昼は活気づくのが普通である、ほんのわずかな環境の変化も、われわれ生命体に重大な変化をもたらすのである。
また、物理学においても、すでに十七世紀において、ニュートンにより万有引力の法則が発見され、さらに近代においては、ファラデー、マクスウェル、アインシュタイン等により、「場」の理論が展開されるにおよび、この宇宙のいっさいのものが、互いに微妙に関係しあっていることが認められている。単にそれは目に見える物体間のみならず、空間においても、さまざまな現象が、互いに影響しあっているという発見こそ、物理学の面において、依正不二の原理を証明しているとはいえまいか。
また、社会学の立ち場から考えてみても、われわれをとりまく社会が、いかなるものかによって、どんなにわれわれが影響を受けるか測り知れないものがある。したがって、環境は重要であり、これを無視して、個人の幸福は考えられないし、さればこそより良き環境を選び、また良き環境にしようとするのは、人間の当然の心であり、行動であり、姿である。
自己の一念が環境を変える
だが、これらは「正報をば依報をもって此れを作る」という立ち場、すなわち環境が自己を形成していくことに着目した考え方であり、外界を対象として研究する科学の世界であり、制度、機構等を問題にする、政治、経済等の世界である。
はたして、環境がわれわれを一切がんじがらめにしばりつけて、すべてを決定してしまうのであろうか。もし、そうでなければ、悪い環境に生まれた人は、それを宿命としてただあきらめる以外にないではないか。また、環境を変えようとするいっさいの努力は、ことごとく無意味なものとなろう。また、はたして人の幸・不幸は、環境がすべてを決定してしまうのであろうか。人間の内奥の世界を説かずして、問題にせずして、どうして、真実の幸福が樹立できようか。
されば、仏法においては、環境が自己を形成することを認めつつも、また「正報なくば依報なし」と説いて、生命の奥底を説き、そこからいかに強き自己を築くべきか、また環境を変え、環境を支配する自己を形成すべきかを説いているのである。むしろ、幸・不幸という観点からすれば、この面が、はるかに重要であり、かつ根本的、本源的である。なぜかならば人間革命なき、環境の整備は砂上の楼閣であり、かつまた人間生命に内在する喜びや悲しみを抜きにして、幸福を語ることはできないからである。この人間の生命の内奥の世界を仏法では十界論で説き明かしている。
しかして、この十種の生命活動は、環境と不可分であり、環境にその影響が微妙に波及していくのである。
まずその人自身にとっては、たとえば地獄の苦しみに沈んでいるとき、どこへ行こうとあらゆる世界が地獄である。映画館に行こうと、どんなに美しい光景が眼前に展開されようと、生命それ自体に変化がない限り、その世界は暗黒である。
また、修羅の境涯の人にとっては、すべての世界がいらだたしく、また「修羅は身の丈八万由旬」とあるごとく、他の存在が小さな、とるに足りないものに見えてくる。尊厳なる人間の生命をも奪い去ること、平然としてやってのけるのである。
天界の人にとっては、どこへ行っても楽しい、嬉しい境涯であり、天にものぼらん思いであろう。
すべて、これらの生命活動は、生命それ自体の変化であり、意識して変えられるものではないのである。されば、ここに、われわれの生命のなかに仏界を湧現するにはどうすべきか。意識して変えようとする、修行でだめならば、なにをもって顕現すべきなのか。これこそ重要のなかの最重要問題なのである。
全宇宙が十界互具の当体
さらに、自分自身が十界の生命活動をしている当体であるとともに、他の人も同じく十界を具備し、刻々と縁にふれ、それぞれの境涯をあらわしながら、生活している当体である。したがって、自分自身の生命活動が微妙に他の人々に影響していくのである。たとえば、一家のなかに病気で苦しんでいる人がいれば、その家全体はなんとなく暗い。おのれの修羅界の生命活動は、他人の人々の修羅界をも呼び起こす場合もある。いま自分が喜んでいるとすると、その喜びは顔面にあらわれ、また、からだ全体が浮き浮きとなり、行動にも張りがあり、それらがことごとく他の人々にさまざまな影響を与えよう。
仏法においては、自己の生命、さらに衆生全体の生命が十界互具の当体であると説くとともに、宇宙の森羅万象、否、大宇宙それ自体が、十界互具の当体であると説き明かしている。したがって、自己の生命の変化が、微妙に国土にも影響を及ぼしていくのである。国土というのも実に不思議といわざるをえない。たえず生育発展を続け、内には偉大なる力を備え、たとえほんのわずかな量の仏質でも、それが破懐されるときには多大なエネルギーを発散する。さらに、天体の運行、地球の自転、公転等、厳然とそこに法が存在するのである。十界互具の生命体たるわれわれが誕生したのも、ほかならぬこの国土からではないか。
この国土にも十界がある。と説き明かしたところに仏法の偉大さがある。だが、これは難信難解のことである。なかんずく、国土それ自体に仏界の働きがあり、それが顕現されるならば、不滅の楽土となることは、難信難解中の難信難解である。
観心本尊抄にいわく「問うて曰く百界千如と一念三千と差別如何、答えて曰く百界千如は有情界に限り一念三千は情非情に亘る、不審して云く非情に十如是亘るならば草木に心有つて有情の如く成仏を為す可きや如何、答えて曰く此の事難信難解なり天台の難信難解に二有り一には教門の難信難解二には観門の難信難解なり、其の教門の難信難解とは一仏の所説に於て爾前の諸経には二乗闡提・未来に永く成仏せず教主釈尊は始めて正覚を成ず法華経迹本二門に来至し給い彼の二説を壊る一仏二言水火なり誰人か之を信ぜん此れは教門の難信難解なり、観門の難信難解は百界千如一念三千・非情の上の色心の二法十如是是なり、爾りと雖も木画の二像に於ては外典内典共に之を許して本尊と為す其の義に於ては天台一家より出でたり、草木の上に色心の因果を置かずんば木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり、疑つて云く草木国土の上の十如是の因果の二法は何れの文に出でたるや、答えて曰く止観第五に云く「国土世間亦十種の法を具す所以に悪国土・相・性・体・力」等と云云、釈籤第六に云く「相は唯色に在り性は唯心に在り体・力・作・縁は義色心を兼ね因果は唯心・報は唯色に在り」等云云、金ペイ論に云く「乃ち是れ一草・一木・一礫・一塵・各一仏性・各一因果あり縁了を具足す」等云云」(0239:08)
たしかに住居でも、そこに住む人によって明るくもなれば暗くもなる。一国においても、そこに住む民衆の心がすさみ、疲弊しきっていれば、国土も荒廃する。国土もまた人間の心の反映であり、また価値創造のあらわれである。
環境と生命の関係
ある科学者は、生命の起源をさらに推し進めて次のような論を展開している。
まず最初に、生物でもなく環境でもない。ただ存在としかいいえないものが存在した。それは、生物、無生物の区別以前の混沌である。しかもこの混沌は、単なる混沌ではなく、一つの方向をもっている。それが、すなわち生命への方向である。換言すれば、最初の混沌は、単なる無生的なものではなく、それ自身は無生物であるにしても、生命への萌芽を内に蔵しているのである。それが時とともに生物としての自己をあらわしてくるのである。
しかし、生物が生物として自己をあらわしてくるとは、他面、環境が環境としてその性格を明らかにすることでもある。この意味において生物が生物となる時、環境は環境となる。あるいは原子存在そのものが生物と環境に分化するといえよう。したがって、生物と環境が相互に適合するということは当然なのである。生物と環境を別々に考えるから、両者の適合に驚き目を見張ることもおこるのであるが、われわれのように考えるならば、それが当然なのであり、むしろ生物と環境とが適合せぬことが不思議なのである。否、適合しなくては、生物も環境もないのである。この点、ドイツの生理学者ユクスキュールが生物と環境の関係を、切り抜かれた紙が、その空白にぴったり合うのにたとえられたのは、まことにもっともといわなければならない。
生物は環境を原因として、自己を形成するのであり、他方、環境はその生物に応じて、しだいに生物的環境となるのである。生物そのものというものがないのと同じように、環境そのものというのも存在しない、人間はともすれば、一定不変の環境を考え、そこへすべての生物は置かれていると考える。しかし、人間には人間の環境があり、魚には魚の、また鳥には鳥の環境がある。そして、人間各自にとって、環境はそれぞれ異なるように、すべての生物には各自の環境がある。
一言にしていえば環境は無数である。生物を離れて環境自体というものはどこにもない。生物が生物としてしだいに自己を生み出してゆくように、そして、それによってさまざまな生物がそれぞれの自己の形を明らかにしてくるように、環境もまた、しだいに生物から分離して環境となるとともに、それぞれの生物に対応する、さまざまな環境として自己を示しているのである。
彼はさらにこの論を勧めて、生命を誕生せしめた環境は、いわば生命を、あるいは生命の方向を内に蔵する環境であり、結局、それは単なる無生の物質でもなければ、単なる環境でもなく、また明らかな生物でもない。環境と生物の両者末分の混沌であるという。さらに彼は結論していわく「宇宙そのものが生命の世界である」「結局、一切が生命なのである」と。
ここに、科学の方向が、いかに依正不二に近づいているかを知るとともに、着目すべきは、環境は無数であるということである。魚には魚の、鳥には鳥の、人間には人間の環境があるということである。
されば、同じ人間であっても、その人によって環境がみな違うのは当然であろう。また一人について論じても時々刻々と環境は移り変わっているのである。
これは、仏法の眼を開いて見れば当然すぎるぐらいの当然のことである。日寬上人が三重秘伝抄に「地獄は赤鉄に依って住し、餓鬼は閻浮の下・五百由旬に住し、畜生は水陸空に住し、修羅は海の畔、海の底に住し、人は大地に依って住し、天は宮殿に依って住し、二乗は方便土に依って住し、菩薩は実報土に依って住し、仏は寂光土に住したもうなり」と述べられているのも、正報と依報との密接不可分な関係を示したものである。
されば一社会に、貧・瞋・癡の三毒が充満し、人々の心が三悪道・四悪趣の境涯に陥っていれば、その環境もまた、すさみきり、人々を不幸へつきおとす働きが充満してくるのである。疫病が起こり、飢餓が人々を圧迫し、嵐は猛威をふるい、大地が動き、洪水も起こる。まさしく国土もまた三悪、四悪の姿となるのである。これまでの歴史をみても、人間の心が乱れたときに、必ずといってよいくらい、大災害が起きているのは、この原理の正しいことを裏書きしているのではないか。
妙法根底に楽土建設
仏法では、いかにして、一人の人間の宿命を転換し、ここに仏界を涌現せしめるか、また、さらには、いかにしたら民族自体の宿命を変え、ここにくずれなき仏国土を築くことができるか、その方途を説き明かしている。
すなわち、末法の今日においては、日蓮大聖人御建立の大御本尊に向かい、南無妙法蓮華経と唱える以外にないことを教えられている。
南無妙法蓮華経にはとうていわれわれ凡愚には説ききれるものではないが、しいていえば、大宇宙の本源力であり、あらゆるものを変化せしめていく根本である。しかして、大御本尊はこの宇宙大の力の凝結であり、われらが、大御本尊に向かい、唱題するときに、われわれもまた一念に宇宙大の自己を見いだすことができるのである。すなわち、大宇宙のリズムに合致し、滞りなく、強い生命力が発現し、永久に生き詰ることなく、この一生を幸福に満ち満ちて前進していけるのである。同じく信心強き者の一念の結果は、民族を興隆させ、楽土を築き、世界平和をもたらすことができるのである。
これは、ただ単に理論だけでわかるわけがない。科学がいかにさまざまなことを発見したとはいえ、ある科学者の述べるごとく「真理を生み出す何億という鼓動のうちのまったく小さな一つの脈搏」に過ぎない。科学の言葉で説明するには、仏法の世界にはあまりにも広くかつ深すぎる。もはやここにいたっては体験し、実証する以外にないのである。
それでは、科学が発展していけば、最後には、仏法のすべてに到達するか、答えは否である。科学者が、科学の発達によって悟ったものは何か。それは、科学が進歩すれば、未知の世界がだんだんなくなるというのではなく、否、未知の世界が、ますます広がるばかりであるという厳粛なる事実である。科学は、あくまでも外界の物理化学現象の分析と綜合の学問であり、それは、われわれの窮めていく世界のほんの一部分である。
しかしながら、科学が、仏法の説くところに次第に合致してきていることも事実である。これをもって、仏法の原理がいよいよ正しいことを確信されたい。
世間の人々は、邪宗教によって、三災七難が起きたり、正法によって国土安穏になるということを聞けば、奇異に感ずるのは、その人のそれまでの常識とかけはなれたものであるからにほかならない。およそ常識というものは、往々にして、誤った認識である場合が多い。いったん頭のなかに特定の物の見方が固定してしまうと、なかなか新しい事実を、新しい目でみることができなくなってしまうものだ。
竜の口法難に見る不思議
仏法の眼開けて見れば、われわれの一念により、社会を変え、民族を変え、また国土をも変えていくことは絶対の事実である。
されば、妙法を信ずれば諸天の加護があることも当然といえよう。諸天善神については、第一段第二章において詳論したところであるが、その本質は、大宇宙のそれ自体が、われわれに幸福をもたらす働きとして、作用してくるのである。
種種御振舞御書には、大聖人が、竜の口に行かれる途中、若宮小路において八幡大菩薩を叱りとばす場面が描写されている。さらに竜の口の刑場のようすは、次のように述べられている。
「いかに・やくそくをば・たがへらるるぞと申せし時、江のしまのかたより月のごとく・ひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる、十二日の夜のあけぐれ人の面も・みへざりしが物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ・たふれ臥し兵共おぢ怖れ・けうさめて一町計りはせのき、或は馬より・をりて・かしこまり或は馬の上にて・うずくまれるもあり、日蓮申すやう・いかにとのばら・かかる大禍ある召人にはとをのくぞ近く打ちよれや打ちよれやと・たかだかと・よばわれども・いそぎよる人もなし、さてよあけば・いかにいかに頚切べくはいそぎ切るべし夜明けなばみぐるしかりなんと・すすめしかども・とかくのへんじもなし」(0914:01)
この現象を科学者であれば、いろいろと説明を加えるであろう。たとえば、その光り物は、いわゆる火球で説明されよう。火球とは隕石が地球に落ちてくるときに、大きく燃えているような球が、光った煙のような尾を引きながら、すごい速さで飛ぶ現象をいう。
火球は、あたりを明るく照らし出す、その明るさは、時としては数十億燭光に達するといわれる。それが消えるときには、爆発か砲撃のような、猛烈な音がすることである。1908年に、シベリア北部に巨大な隕石が落ちてきた。見た人の言葉によると、朝の7時ごろに現れた火球は、太陽のようにあざやかに光っていたということである。隕石は、部落の近くにある密林に落ち、破裂し、そのために森林は広い地域にわたってなぎ倒されたとのことである。
竜の口の現象も、あるいは「物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ」とあるからこの火球がそれであったのかもしれない。それならば、隕石が空中で燃えて火球になったもので、奇跡でもなんでもないではないかと人はいうかもしれない。なにもわれわれは奇跡とはいわない。科学的に説明できるのは当然と考える。ただ、大聖人が諸天善神に対して加護せよと叱咤したあと、しかも首を切られる寸前にこの現象があったという事実、そして幕府の役人たちが、大聖人の頸をついに斬れなかったという動かすことのできない事実、これは科学では説明できるわけがない。また科学の取り扱う分野でもない。科学の眼で見ることのできぬものである。これこそ仏法の眼によらなければ絶対に明らかにならないのである。
さらに、死刑を脱した大聖人が、依智の本間六郎左衛門の邸宅において、再び諸天善神を叱咤された時にも、すぐさま不思議な現象が起きている。同じく種種御振舞御書に「いかに月天いかに月天とせめしかば、其のしるしにや天より明星の如くなる大星下りて前の梅の木の枝に・かかりてありしかば・もののふども皆えんより・とびをり或は大庭にひれふし或は家のうしろへにげぬ、やがて即ち天かきくもりて大風吹き来りて江の島のなるとて空のひびく事・大なるつづみを打つがごとし」(0915:12)と。
これもまた流星であるとか、空気中の放電現象である等と説明されるであろう。だが、そのような説明は、分析と綜合による現象の物理化学的な面での説明であって、現象それ自体の説明ではない。大聖人の御生命が危機にさらされている時、しかも諸天を叱られたあとに、なにゆえこのような現象が起きたか。さらにまた、竜の口における現象とを合わせて考えるならば、このような現象が立て続けに二回起きるということは、確率のうえからいっても、それこそ何億分の一、何兆分の一であろう。これを単に偶然といってすまされるであろうか。この事実を明確に説ききれるものは、仏法の依正不二の原理以外にないのである。
われわれは、依正不二の原理を説き明かし、そこから世の不幸の根源を示し、その解決を明示した立正安国論こそ、必ずや、日本一国はおろか、全世界の幸福を招来する力強き一書なることを、強く確信してやまぬものである。
戸田前会長いわく「世上の識者の中には、立正安国論は、単なる日蓮大聖人の片寄った考え方であると見るむきがあるが、これは誠に浅はかな僻見であって、同論こそ厳格なる科学的理論と現象との一致を見た前人末踏の書であり、宇宙観、社会観よりして、寸分狂いなき正しき哲理なのである。また安国論をたんなる観念的な哲学論であると考える向きもあるが、もちろんこれもまた真実を認識しえない僻見にすぎない。立正安国論こそ、国家安穏、天下泰平の一国治術の大法則である」と。
第二章(経証の一 金光明経 1)
主人の曰く、其の文繁多にして其の証弘博なり。
金光明経に云く。
「其の国土に於て此の経有りと雖も、未だ甞て流布せしめず、捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず、亦供養し尊重し讃歎せず、四部の衆、持経の人を見て、亦復尊重し乃至供養すること能わず。遂に我れ等及び余の眷属無量の諸天をして、此の甚深の妙法を聞くことを得ざらしめ、甘露の味に背き、正法の流を失い、威光及以び勢力有ること無からしむ。悪趣を増長し、人天を損減し、生死の河に墜ちて涅槃の路に乖かん。
世尊、我等四王並びに諸の眷属及び薬叉等、斯くの如き事を見て、其の国土を捨てて擁護の心無けん。但だ我等のみ是の王を捨棄するに非ず、必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも、皆悉く捨去せん。
既に捨離し已りなば、其の国当に種種の災禍有つて、国位を喪失すべし。一切の人衆、皆善心無く、唯繋縛・殺害・瞋諍のみ有つて、互に相讒諂し、枉げて辜無きに及ばん。疫病流行し、彗星数ば出で、両の日並び現じ、薄蝕恒無く、黒白の二虹不祥の相を表わし、星流れ地動き、井の内に声を発し、暴雨・悪風時節に依らず、常に飢饉に遭つて苗実成らず、多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し、人民諸の苦悩を受け、土地に所楽の処有ること無けん」已上。
現代語訳
主人のいわく。
一切経のなかには、そのような文はたくさんあり、その証拠は数えきれないほどある。いま略して明文を示そう。
まず金光明経には次のようにある。
あるとき、四天王が仏に申し上げていうには、その国土に、たとえこの経があっても、国王がそれを流布させないで、むしろ、捨て離れる心を起こして聞こうともせず、身で供養することも、心で尊重することも、口で賛嘆することもせず、正法をたもつ四部の衆や持経の人をみて尊重も供養もしない。そして、ついには帝釈天や四天王、およびその他の無量の諸天に対して、この甚深の妙法を聞かせないようにしてしまい、そのために、諸天は食べ物としている甘露の味を得られず、正法の流れに浴さず、ついに諸天をしてその勢力、威光を失わせてしまう。その結果、国じゅうに地獄、餓鬼、畜生、修羅などの四悪趣を増長し、人界、天界の楽しみはそこなわれ、生死の河、すなわち煩悩、無明の苦しみの充満する世界に落ちこんで、涅槃の道すなわち成仏の道に背き、ますますそれから遠ざかってしまうのである。
世尊よ、われら四天王並びにもろもろの眷属、および薬叉等は、国王が正法を流布せしめない、このような国王の謗法をみて、その国土を捨てて擁護しなくなってしまうであろう。そのうえ、ただわれら四天王がこの国土を捨て去るばかりでなく、かならず無量の国土を守護する諸大善神も皆ことごとく国土を捨て去るであろう。
すでに、四天王をはじめ、諸天善神が捨て去ってしまうならば、その国には種々の災禍があって、まさに国位を失ってしまうであろう。いっさいの人衆は皆ことごとく善心がなく、ただ縛り合い、殺害し合い、争い合って互いに相手を讒言し、罪のないものを無理矢理に法をまげて罪に陥れるであろう。数々の疫病が流行し、空には彗星がしばしば出て、一度に二つの日が並んで現れ、日蝕や月蝕などの薄蝕がしばしばあり、黒白の虹が出て不祥の相を現し、流れ星が出、地震が起きて、井戸の中から異様な地鳴りがする。また、大雨や暴風があって風雨が時節どおりでなく、つねに飢饉がつづいて草木が実らず、多くの他国の怨賊が国内を侵略し、人民は諸の苦脳をうけ、国内にはいずれの土地も楽しく生活のできるところがなくなってしまうであろう。
語釈
金光明経
この経が流布するところは、四天王をはじめ諸天善神がよくその国を守りその国を益し、災厄がなく人々が幸福になることを説いている。漢訳は五種三存で、北涼の曇無讖訳「金光明経」四巻、唐の義浄の「金光明最勝王経」十巻などがある。中国では曇無讖の訳が広く用いられ、吉蔵の疏があり、天台大師もこの経について疏釈している。日本では法華経・仁王経とともに護国三部経のひとつに数えられ、聖武天皇は義浄訳の金光明最勝王経を写経して全国に配布し、また全国に国分寺を建立し、「金光明四天王護国之寺」と称された。
薬叉
梵名ヤクシャ(yakṣa)の音写。「やくしゃ」とも読み、夜叉とも書き、勇健・暴悪などと訳す。森林に棲む鬼神。地夜叉・虚空夜叉・天夜叉の三類あって、天・虚空の二夜叉は飛行するが、地夜叉は飛行しないといわれる。仏教では八部衆の一つとされ、毘沙門天の眷属として北方を守護するとされた。
両の日並び現じ
太陽が二つ並んで出現したように見える現象のこと。大気中に浮かぶ氷の結晶による太陽光の屈折や反射で生ずる「幻日」や「百二十度幻日」また「反対幻日」によって、あたかも太陽が二つあるように見えるものをいう。陰陽道では二人の王が並び立って世の中が乱れる凶瑞とした。
薄蝕恒無く
「薄」とは、もやや塵のため太陽や月の光が薄くなること。「蝕」は日食・月食が起こること。「恒無く」とは規則性がなく、薄蝕がしばしば起こることをいう。古来、日月の薄蝕の乱れは、帝王の権威が衰えたり、他国から侵されたりする凶瑞とされた。
黒白の二虹
黒色の虹と白色の虹のこと。「黒虹」は急激な気象の変化によって生ずる悪気流のようなものと考えられる。「白虹」は幻日環のときに現れる光弧と考えられる。中国では白虹は革命や戦乱の前触れとして恐れられた。
井の内に声を発し
地震のときに、短周期の地震波が空気を振動させることによって遠雷や大砲のような音響を発することがあるが、このような地殻の変動に関係して起こった音と思われる。
講義
正法を捨てて邪法に帰すると諸天および聖人が、その国を捨て去り、災難がおこるという証文として、金光明経・大集経・仁王経・薬師経の四経の文を引かれたのである。
経証として爾前を引く理由
さて、この四経は、ともに法華経以前に説かれた、いわゆる「爾前経」である。大聖人は諸御書で、無量義経の「四十余年末だ真実を顕わさず」、方便品の「正直に方便を捨てて但無上道を説く」等の幾多の経文を引かれて、爾前経を破折しておられる。
では、いったいなにゆえに爾前経を破折しておきながら、しかもここに爾前の経々をひかれたのか。
これについては大聖人が観心本尊得意抄に次のように明確に仰せられているごとくである。
「一北方の能化難じて云く爾前の経をば未顕真実と捨て乍ら安国論には爾前の経を引き文証とする事自語相違と不審の事・前前申せし如し、総じて一代聖教を大に分つて二と為す一には大綱二には網目なり、初の大綱とは成仏得道の教なり、成仏の教とは法華経なり、次に網目とは法華已前の諸経なり、彼の諸経等は不成仏の教なり、成仏得道の文言之を説くと雖も但名字のみ有て其の実義は法華に之有り、伝教大師の決権実論に云く「権智の所作は唯名のみ有て実義有ること無し」云云、但し権教に於ても成仏得道の外は説相空しかる可からず法華の為の網目なるが故に、所詮成仏の大綱を法華に之を説き其の余の網目は衆典に之を明す、法華の為の網目なるが故に法華の証文に之を引き用ゆ可きなり、其の上法華経にて実義有る可きを爾前の経にして名字計りののしる事全く法華の為なり、然る間尤も法華の証文となるべし」(0972:11)。
すなわち、成仏得道の経は、法華経に限るが、それ以外のことについては、その他の経文に明らかにされている。されば、その実体を法華経なりとすれば、いっさいの経々はことごとく生かされてくるのと仰せです。
さらに日寬上人は、安国論文段に、爾前の経を引証した理由は略して四あると仰せられている。
第一には法華経は大網であり、爾前は法華経のための網目であるから、大綱のために網目を用いるのである。
第二には文が爾前の経に出ているが、しかも義は法華にあるからである。
第三には爾前の劣る経ですらこの通りであるから、まして勝れた法華経においてはなおさらのことである。
第四には爾前の文を借りて法華の義を顕すのであり、開会の上であらゆる経文を用いるのである。
まず第一の「爾前はこれ法華経の網目なるゆえ」という理由について、前にあげたごとく観心本尊得意抄に「所詮成仏の大綱を法華に之を説き其の余の網目は衆典に之を明す、法華の為の網目なるが故に法華の証文に之を引き用ゆ可きなり」(0973:01)とあり、妙楽大師の釈籖十には「唯大網を存して網目に事らず」とあり、同じく文句記の九の末には「円教の行理の骨目自ら成ず皮膚毛彩は衆典に出在せり」とある。
第二の「文は爾前に在り義は法華に在りのゆえ」という理由については同じく観心本尊抄得意抄に「其の上法華経にて実義有る可きを爾前の経にして名字計りののしる事全く法華の為なり、然る間尤も法華の証文となるべし」(0973:02)とあり、「種々の道を示すと雖もそれ実に仏乗の為なり」とある。また文句記三の上には「ゆえに外・小・権・迹を内・大・実・本に望むるに並びに名のみ有りて実無きなり、ゆえに仏・迦葉を斥けて汝昔し但涅槃の名を聞いていまだその義を聞かず」とある。
第三の「爾前の劣を以って法華の勝を況するゆえ」という理由については、四条金吾釈迦仏供養事「当に知るべし日月天の四天下をめぐり給うは仏法の力なり・彼の金光明経・最勝王経は法華経の方便なり勝劣を論ずれば乳と醍醐と金と宝珠との如し、劣なる経を食しましまして尚四天下をめぐり給う、何に況や法華経の醍醐の甘味を甞させ給はんをや」(1146:01)とある。
また撰時抄にも「彼の大集経は仏説の中の権大乗ぞかし、生死をはなるる道には法華経の結縁なき者のためには未顕真実なれども六道・四生・三世の事を記し給いけるは寸分もたがはざりけるにや、何に況や法華経は釈尊・要当説真実となのらせ給い多宝仏は真実なりと御判をそへ十方の諸仏は広長舌を梵天につけて誠諦と指し示し…」(0265:02)とあるがごとくである。
第四の「爾前の文を借りて法華の義を顕わすゆえ」というりゆうについては、十章抄には「止観一部は法華経の開会の上に建立せる文なり、爾前の経経をひき乃至外典を用いて候も爾前・外典の心にはあらず、文をばかれども義をばけづりすてたるなり」(1273:08)とある。さらに成論の二如来、阿含の四処起塔等、これを思い合わすべきである。すなわち開会の後に文を借り義を顕すのである。
南無妙法蓮華経こそ一切経の観心
