大尼御前御返事

 ごくそつ・えんま王の、長は十丁ばかり、面はすをさし、眼は日月のごとく、歯はまんぐわの子のように、くぶしは大石のごとく、大地は舟を海にうかべたるようにうごき、声はらいのごとくはたはたとなりわたらんには、よも南無妙法蓮華経とはおおせ候わじ。
 日蓮が弟子にてはおわせず。よくよく内をしたためて、おおせをかぼり候わん。なずきをわり、みをせめて、いのりてみ候わん。たださきのいのりとおぼしめせ。これより後は、のちのことをよくよく御かため候え。恐々謹言。
  九月二十日    日蓮 花押
 大尼御前御返事

 

現代語訳

獄卒や閻魔王の身の長は十丁ほどで、顔面は朱を注いだようで、眼は日月のように、歯はまんぐわの根元のようで、拳は大石のようである。彼等が歩くと大地は舟を海に浮かべたように動き、彼らの声は雷のようであり、はたはたと鳴りわたる。彼らに責められた時には、よもや南無妙法蓮華経と仰せになれないだろう。日蓮の弟子ではない。内をよくよくしたためて、仰せを承ることとしましょう。頭を破り、身を責めて祈ってみよう。ただ、これからさきの祈りと思いなさい。これより後は、後生の事をよくよくかためられることが肝要であろう。恐恐。

九月二十日             日 蓮 在御判

大尼御前御返事

 

語句の解説

ごくそつ

地獄にいる鬼の獄吏のこと。閻魔王の配下にあるので閻魔卒ともいう。倶舎論巻十一に「心に常に忿毒を懐き、好んで諸の悪業を集め、他の苦を見て欣悦するものは、死して琰魔の卒と作る」と、獄卒となる因を明かしている。

 

えんま

梵語ヤマラージャ(Yamarāja)の音訳。炎魔・琰魔・閻魔羅社とも書く。訳して、縛、双王、双世、遮止、静息、平等王という。悪の恐ろしさを知らせる死後の世界の大王で、仏教では、餓鬼界・地獄界の主となり地獄に住み、十八の将官と八万の獄卒を従え、死んで地獄へ堕ちた人間の生前の善悪を審判懲罰する大王とされている。

 

まんぐわ

馬鍬の変化した語。「まんが」とも書く。土を耕すのに用いる鉄製の道具。

 

くぶし

こぶし・にぎりこぶしのこと。

 

さきの・いのり

後生善処の祈り、未来世の幸福のための祈り。

 

のちの事

後生善処のこと、未来世の成仏のこと。

 

講義

本抄は、身延から安房・東条郷の大尼御前に送られたお手紙の断簡である。御真筆は、京都頂妙寺にあり、お手紙最後の第二十二紙十四行の御文がしたためてある。御述作の年次は920日とあるだけで不明である。

内容の要旨は、大尼の謗法退転を地獄の業であり、死後、かならず恐るべき閻魔王の責め苦を受けると戒め、「大尼は日蓮の弟子でもない」ときびしく仰せられながら、もし信ずる本心があるならば、後生の成仏のために、しっかり信心をしていくことが大事であると教訓されている。

はじめに、獄卒・閻魔王の怪奇な形相等を示し、地獄に堕ちた者が閻魔王の前に立ったとき恐怖のあまり声を失い、まさか南無妙法蓮華経とは唱えられないであろうと仰せである。

大尼は、かねてから信心が弱く不安定で、信じたり信じなかったりというような状態であった。とくに、大聖人の竜の口、佐渡流罪という幕府権力による大法難が起きた時には、ついに法華経を捨て退転してしまったのである。その後、大聖人が赦免となり、世間が和らいでくると、ふたたび信心を取り戻し、大聖人に御本尊の授与を願うのであるが、御本尊の授与は許されなかった。さらにその後も大聖人は大尼の動揺しやすい信心に対して、しばしば注意されていたようである。

