立正安国論
文応元年(ʼ60)7月16日 39歳 北条時頼
第一段(災難由来の根本原因を明かす)
第一章(災難の由来を問う 1)
旅客来って嘆いて曰わく、近年より近日に至るまで、天変地夭・飢饉疫癘、あまねく天下に満ち、広く地上に逬る。牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。死を招くの輩既に大半に超え、悲しまざるの族あえて一人も無し。
しかるあいだ、あるいは「利剣即是(利剣は即ちこれなり)」の文を専らにして西土教主の名を唱え、あるいは「衆病悉除(衆病ことごとく除こる)」の願を持って東方如来の経を誦し、あるいは「病即消滅、不老不死(病は即ち消滅して、不老不死ならん)」の詞を仰いで法華真実の妙文を崇め、あるいは「七難即滅、七福即生(七難は即ち滅し、七福は即ち生ぜん)」の句を信じて百座百講の儀を調え、あるは秘密真言の教に因って五瓶の水を灑ぎ、あるは坐禅入定の儀を全うして空観の月を澄まし、もしは七鬼神の号を書して千門に押し、もしは五大力の形を図して万戸に懸け、もしは天神地祇を拝して四角四堺の祭祀を企て、もしは万民百姓を哀れんで国主・国宰の徳政を行う。
しかりといえども、ただ肝胆を摧くのみにして、いよいよ飢疫に逼められ、乞客目に溢れ、死人眼に満てり。臥せる屍を観となし、並べる尸を橋と作す。観んみれば、夫れ、二離璧を合わせ、五緯珠を連ぬ。三宝世に在し、百王いまだ窮まらざるに、この世早く衰え、その法何ぞ廃れたる。これいかなる禍いに依り、これいかなる誤りに由るや。
現代語訳
旅客が来て嘆いていうには、近年から近日に至るまで、天変、地夭、飢饉や疫病があまねく天下に満ち、広く地上にはびこっている。牛馬はいたるところに死んでおり、その死骸や骸骨が道路にいっぱいに満ちている。すでに大半の者が死に絶え、これを悲しまない者は一人もなく、万人の嘆きは、日に日につのるばかりである。
そこで、あるいは浄土宗では「弥陀の名号は煩悩を断ち切る利剣である」との文を、ただひとすじに信じて念仏を称え、あるいは天台宗では「すべての病がことごとくなおる」という薬師経の文を信じて薬師如来の経を口ずさみ、あるいは「病がたちまちのうちに消滅して不老不死の境涯をうる」という詞を信じて、法華経の経文をあがめ、あるいは「七難がたちまちのうちに滅して七福を生ずる」という仁王般若経の句を信じて、百人の法師が百か所において仁王経を講ずる百座百講の儀式をととのえ、またあるいは真言宗では秘密真言の教えによって、五つの瓶に水を入れて祈禱を行い、あるいは禅宗では坐禅を組み、禅定の形式をととのえて、空観にふけり、さらにある者は七鬼神の名を書いて千軒の門に貼ってみたり、ある者は国王、万民を守護するという仁王経の五大力菩薩の形を書いて万戸に掲げ、あるいは天の神、地の神を拝んで四角四堺のお祭りをし、あるいは国王、国宰など、時の為政者が万民一切大衆を救済するために徳政を行っている。
しかしながら、そのようなことをしているけれども、ただ心を砕き、夢中になって努力するのみで、ますます飢饉や疫病にせめられ、乞食は目にあふれ、死人はいたるところにころがっている。そのありさまはあたかも、うずたかく積まれた屍は物見台となしたようにみえ、道路に並んでいる死体は橋となしたように見えるのである。
よくよく考えてみれば、太陽も月も星もなんの変化もなく、きちんと運行し、仏法僧の三宝も世の中に厳然とある。また、かつて平城天皇の御代に八幡大菩薩の託宣があって、かならず百代の王を守護すると誓ったというのに、いまだ百代にならないが、この世は早くも衰えてしまい、王法はどうして廃れてしまったのか。これはいかなる過失から生じたものであり、またいかなる誤りから、このような状態になってしまったのであろうか。
語釈
七難即滅・七福即生
仁王経巻下・受持品第七に「其の国土の中に七つの難とすべき有り、一切の国王は、是の難の為の故に般若波羅蜜を講読せば、七難即ち滅し、七福即ち生じ万姓安楽にして帝王歓喜せん」とある。七難は仁王経、薬師経、金光明経等に説かれるが、仁王経の七難は①日月失度難(太陽や月の異常現象)②星宿失度難(星の異常現象)③災火難(種々の火災)④雨水難(異常な降雨・降雪や洪水)⑤悪風難(異常な風)⑥亢陽難(干ばつ)⑦悪賊難(内外の賊による戦乱)をいう。七福とは、これらの七難を滅すること。また仁王経疏巻下に説かれる悪竜・鬼を鎮める徳などの七徳をさす。
五瓶
密教で災難を除くための祈禱を行う際、大壇の中央と四隅に置く五個の宝瓶で、五智・五部・五仏などを表示する。法門を師から弟子へ伝える儀式(灌頂)の際には、この五瓶に香水(各種の香を加えた清浄な水)を入れ、その水を受者の頭頂に智水として注ぐ。
〈五瓶の修法〉
五瓶の修法は、壇の上に五瓶(白・青・赤・黄・黒)を置き、それぞれに五宝(金・銀・瑠璃・真珠・水晶)、五香(沈香・白檀・丁字・鬱金・薫陸または龍脳)、五薬(赤箭・人参・茯苓・石菖蒲・天門冬)、五穀(米・麦・粟・黍・豆)の二十種を混ぜ、五色の絹布で包んで瓶に入れ、これに水をそそぎ、花をさして行う。真言宗は、教義の探求や哲学的解明より、こうした呪術的な修法を本領とした。
七鬼神
却温黄神呪経に疫病を起こすと説かれる七種の鬼神。同経には、①夢多難鬼、②阿佉尼鬼、③尼佉尸鬼、④阿佉那鬼、⑤波羅尼鬼、⑥阿毘羅鬼、⑦婆提梨鬼の七鬼神の名を書いて門に貼っておけば、鬼魔が近寄ることはなく、疫病や流行病を対治することができると説かれている。日蓮大聖人の御在世当時、災厄から免れようとして七鬼神の名を書いた紙を門に貼ることが行われていた。
五大力
五大力菩薩のこと。国王が仏法僧の三宝を護持すれば、この五菩薩が国土の四方と中央で国王を守護するとされる。鳩摩羅什訳の仁王経巻下の受持品第七に説かれる仁王会の本尊である。中世には、五大力菩薩が天災地変や疫病などを除くという信仰が一般にも広がり、その図像が守り札として門戸に貼られるようになった。
四角四堺の祭祀
陰陽道の攘災儀式の一つ。鎌倉時代においては、幕府の四隅で祭るのを四角祭、鎌倉の町の四堺にあたる小袋坂、小壷、六浦、片瀬で祭るのを四堺祭といった。
二離
太陽と月のこと。「離」は明らか、並ぶ、連ぬの意があり、易の卦で「火」に配当され「明」である。ここから日月にあてられるようになった。
五緯
五つの惑星、すなわち歳星(木星)、熒惑星(火星)、鎮星(土星)、太白星(金星)、辰星(水星)の総称。緯とは、天体のなかにあって、動くことをいう。
百王
百代にわたる天皇、または百代目の天皇のこと。平安末期から鎌倉時代、天皇は百代で尽きるという一種の終末思想が広まっていた。これを百王思想、百王説という。「諫暁八幡抄」に「平城天皇の御宇に八幡の御託宣に云く『我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり百王を守護せん誓願あり』等云云」(0587:10)とあり、当時、百王を守護する八幡神に対する信仰が盛んに行われた。「立正安国論」御執筆当時の天皇は第九十代とされていた。
講義
立正安国論は、日蓮大聖人の数多くある御書のなかでも、その最高峰にそびえる書である。それは、末法の全民衆救済の指南書であり、かつまた未来を映し出して曇りなき明鏡である。時代の変遷にかかわらず、未来永劫にわたる、国家の根本の書である。否、いかなる国家、民族にも通ずる、全世界、全人類に真実の幸福をもたらす偉大なる亀鏡である。
そしてまた、立正安国とは王仏冥合論の別名であり、そこに脈打つ民衆救済の大精神は、実に日蓮大聖人の御一生の総体であり、これをおいてほかに、末法の法華経即日蓮大聖人の大仏法を信ずる行動はないのである。
まことに、この一書こそ、苦悩に沈む民衆を救い、全人類の闇を照らす巨星といえよう。
過去、幾度か、歴史に名を残す哲学者、宗教家、思想家等は、自己の畢生の書を世に問うた。しかし、その書によって、幾人の人間の幸福が、また全人類にどれほどの平和がもたらされたであろうか。相次ぐ混乱と動乱にゆさぶられている世界の現状は、まさにこれらの書に対する厳しい審判といえるのではないだろうか。
しかし、ここに、ともすれば不安と絶望に流転されゆく人類の未来に、偉大なる光明を与え、希望と勇気をみなぎらせ、現実に、この地上から悲惨の二字を抹殺する力強き、生きた書こそ、この立正安国論なりと叫んでやまぬものである。
立正安国論は、日蓮大聖人が御年39歳の文応元年(1260)7月16日、幕府の役人の宿屋左衛門入道光則を通じて、時の権力者・北条時頼にあてた、第一回の国家諫暁の書である。そして、その形式は「旅客来りて嘆いて曰く」の冒頭で始まり、旅客と主人の十問九答の問答からなっている。
ここに旅客とは、宗教の是非、曲直も知らず、誤れる宗教に執し、迷妄におおわれた一切衆生であり、別しては、時の国家権力たる北条時頼である。主人とは、一往、愚かな客に対して法華の正法を説き示す人であるが、再往は、実に日蓮大聖人が、日本国の、否、全世界の、一切衆生の主君であらせられることをあらわしているのである。すなわち撰時抄にいわく「日蓮は当帝の父母・念仏者・禅衆・真言師等が師範なり又主君なり」(0256:12)と。
国家諫暁は、たえず、時の最高権力者に対してなされるものだ。したがって、時には天皇に対してなされ、時には幕府に対してなされてきた。鎌倉幕府が滅び、京都に幕府が移った時に日目上人が天奏を行われたのも、その原理からである。されば、立正安国論の国家の対象たる客人の内容も、時とともに異なるのは当然である。
この民主主義の時代にあっては、民衆に主権がある。さらには、権力者といえども、民衆より送り出された指導者であることも明瞭である。
すなわちこの立正安国論は、現今においては、苦悩に沈み、絶望の淵に立たされた、日本の、全世界の人々に対してしたためられたものであり、別しては、日本の指導者、世界の指導者が、旅客にあたると拝すべきであろう。
されば現今の心ある指導者よ、この果てしなき不幸を絶滅せんと心をくだく指導者よ、静かに日蓮大聖人の言々句々を拝せ。大聖人の燃ゆるがごとき、民衆救済の情熱よりほどばしり出る正義の言を聞け。されば、活路を切り開くことができることは絶対なりと、心より訴えるものである。
旅客の最初の質問は、現在の世の中にはありとあらゆる災難が競い起こって、万人が嘆きのどん底にあえいでいるが、これは、いったい何の禍によるのか、なんの誤りによるのであるかとうい質問である。大聖人が、災難の由来、根本原因について説かれるための質問である。
当時の三災七難
日蓮大聖人が、この立正安国論を著された当時の世相は、物情騒然たるものであった。大集経にいわく「我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固・次の五百年には然定堅固・次の五百年には読誦多聞堅固・次の五百年には多造塔寺堅固・次の五百年には我法の中に老いて闘諍言訟して白法隠没せん」等云々。
末法の初めは西暦1052とされている。釈尊滅後、年がたつにしたがって内容が失われ、ますます形式化した釈尊の仏法は、このころから不思議にも「闘諍言訟・白法隠没」の世相を出現するようになった。わが国では、当時摂関政治が衰え、代わって武士が台頭しつつある時代で、仏教の退廃は目をおおわしめるものがあり、天台宗ですら、慈覚・智証のために謗法と化し、叡山の僧は僧兵と化して東大寺、興福寺の僧兵とともに争い合う醜状を呈した。「中右記」長治元年(1104)の条に「近日叡山の衆徒乱る、東西の塔僧合戦す、あるいは火を放って房舎を焼き、あるいは矢二にあたりて身命を亡う、修学の砌、かえって合戦の庭となる。仏法の破滅已にこの時なるべきか」と嘆いている。1059年、あまり放火が多いので、諸門を警護、1082年、動乱の世を象徴するかのように富士山が噴火、1156年、保元の乱、1159年、平治の乱。これは天皇家、摂家の間で同族が争い合う姿であった。武家においても、保元の乱後、源氏の棟梁源義朝が、父・為義をはじめ同族の多くを斬らねばならないといった悲劇も生じた。仏教の慈悲の精神が約340年の間廃止されていた死刑も、末法にはいって信西入道によって復活した。このような時代の民衆は、あきらめと頽廃的な気分にひたり、それに乗じて浄土宗が広まり、自殺者を大量に出している。
仏法の頽廃、政治の乱脈と、仏法も王法もともに尽き、人々の生命力は極度に弱まり始めた頃から、旱魃、飢饉、大火、地震、疫病の流行等、人々はいまだかって見たこともない幾多の災厄に遭遇したのである。
1177年には、4月から延暦寺の衆徒の強訴が起こって半年以上も都を騒がし、4月28日には宵の口の午後八時ごろ、富小路の、ある病人の家から出火し、おりからの大風にあおられて、火は大内裏におよび、都の三分の一を失った。都はじまって以来の大火であった。
右大臣藤原兼実は、その感想を「玉葉」に次のように書いている。
「五条より南におこった火が八省司におよんだことは未曾有のことだ。このように延燃するのはただごとではあるまい。火災、盗賊、大衆の兵乱、上下の騒動、まことに乱世のいたりだ。人力のおよぶところではない」
鎌倉初期の代表的な文学作品の一つといわれる鴨長明の「方丈記」には、この1177年の大火をはじめ、1180年の旋風、1182.83年間の全国的な大飢饉、1285年の大地震等天変地夭がきわめてリアルに叙述されている。
「築地のつら、道のほとり、飢え死ぬるもののたぐひ、数も不知、取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満て、変わりゆくありさまは、目もあてられぬること多かり…京のうち、一条よりは南、九条よりは北、京極よりは西、朱雀よりは東の、路のほとりなる頭、すべて四万二千三百余りなんありける、いはむや、その前後に死するもの多く、また河原、白河、西の京、もろもろの路地などを加へていはば、際限あるべからず。いかにいはやむ、七道諸国をや」
「また、同じころかよと、おびただしく大地震のふること侍りき。そのさま、よのつねならず。山はくづれて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出て、巌割れて谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波にただよひ、道行く馬はあしの立ちどをまどはす。都のほとろには、在々所々、堂舎塔廟、一つとして全からず。或はくづれ或はたふれぬ。塵灰たちのぼりて、盛りなる煙の如し、地の動き、家のやぶるる音、雷にもことならず。家の内にをれば、忽にひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く、羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲に乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、只地震なりけりとこそ覚え侍りしか」
この方丈記等からも、時末法にはいり、人心乱れ、災厄が嵐のごとく、起きてきたことが伺われる。だがこれらの難も、これからの三災七難にすぎなかった。さらに、その後「悪世末法」の経文どおり、阿修羅のごとく、血みどろの葛藤が繰り広げられ、また災いは災いを呼び、三災七難は激烈をきわめ、大聖人が立正安国論を著される直前は、まさにその頂点に達したのである。
平安末期よりも、鎌倉時代にはいって、いかに人心が乱れてきたかは、放火の件数と内容も明らかである。延久3年(1071)から後白河天皇の保元元年の前年(1155)を平安末期とし、保元元年(1156)より分治元年の前年、(1184)までを過度期、文治元年(1185)より建長元年(1249)までを鎌倉前期とすると、鎌倉前期は平安末期よりも、放火事件は二倍にはね上がっている。また同じ放火であっても、平安末期には、怨恨に起因するものが多かったが、それ以降は、むしろ強盗略奪を目的とするものが多くなっている。また、平安末期、過度期においては、公卿や皇族の御所に対する放火が目立つが、鎌倉前期においては、寺院、一般庶民の家の放火が多い。承久3年(1221)の月次記にも「近日放火往々不絶」とある。その後寬喜年間(1229~31)のころになると、一般住宅への強盗放火は甚だしく、刀傷殺害をともなう悪質な犯罪が横行した。いかに民衆の生活が逼迫していたか、これらでも想像できよう。寺院においては、尊勝寺、延勝寺、最勝光院、蓮華蔵院、法成寺等、院政の花やかであったとき営まれた寺院が凋落し、盗人の暴行に任せるのみであった。これらの寺院の末路こそ釈迦仏法隠没を象徴したものであった。
目をおおう惨状
大聖人が文永五年にしたためられた立正安国論御勘由来には「正嘉元年太歳丁巳八月廿三日戌亥の時前代に超え大に地振す.同二年戊午八月一日大風.同三年己未大飢饉.正元元年己未大疫病同二年庚申 四季に亘つて大疫已まず万民既に大半に超えて死を招き了んぬ」(0033)とある。
死ぬ人が大半以上におよんだことは、痛ましいかぎりではないか。死が影のごとく身に添い、あたりは屍臭がただよう。餓鬼・疫癘・殺剹のとりまく世界の人々の姿こそ、まさしく三悪道・四悪趣の姿ではないか。
特に飢饉の惨状は、目をおおうものがある。領主の過酷な搾取をうけて泥と草に埋まっていた農民や、流亡のはてに都市の片隅に食を拾う貧民は、弱い者からつぎつぎに餓死に追いやられた。
百練抄、歴代編年集成等によると、正元元年に、全国的な大飢饉と大疫病が襲ったときに、京都に死人を食う十四・五の小尼があらわれ、内野から朱雀大路を南に行きつつ、累々と横たわる、死人の上に乗ってその肉をむしり食い、目もあてられぬ様を出現したとのことである。いうまでもなく飢饉のために発狂したのであった。
疫病の暴威にたいしても、なんらなすすべを知らなかった。そのころの医学では、赤痢などはなおす方法が見あたらず、ましてやそれ以上のコレラ、疫痢、ほうそう等にたっては、その猛威の衰えを待つばかりである。牛馬まで巷に倒れたとあっては、どれほど生物の生命力が弱っていたかわかる。ゆえに、「天変地夭・飢饉疫癘・遍く天下に満ち広く地上に迸る牛馬巷に斃れ」とは短い言葉であるが、いかに民衆が困苦の極みにあったのかがよくわかるのである。医療の方法もなく、貧民救済の手だてもない。骸骨は道いっぱいに横たわり、死ぬ者も民衆の大半を越え、苦難と絶望にうちひしがれ、身近き者の死を悲しまないものはなかった。まことに悲惨の極地である。
時の指導者は、これに対して方法を講じないわけではない。全力をつくしたと思うが、いっこうに効果がないのである。念仏の輩は西方の阿弥陀仏にすがり、天台真言の徒輩は東方の薬師如来を信じたが東西の二仏共に効なく、また法華の妙文を唱えたり、仁王経を誦したりするも、釈尊の経力はまったくあらわれず、真言の者は、真言の儀式によって世を救わんとし、禅宗の連中は坐禅入定によっておのれを救わんとするも、教観ともに力なく、七鬼神および五大力の偶像を千戸万戸に貼るという遇像の権威もまったく地に落ち、なんの救いにもならない。陰陽道は天神地祇を祀り、国主国宰は徳政を行うといえども、二階から目薬というほどの慰めも人々に与えることさえできない。このように指導者は肝胆を砕き、頭を痛めるけれども、いよいよ飢饉、疫病は増長し、死人と乞食がふえる一方である。重なり合った屍は物見台のようであり、並んでいる屍は橋のように見える。いかに悲惨なことであろうか。この時の民衆の心を察すれば、神も仏も人も頼みにならないといった、あたかも太平洋戦争後の日本人が味わった心境のごときものか、あるいはそれ以上のものであったのか、まことに察するにあまりある。
されば旅客は長嘆息していわく「天に日月あり、星道も乱れなし、世には三宝もいます。かつまた八幡大菩薩の百代の王を守護すとの託宣もいまだ八十九代より過ぎぬのに、なぜかくもこの世の中は衰え切ってしまったのか。なぜ王法もまた滅尽したのか。これはいかなる過失から生じたものであり、またいかなる誤りからこんな状態になったのであろうか」と。人々は、その誤りの根源を知らず、ただ嘆くのみであったろう。最高指導者たる北条時頼が、これを知らなかったということは、実に甚だしきものである。「前車の覆えるは後車の誡め」である。現代の指導者も深く心すべきであろう。
大法興廃の瑞相
しかして、一方では、当時の人々は、このような苛烈な三災七難をうけ、真実に民衆を幸福にしきる大思想、大宗教を求めたのも必然であった。一方では貴族化し、廃退した既成仏教への不信と疑惑をいだきつつ、他方では、真に民衆に根ざした力ある宗教を人々は心の底より欲していたのだ。だが、無智のゆえ、あえぎ、あせり、念仏のごとき低級なる宗教を氾濫させてしまったことも事実である。
