聖人一つつ・味文字一おけ・生和布一こ。
聖人と味文字はさておき候いぬ。生和布は始めてにて候。はたまた病の由、聞かせ給いて、不日にこの物して御使いをもって脚力につかわされて候こと、心ざし大海よりふかく、善根は大地よりも厚し。こうじん、こうじん。恐々謹言。
十二月十一日 日蓮 花押
大夫志殿御返事
現代語訳
清酒一筒、味噌一桶、生和布一籠をいただきました。清酒と味噌はさておいて、生若布はこのたび、はじめていただきました。
またその上、私(大聖人)が病気であることをお聞きになって、いく日もたたないうちに、この供養の品々を、使用人をご使者としてお送り下された、そのあなたの信心は、大海よりも深く、善根は大地よりも厚い。幸甚、幸甚。恐恐。
十二月十一日
日 蓮 花 押
大夫志殿御返事
語句の解説
聖人
清酒のこと。濁り酒を賢人という。魏志に「太祖酒を禁ず、しかれども人秘かに飲むため酒と言い難し、白酒をもって賢者となし清酒をもって聖人となす」とある。
かうじんかうじん
「幸甚」と書く。なによりのしあわせ、極めてしあわせである等の意で、手紙の前がき、または結辞に用いる。
講義
弘安4年(1281)12月11日のご述作である本抄では、供養によせて大夫志宗仲の信心をたたえられている。
このころ、大聖人は内臓疾患のゆえであろうと推察されるが、食事もあまり進まず、下痢も起こされるという状態であられた。このことを聞いた宗仲が即刻、御供養を申し上げたのである。清酒、みそ、生ワカメなど、いずれも大聖人のお体を考えての御供養であり、なかでも生ワカメは初めてだと大聖人も喜ばれているが、山奥におられる大聖人に、生のワカメは貴重な御供養だったであろう。ヨード、カルシウムなどの栄養を含んで消化もよく、当時は貴重なものだった。
「不日に此の物して御使をもって脚力につかわされて候」とあるように、大聖人の御病状を聞くやいなや、すぐさまこれだけのものを御供養した宗仲の信心の深さがしのばれる。
心ざし大海よりふかく善根は大地よりも厚し
心ざしとは普通、志、好意等の意があるが、ここでは供養をした好意をほめられているというよりも、信心を指しておられると拝すべきである。宗仲の信心は大海よりも深く、その善根は大地よりも厚いとの仰せである。総じて大聖人がお手紙のなかで「心ざし」といわれているのは、四条金吾殿御返事にも「日蓮をたすけんと志す人人・少少ありといへども或は心ざしうすし・或は心ざしは・あつけれども身がうごせず……御辺は其の一分なり・心ざし人にすぐれて」(1149:13)とあるように、信心を指されていることが多い。本抄の場合も、一往は真心からの御供養のことであろうが、再往は信心をほめられているのである。
また善根とは善い果報をうけるための善い機根、すなわち功徳を受けていくべき生命状態のことである。では、われわれの活動のうえではなにが善根となるか。
結論からいえば、信心から発するいっさいの活動が善根となるのである。一生成仏抄にいわく「仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり」(0383:14)と。
すなわち勤行・唱題し、シキミをそなえ、香をたくことにいたるまで、いっさいが善根となって自分の一念におさまると仰せになっている。したがって、大聖人に信心の真心から御供養をしたとき、その善根がいかに厚いかは、いうまでもない。
たとえ、いかなる活動といえども、広宣流布をめざしての活動であるならば、決してむだはないし、徒労に帰すことはない。たとえ、縁の下の力持ちのような目立たない役目でも、その志が信心から発しているならば、檜舞台で活躍する人と、御本尊の功徳がみじんも変わるものではない。御本尊の前では、その人の善根は光り輝くものとなるのである。逆に、たとえ形式だけ修行しているような人であれば、厳しくいえばその人は善根を積んでいるとはいえない。要は奥底の一念がどこにあるかなのである。
さらに根本的にいうならば、善根とは題目であるといえる。御義口伝にいわく「不種善根とは善根は題目なり不種とは未だ持たざる者なり」(0754:第五若仏久住於世薄徳之人不種善根貧窮下賎貪著五欲入於憶想妄見網中の事:02)と。しかして、唱題、折伏に励む人が、末法今時の最高の善根を積んでいる人である。