妙法比丘尼御返事 第十章(進言の前の思索)

———————————–(第九章から続く)———————————————–

此れを有りのままに申さば国主もいかり、万民も用ひざる上、念仏者・禅宗・律僧・真言師等定めて忿りをなして・あだを存じ王臣等に讒奏して我が身に大難おこりて、弟子乃至檀那までも少しも日蓮に心よせなる人あらば科になし、我が身もあやうく命にも及ばんずらん、いかが案もなく申し出すべきとやすらひし程に、外典の賢人の中にも世のほろぶべき事を知りながら申さぬは諛臣とて・へつらへる者・不知恩の人なり、されば賢なりし竜逢・比干なんど申せし賢人は、頚をきられ胸をさかれしかども国の大事なる事をばはばからず申し候いき、仏法の中には仏いましめて云く法華経のかたきを見て世をはばかり恐れて申さずば、釈迦仏の御敵いかなる智人・善人なりとも必ず無間地獄に堕つべし、譬へば父母を人の殺さんとせんを・子の身として父母にしらせず、王をあやまち奉らんとする人のあらむを、臣下の身として知りながら代をおそれて申さざらんが・ごとしなんど禁られて候。

  されば仏の御使たりし提婆菩薩は外道に殺され、師子尊者は檀弥羅王に頭をはねられ、竺の道生は蘇山へ流され、法道は面にかなやきをあてられき、此等は皆仏法を重んじ王法を恐れざりし故ぞかし、されば賢王の時は仏法をつよく立つれば王両方を聞あきらめて勝れ給う智者を師とせしかば国も安穏なり、所謂陳・隋の大王・桓武・嵯峨等は天台智者大師を南北の学者に召し合せ、最澄和尚を南都の十四人に対論せさせて論じかち給いしかば寺をたてて正法を弘通しき、大族王.優陀延王・武宗・欽宗・欽明・用明或は鬼神.外道を崇重し或は道士を帰依し或は神を崇めし故に、釈迦仏の大怨敵となりて身を亡ぼし世も安穏ならず、其の時は聖人たりし僧侶大難にあへり、

———————————-(第十一章に続く)—————————————————

現代語訳

これをありのままに言えば国主も怒り、万民も用いない上、念仏者、禅宗、律僧、真言師等は、必ず怒りをなして仇敵のように思い、王臣等に讒奏して、我が身に大難起こり、弟子ないし檀那まで、日蓮にわずかでも心を寄せる人がいれば罪科にし、我が身も危険となり身命にも及ぶことになるでしょう。

よい案がなければ、容易に言い出すべきではないと思っていましたところ、外典の賢人のなかでも、世の亡ぶべきことを知りながら諌言しないのは諛臣といって、諂う者、不知恩の人であるとされています。したがって、竜逢・比干といった賢人は頚を切られ、胸を裂かれたけれども、国の大事なことははばかるところなく諌言したのです。

仏法のなかでは、仏が戒めて言われるには「法華経の敵を見ながら世をはばかり恐れて言わないのは、釈迦仏の敵である。どのような智人・善人であっても、必ず無間地獄に堕ちるであろう。たとえば父母を他人が殺そうとしているのを、子の身として父母に知らせず、あるいは王を滅ぼそうとする人がいるのを、臣下の身として知りながら難儀を恐れて諌言しないのと同じである」と禁められています。

したがって、仏の御使いであった提婆菩薩は外道に殺され、師子尊者は檀弥羅王に頭を刎ねられ、竺の道生は蘇山に流され、法道は顔に火印をあてられたのです。これらは皆仏法を重んじ王法を恐れなかったゆえです。

