妙心尼御前御返事(妙の字功徳の事) 第一章(唱題回向の徳を讃える)

妙心尼御前御返事(妙の字功徳の事) 第一章(唱題回向の徳を讃える)

 建治2年(ʼ76)または同3年(ʼ77)の5月4日 55歳または56歳 窪尼

 すずのもの給びて候。
 とうじはのう時にて人のいとまなき時、かようにくさぐさのものどもおくり給びて候こと、いかにとも申すばかりなく候。これもひとえに、故入道殿の御わかれのしのびがたきに、御後世の御ためにてこそ候らんめ。ねんごろにごせをとぶらわせ給い候えば、いくそばくうれしくおわしますらん。とう人もなき草むらに露しげきようにて、さばせかいにとどめおきしおさなきものなんどのゆくえきかまほし。あの蘇武が、胡国に十九年、ふるさとの妻と子とのこいしさに雁の足につけしふみ、阿倍仲麻呂が、漢土にて日本へかえされざりし時、東にいでし月をみて、あのかすがのの月よとながめしも、身にあたりてこそおわすらめ。
 しかるに、法華経の題目をつねはとなえさせ給えば、この妙の文じ御つかいに変ぜさせ給い、あるいは文殊師利菩薩、あるいは普賢菩薩、あるいは上行菩薩、あるいは不軽菩薩等とならせ給う。ちんしがかがみのとりのつねにつげしがごとく、蘇武がめのきぬたのこえのきこえしがごとく、さばせかいのことを冥途につげさせ給うらん。

 

現代語訳

種々の物を頂戴しました。今は農繁期で、人々も忙しく暇のない時に、このようにいろいろな供養のものをお送りいただいたことは、何とも御礼の申し上げようもありません。これもひとえに、故入道殿とのお別れがしのびがたくて、故入道殿の後世の御為にとの思いからのことでしょう。ねんごろに後世を弔われるのであるから、どんなにかうれしく思われていることでしょう。問い訪ねる人もいない草むらに露しげきなかで、娑婆世界に残してきた幼い者たちの行く末を聞きたいと思われていることでしょう。

あの蘇武が胡国に入って十九年、故郷に残した妻子恋しさに、雁の足に便り文をつけて飛ばしたことも、阿倍仲麻呂が、中国で日本に帰されなかったとき、東方から昇る月を見ては、春日野の月よ、と詠んだことも、故入道殿は身にあてて感じておられることでしょう。

しかるに、尼御前は法華経の題目を常に唱えられているのですから、この妙の文字が冥土への御使いに変じられ、あるいは文殊師利菩薩、普賢菩薩、上行菩薩、不軽菩薩等となられるのです。例えば陳子が、別れた妻と一片ずつ分かち持った鏡が鳥となって飛び去り、常に告げたように、蘇武には故郷の妻の打つ碪の音が聞こえたように、題目の妙の一字が娑婆世界のことを冥途の故入道殿に告げられていることでしょう.。

語句の解説

蘇武

(前0140頃~前0060)。中国・前漢の武将。字は子卿。漢書によると、武帝の命により、匈奴王・単于への使者として匈奴の地に赴いた。到着後、囚われの身となり、単于から何度も臣従を迫られたが、応じなかったので、穴牢に幽閉され、食物も与えられず、数日の間、雪と衣類を食べて生き延びた。匈奴の人は、蘇武をただ人ではないと驚き、北海の辺地に流して羊を飼わせた。昭帝の代になって漢と匈奴の和睦が成立し、漢は蘇武らの返還を要求したが、匈奴は、彼は死去したと偽った。その時、蘇武の家来が内密に漢使と会って「帝が都の近くで雁を射落としたところ、雁の足に絹の帛書が結びつけてあり、蘇武らはしかじかの沢にいると書いてあった、と言いなさい」と教えた。使者は家来に言われた通り単于に問いただした。驚いた単于は、しかたなく蘇武を帰すことにした。匈奴に囚われて19年間、漢に戻る折には、髪は真っ白になっていたという。帰朝後も80余歳で没するまで皇帝の側近として仕え、名臣として尊敬された。

 

安部の中麻呂

(0698~0770)。阿倍仲麻呂のこと。奈良時代の文学者。大和の人。霊亀2年(0716)遣唐留学生になり、翌霊亀3年・養老元年(0717)留学生吉備真備、留学僧玄昉らとともに遣唐大使多治比県守に従って入唐した。晁衡と改名し唐朝の官吏となって玄宗皇帝に仕えた。天平勝宝5年(0753)、遣唐使藤原清河に従って帰国の途についたが海難のため果たせず、再び唐朝に仕え、在唐五十余年にして長安で没した。王維・李白らと交遊があり歌人としても名高く、日本を偲んで歌った「あまの原ふりさけみればかすがなるみかさの山にいでし月かも」は有名。

 

文殊師利菩薩

文殊菩薩のこと。菩薩の中では智慧第一といわれる。法華経序品では過去の日月灯明仏のときに妙光菩薩として現われたと説かれている。迹化の菩薩の上首で、普賢菩薩と対で権大乗の釈尊の左に座した。文殊菩薩を生命論から約せば、普賢菩薩が学問を究め、真理を探究し、法理を生み出す智慧、不変真如の理、普遍性、抽象性の働きであるのに対し、文殊菩薩の生命は、より具体的な生活についての隨縁真如の智、特殊性、具象性の智慧の働きをいう。

 

普賢菩薩

東方の宝威徳上王仏の弟子。釈尊の法華経の説法が終わろうとした時、娑婆世界に来至し、仏滅後いかにしてこの法を持つかを尋ねた。そして末法に正法を守り弘め、正法たる法華経を受持する行者を守護することを誓った。法華経普賢菩薩勧発品第二十八に「世尊よ。我れは今、神通力を以ての故に、是の経を守護して、如来の滅後に於いて、閻浮提の内に、広く流布せしめて、断絶せざらしめん」とある。なお、普賢菩薩は理徳、定徳、行徳をあらわし、文殊菩薩は智徳、慧徳、証得をあらわす。

 

不軽菩薩

法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。

 

ちんし

中国の故事に出てくる人と思われるが未詳。陳の国のある人、ある男というほどの意か。中国、唐時代の本事詩に陳の東宮侍従・徐徳言と妻の話がある。徐徳言が妻との離別に際して鏡を破り、その半分を妻に渡した。のちに半鏡を捜し、事情があって他人の妻となっていた妻を呼び戻し、再び添い遂げたという。また、今昔物語に、国王の使いで遠国に赴くことになった夫が、夫婦別離に際して、互いの変わらぬ愛情を誓って鏡を破って半片を分け合った。のちに、その妻が他人と通じてしまったときに妻の持っていた鏡が夫のもとに飛び来ったという話が記されている。

 

冥途

冥土とも書く。亡者が迷っていく道、死後の世界。主として地獄、餓鬼、畜生の三途をさす。冥界、幽途、黄泉、冥府などともいう。その暗さは闇夜のようなものであり、前後左右が明らかでないという。

講義

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