また、同じ原理が日寬上人の三重秘伝抄に説かれている。すなわち天台大師が、一念三千を証明するために、華厳経の「心は工なる画師の種々の五陰を造るが如く一切世界の中に法として造らざることなし」の文を引いていることについて、次のように述べられてる。
「問う昔の経経の中に一念三千を明かさずんば天台何ぞ華厳心造の文を引いて一念三千を証するや。
答う彼の記小久成を明かさず何ぞ一念三千を明かさんや、若し大師引用の意は浄覚云く『今の引用は会入の後に従う』等云云、又古徳云く『華厳は死の法門にして法華は勝の法門なり』云々、彼の経は当分は有名無実なる故に死の法門と云う。楽天曰く『龍門原の上に土・骨を埋めて名を埋めず』と、和泉式部云く『諸共に苔の下には朽ちずして埋もれる名を見るぞ悲しき』云云、若し会入の後は猶蘇生の如し故に活の法門と云うなり」
すなわち、華厳経それ自体としては、四十余年未顕真実の教えであり「死の法門」であるが、ひとたび、法華経の立ち場で用いれば、十界互具、一念三千の説明として生かされ「活の法門」となるのであるが、これは大集経等の場合についても同じであり、それ自体としては、名のみで実体もなく、けっして民衆の幸福を築く力ある経文ではなく「死の法門」である。だが、ひとたびそれを法華経の立ち場で用いれば、たちまち生命をふきかえし「活の法門」となるのである。
以上のことに関連して、さらに大聖人は、なぜ釈尊の法華経にはもはや力がなくなったかといわれながら、その法華経の経文を用いられている。
まず、法華経に力がないことを示された御文は、上野殿御返事に「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(1546:11)、高橋入道殿御返事「末法に入りなば迦葉・阿難等・文殊・弥勒菩薩等・薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗経・並びに法華経は文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず、所謂病は重し薬はあさし」(1458:13)等、枚挙にいとまがない。
だが、これもまた同じ原理であり、成仏得道の教えとしては、もはや法華経にも力がなくなってしまった。しかし、法華経の実体を、寿量文底下種の南無妙法蓮華経としたときに、ことごとく生かされることを知らなくてはならない。
日蓮大聖人の仏法から立ち返ってみるならば、法華経二十八品ことごとく南無妙法蓮華経を明かさんとして説かれたものであり、南無妙法蓮華経こそ、一切経の根本であり、法華経の肝要なのである。
曾谷入道殿御返事に「南無妙法蓮華経と申すは一代の肝心たるのみならず法華経の心なり体なり所詮なり」(1058:08)云云と。
三大秘法抄には「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり」(1023:13)云々と。
したがって、法華経が、いかに釈迦仏法中、最高であったとしても、南無妙法蓮華経を根本としなければ、それは名のみあって実体なく「死の法門」にすぎないのである。今日、法華経が、釈尊一代五十年のなかで、最高の経文であることは、仏の金言に明らかであり、少しく仏法を知った人であれば、誰でもわかることである。だが、いったい、なぜ法華経が最高なのかについては、まったく知る人がいない。ただ文々句々に執し、それであたかも法華経を知ったかのような錯覚をしているのである。
一代聖教大意には「此の法華経は知らずして習い談ずる者は但爾前の経の利益なり」(0404:03)と。また開目抄には「当世も法華経をば皆信じたるやうなれども法華経にては・なきなり」(0195:10)と。
ここに、法華経にせよ、また釈尊一代の経々にせよ、ことごとく三大秘法の南無妙法蓮華経によって、初めて、生かされて「活の法門」となり、意味をもってくるのである。
ゆえに、「其の国土に於いて此の経有りと雖も」とは、一応、文上から読むならば、ある国土に金光明経があって、この金光明経を流布もしない。しかも捨離する心を生ずるならば…等と読まれるのであるが、これではまったく意味がない。これは、仏法上の経相をとって、日蓮大聖人の読み方、すなわち観心の読み方ではない。大聖人の仏法においては、経文を文字に表わされたままに読み理解するのを経相の文上ともいい、大聖人の御真意を観心とも文底ともいうのである。立正安国論は大聖人の大確信であり、法華経の真髄であるから、金光明経とはいえ、観心文底において拝すべきなのである。
其の国土に於て此の経有りと雖も未だ甞て流布せしめず捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず亦供養し尊重し讃歎せず四部の衆・持経の人を見て亦復た尊重し乃至供養すること能わず
されば、この御文を、日寬上人の文段によって、観心文底より拝すれば、次のようになる。「其の国土に於いて」の国土とは、日本国であり、「此の経有り」とは、本門の本尊、妙法蓮華経の五字、すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経である。三大秘法とは、本門の題目、本門の本尊、本門の戒壇の三つであり、三大秘法の南無妙法蓮華経とは、弘安2年(1279)10月12日の御図顕の一閻浮提総与の大曼荼羅のことである。
「未だ甞て流布せしめず捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず亦供養し尊重し讃歎せず四部の衆・持経の人を見て亦復た尊重し乃至供養すること能わず」の未だ甞て流布せしめずとは、いまだ一閻浮提に広宣流布せしめないことである。顕仏未来記の「本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか」(0507:06)云云の文を思い合わすべきである。
為政者が、この大御本尊を、いまだかって日本に流布せしめずして、またこのわれらが主師親と仰ぐべき本尊を、ただ、受持しないばかりでなく、捨離の心を生じて、この本尊を求めようとせず、この本尊のことを聞こうともしない。また、この本尊を身に供養せず、意に尊重せず、口に讃嘆しようともしない。また、文底受持の行者、すなわちこの大御本尊を持つ人を、尊重したり、供養したり、讃嘆したりすることは考えもおよばない。それであるから、「遂に我等及び余の眷属…」等と、梵天、帝釈、四天王、およびもろもろの諸天善神をして、この深秘の妙法、すなわち三大秘法の南無妙保蓮華経を聞くことができると嘆かせるのである。
さらに、日寬上人は、文段に次のごとく述べられている。
「ゆえに三箇の妙法の法味に飢えて三箇の秘法の水流に渇く、ゆえに『威光勢力あることなし』と云云。学者まさに知るべし、日本国中みなすでに毒薬邪法の飲食なり、諸天何んぞこれを受けんや、ただ我が文底甚秘の大法のみ無上の甘露正法なりしもこれを供養せずんば諸天の威光如何ん、すべからずこの意を了すべし、あえて懈ることなかれ」
日蓮大聖人は、建長5年(1253)4月28日の立宗宣言以来、罵倒と迫害の連続であった。特に文応元年(1260)7月に、この立正安国論を著わし幕府を諌言されるや、それはまさに怒濤となって押し寄せてきた、立正安国論の根本精神は三災七難の不幸の根源は、邪宗教にあり、もし、これに対してなお帰依を続けるならば、他国侵逼・自界叛逆の二難が必ず起こる、ということであった。「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(0024:03、立正安国論)「謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば、国中安穏にして天下泰平ならん」(0027:02、立正安国論)等の肺腑をえぐる全民衆救済の烈々たる叫びに対して、悪酒に酔いしれる幕府の権力者たちは、松葉ヶ谷の草庵の焼き打ち、伊豆・伊東への流罪をもって遇したのである。
はたして、文応元年より満七年、文永5年正月、蒙古より牒状が到来し、立正安国論の予言の的中が疑いなき事実となった。だが、幕府は、なお悪夢からさめず、諸社寺に蒙古降伏の加持祈祷をさせるなど、謗法を重ねていった。この国家存亡の危急に対して、日蓮大聖人は十一通の御書を認めて、幕府の迷妄をさますように、また時の邪宗教に対しては、公場対決をきびしく迫られたのであった。
しかるに、幕府はこの至誠あふれる国諫を聞き入れないのみか、幕府の上﨟、尼御前たちに取り入った極楽寺良観、建長寺道隆等の邪僧の言葉に迷い、ますます激しい弾圧と迫害とを、大聖人およびその御一門に加えていったのである。
かくして文永8年(1271)9月12日、幕府の軍事警察権を一手ににぎって、絶対の権力をふるっていた平左衛門頼綱は、無謀にも大聖人を竜の口の刑場で、頸を刎ねんとしたのである。だが、所詮、いかなる大難も、その本仏の御境涯をこわすことはできなかった。その夜の不思議な現象に、頸斬り役人どもは恐れおののき、ついに処刑を断念してしまったのである。しかし、大聖人は念仏者等の陰謀のため、佐渡へと流罪され、そこで不自由な三ヵ年の生活を送られた。この間、時宗の兄、時輔の陰謀などがあって、自界叛逆の様相は、ますます深刻となってきた。文永11年(1274)、佐渡から鎌倉へ帰られた大聖人は、幕府を諌め、「今年は必ず蒙古の責めに会う」と断言、これも聞き入れられなかったので、故事にならい「三度諫めても用いなければ国を去る」と宣言され、身延の山へこもられたのであった。
だが、大聖人は、ここで「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(0329:03)との御文のごとく、ひたすら末法万年尽未来際までも利益する大御本尊の建立の準備をされていった。ついに熱原法難の機に立宗より27年、弘安2年(1279)10月12日、「余は27年なり」と申されて、出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊を御図顕あそばされたのである。
太平洋戦争は以北の遠因
以上のように、大聖人の御一生をみるに、大正法が打ち立てられたのもかかわらず、この大法を日本の指導者は流布せしめなかった。まさしく、当時の日本国の実情は「末だ甞て流布せしめず」の感を深くするではないか。また、当時の権力者の横暴なふるまいは甞て流布、まさに「捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず」等の文にあたり、したがって諸天善神は国を捨て去り、日本の国は、福運をまったくなくしてしまったのである。他国侵逼難は、大聖人がおおせられればこそ、当時は、免れることができなかったが、ここに、すでに太平洋戦争の未曾有の敗戦の遠因があったのである。
戸田前会長はこのことについて、次のごとく述べられている。
「日蓮大聖人は御本仏にていませばせば、断じて未来を予言し、お言葉どうりに自界叛逆難があり、他国侵逼難が実現したのである。時の上下の人々が、この予言書を誠実な気持ちをもって信じて、大聖人の教えを一国に流布したならば、あの時代からいかに日本が栄たであろうか」、だが、それに反して、「大聖人世を去られて六百有余年、あれほど懇篤に未来の真の仏法、大良薬を奨められてあったにもかかわらず、まことに爪上の土の如く、極く少数の人のみに信じられて、大多数の人々はこれを信じなったがゆえに、実に七百年近い昔の予言が的中して、アメリカ軍による日本国土の占領という他国侵逼難があらわれたのである。
およそ原因には二とおりある。近因と遠因である。近因とは、ある事件が起こった直接の条件、作用であり、遠因とは、それらの条件作用を必然とならしめる根本の因である。
太平洋戦争を語るとき、そこには当然、軍部閣僚の無能が話されなければならないであろう。当時の軍部首脳部の民衆から遊離した政治感覚、派閥争いに終始したその官僚性、および科学に対する驚くべき無智は、日本の敗戦に直接つながるものとして、きびしく、批判されるべきであろう。しかし、われわれはここに一大亡国の姿を現じた根本原因は、実は“見えざる敵”にあったことを、肝に命ずべきである。すなわち、七百年近くにわたった、正法に対する敵対の総決算であり、大聖人の諫言を用いなかったがゆえの破滅であることを断ずるものである。
根は深く、源は遠かった。大聖人滅後六百数十年、この間において、真実に民衆救済の大白法が、この日本の国にありながら、隠没され、人々から少しも顧みられなかった。ただ邪宗教のみが跋扈し、乱脈を続け、また世欲的な権力と結びついて、人々に害毒を流しづづけてきた。
阿鼻叫喚地獄の様相を呈しながら、悲惨な終焉を告げた鎌倉幕府の後にきたものは、室町時代であった。この時代においては、応仁の乱等社会の乱れに乗じて念仏がひろまり、特に蓮如を中心とする一派が、文化の発達しない地方への進出をはかり、かなりの信者を得て、ついに大阪に本願寺城を築き一向一揆の基となった。
戦国時代にはいると、石山本願寺、比叡山、高野山などの諸宗の本山は、宗教よりも武力をもつ集団として、戦乱によって徹底的に蹂躙されたのである。
最も悲惨をきわめたのは、比叡山であった。織田信長により、山上の全寺塔は焼き払われ、僧徒1600人が、焼き殺された。また本願寺も、信長、秀吉に攻められて、徹底的な打撃をうけた。まさに、この時代の宗教界は、修羅闘諍にふけり、利益にからんだ醜い権力との結託に狂奔し、その結果、戦乱の渦中に巻き込まれ、悲惨な姿を繰り広げた。そこには、仏法の精神はまったくなく、あるものは、ただ三悪道・四悪道のみであった。
やがて徳川幕府が成立し、ようやく世の中も落ち着きをみせた。宗教界も、形式的には発展を示した。たとえば、天台宗の僧、天海が上野に寬永寺を建て、また浄土宗が家康の保護で芝の増上寺を建てる等である。
だが、徳川幕府の封建制度下にあった仏教の内容は、堕落の一言に尽きるのでる。幕府は、キリシタン禁令を徹底させるため「宗門改め制度」を設け、それに仏教を利用し、庶民統制の組織をとったのである。これによって檀家制度が確立し、人々は出生、結婚、旅行、職人の雇い入れ、埋葬などすべて檀那寺の承認をえなければならなくなった。また、本寺、末寺、の関係を決めて、本山の統制力を強化し、その上に寺社奉行を置いて、封建的な秩序を保とうとした。当然、改宗なども強い制限を受けた。かくして、既成宗教は、幕府の御用機関となって骨抜きにされ、幕府の保護、檀家からの布施、寺領からの収入によって、安逸に流れ堕落していった。いわば、仏教は封建政策の道具と化したのである。
この檀那制度の影響がいかに根強いかは、今日われわれが折伏にいったときに、痛感するところである。その寺がいかなる宗派で、いかなる教えを説くかなどは、まったく知らず、疑問ももたず、ただ墓場を掃除し、僧侶にお金でもあげておけば、先祖も喜び、自分も幸福になると思っている。
明治以降、日本は政治上では形ばかりの近代化を遂げた。こうした民主に巣くう、封建制、事大主義、因習は、根強く残っていることを知らねばならない。
神道と国家権力の結託
やがて、王政復古により、立憲君主制を政治的な理想とする明治維新の世となった。明治政権は、天皇主権の必要上、国民に天皇を信ぜしめるために、神道を用いた。天皇の神格化を最良の方法として考えたのである。この維新の政策は、政治的な改革であるとともに、禅、念仏、真言などの諸宗に再び決定的な打撃を与えたのである。
明治2年「神仏判然令」が布告され、封建時代に優位に立っていた仏教は、神道とその所を入れ替えたのである。この神仏分離の政策は全国津々浦々に急速に、しかも徹底的に実施されていった。これまで押えつけられていた神官たちは、この時とばかりに仏像仏具、経巻などを壊し、焼き捨てるという運動を開始した。いわゆる排仏毀釈運動である。
四国の土佐では400ヵ寺が廃止され、裏日本の富山では「一宗一寺の他はことごとく廃寺すべし」という「廃寺令」が出された。兵隊に大砲を引かせて巡回させて威圧し、廃寺を迫った。また明治4年(1872)には、社寺の領地を境内地のほかは全部返上させ、それにかわるものとして、禄米を支給し、さらに全禄に改められた。このことによって、寺院はその経済の大半を占めていた収入源を失って、衰亡へと大きく傾いていった。
こうして、既成仏教を徹底的にたたいた神道は、国家の特別保護のもとに、一躍、国家的地位を得ることになった。
天皇は絶対的権威として君臨し、神社は宗教ではなく国家の“宗祀”であると称えられ、神官は官吏としての待遇をうけた。伊勢神宮の祭主には皇族を、大宮司には勅任官をと、直接国家が司るようになった。さらに全国の神社は、それぞれ官幣大・中・小社、国幣大・中・小社、諸社としての社各の制度をうけて、いっさいの費用は官公庁から支給されるということになった。
仏教もまた、弾圧を恐れて、神道との融和をはかろうとした。当時の仏教界は、ようやく排仏毀釈運動の打撃から立ち直ったものの、なんら神道を糾弾する勇気も情熱もなかった。
やがて、田中智学を中心とする国柱会の日蓮主義が、完全に神道宣揚の結果を導くことになった。智学は、法華経の絶対性と天皇の神格化という当時の情勢を、なんとか結びつけようとしたのである。ここに、天皇の神格化を、法華経の絶対性から支援しようとした日蓮主義の妄説が生じ、神道のまえにあえなく屈服していった。
また、この間の事情には、この機に乗じて政府が宗教団体を制定しいっさいの宗教を、大日本帝国の精神的支柱たる神道のもとに、強制的に結合させる力も大きかった。
ここに、宗教界は、こぞって政府と神道の掲げる報国運動へと埋没していったのである。
神道は、もともと、原始の自然宗教であり、上代の民の生活態度のなかに芽ばえたものが、大和朝廷の正統化という要望とあいまって、成長してきたものである。したがって、経理は、なんら哲学的な根拠もなければ、理念らしきものも、見当たらない。一般的には、祭祀を中心にするものにすぎなかったのである。
この神道をもって、天皇絶対権の裏づけとし、政治力をもって国教化の方向をとったことは、大きな誤りといわざるをえない。もし、未開の古代社会の復元を本気で夢みたとするならば、時代錯誤も甚だしい。いかなる非合理な祭政一致や国教化は、所詮成功するはずがなかった。その破綻は、太平洋戦争の進行ととともに馬脚をあらわしたといえよう。
日蓮大聖人滅後の広布の戦い
ひるがえって、大聖人滅後の日蓮正宗の歴史をみるならば、第二祖日興上人は申し状を捧げて鎌倉幕府をいさめ、第三祖日目上人も、42度の天奏を遂げられる等、惜身の布教活動はなされたものの、広宣流布の大願成就には到底至っていない。
明治・大正・昭和に入っても、創価学会の出現以前は、広宣流布など思いもよらなかった。
昭和における創価学会の最大の難関は、軍部の弾圧である。旧憲法には「日本国民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務二背カサル限リニ於イテ信教ノ自由ヲ有ス」とあった。これは形ばかりの信教の自由であり、特に「治安秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務二背カサル限リニ於テ」の但し書きは、いかようにも拡大解釈できたのである。事実上、国家神道を拝することを国民に義務化していた指導者にとって、神道否定の宗教の存在が許されるわけがなかった。よって、戦時中、さまざまな宗教に対する国家の干渉、宗教統合を権力によって行おうとする動きが見られたのである。その結果、神道を真っ向から否定した創価学会に対しては、猛然と国家権力をもって弾圧し、牧口初代会長、戸田二代会長をはじめ21名の幹部を投獄し、牧口会長を獄中にて没せしめたのである。
大聖人の時代より700年、いまだ広宣流布せず、その歴史は、時に断圧の歴史であり、またそのなかで、ただひたすら時を待ち、創価学会の出現を待ち続けた正法は、そして当時の日本の姿は「其の国土に於て此の経有りと雖も未だ甞て流布せしめず」(0018:03、立正安国論)の御文のごとくであり、「捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず亦供養し尊重し讃歎せず四部の衆・持経の人を見て亦復た尊重し乃至供養すること能わず」の文のごとくであった。されば、諸天善神は勢力を失い、日本国から去り、「既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし」のままに、一大亡国の姿を現じたのである。
まったく、三千年前に説かれた経文に、寸分も違いのないことに驚くとともに、仏法が永久不変の宇宙の絶対の真理を説き明かしているのを事実をもって知らされるのである。
されば恐るべきは邪宗教であり、悪思想である。邪宗教が根底となり、しかもそれが政治権力と結託するところに、亡国の姿を現ずるのである。
日智蓮大聖人は、その根本原因を、ここに経文の明証をもって喝破されたのである。
神国王御書にいわく「王法の曲るは小波・小風のごとし・大国と大人をば失いがたし、仏法の失あるは大風・大波の小船をやぶるがごとし国のやぶるる事疑いなし」(1521:07)と。
この亡国の実相を思い起こすにつけ、二度と同じ愚を繰り返してはならぬと痛感するのである。
なるほど、亡国という事実は、まことになげかわしい現実であった。だが、その根本原因にめざめなければ、またいつなんどき、このようないまわしき災難に見舞われないとも限らぬ。人々は、その原因を論ずるに、政治の劣悪、社会の体制を口にする。だが、それよりも、さらに根本的なものは、人間に出発し、人間に起因する問題である。すなわち、ありとあらゆる政治悪、社会悪をもたらすものは、所詮人間生命の濁りである。貧・瞋・癡の三毒強盛の生命こそ、常に変わらぬ、あらゆる腐敗、あらゆる悪の根源なのである。では、その衆生の生命の濁りは、どこに起因しているのであろうか。それこそ邪智、邪宗、悪思想に縁したがゆえなのである。まさに邪宗教こそ、個人の幸福を奪うのみならず、人類を滅亡に導く元凶であり、われわれ人類の敵であることに、世の人を気づかせなければならない。
貧弱な土壌からは、豊かな実りは生じない。創価学会がまず第一に、邪宗教の生命を断ち、悪酒に酔いしれる民衆を覚醒させるべく、宗教革命からの戦いを開始したのは、実にそのためである。そのうえに立って、新しき建設がなされるのである。すなわち政治であり、教育であり、経済であり、あらゆる文化の花が咲き誇るのである。これ第三文明である。第三文明の建設については、第十段で論じよう。されば、創価学会が今日、宗教革命に、力強く勇気と情熱をもって、邁進しているこの峻厳なる事実こそ、全日本の人人に、全世界の民衆に、全人類の歴史に、勇気と前進の光明とを与えてゆく、唯一の力なりと確信してやまない。
遂に我れ等及び余の眷属無量の諸天をして此の甚深の妙法を聞くことを得ざらしめ甘露の味に背き正法の流を失い威光及以び勢力有ること無からしむ
この金光明経の文は、諸天善神と約すべきである。すなわち日寬上人の文段には「即これ諸天・甘露食味に向わず正法の水流を得ず、すでに飲食に飢渇す。ゆえに威光勢力あることなきなり。向背得失これを思い見るべし」とある。また、一説には「悪王・悪比丘が甘露の味に背き正法の流れを失い威光及以び勢力有ること無からしむ」と読むとあり、また一説には「甘露の味に背き流れを失い」を悪王悪比丘に約し、「威光及以び勢力有ること無からしむ」を諸天善神に約すと読むとある。だが、日寬上人は、文段に、この両説ともに適切ではなく、不可であり、ともに諸天善神に約すのが正しいと述べられている。すなわち、その理由として、金光明経の次上の文には「甘露味をもって我に充足す。このゆえ我等この王を擁護す」また下の文には「無上の甘露の法味を服することを得、大威徳勢力光明を獲」等とあり、いわんや所引の文相が諸天善神に約して解釈することが、もっとも穏便であると、述べられている。
また日寬上人は「甚深の妙法」も「甘露の味」も「正法」も共に三大秘法のことであると、文段に次のように示されている。
「初めに甚深妙法とは、もし迹門の意に約せば即これ諸法実相の妙法なり、経にいわく『甚深微妙の法我れ今已に俱得す』と云云、天台いわく『実相を甚深と名づく』等云云。もし本門の意に約せは本因本果の妙法なり、経にいわく『如来一切甚深之事』等云云。天台いわく『因果是深事』と文、宗祖いわく『妙法蓮華経の五字は迹門にすら尚之を許されず况や爾前に分絶えたる事なり寿量品に至って本因本果の蓮華の二字を説き顕わし上行菩薩に付属し給う』と云云。もし、文底の意に拠らば即三箇の秘法を含むなり、天台わく『此の妙法蓮華経とは本地甚深の奥義なり』云云。本地の二字は戒壇を顕わすなり、いわく本尊所住の地なり、ゆえに本地という。あに戒壇にあらずや。甚深の二字は本尊を顕わすなり、天台いわく『実相を甚深と名づく』と云云、妙楽いわく『実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界』等云云。あに一念三千の本尊にあらずや。奥義の二字は題目を顕すなり、天台いわく『包蘊を蔵となす』と云云、いわく題目の一行には万行を包蘊す。ゆえに一行一切行というなり、あに題目にあらずや。今・甚深の妙法とは即これ本地甚深の奥義なり、ゆえに三箇の秘法を含むべきなり、文略して意周し、これを思い見るべし。
次に甘露とは、妙楽いわく『甘露門とは実相常住、天の甘露のごとしこれ不死の薬なり』と文、一連にこれを釈すといえども二門の意を含む、初に『甘露門とは実相常住』とはこれ迹門の諸法実相を名づけて甘露となす、ゆえに実相常住というなり、『天の甘露のごとしこれ不死の薬』とはこれ本門の是好良薬を名づけて甘露となす、ゆえに不老の薬というなり、すでに寿量品に是好良薬と説き薬王品中に至りて『若人有病得聞是経・病即消滅不老不死』と演ぶるゆえなり、もし文底の意に約せば即三箇の秘法を含む。
涅槃経北本の第八初にいわく『あるいは甘露を服し寿命長存を得るあり』と文。甘露の両字は本尊を顕わすなり、妙楽いわく『実相常住天の甘露のごとし』と云云、またいわく『実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界』等云云、ゆえに知る事の一念三千の本門の本尊なり。服の一字は題目を顕わすなり、天台大師文の九に釈していわく『日蓮一人南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と声も惜まず唱うるなり』等云云。『寿命得長尊』とは持戒の功能を顕わすなり、義例隨釈第一十紙に破戒罪を明かしていわく『法身を亡ぼし恵命を失う』等云云、ゆえに知んぬ、持戒の福は寿命長存することを得るなり、あに戒壇にあらずや。まさに知るべし、仏法を行ぜんとせばまさにこの戒壇の地に住すべし、自然と本門の本尊を信じ、自然と本門の題目を唱う、ゆえに自然と是名持戒の行者なり、例せば家語に『善人と居る・芝・蘭の室に入るがごとし、久しくその香を聞かざれども即これと化す』等というがごとし、恵心の歌にいわく『山里に住めばをのずと持戒なり・実なりけり依身より依処』と云云。
三には正法とは『三種の邪正題号の下のごとし』と云云、但・正の字において三箇の秘法を含むなり、いわく正とは妙なり妙即妙法蓮華経、妙法蓮華経は即本門の本尊なり、本尊妙なるゆえに信また妙なり、信妙なるがゆえに行また妙なり、妙即正なり、ゆえに正字即題目なり玄二四十一にいわく『境妙なるをもってのゆえに智また随って妙なり、智・行を導くゆえに行妙という』と云云。およそ正とは一の止る所、ゆえに一止に从う。一は即本門の本尊、止は即止住、本尊止住の処豈戒壇にあらずや、具には題号の下のごとし」。
不老不死について
さて、ここに甘露を不死薬とし、妙法は不死薬と説かれているが、これは具体的にはいかなる意味であろか。
如説修行抄にいわく「万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」(0502:07)
この文のなかで「人法共に不老不死」の文を日寬上人は文段に「寿量品の説相これを思え、常住此不滅常住此説法と云云、御書七に云く日蓮が慈悲曠大は人なり、南無妙法蓮華経は万年の外・未来とは法なり、三世常住の利益なれば不老不死なり」と説かれている。
すなわち、日蓮大聖人の仏法こそ、末法万年尽未来際に至るまでの衆生を救いきっているがゆえに、不老不死なりと仰せらるるのである。爾前経は無量義経で「四十余年未顕真実」と打ち破っているがゆえに、爾前経は老であり、死である。また、いかに法華経が一代聖教中最もすぐれているとはいえ、末法においては、力がなくなるから、老であり、死である。ただ、文底下種事行の一念三千の南無妙法蓮華経こそ不老不死なのである。まさに大御本尊こそ不老不死ではないか。