本抄は、このような大尼に対して、閻魔王や獄卒の恐ろしさを説かれ、後生の地獄の恐ろしさや大苦を思うなら、真剣に信心に励むべきであると仰せられたのである。

開目抄に「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」(0232:02)と仰せのように、いかなる理由があろうと、法華経を捨てることは、地獄の業であり、かならず後生は地獄に堕ち、今生では想像もおよばない恐怖と大苦を受けるのである。

地獄とは、たんなる絵空事ではない。人間生命が瞋りと恐怖の極限に繰り広げる大苦の世界が地獄である。戦争はこの現実に閻魔の責め苦が現じられている瞋りと恐怖の世界であるが、死後の地獄はさらに強大な苦しみを生命に感ずると、仏法は教えているのである。閻魔王とは、難解な生命因果の法理を教えるため、擬人化して示したものといえる。

つぎに、大聖人は、大尼に「今のあなたは、日蓮の弟子でもない」と、きっぱりと仰せである。そして、弟子でもない大尼からなにをいってこようとそれを受けるわけにはいかない、という言外の含みが拝される。まことにきびしい御言葉であり、非情のように思えるが、大聖人の御胸中は大尼をなんとか目覚めさせ後生を助けてあげたいとの御一念であられたのである。

大尼の心の中には、大聖人に対して、御両親との関係もあって、世法上の親しみとわがままがあったと思われる。だから、大聖人の教えを素直に、信心で受けとめられず、愚痴と怨嫉を続けていたのであろう。その大尼の生命の無明を断破する御言葉であったと拝される。

ひとたびは大尼を突き放したうえで、もし法華経を信ずる心があるならば、今までのように、信ずるような格好だけをみせるのではなく、「よくよく内をしたためて」と、本当の心の内を書いてよこしなさいとの仰せである。その本心を確かめたうえで「をほせを・かほり候はん」と、大尼からの〝御祈念の頼み〟を受けることにしようと仰せである。

そして、そのうえでならば、大聖人としても「なづきをわりみをせめて・いのりてみ候はん」と、大尼のために命がけで仏天に御祈念してみようと仰せられているのである。

祈りが叶うためには、本人自身が真剣な信心でなければならない。この信心が御本仏大聖人のお心と一つになって祈りも叶うのである。同様の指導として弁殿御消息には「なづきをくだきて・いのるに・いままで・しるしのなきは・この中に心の・ひるがへる人の有ると・をぼへ候ぞ、をもいあわぬ人を・いのるは水の上に火をたき空にいゑを・つくるなり」(1225:12)と仰せである。大聖人が、きびしく大尼の信心をただしたのはこのためである。信心のない人のために祈るのは、水の上に火をたき、空中に家を造るのと同じで、無理であり不可能だからである。

最後に、祈りについて、なにをめざすべきかを明示されている。「たださきの・いのりと・をぼしめせ」と、ひたすら未来のための祈りであることを自覚していきなさいと仰せられ、これからは「のちの事」、後生の成仏のために、真剣に信心を深め励むよう戒めて結ばれている。

現世の安穏、今生の幸せのみに執着する浅い生き方では、思わぬ障害や困難にあったときに、驚き、恐れ、疑い、退転してしまう場合が少なくない。大尼のこれまでの信心がそうであったのであろう。

他の御抄でも「先臨終の事を習うて」(1404:07)と教えられているように、未来の不壊の幸せをめざし、着実な信行に励むこと、これが「さきの・いのり」である。そこに、いかなる難をも乗り越える信心、宿業転換の信心ができるのである。これは、ひとり大尼御前だけの問題でなく、仏道修行・仏法の信仰に入った全ての人に通ずる根本問題といえよう。

なお、「さきの・いのり」を過去の謗法退転、罪障消滅のための祈りとし、「のちの事」を後生の成仏と解釈する説もある。

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