十字御書

要文

わざわいは口より出でて身をやぶる。さいわいは心よりいでて我をかざる。

十字御書

弘安4年(ʼ81)1月5日 60歳 石河能助の妻

十字一百まい・かしひとこ、給び了わんぬ。
正月の一日は、日のはじめ、月の始め、としのはじめ、春の始め。これをもてなす人は、月の西より東をさしてみつがごとく、日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく、とくもまさり、人にもあいせられ候なり。
そもそも地獄と仏とはいずれの所に候ぞとたずね候えば、あるいは地の下と申す経もあり、あるいは西方等と申す経も候。しかれども、委細にたずね候えば、我らが五尺の身の内に候とみえて候。
さもやおぼえ候ことは、我らが心の内に父をあなずり母をおろかにする人は、地獄その人の心の内に候。譬えば、蓮のたねの中に華と菓とのみゆるがごとし。仏と申すことも、我らが心の内におわします。譬えば、石の中に火あり、珠の中に財のあるがごとし。我ら凡夫は、まつげのちかきと虚空のとおきとは見候ことなし。我らが心の内に仏はおわしましけるを知り候わざりけるぞ。
ただし、疑いあることは、「我らは父母の精血変じて人となりて候えば、三毒の根本、婬欲の源なり。いかでか仏はわたらせ給うべき」と疑い候えども、またうちかえしうちかえし案じ候えば、「そのゆわれもや」とおぼえ候。
蓮はきよきもの、泥よりいでたり。せんだんはこうばしき物、大地よりおいたり。さくらはおもしろき物、木の中よりさきいず。ようきひは見めよきもの、下女のはらよりむまれたり。月は山よりいでて山をてらす。
わざわいは口より出でて身をやぶる。さいわいは心よりいでて我をかざる。
今、正月の始めに法華経をくようしまいらせんとおぼしめす御心は、木より花のさき、池より蓮のつぼみ、雪山のせんだんのひらけ、月の始めて出ずるなるべし。
今、日本国の、法華経をかたきとして、わざわいを千里の外よりまねき出だせり。これをもっておもうに、今また法華経を信ずる人は、さいわいを万里の外よりあつむべし。
影は体より生ずるもの。法華経をかたきとする人の国は、体にかげのそうがごとくわざわい来るべし。法華経を信ずる人は、せんだんにこうばしさのそなえたるがごとし。またまた申し候べし。
正月五日    日蓮 花押
おもんすどのの女房御返事

 

背景と大意

この手紙は、日蓮大聖人が年の初めに重須殿女房から受け取ったお供え物に対する感謝の気持ちを込めて、重須殿女房に宛てて書かれたものです。 しかし、この手紙が書かれた正確な年は依然として不明です。
重須の名は、彼の屋敷があった駿河国・富士郡・重須の地名に由来します。 本名は石川新兵衛能助、妻は南条時光の姉でした。
日蓮大聖人はこの書状の中で、十界の原理を簡潔かつ詩的に説かれ、各人の人生の中に仏界と地獄が存在することを明らかにされています。 憎しみに満ちた心を持った人は地獄の世界を経験します。 法華経を信じた人は仏の世界を体験します。

現代語訳

新年御書

私は十字餅100枚と果物かごを受け取りました。 元旦は、最初の日、最初の月、年の始まり、そして春の始まりを表します。この日を祝う人は、ちょうど月が西から東へと徐々に満月になり、太陽が東から西へとますます明るく輝くように、徳を積み誰からも愛されるでしょう。
まず、地獄と仏は一体どこにあるのかということですが、ある経典では地獄は地下にあるとされ、また別の経では西方に仏があると書かれています。 しかし、詳しく調べてみると、5 フィートの私たちの体の中には両方とも存在していることがわかります。 これは真実に違いありません。なぜなら、心の中で父親を軽蔑し、母親を無視する人の心の中には地獄があるからです。 それは、花と実の両方を含む蓮の種のようなものです。 それと同じように、仏様も私たちの心の中に住まわれます。 たとえば、火打石には火を発生させる可能性があり、宝石には本質的な価値があります。 私たち一般人には、近くにある自分のまつげも、遠くにある天も見えません。 同様に、私たちは自分の心の中に仏陀が存在することを知りません。 両親の精子と血から生まれた私たちの体が三毒の源であり、肉欲の本拠地であるにもかかわらず、どうして仏陀が私たちの中に宿ることができるのか疑問に思われるかもしれません。 しかし、検討を重ねることで、この問題が真実であることが保証されます。 清らかな蓮の花は泥池から咲き、香ばしい白檀は土から育ち、優美な桜の花は木々から咲き、美しい楊貴妃は身分の低い女性から生まれ、月は背後から昇り、山々に光を当てます。 不幸は口から出て人を破滅させるが、幸運は心から出て人を尊敬に値するものにします。
新年の初めに法華経に供養する誠意は、木々に咲く桜、池に広がる蓮、雪山に白檀の葉を広げるような、あるいは月が昇り始めるようなものです。 今、日本は法華経の敵となり、千里の彼方から不幸を招いています。 このように考えれば、今法華経を信じる者は、一万里離れたところからも富を集めることができるのは明らかです。 形が影を落とし、影が形を追うように、法華経を敵視する民の国には災いが降りかかるのです。 一方、法華経を信じる者は香りのある白檀のようなものです。 また書きます。

日蓮

正月の5日

重須殿の女房への返信

 

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