されば、この三災七難の姿こそ、大仏法興隆の前相であり、大善の前の大悪であった。顕仏未来記にいわく「仏記に順じて之を勘うるに既に後五百歳の始に相当れり仏法必ず東土の日本より出づべきなり、其の前相必ず正像に超過せる天変地夭之れ有るか、所謂仏生の時・転法輪の時・入涅槃の時吉瑞・凶瑞共に前後に絶えたる大瑞なり、仏は此れ聖人の本なり経経の文を見るに仏の御誕生の時は五色の光気・四方に遍くして夜も昼の如し仏御入滅の時には十二の白虹・南北に亘り大日輪光り無くして闇夜の如くなりし、其の後正像二千年の間・内外の聖人・生滅有れども此の大瑞には如かず、而るに去ぬる正嘉年中より今年に至るまで或は大地震・或は大天変・宛かも仏陀の生滅の時の如し、当に知るべし仏の如き聖人生れたまわんか、大虚に亘つて大彗星出づ誰の王臣を以て之に対せん、当瑞大地を傾動して三たび振裂す何れの聖賢を以て之に課せん、当に知るべし通途世間の吉凶の大瑞には非ざるべし惟れ偏に此の大法興廃の大瑞なり」(0508:11)と。
文中「聖人生れたまわんか」とは、末法の御本仏、日蓮大聖人の御誕生である。「大法興廃の大瑞」とは、興るは大聖人の仏法、廃は釈迦仏法を意味し、当時の三災七難は、釈迦仏法では、もはや民衆を救うことができないという実証であり、大聖人の仏法興隆を示す御文である。まことに、日蓮大聖人のご出現、大白法たる大御本尊の顕現は、時のしからしむるのみとしかいいようがない。
世界史上の三災七難
世界史のうえからは、また13世紀から15世紀にかけて、あらゆる面で大変動期であり、日蓮大聖人の大仏法出現と時を一にするのは、まことに不思議というべきである。なぜならば日蓮大聖人の大仏法こそ一閻浮提広宣流布、すなわち、全世界の民衆を救うべき大宗教なるがゆえである。
そもそも仏法は、キリスト教、イスラム教とともに、世界の三大宗教といわれ、また世界的宗教ともいわれる。世界的宗教とは国境、民族を越え、全世界に流布し、信奉され、全人類を救済しうる宗教である。
それに反して、ある民族、ある国家においてのみ信奉され、普遍性を持たない宗教が民族的宗教であり、その典型が、ユダヤ教、インド教、そして日本の神社神道でなどである。
しかして、東洋仏法の心髄、日蓮大聖人の仏法こそ、真実の仏教であり、全人類を救済すべき、最高唯一の世界的宗教なることは、すべての点からみて明白である。
観心本尊抄にいわく「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(0254:08)と。三大秘法抄にいわく「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下してフミ給うべき戒壇なり」(1022:15)と。
聖人知三世事にいわく「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」(0974:12)と。
一閻浮提とは、全世界という意味である。日蓮大聖人の大仏法は、正しく国境、民族を越えて全世界に広宣流布し、全人類を救済せんとの一大宣言であられる。
不思議にも、この世界的宗教の出現と時をおなじくして、世界は活発な文化交流時代に入り、しかも一大変動期を迎えたのである。すなわち、日蓮大聖人が立宗宣言された建長五年は西暦1253年、13世紀の半ばにあたり、大陸においては蒙古軍や十字軍の遠征等があり、海洋においても羅針盤の普及によって東西交流の一大発展期を迎えていた。
13世紀後半、1279年に本門戒壇の大御本尊が建立され、法体の広宣流布は成し遂げられた。この13世紀を通じて、日本において、東洋において、西欧において、世界的に三災七難が競い起こった。そして、化儀の広宣流布に立ち上がった現在においても、まさに三災七難は、世界的規模において巻き起こっている。「三世各別あるべからず」と。七百年前も、現今も、ともに、世界の三災七難が証明となって、日本の広宣流布を推進させ、日本の三災七難が証明となって、全世界へ広宣流布を前進させるものといえよう。
歴史は人間を変え、しかして人間を進める。人間の意志は、必ず歴史を発展させずにはおかない。世界広布の大思想は、実にわれらの強き一念で決定しゆくとの大確信に立って更に勇ましく前進しようではないか、
西欧社会の黎明は、15世紀のルネサンスに始まるといえよう。しかしながら、日本の黎明、東洋の黎明は、それより2世紀も早い、13世紀に、すでに輝かしい第一歩を踏み出していた。これこそ、人間の自由・平等・尊敬をたたえた仏法民主主義、日蓮大聖人の大生命哲学の誕生である。
大聖人仏法の世界的意義
ここで、世界史上由り見た三災七難の様相をとらえ、かつ世界的大変動を論じ、日蓮大聖人の仏法の世界史的意義を明らかにしたい。
国際海洋学研究委員会の会長を務めたことのあるペターソンの研究によると、歴史時代に入ってから、北欧における苛烈な気候は、13世紀から15世紀にかけて起こっているという。アイルランドの古記録によれば、14世紀冬、狼の群れがノルウェーからデンマークへ、海の氷の上を渡って移動したとあり、そのころバルト海は隅から隅まで氷が張りつめていたことが伺われる。南欧でも、寒波がしばしば襲って来て、作物がとれず、飢饉が起こったと記述されている。
また、前述のごとく13世紀という世紀は、欧亜世界の歴史のうえで、かってない恐るべきエネルギーが荒れ狂った時代であった。すなわち蒙古族の勃興、蒙古の欧州遠征、元の建国がそれである。13世紀の初頭、東北アジアの草原でモンゴルを統一したテムジンは、1206年、チンギス汗と称して、不敗の騎馬軍団をもって四方へ侵入、モンゴル兵の行くところ、都市も城も破懐しつくされ、人々は殺戮しつくされた。
かくして、大空の中の一点の黒雲は、みるみるうちに欧亜全大陸をおおう暴風となり、チンギス汗からオゴダイ汗、グユグ汗、モンゲ汗、フビライ汗までのわずかの四・五代間に、アジア、ヨーロッパにまたがる空前絶後の大帝国が建設された。
すなわち、西遼に代わったナイマン部のクチュルクを滅ぼし、その西のトルコ系中央アジアの大国ボラズムを倒し、南ロシア方面を征し、西夏、金、南宋を滅ぼした。さらにアジアにおいては高麗を征服させ、雲南、安南、チャンパ、ビルマ、ジャワ、シャム、スマトラ、インド、チベット、カシミール等が次々と征服された。他方ヨーロッパ遠征軍は、アルメニヤ、ペルシャ、シリアを占領し、ロシアにいたってはモスクワ、キブチャク、キエフを征し、さらにポーランドを破り、モラヴィア、ボヘミヤを経てオーストラリアに攻め込んだ。オーストラリアの首都、音楽の都ウイーンには、現在も700年前の蒙古に備えて築いた城壁が残っているほどである。さらにハンガリーに侵入し、ドナウ左岸等を興廃せしめた。
かくして、シリア以東のイランイラク地方を平定して、イル汗国、シベリア、南ロシア方面にはキプチャン汗国、外モンゴル西部にはオゴタイ汗国、中央アジアにはチャガタイ汗国、という四汗国がつくられた。ヨーロッパ諸民族は、これを黄禍として、恐怖におののき、なすところを知らぬありさまであった。
フビライ干の時は高麗を屈服させ、さらに日本の攻略も試しみた。いわゆる文永の役および弘安の役である。この民族の大移動もまた、あの13世紀から始まる苛烈な気候を受けたからであるともいわれる。
大聖人の御一生と蒙古軍
日蓮大聖人が御誕生の1222年には、蒙古軍がインドに迫っていた、インドは大聖人御誕生の16年前、1206年にはすでにイスラム教によって武力制圧され、仏教は全く尽滅していたのである。さらに、大聖人が16歳で出家された1237年には、蒙古軍は長駆、ロシアのモスクワやキエフを攻略しており、大聖人が立正安国論を上呈された1260年は、欧亜にまたがる大帝国を築いたフビライが即位した年でもあった。しかし、当時、日本一国あげて、蒙古襲来等は、だれ一人として、夢にも思わなかったことであった。
日蓮大聖人は蒙古の世界侵略をもって、一応、一閻浮提の闘諍と申され撰時抄には、次のごとく仰せである。
「今末法に入つて二百余歳・大集経の於我法中・闘諍言訟・白法隠没の時にあたれり仏語まことならば定んで一閻浮提に闘諍起るべき時節なり、伝え聞く漢土は三百六十箇国・二百六十余州はすでに蒙古国に打ちやぶられぬ華洛すでにやぶられて徽宗・欽宗の両帝・北蕃にいけどりにせられて韃靼にして終にかくれさせ給いぬ、徽宗の孫高宗皇帝は長安をせめをとされて田舎の臨安行在府に落ちさせ給いて今に数年が間京を見ず、高麗六百余国も新羅百済等の諸国等も皆大蒙古国の皇帝にせめられぬ、今の日本国の壱岐・対馬並びに九国のごとし闘諍堅固の仏語地に堕ちず、あたかもこれ大海のしをの時をたがへざるがごとし、是をもつて案ずるに大集経の白法隠没の時に次いで法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか」(0264:14)。
西欧の三災七難とキリスト教の堕落
また14世紀から15世紀にかけても、英仏百年戦争、チムール帝国の制覇、オスマントルコのヨ―ロツパ侵入があり、気候の苛烈化と、それにともなう人類社会の変動は、まことに激しいものがあった。その社会の動乱はさらに、飢餓をもたらし、疫病を蔓延させた。
特に14世紀のペストの蔓延は、言語に絶する悲惨なものであった。アジアに発生したこの疫病は、東方通路を経て1346年南ロシアに侵入し、ヨーロッパ各地で暴威をふるい、1356年に終息した。死亡率はきわめて高く、ヨーロッパの総人口の三分の一は死亡したといわれる。
ここで見落としてはならないのは、キリスト教会の乱脈である。キリスト教では、すでに末法にはいった1054年には、ギリシャ、ローマの二教会がまったく分離し、同じ年の7月4日には、星の大爆発があって、恐るべき大異変に人々は不安のどん底に陥っていた。さらに1095年のフランスのクレムリン宗教会議以来、十字軍の遠征が、およそ200年にわたって行われた。日蓮大聖人御誕生の一年前、1221年に十字軍は第五次を終了し、1248年(聖齢27歳)に第六次が起こされ、ついに1270年(聖齢49歳)の第七回をもって終わるのである。このころから、法王権が急速に衰え、法王庁内部でも分裂などがあり、教会は、腐敗堕落し、その乱脈ぶりは、目にあまるものがあった。しかしイスラム文化との接触によって、世界交流の道がひらかれるという結果を招いたのである。
ペストが大流行した背後には、実にこのような教界の腐敗と、それにともなう社会の記風の乱れがあった。当時の教会がいかに堕落していたかは、オランダのエラスムスの「痴愚神礼賛」、イタリアのボッカチオの「デカメロン」、イギリスのチヨーサーが書いた「カンタベリー物語」等に、するどく指摘されているところである。
これ自体、キリスト教がいかに無力であるかの証明である。これ以後、キリスト教は、衰退する一方であり、「アビニョンの幽囚」等の事件とともに、その命脈は断ち切れてしまったといえよう。事実、その後、キリスト教がかってのような隆盛を示したことが一度もなかったではないか。
一方では、13世紀ごろから、新しきヒューマンニズムの胎動があった。やがてこれは文芸復興となり、中世の幕を閉じることになる。実に不思議なことである。真に、自由、平等、尊敬を、きびしき生命哲学をもって説き明かしたのは、仏法である。東洋に、そのなかでも日本に、今まさに真のヒューマンニズムに根ざした、日蓮大聖人の仏法が興隆するときに、西欧でもまたヒューマンニズムの胎動があったことは、偶然の一致か、さもなくば、時のしからしむるか。時とは不思議なものである。人間生命の奥底の流れが時をつくるのか。また国土のリズム、否、大宇宙のそれ自体が時を形成しているのか。
交通・通信の発達と仏法の伝播
世界広布にあたって、重要な要素は、交通、通信の発達である。現在化儀の広宣流布の時を迎えて、全世界の交通、通信の発達は目覚ましいものがあり、全世界は恰も庭先のごとくになり、通信衛星によって、世界の出来事が、テレビ中継されるまでになったのである。しかして、七百年前の法体の広宣流布の時、すでに世界広布の萌芽が芽生えていたことも、また忘れてはならない。
すなわち東西両洋にわたる陸路の交通は、早くから活発であった。漢の時代以前に、すでに中国と西域諸国を結ぶ、天山北道、天山南道が開拓され、仏教東漸と共に、中国とインドや西域諸国との交流は、いよいよ頻繁になった。漢の時代には、ローマとの交流も行われ、いわゆるシルク・ロードも開かれていった。唐の時代は、法華経を根底とする思想が流布し、中国が世界の中心の観を呈するほど隆盛をきわめ、遠くヨーロッパからも、唐の文化を摂取する動きは活発をきわめた。
特に日蓮大聖人の御在世時代にはいると、蒙古軍のヨーロッパ遠征、さらには四汗国の建設等が、東西交流をいよいよ激しくした。蒙古族は欧亜にまたがる大国家をたてたが、全領土を元朝のもとに統一したのではなかった。フビライ汗のころは、中国本土、満州、モンゴルを直轄地、朝鮮、チベット、安南を直属地とし、キプチャク、イル、チャガタイ、オゴタイの四つの汗国は支配地固有の文化を重んずる統治方式をとった。たとえばキプチャク汗国は、南ロシアのトルコ、スラブ民族のうえにたてられたスラブ化、イスラム化し、ヨーロッパ諸国とも交流した。イラン、イラク方面のルイ汗国は東ローマ帝国やローマ教皇とも親しみ、のちにイスラム教に傾き、これらの四汗国はやがて元朝から離反する傾向を示した。
西洋ではかってマケドニアのアレキサンダー大王が、ペルシャ、エジプト、中央アジアから、インドのまで進出し、ヘレニズム文化を生み出した。その後、日蓮大聖人の御在世時代に行われた、十字軍の七次ににわたる遠征は、地中海を中心として、東洋と西洋との交流を生じ、優勢なイスラム文化を摂取したヨーロッパ民族は、やがてルネサンスの黎明を築くことになった。
特に特筆すべきは、日蓮大聖人の御在世時代から、海洋における交通がきわめて活発化したことである。インド、中国の海洋における活躍は、3世紀から10世紀にかけて、かなり名高かった。11・2世紀頃はアラブ人が活躍し、おそくとも1116年には、アラビア人によって磁石による羅針盤が発明されたともいわれる。また1137年に石に彫刻された地図が残っているし、1155年には地図は実際に印刷されていた。これらの発明は、海上交通に大威力を加え、12世紀後半から、東洋の航海学を学んだ西洋の海洋制覇がようやく始まるのである。
1275年すなわち建治元年マルコ・ポーロはローマ法王の書簡をもって、今の開平に到着し、1295年にマルコ・ポーロは中国から航路ヨーロッパに帰った。マルコ・ポーロの「東方見聞録」は初めて日本をヨーロッパに紹介したもので、コロンブスも黄金の国日本というイメージに奮起して、日本をめざして海洋に進出し、アメリカ大陸を発見したものであるという。その後、スペイン人、ポルトガル人等の世界的海洋出進が顕著になった。1405年に中国の鄭和六十ニ隻の船と二万七千人の乗組員の艦隊をもって、ジャワ、シャム、セイロン、インド、ホルムズ等を訪問したことも有名である。これらの海洋における世界交流は、日蓮大聖人の御在世中に始められたことは、誠に意義深いというべきである。
日本に全人類救済の大宗教誕生
次に宗教における闘諍について、キリスト教、イスラム教等については、すでに述べたごとくであるが、仏教はもはや日蓮大聖人の時代に、インド、中国において滅失していたのである。すなわち、インドにおいて、仏教はアソカ大王、カニシカ王、さらにハルシャ王等によって興隆し、平和文化国家を築く基盤となってきたのであるが、ついに8世紀には、イスラム教徒が「コーランか剣か」を合い言葉にインドに侵入し、12世紀には仏教興隆の中心地であったマカダ国も滅ぼされ、1206年、日蓮大聖人出現の16年前に、インドにイスラム帝国が築かれるにいたり、仏教はまったくインドから姿を消したのである。かくしてインドの地は、唯一神アラーを奉ずる低級なイスラム教と、カースト制度をしくインド教に蹂躙され、今日のごとき禍根をいまだに残しているのである。日蓮大聖人は顕仏未来記に「漢土に於て高宗皇帝の時北狄東京を領して今に一百五十余年仏法王法共に尽き了んぬ、漢土の大蔵の中に小乗経は一向之れ無く大乗経は多分之を失す、日本より寂照等少少之を渡す然りと雖も伝持の人無れば猶木石の衣鉢を帯持せるが如し、故に遵式の云く「始西より伝う猶月の生ずるが如し今復東より返る猶日の昇るが如し」等云云、此等の釈の如くんば天竺漢土に於て仏法を失せること勿論なり」(0508:04)と仰せである。
釈尊の「白法隠没」の金言に違わず、いわゆる釈迦仏法は、末法において全く減尽し去ったのである。しかして、末法の救世主、御本仏、日蓮大聖哲の大仏法が、いよいよ出現するのである。同じく顕仏未来記にいわく「月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く」(0508:02)と。そして、法華経の行者、すなわち末法の御本仏は、ただお一人、日本に出現されたのである。
ゆえに、顕仏未来記にまたいわく「五天竺並びに漢土等にも法華経の行者之有るか如何、答えて云く四天下の中に全く二の日無し四海の内豈両主有らんや…仏記に順じて之を勘うるに既に後五百歳の始に相当れり仏法必ず東土の日本より出づべきなり…而るに去ぬる正嘉年中より今年に至るまで或は大地震・或は大天変・宛かも仏陀の生滅の時の如し、当に知るべし仏の如き聖人生れたまわんか」(0508:01)と。
ともあれ私は、この全世界の大変動、ならびに世界交流の姿こそ、大白法興隆の瑞相であり、日蓮大聖人の大仏法が、はじめから、一閻浮提に流布し、全人類を救済すべき生命をもって誕生した大宗教である証拠なりと確信するものである。
「仏法必ず東土の日本より出づべきなり」の未来記をよくよく思い合わすべきである。
安国とは一往は日本、再往は全世界
されば、立正安国といえども、ただ単に日本一国にとどまるものではない。立正安国を仏法と王法に配するならば、立正とは仏法であり、安国とは王法になる。さらに立正の正とは、三大秘法と訳し、安国とは、一往は日本国、再往は一閻浮提である。
日寬上人の安国論文段にいわく。「日我いわく『安国とは一閻浮提に通ずべし、しかも本門弘通の最初は日本国なるべし、本門日輪の行度これを思え』」と。
この御文によれば、立正安国とは、世界の広宣流布であり、そのためには、まず弘通の順序として、日本の、すなわち、世界の真実の平和達成のためには、まず、日本の広宣流布を達成せねばならないとの仰せである。
さらに立正安国論の最後に「三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん」(0032:15)とある。
これについて日寬上人は、同じく安国論文段に「文はただ日本および現在にあり、意は閻浮および未来に通ずべし」と仰せである。
すなわち、大聖人のお心は、日本だけの立正安国ではなく、全世界の立正安国である。また、現在すなわち鎌倉時代の当時の立正安国ではなく、七百年後の今日、さらに未来永劫にわたって変わらざる立正安国の方程式なりと仰せである。
また、諸法実相抄に「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや」(1360:09)と。
これまた、大聖人御在世当時の活動、弘通の方程式が、そのまま未来永劫に伝えられていく、との意である。われわれの今日の実践活動が、大聖人の仰せそのままであるとともに、今日の姿が、そのまま未来に、全世界に行き渡っていくことは、いよいよ明瞭である。
これらの御文に照らすならば、まさしく創価学会の今日の活動は、大聖人の御精神にかない、大宇宙のリズムに合致した、新時代の潮流であり、現今の不幸を絶滅し、この地上に絶対の平和楽土を出現する無限の力である。世界的、否、宇宙大の生命をもった日蓮大聖人の仏法は、ここに21世紀を迎えようとしている今日において、われわれの手によって、その開花が見事に成就されようとしているのである。
第一章(災難の由来を問う 2)
当時の宗教界
当時の宗教事情は、平安末期から急速に深まりゆく世相の変化に、人々は生きる気力を失い、ただ法然の始めた阿弥陀仏の称名にはかない来世の浄土を期待していた。とりわけ、生きる希望を失った没落貴族たちは、ひとえにこの浄土宗に、巨万の富を与え、むなしい祈りをささげていた。また常の習いであるが、天変地夭の激しくなるにつれ、迷信が横行し、真言の加持祈祷が流行した。
また、当時の仏教界の中心であった天台宗の腐敗、堕落も甚だしかった。伝教大師の時、桓武天皇の前で、南都六宗を打ち破り、比叡山に迹門の戒壇を建立し、輝かしい業績を残したのである。だが、第三代、第四代の慈覚、智証が、本師伝教の精神に背き、真言を取り入れ、いたずらに謗法を重ねて以来、天台宗は国家権力と結びつき、堕落してしまった。もはや叡山は、本当の意味での仏教界の中心ではなくなった。まさに腐敗と混乱の世相の反映であり、泥沼のごとき政争の場であった。
