莚三枚・生和布一籠、給び了わんぬ。
そもそも三月一日より四日にいたるまでの御あそびに心なぐさみて、やせやまいもなおり、虎とるばかりおぼえ候上、この御わかめ給びて、師子にのりぬべくおぼえ候。
さては、財はところにより人によってかわりて候。この身延山には石は多けれども餅なし。こけは多けれどもうちしく物候わず。木の皮をはいでしき物とす。むしろ、いかでか財とならざるべき。
億耳居士と申せし長者は、足のうらにけのおいて候いし者なり。ありきのところ、いえの内は申すにおよばず、わたを四寸しきてふみし人なり。これはいかなることぞと申せば、先世にとうとき僧にくまのかわをしかせしゆえとみえて候。
いおうや、日本国は、月氏より十万よりをへだてて候辺国なる上、えびすの島、因果のことわりも弁えまじき上、末法になり候いぬ。仏法をば、信ずるようにてそしる国なり。しかるに、法華経の御ゆえに名をたたせ給う上、御むしろを法華経にまいらせ給い候いぬれば。
現代語訳
莚三枚、わかめ一籠、頂戴した。
さて、三月一日から四日までの御あそびに心も慰められ、痩せる病もよくなり、虎を捕るばかりに元気になったところへ、この御わかめを頂戴し、獅子にでも乗れる勢いを得た。
財は所により人によって変わるものである。この身延の山においては、石は多いけれども餅はない。苔は多いが敷物がないから木の皮をはいで敷物の代わりとしている。莚が財にならないはずがない。
億耳居士という長者は足の裏に毛が生えていた人である。長者が歩く所、家の中はいうにおよばず、どこでも綿を四寸敷いてある所を歩くようであったという。これはいかなる原因によるかといえば、前世に、尊い僧に熊の皮を敷かせたからであるといわれる。
ましてや日本国は月氏より十万余里も隔てた辺国であるうえ、夷の島であり、因果の道理もわきまえそうにない衆生が住み、そのうえ末法である。仏法を信ずるようでいて実は謗じている国である。しかるに法華経のために名を世に立てられたうえに御莚を法華経に供養されたのであるから。
語句の解説
莚
竹・藁・蒲・葦などを編んで作った敷物の総称。鎌倉時代は室内用であったが、畳の普及とともに屋外用となった。四条金吾許御文には「処は山の中.風はげしく庵室はかごの目の如し、うちしく物は草の葉・きたる物は・かみぎぬ身のひゆる事は石の如し」(1195:01)とある。
生和布
昆布科の海藻。日本の沿岸各地に生えている。味噌汁・三杯酢などの食用。
御あそび
未詳。門下のだれかは不明であるが、御病身の大聖人を身延の山中に見舞ったことをさしている。
億耳居士
釈尊在世中に阿羅漢果を得た比丘で、二十億耳ともいう。大智度論巻二十二には「沙門の二十億耳の如きは毘婆尸仏の時、一つの房舎を作り、物を以って地を覆いて衆僧を供養し、九十一劫(の間)天上、人中に福楽の果を受け、足は地を踏まず、生ずる時足下の毛の長さ二寸にして柔軟浄好なり」とある。
先世
過去世のこと。前代・前世と同意。
月氏
中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
末法
正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
講義
本抄は御真筆が大石寺に存しているが、後半が欠けており、与えられた人も、したためられた時期も明らかではないが、一説には南条時光に宛てたとする説もある。しかし冒頭に「三月一日より四日にいたるまでの御あそびに心なぐさみて」と仰せになっていることから、3月初めから間もないころと思われ、また「やせやまいもなをり」と仰せになっていることから、弘安5年(1282)の御手紙であろうと推測されている。それは、「上野殿母御前御返事」にこの病気のことが記され「八年が間やせやまいと申し……食も・ほとをととどまりて候」(1583:03)と仰せになっており、この御手紙は弘安4年(1581)12月と推測されている。この御抄を拝すると、身延に御入山されてからはあまり健康がすぐれなかった状況が拝される。食糧も乏しく過酷な環境のなかで栄養も十分摂取できず、体力も衰えておられたのであろう。弘安元年(1278)の「中務左衛門尉殿御返事」には「日蓮下痢」との仰せもあり、たぶん内臓も悪くなっておられたのであろう。上野殿母御前への御手紙では、8年の間病気がちであられ、特にこの御手紙をしたためられたころは、ほとんど死を覚悟されるほどの状況であられたが、母尼のために特に筆をとられたと仰せになっている。
