妙法比丘尼御返事 第四章(「一」の不思議の内容を示す)

———————————–(第三章から続く)———————————————–

我らがはかなき心に推するに、「仏法はただ一味なるべし。いずれもいずれも、心に入れて習い願わば、生死を離るべし」とこそ思って候に、仏法の中に入って悪しく習い候いぬれば、謗法と申す大いなる穴に堕ち入って、十悪五逆と申して日々夜々に殺生・偸盗・邪婬・妄語等をおかす人よりも、五逆罪と申して父母等を殺す悪人よりも、比丘・比丘尼となりて身には二百五十戒をかたく持ち、心には八万法蔵をうかべて候ようなる智者・聖人の、一生が間に一悪をもつくらず、人には仏のようにおもわれ、我が身もまたさながらに悪道にはよも堕ちじと思うほどに、十悪五逆の罪人よりもつよく地獄に堕ちて、阿鼻大城を栖として永く地獄をいでぬことの候いけるぞ。
 譬えば、人ありて、世にあらんがために国主につかえ奉るほどに、させるあやまちはなけれども、我が心のたらぬ上、身にあやしきふるまいかさなるを、なお我が身にも失ありともしらず、また傍輩も不思議ともおもわざるに、后等の御事によりてあやまつことはなけれども自然にふるまいあしく、王なんどに不思議に見えまいらせぬれば、謀反の者よりもその失重し。この身とがにかかりぬれば、父母・兄弟・所従なんどもまたかるからざる失におこなわるることあり。
 謗法と申す罪をば、我もしらず、人も失とも思わず、ただ「仏法をならえば貴し」とのみ思って候ほどに、この人も、またこの人にしたがう弟子檀那等も、無間地獄に堕つることあり。いわゆる、勝意比丘・苦岸比丘なんど申せし僧は、二百五十戒をかたく持ち、三千の威儀を一つもかけずありし人なれども、無間大城に堕ちて出ずる期見えず。また彼の比丘に近づきて弟子となり檀那となる人々、存の外に大地微塵の数よりも多く地獄に堕ちて、師とともに苦を受けしぞかし。この人、後世のために衆善を修せしより外はまた心なかりしかども、かかる不祥にあいて候いしぞかし。

———————————-(第五章に続く)—————————————————

現代語訳

我らのあさはかな心で推するに、仏法はただ一味であろう、いずれの宗であっても一心に習学し願うならば、生死を離れることができるはずだと思っていたのに、仏法に入ってもあしく習学するなら謗法という大きな穴に堕ちて、十悪・五逆罪といって、日々夜々に殺生・偸盗・邪婬・妄語等を犯す人よりも、五逆罪といって父母等を殺す悪人よりも、比丘・比丘尼となって身に二百五十戒を堅く持ち心には八万法蔵を浮かべ、一生の間に一つの悪をも作らず、人からは仏のように思われ、我が身もまた、よもや悪道に堕ちることはあるまいと思っている智者・聖人が、十悪・五逆の罪人より以上に地獄に堕ちて阿鼻大城をすみかとして永く地獄を出られないということがあるのです。たとえば、出世しようと思って国主に仕えている人が、これといった罪科があるわけではないけれども、自分の心の至らないところから行き届かないことが重なっても、それでも我が身に罪科があることを知らず、また朋輩の者も不思議に思わずにいても、后等に近づくことにより誤ることはないけれども、自然に振る舞いが悪く、王などに怪しまれるならば、謀反の者よりその罪は重くなるようなものです。また、その身に罪科がかかってくれば、父母や兄弟、付き従う者などもまた軽からざる罪科に行われるようなものです。

謗法という罪は、自分も気づかず、また人も悪いとも思わず、ただ仏法を習っているのだから貴いとばかり思っているので、この人も、またこの人に従う弟子・檀那等も無間地獄に堕ちるのです。いわゆる勝意比丘や苦岸比丘などという僧は二百五十戒を堅く持ち、三千の威儀も一つも欠けない人であったが、無間大城に堕ちてついに出る期なく、また彼の勝意比丘や苦岸比丘に近づいて弟子となり檀那となった人々は、思いのほかに大地微塵の数よりも多く地獄に堕ちて師とともに大苦を受けたのです。この人達は後世のために多くの善根を修しようという以外は、なんの心もなかったのですが、このような不幸にあってしまったのです。

語句の解説

謗法

誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。

 

十悪

十悪業、十不善業ともいい、身口意の三業にわたる、最も甚だしい十種の悪い行為。倶舎論巻十六等に説かれる。すなわち、身に行なう三悪として殺生、偸盗、邪淫。口の四悪として妄語、綺語、悪口、両舌。心の三悪として貪欲、瞋恚、愚癡がある。

 

五逆

五逆罪または五無間業ともいい、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血のこと。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。

 

殺生

生きものを殺すこと。十悪の第一。四重禁の一つ。仏法では最も重い罪業の一つとし、五戒・八戒・十戒等の一つに不殺生戒を挙げている。

 

偸盗

人の物を盗むこと。十悪の一つ。四重禁の一つ。

 

邪婬

不正な男女関係を結ぶこと。十悪の一つ。四重禁の一つ。

 