院政期にはいると、座主の地位をめぐる門閥の争いは、激しさを増していった。そして座主の地位をめぐる争いは、直接、政治の動きと結びついた。たとえば、明雲は平氏の力を背景にして座主の地位を得たが、その後、政治の動揺にともなって座主を追われ、また復帰した。寿永二年(1183)には、彼は頼朝調伏のための法住寺に参籠中、義仲の軍にからめとられたうえ、首を斬られたことは、大聖人の御書に詳しい。典型的な真言亡国の還著於本人の現証である。
上層部がこのような状態である。いわんや、一般にいたっては、興学の記風などさらになく、堂衆や寺領の兵士とともにただ暴徒と化していたのである。
特に延暦寺の僧兵と法相宗の興福寺の僧兵との争いは激烈であった。彼らは、互いに寺院を放火しあい、また殺害しあった。時には、彼らの希望が叶えられないと、寺の鎮守神の神輿や神木を奉じて大挙入京し、朝廷や法皇に威嚇をもって直訴した。その度に、たえず血なまぐさい殺戮が繰り返された。
永久元年(1113)の永久の強訴の時に、衆徒の鎮圧を祈願した、石清水八幡宮の宣命には、当時の僧兵の実態がえがかれている。
「ここに頃年以来、神人は濫悪を先となし僧侶は貪婪を本となして、あるいは公私の田地を横領し、あるいは上下の財物を掠め取る。京畿を論ぜず、辺境をいとわず、党を結び群を成して、城をおおい郭に溢れる。ただ人民を滅亡するのみに非ず、兼ねて同侶同伴も鎮に合戦を成す。学をなげうって刀兵を横え、袈裟を脱ぎて甲冑を被る。梵宇を焼失し房舎を破壊す。弓矢を携えて左右の友とし、矢石を以て朝夕の玩びとす。勉学の室、これがために戦場と変じ、修行の場所、それによりて軍陣と成りたり」
まことに大集経の「闘諍言訟・白法隠没」そのままの様相ではないか。
僧侶の堕落
また、僧侶一般についても、あまりにも堕落していた。大宝律令の定めるところによると、僧侶は農民にとっていちばん苦しい課役を免除されていた。そのうえ僧侶になるには身分的制約もなかった。したがって、農民のなかには、僧侶になりたがる者が多かった。律令制がきびしいころは、一定の修行を積んで、国家の公認を得た者に限って出家が許され、国家の公認を得ない者は、私度僧といわれ、厳重に取締られた。だが、平安末期よりその体制はくずれ、俄坊主がふえてきた。その質の低下は、恐ろしいほどであった。0914年、三善清行が天皇に奉った「意見封事十二箇条」には「諸寺の年分度者および臨時の度者は、年間、二、三百人もありますが、その半分以上は邪濫の輩です。また諸国の百姓は課役を逃れ、租・調をのがれるために、自分で髪を剃りおとし、法服をまとっている者がこのごろ多くて、天下の三分の二は皆禿首の者です」また「かれらはみな家に妻子をたくわえ、口には生臭いものを食らい、形は沙門に似て心は屠殺人のごとし」と当時の僧侶の実態が述べられている。
しかも寺院には貴族から寄進された多くの所領があり、貴族から絶えず祈祷の依頼があり、豊かな布施が集まった。寺院内での生活は楽であり、花やかであった。彼らは、生活のために僧侶となり、いきおい寺院に集まっていた。生活の利害関係にのみ鋭敏となり、やがて利害と利害の衝突は、激しい葛藤を生み、もはや僧侶は餓鬼界であり、修羅界であり、時には阿鼻叫喚で明け暮れた。
涅槃経に「持律に似像して少し経を読誦し飲食を貪嗜して、其の身を長養し袈裟を著すと雖も猶猟師の細めに視て徐かに行くが如く猫の鼠を伺うが如し、常に是の言を唱えん我羅漢を得たりと外には賢善を現し内には貧嫉を懐く唖法を受けたる婆羅門等の如し、実には沙門に非ずして沙門の像を現じ邪見熾盛にして正法を誹謗せん」と末法の比丘の姿を予言したが、まさに寸分の狂いもなく符合していることに驚嘆せざるをえない。
僧侶と国家権力のいまわしい結びつきも、いよいよ盛んになってきた。それは災難を除くために為政者が、ただ僧侶の祈祷にたよるしかなかったために、とくに僧侶を重んじたことにも原因がある。また僧侶のほうも、民衆の無智につけこみ、外面では聖人のごとくふるまい、名声を得、また、巧みに権力者に取り入った。たとえば、禅宗の開祖として、禅宗の人々からもてはやされている栄西は、みずから大師の称号を得ようとして、賄賂まで使って運動し、結局は権僧正にしかなれなかったのである。慈円の「愚管抄」藤原定家の日記等にそのことが述べられている。
さらには、念仏者の念阿、禅宗の道隆、律宗の良観等が政治権力を動かしわが世の春を謳歌していた。この時、大聖人が、唯一最高の正法を唱え、邪宗教の根源を明かし、四箇の格言を宣言されるや、彼らは、権力者と結託し権力を動かし、日蓮大聖人を迫害したのである。特に極楽寺良観などは、その最たるものであった。松葉ヶ谷の草庵の焼き打ち、伊豆の流罪を行った極楽寺入道重時の背後にもやはり良観の讒言があり、また、大聖人を竜の口の刑場に行かしめたのも、良観が平左衛門尉を動かしたからであった。
念仏への徹底破折
日蓮大聖人は本抄において、念仏宗を特に破折された。それは、当時、念仏者が最もひろまっていたからであり、しかもその害毒が最も人々の生命をむしばんでいたからである。昔から鎌倉武士は心身の鍛錬と実践を重んじたので、禅の気風とマッチし、禅宗が鎌倉武士におおいに支持されたかのように説かれているが、これは誤りである。たしかに建長寺道隆と北条時頼との結びつきもあって、時頼以来、武士のなかには参禅する者が、かなりあったことも事実である。だが、全体としては鎌倉武士もまた、ほとんど念仏を信じたのであり、鎌倉幕府滅亡のときも、たくさんの武士が、最後に念仏を唱えて死んでいったと伝えられている。
大聖人は、浄土宗破折に焦点をしぼられ、これにいっさいの邪宗破折を含められたのであった。安国論をうかつに通読すれば、法然という悪僧が選択集を作って世間の人々を迷わしめ、今や念仏の哀音が一国に流布して、まさに亡国の兆があらわれたという点から、念仏を徹定的に破折されていると拝されるが、第一段において明らかにされているごとく、あらゆる宗教、あらゆる神々、あらゆる政治や道徳などが、すべて邪法の基としているがゆえに、災難が起こるのであるとして、これらの邪法を禁止して、正法を立ててこそ初めて国家は安泰になるのであると説かれている。
時代要求の大白法
以上を結論すれば、当時の宗教界は、まさしく未曾有の混乱期にあったといえよう。人々の心は、次第に腐敗し形式化した既成の貴族仏教から離れ、民衆のなかに根ざした力ある宗教をもとめつつあった。だが、民衆の宗教に対する無智につけこみ、幾多の邪宗教、迷信が横行した。とりわけ、大聖人の立正安国論に「此の一凶」と指摘されたところの念仏宗が、疫病のごとく蔓延した。この未曾有の宗教の混乱こそ、民衆の既成の権威に対する動執生疑であり、新しき偉大なる宗教を求める人々の心の反映なのである。
法華経には大正法樹立され、流布する時は、このような宗教界の混乱期であると予言している。法華経第七薬王品にいわく「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」と。すなわち白法隠没する末法において、大正法が広宣流布するのである、と。同安楽行品にいわく「後の末世の法滅せんと欲せん時」と。これらの類文は数多くあり、枚挙にいとまがない。これは経文ばかりでない。天台大師は「後の五百歳遠く妙道に沾わん」と述べ、妙楽大師も「末法の初め冥利無きにあらず」と断じ、伝教大師もまた「正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り法華一乗の機今正しく是れ其の時なり、何を以て知ることを得る、安楽行品に云く末世法滅の時なり」と叫んでいる。
このように、釈尊、天台、妙楽、伝教の先哲が、ことごとく、絶対の確信をもって、第五の五百歳闘諍堅固の時代に、大白法が流布することを述べているのである。
されば、日蓮大聖人の出現は、偶然ではなく、民衆の渇仰であり、時代の要求であり、歴史の必然なのである。
しかして、それから七百年たった今日もまた、大聖人の時代よりもはるかに混乱せる宗教界の現状である。現在、日本における宗教法人の数は仏教のほかに、神道、キリスト教、その他の諸宗教を含めて約18万、宗教人口は約160,000,000(平成19年文科省によれば220,000,000)といわれている。一人で二つ以上の宗教をもっている人がいかに多いかを物語っている。
また、念仏、禅、真言の既成宗教は、形骸化し、宗教としての残骸をとどめているに過ぎない。僧侶とは名ばかりで、信心もなければ、修行もない。一切衆生を救うべき慈悲とか、智慧などまったくない。ただ私利私欲にふけり、ただ葬式と法事と、墓場の番人をやりながら細々と生計を立てている状態である。まことに、七百年前の世相と符合しているではないか。
戦後、迷信やいかがわしい宗教が氾濫した。もともと人間の心のなかには、意識するとしないにかかわらず、物質的、精神的悩みを解決したいという本然的な願い、欲求がある。これは人間の幸福を求める自然の心の発露である。これが、あるときは人間の弱点ともなり、また、あるときは人間のたゆまざる努力と研鑽となってあらわれるのである。人々が、迷信や邪教にとびつくのも、悩みを解決したい、幸福になりたいという素朴な感情からである。だが、いかんせん、宗教に対する無智は宗教の正邪、善悪も分かたず、邪宗教にとびつき、生命をむしばまれ、いぜんよりも不幸に落ち込んでいくのである。
かくして、既成宗教の廃退と新興宗教の簇生生という現象は、七百年前と今日と、不思議にも一致しているかくれなき事実である。七百年前には、混乱と濁世のなかから蓮華の汚泥より生ずるごとく、大聖人の大仏法の出現があった。今日もまた、混乱の極みに達した現代の宗教界を覚醒すべく、宗教界ののろしを、わが創価学会があげたのである。
是れ何なる禍に依り是れ何なる誤りに由るや
この旅客の質問こそ、当時の心ある指導者のいつわらざる心情であり、この解決こそ、立正安国論の骨髄をなすものである。そしてまた、今日においても多くの人が、否厳密にいえば、あらゆる人がなげかける疑問なのである。
病気を癒すのに、その原因、本体を解明し、そこから正しい処方に従って治療を施さねばならないことは誰でも知っているし、実践していることである。
しかるに、社会、国家をおかす災厄に対しては、往々に、避けることのできないのも、除去することのできないものとして、抜本的対策が立てられない場合が多い。むしろ、ほとんどの場合、災害に襲われたあとで、その場をつくろうのがせいいっぱいという姿ではないだろうか。
いやしくも、一つの社会、一つの国家の幸福と平和について責任を持った指導者であるならば、それを脅かし破壊する災害に対して根本的に究明すべきであろう。
いわんや、民衆の苦しみをわが苦悩とし、社会の全体をわが身と自覚することのできぬ、私利私欲、党利党略の徒は、指導者たる資格がないと知るべきである。
防災技術と災害
ある人は、当時の災害が、あれほど猛威をふるった原因として、科学技術の未発達をあげている。私もまったくそれには異論はない。たとえば旱魃の被害においては、かっての農業技術が、水量豊かなる大河川を灌漑に利用するにいたらず、耕地は大部分が谷川や溜池による劣弱な田畑でしかなかった。したがって、ひとたび早天が続けば稲はたちどころに枯れ、大飢饉となり、人々に甚大な被害を与えた。また、そのうえ、当時、交通が不便で輸送力がなく、豊作の地から飢饉の地に食量を円滑に運ぶことができなかった。これが人々に決定的な打撃を与えたのである。
飢饉の場合は、たしかに交通が発達し、灌漑設備もあり、貯蔵力もある今日、その被害を、きわめて小さくすることはできる。ただし、それすら、もし悪政で、戦争に予算の大部分が費やされ、災害対策に本腰をいれなければ、きわめて大きい被害をもたらすことを忘れるべきではない。
のちに述べるがごとく、20世紀の今日でも、インド、ソ連、中国においてすら相当数の飢饉による餓死者が出ているという惨事が起きている。今日のベトナムでも焦土作戦により飢饉が深まっている。あまりにも悲惨な現実をみるにつけ、かっては太平洋戦争中、我々はいかに飢餓に苦しんだかという事実を思い起こすにつけ、断じてその惨禍を遠くに考えてはならないと思うのである。さらに、現代における世界的な食料不足は、戦争や人口問題と関連して、きわめて深刻であり、飢餓は去ったというよりも、むしろますます広がりゆく感すらする。地震の場合は、むしろ今日のほうが危険である。大正12年9月の関東大震災では、全壊家屋12万8千戸あまり、半壊家屋12万6千戸あまりに達し、圧死や焼死した人、9万9千名あまり、傷者10万3千以上、行方不明4万8千名あまりに達するという、空前のものであった。
(ちなみに1995:1:17日阪神・淡路大震災の被害は死者:6,434名行方不明者:3名 負傷者:43,792名避難人数30万名以上、住家被害全壊104,906棟、半壊144,274棟、全半壊合計249,180棟(約46万世帯)、一部損壊390,506棟、 火災被害 : 住家全焼6,148棟、全焼損(非住家・住家共)合計7,483棟、罹災世帯9,017世帯 )
(東日本大地震2011:3:11日:死者15,894人『宮城県9,541人、岩手県4,673人、福島県1,613人、茨城県24人、千葉県21人、東京都7人、栃木県4人、神奈川県4人、青森県3人、山形県2人、群馬県1人、北海道1人』、行方不明者2,562人)
ある気象台長のA博士は、次のように語っている。
「大正の関東大震災は、正午ごろ起こった大地震で、あれだけの大事件となったのである。もし、あの大地震が夜中に起こったとしたら、災害は当然倍加したであろう。大地震となると必ず停電と断水が起こる、真っ暗のなかで逃げ惑うのは、文化生活になれた現在のほうが一層危険である…こう考えてくると、震災に対する対策はできていないのである。徳川時代よりも、また近くは大正時代よりも、現在では一段と恐ろしいものになってきている」
また、飢饉に役立つダムもひとたびそれが決壊すれば、大洪水をもたらす危険がある。昭和34年(1959)にはフランスのマルパッセ・ダムが、昭和37年(1962)にも韓国最大の灌漑用ダムの一つが決壊している。もし、大地震によって決壊すれば、まさに決定的な打撃を与えることであろう。また、東京のように密集し低地の多い地域に、再び関東大震災のような大地震が起き、それが津波となったら、その悲劇はいかばありであろうか。
風災害に対しても、いまだにその対策の見通しは、決して明るいものではない。特に、東京湾、伊勢湾、大阪湾、有明海および周防灘で頻発する高潮の被害は、絶大である。
昭和34年(1959)9月26日の夜、紀伊半島から上陸した伊勢湾台風は、中部日本に大風水害をもたらし、とりわけ、中京地区の海岸低地に驚くべき高潮が起こり、有史以来最大の水害となり、死者、行くえ不明を合わせて5098名の犠牲者を出した。
それでは、疫病についてはどうか。たしかに、今日、医学の発達により、伝染病による死亡率はぐんぐん減っている。これは大きな成果であり、賞讃すべきことである。だが、病気それ自体はいっこうに減っていないのである。それそころか、薬品に対する細菌の耐性ができ、また多くの薬品投与のために、からだ自体が薬負けしてしまうという新しい事実に直面した。また農薬による奇病、さらに工場の煤煙による病気も増えている。1952年ロンドンでは、12月4日から9日まで続いたスモックで4000名の死者を出し、1962年12月3日から7日までも750名の死者を出している。死因の大半は気管、心臓障害によるもので、工場の煙突や暖房用の家庭の石炭に含まれる亜硫酸ガスが冬の平均の10倍以上になって、この惨事を巻き起こしたのだった。また、工場から流される汚物によって、多くの原因不明の病気が起こっていることも事実である。サリドマイドの悲劇はいうに及ばす、今日でも、なお、薬品の中には、しばしばかえって有害をもたらすものすらあることも残念ながら事実である。
しかもこのような、薬品の検査等の医療機関の問題は、現在山積し、未解決のままになっている。なお、原水爆の出現による放射能障害は、文明病の最たるものであり、これにより人類は滅亡すらしかねない。さらに、ガン、また遺伝子病、神経系統の病気等にいたっては、現代医学ではいまだまったく無力に等しい。されば、現代の医学者をして、原因不明で治癒できぬ病気があまりにも多いことを嘆かしめ、また「医学は、今のところ、毛一本生えさせることもできず、にきびのあとをきれいにすることすらできない」とまでいわしめているのである。
さらに現代医学が、今や大きな壁にぶつかっていることは、見逃すことが出来ない事実のようだ。生命を、部分である器官の総合とし、生命全体を考えることなく、また病気を普遍化させるだけで、個人の特殊性を無視して治療にあたるといった態度が、むしろ医学を停滞させ、どうしようもない泥沼に堕ち込ませてしまうのではないかということも心配される。所詮、生命に対する正しい認識なき医学は、偏狭なる、むしろ有害な術に堕すことは必然である。
科学技術の限界
以上のように、今日もなお災害なくならず、否、むしろ新しき災害に直面しているともいえよう。ましてや、戦争等の劣悪な政治のために災害対策を軽視すれば、災害はその虚をついて暴威をふるうことであろう。しかも、その危機にいつもさらされているのが、地球上の現状である。
また、大宇宙の運行からみれば、これらの防災技術は、まことに微々たる力でしかない。今日、物理学等の科学の偉大なる進歩によって、幾多の発見がなされてきた。このままいけば、一切わかるように思う人がいるかもしれない。だが、科学者はそのような甘い考えは決してもっていない。科学の発達によって知ったことは、ますます宇宙の不思議がひろまるばかりであることだ。
されば、これからますます科学技術が発達し、人間の英知と努力で、災害を克服していくだろう。それは、われわれの悲願であり、願望である。だが、それによってわかることは、いつも新しい災害にぶつかるという厳粛な事実である。しかも、災害はいつも意表をついて起き、のちになってさまざまな対策が論じられ、しばらくして、忙しさにまぎれて、忘れ去られてしまう悪循環にある。
A博士は次のようにも述べている。「私たちは科学の進歩につれて、災害は克服できるかの如き錯覚を持つ。しかしこれは大きな間違いである。防災科学の進歩によって、ふるい型の災害は漸次軽減されていく。かって人間の住まなかった河海縁辺の低地にも、その土地の利用価値の故に、工場や家を建てたりするから、昔なかったような水害が発生する。新しい技術革新の風潮にのって、現れた構築物が、思いもうけぬ地震にあって、脆い実態をさらけ出す。…災害はいつの世になってもなくならず、繰り返しおこる。しかも人間は絶えず災害を克服しようと努力する。したがって、既存のかたの災害は軽減できるが、せちがらい社会にはまた新しい型の異常災害がおこる。そして、時としては、新しい型の災害が、最も猛威をふるうのである」。
また、今日の科学技術は、必ずしも平和のために使われず、往々にして、いや、大部分が、戦争のために使われてきたし、また使用されつつある。悲しむべき現実ではないか。しかも、戦争それ自体が大いなる災害ではないか。されば、「是れ何なる禍により是れ何なる誤りに由るや」700年前の疑問は、時代移り、今日に至るも、依然としてあらゆる人々の疑問なのである。
結論からいえば、この解決は、真実に、正しき生命観、社会観、世界観、宇宙観を説ききった日蓮大聖人の大生命哲学による以外に絶対にないということだ。私は、ここでなにも科学技術の発達を軽視しているわけでは絶対にない。いや、人類に対する貢献は絶賛すべきである。だが、科学技術だけで災害を克服できるというのは、科学を知らない人の発言である。私は、この科学技術を真に生かすためにも、また科学技術を越えた問題については、さらにこれから、一念三千の生命哲学、依正不二の理論等で解明することにして、本章では、科学技術だけで災害はなくならないと述べるにとどめておく。
悪政と災害
次に、災害を防ぐためには、政治を正し、災害対策に万全を期すことが大事であることを述べる人がいる。これも、私のもっともとするところであり、否、それだからこそ、私は、政治は大衆福祉をめざすものでなければならぬと主張しているのでる。
災害と政治の関係をさらにみていくならば、次のことは、歴史のうえからはっきりいえることである。それは悪政の時に、最も災難が猛威をふるうということである。すなわち、指導者が民衆を忘れ、自己保身にやっきとなり、互いに政争に明け暮れ、修羅闘諍を事としているときに、災害が最も大きくあらわれるという厳然たる事実である。または、独裁的な指導者の気ままな感情や、人間生命を蔑視する偏狭な、そして冷酷なる思想が、悪政をもたらし、そのはてに大災害に見舞われるという冷厳なる実相である。
大聖人の時代
たとえば文永十年(1273)ごろから、諸国に飢饉が起こり、さらに建治三年(1277)の春以来、全国的に疫病が蔓延し、弘安元年(1278)に至るも猛威をふるっていた時代がある。
