南条兵衛七郎殿御書
文永元年(ʼ64)12月13日 43歳 南条兵衛七郎
第一章 病を慰労され仏法の重要性示す
御所労の由承り候は、まことにてや候らん。世間の定めなきことは、病なき人も留まりがたきことに候えば、まして病あらん人は申すにおよばず。ただし、心あらん人は、後世をこそ思いさだむべきにて候え。また後世を思い定めんことは、私にはかないがたく候。一切衆生の本師にてまします釈尊の教えこそ、本にはなり候べけれ。
現代語訳
御病気であるとお聞きしたが事実であろうか。世の中の無常であることは、病気でない人も死をまぬかれることはできないのであるから、まして病気の人は申すまでもない。ゆえに心ある人は後世のことを考え定めておくべきである。その後世を考え定めることは、自分の力では不可能である。一切衆生の本師であられる釈尊の教えこそ根本となることができるのである。
語釈
御所労
所労とは①病気、煩いのこと。②疲労、疲れのこと。ここでは①の病気のことと思われる。
後世
後の世。未来世。後生ともいう。
講義
本抄は、文永元年(1264)12月13日、日蓮大聖人43四歳の御時に認められた御手紙である。御真筆が存している。文永元年(1264)12月といえば、同年11月11日の小松原の法難の1ヵ月後にあたる。この年の前年にあたる弘長3年(1263)に伊豆流罪を赦免になられた大聖人は、この年の秋、立宗以来、12年ぶりに故郷の安房に帰られた。帰省の大きな理由として、御母妙蓮の重病を聞かれ、回復の祈念をされんがためであったと考えられる。
その結果、御母の病は癒えたが、大聖人は、その後も安房の地にとどまり、花房の蓮華寺を中心として弘教に専念されるのである。
そうしたなかで、かねてから大聖人を憎んでいた地頭の東条景信が、蓮華寺から工藤吉隆邸へ向かわれる大聖人を襲撃するという事件が起きた。これがいわゆる小松原の法難である。この難については、本抄に詳しく述べられているので後に譲るとして、大聖人は、その後もさらに留まり、旧師道善房と再会されたり、同地の妙法弘通に邁進された。
そして、小松原の法難の1ヵ月後の12月に、日蓮大聖人は、駿河国上野の住人南条兵衛七郎が重病に陥ったことを聞かれて、妙法に対する強盛なる信心を諄々と説かれ、励まされたのが本抄である。
南条兵衛七郎については、すでに本書の序講で述べたとおりであるが、駿河国富士郡の上野郷を領していたところから〝上野殿〟とも呼ばれた。
南条兵衛七郎は、弘長3年(1263)から翌文永元年(1264)の間、もしくは文応元年(1260)から、翌弘長元年(1261)にかけてのころに日蓮大聖人から教化を受けて、それまでの念仏信仰を捨て、法華経に帰依した。しかし全面的には念仏を捨てきれず、法華経の信仰とのはざまで、迷っていた様子が御文からも拝察される。
南条兵衛七郎の病は、本抄の激励を受けて一時は回復したようであるが、翌文永2年(1265)病没している。
本抄の概要は、まず、南条兵衛七郎の重病に対して心のこもった激励をされた後、教・機・時・国・教法流布の前後という五義の教判を説き示されて、法華経の絶対なることを強調されるとともに、どこまでも念仏を捨てて、妙法に対して強盛なる信心を貫くよう勧められている。つぎに、1ヵ月前の小松原の法難の様子を述べられて、法華経の経文どおりに法難を受けた日蓮大聖人こそ「日本第一の法華経の行者なり」と宣言されている。本抄が別名を小松原法難抄とよばれるのはここに由来している。そして最後に、後生についても、日蓮大聖人の弟子として法華経の信心を貫けば、後生善処の功徳を受けられることを力説され、本抄の結論とされている。
なお、本抄全体をとおして、人々の帰依すべき仏として教主釈尊を、法としては法華経を、それぞれ立てられている。これは、どこまでも文永元年という時期でもあり、しかも、御手紙の相手が入信して日も浅く、かつての念仏信仰を完全には捨てきっていない南条兵衛七郎であったことが大きな理由であったと考えられる。
これと関連して、日寛上人は、末法相応抄の中で、大聖人が御在世の門下の釈迦仏造立を称歎された元意について次のように述べられている。
「今謹んで案じて曰く、本尊に非ずと雖も、而も之を称歎する。略して三意有り。一には猶是れ一宗弘通の初めなり。是の故に用捨時宜に随うか。二には日本国中一同に阿弥陀仏を以て本尊と為す。然るに彼の人適釈尊を造立す、豈称歎せざらんや。三には吾が祖の観見の前には、一体仏の当体全く是れ一念三千即自受用の本仏の故なり」と。
ここにも明らかなように、日蓮大聖人が、教主釈尊の帰依を強調されたり、あるいは門下が釈尊の仏像を造立したことを称讃されたりしたのは、一には一宗弘通の初めの時期であり、二には日本国中に阿弥陀仏信仰が流行している風潮に対して、ともかくまず、釈尊の信仰に引き戻すことを目指されたゆえであり、三には、たとえ釈尊を立てられていても、大聖人の観見の前にはそのまま一念三千即自受用身の本仏と映じていたことによるのである。以上のことは、帰依すべき法を法華経とされたことについても同じである。
あくまでも、大聖人の元意は、仏としては久遠元初の自受用身如来、法としては、法華経文底の三大秘法の南無妙法蓮華経であり、この人法一箇の御本尊にあられたことを大前提としつつ、本抄を拝読していかなければならない。
さて、本抄は冒頭、南条兵衛七郎の大病のことから、病なき人であってもこの世に「留りがたき事」すなわち、病なき人でもいつまでも生き続けられるものではない、という永遠の法則から、心ある人は〝後世〟に対する確たる心構えをしなければならないと述べられている。そして、〝後世〟に対する心構えを確立するには自分一人の力では不可能であり、〝一切衆生の本師〟である釈尊の教えを根本にしなければならない、と教えられている。
第二章 宗教の五網のうち「教」を明かす
しかるに仏の教へ又まちまちなり人の心の不定なる故か。
しかれども釈尊の説教.五十年にはすぎず、さき四十余年の間の法門に華厳経には心仏及衆生.是三無差別・阿含経には苦.空・無常・無我・大集経には染浄融通.大品経には混同無二・雙観経・観経・阿弥陀経等には往生極楽、此等の説教は皆正法・像法・末法の一切衆生をすくはんがためにこそとかれはべりけんめ、しかれども仏いかんがおぼしけん・無量義経に「方便の力を以て四十余年には未だ真実を顕さず」と説かれて・先四十余年の往生極楽等の一切経は親の先判のごとく・くひかへされて「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐるとも終に無上菩提を成ずることを得ず」といゐきらせ給いて・法華経の方便品に重ねて「正直に方便を捨て但無上の道を説く」と説かせ給へり、方便をすてよととかれてはべるは四十余年の念仏等をすてよととかれて候、かうたしかにくひかへして実義を定むるには「世尊の法は久くして後要当に真実を説くべし」といひ「久しく斯の要を黙して務いで速かに説かず」等と定められしかば、多宝仏は大地よりわきいでさせ給いてこの事真実なりと証誠をくわへ、十方の諸仏は八方にあつまりて広長舌相を大梵天宮につけさせ給ふ、二処・三会・二界・八番の衆生一人もなくこれをみ候いき、此等の文をみ候に仏教を信ぜぬ悪人・外道はさておき候いぬ、仏教の中に入り候ても爾前・権教・念仏等を厚く信じて十遍・百遍.千遍・一万・乃至・六万等を一日にはげみて.十年・二十年のあひだにも南無妙法蓮華経と一遍だにも申さぬ人人は・先判に付いて後判をもちゐぬ者にては候まじきか、此等は仏説を信じたりげには我身も人も思いたりげに候へども仏説の如くならば不孝の者なり。
故に法華経の第二に云く「今此の三界は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり而も今此の処は諸の患難多し唯我一人のみ能く救護を為す復教詔すと雖も而も信受せず」等云云、此の文の心は釈迦如来は我等衆生には親なり師なり主なり、我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてはましませども親と師とには・ましまさず、ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏に・かぎりたてまつる、親も親にこそよれ釈尊ほどの親・師も師にこそよれ・主も主にこそよれ・釈尊ほどの師主はありがたくこそはべれ、この親と師と主との仰せをそむかんもの天神・地祇にすてられ・たてまつらざらんや、不孝第一の者なり故に雖復教詔而不信受等と説かれたり、たとひ爾前の経につかせ給いて百千万億劫・行ぜさせ給うとも・法華経を一遍も南無妙法蓮華経と申させ給はずば・不孝の人たる故に三世・十方の聖衆にもすてられ天神・地祇にもあだまれ給はんか是一。
現代語訳
そうなのに、仏の教えはまちまちである。それは人の心がさまざまだからであろうか。
しかしながら釈尊の説教は五十年である。前の四十余年の間の法門には、華厳経には「心、仏及び衆生、是の三つは差別が無い」と説かれ、阿含経には「苦・空・無常・無我」と説き、大集経には「染浄融通」と説き、大品般若経には「混同無二」と説き、無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経等には「往生極楽」と説いている。これらの説教は皆釈尊滅後の正法・像法・末法の一切衆生を救うために説かれたのであろう。
しかしながら、仏は何と思われたか、無量義経に「方便の力を以って説いたのである。四十余年の間は、未だ真実を顕していない」と説かれて、親の譲状の先判のように悔い返され、前の四十余年に説いた「往生極楽」等の一切経は「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぎるほど修行しても、ついに無上菩提を成ずることはできない」と言いきられて、法華経の方便品に重ねて「正直に方便の教えを捨てて但無上の道を説く」と説かれたのである。方便を捨てよと説かれてあるのは、四十余年の念仏等を捨てよと説かれたのである。
このようにたしかに前の教えを悔い返して真実義を定めるには「世尊は法久しくして後要当に真実を説くであろう」といい、「久しい間この要法を黙して、いそいで速やかに説かなかった」等と定められたので、多宝仏は大地から涌き出られて、この事は真実であると証明を加え、十方の諸仏は八方に集まって広長舌相を大梵天宮に付けられた。法華経の二処三会に列なった二界八番の衆生は一人ももれなくこれを見たのである。
これらの文を見ると、仏教を信じない悪人・外道はともかくとして、仏教を信じながらも法華経以前の権教、念仏等を厚く信じて、一日に十遍・百遍・千遍・一万遍乃至六万遍等の念仏を称えて、十年・二十年の間に一遍も南無妙法蓮華経と唱えない人々は、親の譲状の先判を用いて後判を用いない者ではないか。それらの人は仏説を信じているように自分も思い、人も思っても、仏説のとおりならば不孝の者である。
ゆえに法華経の第二巻に「今この三界は皆これ我が所有である。その中の衆生はことごとくこれ吾が子である。しかも今この処はもろもろの患難が多い。ただ我一人のみよく救護をなすのである。しかし、種々に教詔しても信受しないのである」と説かれたのである。この文の心は、釈迦如来は我ら衆生のためには親であり、師であり、主である、ということである。我ら衆生のためには、阿弥陀仏・薬師仏等は主ではあるけれども、親と師ではない。ひとり三徳を兼ね具えて御恩深き仏は釈迦一仏に限るのである。親も親にこそよれ、釈尊ほどの親はいない。師も師にこそよれ、主も主にこそよれ、釈尊ほどの師主はおられないのである。この親と師と主との仰せに背く者は天神・地祇に捨てられないことがあろうか。不孝第一の者である。ゆえに「種々に教詔しても信受しないのである」等と説かれたのである。たとえ法華経以前の経について百千万億劫の間修行したとしても、法華経を信じて一遍でも南無妙法蓮華経と唱えることがなかったならば、不孝の人であるゆえに、三世十方の聖衆にも捨てられ、天神・地祇にも怨まれるであろう。これ一である。
語釈
釈尊の説教・五十年
釈尊は19歳で出家し、30歳にして菩提樹下で成道してから、80歳まで入滅するまで50年間にわたって、大小乗の経教を説いたことをいう。
さき四十余年
釈尊は19歳で出家し、30歳にして菩提樹下で成道してから、80歳まで入滅するまで50年間にわたって、大小乗の経教を説いたうちの法華経を説く以前の42年間のこと。
華厳経
正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
心仏及衆生・是三無差別
旧釈華厳経夜摩天宮菩薩説偈品大十六で、如来林菩薩が説いた偈の文。「心は工なる画師の如し、種々の五陰を画く。一切世間の中、法として造らざる無し、心の如く仏も亦爾り。仏の如く衆生も然り、心仏及び衆生、是の三差別無し」を略して挙げられたものである。すなわち、此と仏と衆生とは、三法に説かれているけれども、事実は差別がないという意味である。