しかして、この大御本尊を信じ、唱題する人は、不死薬を服しているがゆえに、やはり不老であり、不死なのである。その生命のなかに仏界が顕現して、諸天の働きが充満してくるのである。
不老とは、たえず若々しき生命の躍動にみなぎり、一生涯、向上していく人生こそ、不老ではないか。初代牧口会長は、七十を越えた老齢でありながら「僕たち青年は…」と口癖のようにいわれ、最後まで死身弘法の姿であった。
戸田前会長もまた「青年時代に持った理想を、一生涯貫いていく人が、世の中で最も偉大な人である」と申されていた。
思うに、青年とは限りなき発展、限りなき未来、たくましき建設をはらんだ旺盛なる生命活動である。なにものをも恐れず、なにものにも左右されず、大目的に向かって、全生命よりほとはしり出ずる血潮をたぎらせて進みゆく、清純な、力強き生命活動である。この大御本尊をたもった人のみが永久に青年であり、不滅の若さを誇りうるものである。これ、不老ではないか。
不死とは、永遠の生命の覚知である。未来永劫にわたる絶対の幸福境を、ただ今の一瞬に開くのである。すなわち成仏の境涯を会得することである。これについて戸田前会長は「成仏の境涯をいえば、いつもいつも、生まれてきて、力強い生命力にあふれ、生まれてきた使命のうえに、思うがままに活動して、その所期の目的を達し、誰もこわすことのできない福運をもってくる。このような生活が何十度、何百回、何千回、何億万回と楽しく繰り返されるとしたら、さらに幸福なことではないか。この幸福生活を願わないで、小さな幸福にガツガツしているのは、可哀想というよりほかにない」と述べられている。この幸福境は、他のいかなるものにもこわすことができないから不老であり、また、不死の苦縛にしばられず、永遠の幸福に生きるのであるから、不死である。
また、衆生世界についても同様のことがいえる。衆生社会といえどもさまざまなものであろう。いまこれを民族を例にとり考えてみょう。再び戸田前会長の論文を引用する。
「古代エジプト人は、かの偉大なピラミットを残して衰退し、興隆をきわめたバビロン王朝にしても、ペルシャにしても、インドにしても、ゲルマン民族にしても、幾多の衰亡興隆を重ね、幾多の変遷を重ねて今日にいたっている。しかして、今日、地球上に成長発展している民族は、数えるほどしかないのである。これは、ある一種の有力な民族が中心となり、各種の民族を包含して、一民族を形成するときには、その民族が若さをもち、あるいは若さをとり戻して、隆々と発展していくのである。
中国の歴史をみても、中央の文化を形成している民族が古くなると、北方その他より、新進の民族が中央に進出して、諸民族を糾合して、新しい民族の若さを取り戻していくのである。今日、地球上において、最も繁栄をきわめているのはどこか? と問えば、誰しもアメリカ合衆国をさす。実にアメリカ国民は、建国以来、三世紀内のうちに、長足の進歩をきたし、世界の政治、経済、文化等、諸問題を中心として、発展向上しているのである。
ここにおいて、私は、衰亡の一途をたどっている民族と、興隆をきわめている民族とを比較してみて、民族それ自体の力というものを発見するのである」。
しかして、われわれ日本民族が、今後隆々と発展し、真に平和国家として、文化国家として、世界、人類に貢献してゆけるか否か、私は、もし、日本の人々が、真に、三千年来、悠久たる大河のごとく、東洋民族の心の奥底を流れてきた大乗仏法の真髄にめざめるならば、日本民族の発展は絶対に間違いないことを断言しておきたい。
まさに、大聖人の仏法こそ不死薬であり、民族自体の生命を、最も強く、清らかにしていく本源であり、かつ、絶対に他から破懐されない福運を備える源泉であると確信するゆえに他の民族もまったく同じことである。
また、国土も同様である。妙法を根底にすれば、国土も常寂光土となり、五穀は豊かに実り、草木は繁茂し、美しき景観となり、雨、風、気温等もリズム正しく、そこに住む衆生に、力と若さと潤いを与えていく国土となる。
立正安国論にいわく、「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん」(0032:14)と。
「仏国其れ衰んや」とは不老であり、「宝土何ぞ壊れんや」とは不死である。すなわち、妙法広布の楽土こそ、実に不老不死なのである。この原理を、地球全体に及ぼすならば、いかに人類の前途は、明るく、光輝に満ち満ちたものであろうか。楽土日本の現出も、世界の恒久平和も、共に、不死薬たる妙法の力による以外にないのである。
逆に、邪法が盛んになり、妙法をおおいかくすならば、われわれの生命のなかの諸天の働きも、衆生、社会の生命の諸天の働きも、国土を守護する諸天の働きも、ことごとくなくなり、あとに残るものは、残虐非道な暗黒の世界である。されば、日本国に、全世界に一日も早く、この大白法を流布し、全民衆を潤してあげたい気持でいっぱいである。
悪趣を増長し人天を損減し生死の河に墜ちて涅槃の路に乖かん
悪趣とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅界等の不幸なる生命活動であり、その四悪趣のみが増大し、人間界、あるいは天上界の、平らかな、または喜びの生命活動は、ますます民衆のなかから損減していく、また民衆は、生死すなわち苦悩煩悶の六道の生活におちこみ、涅槃の路、すなわち声聞、縁覚、菩薩、仏等の四聖、真実の幸福生活から、ますます遠ざかっていくということである。
誰しも十界の生命活動が内在していることは先に述べたとおりである。それは、信心をしていようと信心していなかろうと、変わらざる原理である。だが、邪宗教に迷う人は、三悪道、四悪趣の生命活動のみ旺盛となり、自分では自分をどう期することもできないのである。不自由、束縛の世界である。たまたま喜びがあっても、それは次の挫折により、あるいは破滅により、ますます、苦悩を増長するのみである。あたかも、地獄や、餓鬼や、畜生や、修羅が、その人の生命の本質のことごとくになり、他の生命活動、人、天、声聞、縁覚等の生命活動も、ことごとくその三悪道、四悪趣に帰していくのである。
すなわちその世界が、その人の本拠であり、住所になってしまうのである。逆に、信心した人は大御本尊の仏界に照らされて、わが生命のなかに、清浄無染の力強い仏界の大生命が顕現するがゆえに、それが本拠となり、あらゆる九界の生命活動が、ことごとく帰していくのである。
されば、いかに苦悩があろうが、それらは、ことごとく次の喜び、次の発展、次の輝かしき勝利の源泉となっていくのである。信心なき人の苦悩は、苦悩のための苦悩である。信心した人の苦悩は、煩悩即菩提・生死即涅槃の煩悩であり、生死であるがゆえに、幸福のための苦悩である。されば、常に歓喜と、希望と、確信の、しみじみとした幸福感を満喫しつつ、生まれてきた目的に対して、充分なる価値活動をなし、他も利益し、自在無礙の生活をしていくことができるのである。これ真の自由であり、真の解放である。
こうした生命の変化は、生命それ自体の変化であり、意識して変わるものではない。克已等の道徳、精神修養によって変えられると思うのは間違いである。どんなに怒るまいと意識して平静を保とうとしても、どんなに嫉妬すまいと努力しても、そこにはおのずと限界がある。もとより、苦悩、怒り、嫉妬等は、人間本然の生命活動であり、それをなくすことはできない。また、いかに抑えても抑えきれるものではない。たちまちにして、それらの生命活動がムラムラと起き、百年の修行も一瞬にして崩壊し去るのである。克已は苦しく、人間性を抑圧し、しかもあらゆる人々の幸福の源泉にならないことは、明々白々であり、かっての儒教哲学の挫折が、これをなによりも、よく示しているではないか。
されば、地獄、餓鬼、畜生、修羅等の境涯におちこむや、いかにあがき、もがいても、どうすることもできない。邪宗教の害毒により、さらに生死の河に溺れ、苦悩し、煩悶しつづけるのである。これを救いきるのは、いうまでもなく、生死を即涅槃と転換せしめる力強き大宗教でなければならぬ。
一切の人衆皆善心無く唯繋縛殺害瞋諍のみ有つて互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん
いっさいの民衆は善心というものはなく、みな利己主義に陥って、他人のことなど考えるいとまなく、獸類のような集団生活が民衆のなかに起こる。罪人は多くなって、これを縛るのに忙しく、また巷には私刑があり、残忍な殺害があり、また、激怒と激怒がぶつかり、修羅闘諍を事とし、あるいは、互いに諂い合い、罪なき人を罪におとしいれるようになるとの意味である。まことに暗黒の恐怖の世界である。
だが、この経文は、まったく大聖人の時代の世相に符合しているのである。承久の乱で朝廷方を破って、幕府権力を盤石にしたと思われた北条幕府も、内部には深刻な波乱を秘めていた。1224年、義時は謎の死を遂げている。それでも義時・泰時の代は、まだ平穏無事であった。泰時の死後、後継者問題をめぐって不穏な空気がただよってきた。泰時の跡をうけた経時は寛元4年(1246)23歳で若死、その原因についても、種々な風説がある。
経時の死とともに事態は急展開し、以後2ヶ月間、鎌倉は、激しい政争と実力行使に明け暮れた。ついに経時の弟、弱冠20歳の時頼が権力を獲得、彼は、幕府の実権を奪おうとしていた、叔父・光時らの名越氏一族、後藤・千葉らの評定衆、問注所執事三善氏らの重臣の陰謀を打ち破り、光時を出家させて伊豆へ流し、その弟の時幸を自殺させたほか、関係者多数を処分した。さらに翌宝治元年(1247)には、北条氏と肩を並べる豪族・評定衆三浦光村を、あらゆる挑発・謀略を尽くして激闘に持ち込み、三浦泰村以下の一族五百余人を、ついにことごとく頼朝の墓所の法華堂に自殺させた。いわゆる「宝治の合戦」である。ついで下総の千葉秀胤も責め殺された。こうして北条氏は、次々と豪族を倒し、比較的安定な時期を迎えた。
だが、こうした政争に明け暮れている間に、民衆は苦しい生活におちこみ、非人、乞食などが群をなして各地の河原・坂・宿にたむろしていった。しかも、立正安国の提出後に起きた災害は、極度に民衆を疲弊させ、ついに幕府は、人身売買の禁令をとかざるをえない現状となった。没落した農民は、つぎつぎと乞食の群に身を投じていった。さらにその後も天変地夭は相次いで起り、農民の不安と動揺はひとかたならぬものがあった。特に建長年間を中心に起った大飢饉や大疫病は、民衆を悲惨のどん底へ追いやった。さらに北条氏内部では、文永9年の2月、騒動等があり、また二度にわたる蒙古襲来に、人心は言語に絶するほど動揺し、錯乱した。まさに人々の生活は、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界の巷を」さまようのみであった。ただあるのは、繫縛であり、殺害であり闘争であった。
第二章 (経証の一 金光明経 2)
平左衛門尉頼綱の恐怖政治
しかも、幕府の指導者たちの横暴は甚だしく、罪なき人を罪におとしいれた。真に民衆救済のために立ちあがった大聖人を、松葉ヶ谷で焼き打ちをはかり、伊豆の伊東へ流し、小松原で殺害しようとし、竜の口で頸を斬らんとして、佐渡へ流罪し、また、大聖人の弟子を、あるいは牢に入れ、あるいは所領を没収し、また流罪、死罪にしてしまったのであった。ついには、熱原の法難では、平左衛門尉が、諸宗の悪侶たちとたくらんで、ありもしない罪をつくりあげ、農民20数人を逮捕し、神四郎、弥五郎、弥六郎の三人の首を刎ねてしまった。
大聖人滅後、平左衛門尉は、ますます、絶大な権力で専横をふるい、弘安8年(1285)11月、政敵安達泰盛を討滅した。その時、安盛と嫡子の宗景は殺され、ついで上野・武蔵一帯の有力御家人500余人が、泰盛の与党として討たれた。しかも、この合戦で、刑部卿相範・三浦対馬前司・伴野出羽入道・足利上総三郎等は、泰盛与党でないのに殺されている。この合戦は、地方にまで及び、全国的な騒動となり、特に九州では、激しい合戦となった。泰盛の子盛宗は博多で討たれ、小弐景資も、筑前の岩門城で兄の少弐経資に攻められ、同族相食む合戦ののち、多数の御家人たちとともに滅んだ。
以後八年間、頼綱による冷酷で疑い深い大殺戮が続けられ、鎌倉は恐怖の巷と化した。あたかも、彼はフランス革命後のロべスピエールのごとく、ファシズム時代の警視総監のごとく、スターリンあるいはエジョフのごとく、ベリヤのごとく、密国、弾劾、暗殺に狂奔した。その悪政のすえ、大地震が起き、鎌倉の山がくずれ、家々は倒れて死者は23024名におよんだという。
その頼綱もやがて滅ぼされ、頼綱時代の不正な裁判への不満が高まった。さらに凡下、借上といった高利貸が幅をきかせるようになり、逆に御家人の貧窮はひどく、訴訟問題が雲霞のごとく起き、ついには血を血で洗う合戦まで起きる始末であった。「沙石集」には、「上代は君も臣も仁義あり、芳心あり、末代は、父子、兄弟、親類、骨肉、あだを結び、楯をつき、問注対決し、境を論じ、処分を諍ふこと年に随ひて世に多く聞ゆ」と、弘安のころからの世相を語っている。代官はあくどい支配や横暴を重ね、悪党が横行し、海賊、山賊が充満し強盗・殺人があたりまえのごとくなった。
乾元元年(1302)12月、鎌倉に大地震、死者500名に達し、嘉元3年(1305)3月、京都に大地震、同月22日に貞時の邸宅が焼亡、翌日、連署の北条時村が突如襲撃をうけて殺された。こうして王の福運尽きた姿が、厳然とあらわれ、北条高時のごとく凡庸な執権が誕生し、また長崎高綱のごとく横暴な人物が、賄賂などを公然とやりとりし、専横の限りを尽くした悪政を重ね、ついに正中の変、元弘の乱を経て、元弘3年(1333)鎌倉幕府は、阿鼻叫喚のうちに、150年の幕を閉じた。足利尊氏は、六波羅蜜題を滅ぼし、新田義貞は鎌倉攻めを行ない、これに最後のとどめをさした。まもなく九州探題も滅びた。その最後の様は、あまりにも悲惨であった。
昭和28年(1953)の夏、鎌倉の材木座の松林に囲まれた空地で、人類学者鈴木尚博士の指導のもとに、東京大学人類学教室の人々が、三回にわたって古い人骨の出る遺跡を発屈した。発掘された人骨が少なくとも910体あり、ほとんどが男子、しかも刀剣、刺創、打僕創がある青壮男子のものであったという。博士の報告による発掘資料によれば、鎌倉陥落の惨状がいかにすさましいものであったかがわかる。「太平記」がこの合戦の死者を「鎌倉中を考うるに、総て六千余人なり」と記しているように、戦死者、焼死者の屍は無慮数千、荒廃の街に累々と横たわっていたという。
これらの姿を見るにつけ、まさに、ただ「繋縛・殺害・瞋諍」の暗黒世界であり、「互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん」の暴政の連続であった。
正法にそむいた日本の国には、事実、一度も「繋縛・殺害・瞋諍」なき平和な、明るい社会は誕生しなかった。その昔、平安時代に、天台仏法が栄え、その精神が浸透し、死刑が廃止されていた一時期があった。日蓮大聖人の大仏法は、それとすら比較にならないほどの高い生命の尊厳と絶対平和思想に立脚している大哲理である。だが、ついに数百年にわたり、その大法はいたずらに無視されてきた。
日は東より出ず
しかし、あれから700年たった今日、いままさに日蓮大聖人の仏法が全世界広布を実現せんとしている。「繋縛・殺害・瞋諍」の終止符を打つのは、今日をおいてほかにない。日本はすでに、太平洋戦争の悲惨な経験をした。原爆の悲劇をいやというほど感じた、民衆の心に再び芽ばえたものは、人間の本然の欲求である。平和と幸福への願いである。
だが、戦時中、牧口初代会長、戸田前会長を投獄したごとく、さらに戦後あの昭和32年(1960)大阪府警の横暴のごとく、あるいは幾多の非難と罵声を創価学会にあびせた言論界のごとく、またかって選挙の度ごとに、罪なき善人を戸別訪問のかどで逮捕した、官憲のごとく、再び創価学会に「枉げて辜無きに及ばん」ようなことがあれば、日本国は福運をなくし、「繋縛・殺害・瞋諍」のさらに悲惨な世界を出現するであろう。私は、それをはっきりと断言できる。またそうさせたくはない。さらに、他国をみれば、依然として、そこには、幾多のいたましい世界がある。たとえば、チベットがそれである。そこには「繋縛・殺害・瞋諍」しかないではないか。日本の歴史が、過去、いまわしい歴史であったと同様、世界もまた、今日まで、否、今日もなお、悲惨な歴史をつづっている。これに終止符を打つのは、絶対に、日本しかないし、その原理は、日蓮大聖人の仏法しかないことを、私は心から叫びたい。
ジョージ・サートンいわく「結局、洪大な思想は偏狭な思想より永く生き残るであろう。また正義は不正よりも永く生きのこるであろう」と。日本の指導者にいいたい。自己保身に汲々とするのではなく、滔々と流れゆく世界の歴史を刮目してみよ。もはや、核兵器の誕生は、武力による解決がいかに非なるかを教えている。人類の求めるものは、幸福であり、平和ではないか。
諫暁八幡抄にいわく「日は東より出づ」(0589:01)と。今まさに太陽のごとき光明をもった、大正法が、この日本の国にのぼりつつあるのだ。
インドの詩聖タゴールは「私は、目を東のほうに向けている。日がすでに夜明けを迎え、アジアの最も東の地平線に太陽がのぼったのではないとだれがいえよう。私は祖先がなしたと同じように、全世界をふたたび照らすべき運命をになう東洋の夜明けに敬礼する」と。
星流れ地動き井の内に声を発し暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実成らず、多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん
これまた、なんと日蓮大聖人の時代の世相と一致していることか。まず「疫病流行」については、建長5年(1253)、正元元年(1259)、文応元年(1260)、建治3年(1277)、弘安元年(1278)等に、それぞれ大疫病が流行し、飢饉とあいまって、おびただし数の人が死んだことは、すでにしばしばふれたところである。
彗星の出現
「彗星数ば出て」も、まったくそのとおりである。大聖人の時代には数多く出現しており、特に文永年間の初めのころが多かった。
このうち、特に文永元年(1264)7月5日の大彗星は、空前の大きさのものであった。これについて日蓮大聖人は、安国論御由来に次のごとく述べられている。
「又其の後文永元年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ、此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず、予弥よ悲歎を増長す」(0034:18)
また撰時抄には、正嘉の大地震および文永の大彗星が、いかなる意味をもつのかを、次のごとく説かれている。
「問うて云く正嘉の大地しん文永の大彗星はいかなる事によつて出来せるや答えて云く天台云く「智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」等云云、問て云く心いかん、答えて云く上行菩薩の大地より出現し給いたりしをば弥勒菩薩・文殊師利菩薩・観世音菩薩・薬王菩薩等の四十一品の無明を断ぜし人人も元品の無明を断ぜざれば愚人といはれて寿量品の南無妙法蓮華経の末法に流布せんずるゆへに、此の菩薩を召し出されたるとはしらざりしという事なり、問うて云く日本漢土月支の中に此の事を知る人あるべしや、答えて云く見思を断尽し四十一品の無明を尽せる大菩薩だにも此の事をしらせ給はずいかにいわうや一毫の惑をも断ぜぬ者どもの此の事を知るべきか、問うて云く智人なくばいかでか此れを対治すべき例せば病の所起を知らぬ人の病人を治すれば人必ず死す、此の災の根源を知らぬ人人がいのりをなさば国まさに亡びん事疑いなきか、あらあさましやあらあさましや、答えて云く蛇は七日が内の大雨をしり烏は年中の吉凶をしる此れ則ち大竜の所従又久学のゆへか、日蓮は凡夫なり、此の事をしるべからずといえども汝等にほぼこれをさとさん、彼の周の平王の時・禿にして裸なる者出現せしを辛有といゐし者うらなつて云く百年が内に世ほろびん同じき幽王の時山川くづれ大地ふるひき白陽と云う者勘えていはく十二年の内に大王事に値せ給うべし、今の大地震・大長星等は国王・日蓮をにくみて亡国の法たる禅宗と念仏者と真言師をかたふどせらるれば天いからせ給いていださせ給うところの災難なり。」(0284:10)
大聖人は、ここに明らかに、文永の大彗星こそ、他国侵逼難、自界叛逆難の前兆と確信されたのである。やがて、文永9年(1271)の2月には、北条時宗と兄時輔と合戦があり、さらに文永11年(1273)および弘安4年(1281)には蒙古が来襲したのであった。しかもその間、文永10年(1272)の正月16日と同9月5日に彗星が出現している。
また、鎌倉幕府が衰退し、国じゅう、修羅闘争がさかまくころも、しきりと彗星が現われている。
両日の出現
「両日並び現じ」もまた、厳然たる事実である。大聖人の時代においては、文永年間だけで、文永5年(1268)5月8日、8年(1271)8月11日及び13日、11年(1274)1月23日と3回も出現している。
この文永11年1月23日は、大聖人が佐渡流罪中であり、日本史記と、この時の模様を法華取要抄に書かれた御書と一致している。
「去ぬる正嘉年中の大地震・文永の大彗星・其より已後今に種種の大なる天変・地夭此等は此先相なり、仁王経の七難.二十九難.無量の難、金光明経.大集経・守護経.薬師経等の諸経に挙ぐる所の諸難皆之有り但し無き所は二三四五の日出る大難なり、而るを今年佐渡の国の土民は口口に云う今年正月廿三日の申の時西の方に二の日出現す或は云く三の日出現す等云云、二月五日には東方に明星二つ並び出ず其の中間は三寸計り等云云、此の大難は日本国先代にも未だ之有らざるか、最勝王経の王法正論品に云く「変化の流星堕ち二の日倶時に出で他方の怨賊来つて国人喪乱に遭う」等云云、首楞厳経に云く「或は二の日を見し或は両つの月を見す」等、薬師経に云く「日月薄蝕の難」等云云、金光明経に云く「彗星数ば出で両つの日並び現じ薄蝕恒無し」大集経に云く「仏法実に隠没せば乃至日月明を現ぜず」仁王経に云く「日月度を失い時節返逆し或は赤日出で黒日出で二三四五の日出ず或は日蝕して光無く或は日輪一重二三四五重輪現ぜん」等云云、此の日月等の難は七難二十九難無量の諸難の中に第一の大悪難なり、問うて曰く此等の大中小の諸難は何に因つて之を起すや、答えて曰く「最勝王経に曰く非法を行ずる者を見て当に愛敬を生じ善法を行ずる人に於て苦楚して治罰す」等云云、法華経に云く・涅槃経に云く・金光明経に云く「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に星宿及び風雨皆時を以て行われず」等云云、 大集経に云く「仏法実に隠没し乃至是くの如き不善業の悪王悪比丘我が正法を毀壊す」等、仁王経に云く「聖人去る時七難必ず起る」等、又云く「法に非ず律に非ず比丘を繋縛すること獄囚の法の如くす爾の時に当つて法滅せんこと久しからず」等、又云く「諸の悪比丘多く名利を求め 国王太子王子の前に於て自ら破仏法の因縁破国の因縁を説かん其の王別まえずして此の語を信聴せん」等云云、此等の明鏡を齎て当時の日本国を引き向うるに天地を浮ぶること宛も符契の如し眼有らん我が門弟は之を見よ、当に知るべし此の国に悪比丘等有つて天子・王子・将軍等に向つて讒訴を企て聖人を失う世なり、問うて曰く弗舎密多羅王・会昌天子・守屋等は月支・真旦・日本の仏法を滅失し提婆菩薩・師子尊者等を殺害す其の時何ぞ此の大難を出さざるや、答えて曰く災難は人に随つて大小有る可し正像二千年の間悪王悪比丘等は或は外道を用い或は道士を語らい或は邪神を信ず仏法を滅失すること大なるに似たれども其の科尚浅きか、今当世の悪王・悪比丘の仏法を滅失するは小を以て大を打ち権を以て実を失う人心を削て身を失わず寺塔を焼き尽さずして自然に之を喪す其の失前代に超過せるなり、我が門弟之を見て法華経を信用せよ目を瞋らして鏡に向え、天瞋るは人に失有ればなり、二の日並び出るは一国に二の国王並ぶ相なり、王と王との闘諍なり、星の日月を犯すは臣・王を犯す相なり、日と日と競い出るは四天下一同の諍論なり、明星並び出るは太子と太子との諍論なり、是くの如く国土乱れて後に上行等の聖人出現し本門の三つの法門之を建立し一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からん者か」(0336:14)。
歴史上、二つの太陽が出現したという例は、少なくない。二つの太陽だけではなく、三つ、五つ、まれには七つ等と、出現する場合もある。また太陽ばかりでなく、月も二つ三つ等と出現するのである。むろん一つがほんもので、あとは幻日といわれるものである。
近年では、大正15年(1926)8月16日の夕方のこと、和歌山市の西空白雲の中に火の玉現われ、天に二日の奇観を呈したという。昭和4年(1929)1月31日の朝、熊本地方では太陽と並んで二つの光が現れ、あたかも三つの太陽を望むようであつたという。また昭和33年(1958)にも、長野県で二つの太陽が現われ、その写真が新聞に掲載されている。
こうした現象は、外国にもあり、ソビエトの科学解説説者ヴ・ア・メゼンツェフは、次のように述べている。
「たとえば、1928年の春、スモレンスタ州のベールイ市で、珍しい暈が、実際に観測されたことがあった。朝の8時から9時頃、太陽の両側に、太陽の右と左、あざやかな虹の色に色どられた二つの太陽が見えたのである。1947年11月28日、ポルタヴァ市で、複雑な暈が月のまわりに見えた。月は光輪の真ん中にあった。光輪の上には、右と左に、にせの月が、これは幻月と呼ばれているが、見えていた。左の幻月はとくに明るく光り、尾をもっていた」。
これらの現象は、いったいどうして起るのか、自然科学的な立ち場では、次のように説明されている。
まず、太陽や月にかかる暈と関係がある。暈は太陽または月の周囲に生ずる淡い光輪であり、最も普通には内暈と外暈とができる。こういう輪の中心に、コンパスの片足をすえ、ぐるっと輪をえがくと、内暈はコンパスの開き22度、外暈は46度ぐらいになる。この外に、日を貫いて地平線とほぼ平行になっているように見える白い光孤が現れる。これを幻日環という。この環と光輪の交差した場所にしばしば、強い光の斑点「幻日」や「幻月」ができるのである。
暈は、太陽が、地上から約6~8キロメートルの高さに浮かんでいる。白く光る煙のような巻層雲におおわれたときに、空に現われるものである。この雲は、ごく細かい氷の結晶からできている。この結晶の形はさまざまであるが、いちばん多いのは、柱形か板形をしたものが六方体をしたものである。この氷の結晶は、気流のなかをのぼったり降りたりしながら、太陽と同じように反射させたり、プリズムと同じように屈折させたりするのである。そのなかにある結晶から反射させた光線が、われわれの目に落ちてくる。それが暈となって見えるのである。また、地平線と平行して現われる光孤はどうして起こるか。これもまた同じ原理で、太陽の光りが、まっすぐに立った形で大気中を浮遊している。氷の六方晶体の側面に反射したときに起る現象である。
こうした結晶の反射によって、あたかも鏡のなかで電球の映像を見るごとく、太陽が実際ある場所とは違ったところに見えるわけである。
このように経文に説かれている現象が、自然科学的な立場から説明される。だが、もとより、二つあるいはそれ以上の太陽が現われた、という事実をこれで全面的に説明できたと考えるのは誤りである。あくまでも、分析と総合という科学の目からみた説明であり、その事実のある面を説いたに過ぎない。
仏法はこうした宇宙現象を、単なる孤立した現象としてのみとらえるのではなく、それと人間生命との関係性を説き、さらに大宇宙の十界を論じ、われわれの10界の生命との微妙な関係をあますところなく説いた。ここに仏法の偉大さがあり、全宇宙まで通じうる人間生命の尊さ、大きさ、力強さが説かれているのである。
これについては、すでに第二段第一章において詳しく述べたとおりである。ここでは、あくまでも経文の原理が、架空のものではなく、厳然たる事実であることを述べるに止める。
薄蝕恒無く
「薄蝕恒無く」とは、しばしば太陽や月が光を失い、日食や月食が並び起ることをいう。太陽や月が光を失うのは、もやがかかったり、塵挨が光をさえぎったり、また火山灰が成層圏中で薄い層をなして、光線を妨げたりする場合である。