こうした状況をようやく乗り越えられ、本抄を与えた人とお会いになって元気になったと仰せになっているところから、弘安5年(1282)春の御手紙であろうと拝されるのである。
さて本文は、この「三月一日より四日にいたるまで」身延の地に大聖人をお訪ねした人が、莚三枚とわかめ一籠を御供養したことに対する御礼の言葉で始まっている。本抄の題号もこの御供養の品にちなんで名づけられたものである。この人がだれであるかは先にも述べたとおり不明なのであるが、この人が訪ねてきたことに「心なぐさみて」と仰せになっていることからも、大聖人が頼りにされている方であることが考えられる。しかし、このことによって一挙に「虎とるばかり」に元気になられ、またわかめを受け取って「師子にのりぬべくをぼへ候」と仰せられているのは、危篤状態を脱せられて小康状態になられた喜びもさることながら、大聖人を訪れ山深い身延の地に欠乏しがちな海草等、心のこもった御供養をした真心を喜ばれ、称賛・激励された大慈悲の御言葉であろうと拝する。
次に大聖人は、所によってそれほど珍しくもない莚が、身延では貴重なものであると述べられている。今のような畳が普及したのは近世に入ってからであり、板の間が普通であった当時の家屋にあって、敷物は必要不可欠なものであった。しかしその材料となる藺や藁は身延の地では十分ではなく、毛皮の敷物といっても、殺生をひかえるため自然死した動物の皮を用いるわけで、そうは確保できるものではない。したがって本抄でも仰せのように木の皮を敷物としたわけで、寒気の厳しい身延の地では身を守るには不十分といわなければならない。そのゆえにこそ、御供養の莚が貴重なのである。
大聖人は次に億耳居士の例を引いて、敷物を供養することの尊さを教えられている。仏典に説かれる説話には、生まれながらに衣を着ていたという商那和修や金を自由に得た阿那律など、仏法への供養によって生活に困らない果報を得た話が出てくるが、億耳居士の説話は、敷物を供養することも仏法のうえにおいて重要であることを示すものである。
例えば釈尊が阿私仙人に仕えたことを示す提婆達多品の文にも釈尊の過去世の姿である須頭檀王が阿私仙人に「身を以って牀座と作せし」の姿で仕えたことが説かれている。これなども、仏の座に身を捧げることの尊さをあらわしているものであろう。
億耳居士の足の裏に毛が生えていたことが福徳として説かれていることは、当時の社会にあっては裸足が普通であったことを知れば、より明瞭となろう。
次に日本が正法を誹謗している国であることを述べられている。日本は仏教発祥の地であるインドから遠く離れた辺地にある国で、人々は因果の理をわきまえていないと指摘されている。因果の理はすべてにわたる道理の基本であるが、ここは特に仏法の説く生命の因果の理をさしていわれている。
このように、本来、仏法への理解が浅いのに加えて、末法に入ると人々の生命は三毒によって濁るため「仏法をば信ずるやうにてそしる国」となってしまっているのである。
「仏法をば信ずるやうにて」とは念仏・禅等の諸宗を人々が信じていることである。その念仏者や禅宗の人々が法華経、大聖人を誹謗しているのは、仏法そのものを誹謗していることになるのである。日本はまさにこのような「仏法をば信ずるやうにてそしる国」であり、その意味では最も罪業の深い国である。そのような日本で大聖人の仏法を信じ、そのために周りから反対されながら、大聖人に莚を御供養したこの人は、まことに信心の決定した人であったことが分かる。大聖人の仏法を多くの人々が信仰するようになったときに御供養するのは、これもちろん尊いとはいえ、まだ易しい。しかし、日本一国が大聖人に敵対しているときに大聖人に御供養申し上げるのは、まことに勇気が要るし、尊いことなのである。