阿含経
釈迦一代の教説を天台が五時に判じたなかで、最初の華厳時の次に説かれた経。時を阿含時、説かれた経を阿含経という。阿含は梵語アーガマ(āgama)の音写。法帰・法本・法蔵・蔵等と訳す。仏の教説を集めたものという意味。増一阿含経50巻・中阿含経60巻・雑阿含経50巻・長阿含経22巻からなり、四阿含経ともいう。結経は遺教経、説処は波羅奈国鹿野苑で、陳如等五人のために、三蔵教の四諦の法輪を説いたもの。したがって、釈尊説法中もっとも低い教えである。
苦・空・無常・無我
小乗教の四念処の法門をいう。大乗仏教の「常・楽・我・浄」に対する。
大集経
方等部に属する経典で、欲界と色界の中間・大宝坊等に広く十法の仏・菩薩を集めて、説かれた大乗教である。欲界とは、下は地獄界から上は天上界までのすべてを含み、食欲や物欲、性欲などの欲望の世界である。色界とは、欲界の外の浄妙の色法、すなわち色質だけが存在する天上界の一部、十八天をいう。これに対して、精神の世界で、天上界の最上である四天を無色界という。大宝坊は欲界と色界の中間にあるとされたのである。漢訳には六種ある。①大方等大集経三十巻、北涼の曇無識訳。②大乗方等日蔵経十巻、高斉の那連提耶舍訳。③大方等大集月蔵経十巻、高斉の邦連提耶舍訳④大乗大集経二巻、高斉の邦連提耶舍訳⑤仏説明度五十校計経二巻、後漢の安世高訳⑥無尽意菩薩経、宋の智厳・宝雲共訳。大聖人の引用は③大方等大集月蔵経。法滅尽品には仏滅後における仏法の推移を五箇の五百歳に分けて説いた予言がある。すなわち「わが滅後に於いて五百年の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固(已上一千年)、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固(已上二千年)、次の五百年には我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」とある。
染浄融通
染法と浄法の二法がともに融合し通じ合って差別がなく、互いに碍りがないこと。大集経方等時の経典に説かれている教義を要約した語。
大品経
大品般若経のこと。般若経は大品・光讃・金剛・天王問・摩訶の五般若があり、仁王般若経を結経とする。釈尊が方等部の後、法華経以前の14年(30年説もある)に説いた経文で、説法の地は鷲峯山・白露池。訳には鳩摩羅什の「大品般若経」40巻、玄奘三蔵の「大般若経」600巻などがあり、前者を旧訳・後者を新訳という。玄奘の「大般若経」には仁王を除く五般若の大部分を含んでいる。
混同無二
般若経に説かれている法門で「一切諸法混同無二」の略。九法界を修する法と、仏界の法とは、その性においては、この差別はなく、みな同一法性であるとの意。
雙観経
無量寿経のこと。方等部に属し、浄土三部経の一つ。北魏の康僧鎧が嘉平4年(0252)に訳し、上下二巻からなるので、雙観経ともいう。上巻はかつて阿弥陀如来が法蔵比丘と称していたとき、四十八願を立てて因行を満足し、その果徳によって西方十万億土の安楽浄土に住して、その荘厳な相を説く。下巻は衆生が安楽浄土へ往生する因果とその行を説いている。
観経
観無量寿経のこと。浄土三部経の一つで、方等部に属する。元嘉元年(0424)~同19年(0442)にかかって中国・劉宋代の畺良耶舎訳。詳しくは観無量寿仏経。阿闍世王が父・頻婆沙羅王を殺し母を牢に閉じ込め、悪逆の限りを尽くしたのを嘆いた母・韋提希夫人が釈尊にその因縁を聞いたところ釈尊は神通をもって十方の浄土を示し、夫人がそのなかから西方極楽世界を選ぶ。それに対して釈尊が、阿弥陀仏と極楽浄土を説くというのが大意である。しかし、韋提希夫人の嘆きに対しては、この経は根本的には説かれていない。この答えが説かれるのは法華経提婆品で、観経ではわずかに、問いを起こしたというにとどまる。西方十万億土を説いたのも、夫人の現在に対する解決とはなっていない。
阿弥陀経
鳩摩羅什の訳。釈迦一代説法中方等部に属する。欲界・色界二界の中間、大宝坊で説かれた。無量寿経・観無量寿経とともに浄土の三部経のひとつ。教義は、この世は穢土であり幸福はありえないかあら、死後極楽浄土へ往生する以外にない。そのためには阿弥陀仏の名号を唱えよというもの。現世の諦めを根底とする方便の権教である。
往生極楽
阿弥陀仏の西方極楽世界に往き生まれること。阿弥陀経には「阿弥陀仏を説くを聞きて名号を執持すること(中略)是の人終わる時、心顚倒せず、即ち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得ん」とある。
正法・像法・末法
仏滅後の時代区分である正法時・像法時・末法時のこと。正法時とは仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。像法時とは次第に仏教が形式化し、その正しい教えが失われていく時代。末法時とはその仏の教えの効力が失われ、廃れてしまう時代。年次については、諸経典によって諸説があるが、日蓮大聖人は大集経に説かれる五五百歳を正像末の三時にあてはめ、第一の五百年と第二の五百年の一千年間を正法とされ、第三の五百年と第四の五百年の一千年間を像法とされ、第五の五百年を末法の始めとされている。
無量義経
一巻。蕭斉代の曇摩伽陀耶舎訳。法華経の開経とされる。内容は無量義について「一法より生ず」等と説き、この無量義の法門を修すれば無上正覚を成ずることを明かしている。
方便の力を以て四十余年には未だ真実を顕さず
無量義経説法品の文。釈尊は成道の後、その得た悟りを直ちに人々に説くことはしなかった。それは衆生の機根が法華経を信受できる状態ではなかったからである。それゆえ、釈尊は方便力をもって、衆生の別々の機根に合わせて爾前権教を説き調えていったのであり、その42年間はいまだ真実義を顕していないとの意味。
一切経
釈尊が一代五十年間に説いた一切の経のこと。一代蔵経、大蔵経ともいう。また仏教の経・律・論の三蔵を含む経典および論釈の総称としても使われる。古くは仏典を三蔵と称したが、後に三蔵の分類に入りきれない経典・論釈がでてきたため一切経・大蔵経と称するようになった。
先判・後判
譲与者から受取人に与えた譲状が同一物件につき二通ある場合、前の譲状を先判といい、後の譲状を後判という。判とは、判形、すなわち花押のこと。御成敗式目第二十六条には「一、所領を子息に讓り、安堵の御下文を給はるの後、その領を悔い還し、他の子息に讓り与ふる事 右、父母の意に任すべきの由、具に以て先条に載せ畢んぬ。よって先判の讓につきて安堵の御下文を給はると雖も、その親これを悔い還し、他子に讓るに於ては、後判の讓に任せて御成敗あるべし」とある。ここでは、四十二年間の爾前権教の説法を先判とし、のち、「四十余年、未顕真実」「正直捨方便、但説無上道」「世尊法久後、要当説真実」として法華経を説いたことを後判としている。
無量無辺不可思議阿僧祇劫
果てがなく、数えることのできない長い期間。「無量」とは量がはかれない程多いこと。「無辺」広大ではてしないこと。「不可思議」とは、思慮ではかることができないこと。「阿僧祇」は梵語アサンキァ(asaṃkhya)の音写、無数・無央数と訳す。数えることのできない数。「劫」は梵語カルパ(kalpa)の音写、長時と訳す。数えることのできないきわめて長い時間。
無上菩提
最高の悟りを得ること。成仏の境地。「無上」最上・最高。「菩提」は梵語ボーディ(bodhi)の音写、覚・智・道などと訳す。菩提に声聞・縁覚・仏の三種あるが、仏の菩提は最高であり、これに過ぎることがないことを無上菩提という。
方便品
妙法蓮華経方便品第二のこと。法華経迹門正宗分の初めに当たり、迹門の主意である開三顕一の法門が展開されている。無量義処三昧に入っていた釈尊が立ち上がり、仏の智慧を賛嘆しつつ、自らが成就した難解の法を十如是として明かし、一仏乗を説くために方便力をもって三乗の法を設けたことを、十方諸仏・過去仏・未来仏・現在仏・釈迦仏の五仏の説法の方程式を引いて明かしている。
正直に方便を捨て但無上の道を説く
法華経方便品第二の「今我れは喜んで畏無し、諸の菩薩の中に於いて、正直に方便を捨てて、但だ無上道を説く」の文である。これはまさしく権教方便を捨て、実教、一仏乗の教えを説く、という意味である。
方便
悟りへ近づく方法、あるいは悟りに近づかせる方法のことである。一に法用方便、二に能通方便、三に秘妙方便の三種に分かれる。①法用方便。衆生の機根に応じ、衆生の好むところに随って説法をし、真実の文に誘引しようとする教えの説き方。②能通方便。衆生が低い経によって、悟ったと思っていることを、だめだと弾呵し、真実の文に入らしめる方便。この二つは方便品に「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」と説かれる方便で、42年間の阿弥陀経、大日経、蘇悉地経等の権教で説かれている方便であるがゆえに「方便を捨てて」となる。
世尊の法は久くして後要当に真実を説くべし
方便品の文。「世尊法久後要当説真実」のこと仏は長い間、方便の教えを説き、後に真実の教えを説くとの意。仏が教えを説くのは、一切衆生を成仏させることにあり、法華経には四十余年の方便権教と異なり、釈尊の真実の悟り、一仏乗の法が説かれていることをいう。
久しく斯の要を黙して務て速かに説かず
薬草喩品の文。「斯の要」とは法華経であり妙法蓮華経である。釈尊はいきなり法華経を説かず、衆生の機根に応じて、爾前経しか説かなかったことをいう。
多宝仏
東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。多宝仏はみずから法を説くことはなく、法華経説法のとき、必ず十方の国土に出現して、真実なりと証明するのである。
十方の諸仏
十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
八方
東・東南・南・西南・西・西北・北・東北の八方
広長舌相
仏の三十二相の一つ。古代インドでは、言う所が真実であることを証明するのに舌を出す風習があり、舌が長ければ長いほど、その言説が真実であることの確かな証明とされた。ゆえに広長舌相は虚妄のないことを表す。
大梵天宮
大品天王の住む宮殿。色界の初禅天の中、大梵天にある。
二処・三会
法華経の説処と説会をいう。「二処」とは霊鷲山と虚空会、「三会」とは前霊鷲山会・虚空会・後霊鷲山会のこと。
二界・八番
序品の説法の会座に集った聴衆。二界は三界の中の欲界・色界をいい、八番とは雑衆の中の①欲界衆、②色界衆、③竜王衆、④緊那羅王衆、⑤乾闥婆王衆、⑥阿修羅王衆、⑦迦楼羅王衆、⑧人王衆をいう。
外道
仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
爾前
爾前経のこと。爾の前の経の意で、法華経已前に説かれた諸経のこと。釈尊50年の説法中、前42年に説かれた諸経。
権経
実教に対する語。権とは「かり」の意で、法華経に対して釈尊一代説法のうちの四十余年の経教を権経という。これらの経はぜんぶ衆生の機根に合わせて説かれた方便の教えで、法華経を説くための〝かりの教え〟であり、いまだ真実の教えではないからである。念仏の依経である阿弥陀経等は、この権経に属する。
念仏
念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
阿弥陀仏
梵名をアミターバ(Amitābha)、あるいはアミターユス(Amitāyus)といい、どちらも阿弥陀と音写し、前者を無量光仏、後者を無量寿仏と訳す。仏説無量寿経によると、過去無数劫に世自在王仏の時、ある国王が無上道心を発し王位を捨てて出家し、法蔵比丘となり、仏のもとで修行をし後に阿弥陀仏となったという。
薬師仏
梵語( Bhaiṣajya)薬師如来・薬師琉璃光如来・大医王仏・医王善逝ともいう。東方浄瑠璃世界の教主。ともに菩薩道を行じていた時に、一切衆生の身心の病苦を救い、悟りに至らせようと誓った。衆生の病苦を治し、諸根を具足させて解脱へ導く働きがあるとされる。
三徳
①主徳、衆生を守る働き。②師徳、衆生を導き教化する働き。③親徳、衆生を利益する働き。三徳には法報応の三身をいう場合もある。
天神・地祇
天上にいる神と大地に住む神。天神と地神。中国陰陽道では、天神について昊天上帝を主とし、ほかに日月星辰、司中、司命、風師、雨師等があるとす。
雖復教詔而不信受
譬喩品の文。「復教詔すと雖も、而も信受せず」と読む。仏は主師親の三徳の慈悲から、三界に六道輪廻を繰り返す衆生を救おうとするが、諸の欲染に貪著する衆生は信受できないとの意。「教詔」の二字に主師親の三徳が含まれる。
講義