このころの悲惨なようすを、日蓮大聖人の御書には、次のように描写されている。
「日本国数年の間打ち続きけかちゆきて衣食たへ・畜るひをば食いつくし・結句人をくらう者出来して或は死人或は小児或は病人等の肉を裂取て魚鹿等に加へて売りしかば人是を買いくへり此の国存の外に大悪鬼となれり、又去年の春より今年の二月中旬まで疫病国に充満す、十家に五家・百家に五十家皆やみ死し或は身はやまねども心は大苦に値へりやむ者よりも怖し、たまたま生残たれども或は影の如くそいし子もなく眼の如く面をならべし夫婦もなく・天地の如く憑し父母もをはせず生きても何にかせん・心あらん人人争か世を厭はざらん、三界無安とは仏説き給て候へども法に過ぎて見え候」(1389:04、松野殿御返事)。
「去今年は大えき此の国にをこりて人の死ぬ事大風に木のたうれ大雪に草のおるるがごとし・一人ものこるべしともみへず候いき、しかれども又今年の寒温時にしたがひて・五穀は田畠にみち草木はやさんにおひふさがりて尭舜の代のごとく成劫のはじめかとみへて候いしほどに・八月九月の大雨大風に日本一同に不熟ゆきてのこれる万民冬をすごしがたし、去ぬる寛喜・正嘉にもこえ来らん三災にも・おとらざるか、自界叛逆して盗賊国に充満し他界きそいて合戦に心をつひやす、民の心不孝にして父母を見る事他人のごとく・僧尼は邪見にして狗犬とエン猴とのあへるがごとし、慈悲なければ天も此の国をまほらず・邪見なれば三宝にも・すてられたり、又疫病もしばらくは・やみてみえしかども・鬼神かへり入るかのゆへに・北国も東国も西国も南国も一同にやみなげくよしきこへ候」(1552:02、上野殿御返事)。
この文にあらわれたるがごとく、その時の三災七難は、まことに苛烈であった。だが、それとともに、当時の政情がいかに不安なものであったかを見落としてはならない。この二つの御文のうち、あとのほうに「自界叛逆して盗賊国に充満し他界きそいて合戦に心をつひやす」とあるが、このわずかな文のなかに、当時の政情が伺えるとともに、災害の根源があますところなく説かれている。「自界叛逆」とは、国のなかでの戦争であり、「他界きそひて」とは、他国との戦争である。
文永9年(1277)2月、執権時宗の異母兄の時輔が、自分の正妻の子でないゆえをもって、家督を時宗にとられたのをうらみ、ひそかに謀叛を企てたのが発覚し、合戦となったのである。時宗は、すぐさま、大蔵頼秀らを遣わし、名越時章らを倒し、ついでに北条義時と合戦させ、これを滅ぼした。この事件は、人々の心に深刻な動揺を与えた。執権とその兄が争い合う醜い姿が、そのまま世相の鏡に映し出されたのである。この時の世情は、御書に次のように出ている。
「相州鎌倉より北国佐渡の国.其の中間・一千余里に及べり、山海はるかに.へだて山は峨峨.海は涛涛・風雨.時にしたがふ事なし、山賊.海賊・充満せり、宿宿とまり・とまり・民の心・虎のごとし.犬のごとし、現身に三悪道の苦をふるか、其の上当世は世乱れ去年より謀叛の者・国に充満し今年二月十一日合戦、其れより今五月のすゑ・いまだ世間安穏ならず」(1217:10、日妙聖人御書) まことに「自界叛逆して盗賊国に充満し」の世情いかばかりであったろうか。今日においても、「自界叛逆」が民の心を疲弊させ、社会悪をもたらしていくことは、一貫して変わらぬ方程式である。
さらに「他界きそいて合戦に心をつひやす」とは、蒙古軍の攻撃に備えて、幕府が大わらわとなり、九州に大軍を派遣することでいっぱであり、内政に力を注ぐ余力すらなかったことを示すものである。今日もまた同様である。それは平和産業を犠牲にし、軍需産業に総力をあげた、あの日本の国の味わった苦い体験にせよ、またスターリン治下のソビエトにおける極端な軍需産業のための、数次にわたる五カ年計画にもせよ、如実にそのことを示しているではないか。
かくして悪政のために、災害が猛然と日本全国に覆い、民衆を塗炭の苦しみにおいやったことは、当時の明らかなる現象である。
だが、なぜこのような劣悪なる政治にならざるをえなかったか。それを解決すべき道はなかったか。所詮、貪・瞋・癡の三毒に染められた人々の醜い権力争い、自らの保身にやっきとなり、大勢の民衆を忘れる愚かな姿ではなかったか。われわれは、その政治腐敗の現象のみにとらわれてはならない。その底流こそ大事であり、その源こそ窮めねばならないではないか。
室町中期・後期
また、室町の中期、将軍足利義政の時代にはいって、悪政につぐ悪政、暴政つぐ暴政に呼応し、災害は続出し、いたるところで痛ましい惨事が繰り広げられた。
長禄3年(1459)は、年のはじめから天候が異様であり、3月の田植え準備期にはまったく雨が降らず、そのうえ太陽が二つ見えたり、妖星が月を侵すといった異変があり、人心は動揺した。九月には大暴風雨が襲来、賀茂川が大氾濫し、京中の溺死者はおびただしい数となった。そのため京都への米の輸送がとまり、米値が暴騰し餓死者が続出、一揆も盛んに起き始めた。長禄4年(1460)春から初夏にかけては日照りが続き、田植え時に水不足、五5月末から一転してひどい長雨、異常低温、夏でも冬着を装う状態、近江では琵琶湖の氾濫のため水田が冠水、さらに悪疫が生じた。さらに秋となり大風、また天をも暗くする猛烈な蝗の群れに、稲が非常な痛手を受ける。
やがて寬正2年(1461)正月から食料不足が全国的となり、2月に入り頂点に達した。正月から2月の終わりまで、京都の餓死者は82000に達したという。また、一連の飢餓による死人の数は、庶民の2/3におよぶと記述されている。ために、賀茂川が死体で埋まり、水の流れはふさがれ、屍臭はあたりに満ちたという。そのうえ、悪疫が流行し、飢饉とあいまって、毎日、300から6・700と次々死んでいったという。
京中はもとより国中が飢餓にせめられ、苦悩のどん底にあえいでいる時、幕府では大黒柱の畠山家で義就・政長の争いがあり、将軍の義政は、今参の局という貪欲で嫉妬ぶかい側室にふりまわされ、そのなすがままになり、あるいは、土木工事等で民衆をいためつけ、また、公家・武家の貴人たちと、花やかな行列を連ねては、花を見、遊楽にふけったのである。もはや、これでは政治家として失格者であるのみならず、人間としての失格者ではないか。
すでに足利将軍の権威が地に落ちた天文9年(1540)にも大きな飢饉があった。天文年間といえば、義請が十二代将軍を継承したが、のちに権臣に逐われるといった時勢であり、世はまったく乱れ、この動乱のさなかの天文8年(1539)9年には、風水害のための飢饉がおこり、おびただしい死者が出ている。民衆の塗炭の苦しみは想像にあまりある。
江戸末期
さらに江戸末期にいても、幕末の三大飢饉といわれる、天明の飢饉(1782~87)、天保の飢饉(1833~39)慶応・明治初期の飢饉(1866~69)も、江戸幕府の体制が崩壊し、指導者の横暴が過酷をきわめたときに起きたのである。西村真琴、吉川一郎編の「日本凶荒史孝」には、天明の飢饉については「弘前・八戸・盛岡の諸領最も凄惨を極め、餓苦し耐へずして人相食むに至る。超えて四年、この歳七八部の作、ところにより豊作の聞ありしも麦収を待つに能わず餓死するもの多く、去年九月より六月まで、津軽一郡のみにて87000余と数えられ流亡の民また少からず」等とあり、天保の飢饉については「東北諸国は天保初年より頻りに餓死し、この後も猶やまず、ために餓莩流民極めて多く、四年より十年に至る七ヵ年、津軽一郡のみの死者35600余、他郷に流離するもの47000余人を数えたり」とあり、慶応・明治初期の飢饉についても「慶応二年、この夏陰涼・秋風水の災ありて諸国登らず、これより先、安政六年我が五国通商以降国内の需給円滑ならず。加ふるに維新の変革を前にして天下じょう乱、ために穀路は閉ぢ、商旅通ぜず、去秋より諸物の価謄貴す。幕府仍ち酒造の量を減じ、或は外米の輸入を許可し以てその調整を計りたるも高騰、この秋に至って殆んど底止するころを知らず。庶民大いに飢窮す」等と、いずれも、その苛烈なる災害状況を伝えている。
飢饉だけでなく、大地震も猛威をふるった。嘉永七年(1854)関東大震災に匹敵する大地震が、東海道、東山道、南海道に渡って起こり、倒壊流失家屋は83000戸、焼失家屋も300戸ほどあり、死者が10000名にも達した。その余震がさめやらぬ翌10月5日、再び関東大震災に比するほどの大地震が、伊勢湾から九州東部かけて起こり、特に土佐、阿波、紀伊の三国がひどかった。さらに安政2年10月2日にも大地震があり、江戸市中の死者は7000人に達したという。これを世に安政の三大地震という。弘化四年(1847)3月24日の夜、善光寺で阿弥陀如来の御開帳があり、諸国から信者が多数集まってにぎわっていたときに、突如として大地震が起こり、出火が各所にあり、死者が12000という惨状を呈した。
このほか、災害の例は数を知らず、コレラの大流行、火山の重なる大爆発、およそ明和、安永、天明、寛政以後、明治の初年に至るまで天下に起こった天変災厄は、わが国有史以来、恐らく絶無であろう。百数十か所にわたる百姓一揆、幕末の惨劇、黒船到来等による国内の騒乱、さらに戦乱、政変等もはや書き尽くすすべもないほどである。
軍閥時代の中国とスターリン治下のソ連
さらに、世界的には、20世紀にはいった今日においても、想像もおよばないような大災害に見舞われている事実がある。
たとえば中国、清朝滅亡後、軍閥が専横をふるい、互いに争い合っていた。そのため天災に対する対策は、まったく立てることができず、天災の被害は連年、まことに目をおおうような惨状であった。
またスターリン治下のソ連においては、農業の集団化が強制的に行われ、それには多大の犠牲がともなった。1929年から32年に、少なくとも500万の農民がクラークという烙印を押され、財産は全部とられ、丸裸にされたうえ、食っていくすべも奪われた。この時に、約100万の農民が死んでいった。つづいて1933年の飢饉の犠牲者もまた実に多かった。どれくらい多くの農民が死んでいったか、300万から1000万まで、いろいろ計算されているが、いずれにせよ、おびただしい数である。さればもはや、人間として認められるのではない、あたかも虫けらのごとき扱いを受けたのである。
風水害でも、旱魃でも、震災でも、人間が住んでおれば起こることなのである。砂漠や大洋の真ん中の、人の住んでいないところで、ひどい暴風雨があったとしても、災害は決して起きない。すなわち、災害は人間社会があればこそ問題になるのである。さらに、今日においては、人がわざわざ作っているむきも多い。いずれにしても、人間社会のあり方が、いかに災害に大きく響くかは当然の事である。
天災も所詮、人災である。もし指導者が偉大であり、民衆が有智の団結をしていくならば、いかなる天災も、人間の叡智が解決することができるのである。
現代の最大の災害
しかして、戸田先生が「今日においては三災七難が逆次に出ている」といわれたごとく、七難のうちでは他国侵逼難、自界叛逆難、三災のうちでは兵革の災いが先んじ、そのなかに他の難が起こっている観がある。
すなわち、今世紀に経験した最大の戦争は、大二次世界大戦であった。この大戦で、もっともひどい被害を蒙ったのは、一般市民であった。第一次世界大戦では、一般市民の死者は、50万であったのに対し、第二次大戦では実に2000万人から3000万人と推定されている。空襲、集団虐殺、パルチザン戦、流浪などによる死者がその内容である。軍人の死者は、前大戦の1000万に対して、今回は1600万人である。しかもこのなかには、日中戦争における中国と日本の死者は含まれていない。
さらに終戦後の惨状も言語に絶するものであった。ソ連も、イギリスも、ドイツ、フランスでも、その他直接戦場となった国々は焦土と化し、幾多の悲惨な現実が展開された。
実にこの戦争で、日本国および日本国民がはらった儀牲は測り知れなかった。この戦争による死亡は軍民合わせて約300万、当時日本の全世帯のうち五世帯にほぼ一人の割り合いで、国民は肉親を失ったのである。これは空前のことであり、37年前の日露戦争の死亡者とは、ケタはずれの犠牲であった。
戦後の苦悩も言語に絶するものがあった。経済的な危機、食べる物も着る物も、住まいもなく、路頭をさまよう人々の群、思想の対立の激化、血で血を洗う闘争の激化等々、これらをただ単に過去の悪夢であるとかたずけておいてよいのだろうか。
太平洋戦争の無残な姿は、人々の心の奥底に、終生忘れがたい傷跡を残しているはずである。
しかるに今日、われわれは、なんと泰平な生活にあることであろうか。「もはや戦後ではない」という言葉が、いまや常識化し、われわれの周辺には戦争の恐怖を叫ぶあの当時の悲痛な願いは、うたたかのように消え去っている。しかし、表面の繁栄をよそに、冷静にみつめていくならば、そこには依然として戦争の惨禍が潜んでいるのである。昭和20年8月6・9日の二日にわたって投下された人類初の原爆の悲劇は、いまなお原爆症患者の姿にははっきりとでていることとを忘れてはならない。
「今ここでペンを走らせているこの机も、その横にならぶ本も、父のものであったのだ。『お父ちゃんどうして死んだの』と聞く弟、父はどうして死んだのだろう、僕達をのこして。 原爆“原爆”この爆弾こそ父の命を奪った悪魔なのだ。ノーモア広島、ノーモア広島、原爆で死なれた人達は私達の犠牲になったともいえるであろう。この犠牲者たちは遠い犠牲であり、私達はこの遠い犠牲者たちに身守られて平和の進路を歩むべきである。
これは、あの当時、九歳の小学生が、昭和22年に書いた手記である。この叫びを無にしてよいものか。
「もう戦争はいやだ。もう戦争はいやだ。これは原爆体験者の悲痛な、心のそこからの叫びである。筆舌には及び難い平和欲求への真の絶叫である。たとえいかなる場合でも、あんな残酷な体験は、もう決して世界のいずれの人にさせないようにして欲しい。これを世界に向かって訴えたい。No More Hiroshimaという標語は、今日、国際情勢の上で、最も高く掲げられるべきものである。太田河畔平和塔の辺りに低く淋しくただよっているべきではない」
この原爆被害者たちの悲痛な訴えを、今日心の底から受け止め、絶対に戦争なき平和な世界を出現するために、一身をなげだしている人が何人いるであろうか。
しかもまた、目を世界に転ずれば、まだ戦火は続いているのである。泥沼のごときベトナム戦争の悲劇は、あまりにも悲惨であり、かつ残酷である。その他のアジア、中南米等は、絶えず、米ソ、米中の対立の場として、今後このような危機を迎えるかわからない。人類の身辺は、身に影のそおうがごとく戦争の危機がとりまいているのである。
世界的な飢饉
さらに人類の生活にとって、最も大事なのは、衣食住である。衣類や住宅の欠乏も著しいものがある。特に恐るべきは、世界的な食料不足である。戦後20年といわれる今日において、このような不祥事は、まことに遺憾のきわみではないか。
1960年11月、イギリスの生物学者で文明評論家のジュリアン・ハックスリー氏は、多くの研究者の署名を集めて声明書を発表し「世界人口の三分のニは栄養失調である」と警告した。また1961年5月、イギリス王立統計協会で行われたP.V.スカトメ氏の報告は、FPOのセン事務局長もほとんど誤差のない数字であると認めているが、それによれば、現在、32億の3分の1から2分の1、つまり10億から15億の人が、完全に飢餓と栄養不良に悩んでいると訴えた。1963年には、FPOは「世界30億の人口のうち、17億が飢餓線上にあえいでいる」とし、しかも「インドでは餓死する子供が問題だが、アメリカでは栄養過多による死亡がめだち、美容のための無栄養食に関心が集まる」と、食料不足と同時に、食料のアンバランスのひどさを追求している。
前述のスカトメ博士は、FAOの調査部長でもあるが、彼によれば「現在、世界人口の五億近くは飢餓状態にあり、他の十億人は動物性蛋白質の不足による栄養不良状態なり、とくに日本と中国本土を除く極東地域では、人口の約四分の一が飢餓状態といえる」という。かくして、FAOは1963年以来七年間にわたり、両世界に「飢餓撲滅運動」をすすめることになった。
1963年の夏、ワシントンにおける「世界食糧会議」の席上、今はなきケネディ元大統領が、世界人口の半数以上が飢餓線上でおののいてる事実を認め、次の30年を期して、世界から飢餓撲滅の戦いを起こすべきことを提案したが、ベトナム戦争の暴挙によって、まったく望みは薄くなっている。現在は恐らく世界32億の人口のうち、18億が飢餓線上にあえいでいると思われる。しかも、人口は35年後の2000年には倍の60億を超すであろうと予想され(ちなみに2000年には61億人2009年68億人となった。)したがって、世界の食糧生産を1980年までに約2倍に、2000年までに3倍にしなければならないという重大な課題に直面している。
ただし、これはまったく望みのないことではない。人類が戦争を起こさず、そして世界民族主義の立場に立って、地球の人類が同じ運命共同体の一員としての自覚において相互扶助の実をあげるならば、必ず食糧問題は解決されうるのである。ちなみに、アメリカのR.ブリテン博士は現在世界で耕作している農地の総面積は、可能耕作地のわずか五分の一であり、残り五分の四は未開発のまま放置されていると主張している。ゆえに世界各国が、いさぎよく人類の福祉のため、門戸を開放し、世界的食料不足を解決するような機運を盛り上げたいものである。戦争や病気の解決とともに、飢餓の救済こそ、まさに全人類の悲願と言うべきであろう。
政治をとるのも人である。戦争を起こすも起こさないも人である。人類を飢餓から救うのも人である。今こそ、その「人間」」それ自体を解明し、これを指導する大思想、大哲学が樹立されなければならない。
なぜかならば、いかに平和を愛する人といえども、善良なる指導者の心も、時としては鬼畜のごとき心に変ずる。されば、人間生命に内在するこのような悪心を解決すべき、力強き思想がなくてはならないのは、当然であろう。
そしてこの政治をとるべき「人間」をつくり、一念三千の哲理により、国土も、否大宇宙をも、変えていくことを説ききっているのが仏法である。一人の人間に人間革命させるのも、社会の生命を浄化し、正しき社会観、人間観をもった人々が、協力しあい、励まし合う姿を築くのも、さらには、宇宙のリズムを正し、国土に、恵みと、うるおいをもたらすのも、日蓮大聖人の仏法以外になきことを、ここに断言するものである。されば、今日の指導者こそ、日蓮大聖人の仏法に理解を求めて「是れ何なる禍に依り是れ何なる誤りに由るや」と問うべきである。
第二章(災難の根本原因を明かす 1)
主人の曰く、独り此の事を愁いて胸臆に憤悱す。客来つて共に嘆く、屡談話を致さん、夫れ出家して道に入る者は法に依つて仏を期するなり。而るに今神術も協わず、仏威も験しなし。具に当世の体を覿るに、愚にして後生の疑を発す。然れば則ち円覆を仰いで恨を呑み、方載に俯して、慮を深くす。倩ら微管を傾け、聊か経文を披きたるに、世皆正に背き、人悉く悪に帰す。故に善神は国を捨てて相去り、聖人は所を辞して還りたまわず。是れを以て魔来り鬼来り、災起り難起る。言わずんばある可からず。恐れずんばある可からず。
現代語訳
主人のいわく、自分一人でこのことを愁いて、胸のなかに思い悩んでいたところ、客が来てともに嘆くので、いまこれについて、語り合おうと思う。
いったい、出家して修行の道にはいる者は、正法によって成仏を期するのである。しかるに、いまや神術もかなわず、仏の威徳にたよっても、そのしるしがない。
いまつぶさに現在の世の状態をみると、一般大衆は愚かで、後輩として疑いを起こすばかりである。それゆえ、天を仰いで恨みを呑み、地に俯しては深く憂慮に沈んでしまうのである。
いま、おそれおおくも、わずかに眼を開いて、少しばかり経文を開いてみるのに、世の中は上下万民あげて正法に背き、人びとは皆悪法に帰している。それゆえ、守護すべき善神はことごとく国を捨てて去ってしまい、聖人は所を辞して他の所へ行ったまま帰って来ない。ために善神、聖人にかわって、魔神、鬼神が来、災いが起こり、難が起こるのである。じつにこのことは、声を大にしていわなければならないことであり、恐れなくてはならないことである。
語訳
円覆・方載
円覆は天をいい、方載は地をいう。古代中国人は、大地を四角の平面、天はそれを覆う球面と考えた。天が万物を覆い、地が万物を載せることを、覆載という。
微管
細い管のこと。ここでは狭い見解という意味で、謙遜の気持ちを込めて言ったもの。細い管で覗くと、広い全体が見えない。愚かな凡夫の狭い見方を譬えた言葉。
聖人
儒教においての聖人は、堯と舜の二人の天子、歴代王朝の創業者である禹(夏王朝)、湯王(殷王朝)、武王(周王朝)、武王の弟の周公旦、儒学を大成した孔子を指した。日蓮大聖人は撰時抄に「外典に曰く、未萠をしるを聖人という。内典に云く、三世を知るを聖人という」と述べられている。仏法においては仏のことであるが、日本においては宗派の祖に対する敬称として用いられた。
