妙法比丘尼御返事 第十二章(佐渡・身延山の状況)

———————————–(第十一章から続く)———————————————

佐渡の国にありし時は里より遥にへだたれる野と山との中間につかはらと申す御三昧所あり、彼処に一間四面の堂あり、そらはいたまあわず四壁はやぶれたり・雨はそとの如し雪は内に積もる、仏はおはせず筵畳は一枚もなし、然れども我が根本より持ちまいらせて候・教主釈尊を立てまいらせ法華経を手ににぎり蓑をき笠をさして居たりしかども、人もみへず食もあたへずして四箇年なり、彼の蘇武が胡国に・とめられて十九年が間・蓑をき雪を食としてありしが如し。

  今又此山に五箇年あり、北は身延山と申して天にはしだて・南は・たかとりと申して鶏足山の如し、西はなないたがれと申して鉄門に似たり・東は天子がたけと申して富士の御山にたいしたり、四の山は屏風の如し、北に大河あり早河と名づく早き事・箭をいるが如し、南に河あり波木井河と名づく大石を木の葉の如く流す、東には富士河北より南へ流れたりせんのほこをつくが如し内に滝あり身延の滝と申す白布を天より引くが如し此の内に狭小の地あり日蓮が庵室なり深山なれば昼も日を見奉らず夜も月を詠むる事なし峯にははかうの猿かまびすしく谷には波の下る音鼓を打つがごとし地にはしかざれども大石多く山には瓦礫より外には物もなし国主はにくみ給ふ万民はとぶらはず冬は雪道を塞ぎ夏は草をひしげり鹿の遠音うらめしく蝉の鳴く声かまびすし訪う人なければ命もつぎがたしはだへをかくす衣も候はざりつるにかかる衣ををくらせ給えるこそいかにとも申すばかりなく候へ。

  見し人聞きし人だにも・あはれとも申さず、年比なれし弟子・つかへし下人だにも皆にげ失とぶらはざるに聞きもせず見もせぬ人の御志哀なり、偏に是れ別れし我が父母の生れかはらせ給いけるか、十羅刹の人の身に入りかはりて思いよらせ給うか、

———————————-(第十三章に続く)————————————————–

現代語訳

佐渡国にあった時は、人里から遥かに隔たっている野と山との中間に塚原という三昧所があり、そこに一間四面の堂がありました。屋根の板は隙が多く、四方の壁は破れていて、雨が降れば外にいるようであり雪は内に積もります。仏も祀っていず、筵畳は一枚もありません。しかし、以前から持っていた教主釈尊を立てまいらせ、法華経を手に握り、蓑を着、笠をさしていましたが、人もこず、食も与えられずして四年いました。かの蘇武が胡国にとどめられて十九年間、蓑を着、雪を食としていたようなものです。

今またこの身延山に五年います。北は身延山といって天に橋を立てたように高く、南は鷹取山といって鶏足山のようです。西は七面山といって鉄門に似ています。東は天子ヶ岳といって富士の御山を王とすればその太子です。四つの山は屏風のようです。北に大河があり、早河と名づけ、流れの早いこと、あたかも箭を射るようです。南に河があり、波木井河と名づけ、大石を木の葉のように流します。東には富士河が北から南へ流れています。千の鉾を突き出すような勢いです。その中に滝があり、身延の滝といい、白布を天から引き下げたようです。このなかにわずかな土地があり、そこが日蓮の庵室です。深い山なので昼も太陽を見ることができません。夜も月を眺めることもありません。峰には巴峡の猿がかまびすしく、谷には波の下る音が鼓を打つようです。地には自然に大石が敷き詰まっており、山には瓦礫のほかには何もありません。国主に憎まれ、万民は訪れることもありません。冬は雪が道を塞ぎ、夏は草が生い茂り、鹿の遠音が物悲しく、蟬の鳴く声がかまびすしいのです。訪ねる人がいないので命もつぎがたく、肌を隠す衣もないところに、このような衣を送ってくださったことは、なんともいいようのないありがたさを覚えます。

日ごろ見聞きしている人でも哀れとも思わず、年来慣れた弟子も仕えた下人も皆逃げうせて訪ねることもないのに、いまだ聞きもせず、見もしない人からの御志とはなんとうれしいことでありましょうか。ひとえにこれは亡き父母が生まれ変わってこられたのでありましょうか。それとも十羅刹が御身に入り代わって日蓮に思いを寄せられるのでしょうか。

語句の解説

つかはら

日蓮大聖人が佐渡に流罪され最初に住まわれたところ。

 

御三昧所

佐渡国(新潟県)の塚原にあった三昧所のこと。三昧は梵語サマーディ(Samādhi)の音写。三摩提、三摩地とも書き、定、正受、正心行処等と訳す。一説に死を三昧、すなわち定に入る義とするゆえに墓地を三昧所とする。また、昔から葬地に必ず法華三昧所を建てた。塚原三昧所も種種御振舞御書に「六郎左衛門が家のうしろ塚原と申す山野の中に洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし」(0916-04)と述べられているように、墓地の所にあった。日蓮大聖人は文永8年(1271111一日に三昧所に入られ、翌年4月月3日に一谷に移るまでの五か月間をここで過ごされた。

 