先に、後世への心構えを確立するためには、釈尊の教え、すなわち仏教を根本にすべきことを述べられたのであるが、その釈尊の教えにもさまざまあり、いったい、どの教えを根本にすべきかを、本抄では諄々と説き示されていくのである。
その際、教・機・時・国・教法流布の前後の五つの義にしたがって、一つ一つ説明されていくのである。
まず本章では、数多くの釈尊の教えの中で、どれが真実の教えであるかを示されている。すなわち、五義のうちの「教」を示されるのである。
初めに「しかるに仏の教へ又まちまちなり人の心の不定なる故か」と、釈尊の教えといってもさまざまであることを指摘され、それは人々の機根が一様でないゆえに、それぞれの機根に応じて種々の法が説かれたからであると述べられている。
このようにまちまちであり、それぞれの経にさまざまな法門が説かれたことを、華厳・阿含・大集・般若・浄土三部経などを例に挙げられている。
だが「しかれども仏いかんがおぼしけん……」と釈尊自身、無量義経で、これら爾前の諸経を〝方便〟であって未だ〝真実〟を顕していないと説くとともに、法華経方便品で、正直に〝方便〟を捨てよと定めたことが明かされている。
そして「かうたしかにくひかへして実義を定むるには……」と、釈尊自身が法華経において〝真実〟の教を明かすことを述べ、しかもそれを見宝塔品で多宝仏が、神力品では十方諸仏が証明したことを示されている。
つぎに「此等の文をみ候に……」以下「……仏説の如くならば不孝の者なり」までの御文では、釈尊の教えにおける〝方便〟と〝真実〟、先判と後判とをよくわきまえて、真実の法華経、すなわち後判を用いて仏道修行しなければ、仏に対して不孝の者になると述べられ、譬喩品の「今此三界」の主師親三徳の文を示されて、この主師親である釈迦仏に背いている人々が天神地祇に守られるわけがないと厳しく指摘されている。
以上がこの段の流れであるが、ここからも明らかなように、日蓮大聖人は、念仏信仰をとくに破折されている。これは南条兵衛七郎の気持ちに念仏を完全に払拭できないものがあるのを鋭く見抜かれての仰せであると拝せられる。
華厳経には心仏及衆生・是三無差別
これは釈尊成道後、最初に説かれたとされる華厳経の巻十、夜摩天宮菩薩説偈品第十六で、如来林菩薩の説いた偈文の言葉である。
「心仏及び衆生、是の三差別無し」と読む。華厳経の思想を代表する偈文で、天台大師も摩訶止観巻五で法華経を根本にしつつ、会入の立場で引用している文である。
この言葉の直前に「心は工なる画師の如し。種々の五陰を画く。一切世界の中、法として造らざる無し。心の如く仏も亦爾り。仏の如く衆生も然り」とある。これは、巧みな画家が、種々の五陰を画くように、心もまた、一切世界のあらゆる法を生み出すとの意である。
このように一切法は心によって生み出されるのであり、仏といい、衆生といっても、所詮、心が生み出すものにすぎず、ここに、心と仏と衆生の三つが無差別であると説かれたのである。
心が一切法を生み出すというのは、衆生の心の境地に応じて、一つの世界が幾重にも異なって現れるという意味である。例えば、地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪趣の境界の心には、この世界が地獄・餓鬼・畜生・修羅の世界として現れるのに対し、菩薩・仏の高い境地の心には、同じ世界が歓喜と充実感に満ちたものとなるのである。
こうして、九界の迷いの衆生といい、仏の悟りの境界といっても、所詮は、心の境地の高低浅深に帰する。心仏及衆生是三無差別の言葉も、このことを意味しているのである。
以上の如く、華厳経の法門は、かなり高いものであるが、二乗については永不成仏を説いており、一切衆生を成仏せしめうる教えではないのである。
阿含経には苦・空・無常・無我
阿含経は華厳経のあとで説かれた初期の経で、増一、中、長、雑の四阿含経の総称である。苦・空・無常・無我は小乗阿含経の代表的思想である。
この世の一切のものは、無常、すなわち時とともに刻々と変化して止まるところがなく、それゆえに、どれ一つをとっても、常住の我なるものはなく、空であり幻の如きものにすぎないとし、このような、無常・無我・空なる世界に取り巻かれた人間の存在そのものは苦であると説く。
釈尊は、本来、常楽我浄の悟りの生命を説くべきところであったが、二乗の機根に合わせて、反対に、苦・空・無常・無我と説いたのである。
大集経には染浄融通
つぎに、方等時の経典を代表して大集経を取り上げられている。
染浄の染とは染法で無明・迷いの法をさし、浄とは浄法で法性・悟りの法をさしている。染法と浄法とは、互いに融合し通じ合って差別がなく、相互に碍りがないというのである。
この染浄融通の言葉は、妙楽大師が金剛錍において「大集の染浄一切融通」と述べているのを引かれたものである。
しかしながら、大集経では二乗不作仏であり、真実の融通ではない。
大品経には混同無二
これは、般若時の説の代表として挙げられたと考えられる。
妙楽大師の金剛錍に「般若の諸法は混同無二」とあり、これは、一切の諸法は本来、空であって、互いに混じり合い同化しているという考え方である。
凡夫の眼には、一切の諸法・万物は相互に異なり、差別をもって存在しているように見えるのであるが、仏眼をもって見れば万物の本性は無二・無差別であるということである。いいかえれば、衆生と仏、迷いと悟りといっても、本来の性としては、無二・無差別であるということである。
このように般若経は、法においては、無二・無差別平等を説いたが、現実の二乗については不作仏と説き差別を残しているので、一切衆生皆成仏道と説く法華経の法門には足元にも及ばないのである。
雙観経・観経・阿弥陀経等には往生極楽
雙観経とは無量寿経、観経とは、観無量寿経のことで、阿弥陀経と併せて浄土三部経という。この三部経を、とくにここで取り上げられたのは、南条兵衛七郎の浄土念仏への執心を打ち破られるためであったと拝せられる。
〝往生極楽〟の思想は、仏教のなかでも、かなり特殊なもので、娑婆世界で仏道修行を志してもあまりにも苦難や誘惑が多いので成就することが難しい。ゆえにこれを諦めて、死後に西方十万億土にあるという阿弥陀仏の国土たる極楽浄土に往き生まれて、そこで仏道修行に励めばよいというものである。極楽浄土には仏・菩薩達ばかりで苦難や誘惑がなく、仏道修行が行い易いからであるという。
この教えは、誘惑に負けやすい体質をもった衆生のために説かれた方便の説であり、一種の現実逃避といわなければならない。
法華経の第二に云く「今此の三界は皆是れ我が有なり……而も信受せず」等云云
法華経譬喩品で釈尊がこの娑婆世界の一切衆生を治め救う主師親三徳具備の仏であることを宣言された文である。
すなわち、「今此の三界は皆是れ我が有なり」が、三界の主君としての主の徳を、「其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」が、三界の衆生に対する親の徳を、「而も今此の処は諸の患難多し唯我一人のみ能く救護を為す」が、衆生を苦しみから救う師匠の徳を、それぞれ表している。
「我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてはましませども親と師とには・ましまさず、ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏に・かぎりたてまつる」と仰せのように、大聖人は、念仏等を破折される一つの観点として、娑婆世界の主・師・親三徳を兼ね備えた仏である釈尊に帰依せずして、何故に、三界を遠く離れた西方十万億土の阿弥陀仏や東方浄瑠璃世界の薬師仏に帰依するのか、と指摘されたのである。たしかに、阿弥陀仏も薬師仏も、それぞれに仏である以上、衆生を守る力は持っている。しかし、この娑婆世界の衆生の機根を知りぬいてそれに合った法を説く仏ではないし、自ら娑婆世界に身を置いて衆生を救う慈悲を持った存在でもない。すなわち、主の徳はあっても師・親の徳はないのである。
しかも、阿弥陀を信じて極楽往生を願っても、根本の仏をないがしろにしているのであっては、救われる道理がないのである。
第三章 宗教の五網のうち「機」を明かす
たとひ五逆・十悪・無量の悪をつくれる人も根だにも利なれば得道なる事これあり、提婆達多・鴦崛摩羅等これなり、たとひ根鈍なれども罪なければ得道なる事これあり・須利槃特等是なり、我等衆生は根の鈍なる事すりはんどくにもすぎ物のいろかたちをわきまへざる事羊目のごとし、貪瞋癡きわめてあつく十悪は日日にをかし五逆をば・おかさざれども五逆に似たる罪・又日日におかす、又十悪・五逆にすぎたる謗法は人毎にこれあり、させる語を以て法華経を謗ずる人はすくなけれども・人ごとに法華経をばもちゐず、又もちゐたるやうなれども念仏等のやうには信心ふかからず、信心ふかきものも法華経のかたきをばせめず、いかなる大善をつくり法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも・せめざれば得道ありがたし、たとへば朝につかふる人の十年・二十年の奉公あれども・君の敵をしりながら奏もせず私にもあだまずば奉公皆うせて還つてとがに行はれんが如し、当世の人人は謗法の者としろしめすべし是二。
現代語訳
たとえ五逆罪・十悪・無量の悪をつくっている人でも、機根さえ利であるならば得道することがある。提婆達多・鴦崛摩羅等がこれである。たとえ機根が鈍であっても、罪がなければ得道することがある。須利槃特等がこれである。我ら衆生は機根の鈍であることは須利槃特にも過ぎ、物の色、形を判別できないことは羊の目のようである。貪・瞋・癡はきわめて厚く、十悪の罪は日々に犯し、五逆罪は犯さないけれども、五逆罪に似た罪は日々犯している。
また十悪・五逆罪に過ぎたる謗法の罪は人ごとにある。これというほどの語をもって法華経を謗ずる人は少ないけれども、法華経を用いないという罪は人ごとにあり、また用いているようであっても念仏などのようには信心が深くない。信心の深い者でも法華経の敵を責めようとしない。どのような大善をつくり、法華経を千万部読み、書写し、一念三千の観心の道を得た人であっても、法華経の敵を責めなければ得道はできないのである。たとえば、朝廷に仕える人が十年・二十年と奉公しても、主君の敵を知りながら奏上もせず、個人としても怨まなければ、永年の奉公は皆消えて、かえって罪に問われるようなものである。当世の人々は謗法の者と知っておくべきである。これ二である。
語釈
五逆
五逆罪のこと。五種の最も重い罪をいう。諸説があるが、倶舎論巻十七等には、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血の五逆罪が説かれている。五逆罪を犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。
十悪
十種の悪業のこと。身口意の三業にわたる最もはなはだしい十種の悪い行為。十悪業、十不善業ともいう。倶舎論巻十六等に説かれる。身に行う三悪である殺生・偸盗・邪淫、口の四悪である妄語・綺語・悪口・両舌、心の三悪である貪欲・瞋恚・愚癡をいう。
鴦崛摩羅
釈尊在世当時の弟子。梵名アングリマーラー(Angulimālā)の音写。鴦掘摩羅・央掘摩羅・鴦掘摩等とも書く。指鬘と訳す。人を殺して指を切り、鬘としたのでこの名がある。央掘摩羅経巻一等によると、外道の摩尼跋陀を師としてバラモンを学んでいたが、ある時、師の妻の讒言にあい、怒った師は央掘摩羅に千人を殺してその指を取るよう命じた。そのため九百九十九人を殺害し、最後に自分の母と釈尊を殺害しようとしたが、あわれんだ釈尊は彼を教化し大乗につかせたと述べている。仏説鴦掘摩経では百人を殺そうとして九十九人を殺したとある。
須利槃特
梵語チューダパンタカ(Cūḍapanthaka)の音写。周利槃特迦などとも書く。小路、愚路などと訳す。釈尊の弟子でバラモンの出身。経典に諸説があり、兄弟二人のうち弟をさすという説と兄弟二人の並称であるとする説がある。また兄弟ともに愚鈍であったという説と、兄は聡明であったが、弟は暗愚で三年かかつて一偈も覚えられなかったとする説がある。いずれにせよ、須利槃特は、釈尊に教えられた短い言葉をひたすら持って修行したところ、三年を経てその意を悟り、阿羅漢果を得たと言う。法華経五百弟子受記品第八で普明如来の記別を得た。
貪瞋癡
十不善業のなかの意の三業。貪欲・瞋恚・愚癡.。十使中の五鈍使。あわせて三毒という。
五逆に似たる罪
「五逆」とは、五逆罪または五無間業ともいい、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血のこと。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。これらと相似する重罪をいう。
謗法
誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
法華経を千万部読み書写し
「読」「書写」は法師品に説かれる五種の妙行のひとつ。末法今日にはこれらの修業は必要としない。受持即観心である。
一念三千の観道
一念三千の法門を己心に証得すること。法華経および止観の明鏡によって、我が身が十界互具・百界千如・一念三千の当体であると観ずること。
講義
本章では、末法の衆生の機根が鈍根であるうえに、五逆・十悪等の悪逆の機であり、なかんずく法華経誹謗の衆生であることを指摘され、ゆえに折伏を行じなければ人々を救うことはできないし、また仏意に適った実践ではないことを示されている。
まず初めに、釈尊在世時代の提婆達多や鴦崛摩羅等のように、五逆・十悪を犯した衆生でも利根であればその罪をさとり、正法に帰依して得道するし、その逆に、須利槃特のようにたとえ機根が鈍であっても、五逆・十悪等の悪を犯さなければ得道することを示されている。
これに対して、末法の衆生は、機根が鈍であるうえに五逆・十悪などの悪業があり、しかも、もっと悪いことには、五逆・十悪よりも罪の重い誹謗正法を末法の衆生の全てが犯していると述べられ、こうした法華経の敵を責める折伏行に励まなければ得道はありえないことを教えられているのである。
ここで大事なことは、自らは法華経を読誦し、また法華経を謗じていなくとも、法華経の敵を責めなければ自らが謗法を犯すのと同じになるとの厳しい御指摘である。法華経を信ずるとは、余事をまじえず、純一に徹底して信ずることであり、なかんずく、折伏化他を実践して謗法を呵責しなければ、自らが仏法の中の怨となるのである。
「いかなる大善をつくり法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも・せめざれば得道ありがたし」の仰せは、伝統的な天台宗の像法時の修行を末法の今時にどのように真剣に実践しても成仏得道はできないということであり、天台仏法に対する厳しい破折の御文となっていることを知らなければならない。
第四章 宗教の五網のうち「時」を明かす
仏入滅の次の日より千年をば正法と申して持戒の人多く得道の人これあり。正法千年の後は像法千年なり・破戒の者は多く得道すくなし、像法千年の後は末法万年なり持戒もなし破戒もなし無戒の者のみ国に充満せん、而も濁世と申してみだれたる世なり、清世と申してすめる世には直繩のまがれる木をけづらするやうに非をすて是を用うるなり、正・像より五濁やうやういできたりて末法になり候へば五濁さかりにすぎて、大風の大波を起して岸を打つのみならず又波と波とをうつなり、見濁と申すは正・像やうやうすぎぬれば、わづかの邪法の一つをつたへて無量の正法をやぶり・世間の罪にて悪道におつるものよりも仏法を以て悪道に堕つるもの多しとみへはんべり。
しかるに当世は正・像二千年すぎて末法に入つて二百余年、見濁さかりにして悪よりも善根にて多く悪道に堕つべき時刻なり悪は愚癡の人も悪としればしたがはぬ辺もあり火を水を以てけすが如し、善は但善と思ふほどに小善に付いて大悪の起る事をしらず、所以に伝教・慈覚等の聖跡あり・すたれあばるれども念仏堂にあらずといひて・すてをきて・そのかたはらにあたらしく念仏堂をつくり彼の寄進の田畠をとりて念仏堂によす、此等は像法決疑経の文の如くならば功徳すくなしとみへはべり、これらをもつてしるべし善なれども大善をやぶる小善は悪道に堕つるなるべし、今の世は末法のはじめなり、小乗経の機・権大乗経の機皆うせはてて唯実大乗経の機のみあり、小船には大石をのせず悪人・愚者は大石のごとし、小乗経並に権大乗経・念仏等は小船なり、大悪瘡の湯治等は病大なれば小治およばず、末代濁世の我等には念仏等はたとへば冬・田を作るが如し時があはざるなり是三。
現代語訳
仏の入滅の次の日から千年を正法といって、持戒の人が多く、得道した人もあった。正法千年の後は像法千年である。破戒の者が多く、得道した人は少なかった。像法千年の後は末法万年である。持戒もなく、破戒もなく、無戒の者のみ国に充満するであろう。しかも濁世といって乱れた世である。清世といって澄んだ世には、墨繩が曲がった木を削り取らせるように、非を捨て、是を用いるのである。正法・像法から五濁が次第に出で来たって、末法になると五濁が盛んとなって、大風が大波を起こして岸を打つだけでなく、また波と波とが打ち合うのである。見濁というのは、正法・像法が次第に過ぎると、わずかの邪法の一つを伝えて無量の正法を破り、世間の罪によって悪道に堕ちるものよりも、仏法によって悪道に堕ちるものが多いと見える。
しかるに当世は、正法・像法の二千年が過ぎて末法に入って二百余年であり、見濁が盛んであって、悪よりも善根によって多く悪道に堕ちる時期である。悪い事は愚かな人も悪い事と知れば随わないこともある。これは火を水をもって消すようなものである。善い事はただ善い事と思うものであるから、小善について大悪の起こることを知らない。ゆえに、伝教大師・慈覚大師等の聖跡があって、それがすたれ荒れていても、念仏堂ではないといって、捨て置いて、その傍らに新しく念仏堂を作り、もとの聖跡に寄進されていた田畠を取って念仏堂に寄進する。これらは像法決疑経の文によれば功徳は少ないと見える。これらのことから、善い事であっても大善を破るような小善は悪道に堕ちることを知るべきである。
今の世は末法の初めである。小乗経で救われる機根の者、権大乗経で救われる機根の者は皆消えて、ただ実大乗経で救われる機根の者のみである。小船には大石をのせることはできない。悪人・愚者は大石のようなものである。小乗経ならびに権大乗経・念仏等は小船である。大悪瘡の湯治等は病が大きいゆえ、小さな療治では治らない。末代濁世の我等には、念仏等はたとえば冬に田を作るようなものである。時が合わないのである。これが三である。
語釈
持戒
「戒」とはっ戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。戒を受け、身口意の三業で持つこと。
破戒
「戒」とは戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。「破戒」とは戒を破る者の意。戒は小乗に五戒・八斉戒・十戒・二百五十戒・五百戒等、権大乗教に十重禁戒・四十八軽戒・三聚浄戒、法華経には衣座室の三軌・四安楽行・普賢四種の戒等がある。末法においては受持即持戒で、正法を受持し、信行に励むことが唯一の戒となる。ゆえに破戒の根本は、一闡堤、すなわち不信になるのである。
無戒
「戒」とは戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。もともと戒を受けないものをいう。
直繩
墨縄・墨糸のこと。木材をまっすぐな線を引くために使う。
五濁
劫濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁のこと。劫濁とは飢饉・疫病・戦乱が起こって、時代そのものが乱れること。煩悩濁とは、貧・瞋・癡・慢・疑という人間が生まれながらに持っている本能の乱れ。衆生濁とは、不良や犯罪者の激増など人間そのものが濁乱してくること。見濁とは、思想・見解の混乱。命濁とは、病気や早死にが多いことである。末法悪世にはこの五濁がことごとく盛んになると説かれている。五濁は妙法への不信から起こるのであって、信ずることによって破ることができる。御義口伝には「文句の四に云く劫濁は別の体無し劫は是長時・刹那は是短時なり、衆生濁は別の体無し見慢果報を攬る煩悩濁は五鈍使を指て体と為し見濁は五利使を指て体と為し命濁は連持色心を指して体と為す。御義口伝に云く日蓮等の類いは此の五濁を離るるなり、我此土安穏なれば劫濁に非ず・実相無作の仏身なれば衆生濁に非ず・煩悩即菩提生死即涅槃の妙旨なれば煩悩濁に非ず・五百塵点劫より無始本有の身なれば命濁に非ざるなり、正直捨方便但説無上道の行者なれば見濁に非るなり、所詮南無妙法蓮華経を境として起る所の五濁なれば、日本国の一切衆生五濁の正意なり、されば文句四に云く『相とは四濁増劇にして此の時に聚在せり瞋恚増劇にして刀兵起り貪欲増劇にして飢餓起り愚癡増劇にして疾疫起り三災起るが故に煩悩倍隆んに諸見転た熾んなり』経に如来現在猶多怨嫉況滅度後と云う是なり、法華経不信の者を以て五濁障重の者とす」とある。
伝教
(0767~0822)。平安時代初期の人で、日本天台宗の開祖。諱は最澄。叡山大師・根本大師・山家大師ともいう。俗姓は三津首。近江国(滋賀県高島市)に生まれ、後漢の孝献帝の末裔といわれる。12歳で出家。延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受け、その後、比叡山に登り、諸経論を究めた。21年(0802)高雄山寺で南都の碩学を前に天台三大部を講じた。延暦23年(0804)に入唐して道邃・行満・翛然・順暁等について学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。その後、嵯峨天皇の護持僧となり、大乗戒壇実現に努力。没後、大乗戒壇が建立された。貞観8年(0866)伝教大師と諡された。おもな著書に「法華秀句」三巻、「顕戒論」三巻、「守護国界章」九巻などがある。
慈覚
(0794~0864)。延暦寺第三代座主。慈覚派の祖。諱は円仁。慈覚大師は諡号。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。没年については異説があり貞観8年(0866)ともいわれる。著書には「金剛頂経疏」七巻、「蘇悉地経略疏」七巻等がある。
像法決疑経
一巻。訳者不明。常施菩薩を対告衆として、像法時代の相を述べ、主に布施行を修すべきことを説いている。天台家では、涅槃経の結経として用いているが、訳者不明のため偽経説もある。像法決疑経には「復衆生有って他の旧寺・塔廟・形像及び経典の破落毀壊するを見て、肯て修治せず。便ち是の言を作さく、我が先崇の造る所に非ず、何ぞ治を用いることを為さん、我寧ろ更に自ら新しき者を造立せん。善男子よ、一切衆生新しき者を造立するは、故きを修する其の福甚だ多きには如かず」とある。
小乗経
仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
権大乗経
大乗の中の方便の教説。諸派の間では互いに、法華経をして実大乗といい、諸教を権大乗とする。
実大乗経
権大乗経に対する語。仏の真実の悟りをそのまま説き顕した経典。法華経のこと。
大悪瘡
「悪瘡」とは、悪性のできもの。はれもの。普賢菩薩勧発品には「若し復是の経典を受持せん者を見て、其の過悪を出さん。若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん。若し之を軽笑することある者は、当に世世に、牙歯疎欠、醜唇平鼻、手脚繚戻し、眼目角睞に、身体臭穢にして、悪瘡膿血、水腹短気、諸の悪重病あるべし」とある。正法誹謗の罪によって起こる悪重病のひとつ。
講義
末法という「時」は、無戒の者が充満し、しかも五濁が盛んになる時代であり、ただ実大乗経の法華経のみが衆生をよく救うことのできる時代であることを説き示されている。
とくに、その五濁のなかでも見濁のために、法華経を根本とした伝教大師以来の仏教が念仏にとってかわられ、そのため多くの人々が悪道に堕ちる世となっていることを指摘されている。
まず、釈尊滅後一千年間の正法の時代は、戒律を持ち続ける〝持戒〟の人が多く、その結果、得道する人も多かったが、次の像法一千年間になると、戒を持っても途中で破る〝破戒〟の人が多くなり、その結果、得道する人が少なくなった。さらに、像法の後の末法になると〝持戒〟の人はもちろんのこと、〝破戒〟の人すらいなくなって、最初から戒を持ちもしない〝無戒〟の者だけが国中に充満すると述べられている。
しかも、末法は五濁が最も激しくなる時代である。濁世の反対である清世の時代は、まっすぐな縄で曲がった木を削り直すように、非を捨て是を用いること、すなわち戒の力が通用する。いいかえると、是非善悪の基準が明確であって、しかも人々の心が清らかであるから、素直に悪を捨て善に付くことができるのである。
これに対し、正法時代から像法時代を過ぎるにしたがい、次第に五濁が現れ出し、末法に入ると、五濁が最も盛んになる。このため「大風の大波を起して岸を打つのみならず又波と波とをうつなり」と仰せの如く、五つの濁りが互いに打ち合い、互いを増長させて世を不幸に陥れる。すなわち、一見、善と見える仏教の姿で正法を破り、人々を悪道に引き込む結果となるのである。
このように、いかなる仏教を選ぶかということは〝見〟の問題であり、そこに生ずる誤りであるので「見濁」となる。このことを「見濁と申すは正・像やうやうすぎぬれば、わづかの邪法の一つをつたへて無量の正法をやぶり・世間の罪にて悪道におつるものよりも仏法を以て悪道に堕つるもの多しとみへはんべり」と仰せられ「当世は……見濁さかりにして悪よりも善根にて多く悪道に堕つべき時刻なり」と言われているのであ
