問注得意抄
第一章(問注の実現を喜ばれる)
文永6年(ʼ69)5月9日 48歳 富木常忍ら3人
土木入道殿 日蓮
今日召し合わせ御問注の由、承り候。各々御所念のごとくならば、三千年に一度花き菓なる優曇華に値えるの身か。西王母の園の桃、九千年に三度これを得たる東方朔が心か。一期の幸い何事かこれにしかん。御成敗の甲乙は、しばらくこれを置く。前立って鬱念を開発せんか。
現代語訳
土木入道殿 日 蓮
今日召し合わせて、法義取り調べの御問注があると承った。おのおのの念願されたごとくであれば、三千年に一度花が咲き菓がなるという優曇華に値える身であろうか。
九千年に三度しか実がならない西王母の園の桃を、東方朔が九千年に三度得たというのと同じ心でもあろうか。
一生のうちで、これほどの幸いは、またとないであろう。
御成敗の甲乙はしばらくこれを置くが、貴殿としては、まずもって日頃の鬱念を開かれるべきであろう。
語句の解説
土木入道
(1216~1299)。富木常忍のこと。俗名は常忍という。下総国葛飾郡八幡荘若宮(現在の千葉県市川市若宮)に住み、千葉氏に仕えていた武士。かなりの学識があり、大聖人より観心本尊抄、法華取要抄、四信五品抄等数十編にのぼる御書をいただいている。本領は因幡国(現在の鳥取県東部)富城郷にあった。建長6年(1254)ごろ大聖人に帰依したとされ、よく外護の任に励み、門下の中核として活躍した。大聖人御入滅後、出家して常修院日常と改め、自邸の法華堂を法華寺と改称して開山となり、中山門流の祖となった。
優曇華
優曇花とも書く。梵語ウドンバラ(Udumbara)の音写・優曇波羅の略。霊瑞と訳す。インドの想像上の植物。法華文句巻四上等に、三千年に一度開花するという希有な花で、この花が咲くと金輪王が出現し、また、金輪王が現れる時にはこの花が咲く、と説かれている。法華経妙荘厳王本事品第二十七に「仏には値いたてまつることを得難きこと、優曇波羅華の如く」とあり、この花を譬喩として、仏の出世に値い難いことを説いている。
西王母の薗の桃
西王母は中国の伝説上の女神の名。西方に住む祖母の意で、中国西方の高山に住む女神とされた。女子で仙人となったものは、みなこの西王母に従ったという。山海経には豹尾で虎歯の半人半獣、崑崙山に住み三羽の青鳥が食物を運んだという。穆天子伝には周の穆王が西に巡狩して西王母に会い、三年間逗留して帰国したとあり、このとき西王母は人の姿で描かれている。のち神仙思想により仙女化し、崑崙の圃、閬風の苑にいるといわれ、この園にある桃の木は三千年に一度実るという。遇い難いもののたとえとして引かれたことば。
東方朔
中国・前漢代の文学者。山東省の人。武帝に仕え、機知に富む文章と言葉で帝の寵愛を受け、常侍郎、太中大夫、給事中と進官したが酒に酔って失敗し、官を下げられた。後世、仙人的存在とされ、三千年に一度実るという西王母の桃を盗食し、長寿をほしいままにしたと伝えられる。
講義
本抄は、文永6年(1269)5月9日、日蓮大聖人48歳の御時、富木常忍はじめ三人に宛てて鎌倉においてしたためられた御手紙であるとされている。御真筆は中山法華経寺に現存する。
ただし後述作の年次については、御真筆には「五月九日」とあるだけで、明らかではない。これが古来、文永六年の御述作とされるのは、本抄が、文永六年に著され同じ中山法華経寺に存していた「法門申さるべき様の事」のなかに含められていて、その後、別の御抄と判明したのが、年次のみは同じものとして伝えられたことによる。
別々の書であると分かった以上、本抄が文永6年(1269)の御述作であるという確かな根拠はなく、他に文永8年(1271)、文永3年(1266)とする説もあるが、いずれも確証がなく、ここでは文永6年(1269)とする説に従っておく。
本抄が誰に与えられたかについては、御真筆の初めのほうには「土木入道殿」とあり、文末には「三人御中」とある。したがって、富木常忍はじめ三人に与えられていることは明らかである。
