妙法比丘尼御返事 第二章(商那和修の因縁を語る)
弘安元年(ʼ78)9月6日 57歳 妙法尼
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付法蔵経と申す経は、仏、我が滅後に我が法を弘むべきようを説かせ給いて候。その中に「我が滅後正法一千年が間、次第に使いをつかわすべし。第一は迦葉尊者二十年、第二は阿難尊者二十年、第三は商那和修二十年、乃至第二十三は師子尊者なり」と云々。
その第三の商那和修と申す人の御事を仏の説かせ給いて候ようは、商那和修と申すは衣の名なり。この人、生まれし時、衣をきて生まれて候いき。不思議なりしことなり。六道の中に、地獄道より人道に至るまでは、いかなる人も始めはあかはだかにて候に、天道こそ衣をきて生まれ候え。たといいかなる賢人・聖人も、人に生まるるならいは皆あかはだかなり。一生補処の菩薩すら、なおはだかにて生まれ給えり。いかにいわんや、その外をや。
しかるにこの人は、商那衣と申すいみじき衣にまとわれて生まれさせ給いしが、この衣は血もつかず、けがるることもなし。譬えば、池に蓮のおい、おしの羽の水にぬれざるがごとし。この人、次第に生長ありしかば、またこの衣次第に広く長くなる。冬はあつく、夏はうすく、春は青く、秋は白くなり候いしほどに、長者にておわせしかば、何事もともしからず。後には仏の記しおき給いしことたがうことなし。故に、阿難尊者の御弟子とならせ給いて御出家ありしかば、この衣変じて五条・七条・九条等の御袈裟となり候いき。
かかる不思議の候いし故を仏の説かせ給いしようは、乃往過去阿僧祇劫の当初、この人は商人にてありしが、五百人の商人とともに大海に船を浮かべてあきないをせしほどに、海辺に重病の者あり。しかれども、辟支仏と申して貴人なり。先業にてやありけん、病にかかりて、身やつれ心おぼれ、不浄にまとわれておわせしを、この商人あわれみ奉って、ねんごろに看病して生かしまいらせ、不浄をすすぎすてて、麤布の商那衣をきせまいらせてありしかば、この聖人悦んで願じて云わく「汝、我を助けて身の恥を隠せり。この衣を今生・後生の衣とせん」とて、やがて涅槃に入り給いき。この功徳によりて、過去無量劫の間、人中・天上に生まれ、生まるる度ごとに、この衣身に随って離るることなし。乃至、今生に釈迦如来の滅後、第三の付嘱をうけて商那和修と申す聖人となり、摩突羅国の優留荼山と申す山に大伽藍を立てて無量の衆生を教化して、仏法を弘通し給いしこと二十年なり。詮ずるところ、商那和修比丘の一切のたのしみ・不思議は皆、彼の衣より出生せりとこそ説かれて候え。
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現代語訳
さて、付法蔵経という経は、仏が御自身の滅後に、仏法が広まるありさまを説かれたものです。そのなかに、正法時代の一千年間は、次々と法を弘める人を遣わすとあるのです。
第一番の迦葉尊者は二十年間、第二番の阿難尊者は二十年間、第三番の商那和修は二十年間、そして第二十三番は師子尊者であるとあります。
その第三番の商那和修という人の御事を仏は次のように説かれています。商那和修というのは衣の名なのです。この人は生まれながら衣を着ていました。不思議なことでした。六道のなかで地獄から人間界までの間で、どのような人であっても、生まれる時は素裸であるのに、天上界だけは衣を着て生まれるのです。たとえ、どのような賢人・聖人であっても、人間に生まれてくる時はみな素裸なのです。一生補処の菩薩である弥勒ですら裸で生まれられたのです。ましてその外の者などはなおさらなのです。