見濁とは、思想見解上の濁りのことで、仏教における見濁とは、時と機に適った正法とそうでない邪法との区別・立て分けが生命の濁りのためになされず、混同されるということである。末法においては、世間上の罪によって悪道に堕ちる者より、誤れる仏法を修行することにより悪道に堕ちる者の方が多くなるのである。これを「善根にて多く悪道に堕つ」といわれているのは、仏法を信じて修業したり、供養したりすることは一般的に善根を積むことになると信じられているからである。
仏法なら、たとえ、どんな教えであっても、修行したり供養したりすることは善い事であり立派な事であると安易に認めてしまう習慣が災いの根源となっていることを厳しく指摘されているのであり、「見濁さかりにして悪よりも善根にて多く悪道に堕つべき時刻なり」との仰せの文は、まさに、このことを仰せである。
では、何故に、仏法に対する善根を行じながら、悪道に堕ちるのかといえば、爾前の諸経並びに諸宗に対して行う善根が、結局、法華誹謗、正法誹謗を助けることになるからである。
この一点こそが本章における大聖人の御教示を理解するための大切なポイントである。
「善は但善と思ふほどに小善に付いて大悪の起る事をしらず」と、こうした仏法上の悪業が世間的悪業と違って、見分けるのがむずかしいことを述べられ、「善なれども大善をやぶる小善は悪道に堕つるなるべし」は、なぜ爾前の諸経や諸宗に対する善根が大悪となってしまうかの道理を示されている。
このように正法誹謗という大悪を犯している衆生であるゆえに、小乗や権大乗などでは救えないことを、小船に大石をのせることができないことをもって譬えられ、「唯実大乗」の法によってのみ救いうることを教えられている。
第五章 宗教の五網のうち「国」を明かす
国をしるべし・国に随つて人の心不定なり、たとへば江南の橘の淮北にうつされて・からたちとなる、心なき草木すらところによる、まして心あらんもの何ぞ所によらざらん、されば玄奘三蔵の西域と申す文に天竺の国国を多く記したるに・国の習として不孝なる国もあり・孝の心ある国もあり・瞋恚のさかんなる国もあり・愚癡の多き国もあり、一向に小乗を用る国もあり・一向大乗を用る国もあり・大小兼学する国もありと見へ侍り、又一向に殺生の国・一向に偸盗の国・又穀の多き国・又粟等の多き国不定あり、抑日本国はいかなる教を習つてか生死を離るべき国ぞと勘えたるに・法華経に云く「如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめ断絶せざらしむ」等云云、此の文の心は法華経は南閻浮提の人のための有縁の経なり、弥勒菩薩の云く「東方に小国有り唯だ大機のみ有り」等云云、此の論の文の如きは閻浮提の内にも東の小国に大乗経の機あるか、肇公の記に云く「茲の典は東北の小国に有縁なり」等云云、法華経は東北の国に縁ありとかかれたり、安然和尚の云く「我が日本国皆大乗を信ず」等云云、慧心の一乗要決に云く「日本一州円機純一」等云云、釈迦如来・弥勒菩薩・須梨耶蘇摩三蔵・羅什三蔵・僧肇法師・安然和尚・慧心の先徳等の心ならば日本国は純に法華経の機なり、一句・一偈なりとも行ぜば必ず得道なるべし有縁の法なるが故なり、たとへばくろかねを磁石のすうが如し・方諸の水をまねくににたり、念仏等の余善は無縁の国なり・磁石のかねをすわず方諸の水をまねかざるが如し、故に安然の釈に云く「如実乗に非ずんば恐らくは自他を欺かん」等云云、此の釈の心は日本国の人に法華経にてなき法をさずくるもの我が身をもあざむき人をもあざむく者と見えたり、されば法は必ず国をかんがみて弘むべし、彼の国によかりし法なれば必ず此の国にもよかるべしとは思うべからず是四。
現代語訳
国を知らなければならない。国に随って人の心も異なるのである。たとえば揚子江南岸の橘を淮河の北岸に移せば枳となる。心なき草木ですら所によって異なるのである。まして心のあるものが、どうして所によって異ならないことがあろう。
されば玄奘三蔵の大唐西域記にインドの国々のことを多く記しているが、国の慣習として不孝な国もあり、孝心の厚い国もあり、瞋恚の心の盛んな国もあり、愚かさの多い国もあり、もっぱら小乗経を用いる国もあり、もっぱら大乗経を用いる国もあり、大乗経・小乗経を兼学する国もあるようである。またもっぱら殺生の国、もっぱら盗みの国、また穀の多い国、粟等の多い国など、さまざまである。
そもそも日本国はどういう教えを習って生死を離れるべき国であるかと考えるに、法華経に「如来の滅後において、この経を閻浮提のうちに広く流布せしめ、断絶させてはならない」と説かれている。この文の心は、法華経は南閻浮提の人のための有縁の経であるということである。弥勒菩薩は「東方に小国があり、ただ大乗経の機根の者だけがいる」と述べている。この論の文によると、閻浮提のなかでも東の小国に大乗経の機根のものがいるということである。僧肇の法華翻経後記には「この法華経は東北の小国に縁がある」と。法華経は東北の国に縁があると書かれている。安然和尚は「我が日本国は皆大乗経を信じている」と述べ、慧心僧都の一乗要決には「日本全国は純粋に法華円教の機根である」と記されている。
釈迦如来・弥勒菩薩・須梨耶蘇摩三蔵・羅什三蔵・僧肇法師・安然和尚・慧心僧都の先徳等の考えによれば、日本国は純粋に法華経の機根の国である。一句・一偈であっても行じたならば、必ず得道するであろう。それは有縁の法であるからである。たとえば鉄を磁石が吸いつけるようなものであり、方諸が水を招くのに似ている。念仏等の余善とは無縁の国である。磁石が金属を吸いつけず、方諸が水を招かないようなものである。ゆえに安然和尚の釈には「もし法華の実乗でなければ、おそらくは自他を欺くことになるであろう」とある。この釈の心は、日本国の人に法華経でない法を授ける者は、我が身をもあざむき、人をもあざむく者である、ということである。されば、法は必ず国を考えて弘めるべきである。かの国に適した法であれば、必ずこの国にも適すると思ってはならない、これ四である。
語釈
江南の橘の淮北にうつされて・からたちとなる
植えられる場所によって草木の性質が変わることをもって、人も境遇によって変化することを譬えた中国の故事。晏子春秋巻六に「橘淮に生ずれば則ち橘と為り、淮北に生ずれば則ち枳と為る」とあり、淮南子の原道訓には「橘樹、江北に之けば、則ち化して枳となり」とある。
玄奘三蔵
(0602~0664)。中国・唐代の僧。中国法相宗の開祖。洛州緱氏県に生まれる。姓は陳氏、俗名は褘。13歳で出家、律部、成実、倶舎論等を学び、のちにインド各地を巡り、仏像、経典等を持ち帰る。その後「般若経」600巻をはじめ75部1335巻の経典を訳したといわれる。太宗の勅を奉じて17年にわたる旅行を綴った書が「大唐西域記」である。
西域と申す文
大塔西域記のこと。12巻からなる。唐の玄奘の旅行記。7世紀初め玄奘が16年間にわたって仏教典籍を求めて歴遊した西域(インド)諸国の地理・歴史・言語・風俗・仏教事情・政治などについて詳しく記したもの。見聞の地と伝聞によって知った諸国を合わせる140ヵ国に及んでいる。
天竺
古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
瞋恚
怒り、憤怒すること。三毒・十悪のひとつ。自分の心に逆らうものを怒り恨むこと。
如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめ断絶せざらしむ
普賢菩薩勧発品の文。「滅後」とは一往、正法・像法時代をいうが、元意は末法を意味する。
閻浮提
全世界のこと。南閻浮提ともいう。閻浮は梵語で樹の名。提は州と訳す。古代インドの世界観に基づくもので、中央に須弥山があり、八つの海、八つの山が囲んでおり、いちばん外側の海を大鹹海という。その中に、東西南北の四方に東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大州があるとされていた。現在でいえば、地球上すべてが閻浮提といえる。
弥勒菩薩
慈氏と訳し、名は阿逸多といい無能勝と訳す。インドの婆羅門の家に生れ、のちに釈尊の弟子となり、慈悲第一といわれ、釈尊の仏位を継ぐべき補処の菩薩となった。釈尊に先立って入滅し、兜率の内院に生まれ、五十六億七千万歳の後、再び世に出て釈尊のあとを継ぐと菩薩処胎経に説かれている。法華経の従地涌出品では発起衆となり、寿量品、分別功徳品、随喜功徳品では対告衆となった菩薩である。
東方に小国有り唯だ大機のみ有り
弥勒菩薩の説を聞いて無著菩薩が記した喩伽師地論にあるとされているが、現存の瑜伽論にはこの文はない。安然の普通授菩薩戒広釈に「弥勒菩薩説いて言く、東に小国有り、其の中に唯大乗の種姓有り、我が日本国僉成仏を知る、豈其の事に非ずや」「喩伽論に云く、東方に国有り、唯大機有り、豈我が国に非ずや」とある。
肇公
(0384~0414)。僧肇のこと。中国・東晋代の僧。長安の生まれ。初め老荘思想を好んで学んだが、維摩経を読んで出家を決意した。後に鳩摩羅什の門下に入り、師の仏典翻訳を助けた。また竜樹系統の思想を伝えるなどした。弟子中最も理解が深く理解第一、羅什門下の四哲の一人と称された。「宝蔵論」一巻、「肇論」一巻などの著書がある。
茲の典は東北の小国に有縁なり
僧肇の法華翻経後記四に「予、昔天竺国に在りし時、遍く五竺に遊びて大乗を尋討し、大師須利耶蘇摩に従って理味を飡稟す。慇懃に梵本を付嘱して言く、仏日西に入りて遺耀将に東北に及ばんとす。玆の典東北に有縁なり、汝慎んで伝弘せよ」とある。須利耶蘇摩が羅什三蔵に法華経を授けるとき語った言葉である。
安然和尚
(0841~0915)。天台宗の僧。伝教大師の同族といわれる。はじめ円仁の弟子となり、後に遍照について顕密二教の法を受けた。著述に専念し、天台宗を密教化した。著書は「教時問答」四巻、「悉曇蔵」八巻など多数ある。
我が日本国皆大乗を信ず
安然の普通授菩薩戒広釈にある文。
慧心
(0942~1017)。恵心とも書く。日本天台宗の僧。大和国(奈良県)葛城郡当麻郷に生まれた。俗姓は卜部氏。幼くして出家し天暦4年(0950)比叡山にのぼる。慈慧大師に師事し、天台の教義を学んだ。13歳で得度受戒し、源信と名乗った。横川恵心院に住んで修行したので、恵心僧都・横川僧都と称される。寛和元年(0985)に「往生要集」三巻を完成した。これは浄土教についての我が国初めての著述で、浄土宗の成立に大きな影響を与えた。しかし、晩年に至って「一乗要決」三巻を著し、法華経の一乗思想を強調している。
一乗要決
三巻、恵心僧都源信の著。寛弘3年(1006)頃の作。天台宗の教義を根本として法華経の一乗思想を強調し、一切衆生に仏性のあることを明かして、法相宗の五性各別説を破折した書。
日本一州円機純一
慧心の著「一乗要決」の中の句。日本国中はみな円教である法華経に縁ののある機根ばかりで、蔵通別の三教に縁のあるものはいないとの意。
須梨耶蘇摩三蔵
4世紀頃西域沙車国の王子として生まれる。鳩摩羅什の師。法華翻経後記には、大乗諸教に通じ、法華経を鳩摩羅什に授けて、東方有縁の国に流布せよと命じたとある。
羅什三蔵
(0344~0409)。梵語クマーラジーヴァ(Kumārajīva)の音写。中国・姚秦代の訳経僧。鳩摩羅耆婆、鳩摩羅什婆とも書き、羅什三蔵とも呼ばれる。童寿と訳す。父はインドの一国の宰相鳩摩羅炎、母は亀茲国王の妹・耆婆。7歳の時、母と共に出家し、仏法を学ぶ。生来英邁で一日に千偈、三万二千言の経を誦したと言う。9歳の時カシミール国に留学し、王の従弟の槃頭達多について学び、後に諸国を遊歴して仏法を修行した。初め小乗経を、後に須利耶蘇摩について大乗教を学び、亀茲国に帰って大いに大乗仏教を弘めた。しかし、中国の前秦王・符堅は、将軍・呂光に命じて西域を攻めさせ、羅什は、亀茲国を攻略した呂光に連れられて中国へ行く途中、前秦が滅亡したため、呂光の保護を受けて涼州に留まった。その後、後秦王・姚興に迎えられて弘始3年(0401)長安に入り、その保護の下に国師の待遇を得て、訳経に従事した。羅什は多くの外国語に通暁していたので、初期の漢訳経典の誤謬を正し、また抄訳を全訳とするなど、経典の翻訳をした。その翻訳数は、出三蔵記集巻二によると三十五部二九四巻、開元釈教録巻四によると七十四部三八四巻にのぼる。代表的なものに「妙法蓮華経」八巻、「大品般若経」二十七巻、「大智度論」百巻、「中論」四巻、「百論」二巻などがある。弘始11年(0409)8月20日、長安で寂したが、予言どおりに舌のみ焼けず、訳の正しさを証明したと伝えられる。なお、寂年には異説があるが、ここでは高僧伝巻二によった。
一句・一偈