最年のではあるが、ペレー・サンタマリア・コリマの噴火のあった明治35年(1902)と、カトマイ噴火のあった明治45年(1912)に、太陽の光がさえぎられたり、ビショップ・リングなどが現われ、日照量が20%近く減少し、いずれも東北地方に凶作をもたらしている。また昭和37年(1962)6月12日には焼岳が爆発して降灰させ、同6月29日には、北海道の十勝岳大噴火をし、多量の降灰を長時間にわたって降らせた。
同年8月24日には三宅島が22年ぶりに大爆発し、噴煙は5000mに達し、同島北岸の観測所では降灰が1cmに達した。翌38年(1963)3月17日には、バリ島のアグング火山が大爆発した。このためインドネシアでは、1500人もの人が、溶岩と熱い灰をかぶって死んだ。この火山灰が高く成層圏までのぼり、日射に影響を与えている。同年8月以降、アイスランド南西海岸近くでの地殻の割れ目に、海底からの火山爆発があり、このときの噴煙もかなり高度に達しており、高緯度地方の日射にかなり影響を与えたと考えられている。これらの一連の爆発が原因となり、昭和38年(1963)1月以来、数万年に一度といわれるような異常気象を示し、各地に被害を及ぼしている。
日食・月食
次に日食や月食についてであるが、まず日食は太陽と地球の間に月が位置し、そのために太陽が欠けることによって起る。正嘉元年から文応元年までの間に日食があったと記録されているのは、正嘉元年(1257)5月1日と文応元年(1260)3月1日の二度である。ただし限られた文献から見いだしたものであり、これより他にもあったと思われる。文永年間には元年(1257)7月1日、2年1月1日、3年5月1日、3年11月1日、4年5月1日、5年10月1日、7年3月1日、8年8月1日、9年8月日、10年1月1日と数多く来ている。「恒無く」の経文通り、異常なほどの発生数である。文永年間は、先にも太陽が二つ、三つ出現したとの例が頻発しており、また彗星も大彗星と呼ばれるような巨大なものが出現しており、あるいは、飢饉、疫病等が流行している。また、阿蘇山も2年(1258)、6年、8年と相次いで噴火しており、これによって異常な天候をもたらしたことも充分考えられる。
また、月食は太陽と月の間に地球がはいり、月面が地球の陰に隠れることに起こる。正嘉元年(1257)4月16日、同10月16日、翌10月16日、正元元年(1259)4月15日などが記録されている。
黒白の二虹
次に「黒白の二虹不祥の相を表わし」とあるが、これはいかなるものであろうか。まず黒虹であるが、これは普通の虹ではなく、急激な気候の変化による悪気流によるようなものではないだろうか。その実例は不明である。ただ日本気象史料に「黒気」としばしばでてくるのが、あるいはこれにあたるのではあるまいか。
白虹については、宝治二年(1249)閏12月16日(京都)、建長3年(1251)10月16日(京都)、建長(1254)6年8月10日(鎌倉)、弘長3年(1264)1月2日(京都)、弘安7年(1284)4月4日(鎌倉)、弘安9年(1286)1月30日(鎌倉)、などがあるが、この記録は京都、鎌倉のみの記録で、国内の総数では、記録が不詳のため把握することができない。
こうした“日を貫く”とか“暈がともに出る”といった記述をみるとき、白虹というのは、いわゆる霧雨のような小さい雨滴に、太陽光線が反射してできる、いわゆる「白にじ」ではなくして、先に述べたあの「幻日環」ではなかろうか。さらにそれを証明できるものとして、天徳3年(0960)12月9日に京都に白虹が出現したとの記録があるが、それとともに、太陽が三つ出たとの記録もある。幻日環は、暈の一つで太陽を貫いて地平線に平行してできる光孤である。それと太陽をとりまく暈と交わったところに、しばしば幻日が現われることは、前述のとおりである。
あるいは、さまざまな文献に「白気」というのがこれをいうのであろうか。「白気」とは、何であるか不明であるが、この中には悪気流のようなものではあるまいか。天保14年(1843)2月6日に江戸に「白気」があらわれたとあり、続徳川実紀、玉来雑記、続泰平年表では皆「白気」と記述しているのに対し、武江年表には「六日夜より、毎夜西南方の方へ白虹顕る」とあり、同じ現象を「白気」「白虹」と表現している。
これから判断せれば、いわゆる一般の「白にじ」も白虹であり、「幻日環」も白虹であり、ときには「白気」と表現される、何か悪気流のようなものの白虹であるとして、あまり区分なく用いられたとも考えられる。
星流れ=流星
「星流れ」はいうまでもなく流星である。建長年間から文永年間に至る間に、この記述は極めておおいため、これを略す。
地動き井の内に声を発し
次に「地動き」とは、地震や地すべりのことである。これは正嘉の大地震等しばしば述べたところである。「井の内に声を発し」とは、地殻の変動に関係する現象と思われる。地震が起きると、井戸水や温泉の湧水量が急に増減したり、濁ったり、水温が変化したり、または、遠雷や大砲の音のような音を発することがある。こうした音は、短周期の地震波が、空気を振動させることによって生ずるものである。「暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実成らず、多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん」とは、第一段第一章において論じたごとくであり、まさにこの金光明経の文は、まったく、寸分も狂わず、大聖人の時代に現れているのである。ただ一回の流星とか、一回の彗星とか、そんなものではない。経文に説かれた、あらゆる悪相が、ことごとく並び起っているのである。経文は、けっして遠くの世界にあることを説いているのではない。現実のなかに、それはことごとくあることを確信すべきである。
仏法の予言
不思議なことである。釈尊と日蓮大聖人とは二千年間の隔たりがある。その経文と日蓮大聖人との間には、まったく隔たりがないのである。経文の文々句々は、ことごとく大聖人の身に、また大聖人の時代の思想に、厳然と現れている。これほど偉大なことがあろうか。これほどすばらしいことがあろうか、仏にあらずんば、誰人が、二千年後の未来を予言できるであろうか。いわんやそれを寸分もたがえず的中させうるであろうか。これ、仏法こそ生命の奥底の真実を説ききり、かつは、大宇宙の鉄則をあますところなく説き窮めた証拠なりと確信してやまない。
およそ、科学の的中ほど、その法則なり、学説の偉大さを証明するものはない。ましてや、その予言、それが自然科学上の予言であれ、社会科学上の予言であれ、また生命の科学ともいうべき宗教的予言であれ、その根底には深遠な理解力と洞察力が必要なことはいうまでもない。
その期間の長さといい、スケールの大きさといい、仏法で説かれた予言ほど偉大なものはない。西洋のキリスト教や、マルクス・レーニン主義などの予言は、みんな、ほとんど的中せず、仏法の予言には足元にもおよばないものである。
大集経に説かれている五五百歳
釈尊は、三ヶ月後の涅槃を知り、また付法蔵に予言したことも、ことごとく的中し、大集経の五箇の五百歳も、また、安国論に引用されている四経の明文に説かれた予言も、さらには、法華経勧持品、その他涅槃経に説かれた、御本仏出現の際の末法の世相も、寸分も狂いなく事実となって現われている。
まず、大集経の五箇の五百歳についていえば、釈尊は、自分の滅後を次のように五百年ごとに区切っている。
第一の五百歳──解 脱 堅 固─┬─正法千年
第二の五百歳──禅 定 堅 固─┘
提三の五百歳──読誦多聞堅固─┬─像法千年
第四の五百歳──多造塔寺堅固─┘
第五の五百歳──闘 諍 堅 固───末法の初め
この大集経の予言と、インド、中国、日本の三国における仏法流布の歴史とを照合すると、ぴったりとあてはまっているのである。
①正法前五百年(解脱堅固)
解脱堅固の時とは、釈尊滅後五百年において、衆生が小乗経を修し、戒律をたもって解脱を求めた時代である。滅後正法千年は付法蔵二十四人が正法を弘通したが、摩訶迦葉から不法蔵第十の富那奢までは小乗経をひろめたのである。迦葉二十年、阿難二十年、商那和修二十年、優波崛多二十年、提多迦二十年の最初百年は、まったく小乗経のみをひろめ、弥遮迦、仏駄密多、脇比丘、富那奢等は、大乗経の法門は少しは含めたが、大部分は小乗経を表として弘通した。この解脱堅固の時には、四回の仏典結集があり、阿闍世王、阿育王、迦膩色迦王の守護のもと仏法が興隆した。
②正法後五百年(禅定堅固)
この時代は権大乗がひろめられ、衆生は大乗を修して、深く三昧に入り、心を静めて思惟の行を行なった。付法蔵第十一の馬鳴から二十四の師子尊者に至るまで大乗をひろめたが、特に諸小乗を破し、大乗を宣揚した論師に、馬鳴、竜樹、無著、天親などがいる。馬鳴は仏滅後六百年ごろに出て、大乗起信論を著わし、滅後七百年ごろに出た、竜樹は大智度論百巻、中論四巻、十二門論一巻等を著わした。その弟子提婆も百論二巻を著わしている。滅後九百年ごろに出た無著・天親の兄弟は、無著は摂大乗論三巻、瑜伽師地論百巻等を、天親は千部の論師として摂大乗論釈、唯識三十論頌など小乗五百部、大乗五百部を著わして、大乗の教えをおおいに称揚したのである。
③像法前五百年(読誦多聞堅固)
この時代で、まず特質すべきことは、後漢の明帝の永平10年(0067)に仏教が中国へ渡来したことである。これをきっかけとして、読誦多聞堅固の名を示すとおり、経典の本訳事業や講説、解釈などが盛んに行われた。バルチアの太子であった安世高、月氏国の支婁迦識や唐僧鎧、支謙など、本訳にたずさわる人がふえてきた。敦煌出身の竺法護は、優秀な助力者とともに正法華経等百五十四部三百九巻の経典を訳した。
このようにして盛んになってきた経典翻訳は、鳩摩羅什にいたって頂点に達した。羅什はそれまでの誤訳、抄訳の多かったものとは比べものにならない完全な訳を数多く行ない、なかでも珠玉のごとき名訳といわれているのが妙法蓮華経である。羅什以後、法顕、仏陀跋堕羅、曇無識、真諦、玄奘などが出ている。
この時代のおわりころ、538年、荊州で生まれた天台大師は、南岳大師に師事して法華の奥義を悟り、瓦官寺に八年間住して、大智度論などを講義した。その後、有名な文句、玄義、止観を講述して、理の一念三千の法門を立てた。読誦多聞堅固は、このように多数の翻訳と天台大師の現代に代表されるが、その他、仏図澄、道安、羅什などにより、おおいに仏教講義が行われた。
④像法後五百年(多造塔寺堅固)
唐代にはいり、玄奘がインドから経典を持ち帰り漢訳した。以後、法相宗、三論宗、華厳宗、真言宗が中国全土にひろまり、多くの寺塔が建立された。そのため、この像法時代は形だけは正法時代と似ていたようだが、内容的には仏法は堕落していった。やがて唐朝は衰亡していった。北宋の時代にはいって、太宗は詔勅を出して廃寺を修治し、仏像の造立を許し、阿育大王の造塔にならって八万四千の塔を造立した。しかし、仏法の中心は日本に移り、この時代の特徴は、むしろ日本において顕著にあらわれている。
552年、すなわち仏滅後1500年ごろ、人王30代の欽明天皇の代、百済の聖明王の使者により経論、釈迦像、僧尼等が献上された。仏教伝来以来、本格的に信奉されるようになったのは、聖徳太子の時からである。太子は勝鬘経、維摩経、法華経の義疏を顕わし、この三経を鎮護国家の法と定めて、篤敬三宝を根底とする十七条憲法を制定した。このころから造寺造仏が盛んになっている。崇峻天皇から推古天皇時代にかけて建立された飛鳥寺、太子建立の七大寺といわれる四天王寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、峰丘寺、池俊寺、葛木寺などが有名である。
その後、奈良時代にはいり、聖武天皇は仏教を重んじて諸国に国分寺、国分尼寺を建て鎮護国家の道場とし、総国分寺として東大寺を建立した。またこの時代に、苦労して来日した鑒真は小乗の戒壇を建立している。平安の桓武天皇の代には、伝教大師が南都六宗を公場対決で破って、812年に叡山に迹門の戒壇を建立した。
⑤末法始五百年(闘諍堅固)
これについては、第一段第一章に詳論したとおりである。宗教界の乱脈、民衆の無智につけこむ迷信の横行、人心の極度の動揺、血なまぐさい殺戮につぐ殺戮の歴史、はては親兄弟同士が互いに戦い、殺し合う、三悪道、四悪道の巷、三障七難が荒れ狂い、呆然としてなすすべを知らぬ民衆、これが、末法の初めの五百年の世相であった。
末法の御本仏出現
しかしながら、この乱れきった時代にこそ、その衆生の闇を晴らすべく、末法の御本仏が出現し、太陽のごとき大正法が流布することも、法華経の厳然たる未来記である。勧持品の三類の強敵といい、あるいは神力品の別付属、薬王品の広宣流布の金言にせよ、ことごとく、大聖人の出現と大正法の流布への絶対の確信がこめられている。されば、像法出現の天台にせよ、妙楽にせよ、伝教にせよ、末法を恋い慕い、大正法にめぐり会えることを心から願求しているのである。もしも大聖人の出現がなければ、釈尊の未来記はことごとく虚妄となり、天台、伝教の言もむなしいものとなろう。
大聖人は、仏の金言を証明しているのは、自分以外に絶対はきことを諸御書に経文を引き、釈を示し論をあげて、宣言されている。
「疑つて云く何を以て之を知る汝を末法の初の法華経の行者なりと為すと云うことを、答えて云く法華経に云く「況んや滅度の後をや」又云く「諸の無智の人有つて悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者あらん」又云く「数数擯出せられん」又云く「一切世間怨多くして信じ難し」又云く「杖木瓦石をもつて 之を打擲す」又云く「悪魔・魔民・諸天竜・夜叉・鳩槃荼等其の便りを得ん」等云云、此の明鏡に付いて仏語を信ぜしめんが為に、日本国中の王臣・四衆の面目に引き向えたるに予よりの外には一人も之無し、時を論ずれば末法の初め一定なり、然る間若し日蓮無くんば仏語は虚妄と成らん、難じて云く汝は大慢の法師にして大天に過ぎ四禅比丘にも超えたり如何、 答えて云く汝日蓮を蔑如するの重罪又提婆達多に過ぎ無垢論師にも超えたり、我が言は大慢に似たれども仏記を扶け如来の実語を顕さんが為なり、然りと雖も日本国中に日蓮を除いては誰人を取り出して法華経の行者と為さん汝日蓮を謗らんとして仏記を虚妄にす豈大悪人に非ずや」(0507:10、顕仏未来記)
「而るに日蓮二十七年が間.弘長元年辛酉五月十二日には伊豆の国へ流罪、文永元年甲子十一月十一日頭にきずをかほり左の手を打ちをらる、同文永八年辛未九月十二日佐渡の国へ配流又頭の座に望む、其の外に弟子を殺され切られ追出・くわれう等かずをしらず、仏の大難には及ぶか勝れたるか其は知らず、竜樹・天親・天台・伝教は余に肩を並べがたし、日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人・多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり、仏滅後二千二百三十余年が間・一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人・但日蓮一人なり」(1189:13、聖人御難事)
これは、日蓮大聖人こそ、経文どおり出現した末法の御本仏であることを断言された、明らかな御文である。しかして、大聖人はいたるところで「一閻浮提第一の聖人」といわれ、下山御消息には「教主釈尊より大事なる行者」と仰せられ、また、法華経その他で、釈尊を一劫の間、身口意の三業で供養するよりも、末法の法華経の行者である日蓮大聖人を、継母が継子をほめるがごとく、戯論の一言でも、ほめ、供養する功徳が百千万億倍すぐれているとまでいわれているのである。
大聖人御在世中における予言的中
されば、日蓮大聖人の御予言は、在世中においても、滅後においても悉く的中しているのである。撰時抄にいわく「外典に曰く未萠をしるを聖人という内典に云く三世を知るを聖人という余に三度のかうみようあり」(0287:08)と。聖人とは、将来に起るべきことを知り、それにどう対処すべきかの方途を知られた方であり、さらに、過去、現在、未来の三世を通暁して誤りなく、遠き未来を見通される方をいう。
しかして、さらに「余に三度のかうみようあり」と述べられ、幕府に対し、三度にわたって国諫をなし自界叛逆と他国侵逼の二難の予言が的中したことをあげられている。すなわち、日蓮大聖人こそ未萠を知り、三世を知られた聖人であることは明白なのである。
三度の高名とは、まず第一に、文応元年7月16日に立正安国論を北条時頼に奉った時に、宿屋入道に対し、自界叛逆と他国侵逼の二難を明言された。種種御振舞御書にいわく「去ぬる文永五年後の正月十八日・西戎・大蒙古国より日本国ををそうべきよし牒状をわたす、日蓮が去ぬる文応元年庚太申歳に勘えたりし立正安国論今すこしもたがわず符合しぬ、此の書は白楽天が楽府にも越へ仏の未来記にもをとらず末代の不思議なに事かこれにすぎん、賢王・聖主の御世ならば日本第一の権状にもをこなわれ現身に大師号もあるべし」(0909:01)と。
仏の未来記とは、いうまでもなく正像末の三時にわたる予言である。安国論はその「仏の未来記にもをとらず」と確言されているのである。また安国論奥書にいわく「此の書は徴有る文なり」(0033:06)と。
第二に、文永8年9月12日、竜の口の法難の際、平左衛門尉に向かって自界叛逆と他国侵逼の二難のあることを断言された。その時「遠流・死罪の後・百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし、其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし」(0911:11)と厳然と戒められたのである。
その予言のどうりに、佐渡御流罪後、100日目の文永9年(1272)2月11日に北条時輔を誅殺するという内乱が起き、同じく3年後、文永11年(1274)10月と、さらに7年後の弘安4年(1281)7月には、元の大軍が襲来し、大戦乱となったのである。
特に自界叛逆について佐渡御書にいわく「宝治の合戦すでに二十六年今年二月十一日十七日又合戦あり外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食等云云、大果報の人をば他の敵やぶりがたし親しみより破るべし、薬師経に云く「自界叛逆難」と是なり、仁王経に云く「聖人去る時七難必ず起らん」云云、金光明経に云く「三十三天各瞋恨を生ずるは其の国王悪を縦にし治せざるに由る」等云云、日蓮は聖人にあらざれども法華経を説の如く受持すれば聖人の如し又世間の作法兼て知るによて注し置くこと是違う可らず現世に云をく言の違はざらんをもて後生の疑をなすべからず、日蓮は此関東の御一門の棟梁なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり・日蓮捨て去る時・七難必ず起るべしと去年九月十二日御勘気を蒙りし時大音声を放てよばはりし事これなるべし纔に六十日乃至百五十日に此事起るか是は華報なるべし 実果の成ぜん時いかがなげかはしからんずらん」(0957:13)と。
今年とは文永9年であり、いわゆる二月騒動である。日妙聖人御書にいわく「当世は世乱れ去年より謀叛の者・国に充満し今年二月十一日合戦、其れより今五月のすゑ・いまだ世間安穏ならず」(1217:12)と。この合戦もまた同じ事件である。
第三に文永11年(1274)4月8日平左衛門尉頼綱に面会のおり、頼綱が蒙古がいつ攻めてくるのかと大聖人に尋ねたのに対して、今年こそ攻めてくると断言され、そのとおり的中し、その年の11月に蒙古軍が押し寄せてきたのである。
撰時抄にいわく「去年文永十一年四月八日左衛門尉に語つて云く、王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず念仏の無間獄・禅の天魔の所為なる事は疑いなし、殊に真言宗が此の国土の大なるわざはひにては候なり大蒙古を調伏せん事・真言師には仰せ付けらるべからず若し大事を真言師・調伏するならばいよいよいそいで此の国ほろぶべしと申せしかば頼綱問うて云くいつごろよせ候べき、予言く経文にはいつとはみへ候はねども天の御気色いかりすくなからず・きうに見へて候よも 今年はすごし候はじと語りたりき」(0287:14)と。
滅後における予言の的中
さらに日蓮大聖人の滅後においても、その予言はことごとく的中している。第四段第三章に詳論することにするが、大聖人をさんざんに迫害した平左衛門尉は、大聖人滅後12年にして一族が滅亡したのである。そのいきさつについてはここでは略すが、あれほど栄耀繁栄をほしいままにした平左衛門尉の末路はあまりにも悲惨であった。
日寬上人は平左衛門尉が首を斬られたのは、日蓮大聖人の顔を打ったゆえである。最愛の次男が首を斬られたのは、大聖人の御頸を刎ねんとしたゆえである。長男が佐渡へ流されたのは、大聖人を佐渡へ流したゆえであると仰せである。
大聖人は、すでに建治三年の下山御消息に「教主釈尊より大事なる行者を法華経の第五の巻を以て日蓮が頭を打ち十巻共に引き散して散散に蹋たりし大禍は現当二世にのがれがたくこそ候はんずらめ」(0363:01)と仰せられていたのだった。
その頃の平左衛門尉の表面は権力絶大であり、華やかであった。だがその時の大聖人は、平左衛門尉の本質が、ただ滅亡に向かう生命の本質であることを見破っておられたのである。また、文永9年(1272)2月、鎌倉において、北条一門の同仕打ちがあったが、これを大聖人は華報とされ「実果の成ぜん時いかがなげかわしからんずらめ」と心配された。だが、大聖人滅後52年にして、元弘3年(1333)5月22日、北条一門はことごとく滅亡し、鎌倉幕府はここに倒壊し去ったのである。
さらに大聖人は末法の御本仏として広宣流布の未来記を厳然とのべられている。
日蓮大聖人の御本仏としての御確信
しからば、その末法の御本仏の未来記いかん。顕仏未来記にいわく「問うて曰く仏記既に此くの如し汝が未来記如何、答えて曰く仏記に順じて之を勘うるに既に後五百歳の始に相当れり仏法必ず東土の日本より出づべきなり」(0508:10)と。
すなわち、大聖人の仏法は、日本に広宣流布し、のみならず、日本より起こった、この仏法が、必ず西へ西へと滔々と流れてゆくことを予言されているのである。この顕仏未来記は、大聖人が佐渡の地において認められた。
第三章 (経証の二 大集経)
大集経に云く「仏法実に隠没せば、鬚髪爪皆長く、諸法も亦忘失せん。当の時、虚空の中に大なる声あつて地を震い、一切皆遍く動ぜんこと、猶水上輪の如くならん。城壁破れ落ち下り、屋宇悉く圮れ圻け、樹林の根・枝・葉・華葉・菓、薬尽きん。唯浄居天を除いて、欲界の一切処、七味・三精気損減して余有ること無く、解脱の諸の善論、当の時一切尽きん。所生の華菓、味希少にして亦美からず。諸有の井泉池、一切尽く枯涸し、土地悉く鹹鹵し、歒裂して丘澗と成らん。諸山皆嫶燃して、天竜雨を降らさず、苗稼皆枯れ死し、生いたる者皆死れ尽きて余草更に生ぜず。土を雨らし、皆昏闇にして、日月明を現ぜず。四方皆亢旱して、数諸の悪瑞を現じ、十不善業の道、貪・瞋・癡倍増して、衆生の父母に於ける、之を観ること獐鹿の如くならん。衆生及び寿命、色力・威楽減じ、人天の楽を遠離し、皆悉く悪道に堕せん。是くの如き不善業の悪王・悪比丘、我が正法を毀壊し、天人の道を損減し、諸天善神・王の衆生を悲愍する者、此の濁悪の国を棄てて皆悉く余方に向わん」已上。
現代語訳
大集経には次のように述べている。
正しい仏法が隠没すれば、鬚や髪や爪を皆だらしなく伸ばし、世間の諸法もまた忘失するであろう。そのとき、空中に大きな声があって、地が震い、地上のいっさいのものがあたかも水車が回るがごとく動転する。城壁は破れ落ち、人家はことごとく破れ崩れ、また樹木の根、枝、葉、花びら、菓、それらに含まれる薬味がなくなってしまう。ただ浄居天という天界を除いて、色界・欲界のいっさいの七味・三精気が損減して生命を養うことができなくなる。人を悟りに導くもろもろの善論も、そのときにはいっさい失われてしまう。地に生ずる華果もごくわずかで味もまずく、あらゆる井戸や泉や池もことごとく乾いて、土地はすべて荒地となり、地割れがして、でこぼこになってしまう。諸山はみな焼けて雨は降らず、苗もみな枯死し、生ずるものはみな枯れ尽きて、余草もいっさい生じない。大風が吹いて、土を巻き上げてふらし、そのために空は暗くなって日月の光も見えない。
かくて、四方は皆ひどい旱魃となり、もろもろの悪い瑞相が現れ、十不善業、なかでもとくに貪・瞋・癡が倍増して、人びとは父母に対しても、獐鹿のような恩知らずの行いをする。その結果、衆生の寿命も減じ、体力も威光も楽しみも損減し、人天の楽しみを遠く離れて、皆ことごとく悪道におちてしまう。このような不善業の悪王、悪僧がわが正法を破り、天界、人界の道を損減し、諸天善神の梵天、帝釈、四天王などの衆生を哀れむべき善王も、この濁悪の国を捨て皆ことごとく他方へ向かうであろう。
語釈
大集経
大方等大集経の略。中国・北涼の曇無讖らの訳。六十巻。欲界と色界の中間にある大庭とされる大宝坊等に、広く十方の仏菩薩を集めて説かれた大乗の諸経を、一部の経としたもの。国王が仏法を守護しないなら三災が起こると説く。また、釈尊滅後に正法が衰退していく様相を五百年ごとに五つに区分する「五五百歳」を説き、これが日蓮大聖人の御在世当時の日本において、釈尊滅後二千年以降を末法とする根拠とされた。
鬚髪爪
ひげ、かみ、つめ。「鬚髪爪皆長く」とは、風俗が乱れ、礼儀が廃れることを意味する。ここでは、三毒の増長を意味するのであり、髪は貪り、爪は瞋り、鬚は愚癡をあらわす。
樹林の根・枝・葉・華葉・菓、薬尽きん
根、枝、葉、華葉、菓のそれぞれから採れる薬が、みな尽きてしまうこと。現代の化学薬品が出現する以前は、薬草が唯一のたよりであったから、その存在はもっとも貴重であった。仏法が隠没すれば、こうした薬味も尽きるのである。
浄居天
天界の内の色界の最上にある天。
七味
甘い・辛い・酸っぱい・苦い・塩っぱい・渋い・淡いの七種の味。
三精気
大地精気(大地が植物を育む力)、衆生精気(自他を利し育む力)、正法精気(人々に得道させる力)。これらの三精気を盛んならしめる本源は妙法にある。
土地悉く鹹鹵し、歒裂して丘澗と成らん
鹹鹵とは、塩分が強くて作物ができないことをいう。鹹は「しおからい」、鹵は「塩気を含んだ不毛の地」。歒裂とは、裂けて割れ目ができること。経文には「剖」とあるが、大聖人の御真筆には「歒」となっている。丘憪は、大地に高下ができることを意味する。丘は「小高い土地」、澗は「谷」「谷川」。
十不善業
身口意の三業にわたる、最も甚だしい十種の悪い行為。倶舎論巻十六等に説かれる。身の三種、口の四種、意の三種、合計十種の悪業をいう。十悪ともいう。①殺生、②偸盗、③邪婬、④妄語、⑤綺語、⑥悪口、⑦両舌、⑧貪欲、⑨瞋恚、⑩愚癡、または邪見。
獐鹿
鹿の一種で、この鹿は他のものに追われて身に危険が迫ったとき、自分だけ助かることを望んで、父母や仲間のことは少しも顧みないで逃げ去るといわれる。このことから、ここでは、父母のことを少しも顧みない不孝者の譬えに引かれているのである。
講義
大集経においては、仏法が隠没すればいかなるとが起こるかが説かれている。
仏法の乱れが、実に一切の乱れ、不幸の根源であるがゆえに、まず「仏法実に隠没せば」との文が最初にきているのである。
仏法実に隠没せば
今日、日本および東洋をみるに、寺も多く僧侶の数も少なくない。宗派は多数あって、一見、仏法はまだ盛んであるかのように見える。しかし、これは、単に仏教の形骸が残っているにすぎない。僧侶は葬儀と法事にのみ必要なものであって、墓番といってもさしつかえないほど、仏法上、有名無実の存在である。社会的にもなんら貢献するところがない。みずから確固たる思想もないがゆえに民衆を指導し、救済する等ということは思いもよらない。一種の乞食であり、社会的には、社会の反対給付のない居候同然であり、さらにいえば寄生虫のごとき存在である。
乞食といえば、本来は釈尊の時代に、乞食の行といって威厳のある行であった。民衆をして布施の志を起こさしめて、善根を植えしむるのであった。されば乞食の行をするときには衣を整え、威風堂々と師子王の歩みをなして家々を訪れ、あえて礼をとらず一鉢を差し出すのである。訪れた家では、その鉢へ食物を入れるのである。もし家人が振り向かないときは、錫杖を鳴らして気づかせるのである。食物の布施を受けても礼をいうこともなく、くるりときびすをめぐらして、威風堂々と帰るのである。