そうであるのに、この人は商那衣という尊い衣を著て生まれられましたが、この衣は血もつかず汚れることもなかったのです。たとえば池の蓮や鴛鴦の羽が水に濡れないようなものです。
この人が次第に成長するにしたがって、またこの衣も身体に応じて広く長くなったのです。衣は冬は厚くなり夏は薄く、春は青くなり秋は白くなったのです。長者でありましたから、何一つ不自由はなかったうえ、後には仏が予言されたとおりになったのです。すなわち阿難尊者の弟子となられて出家されたところ、この衣は五条・七条・九条等の袈裟となったのです。
このような不思議の原因を仏が説かれるには、過去無量劫という往昔に、この人は商人でしたが、五百人の商人とともに大海を渡って商いに行ったところ、海辺に重病の人がいました。それは辟支仏といって貴い僧でした。過去世の宿業であったのか、病気にかかり、見る影もなくやつれ果て、心も弱くなって、不浄の中に倒れていたのです。この商人は辟支仏を見て気の毒に思い、懇ろに看病して蘇生させてあげ、身についている不浄な物を濯ぎ取り、麤布で作った商那衣を着せてあげました。辟支仏は喜んで「汝は私を助けて身の恥を隠してくれた。この衣を今生後生の衣としよう」と感謝して、やがて涅槃に入られたのです。この功徳によって、過去無量劫の間、この人は人間、または天上界に生まれてくるごとにこの衣は身に随って離れることはなかったのです。かくして今生には釈迦如来の滅後三番目の付嘱を受けて商那和修という聖人となり、摩突羅国の優留荼山という山に大寺院を建立し、二十年間、無量の人々を導いて仏法を弘通されたのです。つまり、商那和修比丘の一切の福徳果報と不思議は、みなその衣から出ていると説かれているのです。
語句の解説
付法蔵経
六巻。付法蔵因縁伝とも称する。中国・北魏代の吉迦夜・曇曜共訳。釈尊入滅後、正法千年間に、仏の付嘱を受けて仏法を弘めた付法蔵の23人(または24人)の因縁伝が記されている。
正法一千年
仏滅後の時代区分である正法時・像法時・末法時の正法時の1000年間。仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。
迦葉尊者
釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
阿難尊者
梵語アナンダ(Ānanda)の音写。十大弟子の一人で常随給仕し、多聞第一といわれ、釈尊所説の経に通達していた。提婆達多の弟で釈尊の従弟。仏滅後、迦葉尊者のあとを受け諸国を遊行して衆生を利益した。
商那和修
梵語シャーナヴァーサ、シャナカヴァーサ、シャーナヴァーシン(Śāṇa-vāsa、Śāṇa-kavāsa、Śāṇa-vāsin)の音写。商那和衆、舎那婆修、奢搦迦、商諾迦縛娑とも書く。麻衣と訳す。付法蔵の第三祖。中インド王舎城の長者で、釈尊滅後、阿難の弟子となり阿羅漢果を得、摩突羅、梵衍那、罽賓の地に遊行教化した。優波毱多に法を付嘱した。
商那衣
商那は麻に似た草。商那衣は、その皮を編んで衣としたものである。付法蔵因縁伝巻二に「昔商那和修、商主として諸の賈客五百人と共倶に大海に入て珍宝を採らんとせしに、其の前む路に辟支仏の身の重病に嬰りて、気命羸れ惙へたるを見て、諸の商人即ち停住し、医薬を求めて之を治療し……是の辟支仏は商那衣を著す。爾の時、商主、諸の香湯をもって辟支仏を浴せしめんとして、その衣の弊悪なるを見て、上妙の衣を奉献せんとす。時に支仏此衣を著て出家成道し、又涅槃に入るべしと、此の功徳に依て和修、母の胎に処りしより商那衣を著し、乃至身と倶共に増長せり……よって即ち号して商那和修という」とある。
師子尊者