講義
この章は、人生の不幸三障七難の根源を示されたところであり、立正安国論の最も中核をなす部分である。なかんずく「世皆正に背き…」の一節は、最も重要であり、この真の意味を知るならば、宗教の正邪を分別し真実最高の宗教を求めねばならないことが明瞭となるのである。ここで、正とは三大秘法を示すことは当然である。しかして、災難の来由は具に三意を含んでいる。すなわち、一には背正帰悪のゆえであり、二には神聖去り辞す故であり、三には魔鬼来たり来り乱る故である。
夫れ出家して道に入る者は法に依つて仏を期するなり
僧侶となる目的は、仏法を方程式どうりに修行して仏の境涯を悟ることである。との意である。仏の境涯とは永遠の生命を認識して、宇宙大の自己を見いだし、宇宙即我、我即宇宙の心境に立ち、永遠に破壊せられざる幸福境に住むことである。われわれが、日蓮大聖人の仏法を信ずるのも、その究極は成仏することにある。
ここに「夫れ出家して道に入る者」とあるが、一往は、髪を剃り、世俗の事を捨てた僧侶であるが、再往は、在家の信者であっても「死身弘法」の強盛なる信心の人は、この言葉に含まれると考えてよい。大聖人の仏法は、一部の特別の人のための仏法ではない。全民衆を救済しきる大仏法である。したがって、御書のいたるところに「日蓮が弟子檀那等」と申されているのである。「檀那」とは在家の信者である。夫れ出家して道に入るといえども弟子・檀那は大御本尊の前には平等であり、大切なのは強盛な信心の確立があるか否かである。出家の者であっても、信心が弱ければ大聖人のお心に叶う夫れ出家して道に入ることはできない。逆に、在家であっても、信心が強ければ、大聖人のお心に叶い、成仏できる人といえるのである。
十一通御書の弟子檀那中への御状にいわく、
「大蒙古国の簡牒到来に就いて十一通の書状を以て方方へ申せしめ候、定めて日蓮が弟子檀那・流罪・死罪一定ならん少しも之を驚くこと莫れ方方への強言申すに及ばず 是併ながら而強毒之の故なり、日蓮庶幾せしむる所に候、各各用心有る可し少しも妻子眷属を憶うこと莫れ権威を恐るること莫れ、今度生死の縛を切つて仏果を遂げしめ給え」(0177:01、弟子檀那中への御状)云云と。
この御状は、文永5年(1264)10月、蒙古襲来が確実となった国じゅう驚愕の事態にあって、大聖人が幕府をはじめ諸寺に国諫あそばされた時の、御門下へのお手紙である。日本にとっても未曾有の国難であり、それを強諫することは、大聖人門下にとっても未曾有の迫害、弾圧を覚悟のうえであったのである。
ここで申されている妻子眷属を憶わず権威を恐れぬ覚悟は、すでに真の出家である。しかるに、姿は出家でありながら、妻子眷属を養い、生計のために汲々とし、権威に媚びへつらう僧侶のごときは、真の出家ではない。それこそ、姿ばかり仏の眷属に似せた、天魔波旬の輩ではなかろうか。
わが日蓮正宗門下における幾多の聖僧の不惜身命の戦い、また創価学会における初代牧口会長、二代戸田会長のあの毅然と戦い抜かれた姿、これこそ、大聖人の精神を、そのまま身に実践された尊き信心の鑑である。
さらに、今日、われら同志が、身は在俗であっても、日夜、法を求め、死身弘法の活躍をしている。これまた、外面は出家でなくとも、その根本精神は、真の「出家」ではないか。
もとより、大聖人の指導も、また私が創価学会員・同志に対して願うことも、一人一人が福運に満ちた一家和楽の生活を確立されることである。普段の信心、学会活動においても、和気あいあいと、喜びにあふれ、悠々たる戦いであってほしいと思っている。
だが、その奥底には、この御状にあるような、勇気と確信と、偉大な覚悟がなくては真の仏道修行を全うすることはできない。しかして、いざという時には不自惜身命で護法のために戦う人こそ、大聖人のお誉めを戴くことができるのである。すなわち、成仏という最高にして絶対の幸福境涯を会得することができるのだ。
実に、仏法を信じ、仏法を学んで、これを修行する究極の目的は、この「仏を期する」こと、絶対的幸福境涯を会得することにある。ある人は、あらゆる条件に恵まれ、幸福生活を楽しみながら、究極目標へ到達する場合もあろう。また、ある人は、あらゆる苦難を耐えながら、途中の中小目的はいっさい目もくれず、ただ成仏という究極目標へ進まねばならない人もある。しかし、いずれの場合も、その心の奥底には、真の出家としての強い強い信心と、いかなる困難をも乗り越えて進む大勇猛精進があって、初めて一生成仏を遂げることができるのである。
人生の目的と幸福論
およそ、人生の目的は何かとの疑問は、洋の東西を問わず、常に哲学者、または真剣に人生と取り組む人々の頭をなやませてきた問題である。哲学の根本問題であるといっても過言ではない。
古代インドのウパ二シャド哲学は、ブラフマンとアートマンとの合一を説いた。中国の儒教哲学は仁をもって理想とし、道教は人間性本来のあり方を無為となし、その自然の姿に徹することを説いた。
西洋において、古代ギリシャのソクラテスは知を愛することを哲学の本質とした。プラトン等は国家社会の中に融合し、その発展に貢献することを理想とした。キリスト教は、唯一絶対、全知全能の神を想定し、その忠実なる僕となって、死後、天国に迎えられることを教えた。このキリスト教的人生観を弱者の哲学なりと弾劾し「神は死んだ」と叫んで、ゾロアスター教的な超人哲学を唱えたのが、ドイツのニーチェである。
また、同じくキリスト教的人生観への反逆を試しみたマルクス・レーニンの思想は、人間生命の本質を物質の存在様式とみなし、プロレタリア独裁社会に貢献することと、物質的要求の充足を人生の目的とした。
これらの思想は、いずれも人間生命の本質を解明しない、脆弱な砂地に建てたビルディングのようなものである。たちまちに傾き崩れてしまう。なかには、最初から蜃気楼のような思想も少なくない。
これらの思想が、はたしてどれだけの人を救ったか。その人の主観にも生きる喜びと希望と勇気を与え、客観的に見ても幸福だといいきれるものを、一人の人間に対してすら、与えたであろうか。むしろ、誤れる思想、低級なる哲学は、これを信じて縋ってきた人々を、不幸におとしいれてきた。過去のあらゆる思想、宗教革命の途上、流された民衆の血が、これを厳然と証明しているではないか。
われわれは、この教訓により、最高の思想、最も深い哲学、誤りのない理念をもって、人類の幸福と平和と繁栄を築かねばならない。
今「人生の目的は何か」との問いに明確に答えられる人が、何人いるであろうか。否、現実の人生は何か、いかなるものかということさえ、明確でないのが現状である。ドイツの詩人ゲーテはいう「たとえ、どんなものであろうと、人生はよいものだ」と。しかるに、その大の親友であったシラーは「苦痛が人生である」と、まるで逆のことをいっているのである。
いわんや、人生の目的という問題になると、各人各様の目的、希望、理想はあっても、万人の納得し、終極の目標として取ることのできる解答は、いまだかって明かされていない。
「人生は絶え間ない前進でなければならぬ。既にあった事の単なる繰り返しであってはならぬ。最後の瞬間まで、毎日毎日が一つの創作であるべきだ」とドイツの哲人ヒルティはいった。
この言葉は、たしかに一面の真理をいいきったものとして、首肯させる哲理を含んでいる。だが、創作といい、前進とっても、それは、行きつく目的のない航海に等しい。限りある人間にとっては、尊い人生の日日を、いかに価値あらしめるかが問題である。そのためには、目的が明らかにされねばなるまい。
ある人は「金もちになりたい」というかもしれない。ある人は「科学者になりたい」と。また、ある人は「政治家になりたい」というであろう。またスポーツマン、音楽家、美術家、医師、教育者、ジャーナリスト、俳優、歌手等々、人によって、さまざまな目的観はあるであろう。あるいは「つつましい家庭を持ち、平凡であっても平穏に暮らせたらよい」という人もあろう。
しかしながら、これらの目的は、いずれも人生の究極の目的というわけにはいかない。議員になりたいという人が、その目的を達して議員になったとき、それでわが人生、満てりと断言できるであろうか。おそらく、当選したその日から、次の選挙に勝つための活動を開始するにちがいない。今度は大臣になりたいという欲望が出てくるかもしれない。
人間の欲望は限りなく発達する。一つの目的が達せられれば、必ずより大きい、新しい目的が生まれてくる。その欲望の充足に向かって、また新しい苦悩を繰り返していかなければならないのである。もとより、それは悪いことではない。それは、その人にとって、人間形成の貴重な糧であり、また、それがあってこそ、人間の文化の限りなき前進が存するからだ。
しかし、人生の目的として論ずるには、これらの目的はいずれも中小目的であって、究極の目的ではありえないことが明らかである。かつ、人間一般に普遍できる哲学ともいえない。
しからば、人間すべてに共通して論ずることのできる目的であり、しかも究極的な目的は何かと考えたときに、その答えを一言にして教えられているのが「成仏」すなわち、仏になることである。これを現代語に訳すと絶対的幸福ということである。
一般の幸福論
人生の目的は、幸福になること、幸福の確立である。しかして、人世の目的は、幸福であることを示した哲学は少なくない、ウバニシャッド哲学の梵我一如も、儒教哲学の仁、道教の無為、ソクラテスの愛知も、それによって、ゆるぎなき人生の幸福境涯が樹立されると考えたがゆえに、提唱されたものである。
ソクラテス、プラトンにおいては、国家をはなれて幸福は考えられなかった。したがって彼らが、国家との調和を保ち、国家に順応し、その発展に貢献することを理想としていたのは当然であった。ソクラテスが、逃げることを友人たちから勧められたにもかかわらず、国家の命であるといって悠々と毒杯を仰いで死んでいったのも、その意味からである。
やがてアレクサンダー大王の遠征等にともなって、ポリス的な色彩はなくなり、一方では個人主義的な風潮が、他方では世界主義的な風潮が生まれた。
個人主義的な哲学を代表するのは、エピキュロスの快楽主義である。彼は、快楽が、あらゆる生者の目的であると考え、さらに他人の生活に迷惑をかけないという社会的責任を考えるうえから、いわゆる、賢者の生活を示したのであった。
その主義は、個人の救済と、人生における処世術にあった。他方、世界主義的な風潮としての思想は、ゼノンに代表されるストア哲学である。彼らは、禁欲を重んじ、そこに精神の自由があり、幸福があると考えたのであった。
また、近代に至り、資本主義の発達によって、経済学が発達し、経済的な観点から幸福内容を考えるようになった。“最大多数の最大幸福”との言葉に示されているごとく、ベンサムや、ジョン・スチュアート・ミル等は、個人の幸福と人類の幸福は一致するという思想を展開している。
またニーチェ等の思想では、人間の幸福とは、積極的には、人と生まれたことの楽しさ、生き甲斐であり、いいかえれば、あらゆる有限な人類が希求する、生命力の調和ある充実の状態であると考えたのである。ニーチェが、「超人とは超克されるべきなにものかである」と述べ、たえず自己脱皮し、人間形成することを目的としたのも、ここにあった。
これらの哲学は、いずれも観念的には理解できても、あらゆる人が、自己の人生に実現しうる具体性をもったものでない。所詮、人間としての理想を描くことはできても、あくまで倫理的、道徳的抽象論にとどまらざるをえなかったのである。したがって、その理想に向かって努力していくこと自体が、善であるとしたのにすぎなかった。
一方、マルクスを代表する唯物論の立場に立つ人々は、社会的条件下に束縛されている人間にとっては、“窮乏からの自由”こそ最大の幸福内容であるとした。彼らが人生の目的を物質的欲求の充足としたのも、その底流には、かかる幸福感があったからである。さらに、すべての不幸の原因は、社会的、階級的な矛盾から生じているのであり、この克服こそ幸福への最大要件であるとして、プロレタリア革命と共産主義社会の建設を唱えた、そして、人生の目的をプロレタリア独裁社会に貢献することであると説いた。
しかしながら、これも一方に片寄った物の見方であり、一切の社会的要件が仮に解決したからといって、必ずしも、すべての人が幸福生活を実現しうるとは、断定できない。また、その社会改革が達成されるまでは、人は不幸でいなければならないという矛盾もある。しかも、理想現実のためには、犠牲もやむをえないという理論が展開され、スターリン治下のソ連で、あの一千万以上もの、不幸なる犠牲者を生じたのであった。もちろん、われわれは、社会的発展の意義を無視するわけではないが、同じく理想の幻影を追っているにすぎぬのではないか。このように、今日までの幸福論は、幸福の実体はなく、有名無実であり、根無し草のごとくはかない、ここに、仏法の色心不二の生命哲学によらねば、絶対に真実の幸福を実現でなきことを強く叫んでやまない。
仏法で説く幸福論
一般に人々が求める幸福といっても、その意味するところは、実に千差万別である。卑近な例から考えてみよう。空腹の極にあった人が、おいしい食事によって満腹した場合、それを食べることと食事後の満腹感に幸福を感ずるであろう。しかし、この幸福は二時間・三時間たつと消えてしまい、五時間もたてば、再び空腹に陥ってしまう。
家が欲しいとか、宝石が欲しいとかの欲望も、それを満たされた当座の幸福感はいかに大きくとも、月日の経過とともに薄れてしまうのである。しかも、いったん火災にあって家が焼けてしまったとか、宝石が盗まれてしまったとなると、逆に大きい不幸を感じないでいられなくなる。
したがって、これらの幸福は、きわめて相対的である。相対的であるがゆえに、はかなく消えていくものである。そこに、絶対的の幸福を樹立しようとする宗教の根本目的がある。だが、真実の仏法が説くところと、仏教に名を借りて、勝手につくられた諸仏教、あるいはキリスト教等の諸宗教の説くところとは、本質的な相違がある。
すなわち、前者は人間生命の奥底の真理に立ち、そこに確立された絶対的幸福が、具体的生活のすべての場面を通じて実証されるという、哲学性、合理性、実証的科学性に立っている。これに対して、後者は、哲学的な合理性の裏づけを否定して、むしろ非合理性を主張する。そして、修行の結果として会得されるという彼らの悟りの境涯は、なんら現実世界における実証性をもたない。また、たとえあっても、きわめて生活とは関係のない一般性もない。特殊で非常識な、いわゆる奇跡と称するものにすぎない。 それでは、仏法の生命哲学とは、いかなるものか。また、孝・不幸をどのように説いているのか、また、絶対的幸福とは等々についてみてみよう。これらを最もわかりやすく説いているのが十界論である。十界とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏をいう。
観心本尊抄にいわく、
「数ば他面を見るに但人界に限つて余界を見ず自面も亦復是くの如し如何が信心を立てんや、答う数ば他面を見るに或時は喜び或時は瞋り或時は平に或時は貪り現じ或時は癡現じ或時は諂曲なり、瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり他面の色法に於ては六道共に之れ有り四聖は冥伏して現われざれども委細に之を尋ねば之れ有る可し」(0241:07)云云と。
これ、地獄といい餓鬼といい、あるいは仏というも、われら人間生命の種々相にほかならぬとの、偉大な哲理を述べておられるのである。
地獄とは、詳しくは顕謗法抄に八大地獄が説かれているように、苦悩、煩悶する境涯である。「瞋は地獄」と申されているのは、瞋りは修羅闘諍にも通ずるが、その結果、生活を破壊して苦悩に陥るゆえである。日常の肉体的、精神的苦悩から、端的な例をいえば、ナチスの弾圧を受けたユダヤ人や、今日の戦乱に明け暮れるベトナム民衆に至るまで、すべて地獄界といえよう。
餓鬼とは、貧欲によって支配された状態で、満足することを知らないこと。
畜生とは、十法界明因果抄に「愚癡無慙にして徒に信施の他物を受けて之を償わざる者此の報を受く」(0430:04)とあるように、愚かで目先の利益にとらわれるあまり、遠大な根本を忘れること、またこれを慙じようとせぬことといえよう。
修羅とは、常に他人よりも勝ろうとし、自分一人が偉いように思うこと、止観にいわく「若し其の心、念念に常に彼に勝らんことを欲し耐えざれば人を下し他を軽しめ己を珍ぶこと鵄の高く飛びて、下視が如し、而も外には仁・義・礼・智・信を掲げて下品の善心を起し阿修羅の道を行ずるなり」と。この勝他の念にゆえに、いわゆる修羅闘諍というように、争いの姿となって現われる。「諂曲なるは修羅」とは、心がひねくれていることで、他人の好意を好意ととれず、冷酷で悪賢い生命を意味する。
以上の地獄・餓鬼・畜生を三悪道、修羅を加えて四悪道という。
次に、人界とは、いわゆる平らかな状態で、人間としてごく普通の平穏な生命の境涯である。今日、この状態が、どういう立ち場の人にとっても、むしろ稀で、多くは三悪道、四悪道に陥っている事実は、まことに悲しむべきことである。
天界とは、欲しい物が手にはいったとか、自分の願いがかなったとかの満足感によって喜びを感ずる状態である。だが、その喜びは一時的であり、狭い分野におけるものであるから「五衰を受く」と説かれているごとく、時の経過とともに薄らぎ、他の条件の変化と共にあえなく崩れ去ってしまうものである。
四悪道に人天の二道を加えて六道といい、大部分の人間の生活は、この六道を繰り返しているにすぎない。これを六道輪廻という。それに対して、努力と精進、研究によって得られる、より深く、より高く、より長い幸福境涯がある。それが声聞・縁覚・菩薩・仏で、三悪道や四悪道に対して四聖という。
声聞とは、書物を読み、先輩の築いた業績を学び取って、知識を豊かにしたときに感ずる喜び、力の充足感である。縁覚とは、みずから思索し、試行錯誤し、あるいはある自然の現象を見て、求めていた真理の一端を得たときに感ずる喜びである。アインシュタインの相対性理論、ニュートンの万有引力説、ガリレオの振子理論、湯川博士の中間子理論、朝永博士のくりこみ理論等、合理精神の典型ともいうべき自然科学における偉大な発見が、多くは非論理的な一瞬の悟りによってなされていることは、きわめて興味深いものがある。だが、そこに至るまでに、着実な基礎の積み重ねと、深い思索とがあったことは論をまたない。芸術家の創作活動も、縁覚界の代表例である。
菩薩とは、自己の徳性を発揮して、社会のために尽くす働きである。仏経典に出てくる勇勢菩薩は勇気、文殊菩薩は智慧、弥勒は慈悲をそれぞれ徳性とする働きの象徴化である。
さて、最後の仏界とは、生命の永遠性を悟り、宇宙即我、我即宇宙の境涯に立って、一切を見て誤りなく、無限の生命力をもって人生を生きていくことである。それは、永遠の生命観に立つがゆえに、時間的に変化を受けることなく、宇宙即我の境涯のゆえに空間的に左右されることもない。絶対の幸福境涯である。この自我の確立を基盤として、誤りなく現実の諸問題に対処し、いかなる難関も、強い生命力をもって乗り越え、打ち破っていくことができるのである。
人生の究極目的は、この仏界の生命の涌現、すなわち一生成仏にある。その方法は、道徳的な精神修養でもなければ、人間らしい欲望を無理に抑圧する戒律をたもつことでもない。ただ仏界の生命の当体である、三大秘法の大御本尊に境智冥合することによって、われわれの生命の内奥より涌然とあらわれるのである。すなわち、日蓮大聖人が、出世の本懐として、弘安二年十月十二日に御図顕あそばされた、一閻浮提総与の大御本尊に帰命し、自行化他にわたる南無妙法蓮華経を唱えきっていくことに尽きるのである。
現世利益について
よく創価学会のことを、現世利益を説くから低俗であり、仏法本来の精神からはずれているかのようにいう者がいるが、これは大いなる誤りである。
現世利益とは、いいかえれば現実生活における幸福である。しかして、人間生活を詳細に分析してみるならば、その内容はすべて、幸福生活を求めて向上しようとするたゆまざる価値創造であることは明瞭である。大きくは、人類がここまで発展してきたのも、幸福をもとめ営々として築いてきた、何千年来の人々の努力と汗の結晶にほかならない。
すなわち、「現世利益」を求めるのは、人間のあまりにも自然な心得である。これを否定し、認めぬことは、人間の本性を否定し、滅却するものであり、必ず矛盾にぶつかり、混乱を生じていくのである。
古来、幾多の思想家、哲学者が、人間生活における幸福の問題と真剣に取り組み、この解明にいかに心をくだいてきたことか。もし、幸福を追求することを低俗だと軽蔑して、生活に関係なき空理空論をもてあそぶとすれば、それは観念論も甚だしい。のみならず、これらの古今の哲人、思想家をことごとく低俗なりと否定し去らなければならないであろう。