あとの二人については、大田乗明と四条金吾であるとする説と大田乗明、曾谷教信とする説があるが確かなことは分からない。
ただ、大田乗明も問注所の役人で、本抄では、彼らが「同輩」との裁判になっていると言われているので、そうすると、問注所の役人同士が争っていることとなり、かなり特殊な事情であったといえよう。古来の説も推測にすぎず、ここでは他の二人については明確ではないということにしておきたい。
本抄の内容は、五月九日の当日、富木常忍ら三人が問注所へ行くこととなり、それを大聖人に御報告申し上げ、大聖人がそれに対して細々と心構えを教えられている御手紙である。
最初に、この問注はまことに富木常忍らにとって、千載一遇の機会であり、これほどの喜びはないであろうと仰せられている。
次に、出仕に際しての心構えについて細かい注意を述べられ、大聖人がこうした注意をあえてするのは、仏経と行者と檀那とが合致してこそ事を成すことができるからである、と述べられている。
今日召し合せ御問注の由……前立つて欝念を開発せんか
「今日」、原告・被告双方を召し合わせて問注することになったと聞かれ、富木常忍らの念願からいえば、これはまさに三千年に一度花が咲き実がなるという優曇華にあったようなものであり、また、同じく三千年に一度なる西王母の園の桃を九千年に三度にわたって得たという東方朔のごとくであると喜ばれている。問注の成敗がどう出るかは別として、まずは、鬱念をひらくべきであると励まされている御文である。
しかし、冒頭の「今日召し合せ御問注の由」とは、随分急な話である。富木常忍が早くに五月九日に問注があることの御報告をしていたのを、大聖人がその当日になって返答の御手紙をしたためられるなどということは考えられないから、当日朝か、早くとも前日の夕方以降の報告であったろう。
問注は裁判であるから、急に起こるわけではない。先に訴えが行われていたのを、原告・被告の双方を「召し合せ」ることが急に決まったのであろう。
そのことを富木常忍らが大聖人に急いで御報告申し上げ、それに対して、大聖人はさっそくに御手紙をしたためられて、御指南されたのである。あるいは富木常忍らが問注のため鎌倉へきた際に報告し、それに対し、急ぎ御指南されたのであろう。
問注の内容、また富木常忍らが、原告であったのか、被告であったのかということであるが、本抄ではそれについて言及されていないので不明である。優曇華等の譬喩を引かれて、問注についてこれほどの喜びはないと言われ、また「鬱念を開発」せよと励まされているからといって、富木常忍らが訴えたほうであるとは限らない。
大聖人が問注について優曇華の譬喩を引かれていること、また文末に「仏経と行者と檀那と三事相応して一事を成さんが為に愚言を出す処なり」と、仏法上の意義を込めて励まされていることから考えると、所領等の世間上の訴えではないであろうと推察され、富木常忍らの折伏に基づく仏法上の争いではないかと思われる。とすると、富木常忍らのほうから訴えるということは考えられないから、彼らの「同輩」から、何らかの苦情、訴えが出され、それに対して、富木常忍らも公の場で正邪を決したいと訴えていたのかもしれない。
そうすれば、本文中の「訴陳の状」は、敵方が訴状を出し、常忍らがそれに対して陳状を出したことになる。法門上の対決にもかかわらず、法論上の教示がなされていないのは、当日のことで内容面に触れる時間的余裕がないこと、また、そうしたことは日頃から教えてあることであるから、対決に臨む姿勢のみを教えられているものと考えられる。
大聖人門下にとっては、法門に関する訴えであれば、かえって公に正邪を明らかにする場を得られることになり、これこそ望むところであり、積年のゆえなき誹謗中傷への「欝念」を晴らす絶好の機会であると喜ぶべきことなのである。そのゆえに、優曇華等の譬喩を通して喜ばれているのである。
