日月は地におち、須弥山はくずるとも、彼の女人、仏に成らせ給わんこと疑いなし。あらたのもしや、たのもしや。
干し飯一斗・古酒一筒・ちまき・あおざし・たかんな、方々の物、送り給びて候。
草にさける花、木の皮を香として仏に奉る人、霊鷲山へ参らざるはなし。いわんや、民のほねをくだける白米、人の血をしぼれるがごとくなるふるさけを、仏・法華経にまいらせ給える女人の成仏得道、疑うべしや。
五月一日 日蓮 花押
妙法尼御返事
現代語訳
たとえ、日や月が地に落ち須弥山が崩れることがあったとしても、彼の女人が仏に成られることは疑いないことであります。まことに、たのもしいことであります。たのもしいことであります。
干飯一斗・古酒一筒.ちまき・あうざし・筍などの品々をお送りいただきました。
野辺に咲く草の花や、木の皮を香として仏に供養した人で、霊鷲山へ参らない者はありません。まして民の骨をくだいて作ったような白米、また、人の血をしぼったような大事な古酒等を、仏・法華経に御供養なされた女性の成仏得道は、絶対に疑いないのでありあす。
五月一日日 蓮 花 押
妙法尼御返事
語句の解説
須弥山
須弥はサンスクリットのスメールの音写。妙高山と訳される。古代インドの宇宙観で、一つの世界の中心にあると考えられている巨大な山。須弥山の麓の海の東西南北に四つの大陸があって、一つの世界を構成する。須弥山の頂上は六欲天のうち第二天の忉利天に位置しており、ここに帝釈天が忉利天の主として地上世界を支配して住んでいる。
干飯
一度炊いた飯をよく干して乾燥した貯蔵用の飯のことで、水または熱湯にひたせばすぐ食用となる。兵糧として、また旅行の際などに用いた。
古酒
その年に醸造されたものではない、経年の入った酒。
ちまき
もち米を主材料とした餅菓子の一種。笹,ちがや,竹の皮などで巻き,い草で三角形に縛ってつくる。古くから端午の節供の祝いに用いられるが,中国から伝えられたものである。最も普通の御所ちまきは,上新粉を練って適当にちぎり,せいろうで蒸し,これをこねて長い三角形に成形し,笹の葉で包んで再びせいろうに入れて蒸してつくる。
あうざし
青麦を煎って臼で引いて糸のように撚った菓子。
霊鷲山
古代インドのマガダ国(現在のベンガル州)の首都である王舎城(ラージャグリハ、現在のラージギル)の東北にある山。サンスクリットのグリドゥラクータの訳。音写語は耆闍崛山。法華経の説法が行われたとされる。法華経本門寿量品の自我偈の教説に基づいて、久遠の仏が常住する仏国土を意味し、霊山浄土と呼ばれる。霊山ともいう。『大智度論』巻3によると、山頂が鷲に似ていることと鷲が多くいるため霊鷲山と名づけられたいう。
講義
本抄は表題が「松野殿御返事」となっているが、末尾の宛名が「妙法尼」となっている。おそらくは、内容の意味合いから副書にあたる「日月は地におち須弥山はくづるとも、彼の女人仏に成らせ給わん事疑いなし、あらたのもしや・たのもしや」の文は、松野殿に与えられ、「干飯一斗」以下の本文は妙法尼に与えられたものと思われる。
この松野殿が、松野六郎左衛門入道か、息子の松野六郎左衛門尉かは判明しがたい。
また、妙法尼についても、妙法尼御前御返事をいただいた妙法尼と同一人物かどうか不明である。御供養の品々からも、遠方の人や海辺の人でなく、身延の比較的近くに住んでいた松野一族と見ることの方が妥当のようであるが断定はできない。なお本抄は年号が記載されていないが弘安元年(1278)説が強い。
5月1日という日付と、ちまき・筍という御供養の品から押して、五月の節句の供物として御供養されたことに対する大聖人の御礼の御手紙と拝することができる。
短い御文であるが真心からの御供養を喜ばれている大聖人の御心情と、大聖人に御供養する女性の成仏得道の疑いないことを力強く述べられている。この御手紙を拝した時の、妙法尼の感激はいかばかりであったのだろう。今、文面を拝するだけでも当時の感激のほどが偲ばれる
民のほねをくだける白米・人の血をしぼれるが如くなる・ふるさけを仏・法華経にまいらせ給へる女人の成仏得道・疑うべしや
「民のほねをくだける白米・人の血をしぼれるが如くなる・ふるさけ」とは、当時の白米やまた、それから作られる酒が、いかに貴重なものであったかを示している。
中世に入って二毛作などが取り入れられ、一段と進歩したかにみえる農耕法も、一般にはまだ普及の段階には至らず、その収穫の多寡は、全くといってよいほど天候等の自然条件に負っていた。とくに建治から弘安にかけては天災が多く、当時の農民の苦労は「骨をくだき、血をしぼる」ようなものであったろうと思われる。大聖人の、人々の苦労をいつくしまれるお心が、この御文ににじみでている。そうした人々の苦労の結晶ともいうべき貴重な米や酒を、大聖人に御供養申し上げた尼は、成仏疑いないと仰せである。
当時の大聖人の身延における御生活がいかに厳しいものであったかは諸御書に見られるとおりで、弘安2年(1279)1月3日の「衣もうすく食もとぼし・布衣はにしきの如し・草葉をば甘露と思ふ」(1554:07)の文も、その一端を物語っている。
そうした御生活に思いを馳せての妙法尼の真心であるから、大聖人のお喜びもことのほかであったと思うのである。「仏・法華経にまいらせ給へる女人の成仏得道・疑うべしや」との御文はそうした尼に対する最高の讃辞である。
女性史上における黄金時代とされる鎌倉期の女性にあっても、現実はむしろ爾前経の影響が強く、法華経の女人成仏の原理等は、到底理解し得ぬ理想郷であったのではなかろうか。しかし「成仏得道・疑うべしや」との御言葉を賜った妙法尼はまた純粋なる信心をもって新しい視野を開いていったに違いない。