妙法比丘尼御返事 第十三章(李如暹に比したご自身の立場)

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唐の代宗皇帝の代に蓬子将軍と申せし人の御子・李如暹将軍と申せし人勅定を蒙りて北の胡地を責めし程に、我が勢数十万騎は打ち取られ胡国に生け取られて四十年漸くへし程に、妻をかたらひ子をまうけたり、胡地の習い生取をば皮の衣を服せ毛帯をかけさせて候が、只正月一日計り唐の衣冠をゆるす、一年ごとに漢土を恋いて肝をきり涙をながす、而る程に唐の軍おこりて唐の兵・胡地をせめし時・ひまをえて胡地の妻子をふりすてて・にげしかば、唐の兵は胡地の・えびすとて捕へて頚をきらんとせし程に、とかうして徳宗皇帝にまいらせてありしかば、いかに申せども聞も・ほどかせ給はずして・南の国・呉越と申す方へ流されぬ、李如暹歎いて云く進ては涼原の本郷を見ることを得ず退ては胡地の妻子に逢ふことを得ず云云、此の心は胡地の妻子をもすて又唐の古き栖をも見ず・あらぬ国に流されたりと歎くなり、我が身には大忠ありしかどもかかる歎きあり。

  日蓮も又此くの如し日本国を助けばやと思う心に依りて申し出す程に、我が生れし国をも・せかれ又流されし国をも離れぬ、すでに此の深山にこもりて候が彼の李如暹に似て候なり、但し本郷にも流されし処にも妻子なければ歎く事はよもあらじ、唯父母のはかと・なれし人人のいかが・なるらんと・をぼつかなしとも申す計りなし、但うれしき事は武士の習ひ君の御為に宇治勢多を渡し前を・かけなんどして・ありし人は、たとひ身は死すれども名を後代に挙げ候ぞかし、日蓮は法華経のゆへに度度所をおはれ戦をし身に手をおひ弟子等を殺され両度まで遠流せられ既に頚に及べり、是れ偏に法華経の御為なり、法華経の中に仏説かせ給はく我が滅度の後・後の五百歳・二千二百余年すぎて此の経閻浮提に流布せん時、天魔の人の身に入りかはりて此の経を弘めさせじとて、たまたま信ずる者をば 或はのり打ち所をうつし或はころしなんどすべし、其の時先さきをしてあらん者は三世十方の仏を供養する功徳を得べし、我れ又因位の難行・苦行の功徳を譲るべしと説かせ給う取意。

———————————-(第十四章に続く)————————————————–

現代語訳

唐の代宗皇帝の治世に蓬子将軍という人の子で李如暹将軍という人が、天子の命を受けて北の胡地を攻めたところが、軍勢数十万騎を討ち取られ、胡国に生け捕られて四十年を過ごしました。その間に妻をめとり子供が生まれました。胡地の習慣で、生け捕りの者なので皮の衣を着せ、毛帯を締めさせていましたが、ただ正月一日ばかりは唐の衣冠を着ることを許したのです。李如暹は一年ごとに中国を恋いて切ない思いで涙を流していました。そうしている間に唐の軍勢がきて胡地を攻めた時、隙をみて胡地の妻子を振り捨てて逃げましたが、唐の兵士は胡地の人間と思って捕らえて頚を切ろうとしたのです。とかくして徳宗皇帝の所に送られたので、その場において申し開きをしましたが、なんと言っても聞き入れられず、ついに南の国の呉越の境へ流されてしまったのです。李如暹が嘆いていわく「進んでは故郷の涼原を見ることもできず、退いては胡地の妻子に逢うこともできず」と。この心は胡地の妻子をも捨て、また中国の故郷の家をも見ず、あらぬ国に流されたと嘆いたものです。我が身に大忠があっても、このような嘆きがあるのです。

日蓮もまたこのようです。日本国を助けようと思う心によって言うのであるのに、我が生まれた国にも入れず、また流された国も離れました。すでにこの深い山にこもっているのは彼の李如暹にも似ています。ただし、故郷にも流された所にも妻子がないので嘆くことはありませんが、ただ父母の墓と親しくした人々はどのようであろうかと、それのみ心にかかるのです。

ただうれしいことは、武士の習いで主君の御ために宇治勢多の渡しに先陣をかけた人々は、たとえ身は死んでも名を後代に挙げたことです。日蓮は法華経のゆえに、たびたび所を追われ、戦をして手傷を受け、弟子等を殺され、二度までも遠流になり、そのうえ頚まで切られようとしました。これひとえに法華経の御ためです。

法華経のなかで仏は「我が滅度の後、後の五百歳、二千二百余年を過ぎてこの経を閻浮提に流布しようとする時、天魔が人の身に入り代わって、この経を弘めさせまいと、たまたま信ずる者を、あるいは罵詈したり、あるいは打擲したり、所を追い払ったり、あるいは打ち殺したりするであろう。その時、第一に先駆けした者は三世十方の仏を供養するのと同じ功徳を得るであろう。また我が因位の難行・苦行の功徳を譲るであろう」と説かれています。

語句の解説

代宗皇帝

07260779)。中国・唐朝第八代皇帝。粛宗の長子。安禄山の乱では天下兵馬元帥となって功を挙げた。粛宗の死後即位したが、国政は不安定で皇帝の権力は分断されていた。粛宗と同じく不空三蔵に帰依し、山西省清涼山に華厳・大暦法華・清涼・金閣・玉花の各寺院を建てた。