そして、川辺に至って、手を洗い口をすすぎ木の下に帰って、飢饉の時にわが子の肉を食うがごとき思いをなして、量の多少、味の良し悪しを絶対に考えることなく、感謝して食するのである。かかる気持ちがあったとしても、乞食の行は釈迦時代の遺物であって、今日の仏法の修行ではない。しかし、この修行ですらできない悪侶の充満しているのが、今日の仏教界の状態である。自分の利益のみをむさぼるように追い求め、自己保身にやっきとなっているのである。ただ形式的に経を読み、寺があり、僧侶がいるというにすぎない。その経すら末法の民衆を指導し救済するものではなくて、むしろ邪道に堕するものである。いわんや最近では、観光化し、見世物化・営業化した寺院も少なくない。これ「仏法隠没」といわずして何であろうか。
さらに、既成仏教の頽廃は、今日のごとき、いかがわしき邪宗教の氾濫を惹起したのであった。彼らは互いに利害のために手を結び、創価学会の折伏を必死になって食い止めようとしている。だが所詮、彼らの策動は、あたかも大風の前の塵のごとくはかなきものであり、あがけばあがくほど、還著於本人の方程式どおり、自分自身を必死に追いやるのは必定である。
まことに仏法の真髄は創価学会にしかない。その活動をはばむようなものがあれば、それこそ仏法を破滅させる魔の姿であり、もし、かってのごとくあえて国家権力をもって、阻止しようものならば、終戦後のように「仏法実に隠没せば」の経文が、たちまちに眼前に展開され、民衆の苦悩の深淵のなかへと進ませる結果となろう。やがて、再び国は滅び、悲惨の極地に至ることも、経文に照らし、大聖人の御文に照らし、あまりにも明らかである。
鬚髪爪皆長く
これは、風俗の極度の紊乱を意味する。およそ色法と心法とは不二である。風俗の乱れは、実に人々の心の乱れである。人間が身だしなみを整えることは、自然の姿である。だが心が阿修羅のごとく、餓鬼道のごとく、また地獄の苦悩に沈むとき、それ相応の姿となる。まさに鬚髪爪皆長くという姿は、古来、法滅の相としているゆえんである。
日寬上人の文段には、これは、三毒を増長をたとえるものであるとして次のように仰せである。
「問うていうには、この鬚髪爪の三つの表示はいかなる意か。答えていうには、一義には、これは三惑増長を表わす。すなわち髪とは見思惑。鬚とは塵沙惑。爪とは無明惑。真言ではこれを三妄執という。すなわち麤妄執、細妄微、微妄執である。今いわく、もし当分にあたっては、恐らくは、鬚髪爪皆長くとは三毒増長を顕すか。すなわち髪は貪を表わす。見て愛を生ずるゆえである。爪は瞋を表わす。堅利なるゆえである。鬚は癡をあらわす。要覧上には次のようにある。『その好形を毀ち鬚髪を剃徐する。過去の諸仏は即ち発願していうには、今落髪ゆえ、願わくは一切衆生の煩悩を断徐せんと、今この鬚髪を彼の煩悩にたとえる』等云云。いま下の経文にいうには、貧瞋癡倍増して等と云云。これ思うべきである」と。
かくのごとく、一義には髪は見思、鬚は塵沙、爪は無明の三惑をあらわすといい、また一義には、髪は貪り爪は瞋り、鬚は癡の三毒をあらわすともいう。本来、髪や鬚や爪は、おしゃれのポイントであり、これらを極端に飾りたてることは、仏弟子にあらざる妄執である。逆に、これらをだらしなく伸ばすことも、また風俗の乱れ、心の乱れにほかならない。ゆえに、鬚髪爪をもって、三惑、三毒にたとえられたのである。
今日の風俗の乱れは、まことに目にあまるものがある。目的観の喪失、既存の体制、既存の道徳に対する不信と疑惑は、人々に深刻な精神的動揺と混乱をもたらしてしまった。多くの人は、あせり、あがき、そしてやがてその心を紛らわさんがために、刹那主義に流れ、ほんのわずかな時間の亨楽にふけるのである。あらゆる人間の作品は、人間の心の所作である。されば今日の文学にせよ、絵画にせよ、音楽にもせよ、そうした民衆の心を強く反映しているのである。文学も、今後数百年にわたって、民衆の心の中に流れゆくような生命をもった作品は皆無に等しく、いたずらに民衆のあせり、あがき、頽廃的な風潮に迎合し、それをむしろ助長するがごときである。いわんや一般の言論界の悪幣はいうまでもない。絵画は、神経質な、また錯綜し、混乱した人間感情のあらわれのごとく、音楽もまた、民衆に喜びと希望と潤いを次への建設の力を与えるものではなく、ただ、本能的興奮や焦燥と頽廃のリズムにひたり、または亡国の哀音をかなでている。
御書にいわく「音の哀楽を以て国の盛衰を知る詩の序に云く治世の音は安んじて以て楽しむ其の政和げばなり乱世の音は怨んで以て怒る其の政乖けばなり亡国の音は哀んで以て思う其の民困めばなりと」(0088:17、念仏者・追放せしむる宣旨・御教書・五篇に集列する勘文状)。
諸法も亦忘失せん
これは、思想の乱れ、道義の頻発、国法の乱脈である。すなわち、民衆の心を先導すべき確固たる思想もなく、また、民衆の道義は、もはや地に落ち、心は極度に疲弊し、不安と焦燥と頽廃のムードが一国にみなぎっている。そして、国法においては、戦争否定の平和憲法は、いたずらにふみにじられ、また、幾多の悪法の樹立を試しみる、陰険な策謀等等、善法を骨抜きにし、悪法を横行させんとする動きがあるではないか。これ、民衆の幸福を奪い、民主主義を略奪する以外なにものでもない。
ここに、真に正しき思想を民衆の心に植えつけ、人間革命を教え、善法を擁護し、悪法を挫くのでなければ、いかなる世相が現出するであろう。けっして過去の悪夢を忘れるべきでなく、また悲惨な諸外国の民衆の苦悩を遠くに思うべきではない。
当の時虚空の中に大なる声あつて地を震い一切皆遍く動かんこと猶水上輪の如くならん・城壁破れ落ち下り屋宇悉く破れ圻け樹林の根・枝・葉・華葉・菓・薬尽きん
この文について日寬上人は次のように述べられている。
「註にいわく『天雷地に徹してその輪転ずることなお水草のごとし』と云云、健にいわく『昔・天狗流星というもの響き亘りてありけり』と云云、弘の五の中三に『天狗流行し地数ば振動す』と文、健の意はこの文に依るか、この義大旨に応うなり」
すなわち、ここに「天狗流星」、「天狗流行」とあるが、これは、あるいは隕石ではあるまいか、先に火球としてしめしたのがこれであるとも考えられるのである。
ロシアの昔話では、火球を「空をかけるゴルイヌイチという火をはく巨大な竜」として語られている。一例あげると、1091年の年代記には「…空から巨大な竜が落ちてきた。人は皆ふるえあがって驚いてしまった。その時、大地にぶつかる大きな音がとどろきわたり、多くの人々の耳をつんざいた」と書かれてあるとのことである。
中国では、これを天狗と考えたのではあるまいか。
したがって「天雷地に徹し」とは、火球が落ちたことを意味するのであろう。また「虚空の中には大なる声あって」とは、前述のごとく火球が消えるときに、爆発が、砲撃のような強烈な打撃音が起こり、雷鳴を想わせるような轟きが聞こえるが、このことではあるまいか。この時、地震のように、大きく大地がゆれ動くことは事実である。
先に1908年にシベリア北部の森林に火球が落ちた例をあげたが、その時に森林は、広い地域にわたってなぎ倒され、破懐されてしまった。落下地点の近くにいた人々は、爆風ではねとばされたのである。また大地は、全世界にわたって地震のように感じられたほど、大きくゆれ動かされた。爆発の音は1km以上離れたところでも聞くことができたとのことである。
遠き古代においては、きわめて巨大な隕石が盛んに落ちたとも考えられる。中国等においても、その隕石が発屈されている。
だが、今日では、この一節はむしろ地震のことであると考えてよかろう。なぜならば、今日に至るも、否、今日さらに地震はきわめて恐ろしいものである。
この場合「虚空の中に大きな声あって」とは、しばしば遠雷のような地鳴りがすることは、各地で体験されているが、このことと考えてよかろう。
最近では、昭和40年(1965)から長野県・松代町で起こっている一連の地震に際して、無気味な地鳴りが絶え間なく響き、住民を不安におとしれたことが報道されている。この立正安国論を勘え始められる動機の一つとなった、正嘉元年(1257)8月23日の大地震について、吾妻鏡は、次のように記している。「二十三二日、乙已、晴、戌刻、大地震、有音…」と。また、翌2年12月16日の地震については「天晴、寅」を雷鳴と勘違いして、このように記されたものとも考えられるのである。「地を震い一切皆遍く動かんこと猶水上輪の如くならん」とは、きわめて大きな地震である。関東大震災のごときものか。あるいは、さらにその倍も、三倍も激しいものであろうか。いずれにせよ凄惨な光景である。
地震があると、眼前にすさまじい光景が展開される。石の山に変わった家、山くずれ、土砂で埋められた河底、大地の深い亀裂、あらゆるものを灰にしてしまう火事、被害者の死骸等々と。また津波の被害も大きく1755年にリスボンでは、30mあまりの高さの津波が岸を襲い、60000人の人を水に沈め、何百という建物を崩壊し去ったのであった。
また、地震や風水害等の天変でなくとも、最悪の人災たる戦争により「城壁破れ落ち下り屋宇悉く破れ圻け樹林の根.枝・葉.華葉・菓・薬尽きん」という惨憺たる様相となる。第二次世界大戦における、あの目もあてられぬような、破懐し尽くされ、焦土と化した欧亜の世界、また、原爆直下の広島、長崎の、地獄絵図、これらのかっての事実は、まさしく文のとおりではないか。
唯浄居天を除いて欲界の一切処の七味・三精気損減して余り有ること無けん
これは、一切の民衆が楽しむべき生活がなくなるということである。今日、物価は上昇の一途を辿っているにもかかわらず、一般の人々の所得の上昇は、それに追いつけず、相変わらず、苦しい生活が続いているのは、まことに嘆かわしい。日本はまだしも、インドや東南アジアの国々の一般民衆の生活にいたっては、乞食同然である。また、太平洋戦争中の極度に追い詰められた生活は、この文のとおりであった。それに比較すれば、現在はまだ、無事平安ともいえよう。だがもし「仏法実に隠没せば」再び、われわれは、楽しみも、潤いもない、殺伐たる時代へと没入し、あるいは飢餓の死線をさまようことにもなりかねない。まことに恐ろしいことではないか。
「唯浄居天を除いて」の浄居天とは、大集経に説かれているが、法華経の立場からいえば「大火所焼時、我此土安穏」の仏国土と考えるべきである。
「三精気」とは、衆生精気、地精気、法精気のことである。まず衆生精気とは、人間、社会それ自体の生命力であり、一国の興亡、民衆の盛衰を決する、根本の生命力である。その生命力が極度に衰えてしまうというのである。これ、方便品に「五濁」とあるなかの衆生濁にあたるものである。この衆生社会全体の生命力の損耗は、実に一人一人の人間生命の濁りによるものである。私利私欲にふけり、また我慢執着の念にかられ、そこにおのずと醜い闘争が繰り広げられるであろう。政治は乱れ、生活は破懐され、社会全体は停頓し、民族は興隆の息吹がなく、やがて亡国の憂き目にあうのである。
地精気とは、国土それ自体の生命力である。もしも、国土それ自体の生命力が、真に旺盛で、リズムに適ったものであれば、五穀は豊かに実り、木々の緑は、人々に新鮮な空気と希望と潤いを与え、水は清く、美しい、草花は、芳香をただよわせ、あたりはさながら楽園となるのである。総勘文抄にいわく「春の時来りて風雨の縁に値いぬれば無心の草木も皆悉く萠え出生して華敷き栄えて世に値う気色なり秋の時に至りて月光の縁に値いぬれば草木皆悉く実成熟して一切の有情を養育し寿命を続き長養し終に成仏の徳用を顕す」(0574:14)と。まことに、真の仏国土であれば、国土それ自体が慈悲の姿を現ずるのである。国土もまた十界の当体である。天台大師は「国土世間亦十種の法を具す所以に悪国土・想・性・体・力」等と述べているのである。しかして、この国土自体の生命力を真にたくましく清浄に、かつリズム正しくする本源は妙法以外にないのでる。されば、もし「仏法実に隠没」するならば、国土それ自体の生命力は衰え、地獄・餓鬼・畜生・修羅の「相・性・体・力・作」等を現じ、リズムはこわれて、疲弊し、大地は激震し、河川は氾濫し、大海は怒り狂い、風雨は常なく、時に大暴風雨を、時に大旱魃をもたらすのである。
法精気とは、世間法、国法、より本源的には仏法の力である。世間法、国法については「諸法も亦亡失せん」のところで述べたとおりである。思想の混乱、道義の頽廃、国法の弱体化、または濫用等と、所詮これらは人間生命に巣くう偏見、邪見の産物であり、すなわち人間生命の濁りにほかならない。しかして、その底流はこれを善導すべきはずの仏法が頽廃したがゆえなのである。仏法に、民衆を救済する力なく、国法は乱れ、世間法は乱脈のきわみに達する。これ、今日の姿であり、法精気を奪われた姿ではないか。所詮、真実の仏法が隠没されたがゆえの結果である。
解脱の諸の善論当の時一切尽きん
これは、民衆を指導するよき指導原理がなくなるということで、政治にもせよ、文化にもせよ、経済にもせよ、ことごとく行き詰りの感ある日本の現状は、これをよく示しているではないか。ここに解脱とは、苦縛を離れた悟りの境涯のことであるが、これは決して小乗経の、灰身滅智し、煩悩を離れた無余涅槃の境地をいうのではなく、煩悩即菩提であり、すなわち、われわれの立ち場でいえば、現実生活のなかに築く、真実の幸福境涯である。
されば、解脱の善論とは、別して妙法しかないことは明瞭であるが、ここでは総じて民衆を幸福に導く、一切の指導原理をさすと考えるべきであろう。
所生の華菓、味希少にして亦美からず。諸有の井泉池、一切尽く枯涸し、土地悉く鹹鹵し、歒裂して丘澗と成らん。諸山皆嫶燃して天竜雨を降さず苗稼も皆枯死し生ずる者皆死し尽き余草更に生ぜず
これは大旱魃のことである。昔は、この被害が、民衆に決定的な打撃を与えた。だが、今日では、雨が降ったとき大きな貯水池で水をためておくため、一応、昔のように日照りによって大飢饉が起こるようなことはまずなくなっている。しかし、水に対しては飲料水としてだけではなく、工業用や発電用として、ますます需要が高まってきている。今や、水はいくらあっても足りない状態になっていることも事実である。国土それ自体には、時としては考えられないような異常なことが起こりうる。もしも、この文のごとく、大地が引き裂かれ、割れ目ができたり、さらに激しい起伏が生じるという、いまだかってないような破懐的大旱魃がおこるならば、工場の機能はまったく麻痺し、人々は水を求めて餓鬼道のごとくになるに違いない。
さらに、それが貯水池の水も役立たないほど、相当長期にわたるならば、草木が皆枯死し、大飢饉が起こるという可能性もけっしてないわけではない。ましてや、悪政のために内政が極端におろそかになり、はては戦乱に巻き込まれるようになれば、おそらく、大旱魃は、その時とばかりに猛威をふるうであろう。いまだ日本には、このような大旱魃は起きていないが、もし真の仏法が弘まらなかったり、これを弘めるものを軽蔑し、愚弄し、これをはばむならば、必ずやこの大苦難を受けなくてはならぬのは当然である。
土を雨らし皆昏闇に日月も明を現ぜず四方皆亢旱して数ば諸悪瑞を現じ
「土を雨らし」とは、大地が乾ききるため、土が風に舞い上げられ、降ってくることである。砂漠地帯のサンドストーム、中国の蒙古風などは広く知られている例である。また、火山の爆発で上空に吹き上げられた灰が降ってくる場合もある。重い土は早くおりてくるので、「土を雨らし」という状態になる。
土や灰が降り泥雨がふるという記述は多い。なお、竜巻などで巻き上げられたものが、降ってくるせいか、穀物が降ってきたり、魚が降ってきたり、毛がふってきたりする場合もある。たまには隕石と思われるような大きな石が降ることも記録されている。
空中に舞い上がった土や火山灰は、こうして一方では「土を雨らし」という現象を引き起こすが、他方、非常に軽い細かい粒子の場合、長く空中にとどまり、日光をさえぎって冷害を引き起こすことが少なくない。この場合、太陽は赤く見えたという記述がある。これ「日月明を現ぜず」である。稀に青い太陽が見られる。
満州でこれを発見したある科学者は、その光景を次のように伝えている。
「朝から南西の強い風が吹き、大気は流れ来る黄色い砂のために空気自身の色が黄色になったと思われるように濁って来た。戸外に出て見れば、一面の黄色のほかほとんど景色は何も見えず、ただ近いところにある樹が灰色にぼんやり見える気味わるさである。昼ごろあたりは、室のなかも赤味を帯びて来たように思えるので窓から外を眺めると、確かに大気の濁りは黄色の上に朱のような赤味を加え、空を見上げると、これまた一面に赤味がかった褐色になっている。驚いたことには、中天に青空とも思える青い色をしたわずかの部分があり、その中央に太陽は蒼ざめて、めらめらと弱く輝いている不気味さである。ちょうど赤褐色の雲の中にわずかにその青空があり、青い太陽が見えるというようで、私はすぐにこれは夕焼けの色を反対にしたようだと思った」
土が降ったり、日月が明らかでないというのが悪瑞相であるとは、まことにもって当然至極の道理である。すなわち、なにもなくて土が降ったり、日月が光りを失ったりはしない。その現象は、実に氷山の一角であり、その背景となるものは、火山の大爆発やあるいは異常な乾燥である。さらにその奥を考えれば、国土のリズム、宇宙のリズムに異常をきたしている証拠であり、災害は災害を呼び、一時にさまざまな悪現象が並び起こる前兆といえる。さらに、国土の変化は、人間の生命状態の変化に、微妙にかつ甚大な影響を与える。したがって、戦争等の人間の破懐的な営みの瑞相でもありうる。されば、仏法においてこれらをさして「諸悪瑞」といわれたのは、まことにゆえあることではないか。これらのことがわかってきたのは、科学が発達したからである。すなわち、科学の進歩が、仏法を証明するということは、厳然とここにあらわれてくるではないか。
十不善業の道・貪瞋癡倍増して衆生父母に於ける之を観ること獐鹿の如くならん
まことに殺伐たる社会である。十不善業の道といい、貪・瞋・癡といい、今日、それがますます倍増している感が深い。人々は思い思いに身は、殺伐と、邪淫と強盗にふける。口には、互いにウソをつきあい、飾り立てた虚偽をいいあい、また激しい憎悪を込めてののしりあい、また、二枚舌を使って人をたぶらかしあう。心は貪欲に満ち満ち、怒りと憎悪がみなぎり、また無気力と無智と怠惰の充満せる状態となるという。まことに経文そのままではないか。今日の人々の姿を映し出してあまりなきものである。
このような一人一人の人間の身も口も心も、まったくすさみっきり、くさりきってしまったがゆえに、それが昂じてくると、常識では意外とおもうようなことが、まるで当然であるかのごとく平然と行われるのである。
はては、肉親同士が、あたかも他人のごとくこれを見捨てて顧みなくなる。否、時としては他人以上に、激しい憎悪と嫉妬と怒りで、醜い闘争に身をついやすことさえある。はては、親を殺すなどということはあってはならないことなのに、感情にまかせて親を殺したり、また利害のうえからこれを危めたりすることは、残念ながら事実であり、ときおり、そのいまわしいニュースが報告される。これ、三世にわたって正しき真の仏法が、隠没した結果である。
この、あまりにも非人間的な社会が現前しているのに、世の識者はこれをいかなる思想で、方途で解決できると確信しているのか。
あるいは、いかなる実践を現実にやっているのか。世の頽廃を嘆くのは易しい。だが、いったい、だれが、これを打開するのか。
仏法は、一人一人の人間の生命を奥底より変革する。それは道理でもなければ修養でもない。貪・瞋・癡にむしばまれた生命の奥底にひそむ、最も力強い、清浄無垢な大生命力を泉水のごとくこんこんと湧現させるものである。この、いかんなき人間性の発揚をなさしめる大正法の確立がない限り、社会の濁りを是正する道は絶対になきことを、確信してやまない。
衆生及び寿命・色力・威楽減じ人天の楽を遠離し皆悉く悪道に堕せん
これは人口が減少し、一切衆生の寿命が減り、生命力が弱まり、その肉体も衰え、楽しみも、希望も、勇気もなく、健全な生活は失われ、神経衰弱症のごとき人々となる。やがて、三悪道、四悪道に堕ちこみ、長くそこから抜ききれず、闇から闇へと流浪していくことをいう。生命力の減退は、個人にとっても、民族にとっても恐るべきであるが、今日の日本民族がこの道を歩みつつあることは、嘆かわしいことである。精神病患者はもとより、潜在的な精神病にかかっている人は、恐るべき多数にのぼっていることが確認されている。みな無気力となり、若き生命の躍動も、やがて、社会悪に巻き込まれ、刹那主義におちこみ、快楽を追って、肉体と精神を損耗しつつあるのが現実なのである。
ひるがえって、わが創価学会員の生命力溢れ、若々しく希望に輝き、美しい清らかな目をもち、勇気りんぜんと活動している姿を見よ。これこそ、新しき時代を築く力であり、全民衆が心の底から待ちこがれていた、たくましき、清純なる息吹きであろうか。やがてこの息吹きが、日本をおおい、全世界をおおって、平和な時代が築かれていくことも必然である。否、それを築くのは、その息吹を知る人の使命である。
是くの如き不善業の悪王・悪比丘我が正法を毀壊し天人の道を損減し、諸天善神・王の衆生を悲愍する者此の濁悪の国を棄てて皆悉く余方に向わん
正法毀謗の罪によって不善業の業を積み、しかして、生命の弱りきった悪王や悪い僧侶が正法を謗り、その流布を止めているから、諸天善神も、善王も、その国を捨ててしまうのである。
「不善業の悪王」とは、まさに今日の指導者であり、なかんずく政治権力者でないか。貪・瞋・癡の三毒のままに、私利私欲にふけり、派閥抗争に明け暮れ、不生を事とし、陰険であり、善人を迫害しようとする姿は、歴然としている。しかして、かかる指導者を誕生させたのは、いったい何が原因か、それは民衆の生命に巣くう封建性である。そこに、黒々とした民衆の生命の濁りを見いだすのである。これ邪宗教、悪思想の害毒以外なにものでもない。過去幾多の人間性を無視した邪宗教、悪思想が横行してきた。無気力と廃退と狂気の温床こそ、実に、民衆の生命にくいいる邪宗教であると断ずるものである。
また過去においても、神道におかされた指導者の頭脳は狂乱の態を示し、太平洋戦争の無残な惨状をもたらしたのではないか。無気力な民衆、それを食いちらす狂気のごとき邪宗、邪義、邪智、さらに、そこから生まれる指導者、この三拍子がそろえば、まさに地獄の火焰は、猛威をふるうであろう。亡国の姿を現ずるは必定である。されば「不善業の悪王」は「不善業の悪比丘」とともに、いたずらに、民衆の幸福への方途を説ききった大正法を穏没し、諸天善神は、ことごとく濁悪の国を捨て去り、魔来たり、鬼来たり、災起こり、難起こり、ついに国が滅びると仰せられたのである。
ここに「正法」とは、いうまでもなく、弘安2年(1279)10月12日御図顕の大御本尊であり、今日においては、それを奉じて立つ創価学会をはばむ行為は仏教典に照らして、明らかに「正法隠没」の行為であることは絶対であり、それがいかに悲惨な結果をもたらすかを、あえて智者に忠告するものである。
第四章 (経証の三 仁王経)
仁王経に云く「国土乱れん時は先ず鬼神乱る。鬼神乱るるが故に万民乱る。賊来つて国を劫かし、百姓亡喪し、臣・君・太子・王子・百官、共に是非を生ぜん。天地怪異し、二十八宿・星道・日月、時を失い、度を失い、多く賊の起ること有らん」と。亦云く「我今五眼をもつて明らかに三世を見るに、一切の国王は皆過去の世に五百の仏に侍えしに由つて、帝王主と為ることを得たり。是を為て一切の聖人・羅漢、而も為に彼の国土の中に来生して、大利益を作さん。若し王の福尽きん時は、一切の聖人皆為れ捨去せん。若し一切の聖人去らん時は、七難必ず起らん」已上。
現代語訳
仁王経にはまた次のごとくいわれている。
国土が乱れるときは、まずその前に鬼神が乱れる。鬼神が乱れて万民を悩ますがゆえに、万民が乱れるのである。そのゆえにまた、他国の賊が国内を劫掠してきて、万民、百姓が殺害され、臣、君、太子、王子、官吏が互いに意見の不一致を起こして相争うであろう。また、そのときには、天地に常とちがった種々の怪しい現象が起こり、天の二十八宿、星の運行、あるいは太陽や月が常軌を逸し、国に多くの賊が起きて、人民は非常な苦しみをうけるであろう。
また同じく仁王経にいわく。
仏がいま、五眼をもって明らかに過去、現在、未来の三世をみるに、世のいっさいの国王は皆、過去世に五百の仏に仕えた功徳によって帝王となることができたのである。この功徳のゆえに、いっさいの聖人や羅漢が王の国土に生まれて来て国王を助け、大利益をなすのである。もし王が善根を積まないで福運が尽きてしまうときには、いっさいの聖人はその王の国土を捨て去ってしまう。もし聖人が去るときには七難がかならず起こるであろう。
語釈
仁王経
後秦代の鳩摩羅什訳の仁王般若波羅蜜経 二巻と、唐代の不空訳の仁王護国般若波羅蜜多経二巻とがある。サンスクリット原典もチベット語訳も現存しておらず、中国撰述の経典とする見解がある。内容は正法が滅して思想が乱れる時、悪業のために受ける七難を示し、この災難を逃れるためには般若を受持すべきであるとして菩薩の行法を説く。法華経・金光明経とともに護国三部経とされる。
二十八宿
インド・中国に古くから用いられた天文説で定められた二十八種の星座のこと。月が天を一周する間に、西から東へ一日に一つずつ黄道付近にある星宿に宿していくとして定められたとされる。二十八宿経、摩登伽経、宿曜経などで説かれる。宿には星のやどりという意味があり、中国の史記にも「二十八舎、即ち二十八宿の舎る所なり」とある。宿曜経巻下によれば、インドでは牛宿を除く二十七宿であったという。
五眼
物心にわたって物事を見極める五種の眼のこと。肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼をいう。
講義
仁王経では、あらゆる混乱のはじまりは、鬼神の乱れからくるとしている。
国土乱れん時は先ず鬼神乱る。鬼神乱るるが故に万民乱る
仏法でいう「鬼神」とは、「鬼とは命を奪う者にして奪功徳者と云うなり」(0749:第十二悪鬼入其身之事:02)と御書にあるごとく、生命自体を破壊し、福運を奪う働きをいうのである。魔が生命内在のものであるのに対し、鬼は、自然界、社会から生ずる働きをいう。たとえば社会全体をおおっている悪思想も〝鬼神〟といえる。
また、この場合の「国土」とは、もちろん自然の国土という意味も含まれるが、より現代的にいうならば「社会」という言葉に近い意味をもっている。
したがって、人間社会と自然をも含めた総体としての「国土」が乱れるときには、まず思想の乱れが根源となり、その結果、「万人」すなわちあらゆる人びとが狂乱の巷へと進み、やがてその国土は破滅の方向へひた走っていくのである。
ゆえに、この「鬼神乱る」という思想の混乱を解決しない以上、国土の乱れを根本から直すことはできない、という結論になるのである。
日蓮大聖人のご在世の時代は、まさにこの鬼神が乱舞しきった状態だったことはいうまでもない。また、この御文を亀鑑として現代社会をみるとき、鬼神乱るる様相が、いよいよ深刻の度を増しつつあることを、鮮やかに映し出されているのである。
あらゆる分野の指導者たちが、一念を正すことが、いまほど緊急な時代はあるまい。それもたんなる反省とか意識改革などで変わりうるものではない。思想を支配するものが生命の働きである以上、より根源的なものを必要としている。すなわち、それは、仏法の真髄たる日蓮大聖人の教えによる以外にはないのである。
賊来つて国を劫かし、百姓亡喪し
この経文どおりの事実が、当時の蒙古襲来と、七百年後に起きた太平洋戦争の敗戦である。
文永の役の翌年、一谷入道御書のなかで、大聖人は「去る文永十一年太歳甲戌十月に蒙古国より筑紫によせて有りしに、対馬の者かためて有りしに宗惣馬尉逃ければ、百姓等は男をば或は殺し、或は生取にし、女をば或は取り集めて手をとをして船に結い付け、或は生け取りにす。一人も助かる者なし。壹岐によせても又是くの如し。船おしよせて有りけるには、奉行入道・豊前前司は逃げて落ちぬ。松浦党は数百人打たれ、或は生け取にせられしかば、寄せたりける浦浦の百姓ども壹岐・対馬の如し」(1329:16)と、蒙古軍襲来のさいの対馬、壱岐、筑紫の民衆の惨状を述べられている。
まさに、この経文そのままの姿ではないか。第二次世界大戦による民衆の被害については、いまさらいうまでもないところであろう。
臣・君・太子・王子・百官、共に是非を生ぜん
