妙法比丘尼御返事 第十六章(法華経の行者への供養をたたえる)

妙法比丘尼御返事 第十六章(法華経の行者への供養をたたえる)

 弘安元年(ʼ78)9月6日 57歳 妙法尼

———————————–(第十五章から続く)———————————————

然るに何なる宿習にてをはすれば御衣をば送らせ給うぞ爪の上の土の数に入らんとをぼすか又涅槃経に云く「大地の上に針を立てて大風の吹かん時大梵天より糸を下さんに糸のはしすぐに下りて針の穴に入る事はありとも、末代に法華経の行者にはあひがたし」法華経に云く「大海の底に亀あり三千年に一度海上にあがる栴檀の浮木の穴にゆきあひてやすむべし而るに此の亀一目なるが而も僻目にて西の物を東と見東の物を西と見るなり」末代悪世に生れて法華経並びに南無妙法蓮華経の穴に身を入るる男女にたとへ給へり何なる過去の縁にてをはすれば此の人をとふらんと思食す御心はつかせ給いけるやらん、法華経を見まいらせ候へば釈迦仏の其の人の御身に入らせ給いてかかる心はつくべしと説かれて候譬へばなにとも思はぬ人の 酒をのみてえいぬればあらぬ心出来り人に物をとらせばや・なんど思う心出来る、此れは一生慳貪にして餓鬼に堕つべきを其の人の酒の縁に菩薩の入りかはらせ給うなり、濁水に珠を入れぬれば水すみ月に向いまいらせぬれば人の心あこがる、画にかける鬼には心なけれどもおそろし、とわりを画にかけば我が夫をば・とらねども・そねまし、錦のしとねに蛇をおれるは服せんとも思はず、身のあつきにあたたかなる風いとはし、人の心も此くの如し、法華経の方へ御心をよせさせ給うは女人の御身なれども竜御身に入らせ給うか。

 ———————————-(第十七章に続く)————————————————-

現代語訳

そうであるのに、どのような宿習があられて日蓮に御衣を御供養されたのでしょうか。爪の上の土の数に入ろうという御志でありましょうか。

また涅槃経にいわく「大地の上に針を立てて大風の吹く時、大梵天から糸を下す時、糸の端が真っ直ぐに下って針の穴に入ることがあっても、末代に法華経の行者には値いがたい」と。法華経にいわく「大海の底に亀がいて、三千年に一度海の上に出る。栴檀の浮木の穴にあって休むことができるのであるが、この亀は一眼であるため、そのうえ僻目であるから西の物を東と見、東の物を西と見るのである」と。末代悪世に生まれて法華経並びに南無妙法蓮華経の穴に身を入れる男女にたとえられています。

それほどなのに、いかなる過去の因縁があって日蓮を訪ねようとする御心を起こされたのでしょうか。

法華経を拝見すれば、釈迦仏がその人の御身に入られてこのような心を起こされると説かれています。たとえば、これという考えのない者でも、酒を飲んで酔ってしまうと、思いもよらない心が出てきて、人に物を与えようとする心が起こってくるようなものです。これは一生慳貪の心が強くて餓鬼道に堕ちるのを、その人の酒の縁によって菩薩が入り代わられたからです。濁水に珠を入れれば水が澄み、月に向かえば自然と憧れの心が出てきます。画にかいた鬼に心はないけれども、恐ろしいものです。美女を画にかけば、我が夫を取らないと知りながらも嫉妬の心が起きます。蛇の形を織り込めば、錦の褥であってもかけようとは思いません。身の熱い時は温かい風をきらうものです。人の心もこのようなものです。

女人の身でありながら法華経のほうへ御心を寄せられるとは、竜女が御身に入られたのでしょうか。

語句の解説

「大地の上に針を……」

涅槃経に同じ文はないが、巻二の「仏は優曇花の如く、値遇して信を生ずること難きを、遇い已りて善根を種え、永く餓鬼の苦を離れたること、亦復能く、阿修羅の種類を損減したること、芥子を針鋒に投ずるごとし。仏の出でたもうは是よりも難し」の取意と思われる。

 

梵天

仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。

 

旃檀

インド原産の香木。白檀のこと。高さ6㍍に達する常緑喬木で、心材は芳香がある。香料・細工用に利用される。

 

僻目

片目、やぶにらみのこと。

 

慳貪

慳悋に貪著すること。強欲であって物を慳み、人に布施をしないことをいう。清浄心を覆う六種の悪心、即ち慳貪・破戒・瞋恚・懈怠・散乱・愚癡の六蔽の一つ。慳貪は餓鬼界の生因となる。末法今日においては、折伏をしないことはこの科に当たる。

 

餓鬼

梵語プレータ(Preta)の漢訳。常に飢渇の苦の状態にある鬼。大智度論巻三十には「餓鬼は腹は山谷の如く、咽は針の如く、身に唯三事あり、黒皮と筋と骨となり。無数百歳に、飲食の名だにも聞かず、何に況んや見ることを得んや」とある。

 

菩薩

菩薩薩埵(bodhisattva])の音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。

 

本来は死者の霊魂をさすが、餓鬼道・夜叉・羅刹など、凶暴で恐ろしい形相をしているものをさす。

 

とわり

遊女、美人などのこと。

 

竜女

沙竭羅竜王の八歳の娘。法華経提婆達多品第十二には、文殊師利菩薩の説法を聞いて菩提心を発して不退の位に住し、法華経の会座に詣でて即身成仏の相を現じ、さらに衆生を化導したことが説かれている。

講義

法華経を謗ずる者ばかりの世の中で、妙法比丘尼並びに嫂が日蓮大聖人に対して衣を供養したことをたたえられている。

過去の宿習によるものか、あるいは成仏という爪の上の土の数に入ることを強く決意されたからであろうかといわれ、涅槃経の針の穴のたとえや法華経・妙荘厳王本事品第二十七の一眼の亀のたとえを引かれて、末代悪世に法華経と法華経の題目(南無妙法蓮華経)、法華経の行者に値うことの難しさを説かれて、にもかかわらず法華経の行者である日蓮大聖人を供養する心が起こったのは、どのような過去世の因縁・宿習であろうかと重ねて述べられている。そして法華経によれば、釈迦仏が人の身に入ってこのような心を起こさせると説かれていると仰せられている。その譬喩として、普段ケチな人が酒に酔うと、菩薩のように思いやりのある心が出てくる例や、濁水に珠を入れると水が澄む例を挙げられ、釈迦仏や竜女が身に入って大聖人へ供養をさせたのにちがいないといわれている。鬼や美人、蛇の絵等のたとえは、形だけのものでも心に影響を与えるということで、御供養の行為自体が尊いことを強調されているのである。

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