それゆえ賢王の時は仏法を強く立てれば、王は両方の言い分を聞き分けて勝れているほうの智者を師とするので国も安穏です。いわゆる陳・隋の大王は天台智者大師を南三北七の学者に召し合わせ、桓武・嵯峨天皇等は伝教大師最澄和尚を南都の十四人の高僧と対論させ、論じ勝ったので、寺院を建てて正法を弘通したのです。大族王、優陀延王、武宗、欽宗、欽明・用明天皇は、あるいは鬼神・外道を崇重し、あるいは道士に帰信し、あるいは神を崇めたゆえに、釈迦仏の大怨敵となって身を滅ぼし世も安穏ではありませんでした。その時聖人であった僧侶は大難にあったのです。

語句の解説

念仏者

念仏宗(浄土宗)を信じる人・僧侶。念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。

 

律僧

律宗を修行した僧侶のこと。

 

真言師

真言宗を奉ずる僧侶。真言宗とは、三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。

 

讒奏

讒言して奏状することで、他人のことを偽って国主や権力者に申し述べること。

 

諛臣

へつらう臣下、家来のこと。

 

竜逢

中国・夏王朝末期の人。関竜逢という。夏王朝最後の王・桀王につかえた諌臣。桀王は大変な暴君のうえ、妺嬉に溺れ、少しも政道を顧みなかった。これを見て竜逢は王を諌めたが用いられず、かえって首をはねられた。竜逢の忠言を聞かなかったため、夏は急速に衰え、殷の湯王に攻められ滅亡し、桀王も死んだと伝えられる。漢書、貞観政要等に、死を恐れず諫言した例として述べられている。

 

比干

中国・殷王朝の人。殷の紂王の父方の叔父といわれる。殷の三仁の一人。史記の殷本紀第三によると、紂王が妲己を溺愛し、九侯、鄂侯などの大臣を殺し、佞臣を登用して政事を顧みなかったので、比干は「人臣たる者は死を以て諌めざるを得ず」と強諫したが、紂王は怒って「吾れ聞く、聖人の心には七穴あり」といって、比干の胸を剖いたという。殷の国はいよいよ乱れ、ついには周の武王に討たれて滅びたといわれる。

 

提婆菩薩

三世紀ごろの南インドの仏法伝灯者で、付法蔵第十四祖。バラモンの出身。迦那提婆(かなだいば)ともいわれる。提婆は梵語で天と訳し、迦那は片目の義。大自在天の請いによって一眼を供養したため片眼となったとも、一女人に与えて不浄を悟らせたともいわれる。竜樹菩薩の弟子となり、各国を遊化(ゆうげ)した。南インドで外道の論師を徹底的に破折したとき、凶悪な外道の弟子が怨んで提婆を殺害した。しかし提婆はかえってその狂愚をあわれみ、外道の救済を弟子に命じて死んだ。

 

外道

仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。

 

檀弥羅王

付法蔵第24番目、最後の伝灯者である師子尊者を殺害した王。師子尊者は釈尊滅後1200年ごろ、中インドに生まれ、鶴勒夜那について学び法を受け、罽賓国で弘法につとめた。この国の外道がこれを嫉み、仏弟子に化して王宮に潜入し、禍をなして逃げ去った。檀弥羅王は怒って師子尊者の首を斬ったが、血が出ずに白乳が涌き出し、王の右臂が刀を持ったまま地に落ちて、7日の後に命が終わったという。

 

師子尊者

師子比丘ともいう。六世紀ごろの中インドの最後の伝灯者で、付法蔵第二十四祖。鶴勒夜那について法を学び、付嘱を受けた。北インドの罽賓国において仏法を弘めたが、国王・檀弥羅は邪見が強盛で、バラモンにそそのかされて仏教を弾圧し、師子尊者の首を斬ってしまった。伝説によると、このとき師子尊者の首からは一滴の鮮血も流れず、白い乳のみが涌き出た。これは、師子尊者が白法を持っていたこと、また成仏したことをあらわすという。また、首を斬った檀弥羅王の刀と腕は同時に地に落ち、7日後に命を終えたとも伝えられる。

 