経文において四句をもって一つの偈をなすもの。句とは通常、数語で一つの意味をなしている最小限度のものをいうが、漢訳経典では、四字または五字などで一句をなすものが多い。偈は一般に経典中の韻文形式で説かれたものをいい、仏の徳または教理を賛嘆している。
方諸
月から水をとるという鏡のこと。月夜のような晴れた夜には、鏡を戸外に置くと、冷えた鏡の表面に露がつくことから、鏡が水を月から得たと考えたもの。一説には大蛤のことともいわれる。
如実乗に非ずんば恐らくは自他を欺かん
安然の普通授菩薩戒広釈にある文。
講義
本章は、国により風俗習慣も人間の心も相違することを明かされ、その結果、弘めるべき仏法も異なってくると述べられ、日本国は法華経有縁の国であることを示されている。
初めに、江南の橘が淮北に移されて、からたちとなるとの例を示されて、心なき草木すら国土の違いにより異なるのであるから、ましてや心をもつ人間においては、なおさらのことであると述べられ、玄奘三蔵の大唐西域記の記述を紹介されている。
「不孝」「孝」の違いは道徳観の相違の例であり、「瞋恚」「愚癡」は気質の相違、「一向大乗」「一向小乗」「大小兼学」は仏道修行の相違、「殺生」「偸盗」は犯罪傾向の相違、「穀」「粟」は気候風土による食生活の相違といえよう。このように国にもさまざまな違いがあるのであるから、仏法を弘めるにあたっても、そうした国情を弁えることが大切となるのである。
さて、では、この日本国においては、いかなる仏法の教えを弘めるべきかを、経論、伝承によって示されているのである。
はじめに、法華経の普賢菩薩勘発品の文から、法華経が閻浮提の人にとって有縁の経であることを示され、つぎに、弥勒の瑜伽論の文によって、その閻浮提の内でもさらに範囲を限定して、東の小国が大乗の機であることが明かされる。僧肇の法華翻経後記の文でも、法華経が東北の小国に縁の深いことが示されており、その東北の小国とは日本にほかならないことを、安然和尚の普通授菩薩戒広釈の文と慧心僧都の一乗要決の文によって示されるのである。
このように日本国は法華経有縁の国であるから、日本国の人は、法華経の一句・一偈であっても修行すれば必ず成仏できるのに対し、念仏等といった法華経以外の諸経は日本国と無縁であるから、どんなに行じても成仏できない、と強調されている。そして、安然和尚の普通授菩薩戒広釈の序文の言葉を引用されて、実教の法華経以外の法を日本国の人々に授け弘通するならば、それは自分も他人もあざむくことになると述べられている。
結論として、仏法は必ず国の相違をよく観察してから弘通すべきことを説かれ、他の国で適合した法だからといって、別の国でも適合するとは限らないと戒められている。
第六章 「仏法流布の前後」を明かす
又仏法流布の国においても前後を勘うべし、仏法を弘むる習い必ずさきに弘めける法の様を知るべきなり、例せば病人に薬をあたふるにはさきに服したる薬の様を知るべし、薬と薬とがゆき合いてあらそひをなし人をそんずる事あり、仏法と仏法とがゆき合いてあらそひをなして人を損ずる事のあるなり、さきに外道の法弘まれる国ならば仏法を・もつて・これをやぶるべし、仏の印度にいでて外道をやぶり・まとうか・ぢくほうらんの震旦に来つて道士をせめ・上宮太子・和国に生れて守屋をきりしが如し、仏教においても小乗の弘まれる国をば大乗経をもつてやぶるべし、無著菩薩の世親の小乗をやぶりしが如し、権大乗の弘まれる国をば実大乗をもつて・これをやぶるべし、天台智者大師の南三・北七をやぶりしが如し、而るに日本国は天台・真言の二宗のひろまりて今に四百余歳、比丘.比丘尼・うばそく.うばひの四衆・皆法華経の機と定りぬ、善人.悪人・有智・無智.皆五十展転の功徳をそなふ、たとへば崑崙山に石なく蓬莱山に毒なきが如し、而るを此の五十余年に法然といふ大謗法の者いできたりて、一切衆生をすかして珠に似たる石をもつて珠を投させ石をとらせたるなり、止観の五に云く「瓦礫を貴んで明珠なりと申す」は是なり、一切衆生石をにぎりて珠とおもふ、念仏を申して法華経をすてたる是なり、此の事をば申せば還つてはらをたち法華経の行者をのりて・ことに無間の業をますなり是五。
現代語訳
また仏法の流布している国においても、その前後を考えなければならない。仏法を弘める習いとして。必ず先に弘まっている法の有り様を知るべきである。たとえば病人に薬を与えるには、先に服した薬のことを知らなければならないようなものである。そうでないと薬と薬とが作用しあって、人の命を損ずることがある。それと同様に、仏法と仏法とがかち合って争いとなり、人の命を損ずることになるのである。先に外道の法が弘まっている国ならば、仏法をもってこれを破らなければならない。仏がインドに出られて外道を破り、摩謄迦・竺法蘭が中国に来て道士を責め、上宮太子が日本国に生まれて物部守屋を滅ぼしたようなものである。
仏教においても、小乗経の弘まっている国は大乗経をもって破らなければならない。無著菩薩が世親の小乗を破ったようなものである。権大乗経の弘まっている国は実大乗経をもってこれを破らなければならない。天台智者大師が南三北七の十師を破ったようなものである。しかるに日本国は、天台宗・真言宗の二宗が弘まって今に四百余年、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆は皆法華経の機根と定まった。善人・悪人・有智の者・無智の者も皆法華経に説かれる五十展転の功徳を備えている。たとえば崑崙山に石がなく、蓬莱山に毒がないようなものである。
しかるにこの五十余年に、法然という大謗法の者が現れて、一切衆生をだまして、珠に似ている石をもって、珠を投げ出させて石を取らせたのである。摩訶止観の巻五に「瓦礫を貴んで明珠だといっている」とあるのはこのことである。一切衆生は石を握って珠と思っている。念仏を称えて法華経を捨てるのがそれである。この事をいうと、世間の人はかえって腹を立て、法華経の行者を罵って、ことさらに無間地獄に堕ちる業を増しているのである。これ五である。
語釈
まとうか
生没年不明。迦葉摩騰ともいう。中インドの人。バラモンの家に生まれ、よく大小乗経に通達していた。後漢の明帝の時、竺法蘭とともに中国に初めて仏教を伝え、白馬寺に住し、「四十二章経」を翻訳したと伝えられる。
ぢくほうらん
生没年不明。中インドの人。経論数万章を暗誦していたという。摩騰迦とともに中国に初めて仏教を伝え、白馬寺に住し、「十地断結経」「仏本生経」「法海蔵経」「仏本行経」「四十二章経」の五部を訳出したとされる。
震旦
一説には、中国の秦朝の威勢が外国にまでひびいたので、その名がインドに伝わり、チーナ・スターナ(Cīnasthāna、秦の土地の意)と呼んだのに由来するとされ、この音写が「支那」であるという。また、玄奘の大唐西域記には「日は東隅に出ず、その色は丹のごとし、ゆえに震丹という」とある。震旦の旦は明け方の意で、震丹の丹は赤色のこと。インドから見れば中国は「日出ずる処」の地である。
道士
①道教を修めてその道に練達した者。②神仙の術を行う者。③仏道を修業する者。
上宮太子
(0574~0622)。飛鳥時代の人。用明天皇の第二子。厩の中で誕生し、一度に八人の奏上を聞き分けることができたので、名を厩戸豊聡耳皇子といい、また上宮太子とも呼ばれた。推古天皇の皇太子となり、摂政として国政を総理し、数多くの業績を残した。まず、冠位十二階を制定して従来の世襲的な氏姓政治から官僚政治への転換を図り、十七条憲法を定めてこれを国家原理とし、中央集権国家の建設を進めた。また、小野妹子を随に派遣して国交を開き、大陸文化の摂取に努めるなど、内政、外交ともに活発な行動を展開した。太子の政治思想は、十七条憲法に「篤く三宝を敬え」と記したことにも明らかなように、仏教に深く根差しており、仏法興隆を治国の根幹とするものであった。そして法華経・維摩経・勝鬘経の大乗仏典の註釈諸を著した。また法隆寺、四天王寺等も太子の建立によると伝えられている。このように聖徳太子の業績には目覚ましいものがあり、日本における仏法興隆の先駆的功績者であるとともに、飛鳥文化の中心的人物である。
守屋
物部の守屋のこと。日本に仏教が伝来したのは、第30代欽明天皇の13年(0552)10月、百済国の聖明王が釈迦仏の金銅像と幡葢、経論を献上したのが最初とされる。以後、仏教派の蘇我氏と神道派の物部氏の間で争いが続き、国内は乱れ災害が続出した。第32代用明天皇の崩御のあと、0587年、物部守屋一族と、聖徳太子および曽我馬子との間に、決戦が行なわれ、太子は守屋を打ち破って、日本の仏教流布を確立したのである。日寛上人の分段には「四条金吾抄三十九を往いて見よ。ある抄にいわく『守屋も権者なり、上宮は救世観世音、守屋は将軍地蔵なり、俱に誓願に依り日本国に生るるなり、守屋最後の時太子唱えて云く“如我昔所願今者已満足”と云云。守屋唱えて云く“化一切衆生皆令入仏道”と云云、権者なること疑いなし』されば開目抄にいわく“聖徳太子と守屋とは蓮華の華菓同時なるがごとし”と云云」とある。
無著菩薩
生没年不明。梵語でアサンガ(Asaṅga)といい、無障礙とも訳す。4世紀ごろ、北インド・健駄羅国のバラモンの家に生まれた。最初は化地部の僧として出家したが、空の教えに興味をもち、さらに弥勒に大乗の空観を教えられてから、大乗に帰して大乗の諸教義を研究し、瑜伽・唯識の教えを弘めた。小乗の諭師であった弟の世親を教化して大乗に帰入させた故事は有名である。著書に「摂大乗論」三巻、「金剛般若論」二巻、「顕揚聖教論」二十巻、「順中論」二巻などがある。
世親
生没年不明。4~5世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、天親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無著に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。その時、小乗の教を説いてきた非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後、舌をもって大乗を讃して罪を償うようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」四巻など多数あり、千部の論師といわれる。
天台智者大師
(0538~0597)。中国天台宗の開祖。慧文、慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。18歳の時、湘州果願寺で出家し、次いで律を修し、方等の諸経を学んだ。陳の天嘉元年(0560)大蘇山に南岳大師を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、おおいに法華経の深義を照了し、法華第一の義を説いて「法華玄義」十巻、「法華文句」十巻、「摩訶止観」十巻の法華三大部を完成した。摩訶止観では観心の法門を説き、十界互具・一念三千の法理と実践修行の方軌を明らかにしている。隋の煬帝より智者大師の号を与えられたが、天台山に住したので天台大師と呼ばれる。
南三・北七
中国の南北朝時代に、仏教界は揚子江の南に三派・北に七派の合わせて十派に分かれていた。すなわち南三とは虚丘山の笈師・宗愛法師・道場の観法師、北七とは北地師・菩提流支・仏駄三蔵・有師(五宗)・有師(六宗)・北地禅師(二種大乗)・北地禅師(一音教)である。これらの十宗の説は、いずれも華厳第一・涅槃第二・法華第三と説き、天台大師に打ち破られた。
天台
天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。
真言
真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
五十展転の功徳
仏の滅後に法華経を聞いて随喜して人に伝え、第五十番目に伝え聞いた人の随喜の功徳のこと。法華経随喜功徳品第十八には「第五十の人の展転して、法華経を聞いて随喜せん功徳」とある。展転とは、ころがる、めぐりうつるの意で、教法を人から人へと伝えていくこと。この五十番目の人が法を聞いて随喜する功徳は、四百万億阿僧祇の世界の衆生に八十年にわたり供養し、阿羅漢果を得させる功徳よりも、はるかにすぐれると説いている。化他の功徳を説く第五十番目の者の絶大な功徳を説いて、第一番目の自行・化他を具足する者の無量の功徳をあらわしている。
崑崙山
崑山ともいい、チベット高原・タリム盆地・モンゴル高原にまたがる大山脈。中国では古くから美玉を産する山として有名。
蓬莱山
中国の古代に説かれた三神山の一つ。中国の東方の渤海上にあって、鳥獣草木は皆白く、宮殿は皆黄金と宝石でつくられているという。遠くから見ると雲のようで近づくことはできないが、そこに住む仙人は不老長寿の秘薬を持ち、山は不老不死の霊山とされている。
法然