妄語

虚言のこと。十悪のひとつ。一般世間での妄語は、その及ぼす影響は一時的・小部分であるが、仏法上の妄語は、それを信ずる人を無間地獄に堕さしめ、さらに指導者層の妄語は多くの民衆を苦悩に堕しめることになる。正法への妄語はなおさらである。

 

比丘

ビクシュ(bhiku)の音写。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人男子の称。

 

比丘尼

ビクシュニー(bhiksunīの音写)。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人女子の称。

 

二百五十戒

「戒」とは非を防ぎ悪を止めさせるもの。小乗教で出家の持つ具足戒は、比丘に「二百五十戒」比丘尼に500戒とわかれる。「二百五十戒」は年齢20歳以上70歳以下の比丘の戒で、諸根具足し、身体清浄、過失のないもののみが持つことを許された。

 

八万法蔵

煩悩の数を84,000の塵労といい、これを対治する数として84,000の法蔵という。略して「八万法蔵」

 

地獄

十界・六道・四悪趣の最下位にある境地。地獄の地とは最低の意、獄は繋縛不自在で拘束された不自由な状態・境涯をいう。悪業の因によって受ける極苦の世界。経典によってさまざまな地獄が説かれているが、八熱地獄・八寒地獄・一六小地獄・百三十六地獄が説かれている。顕謗法抄にくわしい。

 

阿鼻大城

阿鼻獄・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。

 

傍輩

仲間・友人・同じ主君・師匠・家・などに使える同僚。

 

天皇・王候貴族の妻。

 

所従

従者。家来。

 

弟子

師に従って教えを受け、かつ師の意思を承けて実践しそれを伝える者。

 

檀那

布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。

 

勝意比丘

諸法無行経巻下によると、過去に師子音王仏の末法の世に菩薩道を行じたが、同じ時代に菩薩行を修し、衆生に諸法実相を教えていた喜根菩薩を誹謗した。ある時、喜根菩薩の弟子の家で喜根菩薩を誹謗したが、その弟子と論争して敗れ、さらに家の外で喜根菩薩に向かって誹謗した。このことを聞いた喜根菩薩は七十余の偈を説いて大衆を解脱させたが、勝意比丘は地獄に堕ちて無量千万歳の苦を受け、彼の教化を受けた比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷もまた地獄に堕ちたとある。

 

苦岸比丘

過去の大荘厳仏の末法に出家した弟子。仏蔵経巻中によると、当時、大荘厳仏の弟子は普事・苦岸・薩和多、将去、跋難陀の五派に分裂した。そのなかで、普事を師とした一派のみは仏の正統の教えを受け継ぎ成仏したが、残りの四派の者は仏の教えに背き、邪義を信じて地獄に堕ちた。苦岸は、この邪義を唱えた四派のなかの一派の師である。苦岸等の四比丘に従った六百四万億の人は師弟ともに阿鼻地獄に堕ち、のちに一切明王仏に会ったが、それでも仏果を得ることができなかったという。

 

三千の威儀

「威儀」とは威容儀礼の義で、きびしい規律にしたがった起居動作。これに行・住・坐・臥の四威儀を根幹に、「三千」八万の細行がある。もとより250戒とともに小乗教の所説で大乗は重視しない。

 

後世

三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。

 

不祥

不運・不幸・災難。

講義

日蓮大聖人は幼少のころから念仏信仰に疑いを起こして、八宗・十宗の既成宗派の教義内容の肝要を知ろうとされて、諸国、諸寺を遊学されたのであるが、その途上で「一の不思議」に直面された。

それは、当時の人々は気づいていないが、仏法を行ずるのに「謗法」という落とし穴があるということであった。つまり通常人々は、仏法というものは皆同一で、どの宗旨であっても一生懸命に願うならば生死の苦を離れて救われると素朴に思っているが、しかし、仏法を悪しく習うと「謗法」という落とし穴に落ちて、救われるどころか大変な罪業を背負うことになるということである。

その「謗法」の恐ろしさは、十悪五逆の悪人よりも、むしろ智者学匠のほうが犯しやすく、しかも十悪五逆の場合よりもはるかに長期にわたって無間地獄に堕ちるところにある。つまり、智者聖人のごとき姿をして二百五十戒を持ち、悪は一つも行わないような聖者であっても、ただ一点、自らの奉ずる法が正法に背反する教えであるならば、その一点だけで、五逆十悪の人よりも、はるかに大きい罪業を造ることになるのである。

さらに、謗法の恐ろしさはこれに止まらない。五逆十悪のように眼前に罪悪の姿が見えないだけに、謗法を犯している聖者のごとき人も自らそれを知らないし、他人にも分からないから、多くの人々が弟子檀那となって従う結果、師も弟子も檀那も、すなわち師檀ともに無間地獄に堕ちる、ということである。

ここに、本来、生死の苦を離れて仏になるために仏法を行じているにもかかわらず、その初めの目的とは反対に無間地獄に堕ちてしまうことになるのである。この根本原因である〝謗法〟という事実を大聖人は発見されたのであり、これがまさに「一の不思議」の内容なのである。

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