また、文永六年の御述作であるとの前提に立てば、前年の蒙古の国書到来に寄せて十一通の御状を出され、公場対決を呼び掛けられた大聖人からすれば、たとえ門下の争いであっても、公場対決の機会を得られることは、一つの突破口となることも考えられるからである。
ただ、この問注の結果については、その後の御手紙を拝しても、触れられてはいない。また「御成敗の甲乙は且らく之を置く」と仰せられているのは、大聖人にとって、富木常忍らが、たとえ問注において、自らの正当性を述べ、「同輩」の非を明らかにしたとしても、平左衛門尉らに少なからず影響を受けていると考えられる問注所の役人は、誤った先入観をもっているであろうから、富木常忍らに好意的な裁定をすると考えるのは楽観に過ぎ、また原告の彼らも自らの非をそのまま認めることはないだろうと、予見されていたのではないかと思われる。
正論を素直に認めるほど、権力者は純粋ではない。それは前年の大聖人の十一通御書に対する、平左衛門尉や極楽寺良観らの対応をみて、大聖人が彼らの本質をよくご存じだからである。そうであっても、富木常忍らにとっては、積年の鬱屈を晴らすべき機会であるから、精一杯、戦ってくるようにとの、温かい励ましの御言葉なのである。
第二章(問注に際する心構えを教示される)
但し兼日御存知有りと雖も駿馬にも鞭うつの理之有り、今日の御出仕・公庭に望んでの後は設い知音為りと雖も傍輩に向つて雑言を止めらる可し両方召し合せの時・御奉行人・訴陳の状之を読むの尅何事に付けても御奉行人の御尋ね無からんの外一言を出す可からざるか、設い敵人等悪口を吐くと雖も各各当身の事・一二度までは聞かざるが如くすべし、三度に及ぶの時・顔貌を変ぜず麤言を出さず輭語を以て申す可し各各は一処の同輩なり私に於ては全く遺恨無きの由之を申さる可きか、又御供雑人等に能く能く禁止を加え喧嘩を出す可からざるか、是くの如き事書札に尽し難し心を以て御斟酌有る可きか、
現代語訳
ただし、兼ねてご存じのことであるが、駿馬にも鞭うつということもあるから、今日、御出仕になり、公の場所に出られた後は、たとえ知り合いの者であっても、傍輩に向かって雑言などされてはならない。両方の者が呼び出され、御奉行人が訴えの文を読む間は、何事があっても、御奉行人から尋ねられたこと以外は一言でも口を出してはならない。
たとえ敵方の者が、悪口を吐いたとしても、おのおのが身に当たるようなことであっても、一、二度までは聞かぬふりをすべきである。
それが三度に及ぶようであったら、顔色を変えず、語気を麤くしたりしないで、やわらかな言葉をもって申すべきである。
「おのおの方とは一所の同輩であり、私事においては全く遺恨はない」との由を言われるべきである。また、御供の人や雑人等にまでよくよく注意して、喧嘩などしないようにすべきである。
このような事は、書面では尽くし難いから、心を以って斟酌されたい。
語句の解説
兼日
「兼ねての日」の音読み。かねて、日頃から、などの意味で使われる。
駿馬にも鞭うつ
駿馬とは、大変に足の速い馬、勝れた馬のこと。駿馬は鞭影を見て走るというが、そうした駿馬にも一鞭入れる例があること。ここは富木氏らを駿馬にたとえられて、このような注意は余計なことかもしれないが、敢えて申し上げるとの意味である。
知音
よく知り合っている友のこと。
講義
ここでは、問注所に出仕した際の心構えを教えられている。傍輩に向かっての「雑言」を吐いてはならないと戒められ、また安易に口出しをしないよう仰せられている。
更に、言葉遣い、態度、話す内容、付き人への心配りにまで言及され、大聖人が言われたことをよく「斟酌」して事にあたるよう教示されている。
但し兼日御存知有りと雖も駿馬にも鞭うつの理之有り
出仕に際しての心構えに言及されるにあたり、富木常忍らに対して「兼日御存知有りと雖も」、兼ねてから知っていることであろうが、と前置きされている。
富木常忍は千葉氏に仕える武士であり、大聖人との手紙のやりとりをみても、常識豊かな人であることが察せられる。