これ、国内の実情ではないか。現在は主権在民の時代であり、臣、君、太子、王子、百官の別はない。これはさまざまな社会とすべきである。大きくは国家と考えてよい。また経済界、教育界、政治界等々ととることもできる。また小さくは、一家、会社、地域社会等と考えてもよいであろう。「是非を生ぜん」とは、人びとがそれぞれのエゴを発揮し、おのれの保身のために汲々として、相争うことである。たがいに意見を交換しあい、建設しあうための討論ではなくて、まったく対立し、憎悪し、激怒に燃えて戦うことをいうのである。
一国を考えてみれば、左右の激突があるであろう。この対立は深刻であり、時としては、血なまぐさい殺戮すら行われる。これ「是非を生ぜん」ではないか。日本ばかりでなく世界各地で思想や民族の対立が、たえず流血の惨事を引き起こしている。これまた、人びとの生命にひそむ濁りであり、鬼神乱るる結果にほかならないのである。
天地怪異し、二十八宿・星道・日月、時を失い、度を失い
すなわちこれは天変である。作今、とみに学者のあいだで、異常気象が叫ばれている。
世界気象機関も、昭和五十一年(1976)六月に出した「気候変動に関する声明」のなかで、「気候が、いまとは別な型へと、長い間かかって自然に変化していくことを予想しなければならないが、いま、どのような方向へ変わりつつあるかを感知することはできそうにもない。なぜなら、異常気象が長期的な変動の傾向を、おおいかくしているからだ」と述べているのである。
また、その原因についても、さまざまな学説があるが、太陽黒点が異常に増減したり、大気の内容や地磁気、地球の自転速度がわずかに変化するといった現象が関係していることは、よく知られているところである。まことに宇宙のちょっとした変化であっても、地上に大きな被害が生ずる。ましてや、この経文にあるごとく「二十八宿・星道・日月、時を失い、度を失い」という現象が、激しく起こるようなことがあれば、その人間社会におよぼす影響はどんなに大きいか、計り知れないものがあろう。ある場合には、人類の滅亡すらありうるのである。
多く賊の起ること有らん
宇宙のリズムに異常があれば、人間社会が乱れて、一国のなかにおいて、たえず争いがあり、とくに国を滅亡に導くような人間が、数多くあらわれるのである。
あの、昭和六年(1931)、九年、十年とつづけて起こった、日本気象史上おそるべき災厄の年を思い起こさずにはいられない。とくに昭和九年はひどく、この年から翌年にかけて、北日本を襲った冷害により、東北六県は目もあてられぬ大凶作に見舞われ、西日本にも異常な旱魃が起きた。さらに、史上最大といわれる室戸台風は、死者二千七百名、家屋の全懐三万九千戸におよぶ暴威をふるった。このころ、大量の人身売買が行われた。時あたかも、昭和初年の金融恐慌が吹きまくって、社会不安をよび、やがて二・二六事件を経て太平洋戦争へと向かっていったのである。
今日においても、まさしく国を破滅に追いやるような賊人が、けっして少なくない。国土の生命力、衆生社会の生命力が弱まるところ、かならず、内部分裂し、それを利用して、ますます人心を動揺させ、おのれの利益追求に没頭する奸物が出ることは、いつの時代でも、いずれの社会でも、いずれの国でも同様である。これ、あたかも人間の生命力が弱まるところに蔓延する病原菌のごときものである。さきにも述べたように、もし今後において日本の国が再び滅びるようなことがあれば、それは内部からもたらされるのである。しょせん、日本の民衆が、民主主義と平和と幸福とを掲げて、強く有智の団結をし、しかも主体性のある、力強き平和外交を行い、行き詰まる世界をリードしていく以外に、日本の安泰も世界の平和も絶対にありえないと信ずる。
一切の国王は皆過去の世に五百の仏に侍えしに由つて……
次に引用の仁王経の文は、指導者の福運論である。
四条金吾殿御返事に「夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず。果報つきぬれば所従もしたがはず」(1192:02)と。いかなる智慧者であろうと、いかに才能ある人であろうと、いかなる権力をもつ人であろうと、ひとたび福運を失えば、敗北の人生をたどるしかない。
よく、人は「あの人は運がいい」とか「運が悪い」という。だが、彼らのいう運、不運は、あくまでも、偶然に支配されたもので、浮き草のようなものである。仏法の福運論は三世の生命観に立脚した、きびしい因果であり、生命の奥底に眼を向けて説ききったものである。この経文に「我今五眼をもつて明らかに三世を見るに、一切の国王は……」とあるごとくである。
もし三世の生命を認めないとすれば、運、不運、幸、不幸の根本原因は、まったく不明のままになってしまうのである。ある人は、運、不運は問題ではない。人は、努力しだいで、幸、不幸が決まるのだという。むろん努力は大切である。努力のない人生は無意味である。だが、努力だけで幸福が築けると思うのは、錯覚である。人びとは、それぞれの立場で、なんとか現状を打開あるいは発展させようと努力しているのではないか。だが、その努力が成就しないところに、悲劇があるのである。
いっさいが努力であるという人にいいたい。それでは、現在、不幸な人びとは、みな努力しなかったからなのか。否、むしろ不幸であればあるほど、それこそ必死になって努力しぬいているではないか。また、どんなに努力といっても、病弱であったり、いかにもがき、あせってもどうにもならぬ人がいるが、かかる人は、いかに幸福への道を切り開いていけるのか。もし指導者にして、かくも真剣に、かつまじめにがんばっている人を、おのれの地位から、努力なき人と断ずるは、民衆を侮蔑し、さげすむのもはなはだしいではないか。
ある人は、環境決定論を唱え、環境がいっさいを決定するという説を唱える。だが、それも大きな誤りである。むろん環境の影響を無視したり、軽視したりするわけではない。だが、同じような環境に育った二人の人間が、時としては、まったく違った運命をになっているのは、どう説明するのか。
さらに、環境が影響をおよぼすことは事実であっても、なぜそのような環境に住しなければならないのか。たとえば、貧乏な家に生まれたり、陰惨な家庭に育ったりしなければならないのはなぜか。さらに、生まれつき不具の人、生まれつき病弱な人は、なぜそうなったのか。
それでも、ある程度までは科学的に、そこにいたるまでの過程は説明できるかもしれない。それでは、なぜそのような経過をたどらなければならなかったのか。ある人は、両親にその責任を負わせるかもしれない。では、なぜそのような両親のところに生まれなければならなかったのか。また、なぜ両親の責任を、自分が背負わなければならないのか。
このように生命の物理化学的な現象のみを取り扱う科学では、解決できぬ問題があまりに多くひそんでいるのである。また環境でいっさいが決定するという、主体性なき哲学では、それを解決できぬことは、明瞭である。しょせん、三世の生命観およびそれに立脚した福運論にして、初めてこれらの疑問に対する解答を与えることができるのである。
釈尊は、十不善業の業報を次のように説いている。この世で多病また短命である人は「殺」の報いである。貧窮で失財の人は「盗み」の報いであり、眷属不良で婦が貞実でない人は「邪淫」の報い、身に誹謗をうけ人に誑惑されるのは「妄語」の報い、親類に離れ、親友にも捨てられるのは「両舌」の報い、悪声を聞き訴訟を起こすのは「悪口」の報い、人に信じられないで、言語が明らかでないのは「綺語」の報い、多欲で足ることを知らずに、いつも不足を嘆くのは「貪り」の報い、人のためにすきをうかがわれ、あるいは殺されたりするのは「瞋り」の報い、邪見の家に生まれて心諂曲なのは「愚癡」の報いであると。
また、日蓮大聖人は佐渡御書に「我人を軽しめば、還って我が身人に軽易せられん。形状端厳をそしれば醜陋の報いを得。人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる。持戒尊貴を笑へば、貧賎の家に生ず。正法の家をそしれば、邪見の家に生ず。善戒を笑へば、国土の民となり王難に遇ふ」(0960:03)と、般泥洹経の文を引かれているのである。
逆に、この世に福運ある身として生まれてきたのも、過去の行業によるものであり、かくのごとく、国王としての福運を得るのも、過去世に五百の仏に仕えたがゆえであると説くのである。
だが、日蓮大聖人は、このような因果の理法は、「是は常の因果の定まれる法なり」(0960:05)とおおせになり、きわめて当然のこととされているのである。たしかに、因果の理法は、誤りではなく、絶対の事実である。釈尊の仏法から、この考え、思惟を抜きとったら意味はない。だが、このような低き因果の理法をもって全体とするならば、運命はすでに抜きさしならぬように定められているのだから、この世で悪いことをしないように心がけ、あとは来世の幸福を願うしかないという、あきらめと消極的態度をつくりあげてしまうことになる。それでは、世の不幸な人を見て、それを救いきることができないではないか。悪しき社会、悪しき国、悪しき世界を改革することができないではないか。日蓮大聖人は、この普通の因果の理法のさらに奥底に眼を向け、いかなる権力者よりも、いかなる大智慧者よりも、いかなる富裕な人よりも、百千万億倍すぐれたる大福運を、この瞬間に開くことを教えられたのである。
観心本尊抄にいわく「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246:15)と。
すなわち、釈尊のごとく、過去に能施太子として、また儒童菩薩として、あるいは尸毘王、薩埵王子等と生まれ、三大阿僧祇、百大劫、動逾塵劫、無量阿僧祇劫、あるいは三千塵点劫等の長きにわたる修行を積まなくても、御本尊を受持し、南無妙法蓮華経と唱えることによって、あらゆる福運が具備されるのである。幸福というものは、なにか遠くにある特別な世界ではない。また、現在というものが、過去の因によって、がんじがらめに身動きができないように縛りつけられているものでもない。生命の奥底にある「因果俱時不思議の一法」たる妙法は、あらゆるものの根源であり、真に自由自在にして、かつあらゆるものを変えきっていくことができるのである。妙法を信じ、妙法を己の一身に顕現していくことが、過去のいっさいの宿命を打破し、未来永劫の大福運を、この一瞬に開いていく本源であることを訴えたい。御書にいわく「伝教大師云く『讃むる者は福を安明に積み、謗る者は罪を無間に開く』等云云」(0291:02)と。
安明とは、須弥山である。御本尊を信ずる一念のなかに須弥山のごとき大福運がそなわるのである。したがって、信心してからの生活というものは、いっさいが価値創造であり、いっさいが変毒為薬であり、転重軽受である。宇宙の大リズムに適い、だれがこれを破懐しようとしても、金剛石のごとく、絶対に破懐することができないのである。
信心に関係なくとも、たしかに福運ある人はいる。昔でいえば、国王となるのは福運である。また、現在でも、社会から、才能、力を認められ、指導者となるのも、その源流は福運である。だが、それは小さな福運であり、それにおごり、正法を破懐しようとする行為に出るや、指導者としての福運をなくすのみならず、いっさいの福運を根絶してしまう。むしろ、その福運が尽きたときは、いかなる人よりも悲惨であり、みじめである。いかに、そのときはよさそうにみえても、それはそれまでの福運の余韻であり、また、蜃気楼のようにはかなきものである。やがて「謗る者は罪を無間に開く」の文のごとく、挫折し、破滅し、ついには無間の焔にむせぶのである。
妙法によって開かれた福運こそ、最高の福運であり、わが生命の宝である。いかなる財産も、いかなる地位も、名誉もすべて化城であり、いつかは崩れ去るものである。されば信心した人こそ、世界を一手におさめる大王より尊貴であり、日輪のごとき智者よりも偉大である。
十字御書にいわく「今又法華経を信ずる人は・さいわいを万里の外よりあつむべし」(1492:08)と。
松野殿御消息にいわく「法華経を持つ人は男ならば何なる田夫にても候へ。三界の主たる大梵天王・釈提桓因・四大天王・転輪聖王乃至漢土・日本の国主等にも勝れたり。何に況や日本国の大臣公卿・源平の侍・百姓等に勝れたる事申すに及ばず、女人ならば憍尸迦女・吉祥天女・漢の李夫人・楊貴妃等の無量無辺の一切の女人に勝れたりと説かれて候」(1378:07)と。
是を為つて一切の聖人・羅漢、而も為に彼の国土の中に来生して、大利益を作さん
これは、妙法を根底にした指導者の福運である。この場合「国王」とは一国の指導者であり、「聖人・羅漢」とは、正法をもって一切衆生を救う人であり、仏法を根本にして社会を利益するのである。
若し王の福尽きん時は、一切の聖人皆為れ捨去せん。若し一切の聖人去らん時は、七難必ず起らん
これは逆に、正法の流布しない社会である。国内は邪法、邪義のみ充満し、指導者の福運が尽きたときは、聖人は去り、かわって悪人のみ跋扈し、あらゆる七難が競い起こってくるのであるということである。あの、太平洋戦争当時、神道の力が日本全民衆を支配し、真の正法たる日蓮大聖人の仏法はまさに隠没の危機に瀕したのであった。これによって、指導者の福運は尽き果て、一国を指導すべき人材は影をひそめ、未曾有の亡国の姿を現じてしまった。日蓮大聖人の時には、末法の御本仏がおられたればこそ、防ぎ得てきたところの七難のなかの最後の難たる他国侵逼難が起こったのである。しかも、この他国侵逼難に前の六難はことごとく摂せられているのであって、「七難必ず起らん」とのこの文のとおりになったことを知らなければならない。
第五章 (経証の四 薬師経)
薬師経に云く「若し刹帝利・潅頂王等の災難起らん時、所謂、人衆疾疫の難、他国侵逼の難、自界叛逆の難、星宿変怪の難、日月薄蝕の難、非時風雨の難、過時不雨の難あらん」已上。
現代語訳
また薬師経には次のようにある。
もし、刹帝利・潅頂王のいわゆる支配者階級のものに災難が起こるときには、次のような七つの難がある。すなわち、人民大衆が伝染病等の流行に悩まされる難、他国から侵略される難、自国内で叛逆、同士討ちが起こる難、星宿の変怪する難、太陽や月が日蝕・月蝕など薄蝕する難、時期はずれのときに暴風雨のある難、時を過ぎても降るべき時節に雨の降らない難、以上七つの難である。
語釈
薬師経
漢訳には四種が現存する。通常、唐の玄奘が訳した薬師琉璃光如来本願功徳経一巻をさし、日蓮大聖人もこれを用いられている。仏が文殊菩薩に対して薬師如来の功徳を説く。薬師如来に供養すれば七難を免れ、国が安穏になることを説いている。その内容から、日本では護国経典として尊重された。
刹帝利
梵語クシャトリヤ(kṣatriya)の音写。古代インドの身分制度における王族・武士階級。身分制度は英語でカースト、インドではバルナ(varna)といい種姓と訳す。四種姓の最上位は司祭者階級のブラーフマナ(brāhmaṇa)で「婆羅門」。第二位は王侯・武士階級のクシャトリヤで「刹帝利(せっていり)」。第三位は庶民のヴァイシャ(vaiśya)で「吠舎」。農業、牧畜、商業に従事する。第四位にシュードラ(śūdra)、「首陀羅」があり、隷属民のゆえに、上位の人々への奉仕を義務付けられた。だが時代の変遷とともに、ヴァイシャは商人を、シュードラは農牧業や手工業など生産に従事する広汎な大衆を指すようになった。この四つの身分のさらに下に、チャンダーラ(caṇḍāla)すなわち「旃陀羅」がいる。はじめ四種姓のシュードラの範疇に加えられ、のちシュードラ以下の存在とみなされるに至った。現在のインドでは、一九五〇年に制定された憲法により、法的にカースト差別は禁止された。しかし、今なお不可触民といわれる人びとへの偏見や差別が根強く、インド社会の近代化をはばむ大きな障害となっている。
潅頂王
大国の王をいう。古代インドでは、大国の王が位に登るとき、小国の王や群臣たちが四大海の水を汲んできて、その頂にそそいだことから、このようによぶ。
刹帝利・潅頂王等の災難
薬師経に説かれる七種の災難をいう。七難は仁王経、薬師経、金光明経等に説かれ、内容は経典により異なるが、薬師経には①人衆疾疫難、②他国侵逼難、③自界叛逆難、④星宿変怪難、⑤日月薄蝕難、⑥非時風雨難、⑦過時不雨難の七難が説かれている。三災七難の起こる原因は、国に邪法が横行し、正法の行者を弾圧することにある。
講義
ここに「刹帝利・灌頂王」とは、世の指導者を意味する。この指導者に謗法があるときには、いわゆる七難が起きるとの経文である。
世に、指導者の誤り、とくに宗教に関する誤りほど恐ろしいことはない。指導者の誤りは、国内を騒乱させ、民衆を不幸のどん底に陥れてしまう。また、国を滅亡に導き、あるいは、民族をしてその後、何百年、何千年と悲劇の道をたどらせることにもなるのである。
したがって、個人の幸福を説く仏法が、たんに個人にとどまらず、指導者と仏法の関係をとくに強調するのは当然のことである。仏教が、まるで、個人の救済のみを問題とし、しかも、現世とは遠く離れた、未来のことのみを説いていると考える人びと、またそう思わせる僧侶が多いが、仏法のなんたるかをも知らぬ者である。
社会の幸福、また一国、今日ではとくに全世界の幸福なくして、どうして個人の幸福がありえようか。もしも個人の幸福のみを説き、社会の繁栄を説かないとすれば、それこそ矛盾であり、欺瞞であるとしかいいようがない。立正安国論に示された四経の文は、それぞれ皆、指導者こそ、正法をたもたねばならないことを教えている。
新時代の指導者論
この段で、指導者の責務と使命の重大なることが説かれている。私は多くの機会に、新時代の指導者のあり方について述べてきたのであるが、ここに要約して、その一端を申し述べたい。
新しい日本の指導者に望む第一点は、偉大なる思想、哲学、宗教をたもち、確固たる指導理念を確立すべきことである。いかなる指導者も、その理念のいかんによって指導者としての資格が定まることを知らなければならない。現在における指導者が、もし世界各国の指導者と、人類の将来、世界の未来等を論じ合ったとき、はたして彼らを説得し、彼らに指針を与える、いかなる理念をもっているであろうか。
恩師戸田先生が、あるとき、もし東西の歴史上にあらわれた聖人賢人、たとえばソクラテス、キリスト、マホメット、釈尊、孔子、日蓮大聖人、マルクス等が、一堂に会して談合したとするならは、必ずや日蓮大聖人の偉大なる卓見に、一人残らず、その場で賛成したに相違ない、と述べたことがあった。
世界各国の指導者と卒直に話し合う機会があれば、彼らはそれぞれ、マルクス・レーニン主義、プラグマティズム、実存主義、プロテスタンティズム、カトリック、イスラム教、各種のナショナリズム、儒教的道徳主義、分析哲学、科学万能主義等あらゆるイデオロギーをもって甲論乙駁してくるであろう。
しかして、日本の指導者として、彼らのイデオロギーを超える、民衆救済の大思想をもっていなければ、いたずらに彼らの説得に追いまくられるのみではないか。
現在、日本の国内にも、イデオロギー的な対決ムードがあふれているが、旧来の資本主義や共産主義等が、新時代の指導理念たりえないことは、もはや明白である。より高い次元より、これらを指導し統一しうる指導理念こそ、東洋仏法の真髄たる色心不二の大生命哲学以外には絶対ないことを強く訴えて止まない。
偉大なる指導理念と、卓越した識見、確固たる信念をもった優れた指導者が、堂々と民衆に同意を求め、その意思を結集して前進する時代がきたといえよう。さらに、同じく世界各国のあらゆる指導者に対しても卓抜した説得力、指導力を発揮しうる指導者が、数多く出現しなければならない。
新時代の指導者の資格の第二点としては、あくまでも民衆の真実の見方として、民衆に真に幸福を与えきっていける指導者でなければならない。誤れる指導者が、いかに民衆を不幸にし、社会を滅ぼすものであるか、古今の歴史のよく物語るところである。
中国古代において、周の代も終わり秦の世も末になった頃、項羽と劉邦という二人の英傑があらわれ、互いに覇を競った。力量は項羽のほうが格段に優れ、まさに百戦百勝の感があったが、最後に劉邦が垓下の戦いで大勝利をおさめ、ついに天下は劉邦のものとなった。劉邦が中国に平和と秩序をもたらしたゆえんは、民衆の信望と指示であり、それが劉邦に名をなさしめたのであった。
あくまでも、真実の指導者は、民衆のなかに生き、民衆のために尽くして、民衆のなかで死んでいく決意がなければならない。それでこそ、民衆は心から信頼し、納得しうるのである。しょせん、新しい時代の指導者は、民衆の幸福を実現することに全力を傾注していく人でなければならない。
第三に、指導者は、組織における卓越した統率力をもち、すべての人が充分に働けるように、調和できる人でなければならない。これからの新しい指導者は、個人プレーで独裁的にものごとを処理していく英雄型であってはならない。それが職場であるにせよ、国家であるにせよ、一つの社会の中で、全体の人びとが存分に力を発揮できるように、リードしていける人こそ、真に優れた指導者といえよう。
また、人間性豊かな、包容力ある指導者として、つねに後輩の中に人材を求め、優れた後輩を数多く育成してゆく熱意がなくてはならない。いかなる人をも活かしきっていくという決意をもって、後輩を自分以上の人材に成長させていく聡明な人こそ、真の指導者といえよう。
指導者はかならず優秀な後継者を育成するものであり、反対に独裁者は後輩を犠牲にして、後継者を育てるような雅量をもちあわせないものである。決して、独裁者となってはならない。
第四に、指導者は、名聞名利にとらわれたり、栄誉栄達主義であっては、断じてならない。世の指導者といわれる人たちのなかに、いかに利己の人のみ多いことか、まことに残念の窮みである。いささかも毀誉褒貶にとらわれず、自己の成長とともに、民衆を救済しきっていく自覚と責任の持ち主こそ、真の指導者である。
また有名人と指導者を混同してはならない。有名人かならずしも指導者たりえないものである。有名人といい、有識者といっても、自らの家庭的悩みすら解決しえないような人が多く、そうした人にどうして民衆を幸福になしうる指導者の資格があるであろうか。
大聖人は「夫れ賢人は安きに居て危きを歎き佞人は危きに居て安きを歎く」(0969:15、富木殿御書)と述べられている。これ指導者の資格を論じたものといえよう。
すなわち、一見、安泰のごとくにみえる社会にあっても、絶えずその未来に思いをはせ、その社会に兆す崩壊の危険性をいちはやく察知していく人こそ、賢人であるとのおおせである。逆に、その場かぎりのことしか考えようとしない口先だけの佞人は、社会の崩壊のまっただなかにありながらも、それに気づかず、見せかけの安寧に身を浸しているというのである。社会に責任をもつ指導者たるものは、けっして、佞人の行き方をしてはならないのである。
いまや、新時代は、新しき指導者の輩出を要求している。世のため、社会のため、民衆のために、偉大なる多くの指導者の出現を、心から願ってやまない。
第六章 (再び仁王経を挙ぐ)
仁王経に云く「大王、吾が今化する所の百億の須弥、百億の日月、一一の須弥に四天下有り。其の南閻浮提に十六の大国、五百の中国、十千の小国有り。其の国土の中に七つの畏る可き難有り。一切の国王是を難と為すが故に。云何なるを難と為す。日月度を失い、時節返逆し、或は赤日出で、黒日出で、二三四五の日出で、或は日蝕して光無く、或は日輪一重・二三四五重輪現ずるを一の難と為すなり。二十八宿度を失い、金星・彗星・輪星・鬼星・火星・水星・風星・刁星・南斗・北斗・五鎮の大星・一切の国主星・三公星・百宦星、是くの如き諸星、各各変現するを二の難と為すなり。大火・国を焼き、万姓焼尽し、或は鬼火・竜火・天火・山神火・人火・樹木火・賊火あらん。是くの如く変怪するを三の難と為すなり。大水・百姓を漂没し、時節反逆して冬雨ふり、夏雪ふり、冬、時に雷電霹靂し、六月に冰・霜・雹を雨らし、赤水・黒水・青水を雨らし、土山・石山を雨らし、沙・礫・石を雨らす。江河逆に流れて山を浮かべ石を流す。是くの如く変ずる時を四の難と為すなり。大風、万姓を吹き殺し、国土・山河・樹木、一時に滅没し、非時の大風・黒風・赤風・青風・天風・地風・火風・水風あらん。是くの如く変ずる時を五の難と為すなり。天地・国土亢陽し、炎火洞然として百草亢旱し、五穀登らず、土地赫然して万姓滅尽せん。是くの如く変ずる時を六の難と為すなり。四方の賊来って国を侵し、内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊あつて、百姓荒乱し、刀兵劫起らん。是くの如く怪する時を七の難と為すなり」。
現代語訳
仁王経には、また次のようにも説かれている。
大王よ、自分がいま教化するところの百億の須弥に百億の日月があり、一つ一つの須弥に四天下がある。そのうちの一つ南閻浮提に十六の大国、五百の中国、十千の小国がある。その国土のなかに七つの恐るべき難がある。そのわけは、これをいっさいの国王は難となすからである。それではいかなることを難となすのであるか。それを説こう。
まず太陽や月が運行の度を失い、寒暑の時節が逆になり、また赤日が出たり、黒日が出たり、あるいは一度に二、三、四、五の日が出たり、あるいは日蝕で太陽の光がなくなったり、あるいは太陽が一重、二、三、四、五重の輪を現ずるのが一の難である。
次に二十八宿が運行する軌道を失い、金星・彗星・輪星・鬼星・火星・水星・風星・刁星・南斗・北斗・五鎮の大星・一切の国主星・三公星・百宦星、等々の多くの星が、それぞれ異常な現象を起こすのを二の難とする。
第三に、大火が国を焼き、万民を焼き尽くすであろう。あるいは鬼火、竜火、天火、山神火、人火、樹木火、賊火が起こるであろう。このように変怪するを三の難とするのである。
第四に大洪水が起きて、民衆を押し流し、時節が夏と冬と逆になって、冬に多くの雨が降り、夏に多くの雪が降る。冬に雷が鳴り、暑い六月に氷や霜や雹が降り、赤水、黒水、青水を降らし、また土や石を山ほど降らし、砂や礫や石を降らす。河は流れが逆になり、山を浮かべ、石を流すほどの大洪水となる。このような異変を生じてくるのが四の難である。
第五に、大風が起こって万民百姓を吹き殺し、国土、山河、樹木が一挙のうちに滅没し、時節はずれの大風、黒風、赤風、天風、地風、火風、水風が吹きまくるであろう。このように異変を生ずるのを五の難とする。
第六に、天地、国土が大旱魃のため乾ききり、天地も国土も猛烈に暑く、大気は燃え上がらんばかりで、百草みな枯れて、五穀は実らず、土地は焼けただれて民衆は滅尽するであろう。そのように変ずるを六の難とする。
最後に、四方の他国の賊が来て国を侵略し、国内にも賊が内乱を起こして、火賊、水賊、風賊、鬼賊があって民衆を荒乱し、いたるところで大闘争が起きるであろう。そのように異変を生ずるのを第七の難とするのである。
語釈
仁王経
後秦代の鳩摩羅什訳の仁王般若波羅蜜経 二巻と、唐代の不空訳の仁王護国般若波羅蜜多経二巻とがある。サンスクリット原典もチベット語訳も現存しておらず、中国撰述の経典とする見解がある。内容は正法が滅して思想が乱れる時、悪業のために受ける七難を示し、この災難を逃れるためには般若を受持すべきであるとして菩薩の行法を説く。法華経・金光明経とともに護国三部経とされる。
大王
波斯匿王のこと。梵名プラセーナジット(Prasenajit)の音写。コーサラ国の王で波瑠璃王の父。初めは仏教に反対だったが、後に釈尊に帰依し仏教を保護した。大唐西域記巻六等によると、子の波斯匿王は、父王波斯匿と釈迦族の大名・釈摩男の婢女との間に誕生。長じて自身の出生について釈迦族から辱めを受けた。後、長行大臣と謀って父王を放逐、波斯匿王はマガダ国に逃げるも命尽きたといわれる。波瑠璃王は釈迦族を殺戮し、その数九千九百九十万人、血が流れて池となった。釈尊の九横の大難の一つ。それから七日後、河上に舟を浮かべ歓楽にふけっているさなか、火災が起き、火に包まれて死に、無間地獄に堕ちたという。
日月度を失い時節反逆し……
仁王経に説かれる七難の第一、日月難のうちに、また①日月度を失い、時節反逆し(日月失度難)、②或は赤日出で、黒日出で(顔色改変難)、③二三四五の日出で(日体増多難)、④或は日蝕して光無く(日月薄蝕難)、⑤或は日輪一重・二三四五重輪現ずる(重輪難)の五難がある。
二十八宿
インド・中国で古くから用いられた天文説で定められた二十八種の星座のこと。月が天を一周する間に、西から東へ一日に一つずつで黄道付近にある星宿に宿していくとして定められたとされる。二十八宿経、摩登伽経、宿曜経などで説かれる。宿には星のやどりという意味があり、中国の史記にも「二十八舎、即ち二十八宿の舎る所なり」とある。宿曜経巻下によれば、インドでは牛宿を除く二十七宿であったという。
輪星
