大田殿女房御返事(金色王の事)
弘安元年(ʼ78)9月24日 57歳 大田乗明の妻
八木一石付けたり十合。
ていれば、大旱魃の代にかわけるものに水をほどこしては、大竜王と生まれて雨をふらして人天をやしなう。うえたる代に食をほどこせる人は、国王と生まれて、その国ゆたかなり。
過去の世に金色と申す大王ましましき。その国をば波羅奈国と申す。十二年が間旱魃ゆきて、人民うえ死ぬことおびただし。宅中には死人充満し、道路には骸骨充満せり。その時、大王、一切衆生をあわれみて、おおくの蔵をひらきて施をほどこし給いき。蔵の中の財つきて、ただ一日の供御のみのこりて候いし。衆僧をあつめて供養をなし、王と后と、衆僧と万民と、皆うえ死なんとせしほどに、天より飲食雨のごとくふりて、大国一時に富貴せりと金色王経にとかれて候。
これもまたかくのごとし。この供養によりて、現世には福人となり、後生には霊山浄土へまいらせ給うべし。恐々謹言。
九月二十四日 日蓮 花押
大田入道殿女房御返事
現代語訳
米一石、穀類十合をつけていただきました。
さて、ひどい日照りの世に渇いたものに水を施したことによって大竜王と生まれて、雨を降らして人界と天界の衆生を養い、飢饉の世に食べ物を施した人は、国王と生まれて、その国は豊かであるということです。
過去の世に金色という名の大王がいました。その国を波羅奈国といいます。十二年の間、日照りが続いて、人民が飢えて死ぬことはおびただしい数にのぼりました。家の中には死人が充満し、道路には骸骨が充満していました。
その時、大王は一切衆生を哀れんで多くの蔵を開いて、たくさんの物を施されました。蔵の中の財物が尽きて、ただ一日分の食べ物だけが残りました。多くの僧を集めて供養をして、王と后と多くの僧と万民がすべて飢えて死ぬという時に、天から飲み物と食べ物が雨のように降って、大王の国は一時に豊かに富んだと金色王経に説かれています。
あなたの御供養もこれと同じです。この御供養によって、今の世には福徳のある人となり、未来の世には霊山浄土へきっと参られるでしょう。恐恐謹言。
九月二十四日 日蓮花押
大田入道殿女房御返事
語句の解説
旱魃
長い間雨が降らなかったことによって起こる水不足。ひでり。
竜王
竜の王。八番のひとり、大海の水底にある竜宮に住むとされ、八竜王(難陀・跋難陀・娑羯羅・和修吉・徳叉迦・阿那婆達多・摩那斯・優鉢羅)をいう。
人天
人界と天界のこと、また、その衆生。人界は人間としてのごく普通な平穏な心・生命状態・境涯。天界は快楽に満ちた境涯。
うえたる代
食料が欠乏して餓死者が出る世の中。
国王
国土を統率し、臣民を治める元首。行いが仁義に合し、民の帰依するものをいう。功徳は帝に次ぎ、徳政を政治の主とする者ともいう。説文には「王は天下の帰往するところなり。董仲舒にいわく、古の文を作る者、三画して、三の中を連ね、これを王という。三は天・地・人なり、之を参通する者は王なり、孔子のいわく、一、三を貫くを王となす」とある。諌暁八幡抄には「王と申すは天・人・地の三を串くを王と名づく、天・人・地の三は横なりたつてんは縦なり、王と申すは黄帝・中央の名なり、天の主・人の主・地の主を王と申す」(0587)とあり、王となる原因の修行については、心地観経に「諸王の受くる所の諸の福楽は往昔曾つて三の浄戒を持し戒徳熏修して招き感ずる所人天の妙果・王の身を獲」とあり、安然和尚の広釈にも「菩薩の大戒は持して法王と成り犯して世王と成る」とある。これらの文を引いて十法界明因果抄に「小乗戒を持して破る者は六道の民と作り大乗戒を破する者は六道の王と成り持する者は仏と成る是なり。」(0432)と申されている。民主主義の社会においては、主権は国民にあり、王は国民によって選ばれた政治家である。
過去の世
三世の一つで過去世のこと。
金色と申す大王
金色王のこと。釈尊の過去世の姿。金色王経によると、王は人格者で非常に裕福であり、長いあいだ国を安穏に治めていた。ところが、12年ものあいだ雨が降らないことがあった。王は一人の餓死者をも出さないために、全インドの穀物を一か所に集めて、それを全人民に均等に分配しつつ対処したが、11年目を過ぎると穀物は欠乏し、やがて5升の飯だけしかなくなってしまった。そのとき辟支仏・世尊が来て食を求めたので、王は残っていた王の一食分の食事である5升の飯を布施した。そして王や大臣達が餓死する覚悟をしていると、雲が起こり種々の食物が降ってきたという。
波羅奈国
ヴァーラーナシー(vārānasī)の音訳。古代インドの国名。釈尊が成道後、はじめて四諦を説いた鹿野苑はこの国にある。
人民
人々。
一切衆生
すべての生あるものをいう。なかんずく人間をいうが、人種・男女・老幼を問わず、全人類を含む。
蔵
穀物などを保管しておく建物。
施
布施のこと。人に物を与えること。
財
財産。
衆僧
多くの僧侶。
供養