仮に〝他の二人〟のなかに、問注所の役人である大田乗明が含まれていないとしても、少なくとも近くにはいるわけであるから、問注についての予備知識もあろう。
したがって、大聖人が今から言うことは先刻承知のことであるかもしれないが、と前もって断られているのである。
そして「駿馬」にさえ「鞭」を打つこともあるのだから、と仰せられている。駿馬は鞭うつ必要はないのだが、それでも一鞭入れる例もあるとの譬えで、富木氏らにあえて問注に臨む注意を与える必要はないことだが、敢えて言えば、との意である。
大聖人にとっては、「御成敗の甲乙は且らく之を置く」との御言葉にみられるごとく、問注の結果については、あまり期待はされていなかったのであろう。
したがって、富木常忍らの問注において大切なことは、あくまでも感情に走って醜い姿を示してはならないということであり、あくまで冷静に、穏やかに人間として立派であるという姿を示すようにということであった。
設い知音為りと雖も傍輩に向つて雑言を止めらる可し……
公庭に臨んでの具体的な注意をされている。
第一点は、たとえ知っている間柄であっても、雑言をしてはならないということである。この「傍輩」が問注の相手方であるのか、単に問注所に傍輩がいることであるのかは分からない。後者であれば、大田乗明がこの三人の中に含まれていると想像する根拠となろう。そのいずれにせよ、問注は厳粛な場である。たとえ周りに傍輩がいたとしても、気安さから声をかけたりすることは、厳に戒めなければならない。召し合わせた側の役人の心証も悪くなろう。こうした時は、節度を守り、かつ厳然としているべきであると教えられているのである。
第二点は、奉行人が訴陳の状を読む際にも、奉行人から尋ねられたことに限って答えるようにとの御注意である。よしんば敵方の者が悪口を吐いたとしても、そしてそれが自分についてのことであっても、一度、二度は聞こえないふりをしているように、と仰せられている。
敵方は、ここぞとばかり悪口を尽くして富木常忍らを挑発してくるだろうが、その挑発に乗ってはならないと言われているのである。挑発に乗って言い返したりすることは、裁判の場を乱すことになり、取り調べ官の心証を害することになるからである。
現在では法廷侮辱罪にあたる行為である。優曇華にあうほどの絶好の機会を得ながら、自分の手でつぶしてしまうことほど愚かなことはない。悠然としていることのほうが、かえって自らの正しさを立証することになると教えられているのである。
また、自ら意見を述べる場合は、相手にすべて言わせてからのほうが有利なことはいうまでもない。挑発に乗り、気負って拙速に意見を述べることは、かえって相手に付け入る隙を与えることになる。
逆にすべて言わせてから述べることは、相手に言い逃れをさせる余裕を与えないことであり、賢明な方法である。
第三点は、いよいよ発言するべき時には、顔色を変えず、粗略な言葉でなく、柔らかい言葉で言うべきであると仰せられている。この仰せは、絶対に感情的になってはいけないということである。富木常忍らに正義があることは間違いないのだから、冷静に話すことさえできれば、その正しさは周囲も認めざるをえなくなる。
たった一つ失敗するとしたら、口をすべらして暴言を吐き、相手に揚げ足を取られたり、役人の心証を悪くするケースである。
そのゆえに「輭語を以て申す可し」と仰せられているのである。「輭語」というのは、決してふざけた言葉という意味ではない。穏やかななかにも、自らの正義をきちんと、また分かりやすく述べることをいうのである。
第四点は、相手方に対して、「一処の同輩」であり、個人的には全く遺恨はないと、毅然として言うよう教えられている。
これは非常に大切なことである。人間は感情の動物であり、たとえ純粋に信仰の誤りを指摘したものであっても、なにか人間的に非難されたような気になり、仏法上の対論であることを忘れて感情的になりがちである。