いわんや仏法は最高の生活法である。単なる空想の哲学でもなければ、未来に事寄せて、現実をあきらめさせるような弱弱しい哲学ではない。事実、人々の心中に力強い生命力をわきたたせ、現実生活を打開する、たくましき実践力、生活力を奮い起す大宗教である。
仏教=現世利益否定と公式化して覚えていることは、あまりにも愚直であり、仏法の何たるかを否定している教えであるがごとく、人人に鼓吹してきた。だが、これこそ、彼らの宗教がいかに無力であるかを証明するものではないか。
むろん、仏法の説くところが、すべて現世利益をめざすものであるとするのは、間違いである。これらの利益は、大利益からみればわずかな部分にすぎない。
だが、現実の祈りの叶わぬような力なき宗教で、どうして未来永遠の幸福が得られようか。一丈の堀を越えられぬものが、なんで十丈、二十丈の堀を越えられようか。
いたずらに精神界のみを説くのが宗教であり、現実の生活からの逃避や、超越を説いて、宗教を美化して、それがあたかも深遠で高邁な教えであるかのごとく装うのは、民衆を欺瞞するも甚だしいといわなければならない。
もし、創価学会を、現世利益を説くからといって非難するならば、汝自身の生活は、仙人のごとく霞を食い、いっさいの欲望を断絶しているのかと聞きたい。もし、かかる人間が存在するとすれば精神分裂症か、二重人格の偽善者であると断ぜざるを得ない。
ましてや、知識人ぶり、したり顔をして、庶民の素朴な感情を愚弄するのは、あまりにも傲慢ではないか。やがて世の中の人々から見放され、忘れ去られる存在になることは絶対である。
現世の幸福は永遠の幸福の実証
現世利益は、なにも創価学会の発明でもなければ、新説でもない。仏法の最高哲理では当然のこととして説かれている。遠くは釈尊も法華経において、近くは日蓮大聖人もまた、大確信をもって諸御書に現世の利益を断言しておられる。
法華経の第五の薬草喩品にいわく「是の諸の衆生、是の法を聞き已って現世安穏にして後に善処に以って楽を受け、亦法を聞くことを得」と。
いうまでもなく、この世において、仏法を正しく信ずることによって、現実の生活が幸福になり、安定しきった平和な生活を営むことができる。また、未来においても、幸福境涯で生まれてきて、生死ともに、三世にわたる永遠の生命のうえから、変わらない幸福生活を送ることができるという文証である。また、日蓮大聖人の御書を拝しても、現世における大功徳を、厳然と説かれているのである。
撰時抄にいわく、
「法華経の八の巻に云く「若し後の世に於て是の経典を受持し読誦せん者は乃至諸願虚しからず、亦現世に於て其の福報を得ん」又云く「若し之を供養し讃歎すること有らん者は当に今世に於て現の果報を得べし」等云云、此の二つの文の中に亦於現世・得其福報の八字・当於今世・得現果報の八字・已上十六字の文むなしくして日蓮今生に大果報なくば如来の金言は提婆が虚言に同じく多宝の証明は倶伽利が妄語に異ならじ、謗法の一切衆生も阿鼻地獄に堕つべからず、三世の諸仏もましまさざるか、されば我が弟子等心みに法華経のごとく身命もおしまず修行して此の度仏法を心みよ、」(0291:05)と。
この文は、明らかに、法華経の経文を引いて、現世の大功徳を説き明かされた文である。われわれ、大御本尊を拝する者は、その指導どうりに正しく信心しきっていったならば、現実の生活のうえに功徳がでないわけがないとの御断言であり、そうでなければ、仏法はすべて虚妄であるとの、きびしき仰せなのである。
その現実の証拠を無視しての仏法はありえないし、それを肯定し、断言しないような、力弱き宗教ではないのである。「現世に云をく言の違はざらんをもて後生の疑をなすべからず」(0957:17、佐渡御書)と仰せられているごとく、仏法は道理であり、因果の法則のきびしき哲理である。「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(1468:16、三三蔵祈雨事)と。
このたくましい生活指導の大原理こそ、日蓮大聖人の仏法であり、そこに偉大なる人間革命・宿命打開の道が示されているのである。創価学会は、この仏法の原理を正しく実践しているにほかならない。今日、五百数十万世帯、一千数百万の人々が、御本尊の大功徳をあらゆる分野にわたって、現実の生活のうえに立証していることは、実に偉大なことではないか。
歓喜に燃えて、功徳を感じている学会員の姿を見よ。病床にふしていた者が、元気に職場に復帰し、家庭不和に悩んだ一家が、だんらんの笑い声の絶えない家庭に改革され、和楽の生活を送っている事実を、誰が否定できようか。これ大御本尊の功徳といわずして何であろうか。
かつまた大聖人は「近き現証を引いて遠き信を取るべし」(1045:03、法蓮抄)と仰せられている。されば、この現実の証拠を見て、大御本尊様を信じた人々は、必ずや、大聖人が成仏の境涯として説かれた、永遠にして不滅の幸福境涯を会得できることを強く強く確信すべきである。
世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず
この御文は、個人の不幸も、国土の三障七難もその根本原因は、邪宗邪義にあるとの仰せである。これは世間の人の予想だにもしなかった驚天動地のことであり、この師子吼ひとたび響いて、惰眠をむさぼっていた当時の宗教界はさぞやあわてふためいたことであろう。また邪宗邪義に迷わされたひとびとの驚愕もひとかたならぬものであったろう。さればそれはたちまちにして嫉妬、激怒に変わり、三類の強敵のアラシとなってあらわれたのである。この彼らの周章狼狽自体、おのれの本質がものの見事に見破られたことを示すものではないか。
開目抄にいわく「此れを知れる者は但日蓮一人なり」と。誰もが無関心であり、誰もが無智であった宗教の正邪・善悪の分別こそ、幸・不幸の決定線であり、これを大聖人ひとり知られたのである。のみならず、日本の国から、また、この地球上から悲惨の二字を除き、幸福と繁栄とをもたらくのは、ご自身以外にないのであると。のみならず、日本の国から、また、この地球上から悲惨の二字を除き、幸福と繁栄をもたらすのは御自身以外にないのであると。またいわく「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」(0232:01)
この巌のごとき民衆救済の大確信、全民衆を苦悩の底より救い出さんとの大慈悲「智者に我義やぶられずば用いじとなり」との大信念、これこそ、大聖人の立正安国論の精神であり、創価学会に一貫して流れている根本精神である。日本の国に、真に自己のエゴイズムを捨て、苦に没在せる民衆の幸福のために、また世界の平和のために一人立つ指導者がいるであろうか。もし、真実に、その心であり、日本の前途、世界の前途を憂うるならば、この日蓮大聖人の思想に耳を傾けるべきである。検討もせずして批判するのは指導者の名に恥ずるではないか。
生活とは生命幸福の発露
人間生活を虚心にながめてみれば、それがことごとく幸福を求めての生活であることは前述のとおりである。それでは、その幸・不幸が宗教のいかんによって決まるとはいかなるわけか。
それには、人間の生活そのものの検討がなされねばならない。結論からいえば、生活とは、生命活動のあらわれたる現実である。すなわち、瞬間瞬間の生命活動の発露である。
しかして、この生命の奥底を支配するものが思想であり、哲学であり、宗教なのである。先に人間の生命活動を、十種類の範疇をもって説き明かした。いうまでもなく、十界論である。地獄は苦悩・煩悩の生命活動、餓鬼界はむさぼりの生命活動、畜生界は、動物等にみられるような弱肉強食であり、本能のままの生命活動、修羅界は勝他の念による闘諍の生命活動、人界は平らかな、あたりまえの生命活動、天界は喜び、声聞界は理論・真理を追究していくときなどの生命活動、縁覚界は名音楽などを聞いてうっとりし、あるいはまたピアニストがピアノを弾くことに専心し、それに徹して、一分の悟りを開く生命活動、菩薩界は、人を利益していこうとするところの慈愛の生命活動である。そして十番目の仏界とは、言葉をもって説明しがたいが、あえていえば、なにものにもくずされない絶対の幸福境、すなわち大宇宙のリズムと合致し、なんら障害のない自在の生命活動である。
そして、この地獄界から仏界までの生命活動は、誰人といえどもこれを有している。怒る生命活動の欠けた人もいなければ、喜びの生命活動のまったくない人もいない。苦しむことを知らない人もない。それは万人共通の、本然の生命活動である。しかも、これらの生命活動は、ことごとく縁にふれてあらわれてくることも、すでに明らかにしたごとくである。
人間生活への思想・宗教の影響
邪悪な思想、低級な哲学、したがって、誤れる人生観、社会観をもとにした生活をすれば、自己の生命は、地獄、餓鬼、畜生の三悪道、また修羅界を加えた四悪道のみ旺盛になり、貧・瞋・癡の充満するところとなる。それは、さらに生命にもはやぬぐいさりがたい濁りを生じ、一定の癖をもつようになる。濁り、癖を持った生命は、もはや宇宙のリズムと調和せず、生命力は極度に弱まり、宇宙の種々の事態に応じえず、生きることすら苦しくなり、不幸の巷を流転してゆくのである。また、生命の濁りは偏狭な人格を形成し、それらの偏狭な人格の人のみ多くなれば、衆生社会が濁り、そこに誕生する偏狭なる指導者は、狂気のごとく、国の前途を誤らせ、世界を混乱に導くのである。これ、人間の生命活動の動機ともなり、また、生命の内奥の世界を揺り動かし、支配し、リードしていくべき思想が、邪悪であり、低級であり、奸智に奸たけたものであり、また偏狭であるものにほかならない。
なかんずく、宗教の影響は甚大である。もしも誤れる宗教であれば、しらずしらずのうちに人の生命をむしばんでいく、信仰という力関係によって、思想にあらわれた、あるいは本尊等の対境ににじみ出ている生命の波動が、強くわれわれの生命に伝えられるからである。
われわれは、現実の低級宗教の害毒にむしばまれた人々の生活の無気力な姿、あるいはなにかにとりつかれたような気違いじみた姿、二重人格、畜生道、餓鬼道、また悲惨の二字そのものの地獄界の姿、残忍きわまりなき修羅葛藤の姿を眼前にし、あまりにも宗教が生活に影響するところの絶大さを知って慄然とするのである。ともに、日蓮大聖人の指摘に寸分の狂いもないことを知り驚嘆し、その指導原理の万古不変なるを確信するものである。
誤れる思想、宗教がいかに恐ろしいか。西欧におけるキリスト教の例、ソビエト共産主義、ナチスの人種論、インド、中近東、東南アジアの宗教、最後に日本の宗教について概観してみたい。
西欧におけるキリスト教の影響
西欧におけるキリスト教の歴史をみても、いかに思想、宗教の影響が大きいかがわかる。キリスト教は西暦0313年、ローマ皇帝によって公認され0392年に国教となって以来、不動の地位を築き、欧州世界に君臨するようになる。そして、やがて中世においては、教会の権限は絶対化され、国主すら法王にぬかずくにいたる。神学に合わない理論は、神への反逆であり、異端とされた。もはや、キリスト教は西欧人の心であり、唯一絶対の思想であった。法王がイスラム教徒に奪われた聖地の奪還を指令するや、人々は熱教的に十字軍に従軍し、遠征におもむいた。さらに、ルネサンス期を迎え、キリスト教の権威から脱皮しようとする人々があらわれ始めたときに、どれほどの既成の権威、宗教的ドグマがそれらの人々の心に重くのしかかっていたことか。
教会の権威を脅かすと目された科学者たちは「無神論者」とか「魔術師」「マホメット教徒」とののしられ、迫害された。ジョルダーノ・ブルーノは焚刑に処せられ、68歳の老齢のガリレオ・ガリレイは、審問所に引きずりだされ、焚刑か、さもなくば地動説を捨てよと二者択一を迫られた。何と思想、哲学、宗教の誤りは、恐ろしいことか。
やがて、教会の腐敗・堕落に対し、幾多の宗教改革が試しみられ、特にドイツのマルチン・ルター、スイスのジョン・カルヴァンの影響は大きく、多くの新教団が誕生するにいたる。以来、新旧の対立は凄惨をきわめた。フランスにては、1572年の聖パイソロミューの虐殺で、約5万人のユグノー教徒が惨殺された。また1618年から48年にかけて、ドイツを舞台として、大宗教戦争といわれる30年戦争が行われた。これはドイツの新旧教徒の争いに、デンマーク、スウエーデン、フランス等が参戦し、全ヨーロッパ的な長期の戦争となったものである。この戦乱によって、ドイツは殺戮と疫病の巷と化し、当時のドイツ人口は1800万から、実に半数以下の700万に激減してしまったといわれる。
こうしてキリスト教の権威は失墜し、人々の心はしだいにキリスト教から離れていった。だが、いったん人人の心をとらえた思想が、そう簡単に抜けきれるものではない。18世紀の終わりにいたってすら、ジエンナーの種痘の発見がキリスト教徒によって「摩法」「無神論」と告発され「天そのもの 神の意志にすら戦いを挑むもの」「神の掟はその施術を禁ずるものである」と激しい迫害を受けた。もって、思想の及ぼす影響の深さを知るべきである。
今やキリスト教は衰亡の一途を辿っている。だが、今なお西洋人の心を陰に陽に、キリスト教的な物の考え方が支配していることも見のがせない。
こうしたキリスト教の歴史を見るにつけ、その底流に、恐るべき人間性の無視、抑圧があることを知るのである。キリスト教界は、表面では、あるときヒューマニズムを唱え、あるときは、平和を唱え、時流にのって、その都度、美しき言葉を吹聴する。だが、いったい、彼らのいう”ヒューマニズム”が、彼らの手によって一度でも叶えられたか。残念ながら、否、当然のことながら、彼らは、結果的に、戦争を助長し、人間性を抑圧してきたのである。あれだけ、キリスト教が深く流布していながら、なぜ欧米諸国は、植民地主義をもって、アジア、アフリカを苦しめてきたか。所詮、キリスト教によるヒューマニズムは、きわめて根の浅い観念的なものである。その根底は、人間性に対する罪悪視であり、偏狭なる生命観である。
共産主義思想とスターリン治下のソ連
一方「神なき宗教」といわれる共産主義もまた、それが行動化され、実銭化されたときに、多くの犠牲を生んだのであった。それはスターリン治下のソビエト社会に、最も殺伐とした形であらわれた。農業集団化にともなう、何百万、否、一千万以上の農民の大量虐殺、餓死については前章で述べたとおりである。スターリンは、独裁者の地に位つくとトロッキーやジノヴィエフ等の「左翼反対派」をけおとし、さらにはブハーリンやルイコフを片づけた。1928年から1932年にかけての第一次五カ年計画においては、多くの「反対派」党員の静粛があり、また、農民、旧インテリ、少数民族など、おびただしい数の、名もなく、よるべのない、無辜の民衆の犠牲があった。この時ゲーペーウーの名は死神の異名として恐れられ、流罪地シベリアは、絶望の地の果てと恐れられていた。
1933年の初めに、スターリンは第一次五カ年計画の成果を誇らしげに語った。翌1934年1月から2月にかけて、第17回党大会を開いた。この大会は「勝利者たちの大会」と名づけられた。だがこれは“勝利者”ならぬ“犠牲者”の大会だったのである。
その年の12月にキ―ロフが暗殺されて以来、ソ連社会には「エジョフシチナ」の名で呼ばれる大量粛清のアラシが吹きすさぶのである。すなわち、スターリンによって内務人民委員に任命されたエジョフにより、まず、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、ルイコフ等の、かってレーニンの側近だった人々が大粛清された。次いで、スターリンから不興を勝ったスターリン主義者の人たちが、つぎつぎと粛清されていった。第17回党大会の代表1965名のうち、1180名が「反革命の罪科」の名のもとに逮捕された。この大会で中央委員に選ばれた139名の中央委員とその候補のうち、その70%の98名が逮捕、銃殺された。かくして、党大会の80%が刑務所、強制労働収容所、処刑室に姿を隠していった。ましてや、平党員の何%が行くえ不明になり、生命を失ったかは、測り知れない。また数千の非党員も犠牲となった。
また幾10万の市民が家庭と職場から連れ出され、強制労働所にほうりこまれた。しかも、その選び方はあまりにもばかげていた。時には、警官が街の一角を軒並みに歩き、気まぐれにドアのベルを鳴らしては、あちらで一人、こちらで一人というように、まったく罪のない人たちを車に乗せて運び去った。その目的は、労働力をふやすこと、燐人を恐怖におとしいれること以外に何もなかったという。軍の粛清も仮借なく行われた。1837年、ポーランドの戦争の英雄、赤軍建設の功労者であった参謀総長トハチェフスキー元帥以下8将軍が銃殺に処せられた。この時の粛清で、5名の元帥のうち3名、15名の軍司令官のうち13名、85名の軍団司令官のうち57名、195名の師団司令官のうち110名、406名の旅団司令官のうち220名が抹殺された。それよりも低い地位にある将校も5000名が反逆者として死んだのである。そのほか行政機関等の粛清もきわめて激しいものであった。
また非ロシア諸民族に対する静粛も悲惨であった。1938年にはウクライナ共産党の第一書記になったフルシチョフによって、ウクライナの大粛清が行われた。またポーランドの共産主義者のほとんど全部銃殺、または投獄された。その他ユダヤ人等の多民族の粛清も行われた。そして、「エジョフチナ」の最後の犠牲者は、ほかならぬエジョフ自身であった。エジョフは1939年ポストを追われ、姿を消してしまった。その年の党大会で、スターリンは、もう大量粛清はやらないといった。しかし、全体主義体制の重苦しい空気、恐怖の世界は続いた。
第二次世界大戦が始まり、ソ連国民は、まる四年間、ドイツ戦争で渾身の力をふりしぼり、ようやく戦争に勝つことができたが、その後にまちうけていたものは、またスターリンの圧政であった。再び国民の生殺与奪の権利は、スターリンに握られ、ぺリヤの秘密警官は、おびただしい血の粛清をやってのけた。「ぺリヤ警察はいつでも未明に訪れ、ドアをノックし、不幸な人を有無をいわさず連行していった。それっきり、その人の消息はようとしてわからない。ソ連国民はたえず未明のノックにおびえながら、見ざる、いわざる、聞かざるの生活を送らなければならなかった」
これらの事実を知って、われわれは、その冷酷、残忍なのに驚くよりも怒りを催す。その底流に、生命を、物質の存在様式に過ぎぬとしか見ない、低級なる唯物論の生命観があったことを指摘せざるをえない。あのような強制的な生活の画一化、虫けらのごとく粛清するあの悪魔のごときふるまい、これらに一貫して流れるものは、人間の個性の無視であり、人間の自由の略奪であり、人間の尊厳の無視である。すなわち「人間」そのものを、唯物論的見地から見立てた、哀れなる結末ではなかったか。さらに、スターリンが、第二次世界大戦後、第三次世界大戦を予想して、重工業に力を入れ、国民に極度の耐乏生活を押しつけるなど、その底には、戦争は宿命的に避けられないという、レーニン以来のテーゼがあったこともいがめない事実である。ここにも、偏狭なる思想、低級なる理念が、いかに不幸をもたらすかが、如実にあらわれているではないか。
第二章(災難の根本原因を明かす 2)
誤れる人種観・民族観=ナチ・ドイツ
また、第二次世界大戦中、ナチ・ドイツは、ユダヤ人の殲滅をめざして、六百万人ものユダヤ人を殺害した。なぜこのような暴挙にでたのか。
ヨーロッパ諸民族のユダヤ人民に対する憎悪は、中世初期からの根深い伝統をもっている。その煽動者が「ユダヤ人はキリストを十字架にかけた悪魔だ」とするキリスト教会であった。
ナチは、一方では共産主義の浸透を恐れる資本家の心を反共産主義で捉え、一方で、この反ユダヤ主義を唱えて、ゲルマン民族を至高とする民族感情を味方にしたのである。
1933年4月、ナチ政権はユダヤ人商店に対するボイコットを出した。第一次世界大戦後の経済苦にあえぐドイツ国民は、たちまちこの作戦にのせられ、生活苦の根源はユダヤ人にあると思い込み、憎悪の念をかりたてられた。ユダヤ人商店襲撃が全国的な国民運動として繰り広げられた。
ここまで、反ユダヤ感情がたかまったことが、ナチのユダヤ人殲滅を正当化し、推進する大きい力となったといえる。1942年1月、いわゆるヴァーンゼー会議がゲシュタボ長官ハイドリヒのもとに開かれた。そして、全ヨーロッパのユダヤ人を東ヨーロッパで強制労働に酷使したうえで絶滅させるという計画が立てられたのである。
しかし、実際には、老人、子供、夫人の多くは強制労働に耐えられないので、すぐに殺された。アウシュヴィルツ、マイダネック、ヘルムノ、ベルゼック、ソビボール、トレブリヤンカ等の収容所がこのために設けられた。所長以下、少数の役人はナチ親衛隊で占められていたが、下級役人は政治犯や刑事犯が転用された。特に刑事犯が役人になったところでは残虐を極めたという。