(1133~1212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(1212)80歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。
止観
摩訶止観のこと。天台大師智顗が荊州玉泉寺で講述したものを章安大師が筆録したもの。法華玄義・法華文句と合わせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂して法華の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方軌を明かしている。摩訶は梵語マカ(mahā)で、大を意味し「止」は邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。「観」は正見・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華文句と法華玄義が教相の法門であるのに対し、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書である。
無間の業
無間地獄に堕ちる業因のこと。無間は梵語アヴィーチィ(avīci)阿鼻・阿鼻旨の意訳。八熱地獄のひとつ。五逆罪と正法誹謗が堕地獄の業因とされる。
講義
前章で、日本国が法華経有縁の国であることを明かされたのであるが、本章では、仏法流布の順序次第からも、日本国には法華経のみが弘まるべきであり、権教の念仏を弘めるのは大謗法であることを示される。
この仏法流布の前後については、弘めるべき法は、先に弘まった法より高くなければならないということである。すなわち、五重の相対として捉えられる教法の高低浅深に従って、先に弘まった外道に対し、内道の仏法をもって外道の法を破りつつ弘めるのである。これは、釈尊がインドに出世して、仏法を弘めた時もそうであり、中国に仏法を伝え始めた摩謄迦・竺法蘭もこの方規に従ったし、さらには、日本に仏法流布の時代を開いた聖徳太子も同じ原理を踏まえたのである。
つぎに、仏法のなかでも、すでに小乗教の弘まっている国では、大乗教を弘めるべきである。例えば、無著菩薩が小乗教を信仰していた弟の世親を破折して、大乗教に帰伏させた如くにである。
さらに、同じ大乗教でも、すでに権大乗教が弘まっている国では、実大乗教の法華経をもってこれを破りつつ流布していくべきことは、中国の天台大師が南三北七の十流派を破折して、法華経を弘通した姿に明白に表れている。
さて、日本国の仏法流布の前後はどうであろうか。
日本国では聖徳太子の時代を過ぎて以後、天台・真言の二宗が弘まって、日蓮大聖人に至るまで四百余年を経過しているが、「比丘・比丘尼・うばそく・うばひの四衆・皆法華経の機と定りぬ、善人・悪人・有智・無智・皆五十展転の功徳をそなふ、たとへば崑崙山に石なく蓬莱山に毒なきが如し」とあるように、日本国の僧俗すべてに、法華経の信仰がすでに流布したのである。
ちょうど、崑崙山には珠ばかりで石がなく、蓬莱山には薬ばかりで毒のないように、日本国はただ法華経を信ずべき機根の衆生のみとなったのである。ゆえに、この日本国に権教の念仏を弘めることは時代逆行であり、仏法の原理に背く大謗法であると結論されている。
「一切衆生をすかして珠に似たる石をもつて珠を投させ石をとらせたるなり……一切衆生石をにぎりて珠とおもふ、念仏を申して法華経をすてたる是なり」との仰せの文は、大謗法の法然の邪説にだまされて、多くの日本国の人々が、珠の如き法華経を捨て、石ころにすぎない念仏を信仰している愚かさを厳しく指摘されている。
而るに日本国は天台・真言の二宗のひろまりて今に四百余歳……皆法華経の機と定りぬ
日本においては、まず、聖徳太子が、排仏派の物部守屋をしりぞけて、日本に仏教を導入した当初から、とくに法華経が重んじられたことは、太子自身、法華経の義疏を著したと伝えられていることに明白である。奈良朝時代に南都六宗が成立し、法華経を根本とする流れが一時乱れたが、これを打ち破って法華経第一の正統を確立したのが伝教大師最澄であった。平安時代には、天台宗・真言宗の二宗が、以後の四百余年間、日本の仏教界を代表するのである。
しかるに、平安末期、法然が法華経等の諸経を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱え、念仏を弘め始めた。この謗法の邪教によって、せっかく〝法華経の機〟に定まった日本国の衆生の仏法信仰に大混乱が生じたのである。
ここで「天台・真言の二宗のひろまりて……皆法華経の機と定りぬ」といわれている点について、少し説明が必要であろう。なぜなら、真言自体、法華経を誹謗している邪法であるし、天台宗もその真言の邪義をとり入れてしまったからである。弘法大師空海の真言宗、また叡山の慈覚・智証の天台密教によって、天台・伝教本来の法華第一の正義が乱されたことは事実であり、これらの人々について、大聖人はのちに厳しい破折を加えられている。
しかし、本抄御執筆の文永元年(1264)は大聖人の弘教においては初期のことであり、真言宗のことは、ひとまずおいて、まず念仏や禅の破折に重点を置かれていた。そのゆえは、真言宗は大日経を立てて法華経を誹謗している邪義であるものの、まだしも仏教の教理的研鑽に取り組んでいる。それに対し、念仏と禅とは、そうした正統的な教理研鑽そのものを否定した邪義であったからである。
真言宗は、弘法の東密系では法華経を大日経・華厳経より劣るときめつけ、慈覚等の台密系では理同事勝と唱えたがゆえに、正法誹謗の科をまぬかれえないものの、法華経を読誦したり一念三千の法理を学び修行することまで否定することはしなかった。したがって、一往、与えて、天台・真言の二宗によって法華経の信仰は保たれ、日本中の人々の法華経の機は定まってきたといわれているのである。しかし奪っていえば、真言宗が法華経の正しい精神を破壊した大謗法の邪教であることは明白である。この真言への破折は佐渡期以後、文底独一本門の正義を明らかにしていくうえで本格的に明かされていくのである。
「五十展転の功徳」
五十展転の功徳とは折伏の功徳である。折伏は、自ら歓喜し、その歓喜を人にも教え、同じように歓喜を与えたいという純粋な心情より行なわれるものである。
自ら歓喜せずして、どうして、他の人に歓喜を伝えることができようか。折伏は、まさしく、生命と生命のふれあいであり、虚飾もなければ虚偽もない。人間の心は敏感である。虚飾は必ずや見破られ、見捨てられていくものである。
いま、日蓮大聖人の教え、大御本尊の功徳が、妙法を受持した創価学会員の生命に歓喜の躍動と智慧とを与え、それは、さらに多くの人々に語り伝えられている。そこに、とどまることを知らぬ折伏の源泉があるのだ。誰からも報酬を受けるわけではない。歓喜なくしては、とうていできえないことである。
これ、妙法に随喜するがゆえであり、大御本尊の五十展転の功徳のゆえである。すなわち、五十展転の功徳とは、何千万、何百億の人に分けられようと決して損ずることがなく、また、その間に何人介在しようと、最初のままの功徳が伝わるということである。
五十展転とは五とは妙法の五字なり十とは十界の衆生なり展転とは一念三千なり
教相の辺で論ずると、五十展転とは,第五十番の人の随喜の功徳をいうのであるが、観心の立場より論ずるならば、それは第五十人という特定の人に限られるものではない。要は、妙法を聞いて随喜する一切衆生を述べているのである。
しかして、大聖人は、さらにこれを深く、明瞭に「五十展転」の意義を示されたのである。すなわち、なぜ五十という数字を経文があげたか、五とは妙法の五字であり、十とは十界の一切衆生の意である。展転とは、ころがり、まろぶの意で、一人から一人へ、また次の一人へと、伝わっていくことであるが、これを観心の立場から、一念三千を意味すると仰せられたのである。
すなわち、南無妙法蓮華経の御本尊に対する一念が、一人から一人へと伝えられ、行く先々に、燃え上がっていくことである。
第七章 念仏を捨てて法華の信を勧む
但とのはこのぎをきこしめして念仏をすて法華経にならせ給いてはべりしが、定めてかへりて念仏者にぞならせ給いてはべるらん、法華経をすてて念仏者とならせ給はんは峯の石の谷へころび・空の雨の地におつると・おぼせ大阿鼻地獄疑なし、大通結縁の者の三千塵点劫を・久遠下種の者の五百塵点を経し事、大悪知識にあいて法華経をすてて念仏等の権教にうつりし故なり、一家の人人・念仏者にてましましげに候いしかばさだめて念仏をぞすすめまいらせ給い候らん、我が信じたる事なればそれも道理にては候へども・悪魔の法然が一類にたぼらかされたる人人なりと・おぼして・大信心を起し御用いあるべからず、大悪魔は貴き僧となり父母・兄弟等につきて人の後世をば障るなり、いかに申すとも法華経をすてよとたばかりげに候はんをば御用いあるべからず、
現代語訳
ただ貴殿は、この義を聞かれて、念仏を捨て法華経を持っておられたが、今はきっとかえって念仏者になられておられるだろう。法華経を捨てて念仏者になられたならば、峯の石が谷底へ転げ落ち、空の雨の地に落ちるようなものであると思いなさい。大阿鼻地獄に堕ちることは疑いない。大通智勝仏の時に結縁した者が三千塵点劫の間、久遠の昔に下種された者が五百塵点劫の間、無間地獄等の悪道で過ごしたのは、大悪知識にあって法華経を捨てて念仏等の権教に移ったからである。あなたの一家の人々は念仏者であったようであるから、きっと念仏を勧めていることであろう。自分達が信じたことであるから、それも道理ではあるけれども、悪魔の法然の一類に誑かされている人々であると思って、大信心を起こし、用いてはならない。大悪魔は貴き僧となり、父母・兄弟等にとりついて、人の後世を妨げるのである。どのように言っても、法華経を捨てよと欺こうとするのを用いてはならない。
語釈
大阿鼻地獄
阿鼻大城ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avīci)の音写で、意訳して無間という。苦を受けるのが間断ないことをいう。大城とは、無間地獄が七重の鉄城、七層の鉄網で囲まれていて脱出できないことからいわれている。欲界の最低、大焦熱地獄の下にあるとされ、八大地獄のうち他の七つよりも一千倍も苦が大きいという。五逆罪、正法誹謗の者が堕ちるといわれる。
大通結縁の者
三千塵点劫の昔、大通智勝仏の十六王子が、父王から聞いた法華経を、諸国に赴いて重ねて講じた時、聞法して縁を結んだ者のこと。第十六番目の王子は釈尊の過去世の姿である。
三千塵点劫
法華経化城喩品第七で説かれた、大通智勝仏の第十六王子として釈尊が声聞の弟子を化導して以来の長遠の時をあらわしたもの。劫とは長遠の時の単位。三千塵点劫とは、三千大千世界の国土をすりつぶして微塵とし、東方の千の世界を過ぎるごとに一塵ずつを下し、すべての微塵を下し尽くして、下した国土も下さなかった国土も合わせて微塵にし、その一塵を一劫と数えて、その微塵の数以上の無量無辺の長遠な時をいう。三千塵点劫の昔、大通覆講で下種を受けながら悪知識のために退転した者は、三千塵点劫の間、地獄の苦を受けてきたのである。
久遠下種の者
久遠の昔に下種を受けた者。釈尊が法華経如来寿量品第十六で明かした五百塵点劫成道のときに下種をされた人。
五百塵点
五百塵点劫のこと。法華経如来寿量品第十六で明かされた、釈尊が成道して以来の長遠の時を示したもの。五百塵点劫とは、五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界の国土をすりつぶして微塵とし、東方の五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎるごとに一塵ずつを下し、すべての微塵を下し尽くして、下した国土と下さなかった国土とを合わせて微塵にし、その一塵を一劫とした長遠の時にさらに百千万億那由他阿僧祇劫過ぎた時をいう。三千塵点劫よりも五百塵点劫のほうが、はるかに長遠の時である。久遠の仏から下種を受けながら、退転した衆生は、五百塵点劫の間、悪道を流転してきたのである。
大悪知識
「悪知識」は、善知識に対する語。悪友と同語。仏道修行を妨げ、不幸に陥れる友人。唱法華題目抄には「悪知識と申してわづかに権教を知れる人智者の由をして法華経を我等が機に叶い難き由を和げ申さんを誠と思いて法華経を随喜せし心を打ち捨て余教へうつりはてて一生さて法華経へ帰り入らざらん人は悪道に堕つべき事も有りなん」(0001:08)とある。
悪魔
魔と同義。仏道修行、成仏を妨げる働きをするもの。煩悩に従って現れてくるもので、その種類は多いが、欲界の第六天・他化自在天を一切の魔の首領とする。
講義