あくまでも個人的に怨念などもつものではないことを明らかにすると同時に、相手方からも、個人的なことで攻撃させないよう、あらかじめクギをさしておくように、との心配りでもあろう。
これらの御注意を拝すると、大聖人は問答の場についての心得を熟知されていることが分かる。折伏を実践され、常々、他宗の僧等と戦われる経験からの御指南であろうと拝察される。
現実に、この御指南通りの振る舞いを大聖人御自身がされていることが、御書に拝される。それは塚原問答である。
文永9年(1272)1月16日、御流罪の地・佐渡の塚原において諸宗の僧俗との問答に臨まれた大聖人は、種種御振舞御書によれば、初め、諸宗の者が口々にののしるままにされた。
「念仏者は口口に悪口をなし真言師は面面に色を失ひ天台宗ぞ勝つべきよしを・ののしる、在家の者どもは聞ふる阿弥陀仏のかたきよと・ののしり・さわぎ・ひびく事・震動雷電の如し」(0918:04)であったという。
大聖人は「暫らく・さはがせて後」に「各各しづまらせ給へ・法門の御為にこそ御渡りあるらめ悪口等よしなし」(0918:06)と言われたのである。「数百人」「かずをしらず集り」というなかで、大聖人はたった一人で悠々と振る舞われた。
その威風に、裁く立場の本間六郎左衛門らは「然るべし」と納得して彼らの暴言をやめさせ、問答が始まったのである。
問答が始まると、大聖人は相手の言うことを、一つ一つ焦点をしぼり、たしかに言ったことを承認させてから、それらを次々に破折された。
「止観・真言・念仏の法門一一にかれが申す様を・でつしあげて承伏せさせては・ちやうとはつめつめ・一言二言にはすぎず」(0918:08)と。
まさに本抄で大聖人が言われている通りの進め方である。その結果、問答は「利剣をもて・うりをきり大風の草をなびかすが如し」(0918:10)の完勝であった。
「鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりも・はかなきものども」(0918:09)であると仰せのごとく、鎌倉で常に大聖人は折伏されてきたのである。
こうした体験に基づいて、大聖人は御指南され、大聖人と同じように臨めば勝利疑いないことを教えられているのである。
又御供雑人等に能く能く禁止を加え喧嘩を出す可からざるか
ここでは、富木常忍らの供をする人たちにも心を配るよう指南されている。本人はもとより、周囲の者にも相手の挑発に乗ることを戒めるよう指導せよと仰せられているのである。まことに用意周到である。
「喧嘩の出す可からざるか」と仰せられているのは、常忍らの供の者たちのあいだで喧嘩沙汰を起こさないようにと言われているとも考えられるが、やはり相手方の供の者と喧嘩してはならないことを言われていると拝するのが妥当だと思われる。
供の者といえども、それぞれの主人の味方をして、感情的になりやすい。裁判の当事者でないということから、節操を忘れて暴言を吐く恐れもないとはいえない。思わぬところから、水が漏れることを大聖人は心配されているのである。
以上のように、数点にわたって大聖人は心構えを述べられたが、書きたいことは山ほどあるものの、本抄御執筆が問注の当日で、時間がないということを考えると、多く書いても意味がない。また、いくら書いても、実際の場に臨めば、その通りの展開となるとは限らず、予想外なことも起こるだろうから、臨機応変の対応が必要となる。
したがって、大聖人が仰せられたことの心をよく「斟酌」して対処するよう、と念を押されているのである。
第三章(師檀相応して大事なることを教える)
此等の矯言を出す事恐を存すと雖も仏経と行者と檀那と三事相応して一事を成さんが為に愚言を出す処なり、恐恐謹言。
五月九日 日 蓮 花押
三人御中
現代語訳
これらのことをほしいままに言ったようで恐れ入るが、仏経(法華経)と行者と檀那との三事が相応して、一事を成就するために愚言を述べたのである。恐恐謹言。