師子比丘ともいう。釈迦滅後1200年ごろ、中インドに生まれ、鶴勒夜那について法を学び、付嘱を受けて仏法を弘めた。付法蔵の二十四人の最後の伝灯者。師子尊者が、罽賓国において仏法を流布していたとき、その国王檀弥羅は邪見が強盛で、婆羅門の勧めで多くの寺塔を破壊したり、多くの僧を殺害して、ついに師子尊者の首を斬ってしまった。だが、師子尊者の首からは一滴の鮮血も流れず、白い乳のみが涌き出たという。
六道
十界のうち、前の地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天を六道という。
地獄道
十界・六道・四悪趣の最下位にある境地。地獄の地とは最低の意、獄は繋縛不自在で拘束された不自由な状態・境涯をいう。悪業の因によって受ける極苦の世界。経典によってさまざまな地獄が説かれているが、八熱地獄・八寒地獄・一六小地獄・百三十六地獄が説かれている。顕謗法抄にくわしい。
人道
十界のうちの人間界のこと。人間としてごく普通の平穏な心・生命状態・境涯のこと。
天道
十界のうちの天界のこと。快楽に満ちた境涯。
賢人
賢明で高い人格をもった指導者。聖人が独創的な開拓者であるのに対し、賢人はそれをひきついでいく人を指す。仏法の上では聖人である仏の教えを守り、弘めていく人が賢人といえる。
聖人
①日蓮大聖人のこと。②仏のこと。③智慧が広く徳の優れた人で、賢人よりも優れた人。世間上では「せいじん」と読み、仏法上では「しょうにん」と読む。
一生補処の菩薩
「一生補処」とは、この一生は迷いの世界に縛られているが、次生には仏の位一生補処処を補う位になること。菩薩の最高位である等覚をさす。弥勒菩薩は釈尊の一生補処の菩薩とされ、釈尊に先立って入滅し兜率天に生じ、釈尊滅後56億7000万歳の時に下生して、一生補処釈尊の説法にもれた衆生を済度するという。
袈裟
梵語カシャーヤ(Kaṣāya)の音写。加沙野・迦沙とも書く。濁・不正色・壊色の意。法衣の一種。細長い布を縫い合わせて長方形につくり、左肩から右の脇の下にかけて被うもの。縫い合わせた布の数から大衣、上衣、内衣に大別され、総称して三衣という。袈裟は本来、色の名称で、その色については、金属のさび色・泥色に樹皮や果汁の色の三種壊色とする説、あるいはたんに濁った赤色とする説などがあるが、いずれも五正色(青・黄・赤・白・黒)、五間色(紫・緑・紅・緋・硫黄)を避けた、純粋ではない色を用いた。古来インドでは僧侶の着る法衣を三種(三衣)とし俗人から区別するため、世間で尊ばれた白色を避けて濁色に染めたことから、濁色を意味する袈裟という言葉がそのまま法衣の意に用いられるようになった。
乃往過去
昔、あるいは古の意。また、今よりむかし。
阿僧祇劫
「阿僧祇」梵語、はアサンキャ(asaṃkhya)の音写では無数。「劫」は年時の名で長時の意。あわせて、数えることのできない長い間の意。
当初
①その時代の以前。②久遠元初
辟支仏
梵語プラティエーカブッダ(Pratyeka-buddha)の音写。独覚・縁覚・因縁覚と訳す。「各自に覚った者」の意。仏の教導によらず、自らの力で理を覚る者のこと。十二因縁の理を観じて断惑証理し、飛花落葉等の外縁によって覚りを得るという。
貴人
品位のある高貴な人。
先業
前世・過去世でつくった業因のこと。主として悪業をいうが、業因は善悪には関係しない。
麤布
麤は粗雑なこと。辟支仏に供養した衣について、付法蔵因縁伝巻二には「妙なる氎の衣」とある。氎とは織目の細かい厚い毛織物をいう。
涅槃