日蓮大聖人は、第二章から第六章に至るまで、宗教の五網に照らして、法華経こそが真実の大仏法であり、末法日本国の衆生はただ法華経を信じてこそ成仏できる機根であることを明かされた。それをうけて、この段では南条兵衛七郎に対し、念仏をきっぱりと捨てて、法華経の信心に一途に励むべきことを指導されているのである。
南条兵衛七郎は法華経に帰依して未だ日が浅く、しかも周囲は、念仏信者の親戚や友人等ばかりであるから、それに引きずられることを大聖人は心配されたのであろう。そうした環境への細かい心遣いと配慮をされながら、法華経への絶対の信に立つよう厳しくも温かく指導されている日蓮大聖人の大慈悲が感じられる。
まず「定めてかへりて念仏者にぞならせ給いてはべるらん」と、南条兵衛七郎がもとの念仏者に戻ってしまうのではないかとの危惧の念を述べられている。
もし、法華経を捨てて念仏者になったならば、峯の石が谷へ転落し、空の雨が地に落ちるように、無間地獄に堕ちることは間違いないと説かれ、大通結縁の者が三千塵点劫もの間、また、久遠下種の者が五百塵点劫もの間、悪道を流転したのは、ひとえに、大悪知識に会ってその影響を受けて法華経を捨て念仏等の権教に移ったためであると、悪知識の恐ろしさを強調されている。
「一家の人人・念仏者にてましましげに候いしかばさだめて念仏をぞすすめまいらせ給い候らん」との御文は、南条兵衛七郎の周囲の人々が念仏者であるがゆえに、それに引きずられることのないよう戒められているのである。そして、法華経への大信力を起こして、たとえ家族の人々であっても「悪魔の法然が一類にたぼらかされたる人人なりと・おぼして」、念仏への誘いを断固として拒否すべきであり、世間一般の人々から崇められている法然や極楽寺良観などの高僧が、その本質は「大悪魔」であることを忘れてはならない、と厳しく指導されている。
第八章 小松原法難の様相を示す
まづ御きやうさくあるべし。
念仏実に往生すべき証文つよくば此の十二年が間・念仏者・無間地獄と申すをばいかなるところへ申しいだしてもつめずして候べきか、よくよくゆはき事なり、法然・善導等が・かきをきて候ほどの法門は日蓮らは十七八の時よりしりて候いき、このごろの人の申すもこれにすぎず、結句は法門はかなわずしてよせてたたかひにし候なり、念仏者は数千万かたうど多く候なり、日蓮は唯一人かたうどは一人もこれなし、今までもいきて候はふかしぎなり、今年も十一月十一日安房の国・東条の松原と申す大路にして、申酉の時・数百人の念仏等にまちかけられて候いて、日蓮は唯一人・十人ばかり・ものの要にあふものは・わづかに三四人なり、いるやはふるあめのごとし・うつたちはいなづまのごとし、弟子一人は当座にうちとられ・二人は大事のてにて候、自身もきられ打たれ結句にて候いし程に、いかが候いけん・うちもらされて・いままでいきてはべり、いよいよ法華経こそ信心まさり候へ、第四の巻に云く「而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」第五の巻に云く「一切世間怨多くして信じ難し」等云云、日本国に法華経よみ学する人これ多し、人の妻をねらひ・ぬすみ等にて打はらるる人は多けれども・法華経の故にあやまたるる人は一人もなし、されば日本国の持経者は・いまだ此の経文にはあわせ給はず唯日蓮一人こそよみはべれ・我不愛身命但惜無上道是なりされば日蓮は日本第一の法華経の行者なり。
現代語訳
まずはご推察されるがよい。
念仏で実に往生するという証文が確かであるならば、この十二年の間、念仏者は無間地獄に堕ちると言ったのを、どのようなところへ申し出しても、難詰しないでおられようか。よくよく自信がないのであろう。法然・善導等が書き置いたほどの法門は、日蓮は十七、八歳の時から知っていた。このごろの人の言うこともこれらを越えてはいない。結局、法門ではかなわないから、多勢をたのんで力で戦おうとするのである。念仏者は数千万であり、味方は多い。日蓮は唯一人であり、味方は一人もいない。今まで生きているのは不思議なのである。今年も十一月十一日に安房の国東条の松原という大路で、申酉の時、数百人の念仏者等に待ち伏せされた。日蓮は唯一人、十人ばかりの供も、役に立つ者はわずかに三、四人である。射る矢は降る雨のようであり、打つ太刀は雷のようであった。弟子一人は即座に打ち取られ、二人は深手を負った。日蓮自身も斬られ、打たれ、もはやこれまでという有り様であったが、どうしたことであろうか、打ちもらされて今日まで生きているのである。いよいよ法華経の信心を増すばかりである。法華経の第四の巻には「しかもこの経は仏の在世でさえなお怨嫉が多い。ましてや仏の滅度の後においてはなおさらである」とあり、第五の巻には「一切世間に怨嫉が多くて信じがたい」と説かれている。日本国に法華経を読み学ぶ人は多い。人の妻を狙い、盗み等をして、罰せられる人は多いけれども、法華経のために傷つけられる人は一人もいない。だから日本国の持経者は、いまだこの経文には符合していない。ただ日蓮一人こそ法華経を色読したのである。「我身命を愛せず、ただ無上道を惜しむ」とはこのことである。ゆえに日蓮は日本第一の法華経の行者である。
語釈
きやうさく
推察・推量すること。よく考えてみること。
善導
(0613~0681)。中国・初唐の浄土宗の僧。姓は朱氏。泗州の人。幼い時に出家し、経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土を志した。のちに石壁山の玄中寺におもむいて道綽の教えを受け、ついで都に入って20余年間、称名念仏を弘めた。往生礼讃偈で「千中無一」と説き、念仏以外の雑行を修するものは、千人の中で一人も成仏しないとしている。著書には「観経疏」四巻などがある。
安房の国・東条の松原
地名。現在の千葉県鴨川市広場付近と思われる。日蓮大聖人はこの地で文永元年(1264)11月11日。天津の工藤邸に向かっていた一行が、念仏批判を受けて激しく敵対心を抱いていた東条景信からの襲撃を受け、弟子の鏡忍房と門下の工藤吉隆が殺害され、大聖人自身も額を斬られるとともに左手を骨折するなどの重傷を負った。小松原法難の地。
而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し況や滅度の後をや
法師品の文。法華経を弘める者には、釈尊の在世ですら大難があった。ましてや滅度の後、法華経を弘める者には当然、数々の大難がある、との意。
一切世間怨多くして信じ難し
安楽行品の文。仏が法華経を説くときには、世間のあらゆる人が仏を怨み迫害してしんじようとしない、との意。
我不愛身命但惜無上道
勧持品の文。「我身命を愛せず、但無上道を惜しむ」と読む。勧持品では八十万億那由佗の菩薩が、釈尊滅後において三類の強敵を忍んで法華経を弘通すると誓う、請願の文。
講義
はじめに「まづ御きやうさくあるべし」と述べられ、日蓮大聖人が念仏の者は無間地獄に堕す、と立教開宗以来これまで十二年間にわたって、諸所で主張してきたのに、念仏者の側からは何らそれに対して法門の上で反論しようとしなかった。そのことから、ひとえに念仏すれば確実に往生できるとの文証の上からの裏づけが余りにも弱いためであるということがわかるではないか、と仰せられている。
念仏を説いた法然や善導等の書いた法門は、大聖人はすでに17,8歳のころに熟知されていたことであり、それを知ったうえで念仏無間地獄と断定されたのであるから、その後の念仏者達が大聖人の主張を破れるわけがないと仰せられている。
その結果、念仏者達は法門の上では勝てないので、多数を頼んで大聖人を暴力で迫害する行動に出てきたのである。
日本中が念仏を信仰しており、大聖人を憎んで迫害してくるなかにあって、今まで生命を存らえてきたのは不思議なくらいであると述べられ、小松原の法難の様相を明かされている。本抄御執筆の一か月前の事件だけに、生き生きと法難の様子が活写されている。
そして、このように難にあうこと自体、法華経の予言どおりであり、法華経の正しさへの確信を深めさせてくれるものであると言われ、法華経第四の巻法師品第十の「而も此の経は、如来の現に在すすら猶お怨嫉多し。況んや滅度の後をや」の文、同第五の巻安楽行品第十四の「一切世間に怨多くして信じ難し」の文を引用されている。これらの文のとおりに、法華経の弘通のために、小松原の法難をはじめとするさまざまな生命に及ぶ迫害や難に直面した御自身を「日本第一の法華経の行者なり」と宣言されている。
されば日本国の持経者は・いまだ此の経文にはあわせ給はず……我不愛身命但惜無上道是なり
たしかに「日本国に法華経よみ学する人これ多し」と仰せのように、当時、法華経を読誦したり、学ぶ人々は少なくなかった。それは、日本国に仏教が流伝されて以来、数多くの経典のなかで、法華経ほど人々に親しまれ読まれた経典はないという事実からも明らかに推定される。しかしながら、法華経を身をもって読んだ人はだれもいないのである。
すなわち「人の妻をねらひ・ぬすみ等にて打はらるる人は多けれども」と、世間的罪業のために権力による処罰を受けた人は多いけれども「法華経の故にあやまたるる人は一人もなし」と、法華経の経文どおりに、法華経の弘通のために生命に及ぶ迫害や傷害を受けた者は一人もいないと断言されている。過去に法華経を読んだ人達はただ言葉や観念で読んだだけであったのに対し、日蓮大聖人は、身で読まれているのである。経文をそのとおりに実践されているのである。このように大聖人が、法華経のために、命にかかわる難にあわれたことは、法華経勘持品第十三の「我れは身命を愛せず、但だ無上道を惜しむ」の文を身読されていることにほかならないからである。
第九章 更に信心を勧めて結ぶ
もし.さきにたたせ給はば梵天・帝釈.四大天王・閻魔大王等にも申させ給うべし、日本第一の法華経の行者・日蓮房の弟子なりとなのらせ給へ、よもはうしんなき事は候はじ、但一度は念仏・一度は法華経となへつ・二心ましまし人の聞にはばかりなんど・だにも候はば・よも日蓮が弟子と申すとも御用ゐ候はじ・後にうらみさせ給うな、但し又法華経は今生のいのりともなり候なれば、もしやとしていきさせ給い候はば・あはれ・とくとく見参してみづから申しひらかばや、語はふみにつくさず・ふみは心をつくしがたく候へばとどめ候いぬ、恐恐謹言。
文永元年十二月十三日 日蓮花押
なんでうの七郎殿
現代語訳
もし日蓮より先に旅立たれたならば、梵天・帝釈天・四大天王・閻魔大王等にも申し上げなさい。日本第一の法華経の行者・日蓮房の弟子であると名乗りなさい。よもや粗略な扱いはされないであろう。ただし、一度は念仏、一度は法華経を唱えるというように、二心があって、人の風聞を恐れるようなことがもしもあるならば、日蓮の弟子と名乗られても、お用いにはなるまい。あとになって恨んではならない。ただし法華経は今生の祈りともなるものであるから、ひょっとして生きのびられることがあれば、一刻も早くお会いして、日蓮からお話ししたい。語は文に尽くせない。文は心を尽くし難いから、これでとどめます。恐恐謹言。
文永元年十二月十三日 日 蓮 花 押
南条七郎殿
語釈
梵天
仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
四大天王
帝釈天の外将。須弥山の中腹に由健陀羅やまがあり、この山に四頭あって、ここを四天王といい、東方に持国天、南方に増長天、西方に広目天、北方に多聞天が位置する。
閻魔大王
閻魔は梵語ヤマ(Yama) の音写。炎魔・閻魔羅などとも書く。死者が迷い行く冥界の主である。一説によると、死者は五七日(5週間)に閻魔大王の所に行く。王は猛悪忿怒の形相で、浄頗梨鏡に映った死者の生前の業を裁くという。
はうしん
美しい心。親切な心のこと。
講義
「日蓮は日本第一の法華経の行者なり」と、御自身の立場を明らかにされたうえで、したがって、南条兵衛七郎が、もし、死の旅に立つことがあったなら、梵天・帝釈・四大天王・閻魔大王等に、日本第一の法華経の行者・日蓮房の弟子と名乗れば、梵天・帝釈・四大天王・閻魔大王も南条兵衛七郎を親切に迎えてくれるであろうとさとされている。
しかしながら、そのためには、南条兵衛七郎がこれまでのような念仏と法華経を並べているような二心をすてて、法華経一筋に、純一の信心に立たなければならないし、世間体を恐れているような弱い信心であってはならないと厳しく指導されている。
「但し又法華経は今生のいのりともなり候なれば」云云とは、法華経の信仰の功徳は、あくまで成仏を遂げるところにあるのであるが、現在の人生における幸せをもたらす功徳もあるので、あるいは病気が治って寿命が延びることもあるかもしれないとの仰せである。ここに仏法信仰の根本目的は成仏にあり、現世利益は従の問題であることを知らなければならない。そして、もしや病気を治し生命も延ばせるならば、直接にお会いして法華経の信心について語りたいと述べられている。そして「語はふみにつくさず・ふみは心をつくしがた」いと、本抄を結ばれている。