そうでなくても、本来、収容所の目的が、体力を弱らせ、病気にかからせ、絶滅することにあったのだから、その悲惨はいうまでもない。有名なガス室や死体焼きかまど、大量銃殺溝等々、すべて人間が人間を殺すために考え出された道具立てである。なんという残虐、なんとう冷酷、なんという狂気、そして、なんという人間性無視の悲劇であろうか。
それは、偏狭なる人類観、民族主義が当時のドイツ国内のさまざまな不平不満と結びつき、さらに、それに指導者の征服欲、名誉欲、利害等が結合し、暴発的な感情となり、人々を狂信的な、ユダヤ民族殲滅の暴挙へとかりたてたのである。だが、この誤れる人種観、民族観が、直接的には結びつかずとも、キリスト教の「ユダヤ人は“陰険な、堕落した”民族であり、神を否定し、キリストを殺害したために、神に呪われている民族である」との思想に、淵源がなかったと誰が断定できようか。そうでなくとも、ナチにローマ教会が妥協したことは周知の事実である。そこにキリスト教の二重人格性が顕著にあらわれているのではないか。これまた、人間性を無視した偏狭なる思想が、権力と結びつき、戦闘化したときに、いかなる悲惨な現実が展開されるのか、そのよき証拠である。
東南アジアに見る宗教の害毒
また、アジアにおける思想、宗教の影響性の一例として、インドとパキスタンの根深い対立がある。すでに1947年、両国が分離独立に際しては、650万のイスラム教徒が、インドからパキスタンに逃れ、逆に50万の非イスラム教徒がパキスタンからインドへ行ったという。この時、パンジャブ州を中心に両教徒の無差別殺戮が行われ、その犠牲者は、イスラム教徒だけでも、なんと50万に達したとわれている。
彼らは、宗教に力がないために、それに政治の利害がからみ、力で訴えて解決しようと試みるのである。
この両国間の対立を根本的に解消できることは容易ではない。またインドの内部におけるカースト制度は、現在、4000種にわたる階級があり、それがどれほどインドの近代化を妨げてきたことか。しかも、今日法律でカースト制が禁じられているのもかかわらず、きわめて固定化した形で存在している。これまた、ヒンズー教が、どれだけ民衆の中に浸透しているかを示すものであろう。
また、小乗仏教国といわれる東南アジアの国々の民衆が、西欧の植民地の支配のもとに呻吟してきた無気力、惰弱、消極的風潮のなかに、宗教の害毒が、強く、はっきりとにじみ出ているのである。もともと小乗教では、この人生を、苦・空・無常・無我であると立て、煩悩すなわち人間の欲望を断じ尽くした境地を悟りとした。このために、比丘に二百五十戒、比丘尼に五百戒等の戒律を持たせようとした。ここに小乗教が戒律主義であるといわれるゆえんがある。
だが、いったい、煩悩を断じ尽くすなどということができようか。また、それができたとしても、そんな人間は、もはや木石となんら変わらぬではないか。現実を否定し、無視し、他の世界に幸福を求めゆく思想である。これら小乗の教えは釈尊当時のインドの民衆の、享楽主義的風潮を打ち破るために、またバラモンの教えを破るための仮説にすぎない。このような、低級の教えを根本にすれば、当然、自由な人間性を疎外し、建設するたくましき生命力をむしばみ、無気力と偽善とを植えつけてしまうのである。
思想とはまことに恐ろしきものである。一人の人間の人生を徹底的にきめてしまうことはもちろんである。だがそれが、いったん社会に流布し、全体の中に浸透したときに、思想は、最もその威力を発揮する。巨万の富を積もうが、その人一代限りで滅び去ってしまう場合もある。その興亡盛衰が、いかにきびしいかは、歴史が如実にこれを示しているではないか。
だが、いったん社会の奥深く打ち込まれた思想は、その後何百年、いや何千年と生き残る。そして、その社会の歴史に一貫した宿命をもたらす。そうなれば、もはや、その社会に生きる人は、その思想自身では、信奉していると思わなくとも、しらずしらずのうちに、その思想の影響を受けているのである。ひとたび、自覚して、これを打ち破らんとすれば、平穏な世界は再び変じて、いかに憎悪と怨嫉と迫害のきびしいかを知らされるのである。
太平洋戦争における神道
わが国においては、低級な、邪悪なる思想、宗教がいかに国の前途を誤らせたかを顕著に示す例として、あの太平洋戦争における神道があげられよう。明治以来の神道思想は、天皇の神格化とともに、神州不滅の国家主義思想を形成し、戦争遂行の原動力となっていたのである。しかるに、神道そのものには、なんの指導理念もなく、いたずらに国民を精神主義にかたむけるばかりであった。一億の民に挙げて神社参詣することを強調した。国家権力によって、押しつけられたこと自体、すでに宗教に力のない証拠である。盲信とも、迷信ともいうべきであろう。その結果は、あの戦争中の神がかり的な神風思想となり、竹ヤリ主義の日本神道となり、シンガポール神社や朝鮮神宮等に見られる多民族への強調という愚劣な政策となって現われ、多くの破綻を生じたのである。また、思想の力は、あの客観的には、まったく勝ち目のない戦争を、最後まで皇軍必勝を信じさせたのである。だが、結果は、未曾有の大敗戦であった。終戦直後、幾多の軍閥関係が、皇居前広場で自決した。民間の極右翼の集団自決もあった。その信念の破綻から、悲しくも、みずからを死に追いやったのである。まことに恐ろしさは、言語に絶うるものがあるではないか。一片の思想が、かくも根強い国民感情を形成し、あの未曾有の大戦乱を巻き起こし、その破滅は、また多くの犠牲者をともなった。だが、このように思想に威力があるにもかかわらず、人々は、思想自体の高・低・浅・深・正・不正に対しては、あまりにも無関心であり、無感覚である。いわば思想の魔力というべきか。
われわれは、これまで、西欧のキリスト教、ソ連の共産主義、インドのヒンズー教、東南アジアの小乗仏教、そして日本の神道等をみてきたが、これらの例をもってしても、思想宗教の高低、宗教の正邪を、あくまでも政治権力に左右されず、真剣に検討すべきであろう。われわれが、まず、宗教革命に立ち上がったのも、そのためであり、それ以外には断じてない。
現代の日本における邪宗教
しかるに、現代の日本の宗教界には、キリスト教よりも、小乗教よりも、ヒンズー教よりも、神道よりも、恐るべき狂気の宗教が横行しているのである。特に宗教の根本とすべき本尊を誤れば、その人の生活は根底より破壊され、不幸の巷を流転するしかないのである。われわれは、身にまわれたキツネつきとか、あるいはヘビのようにのたうちまわる、むざんな姿を見たり、聞いたりする。狐狸を拝むものは狐狸の姿を現じ、蛇竜を拝めば、またその姿を身に現ずる。まことに不思議であり、かつ恐るべきことである。これ、われわれの生命の中に、本然的にそれらの生命の働きが備わっており、縁にふれてあらわれてくるという、仏法の方程式が正しいことを示しているではないか。
このように、拝む対象の影響力は、われわれの身に重大な変化を起こす。現在、信仰の対象たる本尊は、きわめて多種であり、狐狸・男女の陰部・水火・太陽・山岳の自然者等、驚くべき数にのぼる。仏教中、釈尊を立てる宗教においても、小乗教の釈尊から寿量顕本の釈尊まで種々雑多であり、真言宗は大日如来を、浄土宗は阿弥陀如来を、日蓮宗は釈迦の立象、または日蓮大菩薩と呼称して大聖人の像を、あるいはにせ曼荼羅を拝むなど、みな思い思いに勝手な本尊を立てている。だが、これらの本尊が、いかに誤りの甚だしいか、文・理・現の三証からみても、五重の相対、三重秘伝等の宗教批判の原理に照らしても、また一念三千の法理のうえからも明白となるところである。これらの本尊をもとにした邪宗教は、人間の生命に深く食い入って、本質的にその生命をむしばむ悪鬼となり、悪魔となることは絶対である。妙楽大師は、正境に縁すれば利益多しと述べ、大聖人も御書のなかで幾多の正しき本尊の功力を強調されているが、その反対を考えれば、邪宗教の害毒、まさに恐るべきではないか。これを大聖人は「魔来り鬼来り災起り難起る」(0017:13、立正安国論)といわれたのである。
魔も鬼も、その意味は、ともに、人の善心を破壊し、生命を濁らせ、不幸にする働きであり、根本的には、邪宗、邪義、邪智より起こるものである。「魔来り鬼来り」とは正報であり「災起り難起る」とは依報であり、この文は依正不二を示している。正法とは、自己の生命活動そのものであり、依報とは、環境のいっさいである。所詮、人間生命の濁りが、個人の生活を破壊し、さらに、社会全体をも混乱におとしいれ、国土にも災難をもたらすのである。
謗法の人の死後
さらに永遠の生命観に立てば、もし邪宗教を信奉するならば、その人の生命の本質が破懐されるがゆえに、未来永劫に不幸の連続であり、生きては、苦悩にうちひしがれ、死しては無間の焔にむせぶのである。これ経文に明らかであり、大聖人の御書に歴然としているところである。
法華経譬喩品には、邪宗教に迷い、正法に背いた人が、死後どのようになるかが説かれている。
「もし人信ぜずして、この経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん。或はまた顰蹙して疑惑を懐かん。汝当に、この人の罪報を説くを聴くべし、もしは仏の在世、もしは滅度の後に、それ、斯の如く経典を誹謗すること有らん。経を読誦し書持すること有らん者を見て、軽賎憎嫉して、結恨を懐かん。この人の罪報を汝今復聴け。その人は命終して阿鼻獄に入らん。一劫を具足して、劫尽きなば更生まれん。是の如く展転して、無数劫に至らん。地獄より出でては、当に畜生に堕つべし。
若し狗野干とならば、其の形は乞痩し、梨黮疥癩にして、人に触焼せられ、亦復、人の、悪み賤しむ所と為らん、常に飢渇に因しんで、骨肉枯渇せん、生きては楚毒を受け、死しては瓦石を被らん、仏種を断ずる故に、斯の罪報を受けん、若しは馲駝と作り、或は驢の中に生まれて、身は常に重きを負い、諸の杖捶を加えられん、但だ水草を念うて、余は知る所無けん、斯の経を謗ずるが故に、罪を獲ること是の如し。
或は野干と作って、聚落に来入せば、身体疥癩して、又、一日無からんに、諸の童子の、打擲する所と為り、諸の苦痛を受け、或る時は死を至さん、此に於いて死に已って、更に蟒身を受けん、其の形は長大に、五百由旬ならん、聾騃無足にして、蜿転腹行し、諸の子虫の、接食する所と為りて、昼夜に苦を受くるに、休息有ること無けん、斯の経を謗ずるが故に、罪を獲ること是のごとし。
若し人と為ることを得ば、諸根は暗鈍にして、矬陋攣壁、盲聾背傴ならん、言説する所、有らんに、人、信受せじ、口の気、常に臭く、鬼魅に著せられん、貧窮下賤にして、人の使う所と為り、多病痟痩にして、依怙する所無く、人に親附すと雖も、人の意には在かじ、若し得る所有れば、尋いで復、忘失せん、若し医道を修して、方に順じて病を冶せば、更に他の疾を増し、或は復、死を至らん、若し自ら病有らば、一の救療すること無く、設い良薬を服すとも、而も復、増劇せん、若しは他の反逆し、抄劫し窃盗せん、是の如き等の罪は、横に其の殃に羅らん、斯の如き罪人は、永く仏、衆聖、之、王の、説法教化したまうを、見たてまつらじ、斯の如き罪人は、常に難処に生まれ、狂聾心乱して、永く法を聞かじ、無数劫の、恒河沙の如きに於いて、生まれては輒ち聾唖にして、諸根は具せざらん、常に地獄に処すること、園観に遊ぶが如く、余の悪道、在ること、己が舎宅の如く、駝驢猪狗、是れ其の行処とならん、斯の経を謗ずるが故に、罪を獲ること是の如し、
若し人と為ることを得れば、聾盲瘖唖にして、貧窮諸衰、以て自から荘厳し、水腫乾痟、疥癩癰疽、是の如き等の病、以って衣服と為さん、身は常に臭処にして、姤穢不浄に、深く我見に著して、瞋恚を増益し、淫欲は熾盛にして、禽獣を択ばじ、斯の経を謗ずるが故に、罪を獲ること是の如し。」
この経文は観念でもなければ、虚構でもない。現実生活の実相なのである。日蓮大聖人は、法華経について「六万九千三百八十四文字悉く仏なり」と仰せられ、一言一句ことごとく真実であり、生命のきびしい実相を説き窮めていることを示されている。これほど恐ろしき邪宗教に、人はなぜかくも無感覚でいるのか。
聖愚問答抄にいわく「悲しいかな痛しいかな我等無始より已来無明の酒に酔て六道・四生に輪回して或時は焦熱・大焦熱の炎にむせび或時は紅蓮・大紅蓮の氷にとぢられ或時は餓鬼・飢渇の悲みに値いて五百生の間飲食の名をも聞かず、或時は畜生・残害の苦みをうけて小さきは大きなるに・のまれ短きは長きに・まかる是を残害の苦と云う、或時は修羅・闘諍の苦をうけ或時は人間に生れて八苦をうく生.老・病・死・愛別離苦.怨憎会苦・求不得苦・五盛陰苦等なり或時は天上に生れて五衰をうく、此くの如く三界の間を車輪のごとく回り父子の中にも親の親たる子の子たる事をさとらず夫婦の会遇るも会遇たる事をしらず、迷へる事は羊目に等しく暗き事は 狼眼に同し」(0474:12)
この文は、明らかにわれわれが過去遠々劫より今日よりいかに不幸にさいなまれ、苦悩の巷を流転してきたか、そして、今日、われわれの生命のなかには、いかに多くの不幸なる宿命がひそんであるかを示されたものである。ここに「無明の酒」とは邪宗教である。このように邪宗教は、一人の人間の一生のみならず、測り知れないほど長きにわたって、生命の奥底を支配する。
この地上に展開される地獄絵巻図
しかも、ここに示された姿はけっして、この地上とは別の幻想の世界にあるのではなく、20世紀の今日ですらこの地上に出現したし、また出現しているのである。大焦熱地獄とは、まさに広島、長崎の原爆の悲劇それではないか。一瞬にして火の海と化し、猛火に焼かれゆく人々の苦悩を、地獄と呼ばずして、何といおうか。また、紅蓮地獄とは、八寒地獄の一つであり、この地獄に落ちたものは、極寒のために皮膚が裂けて真っ赤になり、ちょうど紅蓮の蓮華の花に似ているところから、このように名づけられた。だが、これまた現実にあったのである。
第二次世界大戦中、ソ連西部はナチ・ドイツの侵略を受けたが、オデッサの町でも徹底的な反ナチ主義者に対する弾圧が行われた。ナチの親衛隊は、町の広場に鉄の檻をすえ、捕えたパルチザンを裸にして入れて、絶えず水を浴びせた。極寒のために男たちの肉はむけ落ち、赤い花が咲いたようになったという。まさに、紅蓮地獄そのものではないか。
その他、同じくナチがユダヤ人絶滅のために設けた強制収容所、ワルシャワのゲットーの悲惨な姿、また、日本軍がマニラをはじめ各地で行った捕虜虐殺、アメリカ軍とても、そうした行為がなかったわけではないし、いわんや原爆等によって、非戦闘員数十万を焼き殺したではないか。戦争は常に、かかる地獄絵図を描き、人々を、餓鬼界、畜生界、修羅界の狂乱にかりたてるものであろうか。
戦争はすなわち兵革の災、自界叛逆、他国侵逼である。その原因は「世皆正に背き人悉く悪に帰す」(0017:12、立正安国論)ところにあるとの御断言であられる。
真の宗教による宿命打界
もとより、戦争だけが、地獄、餓鬼、畜生界出現の根源ではない。むしろ、戦争そのものは、三悪道の生命に支配された人間の一念のあらわれである。ゆえに、その根を断つためには、正法による宿命打開、生命浄化以外にないことが明らかではないか。
「宿命のこの暗黒な、底気味悪いが、しかし本質的な周律が生命の中に脈うっている。詩人は魅惑されて、学者は拱手して、哲人は絶望してこれをみている。身体の宿命、しかも最も不思議のもの」
ドイツの医学者ハンスムフは、宿命についてかく叫んでいる。しからば、この宿命は打開されえぬものであろうか。多くの哲学、宗教は、宿命は定まれるものとなして、それを諦めさせようとする。そのなかでも、現在の多くの邪宗教は、因縁話で無知な人を鎖でつなぎ、奴隷のようにし、生命力を奪い、生ける屍とさせゆくのである。
だが、人生の実相は、宿命との対決であり、事実、宿命打破へ、宿命打破へと人々の努力は向けられているのである。にもかかわらず、宿命にしばられ、宿命に流され、宿命に泣く人のなんと多きことか。それでも人々の努力は続けられる。単なる宿命説は、人間の本性を無視するものであり、力なき哲学であり、敗北の哲学である。ここに、邪宗教に迷い宿命打破の偉大なる宗教を見失えば、人々は再びまた、未来永劫にわたり、三悪道、四悪道、六道の暗黒の世界をさまようのみである。
“目に見えぬ敵”
邪宗教はかくも恐ろしいものである。ある人いわく「目に見えぬ敵を恐れよ」と。まことに邪宗教こそ“目に見えぬ敵”であり、最も恐れなければならないのは、邪宗、邪義、邪智である。富木殿御書にいわく「智者は怨家・蛇・火毒・因陀羅・霹靂・刀杖諸の悪獣・虎狼・師子等を畏るべからず、彼は但能く命を断じて人をして畏るべき阿鼻獄に入らしむること能わず、畏るべきは深法を謗ずると及び謗法の知識となり決定して人をして畏るべき阿鼻獄に入らしむ」(0969:06)。
この邪宗教の害毒を知ればこそ、われわれは、人に伝えぬわけにはゆかないのである。もし、人が不幸になるのを知って、ただ拱手して見ていたとすれば、その人は卑怯であり非人道であろう。開目抄にいわく「我が父母を人の殺さんに父母につげざるべしや、悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや、悪人・寺塔に火を放たんにせいせざるべしや、一子の重病を炙せざるべしや、日本の禅と念仏者とを・みて制せざる者は・かくのごとし「慈無くして詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり」等云云」(0237:01)と。まことに「言わずんばある可からず恐れずんばある可からず」(0017:14、立正安国論)である。
諸天善神と神天上
人はよく「神は実在するかしないか」といった議論をする。だが「神は実在する」という人も、「神は実在しない」という人も、神そのものについては、きわめて、漠然とした、あいまいな考えしかもちあわせていない。一般に、人々が「神」を口にするとき、人類の未開時代にもった、アミニズムとシヤーマニズムの心霊概念を別にすれば、大きく三種類に分けられる。
三種類の「神」
第一類の神は天地創造の神である。たとえば、ユダヤ教のエホバ、キリスト教のゴット、イスラム教のアラー、天理教の天理王命、金光教の天地金之神がこれに属する。およそ天地創造説が、幼稚な想像にすぎないように、この劇の主役たる神も、また想像の産物にすぎない。近代科学の発達にともなって、その幻影はことごとく打ち消されてしまった。
これと共に、そのような神の神話的な面を否定しながら、思弁哲学という別の面で、神を想定した人々がいる。キリスト教神学の神秘主義が発展し、デカルト、スピノザ、さらにヘーゲルに至る観念論哲学である。彼らは、この世のあらゆる現象が、絶対的な神の意志によって動かされているとすることによって、自己の思弁の体系化を試みたのである。
20世紀後半にはいった今日、唯物論哲学で教育されたソ連の青年科学者たちの間でも、自然界のあらゆる現象の奥に、人智の及ばない不思議の法があるとして、これを神と呼ぶ新しき宗教が芽生え始めているという。
これらはすでに天地創造の神とは、まったく異なった神への発展であるが、その思惟方法は軌を一にしているのではないだろうか。彼らが表現できえないで、ただ概念的に想定しているその神とは、仏法の教えを求めて初めて明らかとなる。すなわち、南無妙法蓮華経の一法こそ、その本体であると断定できるのである。
第二類の神は、氏族の先祖を神格化した氏神、あるいは、生前、功績のあった人を尊敬し、死後も名を残そうとした神社の御神体等の類である。前者の例として、日本の天神七代、地神五代をはじめ、バラモン教の梵天・帝釈、ゾロアスター教のアフラ・マツダ等、アジアその他各地の神々がある。天照大神は天皇家あるいは大和民族の先祖神であり、大国主命は出雲氏族の先祖神という。後者の例では八幡神社には応神天皇が祀られ、また乃木大将や東条元帥、明治天皇も神として祀られていることは、周知のとおりである。
先祖や功労者を神とする宗教は、彼らを敬う民衆の心情を、為政者の営利にさとい連中が利用して、宗教にデッチ上げたものにすぎない。祖先に感謝し、功労者に敬意をいだくのは正しい。これは道徳の範疇である。だが、道徳上の尊敬と、宗教的な救済とはまったく異なる。祀られている先祖や功労者は、土地の開拓者として、あるいは、ある分野のことに関しては才能ある人として、偉大であったかもしれない。だが、人生の苦悩を解決したわけでもなく、永遠の生命を覚知して成仏したわけでもない。迷いの衆生であることに変わりはない。その意味で、自身ですら救えなかった彼らが、死んで衆生を救う力が出てくるなどという不合理は、ありえないことである。
第三の神は仏教に説かれている神である。信仰の対象ではなく、末法の世に正法を受持し弘法に励む者を守るという誓願を立てた諸天善神である。この神の働きは、実在の概念よりも、むしろ作用の概念をもってみるべきもので、日蓮大聖人の生命哲学をもったときに、その人を不幸から守り、あるいは迫害者から守る働きとして現われてくるのである。