梵語(nirvāana)滅・滅度・寂滅・円寂と訳す。生死の境を出離すること。また自由・安楽・清浄・平和・永遠を備えた幸福境界をいい、慈悲・智慧・福徳・寿命の万徳を具備している境涯ともいえる。①外道では、六行観によって悲想天に達すれば、涅槃を成就できると考えた。②小乗仏教では煩悩を断じ灰身滅智すること。③権大乗では他方の浄土へ往生すること。④法華経では三大秘法の御本尊を信ずることによって、煩悩即菩提・生死即涅槃を証することができると説く。
功徳
功能福徳の意。功は福利を招く効能。この効能が善行に徳としてそなわっていることを功徳という。化城喩品には、大通智勝仏に対して梵天が宮殿に供養した功徳が説かれている。
無量劫
量り知れないほどの長い期間。「無量」は無限の意。「劫」は長遠の時間。長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を劫としている。(他説あり)。
人中天上
人間界と天上界のこと。またその衆生。人界は人間の住む世界で、人間としてごく平凡な人間の心・生命の状態・境涯・世界。天界とは天人の住む世界で、快楽に満ちた境涯・世界のこと。
乃至
①すべての事柄を主なものをあげること。②同類の順序だった事柄をあげること。
今生
今世の人生のこと。先生、後生に対する語。
付属
相承・相伝のこと。弘宣付属・伝持付属・守護付属の三種がある。日寛上人の分段には「弘宣付属とは謂く四依の顯聖は釈尊一代の所有の仏法を時に随い機に随い演説流布するなり。伝持付属とは謂く四依の賢聖は如来一代の所有の仏法を相伝受持して世に相継いで住持するなり。守護付嘱とは謂く国王壇越等如来一代所有の仏法を、時に随い能く之れを守護して法を久住せしむ」(要旨)とある。
摩突羅国
梵語マトゥラー(Mathurā)の音写。あるいは摩偸羅、末土羅などとも書き、密善、無酒、孔雀等と訳す。中インドの国名。仁王経巻下ではインド十六大国の一つとしている。釈尊はたびたびこの地を訪れ、民衆を化導した。釈尊滅後には、付法蔵第四の優波毱多が出て、大いに仏教を興隆した。
優留荼山
古代インドの摩突羅国にあった山の名。
大伽藍
伽藍は梵語サンガアーラーマ(saṁghārāma)の音写。僧伽藍摩の略。僧園・衆園などと訳す。僧宗の住む庭園の意から、比丘衆が集まって修道する清浄閑静な場所をいう。後に寺院の建築物を指すようになった。宗派・時代等によって建物の配置や名称は変遷・差異が見られる。
教化
教導・化益すること。衆生を教え導き、衆生に利益を与えること。開化・施化と同義。
講義
太布帷を御供養されたことに対して、商那和修の因縁を語られて、逆境にある聖人に衣を供養する功徳の大きさを述べられているところである。
付法蔵経に説かれている、仏滅後正法一千年間の弘法者二十三人のうち第三番目の人が商那和修である。
「商那和修」とは、梵語シャーナ・ヴァーシン(Sāna-vāsin)の音訳である。シャーナは、麻に似た草の名で、その皮を編んで衣としたものを指す。ヴァーシンとは「~を着た」「~をまとった」の意味で、結局、商那和修は麻の衣を着た人ということになる。
本文にも説かれているとおり、商那和修は生誕のときすでに衣を着て生れてきたという伝説の人であるが、その原因は過去世において商人であったとき、重病に瀬して困窮していた辟支仏を看病し、商那衣を着せてこの辟支仏を助けたということによる。
その行為の功徳によって、生まれるたびごとに商那衣をまとって生誕し、しかも生涯の間、衣が身から離れることなく、また身体の成長につれて衣も大きくなり、いつも裕福で楽しみに満ちた生活をしてきたという。そしてついに、釈尊から滅後弘通の第三番目の使者として付嘱を受けたのである。
このような商那和修の因縁の物語を通して、日蓮大聖人に帷を供養した妙法比丘尼やその嫂の功徳がどれほど大きなものであるかを暗に示され激励されているのである。