竺の道生

(~0434)。中国・東晋代から南北朝の宋代の僧。高僧伝巻七によると、竺法汰について出家。のちに長安に上り、鳩摩羅什の門に入り、羅什門下四傑の一人となる。般泥洹経を学び、闡提成仏の義を立て、当時の仏教界に波紋を投じた。これにより衆僧の大いに怨嫉するところとなり、洪州廬山に追放された。その時道生は「わが所説、もし経義に反せば現身において癘疾を表わさん、もし実相と違背せずんば、願わくは寿終の時、獅子の座に上らん」と誓ったという。のちに、曇無讖訳の「涅槃経」が伝わり、正説であると証明され、誓いの通り元嘉11年(0434)に廬山で法座に上り、説法が終ると共に眠るがごとく入滅したといわれる。

 

法道

10861147)。中国・宋代の僧。もと永道と称した。宣和元年(1119)徽宗皇帝が詔を下し、仏を大覚金仙、菩薩を大士、僧を徳士、尼を女徳とするなど仏僧の称号を廃して道教の風に改めることを決定した。法道はこれに反対し、上書してこれを諌めたが、帝は怒って永道の面に火印を押し、江南の道州に放逐した。翌年、仏教の称号を用いることが許され、法道も許されて帰り、名を法道と改めた。

 

最澄和尚

07670822)。日本天台宗の開祖。最澄は諱。諡号は伝教大師。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。

 

南都の十四人

延暦21年(0802)正月19日、高尾寺にて聖武天皇の御前で伝教大師と対論して敗れた南都六宗の主だった僧。善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏。

 

大族王

古代北インド結迦国(磔迦国)の王。大唐西域記卷四によると、才智があり、勇烈で、近隣の諸国を帰属させていた。ある時、仏法を習おうとして俊徳の僧を推薦させたところ、昔、僕であった僧が推挙されてきたため、敬う心をなくし、仏法を廃して僧を追放した。そして、仏法を崇敬していた摩竭陀国の幻日王を攻めたが、敗れて捕らえられた。幻日王の母の助命により許されて加湿弥羅国に行き、国王の厚いもてなしを受けたが、後に国王を殺害した。さらに健駄羅国を攻めて王臣を殲滅して約1600もの寺院を破壊し、民の大半を殺戮した。大族王は国に還ろうとしたが、その年の内に死に、無間地獄に堕ちたといわれる。幻日王は後に王位を捨てて出家した。

 

優陀延王

釈尊在世当時の憍賞弥国王。優塡大王とも書く。優塡王経によると、かつて臣下で、出家して羅漢の悟りを得ていた賓頭盧尊者が、王の睡眠中に説法したことを怒り、黒蟻の巣を尊者の身にまとわせて苦しめた。また四分律によると、バラモンである大臣の讒言に惑わされ、尊者を軽蔑した。優陀延王は後に慰禅国王に捕らえられ、七年間鎖につながれ、国王の位を失ったという。

 

武宗

08140846)。中国・唐代の第十五代皇帝。即位後、念仏を重んじていたが、道教を尊崇するようになり、会昌5年(0845)に大規模な仏教弾圧を断行し、多くの寺院を破壊し僧尼を還俗させた。「会昌の廃仏」という。武帝は翌年、道教で不老不死の薬とされた丹薬の中毒で死んだ。

 

欽宗

11001161)。中国・北宋代の第九代皇帝。徽宗の子。宣和7年(1125)金国との和議が破れ、金軍の攻撃の始まる前に即位した。しかし、臣下の意見をまとめることができず、金軍に捕らえられ、30年間流人生活を送って没した。

 

欽明

(~0571)。欽明天皇のこと。名は天国排開広庭天皇。継体天皇の嫡子。日本書紀巻十九等によると、大伴金村、物部尾輿を大連、蘇我稲目を大臣として、磯城嶋に都を置いた。在位13年の1013日、百済の聖明王から金銅の釈迦仏、幡蓋、経論等を献上してきた。天皇は仏教を尊崇するべきか否かを群臣に問うたところ、蘇我稲目は崇仏、物部尾輿・中臣鎌子は排仏を主張した。この時、天皇は稲目の願いを入れて礼拝させた。在位は32年に及んだ。