諫暁八幡抄にいわく「有る経の中に仏・此の世界と他方の世界との梵釈・日月・四天・竜神等を集めて我が正像末の持戒・破戒・無戒等の弟子等を第六天の魔王・悪鬼神等が人王・人民等の身に入りて悩乱せんを見乍ら聞き乍ら治罰せずして須臾もすごすならば必ず梵釈等の使をして四天王に仰せつけて治罰を加うべし、若し氏神・治罰を加えずば梵釈・四天等も守護神に治罰を加うべし梵釈又かくのごとし、梵釈等は必ず此の世界の梵釈・日月・四天等を治罰すべし、若し然らずんば三世の諸仏の出世に漏れ永く梵釈等の位を失いて無間大城に沈むべしと釈迦多宝十方の諸仏の御前にして起請を書き置れたり」(0578:11)と。
また、治病大小権実違目にいわく「法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(0997:07)と。
すなわち、諸天善神は、悪鬼神と表裏の関係にあって、十界互具の生命自体に、本来備わっている。宇宙全体を生命体とすれば、宇宙に諸天善神がある。世界を一つの生命体とすれば、世界の諸天善神の働きがある。戸田前会長が、一国謗法により敗戦の日本に信教の自由を打ち立てて、妙法流布の体制を整えたマッカーサーを梵天に相当すると教えられたのは、この諸天の謂である。
天照大神、八幡等は、同様の原理にして、日本という一国の国土における諸天善神をいう。さらに、一人の人間革命についても、同じ原理による諸天の働きがあることはいうまでもない。しかして、一個の人間の諸天の働きが、一国、世界、宇宙の諸天をも動かす原動力となるのである。一国の繁栄も、世界の平和も、宇宙の平静も、強盛なる信心に立ったわれら妙法護持者の祈りによって、すべてが決定されていくことを知らなければあらない。
諸天善神について
以上、神について三種類あることを示したが、さらにこのうち第三の諸天善神について述べてみよう。
法華経序品では「爾の時に釈提桓因其の眷属二万の天子と倶なり、復、名月天子、普香天子、宝光天子、四大天王有り、爾の眷属の天子と倶なり。自在天子、大自在天子、その眷属三万の天子と倶なり、娑婆世界の主梵天王、尸棄大梵、光明大梵等、その眷属二千人の天子と倶なり」と、天界の衆生が、法華経の会座につどうありさまが説かれている。天界の衆生ばかりでない。菩薩界の衆生も、声聞衆も、その他の雑衆としてあげられる衆生も、つどいきたり、それはまことにおびただしい数にのぼる。
この序品の儀式は、いったい何を意味するであろうか。戸田前会長はこれについて次のように述べられている。
「さて、この耆闍崛山に集まった第一類声聞衆・第二類菩薩衆・第三類雑衆の数をざっと数えてみれば、約三十万近いと思われる。それ以上であるか、それ以下であるか、若干百千とあるので、推測にまかせるいがいなはない。
これだけの大多数の人間が、どうして集まれたかということが不思議になってくる。たとえ、集まりえたとしても、釈尊の音声がこれらの人へ、どうして聞かせたことか。仏は梵音声があるといって、梵音声の一相をもってこれを片づけるとしても、末代のわれわれ凡夫は信ずることができない。(中略)
ことに雑衆中、帝釈天とか、自在天とか、大梵天とか、また、人にあらざる竜王とか、緊那羅とか、乾闥婆とか、迦楼羅とかにいたっては、どうしてこれを信ずることができようか(中略)
ひるがえって、仏語を案ずるに、仏の言葉はいつわりではない。しからば何を意味するのか。法華経には当体蓮華、譬喩蓮華の義がある。
当体蓮華とは、動かすことのできない真理の直接説明であり、譬喩蓮華とは、その真理を譬をかりて説明したものである。たとえば蓮華のことであるが、因果俱時の法それ自体を説く時は当体蓮華であって、因果俱時の法を蓮華の花をかりて、その花と実が同時にあることを示して、これを説明するのは譬喩蓮華である。
この序品の三類の大衆の集まりは、すなわち譬喩蓮華であって、当体蓮華ではないのである。
しからば序品の当体蓮華葉いかん。何万の声聞、何万の菩薩、何万の雑衆は、ことごとく釈迦己心の声聞であり、釈迦己心の雑衆である。妙法蓮華経は、釈迦の命であり、釈迦の心である。さればこそ、十界の衆生はことごとく釈迦の内証に住むというとも、なんの間違いもないのである」
ここに示されたごとく、序品の儀式は、ことごとく一念三千の生命哲理をあらわしたものである。
ここに、梵天とか、帝釈といった諸天善神は、なにも、あの絵にかかれたようなものが、どこかにいるのかではなく、生命の、本質に備わる働きにほかならないことが、さらに明瞭となろう。
仏の生命にせよ、われわれの生命にせよ、ことごとく、これらの働きに備わっている。さらに、国土も、否、大宇宙それ自体が一個の偉大なる生命体である。そして、これらの働きは、大宇宙に遍満しているのである。では諸天善神とは、いかなる働きをさすか、それは、宇宙の働きのなかで、われわれの生活を守護する「働き」をいうのである。
しかして、先に引用の治病抄の「元品の法性は梵天・帝釈と顕われ」の文のごとく、大御本尊によって、仏界が顕現したときに、われわれの生命のなかに、梵天・帝釈の生命の働きが活発となり、また、それに呼応して、大宇宙が、われわれに梵天、帝釈として働き出し、いかなる災難、いかなる圧迫にもおかされない、悠々自適の生活をしていくことができるのである。宇宙のさまざまな事物や現象、すなわち天体の動き、太陽の光り、星辰のまたたきであれ、雨や風であれ、山川草木であれ、動物であれ、人間であれ、すべてがわれわれの幸福実現へと動き働くのである。
逆に、「元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」の文のごとく、われわれが、邪宗教に迷い、心中に悪鬼、魔鬼の働きをなし、幾多の災難をもたらし、苦にさいなまれる人生となる。すなわち、世の中のあらゆる現象が、われわれの生活を不幸不幸へと導くのである。
この関係について、日蓮大聖人は、法華初心成仏抄に次のように述べられている。
「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、譬えば籠の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば籠の中の鳥も出でんとするが如し口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ」(0557:06、法華初心成仏抄)
「籠の中の鳥」とは、わが心中の仏界であり、その梵天・帝釈の生命活動であり、「空飛ぶ鳥」とは、大宇宙の仏界であり、その梵天・帝釈の働きである。かくして、妙法を護持した一念にめざめ、またそこよりほとばしり出でるたくましき智慧の力により、宇宙の現象を、望ましい方向へと変化させていくことができるのである。さらに、法華経の授記品に「魔及び魔民有りと雖も、皆仏法を護らん」とあるごとく、魔の働きをも、変毒為薬し、諸天の働きになしゆくことができるのである。されば、悪魔のごとき人類を脅かす原爆水爆の原子核分裂や、原子融合の反応作用すら、われわれの一念で、人類のために、役立てることができるのである。
このように諸天善神は、正しき人を守り、国土を守り、さらに邪なる人を罰する“生命の働き”であるが、さらに、これらの働きをする人も諸天善神である。日蓮大聖人が、伊豆の伊東へ流罪されたときに、大聖人を守り抜いた船守弥三郎夫妻に対し、船守弥三郎許御書に「法華経第四に云く『及清信士女供養於法師」と云云、法華経を行ぜん者をば諸天善神等或はをとことなり或は女となり形をかへさまざまに供養してたすくべしと云う経文なり、弥三郎殿夫婦の士女と生れて日蓮法師を供養する事疑なし』」(1445:09)と述べられている。
また、一国の、はたまた世界の正しき指導者は梵天・帝釈等といえるであろう。なぜかならば、その使命は、国を安穏に保ち、民衆を守ることだからである。だが、現代の世界の指導者は、梵天・帝釈のよき指導者の姿を現じているだろうか、残念なことに、兄弟抄に「此の世界は第六天の魔王の所領なり」(1081:15)とあるごとく、多くの場合魔の姿を呈しているのである。ヒトラーしかり、スターリンしかり、また現在、世界を戦争にかりたてる指導者もしかりである。
仏法における天照大神と八幡大菩薩の意味
次に、第二の神すなわち氏神信仰の神である天照大神、八幡大菩薩が、大聖人の仏法において、正法護持の守護神として用いられているが、その関係についてはどうか。
それは、先にも述べたごとく、神道では天照大神も八幡大菩薩も拝む対象となっているのに対して、仏法では拝む対象ではなく、妙法の働きとして、考えられているので、同じ名であっても、内容は全く違う。具体的にいえば、天照大神は、前述のごとく、もともと天皇家あるいは大和民族の先祖神である。だが、大聖人の仏法においては、もはや遠い過去の先祖神ではなく、日本民族を隆々と発展させ、日本の国土を守る“生命の働き”として説かれているのである。
天照大神は日神ともいう。産湯相承事には「富士は郡名なり実名をば大日蓮華山と云うなり、我中道を修行する故に是くの如く国をば日本と云い神をば日神と申し仏の童名をば日種太子と申し予が童名をば善日・仮名は是生・実名は即ち日蓮なり」(0879:09)とある。また諫暁八幡抄には「天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ」(0588:18)とある。まことに日本国とは不思議な国である。御本仏出現の国であり、太陽のごとき赫々たる大白法 三大秘法流布の国であり、全世界へ大仏法が流布する発祥の国である、日本国には、日本民族にそれだけの下地があったといえる。この日本の国土、民族の底流にある、仏法を流布せしめる力、国土を繁栄させ、隆々と民族を発展せしめる力、これを天照大神と名づけたのである。されば天照大神とは、妙法の働きであり、それ以外はなにものでもない。妙法が邪宗・邪義・邪智のためにおおわれたならば、天照大神の働きがなくなるのも当然であろう。百六箇抄に「脱益守護神の本迹 守護する所の法華は本・守番し奉る処の神等は迹なり、本因妙の影を万水に浮べたる事は治定と云云。」(0857)と。
また、八幡大菩薩とは神道においては古の日本の功労者、人王第15代の応神天皇を祀り、のちに、これを八幡神の化身として、このような称号を与えたものである。だが、大聖人の仏法においては、八幡大菩薩という特定の人をさすのではなく、八幡大菩薩という方程式、あるいは生命の働きをだしているにほかならない。
本尊三箇相伝にいわく「八幡大菩薩の体即法華経なり、其の故は八とは法華八軸なり、幡とは篇は巾篇是れ則衣装の類なり、作リは米と云う字を上に書き下に田と云う字を書く、是れ則米穀の類なり、されば衣食二つ併ら八幡の御徳なり」
この文を私に解釈することは恐れ多いが、少し思索したところを述べてみれば、「法華八軸」とは、妙法蓮華経である。そしてこの妙法蓮華経の力によって、衣食に困ることなく、平和に暮らしてゆけるのである。しかして、こうした働きをする人、すなわち民衆に不自由なき生活を送らせることのできる指導者もまた、八幡大菩薩の立場である。
ところが、今や日本国の指導者にそのような心の持ち主は、ほとんど皆無になってしまった。正法に背いたがゆえである。かかる姿が、日本の敗戦を招いたのであった。
神天上の現証
「神天上」とは、この御文にあるごとく、人々がことごとく正法に背き、悪法に帰依したがゆえに、守護の諸天善神は正法の法味に飢えて神威を失い、その国土を捨てて、天界に帰ってしまうがゆえに、その国、またその民衆の中に、悪鬼、魔神の生命がはいりこみ、数々の災難が起こってくるということである。
「神天上」については、これほど明確な大聖人の御文があるにもかかわらず、大聖人滅後、この正義を伝えたのは、日興上人お一人であった。他の五老僧は悉く正法に背いて伊勢神宮の参詣という大謗法を犯したのである。
「富士一跡門徒存知の事」にいわく、
「一、五人一同に云く、諸の神社は現当を祈らんが為なり仍つて伊勢太神宮と二所と熊野と在在所所に参詣を企て精誠を致し二世の所望を願う。
「日興一人云く、謗法の国をば天神地祇並びに其の国を守護するの善神捨離して留らず、故に悪鬼神・其の国土に乱入して災難を致す云云、此の相違に依つて義絶し畢んぬ。」(1602:04)と。
この一事をもってしても、日蓮大聖人の正義、立正安国論の大精神を、純粋に守り、今日に伝えてきたのは、第二祖日興上人のみであることは明らかである。
正法の法味とは、いうまでもなく妙法蓮華経である。諸天善神が法味をなめなければ、勢力がなくなり、その国土を去るとは、もともと諸天善神は妙法の働きである。その妙法が謗法によっておおわれてしまえば、その働きがなくなったからである。この「神天上」を現代的にいえば、もはや、国土に、そうした諸天の働きをする立ち場の人、すなわち民衆を守り、国土を安穏にすべき、よき指導者がいなくなったことをも意味する。
神天上は、事実として明瞭である。太平洋戦争がなによりも雄弁にこれを物語っている。天皇を現人神と称し、国を神国日本と称え、国を挙げて天照大神への信仰をなさしめ、無謀な戦争をしたのである。国民は、最後まであの蒙古襲来の時のように、神風が吹くことを信じ込まされた。しかし、ついに神風は吹かず、国破れて、神道のいう神のいないこと立証されたのである。
あの時国土の荒廃は何を意味するであろうか。また、当時の民衆の無知と貧困、かつ栄養不足のためにやせ衰え、路頭にさまよった姿は、一体何を示すのであろうか。さらに横暴なる軍部の指導者、またこれに仰合したジャーナリズム、学者等の、あの卑劣な姿は一体。なにであろう。
まさしく国土にも、民衆の心に、指導者の生命の中にも清浄なる生命の流れは途絶え、福運のまったくなくなったことを如実に示しているではないか。
また、終戦後の連合軍の矢継ぎ早の指令によって、神道の破滅は自白のもとに晒された、これこそ、仏法上からみれば、諸天善神が国を捨離し、他国の梵天・帝釈の治罰を被った姿にほかならないのである。一国謗法の総罰であった。
創価学会の前進と諸天の加護
だが、この一国滅亡のなかに、広布の胎動があったのである。妙法の清浄なる法水はこの正法の滅せんとする時、戦後の焼け野原に一人立った地涌の棟梁こそ恩師戸田前会長であった。
日本の再建は創価学会の再建と軌を同じくしていた。以来、創価学会は発展を続け妙法の功徳に浴する人は、五百数十万世帯(S41年)を数えるに至っている。それとともに、日本の興隆もまた著しいものがあった。指導者の無能にもかかわらず、また国論がいまだに四分五裂の険しい対立と葛藤をくりかえしているにかかわらず、今日までの飛躍的な大発展は、まさに奇跡にも等しい。これこそ、民衆の中に、閉ざされていた強靱なる生命力が発現しつつある姿にほかならない。これを仏法から論ずるならば、学会員が増えて妙法の音声に天照大神、八幡大菩薩の諸天も呼び覚まされ、活動を開始した現証といえよう。
さらにまた、今日まで、米ソ・米中の谷間にありながら、日本民族が厳然とまもられてきたという事実、また二大陣営の核装備により、文字どおり火薬庫と化した世界にあって、これまでに、キューバ危機をはじめ、一触即発の危機が何回となくあった。さらに、フランス、中国の核武装、米仏、中ソの対立、民族主義の台頭等々、混乱と戦争の危機が増大するなかにあって、不思議と避けられてきたことは、まことに幸運であり、梵天・帝釈等の諸天の加護としかいいようがない。
御書にいわく「日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれ」(0919:17、種種御振舞御書)と。蒙古の大軍の襲来に際して、日本民族が不思議にも守られたのは、御本仏、日蓮大聖人がひかえておられたがゆえであるとの御文である。同じく、今日まで日本が守られ、世界もまた第三次大戦を免れてきたのは、日蓮大聖人の仏法を奉持して、民衆救済に立ち上がった創価学会が厳然とひかえておればこそと叫んでやまない。
だが、そのあとに「はうに過ぐれば罰あたりぬるなり」(0919:18、種種御振舞御書)と仰せである。すなわち、現在に約せば、もし創価学会の主張を用いようとせず、広宣流布を阻止するならば、日本も世界も諸天の働きがなく、魔王魔民の充満するところとなり、滅亡の一途を辿るであろうとの御金言である。
ゆえに、われわれは、瞬時たりとも、広宣流布の歩みをとどめることなく、日々、月々、年々に、信心を増し、真一文字に世界平和への大道を進みきる決意である。
偉大なる宗教の個人への影響
すなわち、個人にあっては、偉大なる宗教は、第一に、偉大なる人間革命をもたらす。人間革命とは、精神革命であり、身体革命であり、生命力・生活力の革命であり、人間自体の革命であり、生命自体のレポリューションである。
偉大なる宗教は、第二に、必ず各人の福運を増進させる働きを持つことである。いかなる悪運も、いかなる不運も最高の宗教は、三世の生命観に立脚した生命哲学によって、宿命を本源的に転換させ、福運を、良運を与えきっていくものだ。世に運命論者と称する人もあり、逆に運命それ自体を否定する人も多いが、いずれも誤りである。運命論者のいうごとく、人がうまれながらにして、定まれる運命があるとするならば、人生における努力や精進は、まったく無意味になってしまうではないか。事実は人生を思索すればするほど、運命の存在を肯定せざるをえない。
良き運命は変える必要はない。そしてなお一層増幅したいものだ。しかし悪しき宿命は転換して、福運に変えていかねばならぬ。
実業家の松下幸之助氏が、東北大学の講演で「私の実業界における成功は、努力もさることながら、本質的には運がよかったことに尽きる。わたし以上に努力した人でも、失敗に終わった人が大勢いる。私が少年時代、大阪で周航船に乗ったとき、誤って川に落ちたのに、不思議に助かった、その時も、私は運が良いと確信した」等と話したのは有名な話であるが、このような良運も、仏法を根底としないかぎり、いつかは尽きざるをえない。すなわち、本源的な宿命の転換は、大仏法によって、はかりうるのである。
第三に、偉大なる宗教は、大いなる智慧を発揮させうるのである。以信代慧、すなわち信心を以て智慧に代えるとは、仏法の偉大なる哲理である。仏界を湧現させることが、大仏法の極到である。偉大なる御本尊を信ずることによって、まことにすばらしい仏智を湧現させうるのである。智慧は、人生を勝ち抜く要諦である。しかし、この智慧は、けっして単なる智慧やその集積でないことを付言したい。
第四に、偉大なる宗教は、各人に偉大なる思想、哲学を与え、偉大なる社会観、人生観、世界観を身につけさせることである。近世フランスの大文豪、ビクトル・ユーゴーは「時を得た思想ほど力強きものはない」と喝破した。これは個人にあっても、国家・社会にあっても、不変の哲理であろう。パスカルは「人間は考える葦である」といったが、一面の真理を含むものである。
動物すら、すべて食うために努力し、生活を戦い、眷属を養い、団体や種族の発展に、全力をあげている。もし人間として確固たる思想、哲学、人生観をたもちえないとしたならば、これ動物にも劣る存在といわざるをえない。
しかも、思想、哲学といっても、偏狭で、非科学的な不合理なものであってはならぬ。道理正しく、科学的で、人類のすべてに普遍的であり、あらゆる人を成長させうるものでなければならない。われわれは、かかる優れた思想、哲学の根源こそ、偉大なる宗教であり、生命哲学であると主張するものである。
第五に、偉大なる宗教を信ずる者は、諸天善神の加護を受けることができる。諸天とか善神とかいえば、現代社会にあっては、迷信のごとく感ずる人もあるかもしれない。しかし、それは仏法における生命哲学のなんたるかを知らぬ者の考えにすぎない。もちろん、われらは、絵像木像の神仏などをもって、諸天善神となすものではない。近代科学、あるいは科学的宇宙観等に照らしても、宇宙それ自体が、大いなる生命体であり、この地球もまた、その一生命体であることは、いよいよ明白にされつつある。この宇宙には、地球のごとく、生物が発生し生存する惑星が、何千億個も存在するだろうと推測されることは、もはや常識となっている。しかも、仏法においては真に根源的な生命観、宇宙観を説ききっているのである。そこで、このような生命哲学からみれば、偉大なる道理正しい宗教を奉ずる者こそ、人間的な健全な成長を、安心して生活していける働きを、一身に受けていくことがでよう。この宇宙にみなぎる働きをさして、われらは諸天善神の働きというのである。
以上、偉大な宗教が、いかに信仰する個人に大いなる影響を与えるかを考察してみたのであるが、これは家庭にあっても、同じことがいえよう。人間革命しきった人が、家庭の中にふえれば増えるほど、この家庭は、明るく、平和に、充実しきっていくことは、当然であり、家庭そのものが、革命された姿になるのである。