輪状に連なった星をいうものと思われるが、どの星をさすのか明らかではない。
鬼星
カニ座の中央部に位置するプレセペ星団のこと。青白く、ぼうっと光って見え、鬼火にみたてられたところから鬼星と呼ばれたものと思われる。二十八宿の一つである鬼宿の中にある。
風星
二十八宿の一つである箕宿のこととされる。箕宿は射手座にある四辺形の星座をいう。箕は穀物をふるって塵や糠を風で吹き飛ばす農具であることから、箕宿は風を司るとされた。
刁星
「刁」の形をした星座のことと思われるが、どの星をさすものか明らかではない。刁は昔、中国で炊事用の鍋と警戒のために打ち鳴らす銅鑼とを兼ねて、軍用に用いられた銅器をいう。なお、仁王般若波羅蜜経では「刀星」となっている。
南斗
「なんと」とも読む。二十八宿の一つである斗宿のこと。射手座の中央部にある斗の形をした星座をいう。南方の空に出て六つの星よりなっているところから、南斗六星ともいう。
北斗
大熊座にある七つの星が斗状に並んでいる星座のこと。北斗七星。
五鎮の大星
歳星(木星)・熒惑星(火星)・鎮星(土星)・太白星(金星)・辰星(水星)の「五星」のこととする説と、五星の中心に位置すると考えられた「鎮星」のこととする説がある。
国主星
古代中国の星図において「帝」と名づけられた星のことと思われる。天球に、⑴紫微垣(小熊座を中心に大熊座やカシオペア座など天の北極周辺)・⑵太微垣(師子座・乙女座を中心にした部分)・⑶天市垣(ヘルクレス座・へびつかい座・へび座を中心にした部分)の三つの区域を設定し、それぞれの中に「帝」という星が定められている。
三公星
古代中国の星図において「三公」と名づけられた星。三公は中国で天子を補佐する官職をいう。天に三つの区域を設定したなかの紫微垣と太微垣に「三公」という星が定められている。
百宦星
ここでは「百宦星」となっているが、御真筆では「百官星」となっており、仁王般若波羅蜜経も「百官星」とある。百官星はもろもろの官名がつけられた星のこと。
鬼火・竜火・天火・山神火・人火・樹木火・賊火
鬼火とは、衆生の乱れを鬼が怒って起こすと考えられた原因不明の火事をさす。竜火とは、竜の怒りによって起こされる火。天火とは、天の怒りによって起こると考えられた火災。山神火とは、神仙の怒りによって起こるとされた火災。人火とは、人の過失によって起こる火災。樹木火とは、日照りがつづいて空気が乾燥しているとき、樹木から自然に火が出て山火事になるもの。賊火とは、盗賊の放火等による火災。
刀兵劫起らん
刀兵とは兵革の災のこと。劫は劫掠の略で、おびやかし奪いとること。民衆が命や財物を奪われ、おびやかされる戦乱がしばしば起きること。
講義
星や日月の変動が、われわれ人類に影響があるとは、不思議に思えるであろう。だが、依正不二の原理、一念三千の哲理が明らかとなるならば、なんら不思議ではない。さらに、現代の最新の科学、なかんずく天文学は、これらのことを実証しつつあるのが趨勢である。
まず、仁王経と薬師経の七難を比較すると次のようになる。
仁王経 薬師経
第一難は 日月失度難 ───── 日月薄蝕難(第五難)
第二難は 星宿失度難 ───── 星宿変怪難(第四難)
第三難は 諸火梵焼難
第四難は 時節反逆難 ──┬── 非時風雨難(第六難)
第五難は 大風数起難 ──┘
第六難は 天地亢陽難 ───── 過時不雨難(第七難)
第七難は 四方賊来難 ──┬── 他国侵逼難(第二難)
└── 自界叛逆難(第三難)
人衆疾疫難(第一難)
<第一難・日月失度難>
日月度を失い、時節返逆し、或は赤日出で、黒日出で、二三四五の日出で、或は日蝕して光無く、或は日輪一重・二三四五重輪現ずるを一の難と為すなり
これらのことについては、これまでにしばしばふれてきたので省略するが、ただ、月や太陽の変化がわれわれにさまざまな影響をもたらすことは、厳然たる事実である。
たとえば、太陽からの微粒子や紫外線のエネルギーは、太陽活動の変動によって大きく変化しており、これが超高層の大気に、大きな影響を及ぼしていることも事実である。ただしその影響は超高層であり、それがどのような過程で、またどのような地上の天候の変化や異常気象をもたらしているかは、まだ明らかでない点が多い。だが、その影響が非常に大きいことは充分考えられる。とくに太陽黒点数の変動と地球上のいろいろの現象と比較してみると、ある現象については、驚くほど一致していることがわかってきた。
故藤原咲平博士は、太陽活動と凶冷について、その密接なる関係を力説し「凶冷の八十一年周期説」を主張した。さらに荒川秀俊博士は、これを再び取り上げ「天明の飢饉、天保の飢饉、慶応、明治初年の大凶作の三回の凶作群は、どれも太陽黒点数の十一年周期変化の極大値が非常に大きくなったときの極大年にはさまれて生じた」という事実をあげている。
黒点の変化の他にさまざまな要因が加わって、地上に大小の影響を与え、異常気象や気候変動を起こし、国土と人間生命に微妙な変化をもたらすのである。
また、太陽面でもっともすさまじいフレアーとよばれる現象がある。これは、太陽の彩層の一部が、急に明るさを増して爆発し、数時間後にもとに戻る現象のことである。
フレアーが起こると同時に、地球大気上層の電離層に、デリンジャー現象の名で知られる短波の無線障害が起こり、少し遅れて、宇宙線の異常増加が起こる。その後約三十時間たって、オーロラ、磁気アラシなどが起こる。フレアーがさらに大気の循環に影響を与え、気圧の下降などを起こすことは確実とみなされている。日蝕もまた、さまざまな影響がある。まず太陽光線がそれだけさえぎられるのであるから、大気中に影響を与える。宇宙の変化、また引力の変化、さらにそれらのものが、地上の人間の生命活動に大きな影響をもたらすのである。
また月の引力が、地球にさまざまな影響を与えることも、明らかになってきている。太陽の引力、月の引力、地球の引力等が、互いに影響し合っていることは事実である。そして、太陽、月、地球がどのような位置をとるかにより、したがって、月蝕などが起こることによって、地球にはさまざまな変化が起きる。潮の干潮、血液の循環、人間の生命活動に微妙な変化をもたらすことは明瞭である。
また、赤い太陽、あるいは、二、三、四、五の太陽、また太陽に二重、三重、四重、五重の暈があらわれるということも、けっしてわれわれの生活と無関係ではない。こうした現象は、大気中に、塵、氷の結晶等の微粒子が多いときに起こるものである。これらは、太陽とわれわれの間に介在して、さまざまな影響を与えるのである。
たとえば、乾燥した大地に、大風が襲って巻き上げられた埃や、火山がたびたび噴火し、高層の大気中まで舞い上がった火山灰が、日光をさえぎるために、赤い太陽があらわれる。これによって、冷害等が引き起こされることは前述のとおりである。
また、暈とはまったく違った現象であるが、太陽にかかるビショップの環とよばれるものは、まことに不吉な前兆であり、日照量を減少させて、凶作をもたらすことがしばしばある。これは、高空にただよう微粒子の一次回折による現象で、内径は10度、外径は20度におよび、環の外側ほど赤く見え、またときには日の出から日没まであらわれている。しかも、これはふつう地上では塵埃や煙とかが、まったくない快晴の日によくあらわれる現象である。記録によればサンタマリア火山の噴火のあった明治35年(1902)と、カトマイ火山の噴火のあった明治45年(1912)に観測されており、これらの年は日射量が30%近く減少し、いずれも東北地方の凶作をともなったのである。
しかも、こうした現象は、単にそれにとどまらず、さまざまな他の現象を内にはらんでいる。火山の爆発、あるいは大地の乾燥等は、またいろいろな宇宙の変化と関係している。したがって、一つの現象が、つぎつぎと他の現象に及んでいく。いわんや一時に多くの異常気象があらわれるということは、宇宙のリズムそれ自体に異常のある証拠であり、容易ならぬことである。
このように、太陽や月の変化は、地上にいろいろな変化を起こす。もちろん、具体的にわかっていない面も多いが、人間もまた宇宙の構成物質でつくられている以上、太陽や月の変化が、気づかないうちにも、きわめて多くの、否、ほとんどすべてにわたり、人間生活に影響を与えていることは、絶対の事実であろう。
<第二難・星宿失度難>
二十八宿度を失い、金星・彗星・輪星・鬼星・火星・水星・風星・刁星・南斗・北斗・五鎮の大星・一切の国主星・三公星・百宦星、是くの如き諸星、各各変現するを二の難と為すなり
ここに掲げられた星は、今日の天文学で、いったい、いかなる星をさすかは不明のものも多い。当時は、望遠鏡とてなく、しかも、今日と三千年前に見えた星が、かならずしも一致していないであろうし、また、地球の地軸自体も、多少変化している。したがって、昔の人が画いた星座と、今日のものがかならずしも一致していなくとも、なんら不思議ではない。だが、当時このような天文学があったことは驚くべきである。おそらく、このような天文学は、生活のなかからにじみ出たものであろう。宇宙の変化が、微妙に人間生活に影響を及ぼすことは、古代人も感じていたであろう。それが一方では、多くの迷信を生んだであろうが、また他方では、古代人の直観は、今なお万古不滅の力をもち、むしろ、今日の近代天文学が、それを裏づけている感すらある。
しかして、たとえ星の名がどう変わろうと、星座の位置がどうなろうと、この経文にあげられた星のいくつかが、不明であろうと、そうしたことは問題ではない。個々の問題よりも、さまざまな星の変化が、人間生活に大きな影響をもたらすということは、変わらざる哲理であり、今日の天文学が、それをはっきりと説明するにいたっている。
たとえば、彗星や流星の出現は、かつて戦乱等の不吉な事件の前兆とされた。だが、科学の発達は人びとに合理的な物の考え方を植えつけ、実証によらなかった古代人の考えを迷信であるときめつける悪弊も生じた。その風潮のために、彗星の出現と人間生活を結びつけていた古代よりの考え方をも迷信と決めつけてしまった。だが、現代の最先端を行く天文学では、彗星および流星が、人間生活に影響があるどころか、人類の運命をも荷っていることを明らかにしつつある。大部分の彗星は、太陽のまわりを、大集団となって回っている微粒子よりなる。彗星はときおり分裂する。彗星が分裂すると、粒子は太陽系が占める膨大な広がりのなかにまきちらされる。そのような粒子が、ときどき地球の大気のなかにはいってくると、流星となる。大きな粒子は明るい流星となる。見かけじょう、とるに足らないこれらの流星たちは、地球上の気候に重大な関係を持つことがある。イギリスの天文学者、ホイルは「彗星が空に現われると何か凶事が起るとは、昔からの迷信である。この迷信は正しいのかもしれない」と述べ、彗星の分裂により、流星塵が氷河時代を現出したとして、大略つぎのように述べている。
氷河時代というのは、地球の大気の温室効果が破懐されたか、あるいはいちじるしく弱められたときに起こったにちがいない。これは大気中にあって、赤外線の放散をくいとめる役をしている水蒸気が、極端に減少したために起きることである。そこで、大気中の水蒸気の量が、とくに地上六千メートルあたりの水蒸気が、どうして減ったかということが問題になる。これを解決することが、氷河期のナゾに対する答えになる。
大気中の水蒸気がときおり凝結して液体の粒になると、雨となって地面に降ってくる。これは、大気中の水蒸気の量を減らそうとするが、一方では大洋からの蒸発は、大気中の水蒸気の量を増やそうとし、この間に釣り合いが保たれている。
ところで、大気中で、たとえば、地上六千メートルあたりには、水蒸気が大量にたむろし、雨となって降らずにいる。というのは水蒸気から大きな水滴となっても、相当大きな水滴でなければ雨として降れないからである。ここに大量の流星塵が上からやってくると、状況は大転換し、小さな水滴は流星塵のまわりに凝結する。もしその凝結が充分多量であれば、雨として降り、大気中の水蒸気の量はバランスを失い、きわめて少なくなり、温室効果が弱められ、ここに氷河期があらわれる、というのである。
このように、天文学の最先端は、彗星や流星の微妙な影響に着目しはじめているのである。むろん、まだ、それらがいかなる影響を与えるかの決定的な結論は示されてはいないが、宇宙のきわめて小さな現象すら、われわれと関係ではなく、密接に関係し、影響があることは明らかである。さらに、宇宙のリズムがこわされ、星道が狂い、軌道に突然の変化でもあれば、いかなる災害が並び起こるであろうか。
<第三難・諸火梵焼難>
大火・国を焼き、万姓焼尽し、或は鬼火・竜火・天火・山神火・人火・樹木火・賊火あらん。是くの如く変怪するを三の難と為すなり
ここに明らかなように、火の難には、鬼火、竜火、山神火、樹木火のように自然現象によるものと、人火、賊火のごとく人間の故意または過失によるものとがある。もし宇宙のリズムに、さまざまな異常をきたすならば、異常な乾燥あるいは落雷等も頻発し、また火山の大爆発による灼熱した溶岩の流出、降灰等で、都市全体が埋没した例があり、あるいはいまだ起きていないが、国を焼き、万姓を焼尽するような火の海と化することも考えられる。
だが、今日においては、むしろ戦争による火の難がもっとも大きいであろう。第二次世界大戦における原子爆弾投下によって、火の海に化するのも諸火梵焼難であり、ベトナム戦争で、ナパーム爆弾等で焦土作戦がとられたのも、諸火梵焼難といえよう。もし、第三次世界大戦が起き、全世界が核兵器に焼かれるならば、人類の滅亡を招く最大の諸火梵焼難となるであろう。
また、人心が動揺しているときには、火災が多い。狂気のごとく放火する人間もふえ、また嫉妬と憎悪のうずまく社会であれば、事はもはや重大である。また、劣悪な政治のために、水不足が大火を広げる結果にもなる。すなわち、今日においては、火災は自然的なものより、むしろ人間の問題に帰着するところが多い。
<第四難・時節反逆難>
大水・百姓を漂没し、時節反逆して冬雨ふり、夏雪ふり、冬、時に雷電霹靂し、六月に冰・霜・雹を雨らし、赤水・黒水・青水を雨らし、土山・石山を雨らし、沙・礫・石を雨らす。江河逆に流れて山を浮かべ石を流す。是くの如く変ずる時を四の難と為すなり
「大水・百姓を漂没し」とは、いうまでもなく大洪水である。
「冬雨ふり、夏雪ふり」とは、冬にさっぱり雪が降らず、夏に雪が降ることである。冬に雪がまったく降らなかった例は少なくない。
冬に雷が鳴ることも、異常である。これまた、さまざまな文献に記されているところである。日蓮大聖人の時代においては、文永2年(1265)1月20日に雷雨があったことが記されている。「雷雨雷光燿天、降雹動地也」と。江戸時代にはいっては、たとえば、享保9年(1724)11月1日には、京都に数か所落雷があり、翌10年(1725)11月11日も京都で落雷があり、農民の家が十軒ほど焼けたと記されている。また、宝歴四年(1754)12月4日には、陸前国に、雷風があり、そのとき海に大波が起こり、三人溺死したとある。安永8年(1779)10月25日にも、京都に大雷があり、享和元年(1280)12月4日にも、雷火により四天王寺が焼け、文政10年(1827)11月20日には、落雷があって、岸和田城の天守閣が焼けた。その他、天保7年(1836)1月8日に江戸で、慶応元年(1865)11月25日には大阪で、落雷や雷鳴があったと記述されている。
また「六月に冰・霜・雹を雨らし」という異常現象も数多く記録されている。
「赤水・黒水・青水を雨らし」とは、色の着いた雨が降ることである。
慶長13年(1608)、南フランスのある小さな町に、鮮血を思わせるような暗褐色をした雨が降った。住民は、これを本当に血の滴りであると信じ、恐怖におののいた。迷信深い人は、死を覚悟していたとのことである。だが、雨は去り、赤い滴りは次第に蒸発し、そして人びとは、なにごともなかったことにほっと安心し、やがて恐怖から立ち直った。慶長13年(1608)の血の雨のような例は、他にもたびたびあった。日本においても、さまざまに記録されているが、わが国にかぎらず、昔から、いろいろな国でときどき降っている。フランス、イタリア、スペイン、およびトルコの住民は、この不思議な現象を一度ならず目撃しているとのことである
文化10年(1813)に、イタリアに降ったこの種の雨について、目撃者は次のように語っている。
「人々は、海の方から近づいてくる厚い雲をみとめた。正午頃、雲は四方の山々をかくし太陽をおおいはじめた。はじめうすいバラ色であった雲の色は、火が燃えるように赤い色に変っていった。そしてまもなく、町はきわめて濃い闇につつまれ、家の中でランプをつけなければならないほどになった。……闇はますます濃厚となり、空全体は、灼熱の鉄からできているように見えたのである。やがて雷が鳴りはじめ、赤みがかった液体の大粒が落ちはじめた。これを、ある人は血と考えたし、他の人は溶けた金属と考えたのであった。夜になる頃に、空は晴れ渡り、雷や稲妻も止み、人々はほっとしたのである」。
そして、この雨滴は、黄褐色の跡をいたるところに残しており、それを拡大鏡で見ると、ごくこまかな赤みがかった塵が、この跡の中に認められたとのことである。
赤い色の雨だけではない。時には、オレンジ色、黄色、緑色の雨も、見受けられる。これらの雨は、暴風雨の風が、遠くの砂漠、乾燥した大地で、おびただしい量の赤土を空に舞い上げ、それを運んできたり、火山の爆発で火山灰が高空に吹き上げられたりした場合、それらのほこりや灰が、雨とまじり合って、着色した雨をふらせるのである。
また、夏、池や沼のたまり水は、しばしば緑色、赤褐色、その他のさまざまな色を、ときには黒色を帯びることがある。すなわち水が色づくのである。これは、無数のいろいろな微細の微生物によるものである。ある微生物は緑色の群体をなし、他の微生物は黄色、アイ色、紫色あるいは黒色の群体をなし、水の中で急速に繁殖してゆく。
こうした色づいた池や沼に、旋風が襲うとそこの水をまき上げ、それからどこか遠いところで、さまざまに色づいた雨として、地上に降らすのである。
色づいた雨が降ると同様に、色づいた雪が降ることもある。日本の史上においても、幾つかの記録がある。
最近では、昭和38年(1953)1月15日と30日の二回、石川県白峰地方に「赤い雪」が降った。村役場の話によると、朝起きてみると赤い雪の原になっていて、約十㎝近く積もったときは、銀世界が夕焼けに映えたような景観だったという。この赤い雪の正体は、大陸の黄塵が運ばれてきて、雪とともに降下してきたものと推論されている。
今日、世界的に赤い雪、その他さまざまな雪が確認され、その原因としてほこりや火山灰が、雪とともに降下する場合と、微生物の繁殖によってそうなる場合等が考えられている。
つぎに「土山・石山を雨らし」とある。
これは、土や石が数多く降ってきて山のようにうず高く積まれることか、あるいは土砂くずれをいうのか、いずれとも考えられる。土が降ってくる例は、すでに述べてあるとおりである。石が降るというのは、火山の大爆発、あるいは竜巻によると思われる。また、隕石とも考えられる。
宇宙のなかには、星や遊星のような大きな天体のほかに、多くの微小天体――石、大小の塵、塵の集まり――がある。これがたまたま地球の大気の中に飛びこんでくると、空気の抵抗にあい、加熱され、発光しはじめ、燃焼してしまう。
したがって、たいていの場合、隕石とよばれる物体は、きわめて小さな物であり、砂粒よりも小さいこともよくある。だが、微小天体が、多少大きいと、空気中で燃えきらずに地球の表面に到達する。このため大きな石が降ってくることもある。
1492年、ドイツのエンジスハイム市付近で、多くの人の目の前で、空から大きな音をたてながら、大きな石が落ちてきたので、人々がびっくりしたのであった。
土地の教会の神父は、これを利用し、空から落ちてきた石は、神によって贈られたものであるとして、教会に安置し、それがまた空に飛び去らないように、鎖で壁にしばりつけた。そして、この石を拝めば、病気が治るとか、その石にさわれば、罪滅ぼしになるのだといって、多くの人に礼拝させたとのことである。
「江河逆に流れて山を浮かべ石を流す」とはなにか。
これは、大洪水であり、河川の大氾濫である。とくに「山を浮べ」とは、大洪水のため、平野全体が水中に没し、山だけが、あたかも水に浮かんでいるように見えるというような、ものすごい大洪水である。たとえば、延宝2年(1674)6月13日に、中国、近畿一帯が大洪水となった時のもようが、次のように記されている。
「北河内郡、南河内郡等は堤防所々に決壊し遂に淀川の水と大和川の水との合するところとなり北は枚方より南は堺まで東は生駒山麓より西は大阪まで一面泥海と化した。殊に大阪福島を浸した濁水は翌日逆流して天満に入り、天満川の水これに合して天満、長柄から尼ケ崎に至る一円に氾濫し、草木も見えぬ程白波滔々と波立ったとある」。
まことに「江河逆に流れて山を浮かべ石を流す」ごとき惨状ではないか。
昭和34年(1959)の伊勢湾台風の時、低地一帯は完全に海の中に埋没してしまった。また、昭和40年(1955)9月15日、台風20号がもたらした1000㍉を越す記録的な集中豪雨で、奥越の平和境といわれた福井県大野郡西谷村は、一瞬のうちにドロ沼の村となった。
「西谷村の災厄は九月十五日朝、突然にやってきた。ゴーッという音が前ぶれの山津波だった。黒いドロ水がまたたくうちに全村を包んだ。ドロの流れはみるみる腹から腰、腰から屋根までと高くなった。家具や衣類も持ち出すヒマはなかった。中心部の中島地区では総戸数一〇六のうち一〇〇戸まで倒壊、流失して全滅状態。村役場も小学校も、公民館もすべてドロの中に埋まっている。『父祖伝来の土地も安住の地ではない』と知らされた村民の一部は早くも離村をはじめている」。
これまた大水の悲劇である。
<第五難・大風数起難>
大風、万姓を吹き殺し、国土・山河・樹木、一時に滅没し、非時の大風・黒風・赤風・青風・天風・地風・火風・水風あらん。是くの如く変ずる時を五の難と為すなり
「大風、万姓を吹き殺し、国土・山河・樹木、一時に滅没し」とは、尋常の大風ではない。わが国においては、史上、いくたびか、猛烈な暴風に襲われ、しばしば大雨をともない、山崩れ、洪水等を引き起こし、ある一帯の地方をまるでちがった光景にしてしまった例も少なくない。たとえば、慶長9年(1604)7月13日に土佐を襲った大風雨は、猛烈なもので、洪水をともない、徹底的な被害をその地方にもたらした。
「不時頓に大風吹来り洪水湧、山之竹林を吹倒し諸之作物根葉を枯し家微塵に吹なし、山は河となし淵河は山と埋れ、人之首も吹切るほどの大風なれば深山幽谷之民等土木におされて死ぬるもあり、或は半死半生の消息、風国土の人民、何千何万」。
これには、多少の誇張はあるにしても、ものすごいものだったにちがいない。外国においても、猛烈な風害が記録されている。安永9年(1780)にアメリカの大西洋岸を襲ったハリケーンとよばれるすさましい嵐は、四万人の人命を奪った。また、安永5年(1776)、インド洋で起こった猛烈な暴風雨は、ベンガル州の海岸で、山のような波を引き起こし、35万人以上の人が、荒れ狂う水の中で生命を失った。竜巻もまた猛威をふるう。明治37年(1904)に、モスクワの南東にものすごい旋風が巻き起こった。家からはぎとられた屋根は、まるで軽い紙のように空に舞い上がり、古いアンネンゴフスカヤの森は、ほとんど全滅してしまった。太さ1㍍の大木も吹き倒され、さらに森のなかで遊んでいた牛は、風のために空中に吹き上げられ、数秒間も飛行したという。
だが、経文のごとくであれば、さらに苛烈な大風が吹きすさぶことが考えられる。あまりの異常気象に、大竜巻のごとき現象が一時に頻発したらどういうことになろうか。人を吹き殺し、山河、樹木等をことごとく破懐される等と、まことに恐るべきではないか。
また、「黒風・赤風・青風」も吹くとあるが、これは、巻き上げられた黒土、赤土の砂塵を含んだ風、あるいは、緑色の海草を含んだ風であろう。これがまた、黒色、赤色、緑色等の雨や雪を降らす原因であることは、前述のとおりである。
<第六難・天地亢陽難>
天地・国土亢陽し、炎火洞然として百草亢旱し、五穀登らず、土地赫然して万姓滅尽せん。是くの如く変ずる時を六の難と為すなり
これはいうまでもなく旱魃である。旱魃の被害については、しばしば述べてきたので、ここでは省略する。ただ、旱魃に対し、ダムを作り、水を貯えて、いざというときそれを使うことができ、あるいは、穀物の貯蔵もできる今日においても、もし、この経文にあるごとき、大旱魃が起これば、まことに甚大な被害を与えるであろう。あるいは「万姓滅尽せん」とあるごとき事実が、未来に起きないと断定することはだれもできまい。
<第七難・四方賊来難>
四方の賊来って国を侵し、内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊あつて、百姓荒乱し、刀兵劫起らん。是くの如く怪する時を七の難と為すなり
これは、薬師経の七難のうち、他国侵逼と自界叛逆の二難にあたる難である。この難についても、すでにしばしば論じておいた。また本章以後に、何回となくふれるべきことであり、ここでは、最後の「刀兵劫起らん」ということについてのみ言及したい。
劫は劫掠、すなわちおびやかし奪いとる義といちおうは考えられるが、劫末の三災、とくに兵革の災が盛んなときを「刀兵劫」とよんだものと考えることができる。そこで、成・住・壊・空の四劫についてここで論じておこう。
宇宙に存在するもののなかで、永遠に変化せず、そのままの姿でとどまっているものは一つもない。いかなるものも、必ず、誕生、存続、破懐、死滅を繰り返して、絶えず変化をつづけている。これを仏法では成・住・壊・空とよんでいる。
成とは、一つの生命が誕生し、成長していく状態をいい、住とは成長が終わって爛熟期にはいり、それが存続していく状態をいい、壊とは爛熟期を過ぎて老衰期にはいった状態をいい、空とはある一定の生命活動が終わって宇宙のなかに溶けこんでしまった状態をいう。
これを人間の一生にあてはめてみると、母の胎内に宿り、出生して成長する青少年時代は「成」であり、人生の爛熟期である壮年時代は「住」、老年期は「壊」、死んで生命が宇宙のなかに溶け込んだ状態を「空」ということができる。人間にかぎらず、アミーバのような下級動物から、机やコップなどの非情の生命にいたるまで、宇宙の万物は、すべてこの四段階を循環すると説いているのである。
これを地球についていえば、地球ができた当初は「成」であり、ここに人間等の生物が生息し活動する期間は「住」であり、地球がだんだん老齢化し、崩壊しゆく段階は「壊」であり、ついに崩壊し尽くした状態になるのが「空」である。
しかして、宇宙または一世界の成・住・壊・空と、その時間の長さを説くのに、仏法は「劫」という単位を用いている。
この「劫」には、さまざまな説があるが、大別して小劫、中劫、大劫の三種類がある。顕謗法抄に「人寿・無量歳なりしが百年に一寿を減じ、又百年に一寿を減ずるほどに、人寿十歳の時に減ずるを一減と申す。又十歳より百年に一寿を増し、又百年に一寿を増する程に、八万歳に増するを一増と申す。此の一増・一減の程を小劫として、二十の増減を一中劫とは申すなり」(0447:08)とあるように、一小劫とは1,600万年より2,000年を減じた数にあたる。
したがって、一中劫とはその二十倍の319,960,000年の長さをさすことになる。そして、この中劫を四つ合わせたものを一大劫といい、この宇宙の始終の長さとしている。そして、この四つの中劫とは、はじめが成劫、次が住劫、さらに壊劫、最後が空劫である。では現在の地球の状態はどこにあたるのかというと、俱舎論によれば、「住劫第九の減」に相当するという。すなわち、成劫すでに過ぎ、まもなく住劫の半ばに至ろうとしているのである。
最近の天文学では、地球の年齢について「現在の地球は成立後約五十億年、生物ができてから三十億年を経過した壮年期の惑星である」という結論を出しているが、これは年の数こそ違うが、この成・住・壊・空の四劫の考え方と、一致しているのである。
成・住・壊・空を繰り返すのは、地球ばかりではない。夜空に輝く無数の星にも生まれたばかりの星、若い星、年老いた星等の差別があり、さながら人生のさまざまな姿を見るようである。さらに、これらの恒星と同じく、その構成体たる銀河系宇宙のような星雲すなわち島宇宙も、また一個の大生命体として、成・住・壊・空の流転を繰り返しているのである。
この大宇宙には、観測可能な範囲だけでも、一千億個の恒星を持つ銀河系宇宙のような島宇宙が、なんと数千億個もあるといわれている。これらの島宇宙が、ことごとく成・住・壊・空の四段階を流転しているのである。
