御衣並単衣御書

要文

この衣をつくりて、かたびらをきそえて法華経をよみて候わば、日蓮は無戒の比丘なり、法華経は正直の金言なり。毒蛇の珠をはき、伊蘭の栴檀をいだすがごとし。

御衣並単衣御書

 建治元年(ʼ75)9月28日 54歳 富木家

 御衣の布ならびに御単衣、給び候い了わんぬ。
鮮白比丘尼と申せし人は、生まれさせ給いて御衣をたてまつりたりけり。生長するほどに、次第にこの衣、大になりけり。後に尼とならせ給いければ、法衣となりにけり。ついに法華経の座にして記別をさずかる。一切衆生喜見如来これなり。また、法華経を説く人は、「柔和忍辱衣」と申して必ず衣あるべし。
物だねと申すもの、一つなれどもうえぬれば多となり、竜は小水を多雨となし、人は小火を大火となす。衣かたびらは一つなれども、法華経にまいらせさせ給いぬれば、法華経の文字は六万九千三百八十四字、一字は一仏なり。この仏は、再生敗種を心符とし、顕本遠寿をその寿とし、常住仏性を咽喉とし、一乗妙行を眼目とせる仏なり。「応化は真仏にあらず」と申して、三十二相八十種好の仏よりも法華経の文字こそ真の仏にてはわたらせ給いて、仏在世に仏を信ぜし人は仏にならざる人もあり、仏の滅後に法華経を信ずる人は「一りとして成仏せざることなけん」、如来の金言なり。
この衣をつくりて、かたびらをきそえて法華経をよみて候わば、日蓮は無戒の比丘なり、法華経は正直の金言なり。毒蛇の珠をはき、伊蘭の栴檀をいだすがごとし。恐々謹言。
九月二十八日    日蓮 花押
御返事

 

背景と大意

このお手紙は、文永2年(1275年)9月28日に日蓮大聖人が身延で書かれたものです。 富木常忍夫妻、特に下総国の富木常忍の妻に送られたものと考えられています。 大聖人は、富木の妻が供物として送った袈裟と単衣の恩恵について、釈迦の予言を受けた鮮白比丘尼の話を引用して、彼女は必ず成仏できると断言しています。そして、法華経を信じるすべての人に仏陀の境地を保証するのは他ならぬ法華経である、と彼は強調しています。

 

現代語訳

袈裟用生地と単衣の袈裟

あなたが送ってくれた袈裟の生地と単衣の袈裟を受け取りました。鮮白比丘尼と呼ばれる女性は、袈裟を着て生まれました。 そして彼女が成長するにつれて、この袈裟は少しずつ大きくなりました。 その後、彼女が尼として叙階されたとき、それは、その尼の袈裟として機能しました。 そして最後に、法華経を説く集会で、鮮白比丘尼は来世で仏陀になるという予言が授けられました。 彼女の名前は、すべての生き物に喜んで見られる「かくして来た者」(一切衆生喜見如来)となりました。また、法華経を説く者は、柔和忍耐の衣と呼ばれる衣(柔和忍辱衣)を備えています。
たとえ一粒の種でも蒔けば増えます。 龍は少量の水を大雨に変え、人間はわずかな火の粉を大きな炎に変えます。 単衣は一枚しかありませんが、法華経に供養する際には、経典の69,384文字すべてに供養することになり、それぞれが仏となります。 これらの仏たちは、朽ち果てた種子の生命の再生(再生敗種)を心とし、本覚の啓示と無量寿(顕本遠寿)を命とし、常住の仏性(常住仏性)を喉とし、一乗の妙行(一乗妙行)を目としています。
仏が人々の能力(機根)に応じて現れた仮の姿は、本当の仏ではありません。 三十二性八十種好の仏ではなく、法華経の文字こそが真実の仏なのです。 したがって、ブッダの生涯には、ブッダを信じたが、自分自身がブッダになることはなかった人々がいました。 釈迦入滅後、法華経を信じる者は「成仏できない者はいない」とされています。これが、如来の黄金の言葉です。
この袈裟をあなたの生地で仕立ててもらい、単衣も着て法華経を読誦します。 そうしますと、私は無戒の僧ですが、法華経は正直で正しい金言の経典であるため、毒蛇が宝石を吐き出したり、伊蘭の生い茂る間で白檀の木が生い茂るようなものになります。

深い敬意を表しつつ、

日蓮

9月28日

あなたへの私の返事

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