蘇武

(前0140~前0060頃)。中国・前漢の武将。字は子卿。漢書によると、武帝の命により、匈奴王・単于への使者として匈奴の地に赴いた。到着後、囚われの身となり、単于から幾度も臣従を迫られたが、応じなかったので、穴牢に幽閉され、食物も与えられず、数日の間、雪と衣類を食べて生き延びた。匈奴の人は、蘇武をただ人ではないと驚き、北海(バイカル湖)の辺地に流して羊を飼わせた。昭帝の代になって漢と匈奴の和睦が成立し、漢は蘇武らの返還を要求したが、匈奴は、彼は死去したと偽った。その時、蘇武の家来が内密に漢使と会って「帝が都の近くで雁を射落としたところ、雁の足に絹の帛書(手紙)が結びつけてあり、蘇武らはしかじかの沢にいると書いてあった、と言いなさい」と教えた。使者は家来に言われた通り単于に問いただした。驚いた単于は、しかたなく蘇武を帰すことにした。匈奴に囚われて十九年間、漢に戻る折には、髪は真っ白になっていたという。帰朝後も80余歳で没するまで皇帝の側近として仕え、名臣として尊敬された。

 

胡国

中国人は中華思想の上から、周辺の諸民族を胡、夷などと呼んで卑しんだが、胡はとくに西方の民族をさしていった語。秦・漢以前には、匈奴をさす。

 

身延山

山梨県南巨摩郡身延町にある山。標高1148㍍。日蓮大聖人は文永11年(1274)佐渡から帰られ、3度目の諫言が聞き入れられなかったので、同年5月、身延の地頭・萩井六郎実長の招きで身延山中に草庵を結んだ。入山後は諸御書の執筆、弟子の育成に当たられ、弘安2年(1279)には出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊を建立された。弘安5年(12829月、身延山をたって常陸の湯治に向かう途中、武蔵国池上の地で入滅された。大聖人の滅後の付嘱を受けて久遠寺別当となられた日興上人が墓所を守っていたが、五老僧の一人・日向の影響で地頭の実長が謗法を犯し、日興上人の教戒を受け付けようとしなくなったことから、身延を離山して大石ケ原に移られた。

 

たかとり

鷹取山のこと。山梨県南巨摩郡にある山。七面山の東、身延山の南にある。

 

鶏足山

中インド・マガダ国の首都である王舎城の近くにある山。尊足山、狼足山ともいう。現在のガヤとビハールの中間、クルキハールの地にあたる。釈尊の十大弟子の一人・摩訶迦葉の入定した山。

 

なないたがれ

七面山のこと。山梨県南巨摩郡にある高山。標高1989㍍。頂上部の東面に「七面がれ」(崩崖)と呼ばれる七か所の絶壁があるのでこう呼ばれる。

 

鉄門

羯霜那国の東南三百余里にあった関所の名。険しい地の利を占め、鉄のように守りが堅かったので鉄門と名づけられた。羯霜那国は、もとキシュ(Kesh)の名で知られた中央アジアの主要都市で、現在のウズベキスタン共和国の都市シャフリサブス(Shahrisabz)である。

 

天子がたけ

天子ケ岳のこと。静岡県富士宮市と山梨県南巨摩郡の境にある山。

 

富士

富士山のこと。静岡県・山梨県の境に位置し、富士火山帯に属する山。美麗な欠頂円錐形、標高3776㍍。山姿の美しさ、高さは日本第一で、平成25年(2013)世界遺産に認定された。地質学的にみると、より古い火山を土台とし、その上に噴出物を積もらせた山で、年齢は約10,000年と推定される。8世紀ごろまでは絶えず噴火していたが、宝永4年(1707)以降は噴火していない。山頂から山麓に一帯は、天然の植物園であり、豊富な鳥類の生息地であり、山紫水明の五湖など、文学作品・絵画や写真の題材として広く用いられている。身延相承書に「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(1600)とあるのは、こうした日本最勝の景観によるものであろうか。

 

早河

山梨県南巨摩郡早川町を流れる川。白根山・鳳凰山を境に源を発し冨士川に合流する。

 

波木井河

山梨県南巨摩郡身延町を流れる川。身延川と相叉川が合流し波木井川となり、富士川に合流する。

 

富士河

山梨県の釜無川・笛吹川を源流として、甲府盆地の水を集め、富士山西麓を南下して駿河湾に注ぐ川。日本三大急流のひとつ。全長129

 

はかうの猨

中国の巴峡に住む猿のこと。巴峡は、湖北省の巴東付近にある、揚子江上流の峡谷のこと。昔から、そこに住む猿の鳴き声はもの悲しげで、涙を誘われるといわれていた。荊州記には「巴東三峡の猿、長鳴して三更に至る。聞く者の涕を流す」とある。

 

瓦礫

瓦と礫のこと。黄金などのような高価なものに対して、価値のないものと対比するのに用いる。三大秘法を黄金とするなら、諸教は瓦礫となる。

 

十羅刹

羅刹とは悪鬼の意。法華経陀羅尼品に出てくる十人の鬼女で、藍婆、毘藍婆、曲歯、華歯、黒歯、多髪、無厭足、持瓔珞、皐諦、奪一切衆生精気の十人をいう。陀羅尼品に「是の十羅刹女は、鬼子母、并びに其の子、及び眷属と倶に仏の所に詣で、同声に仏に白して言さく、『世尊よ。我れ等も亦た法華経を読誦し受持せん者を擁護して、其の衰患を除かんと欲す』」とある。

講義

佐渡の国の配所である塚原三昧堂での厳しい御生活と、身延山での御生活の厳しさを述べられ、そうしたところへ帷を供養した妙法比丘尼やその嫂に感謝されているところである。「偏に是れ別れし我が父母の生れかはらせ給いけるか、十羅刹の人の身に入りかはりて思いよらせ給うか」とまでいわれて、深く感謝されている。

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