 

李如暹将軍

生没年不明。蓬子将軍の子。代宗皇帝に仕え、大軍を率いて北方へ征伐に行き、敗れて捕らえられ、その地で妻子をもうけた。後に妻子を置いて唐土に逃げ戻ったが罰せられ、故郷にも帰れず南方の呉越に流されたという。出典は明らかではないが、白居易の『白氏文集』巻三の「縛戎人 窮民の情を達する也」の詩は、李如暹の逸話と同じ内容をうたっている。

 

徳宗皇帝

07420805)。中国・唐朝第九代皇帝。代宗の長子。即位後、思いきった税法の改革、節度使対策を行ったが、各地で内乱が起こり、成功しなかった。

 

宇治勢多を渡し……

宇治は宇治川のことで、琵琶湖を源とする瀬田川の宇治市から下流をいう。更に京都府と大阪府の境界付近で淀川と名をかえ、大阪湾に注ぐ。古来、京都の南東の防衛線である宇治川をはさんで合戦が繰り返され宇治川を渡るか否かで戦いの勝敗が決せられていた。宇治川の戦いでは、寿永3年(1184)源範頼、義経の軍が源義仲軍を破った戦い、また承久3年(1221)北条泰時等の率いる幕府軍が朝廷軍を破った戦い(承久の乱)が挙げられる。この時、佐々木高綱、北条時氏が先陣をした。次に、勢多は瀬田川のことで、琵琶湖南端から流出する川。流出口に面する地の瀬田(大津市の一部)は、京都を守る東の要害の地で、この瀬田と宇治の地で上洛軍を防いだ。宇治川同様、瀬田川を渡るか否かが、戦さの勝敗を分けた。

 

宇治勢多

宇治川と瀬田川に沿った一帯の地名。滋賀県琵琶湖に源を発する瀬田川は勢多・瀬多とも書き、京都府宇治市に入って宇治川に名を変える。古来、東海道から京都に入る要所である。この県境付近は急流となっているが、流れをはさんでしばしば合戦が行われた。

 

度度所をおはれ

日蓮大聖人は、建長5年(1253428日、立宗宣言の直後に東条景信によって清澄寺を追われ、文応元年(1260827日の松葉ケ谷の草庵、焼き打ち事件をさす。

 

両度まで遠流

伊東・佐渡の二度にわたる流難をさす。すなわち、弘長元年(1261512日~弘長3年(1263222日までの伊豆流罪と、文永8年(12711010日~文永11年(127438日までの佐渡流罪。

 

天魔

天子魔の略で、四魔の一つ。欲界の第六天に住する魔王とその眷属によって起こり、父母・妻子・権力者等のあらゆる姿をとって正法破壊の働きをなし、仏道修行を妨げようとする。四魔の中でも、天子魔は大天魔・第六天の魔王ともいわれ、最も恐ろしい魔とされる。

 

因位

仏果を得るための修行の位のこと。果位に対する語。仏果を得るため菩薩修行に励んでいる時の位。

講義

唐の代宗皇帝の時代に出た李如暹将軍の例を御自身になぞらえられているところである。

李如暹将軍は、皇帝の勅命を受けて北方の蛮族を征伐に出かけたが、戦いに敗れ、自らは捕虜となって敵国で四十年を過ごした。そして蛮族の女を妻とし、子までもうけた。

そのうちに唐の国の軍が繰り出して攻めてきた。李如暹は妻子を捨てて唐の軍へと逃げ帰ったが、唐の兵は彼を蛮族と思って捕らえ頸を切ろうとした。しかし、彼の訴えを聞いて本国の徳宗皇帝の所へ送った。だが、彼の訴えは聞き入れられず、結局、南の国、呉越のほうへ流されてしまったという。李如暹は、進んでは唐の故郷へ帰れず、退いては蛮族の妻子にも会えないと嘆いたとされる。李如暹はどこまでも唐の国に対して大忠の心を抱いていたにもかかわらず、結果的にこのような事態になったのである。

日蓮大聖人は、御自身の姿もこの李如暹に似ていると仰せられている。すなわち、大聖人の御聖誕になられた安房国に入れず、また流された佐渡国からも離れて〝第三の地〟ともいうべき身延山にこもっていることを指されている。

しかし、李如暹と異なるところは、妻子がいないという点であるが、ただ安房の国にある父母の墓と、親しくしていた人々の消息が何よりも気懸かりであると仰せられている。

さらに李如暹と大いに異なる点は、大聖人は法華経のゆえにこの事態に至っているということである。法華経のなかで仏の滅度の後、後の五百歳の末法において法華経を閻浮提に流布する者は天魔の身に入り代わった人々により悪口罵詈されたり流されたり殺されたりするとの仏の予言があり、そのときに法華経弘通の先駆けをした者は三世十方の仏を供養したのと同じ功徳を得るであろうし、また仏が因位の菩薩の時に積んだ難行・苦行の功徳を譲り与えられるであろうとも予言されている。

その法華経の教えどおりに実践されたのが日蓮大聖人であり、したがって李如暹とは違って大聖人は三世十方の諸仏の無量の功徳に包まれておられる。これが辛いなかにも、うれしいことであると喜びを述べられている。

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