すなわち、この島宇宙を無数にかかえた大宇宙自体が、生命の法則にのっとって、巨大なエネルギーをたたえながら、悠久に変化を続けているのである。これまことに仏法で説く南無妙法蓮華経という生命の当体であり、無始無終に発展し変化する一大生命体といえようか。
さて、ここに「刀兵劫」とは、大の壊劫においては、火災、水災、風災の「大の三災」が起こって世界が崩壊していくのであるが、各小劫の末においても、「小の三災」が起こる。これが、穀貴、疫病、兵革の三災で、刀兵とは兵革の災のことである。
曾谷殿御返事にいわく「三毒がうじやうなる一国いかでか安穏なるべき。壊劫の時は大の三災をこる、いはゆる火災・水災・風災なり。又減劫の時は小の三災をこる。ゆはゆる飢渇・疫病・合戦なり」(1064:14)と。
しかして、ここに「刀兵劫起らん」とは、正法が隠没すれば、劫末に起こるような、刀兵の難が現実にあらわれ、すさまじい破壊と、凄惨なる闘争が眼前に繰り広げられるであろう、との意とも考えられる。第二次世界大戦の惨禍、さらに全世界を破壊し尽くし、全人類を絶滅させるであろうといわれている核戦争は、まさにこの金言どおりではないか。
三千大千世界と現代の宇宙観
この経文に「大王、吾が今化する所の百億の須弥、百億の日月、一一の須弥に四天下有り。其の南閻浮提に十六の大国、五百の中国、十千の小国有り」と。
これ、まことに雄大な宇宙観ではないか。太陽、月、地球等をひっくるめた世界が、ただ一つではなく百億もあると説かれているのである。しかも、それぞれの世界に人の住むという南閻浮提があり、そこに国も形成されている、というのである。
ここで、須弥山を中心とした宇宙観について一言したい。
三千年前、釈尊出現当時、一般には須弥山を中心とする世界観、宇宙観が信じられていた。釈尊も、それを否定せず、いちおうは用いているが、あくまでも絶対的なものとしてではなく、衆生の機根にしたがったものであろう。それは須弥山を中心とした宇宙観が、もっとも低い小乗経に多く説かれていることからもうかがえる。おそらく釈尊は、生命の実相を説かんとして、当時のインド人の生活感情を考慮に入れ、それを生かして用いたにちがいない。
須弥山というのは、われわれの住む世界の中央にあり、その東面は白銀、西面は波璃、南面は瑠璃、北面は黄金であり、上と下の直径が大きく腰がほそい杵のような形をしていて、その高さは水面より八万四千由旬あるとされている。一由旬については、現在の距離に換算すると、34㌔、16㌔、9.6㌔など諸説があるが、いずれにせよ、800,000㌔から2,000,000㌔という巨大なものになる。そして、その頂上には、帝釈天をはじめ、三十三天が住むとされているのである。
こうした表現からすれば、須弥山は古代のインド人が描いた一つの理想郷ともいえる。仏法以前のインドでは、開目抄に「所謂善き外道は五戒・十善戒等を持つて有漏の禅定を修し、上、色・無色をきわめ、上界を涅槃と立て、屈歩虫のごとく・せめのぼれども、非想天より返つて三悪道に堕つ。一人として天に留るものなし」(0187:14)とあるように、天上界に生まれることを理想としていたので、そうした思想を反映したものが、須弥山中心の世界観だったともいえる。
この須弥山のまわりには、香水海があって須弥海といい、さらにその外側を七つの金山と、それと同名の七つの功徳海が囲んでいるという。おなじく開目抄に「或は冬寒に一日に三度・恒河に浴し」(0187:16)とあるように、インドでは川が神聖視されており、とくにガンジス河は聖地とされ、そこで、沐浴して祈ることが現在でも盛んに行われている。須弥山の周囲の香水海、功徳海という考え方も、そういう思想が反映したものであろう。
いちばん外側の海は鹹水をたたえた大海で、さらにその外側を鉄輪囲山という山に取り囲まれている。この外界の四方に四つの大陸があり、東方を弗婆提、西方を瞿耶尼、南方を閻浮提、北方を鬱単越といった。南閻浮提の中央に阿褥達という池があり、その南に大雪山があり、さらにその南に天竺、東北に震旦、西北に波斯国があるとされている。これはいうまでもなく、ヒマラヤを中心として構成された、当時の世界地図なのである。現在では、地球上の全世界が閻浮提にあたると考えることができる。
太陽も月も、この須弥山を中心に運行しているという。そして、この九山八海および太陽も月も含めて、一世界の最小単位と考え、これを小世界といったのである。
むろんこうした世界観は、現在においてそのまま認めるわけにはいかない。戸田先生が「仏法において、須弥山中心の世界観は現在の地球上のみをもって考えることはできない。この国土観は、現在のことばをもってすれば、宇宙観ともいうべきでものである」と述べているとおりである。
しかし、仁王経等の大乗教へくると、この須弥山を中心とした宇宙観は、巨大なスケールをもって説かれるのである。すなわち「百億の須弥、百億の日月」等と、こうした世界が百億もあるというのである。
さらに、三千大千世界という、まことに膨大な宇宙像が示されていく。三千大千世界とは、太陽、月、四州、六欲梵天等を含むものを一世界とし、それを千あわせて小千世界、小千世界が千集まって中千世界となり、中千世界が千で大千世界、または三千大千世界という。また一説には、三千大千世界の最初の小千世界は、一世界が百億集まったものであるとする説もある。
「三千大千世界と申すは東西南北・一須弥山・六欲・梵天を一四天下となづく。百億の須弥山・四州等を小千と云う。小千の千を中千と云う。中千の千を大千と申す」(1104:03)。
これによれば、仁王経に説かれた「百億の須弥、百億の日月……」なども、三千大千世界のうち、ただの一小世界にすぎない。
法華経の寿量品には「五百千万億那由陀阿僧祇の三千大千世界……」とある。すなわち、五×百×千×万×億×那由陀×阿僧祇の三千大千世界ということである。まず億とは、諸説があるが、十万と考えてよい。那由陀とは、これもさまざまな説があるが、現在の一千億にあたると考えられる。また阿僧祇とは、これまた諸説があり、定説がないが、倶舎論によると五十個の零がつく数とされる。
この三千大千世界の考え方を、現代の宇宙についての常識で考えてみよう。一世界とは、太陽系のように一つの恒星を中心とした世界と考えられる。そうすると、小千世界は銀河系のような島宇宙をさし、中千世界ともなれば星雲団と考えなければならなくなる。そうなれば、大千世界は、現在知られている大宇宙全体の規模で考えることが必要になる。
そして、法華経寿量品で、五百千万億那由陀阿僧祇の三千大千世界と説いているのは、宇宙の無限を、可能性として認めていることになろう。
最近の天文学によれば、われわれの地球が属する、この銀河系宇宙は、太陽のような恒星を約一千億個も含む島宇宙で、銀河系外のアンドロメダ大星雲や大マゼラン星雲のような島宇宙とまったく同格の小宇宙であることがわかってきた。しかも宇宙全体には、このような小宇宙が、なんと数千億個も存在するというのである。しかも、銀河系宇宙のなかには局部恒星群のようなものが多くあり、また銀河系宇宙のような星雲が数万個集まって星雲団をつくり、つぎつぎに大きな集団をつくっていることが確認されている。
この三千大千世界という考え方は、宇宙が無秩序の空間であることを否定しているところに大きな特色があり、一つの世界がより大きな世界の構成員となり、それはまた、さらに大きな世界を形づくっていくという、一種の「階層性」を示しているといえる。いくつかの惑星が太陽系を構成し、恒星の集まりが島宇宙となり、さらに星雲団となり、それが大宇宙であるという現在の宇宙観と、その発想は全く同じだといってよい。もちろん、何千年も前に説かれたものだから、科学的知識それ自体は古いとしても、宇宙の実像をとらえる当時の人たちの直観的な洞察力というものは卓抜していたといえよう。
現代の宇宙観によれば、われわれの銀河系宇宙は、百億~百五十億年の歴史をもち、直径が約十万光年、中心部の厚さが一万五千光年ぐらいの凸レンズの形をした、一千億の恒星と莫大な星間物質の大集団で、渦状星雲といわれるものである。その全体を取り巻いて半径六、七万光年ほどの星と希薄なガスと球状星団があり、銀河系のコロナとかハローと呼ばれている。
また太陽系は、銀河系の中心から三万光年ぐらい離れたところで、渦巻きの腕の一本の端のほうにあるといわれる。銀河系宇宙は二億年の周期で自転しており、電波で観測した結果では銀河系の中心部、半径二、三千光年のところで、さらに十倍ほど早い速度でまわっているという。
しかも、太陽は、恒星としてはごくありふれた星で、恒星進化によって、何代も世代を経た恒星といわれる。それでは太陽という恒星の惑星である地球は、どのようにしてできたか。また、地球のように生物あるいは人類のごとき高等生物が住む天体が、ほかにこの宇宙にはあるのだろうか。また、あるとすればどのくらいありうるのだろうかという疑問が生ずる。
いずれにしても、太陽はありふれた恒星であるし、地球のような惑星も宇宙のいたるところに無数に存在し、したがって、人類、否それ以上の高等生物の住む惑星も、現実に、この宇宙に数多く存在することが推測できるのである。しかし、法華経以外の権経で説く、西方十万億土の極楽浄土のごとき仮説は、もちろん論外である。
法華経等で説かれる三世十方の仏土観は、まことにおもしろい。仏土というのは、生命論から考えれば、人間のような知的生物が存在する世界といえよう。もちろん、形とか、化学的構造などは、人間と異なるかもしれないことは当然だろう。十方というのは、四方八方と上下をいい、全方向をさすわけだから、十方に仏土ありとは、宇宙規模で仏土を考えていたことになるのである。これは、仏法がけっして閉鎖的なものではなく、世界に広がり、さらにいえば、全宇宙的広がりをもった教えであることを示している。この仏法の思想からするならば、宇宙のあらゆるところに、生命発生の契機が存在し、また生命が発生している星が数多くあるといっても、けっして不思議ではないのである。
ここで、地球の生成について考えてみよう。いくつかの説がある。
その一つは、太陽の誕生の過程で、地球なども自然にできたというものである。太陽のような恒星の母体は、星間物質という冷たいガスや微塵の巨大なガス雲であった。このガス雲が自転するうちに、中心は冷たい原始太陽となり、まわりの渦巻き運動のなかから、惑星や衛星が生じたとする。
このような雲が、同じような二つのものに割れると連星となり、三つに割れると三重星になり、一方が大で一方が小さいと、小さい方はいくつかにも割れて惑星になるという。星全体の半分ほどが、連星であるという事実は、この説に有利である。具体的な過程となると、ジェラルド・カイパー、シュミット等の理論が、さまざまにあり、定説はないが、惑星は星間物質からできたとする点で、一致している。
地球生成のもう一つの説は、フレッド・ホイルによって最近唱えられた説である。太陽と地球の組成はかなり違っているところから、地球は、太陽と連星になっていた巨大な星が超新星となって大爆発し、ガスとして吹き飛ばされた。そして、超新星の高温の恒星核には、すでにあらゆる原子核融合反応が行われ、現在の地球や惑星と同じような組成をもっていた。
この恒星核が太陽から飛び去る前に、ガスの雲を噴き出し、太陽がこれを捕えた。このガス雲は太陽のまわりに拡がり回転する円盤の形をとり、惑星は、この円盤内の物質から凝結したとする。すなわち、地球の真の親は太陽ではなく、飛び去った不明の星ということになる。連星が多いことは、この説を有力にしている。
しかし、天文学者たちも、こうした考えられうる説のすべては、明らかに人間には実証不可能な仮説を含んでいることを認めているのである。だが、いまあげた二つ説のいずれもが、地球のごとき惑星が、全宇宙に数限りなく存在しうることを示している点では共通している。すなわち、第一説にあっては、銀河系だけに限っても、一千億の恒星のなかに1%ないし10%が惑星系をもつとし、小さく考えても十億の恒星に惑星系があり、平均十組の惑星をもつとして百億の惑星が存在することになる。すなわち全宇宙では、数千億の星雲が存在しているから、百億×数千億の惑星があることになる。
また第二説によっても、銀河系内で二百年ないし三百年について一回の割合で、超新星が爆発したことが、歴史上わかった。しかも、他の星雲で広範囲に捜索した結果、超新星の爆発は一つの星雲について、四百年ないし五百年について一回の割合で起こるという。ゆえに各星雲では百万個の惑星系、千万の惑星、したがって、全宇宙では千万×数千億の惑星があることになる。
もちろん、こうした多数の惑星のなかには、地球に似たような状態の惑星や、地球よりももっと生命の存在に良い条件をもつ惑星が存在していると考えられる。その数の算出の仕方は、学者によって異なっている。いずれにせよ、算定する基礎資料が不足しているのだから、きめること自体が無理ともいえる。しかし、原理的には、太陽系や地球は、けっして特殊な存在ではなく、広い宇宙に、似たような星が少なからず存在しうることは予想できるのである。そして、そこに人類と同じ、また人類よりも高度の知能をもった生物が住むことも考えられるのである。
惑星に生命が誕生して数十億年もたてば、人間のような高等生物、知的生物にまで進化しうる確率はかなり高いといえるであろう。しかして、それらの惑星においても、地球上と同じく、仏法律、仏法がかならず生命の哲理として価値をもつことは、最高の道理なるゆえに、疑いのないところであろう。
第七章 (再び大集経を挙ぐ)
大集経に云く「若し国王有つて、無量世に於て施・戒・慧を修すとも、我が法の滅せんを見て、捨てて擁護せずんば、是くの如く種ゆる所の無量の善根、悉く皆滅失して、其の国に当に三の不祥の事有るべし。一には穀貴、二には兵革、三には疫病なり。
一切の善神悉く之を捨離せば、其の王教令すとも、人随従せずして、常に隣国の侵嬈する所と為らん。暴火横に起り、悪風雨多く、暴水増長して人民を吹き漂し、内外の親戚其れ共に謀叛せん。其の王久しからずして、当に重病に遇い、寿終の後、大地獄の中に生ずべし。乃至王の如く、夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡守・宰官も亦復是くの如くならん」已上。
現代語訳
また大集経には次のごとく説かれている。
もし国王があって無量世にわたって布施を行じ、戒律をたもち、智慧を修得しても、正法の滅するをみて、捨てて擁護しないならば、このようにして修行して植えてきた計り知れないほどの善根も、皆ことごとく滅し失って、その国に三つの不祥事が起こるであろう。その三不祥事とは、一には穀貴で民衆が苦しみ、二には兵革、すなわち戦争であり、三には疫病である。
このようなときには、いっさいの善神がことごとくその国土を捨てて離れてしまうので、その国の王がいかに教令しても、いっこうに国民がそれに隨従しないばかりか、つねに燐国の侵略をうけるであろう。そのうえ、よこしまに猛烈な大火災が起こり、悪風雨があって河川が氾濫し大洪水となり、多くの人民を吹き飛ばし押し流す。そして、王の内親も、外戚も、ともに謀叛を起こすであろう。その王はまもなく重病にかかり、死んでのち大地獄のなかに生ずるであろう。王と同じく夫人、太子、大臣、城主、柱師・郡守、宰官たちも、みな王のように地獄へ堕ちるであろう。
語釈
三の不祥の事
正法に背き、また正法を受持する者を迫害することによって起こる三つの災害。三災について大集経には①穀貴(飢饉などによる穀物の高騰)、②兵革(戦乱)、③疫病(伝染病の流行)が説かれる。
侵嬈
侵略のこと。「侵」は侵すこと。「嬈」はなぶる、もてあそぶの意。
暴火横に起り
暴火とは大火。「横」とは、道理にはずれていること。正しくないこと。
柱師
村主と将帥のこと。引用した大集経には「村主将師」とあり、村の首長と将軍を意味する。
宰官
「宰」はつかさどる、「官」はつかえる、つとめるの意。前者が役所の長官等をさすのに対して、後者は一般吏員をさすと立て分けられる。合わせて官吏一般を通称したもの。
講義
これは、三災を明かした経文である。さきに述べたごとく、三災には大の三災と小の三災があり、大の三災は、壊劫のとき起きる火災、水災、風災であり、小の三災とは、小劫の終わりに起きる、飢渇、疫病、合戦である。いま大集経では、飢渇を穀貴とし、合戦を兵革として、第一に穀貴、第二に疫病、第三に兵革としている。ともに同じ意味である。
日本もかつて未曽有の兵革の難にあい、また終戦後も、物価の急上昇、疫病の蔓延、さらにアメリカ軍の占領下にあったことを思うときに慄然とせざるをえない。だが、今日においても、けっしてこの三災が去ったわけではない。否、むしろ、かたちを変え、しかもまた、さらに深刻に、この三災が起きつつあるし、また、将来に起こるやもしれぬのである。
御義口伝には法華文句を引いて、これらの三災の起こる原因を、五濁のなかの劫濁の姿から、次のように説いている。
「相とは四濁増劇にして此の時に聚在せり。瞋恚増劇にして刀兵起り、貪欲増劇にして飢餓起り、愚癡増劇にして疾疫起り、三災起るが故に煩悩倍隆んに、諸見転た熾んなり」(0718:02)。
この文の意味は、こうである。――劫濁の相というのは、四濁がきわめて激しく、ある時代にあつまっていることなのである。瞋恚が激しくなれば、その国土に戦争が起き、貪欲が盛んなときは、飢餓が起き、愚癡が多いときは、伝染病が蔓延する。このように三災が起こってくると、人びとの煩悩はますます盛んとなり、諸々の邪悪な思想や宗教がはびこるようになるのである。――
これと同様の御文が、曾谷殿御返事に「飢渇は大貪よりをこり、やくびやうは・ぐちよりをこり、合戦は瞋恚よりをこる」(1064:15)とある。この三災を起こす根源とされる貪瞋癡の三毒を、現代的に表現するならば、物質的欲望、社会的欲望、感情的衝動・愚かさ、といえよう。それは生命に本源的にそなわった特質であり、なくせるものではない。また、それは生命維持のために欠かすことのできない働きをになっているものでもある。しかし、それらの働きに支配されたとき、それによって生ずる結果は悲惨なものとなるのである。
まず「瞋恚増劇にして刀兵起り」とは、戦争の本質をついたものである。戦争など狂人でない限り、だれ一人として望んではいない。これを望むような人があれば、まさに姿はどうであろうと魔であり、鬼であると断定せざるをえない。ではいったい、だれも望まぬにもかかわらず、なぜ戦争が起きるのか。核兵器が製造されるのか。第三次世界大戦の恐怖におびえねばならぬのか。これは、理性では絶対にわりきれぬものである。これ、ひとえに人間の生命に、本然的にそなわる瞋恚の生命に支配されるからにほかならない。平和を願う人が、ひとたび戦争の渦中に巻き込まれるや、殺人鬼のごとく殺戮に狂奔するのも、指導者の頭が狂い、まるで何かにとりつかれたかのごとく人びとを戦争をかりたてるのも、これまったく瞋恚からくるものである。
次に「貪欲増劇にして飢餓起り」とは、人びとが、利己主義で、自分の利益を追求することのみに没頭し、あくせくしているならば、たまたまの旱魃が、徹底的に民衆に大打撃を与え、飢餓が起こるのである。とくに政治の劣悪は、インフレ、物価高を起こし、人びとの生活を苦悩のどん底へと追いやるのである。人びとは、他人をけおとしてまで、自己保身のために躍起となり、それがますます、飢餓を増していくのである。とくに指導者が貪欲にかられ、おのれ一身の利益追求のみにふけり、民衆を忘れたならば、民衆は塗炭の苦しみを味わわねばならない。これ、今日までの歴史が、あまりにも明確に物語っているではないか。
さらに「愚癡増劇にして疾疫起り」とは、愚癡すなわち愚かであるために、病気が起こるというのである。すべての病気は、正しいリズムからはずれたときに起こる。すなわち病気とは、生命の不調和である。それは一時的、部分的、末梢的な不調和である場合もあるし、また永続的、全体的、根本的な不調和の場合もある。それによって、病気の軽重、治療の難易もわかれてくるのである。そしてそれは、外部から引き起こされる場合もあり、生命の内部から引き起こされる場合もある。後者は前者よりも重く、現代医学をもってしても解決できないものがほとんどである。だが、いずれにせよ、しょせんは、生命力の減退こそ病気の根本原因であると断ずることができる。もし、生命力に満ちている身体であれば、外部からの病原菌にも左右されず、少々の病悩も悠々と克服していくことができるからである。しかるに愚癡蒙昧にして、目先のことのみに目を奪われ、正しきことに積極的にならず、無気力となり、生命力が衰えると、そこに疫病が蔓延するのである。
「三災起るが故に煩悩倍隆んに、諸見転た熾んなり」とは、こうした、人びとの生命の濁りが原因で、刀兵、飢餓、疾疫の三災がおこるのであるが、この三災がまた原因となって、さらに煩悩や邪見を増すという悪循環を繰り返すのである。
しかして、この貪・瞋・癡の三毒は、じつに、邪宗、邪教、邪智により盛んとなったものであり、また正法隠没とともに、わが身体の中にある妙なる生命もおおわれて、生命それ自体が三悪道、四悪趣のみ活発となったものである。この三毒は、時代とともに民衆の生命を支配し、一国を支配し、たえず三災の起こる基盤となったのである。ゆえに、曾谷殿御返事の次下の文にいわく「今日本国の人人四十九億九万四千八百二十八人の男女、人人ことなれども同じく一の三毒なり。所謂南無妙法蓮華経を境としてをこれる三毒なれば、人ごとに釈迦・多宝・十方の諸仏を一時にのり、せめ、流し、うしなうなり。是れ即ち小の三災の序なり」(1064:16)と。
されば、今日の三災に終止符を打つ道は、その原因たる人間生命に内在する貪・瞋・痴の三毒を支配し、克服していける強い理念、精神的な支柱を確立する以外にはない。それは、現実の貪欲や瞋恚・愚癡に左右されるような低級な信仰であっては不可能であるし、またそれを排斥する観念的な信仰でもできえない。人間生命のありのままを認めつつ、そこに崇高な理念と使命感とを打ち立てて、昇華していく高等宗教でなくてはならない。これらの条件にかなった真実の世界宗教、高等宗教こそ、偉大な生命哲理に裏づけられた日蓮大聖人の仏法であり、大聖人の仏法による以外、確固たる人類共通の精神的基盤は、絶対に現出しないのである。
近年、機械文明、物質分明の発達とともに、精神的なものの発達を、物質的発達と表裏一体のものとして必要であるという主張が、とみに盛んになってきた。また、アジア諸民族の健全な前進に、人類の未来を託そうという声も、多く聞かれるようになった。
たとえば、フランスの評論家ジャン・バレーは「資本主義も共産主義も、いずれも人間を粉砕するために役立つだけの結果にすぎなかった。未来の究極の課題は、精神の文化、人間の進化、モラルの革命である」と説き、「二十一世紀初頭まで、人間が生存するならば、アジアの諸大国が進歩した力によって、人類を指導するだろう」と述べている。
また、イギリスの政治学者E・H・カーは、歴史の進歩について述べたなかで、トックヴィルの「新しい世界には、新しい政治学が必要である」との言葉を引用し、これからの新しい歴史を築くべき、新しい理念の完成を待望している。
近代最高の理論物理学者アインシュタイン博士は、はじめドイツより先に、アメリカで原爆を製造することを勧告しながら、のちに原水爆の恐怖を全世界に訴え、「人類の滅亡を防ぐには、偉大なる精神文明の台頭が必要であり、私はそれをアジアに期待する」と叫んだ。
イギリスの著名な歴史家トインビー博士は「人類はいま、大量自殺行為をあえて犯すか、さもなくば人類全体の共存かの二者択一の決定を迫られている。共存共栄の唯一の道を選ぶには、文明が生み出した高等な宗教による人間の救済こそ最高の価値があり、そのもっとも優れた宗教は、アジアにおける大乗仏教である」と述べた。
さらにロベルト・ユングは、機械文明を高く評価しながらも、同時に人間の将来について、根本的な指向、すなわち大規模な精神的変革の必要性を強調している。
アメリカの文明批評家ルネ・デュボス博士は、私と対談したおり「共産主義、資本主義、民族主義など、これらのすべての主義というものは、もはや創造的な力にはなりえない。それは、これらの主義にみられる人間のとらえ方が、根本的に経済的、政治的であり、より基本的、普遍的な〝人間の欲求〟には目を向けていないからだ。つまり、すべてが他を攻撃することだけに終始して、あまりにも独善的になりさがっている。二十一世紀にわれわれがしなければならないことは、この基本的、普遍的欲求の原点たる人間というものを再発見し、それを満足させるかたちで、社会の制度をその人間の欲するもっともふさわしいように組織し直す必要がある」と語っていた。
かく展望してくると、今後の世界は、新しい生命科学台頭の時代であり、科学文明と表裏一体のかたちで精神文明の興隆が強く望まれる新時代を迎えている。この要求に応えて、国家や民族という社会的な次元ではなく、より深く生命の次元から人間をとらえ、人間生命を開拓し、その尊厳性を裏づける日蓮大聖人の仏法こそ、世界の全人類共通の精神的基盤たりうるのである。この仏法の大地のうえに、人間文化が絢爛と花開いたとき、人類の心を一つに融合する理想的な平和世界が現出することを確信するものである。
第八章 (四経の明文により災由を結す)
夫れ四経の文朗らかなり。万人誰か疑わん。而るに盲瞽の輩、迷惑の人、妄に邪説を信じて、正教を弁えず。故に天下世上、諸仏・衆経に於て、捨離の心を生じて、擁護の志無し。仍って善神聖人、国を捨て所を去る。是を以て悪鬼外道、災を成し難を致す。
現代語訳
以上のように、金光明経、大集経、仁王経、薬師経の四経の経文はまことにはっきりしている。だれびとたりとも、どうしてこれを疑うことができようか。しかるに、道理にくらく法の正邪の区別がつかない人や、邪正に迷っている者が、みだりに邪説を信じて正しい教えをわきまえず、ゆえに世間の人びとは、すべて諸仏や衆経に対して、捨て離れる心を生じて擁護の志がない。そのために諸天善神も聖人も、その国を捨てて他所へ去ってしまい、かわって悪鬼、外道が災難を起こすのである。
語釈
盲瞽 の輩
「盲」は、生まれてのちに視力をなくした者。「瞽」は生まれつき目が見えない者をいった。ここでいう盲瞽の輩とは、仏法の正邪が分からない人の意。
講義
災難の起こる理由は、第一に、人びとがことごとく邪宗教を信ずること、第二に、そのために諸天善神がその国を捨て去ること、第三に、悪鬼が乱れ入って災難が起こること、の三つである。
以上の道理を経文によって明らかに示されている。法然の撰択集は、もっぱら念仏の三祖たる曇鸞、道綽、善導の釈にもとづいて、自己の見解を述べているのに対し、日蓮大聖人はあくまで経文を第一とし、釈尊の仏教は、まず釈尊を根本に立てて判断しなければならないとされている。そうなれば、法華経が、仏法の真髄であり、かつ最高峰であることを知り、さらに法華経の文によって、末法には上行菩薩の再誕たる御本仏日蓮大聖人が、三大秘法をもって末法万年の外未来までの一切衆生を救われるということが、まさしく経文どおりであり、仏法の定理であり、大宇宙の鉄則であることが明瞭となる。されば、日蓮大聖人の仏法に帰依する以外に、真実の幸福への道はないことを知らざるをえない。
以上のごとく、大聖人が経文を第一に引かれる深意を知らなければならない。
また、このように大聖人ご在世当時に、釈尊の仏法は末法に用うべきでないと、断固破折されているにもかかわらず、いまなお禅宗、真言宗、念仏宗等が、大伽藍をもち、その形骸を保っているということによって、いかにいまの日本民族が、仏法に昧いかということが、はっきりとわかる。それにもまして奇怪なのは、日蓮大聖人の名をかたって、仏法の真髄を乱さんとする日蓮宗系の諸派の徒輩である。また、なんら大聖人の仏法を知らずして流行している新興教団は、仏敵といおうか、師子身中の虫であり、人心を荒廃に導く一大原因をなしているのである。
なお「善神聖人、国を捨て所を去る」について、日寬上人は、立正安国論文段に「この論は、正しく法然に対するのである。ゆえに諸仏・衆経において捨離の心を生じ神聖捨て去るというのである。もし、その元意は釈尊・法華経において、捨離の心を生ずるゆえに、神聖捨て去るのである」云云と述べている。
すなわち、本文には、諸天善神が国を捨て去るのは、法然が「捨・閉・閣・抛」の四字で、一切衆生をして「諸仏・衆教」に捨離の心を生ぜしめたからであるとあるが、その元意は、釈尊および法華経、さらに本因妙の釈尊、すなわち日蓮大聖人および下種の法華経、すなわち御本尊に捨離の心を生ぜしめたからであるとの仰せなのである。