 

用明

(~0587)。用明天皇のこと。欽明天皇の第四子。敏達天皇の弟。名は橘豊日天皇。0585年に即位。用明天皇2年(0586)の4月、天皇は病に罹り、群臣に仏教を信仰することを議ったところ、崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋との対立が激化し、天皇は病没した。

 

鬼神

鬼神とは、六道の一つである鬼道を鬼といい、天竜等の八部を神という。日女御前御返事に「此の十羅刹女は上品の鬼神として精気を食す疫病の大鬼神なり、鬼神に二あり・一には善鬼・二には悪鬼なり、善鬼は法華経の怨を食す・悪鬼は法華経の行者を食す」とある。このように、善鬼は御本尊を持つものを守るが、悪鬼は個人に対しては功徳・慧命を奪って病気を起こし、思考の乱れを引き起こす。国家・社会に対しては、思想の混乱等を引き起こし、ひいては天災地変を招く働きをなす。悪鬼を善鬼に変えるのは信心の強盛なるによる。安国論で「鬼神乱る」とあるのは、思想の混乱を意味する。

 

道士

①道教を修めてその道に練達した者。②神仙の術を行う者。③仏道を修業する者。

 

帰依

帰依依憑して救護を請うこと。尊者・勝者に身をゆだね、よりどころとすることをいう。信服随従の義をもち、仏法僧の三宝に帰依することを三帰といい、仏法信仰の根本とする。

講義

本章は、謗法の諸宗を鎌倉幕府が崇重しつづけるならば必ず隣国から攻められ、日本の国が滅ぶであろうと経論の上から洞察された大聖人が、このことをはっきりと日本国の上下万民に申すべきか否かについて、種々思索されたことを述べられている。

その思索の内容を簡潔にたどると、まず、大聖人が謗法の仏教が諸悪の根源であると諌めるならば、彼ら諸宗の僧達は怒って、大聖人を王臣等に讒言することにより、大聖人及び弟子檀那を迫害し、命にも及ぶ危険が迫ることは明らかである。したがって、安易に言うべきではないと思われたと仰せである。しかし、外典に説かれている竜逢・比干などの賢人は、世の中の亡ぶべきことを知りながら、それを進言しないのは〝諛臣〟〝不知恩の人〟であるとの戒めに促されて、頸を切られたり、胸を裂かれたりしながらも、国の大事について進言してはばからなかった。また、仏法においても涅槃経のなかに「若し善比丘、壊法の者を見て、置いて呵責し駆遣し挙処せずんば当に知るべし。是の人は仏法の中の怨なり」とあり、法華経の敵人を見ながら世の中の迫害を恐れて進言しなかったならば、それ自体が釈迦仏の敵であり、必ず無間地獄に堕つとの戒めがある。しかもこの戒めを守って提婆菩薩、師子尊者、竺の道生、法道三蔵などの仏法者は王法や世法よりも仏法を重んじたので、迫害や大難を受けても真実を語ったのである。

しかも、賢王が国を治めている時は、正邪を正しくわきまえて政を行うので、進言が正しければ賢王はこれを聞き入れ智者を重用するため国は安穏となる。そのような時代は、中国では天台大師の出た陳、随の時代、日本では伝教大師の出た桓武、嵯峨帝の時代であった。しかし今、大聖人の時代の日本国は悪王の時代で、大族王、優陀延王、武宗、欽宗、欽明、用明の時代と同じで、謗法を犯し続ける悪国、大謗法の国となっている。それゆえ、進言する聖人も大難を覚悟しなければならない。

以上が大聖人が進言を決意するまえに思索された内容の大略である。

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