五月九日 日 蓮 花 押
三 人 御 中
語句の解説
矯言
御真筆には嬌言とある。嬌とは、なまめく、なまめかしいことであるが、驕に通ずる意もある。ここでは、ほしいままに言ったようであるが、との意。
講義
最後に、これらの諸注意をなぜ述べたかの元意を示されている。このように「矯言を出す」ことは恐れ多いことではあるが、それというのも、「仏経と行者と檀那」が相応して「一事」をなすためであり、よくそのことを考えていきなさいと言われているのである。
「矯言」とは、語訳にも示したが、御真筆では「嬌言」となっており、驕った言葉という意味がある。あえて注意めいたことを言ったことを謙遜されて、驕った言葉と仰せられているのである。差し出がましいことを言ったが、というほどの意味であろう。
大聖人が細々と言われたのは「仏経と行者と檀那の三事相応して一事を成さんが為」であると言われている。これは仏法を弘めるためには「仏経と行者と檀那」すなわち「よき法」「よき師」「よき檀那」がなければならないと言われているのである。
法華初心成仏抄にいわく「よき師と・よき檀那と・よき法と此の三寄り合いて祈を成就し国土の大難をも払ふべき者なり」(0550:17)と。「仏経」が法、「行者」が師にあたることはいうまでもない。
正しい法自体がなければならないのは当然であるが、それのみでは正法は広まらない。その法を行じて弘める人がいなければならないのである。それが「行者」である。
しかし法と行者のみでも不完全なのである。法とそれを弘める行者を支える「檀那」がなければならない。四条金吾殿御返事では「正法をひろむる事は必ず智人によるべし」(1148:01)と言われたあと、「設い正法を持てる智者ありとも檀那なくんば争か弘まるべき」(1148:02)と仰せられて、檀那の大切なことを強調されている。
今、大聖人が末法に妙法を弘められるにあたり、富木常忍らは大切な檀那である。大聖人の弘教を支え、外敵と戦い守る在家の地涌の菩薩がいなければ、正法は広まらないのである。この「三事」が相応して初めて、「一事」をなすことができるのである。「一事」とは、法華初心成仏抄によれば、祈りの成就であり、国土の大難を払うことである。また、「大願とは法華弘通なり」(0736: 第二成就大願愍衆生故生於悪世広演此経の事:01)、「広宣流布の大願も叶うべき者か」(1337:13、生死一大事血脈抄)、「広宣流布大願をも成就す可きなり」(1357:07、祈禱経送状)等の仰せから明らかなように、一生成仏・広宣流布が「一事」である。
もし富木常忍らが無謀な行動をとるならば、累が大聖人に及んだり、法を下げることになり、大聖人の広宣流布の戦いを妨げる結果となる。大聖人と富木常忍ら在家の信徒とが、心を合わせ、一体となって広宣流布を推進していくことが不可欠であるため、このように「愚言」を呈しているのである、と常忍らに自覚を促されているのである。
最初に述べた通り、この問注の結果がどうであったのか、直後はもとより、富木常忍に与えられた御手紙、他の御抄のいずれをみても、この問注に触れられたものは残っていない。しかし、少なくとも富木常忍らに悪い結果、例えば所領の没収とか入牢、信仰をやめるとの起請文を書くなどの制裁は行われてはいないであろうと推定される。
大聖人がその後、この問注に触れられていないことに最も合理的な推定をするとすれば、問注が急に中止になったことである。大田等、問注所の役人が関係していることから、どちらに転んでも紛糾は避けられないとして、問注直前に中止になったのかもしれない。常忍らに正当性があるのは分かっており、彼らが用意おさおさ怠りないこと、背後に大聖人がおられて、結果如何によっては、公場対決にまで持ち込まれる恐れもあることを感じたとすれば、それも納得がいく。
いずれにしても、大聖人の教えを守って常忍らが行動した結果、以後の大聖人の弘教活動に支障をきたすことはなかったようである。