梵語(Pújanā)の訳で、供施、供給、また略して供ともいう。供給奉養の意で、報恩謝徳のために、仏法僧の三宝に、真心と種々の物をささげて回向することである。これに、財と法の二供養、色と心の供養、亊と理の供養、さらに三種、三業、四事、四種、五種、六種、十種等の別がある。財供養とは飲食や香華等の財物、浄財を供養すること。法供養とは、仏の所説のごとく正法を弘め、民衆救済のために命をささげることで、末法の時に適った法供養は三類の強敵・三障四魔を恐れず、勇敢に折伏に励むことである。色心の供養は、この財法の供養と同じである。三業供養とは天台大師の文句に説かれており、身業供養とは礼拝、口業供養とは称賛、意業供養とは相好を想念することとされる。事理供養とは、一往は昔の聖人たちが生命を投げ出して仏道修行した亊供養と凡夫の観心の法門による供養を理供養とする。白米一俵御書には「ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すは・なに事ぞと委細にかんがへて候へば・観心の法門なり、観心の法門と申すは・なに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が・身のかわをわぐにて候ぞ、うへたるよに・これはなしては・けうの命をつぐべき物もなきに・ただひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が・身命を仏にまいらせ候にて候ぞ、これは薬王のひぢをやき・雪山童子の身を鬼にたびて候にも・あいをとらぬ功徳にて候へば・聖人の御ためには事供やう・凡夫のためには理くやう・止観の第七の観心の檀ばら蜜と申す法門なり」(1596)とある。なおこの供養について最も肝心なことは、正法に対するくようでなければならず、邪法への供養は堕地獄の業因となる。
后
天皇・王候貴族の妻。
万民
すべての人々。
飲食
飲み物や食べ物。
大国
国土が広い国。国力のある国。
富貴
財物に富み身分が高いこと。
金色王経
東魏の般若流支訳1巻。釈尊が金色王であった時に行じた菩薩行が説かれている。この金色王の話は菩薩本行経にも類似したものがある。
現世
過去・現在・未来の三世のなかの現在。この世、娑婆世界のこと。
福人
福徳のある人。
後生
未来世。後の世のこと。また未来世に生を受けること。三世のひとつ。
霊山浄土
釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
恐恐謹言
恐れかしこみ申し上げるの意で、手紙の最後に書くていねいなあいさつ語。
花押
文書・手紙が自己の意思に基づくものであることを証明するしるし。
講義
本抄は大田左衛門尉の夫人が米一石と穀類十合の御供養を身延におられる日蓮大聖人に差し上げたことに対する御返事である。
系年は弘安元年(1278)9月24日で、大聖人57歳の御時であられる。なお、本抄の御真筆は現存しない。
内容は、飢饉が起きたときに王宮の蔵の穀物をすべて施したことにより国王が受けた功徳の大なることを説いた金色王経の説話が紹介され、大聖人に供養した大田夫人の福徳がいかに大きいかを述べられて励まされている。
なお、金色王については上野殿御返事(須達長者御書)にも次のように紹介されている。
「金色王と申せし王は其の国に十二年の大旱魃あつて万民飢え死ぬる事かずをしらず、河には死人をはしとし・陸にはがいこつをつかとせり、其の時・金色大王・大菩提心ををこしておほきに施をほどこし給いき、せすべき物みなつきて蔵の内に・ただ米五升ばかりのこれり、大王の一日の御くごなりと臣下申せしかば・大王五升の米をとり出だして・一切の飢えたるものに或は一りう・二りう・或は三りう・四りうなんど・あまねくあたへさせ給いてのち・天に向わせ給いて朕は一切衆生のけかちの苦に・かはりて・うえじに候ぞと・こえをあげて・よばはらせ給いしかば・天きこしめして甘呂の雨を須臾に下し給いき、この雨を身にふれ・かをにかかりし人・皆食にあきみちて一国の万民・せちなのほどに・命よみかへりて候いけり」(1574:06)
この文は、金色王という王は、その国に12年間にわたる大旱魃があって、万民が飢え死にすること数知れず、川には死人を橋とし、陸には骸骨を塚とするような状態であった。その時、金色大王は大菩提心を起こして大いに布施をされた。布施すべき物が皆尽きて、蔵のなかにただ米が5升ばかり残った。「大王の一日分の御食事です」と臣下が申し上げたところ、大王は5升の米を取り出して、一切の飢えた者に、あるいは一粒・二粒などというようにあまねく与えられた後、天に向かわれて「我は一切衆生の飢えの苦しみに代わって飢え死にするであろうぞ」と声を上げて叫ばれたところ、天はこれを聞かれて甘露の雨を即座に降らされた。この雨が身に触れ顔にかかった人は、皆、食べ物に飽きるほど満ち足り、一国の万民は瞬時のうちに命が蘇ったのである。との意である。